くすぐったさは全部、【才陽】
くすぐったさは全部、【才陽】
3部読んだのとデイリーのスキンシップこなしてて思いついたあれそれ。
ほんのちょっとの3部ネタバレと才悟のスキンシップ(親愛レベル高)台詞のネタバレ有。あとエージェント(ノア)が30字ほど喋る。
試したい才悟と試される陽真の話。
二人暮らしには大きいぐらいのソファ、半分残ったスペースに腰を下ろす。テレビを眺める夕闇色の目が、当然のように動いてこちらに向けられた。柔らかな目元は腹が満たされ身体を温めた夜でもぱっちりと開いている。口元が緩やかに綻んだのは気のせいではないはずだ。
「伊織陽真」
液晶画面へと戻っていこうとする瞳を引き留めようと、才悟は恋人の名を呼ぶ。それだけで、逸れそうになった目はすぐさま身体ごとこちらへと向けられた。何だ、と真昼もかくやな声が部屋に弾ける。
「手を貸してほしい」
「何? 何かやることあったっけ?」
「違う。手をこちらに差し出してほしい」
立ち上がろうとする陽真に首を振り、才悟は握手を求めるように手を差し伸べる。あとは寝床に向かうだけのラフな格好に着替えた身体は、すぐさまオレンジの座面へと沈んだ。卵を包み込むように軽く丸まった己の手に、健康的な色をした大きな手が載せられる。受け止める様は、まるで手相占いでもするかのようなものだった。
空いた手を持ち上げ、手の中の温度にそっと重ねる。大切な手の上を滑り、根元、手首へと人差し指を伸ばす。そのまま、線を描くかのように撫でた。そろりそろりなんて擬音が付けられそうなほど控えめな、細やかな動きで才悟は委ねてくれた手首を撫でる。ふは、と息を吐き出す音が正面から飛んできた。
「くすぐったいって」
「やはりくすぐったいのか」
小さな笑声の合間、陽真は言葉を紡ぎ出す。普段ならば柔らかに細められた愛しい目を見つめる紺瑠璃は、今は目の前の手首に一心に視線を注いでいた。そろ、とまた節立った手が手入れされたすべらかな肌を撫ぜる。ははっ、と短い笑い声が二人の間に落ちた。
「どうしたんだ? いきなり」
「昼間、ノアに手首を触られた」
好奇心に輝く瞳をそのままに問うてくる恋人に、才悟は淡々と言葉を続ける。いつだってまっすぐな視線は相変わらず手首に注がれ、少しだけ固さが目立つ指は温かなその場所をゆっくりと撫で続けていた。
依頼を終え立ち寄った仮面カフェ、カウンター席で喉を潤していると向こう側にいたエージェントに疑問を投げ掛けられたのだ。手首怪我してない、と。言葉のまま己の手首を見ると、そこには一本の白い線が走っていた。血はにじんでいないものの、明らかな切り傷である。おそらく、書棚整理の依頼中に紙か何かで切ってしまったのだろう。己でも気付かなかった傷に、しかも明るさを抑えた空間で気付くというのだからエージェントの観察力には驚いたものである。
一応手当てしとこうか、とカウンターの下からさっと現れた救急箱。手を拭き塗り薬を引き出したエージェントは、手首を取って走る透明な傷をなぞった。瞬間、皮膚を、肉を、神経を何かが走っていく。不快ではないがなんだか不思議な感覚に、思わず声を漏らした。くすぐったい、と。
すぐ終わるから我慢してねー、と涼しくあしらったエージェントはお手本通りの完璧な手当てを済ませた。手首に貼られた絆創膏、その上を己でなぞってみる。薄い布きれ越しだというのに、やはりこそばゆさが頭を刺激する。こんなところでくすぐったさを感じるものなのだろうか。思わず、いつもと違う場所に触れる度に『くすぐったい』と笑う恋人の顔が思い浮かぶ。彼もここを『くすぐったい』と感じるのだろうか。水を喉に流し込むも、疑問は募るばかりで流れていく気配は無い。結局、帰宅し食事を終えシャワーまで済ませた今でも、心の底のところにずっと残りっぱなしだった。結果が、今なのだが。
「その時はくすぐったかった。この場所を触られくすぐったいと思ったのは初めてだ」
「そりゃ、普段手首なんて触ることないだろうしな」
撫でる手を止め、くるりと裏返して二人で眺める。絆創膏が鎮座するその場所に、すっと指が伸ばされた。硬さが見えるしっかりとした指が、絆創膏の上を、何もない肌を滑っていく。またあの何とも言えぬ感覚が、なぞる指先から湧いて脳へと走っていった。
「くすぐったい?」
「くすぐったい」
夜には相応しくないほどキラキラとした視線が注がれる。何度も往復する指に、何故だか頬から力が抜けた気がした。瞬間、目の前の紺が見開かれる。大仰なほどゆっくりとした瞬き。夏のビー玉のような丸くて澄んだそれが、ゼリーのようにふにゃりと崩れて笑みを作り出した。全てを照らし出すような笑みを。彼そのものを表すようなあたたかな笑みを。
「くすぐったいかー」
妙に上機嫌な声をあげ、陽真は手首へと視線を注ぐ。一本だった指が二本に増え、曲げ伸ばしを繰り返してまだ柔らかさが残る皮膚を撫でる。細かな動きは『撫でる』というよりも『くすぐる』と表現する方が相応しいものだった。胸が、腹の底が何だかあたたかくなる。ぴっちりと閉じていたはずの口がひとりでに開き、薄く息を吐き出す。ひくり、と動いた己の手を、重ねていたはずの手が捕まえた。支えるように、けれども逃がさないとばかりにしっかりと握り込まれ、また手首を指が這う。二本だったそれは五指全てに増え、手首を通り越して肘まで勢力を伸ばしていた。
「伊織陽真」
むずむずとする腹の中身を押さえ込みながら、才悟は言葉を作る。少しだけ固いそれに、ごめんごめん、と楽しげな声が飛んできた。握る手が離れる様子は無いが。
「不思議だ」
「くすぐったいのが?」
ふと漏れ出た言葉に、疑問形の言葉が飛んでくる。その響きはまだ笑みを残していて、訳が分からないくらい楽しげに弾んでいた。どうやら己をくすぐったのがよほど楽しかったらしい。くすぐって楽しくなる彼の機微も不思議だが。
「ノアに触れられた時はくすぐったかったが、キミに触れられると少し違う」
わずかばかり顔を伏せ、才悟は己の手を見つめる。まるでそれが合図だったかのように、握ってくる手から少しだけ力が抜ける。今ならば軽く引いただけでその拘束から逃れられるだろう。けれども、重ねられたそこから離れる気など欠片も湧いてこなかった。
「上手く言えないが、あたたかい。……嬉しい?」
絆創膏が貼られた手を伸ばし、手の平まで逃げ帰っていた彼に重ねる。両の手があたたかくて、おなかの中がふわふわとして、頭がくらくらとして。子どものようにただ触れてじゃれているだけだというのに、頭の中身は、胸の真ん中は落ち着かない。同時に、安らかな心地も広がっていく。なんとも不思議な感覚だ。少なくとも、こんなものはエージェントに対して抱かなかった。こんなの、伊織陽真にだけ――恋人にだけだ。
へー、と陽真は声をあげる。やはり笑みが隠し切れていない、幸せに溢れた響きをしていた。ふぃと上げて広がった視界の中、太陽の色が輝く瞳が細くなる。柔らかな弧を描く目元は、少しだけ下がった眉は、穏やかに綻んだ口元は、いつもの彼とは違ったものだ。いつだって輝かしく活力に満ち溢れた笑顔ではなく、解けた――いうなればとろけたような笑み。二人きりの時にだけ見せる笑み。他の誰にも見せない、己と彼だけの特別な笑み。
幸せという言葉をめいっぱい表現したようなそれに、才悟もまた目を細める。まっすぐに線を結んだ唇が解け、小さく開いた。
「キミはどうだ?」
「くすぐったい」
「そうではなく」
にまりと笑う陽真に、思わず拗ねたような声を漏らす。悪かったって、とカラカラと笑い声。重なっていた手が引かれ、上がり、目の前へと――目の前に座る彼の頬へと寄せられる。ただくすぐったさを感じていただけの手に、柔らかなものが触れる。薄く染まる色通りのぬくもりが触れる。
「おれもあったかくて、嬉しい。好き」
すり、と柔らかな頬が、すべらかな肌が手の平をなぞる。またくすぐったさが、むずむずとする何かが腹の底から湧き出てくる。勢い良く飛び出したそれが、背を押し身体を突き動かす。心を、頭を支配して突き動かす。
絆創膏が貼られた方の腕を伸ばす。目の前の大切な人の頬にひたりと寄せ、その顔を逃がさぬように捕らえた。
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なんとか戦える程度には教えてもらった【才陽】
なんとか戦える程度には教えてもらった【才陽】
資料集めてたら才悟これ他チームから引っこ抜かれるだろと思ったので。なんか想定しない方向に吹っ飛んでいったけどまぁいいか。
地区エピソード「平和なゲーム大会」を踏まえた話。
ゲームの腕を磨く才悟と眺めてる陽真の話。
黒いコントローラーの上を流れるように、舞うように指が動いていく。撫でるようにスティックを操り、踊るように様々なボタンを押していく。カチカチという独特な操作音が決して広くはないリビングに小さく響いていた。
馴染みきった手つきを眺めながら、陽真は食器を片付ける。一個だけ残したカップに牛乳を注ぎ、手にしてキッチンを出た。二人分の小さなダイニングテーブルを過ぎ、ソファの後ろへと回る。背もたれに腕をつき、動く気配など欠片も無い青い頭越しにテレビを見やった。
二人暮らしには不相応な大画面の中では、キャラクターたちが機敏に戦っていた。飛び跳ね、殴り蹴り、武器を投げ撃ち、アイテムを操り。小さな身体で多種多様な攻撃を繰り出していく。キャラクターが動く度、普段通り落ち着いた声が状況を端的に表す。小ぶりなイヤホンからいくつもの声が漏れ聞こえた。
時が経つにつれ数多に暴れていたキャラクターは減っていき、最終的には二人だけになってしまった。『YOU』と矢印が伸びたキャラクターがジャンプし、残る一人とステージを飛んで跳ねて駆けて。アイテムを拾う硬直を見計らったように、キャラクターがキックを繰り出す。回避と攻撃を試みる相手を華麗に捌き凌ぎ、飛び上がって再びキックを仕掛ける。派手なエフェクトとともに、画面下部に残っていたバーの片方が真っ黒になる。瞬間、画面に『CHAMPION』と大きな文字が表示された。賑やかしいファンファーレがスピーカーから鳴り響く。
節の目立つ手がコントローラーを離れ、ローテーブルに置かれた携帯端末に伸ばされる。通話アプリを操作する同居人を横目に、陽真は持ったままだったマグに口を付けた。わずかに温度を宿し始めた牛乳が、いつの間にか渇いていた喉を潤す。
分かった、と声。節だった指が端末を軽く叩くとほぼ同時に、イヤホンが形の良い耳から抜き出された。
「練習大変だな」
「あぁ。まだ状況判断が甘い」
モードセレクト画面に移り変わった液晶を眺め、才悟は再びコントローラーを手に取る。ボタンを軽く叩くと、あっという間にタイトル画面が現れた。大きなロゴの後ろ、デモ映像の中では精巧にモデリングされたキャラクターがダイナミックに動き回る。先ほどの彼の操り方によく似ていた。
数日前、仮面ライダー屋に依頼が舞い込んだ。それも、才悟一人を直々に指名したものである。以前見た大会での彼の動きすごかった、次の大会はうちのチームに入ってくれ、と。
前回の依頼は人数合わせのためだったが、今回は大会優勝が目標だ。そのためにはゲーム自体はもちろん、チームでの意思疎通の練習も必要になる。ここ数日間、早寝早起きに定評のある彼は夜が更けるまで通話でのチーム練習を行っていた。普段なら眠たげに目を擦る時間でも、桔梗の瞳はじぃと画面を見つめ状況を伝えながら素早くボタンを操る。初日は口数が少なかったが、今となっては随分と報告と応答が早くなっているのが目に見えて分かった。
その練習風景を見るのが、最近の密かな楽しみになっていた。才悟はとにかく飲み込みが早く、動きがすぐに最適化されていく。つまりは、ゲームが上手いのだ。もちろん、大会優勝を目指すチームメイトはそれ以上に上手く、本当に人が操作しているのかと疑うほどのキャラクターコントロール力を見せる。上手い人たちが繰り広げるプレーは軽やかで鮮やかでダイナミックで、見ていてとても楽しいのだ。実力が均衡した戦いは思わず息を呑んでしまうし、僅差で勝利を掴んだ姿に思わず声が漏れてしまう日もあるぐらいには入れ込んでいた。
コップの中身を飲み干し、陽真はソファの背もたれに顎を乗せる。ちらりと見た隣の横顔は、ぱちぱちと目を瞬かせていた。白い瞼は少しだけ降りていて、深い竜胆を隠している。常は澄んでいるそれは、ほんのりと輪郭が曖昧になっているように見えた。
「片付けとくから寝なって。眠いだろ?」
ん、と返ってきた声はいつもよりも高く聞こえた。けれども、胼胝が浮かぶ手はコントローラーを握って離さない。指が動き、薄暗くなっていた画面がパッと光を取り戻す。音も無く動く指がボタンを操り、あっという間にモードセレクト画面へと変移させていく。画面を動き回っていた矢印が、『ローカルマッチング』と書かれた看板の前で止まった。
「キミもやらないか?」
声と同時に視界に、まさに目と鼻の先にコントローラーが飛び込んでくる。ぶつかりそうなそれに慌てて顔を離すと、揺れる青を視界の端に捉えた。どこかとろりとした夜更け色と視線が交わる。
「おれ弱いじゃん? 勝てねーって」
苦い笑みを浮かべ、陽真は首を振る。練習の甲斐あって以前の大会では人並みには動けたものの、時間が経った今は基本操作すらろくにできないだろう。日々腕を磨き上げている彼に敵うはずがないのだ。
「……そうか」
コントローラーが沈んで、背もたれに隠れて見えなくなる。こちらを見据えていた紫紺がわずかに隠れ、形の良い眉が少しだけ動く。彼にしては分かりやすい表情筋の動きだ。それも、マイナス方向の。
「練習相手になれなくてごめんな」
眉を下げて軽い調子で謝ると、ほんのりと垂れた目がゆっくりと瞬きをする。空っぽになった手が上がり、顎に当てられる。癖っ毛が彩る頭が小さく傾く。悩ましげな息が吐き出される細い音が鼓膜を震わせた。
「練習じゃない」
しばしして、才悟は言葉を紡ぎ出す。眠気でほのかにとろけた響きは、二人暮らしの部屋にやけに大きく聞こえた。
「ただ、キミともやってみたいと思った」
輪郭が柔らかくなった声に、紺碧の目がぱちりと瞬く。牛乳で潤った唇が薄く開いた。音にもならない息が細く漏れ、また紺瑠璃が瞼の奥に隠れてすぐに姿を現す。
才悟は娯楽に執着が薄い。今回のような依頼や己の誘いで遊ぶことはあれど、自主的に誘ってくることはあまりなかった。テレビゲームならば尚更である。そんな彼がわざわざ、しかも眠たい目を頑張って開けて誘ってきた。かなり珍しい事態だ。驚愕と、よく分からない何かが心臓を突き動かす。ゲームの軽快なBGMが鳴り響く部屋の中、鼓動の音がやけに大きく聞こえた。
「でも眠いだろ?」
「……眠い」
問うと、先ほどよりもやわこくなった声が返ってきた。才悟は抵抗するように目をしばたたかせる。それでも、瞼はどんどんと領地を増やしていた。まるで頑張って夜更かしをしようとする子どものようだ。可愛らしい姿に、思わず笑みが漏れる。
「明日にしようぜ。依頼無いし昼にやろ」
なっ、と呼びかけ、空いた手で癖のある青い髪をわしゃわしゃと撫で繰り回す。ん、といつもよりずっと幼げな声が聞こえた。座面に放り出されたコントローラーを手に取り、陽真は身を乗りだしていたソファの前、座る彼の前へと回り込む。わずかに伏せられた顔はやはり眠たげで、堪えようとするように何度もしばたたいていた。小さく笑みを漏らし、テレビ台の中に置かれたゲーム本体の電源ボタンを押す。明るいBGMが消え、部屋は夜の静けさを取り戻した。本体の脇にコントローラーを置いて、青年は振り返る。小さなローテーブルを一歩で横切って、また青い頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「我慢すんなって。おやすみ」
形を整えるように撫でてやると、才悟はまた瞬きをする。どんどんと細くなっていく目元は、まるで撫でられて喜ぶ犬のようだ。ただ眠いだけなのだろうけれど。
「……おやすみ」
しっかりとした体躯が立ち上がり、撫でていた手からあたたかなものが消えていく。部屋着に包まれた身体は、いつもよりも頼りない足取りで進んでいく。おやすみ、と再び投げかけ、陽真もまた歩み出す。キッチンに着くのとほぼ同時に、扉が閉まる音が聞こえた。
ゲームなんて久しぶりだ。それも、才悟とだなんて。マグカップを洗いながら青年は考える。眠気に負けそうな彼と取り付けたただの口約束に、何だか胸が満たされていく。水が流れる音の中に、小さなメロディが混ざった。
この実力差だ、戦いはろくなことにならないだろう。だったら、教えてもらうのもいいかもしれない。いや、彼は説明があまり得意ではない。けど、横で操作する手を見れば少しぐらいは技術を盗める可能性はあるはずだ。
明日に思いを馳せながら、洗い物を水切りかごに伏せる。背の低いカップの表面を、上機嫌な鼻歌が撫でていった。
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黄には赤を添えて【才→←陽】
黄には赤を添えて【才→←陽】
オムライスネタはやっとかなきゃいけないじゃないすか(ろくろ回し)と色々こねくり回した無自覚才→←陽。
オムライスを食べたい才悟とオムライスを作りたい伊織さんの話。
ホワイトソース。デミグラスソース。ホールトマト。にんじん。玉ねぎ。ピーマン。パプリカ。なす。ブロッコリー。しめじ。舞茸。鶏もも肉。コンソメ。スライスチーズ。バター。
メモアプリにリストアップしたものをかごに放り込んでいく。想像以上の量になってしまったが、果たしてこれらがあの小さな冷蔵庫と決して広くはないキッチンに収まるのだろうか。いや、収まるように調整しながら作ればいいだけである。よぎる不安を払いのけ、陽真はレジへと食材を通していく。財布を取り出してから見たセルフレジの液晶画面には、普段よりもずっと大きな数字が表示されていた。想定外の大出費に、思わず短い唸りが喉からあがる。いや、これも量を調整して他の料理に回せばいいだけの話だ。大丈夫、と頭の中で言い訳をしながら、煌々と光る端末にICカードをかざした。
行きよりずっと重くなった荷物を肩に食い込ませながら帰路を辿る。部屋に着いてすぐ、いつもより短い時間で手を洗う。必要なものを作業台に並べ、残りは手早く冷蔵庫にしまい。やっと青年はキッチンに立った。よし、と呟きとともに、薄手の柔らかな生地が退いて鍛えられた腕があらわになる。逞しい手がまな板を出して置いて、研がれた包丁と買ってきたばかりの野菜を手に取る。
刻んで、炒めて、煮立てて。普段と似ているようで全く違う工程をこなしていく。朝より少しへたった赤髪が、忙しなく動く身体に合わせて舞った。
「ただいま」
「おかえり。悪い、もうちょいかかる!」
「分かった」
ふつふつと煮立つ鍋から目を離すこと無く、叫びに近い声をあげる。正反対な小さな声が玄関を通っていった。
盛って、被せて、掛けて。慣れない故に普段よりも随分と時間を要したが、初めてにしては上等な出来だろう。少なくとも、一番最初にレシピとにらめっこしながら作ったものより形は綺麗である。上達した証拠に、細く汗の線が浮かぶ頬が綻んだ。
まだ湯気が立つオムライスと余り野菜で作った簡素なスープを机に運び、ソファに座る同居人の名を呼ぶ。短い返事の後にすぐさまやってきた青い頭が、席に着くより先に小さく傾いた。
「……白い?」
「そ。今日のはホワイトソース掛けてみた」
ホワイトソース、と才悟は依然首を傾げたまま復唱する。グラタンとかのやつ、と声を掛けてやると、やっと納得した様子で青がまっすぐに戻った。
魅上才悟はオムライスを好む。それも、何故か己が作ったオムライスばかりを好むのだ。夕飯のリクエスト回数上位に位置するそれは、食にさほど興味が無いように見える彼にとってよほど気に入ったものなのだろう。素人が作ったそれをいっとう好む理由はよく分からないのだけれど。
才悟はおれが作ったオムライスなら何でも好きなのか?
リクエスト通り、いつも通りのオムライスを作ったある日の夜、胸の内に小さな疑問が芽生えた。集中しているはずの食事中ですら元気に育っていったそれは、最終的には口を突き動かすほど頭を占める大きさとなっていた。しばらく夕飯はオムライスでもいいか、と尋ねるほどに。
そうやって了承を得て、レシピを調べ、材料を買い込み、普段以上に慣れない手つきで料理をして。その集大成の一つが今テーブルで白い湯気をあげていた。
いただきます、と手が合わさる音が重なる。食器が擦れる金属質な音。スプーンを手にしたまま、陽真は向かい側を見やる。小さな口が薄く開いて、銀の上に載った黄と白を吸い込んでいく。年の割にまろい頬が、シャープな輪郭を描く顎が、うっすらと色付いた喉が動く。しばしして、美味い、と小さな声が食卓の上に落ちた。笑みを浮かべ、陽真も一匙すくう。白で彩られた黄の奥から赤が顔を覗かせるのが見えた。
口に運ぶと、なめらかさと熱さが舌を焼いた。はふはふと空気を吸い込みながら咀嚼していく。普段よりも野菜をふんだんに使ったケチャップライスは、調味料の塩気と野菜の甘みが混ざりあって舌を喜ばせる代物となっていた。よく焼けた薄焼き卵の食感とほのかな香りが、少し濃いホワイトソースと合わさっていつもと違う味わいを生み出す。己が作ったものだというのに、思わず高い唸りが漏れた。
「ホワイトソースもうまいな!」
「あぁ」
弾む陽真の声に、才悟は短く返す。その声は常よりも少しだけ明るくなっているように見えた。彼もまた、普段と一風変わったオムライスに舌鼓を打っているのだろう。握られた銀のスプーンは軽快に動いていた。
ごちそうさま、と再び声が重なる。対面から素早く腕が伸び、机上の食器を慣れた調子で重ねていく。バランス良くできた小さなタワーを手に、才悟は机を発った。シンプルなTシャツに包まれた背と青い癖っ毛がキッチンへと消えていくのが視界の端に映る。
「明日も楽しみにしてくれよな!」
普段とは違う味わい、くちくなった腹、何より気に入ってくれたあの顔。胸が満たされていく感覚を味わいながら、陽真はキッチンに向かって声を投げかける。おそらく律儀に返したであろう声は――きっと肯定してくれた声は、水が流れる音にまぎれて耳には届かなかった。
真っ赤なトマトソース。きのこたっぷりのデミグラスソース。濃厚なチーズソース。つやつやとしたバターライス。想定以上に固くなったオムレツ。とろりとした半熟の焼き卵。
連日――といっても、先に帰宅した日だけだが――様々な材料を使ってオムライスを作っていく。オムレツは火が通りすぎて七割方失敗してしまったが、他は料理スキルが低い人間にしては上手くいった方だろう。特にデミグラスソースは煮込むだけだったとはいえ己にとって会心の出来であった。また作りたい、と思うほどには。
「なぁ、才悟」
「なんだ」
バターライスと焼き卵、トマトソースで構成されたオムライスをつつきながら、陽真は言葉を投げかける。相変わらず返ってくるのは素っ気ないものだが、夜明け空の瞳はこちらをまっすぐに見据えていた。
「どれが一番うまかった?」
「どれ、とは?」
「オムライス。最近色々作ってただろ? どれが一番良かった?」
首を傾げる才悟に、指揮棒のようにスプーンを振りながら答えまた問う。しばしして、綺麗に握られていたスプーンが皿の上に置かれる。カチャリ、と高い音がやけに大きく響いた。
節立った手がなめらかな顎に添えられ、瑠璃紺の頭が少しだけ沈む。深海色の目は伏せ気味だが、その視線は目の前のオムライスに注がれているのが分かった。彼によくある沈黙を、食事を進めながら待つ。皿の上が白に大きく近づいた頃、黄と赤を眺める青がようやく上がった。オムライスを見つめていた宵空色が、今度はこちらに真っ正面から向けられる。
「最初のものが一番おいしかった」
「最初……だと、ホワイトソースのやつか」
記憶を辿り、陽真は笑みを浮かべながら頷く。いつもと変わらぬケチャップライスと薄焼き卵、味が調ったホワイトソースの組み合わせが彼にとって一番だったようだ。今まではケチャップ一辺倒だったので意外ではあるが、きっとこのオムライス続きの日々で初めて食べ、ようやく好みに気付いたのだろう。この間使ったホワイトソースは粉末タイプのものだから常にストックできる。今度から使おう、ともう一度頷いた。
「違う」
短い声が、心なしか力のこもった声がダイニングに響く。へ、と大きな口から音が漏れ、群青がぱちりと瞬く。それでもなお、目の前の紺碧は一直線にこちらを見つめていた。
「キミが最初に提案した日の、いつも通りのオムライスが一番おいしかった」
芯の通った声を吐き出す口が一旦閉じて、難しそうにもにゃりと動く。しばしして、薄い唇がゆっくりと開いた。
「いつも通りのものが一番好きだ」
瑠璃の目が伏せられて、開いて。光を宿したそれが、力を宿したそれが、まっすぐに紺青を見つめる。間抜けに開きっぱなしの己の口から、また少しだけ上擦った声が漏れた。綺麗に整えられた赤い髪が揺れて、形の良い頭が傾ぐ。ん、と疑問符まみれの音が喉からあがった。
「いつものやつ?」
「あぁ」
「全然変わんねーのに?」
「そうだ。キミが作るものはどれもおいしかったが、一番好きなのはいつものものだ」
尻尾が上がり調子の声に、実直な声が重なる。んんん、と疑問符で豪奢に飾られた声がしっかりとした喉からあがった。
最初のものは本当に工夫も何もない、冷蔵庫に残ったものと目分量で入れたケチャップ、さっと焼いた卵でできたものだ。ここしばらく作ってきたものとは比べものにならないほどシンプル、というよりも適当なものである。それでも、彼はそれが一番美味しいと――好きだと言った。何でも食べる、食への興味があまり無いように映る彼が。わざわざ『好き』と。
「……そっか」
大きく頷き、陽真は依然じっと見つめる青の目を見つめ返す。視線がかち合った瞬間、何故だか頬が緩んだ気がした。
「じゃ、今度からもいつものってことで」
スプーンを軽く振って陽真は言葉を紡ぐ。これまでの日々で彼が好みに気付いたのは良いことだ。それに、彼の好みが分かったのも良いことだ。二人で暮らす以上、食の好みは把握しておいて損は無い。短くはない期間を共に過ごしているのである程度は知っていたが、こうやってはっきりと口にしてくれるのは嬉しいことだ。何より、一番を、『好き』を教えてくれたのが。
「伊織陽真」
綻んだ唇と何だか軽く感じる手を動かしていると、己を示す音が飛んでくる。食器を置いて顔を上げると、変わらず深さを持った青とまた視線が交わった。
「キミが作るものはどれもおいしかった。ありがとう」
食事をしているというのに汚れが見えない唇が、飾り気の無い、だからこそ美しい言葉を紡ぎ出す。ぱちりと瞬いた夜明け直前の瞳に、ふわりと笑みがこぼれた。
「どういたしまして。こっちこそ付き合ってくれてサンキュ」
何となく言葉だけでは足りなくて、ぱっと手を小さく振って返す。癖っ毛が上下に揺れると、才悟は再びスプーンを手に取った。柔らかな卵とぱらぱらとしたバターライス、もったりとしたトマトソースをまとったそれが口の中に消えていく。顎と頬が動いて喉が上下する。
「おいしい」
「ありがと」
こくりと頷く才悟に、陽真は笑みを浮かべる。食器が擦れる音が二つ、食卓の上で軽やかな音を奏でていった。
工夫を凝らしたオムライスは、あっという間に姿を消してまっさらな皿だけを残していった。
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跳ねる青を追いかけて【才陽】
跳ねる青を追いかけて【才陽】
髪をいじる才陽が見たかったなどと供述しており。専属スタイリストですよ!? 髪だって何でもやるに決まってるじゃん!
癖っ毛の才悟と興味津々の陽真の話。
まだ少しぼやけた視界の中、つやめく青がひょこりと飛び込んできた。海の底のように深いそれが、無駄のない動きに合わせて揺れる。
「おはよう、伊織陽真」
「おはよう!」
マグを二つ手にした才悟が、こちらを見ることなく言葉を放つ。まだ少しだけ重い瞼を擦り、陽真は朝を象徴するような声で挨拶を返した。その間にも、キッチンに立つ鍛わった身体は機敏に動き手際良く朝の準備をこなしていく。遅れぬよう、まだ寝間着に包まれたままの足が洗面所へと向かった。いつもよりもぺたりとした赤い髪がエアコンの風を受けてひらめいた。
顔を洗い、簡単に髪をセットする。寝癖の無い髪は素直で、ブラシで整えるだけで容易に普段に近い形となった。鏡に映る己の赤髪を眺めていると、不意にあの青がちらつく。元気よく跳ねた青が。普段よりよく飛び出た青が。
頭に引っかかる何かを振り払いながら、青年は身支度を済ませダイニングへと戻る。二人で使うには幾分か大きなテーブルの上には、焼き目の付いた食パン二枚と湯気をのぼらせたマグが二人分。そして、己の分白で満たされたグラスが追加で並んでいた。ありがと、と声とともに席に着く。輝く夜空色が、首肯の代わりのように瞬く。
「いただきます」
パシンと爽やかな音が、朝に相応しい声が重なる。サクン、と軽妙な音。ゴクン、と気持ちの良い音。時折食器が擦れて鳴き声をあげる。陽光差し込むリビングは、静かなれどもあたたかだ。
意識を覚醒させるほど冷たい牛乳を飲み干し、陽真はパチリと青空色の目をしばたたかせる。睡魔が取り払われた目に入ったのは、食パンに齧り付く才悟の姿――そして、その頭で存在を大きく主張する、跳ねた青髪だった。
魅上才悟はかなり癖毛である。流れる前髪はまだ素直だが、後ろ髪は自由人の言葉が相応しいぐらい四方八方に跳ねている。てっぺんに至ってはぴょいと細い青がいつだって天高く背を伸ばしていた。整えてこれなのだから、かなり頑固な相手なのだろう。こんなにも無造作で自由なのに、当人の整った顔つきと合わせるとどこか様になって見えるのだから不思議だ。それでも、耳の上あたりで声高々に存在を主張する太い青はその絶妙なバランスを崩壊させるイレギュラーであった。
起き抜けの頭にも妙に印象が残ったそれは、明らかに寝癖である。寝癖の一つや二つなど珍しくないはずなのに、今日はなんだか無性に視線が吸い寄せられて仕方が無い。自由気ままなそれがやっと晴れ渡った意識を奪って仕方が無い。丸い群青は、目の前の食事よりも跳ね放題の青ばかりを視界に入れていた。
「伊織陽真」
向かいから声。ようやく視線が向かい側の髪から外れる。声一つだけで、澄んだ川瀬色の瞳と輝きを宿した海底色の瞳がまっすぐにぶつかった。
「なぜそんなにこちらを見ている」
表情を変えること無く、才悟は問う。彼のことだ、牽制や注意ではなく純粋な問いだろう。けれども、不躾に頭を眺めていたことを自覚してしまった頭にはどこか責め立てているように聞こえてしまう。ごめん、と反射的に眉を下げて謝ると、なぜ謝る、とことりと首を傾げられた。
「……才悟」
「なんだ」
飲み干したマグカップを机に置き、陽真はすぅと息を吸って言葉を吐き出す。すぐさま、まっすぐな声が返ってきた。ちらり、とまた無邪気に跳ねる青髪に視線をやる。瞼を下ろし、また息を吸って、吐いて。ぐっと拳を握り締め、目の前の紺碧を見つめ、声帯を震わせた。
「髪、セットさせてくれないか?」
取り回しの良いブラシ。中身が半分になった簡素な霧吹き。愛用している整髪料。普段は洗面所に置きっぱなしのそれを、陽真は机の上に並べていく。その対面、ソファに座った才悟はどこか不思議そうな顔で道具たちを眺めていた。瑠璃の瞳が閉じて開いて、形の良い頭がことりと頭が傾ぐ。衝撃で癖の強い青髪が揺れる。特に、あの寝癖がはしゃぐようにぴょんと。
「こんなにも使うのか」
「あぁ。才悟は癖っ毛だからなー」
「癖っ毛」
霧吹きを手に取る赤に、青は復唱する。その目は手の内にある透明なスプレーボトルに吸い込まれていた。観察することが日常となっている彼のことだ、己がセットしている姿を何度も見たことがあるはずである。それでも、ただの水と髪のセットという行為がいまいち結びつかないらしい。
「本当ならヘアオイルとかあったらよかったんだけどな。さすがにそこまで用意してなかった」
「オイル……? 油を髪に塗るのか」
「そうそう。軽く湿らせて整えやすくするんだ」
無いから代わりに水だけどな、と陽真はボトルを振る。水、とまた復唱とともに癖だらけの頭が傾いた。
「まっすぐ前向いて」
わかった、と才悟は姿勢を正す。食後の片付けが終わったダイニング、その椅子に座る普段通り背筋はピンと伸び、頭は人形のようにピタリと止まってまっすぐに前を向いている。己の髪は常に整えているものの、他人の髪を整えることなどあまりない。慣れぬ手にはこれ以上無く作業しやすい姿勢だった。
霧吹きで髪を軽く濡らしていく。今朝現れたばかりのバランスを崩す跳ねっ毛を湿らせ、ブラシで梳いて宥めすかしていく。少しばかりへたったが、頑固なそいつはまだまだ強く主張を続けた。ただの髪だというのに反骨精神丸出しだ。まるで持ち主のようだ、なんて考えて思わず笑みが漏れる。どうした、と声が飛んできた。何でもない、と返して、またふわりと水を吹きかけた。
濡らして、梳いて、濡らして、梳いて。丁寧に、それでも手早く頭全体に下準備を施していく。少し落ち着いたものの、それでもほとんど普段と変わらぬ様相をしているのだからやはり頑固だ。スタイリング剤を使わねば形を変えられないだろうことは容易に分かる。不安半分、楽しみ半分。深青を見つめる空の瞳がきらりと輝いた。
ヘアワックスの蓋を開け、少量手に取る。塗り広げ、まだまだ元気に跳ねつくあの寝癖へと手を伸ばす。根元に軽く揉み込み、簡単に手で梳いていく。たったそれだけで、あの突然の来訪者は姿を消してしまった。あまり強くないものを使っているが、さすがに薬剤には勝てないようだ。
寝癖の始末はこれで終わりだ。だから、もう終わってしまっていいはずである。それでも、跳ねるあいつを見つけた時から芽生えた好奇心と欲求は姿を消す様子が無い。むしろ、大人しい頭を見るだけで膨らんでいくのだからわがままだ。ちらりと眼下の頭を見やる。頭の持ち主は言われた通り、まだまっすぐに前を見据えていた。一ミリも動く様子は無いし、口を開く様子も無い。全てをこちらに委ねていた。その姿に、芽生えた感情がむくむくと膨らんでいく。息を呑んだ瞬間爆発したそれに、陽真は再び容器に手を伸ばした。
また手に広げ、今度は後ろ髪に揉み込んでいく。跳ねる髪たちが一斉に姿勢を正し、手の動きに合わせてまっすぐに下がっていった。丁寧に、一つ残らず頭の形に沿って流していく。しばしして、目の前に現れたのは普段の跳ねが一つも無い、なだらかな後頭部だった。
好奇心に押されるがままに、青年は素早く歩みを進め座った同居人の前へと躍り出た。正面から見た彼の頭は普段の跳ねが無くなった分、どこか大人びて見える。精悍な顔つきも合わさって、まるで己よりもずっと年上のようだ。普段とは違う姿に、思わず心臓が大きく脈打つ。思い切り跳ねたそれが、また好奇心を膨らませていった。
「終わったのか」
「あー……、いや。ごめん、もうちょい待って」
表情を変えること無く才悟は問う。逡巡、陽真はまた彼の後ろへと回った。まだ固まっていないそれを、今度は普段とは違う癖を付けていく。また前に回り、全体を確認する。今度はどこか幼さが残る姿に見えた。また後ろに回り、セットし、前に回り。幾度も繰り返していると、伊織陽真、と名を呼ぶ声。
「髪を触るのはそんなに楽しいのか」
「楽しい!」
平坦な問いの声に、一も二も無く答える。声が弾んでいるのが、口元が緩んでしまっているのが己でもはっきりと分かった。それほどに楽しいのだ。普段と違う彼の姿を見るのが。己の手によって変わっていく彼が。
「俺は才悟の専属スタイリストだからな! 髪もプロデュースしたいじゃん?」
そんな言葉で欲望を誤魔化しながら、陽真はまた後ろへと回る。そうか、と答える声は平坦ながらもどこか疑問が浮かんだ響きをしていた。聡い彼のことだ、己の言い訳など見透かしているのだろう。その理由が分からないからこそ、この響きを奏でたのだろうが。
またワックスを塗り広げ、赤は遊びに遊ばれた毛先を綺麗に整えていく。指先でつまんで、青い髪をぴょいぴょいと跳ねさせていく。できあがったそれを確認するため、また前へと回った。
視界いっぱいに映ったのは、普段と変わらぬ才悟の姿だった。整えた故に普段の自然な跳ねとは少し違うが、違いはさほど無いだろう。うん、と思わず満足げな声が漏れた。
「寝癖、直ったぞ」
「寝癖があったのか」
頷く陽真を前に、才悟はまた首を傾げる。どうやら彼自身は気付いていなかったようだ。きっと、普段があれだけ跳ね放題だから見分けが付かなかったのだろう。外見への頓着があまり無い彼らしかった。だからこそ、こうやって触らせてもらえたのだが。
「ワックス使ったから今日は特に綺麗に頭洗ってな」
「分かった」
横髪に視線と手を伸ばしながら、青年は答える。温度が見えない声とは裏腹に、髪に触れる手つきは少しこわごわとした不思議そうなものだった。普段よりも固くなった青が、指つきに反応するように小さく揺れる。いつも小綺麗に身なりを整えているものの、彼がヘアワックスなどを使った姿など見たことがない。間違いなく、彼にとって未知のものだ。
「伊織陽真はいつもこんなことをやっているのか」
「あぁ。あっ、でも依頼ない日はサボることあるかな」
大変だな、と才悟は依然青をもてあそびながら呟く。こちらに向けられた瞳は、変わらずまっすぐで、でもどこかいつもよりもきらめいて見えた。瞬く度に、夜空の瞳の中にライトの光がちらつく。
「ありがとう」
「どういたしまして。才悟こそ、触らせてくれてありがとな」
平坦な、けれどもどこか上擦りを見せる声に、陽真は弾みを隠すことない響きで返す。深い海の目がまた瞬いた。エアコンの風を受けて、青も揺れる。己が作り出した跳ねっ毛が動く様に、満足して消えたはずの欲求がまたむずりと顔を覗かせた。
「……またやっていい?」
「あぁ」
控えめな問いに、短い返事。確かな肯定に、夕焼けの目が細くなった。整った唇がゆるりと弧を描き、笑みを作り出す。
おそるおそる触れる指先に、時折吹くエアコンの風に、青髪がひょこひょこと揺れる。整えられた――己が整え、作り出したそれに、青年は笑みを深くした。
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これからを詰めていく【ヒロニカ】
これからを詰めていく【ヒロニカ】
スプラ3三周年……三周年!?!?!????となったので書いた。弊ヒロニカが出会って三周年になります。嘘だろ。あとマイチェンの話書いてなかったなーというおまけ。
今までの弊ヒロニカと色々繋がってるが読んでなくても問題は無い。
バンカラコレクションに悩まされるヒロニカの話。
薄いプラスチックの中、水が踊る。傾き跳ねたそれは背を減らしていき、また踊って重力がままペットボトルの底に落ち着いた。息が漏れる音。
「燈なぁ……」
呟きとともに、少女は目の前のトライストリンガーをじぃと見つめる。三本の凍結弾を放つ特徴を持つブキは、愛用しているものとはいくらか違っていた。切り出したパーツの色そのままだった弓幹は、目に痛いくらいの蛍光色で塗ったくられている。弦を留めるパーツのすぐ近くには、これまた鮮やかな豆電球が三つ付いていた。赤・緑・青の三色は、おそらくインクタンクと接続すればチープに輝き出すのだろう。シンプルで無骨なところにも密かな人気を集めていたブキは、なんともケバケバしいデザインへと変貌してしまった。見た瞬間これでもかと目を見開き口を開きっぱなしにしてしまった程度には衝撃的で凄まじいイメージチェンジである。
「ジェッパ難しいですよねぇ」
「高ぇとこは慣れてんだけどなぁ」
困り眉を作ったヒロに唸り声を返し、ベロニカはまたペットボトルを煽る。水が揺れて、飲み下されて、また揺れる。あー、と濁った声が潤った喉からあがった。
バンカラコレクションが新たに登場して数ヶ月が経った。バンカラ発人気ブランドと華々しいコラボレーションをしたブキたちの中には、少女が愛用しているトライストリンガー――と、恋人の相棒である.96ガロンも――があった。喜び片手にステージを駆け回ったものの、いまいちしっくりこないままでいる。ラインマーカーは仕留め損なった敵に追い打ちをかけられる。ジェットパックは更に高い位置から見下ろし眼下の全てを蹴散らせる。どちらも弱点を埋められる相性の良い構成であるはずだ。だのに、未だに使いこなせずにいる。ラインマーカーはインクの管理できずにここぞという時に投げられず、ジェットパックは爆風ばかりで一息に仕留めきれないのだ。数ヶ月練習してこれなのだから、どうにも相性が悪い――なんて言い訳がしたくなる。そんなことは許されないのだが。
「ベロニカさんがこれだけ悩むの珍しいですね。コラボは使いこなしていたのに」
「マジでなぁ……」
はぁ、と嘆息。黄色い頭が、ゴチンと盛大な音をたててローテーブルに打ち付けられた。ベチン、と三つ編みに結ったゲソがコーティングされた天板に叩きつけられてひっつく。まるでお供え物でもするかのように、その頭の横に小袋入りのクッキーが置かれた。
「くやしい」
くぐもった呻きが机の天板を、あぐらを掻いた膝を、ゴミ一つ無い床を転がっていく。心底苦々しくて、苦しげなものだった。怒りが後ろに隠れているのがよく分かる。自身への怒りが。無力さへの怒りが。
「ずっとトラスト使ってんのにさぁ……」
「そういえば、ベロニカさんって撮影の時以外はトラストしか使いませんよね。最初の方からトラスト握ってたんですか?」
煮えたぎる呻き声を和らげるように、温かな声が注がれる。黄色い頭がようやく持ち上がった。きゅぽん、と音をたてて吸盤が離れ、ゲソが元気に宙を踊る。目の前に氷たっぷりのグラスが置かれた。クッキーとはまた違う香ばしい匂いが鼻をくすぐる。もそもそと動いて一口。凍ってしまいそうなほど冷たいコーヒーが、胃を、頭を冷やしていく。
「そだな。いっちゃん最初からトラストしか持ってねぇ」
「……ということは、バトルを始めたのって結構最近ですね」
最近といっても三年は前ですけど、と付け足してヒロもコーヒーに口をつける。たっぷりに詰められた氷が縁に当たってカランと軽やかな音をたてた。
トライストリンガーは比較的新しいブキだ。バンカラ地方の釣り具メーカーが開発した新たな機構は、それはそれは注目を集めたものである。無骨ながらもイカしたデザイン、冷却弾という新たな攻撃方法、弾の収縮・拡散を操り戦うスタンス。あの日テレビで見たブキに憧れて、己はバトルという世界に身を投じたのだ。ブキ屋の店主の妨害を掻い潜り腕に収めたあの日のことは今でも鮮明に覚えている。
公認サポーターの仕事で別のブキを扱うことは度々あるものの、やはり何を使ってもトライストリンガーが恋しくなる。己にはトライストリンガーしかないのだ。魅せられたあの日から、ずっと。
「三年でその実力ですか……」
「あ? 何だ?」
呟きをすかさず拾い上げた耳がピンと伸びる。コップを掴んだ手と黄色い目元に力が加わった。追従するように、カランとコップが鳴く。違います、と慌てた声とブンブンと振られる手が少女に向けられた。
「三年でそれだけ戦えるってすごいですよ。撮影でも色んなブキ使いこなしてますし、バトルのセンスが元から高かったんですね」
悔しいな、と小さな声が聞こえた気がした。絞り出すようなそれも、喉が鳴る音も、牙が軋む音も、全部気のせいだろう。エアコンがいきなり不調をきたして唸っただけに違いない。ヘッドホン不在の耳を掻いて、インクリングはコップを煽る。苦みの奥に隠れた酸味が味蕾を撫でていった。
「そういやヒロっていつからこっち出てきたんだ? 実家結構遠いだろ?」
机とコップで音を奏でながら、ベロニカは首を傾げる。己も彼も、今はバンカラ街の近くで暮らしている。けれど、実家は鈍行列車でしか行けない地にあるのだ。年末に駅で出くわし、そのまま互いの実家へと分かれて見送ったことは未だに覚えている。
「えー…………四年、ぐらい前ですかね……?」
「何で疑問形なんだよ」
「案外覚えてないものですよ? もうここで暮らしているのが当たり前なんですから」
きょとりとした顔から一転、茶目っ気のある笑みをこぼしてヒロは歌うように言う。そんなものだろうか、とベロニカはじぃと赤い瞳を見つめる。ほんとですって、と紅がぱちぱちと瞬いた。
「んじゃ、もっと早く出てきてたらもーっとヒロと戦えてたかもなのか」
己がバンカラ街に出てきた、正確に言えばバトルを始めたのは三年前だ。己たちの間には、一年の決して埋めることができない時間があったのだ。もっと早くにバトルに興味を持っていれば。もっと早くにバンカラ街に移り住んでいれば。もっと早くに出会っていれば。それはきっと、もっと楽しい日々があったということだ。全ては結果論であり、覆ることが無いものであるのは分かっている。けれども、こうやって認識してしまうとどうにも重くて暗い何かが胸を覆っていくのだ。液体でない何かで重くなっていく胃に活を入れるようにアイスコーヒーを煽る。氷も一個放り込んで、勢い良く噛み砕く。頭に響くほどの冷たさは解決の糸口にはならなかった。もう一個放り込んで、また噛み砕く。途端、棒でも突っ込まれたかのように頭が痛みを覚える。いってぇ、と情けない声。
「そうかもしれませんね」
でも、と少年は力強く吐き出す。紅緋が鳴き声を漏らすコップから、瞼に覆い隠された山吹へと向けられる。黒い瞼の奥からようやく顔を出した向日葵とぱっちりとした紅梅がまっすぐにかちあう。まるで、バトルで読み合いをするように。バトルの中通じ合うように。
「でも、今まで一緒に過ごしたことには変わりませんから」
今も昔も。これからも。一緒なのは変わりません。
まるで一本の糸でも紡ぎ出すように、オクトリングは唇で奏でる。丸く切り取られた茜空が、カーテンを閉めたみたいに細くなる。燃えるような色は、温かさで、愛おしさで満ちていた。窓から差し込む陽光を受けて、美しい瞳がつやめいて輝く。茜に染まった空にだんだんと星が散っていくのに似ていた。
「……そだな」
ずっと一緒だしな。
軽やかに歌うように、高らかに宣言するように、ベロニカも唇を動かす。曇っていた琥珀が元の輝きを取り戻す。ニィと細められたそれは、少年のそれと同じものを宿していた。いたずらっけ一匙。
「これからどうします? ベロニカさんが大丈夫なら爪の練習したいんですけど」
「しよーぜ。スペ性の調整したいんだろ?」
「バレてましたか」
難しいんですよねぇ、と少年は目を閉じる。青くて太い眉は八の字を描いていた。もどかしげに動く口から悩ましげな声が漏れる。トライストリンガー燈と同じく追加された.96ガロン爪の扱いには彼も手を焼いていた。スペシャルウェポンがサポートに徹するエナジースタンド、サブウェポンが癖の強いラインマーカーという構成に、バランスを悩んでいるのはひしひしと伝わってきた。エナジースタンドはとにかく発動回数を増やしたいスペシャルウェポンだ。同時に、盤面を有利に進めるためにも効果時間を延ばしたい。スペシャル性能アップとスペシャル増加量アップ、加えてインク消費が重いラインマーカーをカバーするギアパワーのバランスを考えるのは、彼の頭脳を持っても至難の業のようだ。ここ数ヶ月、作っては試して崩してを繰り返すのを片手で数えられないほど見てきた程度には。
「ちなみに、ベロニカさんは回数多いのと時間長いのどっちがお好きですか?」
「長い方かなぁ。頻繁に取りに行けねーし、一回前に出たらそんまま居座れる方が嬉しい」
人差し指を顎に当てて答えるベロニカに、ヒロは拳を顎に当てて呻く。ちょっとスペ性増やしてみます、とクローゼットへと手を伸ばしたのが見えた。イエローが鮮やかなノベルティグラスが少年の頭にちょこんと乗る。少女も床に置きっぱなしだったワイヤレスヘッドホンをいるべき場所へと戻した。
「行こーぜ。今からならヤグラ間に合うだろ」
トライストリンガー燈を片手に立ち上がり、インクリングは大きな手を開いて伸ばす。はい、と元気な声とともにぬくもりが広げた手を包んだ。穏やかなそれに、確かなそれに、カラストンビ覗く口元が緩やかに解けていく。
そうだ。昔がなんだ。今からも、これからも一緒なのだ。埋められない一年よりも、共に過ごすこれからの幾星霜の方が大切に決まっている。悔やんだところで時間は巻き戻らないのだ。悩んだところで彼と共に在るのは必然なのだ。ならば。
扉を開け、少年少女は飛び出す。玄関でお行儀良く待っていた靴に大きな足が入って、命いっぱいに動き始めた。
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温度を上げるソースの味【ヒロ←ニカ】
温度を上げるソースの味【ヒロ←ニカ】
意識するタイプのニカちゃん見たいよね……(ろくろ回し)の結果がこちらになります。可愛いじゃないすか。
遅いお昼ご飯食べるヒロニカの話。
薄い包み紙を音を憚ることなく破っていく。薄焼きの生地が剥き出しになったところで、ベロニカはあぐりと大きな口をめいっぱいに開いた。黄色い舌覗く口の中にマキアミロール360°が吸い込まれていく。一息に囓ると、野菜の心地良い青臭さが鼻腔を抜けていった。シャキシャキとした野菜の食感、ソースの絶妙なしょっぱさ、ほろほろと崩れる蒸し魚が口を、胃を満たしていく。大きく動いた喉は、満足げな息を続けざまに吐き出した。
時刻は昼時を過ぎておやつ時。ちょうどスケジュールが変わる時間だ。最近になって出てきたステージを目当てにヒトが集まっていたロビーは、やっと波が引いたところだ。選出ステージが変わったのもあるが、朝からバトルに興じていた者皆の腹が限界を迎える時間だからだ。おかげでロビー隅やロッカールームに備え付けられているソファはどこも埋まっている。今日の食事は二人で壁に背を預けて摂るしかない状態だ。歓談する暇も無く、隣り合ってサンドを口の中に放り込んでいく。
「……野菜じゃ足んねーな」
モシャモシャと食事を続けていた少女は、はたと動きを止めて呟く。胃の中で膨らませようと、もう片手に持ったジュースの缶を煽った。炭酸の小さな泡が弾けて柔らかな口腔を刺激する。甘ったるい作り物の香りが鼻の奥に広がった。
普段はアゲバサミサンドを好んで食べている。けれど、運が悪いことにチケットを使い切ってしまっていたのだ。残っていたチケットを使って腹を満たしているものの、やはり生野菜に蒸し魚と脂っ気が薄いこれは味気ない。育ち盛り、食べ盛りの舌には素材の味は優しすぎるのだ。
「僕の食べますか?」
隣から柔らかな声。急いで音の方へ目をやると、そこには彼の昼食であるアゲバサミサンドを差し出すヒロの姿があった。揚げ物とソースでたっぷりと彩られたそれは、まだ半分ほど残っている。存在感の強いエビの虚ろな目がこちらをじっと見つめてきた。
「いいのか!?」
「どうぞ。どうせならエビ食べちゃってください」
向日葵の目がキラキラと輝いて、紅梅をじぃと見つめる。丸い赤がすぃと細くなって穏やかな弧を描いた。声とともに、サンドと己の距離が狭まる。ソースの芳しい香りが優しい味で満たされつつある胃を刺激した。
サンキュー、とベロニカは満面の笑みを浮かべる。同じぐらい華やかな笑みが返ってきた。慈悲深く差し出されたそれに手を伸ばそうとして、少女ははたと動きを止める。伸ばした右手には食べかけのロールサンド、左手には缶ジュースが握られてたままだ。つまり、塞がっている。壁にもたれて食べている今、どこかに置くこともできない状態だ。元気にピンと伸びた腕が、喜色満面に光を宿していた瞳がうろうろと宙を彷徨った。
「あぁ、そのままかじっちゃってください」
ガサガサと包み紙が取り払われていく。己の方へ向けられた部分が、更に姿を剥き出しにした。目と鼻の先に、衣を身に纏ったエビの頭。半分ほど残ったソース一色の麺。密かなアクセントとして重要なレモン。どれもたくさん食べてきた、美味しくてたまらない品だと分かっている。食事も半ばだというのに、腹が小さく鳴き声をあげた。
「悪ぃな」
眉を八の字にして、ベロニカは苦く笑う。気にしないでください、と穏やかな声が続いた。しばしして、いただきます、と丁寧な声。綺麗に磨かれたカラストンビがまた露わになった。
大きな口が黄金の生地に吸い寄せられ、がぶりと一息にかじりつく。醤油ベースの香ばしい匂い、舌を刺すようでどこかまろやかな塩味、何より揚げ物の油っ気が口の中を満たしていく。先ほどまで食べていたヘルシーな味とは正反対のそれに、思わず高い声を漏らした。
存在感たっぷりの食材たちを飲み下し、少女はちらりと少年を見やる。同じく缶のジュースを持った左手が、どうぞどうぞと言うように動いた。小さく頭を下げ、またぐありと口を開ける。灰色の目をしたエビの頭に食らいつく。そのまま、丁寧に挟まれた生地から抜き取った。行儀が悪いのを承知で、一口、また一口と器用に口を動かしてエビフライを食べていく。処理されたパキパキの殻の香ばしさ、ザクザクの衣の食感、少しだけ付いたレモンの風味、何より塩と油の味。どれもが食べ盛りの子どもの心を奪うものだった。ごくん、と飲みこんで、インクリングは息を吐く。油の香りが漂うそれは、これ以上に無く満足げなものだった。
「悪ぃな。ヒロも食うか? それかジュース」
「いいですよ。ベロニカさん、お腹空いてるでしょう? 自分のお腹をいっぱいにしてください」
缶とロールサンドを差し出すベロニカに、ヒロは小さく首を振る。彼の優しさはありがたいけれど、施されっぱなしは己の性に合わない。悩んだ末、今度奢る、と短く返した。期待しておきます、とどこかいたずらげな声が返ってくる。
少女はまたロールサンドを頬張っていく。野菜の水分と優しい甘さが、油だらけの口を洗っていくようだった。こちらも美味しいことは間違いは無い。けれど、舌はあの強い味ばかりを求めてしまう。今度は切らさないようにせねば、と心に決めて、最後の一口を放り込む。尖った牙が野菜をシャクシャクと噛み砕いていった。
本日の食事を飲み込み終え、空っぽになった口がごちそうさま、と言葉を紡ぐ。小さく息を吐いて、インクリングは缶ジュースを口に運んだ。弾ける炭酸と強い甘さが舌を刺激する。ちらりと視線をやると、隣にいるヒロはまだ食事を続けていた。残りはもう少ないから終えるのも時間の問題だろう。その間に飲んでしまおう、と缶を更に傾けた。
ん、とジュースを飲みこむ喉が小さな音を漏らす。先ほど、ヒロにもらったアゲバサミサンドは美味しくてたまらなかった。最後の一匹のエビも美味しかった。そう、彼が食べている途中だったサンドは――彼が口を付けていたそれは、とても。
喉がおかしな運動をする。瞬間、流れていた液体が変に跳ねて気道へと飛び込んだ。必死に口を押さえ、どうにか中身を飲み下し、ゲホゲホとむせ込む。何度息を吐き出しても、炭酸ジュースはなかなか出ていってくれなかった。無理矢理動く喉も。顔に、頬に感じる温度も。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「だいじょぶだ……」
慌てた声が飛んでくる。今にも飛びついてきそうなそれを、こちらを一心に見つめる朱い目を、包み紙を握った手で制す。むせただけだ、と少女は咳き込みながら返す。大丈夫なんですか、とやはりどこか慌て調子の声が聞こえた。
「落ち着いて飲んでくださいね?」
「だいじょぶ、だよ」
口を押さえるふりをして俯き、心配で彩られているであろう目から逃げる。それでも、心臓はまだ脈打つ速度を下げてくれなかった。頬に感じる温度も一向にひきやしない。これだけで、己が随分と情けない顔をしているのは容易に想像が付く。そんなの、彼に見せられるはずがなかった。見せたくないに決まっていた。
食べ物を共有することぐらい普通ではないか。彼の食べかけのものをもらうくらい普通だったではないか。口を付けたそれを意識することなんて無かったではないか。無いのだ、今だって。でも。心臓はやはりおかしく動いて。頭も顔も熱くなって。心は掻き乱されて。
情けねぇ、とようやく落ち着きを取り戻した喉が吐き出す。ピカピカに磨いたブーツの表面が反射する己の顔は、やはり情けなくてしょうがないものだった。
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静かに重ねて【ヒロニカ】
静かに重ねて【ヒロニカ】
鼻歌に鼻歌重ねるいたずらっ子ニカちゃんが見たかっただけ。いたずらっ子ニカちゃんはもっと存在してもいい。
バトルメモリーで反省会するヒロニカの話。
目の前の端末、鮮やかな色を映し出していた画面が薄暗くなる。バトルメモリーの再生が終わった証に、ベロニカは小さく息を吐く。今しがたまで見返していたのは僅差で敗北を喫したバトルのそれだ、己の不備や改善点を洗い出していく作業はなかなかに苦しく、骨が折れるものだった。けれど、時間を掛けて分析した確かなる結果は手元に、頭にしっかりと残っている。改めるべき行動が、次の勝利に繋げるための立ち回りが、確かなる強さに繋がる経験が。
カコカコとボタンを操作し、アプリを落とす。動画の代わりに待ち受け画面に表示された時計は、まだ夕方にも差し掛からない時間であることを語っていた。昼ご飯を遅くに食べたのもあり、大食らいの腹はまだ大人しく黙ったままだ。手土産としてつまめる菓子を持ってきたものの、活躍する番は少し遠くだろう。
また一つ息を吐き、少女はワイヤレスヘッドホンを外す。細くシンプルで圧迫感の少ないデザインといえど、重みを失うとやはり解放感を覚えた。防護壁を失った耳をくすぐるエアコンの冷たい空気にぶるりと身を震わせる。細い身を折ってしまわないように注意を払いながら、愛用しているそれを膝の上に乗せた。
微かな音が耳を撫ぜる。何だろう、と黄色い目が部屋の中を見回す。音の発生源は斜向かい、ローテーブルの前に座ったヒロだった。どこか鋭さを増した赤い目は抱えたタブレットに一心に注がれている。彼もバトルメモリーを見返しているのだろう。手にしたスタイラスペンが画面を擦るのが見えた。
聞こえる音は真剣そのものの目元からは想像できないほど微かで、柔らかなものだった。鼻歌だ。ほんのりと高い音色が、最近注目を集めているユニットの新曲をなぞっていた。
ヒロは時折鼻歌を歌う。それも無意識なようで、指摘したり自分で気付くと顔を赤らめてすぐに止めてしまうのだ。彼の少し細くて、いつもよりちょっとだけ高くて、どこか可愛らしい音色は好きだった。だから、最近では指摘するのは控えている。好きなものが聞けなくなってしまうようなことを行うほど己は馬鹿ではない――それに、自分で気付いて恥じらう彼の表情は可愛らしいのだから。
爽やかで、けれども確かなる力が宿ったメロディが部屋に漂う。気付かれぬようナマコフォンをいじるふりをしながら、ベロニカはその音色に耳を傾ける。無意識ながらも興が乗っているようで、音は次第に大きくなっていく。愛らしい音が邪魔者を失った耳を満たしていく。
ふと、頭の隅っこで何かが声を発する。ひそめいたそれは、まだ幼さを残す心をくすぐるものだった。少女の口元が緩い孤を描く。蒲公英色の瞳がわずかに細くなった。浮かんだ表情は、まさしくいたずらっ子のそれだ。
口を閉じたまま、ベロニカは喉を震わせる。開放されるべき場所が閉じられた音は、鼻へと抜けて形となった。部屋に流れる少年の鼻歌に、少女の鼻歌が重なる。メインメロディに沿うようなその音色は、美しいハーモニーを奏で出した。密かなその合奏が心地良い。二人で奏でるというのはなかなかにいいものだ、と心の中で小さく笑みを漏らした。
いつしか、音は止んでいた。息が吐き出される音。ペンが置かれる音。プラスチックが擦れる音。机の上に赤いヘッドホンが転がった。どうやらバトルメモリーの分析が終わったようだ。
「あれ、珍しいですね」
「んー?」
きょとりと丸くなった彼岸花の瞳がこちらを見る。見つめ返す菜の花の瞳は依然細くなったままだ。三日月を描いて、少年を見る。何も知らない少年を。
「ベロニカさんが鼻歌歌うことってあんまりないでしょう?」
「たまにはやるって。こないだの新曲良かったしさ」
「あぁ、いいですよね」
不思議そうな色をしていた丸い目がキラキラと輝き出す。ヒロは音楽が好きだ。ギアとしての性能ももちろん考えているが、それでも数多のギアの中から大ぶりなヘッドホンを選んで常に身につけるぐらいには音楽に身を投じていた。バトルだけでなく、曲でも語りあかせる彼との関係は最高の一言に尽きる。
「爽やかな雰囲気が歌声に合ってますよね」
「そうそう。それに楽器の主張がどれも細いようでちゃんとしててさ。かっけーよな」
「いいですよねー」
また新曲出ると嬉しいのですが、とヒロは呟く。流行ってんだから出すって、とベロニカは笑う。語る彼は普段通りの姿だった。つまり、鼻歌を歌っていたことに気付いていない。己がそれに重ねていたことも。
少女は小さく笑みを漏らす。成功した秘密のいたずらは、好きな人と歌う独り占めの幸福は、これ以上無く胸を満たしていた。
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そのきにさせてよ【タコイカ】
そのきにさせてよ【タコイカ】
ゆるゆるとろとろのマイペースタコ君と振り回される可哀想なイカ君が見たくて書いたものがこちらになります。イカタコに名前があるので注意。
暑がりなタコ君とお出かけしたいイカ君の話。
「あっつぅ……」
そんな呟きが聞こえた瞬間、光溢れる世界はは音も無く消えた。扉が閉じる重い音。サンダルが脱ぎ捨てられる音。ぺたぺたと力無い足音が通り過ぎていく。え、と呟いた頃には、恋人の姿は消え去っていた。急いで振り返るもいない。そこにあるのは、先ほど電気を消したばかりの部屋から漏れる明かりだけだ。
急いで玄関の鍵を閉め、イタは靴を脱いで廊下へと戻る。騒がしい足音を立てながら、すぐさま扉を開いた。一人暮らしにしては広い居住室には誰もいない。入っていったはずの家主であり恋人――シュウの姿すら、影すら無い。迷うことなく、まっすぐにローテーブルへと走って屈みこむ。机の下、出掛ける前はちゃんと立てて置いてあったはずの丸いツボは横に倒れていた。中身は影の黒でなく、水色で満たされている。
「出ろって!」
「やーだー」
タコツボを机の下から引きずり出し、抱え込んでインクリングの少年は叫ぶ。中にひきこもったオクトリングの少年は、外とは正反対の気の抜けた声をあげた。入り口まであった水色がどんどんと奥へと引っ込んでいく。逃がすまいと、大きな手が中に突っ込まれた。ツヤツヤとした頭に四角い指が食い込む。やめてよぉ、と悲痛な声がツボの中からあがった。
「出掛けるっつったじゃん!」
「あついからやだー」
日曜日は二人で出掛けよう、と約束したのは一週間前のことだった。二人でお出かけ、つまりは久々のデートである。胸を弾ませ恋人の家に訪れ、いつもよりもしゃんとした格好をした彼にわずかに鼓動を早めながらも外に出ようとした――途端、これである。
季節は夏、本日は最高気温は三十六度の猛暑日なのだから『暑い』という仕方無いとは言えよう。けれど、『暑い』の一言ですぐさま引き返すなど、一週間前から楽しみにしていたものを放棄されるなどいくらなんでも理不尽だ。出掛けると行っても、行き先は涼しいショッピングモールであるし、移動も快適な電車だ。移動のために十分そこらは歩く必要はあれど、日傘もあれば冷たい飲み物だって用意済みだ。暑さや寒さが苦手な恋人のために全て持ってきたのだ。なのに。なのに。
「いいじゃん。今日はおうちデートにしよ」
「引きこもってたらデートもクソもないじゃんか!」
気ままに、いっそ腹が立つくらいマイペースに、もう投げやりにすら聞こえる声を漏らしてシュウはもぞもぞと動く。悲痛な叫びが部屋に響いた。『デート』と言うのならせめてツボから出てくるべきである。けれど、こうなってしまった恋人がすぐに出てくるわけがない。とにかく面倒臭がりで狭いところが大好きなのだ。そんなところがチャームポイントではあるが、今日ばかりは許す気は無い。
「デートするっつったのシュウじゃん! うそつき!」
「言ったけどぉ……こんな暑い中外出る方が危ないじゃん。おうちにいよ?」
「日傘あるから! お茶も用意してるしハンディファンもあるし氷もある! 冷たいの全部用意してある!」
用意周到じゃん、とオクトリングは感心の声を漏らす。それでも、出てくる様子は欠片も無かった。そんな声が聞きたくてここまで用意してきたのではない。デートがしたくて、彼のために用意してきたのだ。何としてでも引きずり出さねばならない。全てが無駄になるのはさすがに精神を、心の大切なところを剥がして揺るがして粉々にされてしまう。
「アロワナモール、駅から近いじゃん。そんな歩かないからだいじょぶだって」
「歩くのやー。溶けちゃうよ?」
「溶けないってばー!」
ツボの中に手を突っ込むも、家主はのらりくらりぺちょりぬちょりと躱してくる。触れても、指を突き立ててもツルツル滑るだけだ。掴んで引っこ抜くのはもう諦めた方がいいだろう。目を伏せ、イタは小さく息を吐く。両の手でしっかりと壺を持ち、逆さにして大きく振った。あぶないよー、という声が落ちてくるだけだった。
「シュウ……約束したじゃん……」
「デートしたいんならさぁ」
しょぼくれた悲痛な声をとろりとした声が塞ぐ。元に戻ったツボの中からにゅっと何かが伸びてくる。水色の触手は、ツボを抱え直した少年の頬をそっと撫でた。小さな吸盤が柔らかな頬に吸い付いて、少しだけ痕を残していく。
「その気にさせて? できるでしょ?」
優しい声は楽しげで、どこか笑ってるようにすら聞こえた。ぺちぺちと細い手が頬を叩く。そのまま捕まえようと手を伸ばす。勘付かれたのか、すぐさままたツボの中に引っ込んでしまった。声はいつだって間延びしてゆるりとしたものなのに、行動だけは妙に素早いのだ。だからこそ、前線でフデを操り活躍できるのだろうけれど。
うぅ、とインクリングは呻きを漏らす。『その気』と言われても、彼を引っ張り出せるような手持ちのカードは先ほど切ってしまった。残りは外に出て以降の行動に価値を付与するしかないだろう。少年は唸る。唸り、目を伏せる。先ほど下ろしてきて潤った財布の中身が空っぽになっていく様が瞼の裏に映された。
「クレープ奢るから」
「えー?」
「アイスも付ける!」
「えぇー?」
「こないだ欲しがってたギア買ったげる! クラーゲスのやつ!」
「えええー?」
どれだけ提案しても、返ってくるのは変わらず気の抜けた声だった。気の抜けた、どころかもはや楽しんでいる声だった。なんでぇ、とイタは沈んだ声をあげる。半分涙がにじんだ、痛々しい響きをしていた。だのに、ツボの中から聞こえるのはクスクスという小さな笑い声だけだ。
「今日は物じゃ釣れないよ? もーちょい考えて?」
また触手が伸びてくる。頬を撫でくすぐって、すぐさま去って行った。完全にからかっている。お前さぁ、と思わず乱暴な言葉を吐き出してしまったのは仕方が無いことだろう。返ってくるのは相変わらず笑声なのだからどうしようもないのだけれど。
はぁ、と溜め息を吐いて、インクリングは抱えていたツボを床に転がす。わー、とアトラクションを楽しむ子どものような声が中から聞こえてきた。一周して目の前に戻ってきたそれに、もう一度溜め息を浴びせかけた。
身体から、意識から力を抜いて、ヒトの形を溶けさせる。黄色いインクが床に散らばり、本来の柔らかなイカのフォルムが現れた。ぺたぺたと触腕を器用に使って這い、転がったタコツボの前に鎮座する。また溜め息一つ。息を呑む音一つ。長い触腕がツボの縁を掴んだ。助走を付けて、三角頭がツボの中に這入っていく。元々小さなツボだ、たとえ勢いを付けても侵入できるのは頭の半分と触腕の一本ぐらいである。せっまー、と楽しげな声がすぐそばで聞こえた。
どうにか潜り込ませた触腕を、更に捻じこんでいく。狭い狭い、と少し慌てた声は聞こえないことにした。暗くて何も見えない中、先の平べったい触腕でなめらかな頬――だと信じたい――を撫でる。水色の頭に、己の額をぺたりと引っ付けた。
「……約束したじゃん。デート、行こ?」
頭のすぐそこ、絶対に聞こえるように、でも驚かせないように、囁くような声でイタは語りかける。ねぇ、と漏れた声はもう湿った色を帯びていた。
じゃぷん。水が跳ねる音がすぐそこであがる。勢い良く身体が外に押し出され、壁目掛けて後ろ向きですっ飛んでいく。悲鳴をあげるより先に、温かな何かが身体を包んだ。
「そーそー。よくできましたー」
頭上から声が降ってくる。見上げると、そこにはヒトの形に戻ったシュウがいた。太い眉は柔らかな線を描いていて、黄色い瞳はいたずらげに細められていて、口元はゆるく弧を描いている。掴み所が無い彼らしい柔らかな表情だ。しかも、特に機嫌がいい時の顔である。どうやら、語りかける作戦は功を奏したようだ。よっしゃ、と幅の広い触腕が天へと突き上げられる。
「でももうちょっとイタとくっついてたいなー。さっきのきもちよかったし」
ねぇ、と先の尖った指が肌を撫ぜる。一本一本を使ってなぞるように撫でられただけで、背筋がふるりと震える。違う。ダメだ。流されてはいけない。ここで流されてしまったら今までの努力は全て水泡に帰してしまう。そんなのダメだ。大きく頭を振り、意識を集中して急いでヒトの姿へと戻る。抱き心地良かったのにぃ、と間延びした声がしたから聞こえてきた。
「よくできたんだろ? だったら約束守ってよ」
唇を尖らせ、じぃと恋人を見つめる――というよりも、睨む。地取りとした視線を向けても、返ってくるのははぁい、と相変わらず気の抜けた声だ。
「降りないと出掛けらんないよ?」
「乗せたのシュウじゃん」
撫でていた手が頬から、肩から、脇腹から、背へと移動していく。尻に到達しそうなところで、パシンと払ってやった。ちぇー、とわざとらしい声があがる。気にしないふりをして、気付かないふりをして、イタは立ち上がる。流れるような動きで扉の前へと歩み、座ったままの恋人へと手を伸ばした。
「いこ」
「いこー」
四角い手に長い指が伸ばされる。乗せられたそれをしかと包んで、掴んで、外っ側へと引っ張り上げた。
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涼しさは一緒に【ライレフ】
涼しさは一緒に【ライレフ】
一緒に寝る右左が見たかっただけなどと供述しており。やっぱ夏は電気代節約しなきゃだからね(?)
クーラーを賭けた右左の話。
赤い唇が白い縁に寄せられる。薄く汗を掻いたマグカップは、持ち主によって大きく傾いた。薄く上気した喉が盛大に動く。しばしして、息を吐く音が部屋に響いた。共鳴するように、低い唸り声が部屋に落ちる。夏の生命線であるエアコンは、今日も元気に役目を果たしていた。シャワーを浴びて火照った身体に冷風と冷水。これ以上無い幸福が嬬武器雷刀の身体を満たしていく。
夏の間、己は昼も夜もリビングで過ごすことが多い。というのも、自室の冷房の動きが鈍く感じるからだ。日中熱しに熱された空気を冷やすのに時間を要するのは頭では理解できるものの、どうにももどかしい。ならば、既に涼しくなっているリビングで過ごすのが快適で合理的だ――こちらも眠る前には消さなければならないのだけど。
大きな手に携帯端末が握られる。ロックを外した液晶画面、端っこに鎮座するニュースサイトのウィジェットには『熱中症注意報』の文字が鮮やかに輝いていた。つまり、明日も暑くて湿っていて息苦しくて過ごしにくい。うへぇ、と情けない声とともに、赤い眉が小さく寄せられ八の字を描く。
インターネットでは『冷房は冷やす時に一番電気を食う』『つけっぱなしの方が電気代がかからない』なんてまことしやかに囁かれているが、どうにももったいない気持ちの方が強い。並外れた暑さの中帰ってきてすぐに涼しい空気に飛び込めるのはこれ以上無く魅力的であるが、やはり四六時中つけっぱなしというのは気が引ける。珍しく、兄弟で意見が一致した部分だ。
飲み干したカップを洗い、朱はエアコンの電源を消す。夏一番の功労者は音も無く口を閉じた。後ろ髪を引かれながらドアを開けた途端、熱気が正面からぶつかってくる。空調など存在しない暗い空間は、夜になっても随分と熱がこもってじっとりとしていた。眉が八の字を、口がへの字を描く。
早足で廊下を進み、自室に身を滑り込ませる。素早くクーラーを点けて、再び廊下へと戻った。そのまま、数歩進んで隣のドアを開く。途端、涼しい空気が身体を撫ぜた。険しげな表情が解け、普段の柔らかで朗らかなものへと戻る。
「何ですか、こんな時間に」
「涼ませて」
部屋の主――嬬武器烈風刀の声に、雷刀は軽い調子で返す。椅子の背もたれに腕を掛けて振り返った彼の顔は、就寝前には相応しくない険しいものとなっていた。健康的な色をした唇が一本の線を描き、解けて息を吐き出す。
「またですか」
呆れ、怒り、諦め。色んなものが混ざった声を正面から飛んでくる。気にすること無く、兄はベッドに腰を下ろした。だって、その声にはほのかな明るさがあったように思えたから。
「いいじゃん。あっつい部屋にいて熱中症になったらやばいじゃん?」
「そんな簡単にはなりませんよ」
ほんの数分でしょう、と弟は眉をひそめる。その数分が地獄なんだって、と兄は笑った。眉間に刻まれた皺が更に深みを増す。
「そんなに暑いならリビングで寝たらどうですか」
「さっき電源消しちゃったからもう暑くなってるって。死ぬ死ぬ」
あぐらを掻いて振り子のように揺れながら、冗談めかして返す。実は、既に考えた案だった。けれども、『みっともない』とかなんとかで弟に却下されるに間違いないと思い黙っていたのだ。けれど、今さっき彼の口からその提案が出た。言質を取れた。これで明日から涼しい空間ですぐに眠ることができるだろう。ふふん、と鼻歌めいた息が漏れ出た。
「それか、こっちで寝るとか」
「へ?」
ご機嫌に弧を描いていた口がぽかんと開く。八重歯が覗く赤いそこは、随分と間抜けな形をしていた。机に向かい直した背中から言葉が聞こえた言葉は、脳の処理を一時停止させるには十分なものなのだから仕方が無い。
「え? いいの?」
「本気にしないでくださいよ」
思わず上擦った声に、げんなりとした声が返される。再びこちらを向いた烈風刀の顔は、やはり釣り眉で眇目でへの字口だ。けれども、その頬にほんのりと紅が散っているのは部屋のライティングのせいではないだろう。もちろん、シャワーを浴びたせいでも。
「分かった! 枕取ってくる!」
「本気にしないでくださいよ! やめてください!」
ベッドの上に大人しく座っていた身体がすくりと立ち上がる。体育の徒競走もかくやという動きで、雷刀は駆け出した。背中に慌てきった声が飛んでくる。先に言ったのは烈風刀じゃん、と扉を開けると同時に叫んだ。
「――来客用の布団一式持ってきてください! 貴方寝相悪いんですから!」
開けっぱなしの扉から、深夜という事実を忘れた大声が飛んでくる。諦めきった、呆れきった、受け入れきった言葉に、分かった、とこれまた夜を忘れた声が返された。
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一緒だなんてそんなの!【才陽】
一緒だなんてそんなの!【才陽】現状って非合理的では?と疑問に思った結果がこちらになります。エピソード回収しきれてないのでおそらく設定の齟齬があるがそういう世界線もあったよねってことで、こう、許して。
一緒にしたい才悟と一緒はまだ早い陽真の話。
へ、と情けないほどひっくり返った間抜けな声が口から飛び出す。仕方の無いことだ、と思いたかった。そんな声しか出せなくなるほど、まっすぐに飛んできた言葉の威力は凄まじいものだったのだから。
「ロフトは部屋に比べて狭い。十分な休息を取れないのではないか?」
「え、いや、狭くない、けど……?」
じぃとこちらを見据える紺碧に、陽真は思わず視線を逸らす。宵闇色の瞳は目の前の眼差しから逃げるように部屋の中をぐるぐると回って漂っていた。訥々と言葉を紡ぐ口は薄く開閉を繰り返し、結ばれてもむずかるようにわずかに動く。『気まずい』という表現がぴったりの有様であった。
「以前入らせてもらったが、キミよりも背が低いオレでも狭く感じた。あそこで身体をしっかりと伸ばして眠るのは難しいのではないだろうか」
じぃと、じぃっと才悟はこちらを見つめる。純粋な光を灯す瞳も、普段通りの平坦な声も、嘘偽りなど一つも見えない。純粋にこちらを思い遣ってくれているのだろう。だからこそ、その目をまっすぐに見返すことができなかった。
寝室で一緒に寝た方が身体が休まるのではないか。
食事も終えた昼下がり、キッチンで恋人が切り出したのはとんでもない提案だった。今まで想像だにしない――想像するのを避けてきた事柄なのだから。
二人暮らしのこの部屋、己たちは寝室とロフトに分かれて寝ている。アカデミーでは同室だったとはいえ、否、同室だったからこそ互いに一人の空間を作るべきだろうと相談した結果だ。己はロフト、才悟は寝室を使うと決めたのはこの部屋で暮らし始めて一週間も経たない頃だったはずである。日常とは切り離された、言わば秘密基地のような空間に惹かれたのだ。
寝室に比べれば狭いものの、ロフトでの暮らしは快適だ。布団を敷き身体を伸ばして眠れるスペースは十分にある。立つのは少し難しいが座ってならばゆったりと過ごせる。それに、ある程度狭い故に好きなものに囲まれて過ごせるのがお気に入りなのだ。
かといって、才悟の提案が的外れなわけではない。むしろ、客観的に見ても合理的な提案だ。寝室は成人男性二人が並んで寝ても十分なスペースがあり、ロフトとは比べものにならないほど広い。窮屈な思いをせずのびのびと眠れるだろう。うっかり頭を打ち付けるような間抜けなことも無くなるのだ。
だが、その合理的で魅力的な提案を受け入れる心の準備などできていない。突然のことであるというのはもちろんだが、感情が追いつかないのだ。だって、恋人と毎日同じ部屋で眠るだなんて。そんなの。
「いや、ちゃんと身体伸ばせるし? 大丈夫だって。うん」
相も変わらず視線を泳がせたまま、陽真はわたわたと応える。あまりにも不自然で不審な動きであった。恋人がそれを見逃すはずが無い。丸い目が少しだけ細くなり、なめらかに正論を並べ立てていた口の端っこが少しだけ下がった。
「ていうか、寝る時は一人のが好きだし? だからさ」
嘘は言っていない。アカデミー時代から気心知れた関係だといえ、四六時中同じ空間で暮らすというのはほんのちょっとだけ息が詰まる瞬間がある。何より、二年も一部屋で過ごしていたからこそ『一人の空間』というものに憧れがあったのだ。ロフトのひっそりさも気に入っている。だから嘘ではない。ただ、本当のことを隠しているだけで。
才悟と共に眠るのが嫌なわけではない。けれども、意識してしまうのは目に見えていた。一緒に眠るなど、『恋人』という関係性に落ち着いてから両の手では数えられないほどやってきた。彼と共に一晩暮らすなど慣れっこ――否、慣れてなどいない。だからこそ、想像するだけで頭の中身をぐるぐると棒で掻き回されるような心地に陥っているのだから。
つまるところ、恥ずかしいのだ。ドキドキするのだ。だって、好きな人と一緒に寝るなんて、そんなの。幸せで、あたたかくて、でも期待をしてしまって。毎晩心臓が無駄に大きな音をたてる羽目になるのは目に見えているのだ。寿命が縮まってしまうぐらい、心臓は騒ぎ立てるのだ。
だから、飲み込めない。彼には悪いが、嘘は言わず誤魔化すしかない。情けなくて身勝手だが、どうしようもないことだった。安易に乗っては己も彼も大変なことになってしまうのだから。そんな言い訳を頭の中で並べていく。思わず漏らしそうになった呻きをどうにか喉の奥へと押し込んだ。
「……そうか」
目の前、細くなっていた目がまた丸くなって、少しばかり伏し目になる。への字を描いていた口元は解け、けれども依然口角は下がっている。凜々しい眉は下がって八の字を描いていた。心なしか、頭のてっぺんで跳ねている髪の毛がしおれたように見える。『しょんぼり』という擬音をそのまま絵にしたような表情だ。
う、と陽真は濁った声を漏らす。嘘は言っていないものの、真実を言っていないのも事実である。己の情けない感情で恋人を困らせているのだ。それも、感情を強くあらわにしない彼を。それだけ己と共に寝ることを期待している彼を、はっきりと言えば騙して裏切っているのだ。人並みにある良心が胸がグサグサと刺して、頭の中のまともな部分が諫めてくる。身勝手だぞ、と。
「…………えっと、じゃあ」
泳ぎに泳いで定まらない目をぎゅっと伏せる。パッとあらわになった目は、漫画だったら『しょもしょも』なんてオノマトペがつきそうな顔をまっすぐに見た。心臓が音をたてるのが耳の奥で聞こえる。口を開き、言葉を紡ぎ出そうと息を吸う。喉が少しだけ痛みを覚えた気がした。
「し、身長伸びて、ロフトが狭くなったら……」
一緒に寝たい、と言い切る頃には、目は床へと吸い寄せられていた。きちんと言うべきだというのに、声はどんどんと尻すぼみになって消えかかったような有様で終わってしまった。不義理にも程があるのは分かっている。でも、口がほのかに震えるのが、頬が熱を持っているのが嫌でも分かってしまう。こんな顔を見せるなどできなかった――変なところで察しの良い彼に気付かれてしまいそうだから。
「オレたちはもう成長期を過ぎている。これ以上身長が伸びるとは思えない」
返ってきた声は、それはもう沈んでいた。まさしくしょげていた。しょげさせているのだ、己が。その事実がまた胸を刺す。この突き刺す良心に実体があるのならば、もうすぐ出血多量で死を迎えてしまうだろう。ぐ、と濁った音が喉から漏れ出て床へと落ちた。
沈黙が部屋を満たしていく。晴れの日の昼下がり、部屋には暖かで眩しい陽光が差し込んでいるというのに、己たちの周りは暗く陰っているかのような錯覚に陥る。気まずい雰囲気であるのは確かだ。恋人に否定されたと思った人間と自身の感情で暗に恋人を否定してしまった人間が対面していればそうなるのは当然である。ただただ、重苦しい空気が二人を包んでいた。
「…………才悟」
長い長い沈黙の末、陽真はようやく口を開く。恋人の名を紡ぐ声は普段の彼から想像できないほど細く、凍えるかのように震えていた。きちんと言いたいのに、開いた口からはあー、うー、と意味の無い声ばかりが漏れていく。あー、と大きく叫んで、ばっと音がたちそうなほどの勢いで顔を上げた。赤い髪が思いきり跳ね上がって、つややかな額を晒す。一瞬で落ちて乱れを残した赤は、その頬と同じ色をしていた。
「一緒に寝たい! でも恥ずかしい!」
勢いを殺したくなくて、もう言い淀みたくなくて、一思いに叫ぶ。夕陽色灯る目が、伏し目になった紺青をまっすぐに見つめる。先ほどからは想像できないような音に反応したのか、対面の顔も跳ね上がった。月色宿した夜の目が丸くなって、またまっすぐにこちらを見つめる。真ん丸のそれが幾度か瞬いて、今度は青い髪が揺れる。きょとりとした顔で小さく首を傾げた才悟は、また瞬きをした。
「なぜ? 何度も一緒に寝ているし、セッ――」
「そういうの言うなって!」
事実を淡々と述べる恋人の声を、陽真は大声で掻き消す。どうにか制そうと、手を広げ腕をまっすぐに伸ばして突きつける。血の色を窺わせる頬はその色を増していくばかりだ。
「いや、本当にそうなんだけど……、けどさ、やっぱ」
才悟と寝るの、ドキドキする。
声はやはりどんどんと細くなっていって、震えていって、情けなくなっていく。顔が熱い。心臓がうるさい。目はまた宙を泳ぎだし、けれども気になってちらりと向かい側の青へと向かってしまう。わずかに映った群青は、また満月みたいな真ん丸を描いていた。
「……それは、分かる気がする」
ほんのわずかに高くなった響きが、また静寂に満たされた部屋にぽつりと落ちた。へ、と陽真は思わず視線を正面に戻す。目の前に映る青はまた傾いでいて、いつもみたいに顎に手を当てている。けれども、その口元は先ほどよりもほのかに緩んでいるような気がした。
「キミと一緒に寝ると、心拍数が少し上がる。気分が高揚するし、少しだけ目が冴えてしまう」
それに、あれに、と才悟は宙空を眺めながら言葉を並べ立てていく。どれもこれも己と同じで、どれもこれも聞いていて恥ずかしくなる――嬉しいけど、くずぐったくてたまらなくなるものばかりだった。また顔に熱が集まって、喉が渇いていく。高熱でも出しているんじゃないかなんてあり得ないことを考えてしまうほどには、どこもかしこも熱くてたまらなかった。
「それでも、キミと一緒に寝たい。心身共に安らいでほしい」
ダメだろうか、と才悟は首を傾げる。相変わらずまっすぐな目は少しだけ揺らいでいて、ほんのわずかに瞼が被さっている。一言で表すならば、不安げなものだった。あれだけ正論を突きつけてきた彼が。合理的な彼が。
胸をぐるぐると何かが掻き回していく。心臓がすごい音を掻き鳴らす。頭はくらりとして、視界が少しだけ歪んだ気がした。口が無駄に開いて閉じて。目が何度も何度もしばたたいて。それでも、向かい側の不安げな、寂しげな顔からは目が離せなかった。
「……も、ちょい。心の準備ができたら……一緒に」
じゃダメ、とこの期に及んで疑問形で問うてみる。まばたき一回した視界の中、わずかに下がっていた青い眉が持ち上がって元の位置へと戻る。下がっていた口角が上がって、一本線を描く。瞼が持ち上がって、月が輝く目がしっかりとあらわになった。
「心の準備とはどうすればできる」
「そこはおれの心次第だから! わかんねぇって!」
ずぃと才悟は一歩前に出る。先ほどの幼げな顔が打って変わって真剣なものになり、ずぃと迫ってくる。視界を埋める大切な人の顔に、陽真はまた叫びを上げた。たたらを踏むように二歩下がって、またストップを掛けるように手を前に突き出す。そうか、と少し落ち着いた、また寂しさを宿した声が落ちた。それがまた心を突き刺して、頭をぐちゃりと掻き乱す。う、と潰れたような音が喉からあがった。
「絶対できる……ようになるから、待ってて」
やはり細くなりゆく声、けれども先ほどよりしっかりした声で陽真は告げる。懇願でもあり、宣誓でもあった。己に言い聞かせるものであった。絶対に彼と一緒に眠れるようになる、と。
「わかった」
才悟は小さく首肯する。普段と変わらない平坦な表情なはずなのに、何故だか妙に輝いて見えるのは気のせいだろうか。気のせいだろう、と青年は己に言い聞かせる。そんな都合の良い解釈をしてはいけないことぐらい分かっていた。
ん、とちょっぴり高い声が部屋に響く。目の前のソリッドな輪廓を描く顎にまた手が添えられ、ネイビーがわずかに伏せられる。しばしの思案顔、伏せ気味になっていたそれが上がってまたこちらをじっと見据えた。
「ならば寝室でのセックスはしばらくの間やめた方がいいだろうか」
「いや!? それとこれとは話がちがくて!」
至極真面目な才悟の言葉に、陽真はまた叫びにも似た声をあげる。あれは、これは、と確認の言葉が何度も飛んでくる。大丈夫、違う、と逐一言葉を返していった。それがまた羞恥を煽り立てる。けれども、あれだけわがままを言った以上己には答える義務があった。時に濁るものの、まっすぐすぎて痛いくらいの言葉に答えをしっかりと返していった。
何度も繰り返される確認の中、今後の全てが確約するまで頬の熱は引きそうにない。
畳む
#魅上才悟#伊織陽真#才陽