ぜってーに譲れねー

 奥底に沈みきっていた意識が浮上していく。降りていた瞼が痙攣するように蠢き持ち上がり、奥から緋色が姿を現した。普段ならばガラスもかくやというほど透き通り輝く色は、今は睡魔によってぼやけた色に塗り替えられていた。まるで猫が親愛を示すように、けぶった色がゆっくりと瞬きする。何度瞼で擦っても、まだまだ色は戻らぬままだ。
 暑い。
 まだ覚醒しきっていない頭の中に一つの言葉が落ちてくる。途端、身体を、意識を、熱が全てさらっていった。次いで、湿った感覚。蒸した感覚。暑さと合わさったそれは、不快指数を上げるには十分な威力を持っていた。
 鈍い呻きを漏らし、雷刀は身じろぎする。ベッドは常ならば己の身体を柔らかく受け止めてくれるはずだというのに、今は驚くほど固い。人並みの体重に沈むことなく、自身の固さを誇ったままもぞもぞと身をよじる己を受け止めた。背が、肘が、固いそこに当たって悲鳴をあげる。予想だにしない裏切りに、朱はますます情けない声を漏らした。
 違う、ここはベッドではない。まともに動き出した思考回路が解を弾き出す。胸から下を温める温度。服の中身が湿った感覚。掛け布団よりもずっと軽くて薄い布の感触。手の甲を撫ぜる少し毛羽立った毛布。ふわふわとつやめく毛並みと柔らかさを誇るラグ。そして、視界の端に映る濃い茶色――フローリング。しつこくまとわりついていた眠気をようやく振り払った頭は、ここがリビングでありこたつの中であることをやっとのことで認識した。
 うぅ、とまた呻き、雷刀は寝返りを打つ。いつもならば心地良さを覚える素晴らしい場所だというのに、今は暑くて仕方無い。寝汗が気持ち悪くて仕方無い。背中が痛くて仕方無い。自業自得の三重苦に、手入れされた唇から何とも言えない音が漏れ出た。
 取り戻した意識と感覚を頼りに、朱は身を起こす。重なった布団と毛布をはねのけ、暖かいを通り越して暑いこたつから上半分だけ脱出した。途端、リビングの暖かな――否、今の彼にとってはぬるい空気が、頭を、頬を、背を撫でていく。こたつで眠り汗を掻いた身体に、真冬の夜空の下に飛び出したと同義の寒さが襲う。厚さの見える鍛えられた身が、ぶるぶるっと大袈裟なほど震えた。
「お風呂空きました」
 ガチャ、とドアノブが鳴き声をあげる。穏やかな声が続いた。すっかりと元の色を取り戻した真紅が音の方へと向けられる。そこには、弟である烈風刀の姿があった。普段はきっちりとした制服をまとう身体は、今は寝間着のラフなTシャツにパーカーを羽織っている。日焼け対策バッチリな白い頬は、今は少しだけ色づいている。少し癖のある浅海色の髪は、いつもよりふわふわとしているように見えた。言葉通り、風呂から上がったばかりなのだろう。
 少しだけ柔らかな輪郭をしていた浅葱の目が、瞬きの後シャッターを閉めるように半分隠される。風呂上がりで潤った口元が、定規で線でも引いたようにまっすぐに結ばれた。
「また寝ていたでしょう」
 扉を閉めながら、弟は起き上がって見上げる朱い頭にぶつけるように言う。呆れや怒りを通り越した音色がそこにはあった。毎度のことである。兄は懲りずに考える。冬の間どころか一ヶ月の中でも数え切れないほど言われた言葉であり、聞いてきた音であった。彼の言葉は全て正論であると、自身に非があると分かっていても、こればかりは繰り返してしまう。それほどまでにこたつの魅力――魅惑、それどころか魔力はすさまじいのだ。少なくとも、己にとっては。
 冬の朝のように往生際の悪い動きで、雷刀はこたつから身体全てを引き抜く。ぬくもりに包まれていた足にも、身体と同じように相対的寒さが襲う。まだぶるりと大きく身震いをした。
「そろそろしまう頃ですね」
「えー!」
 机の上に置きっぱなしになっていた携帯端末を手に取り、烈風刀は事も無げに言う。雷刀の口から悲鳴めいた叫びが飛び出た。近所迷惑一歩手前の声量に、非難をたっぷりと含んだ声に、整った碧い眉がうすらとひそめられた。
「もう三月になるんですよ。春にもなってこたつを出しているのはおかしいでしょう」
 片手で端末を操作しながら弟は言う。兄はえー、と不満げな声を漏らした。むくれた調子は駄々をこねる子どものそれとまるきり同じだ。
 確かに今は二月の終わりまであと数歩というところ、暦の上での春は目の前だ。しかし、まだまだ冷え込んでいるのも事実である。先週なんて、最低気温がマイナスに到達したレベルなのだ。雪翔の故郷では、ついこの間小さな彼の身体が全部埋もれるほどの雪が積もったという話を聞いた。カレンダーや国語便覧がどう主張しようが、季節はまだまだ冬なのだ。
 だというのに、こたつを片付けるだなんて。雷刀には一切考えつかない、考えたくもない未来だ。少なくとも、桜が咲くほど暖かくなるまでは。
「まだ冬じゃん。はえーって」
「遅いくらいです」
 再びこたつに足先を突っ込みながら、朱は頬を膨らませて言う。小型端末をパーカーのポケットにしまい、碧は一言で切り捨てる。にべもない、という表現が相応しい鋭さと強さがあった。彼の中で『こたつの撤去』はもう決定事項だと言いたげな音だ。夜も更けに更けた今日は諦めるだろうが、明日には実行してもおかしくはない響きである。考えたくもないそれから逃げるように、兄はまたこたつに身を投じる。寝汗で冷えた背中をハロゲンヒーターの穏やかな暖かさが包み込んだ。これ見よがしな溜め息が聞こえたのは気のせいということにしておく。
「お湯冷めないうちに入ってくださいよ」
 裸足で可愛らしい音をたてながら、烈風刀はドアへと歩いて行く。冷めても張り直さないでくださいよ、と深々と釘を刺して、彼は部屋を出ていった。ドアが閉まる軽い音が、一人だけになったリビングに響く。
 ぬくぬくという擬音がぴったりのぬくもりが身体を包む。心地良い温度と心地良い柔らかさだ。薄手のラグは寝転がるには十分柔らかであるし、こたつ布団は毛布との合わせ技で身体と温められた空気を離して逃がさない。こたつの中は、寒い冬――誰が何と言おうとまだ冬だ――には、まさに天国と表現するのが相応しい場所であった。
 けれど、まだ背中を湿らす寝汗は、それを吸い込んだ厚手のインナーが張り付く感覚は、何とも言い難い気持ちの悪さで上書きしてくる。ほとんど突っ込みっぱなしだった足も汗を掻いていて、うっすらと布地が張り付いてくる。髪もどこかじっとりとしていて、霧雨に降られた後のような感覚がした。安直な選択が、彼の身体を侵蝕していった。
 重い息を吐き出し、雷刀は身を起こしてこたつから這い出る。鼻がむずりと痒みを訴える。手を伸ばすより先に、盛大なくしゃみが飛び出た。水を浴びた犬のように、しっかりとした身体がぶるっと大袈裟に震えた。風邪の二文字が脳裏をよぎる。もう一つ出たくしゃみが吹き飛ばしていった。
 やはり寒い。暖房は厳寒のさなかでも働くよう設定されしっかりと機能しているけれど、寒いものは寒い。こんな中でこたつのぬくもりを失うなど考えられない。考えてはいけないことである。烈風刀だって、この優しいぬくもりと心地良い空間を好いているはずだ。こたつを嫌う人間などこの世にいないのだから当然である。なのに、片付けるだなんて何を言っているのだろう。
 記憶力も判断力もある弟のことだ、明日帰れば即座にこたつを片付けようとするだろう。そんなの、何としてでも阻止しなければならない。この真冬同然の気温の中でこたつを失うなど、あってはならないのだ。
 雷刀は床に転がしていた携帯端末に手を伸ばす。まだしっとりとした指がロックを解除し、ウィジェットからアプリを立ち上げる。液晶画面に表示された一週間の気温は、まだまだ最低気温は一桁前半から動かないことをはっきりと告げていた。
 最低でも今週末まではゴネよう。来週も予報を見つつゴネよう。それから先も、どうにか理論をこねくり回してゴネよう。弟はああ見えて押しに弱い。己に対する耐性は高いものの、それらしく理由を作り上げて築き上げてぶつければ一回ぐらいは通るはずだ。
 何としてでも、せめてコートを脱いで出歩けるほど暖かくなるまでは、この快適で最高の空間を失うわけにはいかないのだ。
 今一度心の中で呟き、朱は端末をこたつ机の上に載せる。また一つ身震いをして、飛び出たコードのスイッチを動かしこたつの電源を切った。
 暖かな空間は、就寝時間という抗えないタイムリミットの前に消えていった。


美しいと思っていたはずなのですけど 注意しても無理なもんは無理!

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