便利な物は便利なだけじゃないんです
「あっつ!」玄関ドアが開いた瞬間、悲鳴めいた大声が蒸した空気を切り裂く。日が差さぬというのに夏の陽気に熱せられた廊下は、物言わぬままその湿度と温度で家主を包み込み向かい入れた。あっつ、とまた叫声があがった。
「みっともないからやめてください」
右手にトイレットペーパー、左手に箱ティッシュ、左肩に大食らいのエコバッグを提げた烈風刀は忌々しげに告げる。普段より幾分か低い声にあるのは、騒がしい兄への感情だけのみでない。夏の気温に対するそれもふんだんに含まれているということは、汗伝う頬を見れば明らかだった。
「こんなん声でも出さねーとやってらんねーって」
あっつー、と恨み節のように漏らしながら、雷刀は手にしたトイレットペーパーを床に置く。彼の肩から滑り落ちたナイロンバッグが床に着地して盛大な音をたてた。一瞬ひやりとするが、鞄の中身を思い出し弟は胸を撫で下ろす。あちらのほとんどは箱詰めされた日用品だ。卵などの食料品はこちらのバッグに入れてある。被害は無いだろう。少年は薄らぼやけた頭で考える。普段ならば文句の一つでもこぼす口は、苦み渋み酸味全部入りのエスプレッソを飲んだような形に曲がっていた。
今日は運が悪い。トイレットペーパーとティッシュペーパーのストックが一度に切れたのだ。今日は運が良い。一つ向こうのスーパーで両方が特売なのだ。
季節は夏、それも八月なんて太陽が一番元気な時分である。外の気温はすさまじいもので、ネットニュースでは連日熱中症対策が叫ばれるような日々だ。そして、十分なストックを確保するならば、兄弟二人で行かねばならない。炎天下を、陽炎が見えそうなほどの炎天下を、いつもより十分は余計に歩かねばならない。
在庫の消失に気付いた午前、財布と己の身体を天秤に掛ける。傾いたのは、日用必需品と財布が載った方だった。
これ以上なく渋い顔をする兄をアイス二個で釣って、日傘片手に早歩きで向かい、涼しい店内で確保戦争を勝ち抜き、日傘で身体と食品を守り。そうして、やっとの思いで帰宅する今に至る。
バタバタと騒がしく洗面所に向かう朱の背中を見送り、碧は開けっぱなしになっていた玄関扉を閉めて鍵を掛ける。ぼんやりとしている間に陽光にこれでもかと熱された外気がたっぷり入り込んできたようで、いつもは相対的に涼しいはずの玄関は風呂場のように蒸し暑くなっていた。頬を流れた汗がおとがいを伝い、音も無く落ちて三和土にシミを作る。はぁ、と疲労で豪奢に彩られた息を吐き、烈風刀は廊下に荷物を置いた。吐いた分入ってきた空気は雨上がりのように熱く湿っていて、肺の中身が湯気で満たされたような錯覚に陥る。
バタバタとうるさい足音をBGMに、烈風刀はもつれる一歩手前で靴を脱ぐ。再度荷物を担ぎ上げると、ビニールの持ち手が肉を裂かんばかりの勢いで肩と手に食い込んだ。慣れっこの痛みに苛まれながら、足早にキッチンへと向かう。卵は常温保存できる食材だが、こんな猛暑のさなかにいつまでも晒しておくわけにはいかない。
キッチン、そしてリビングに続く扉を、少年は塞がれた手で器用に開ける。流れ込んできた空気は外より冷たく、廊下より涼しく、けれども何とも言い難いぐらいぬるい。顔や背を伝う汗をスッと引かせて乾かすにはあまりにも頼りない温度をしていた。機械の低い呻り声が聞こえる。今まさに仕事してますよ、全力で頑張ってますよ、と主張するような重い響きをしていた。
卵や加工肉を冷蔵庫にしまい、ティッシュペーパーを棚にしまう。トイレットペーパーを放置したままだが、あれは後にしよう。クーラーが稼働している音を聞くと、あの熱帯雨林一歩手前の不快な場所に戻ろうなんて意志は消え失せてしまった。
烈風刀、と名前を呼ばれる。声を出すのも億劫で、顔だけ音の方へと向ける。途端、小さなものが勢いよく飛んできた。両手で挟んで捕まえて、中を確認する。手の平から出てきたのは、『ミネラルバッチリ摂取!』とポップなフォントで書かれた小袋だった。中に見える錠剤は白く、ところどころに黄色い粒が見える。夏はもちろん、農作業のお供である塩タブレットだ。
「水も飲んどけよー」
「分かってますよ。雷刀こそ、トイレットペーパー片付けといてください」
ビニール包装を乱暴に開け、弟はその中身を口に放り込む。塩とレモンの味が舌に広がっていく。ミントらしきほのかな冷たさ、レモンの爽やかな香りと酸味、優しい塩味とその奥にある甘み。炎天下を歩いた身体に染み渡る味だ。買った当時、味見で食べた時はあまり良い味ではなかったことを覚えている。身体がその栄養素を欲していなかった証拠だ。つまり、美味しく感じる今は良好な状態とは言えないのだろう。
舐めて溶かしながら、少年はコップを取り出し水を注ぐ。兄の言う通り、塩分と水分はセットで摂らねばならない。乱暴に開いた蛇口から、勢いよく水が流れていく。透明なガラス越しに伝わる温度はぬるかった。間違って温水を出したかと疑うほどだ。夏場はこれだから嫌なのだ。顔をしかめ、烈風刀はグッとコップを煽る。喉が豪快に動いて、胃の腑へと水を流し込んでいく。ぬるま湯半歩手前でも、炎天下をのろのろと歩いてきた身体には痛いほどに染み渡っていった。飲み干し、ガラスコップを離した途端、はっ、と音をたてて息を吐き出してしまう。はぁ、と今一度漏れた溜め息は、暗い疲労と輝くほどの充足で飾られていた。
シンクに放置されたコップ共々洗い、洗い物カゴに二つを伏せる。手を拭いていると、うわぬるっ、と少しばかり張りを取り戻した声が入り口の方から飛んできた。どうやら兄は言葉の通り紙類を片付けてくれたようだ。朱い頭がすぐさまキッチンに飛び込んできて、まだ雫したたるコップを引っ掴んで水を飲む。ぬっる、と不服そうな声が潤いを取り戻した唇から飛び出るのが聞こえた。
「こういう時さ、チャリあったら楽なのかなぁ」
冷凍庫のドアを開きながら雷刀はぼやく。バタンと扉が閉まる軽い音。ガランガランとうるさいけれど心地良い音。ザーッと涼やかな音。パキパキパキと小気味の良い音。グビッと豪快な音。ぷはぁと上機嫌極まりない息。蒸した空気を切り払うように、賑やかな音がキッチンに響いては消えていく。
「自転車も日の中を漕ぐのだから暑いんじゃないですか」
だんだんと冷えていく――それでもまだまだ春の陽気にすら感じるが――部屋の中では、吐き出す息すら熱風のように感じられた。胸元をつまんで前後させ、弟は服の中に空気を送り込む。汗ばんでうっすらと濡れた肌に風がぶつかり、ほんの少しだけ爽やかな心地がした。焼け石に水だが、無いよりはずっとマシだ。
「じゃあバイクか」
「バイクも日に晒されますよ。……ヘルメットって、蒸しそうですね」
痛いほどの陽光の中、怪我防止のために適度に着込み、頑丈でごついヘルメットを被る様を想像する。この真夏に長袖を着て、厚いクッション生地で埋めつくされた大きな金属を被る。そんなの、拷問と大差無いではないか。移動時間は格段に短くなるため蒸し地獄の時間は少ないだろうが、たとえ短時間でもあの兄が耐えられるとはとても思えない。あちらも想像したのだろう、うへぇ、と沈み調子の息が床に落ちていった。
バス移動が一番快適なのだろうが、家からバス停は少しばかり遠い。何より、スーパーの近くには停まらないのだ。毎回乗車料が発生するのもネックだ。百十数円の節約のために往復何百円も消費しては本末転倒である。
自動車があればいいのだろうか。けれども、こちらもこちらで維持費が膨大で重苦しいという話をよく聞く。そもそも、己たち兄弟はどちらも運転免許を取れない年齢である。どう頑張っても一生届かない存在だ。
「うちの隣にスーパーできりゃいいのに……」
「そうですね……」
普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴する兄の言葉に、弟は素直に返す。心の底から同意していることが分かる響きをしていた。それほどまでに疲れているのだ。
普段使いするスーパーは部屋から徒歩で行ける近距離にあるが、やはり今日のような真夏日には歩いて行くのが億劫になる。今回のようなトイレットペーパーやティッシュペーパーのような軽い物ならば難なく歩いて帰れるが、重い肉類や洗剤などを買う際はたった十数分だというのに体力を消耗するほど苦労する。最近はネットスーパーや通販も充実しているが、急ぎの時には実店舗に走らねばならない。もっと近場にスーパーがあれば、と考えるのは、誰もが一度は思い浮かべる夢だろう。そんなことは夢のまた夢であるし、実際に建とうものなら騒音に悩まされるのだろうけれど。
風がスリッパに守られた足を撫ぜる。部屋の外が嘘のようにさらりとしたそれは、靴下越しでも分かるほど冷たかった。冷えて感じるほど、身体は日光を浴びて熱を帯びているのだ。おっ、と隣から声。とっくに靴下を脱ぎ捨て、スリッパも放り出した兄は冷たい風に――クーラーが役目を果たした事実に瞬時に反応した。途端、ぺたぺたと忙しない足音がリビングの方へと飛んでいく。続くように、烈風刀もゆっくりと足を進めた。
熱い空気はどんどんと冷やされ、心地良いものへと調整されていく。クーラーに近い場所は、既にこれ以上なく快適な温度へと様変わりしていた。まだ直接冷風に当てられていても寒さを覚えない身体にとって、この世の何にも勝る癒やしであり救いである。はー、と息の音。深呼吸のような長く深いものだった。兄のことだ、少しでも多く涼しさを味わおうとしているのだろう。弟も、気取られないように息を細く、けれども深く吸って吐く。外とは真反対の冷えた空気は、火照った身体を内部から冷やしていく。天国という比喩表現はこのような時に使うのだな、なんてくだらないことを考える。考えてしまうほど、身体は涼を欲しているのだ。
兄弟二人、同じ動きでソファに腰を下ろす。エアコンの真ん前にあるそれはまだまだぬるい。厚い布の質感も相まって、ぬくいと感じるほどだ。これもすぐに冷えて心地良い温度へと変わっていくだろう。はぁ、と緩みきった息の音が二つ重なった。
「……夕飯、サラダうどんでいいですか」
ぼやくように碧は問う。今日はもう暑いのはごめんだ。コンロの火など扱いたくない。直接空気を暖めない電子レンジと冷たい生野菜だけで全てを終わらせてしまいたい気分だった。
「おっけー。めっちゃ冷たいのがいい」
「そうですね」
はぁ、とまた二人で息を吐く。体温でぬくまった小さな空気は、冷房が瞬時に吹き飛ばしてしまった。
できることは全部やりたいじゃんか 無いよりあるのがしんどいとか思わないじゃん
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