違いはなかなか分からないものですね

 硬い音が夜闇に響く。履き古したスニーカーが、年を重ね薄ら暗くなった街灯の群れの中を静かに進んでいった。
 は、と烈風刀は短く息を吐く。口から少しだけ飛び出た空気は、瞬くようにパッと白くなって夜の世界に消えていった。鼻の頭がかすかに痛む。コートの袖から覗く指先がかじかむ。制服の裾から忍び込んだ冬の空気に、少年は小さく身を震わせた。は、とまた息を吐く。呼気は雪のように白くなって、雪とは反対に空へと昇っていった。
 今日の夕食は鍋でいいだろうか。考えながら碧は足を動かす。白菜はまだまだある。キノコもいくらか冷凍してあるから入れよう。豆腐も二パックは残っていたはずだから使える。この間買ったもやしを入れてしまうのもいいだろう。そうなるとキムチ鍋か。いや、じゃがいももまだ数個残っていたはずだ。この間安く買えた鮭の切り身を使って石狩鍋にするのもいいかもしれない。冷蔵庫の中に思いを馳せながら少年は歩く。まだ濡れたアスファルトを靴底が叩いていった。
 帰ったらすぐに米を炊かなければ。もうかなり少なくなっていたはずだ、買い足さねばならない。料理の前に注文手続きをしてしまおう。帰宅後の予定も組み立てたところで、下向きがちになっていた頭を上げる。瞬間、世界の中に鮮やかな色が飛び込んできた。目に焼き付くような強い色に、碧い目がぱちりと瞬く。
 街灯の真下には、緑に身を委ねるようにいくつもの紅色が佇んでいた。夜もとっぷりと更けたというのに、古びて擦り切れた明るさの下だというのに、まるで自ら輝いているかのように世界に存在を主張している。視界の端っこに入っただけだというのに、すぐさま意識の全てを奪われたほど鮮烈な赤色だ。血のよう、だなんて陳腐な表現がよく似合うほど深く、強く、この上ない赤が何枚も折り重なって丸っこい可愛らしい花を作っている。これだけ強い色彩と誇っているというのに、光を受けた先端部分は少しばかり淡くなって桃に近くなっているのだから不思議だ。焼けるような赤と儚げな桃。自然が織りなすグラデーションは美しいの一言に尽きた。
 重なる赤の中心には、同じほど色鮮やかな黄色が座り込んでいる。細いそれが集まる様は、毛糸で作ったポンポン玉を彷彿とさせた。どちらも濃く主張が強い色だというのに、息をこぼしそうになるほど調和が取れている。どういう仕組みかは全く分からないが、綺麗だということだけはしっかりと理解できた。
 鮮やかな花々の後ろには深い緑が茂っている。一目見ただけでも分厚く硬いことがよく分かる色つやをしていた。それらが群れをなして、赤を引き立たせるように、受け止めるように、守るように広がっている。表面はつやめいていて、ぼやけた光を受けて鈍く輝いている。よく磨かれた机を思い起こさせた。
 椿だろうか。烈風刀は頭の中を検索する。季節は冬、生け垣に咲く赤い花というと椿が真っ先に思い浮かぶ。よく見ると、庭と道とを隔てるブロック塀のすぐそばにある葉のいくつかは白をまとっている。今朝少しだけ降った雪が残っているようだった。椿に雪だなんて、まるで現代文の教科書に出てきそうな絵面だ。風情というのはこのような光景を言うのだろう。
 生け垣の下には、いくらか花が落ちていた。咲き誇るそれより深く濁った色になった花が、日中陽の光を浴びて溶けてしまった雪で濡れたアスファルトの上に横たわってなお存在を誇る。花そのものが根元から落ちる姿は縁起が悪いと聞くが、こうやって自然にある姿は目を奪われるほど綺麗だ。何でもない道端にあるのが不釣り合いに思えるほど。
 立ち止まっていることに気づき、烈風刀はぱちりと瞬きをする。すぐさま視線と身体を正面、自宅へと続く道路に向けて、普段よりも早足で歩き出した。いけない、と小さく頭を振る。こんな夜も遅くに他人の庭、生け垣の前に立ち止まってじっと眺めるだなんて。そんなの、まるきり不審者ではないか。そもそも、他人の庭先をじろじろと見るなど不躾にも程がある。あまりにも礼を欠いた態度を取った事実に、冷気で赤らんだ頬が更に色を濃くした。
 街灯途切れぬ道を少年は歩いていく。随分と歩いたはずなのに、先ほどの赤はどうしても意識の端っこに居座って取れない。それほど、あの花は美しく誇らしげだったのだ。頭に、目に焼き付いた光景に、何かが引っかかった。
 少なくとも、己にとっては『冬に咲く赤い花』といえば椿である。しかし、山茶花もまた冬に咲く赤い花であったはずだ。農作業に勤しみ野菜の知識は人より増えたものの、花に関してはまだまだ疎い己には園芸品種の明確な違いはよく分からない。もしかしたら、あれは山茶花だったのかもしれない。そんな些末な疑問が、クリアになった頭にぱっと浮かんで漂っていく。
 コートのポケットに手を入れ、碧は携帯端末を取り出す。立ち上げたブラウザアプリの検索窓に『椿 山茶花 違い』となんとも間の抜けたワードを入力した。かじかむ指でエンターを押した瞬間、瞬く暇も無く画面いっぱいに情報が広がった。上位に出てきた記事をいくらか読み流していく。どの記事にも、椿と山茶花は開花時期が違うとあった。冬、まさに今の時期に咲くのは椿だと書かれている。散り方も、山茶花は多くの花と同じく花弁が一枚ずつ散るのに対し、椿は先ほど見た光景のように根元から落ちるとあった。情報が確かならば、先ほど見た美しい花々は最初に思い浮かんだ通り椿で合っているようだ。疑問が氷解し、少年は満足げに息を吐く。知的好奇心が満たされるのはいつだって心地が良い。
 そうだ、と少年は端末をしまいながら考える。花の赤。葉の緑。そしてわずかに見えた雪の白。たった一目見ただけだというのに、鮮やかなカラーリングは未だに頭に焼き付いている。それらは、もう少し先のイベントを思い起こさせた。クリスマスだ。
 十二月はまだ上旬だというのに、どこもかしこももうクリスマスで一色だ。学内もクリスマスはどう過ごそう、プレゼントはどうしよう、だなんてはしゃいだ話がいくつも聞こえてくる。世界はすっかり赤と緑に包まれていた。
 今年のクリスマスはどうしようか。業務は多少あれども、さすがにクリスマスの日ぐらいは休みが与えられ、毎年皆思い思いに過ごしている。今年もレイシス達と過ごせるかもしれない。グレイスも来るだろうか。彼女が来るなら始果も誘った方がいいだろう。オルトリンデとライオットに声を掛けるのもいいかもしれない。
 少し遠くて近い未来に思いを馳せ、烈風刀はふっと息を吐く。一瞬だけ白に包まれた口元は、緩い弧を描いていた。


注意しても無理なもんは無理! 十一月にはまだ早いんですよ

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