無いよりあるのがしんどいとか思わないじゃん

 扉の先は熱に包まれていた。
 普段は涼しく快適な空間は、今は熱気と湿度が支配していた。何かの間違いでサウナ室に繋がったかと疑うほどの熱だ。足元から、頭上から、湿った熱い空気がまとわりついてくる。熱気がたむろして部屋を取り巻く様は地獄と同義であった。
 うへぇ、と雷刀は重たい声を漏らす。その呼気すらすさまじい温度を持っているように錯覚した。部屋の中だというのに蝉の声が随分と近くで聞こえる。正面、開け放たれたベランダへと続く窓の向こうは、絵の具をそのまま塗ったくったかのように青い。雲一つ無い深い蒼天は、夏を体現した姿だった。
 部屋の換気をするように、と言われたのは何分前だったか。酸素が減って眠くなる。空気が淀んで身体に悪い。そんな弟の言葉に素直に従い、静かに仕事をこなすクーラーを止め、自室の窓とドアを開け放したのは何分前だったか。部屋が夏の熱気で満たされて使い物にならなくなったのは何分前だったか。もう何も思い出せない。それほど長い時を過ごしたのか、それとも熱にやられたのか。この蒸し暑さを前にしては、後者であることは火を見るより明らかだ。
 せいろの中のような暑さに耐えきれず、逃げるようにリビングに転がり込んだ結果がこれである。そういえば、後でリビングの窓閉めといてくださいね、と言われたような気がする。賢くて律儀でしっかりとした弟は、買い物に行く間に換気を済ませようと考えたらしい。効率的だ――残された兄が地獄を見るという点を除けば。
 ちらりと視線を廊下に移す。主が買い物に出て不在になっている部屋のドアはきちんと閉まっていた。つまり、まだ換気をしていない。つい先ほどまで弟がいたのだから涼しいかもしれない。思わずノブへと伸ばしそうになった手をグッと引き戻す。たとえ兄弟といえど、主人がいない部屋に侵入し居座るなどあまりにも礼儀というものが無い。それに、己たち兄弟は年頃の高校生である。見られたくないあれやそれやが一つや二つあってもおかしくないのだ。デリカシーが無い、と度々言われるが、それぐらいは弁えている。
 意を決し、朱は歩みを進める。ぺたり、ぺたり、と足元から音があがる。普段はひんやりとして気持ちがいいフローリングは、外から這入ってきた夏の空気を浴びてぬるい。汗を掻いているのも相まって、不快感が肌を直接侵蝕してくる。うへぇ、とまた濁った声を漏らした。
 鈍い動きの末辿り着いた場所には扇風機があった。いつぞや人から譲り受け、サーキュレーター代わりに使っている代物である。年季は入っていれど、その機能性はまだまだ現役だ。ボタンを押せば、きっと全てを吹き飛ばすような心地良い風を送ってくれるだろう。陽光を燦々と受けて輝く姿は頼もしさすら感じさせる。
 手早くコンセントを差し込み、真ん前に尻をついて座り込む。汗ばんだ腕を伸ばし、『強』の文字の下にあるボタンを押した。カチリ、と固い音が一人きりの部屋に落ちる。
 瞬間、熱風が顔を殴った。
 否、熱風と言うにはぬるい。せいぜい秋口の暖房ぐらいだ。けれども、熱でうだった身体には砂漠を吹き荒ぶ風もかくやである。煮えたぎる大釜を開けたような心地だった。つまり、地獄だ。
 皮膚を、肉を伝って流れて、熱風はあっという間に身体にまでまとわりつく。うわっ、と八重歯覗く口から情けない声が弾けて飛んでいった。
 後ずさり、雷刀は熱を送り込む極悪機械から距離を取る。依然強風で送られてくる空気はすさまじく熱い。先ほどまで救世主だと縋りついていた存在だというのに、今は忌々しい宿敵のようにすら感じる。単純な性格だという自覚はあるが、こればかりはどうしようもない。弱っているところを真っ向から裏切られて心に傷を負わないはずがないのだ。
 扇風機はただ風を送る機械である。そこに冷房のような冷却機構は無い。つまり、暑い部屋で使えば熱い空気が送られてくるのは必然である――熱さでやられた頭と涼しさを求める身体はすっかり忘れてしまっていたが。
 腕をこれでもかと伸ばし、扇風機を止める。轟音を鳴り響かせ風を送り続けていた機械はすぐさま沈黙した。行儀悪く手膝をついて床を這い、コンセントを抜いて放り投げる。はぁ、と漏らした息はぬるい。息をすればするほど、動けば動くほど、部屋の室温を上げてしまうような錯覚に陥る。事実、身体は温度に合わせて汗を放出しているが。
 じとりとへばりついてくる床から起き上がり、少年はふらふらと所在のない足取りで歩みを進める。外側がどうにもならないならば、内側をどうにかするしかない。きっとそうだ、とすっかり茹だった頭は叫び声をあげた。
 向かった先、かろうじて光が届かず薄暗いキッチンは心なしかひんやりとしていた。ここだけ別次元にあるかのようだ。洗い物カゴからマグカップを一つ取りだし、冷凍庫を開けて氷を入れる。ガランガランと陶器と氷がぶつかって盛大な音をたてた。
 氷山盛りのカップを手に、駆け足気味にシンクに向かう。勢いよくレバーを上げ、水を注ぐ。溢れんばかりに積み重なっていた氷塊はすぐさま溶け、みるみるうちに縮んでいった。水が冷えていった証拠である。ギリギリまで注いだそれを、レバーを下げるとほぼ同時に口に流し込んだ。
 舌を、口腔を、喉を、食道を、胃を、冷水が勢いよく駆け抜けていく。途端、垂れ流しになっていた汗が止まったような感覚。熱を持った皮膚が、肉が、一気に温度を失っていくような感覚。頭からつま先まで熱が消えていく感覚。
 ぷはぁ、と雷刀は盛大に息を吐く。そこには生気が宿っていた。らしくもなく垂れ下がっていた眉は元の鋭さを取り戻し、みっともなく半分下がっていた瞼は持ち上がって朱い瞳をあらわにする。への字を描いていた口は端っこを上げて笑顔を作り出していた。復活、と言わんばかりの勢いだった。
 まだ足りないとばかりに、少年はカップを蛇口へと差し出す。水を注ぎ、飲み、注ぎ、飲み。氷が全て溶け去った頃には、身体の内側は直接冷房に当たったかのように冷えていた。突然冷たいものを大量に放り込まれ、胃が痛みを覚える。それすら心地良い。それほどまで涼に飢えていたのだ。
 またガロンガロンと氷を放り込み、水を注いでちびちびと飲んでいく。内側は冷えたものの、外側は暑いままだ。キッチンはまだマシなぬるさだが、それでも暑いことには変わりない。身体が慣れればリビングと大差無くなるに決まっている。それまでにどこかに避難しなければ。一体どこへ。どうやって。わずかばかり冷えた脳味噌は問いばかりを繰り返した。
 まだ冷たいマグを持ったまま、朱はまっすぐに歩んでいく。辿り着いたのは、あの扇風機の前だった。首の後ろを持って、日の当たらない場所へと移動させる。暑い所にあるから熱い空気を送ってくるのだ。陰って涼しい所ならばまだマシになるかもしれない。祈るようにコンセントを挿し、恭しさすら感じさせる動きでスイッチを押す。ブワ、と顔に浴びせられたのは、やはりぬるい風だった。身体の内側が冷えたからか、さっき浴びたよりもずっと酷い温度をしているようにすら感じる。険しい顔でスイッチを切り、少年は嘆息する。先ほどよりも冷えた、先ほどよりも重いものだった。
 唇を湿らせるように水を飲んでいく。口と胃の中身は随分と冷えたものの、身体全体を完全に冷やすには至らない。やはり、外からも冷やさねばならない。冷房が必要なのだ。
「何分ぐらいやりゃいいんだろ……」
 暑い部屋の中、雷刀は呟く。普段の彼からは考えられないほど弱りきったものだった。当たり前だ、この夏の盛りに冷房無しで過ごして元気なままでいられるわけがなかった。
 換気をしろ、と言われたものの、何分ほどやればよいかは聞いていない。そもそも、何分前に始めたかすら分からないのだ。生憎、きちんと時計を確認して物事を行うという習慣は身についていなかった。
 この風の無い日では空気の入れ換えにどれほどの時間を要するのだろう。十分だろうか。二十分だろうか。一時間だろうか。分からない。けれども、こんな熱にまみれた空間で過ごしては命に関わるのではないか。昨今、熱中症で倒れる事例が多く報道されている。よく外作業をする弟にも、常日頃から水分と塩分を摂って気をつけろと言われていた。ならば、もういいのではないだろうか。部屋の換気よりも人命の方が重いに決まっているではないか。だから、もう。
 グッとカップの中身を飲み干し、少年は大股で歩む。今までのそれからは考えられないほど素早い動きで窓を全て閉め、薄手のカーテンで日光を隔て、リモコンを手に取る。祈るような動きで、電源ボタンをぎゅうと押した。
 幾許。ゴゥ、と音をたてて機械が動き出す。送られてくるぬるい風は次第に冷たさを増し、瞬く間に完全なる冷風へと変わった。冷えた強風が身体を撫でる。熱で火照った身体を包んでいく。汗ばんだ身体を冷やしていく。
「――――涼しー……」
 漏れた声は、この上なく情けなく、この上なく快楽に浸りきったものだった。


便利な物は便利なだけじゃないんです

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