No.180
favorite THANKS!! スプラトゥーン 2024/10/13(Sun) 02:19 edit_note
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諸々掌編まとめ13【スプラトゥーン】
諸々掌編まとめ13【スプラトゥーン】色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど今回3000字ぐらいのが多い。あとほぼほぼヒロニカ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:インクリング+オクトリング/ヒロ→←ニカ/ヒロ→ニカ3/ヒロニカ
好ましくないやつらには好ましくないもんぶつけんだよ!【オクトリング+インクリング】
溶けるような音が小さな舞台に響き渡る。力を得た身体は、何倍、何十倍にも肥大していった。巨大で凶悪な――まさに『帝王』の名に相応しい姿へと変貌し、少年は身体をうねらせ飛び跳ねる。四方八方から銃撃が降り注ごうと、テイオウイカはその体躯に見合わぬ狭き舞台で悠然と踊った。
甲高いホイッスルの音がステージ中に響き渡る。しばしして、身体が縮み元の形へと戻った。見上げた先、まだら模様の審判がこちらへと旗を掲げる。己たちが勝ったという現実を証明していた。
「ナイスー!」
ヒトとなり正面へと戻った視界の中、シャープマーカーネオを手にしたオクトリングがこちらを振り返り親指を立てる。特徴的な牙が覗く口は普段の彼からは考えられないほど開き、口角はいっそ恐ろしいほど上がっている。これ以上にないほど楽しげな、愉悦という言葉がよく似合う笑みだった。
ナイス、と返し、テイオウイカから戻ったインクリングはヤグラから飛び降りる。大きな天井ガラスから降り注ぐ光を浴びて、手にしたバレルスピナーデコがギラギラときらめく。最後のダメ押しを決めてくれた相棒は、まるで勝利を喜ぶかのように輝いていた。
友人が手を上げる。己も同じ程の高さまで上げ、勢いよくハイタッチをした。ぱしぃん、と盛大な音が試合が終わったステージに響いた。ナイス、と再び互いを讃える。二人で勝ち取った勝利なのだ、賛美するのは当然だった。
好ましくねー。性格わる。
背後から声が聞こえる。先程のバトルで敵だった二人だろう。シャープマーカーネオで塗りを広げ、バレルスピナーデコでヤグラを押さえ。奪われればトリプルトルネードとキューバンボムで奪い返し、ダメ押しにテイオウイカで乗り続ける。敵にとってはまさに好ましくない、この上なく不愉快な戦い方だろう。敗者がそんなことを言うのはあまりにもイカしていない、有り体に言ってダサいということを忘れるほどに。
飛んできた負け惜しみに、二匹のインクリングは口角を上げる。カラストンビが覗かせた笑みは、『凶悪』『極悪』と表現するのが相応しいものだった。何よりも美味い馳走を手に入れた悦びに、もう一度盛大な音をたててハイタッチをした。
「まぁ、次頑張ろっか。俺たちならいけるって」
「うん! 絶対勝とうね! かーくんと一緒ならなんだってできるもん!」
男女の声が背後から聞こえる。甘ったるい響きと言葉に、少年たちの顔から笑みが消える。代わりに、眉間に深い皺が刻まれた。あれほど輝いていた瞳は陰り、睨むと表現するのが相応しいほど眇められている。上がっていた口角は下がり、真一文字を描いていた。ケッ、とどちらともなく悪態をつく。次行こーぜ、と紡いだ声は棘がめいっぱいに生えたものだった。いじけると表現するのが相応しいものである。
最強ペア決定戦。
バンカラマッチは四人で戦うルールだが、今回のイベントマッチである『最強ペア決定戦』は二人で、つまりペアで戦うという限定レギュレーションで行われる。友人と戦う者、一期一会の相手と戦う者。組む相手は様々だ。その中でもとりわけ多いのはカップルだ。『最強ペア』なんて名前を冠しているのだから当然である。
バトルに恋愛を持ち込むなど無粋だ。言語道断だ。汚らわしい。
そう言い出したのはどちらだっただろうか。どちらでもいい。やっかみ、僻み、妬み、羨みといったろくでもない感情から発せられた言葉であるのは確かなのだから。
あぁそうだ、当然だ、バトルは清くあるべきだ、などと熱くなった議論は一つの結論に辿り着く。『カップルで参加する腑抜けた奴らを実力で叩きのめそう』という、迷惑極まりないものに。
そして、コンビを組んでバトルに潜り、出会ったカップルたちを完膚なきまでに叩きのめす今に至る。
「つってもさ、そろそろカップル減ってきたじゃん?」
「さすがにここまでパワー上げたらなぁ」
カップルで参加するもののほとんどはバトルを遊び程度に捉えて楽しむ、所謂『ライト層』である。実力が高い者もいるにはいるが、『ライト層』に比べ数は圧倒的に少ない。一定ラインを超えたあたりから、マッチングのほとんどが明らかに野良で組んだ二人組になってきた。
「どうする? やめる?」
「たまにいるだろ、バトルが出会いで~って言う高XPのカップル。ああいうのはまだ残ってんだぞ」
「あー……確かにいるわ……。じゃあやんねぇとな!」
そうだそうだ。やらねばならぬのだ。潰せ。勝つぞ。勝手極まりない、迷惑千万にも程がある言葉を交わしながら、少年たちはマッチング手続きをする。待機の間、インクリングはイカバンカーを撃ち今一度エイムを合わせる。射程端で的確に捉え、常に距離的優位を取るのはバトルで何よりも重要なことだ。せっかく温まった身体を冷やさないためにも軽く動いておいた方がいい。
「……なー」
バンカーが弾ける音。漏れる声。タイミング悪く掻き消されたと思ったが、イカロールの練習をしていた友人には伝わったようだ。なんだー、と尋ねる声が返ってきた。
「どうせだからこのまま最強ペア目指さねぇ?」
イベントマッチのタイトルは『最強ペア決定戦』だ。ならば、自分たちが『最強のペア』になってもいいのではないか。順調にパワーを上げた今なら、達成できるのではないか。上位に食い込み、『最強』の名をほしいままにできるのではないか。久しぶりに二人でコンビを組み、勝ち続けた今、そんなことを考えてしまう。『最強』というイカした肩書を得る未来を。
「いや、カップル潰す方が重要だろうが。何のためにやってんだよ」
非常に冷静な、冷めた声が返ってくる。ノリの良い彼からは想像できないほどのものあった。滅多に出さない響きであった。それほど、友人は『カップルを潰す』という行為に重点を置き、命を懸けていることが分かる。
「まぁ、それはそう」
オクトリングの言葉に、インクリングはさらりと返す。肯定する軽い言葉に反して、苦味のある笑みが漏れた。
そうだ、カップルを潰すためにここにいるのだ。だのに最強がどうやらなど考えるだなんて。高くなる勝率に調子づき、腑抜けたことを考えてしまったようだ。馬鹿だなぁ、と嘲る言葉が胸に重く落ちてくる。吐き出した息は細さに反して重い響きをしていた。
高い音がロビーに響く。マッチングが完了したのだ。すぐさまブキを持って、バトルポッドに入り込みステージへと移動する。ポッド内の液晶画面に相手のネームとプレートが映される。プレートデザイン、二つ名、ネーム、バッジ。構成するどれもがバラバラだ。ネームから性別は判断できないが、野良の可能性が高いだろうか。否、実力者たちは『おそろい』なんてものにこだわっていない。この程度の情報で判断するのは早計だ。
入ったスポナーから飛び出し、ブキを構える。相手はクーゲルシュライバーとスプラシューターコラボ。頭のギアが同じだ。服と靴とは全く調和が見られないそれに、笑みが浮かぶ。トドメとばかりに、視線を交わして頷きあう姿が見えた。
瞼が軽く落ちる。頬が持ち上がる。口角が上がる。ブキを持つ手に力がこもる。胸の奥がカァと熱を持つのが分かった。
潰すぞ。おう。
インクリングとオクトリングは静かに言葉を交わす。どちらも高揚しきったものだ。どちらも獰猛極まりないものだ。どちらも、意志の固さがはっきりと分かるものだった。
少年たちはスポナーに飛び込む。狙いを定めて数拍。オレンジ色に染まった身体が二つ、ステージめがけて飛び出した。
あなたの前で被る猫なんてない【ヒロ→←ニカ】
「そこの高台取るかいっつも悩むんだよな」
「打開に使われやすいですものね。押さえたら強いのですけれど……、アクセスのしやすさでは敵の方が勝るのが気になります」
「それなんだよ。前からも横からも後ろからも刺しやすいし、ヤグラ乗ってるやつもろとも吹き飛ばされることあるし」
「ウルショやカニにとっては格好の的になっちゃいますもんね」
端的な、しかしどうにも不名誉な表現に、ベロニカはストローを噛む。硬いプラスチックがへし折れて癖が付くのが口の中で分かった。少女の様子を気にすることなく、対面の少年は小さな端末に線を書き入れていく。侵入ルートを記す矢印、防衛箇所をピックアップする丸、オブジェクトまでの有効射程ラインを表した四角。様々な図形がゴンズイ地区のマップ画像に書き込まれていた。
掃除が行き届いたロビーの隅、木製の高台横。黄色のインクリングと青のオクトリングがタブレット端末を囲んで座り込む。傍らには様々なブキとインクが散っていた。二人が射程の確認や数多の戦法を練った証だ。
「こっちの高台は……さっきのバトルで試してらっしゃいましたけど、微妙ですよね」
「いけっかと思ったけどダメだ。トラストの射程じゃそこから前線に手ぇ出せねぇ」
敵陣右奥、アクセスするのに一手間かかる高台にバツ印が付けられる。こっちは、だったらこっちのが、と少年少女は議論を重ねる。文字と図形がどんどんと大きな画像を埋めていく。
焼けたしなやかな指が、白い角ばった指が、威勢の良い言葉が、少し荒れた線が、端末の上を駆けていく。一通りまとまった作戦資料を眼下に捉え、二匹はふぅと息を吐く。舌戦に試射にと筋肉をこれでもかと動かしたというのに、そこに疲労は無い。満足感ばかりが見えた。
「マッチング次第になりますけど、とにかく試してみましょうか。僕もカバーできるラインを確認しておきたいです」
「……なぁ、ヒロ」
片付けたタブレットを小脇に抱え、オクトリングは立ち上がる。黄色い瞳が小麦の細い足から上って、赤い瞳をじぃと見る。ヒロと呼ばれた少年ははい、と答える。不思議そうな響きをしていた。
「それ、無理してねぇ?」
「はい?」
小首を傾げて問うベロニカに、ヒロはまた疑問符だらけの声を返す。ひっくり返ったそれは、普段の落ち着いた様子からは想像だにできないほど情けがないものだった。へ、え、と意味のない音を重ねる口は不安げに震え、黄の視線を真っ向から受ける目は何度もしばたたかれる。『動揺』という言葉をこれでもかというほど体現していた。
「無理? え? 反省会がですか?」
「ちげーよ。そうじゃなくて、喋り方」
混乱の渦に飲み込まれた少年は疑問たっぷりに言葉を重ねていく。そんな様子を訝しげに眺める少女はバッサリと切り捨てた。薄い唇を胼胝ができた白い指がビシリと指差す。つられるように、硬さの見える尖った指が主人の口を指差した。
「喋り方……? ぁっ、えっ、もっ、もしかして、この喋り方不愉快でしたか!?」
「ちげーつってんだろ。お前、バトル中はタメ口じゃん。何でいつもはケーゴなんだよ」
手を動かし目を瞬き口を開閉し、わたわたと慌てふためくヒロをベロニカはギロリと睨みつける。目元には苛立ちがうっすらと見えるが、口元は『拗ねる』と表現するのが正しいほど尖っていた。
ヒロは丁寧に話す。この年頃にしては丁寧な口調に隙の少ない理論、それでいて柔らかさと謙虚さを伺わせる落ち着いた喋り方をする。しかし、バトルのさなかでは別だ。戦況を知らせる際に交わす言葉は『ゴール横ロラ』『ショクワン来てる』と非常に簡潔なものばかりだ。色の薄い唇が放つ言葉には普段の恭しさも柔らかさもない。必要なものだけを詰め込んだ、短く鋭い響きだけがステージに響くのだ。
「あー……バトルは情報伝達が最優先ですから忘れちゃうんですよね。すみません」
うすらと頬を染め、ヒロは眉尻下げて頭を掻く。ちょっとした失敗を見られた時のような、恥ずかしさとバツの悪さがあった。本人による答えが出されたというのに、相対するベロニカの表情は曇ったままだ。茜色を一心に見つめていた月色は、どんどんと下がって地へと吸い込まれていった。
「……やっぱ無理してんのか?」
少女の口から言葉がこぼれる。一滴のインクのような小さな言葉が、コンクリートの床に落ちて消える。ロビーに流れる音楽に掻き消えてもおかしくない響きは届いてしまったようで、え、とまた抜けた調子の声が少女の頭に落ちた。
「無理? あっ、バトルで大きな声を出すことですか? さすがにもう慣れました――」
「ちげーっつってんだろ! 話聞け!」
合点いった調子で人差し指を立てて答えようとする声を、怒声が吹き飛ばす。動揺も不安も消えた少年の笑顔が搔き消え、また不安が分厚い化粧を施した。
「だからー……『忘れちゃう』ってことは、バトル中のタメ口が素なんだろ? その、わざわざ敬語喋ってんの、無理してんのかなって」
威勢よく放たれた声はどんどんと萎み、しまいにはもごもごと動く口の中に消えるほど小さくなってしまった。眇められた山吹は陰差し、健康的な色の唇はもどかしそうにむにむにと形を崩しては戻る。あぐらをかいた足首を握る手はほのかに震えており、力が込められていることが分かった。
は、とヒロは溜息にも似た音を漏らす。尻上がりの響きは懐疑がよく見て取れた。無理、と少年は飛んできた言葉を己の口でも作り出す。無理、と今一度紡ぐ声は上がり調子で、どこか素っ頓狂な響きをしていた。
「無理だなんて……。この喋り方は癖みたいなものなんです。無理なんてしてませんよ」
どこか呆れた調子の、けれどもなんだか弾んだ響きで少年は答える。クエスチョンマークと不安が多量に浮かんだ表情は晴れやかなものに戻り、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。いっそ胡散臭さすら感じさせるものだ。
疑うように、試すように、ベロニカは頭上の赤をじぃと見つめる。睨めつけると表現した方が相応しいほどの鋭さだ。ものともせず、ヒロは言葉を続ける。
「そもそも、ベロニカさんの前で無理なんかしませんよ。これだけ熱く語れるヒトの前で無理したり取り繕ったりするのは無理です」
「……ほんとか?」
「嘘を吐いても意味がないでしょう? 怒られるのが分かってるんですから、吐くだけ損です」
まだ不安に揺れる黄金を、紅玉がじぃと見つめる。すっと膝を折り、少年はあぐらをかいたままの少女と視線を合わせる。暖かな色を宿した柘榴石が、細まった琥珀をまっすぐに見つめた。
「ベロニカさんの前が一番自然でいられるんです。無理なんてしてません。無理して仲間と話せるわけないでしょう?」
「……まぁ、それはそう、か」
そうですよ、とヒロは笑う。そっか、とベロニカは引き結んだ唇を綻ばせる。心元なさそうに足首を掴んでいた手が引き締まった太ももへと移動する。短い息とともに、少女は立ち上がった。今度は紅が金を見上げる。
「無理してねぇならいい!」
ニカリと笑い、インクリングは声をあげる。ロビー全体に響くほど、大きく弾ける、ハツラツとした音をしていた。はい、とオクトリングも同じほど弾けた声をあげる。すくりと立ち上がり、また赤と黄がかちあう。そこには陰も何もなく、ただ生き生きとした輝きだけがあった。
「んじゃ次行くか!」
「そうですね……、あ」
少女はトライストリンガーを器用に蹴り上げて取る。.96ガロンや他のブキをまとめて抱えた少年は、ぽつりと音をこぼして固まった。
「どした? トイレか?」
「あの……スケジュール変わっちゃいました……」
え、と漏らしてベロニカは急いで振り返る。ヒロが指差した先、大きな液晶スクリーンに映し出されたスケジュールはガチヤグラからガチホコバトルに変わっていた。反省会――と己の無駄な勘ぐりによる問答をしているうちに、随分と時間が経っていたようだ。少女は苦々しげに唇を引き結ぶ。せっかく編み出した戦法が実践できない悔しさに、己の浅はかさと間抜けさへの怒りに、少女は小さく呻き声を漏らす。警戒心を剥き出しにした鳥の鳴き声によく似ていた。
「ホコは……前に考えたの一個実践できてませんね。やってみます?」
タブレット端末を再び開いた少年は、しなやかな指を操りながら問う。くるりと回して差し出した液晶画面には、ナメロウ金属のマップ画像が映し出されていた。赤い丸、青い矢印、緑の斜線。様々な色が画像の上を踊っている。数日前、二人で反省会および戦略会議をした時のファイルだ。確かに、あの日は時間が無く考えたもの全てを試すことができなかった。つまり、スケジュールが変わったばかりの今は絶好のチャンスだ。
「やる!」
「では一回確認してからにしましょうか。時間が経ってまた見えるものもありますから」
「おう!」
抱えたブキを放り出し、ベロニカは再びあぐらをかいてタブレットを見つめる。抱えていたブキとタブレットを地面に静かに並べたヒロは、複製したファイルを表示させた。
警戒な音楽流れるロビーの隅、熱のこもった声が二つ響いては溶けていった。
バトルに行ったらすぐに取れてがっかりしただなんて言えない【ヒロ→ニカ】
五色が空から降り注ぐ。頭のずっとずっと上、無骨な機器から流れ出るそれは絶え間なく地へと降り立っていた。飛沫が霧のようになり、熱された空気を冷やしていく。盛大に流れ細かに散りを絶え間なく行うインクたちは、夕暮れの赤い世界の中でも己の確かな色を誇っていた。
「すげー……」
「圧巻ですね……」
隣で感嘆の声を漏らす友人につられ、ヒロも溜め息のように言葉を吐き出す。グランドフェスティバル特設会場、その入り口に設置されたカラフルなミストシャワー――ミストと言うにはいささか量が多いが――は少年少女を圧倒するほどダイナミックで鮮やかに入場者を待ち構えていた。
「……いや、これ通っても大丈夫なのか? 死なねぇ?」
ほぅと吐かれた息に不安が宿った声が続く。袖口をくいくいと引かれ、少年は隣へと視線を移す。一緒に会場を訪れた友人、ベロニカは警戒心をあらわにこちらの顔と流れ出るミストシャワーとを視線で往復した。インクリングおよびオクトリングは、自身の身体に適合しないインクを浴びると大きなダメージを受ける。色とりどり、つまりは自身と違う色のインクを浴びることに危険を覚えるのは当然だろう。
「大丈夫ですよ。公式サイトに『安全に配慮したインクを使用しています』と書いてありますから」
ほら、とヒロは手にしたナマコフォンの画面を指差す。細かな文字を追い終えたのか、ほんとだ、と返ってきた声は少し拍子抜けした調子をしているように聞こえた。途端、服を掴む力が強くなる。小さめにつまんで不安げに引く手は、ぐっと握り締め好奇心旺盛に引っぱり連れ行くものに様変わりしていた。前方へと、シャワーの下へと引っ張られるがままに、ヒロは足を動かす。インクが降り注ぐ水音に、元気な足音が二つ飛び込んだ。
ダン、とインクリングは思いっきり地を蹴り飛び込む。タン、と軽く地を駆けオクトリングも色の下へと身を飛び込ませた。瞬間、冷えた空気が、液体の感触が身体を包む。厳しい残暑の空気に晒され続けていた身体にとっては、この上なく心地の良いものだった。わぁ、とどちらともなく声をあげる。はしゃぎきった子どもの響きをしていた。
涼しい空間を潜り抜け、ヒロは会場へと足を踏み入れる。瞬間、音が弾け空気が大きく震えた。楽器の通る音色、負けじと主役を張る歌声、そして盛大な歓声。きっとライブが始まったところなのだろう。入り口を抜けてすぐの場所にステージがあったはずだ。
「何だこれ!?」
隣から悲鳴。何事だ、と急いで顔を向けると、そこには自身の腕を見つめるベロニカの姿があった。視線の先、健康的な色をした剥き出しの肌には緑色のインクがべっとりと付いていた。否、腕だけではない。頭に、頬に、耳に、服に、手に、足に、靴に。身体中のそこかしこがカラフルなインクで彩られていた。インクにまみれた大きな両の手が、持ち主の身体を性急に触っていく。うわ、と時折聞こえる声は驚愕に満ちていた。
少女の姿に、思わず少年も身体を確認する。色合いは違うが、己の身体も彼女と同じようにインクまみれになっていた。皮膚に直接ついているというのに、痛みや違和感は一欠片もない。本当に無害なインクを使っているようだ。
「すごいですね……」
「驚かせんなよなー」
もう、とベロニカは頬を膨らませる。眉は寄せられ目は細くなっているものの、口元は綻んでいる。口ぶりとは反対に、サプライズめいたこのサービスを楽しんでいるようだ。愛らしい様に、ヒロも頬を緩ませた。
「すげぇな。全然落ちねぇし痛くねぇ」
「べとついたり流れたりもしませんね。これ、どういう仕組みなんでしょう」
二人は今一度自身の身体を見回す。衣服はもちろん、肌についたインクが汗で流れ落ちる様子は無い。触れたかぎり、完全に乾いて張り付いているようだった。だのに、痛みも無ければ不快感も無い。訳の分からない技術である。
「頭が一番すげーな。ほら」
そう言い、少女はこちらに青い何かを差し出した。よく見れば、それは彼女の髪だった。常は鮮やかで美しい黄色を三つに編み込んだそれは、今は青で塗り潰されている。先ほどのミストシャワーの仕業だ。反対側、流した長い髪はピンクに染まっている。鮮やかな黄に目に痛いほどのピンク、吸い込まれてしまいそうな深い青は、不思議ながらも彼女自身の黄と調和が取れていた。
「こことかヒロみてーだ」
青色に染まった三つ編みを指差し、ベロニカは笑声をあげる。確かに、彼女に付着した青は己固有のインク色とよく似ていた。チームを組む時は同じ青に染まることもあるが、こうやって黄に青が散る様は見たことがない。
少女の姿に、少年の心臓がドクリと大きく拍動する。ひゅ、と息を吸った喉がおかしな音をたてた。
髪がまばらに染まる様など見たことがない。見たことはないけれど、想起するものはある。以前インターネットで読んだウェブ漫画だ。年齢制限はかからないものの、少しだけ『大人』なその漫画では、キスをすると二人の色が混ざっていた。とっても『大人』な口付けを終えると、女性の髪には男性のインクの色がにじんでいたのだ。まるで、侵蝕するように。自分のものだと主張するように。
今の彼女の姿は、まさにそれのようで――己で染まったようで。
ドッドッと小さな心臓が大きな音をたてる。頬に気温とは関係が無い熱が集まっていく感覚がする。ミストを浴びたばかりだというのに熱くてたまらなかった。無害なインクを浴びたというのに内臓が痛みを訴えていた。全ては己の頭が原因なのは明白だ。
「どした?」
地を見つめていた赤い目がハッと上げられる。視界が地面の茶色から、色とりどりの世界に、訝しげにこちらを見つめる黄色に染まる。髪をつまんだまま小首を傾げる友人――否、想いビトの姿に、少年は口を開く。声を出すはずが、大きなそれからは空気しか出てこない。は、と吐き出された呼気は浅いものだ。己の心臓の駆動とは正反対に細く小さなものだった。
「い、え。似合っているな、と」
「似合う?」
どうにか笑みを作り出し、どうにか言葉を作り出す。オクトリングの言葉に、インクリングはまた小さく首を傾げた。ふぅん、と訝しげに鼻を鳴らし、少女はビビッドカラーに染まった髪を眺める。そっか、としばらくして聞こえた声は上機嫌なものだった。
「ヒロも似合ってんぞ」
「ありがとうございます」
ニカリと笑う片恋相手に、ヒロはにこやかさを意識して礼を返す。依然顔は熱いし、心臓は痛いし、拍動はうるさい。こんなみっともない様子を察せられるにはいかなかった。己の演技が上手くいったのか、頬に付着したインクが隠してくれたおかげか、はたまた彼女の気遣いなのか。ベロニカは何も言わず笑みを返した。その頬にもまた、青が存在を主張している。更に鼓動が早くなった気がした。
「いこーぜ。結局どこに投票すんだ?」
「まだ悩んでいるのですよね……。今回のお題は難しすぎますよ」
「もう色で選ぶか」
「それは真剣に選んだ方に失礼かと」
じゃあどうすんだよ。どうしましょうか。悩む声が、弾む声が、会場へと吸い込まれていく。絶え間なく流れるシャワーが二人の背を隠してしまった。
シーズン開始まであと十日【ヒロ→ニカ】
ロッカールームの一角、赤い瞳が黄色い頭をじぃと睨む。これだけ熱烈な視線を送られているのに、相手は一切気付いていないらしい。言葉を発することもなくじぃとソファに座っていた。気付かないのも当然だろう。その目は、その意識は、全てナマコフォンの小さな画面に釘付けになっているのだから。
「……ベロニカさん」
「…………ん? 何だ?」
ヒロは目の前の、ずっと刺すような視線を送っていた友人の名を呼ぶ。普段よりもいささか低い、他人が聞けば『機嫌が悪い』と判断されてもおかしくないような響きをしていた。名を呼ばれた本人は欠片も知らぬといった顔で、普段と一切変わらない調子で短く返す。彼女らしくもなく少しばかり間があったのは、意識が画面の中に吸い込まれていたからだろう。音を認識するまでタイムラグが生じるほど集中していたのだ。いつだって機敏な彼女らしくもない姿だった。彼女を彼女らしからぬ姿にするほど、液晶画面に映る映像は衝撃的なものだった。
フルイドV。
先日、国際ナワバリ連盟から発表された新たなブキ。ハイドラントやエクスプロッシャーを手がけるブキメーカーが新開発したブキ。バンカラで発達しまだ二種しか存在しないストリンガー種に颯爽と殴り込んできたのがこのブキだった。
発表を見た瞬間のベロニカの反応は凄まじいものだった。滅多に聞かない上擦った歓声をあげ、宝物を見つめる子どものようにキラキラと目を輝かせ、天を衝かんばかりに拳を振り上げたのだ。挙げ句の果てには想いを寄せるように毎日件の発表動画を見る始末である。まるで恋する乙女のようだ。考えただけでも胃が痛くなる表現だが、そうと表すのが一番相応しい様子であった。
「またフルイドの動画ですか」
「そう! 何度見てもほんとにすげーんだよなぁ!」
溜め息交じりに問うオクトリングに、インクリングは目を輝かせて返す。ナマコフォンに向ける視線はプレゼントを目の前にした子どもそのものだ。いつだって鋭さと輝きを宿し、年齢からは考えられないほどの気迫と気概を纏った彼女からは想像できないものだった。非常に可愛らしく胸が苦しくなるほどの破壊力を持っていた。それ以上に、まだ幼い心をめいっぱい叩きつけて割って壊すような恐怖をもたらすものだった。
ちらりと小さな画面へと視線をやる。映っているのはフルイドVだけではない。紹介PVを担当する男性のインクリングもだ。動画内で使い手を務める彼は、たしかトライストリンガーを主に使うプロプレイヤーのはずだ。極秘も極秘、決して外部に漏らせぬ新ブキを先行して体験させてもらい、対戦の様子を撮影され配信されるほどなのだから、よほど信頼のある者なのだろう。それだけに、腕は凄まじいものだった。ベロニカという巧みなるトライストリンガー使いと数え切れないほど手合わせし、研究のためにいくらか使いこんだ身から見ても、その経験と実績が分かる動きをしていた。
そんな素晴らしい――有り体に言って『強い』プレイヤーを見て、この己と同じほど『強い』者を求めるベロニカがどう思うか。
戦いたいと思うだろうか。憧れを抱くだろうか。目指すべく相手とするだろうか。その強さに惚れ込むだろうか――恋するだろうか。
仮定も仮定、根拠の薄い妄想による二音節を考えただけで、チャージャーに撃ち抜かれたように胸に強い痛みが走る。スロッシャーに被せ潰されたように頭が痛む。潜伏ローラーに出くわした時のように心臓が大袈裟なほど脈打つ。ストリンガーの氷結弾を直接撃ち込まれたかのように背筋を冷たいものが駆け抜けていく。
一言で表すならば『恐怖』だった。だって、好きなヒトが別のヒトを好きになるなんてこと、想像したくないに決まっている。
「――き遅いし重量級なんかな。中量級だといいんだけどなー」
弾んだ声に、暗がりへと転がり落ちていた意識が浮上する。焦点の合った視界の中には、ニコニコと輝かしい笑みを浮かべるベロニカがいた。胼胝のある美しい指が指す先にあるのは相変わらずあの動画だ。あのプロプレイヤーだ。あの男性だ。
ぎゅっと拳に力が入る。指が手の平を突き抜けてしまいそうな勢いだ。緩めたいのに、身体が言うことを聞かない。痛覚が神経を刺激するのに、思考はぐるぐるとぐちゃぐちゃと掻き回されるばかりで理性的な動きができない。
「――あ、の」
ヒロは口を開く。か細い声はいつだってハキハキと話す彼らしくもないものだった。やっと異変に気付いたのか、ベロニカはナマコフォンを片手で閉じてまっすぐに少年を見る。どうした、と尋ねる声は真剣そのものだった。幼い光が輝く瞳に、鋭さが戻る。
「あ、の……、ベロニカさんには、トライストリンガーが一番似合うと思います!」
オクトリングは叫ぶ。街中に響き渡りそうな声量だった。事実、自身のロッカーを開いていた者がいくらかぎょっとした顔を向けるほどである。意図したわけではない。今この場で声を制御する機能など、恋を患う頭には不可能なのだ。
「……お、おう。ありがと?」
声量にか、突然の賛辞にか、ベロニカはぱちりと目をしばたたかせる。答える顔も声も気が抜けた、疑問符が浮かんだものだ。それはそうだ。いくら肝の据わった少女と言えど、いきなり呼ばれ大声で脈絡もないことを言われて困惑しないわけがない。
「だ、から、無理にフルイドを使うことはないかと思います! 注目するのは分かりますけど! で、も……あの……」
えっと、と続く声はどんどんと萎んでいく。己の制御できない声に、想いビトの戸惑った様子に、ヒロは見開いた目を泳がせる。己の行動に己が一番驚いていた。理性のストッパーが効かなくなっただけで、こんなに幼い行動を取ってしまう。あまりにも醜く苦しい事実であった。ナンプラー遺跡の採掘跡にでも埋まりたい心地である。
「いや、無理とかそんなんあるわけないだろ。新しいブキは使いたいだろうが。しかもストリンガーだし」
惑っていた黄色い目がじとりと細められる。訝しげな視線が少年の全身を突き刺す。何を言っているんだお前は、と言いたげなものだった。当然である。
「つーか、似合う似合わないじゃなくて強いか強くないかだろ?」
「…………はい、その通りです」
はん、と鼻を鳴らすインクリングに、オクトリングは萎んだ声で返す。言い返す余地など無い、まさしく正論だった。普段の己ならば同じ判断を下すに決まっている。けれども、恋が絡む心は非論理的な言葉ばかりを紡ぎ出すのだ。あまりにもみっともない現実である。
「ほんっとらしくねーなー。なんかあったのか?」
「いえ、何もありません。本当に何もありません。ただベロニカさんにはトライストリンガーが一番似合うと思っただけです」
ほんのりと心配の色を宿した黄が赤に向けられる。逃げるように頭ごと地へと視線を移し、ヒロは言い訳をまくしたてた。何もかもが不自然であるのは己が一番分かっていた。ふぅん、とまた鼻を鳴らすのが聞こえた。
「まぁ、似合ってるって言われて悪い気はしねぇな」
あんがとな、と少女は笑う。柔らかで、温かで、朗らかで、幸せがにじむ笑顔だった――その愛らしい笑みを向けられた当人は地面とにらめっこしていて気付かないのだが。
布が擦れる音。目の前の影と気配が消える。やっとのことで視線を上げると、そこには伸びをするインクリングの姿があった。傍らに置かれていたトライストリンガーは既に彼女の手の中へと戻っていた。
「スケジュール変わったしいこーぜ。今日はナワバリからやるか?」
「……そ、うですね。少し身体を慣らしてからにしましょうか」
スタスタと横を通り抜ける少女に、少年は急いで身を翻して後を追う。不自然に固い声で返してしまったが、彼女は気付いていないらしい。今カジキだってさ、と呑気な声が返ってきた。
少女の手の中にあるナマコフォンには、もうフルイドVも、男性の姿も無かった。
ナワバリはとっても広くて【ヒロニカ】
このヒトにはパーソナルスペースというものがあるのだろうか。
肩から伝わる熱を想い、ヒロは考える。紙が繰られる軽い音が昼下がりの少し陰った部屋に落ちた。
隣、己の肩に頭を体重を預け漫画本を読むベロニカを見やる。常は敵を見とめる鮮烈なイエローは、クリーム色の紙面を絶えず追っていた。読み進める速度は自分よりも遅い。じっくりと味わうタイプなのだろう。時折、漏れる笑みの揺れが肌を伝わってきた。
交際を始めてからというものの、ベロニカのスキンシップは増えた。元から背を叩き鼓舞する、頬に負った傷を手早く手当する、好みのルールとステージ選出に逸るあまり手を繋いで走る、といったことは時折あった。けれど、所謂『コイビト』という関係になってからというものの、それらは当然のようになり、更に積極性を増した。二人きりの時手を繋ぐ、勝利を祝い肩を組む、愚痴を漏らしながら抱きついて頬ずりをする、背もたれのように寄りかかって座る――ちょうど今のように。
嫌なわけではない。むしろ、喜びが何十倍にも勝っている。今だって、心臓が跳ね跳んでいってしまいそうなほど脈打つほどである。けれども、これだけ気安いと己以外の誰かにもやっているのではないか、と不安がよぎるのである。彼女を信頼していないのではない。ただ、彼女が己以外の誰かと触れ合うのが嫌なのだ。端的に言って嫉妬である。何ともイカしていないがどうしようもない。悲しいかな、己はまだ精神が成熟しきっていないし、交際はこれが初めてなのだ。
「ひろー?」
耳のすぐ側から聞こえる声に、少年の肩がビクリと跳ねる。呼ばれるがままに顔を向けると、そこには首を軽く反らせてこちらを見る少女があった。先ほどまで熱心に読んでいた本はその両手に閉じて収まっている。読み終わったのだろう。
「読み終わりましたか?」
「全巻読んだ。どこ戻せばいい?」
「テーブルの上に置いておいてください。後で片付けます」
ん、と短く返事し、インクリングは手にしたコミックスをテーブルの上に置く。彼女らしからぬゆっくりと、慎重さすら感じる動きだ。これらの漫画は己の所有物である。きっと、粗雑に扱ってはならないと思ってくれたのだろう。荒々しく猛々しいバトルを見せる彼女だが、こういうところはきちんとしているのだ。ただただ彼女がきちんと教育され健やかに育った証であるだけなのに、なんだか愛されているような気分になる。勘違いも甚だしいと頭の中の何かが嘲った。
肩に、腕に、身体にかかる重みが増す。肩に、腕に、身体に熱が触れる。肩に、腕に、身体に彼女のぬくもりが直に伝わってくる。寄りかかる少女は、むずがるように頭をこすりつける。躊躇いのない、警戒心の欠片もない姿に、少年の心臓は更に早鐘を打つ。このままではこれだけドギマギしていることがバレてしまう、という焦りすら生まれるほどだ。
「べ、ろにかさんって、結構パーソナルスペースが狭いですよね」
「ぱーそなる……何だそれ」
逃げることもできず、逃げたくない本能に抗えず、少年は意識しすぎる思考から逃れるように言葉を放つ。いきなりの話題転換にか、布と肌が擦れる感覚が止まる。返ってきたのは疑問形の声だった。首を傾げたのか、肩に固いものが擦れて衣擦れの音をたてた。
「簡単に言うと『他者を近づけたくない範囲』です。結構触れたり近づいたりしますし、狭いんだなって」
「ナワバリみたいなもんか?」
「そうですね。近いと思います」
ふぅん、とベロニカは鼻を鳴らす。ふむ、とヒロも口の中で呟いた。たしかに、日夜ナワバリ争い――歴史上では戦争すら行ったほどだ――に明け暮れるインクリングたち相手ならば、『パーソナルスペース』は『ナワバリ』と言い換えた方が伝わりやすい。いや、『ナワバリ』の言葉の強さと種族ゆえの意味の強さを当てはめるのは少し危険か。そんな詮無いことを考える。気づいた頃には、身体にあったはずの熱は姿を失っていた。姿勢を正したのだろうか、と考えていたところに、なぁ、と声が飛んでくる。どこか笑みを含んだそれに引かれるように、ヒロは顔ごと視線を動かす。口角を上げたコイビトの姿が視界を埋めた。
「インクリングってさ、生まれた頃からナワバリ意識つえーんだよ。ナワバリ……まぁ、雑に言うと自分だけのだって場所は広く持とうとするし、広げようとする。それぐらい知ってるよな?」
「はい……?」
突然の言葉に、オクトリングは首を傾げて返す。誰もが知っている常識であるため肯定したものの、その真意が分からず思わず疑問が浮かぶ響きとなってしまった。それでも彼女にはきちんと伝わったらしい。潤いを保った唇が三日月を描いた。うすらと開いたそこから鋭い白が覗く。
「そのひろーい、一生懸けて広げたひっろーいナワバリにあんたを入れる意味」
歌うように少女は言葉を紡ぎ出す。ソファの座面に放り出した手の甲に、温かなもの。すべらかなものが肌の上を滑っていく。少し硬さをみせるものが、くすぐるように指と指の間を撫でる。消えた熱が再び姿を現す。
「わかるよなぁ?」
問いかけ、インクリングはにまりと笑う。はっきりと見えるカラストンビは美しく、輝かんばかりの鋭さがあった。肉食であり捕食者であることをまざまざと主張してくる。
インクリングとってナワバリは、本能に刻まれた生における最重要事項である。それこそ、太古の世界ではインクリングとオクトリングは地上というナワバリを奪い争ったほどだ。
広げ、主張してきたそこに、赤の他人を入れる。そんなの。
ぶわりと身体中に熱が広がっていく。こんがりと焼けた肌に鮮やかな紅が広がり、存在を主張していく。赤い目が瞠られ、太陽もかくやと真ん丸になる。大層大きな口が薄く開かれ、震える舌が覗く。その身体を動かす心臓は、耳元に移動したのではないかと錯覚するほどうるさく音をたてた。
する、と手の甲を撫でていた指が動く。なぞるように動いたそれが、己の指と指の間にそっと埋まり、ぎゅっと握られる。ナワバリに入ったものを――自分のものを逃さんとばかりに、強く握られる。触れ合う面積が広がって、伝わる熱も増える。心地よさを覚えるはずのそれは、今は毒のように身体を巡っていくばかり。心臓をばくばくと跳ね動かし、脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き、心をめためたに引っ掻き回していった。
「気に入らなくなったら蹴り出すけどな」
「……容赦ありませんね」
「そんぐらい分かってんだろ?」
先ほどの甘さも恐ろしさも消え失せた声が軽口を叩く。どうにか返した言葉に、いたずらげな笑みが向けられた。その頬が普段より血の色が濃くなっているのは気のせいだろうか。問う声にまだ甘やかな香りが残っているのは気のせいだろうか。見つめる目に熱が宿っているように見えるのは気のせいだろうか。全部気のせいであってほしい。ナワバリ意識たっぷりの言葉に加えてそれらまで受け入れられるほど、まだ己の器は大きくない。全てをリセットしようと頭を振りたくなる衝動を、ヒロは必死で抑え込んだ。
いつの間にか緩んでいた手が、また握られる。先ほどのような力強いものではなく、じゃれつくような軽いものだ。己の手をおもちゃにしているかのようだった。これだけ振り回されているのだから、あながち間違いではないかもしれない。混迷に混迷を重ね迷走する思考は、明後日の方へと飛んでいっていた。
この手からは、彼女のナワバリからは、当分逃げられそうにない――逃げるつもりはない。
朝ご飯は早くから仕込んで【ヒロ→ニカ】
重なる短い鳴き声が沈んた意識を引っ張り上げていく。真っ黒な瞼が強張ったようにぎこちなく持ち上がり、黄色い瞳が姿を現した。差し込む陽光を直に受けたまんまるは、消え現れを繰り返してやっと普段の姿を取り戻す。寝起きには厳しいまばゆさに濁った音が喉から漏れた。
ごろりと寝返りを打ち、ベロニカは己を照らし出す朝日から逃れる。抱き込んだ布団は普段のものと違う匂いがした。覚えた小さな引っかかりは、意識に飛び込んできた甘い香りによって全て霧散した。砂糖の甘い匂い。焼ける香ばしい匂い。焦げるような少し濃い匂い。寝惚け頭を覚醒まで引き上げるには十二分に足るものだった。
知らない布団を投げ捨て、インクリングはベッドを飛び降り裸足で床を歩いていく。見慣れてきたキッチンに続く扉を開けると、甘い香りがぶわりと広がって身体を包み込んだ。脳と胃を刺激するそれに、腹の虫が寝起き一発目の鳴き声をあげた。
「あれ、起こしちゃいましたか?」
フライ返しを片手に、ヒロはぱちりと目を瞬かせた。コンロの火が落とされる硬い音が二人の間に響く。同時に、砂糖が焼ける匂いがほんの少しだけ気配を薄くした。
「眩しくて目ぇ覚めた」
「あぁ、すみません。カーテン閉めておいた方がよかったですね」
「寝っぱなしもよくねぇし気にすんな」
眉尻を下げ、申し訳無さそうに少年は言う。少女は言葉通り気にする様子なく手をひらひらと振った。事実、度を過ぎた睡眠は回復からすぐさま反転して疲労へと変貌する。ここらで起きるのが身体は正しいと判断したのだろう。
「何? ホットケーキ?」
火が消えたコンロの上、静かになったフライパンを覗き込む。映ったのは予想した丸ではなく四角だった。四方が茶で囲まれた四角が、白い身体を焦げ目で彩って横たわっている。淵の部分はまだしゅわしゅわと油が泡立っていた。
「フレンチトーストです」
「おしゃれじゃん」
「そんなことありませんよ。簡単にできますし」
ぱちぱちと瞬くベロニカに、ヒロは小さく首を振って返す。柔らかな笑みはどこか面映そうに見えた。
彼は否定したものの、己にとってはフレンチトーストとやらはかなり手の込んだ料理である。何しろ長時間調味液に漬けてパンにたっぷりと吸わせなければならないのだ。十分やそこらならまだしも、何時間、それこそ一晩を要するような代物だ。手早くできない料理なのだから、十分に手がかかっているおしゃれな食べ物だった。
「つってもめちゃくちゃ浸しとかないとだろ? めんどいじゃん」
「あー……、電子レンジを使えば簡単にできるんです。何度か温めればすぐに液を吸ってくれるんでしょ」
へぇ、と少女はまた目をしばたたかせる。少年の言葉に、山吹の瞳はいつの間にかキラキラと輝きだしていた。己も料理は人並みにはするものの、彼ほど日常的に行うわけでもなければレシピ開拓の努力もさほどしない。故に、そんな裏技のようなものを聞くのは初めてだった。魔法のようなそれは起き抜けの頭にも輝かしく見えた。
「ちょうど焼けたところですし食べましょうか。飲み物何にしますか?」
「冷たいやつ」
ではコーヒーで。歌うように言いながら、ヒロはフライパンの中身を皿に移す。二口コンロのもう一つにかかっていたフライパンと素早く取り換え、その中身も皿に放り出す。転がり込んできたのは、よく焼け目がついたウィンナーだった。
突然の闖入者に、よく整えられた眉が寄せられ黄色い丸い頭がことりと傾ぐ。フレンチトーストとは甘いものである。食事ではあるものの、味は菓子に近い印象があった。なのに、ウィンナー。塩気の強い肉が一緒に並んでいるのは何故なのだろう。このフレンチトーストは甘くないのだろうか。いや、でもこのキッチンには砂糖が焦げた甘い匂いが満ちているではないか。
「……合うのか?」
「合うんですよ」
首を傾げ呟くインクリングに、オクトリングは短く返す。どこか得意げな響きをしていた。ほんとか、と少女は訝しげに呟く。食べてみてください、と笑みを含んだ声が返された。何だかからかわれているようで不服だが、彼の味覚は己と似通っているはずだ。少なくとも食べれないほどの代物ではないだろう。
並べられた皿を素早く手に取り、ベロニカは器用に扉を開けて部屋へと戻る。昨晩二人で熱心に議論し書き込んだノートと色とりどりのペンを端に寄せ、広くなった場所に料理を置いた。ついでに蹴飛ばした布団を手早く畳んでベッドに戻す。皺の波立つシーツが朝日に照らされていた。
しかし、朝食までもらう羽目になろうとは。眉根を寄せ、少女は小さく唸る。
昨日は遅くまでバトルをしていた。特に新しく登場したナンプラー遺跡はまだ研究が進んでいないこともあり、スケジュール更新までずっと二人で潜っていたほどだ。それでもデータは足りなくて。動きを考える頭は冴えきって。戦略を立てたい心は躍りに躍って。
うちに来い、と言い出したのはベロニカだった。今この頭にある立ち回りやポジションを明日まで溜め込むのは不可能だ。それに、高台を陣取るトライストリンガーの視点だけでなく、ステージを駆け回るシューター視点での所感も確かめておきたい。経験を積みに積んだ今日のうちに議論して、アウトプットしたくてたまらなかった。
それを距離の観点から否定し、こちらの部屋に来ないかと提案したのはヒロだった。こちらの部屋までは駅一つ分だからすぐに帰ることができる。その分議論や戦略の構築に時間を割くことができる。ついでに昨日の残りがあるから軽い食事だって食べられる。彼の提案は論理的で魅力的だ。疲れたはずの身体で歩き出したのはすぐだった。
議論し、思考全てをアウトプットし、ノートに疑問を書き出し、動画サイトに投稿されたステージ案内動画を食い入るように見つめ、研究を重ね。気づいた頃には終電はとっくに過ぎていた。泊まっていってください、と布団一式を引きずり出しながら言う少年に甘え、今朝に至る。
本当ならば早くに起きてすぐに帰る予定だったのだ。さすがに泊まらせてもらった上に朝食まで食べさせてもらうのは申し訳無さが先立つ。今度なんか差し入れでも持っていくか、と考えつつ、少女はフローリングに腰を下ろした。途端、思考に何かが引っかかって冴え始めた頭がつんのめる。ん、と細い喉が鳴った。
ヒロは『電子レンジを使えば』と言っていた。しかし、電子レンジを動かした音は聞いた覚えがなかった。眠っていて聞き逃したのかもしれない。だが、『何度か』という言葉が確かなら、複数回使ったということに間違いはない。あんなに高い音を何度も聞いて、己が目覚めないのは不自然である。
まぁ、それほど疲れていたのだろう。何しろ二時間休み無しでバトルし、夜通し頭も口も動かしたのだ。気づかないこともあるだろう。結論づけ、少女は目の前の皿に視線を移す。できたてなのか、どちらの品もまだ細い湯気をあげていた。
柔らかな甘い香りと肉の焼けた香ばしい香りが狭い部屋を漂っていた。
畳む
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