注意しても無理なもんは無理!

 聞き慣れない嫌な音と共に、世界は大きく傾いた。
 地を踏みしめていた足の感覚が無くなる。目の前に広がっていた風景が消え失せ、視界が薄灰に染まる。端の方に己の朱い髪が散るのが見えた。頬を勢いよく風が撫ぜる。何もないはずの背中が妙に重く感じた。
 脳が異常事態を認識するより先に、尻を強烈な衝撃が襲う。すぐさま、痛みが追随して全身へと広がっていった。じわじわと嫌な冷たさが臀部を侵蝕していく。
「いってぇ!」
 ようやく現実を――雪で滑って転び、尻餅をついた今を認識して、雷刀は叫ぶ。曇り空によく通る声が響き渡った。彼の前を歩く学生達がいくらかぎょっとした様子で振り返る。誰も彼もすぐさま進行方向へと顔を戻していった。
「何してるんですか」
 見上げた先、碧い瞳がこちらを見下ろすのが見えた。目の前、隣に並んでいたはずの弟の口元が一瞬だけ白く染まる。厳寒の空気は、彼が呆れて嘆息していることを一目で伝えてくれた。そんな様子など気付きたくもなかったものである。今の転倒といい、冬は余計なことばかりをしてくるのだ。
 いってぇ、とまた漏らし、朱は手をついて立ち上がる。足元に広がる薄い雪が、剥き出しの大きな手を冷気で、水分で、不快感で侵蝕してくる。ぱっぱと手を払い、急いで尻も払う。雪に思いきり飛び込んだコートは少しずれてしまったようで、制服まで尻の部分がうっすらと濡れていた。通学中はコートで隠れるだろうが、教室に着いた瞬間からは剥き出しになる箇所である。乾くだろうか、と依然痛覚神経が強く被害を訴える頭に不安がよぎった。
「油断しすぎですよ」
「油断も何もねぇだろ。こんだけ積もってんだし」
 呆れを通り越して鼻で笑うような弟の声に、兄は強い調子で返す。演説めいた調子でバッと手を広げて、あたりを示す。いつもは褪せた灰色をした地面は、白で埋め尽くされていた。
 冬真っ只中のネメシスを寒波が襲った。あまりにも強いそれは、凍えるほどに大気を冷やし、恐ろしさを覚えるほど黒々とした雲を広げ、しまいには積もるほどの雪を降らせたのだ。ネメシスは比較的温暖な気候だが、さすがにこれほどまでの寒波には敵わなかったらしい。一夜にして、世界は白で塗り潰された。
 積もったのはほんの数センチほどである。ニュースは交通網の麻痺で大わらわになっていたが、徒歩通学には関係が無い。年に数回見られるかどうかの白くなった世界に興奮を覚えた朝、いつもより少し早くに部屋を出て兄弟二人で学園へと向かった。普段と同じスニーカーを履いて。
 その結果がこれである。うぅ、と雷刀は呻きを漏らす。この歳にもなって雪で滑って転ぶのは、さすがに思いきり打ち付けた痛みよりも羞恥がずっと勝る。通学時間帯で周りに学生が多いのもそれに拍車を掛けていた。大勢の前で転び、尻餅をつき、痛みを叫ぶなど幼いったらない。また呻きが喉から漏れる。嫌な冷たさと湿った感覚は、嘲笑うようにまだ尻に広がっていた。
「何で烈風刀はだいじょぶなんだよ」
「貴方と違って注意して歩いているのだから滑るわけがないでしょう」
 唇を尖らせる朱を、碧は事も無げに切り捨てる。朝でもはっきりとした色彩を宿す浅葱の瞳は、どこか冷えた色をしている。また口元に白が被さったのが見えた。
 夜を乗り越えた雪は、既に溶けかかっている。現に、滑って転ぶほど水分が表面をうっすらと覆っていた。その一部は凍ったのか、薄く氷が張っている部分もある。こんなところをスニーカー、それも雪対策が何もされていないごく普通のスニーカーで歩いて転ばないはずがないのだ。たしかに用心深い弟は己よりも注意を払って歩いているだろう。だとしても、一人だけ転ぶというのは何だか理不尽だ。少年は口元を引き結ぶ。痛みを伴う衝撃でぱっちりと開いていた目は、瞼が半分降りて鋭い形になっていた。
 そもそも、心配の一つや二つしてくれてもいいのではないか。入念に尻を払いながら雷刀は頭の中でぼやく。尻餅というのは、字面の可愛らしさに反して時には骨折するほどの代物だと聞く。大丈夫か、とかなんとか一言訊ねるぐらいしてくれてもいいのではないか。ちょっとぐらい兄弟を気に掛けてくれてもいいのではないか。卑屈になった心はなんとも醜い言葉ばかりを頭から引き出していった。
 普段よりも狭い歩幅で雪道を歩いて行く。もう転んでたまるものか。弟のありがたい言葉通り、注意して、ゆっくりと歩いて行くべきだろう。強く踏みしめられた白が、ザ、ザ、と固い鳴き声をあげた。
「これ、帰りは溶けっかな」
「溶けると思いますよ。午後から晴れるそうですし」
 地面を見やり雷刀は呟く。空を見やり烈風刀は短く返した。つられて、朱い目も空へと向けられる。昨日の厚い黒雲は流れたのか、それとも雪を吐き出して薄まったのか。今日は薄曇りといった調子だ。向こう側にうっすらと見える太陽は、きっと午後になれば燦々と輝き世界を照らし出すだろう。そうすれば気温も上がるはずだ。今は憎らしさすら感じる雪など全て溶かしてしまうだろう。溶けてくれ、と朱い少年は祈る。夜も更けた寒い帰り道、また転ぶ危険性があたり一面に広がっているなんて考えたくもなかった。
 はぁ、と雷刀は息を吐く。少しかさついた唇を、白くなった息が一瞬包んで消えていった。早く冬が過ぎ去り、春になってほしい。それこそ、雪なんて降らないような、晴れの日がずっと続く春が。
 ザ、ザ、と普段より騒がしい足音を立てて進む。ザ、ザ、と前から同じ音が聞こえてくる。弟もまた、細かな足取りで雪道を進んでいた。ポケットに手を突っ込み、兄は携帯端末のスリープを解除する。ロック画面に表示された時計は、朝のゲート閉門時間までまだまだあると告げていた。こんなに遅々とした足取りでも十分に間に合うだろう。雪なのだから早く出よう、と叩き起こしてきた弟の判断は正しかったのである。電源ボタンを押し、雷刀は端末をしまう。咳をするように短く息を吐いた。鼻の頭が冷たい。頬が引きつれるような感覚。冬がまだまだ居座る気だと言っているようだった。
 ザッ、と前から大きな音が聞こえた。目の前、碧い頭が沈んでいく。色違いのコートに包まれた身体が傾いでいく。ぴったり同じの高い背が消えていく。ザシャン、と湿った強い音。うわ、と悲鳴があがったのが聞こえた。
 へ、と雷刀は息を吐く。瞬間、事態を理解し、思わず駆け出した。
「おい烈風刀! 大丈夫――」
 か、と言葉を言い切るより先に、世界が再び傾いていく。本日二度目、視界は白混じる灰色に染まった。


ぜってーに譲れねー 違いはなかなか分からないものですね

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