美しいと思っていたはずなのですけど

 へっぶし、と盛大という表現では足りないほどの爆音が隣からあがった。
 あまりにも間抜けな音に、騒音に、予想できる追撃に、烈風刀はさりげなく二歩横へとずれていく。途端、鼻の先が何とも言い難いくすぐったさを覚えた。予測できる未来に、少年は急いで手を動かす。しかし、願いは届かない。くしゅん、と無理矢理抑えたのが分かる音が穏やかな陽光をもたらす空へと昇っていった。
「つっれぇ……」
「こればっかりはどうにもなりませんね……」
 春の空の下、兄弟二人で鼻を擦りながらぼやく。あー、と濁った声が雷刀の口から漏れる。普段ならばみっともないと一言こぼすはずの烈風刀は、まだむず痒い鼻をすんと鳴らしていた。
 ネメシスに春が訪れた。度々降った雪はすっかりと姿を消し、時にマイナスに達していた気温は元気に二桁まで回復し、花々のつぼみは膨らんで咲くのを待ち遠しそうにしていた。農園の野菜もどんどんと実ってきている。暦の上だけではない、芽吹きの春は確かに訪れているのだ。
 春の到来。それは兄弟にとって――否、ネメシス中の人間にとって、花粉の到来を意味していた。そして、花粉症の季節が訪れたということも。
 兄弟二人とも花粉症を患っている。市販薬で抑えられる程度の軽いものだが、それでも耐えられない時はある。この季節、帰り道にくしゃみが飛び出るのはもはや日常となっていた。
 マスクと箱ティッシュを肌身離さず持ち歩き日夜杉への恨み節を垂れ流すクラスメイトを見るに、己たちなどまだマシな方なのだろう。それでも辛いものは辛い。むず痒さや体液の不快感はもちろんだが、年頃の高校生にとって人前でくしゃみをするのは何だかとても気恥ずかしいのだ。
 あー、と濁音たっぷりの呻きが隣から漏れるのが聞こえる。今月、つまりは花粉の季節になってからは毎日と言っても過言ではないほど聞く響きである。なんとも情けない有様であるが、こればかりは仕方無いという深い理解の心も存在する。襲い来る痒みの前では呻き声の一つや二つあげなければやってられないのは、品行方正に努める烈風刀であってもこれ以上ないほど理解できるものであった。
 ポケットティッシュを取り出し、烈風刀は静かに鼻をかむ。強く拭き取ったものの、やはりどうしても痒みは拭いきれない。何かが鼻の奥に潜んでいるような、鼻の先に何かが待ち構えているような、そんな錯覚をする。全ては身体のアレルギー反応だ、ただの妄想である。けれども、そんなくだらないことを考えるほどにはやってられない気分だった。
「……桜ってさぁ」
 少しくぐもった声が聞こえる。問いの響きをしたそれに、碧は音の方へと視線をやった。視界の中、鼻の頭が赤らんだ朱が見える。少し潤んだ紅緋は、進むべき前ではなく空へと向けられていた。つられて、浅葱も視線を追う。青い空を背景に、節がよく目立つ桜の枝がいくつも広がっているのが見えた。黒に近い茶の先には、白に淡く桃がにじむ蕾がいくつも並んでいる。空にいっとう近く太陽の恵みを燦々と浴びたであろうものは綻び、可愛らしい白い花を咲かせていた。春という季節を表すには、これ以上にない風景だった。
「花粉症関係あんのかな……」
 すん、と鼻を鳴らして雷刀は呟く。そこに咲き始めた可憐で美しい桜への感嘆は無い。ただただ疑問と、ほんの少しの暗い響きだけがあった。
「さぁ……?」
 兄の問いに、弟は気の抜けた返事をする。桜は立派な樹木であり、花を咲かす植物である。一年に一度のこの季節、彼らも種の繁栄のために花粉を飛ばすだろう。つまり、花粉症の原因をばら撒く輩である。
 しかし、桜が花粉症の原因などという話は聞いたことがない。花粉症患者間での話題の多くは――否、すさまじい恨みつらみの対象は、もっぱら杉である。花粉情報を伝えるネットニュースも、多くが杉についてを取り扱っていた。桜といった春に咲く他の植物に関しての情報は聞いたことがない。
 烈風刀は鞄から携帯端末を取り出す。慣れた手つきで操り、少年は入力窓に『桜 花粉症』と打ち込む。灰色の虫眼鏡アイコンをタップすると、瞬きする間もなく画面は文字で埋めつくされた。縹色の瞳が大きくピックアップされた文字を追っていく。少し皮膚の厚い指先が、画面を一度大きく叩いた。保護された液晶画面に鮮やかな色が開いていく。いつもより細くなった目が、ゴシック体で書かれた情報を脳へと伝達していった。
「『花粉を出すので桜も花粉症の原因となります』……」
 ニュースサイトの特設ページ、その中ほどに書かれた文章を碧は読み上げる。えっ、と小さな声がすぐ隣から聞こえた。テスト返却日の朝と同じ響きをしていた。
 二色二対の目が、小さな画面から離れて空へと向いていく。広がる青空の中には、依然桜が小さいながらも立派に咲き誇っていた。淡く桃に色づいた可憐な花びら、その中心に黄色のおしべがおわす花が。
 えー、とこぼれた声はどちらのものかは分からなかった。分かるのは、音に込められた絶望と悲哀だ。うっすらと恨みでコーティングされたそれは、春の風にさらわれて消えた。くしゅん、とまたくしゃみが落ちる。
「きれーなのに……」
 呆然とした様子で雷刀は漏らす。普段よりも潤んだ目は険しげに眇められている。形の良い眉は寄せられ、眉間に小さな皺を刻んでいた。八重歯がよく覗く口元は、何とも言い難そうにむにむにと動いている。鼻の頭は変わらず紅で化粧されていた。
 桜は綺麗だ。学園のすぐ近く、学生の多くが通学路として通う歩道にある桜並木は、毎年春の象徴であるかのように咲き誇って花広げている。校庭の隅にある桜の木々は、時折その下で花見が繰り広げられるほど愛されていた。花弁が散ってコンクリートを白と桃で染め上げる風景も、儚げながら情緒に溢れていて美しい。美しいと思っていたのに。
 はぁ、と烈風刀は大きく息を吐く。そこには疲れと悲しみ、そして一匙の苦さがあった。当然だ、今までただただ綺麗だと思っていた存在が、己たちを――愛するレイシスを苦しめているかもしれない犯人だと知ってしまったのだ。今はまだ咲き始めだ、原因のほとんどは杉だろう。けれど、もっと咲き出したら。満開に咲き誇りだしたら。一瞬考えただけでも、背筋を冷たいものがなぞっていく。
「桜避けて歩いた方がいいのか……?」
「花粉は風で飛んでくるのですから、近づこうが遠ざかろうが変わらないでしょう」
 道路側、つまりは桜並木に近い位置を歩いていた雷刀は一歩二歩と横へと動く。必然的に距離を詰められ、烈風刀もまた一歩二歩と距離を取った。ふらふらとした足取りが二つ、帰る場所へ続く道を辿っていく。
 それ以上に杉花粉が飛んできますよ、と弟は付け加える。己で言っていて苦しくなるものだった。そうだ、桜が咲こうが咲くまいが、杉は今でも花粉を飛ばして飛ばして飛ばしまくっているのだ。桜をちょっと避けたところで、この症状が軽くなるはずがない。
「そもそも通学路は桜だらけですしね……。避けられませんよ」
「だよなぁ……」
 学園に近いここらは、桜が並木になって植えられている。事実、入学式シーズンは季節を謳歌するように咲く桜の下をはしゃいで駆け回る新入生をよく見た。桜並木は多くの人に受け入れられ、多くの人に喜ばれる存在なのだ。今は負の感情が湧いてくるが。
 はぁ、と雷刀は溜め息をこぼす。彼らしくもない、重いものだった。仕方が無いだろう、日常を彩るものが敵であったと知ってしまったのだ。毎年花見に喜び勇んで参加している彼なのだから尚更だろう。
 くしゅ、とまた抑えきれなかったくしゃみが飛び出す。すん、と烈風刀はむず痒い鼻を鳴らす。はぁ、と兄のそれと同じほど重いものが漏れた。
「でも花見はしたいよな。レイシスも楽しみにしてるし」
「そうですね。……でも、レイシスも花粉症ですよ」
 兄弟二人とレイシス――最近はグレイスや教師たちも加わっているが――は、毎年花見を行っている。事前に許可を取り、校庭の隅に咲く桜の下で花を眺め弁当を食べるのが春の恒例行事となっていた。だが、こんな事実を知ってしまった今は迷いが生じてしまう。あの愛おしい守るべき存在であるレイシスもまた花粉症を患っているのだ。彼女もまた、市販薬で抑えられる程度の軽い症状しか出ていない。けれど、花粉散らす花の下で過ごし、万が一にも悪化してしまったら。
「……薬、買い足さないとですね」
「もうちょい強いの買わないとなー……」
「強いのだと、貴方居眠りするでしょう」
 溜め息交じりに言葉を交わしながら、兄弟は歩いて行く。住宅街に入るまで、咲く頃を待ち続ける桜たちは二人をずっと包み込んでいた。


ぜってーに譲れねー

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