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No.192

向き合う意地、向き合った世界【新3号+新司令】

向き合う意地、向き合った世界【新3号+新司令】
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うちのヒーローズに決着つけるために書いたやつ。この話を読んでないと何もかもが分からない。
相変わらずうちの新司令はカスだしうちの新3号はバンカラ生まれバンカラ育ちだし色んなところを捏造しかしてない。
新3号と新司令が喧嘩してるだけ。

 バトルロビーへ続く扉の前はいつだって賑わっている。駅の真ん前でただでさえヒト通りが多いというのに、そこにバトルを終えた若者がたむろしているのだから密度は高まるばかりだ。足早に行き交う者たちが何故他者にぶつかることなく歩いていけるのか不思議に思うほどである。
 ロビー入り口、そのすぐ脇。一匹のガール――隊員に『司令』と呼ばれるインクリングは、じっと座っていた。建物の前、それも出入り口に座り込むなど迷惑極まりないのは承知だ。けれども、ヒトに混じって姿を誤魔化すにはこれが一番いいのだ。
 インクリングはあたりを見回す。キョロキョロキョロキョロと挙動不審なほどあたりを見回す。こうやってヒトの波の中身を探してどれほどになるだろう。体感ではゆうに半日は神経を張り巡らせている。視神経も筋肉も脳味噌も随分と疲労を覚えていた。それでも、見張る目を止めることなど出来なかった。探さねばならないのだ。いるかどうかすら分からないあの子を、この中から。
 出会った時から『三号』と呼んできた隊員がキャンプを訪れなくなってどれほど経っただろう。意地が悪いことをした自覚はある。相応に罰を受ける自覚がある。けれども、その罰を与える相手がいつまで経ってもやってこないのだ。当然だ、あの気の強い、プライドで武装を重ねてやっとヒトと対峙するような少女が来るはずがない。こんな馬鹿げたたちの悪いいたずらをするようなやつのところに再びやってくる道理などないのだから。
 空気を割らんばかりに罵ったあの叫声を、嫌悪と敵意をあらわにしたあの凄まじい形相を、今まで見たことのないほどの速さで走り去った小さな背中を思い出す。その度に、心臓のあたりが熱湯をかけられたように痛みを覚えるのだ。あんなお粗末ないたずらで――彼女にとっては長い時間をかけた裏切りで怒らせてしまったことがよほど堪えているらしい。全ては自業自得なのだけれど。
 表現し難い声が鼓膜を震わせる。聞き慣れた――オルタナの白い地で何度も聞いてきた鳴き声に、司令はバッと顔を上げる。ゲソを振り乱し、急いで音の方へと顔を向ける。視界の中、ヒト混みの隙間から見えたのは、赤いモヒカンヘアーと銀のくちばし、緑のズボンを履いたコジャケだった。
 こんな街なかにコジャケが、シャケがいるはずがない。最近はビッグランというシャケの襲撃が起こっていると聞くが、現在それを示す警報は発令されていない。つまり、誰かが連れ込んだのだ。そして、コジャケと暮らすような者などそうそういない――それこそ、あの子ぐらいしか。
 立ち上がり、司令はあたりを見回す。コジャケのそばにヒトの姿は無い。もう雑踏に紛れてしまったのだろうか。どこだ、と目をこらし、懸命に探っていく。忙しなく動く目の端に何かがきらめく。反射的に視線を向けると、オーロラ色に輝く白がロビーへと向かっていくのが見えた。頭部に取り付けられたその色――耳の上部を覆うようなヘッドギアは見知ったものだ。過去の己が使い、今は他人へと譲られたヒーローブレインだ。あれはアタリメ司令から支給されたものであり、おそらく一般流通はしていない。ならば、あのギアの持ち主は。
 ダンッ、と勢いよく地を蹴り、司令はヒトの中を切り進んでいく。凄まじい足音に気圧されたのか道を譲る者が多く、思ったよりも楽に進むことができた。割れたヒト混み、その正面、ロビーに続く自動ドアが開く。輝くギアに飾られた頭の持ち主がその中に入っていくのが見えた。
「三号!」
 腹の底から、肺の中身を全て使って、声帯が裂けんばかりに声を出す。街中に響き渡るような大声量に、いくらかの者が足を止める。件の少女もその一匹だった。ヒトの波を掻き分け、司令は走る。ようやく辿り着いたドアの真ん前、歩みを再開しようとした少女の細い腕をがしりと掴んだ。
 己が力強く腕を引いたからだろう、目の前の少女はたたらを踏むように振り返る。きょとりと丸くなった群青の目は、たしかにこの子があの『三号』であると語っていた。ようやく見つけた安堵に、やっと再会した歓喜に、口元が綻ぶ。三号、と弾むような声でまた少女に与えた記号を口にした。
 腕が引っ張られる感覚。よろけそうになり、反射的に掴んでいた腕を離す。隠れるように腕が回り、目の前の身体が反転した。そのまま、捕まったはずの少女は駆け出す。雑踏に自ら身体を投げ込み、逃げるように走り去った。
 三号、とまた叫び、司令は駆け出す。ヒトの波に逆らって走り、オーロラで彩られた頭を一心に目指す。背の低いクラゲに引っかかっていたところを何とか追いつき、目に痛いほどのライムグリーンに包まれた腕を再び掴んだ。
「三号ってば!」
 何度も、何度でも彼女を呼ぶ。部隊のことは秘匿するのが暗黙の了解だ、本当ならば名前で呼ぶべきだろう。けれど、己は彼女の名前を知らないのだ。半年ほど過ごしてもなお、彼女の名前を知ることはなかった。当然だ、名前を聞く機会など無かったのだ。訪ねる機会など無かったのだ。隊員名で呼ぶ機会すら無かったのだ。己の刹那主義めいた好奇心が全てを潰したのだ。後悔が胸を押し寄せ、中身がダメになるほど潰していく。ぐぅ、と喉がおかしな音を漏らした。
 目の前の背中が振り返る。ようやくこちらを向いた顔は、警戒心と嫌悪に塗れていた。眇められた目はこちらを射殺さんばかりの鋭さを宿し、口は威嚇するようにカラストンビが剥き出しになっている。細い眉は見たことがないほど吊り上がっていた。普段から機嫌の悪い顔や怒った顔を見せることが多い彼女だったが、これほど酷いものは――こちらの全てを拒否し否定するようなものは初めてだ。剥き出しの敵意に、思わず後ずさりそうになる。すんでのところで留まり、こちらもまっすぐに見つめた。海色と空色がぶつかりあって火花を散らす。
「……離しなさいよ」
「やだ」
 また振り払おうとしたのだろう、三号は掴まれた腕をグッと力強く引く。容易に予測できた行動に、司令は掴む手に更に力を込めた。結果、硬直状態は変わらず続く。チッ、と鋭い舌打ちが聞こえた。
「戻ってきて」
 戻ってきてほしい。またオルタナを調査してほしい。アオリたちのためにアタリメ司令を見つけるのに協力してほしい――考えて、全部が違うことにようやく気付く。違う、New!カラストンビ部隊としての活動のためではない。ただ、ただ己が彼女に戻ってきてほしいだけなのだ。またキャンプで共に過ごしたいだけなのだ。食事をして、攻略を練って、調査結果を聞いて、チャレンジを見届けて。そんな日々をまた送りたいだけなのだ。
 は、と低い声が二人の間に落ちる。明らかに苛立った、明らかに怒気を孕んだ、明らかに軽蔑を示した音だった。視線も合わせて、負の感情を全てぶつけられているような錯覚に陥る――否、きっとこれは錯覚などではない。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ」
 瞬間、腕に痛み。自由のままだった腕で思いきり叩き落とされたのだと理解した頃には、掴んだ腕は離れてしまっていた。ザ、と靴が地をする嫌な音。
「三号!」
「うるさい!」
 悲鳴に近い声で名前を、自分にとっては『名前』である記号を呼ぶ。それも全て凄まじい怒声に潰された。
 何あれ。喧嘩じゃない。うるさ。痴話喧嘩かな。どっちも女じゃん。チジョーノモツレってやつじゃない。こんなとこでやんなよ。
 訝しげな声が、うんざりとした声が、好奇心にまみれた声が聞こえる。気付けば、二人の周りにはわずかながらも空間が生まれ、遠巻きにヒトだかりができていた。誰も彼もが己たちに奇異の目を向けている。中にはナマコフォンを構える者までいる始末だ。
 ダッ、と地を蹴る音。それが示すことを瞬時に理解し、司令も地を蹴って駆け出す。特注ギアで彩られた頭を睨み、必死で追いかける。再び手を伸ばしたところで、ガシャン、と盛大な音が鳴り響いた。同時に、腹と足に痛み。慌てて目を向けると、そこにはキッチリと閉じた改札口があった。どうやら彼女は駅内へと逃げ込んだらしい。
 急いでポケットを漁る。ろくに物など入れられない小さなポケットの中には、携帯端末が一つあるだけだ。ICカードはもちろん、現金も無い。そもそも、切符を買っている間に彼女は電車に乗ってしまうだろう。もう追いかける術は無いのだ。
 どうしようもなくて、その場に立ち尽くす。薄く開いた口は浅い息を繰り返していた。腹がじくじくと痛む。それすらどこか遠くの他人事のように感じた。
 逃げられた。思いきり否定され、思いきり拒否され、思いきり敵意をぶつけられ、思いきり逃げられた。もう戻ることなど無いと明確に示された。事実に、胃の腑がグンと重くなる。心臓が早鐘を打つ。胸に海水をめいっぱい詰め込まれたような苦しさと重さ、薄い恐怖が広がっていった。
 もうダメなのだろうか。戻ってこないのだろうか。絶望ばかりが頭をよぎる。いや、けれどもこうやって会えたではないか。会話できたではないか。言葉が通じるではないか。それに、彼女は少しばかり押しに弱いところがある。ならば、回数を重ねて説得すれば、あるいは。
 水面色の目がぐっと眇められる。感情渦巻くその瞳の先には、知らないヒトが行き交う階段があるだけだった。






 きょろきょろとあたりを見回し、ヒトの形をした影が無いことを確認する。足音を立てぬようそっと、けれども足早に、少女は坂道を登っていく。後ろをついて回るコジャケがなんとも言い難い鳴き声をあげる。静かに、とひそめた声で言い放つと、相棒は鋭いくちばしを律儀に閉じた。珍しく伝わったようだ。それでも、こいつが跳んで跳ねて這いずり回る音が聞こえては意味が無い。見た目より重量がある身体を抱え上げ、少女はまた坂道を物音立てずに登っていった。
「ここにいなさいよ」
 バンカラ街のすみっこ、ヒトが少ない屋上スペースにコジャケを放つ。自由になった相棒は、ずりずりと這って走ってぴょんと跳び、欄干の上にちょこんと乗った。普段の様子から、彼はここが自分の定位置だと思っているらしい。本当に器用なものだ、と小さく息を吐いた。
 インクリングは手すりの隙間から下を覗く。やはりヒトはまばらだ。これなら誰かに、あの女に出会うことは無いだろう。踵を返し、足早に来た道を戻った。
 何故こんなことをしなければならないのだ、と怒りがふつふつと湧いてくる。原因はあの『司令』だ。街なかで出会ったあの日から、あの自己中心的な女はこちらの都合や他者の目など一切弁えず追ってくるのだ。隠れても、ギアを変えても、時間を変えても、あいつは追ってくる。一度交番に飛び込んで警察に突き出したのに、それでも諦めずつきまとってくるのだから呆れを通り越して恐怖すら覚える。
 何故あいつはこうも己に執着するのだろう。騙し続けたぐらいには信頼していないくせに、何故ああも悲痛な声で己を呼ぶのだろう。今までほとんど干渉しなかったくせに、何故オルタナを離れただけでああまで必死に追いかけてくるのだろう。分からない。分からないからこそ腹立たしい。あまりにも身勝手で、あまりにもわがままで、あまりにもヒトの心を軽視している。考えるだけで胃が一気に熱を持った。
「三号!」
 灰色のパーカーに包まれた身体がびくりと跳ねる。音の方、つまりは坂の下に目をやると、そこにはあの『司令』がいた。どうやって見つけたのだ、と思わず舌打ちをする。したところで現状は解消されないのだけれど。
 ダッ、と地を蹴る音。ダンダンと駆け上がってくる激しい音。このままでは鉢合う、それどころか追い詰められるのは確実だ。一度上に逃げて撒かなければ。踵を返し、『三号』と呼ばれ続けた少女は坂を駆け上がる。盛大な足音が二つ、街の隅に響いた。
 戻ってきた屋上広場、階段のすぐ脇に身を隠す。司令が広場の中央まで進んだところで降りて逃げる算段だ。息をひそめ、気配を殺し、じっと身を縮こめる。ダン、と地を踏みしめる音。もう一度地を踏みしめる音。何度も響くそれは明らかにこちらへと向いていた。
「三号」
 目の前のインクリングは毎度のごとく己を示す記号を発し、素早く腕を掴む。振り払おうとするも、今日は腕を動かすことすらできなかった。両の手を使い、彼女は握り潰さんばかりの力で己の腕を掴んでくる。逃がす気など欠片も無いのだということがありありと伝わってくる。それが腹立たしくて仕方が無い。何故こいつの都合で拘束されなければならないのだ。
「いい加減にしてくんない!?」
 怒号をあげ、三号は渾身の力で腕を振る。しかし、捕らえられたそれはびくとも動かなかった。腕に加えられる力が更に増し、痛みも酷くなる。痛覚を直接刺激するようなそれに、少女は顔をしかめた。
 掴む手の持ち主をギッと睨みつける。突き刺し殺さんばかりのそれに、まっすぐ視線が返される。眇め細くなった視界に映る青は、焦燥があらわになっていた。キャンプでは見たことないほど、感情がよく分かる色がしていた。いつだって感情なんて無いと言わんばかりの顔をしていたくせに、今になってこうやって感情を、ヒトらしい部分を見せてくるのだ――あの日だって、普通のヒトのように笑っていたのだから。
 胃がカァと凄まじい熱を宿す。頭の後ろ側がジンと痺れる。喉が絞まるような心地。思考全てが沸騰し染め上がっていく感覚。怒りが少女の全てを支配した。
 もう一度腕に力を込め、振り払おうと試みる。変わらず、動かすことはできなかった。潰れ弾けんばかりの痛みが広がるだけだ。これでは埒が明かない。呻きを漏らしそうになるのを防ぐように舌打ちを一つした。
「何で逃げるの」
 揺れる青が一心にこちらを見つめる。震えた声がまっすぐにこちらに問いかける。悲痛にすら見える有様だ。まるで被害者だと主張するような顔つきだ。それが気に入らなくてたまらない。正当防衛をしたまでの己を『逃げる』だなんて言い放つこいつが気に入らなくてたまらない。腹の底で燃え上がる炎が更に勢いを増した。
「あんたみたいな不審者につきまとわれて大人しくしてるわけないでしょ」
「そうじゃない」
 至極当然の言葉を返すも、すぐさま切り捨てられる。ほのかに震えるそれは、苛立つほどに力強いものだった。確信を持った、信念を持った、揺れることの無い言葉だった。
「何で来ないの」
 昼の空のような青が、まっすぐに海底色の瞳を射抜く。言葉を紡ぐ唇の動きは硬く、向けられる青円はかすかに揺れている。細い眉はどんどんと下がり、掴む手は縋るように力が増していく。必死な有様は、見る者がいれば彼女の味方につくだろう。その姿に腹が立つ。原因は全てこいつにあるのだ。だというのに、まるで己が悪いかのように見つめるその目が、己がおかしいかのように問う声が、気に食わなくて仕方が無い。自身を正当化するようなその姿が気に食わなくて仕方が無い。
「ヒトのこと騙しといて何言ってんの」
 発した声は己でも聞いたことがないほど低かった。憤怒が渦巻く身体では、もう常通りの声を出すことなど不可能なのだ。
 こうやって声を発することができるのに、こうやって会話をすることができるのに、こいつは半年以上己と直接話そうとしなかったのだ。こうやって表情を変えられるというのに、己の前だけではずっと無表情を貫いていたのだ。何か理由があったかもしれない。しかし、そんなことは知ったことではない。何も言わず、ずっと黙って、己だけを騙してきたこいつを許すことなどできるはずがない。
「そもそも、調査だかなんだかなんてあたしには関係ない話じゃない。何でそんなこと言われなきゃなんないのよ」
「だって、『三号』でしょ?」
「あんたたちが勝手に言ってるだけじゃない。あたしには関係無い――」
「関係ある!」
 切り捨てようとする声は、絶叫めいた声に吹き飛ばされた。腕を掴む力が更に強くなる。このまま潰され千切れんばかりの凄まじいそれに、こちらのことを全く考慮していない身勝手な言動に、少女は表情を歪めた。
「だって、だって三号は三号で、隊員で、だから――」
「だからそれはあんたたちが勝手に言ってるだけでしょ!」
 途切れ途切れに紡がれる言葉を大声が遮る。瞬間、目の前のスカイブルーが瞠られた。宿す光が鳴りを潜め、深さを増していく。焦燥の色は消え、悲哀一色に染まっていく。呆然に近い顔は、痛みを堪えるようなものだった。傷ついた、と言わんばかりのものだった。全てが少女の神経を逆撫でする。お前の身勝手な行動が全てを招いたというのに、傷ついたと訴えてくるなどなんと恥知らずなことか。傷ついたのはお前ではない。お前は傷つけた方ではないか。お前は被害者なんかじゃない。加害者で。自分勝手で。ストーカーで。不器用ながらも世話をしてくれたのに。心を寄せてくれたのに。なのに。
「あたしを巻き込むな!」
 空間が震えるほどの音が少女の口から吐き出される。加減無く声を出した喉は痛みを訴えた。中身全てを使い切った肺が痛い。中身をぐちゃぐちゃに掻き乱された頭が痛い。延長戦をフルで戦ったかのように心臓が痛い。臓器が無いはずの胸の真ん中の場所が痛い。身体が、心が、痛みを訴える。睨みつける視界がうすらとぼやけた気がした。
 真ん丸になっていた空色が元に戻り、黒い瞼の奥に消える。目の前の黄色い頭がゆっくりと動き、表情を隠した。己の荒い呼吸だけが世界に落ちていく。喘鳴に近いそれが落ち着く頃、やっと目の前の女は顔を上げた。再度向けられた顔からは、被害者ぶった色は消え失せている。代わりに、静けさに満ちた穏やかな、けれども温度が抜け落ちた何かがあった。それでも、瞳は輝きを取り戻している。何かを求めて不気味なほどギラギラと輝いている。撃ち抜くようにまっすぐにこちらを見つめている。
「わかった」
 こぼれた声からは、今までの激情は見られなかった。溜め息にも似たそれに、無意識に食いしばっていた少女の口元から力が抜けた。眇めた海色の目はまだ警戒に満ちている。いきなり聞き分けの良いことを言い始めたものを警戒するなという方が無理があるのだ。こういう時こそ神経を張り詰めねばならない。少女依然鋭い視線を送る。刺さんばかりのそれを浴びているというのに、目の前のインクリングは小さく笑んだ。
「もう追いかけないからさ。だから、最後にタイマンしてよ」
「は?」
 笑みとともにこぼれた言葉に、三号は眉をひそめる。言葉という形は取っていれど、前後の繋がりが全く分からない。訴えれば勝てるような行動から解放されることと、一対一での勝負のどこに関係性があるのだ。そもそも、こちらは追いかけ回され日常を脅かされた被害者である。なのに、何故加害者であるこいつに交換条件を持ちかけられなければならないのだ。
「それで諦めるから。おねがい」
「何でそんなのに付き合わなきゃ――」
「逃げるの」
 静かに流れる声を、棘で武装した声が弾き飛ばす。それも、落ちついた、けれども力を宿した一言が押さえつけた。は、と少女は思わず低い音を漏らす。何故そんな風に言われなければならないのだ。まるで己が勝負に怯えているようではないか。まるで己が勝てないから拒否しているようではないか。怒りで煮えたぎる頭は、簡単な挑発ですぐさま沸騰した。
「……いいわよ」
 やってやろうじゃない、と三号は啖呵を切る。こいつは己がオルタナを走り回っている間、ずっと座って何もしていなかったのだ。実力のほどは知らないが、あれだけろくに身体を使っていなければなまっているに決まっている。毎日のように地を駆け回り、チャレンジをクリアし、その上日々バトルに励んでいる自分が負けるはずがない。最後にこいつをぶちのめして、追いかけ回される日々が終わるのだ。そう考えると、なかなか魅力的な提案にすら思えてきた。最近負けが込んでいてどうにもフラストレーションが溜まっているのだ。
「ステージはユノハナ。ナワバリ……というか、キル数勝負で」
 告げる声は終始穏やかで、あれだけ悲哀にまみれていた顔には微笑みが浮かんでいた。一変したその様子に、いっそ不気味さすら覚える。ああも喚き立てられるよりはずっとマシなのだけれど。
「……分かった」
 少しの沈黙の後、少女は確かに頷く。基礎の基礎であるナワバリバトルやオブジェクト関与と管理が要求されるガチルールではなく、『キル数勝負』という部分が少し引っかかる。わざわざキルで競おうと言うほど、あちらは腕に自信があるのだろうか。否、きっと本当に己と戦いたいのだろう。ガチルールはオブジェクト関与をしなければ勝敗がつかないし、ナワバリは逃げ回って塗るだけで勝てるのだ。真っ向勝負をするなら、キルで競うのが一番良い。
「じゃ、行こっか」
 掴まれた腕を引かれる。いつの間にか、肉を潰さんばかりの力はすっかりと弱まっていた。この程度ならば、力を振り絞って引き剥がせば逃げられるだろう。けれども、少女は大人しく手を引かれて歩んだ。受けた勝負から逃げるのはプライドが許さなかった。
 二人連れ立って、不気味なほど静かに歩んでいく。足音に混じって、潰れたような鳴き声が聞こえた気がした。






 息を吸う。ひたすらに酸素を取り込み続けた喉と肺は激痛を叫んだ。胃の腑が押し上げられるような感覚。食道へと上ろうとするそれを必死に押さえ込み、少女はインクの中を駆け泳ぐ。呼吸する喉が、酸素を取り込む肺が、やめろと喚くのを捻じ伏せて。
 トリガーを引き、でたらめにインクをばら撒く。青いインクを己の黄色で上書きしていく。音は――敵にインクが当たり、ダメージを受けた声は聞こえない。どこだ、と少女はあたりを見回す。中央の激戦区だというのに、ここにはあまりにも青が少ない。つまり、隠れる場所がほぼ無いのだ。自陣に戻って塗っているのだろうか。否、今回はキル数勝負なのだ。わざわざ塗りに戻るメリットは薄い。金網を歩いて行かねば自陣に戻れないこのユノハナ大渓谷ならば尚更だ。
 とぷん、と背後で水の音が聞こえた。
 すぐさま振り向き、三号は引き金を引く。ヒーローシューターレプリカもとい、その性能の元となっているスプラシューターは弾ブレがそこまで無い。だというのに、インク一滴すら当たった感覚がしなかった。当然だ、目の前に人の影はもう無い。乾ききった大地とイエローのインクが広がるだけだ。
 また水の音。振り返るより先に、背に痛みが走った。撃たれたのだと理解する頃には、己はスポナーの上にいた。チッ、とインクリングは舌打ちを漏らす。音が鳴った口元は引き結ばれ、強張りを見せている。焦燥が丸分かりの顔つきをしていた。
 急いで飛び出し、また中央へと泳いでいく。肺が、胃が、手足が、異変と疲労を訴える。全てを無視し、少女は泳ぐ。ヒュ、と呼吸しようとした喉が細い音をたてた。
 おかしい。
 相手はスプラシューター、つまり己と同じブキを使っているのだ。なのに、何故こうも撃ち勝てないのだ。同じ射程だというのに当たらない。なのに相手の弾は当たる。ボムを投げてもかすった様子すら見せない。なのに相手のボムはこの身体を捉える。ウルトラショットで対応しようにも、発動要件を満たすより先に倒されてしまう。だというのに、こちらは物陰に隠れていても一撃必殺のそれを当てられる始末だ。
 訳が分からない。少女は今一度舌打ちをする。普段の鋭さはとうに失われ、リップノイズと差異のないものとなっていた。
 中央へと躍り出て、また塗り広げる。とにかくウルトラショットを使えるようにならねば。相手の潜伏場所を潰さねば。焦りのままに、三号はトリガーを引く。ひたすらに塗り潰し、塗り重ねていく。気が付けば、カチカチと乾いた音が手元から上がっていた。インクが尽きたのだ。回復しなければ。身をインクに沈めようとした瞬間、ガシャン、と重厚な音があたりに響いた。それが何を意味するかなど、分かりきっている。
 急いで音の反対方向へと逃げる。けれど、次いで聞こえた銃声は己の横方向から鼓膜を直接揺らした。視界がブルーに染まる。痛みが全身を染めていく。途切れた意識が復活した時には、既にスポナーの上だった。またやられたのだ。
 何故だ。ウルトラショットの発動音は後ろから聞こえたのに。なのに何故真横から飛んでくるのだ。インチキだ。何か卑怯な手を使っているに違いない。だって、そうでもなければ、瞬時に移動だなんて。少女はギリ、とカラストンビを噛み締める。眇めた目は、寄せた眉は、食い縛った口元は、焦りと悔しさ、わずかな恐怖に塗り潰されていた。
 泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。なんとしてでも自陣に入らせてはならない。リスポーン地点で延々とキルされることだけは避けねばならない。ウルトラショットはリスポーン時に付与されるアーマーを一気に剥がして潰す威力を持っているのだ。そんなこと、絶対に許してはならない。なんとしてでも阻止しないと。
 右高台から中央広場へと降り立つ。瞬間、足元が弾けた。一瞬の空白の後、それがキューバンボムだということを理解する――理解した頃には、またスポナーの上にいた。
 降り立つ位置を予測し、降りた瞬間爆破するようにボムを置かれたのだ。つまり、完全に行動を読まれている。降りる位置も、逃げる場所も、撃つ範囲も、全て読まれている。背筋を冷たいものがなぞっていく。身体の芯まで凍えさせるようなそれを頭を振って弾き飛ばし、少女は再びスポナーから降り立つ。またインクへと身を投じようとしたところで、べしゃり、と間の抜けた音が耳元で聞こえた。地面に倒れ込んでいるのだと気付くには随分と時間を要した――足音が鼓膜を震わせ、伏せた身体に影が差すほどには。
「ねぇ」
 頭上で声が聞こえる。地についた手に、ブキを握る手に力を込め、少女は早急に身を起こそうとする。しかし、何度も撃ち抜かれ爆破された身体は言うことを聞かなかった。べしゃり、とまた無様な音。今身体を起こすのは不可能らしい――つまり、このまま撃たれ、デスを重ねるのだ。
 嫌だ。そんなのは嫌だ。リスキルなんて嫌だ。己はそんなことをされるほど弱くない。ちゃんと戦って、撃って、勝たねば。せめて、一度ぐらいはあの身体をスポナーへと送らねば。
 ガチャ、と手にしたスプラシューターが鳴き声をあげる。持ち上げようとするも、腕の筋肉が全て取り払われてしまったかのように指一本動かすことができなかった。
「視野狭すぎない?」
 呆れきった声が頭上から降り注ぐ。は、と発しようとした声は、喉から飛び出ることなく消えた。代わりに、凄まじい勢いで何かが食道を駆け上っていく。押さえ込むより先に、三号の口からインクが吐き出された。飛び出たそれが、地面をびちゃびちゃと叩く。凄まじい疲労と短時間にリスポーンを繰り返したのが原因だろう。口の端からインクが垂れていく。あまりにもみっともなく、あまりにも惨めな姿であった。
「私のことしか見てないでしょ。だからボムでやられるし、足元塗られても気付かなくて足取られてる」
 違う。そんなことはない。ちゃんとあたりを見回して塗っている。そもそも、撃ち合いの時は相手しか見ないのは当然ではないか。姿を捉えねば弾が当たることなど無い。確かに撃ち合い中足元が悪くなることはあるが、そんなことで己のパフォーマンスが鈍ることなんて無い。
「射程も把握してないよね。絶対当たらない距離から無闇に撃ってる。インク切れるに決まってるじゃん」
 違う。そんなことはない。対面前に塗り広げるために射程外からでも撃つのは当然ではないか。射程が分からないはずがない。このブキを持ち始めて随分と経つのに、射程が分からないなんてことは無い。弾のブレが悪さをしているだけだ。
「塗り広げ雑すぎ。これだけ塗り狭かったら潜伏する暇無いよね? そもそも囲まれたら逃げられないのに」
 違う。そんなことはない。移動できるようきちんと塗り広げているし、相手のインクは潰している。射程外で塗りが届かない部分やまばらになる部分はあるが、塗ることに執着しては撃ち合う余裕が無くなる。ほんの少しの塗り残しぐらい見逃すのは当たり前ではないか。
「ていうかインク管理できないのって相当問題だよ? 対面中インク切れたらただの的になるだけなのに」
 違う。そんなことはない。長時間の撃ち合いでインクが切れることはあるが、それは運が無いだけだ。撃ち合いの最中、逃げて潜伏しインクを回復することなどできない。今あるインクで戦うしかない。そんなのは当然のことだ。
「スペシャル確認できてないのどうかと思うなぁ。相手がスペ溜まってるのに突っ込んでいっても返り討ちにされるだけなの分かるでしょ」
 違う。そんなことはない。スペシャルウェポンの発動は音で確認している。見逃すわけがなかった。事実、発動してからはすぐに身を隠している。そもそも、対面中も塗りが発生するのだから突然スペシャルウェポンを繰り出されるなど当然ではないか。そこに己の非など無い。
「……なわけ、ないでしょ」
 腕に力を入れ、やっとのことで上半身を起こす。震える足を叱咤し、地を踏みしめ、少女はどうにか立ち上がった。口から垂れるインクを拳で拭う。肌に付いたイエローはすぐさま宙に溶けて消えた。
「そんなわけないでしょ!」
「あるよ」
 激昂し叫ぶ三号に、司令は短く返す。ただただ短く声を発する。わずかな唇の動きで全てを否定する。
「全部できてなくて、弱いって言ってるの」
 真っ向からぶつけられた冷えた声は、見つめる目は、憐憫の情すら浮かんでいた。
 弱い。その三音節が少女の頭を殴る。たった一つ浴びせられたそれが頭を染め上げ、怒りの火に薪をくべ、思考を焼き尽くしていく。目の前が暗く陰った。
 食い縛り、少女はガシャリと派手な音をたててスプラシューターを構える。銃口が目の前の人を捉えるより先に、衝撃が、激痛が身体を染め上げていく。気付けば、やはりスポナーの上にいた。急いで飛び出し、相手の前に躍り出る。震える手でブキを構えるも、銃身は揺れて狙いが定まらない。トリガーを引く指も、ついには力が入らなくなりインクを撃ち出すことができなくなった。ついに疲労が限界を越えたのだ。当たり前だ、この二分ちょっとでバカみたいな数のデスを重ねたのだ。短時間に数えられないほど再生した身体がまともに動くわけがない。事実、力が入らなくなった足は身体を支えるという役割を放棄した。べしゃり、とまた惨めな音が耳元であがった。
 違う。弱くなんかない。己は弱くなんかない。強いのだ。こいつなんかに負けるはずがない。こんな、いつも座ってるだけのやつなんかに。人を騙すようなやつなんかに。最低なやつなんかに負けるはずがない。だって、己は強くて、強くなくてはいけなくて、だから。
「勝ちたいでしょ」
「……あ、たり、まえでしょ」
「これじゃ勝てないよ」
 基礎もできてないのに勝てるわけないでしょ。
 冷えきった声が、呆れきった声が、憐れみに満ちた声が降り注ぐ。頭上から注いで、染みて、思考を燃やしていく。心を焼き尽くしていく。
 違う。そんなことはない。馬鹿を言うな。調子に乗るな。様々な言葉が内臓の中を渦巻く。どれも声帯を震わせるには至らなかった。残る力を振り絞り、見下ろす青を睨めつける。太陽を背に受けた顔は、どんな色をしているのか分からなかった。
「勝ちたいなら――もっと強くなりたいなら、帰ってきなよ」
 平坦な声が、それでも少しの震えが見える声が落ちてくる。は、とこきめいた疑問の音が口から漏れた。
「帰ってくるなら鍛えてあげるからさ」
「いらないわよ!」
 馬鹿になった肺の中身を、カラカラに渇いた喉を、仕事を果たすことを忘れかけていた声帯をめいっぱい使い、少女は吼える。悲惨なまでに割れた声が、砂舞う空へと昇っていった。
 そう、と短い声が降ってくる。そこから一分の隙も無く、低い銃声が降り注いだ。
 視界が青に染まると同時に、ホイッスルの高い音が聞こえた気がした。






 ロビーの隅、バトルの個人成績やメモリーを見ることができる端末の前には二匹のガールがいた。一匹は苦虫を口いっぱいに放り込まれて噛み潰したかのように、もう一匹はどこかスッキリとした顔で液晶画面を眺めている。
 少しノイズが走る画面には、プライベートマッチの結果が記されていた。LOSE、つまり負けを示す語の下に書かれた自身の名前を眺め、三号は更に眉間に皺を寄せる。塗りポイント六一三、キル数ゼロ、デス数十五。悲惨の一言に尽きるリザルトだった。黄色で囲まれた文字たちから視線を上げ、すぐ上、青色で囲まれた部分を見る。WINの文字で飾られた枠の中、『Player』のネームの横にも数字が書かれている。塗りポイント八八四、キル数一五、デス数ゼロ。ナワバリバトルとして見れば、塗りポイントの差異はあまり多くない。けれども、今回の勝負は『キル数勝負』だ。デスゼロ――つまり、一度も倒されなかったことは、圧倒的勝利を表している。
 負けた。
 機械が語る厳正な結果に、否定したい現実に、認めたくない事実に、少女はカラストンビを噛み締める。音が鳴るほどのそれに痛みを覚えるも、筋肉は感情に操られたままで言うことを聞かない。身体が悲鳴をあげようと、心は加減をする余裕など持ち合わせていなかった。
 何で負けた。こんなやつに何で負けた。何で撃ち合いに勝てなかった。何で一キルすら取れなかった。何で。何で。
 多数の、けれども根源は一つの疑問が頭をぐるぐると回る。答えは分かっている。けれども、それを認めることなどできない。だって、己は強くて、強くなくてはいけなくて、だから負けるはずなど。
「負けっぱなしでいいの」
 涼しい声が鼓膜を震わせる。画面から音の方へと視線を、敵意を向ける。少し滲んだ視界の中には、汗一つ無い顔でこちらを見つめる司令がいた。言葉を紡ぎ出す口、その端っこはうっすら上がっている。激戦の後だというのに、何でもないという風な顔をしていた。
「……んなわけないでしょ」
 ガシャリ、と握ったスプラシューターが音をたてる。持ち上げたくても、銃口を向けたくても、撃ち殺したくても、腕はぴくりとも動かなかった。バトルと再生で体力を使い果たした身体はまだろくに言うことを聞かないのだ。
「じゃあ帰ってきなよ。定期的にタイマンやったげるから」
 さらりと告げられた言葉に、少女は吐息のような音を漏らす。疑問符でめいっぱいに彩られたそれは、ようやく少女の口を怒りから解放した。
 何を言っているのだ、こいつは。あの場所に、あの部隊に戻ることと、敗北を喫したことに関係性など無い。定期的にタイマン、という言葉の意図も分からない。定期的に戦うことに何の意味があるのだ。一度の負けなど、今覆してやればいいのだから。
「今やればいい話でしょ。もう一回やるわよ」
「ゼロキル十五デス」
 風に吹かれる柳のように動く三号に、司令は端末を指差す。先ほど嫌というほど見た数字だ。『キル数勝負』で負けた事実を突きつけてくる数字だ。笑みすら浮かべた涼しげな顔に、スプラシューターを軽々と扱う手つきに、少女は呻きを漏らした。屈辱に、憤怒に、悲痛に彩られた音をしていた。
「勝てないでしょ」
「やんなきゃ分かんないでしょ!」
 力を振り絞り、少女は目の前の胸倉を掴む。普段なら持ち上げるところだというのに、今は柔らかな皺を作るのがやっとだ。指が上手く動かない。身体が上手く動かない。怒りに身を任せても、疲弊した身体は拒否をする。あまりの情けなさにまた呻きがこぼれる。
「分かるよ。このレベルに負けるわけない」
 伊達にウデマエXじゃないんだから、と司令は歌うように言葉を紡ぐ。耳慣れぬ単語に、三号は更に表情を険しくした。バトル、その一つであるバンカラマッチはウデマエはS+が最高だ。Xなんてものはない。Xマッチならば分かるが、あれはウデマエでなく数値で実力を示されるものだ。つまり、ただのハッタリである。ハッ、と少女は鼻を鳴らす。胸倉を掴む手に力を込める。依然、指は震えて柔らかなままだ。
「だからさ」
 歌うように、なぞるように、撫でるように、司令は言う。冷えきっていた目には温もりが宿り、頬は色を灯して緩み、口元はゆるい弧を描いていた。
「鍛えてあげる。強くなりたいなら協力したげる」
「いらないっつってんでしょ!」
「今これだけ酷いのに独学で強くなれるの? 私に勝てるぐらいに?」
 曇り無き眼が少女に向けられる。純粋さを装った瞳は、暗に『無理だ』と語っていた。ギリ、とキチン質がまた嫌な音をたてた。
 今の戦い方は全て独学だ。バトルに身を投じ、身につけてきたものだ。今は負けが込んで悲惨な数字が並んでいるが、最近はゆっくりながらも勝率は高くなっている。成熟しているのは明らかだ。独りでも強くなれることは明白だ。
 けれども、先の戦いが邪魔をする。一キルも取れなかった事実。十五回も撃ち殺された事実。行動全てを読まれた事実。彼女曰く『弱い』部分を指摘された事実。それらが確固たるものであったはずの自信を潰さんとのしかかってくる。否定する言葉を押し込めてくる。
「定期的に私とタイマンして立ち回り磨けばいいよ。何だったら暇な時に軽く教えたげるし」
 軽い調子で司令は言う。一本立てた指をくるりと回す仕草は余裕綽々といったものだった。少女の神経を逆撫でするものである。掴む指に、感覚が戻りつつある指に力を込める。だからさ、と続いた声には、締められる苦しさなど欠片も見えなかった。
「帰ってきてよ」
 おねがい。
 司令は、一匹のインクリングは紡ぎ出す。こぼす、と表現するのが正しいほどの小ささだった。今までの様子からは考えられないほどの細さだった。縋るような必死さが滲んだものだった。
 何で。何でこいつはここまで己に執着するのだ。追いかけ回すほど。叩き負かすほど。鍛えてやるだなんて言い出すほど。こんな、情けない声を出すほど。こんなにも縋りついて離そうとしないのは一体何故なのだ。
 布を掴んでいた腕を離す。重い頭が沈んで落ちていく。だらりと垂れた己のゲソが、傷だらけのブーツが、傷一つ無いスプラシューターが、整備された地面が視界を埋める。
 分からない。少女には到底理解できない。理解しようと思わない。けれども。
「……たい」
 拳を握り締め、三号は俯いた顔を上げる。深海のような深い瞳には、炎が灯っていた。轟々と音を鳴らし、酸素を奪い尽くさんとばかりに燃え盛る炎が。
「絶対に、勝ってやるから」
 鍛えてやる。教えてやる。そんな馬鹿な言葉は、殺したいほど腹立たしい言葉は、全て利用してやる。そして、こいつを打ち負かすのだ。完膚なきまでに叩きのめし、敗北の苦さを存分に味わわせてやるのだ。だから、今は従ってやる。従ったふりをしてやる。こいつを負かすために。こいつに勝つために。
「ボコボコにしてやる!」
「楽しみにしてる」
 叫びにも似た少女の声に、司令は穏やかな声で返す。口元に浮かぶ笑みは深さを増しているように見えた。
 目の前、右手にあったスプラシューターが左手に持ち替えられる。空いたその手がゆるりと動く。手に柔らかな、温かな感触。目をやると、そこには己の手を握る司令の手があった。
「帰ろ」
 インクリングは笑う。無表情を貫いていたインクリングは笑う。温かな色を宿した、幸福の光を宿した顔で笑う。怪訝そうな視線が真っ向から向けられた。
「……帰るって?」
「え? キャンプに帰ろ?」
「……え? あぁ、うん?」
 首を傾げると、あちらも首を傾げてくる。己にとって、キャンプはただのオルタナでの活動拠点だ。『戻る』ならまだしも、『帰る』はいまいちピンとこない表現である。こいつにとってはあそこが家のようなものなのだろうか。あんなところに住んでいるのか、と湧いてきた疑問に、少女は眉をひそめた。
「……あー、そっか」
 傾げた首が戻り、目が丸くなり、すぐさま閉じられ。目の前の口から漏れ出たのは、溜め息めいた疲れ果てた声だった。そっかぁ、と続けざまに何度もこぼしていく音は暗く沈みきったものだ。今更になって疲労が襲ってきたらしい。いいザマだ、と三号は鼻を鳴らした。
 手が引かれる。いつぞやのように握り潰さんばかりのものではなく、引き千切らんばかりのものではなく、優しいものだ。こちらがついてくることを見越したようなものだ。鼻につくが、今は従ってやる。全てはこいつに勝つためだ。
「とりあえず、射程把握するところからね」
「射程なんか分かってるわよ」
「……まぁでも、もっかいちゃんと射程確認しとこっか」
 二匹のガールは手を繋いで歩く。二丁のスプラシューターが連れ立っていった。畳む

#新3号 #新司令

スプラトゥーン


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