401/V0.txt

otaku no genkaku tsumeawase

TOP
|
HOME

No.175

諸々掌編まとめ12【SDVX】

諸々掌編まとめ12【SDVX】
top_SS01.png
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟4/奈+恋/雷+グレ/ライレフ


強火はコンロの最大火力を指す言葉ではない/嬬武器兄弟
 掴んだ黒を口に運ぶ。歯に触れたそれはすぐに解けた――否、崩れた。味蕾を殺すような強烈な苦味とザリザリとした不快な食感が舌の上を広がっていく。砂を食べた方がマシだ、と思うほどのものである。これが食べ物であることを認めたくないほどの代物だ。今すぐ吐き出してしまいたいほどおぞましい何かだ。そんなことは許されないのだけれど。
「……雷刀」
「ダメだかんな」
 対面から不安げな声が飛んでくる。この十数分だけでも三度聞いた言葉が重ならないようにすぐさま声を重ねる。有無を言わせぬような鋭さで言ったつもりが、響きは少しばかり震えた情けないものとなってしまった。聞き入れないとばかりにまた箸で黒を掴む。薄っぺらいそれはボロリと崩れ、欠片しか残らなかった。躍起になってかき集め、掴み、崩れる前に口に放り込む。凄まじい苦味と青臭さ、ざらつく食感とやけに硬い歯ごたえ、焦げ臭さがまた五感を蹂躙していった。
 料理を始めてから少し経ち、ある程度の基礎は身についたと思っていた。そろそろ簡単な料理ならばレシピを見ずとも作れるだろうと思っていた。味見をきちんとすれば弟のように勘で味付けできるだろうと思っていた。全ては思い込みだ。今更気付いたところでどうにもならないのだが。
 冷蔵庫には野菜が中途半端に余っている。ならば、野菜炒めにしよう。そうしてフライパンに材料を放り込んでできあがったのが、目の前にうず高く積み上がった黒の山である。材料の全ては真っ黒に焦げ付き、元の色がほとんど分からない。キャベツやほうれん草と思われるものは薄い部分が炭と化していた。そのくせ人参や玉ねぎは火が通りきっていない。豚こま肉も例外なく焦げ、噛みちぎるのも一苦労なほど固くなっている。塩胡椒で味を付けたはずが、全て焦げによって上書きされていた。だのに時折胡椒の塊が舌を刺すのだから悲惨でならない。見た目からしても、味見をしても、食べ物として成立していない。『料理』として食卓に出すなど絶対に許されない代物であった。
 こんなもの、到底人様――たとえ家族で兄弟で己の料理の腕の拙さを知っている弟でも、食べさせることなどできない。結果、兄弟二人の夕飯になるはずだったそれは己の目の前にだけ置いた。弟の分は冷凍のからあげと常備菜、味噌汁でどうにか成り立たせた。冷凍食品、そして常に作り置きをしてくれている弟には感謝ばかりが募っていく。同じほど、申し訳無さも積み上がっていった。
 何が悪かったのか。まず火加減だろう。火加減が強くなければ焦げないのだ。あとは調理時間か。気がついたころには葉物野菜は炭となっていた。長く炒めすぎたのだろう。あとは。
 苦味に支配される口内から意識を逸らすように原因を探っていく。考えれば考えるほど悪い点しか見つからない。なのに、何故調理中は気付かなかったのだろう。何故気付かずにこんな代物を生み出してしまったのだろう。後悔がどんどんとのしかかってくる。飲み下した喉がおかしな音をたてた。
「やはり手伝った方がいいですよ。一人で食べるなんて無理でしょう」
「ダメ。やだ。オレが全部食べる」
 箸を置き手を差し伸べる烈風刀に、雷刀は強く首を横に振る。整った手が近付きつつある皿を急いで取り、己しか手が届かない場所に置いた。そんな顔で言っても、と困ったような呆れたような声が食卓に落ちた。
「オレが作ったんだからオレが責任とんねーといけねーだろ」
「それはそうですけど」
「だからダメ。烈風刀は食べなくていい」
 きっぱりと言い、兄はまた野菜炒めとなるはずだった黒の山に箸を伸ばす。こぼれそうなほど掴み、崩れ去る前に口に放り込む。最低限の咀嚼をして飲み込み、味噌汁を飲んで苦味を流す。黒い野菜たちはゆっくりなれど着実に姿を消していった。
 心配げな、申し訳無さそうな碧が視界の端に映る。心優しい弟はどうにもこの失敗作が気になって仕方がないらしい。二人分の材料で作った結果生まれた山のような失敗作を一人で食べる己が心配で仕方ないらしい。気持ちはありがたいが、食べさせるわけにはいかない。いつも美味しい料理を作ってくれる弟に、いつも丁寧に料理を教えてくれる弟に、己の驕りによって生まれたこいつを食べさせるなどあってはならないのだ。全ては彼の教えを――『慣れないうちはちゃんと計量してレシピ通りに作る』という基本中の基本を守らなかった己が悪いのだから。
 またひっ掴んで口に放り込み、飲み込む。苦味を忘れようと味噌汁椀を手にとったところで、その軽さに違和感を覚えた。苦々しく細くなった朱い目が黒い椀へと向けられる。プラスチックの食器の中身は、既に空っぽだった。どうやら、先ほどの一口が最後だったらしい。こういう日に限って味噌汁はきっかり二杯分しか作っていないのだ。ぐぅ、と喉が低い音を鳴らす。残りは白米で誤魔化すしかないようだ。冷凍のやつ残ってたっけ、と冷凍庫の中身を必死に思い出そうとした。
 テーブルの上に沈黙が積もっていく。食器がぶつかるかすかな音だけが、普段は人の声で満たされる部屋に落ちていった。




雨の音、春の足音/嬬武器兄弟
 バタバタと頭上で騒がしい音が鳴る。安物のビニール生地は、強い雨脚にも負けず己の仕事を淡々とこなしていた。ぱしゃんと足元で軽い音が鳴る。そろそろ傷みが目立ち始めた靴は、跳ねる水にも耐え抜き足を守った。
 水溜まりを避けながら、雷刀は歩みを進める。ちらりと透明なビニール傘越しに空を見るが、薄墨色の雲が晴れる気配も激しい雨が止む気配も無い。当然だ、今日の天気予報は雨、降水確率八〇パーセントである。雨粒は朝からずっと地を叩き世界を濡らしていた。
 雨水が乗って重くなった傘が、バランスを崩してゆっくりと傾いていく。左隣のナイロンバッグめがけいくそれに慌てて、細い柄を引き寄せる。反対側に勢いよく動いた雨水が己の右肩を濡らした。つめてっ、と思わず声を漏らす。まっすぐ持たないからでしょう、と少し笑みを含んだ声が雨音に混じって聞こえた。
 普段ならばこんな土砂降りの日に外に出ることはない。わざわざ雨に降られて洗濯物を増やすなんてことはしたくないのだ。けれど、今回ばかりは事情が違う。何しろ今日のセールでは牛乳が一パック一六〇円なのだ。その上、キャベツが一玉八〇円である。何としてでも買わねばならない。牛乳もキャベツも日々凄まじい勢いで消費されていくのだ。
 そうして二人でスーパーを目指し、無事お一家族二つまでのそれらを確保し、切らしていた食材や日用品を買い、帰り道に至る。
 傘をまっすぐに持ち直しつつ、雷刀は歩みを進める。開店直後の早い時間だからか、それともあまりに強い雨のためか、広い歩道には兄弟二人しかいなかった。休日の朝だからか、車通りも少ない。まるで世界に二人だけ取り残されたようだ。最近読んだ漫画の影響か、そんな空想が頭の中に広がっていく。なんだか面白くて、思わずくるりと傘を回す。うわ、と隣から跳ねた声が聞こえた。
「冷たいじゃないですか。やめてください」
 碧い瞳が眇められ、じとりとこちらを睨みつける。どうやら、今の手遊びで傘に溜まった雨水が弟の方へ飛んでいってしまったようだ。見ると、左肩にかけたネイビーのナイロンバッグと、シアンのパーカーの左肩部分の生地がいくらか暗く色を変えていた。水を吸っている証拠である。
「え? あっ、ごめん」
「子どもじゃないんですから」
 謝るも、返ってくるのは呆れ声だ。幸い、今日買ったものはビニール袋に小分けにして詰めている。バッグの中身に影響はないだろう。だからこそ互いにこの程度で済んでいるのだ。ごめんごめん、と軽い調子で謝罪の言葉を口にする。ぱしゃん、とまた足元で水が跳ねる。またうわ、と驚いた声が聞こえた。
 低い言葉が飛んでくる前に、兄は二歩踏み出し先を歩んでいく。これ以上隣を歩くのは互いに危険だ。少し早い調子で足を動かし、どんどんと雨降る世界を歩んでいく。バシャバシャと水が薄く張ったコンクリートが声をあげる。時折足首に感じる冷たさを無視しながら、朱は帰り道を進んだ。
 程なくして、赤信号が目の前に立ちはだかった。雨でけぶる世界の中でも煌々と輝く赤に従い、雷刀は足を止める。ここの信号は少し長い。多少待つことになりそうだ。手持ち無沙汰に右肩にかけたナイロンバッグを担ぎ直しながら、少年は辺りを見る。大通りから離れたこともあり、人の姿は見えない。雨雲に覆われた空は灰色で、コンクリートの地面は水で濡れて黒色で、かすれつつある横断歩道は変わらず白で、等間隔で植えられた街路樹はまだ冬を越したばかりで枯れ木色で。無彩色に近い世界の中、暇潰しに色を探していった。
 気付いたのはすぐだった。葉が落ち枝だけの姿になった街路樹は、枝先に色を宿していた。分かれて走る枝のそこかしこに、小さな赤い粒が身を寄せている。ゆるく膨らんだそれは、まさに花の蕾だ。そういえばここは桜並木だったか、と少年は記憶を辿る。古びたこの道は、入学式の時分になると淡い白が舞い散って積もりゆくのだ。
「青になりましたよ」
 雨音でぼやけた耳に、慣れた声が突然飛び込んでくる。びくん、と思わず肩が跳ねる。バランスを欠いた傘が雨水を右肩に降り注がせた。つめてっ、とまた声を漏らした。
 白んだ世界の中、進んでゆく浅葱の背中を追いかける。駆ける足がまた飛沫を飛ばす。隣に並ぶより先に、いつもより一歩は距離を取られた。
「なーなー、桜まだかな」
 雨とビニール傘が奏でる音色に負けぬよう、少しだけ声を張る。きちんと聞こえたのだろう、晴天色の瞳がこちらを向いた。薄暗い空の下でも鮮やかなそれが、すっと空間をなぞっていく。あぁ、と小さな声が聞こえた。
「どうでしたっけ」
 開花宣言はされていたと思うのですが、と烈風刀は小さく首を傾げる。たしかに、SNSのニュースアカウントがそんなことを投稿していた覚えがある。あれはこのあたりのことだったろうか。それとももっと南の方の話だっただろうか。流し読みしただけのそれは全く詳細が思い出せない。そもそも見出しを見ただけで中身を読んだ覚えがない。
「あと数日で咲いてもおかしくはないですね」
「分かるもんなの?」
 弟の言葉に、兄は目を丸くする。見ただけで分かるものなのだろうか。いや、弟である烈風刀は学年主席であり博識である。その上菜園を営むほど植物の知識は豊富だ。この程度のこと、手に取るように分かってもおかしくはない。
「何となくですよ。これだけ芽が膨らんでいますし」
 最近暖かいですしね、と言葉が続く。たしかに、ここ一週間は着込まずとも問題なく過ごせるほどの気温になっていた。通学時に薄く汗を掻く日があるほどだ。季節が春に移ってからもうすぐ一ヶ月が経つ。彼の言う通り、そろそろ咲いてもおかしくない頃だろう。そっか、と感心の声を漏らした。
「まだ咲いてなくてよかった」
 兄はぽつりとこぼす。ビニールを叩いて鳴らす雨音の中からきちんと拾ってくれたのだろう、え、と珍しく間の抜けた音が返ってきた。
「ほら、今日の雨で散っちゃったらもったいないじゃん?」
「あぁ、たしかに」
 ピンと指を立てて言うと、弟は小さく頷いた。花というのは短い命だ。小さく美しく輝かしい命だ。せっかく咲いたというのに、雨に降られて全て散ってしまうなんてことがあったらあまりにも残念だ。花見だってしたいのだ。
 花見、と考えて少年は目を細める。今年は花見はできるだろうか。夏からずっと準備を進めていたプロリーグも、先日無事に終わった。まだまだアップデートは山積みだが、そろそろまとまった休みが取れてもいい頃合いだ。皆で食べ物や持ち物を持ち寄って、学園の敷地内で花見をするぐらいの休みが。
 早く咲かねぇかなぁ。雨音で支配された世界に、穏やかな声が落ちた。




狭さと温もり、それとふれあい/ライレフ
 淡い青が大波を起こし、音をたてる。盛大な音色とともに大量の湯が湯船から溢れ出ていった。白が立ち上るほど温かなそれが風呂場の床をざぱりと撫で、排水溝へと勢いよく流れゆく。碧い目は苦い色を灯してその光景を見つめた。
「あったけー」
 水道代とガス代が無駄になっていく様など欠片も知らない呑気な声が浴室に響く。ばしゃん、と大きな音。大きな波。せっかく張った湯船の中身はどんどんと溢れ、嵩を減らしていった。
「ちょっと。溢れるじゃないですか」
 もったいない、と烈風刀は縁から流れゆく湯を目で追いかける。熱めに沸かして張った湯を無闇に溢れさせるのは、良く言えば贅沢、悪く言えば無駄遣いである。こんなところまで切り詰めねばならぬほど家計は切迫していないが、無駄遣いに思えるようなことは苦手だ。そもそも、水道代とガス代の節約のためにこうして二人で湯船に浸かっているというのに。
 ネメシスの冬は寒い。雪の気配は去れども、冷え切ったから風が温度を奪っていく日々が続いていた。使い捨てカイロを手放すにはまだ早いような気温である。
 冷えた身体を温めるには風呂、特に湯船に浸かるのが一番良いだろう。身体の芯まで温めるのは冬場において重要であるし、何より寒さで凝り固まった身体を熱い湯で解すのは心地が良い。冷えた空気に晒された日ならば尚更だ。
 問題は、今住まう部屋の風呂には追い焚き機能が無いことである。そうなると、一人毎に湯を張り替えねばならない。半身浴より少し多い程度とはいえ、せっかくの湯を捨てまた沸かして貯めを繰り返すのは経済的にも時間的にもよろしくない。しかし、後に入る方が冷めて水に片足を突っ込んだような湯船に浸かることになれば風邪をひいてしまう。ではどうすればいいか。
 二人で入っちゃえばいいじゃん、と兄が指を立てて言ったのはいつの日だったか。随分と遠い昔のように思える。少なくとも、学園に入学するより前から行っていたような気がした。入学前の記憶はどうにも曖昧で思い出せないのだけれど。
「烈風刀」
 狭い浴室に己の名を示す音が響く。人を二人抱え込んで青さを失った水面から視線を上げる。目の前には、大きく腕を広げた雷刀の姿があった。
「これじゃ足伸ばせねーし狭いだろ?」
 な、と兄は小首を傾げて問う。広げた腕は、自身の身体全てを使ってこちらを抱きとめる気概に溢れていた。
 今は二人で体育座りのように身を縮こめ、向かい合って湯に浸かっている状態だ。足を伸ばせば相手の身体を蹴ってしまうし、肩までひたるのも難しい。ならば、二人で同じ方向を向いて入ればいいと言うのだ。行動派の兄にしては理論的であり、合理的である。その裏に『くっつきたい』『抱き締めたい』なんて邪な想いがあるのは明白だけれど。
 せっかく沸かした湯は節約すべきだ。身体はじっくりと温めるべきだ。手足は伸ばして筋肉を解すべきだ。ならば、従った方がいいに決まっている。羞恥よりも節制だ。己のための言い訳を並べ立て、弟はそっと立ち上がる。身を隠すように素早く反転し、また湯船に入る。しばしして、広げた腕の中、開かれた胸の中に、鍛えられた背が飛び込んだ。狭くて四角い海が音もなく波立つ。
 ばしゃん、とまた盛大な音。整った唇から文句が飛び出すより先に、厚みの少ない腹を隆起が見られ始めた腕が包み込んだ。すぐさまぎゅっと締められ、捉えた身体を抱き寄せる。むき出しの肌と肌が、湯すら入らないほどくっついた。
 温かい。熱いぐらいに沸かして張ったから温かいのは当然だ。けれども、今背から伝わってくる温もりは、風呂がもたらすものよりもっと温かくもっと心地よく思えた。いつの間にか強張っていた身体から力を抜き、烈風刀は足を伸ばす。同期するように、身体の横から兄の足が伸びていくのが見えた。
 ほぅ、と二人で息を吐く。予定よりも減ってしまったものの、湯船の中身は身体を温めるには十分な量だった。かじかんでいた足の指が解けていく。確かめるように少し動かすと、また湯がさざなみ立った。
 首の後ろに息遣いを感じる。狭い風呂場に少し低いメロディが反響する。寒さが解ける気持ち良さ故か、己を抱きとめた故か、兄は鼻歌を歌うほど機嫌が良いらしい。いくら湯気立ち込める風呂場とはいえ、濡れたむき出しの肌に息がかかるのは少しばかり寒さを感じる。けれど、不思議と止めようという気は起きなかった。
「昔は二人で入っても広かったのになー」
「もう高校生ですよ。昔とは体格が全然違うでしょう」
 この湯船は、昔は――とてもおぼろげな記憶だけれど――二人で向かい合って足を伸ばせるほど広かった。けれど、それはお互い小さかったからだ。高校生二人で入れば狭いに決まっている。このギリギリ足が伸ばせる湯船は明らかに人間が二人で入ることを想定していないのだ。
「成長しましたから」
 温かな水面を声が揺らす。溜め息のようなそれは湯気とともに消えた。
 そうだ、己たち兄弟は成長した。春に測った身長は高校生の平均よりも高かったし、日々の業務で駆け回っているからか足も腕も同学年の男子よりは鍛えられている。成長して、大きくなって、すっかり変わってしまった。身体だけでなく、心も、関係も。
 節制は大切だ。けれども、高校生にもなって兄弟二人で一緒に風呂に入ってまで節制するなど過剰である。きっちりと管理した家計は湯船を二回張っても問題ないほど余裕があるし、この辺りの水道代やガス代は良心的な価格だ。ここまでやるのは異常だ――『節制』という一点だけから見れば。裏を返せば、それ以外の理由があれば十二分にやる価値がある行為なのだ。例えば、『恋人と一緒に過ごしたい』なんて欲求を満たすとか。
 現状――恋人の誘いに乗り、一緒に風呂に入り、裸で抱き締められているという事実を再認識したところで、顔が熱湯で満たされたかのように熱を持つ。烈風刀は勢いよく湯をすくい、うっすらと汗が浮かんだ顔に浴びせた。熱く感じるほどの温度にしたからだろう、水を浴びたというのにこの顔の熱は冷める様子がなかった。
 はぁ、と満足げな溜め息が首筋に落ちる。そのまま冷たく柔らかなものが肌を撫で、温かで湿ったものが肌に触れる。腹に回された腕に力が込められ、引き寄せられるのが分かった。
「寝ないでくださいよ」
「だいじょーぶ」
 水の中、この身を抱き締める腕を軽く叩く。紡いだ言葉が信用できないぐらいには眠気をまとった声が返ってきた。首筋に押し当てられているであろう頭がむずがるように動く。ぐりぐりと頭をこすりつけるのは、撫でろと飼い主に要求する犬に似ていた。溺れても知りませんからね、と一言告げると、だいじょぶだって、と依然ゆるんだ声が落ちた。
 ふぅ、と息を吐き、碧はすっかり水位が減った湯を眺める。少し前ならばもうぬるくなっていた湯はまだ温かさを保っていた。冷えるのが遅くなるほど気温が高くなってきた証拠である。冬はもう過ぎ去り、春を迎えようとしているのだ。ならば、今冬はこれが最後かもしれない。夏場のように湯が冷めにくい時期ならば、二人で入る必要はない。春だって、少しぐらい寒くとも時間を決めれば順番に入って事足りる。二人一緒に入って、抱き締めて温まる必要なんてなくなるのだ。
 狭い風呂に二人で入るより、短い時間でも足を伸ばして一人で入る方がいいに決まっている。けれども、この時間を失うのはなんだか胸のどこかが風に晒されるような気分になるのだ。馬鹿げた感覚だ。けれども、言い訳を並べ立ててまで行う程度にはこの時間を求めているのだ、己は。
 血色が良くなった唇がまっすぐに引き結ばれる。湯気を浴びた目が眇められる。湯に浸していない頬に紅色が広がっていった。また湯をすくい、烈風刀は豪快に顔を洗う。飛沫が湯船から溢れ、床を滑って排水口に流れていった。
 首筋に、肩に重み。耳の後ろ側から聞こえる呼吸は少し細く規則的なものになっていた。まるきり寝入る時のそれである。
「起きてください」
「……ねてねーよ」
 腕を後ろに回し、弟は朱い頭を軽く叩く。一拍置いて、睡魔の影が見える声が晒された肌を撫でていった。
「眠いならあがりますよ」
 溜め息がちに吐かれた言葉に、兄はえー、と不満げな声を漏らす。すっかり緩んでいた腹の拘束が少しだけ強くなった。逃さんと言わんばかりである。
「もーちょいだけだから」
 おねがい、とやわこい声が鼓膜を震わせる。輪郭が曖昧なのは、眠気によるものだけではないだろう。それが容易に分かるほど、関係は深くなっていた。
「……のぼせても知りませんからね」
 少なくとも、甘えきったそれに応えてしまう程度には。
 わずかに身体の力を抜き、後ろに体重を預ける。ひたりと肌と肌が隙間なく重なる。濡れた人の肌に触れるなど、普通は不快感を覚えるはずである。けれども、今このときは安堵をもたらすものだった。
 春が近い空気の中、湯はまだ温かい。もう少しぐらいなら、浸かっていても湯冷めものぼせもしないだろう。考え、碧はまた落ち着いた息を吐いた。




罪をはんぶんこ/嬬武器兄弟
 足の裏から冷たいものが身体を登っていく。冬の夜の廊下はスリッパ無しでは氷の上を歩いているのと同義だった。ぶるりと雷刀は大きく体を震わせる。たかがキッチンに行くだけだと油断した結果がこれだ。それでも、履き物すら放り出すほどの衝動が己の身を動かしていた。具体的には、腹が。
 胃の底の辺りが、目の奥の方が痛みを訴える。夕食を食べてから日付が変わって二時間経つほど長時間、ずっとゲームをやっていたのだ。敵を確実に仕留めるために画面を注視し、耳から伝わる些細な情報すら逃せないほど気を張り巡らせるシューティングゲームは体力も気力も削られる。集中するあまりなかなか疲れに気づけないのがまた厄介だ。あまりに負けが込み机に突っ伏したところでやっと心身の疲労と空腹を自覚したぐらいである。
 普段ならば夜中の空腹は部屋に置いてある菓子を食べて凌ぐのだが、今日ばかりはそれだけで足りる気がしなかった。何しろ、最低でも四時間は飲まず食わずだったのだ。さすがにスナック菓子一袋だけで満たされる気はしない。この胃はカップ麺でも食べなければ満足してくれないことなど容易に想像がつく。
 キッチンに続くドアを開ける。目的の場所は、随分と夜中だというのに明るかった。冴えきった朱い目が瞬く。明かりを消し忘れたのか、それとも弟も起きているのか。おそらく後者だろう。あの几帳面な弟がキッチンの明かりを消し忘れることなどない。きっと夜中に目が覚めて水でも飲みに来たのだ。
 廊下と同じぐらい冷えたフローリングの上を、雷刀は裸足で歩いていく。進むにつれ、どこか暖かさを覚えた。まるで鍋で煮物をしている時のような、火と湯気の気配だ。こんな夜中なのに、と少年は小さく首を傾げる。牛乳でも温めているのだろうか。はちみつを入れたホットミルクや牛乳たっぷりのココアは鍋で作った方が美味しいのだ。
 ようやく明かりの元へと辿り着く。コンロの前には、予想通り烈風刀の姿があった。同時にバリ、と盛大な音が鼓膜を震わせる。夜には似つかわしくない音に、兄はまたぱちりと瞬く。またバリ、という袋が開くような音。次いで、ぼちゃん、と何かが水に落ちる音。ガサガサと袋が擦れる音。そして、油の濃厚な匂いがほのかに温かなキッチンにぶわりと広がった。
 インスタントラーメンの匂いだ。それも、常備している塩ラーメンの匂いだ。腹が求めてやまない、この時間に浴びるにはあまりにも刺激が強い香りである。グゥ、と盛大な音が己の身体から響いた。
 ガサガサと音。瞬間、鍋と対峙していた碧い頭がゴミ箱の方へと――こちらへと振り返った。立ち上る湯気の向こう、普段とおんなじの透き通った浅海色の瞳が鮮やかに輝く。
 あ、と二つの声が重なった。




 色の薄い縮れた麺。油がたっぷりと浮かんだスープ。同封された香り高いゴマ。鮮やかな刻んだ青ネギ。二つの丼の中には、ラーメンができあがっていた。わざわざネギを刻んで入れるなど、夜中に食べるには手間暇のかかった豪勢なものである。しかし、このネギが夜中に多量にカロリーを摂取する罪悪感を薄めるためのものであることは雷刀にも分かった。
 いただきます、といつもよりも性急な声が二つ重なる。すぐさまずぞぞ、と麺をすする大きな音が響いた。
 口の中を熱が、塩気が、油気が満たしていく。舌が痺れるような心地だった。それが幸せで仕方がない。真夜中、それも長時間何も食べていない胃袋にとって、インスタントラーメンは最大の恵みであった。無心で麺をすすり、ネギをかじり、スープを飲む。丼の中身が空になった頃には、空腹感はさっぱり無くなり満足感と幸福感が全身を満たしていた。
「烈風刀がラーメンってめずらしーな」
 食べ終わった丼に箸を入れ、兄は言う。弟が夜食を食べる姿は時折見かける。しかし、即席麺を作ってまで食べるという姿はあまり見かけないものだ。カラン、と箸と器がぶつかる軽い音が鳴ると同時に、麺をすする音が不自然に止まる。しばしして、箸を置く音が明るいテーブルの上に転がった。
「今日は夕飯が早かったでしょう。さすがにお腹が空いてしまって……」
 空色の目が宙を泳ぐ。白い指がそろりとテーブルを撫ぜる。温かな食事を摂ったからか、白い肌は少しだけ赤みを帯びていた。珍しく落ち着きがない姿である。それはそうだ、普段から栄養バランスと量をきちんと考えた食事を作る彼が夜中にインスタントラーメンなんて栄養バランスもへったくれもないものを食べている姿を見られては気まずくもなるだろう。己ですら夜中のラーメンは少しばかり罪悪感と背徳感を覚えてしまうのだから。
「たまにはいいな」
 油で薄く光る口元がニッと笑みを作る。腹が満たされ温もりを得た朱い目元はほのかにとろけていた。
「貴方はよくカップ麺を食べているでしょう」
 トン、と丼を机に置く音に少し尖った声が続く。そだけどさ、と笑みを含んだ声が返された。即席麺の類は全てキッチンに収納しているのだ、己がそこそこの頻度で食べていることは筒抜けである。
 対面の丼を引き寄せ、己のものと重ねて箸を放り込む。落とさないように二膳の箸を軽く押さえ、雷刀は立ち上がった。
「片付けとく。おやすみ」
 ついでとはいえ作ってもらったのだ、片付けぐらいは己がやるべきだろう。不利な話題を切り上げるためでもあるが。え、と少し揺れる声を無視して、少年は足早にキッチンへと向かう。しばしして、おやすみなさい、と穏やかな声が聞こえた。
 重ねた丼をほどき、両方に水を入れる。スポンジに食器用洗剤を垂らし、予め水に浸して置いてあった鍋に手をかけた。油が残らないようにきちんと洗い、かごに伏せて置く。丼に張った水を捨てたところで、ふと何かが頭をよぎった。
 一人分のラーメンは二つに分けられた。けれど、丼の中身はいつも通り、一袋作った時と同じ量で満たされていた。味は常と変わらないどころか濃く感じたので、スープを水で薄めたということはないだろう。そもそも、麺も一袋分のしっかりとした量が入っていた。つまり。
 考えて少年は笑みを浮かべる。ふは、と油をまとった笑声がシンクに落ちた。




温もりが赤を包んで/奈+恋
※性に関する描写有

 重い。痛い。
 その言葉ばかりが頭の中を満たしていく。一歩足を動かす度に、身体の真ん中から違和感が広がっていく。常はしっかりと前を見据える紅玉の瞳は、今は廊下の先よりも床を見ることが多かった。
 腹が重い。鈍く痛い。
 下腹部を覆うようなそれが、怜悧な頭にノイズをかける。厳しさがありながらも愛らしさを感じさせるかんばせを崩していく。整えられた美しい細い眉はわずかに寄せられ、眉間に薄く皺を刻んでいた。どれも彼女の必死な努力によって抑えられているものの、親しい者が見れば気付いてしまうだろう。
 頭の中を埋め尽くす二単語を、腹のあたりを包みこむ違和感を吹き飛ばすように、恋刃は廊下を歩んでいく。それでも足取りは普段よりも遅く、一歩一歩が鈍く重いものになっていた。当然だ、痛みを抱えたままでいるのはまだ幼さが抜けきらない中学生には難しいことなのだ。けれど、常通りであらねばならない。弱った姿を人に見せるなどあってはいけないのだ。
「恋刃」
 普段よりもゆるやかな足音が積もりゆく廊下に、落ち着いた声が響く。ひくん、とむき出しになった肩が小さく跳ねた。後ろから聞こえたこの声の持ち主など分かりきっている。そして、いつになく硬さを孕んだそれが何を意味しているかなども。
「どうしたの、奈奈」
 小さく深呼吸、恋刃はいつもの笑顔を貼り付けて振り返る。そこには、やはり奈奈がいた。虹色の丸く美しい目は今は細くなっている。リップをしなくとも潤ってつややかな唇は引き結ばれている。細く儚げな眉は小さく寄せられていた。怒っていることなど、付き合いの長い己にはひと目で分かる。だからこそ、この場を穏便に切り抜けねばならないのだ。
 硬い靴底が廊下を打つ。硬質な音は虹色の少女の感情を表すかのようなものだった。白い手が伸び、後ろに回していた己の腕を掴む。自己主張が苦手な彼女にしては大胆な行動だ。晒された腕を掴む細い手はしかりと力が入っていて、逃しはしないとこれでもかと主張している。己が彼女の感情を見抜いているように、彼女も己の状態を見抜かれているのだ。でなければ、ただ廊下を歩いているだけでこんなに強い力で腕を掴みはしない。
 ぐっと腕を引かれ、少女は思わずたたらを踏む。そんな友人の様子などつゆほども気にせず、奈奈は廊下を歩いていく。奈奈、と抗議するように友人の名を呼ぶ。いいから、と振り返ることすらなく険しい声が返ってきた。
「奈奈、お昼休み終わっちゃうわよ? 次移動教室で――」
「いいから来て」
 困ったように問うてみるも、すぐさま強い声が重ねられる。固く、険しく、それでいて苦しむような、耐えるような響きだ。そんな声を出させているという事実に、赤い眉が八の字を描く。
「保健委員長がそんな調子でいいのかしら」
 追撃のような言葉に、血色をした少女は小さく呻く。保健委員、つまりは生徒の健康を真っ先に考える組織に属する者がこんなに弱った状態では――姉と友人以外には気付かれていないと思うけれど――説得力が無い。それが組織のトップである己ならば尚更のことだ。分かってはいても、どうにも弱い部分を見せたくないプライドが邪魔をする。こうやって、不調をひと目で見抜くほど交流の深い友人に無理矢理連れられないと行動できないぐらいには。
 二人で廊下を、来た道を戻っていく。程なくして辿り着いたのは、保健室だった。保健委員長である恋刃にとって馴染みのある、けれども今は少しばかり近付きたくない場所だ。分かっているだろうに、奈奈は手を離すこと無くまっすぐに部屋へと入っていく。自動ドアをくぐり抜けると、消毒液の独特な匂いが鼻を刺激した。
 シャ、と勢いのいい音。上げられずにいた視線をゆっくりと正面へと戻していく。そこには、畳まれた布団をベッドの上にテキパキとセットしている友人の姿があった。
「いや、ちょっと大袈裟――」
「寝て」
 慌てて友人へと手を伸ばす。ちょうどベッドメイクを終えた虹色の少女は、まっすぐな声で短く言った。命令とも、懇願とも取れる音だ。普段の彼女が発することがない、強い響きだ。付き合いの長い己には分かるが、よっぽどのことがなければこんな声を出すはずがない。だからこそ、逆らえない。
 鈍い動きで上履きを脱ぎ、ベッドへと乗り上がる。抵抗するようにぺたりとマットレスの上に座っていると、そっと肩を押された。力などほとんど入っていないのに、そのまま簡単にベッドに倒れ込んでしまう。すぐさま掛け布団を被せられ、カーテンが引かれる。世界はあっという間に四角く切り取られてしまった。
 足音、何かを漁る音、水が注がれる音。昼休みも終わり際、二人きりの保健室に無機質な音が響く。逃げるように枕に頭を埋めるも、家の布団とは全く違う匂いが現実から逃してくれなかった。
 シャ、と再びカーテンが開けられる。おそるおそる音の方へと目を向ける。予想通り、そこには湯たんぽを抱えた奈奈がいた。
「これ、お腹に当てて。少し楽になると思う」
「……ありがと」
 差し出された容器をおずおずと受け取り、恋刃は布団の中にそれを引き入れる。言われた通り腹に当てると、少しだけあの重さと痛みが薄れたように思えた。やはり、この痛みは温めるのが一番効果的だ。分かってはいたものの、実行するのは――わざわざ保健室で借りた湯たんぽを腹に当てる姿を見られたり、カイロを腹に仕込んでいることに気付かれてしまうのは、いつだって毅然として在りたい己には難しいことだった。友人には全部お見通しで、だからこそ無理矢理にでも引き連れてきたのだろうけれど。
「先生には奈奈が言っておくね。だから、ちゃんとお腹あっためて寝て」
「うん……」
 声音は子どもを諌める時のそれとまるきり同じだった。芯の通った、有無を言わさない音色だった。普段の彼女しか知らない者には全く想像できないものだろう――己は時折聞く、否、言わせてしまう羽目になるのだけれど。
 綿布団の上に奈奈の手が置かれる。そっと滑っていった美しい白は、ちょうど布団の盛り上がった場所――湯たんぽを抱えた腹のあたりで止まった。たおやかな手がそっと布団を、その下にある己の腹を撫でる。うぅ、と情けない声が漏れた。もっとも、こんな状態を見られて、こんなに世話を焼かれている時点でとても情けないのだけれど。
「大丈夫だから」
 暖かくして寝れば、いつもの恋刃に戻れるから。
 歌うような声は慈愛に満ちていた。まるでおばけを恐れる子どもを寝かしつけるような、迷子になって泣いている子どもを励ますような、祈るような、そんな音色をしていた。
 わかった、と恋刃は小さく返す。ふ、と小さく息を吐く音と、トントンと軽く布団を叩く感覚が少女を包んだ。まるきり子ども扱いのそれに、思わず唇を尖らせる。口元は掛け布団の影になって見えなかったのか、白い手は物言わずにそっと離れていった。
「おやすみ、恋刃」
「……おやすみ」
 少しひそめられた声に、同じくひそめて返す。きっと己が眠りやすいように小さな声で言ってくれたのだろうけれど、なんだかいけないことをしている気分になる。保健室に二人でいることなんていつものことのはずなのに、なんだか恥ずかしさや後ろめたさが込み上げてくる。逃げるように、布団を頭まですっぽりと被った。
 カーテンが開けられる音。ゆっくりと閉められる音。少しの足跡と、自動ドアが開く音。先生、と変わらずひそめた調子で話す友人の声が布団の隙間から聞こえた。きっと一時限分休む手続きを代わりにとってくれているのだろう。勝手に寝るだけでは無断欠席扱いになってしまうのだ。
 腹に当てた湯たんぽをぎゅっと抱きしめる。温かなそれが、腹の重みと痛みを和らげていく。お湯の温もりが、布団の温もりが、瞼を撫でて降ろしていく。
 起きたら奈奈にお礼を言わないと。謝らないと。無理してごめんって言わないと。もう大丈夫って言わないと。これ以上奈奈を心配させちゃいけない。
 睡魔が動きを鈍らせる中、少女は拙く思考を重ねていく。縋るように腹の温もりを抱き締め、恋刃はそっと瞼を下ろした。




いつでもおんなじ味で/雷刀+グレイス
 物音を立てぬよう注意しつつ、そっとキッチンを覗き込む。二人暮らしにしては広いそこには、包丁がまな板を叩く軽快な音が響いていた。まるでリズムを刻んでいるような、気持ちよさすら覚えるほどの音色だった。丸い躑躅がぱちりと瞬く。影からじぃと見つめる姿は不審極まりないが、瞳に宿る光は真摯なものだ。それでも、うろうろと泳ぐ様は怪しさに拍車をかけた。
 本日土曜日、グレイスはレイシスと二人で嬬武器の兄弟の部屋に遊びに来ていた。テレビゲームにボードゲームにと遊びに興じていると、あっという間に時は過ぎてしまう。気づけば、午後を回ってしばらく経っていたほどである。
 昼飯作るな、と立ち上がったのは雷刀だった。兄弟は家事に当番制を採用しているようで、今週は雷刀が料理当番だそうだ。手伝うわ、とグレイスも立ち上がったが、大丈夫だと兄弟二人で制されてしまっては大人しく座るしかなかった。けれど、気になって仕方がない。遊びに訪れる際はいつも手土産を持ってきているが、わざわざ昼食を作らせ食べさせてもらうこととではどうにも釣り合っていないように思えるのだ。こちらは店で選んで買うだけだが、あちらは時間と材料、手間をかけているのだ。それが等価と言われて素直に首を縦に振ることはグレイスにはできなかった。
 結局いてもたってもいられず、水をもらってくると言い訳をしてキッチンに向かった今に至る。
 少女は依然視線を泳がせ思案する。来たはいいものの、申し出を断られたらどうしよう。それはそれで迷惑ではないだろうか。けれど、手数は増えて困ることはない。己も経験を積み、人並みに料理ができるほどになったのだ。足を引っ張ることは無いだろう。けれど。
「グレイス?」
 ぐるぐると思考する頭に己を示す音が飛び込んでくる。不意打ちのようなそれに、少女はぴゃわっと小さく悲鳴をあげた。急いで声の方へと視線を向ける。そこには、包丁片手にこちらを見つめる雷刀の姿があった。
「座ってていいのに。腹減ってるだろ?」
「……作ってもらってばかりじゃ悪いじゃない」
 へらりと笑う朱に、躑躅は唇を尖らせて返す。これが時折、たまに、ぐらいならばいい。けれど、午前中に訪れた時はほぼ毎回作ってもらっているのだ。申し訳無さは募っていくばかりである。せめて材料を持ってこれたらならば、と考えるが、いくらなんでも手土産に野菜や肉を持っていくわけにはいかない。結果、いつも彼らの冷蔵庫の中身を余計に消費させてしまうばかりだった。
「オレらが遊びに行った時は作ってくれるじゃん。それでよくね?」
「頻度が違うでしょ。……やっぱり、悪いわ」
「んなに気にしなくていいのに」
 少し縮こまったグレイスを眺め、雷刀は笑う。会話の中でも、手はきっちりと動いていた。刻み終わった野菜を手早くまとめ、火の通りにくいものから順にフライパンに入れて炒めていく。餌を与えられた油が盛大な音と香りをたてた。
 焼きムラを作らないようにするためだろう、菜箸で適度に掻き回し、少年は次々と野菜を入れていく。次第に加熱された野菜の甘い香りがキッチンを満たしはじめた。さっさっと炒め、朱い少年はコンロ前の棚へと手を伸ばす。塩をほんの少し入れ、続けざまに引き出しから計量スプーンを取り出す。今度は醤油を大さじできっちりと量って入れた。
「意外ね」
 マゼンタの目がぱちりと瞬き、桜色の唇から小さな声が漏れる。ちょうど炒め終え火を消したタイミングだったからだろう、それは朱の耳にしっかりと届いた。
「何が?」
「貴方、ちゃんと量って作るのね」
 日頃の嬬武器雷刀は、物事の全てを『大体』や『こんぐらい』といった曖昧な言葉で表している。業務が絡まなければ、明確な数字が出てくることは稀だと言ってもいいほどである。そんな彼なのだ、料理でも調味料など一切量らず大雑把に味付けをするものかと思っていた。こんな風にしっかりと計量スプーンを使う様など、全く想像ができないものであった。
 ひっでぇ、と雷刀は笑う。言葉に反して陽気な音色がキッチンを漂っていく。あんな、と彼はくるりと菜箸で宙に円を描いた。
「ものによるけどさ、ちゃんと量ってやんないと反応起きなかったりして失敗する料理とかもあんだよ」
 少年の言葉に、グレイスは小さく頷く。料理、その中でもとりわけ菓子作りでよく聞く話だ。菓子作りなんてボウルに付いた水の一滴も許されないようなものもある。日常の料理でもそういうものはきっとたくさんあるのだろう。料理のさしすせそがそうだろうか、と頭の隅で考えた。
「それに味が安定しないしな。濃すぎたら調整できねーし」
 彼の言う通りである。薄味は少しずつ調味料を足していけばきちんとした味にすることができるが、一度濃い味になってしまえば後戻りはできない。材料を増やして中和することもできるが、手間な上に材料が余計にかかってしまう。食べきれない量になってしまう危険性もあるのだ。非常に合理的な考えだ。
「まぁ、全部烈風刀の受け売りだけど」
「いいじゃない。教わったことをちゃんとやってるんだから」
 苦く笑う雷刀に、グレイスは小さく首を傾げて返す。教わったことをきちんとこなすのは良いことだ。己だって、レイシスに教わったことを忠実にやっているからこそ人並みに料理が作ることができるのだ。それも、彼が師事するのは料理上手で仲間内では有名な嬬武器烈風刀である。その教えをしっかりと守り、美味な料理を作ろうとする姿勢は自然なものであろう。
 そっか、と雷刀は呟く。いつの間にかまな板の上には豚肉が刻まれていた。奥では電子レンジが動いている。一体何を作っているのだろうか。好奇心に身を任せ、少女は手元を眺める。大皿に盛られた野菜の炒めもの。細かく切られた豚肉。フライパンの近くに見える筒はソースだろうか。
「それにさ」
 声に、思考が現実に戻ってくる。細い肩が小さく跳ね、まんまるな愛らしい瞳が朱へと向けられる。視界の中、朱い少年は八重歯を覗かせ笑みを咲かせた。
「オレらだけで食うならいいけど、今日はレイシスとグレイスにも食ってもらうんだぜ? ちゃんとした美味いもん作んないとだろ?」
 なっ、と朱はまた菜箸を回す。まるで魔法を唱える魔法使いのようだった。にこやかな表情は自信とやる気に満ちている。食べる人を喜ばせようという心意気がよく分かるものだった。
 ラズベリルがぱちぱちと瞬く。丸くなったそれは、すぐにふわりと細くなった。潤いつやめく唇がそっと解ける。聞き入り真剣そのものだった表情は、柔らかに綻び穏やかな色を灯した。
「そうね。レイシスにまずいもの食べさせるわけにはいかないもの」
「そのとーり」
 グレイスにもな、と続ける少年に、少女は少しばかり視線を逸らす。そうもはっきり言われると、どうにもこそばゆい。自分のことまで考えてくれているというのは嬉しいことだが、まだ慣れられないことでもあった。朱も分かっているのだろう、何も知らないといった風にフライパンに油を敷き直した。
「つーことでっ、楽しみにしててな」
「……分かったわ」
 楽しみにしてる、と躑躅は笑う。おう、と朱は自信満々に応えた。まな板が持ち上げられ、フライパンに豚肉が投入される。ジュワァ、と肉が焼ける大きな音と胃袋を刺激する香りがキッチンに響いた。
 これ以上居座るのも悪いだろう。グレイスはそっとキッチンから出る。スタスタと淀みなく進む足は途中でふっと止まった。
「……お水もらうの忘れてた」
 もちろん、水をもらうなどキッチンに行くための言い訳だ。けれど、長居した上に空のコップを持って帰ってくるのは明らかにおかしい。『手伝いに行ってました』と自分で主張しているようなものだ。それはさすがにまずい。というより恥ずかしい。だって、そんなことがあってはあの桃と碧は微笑ましそうにこちらを見てくるに決まっているではないか。そればかりは避けるべきだ。
 少女は急いで踵を返す。お水ちょうだい、と油の香ばしく甘い匂いの中に飛び込んだ。




赤と紫にうずもれて/嬬武器兄弟
 朱い視線が食卓をゆっくりとなぞっていく。常ならば馳走を前に輝く瞳は、今はどこか暗くなっていた。愛らしさを感じさせるまんまるな姿も、瞼に押され細くなっている。よく動く八重歯が覗く口元も、筆で線を引いたかのようにまっすぐに結ばれていた。
 食卓には様々な料理が並んでいる。炊きたてでツヤツヤの白米。大皿いっぱいの麻婆茄子。出汁がよく染みた茄子の揚げ浸し。白と紫のコントラストが眩しい茄子の浅漬け。ドレッシングを弾くほどみずみずしいトマトとレタスのサラダ。煮てもなお鮮やかさを保ったトマトと卵の味噌汁。どれも料理上手な弟の確かな腕によって調理された、美味しさが確約された素晴らしい料理である。
 素晴らしい料理であるが。
「……烈風刀」
「あと箱一つ分なんです」
 眇められた目が向かい側、同じく唇を引き結んだ片割れへと向かう。碧い瞳は瞼の奥に逃げ、眉は皺を刻むほど寄せられている。硬く動く口からは、引き絞るような苦い声が漏れ出た。三日前も聞いた――その時は『箱二つ』だったが――言葉に、雷刀はますます目を細くする。狭まった朱の中には様々な色がぐるぐると渦巻いていた。
 一年ほど前から始まった烈風刀の菜園趣味はどんどんと本格的になり、遂にはベランダを飛び出し畑を一つ持つほどとなった。学園の隅、園芸部の一角を譲り受けたそれは丁寧な手入れにより豊かなものとなり、植えられた苗たちもすくすくと育っていた。それはそれはすくすくと。想像を遙かに越えるほどに。
 夏になる頃、様々な野菜が実った。実りすぎたのだ。夏に向けて植えたトマトと茄子だけでも、みちみちに箱に詰めてなおいくつも積まれるほど凄まじい量となった。少なくとも、兄弟二人で消費するのは不可能なほどに。
 レイシスに分け、近所に配り、と無理矢理数を減らしたものの、それでもまだかなりの数が残っている。そうなると、あとは二人で消費するしかない。
 その結果、毎日が茄子とトマトで埋め尽くされる日々が続いている。
「味噌炒め……夏野菜カレー……らたとゆ……ミートソース……田楽……」
「分かってます……」
 指を折りながら、雷刀はここ最近の晩飯を並べ立てていく。見事に茄子とトマトづくしである。赤と紫が内臓に染み付いて取れなくなるのではと思うほど茄子とトマトづくしである。美味しく調理されているものの、全ては茄子とトマトである。他の具材も用いられているものの、さすがにこうも続くと飽きというものが来る。烈風刀も理解しているのだろう、嫌味とも取れるそれに反論することなく、ひたすら苦々しい表情で受け止めていた。
「今週中には使い切れるでしょうから。だから、我慢してください」
 絞り出すような弟の声に、兄は小さく頷く。彼を非難しているわけではない。苦しめたいわけではない。けれども、さすがに食べる喜びよりも同じものが続く苦しさが勝っていた。きっと当人、元凶である烈風刀も同じだろう。だからこそ、毎日のように消費し、保存の効くものを率先して作り、常備菜として消費したり冷凍保存しているのだ。分かってはいる。分かってはいるものの。
「いただきます」
 沈んだ声が二つ落ちる。箸を持つ音、食器と擦れる音、食物を噛みしめる音が二人きりの食卓に満ちていった。
 常備菜を作っている。冷凍保存している。ということは、最終的には食べねばならないのである。それがどれほど先であるか。少なくとも、常備菜は今週中に食べ終えることはできないだろう。結局、来週も少しの地獄が続くのだ。
 来週のメニューどうすっかなぁ。
 ぼんやりと考えながら、来週の食事当番は紫を口に運んだ。
畳む

#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀 #恋刃 #虹霓・シエル・奈奈 #グレイス #ライレフ #腐向け

SDVX


expand_less