No.162, No.161, No.160, No.159, No.158, No.157, No.156[7件]
twitterとか掌編まとめ7【SDVX/スプラトゥーン】
twitterとか掌編まとめ7【SDVX/スプラトゥーン】
twitterとかで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
スプラの話はうちの新3号だったり某所に提出したりしたもの。独自設定ありなのでご理解。
成分表示:はるグレ/グレイス+ロワーレ/嬬武器兄弟/インクリング+コジャケ/インクリング2/オクトリング+インクリング
瞳の先にはいつだって/はるグレ
カツカツと硬い音が室内に落ちる。人の声と機材の音で騒がしいスタジオ内では、その些細な響きはすぐに紛れて消えた。
細い足が幾度も動く。数歩進み、ターンして数歩進み、またターンして進み。ブルーブラックのロングブーツに包まれた足は同じ場所をぐるぐると巡った。
何をやっているのだろう、とグレイスは内心嘆息する。こんなあからさまに緊張している様を晒すなど馬鹿らしいと言い様がない。けれども、歩いてでもいなければ落ち着かないのだ。心がざわついて仕方が無いのだ。
それはそうだ、落ち着くはずがない。なんたって、今日はネメシスアリーナ放送局、その記念すべき第一回――つまり、己が司会という大役を担当する初めての生配信が目前に迫っているのだ。
レギュラーステージでも、選手たちの前で司会進行、DJ活動をリアルタイムで披露してきた。けれども、試合の形式上、相手はいつだって少人数だ。それが、いきなり全世界に向けて、しかもリアルタイムで行うのである。踏むべき段階を三個も四個もすっ飛ばしているとしか思えない展開だ。
大勢の前で何かを披露するのはライブステージ以来だ。でも、今回は対面ではない。文字を介してのコミュニケーションだ。ちゃんとコメントを読めるだろうか。適切なものをピックアップすることができるだろうか。きちんと文脈を読み取って返答できるだろうか。スーパーチャットの読み上げという初めての試みを担うこともあり、少女の胸には不安が募っていく。
「グレイス、大丈夫デスカ?」
可愛らしい声が己の名をなぞる。ぴゃわっ、と高い悲鳴とともに、武奏に包まれた身体がびくりと大きく跳ねた。急いで声の方向、ぐるりと身体を回して後ろを向く。そこには、スタッフの衣装に身を包んだレイシスと始果がいた。
「だっ、なっ、何がよ! 大丈夫に決まって――」
心配の声を、少女は胸の前でぎゅっと腕を抱えながら跳ね飛ばす。少し裏返った調子のそれは、途中で止まった。生配信に向けて入念に整えられた美しい眉が訝しげに寄せられる。驚愕に見開かれた目が眇められた。
「何よそれ」
普段はマイクやカメラといった機材を持つ少女の手には、青と赤のサイリウムが握られていた。蛍光色のそれは、ライトの光から離れた薄闇で鮮やかに輝いていた。カンペ用のスケッチブックを抱える少年の手には、大ぶりなうちわが握られている。黒い地紙にはデフォルメされた己の姿と『がんばれグレイス』というポップな文字が描かれていた。
「サイリウムデス!」
「うちわです」
「それぐらい分かるわよ。何でそんなもの持ってるのよ。ここスタジオよ?」
胸を張る薔薇と狐に、躑躅は依然眉を寄せて返す。サイリウムにうちわ。ライブ会場の客席ならともかく、スタジオスタッフとして働く二人が持つには疑問を抱くものである。
「応援デス! 応援といったらサイリウムとうちわデショ?」
「……らしいです。応援しています」
はわ~、と姉は両手に持った長いサイリウムを振る。赤と青が薄闇に包まれたスタジオに線を描いた。忍も控えめにうちわを振る。デフォルメされた己の姿が振り子のように揺れた。
いつの間にそんなもの用意したのだ、と少女は唇を引き結ぶ。特に始果がそんなものを持つ、否、作るという発想をするわけがない。きっとレイシスの入れ知恵だろう。変なことばっかり教えるんだから、と呆れがたっぷりの声が配信用のリップで彩られた唇から漏れ出た。
「そんなことやってる暇あるの? まだリハーサル終わってないでしょ」
「機材の準備は整いマシタ!」
「カンペも完成しています」
自信満々な声と落ち着いた声に、グレイスはそう、と返す。スタジオの準備はもうできている。つまり、本番が目前に近づいているということだ。そんなこと分かっている。けれど、慣れないことだらけの舞台を前に小さな心は未だに準備できずにいた。
「ちゃんとワタシたちがサポートしますカラ。安心してくだサイネ」
「きみのサポートをするためにここにいますから」
そう言って、二人はサイリウムとうちわを振る。『サポート』の言葉の意味が違うのではないかと思わせるような姿だ。呑気にも見える二人を目に、躑躅はふぅと息を吐く。そこには安堵がわずかに窺えた。
二人の仕事ぶりは今までずっと見てきた。いつだって最高の動きで機材を操り、最高のタイミングで進行を手伝ってくれる。こんな浮かれた様相をしていても、絶大な信頼を寄せている。分かってるわよ、とグレイスは手をひらひらと振る。えへへー、とレイシスは朗らかな笑みを浮かべた。
「……あんた、本当にカンペ出すタイミング完璧なのよね」
少女はぽつりとこぼす。ペツォッタイトの瞳は、逞しい腕に抱えられたスケッチブックへと注がれていた。
誰よりも先にスタッフとしての支援を志願してきた始果は、主にカンペでの指示を出すことを受け持っている。その指示の出し方が絶妙なのである。進行や時間は大丈夫だろうか、タイミングはおかしくないだろうか、と確認のために視線をやれば、そこにはいつだって答えが書いてある。流れるように進行ができるのは、この少年のおかげでもあった。
「きみが見るタイミングは何となく分かりますから」
口元をほのかに綻ばせ、始果は言う。そんなものなのかしら、と躑躅の少女は小さく首を傾げた。
ふふふ、と小さな笑声が二人の間に落ちる。声の主である薔薇の少女は、穏やかな、そしてどこか微笑ましそうな笑みを浮かべていた。
何笑ってんのよ、と眉をひそめる妹に、姉はまた笑みをこぼす。ダッテ、と柔らかな弧を描いた口が言葉を紡ぎ出した。
「始果サンはいつもグレイスのこと見てマスシ、グレイスもいつも始果サンのこと見てるンダナッテ」
ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべる薔薇色に、躑躅と狐は黙って顔を見合わせる。数拍、白くなめらかなかんばせがぶわりと朱に染まった。不思議そうにミモザを見上げていたアザレアが、これでもかというほど見開かれる。鮮やかなそれは、言葉を認識した瞬間バッと音が聞こえそうなほど素早く逸らされた。
「あっ、あ、当たり前でしょ! 指示があるかもしれないんだから見てないといけないでしょ!」
赤い顔で少女は叫ぶ。そうだ、全ては試合を円滑に進めるためなのだ。決してあの少年を見ているわけではない。指示だけを見ているのだ。始果のことなど関係ないのだ。事実のはずだというのに、言い訳めいた響きに聞こえてしまうのはきっと気のせいである。何かを払うかのように、マゼンタの頭が横に振られる。長いツインテールが宙を舞った。
「グレイスのサポートをするためにスタッフになりましたから」
きょとりとした顔で少年は返す。学友が見れば、事実を並べただけの何の感情も無い言葉に見えるだろう。しかし、グレイスからすれば心の底からの言葉であるのが分かる響きと表情だ。だからこそ、心臓がうるさいくらいに脈を打つ。
ニコニコと依然微笑ましげな笑みを浮かべるレイシス。赤い顔で唇を真一文字に結ぶグレイス。そんな二人を不思議そうに眺める始果。何とも言い難い空間がスタジオの片隅に生まれていた。
「とにかく! 準備! 最終確認するわよ!」
サイリウムとうちわを手にした二人をびしりと指差す。本番の時間は刻一刻と迫ってきているのだ。こんなところで漫才めいたことをやっている暇は欠片もないのである。リハーサルもまだ済んでいないのだから尚更だ。本番前に全てを詰めて、完璧な放送に仕上げなければならないのだ。
ハイ。はい。元気な声と穏やかな声が重なる。そこには先ほどまでの浮かれた様子は無い。スタッフとして、番組を支える者として、強い意志があらわになった響きだ。
「頑張ってくだサイネ」
「……当たり前でしょ」
フフン、とグレイスは不敵に笑う。何度も地を叩き迷い彷徨っていた足は、しっかりと地を踏みしめていた。
緊張がなくなったわけではない。不安がなくなったわけではない。けれども、支えてくれる者の姿と、まっすぐな応援の言葉が、この細い身体を迷いなく立たせてくれた気がした。
「任せなさい! かんっぺきにこなしてみせるんだから!」
ビシリ、とグレイスはまっすぐに指を差す。『がんばれ』の可愛らしい文字が、躑躅の目いっぱいに映し出された。
飾り輝かせ/グレイス+ロワーレ
ピアノの軽やかな音が防音加工された教室に響く。流れるような美しさと少しの哀愁を浮かべた旋律に、若々しい歌声が重なっていく。指揮者の大ぶりなタクトの動きに従い、生徒たちは奏でた。
宙で結ぶような式の動きに合わせ、歌声が止む。ほのかな温かさを残す細い音色が静かな音楽室を流れゆく。指揮棒を握る腕が音もなく下ろされるとともに、ステレオスピーカーから響く音楽が終わった。機械を操作し音源を止め、指揮者である音楽教師は壁に備え付けられたデジタル時計に視線を移した。
「今日はここまでにしましょう。今のままでも十分ですが、もう少し練習すれば更に素晴らしくなるはずです」
ジュワユースほどではありませんが、と仮面を着けた教師は言う。うっとりと愛剣を撫でる彼の様子など気にすることなく、生徒たちは教室後方に寄せた机たちを元に戻し始めた。
電子の鐘が校内に、教室に鳴り響く。授業の終わりを知らせる調べだ。机を戻し終えた生徒たちは、各々教科書を手に教室を出ていく。談笑する声が、駆ける足音が、防音室から流れていった。
廊下へと向かう人の波の中、華奢な足が動きを止める。学園指定の上履きに包まれた小さな足が、キュッと地を擦り踵を返す。グレイス、と尋ねる声など気にも掛けず、少女は速い足取りで音楽室内、その壇上へと戻った。
「ねぇ」
教壇の前に立ち、少女は声をあげる。向こう側、教材を片付けていたロワーレは、何でしょうか、と穏やかに返した。
「貴方、その剣のこと本当に大切なの?」
細い指が教壇の傍ら、大判の布で保護されたグランドピアノ、その天板の上に横たえられた剣を指す。突然の言葉にか、仮面の向こう側の藍色がぱちりと瞬いた。
「もちろん。この世にジュワユース以上に美しく、ジュワユース以上に素晴らしく、ジュワユース以上に守るべき、讃えるべきものなどありません」
歌うように誇らしげに、陶酔すら見える調子で音楽教師は答える。予想通り、否、それ以上の言葉に躑躅の目が眇められる。うんざりとした様子だけではなく、疑わしさを多分に含んだ色を色濃くにじませていた。
「じゃあ、何でそんな大切な者を指揮棒代わりに振り回してるのよ」
懐疑を隠すことなく少女は尋ねる。マゼンタの視線が金の仮面へ、青の剣へ向けられた。
ボルテ学園高等部で音楽の教鞭を執るシャトー・ロワーレの腕は確かなものである。豊富な音楽知識を流れるように語る授業は分かりやすいと生徒の間でも評判だ。奏でるピアノは正確かつメリハリのある美しい音色を響かせ、セッションの際には存在感はあれど他の楽器を引き立たせるものだ。指揮も歌う者の個性を引き出す手腕に長けた者である。音楽教師として素晴らしい、目指す一つの形としての技術を持っていた。
ただ一つ、愛剣をタクト代わりに振り回すこと以外は。
「大切なものなら何で振り回すのよ。危ないでしょ」
「たしかになー。吹っ飛んでくるんじゃねーかってたまに思うもん」
依然不満をあらわに教師を睨む躑躅の少女の横に、朱い少年が並ぶ。賛同の声をあげる雷刀は、ちらりと担当教員の愛剣に視線をやる。子どもの背丈ほどもある武器は、窓から差し込む陽光を受けて輝いていた。よく手入れされ、よく磨かれ、よく研がれている――剣という武器としての役目を存分に果たすことができる証左である。
グレイス。雷刀。可愛らしい声と涼やかな声が壇上に上がった二人の名を呼ぶ。レイシスと烈風刀だ。少女の愛らしい顔には不思議そうな色が、少年の整った顔には少しの焦りと苦さが浮かんでいた。
「次の授業まで時間がありません。早く行きますよ」
どこか早口に言葉を紡ぎ、碧は片割れの首根っこを掴んで引く。ぐぇ、と苦しげな声があがった。彼らしくもなく急いた様子は、この話題に関わりたくない、という考えが容易に見て取れるものだった。
「そうですね」
双子の様子など気にもせず、ロワーレは言葉を続ける。質問者であるグレイスとその横に並び立ったレイシスは、興味深そうに仮面で彩られたかんばせをじぃと見つめた。
「音楽は美しく、素晴らしいものですよね」
歌うような声だ。穏やかな声だ。そこには音楽教師らしく、音楽へと真摯に向けられた思いが見て取れた。
「そして、ジュワユースは美しく、気高く、素晴らしい剣です」
仮面の奥の藍色が、なめらかな布の上に横たわる剣へと向けられる。愛おしげに細められた目は、うっとりとしたものだ。愛がこれでもかと浮かんだとろけた目つきに、躑躅は険しげに目を細めた。
「美しいジュワユースには、美しい音楽が似合う。美しい二つが合わされば、更に素晴らしい輝きを放つでしょう?」
ジュワユースには、音楽が何よりも似合うのですから。
そう言ってロワーレは柔らかに笑む。常識だろう、と語るような声色だ。事実、彼にとっては常識なのだろう。誰よりもこの剣を愛し慈しむ彼にとっては。
はわぁ。へぇ。感嘆の声が二つ上がる。スピネルとエメラルドが眇目になる。前者には純粋な感心が、後者にはうんざりとした様子が強く表れていた。正反対の反応だ。
「見てください、この輝きを。この研ぎ澄まされた刃を。いつまでも変わらぬ美しさを。布に横たえると生地の柔らかさとジュワユースの細くも剛健たる姿が――」
「あぁ、そろそろ予鈴が鳴りそうですね!」
「そうね! 失礼するわ!」
浅葱と躑躅は声をあげる。あからさまにこの話を切り上げようとするものだった。当たり前だ、この教師の愛剣への想いを語らせれば放課後になってしまうだろう。一種ののろけ話を延々と聞かされるなど、高校生には耐えがたいものである。
行くわよ。行きますよ。兄妹姉妹は片割れの手を引いて足早に教室の出口へと向かう。はわっ、と驚いた調子の声があがる。そこまで急ぐことないだろ、と不思議そうな声が手を引く背に投げかけられる。どちらの声にも応える者はいなかった。
四人分の盛大な足音が教室の外へと出ていく。静かな音をたてて自動ドアが閉まった。その様子を教師はきょとりとした瞳で眺めていた。
一拍、深青のスーツに彩られた足がゆるりと動き出す。靴音を立てることなく、美しい足取りで青年は愛剣の元へと向かった。
白い指が蒼と紋様で飾られた刀身をそっと撫でる。恭しい手つきは、まさに宝物に、壊れ物に、愛おしい者に触れる様であった。
ジュワユース。
うっとりとした声が音楽室に落ちる。穏やかな、けれども陶酔しきった色を宿した笑みが銀の刃に反射した。
ハンバーガー食べよっ/嬬武器兄弟
夕暮れ道に足音が二人分響く。常ならば軽やかなそれは、まるで這っているかのように重苦しいものだ。響くというよりも、落ちると表現する方が正しい音色であった。
またしても起こったヘキサダイバーの異変解決。息つく間もなくオンラインアリーナの開催準備をし、裏ではメガミックスバトルの大型アップデートに向けて動き。加えて外部の世界とのコラボレーションを行いプロリーグの準備までしていたのだ。激動の数ヶ月を過ごしてきた身体は、常に悲鳴をあげていた。その悲鳴を無視して走ってきたが、遂に限界を迎えつつあった。
今日はお休みしマショウ、とレイシスの疲弊しきった笑顔に見送られ、兄弟二人で学園を出た。疲労に支配された身体は重く、歩みを進めるのも億劫だ。これから帰って晩ご飯を食べ、シャワーを浴びて、洗濯をして、課題を済ませて、予習をして。今まで事もなげにやってきた日常だというのに、今は想像するだけでも頭が痛くなる内容だ。かといって、学生として、人間として怠るわけにはいかないのだ。残った気力でやり遂げるしかない。考え、烈風刀は息を吐く。足取りと同じ重さをした、深いものだった。
「……れふとぉ」
重くか細い声が片割れの名をなぞる。彼らしくもない音色だが、二人とも同じほど疲れているのだ。こんな声を出してしまうのも仕方が無いことだろう。
「晩飯、ハンバーガーでいい?」
碧い頭が上下に動く。スニーカーに包まれた足が二対、己が住処と反対方向へと向けられた。
ポテトとナゲットのセット。ソースは全種類。ハンバーガー四つ。コーラとアイスコーヒー、どちらもLサイズ。
大量の注文だが、今では席に座って指先でアプリを操るだけで持ってきてもらえるのだから便利な世の中である。レジに並ぶことすら苦痛に感じてしまうほどの身にはありがたいったらない。文明の発達に感謝する瞬間だ――何とも生活臭いことだけども。
おまたせしました、と明るい声。二つのトレーを持った店員は、みっともなく机に倒れ伏した兄を気にすること無くプラスチックトレーを並べていく。ごゆっくりどうぞ、の言葉と共に去っていく背に、碧は小さく会釈をした。きちんと礼を言うべきであるのは分かっているが、店について席に座った途端言葉を発する体力まで尽きてしまった。どうやら、無視してきたものは思っていた以上に酷かったようだ。
朱い頭がゆるりと上がる。うつ伏せから猫背に座り直した兄は、そっと両の手を合わせた。弟も同じく手を合わせる。いただきます、と力ない合唱が明るい店内放送が流れる世界の片隅に落ちた。
小さなソースパックを開ける。広がったスパイシーな香りに、腹がぐぅと大きな鳴き声をあげた。同時に、胃にかすかな痛みが走る。どうやら、胃が痛くなるほど空腹状態にあったらしい。身体にのしかかる疲労にばかり気を取られて、すっかり忘れてしまっていた。
紙箱の蓋を開け、ナゲットを一つ取り出す。開いたばかりのソースのパックに、小ぶりなそれをどぷりと沈めた。手で掴んで食べるのも、素材の味を殺すほどソースを付けるのも、どちらも行儀の悪いことだ。しかし、今は世間体を気にする余裕など無い。そもそも、ジャンクフードなんてものはこうやって食べるのが最早作法である。そんな馬鹿げた言い訳をしながら、少年は茶色に輝くナゲットを口に運んだ。
サクリとした薄い衣に歯を立てる。舌に広がったのは、強い塩気だった。舌を刺す、と表現してもおかしくないほど濃く刺激的な味が口の中に広がっていく。空っぽの胃に相応しくないものだというのに、動きの鈍った脳味噌はそれを強く歓迎した。
白と茶の紙に包まれたバーガーを取り出す。行儀が悪いほど大きく口を開き、かぶりつく。少しパサパサとしたバンズの食感。香辛料がたっぷりと仕込まれた肉の味。これまた濃いケチャップの塩気。いっそわざとらしいほどのピクルスの酸味。安っぽい味だというのに、口はどんどんと動き、遂には一つぺろりと平らげてしまった。脳の奥が温かに満たされる感覚がした。
赤い紙容器に入ったポテトに手を伸ばす。大ぶりな赤から抜いた一本は長く、しなりとしていた。作られてから随分と時間が経っていることが分かる姿だ。気にすることなく、中ほどまでかじりつく。芋の味と、それを全て消し去るような塩気が口の中に広がった。
どれもジャンキーで、身体に悪い味だ。そんなことは入店前から分かっていたというのに、手は、口は、どんどんとそれを求めて動いてしまう。疲れ切った身体は、過剰な油分と塩分を大歓迎していた。
「…………うめー」
はぁ、と雷刀は息を吐く。彼の前には、くしゃくしゃになった包み紙が二つと空になった箱があった。どうやら、もうバーガーとナゲットを食べきってしまったらしい。そこまで栄養補給をして、やっと会話する機能と余裕を取り戻したようだ。
「たまに食うとうめーよな」
「貴方は『たまに』なんて頻度で済まないでしょう」
「んなことねーって」
もそもそとポテトをつまみながら、兄弟二人は言葉を交わす。普段の軽快さなどまるでない、ぽそりぽそりといったような響きだ。それでも、先ほどまでの枷でも付けられたような重みは随分と薄れていた。
「烈風刀はしなしな派? カリカリ派?」
そう言って、朱は手に持ったポテトを残ったソースに付けた。茶に染まったそれが、油分で潤った口に吸い込まれていく。シャープな輪郭をした頬がもごもごと動いた。
うぅん、と小さな声をあげ、碧は目の前の赤い容器に視線をやる。中身がほとんど無くなったそれに指を入れ、焦げが見える短い一本を取りだした。
「……カリッとしている方が好きですね」
「烈風刀が作るのはいつもカリカリでホクホクだもんなー」
カリ。硬い音が二つ重なる。流れるような線を描く顎が、柔らかな頬が、喉仏が目立つ喉が動く。動作の速度に比例して、テーブルの上の食器の中身は綺麗に消え去っていった。
畳まれた包み紙が四つ、空箱が三つ、潰された容器が二つ。注文した食べ物は全て男子高校生二人の胃の中に収まってしまった。小さく息を吐き、ストローに口を付ける。ヂュゴ、と醜い音があがった。一番大きなサイズを選んだはずのドリンクも、もう無くなってしまったようだ。
ごちそうさまでした。
二人、共に手を合わせ、作法の言葉を口にする。帰ろっか。そうですね。短く言葉を交わし、トレーを一つずつ持って席を立つ。店内の片隅にあるゴミ箱に分別して容器を捨て、残った氷を捨てる。まっさらになったトレーを重ね、双子は自動ドアをくぐり抜ける。ありがとうございましたー、と元気な声が制服に包まれた背を押した。
冷たい空気が肌を撫ぜる。世界はすっかり夜闇に包まれていた。季節はもう秋の中頃、冬が近い。夜が支配する時間はどんどんと増えつつあった。
「明日の晩ご飯どうすっかなー」
「気が早すぎるでしょう」
頭を掻きながら言う兄に、弟は呆れた調子で返す。まだ少しだけ油が残った唇は、ゆるりと笑みを描いていた。
「だって今日使わなかった分の食材のこと考えなきゃだろ? 冷凍保存できるのはともかく、野菜とか使い切らなきゃだし」
むぅと頬を膨らませ、雷刀は唇を尖らせる。そうですね、すみません、と烈風刀は返す。その口元も、目元も、柔らかな笑顔を浮かべていた。穏やかな片割れの様子に、朱はふ、と息を漏らす。店に入る前のそれよりもずっと軽く、柔らかな響きをしていた。
「明日も頑張りましょうね」
「……おう」
少しだけ力を取り戻した声で兄弟は言葉を交わす。声を発する口の奥には、未だソースのスパイシーな香りが残っているように思えた。
祭の後に残るのは/インクリング+コジャケ
ブーツに包まれた足を動かし、少女は薄暗いロビーを出る。夜が降りていた世界は、いつの間にか元の様相を取り戻していた。煌々と光る数多のぼんぼりは姿を消し、目に痛いほど鮮やかなネオンの明かりも消えている。ハレの日は終わり、ケの日が戻ってきたことをよく表していた。
ぎゅっと目を閉じ、手を組んでぐっと背を伸ばす。連戦に次ぐ連戦を重ねた身体は悲鳴をあげていた。疲労はかなり溜まっているものの、その分多大な成果があったのだから十分だ。十倍マッチに百倍マッチ、どちらも勝利を収めたのだ。陣営に貢献したのは確かである。あとは結果発表を待つだけだ。
ふぅ、と小さく息を吐く。ロビー正面、階段を下った先の大きな広場にはオミコシの姿は無かった。代わりに、大型のバンが止まっている。傍らには木材の山と大量のゴミ袋があることから、オミコシの解体作業が済んだのが分かった。フェスはついさっき終わったところだというのに、早いものである。お祭りを象徴するような豪奢な建築物、それも己も壇上に上がったものだけあって一抹の寂しさを覚えた。
階段から離れ、ロビー出入り口横へと向かう。気怠げに携帯端末を操る青年、その後ろの看板の影を覗き込む。お天道様の陽から逃げたそこには、すやすやと眠る相棒の姿があった。フェス中はここで眠っていたのだろう。シャケをしばき倒しイクラを集める者たちが集う場所に近いこの場所には行ってはいけないと言いつけているが、今回は別だ。普段通り街中を出歩いて、祭に浮かれ集まった者の波に呑まれ潰されてしまっては洒落にならない。宵闇に包まれた世界、その隅の影となれば一番安全な場所である。
「起きて。帰るよ」
横たわったまあるい身体をそっと揺り動かす。小さなヒレがひくりと動く。真ん丸な黄色い目がゆっくりと開き、幾度も瞬きを繰り返した。すぐにぴょんと小さく跳ね、コジャケは身体を起こして特徴的な鳴き声をあげた。彼はとっても寝起きが良いのだ。
ぴょんぴょんと小柄な身体がめいっぱい跳ね、相棒は地面に降り立つ。そのまま、滑るように街を歩き出した。どこへ行くのだろう、と彼にとっては素早く、己にとってはゆっくりと進んでいく小さな背を追う。程なくして着いたのは、クマサン商会の脇だった。小さな広場に続く通路の脇には、ゴミ袋の山が鎮座していた。後片付けの最中なのだろう。廃棄物の山を見るのはあまり良い気分はしないが、祭の後などこういうものである。むしろ、きちんと集めてまとめられているだけマシだ。この街にはゴミをゴミ箱に捨てずに置き去りにする者が多いのだ。
ぴょんぴょんと小さな身体が跳ねる。己たちに比べて随分と小柄な相棒は、器用な動きで見るからに不安定なゴミ袋の山を登っていった。
「あっ、こら。汚いでしょ」
咎める声とともに駆け寄る。黒いビニール袋の頂に立った彼は、興味深そうに辺りを見回していた。元よりポールの上や欄干の上を好む子だ、高いところには登りたい性分なのかもしれない。あまりにも目立つ場所故に諦めたが、できることならばオミコシにも乗せてやりたかったものである。
晴れ空に包まれた街を見回していた目が止まる。黄色い視線の先には、袋から飛び出した太い串があった。きっと屋台で売られていた軽食のものだろう、尖った木のそれは油でてらてらと輝いていた。
ぞわ、と背筋を何かが駆け抜けていく。少女は目を見開き、急いで地を蹴る。ナワバリバトルで鍛えられたしなやかな脚が、石造りのタイルを力強く踏みしめた。
「食べちゃダメ!」
ダッと音がたつほど強く蹴って跳び上がり、ゴミ山の頂に立つ相棒の身体を掴んで引きずり下ろす。鳥の鳴き声のような声が裂けた風にすら見える大きな口からあがった。
「ゴミなんか食べちゃダメ! 汚いでしょ!」
指が食い込みそうなほど強く掴んだ小さな身体、不釣り合いなほど大きな目を真正面から見据え、少女は大声で叫ぶ。勢いのあまり、小さな体躯を揺らしてしまう。トサカのような赤い髪が強風に吹かれたように前後に揺れた。
尖った大口から疑問に彩られた鳴き声があがる。見つめる瞳も、何を言っているのだ、と言いたげな様子だ。ゴミなんか食べないぞ、と主張するような姿だった。しかし、見たのだ。あの大きな口の端から涎が垂れるのを。
「お腹空いてるなら早く帰るよ。ご飯食べるでしょ」
少女は依然険しい顔で相棒を睨む。コジャケは普段と変わらぬ声で鳴いた。小さなヒレが忙しなく動く。先ほどまでの問答など、『ご飯』の言葉の前では飛んで消えてしまったようだった。
はぁ、と少女は溜め息を吐く。本来ならフェス用に貸し出されたシャツを返さねばならないが、今の街中に相棒を放り出すのは危険だ。またバランスの悪いゴミ山に登るのも、ゴミ袋から溢れ出た食べかすを目ざとく見つけるのも、何としてでも止めなければならない。『シャケ』という種族故に病院にも連れて行けないのだ。怪我をするようなことなどさせるわけにはいかない。
返却は後にしよう。まずはこの子を家に帰さないと。考え、腕の中の小さな身体をしかと抱き締める。久方ぶりにダメージ加工されたシャツで着飾った少女は、大股で改札へと向かった。
遠いあの日々が追いかけてくる/インクリング
規則的な電子音が己の奥底を揺らす。高いそれが眠りの底に沈みきった自我を、重く閉じきった瞼を引っ張り上げた。まだ輪郭が無い意識の中、やかましい音の発生源へと腕を伸ばす。薄闇に包まれた世界で煌々と輝く液晶画面をスワイプすると、部屋は静寂に包まれた。
湧き出てくる欠伸を噛み殺しながら、少女は身を起こす。柔らかで温かなベッドから降り立ち、素足のままぺたぺたと窓辺へと向かう。淡い緑の真ん中に手を入れ、横へと掻き分ける。シャ、と涼やかな音とともに眩しい朝日が降り注いだ。
ナイス!
耳に飛び込んできた声に、少女は思わず眉を寄せる。続けざまに鳴り響く発砲音、爆発音、インクを泳ぐ音、活気に溢れた掛け声。耳からの脳にたっぷりと注ぎ込まれる不快感に、大きな手は急いでカーテンを閉めた。もちろん、薄布二枚程度であんな派手な音が完全に防ぐことなどできるはずがない。まだ鈍く聞こえるそれから逃げるように、大きな足はリビングへと続くドアへと向けられた。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅地から少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも行きやすい静かな場所。貯めた、否、いつの間にか貯まっていたおカネをはたいて引っ越したのは二年ほど前のことだっただろうか。当時にしては相場より少し高い家賃だが、過ごしやすさへの対価としては十分な額だった。
ケトルに水を入れ、火にかける。マグを取り出し、ドリッパーを載せ、フィルターを付け、粉を入れ。まだ眠気が残る身体で用意している間に、細いケトルはすぐに鳴き声をあげた。火を落とし、ドリッパーへと湯を傾ける。温かな湯気が運ぶ香ばしい匂いが鼻をくすぐった。朝っぱらから胸に落とされた鈍い何かが解けていくような心地がした。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅地から少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも行きやすい静かな場所。ガチマッチに疲弊しきり折れた心が選んだこの街は、今ではすっかり栄えていた。栄えてしまった。逃げたはずの過去が追いかけてくるほどに。
ドリッパーを外し、湯気立ち上るマグへと口を付ける。瞬間、ピー、と高いホイッスルの音がガラスの向こうから鳴り響いた。マグを傾けるはずの手が止まる。先ほどのバトルが終わったのだろう。この音を聞く度動きが止まってしまうのだから、身体は未だに過去を忘れてくれない。厄介ったらないものだ。頭を埋めていく嫌悪を振り払うように、今度こそコーヒーを口にする。程よい熱と濃い苦みが舌の上を広がっていく。飲み慣れたそれが、まだけぶった思考を晴らしていった。
ハイカラスクエアから電車で六駅。ビル街や住宅地から少しだけ遠い、でも不便ではない、独り身でも行きやすい静かな場所。ゆっくりと栄えたここは、近年になってナワバリバトルの新たなステージとして開発されてしまった。ステージを設けるというニュースを見た瞬間、思わず端末を音してしまったことをよく覚えている。何で、と一人きりの部屋で叫んだことも。
おかげでバトルの喧騒と過去に耳を、頭を、心を引っ掻き回される日々を送っている。当時バトルで稼いだおかげで貯金はまだまだある。引っ越すことも考えた。けれど、引っ越したその先がまたステージとして栄えたら。ハイカラ地方に住む以上、もう逃げ場など無いのだ。
ちびちびと飲み進めながら、携帯端末を操作する。今日は燃えるゴミの日だ。飲んだら捨てに行かなくては。考えながらニュースサイトの文字を辿っていく。天気は晴れ。降水確率二〇パーセント。バトルには最高の一日でしょう、と添えられた一言に、少女はまた顔をしかめた。
ぬるくなりつつあるコーヒーをぐっと飲み干し、マグをシンクに置く。粉がへばりついたフィルターを捨て、ゴミ袋を縛る。壁に掛けた上着を引っ掴んで羽織り、膨れた袋を手に玄関へと向かった。回収時間にはまだ余裕はあるが、早く済ませるに越したことはない。そんな見え透いた言い訳をしながら、少女は玄関のロックを解除した。
階段を降り、マンション指定のゴミ捨て場に向かう。エントランスのガラスドアを抜けた瞬間、きゃらきゃらと可愛らしい声が耳に飛び込んできた。
さっきのバトル頑張ったね。すごかったでしょ。あそこでカバーしてくれたのさすがだよ。
自販機の前にたむろした少女らは高揚した調子で言葉を交わす。片手にはペットボトル、片手にはブキ。きっと先ほどまでナワバリバトルをしていた子どもたちなのだろう。少しだけ上擦った声と互いを讃え合う爽やかな言葉が鼓膜を震わせる。脳を揺らす。心を濁らせる。
早く捨てて戻ろう。帰ってもう一杯コーヒーを飲もう。声を掻き消すように考え、足早に進む。少し乱暴な手つきでゴミ袋を置き、足早に来た道を戻った。
「あっ、またカフェオレなんだ」
「だって苦いの苦手だもん」
エントランスに入る瞬間、そんな会話が聞こえた。
またカフェオレ飲んでる。苦いの苦手だもん。こどもだー。同い年のくせに何言ってんの。
交わした言葉が、記憶が、光景が、ぶわりと膨れ上がる。厳重に塞いだ蓋を破って湧いて出る。頭を、心を染め上げていく。苛烈な何かが胃を焼いた。
バトルの後にジュースを飲むのが好きだった。苦いものが苦手な己をからかってくるあの子とじゃれあうのが好きだった。互いに褒め合い、励まし合い、次のバトルへと向かう合間の穏やかな時間が好きだった。
バトルではいつだって息の合った動きをしていたあの子は、今何をしているのだろう。考えたところで、自ら逃げた己には『今』を知る方法など無いのだけれど。
無意識に目元を強く押さえていた手を緩慢な動きで下ろす。はぁ、と溜め息一つ吐き、鈍い足取りで自動ドアをくぐった。
音も無く閉まったガラス戸の向こう、もうあのかしましい声は聞こえなくなっていた。
週末、昼時、掃除と貴方と/オクトリング+インクリング
音もなく開いたドアをくぐり、数字が書かれたボタンを押す。ドアが閉まります、と機械的な声が狭いスペースに響き、分厚いドアが閉じる。一拍置いて、鈍くこもった機械音が鳴り始めた。薄い浮遊感に少年は今一度足を踏みしめた。
たった四階だ、数秒で箱は動きを止めた。機械音声とともに、自動ドアが開く。物言わなくなったそれから抜けだし、少年は廊下を歩んでいった。
道の突き当たり、角部屋のドアの前に立つ。リュックから鍵を取り出し、ノブの穴に差し込む。軽く回せば、ガチャリ、と重い音が光差し込むコンクリートの世界に響いた。鞄たちを抱え直し、少年は部屋に入った。
カーテンが閉められた室内には、電灯を点けずとも惨状が広がっていることが容易に分かる匂いが立ちこめていた。アルコールと砂糖の匂いに、ほのかに香水が香る。慣れたはずの悪臭だというのに、思わず酒くさ、とげんなりとした声を漏らした。
脱ぎ散らかされた服と転がる缶、中に水気を孕んだペットボトル、油汚れが残るプラスチック容器が散らばる床をそろりと進んでいく。そうでもしないとゴミを踏みつけてしまうほどの荒れようだ。わずかに残った足の踏み場をつま先立ちで渡り歩き、少年は窓へと近づく。二重になったカーテンに手を掛け、勢い良く開いた。シャ、と軽い音とともに、薄闇に包まれた部屋は光に満たされた。
そのまま窓を開け、少年はゆるりと振り返る。陽光差す部屋は、相変わらず凄惨な有様をしていた。はぁ、と溜め息を吐き、来た道を慎重な足取りで戻る。玄関へと向かい、ブーツやパンプスが詰め込まれたシューズボックスの中から、大容量のビニール袋とほうき、地域指定のゴミ袋を取り出した。
プラスチック容器、缶、ペットボトルを別々の袋に放り込んでいく。捨てる前に洗わねばならないし細かい分別もしなければならないが、そんなのは後回しだ。今は床が見えるようにするのが最優先である。大きな手がゴミを掴み、手際よく黙々と分けていった。
んぅ、と寝惚け声が窓辺からあがる。ゴソゴソと布が擦れる音。しばしして、窓際の丸まった影が形を変えた。
「……あ~、おはよ」
少年の姿を見とめ、布団の主、そして部屋の主である女性はにへらと笑った。昼は透き通り輝きに満ちた色を見せる瞳は、今は眠気でけぶっている。はつらつとした声も輪郭が曖昧になっていた。
「おはようございます」
手を止めることなく、少年は短く返す。この部屋に足を踏み入れた時点で、彼の最優先事項は『掃除』になっていた。家主への敬意――そんなものはとうに消え失せているが――など二の次である。まだ幼さ残る丸い目は、ゴミが除かれはじめた床へと向けられていた。
「今日も早いねぇ。眠くない? もうちょっと寝よ~よ~。ベッド半分貸したげるからさ」
ふにゃりとした声で良い、女性は枕を抱えるようにヘッドボードへと身を寄せる。掛け布団は君のね、と空いた下半分に柔らかな羽毛布団を追いやった。彼女の言う『半分』は、ベッドを正方形に分けた状態を指すらしい。
「もうすぐお昼ですよ。眠くなんてありません」
硬い少年の声に、そ~ぉ~、と疑問形のやわこい声が返される。毛布の端から腕が伸び、白い指が枕元の携帯端末を捕まえる。しばしして、ほんとだぁ、と溶けた声があがった。
「さっさと起きてシャワー浴びてきてください。もうすぐ掃除終わりますから」
燃えるゴミをまとめた少年は、じとりとした視線をベッドへと向ける。はぁい、と存外素直な言葉と毛布が擦れる音。ぺたぺたとようやくまともに姿を現しはじめた床を歩く音が続いた。
ざっくりと分けたゴミと洗濯物の山を部屋の隅に押しやり、少年はキッチンへと向かう。毎度ながら、ここも大層な惨状だ。転がる缶と瓶を分け、いつ放り込まれたか分からない水切りかごの食器を拭いて片付け、中途半端に水に浸された食器を洗い、水垢が浮かび始めたシンクを掃除し。テキパキと作業を進め、あらかた片付けたところで手を洗い、持ってきたエコバッグに手を入れる。取り出したのは、行き道で買ったクロワッサンだ。小ぶりなそれを数個トースターに放り込み、フライパンをコンロにかける。冷蔵庫から先週買って置いたままの卵を取り出し、ボウルに割ってかき混ぜ、油を敷いたフライパンに注ぎ入れる。ガシャガシャと適当にかき混ぜ、きちんと火が通ったところで二等分して皿に移した。ケチャップをかけていると、トースターが高い鳴き声をあげる。バターの香りが一層増したパンを取り出し、卵の脇に置く。二人分のそれを手に、少年は部屋へと踵を返した。
クロワッサンにスクランブルエッグ、インスタントコーヒー。シンプルな朝食兼昼食を前に、少年と女性は手を合わせる。いただきます、と短い合唱が随分と広くなった部屋に落ちた。
「やっぱり君のご飯は美味しいね」
「あのパン屋が美味しいだけですよ。俺は卵を焼いただけです」
「え~? 火の通り具合とか味付けとかちょうどいいよ? やっぱり料理上手だよ」
笑いながら、スクランブルエッグを一口食べる。美味し~、と嬉しげな声があがった。料理人は何も言わずクロワッサンにかじりつく。サクッ、と小気味よい音があがった。
ねぇ、と女性は少年を呼ぶ。あれだけ曖昧な輪郭をしていた声には、常通りの芯が通っている。すっかりと目を覚ました様子だ。
「やっぱ一緒に住まない? 家賃と食費は全部私が持つからさ」
「嫌です」
小首を傾げて何度目かの問いを投げかける女性を、少年はいつも通りバッサリと切り捨てる。え~、と不満げな声があがった。それもどこか愉快げだ。
「俺には住み込みの家政夫なんて無理です。ていうかちゃんとプロを雇ってください」
「知らない人より君の方がいいよ」
「俺も十分『知らない人』でしょう」
少し遅くなった帰り道、薄暗い駅のホーム。赤ら顔した彼女に声をかけられたのが全ての始まりだった。私もこっちなんだよね~、と笑いながら正反対の方向に向かおうとする女性を適切な路線に乗せ、降りてすぐ乗りもしない電車のホームへと向かう足を改札口へと向かわせ、すぐ近くなの~、と改札へと戻ろうとする手を引いてアパートへと送り届け、そして部屋の惨状に目を奪われ。気がつけば、光差し込む部屋の中、ゴミ袋の山を作り上げていた。
翌週も駅で出会い、あの惨状が不安になって尋ねれば言葉を濁され。また掃除し、また出会い、掃除し、出会い、掃除し。いつの間にか合鍵を渡され、週末彼女の部屋を訪れ掃除する日々を送っている。
対価も無いくせによくやるものである。我ながらバカだ。己を嘲りながら、少年はフォークで皿を浚う。仕方無いのだ、もう見放せる段階はとうに過ぎてしまった。一度知ってしまった以上、こんな惨状など見過ごせないのだ。言い訳を頭の中で並べ立てる。幼い脳味噌に言い聞かせるには十分だった。
そうかなぁ、とこぼしながら、女性はクロワッサンに手を伸ばす。パリッ、と香ばしく焼けた生地が割れる音が部屋に落ちた。
「私が『知らない人』に合鍵渡すように見える?」
「渡してるじゃないですか」
「だから、もう『知らない人』じゃないんだって」
ね、と女性は少年の名を呼ぶ。柔らかく温かな音色に、彼は思わず眉をひそめる。まろい輪郭をした頬にうすらと朱が差した。
ごちそうさまでした、と手を合わせ、少年は皿とフォークを手にキッチンへと向かう。はやっ、と笑い声が薄い背に投げかけられた。物言わず部屋を出、手際よく食器を洗っていく。彼女の分の食器を洗ったら、掃除の続きをしなければならない。最近ようやくきちんと資源回収に出すようになってくれたのだ、このまま習慣づけさせねばならない。さすがに資源回収の日まで訪れるほどの余裕は無い。
もし余裕があれば、己はそこまでして彼女の世話をするのだろうか。ふと疑問が頭をよぎる。するんだろうな、と諦めの声を脳内であげ、少年は食器を水切りかごに入れた。
ごちそうさま、と後ろから声。振り返ると、そこには食器を持った女性の姿があった。お粗末様です、と返し、少年は大きな手から食器を受け取り手早く洗い始める。私がやるのに、と拗ねたような声に、彼は小さく溜め息を返した。
「ペットボトルすら洗わない人が何を言っているんですか」
「最近は洗ってるよ? キッチンにある分は洗ってあるよ?」
たしかにキッチンに転がっていた分のペットボトルはキャップが外され、中身も綺麗になっていた。ペットボトルぐらい洗ってくださいよ、と常々言っていたのがようやく実ったようである。達成感とともに、なにか冷たいものが胸に落ちる。訳の分からないそれに小さく首を傾げながら、少年は洗った食器をかごに入れた。
「洗濯物してくるね」
「お願いします」
片付ける時は薄目でまとめるだけだが、洗濯するとなればきちんと生地を見定めて分けねばならない。女性の洗濯物をまじまじと見るなど失礼だ。それ以上に、第二次性徴の最中にある少年には刺激が強すぎる。こればかりは任せるしかなかった。
「いつもありがとね」
「……別に」
俺がやりたくてやってるだけですから。
小さく返し、少年はまだ水気まとう食器を拭く。ありがと、と今一度礼を言い、女性はキッチンを出て行った。
そうだ、やりたくてやっているのだ。でも何で。見捨てておけないから。知らない人なのに。合鍵をもらっているのだから。勝手に渡されたのに。それでも。
頭の中で問答が繰り広げられていく。理性が吐く正論を、幼い心は大声をあげて掻き消した。
ふるふると頭を振り、少年は食器を片付ける。余計なことを考えていないで掃除の続きをしよう。さっさと終わらせナワバリバトルをしたいのだ。
少年はまた溜め息をこぼす。大きな足がぺたぺたと床を歩き、部屋へと戻っていく。まだ小さな身体は、ペットボトルのラベルを剥がす女性の下へと寄せられた。
ゴトゴトと洗濯機があげる鈍い鳴き声が、二人きりの部屋に響いていた。
あとでキレたり拝んだりした/インクリング
イカタコたちはステージまでスポナーで移動しているのでは?という仮説による話
あ、とロッカールームに小さな声が落ちる。疑問符が浮かぶそれは、賑やかな空間に溶けて消えた。
大きな手だ開かれたロッカーの中には、常日頃手入れしてしまっているスポナーの姿は無かった。傷が細かくついた銀は消え失せ、あるのは不自然なほど大きな空間だけだ。
そうだ、昨日の夕方、スポナーを忘れたという友人に貸したのだった。無いのは当然である。すっかり忘れていた、と少年は丸い頭を掻く。今日は朝一番からバトルに身を投ずる予定だったというのに忘れてしまうなど馬鹿にもほどがある。はぁ、と短く息を吐いた。
瞬間、焦燥の色が小さな頭を猛烈な勢いで染め上げていく。かすかに高揚していた心は一気に冷え上がり、地へと落ちた。
急いでロッカールームを見渡す。明日返すわ、と急いで走っていった友人の姿はどこにもない。今日は朝から一人でバトルに赴こうとしたのだから当たり前だ。
どうしよう。少年はロッカーの前に立ち尽くす。バトルロビーからステージへの移動は、スポナーに乗って行う。公共交通機関での移動も許されているが、既にエントリーした今からスポナー以外の移動方法では到底バトルに間に合わない。件の友人に会えるのも、おそらく早くて昼前になるだろう。こちらから回収しに行こうにも、彼の家までは電車で三駅かかる。今から向かうのは非現実的であった。
どうしよう。少年は小さく呟く。丸い目はありもしないおのれのスポナーを求めて泳ぎ、口は湧き出る焦りにわなわなと震えていた。
「どうしたの?」
後ろから声。突然のそれに、まだ細い肩がびくりと跳ねる。慌てて振り返ると、そこには見知った少女の姿があった。
「あっ、もしかしてスポナー持ってきてないの?」
「……友達に貸したの忘れてた」
えー、とロッカーを覗き込んでいた少女は目を丸くする。それはそうだ、日々バトルに励むものがスポナーの存在を忘れるなんてあり得ないことだ。こんな朝早くからロビーを訪れ、バトルに向かうような者なら尚更である。
まあるい目を不思議そうに瞬かせる少女から目を逸らし、少年は心の中で叫ぶ。何でよりによって今日、よりによってこの子の前で。小さな脳味噌が悲鳴をあげる。脳神経が焼き切れそうな心地だった。
今目の前に居る少女は、『友達』というには少しばかり遠い、しかし『知り合い』と切り捨てるには近すぎる存在だ。時折ロビーで出会う彼女とはもう何度もともに戦い、ぶつかりあってきた。同じブキを扱う者として話に花を咲かせることも多々ある。ただ、知っているのはプレートに記された名前――本名かどうかすら分からない登録ネームだけだ。その程度の距離感、その程度の仲だ。
けれども、そんな小さな触れ合いだけでも恋に落ちるのは十分だった。戦場を駆け回る逞しい姿に惹かれた。勝利に喜ぶ可憐な姿に目を奪われた。楽しげにブキを語る姿に心奪われた。少年は、どうしようもなく恋をしていた。
そんな恋心を寄せる女性に間抜けな姿を見せてしまったのだ、まだ齢十四の幼い心が耐えられるはずがない。今すぐにでも逃げ出したい気分だ。
「……エントリー取り消してくる」
「え? もったいなくない? 今結構込んでるから次いつになるか分からないよ?」
「スポナー無かったら移動しようがないじゃん。このままじゃ他の子に迷惑掛けるし」
はぁ、と重い溜め息を吐きながら少年はロッカーを閉める。今日は丸一日バトルし腕を磨く予定だったが、これではどうにもならない。友人が来るのを待つしかないだろう。悩ましい呻り声を背に、大きな靴に包まれた足がロッカールームの出口へと向けられた。一歩踏み出したところで、あっ、そうだ、と明るい声が広い部屋に響く。次いで、袖を引かれる感覚。緩慢な動きで視線を向けると、そこには輝く大きな瞳があった。
「私のスポナーに一緒に乗ってかない?」
「……………………は?」
わたしのすぽなーにいっしょにのってかない?
耳から入り込んだ言葉が頭の中を巡る。脳内で咀嚼、反芻を繰り返し、ようやく言葉の意味を理解する。瞬間、少年の顔がインクを浴びせかけられたようにぶわりと赤に染まった。
「ばっ、い、や、無理だろ!」
「大丈夫でしょ。君も私もちっちゃいんだし」
「ちっちゃいって言うな!」
えー、と少女は唇を尖らせる。うー、と少年は呻き声を上げる。澄んだ可愛らしい瞳から逃れるように、彼は勢いよく顔を逸らした。もはや『振り返る』と表現した方が正しいほどの動きだった。
たしかにおのれも彼女も年の割には小柄だ。けれども、スポナーに一緒に入ることができるほど小さくは無いはずだ。たとえイカの姿になったとしても、あの小型のスポナーに二人入るなど、しかもそのまま移動するなど無茶な話である。
そもそも、好きな女の子とあんな狭い空間に二人きりなるなど、心が耐えられるはずがない。無理だ、と思春期の脳味噌と心は甲高い悲鳴をあげた。
「一旦私のに乗っていって、バトルの時は現地で借りればいいでしょ? それまでの我慢だよ」
「そ、う、かも……だけど……」
もごもごと歯切れ悪く口を動かす少年に、少女はニコリと笑いかける。満開の可愛らしさの中に、苛烈な感情が輝くのが分かる笑みをしていた。
「私、早くバトルしたいんだよね」
弾んだ声に、短い言葉に、少年の肩がびくりと跳ねる。驚愕にも焦燥にも混乱にも、そして畏怖にも見える動きだった。
少女はこう見えてバトルが大好きだ。休みの日はご飯食べるの忘れちゃうんだよね、と笑いながら連戦するほどバトルが大好きだ。こんなに朝早くからロビーを訪れるほどバトルが大好きだ。早くバトルに向かいたいに決まっている。抜けてしまった一人の枠を探して待つ時間すら惜しんでいるのがありありと分かった。
ね、と少女は問いかける。可愛らしいが、どこか重圧を感じさせる音色だ。ダメ押しといった調子である。
しばしの沈黙。よろしくおねがいします、とかすかに震えた声が二人の間に落ちた。
「じゃ、いこっか! もうすぐ時間だよ!」
「……はい」
掴んだままの袖を引き、少女はロビーへと駆けていく。引かれるがままに、少年も足早に歩みを進めた。地面を蹴る軽い音。地面を踏みしめるような重い音。正反対な音色が二つ、ロビーに続く扉を抜けた。
しばしして着いた移動スペースには、いくらかの影があった。これが今回のバトルメンバーなのだろう。誰が味方に、誰が敵になるか分からないのだ、普段ならブキに目をやる場面である。しかし、少年の瞳は血に吸い寄せられていた。これから起こることを考えると、ブキどころか袖を引く彼女の背を見ることすら不可能だった。
「私のスポナーこれね。さっ、入って入って」
イカの姿になり、少女はスポナーの上に乗る。小さな身体は磨かれた銀の箱に吸い込まれていった。
ごくり、と少年は唾を飲み込む。本当に入るのか。いや、入らなければ迷惑が掛かる。けど。だけども。往生際悪く惑う心を、早くー、と明るい声が手招いた。
深呼吸をし、少年はイカの姿に戻る。ぴち、ぴち、と力なく跳ねながら、スポナーに乗った。まるで薄氷の上に足を踏み出したかのような慎重な動作だった。
今一度深呼吸。よし、と覚悟を決めて上げた顔、目に文字が飛び込んでくる。壁に貼られたポスターには『貸しスポナーはこちらへ』と書かれていた。大きな矢印は、その隣、壁一面を埋めるようなロッカーを注している。開きっぱなしの一つから銀が覗いている。見慣れた機械、スポナーだ。
そうだ、貸しスポナーというものがあるではないか。普段スポナーを手放すことなど無いからすっかり忘れていた。最初からこれを使えばよかったのだ。何で忘れてたんだよ、と少年は心の中で頭を抱えた。もう戻れないところまで来ているのだけれど。
一旦私のに乗っていって、バトルの時は現地で借りればいいでしょ?
ふっと少女の言葉が脳裏をよぎる。現地で借りれば良い。つまり、彼女は貸しスポナーという存在を知っていた。なのに、そのことを隠したまま一緒に乗ろうと誘ったのだ。しかも、自ら急かすほど。
え、え、と少年は声にならない声を漏らす。何で。どうして。一体どういう。疑問が頭の中を埋めていく。黒く縁取られた目がこれでもかと見開かれた。
脳味噌が都合の良い結論を出すより先に、小さな身体はスポナーの中へと吸い込まれていった。
畳む
今日だけは二人きりで【レイ+グレ】
今日だけは二人きりで【レイ+グレ】
ボルテ11周年おめでとうございます!!!!
にかこつけたレイグレ姉妹。レイグレ姉妹がケーキ食べに行くだけの話。
これからも末永く続いてくれ。
琥珀の湖面へと落とされていた視線がすぃと動く。座ったソファのすぐ隣、壁一面に張られた大きな窓に薄く己の姿が映っているのが見えた。
ガラス窓の向こうには人が行き交っていた。買い物袋を持って歩く女性。コートのポケットに手を入れ歩く男性。幼子と手を繋ぐ大人。頬を赤くして走る子ども。休日の道は様々な者で彩られていた。
建物の間から覗く空は雲も少なく、鮮やかな青をしている。天におわす太陽の光は鮮烈なれども、穏やかな陽光を降らせていた。葉がいくらか付いた木々が風に吹かれ、かすかな音をたててそよぐ。外は春模様だが、暖房の効いた店内とおすすめメニューに並ぶホットドリンクたちが季節はまだまだ冬であることを語っていた。
厚いガラスから目を離し、正面へと向き直る。視界に広がったのは鮮やかで明るい色たちだ。薄い金が縁取る白い皿。曇り一つ無い透明なパフェグラス。飲み口を赤で彩られたマグ。輝く銀のカトラリー。落ち着いた緑色のケーキ。そして、その中心で華やぐ薔薇色。カフェの一角という小さな世界は花が咲き誇るようにきらびやかな色を灯していた。
まろい輪廓を描く頬が小さく膨らみ、華奢な顎がもぐもぐと動く。細い喉が上下に動くと、桜色の唇がふわりと綻ぶ。ぱっと開いた口は元気さを表す赤をしていた。
「美味しいデス~!」
銀の食器を口元に当て、レイシスは感嘆の声をあげる。はわぁ、と漏らした吐息は幸せそのものだ。桃の長い睫で縁取られた撫子の瞳は、ふにゃりととろけていた。
笑顔を浮かべたまま、少女は目の前に置かれた抹茶のシフォンケーキにそっとフォークを刺して入れる。『Cafe VOLTE』の文字がさりげなく飾る皿、その端に盛られたホイップクリームをすくい、切り分けた緑にちょいと載せた。カトラリーが上品な手つきで操られる。先に刺された緑と白は、大きな口の中に吸い込まれていった。んー、と少しくぐもった、そして幸福に満ち満ちた声がクリームが欠片だけ付いた唇から漏れ出た。
「よかったわね」
白いマグカップを両手で抱え、グレイスは穏やかに言う。健康的な唇で彩られた口は、柔らかな弧を描いていた。幸福と表現するのが相応しい響きと様相をしていた。
「でもいいんデスカ? 奢りッテ……」
「いいわよ。貴方、いっつも私に何でも奢るじゃない。たまには私にもさせなさいよ」
ケーキを食べる手を止め、薔薇色は心配げな瞳で対面の妹を見やる。形の良い眉を八の字に下げた姉の不安を吹き飛ばすように、躑躅はふっと笑みを飛ばして返した。
日頃からナビゲーターとして世界を駆け巡るグレイスの財布事情はあまりよろしくない。ナビゲーター業務は給料が出ない上、忙殺の日々ではアルバイトをするのが難しいのだ。しかし、今回ばかりはどうしても稼がねばならなかった。秋から冬にかけて、業務の合間のわずかな休日を使い単発のアルバイトをいくつかこなしたのだ。おかげで人一倍、否、四倍は食べるレイシスにケーキを奢ることができる程度には財布の中身は暖かくなっていた。暖かくなっているはずである。学生をターゲットにしたこのカフェはお洒落な雰囲気に反してリーズナブルなのだ。
そうデスカ、と姉は応える。呟くような声は大好きなケーキを目の前にしているというのに、しょんぼりとしたものだ。たおやかな手が食器を操り、ふわふわとしたスポンジ生地を切り分ける。今度はクリームの隣に添えられた餡子を載せた。けれども、その一口は先ほどよりずっと小さなものだ。ぱくりと開いた口も、もぐりと咀嚼する顎の動きもいつもより小さい。遠慮していることが丸わかりである――にしては、もうパフェ二つにケーキ三つは食べているのだけれど。
「美味しい?」
「美味しいデス」
「美味しそうな顔には見えないわよ」
眉尻を下げて苦く笑う躑躅の少女に、薔薇色の少女ははわ、と慌てた声を返す。カトラリーを握った手が心の揺れ動きを表すように宙を彷徨った。
「美味しそうにいっぱい食べてくれた方が嬉しいわ。貴方だってそう思うでしょ?」
己はいつも与えられる側だ。めいっぱい、抱えきれないほど与えられてばかりで、毎回気後れや遠慮をしてしまう。しかし、こうやって与える側に回ってみると、些末なことなど一切気にせず全てを楽しんでほしいという気持ちでいっぱいだ。大好きな人ならば尚更である。
「……ハイ!」
常に与える側に立つ彼女もその気持ちを思いだしたのだろう、ほんのりと不安を宿した瞳は晴れ、澄んだ色を取り戻していた。
いただきマス、と改めて言い、桃はベイクドチーズタルトにフォークを入れる。磨かれ輝くカトラリーが、しっかりとした生地を綺麗に切り分けていく。均等に焼き上げられたケーキは、銀色とともに大きな口へと吸い込まれていった。うぅん、と悩ましげに聞こえる声があがる。幸いをこれでもかと詰め込んだ色をしていた。
「アッ、グレイスも食べマショウ!」
「いや、貴方を見てるだけでお腹いっぱいよ……」
フォークをぎゅっと握った姉に、妹はいささか沈んだ声で返す。ふるふると首を横に振る動きは少しばかり鈍いものだ。ホットドリンクで潤った唇は、逆さ月のように口角を下げていた。
ここ、Cafe VOLTEのデザートたちは値段に対して量が多い方だ。パフェグラスなんて、己の顔と同じぐらいあるのではないかと疑ってしまうほどの高さをしている。ケーキだって、高級感が漂う皿の中心でしっかりと存在を主張するほどピースが大きい。そんなものを何個も、それもハイペースで食べる様をずっと見ているのだ、漂う甘い香りも相まって、飲み物しか摂っていないのに胃もたれしそうな心地である。
ほんのりと胃が重くなるような感覚。鼻腔をくすぐる濃い砂糖の香りにあてられたのだろう。洗い流すように、マグカップに注がれた紅茶を一口含んだ。鼻を抜ける茶葉の香りの中に、ふわりとはちみつの甘さと風味が顔を覗かせる。普段なら渋さや苦さを覚える舌を、心地良い温かさと優しい甘みが撫でていった。このカフェはカフェラテが名物だが、紅茶もとても美味しい。砂糖の代わりに添えられたはちみつが良いアクセントを生み出していた。
そうデスカ、とレイシスは小さく首を傾げ、再びケーキを口にする。食べる手つきはまた鈍いものになっていた。大好物の甘味を目の前にしているというのに、キラキラと輝く目も少しだけ陰りを見せている。どうやらよほど気になるらしい。こういうとこ律儀なのよねぇ、とグレイスは胸の内でほのかな苦みを浮かべた笑みをこぼした。
「そんなに言うなら一口だけいただこうかしら」
おおぶりなマグカップをソーサーに置く。端に置かれたティースプーンを手に取った。食事を摂るには小ぶりな銀が、きつね色に焼き上げられたケーキへと伸ばされた。
妹の言葉に、姉はぱぁと瞳を輝かせる。口に添えていたフォークを急いでさばき、少し固いタルト生地を切り分ける。ピースの四分の一ほどもある大きな一切れが作られた。しっかりと銀で刺したそれを、腕を伸ばす躑躅の前に差し出した。その手つきは、表情は、先ほどの落ち込んだ様子などもう吹き飛んでいた。
「あーん、デス!」
薔薇色の目の前に置かれた皿へと伸びる手が止まる。ぱちりと尖晶石が瞬いた。ぱちぱちと幾度も瞬き、視線がゆらゆらと不安定に宙を泳ぐ。ぇ、と小さな声が賑わう店内に落ちた。
しばしして、彷徨う瞳がまっすぐに薔薇輝石へと向かう。あーん、と固さを残したかすかな声とともに、桜色の唇が控えめに開かれた。
アーン、とレイシスも復唱する。もう少しだけ大きく開かれた妹の口の中に、チーズタルトをそっと入れる。閉じたそれからフォークを引き抜く。甘いケーキは小さな口をいっぱいにして消えた。
なめらかな線を描く頬がぽこりと膨れる。口の容量に対して随分と大きく固い生地を、小ぶりな歯が丁寧に噛んでいく。紅茶の風味が残る舌の上を、クリームチーズの濃厚さとタルト生地の香ばしさ、なめらかさとほろほろとした食感が駆け抜けていった。
「美味しいわね」
「デショ! Cafe VOLTEのケーキは最高デスカラ!」
大きく喉を動かして嚥下し、マゼンタで彩られた少女は穏やかに笑う。美味しさを共有できたのが、最愛の妹が笑ってくれたのが嬉しいのだろう、ピンクで彩られた少女は満開の笑みを咲かせた。
「これだけじゃ食べ足りないでしょ? もう一個食べたらどう?」
「……本当に大丈夫デスカ?」
「いいって言ってんでしょ。遠慮するなんて貴方らしくないわよ」
頼んだばかりの抹茶シフォンとチーズタルトはもう姿を消しつつある。テーブルの上には一人分にしてはかなり多い食器が並べられているが、この程度で彼女の胃が見たされるだなんてあり得ないことだ。もう一個どころか、五個は確実に入るだろう。クリームゼリーとパフェ、軽食のサンドイッチあたりも入れてやっと腹八分に届くかどうかぐらいだ。世界に一番近い少女の食べっぷりは、世界に暮らす者皆が知っていた。
「……じゃあ、最後にもう一個ダケ」
おずおずといった様子で言い、薔薇色はテーブル端に寄せていたメニュー表を開く。色とりどりのケーキの写真が並ぶ紙面を眺め、紅水晶の瞳が更なる輝きを増した。えっと、えっと、と焦りと悩みが混じった声が聞こえてくる。二個でもいいわよ、と背中を押してやった。
ケーキを真剣に選ぶ姉を眺める。心の底から楽しげに選び、心の底から美味しそうに食べ、心の底から幸せそうに過ごす。そんな姿を見ると、誘ってよかった、と改めて思うのだ。
昨年末、季節限定パフェとケーキを食べにいかないか、と薔薇色の彼女を誘った。いいデスネ、と甘い物好きな少女はすぐに話に乗ってくれた。フェアが始まるのは一月の中頃より少々早いほどの時期だ。初日は混むだろうし、少し落ち着いてからがいいわね。そうデスネ。なら土曜日にしマショウカ。そうね。話はトントン拍子で進み、約束を取り付けることができた。
新たな年が始まって二週間ちょっと、一月十八日はこの世界の――そして、世界と同時に生まれたレイシスの誕生日だ。当日は盛大な誕生日パーティーを企画しており、今はちょうど開催を目前に奔走しているところだ。少しだけ鈍感な彼女の裏で、学園皆が愛すべき世界を象徴する少女を祝う準備をしていた。
当日は世界の皆が彼女の元へと押し寄せるだろう。おめでとう、と口々に祝福の言葉を振らせるのだ。それこそ、一日掛けてやっと終わるかどうかというほどの言祝ぎを。
そんな一日の中で、彼女と過ごすことなんてほとんどできないに決まっている。己だってパーティーの準備と運営で忙しいのだ。時間なんてありやしない。
だから、今日という日に――誕生日の数日前という少しだけ特別な日に、二人で過ごせるように取り計らったのだ。皆で一緒、ではない。己一人だけで姉を祝おうと画策したのだ。一足先に、誰よりも先に、大好きな姉をひとりじめしようだなんてことを。
我ながら狡いものだ、と冷めてきた紅茶を一口飲む。それでも、こんなことをしてまで傍にいたいほど、姉のことが好きなのだ。全く、己も大概シスターコンプレックスを患っているものである。呆れたように浮かんだ笑みは、白いマグによって隠された。
しかし、と依然ケーキの写真群を見つめるレイシスを見やる。脇に寄せられていたはずのシフォンケーキとチーズタルトは、餡子の粒もタルトの欠片も全て姿を消していた。
昔の自分ならば、『あーん』なんてものは頑なに突っぱねていただろう。子どもじゃないんだから。行儀が悪いわ。そんな風にどうにか理屈を捏ねて、恥ずかしさを誤魔化しただろう。それを自然と、当たり前のように受け入れるようになった。随分と慣れてしまったものである。それほど、彼女と過ごしてきた証左であった。
幸せね。
口の中で呟きながら、グレイスはマグから唇を離す。すみマセン、と大きく手を上げ店員を呼ぶ愛しい姉の姿が穏やかな温度を灯した瞳に映った。
畳む
twitter掌編まとめ6【SDVX/スプラトゥーン】
twitter掌編まとめ6【SDVX/スプラトゥーン】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
スプラの話はうちのイカちゃんとうちの新3号ちゃんの独自設定ありなのでご理解。
成分表示:雷刀+かなで/福龍+椿/神十字/プロ氷/嬬武器雷刀/雪翔+ユーシャ/店員さん+インクリング/インクリング+コジャケ/インクリング
看板娘はとっても強くて/雷刀+かなで
どんぶりと言うにはいささか大きい器を両の手で持つ。縁に口をつけ、掲げるように持ったそれを傾けた。色の濃いスープがどんどんと姿を消していく。ぷは、と息を吐く音とともに、テーブルに容器が置かれた。ゴトン、と大きな音をたてたそれの中身はもう空っぽだ。
手を合わせ、ごちそーさま、と一言。伝票を持ち、雷刀は席を立つ。財布を学生鞄の底から取り出し、レジへと向かった。
放課後には少し遅い時間、部活動帰りには少し早い時間だからか、常は学生で溢れている店内はいつもより空いていた。いるのは大人とごりらがいくらかぐらいだ。おかげか、ベルを鳴らさずとも店員が飛んできた。
「お粗末様でした! おにーちゃん!」
「ごちそーさま」
レジカウンターのトレーに伝票を置く。小さな手がさっと取り、かなでは慣れた手付きでレジスターを叩いた。客側に向けられた電子パネルにラーメン大盛り一杯分の値段が表示される。レシートだらけの財布を漁り、ぴったりの額をトレーに置いた。流れるようにコイントレーを取り、少女は自動精算機に中身を放り込む。きちんと代金が払われたことを確認した機械がレシートを吐き出す。レシートいる、の問いにちょーだい、と返した。
「また来てね! おにーちゃん!」
レシートを手渡しにこやかに手を振る看板娘に、少年はおう、と手を振る。胃が満たされた心地良さと空調の涼しい風を感じながら出口へと足を向けようとしたところで、ふとした疑問が頭をよぎった。
「なぁ」
「なにー? もう一杯食べてく?」
「いや、さすがに入んねぇって」
エプロンのポケットに入れた注文表をすっと手に取り、かなではこちらを見る。手慣れた姿と商売っ気満々の姿に雷刀は苦く笑った。超超超特盛りで有名なここのラーメンをもう一杯食べるほど胃に空き容量は無い。
「クーラーってもう直ってるよな? 何でまだ水着なんだ?」
ラーメンを茹でる熱湯、スープ作成のための湯、トッピングの野菜を炒める高火力コンロ、そして大勢の客。ボルテ軒は熱気で溢れている。空調をこれでもかと効かせてもやっと人が活動するのにちょうどいい温度になるほどだ。
そんなある日、クーラーが壊れた。もちろん、店内は凄まじい熱に包まれた。夏なのに店を出たら外の方が涼しくて驚いた、と常連のごりらはどこか遠くを見て語っていた。
そんな猛暑で皆息絶え絶えになる最中、店員であり看板娘であるかなでは水着にホットパンツという夏真っ盛りな出で立ちで常通りに動き回ったのだ。ハキハキと注文を取り、テキパキとラーメンを出し、元気な笑顔を絶やさず会計を済ませた客を送り出し。機敏に動く姿は素晴らしかった、と常連のごりらは味玉をかじりながら語っていた。
そんな一大事はあったのはもう昔だ。現在、店内のクーラーはもう直り正常に稼働していた。汗を流し熱々のラーメンを頬張る客に心地良い温度を提供する役目を果たしている。
ならば、水着にホットパンツ、ついでにエプロンという対熱対策万全な姿はもう元に戻してもいいはずだ。クーラーが効いている今では寒さを覚えてもおかしくない格好ではないか。
雷刀の問いに、かなではあぁ、と声を漏らす。エプロンの裾を掴み、カーテシーのように少し持ち上げた。
「皆がこの格好喜んでくれるからもうこれでいいかなーって。それに、動いてたら結構暑くなるんだよ? 水着の方が涼しいし動きやすくていいの!」
答え、少女は掴んだエプロンをパタパタと動かす。身体に風を送るような動きだ。
確かに、店内を常に走り回る店員には機動性が求められるだろう。そして、いつだって厨房の熱に晒されているのだ。空調の効いた店内にいる自分たちには感じ得ない熱をいつだって抱えていてもおかしくない。
なるほどなー、と朱は感心した声を漏らす。でしょー、と彼女はエプロンの裾をさばいた。
それに、と少し潜めた声。いつもの可愛らしい響きのはずなのに、どこか小悪魔めいた音色に聞こえた。
「インパクトある格好のままの方がキャッチーでリピート増えるし、話題になって新しいお客さん獲得しやすいからね」
秘密だよ、おにーちゃん。看板娘は唇に指を当てにこりと笑う。子どものように純真無垢で元気いっぱいな笑顔のはずなのに、どこか恐ろしさを感じさせた。
ね、と首を傾げて尋ねるかなでに、雷刀はこくこくと頷く。油たっぷりのラーメンで潤った唇は真一文字に引き結ばれていた。
「じゃ、またのご来店お待ちしてまーす!」
ひらひらと手を振る少女にぎこちなく手を振り返し、少年は足早に店を出る。引き戸と暖簾をくぐると、むわりとした熱気が身体を包んだ。もう夜が近いというのに、夏の空気は昼と同じ様相をしていた。
「…………なんだっけ。つよか、だっけ」
先の少女の姿を、言葉を思い返しながら朱はこぼす。背中から戸が開く音と、看板娘の元気な声が聞こえた。
看板娘はとっても意識しちゃって/福龍+椿
琥珀の目がこちらを見つめる。否、睨む。否、刺し貫くと言った方が相応しいほどの凄まじい鋭さを持っていた。
「福龍」
妹は兄の名を呼ぶ。その響きも随分と刺々しい。いつもは快活で明朗な声は固いものだ。
「……なんだ」
「にんにく臭いアル」
すっごい臭いアル、と相変わらず棘しかない声で椿は言う。それが何を意味するかなど、分かりきっている。分かりきっているからこそ面倒臭いのだ。
「何でボルテ軒行ったアルカ!」
声が爆発する。真正面、それも近距離から音量と高さにキィンと耳が痛みを覚えた。思わず顔をしかめると、目の前の顔が更に不機嫌そうに歪む。心底気に食わなくてたまらないと言いたげな表情だ。
「たまにはいいだろう。おれだって付き合いがあるんだ」
はぁ、と福龍は顔を逸らし溜め息を吐く。刺すような目から逃げるためではない。正面、つまり妹の方を向いたままでは彼女ににんにくの匂いを多分に含んだ息を吹きかけてしまうからだ。さすがに可哀想だ。それに、そんなことをすれば更に怒りを買うのは分かっているのだから。
そんな兄の気遣いなど分からぬ妹は、何目ぇ逸らしてるアルカ、と怒りをめいっぱい載せた声をぶつける。どう足掻いたってもう彼女の憤怒を落ち着けられそうにない。
たまにはボルテ軒行かね、と放課後クラスメイトに誘われた。常ならば店の手伝いと修行をするべきだが、最近は客足も落ち着いており手伝いをする必要性が薄くなっていた。修行も今日はちょうど休みの日である。有り体に言えば暇だった。
そうして久方ぶりに寄り道して帰り、自室に向かおうと足音を消してそろりと階段を上ろうとしたところで下りてきた妹と鉢合ったのだ。もちろん、瞬時に気付かれた。ボルテ軒のラーメンは人によっては腹を壊すほどにんにくが入っているのだ。
そうして詰められる今に至る。
「何でよりによってボルテ軒ネ! ライバルアルヨ!」
「ライバル視してるのはお前だけだろう」
椿は日頃何故かボルテ軒と競い合っている。あちらが季節ものの新商品を出せば、こちらも対抗して出してくる。そのためだけにバイトを雇うほどである。妹に甘くすぐに提案を採用する師範である父にも問題はあるのだけれど。
「あっちもこっちのこと意識してるアル。ちゃんとライバルネ!」
思わずそうだろうか、とこぼしそうになるのを必死に堪える。胸を張ってまで言う彼女を否定するような語を吐けば、またキャンキャンとした叱責が飛んでくるだろう。面倒事は避けるに限る。
「お前だってCafe VOLTEに行くじゃないか。あっちの方がよっぽど競合するだろ」
「うちのお客はお茶するよりご飯食べに来るのがメインネ。奪い合いになるならご飯になるボルテ軒の方アル」
椿の弁は正しい。事実、店が一番混むのは夜に近い夕方の頃だ。内容も、甘い物より塩辛いものの方がよく出る。けれども、夕方、ちょうど放課後の時間帯や休日の午後は甘い物を求める女子学生で混むのだ。同じく女子学生から絶大な支持を受けるCafe VOLTEも十分にライバルと言っていい。
「……分かった。行かない」
いいのだが、それを指摘するのも面倒だ。口論になれば、基本的に感情的ながらも時折正しいことを喚き立てる妹の方が強いのだ。折れてしまう方が早い。早く汗を掻いた服を着替えて口臭を消すために歯を磨きたいのだ。
「絶対アルヨ」
「……さすがに付き合いぐらいは行かせてくれ。おれだってたまには友達と飯を食いに行きたい」
えー、と椿は心底嫌そうな顔をする。学園周りは栄え、飲食店は多々ある。その中でも何故ボルテ軒を選ぶのか、と言いたげな表情だった。
仕方無いだろ、選ぶのは友達なんだ、と返す。八割事実で、二割嘘だ。確かに毎回店を決めるのは友人だが、決まってボルテ軒に行くのだ。妹の怒りを買うことを知っていても別の店を提案をしないのは、己がラーメンを求めているからである。弁当を食べて随分と経った放課後、腹の減った男子学生にはボルテ軒のラーメンがちょうどいいのだ。
「…………まぁ、たまにならいいアル」
何でお前に許可取らなきゃいけないんだ、と嘆きそうになるのを必死に押し込める。落ち着いてきた今、そんなことを言ってろくなことにならないのは目に見えているのだ。押し黙るのが正解だ。
「早く歯磨いて着替えてくるネ。すっごいにんにく臭いアル」
口元と鼻を手で押さえた少女は言う。うんざりとした顔だった。うんざりしているのはこっちの方だというのに、何とも理不尽だ。分かったよ、と返し、階段を引き返した。
洗面所に入り、歯磨き粉をこれでもかと付けて歯を磨く。念を入れ、マウスウォッシュを何度も含んでは吐きを繰り返す。これでとりあえずの対処はできただろう。またにんにく臭い、と顔を歪められることはないはずだ。
席どころか店を満たすほどのにんにくの香り。油が表面を覆うほどのスープ。これでもかと載せられたシャキシャキの野菜。うどんと見紛うほど太い麺。それを一気に掻き込み、全て食べ終え胃がこれでもかと膨れた幸福感。
美味かったな。
改めて考え、少年は洗面所を後にした。
繋ぎ合わさる熱/神十字
青が赤に変わりつつある世界の中を二人で歩く。穏やかな会話の中、紙袋が時折かすかな声をあげた。
下ろされた手に何かが触れる。啄むように手の甲に指先が触れる。横を見ると、ニコリと笑った紅の姿があった。表情が意味することに、思わず顔をしかめた。
「もういいだろ?」
渋い顔をする蒼の様子など気にも掛けず、神は問う。問いの形ではあるが、己にとっては命令だった。信仰する存在からの願いなど、叶える以外に選択肢が無い。たとえそれがあまり気の進まないことだったとしても。
「…………いいですよ」
街はもう遠い。村の少し外れにある住まいまでもまた遠い。ちょうど中間地点、人通りが少ない道だった。つまり、人に目撃される確率は低い。噂が立つようなことはないだろう。
やった、と神ははしゃいだ声をあげる。甲に触れる指が離れていく。すぐさま、手の平に熱。少し硬い手がするりと潜り込み、手と手を合わせる。指が指の間に入り込み、きゅっと握られた。逡巡、己も指に力を入れる。己の意志を持って指を絡め合う。
繋いだ手がぶんぶんと振られる。上機嫌に鼻歌まで歌う様は、まるきり子どものそれだ。愛おしさと恥ずかしさが胸の内でぐちゃりと混ざる。ないまぜのそれは、指を解くまでには至らなかった。
崇める神は何故か手を繋ぐことを好んでいた。否、好むようになった。いつだったか、施設の子どもと手を繋いで歩いていた時、オレも手ぇ繋ぎたい、と言い出したのだ。空いていた反対側の手を差し出すと、彼は酷く嬉しそうにしていた。その場限りのものと思ったのだが、翌日も、翌々日も、手を繋ぎたい、と言い出すようになったのだ。外はもちろん、家の中ですら。
手を繋ぐことぐらい安いものだ。けれども、さすがに外で要求されるのは困る。いい歳した成人男性――相手は『成人』なんて概念がない存在だが――が人前で手を繋いで歩くのはいささか外聞が良くない。
己の意見を伝え、擦り合わせ。結果、他人がいないところならば繋いでも問題はない、という結論に至った。己が行動するのは家と職場である施設ぐらいだ。狭い村である、常に人の目に晒されているようなものだ。もう外で繋ぐことはあるまい。
そんな考えはすぐさま壊された。週末、二人で街に買い物に行った帰り道、彼は言ったのだ。ここらへんって人いねぇよな、と、企みを隠しもしない笑顔で。
確かに条件は満たしている。けれども、外で手を繋ぐというのはやはり抵抗感があった。そんなもの、な、という追撃に砕かれたのだけれど。
そうして買い物帰りは手を繋いで歩くのが通例となっていた。なってしまった。何でこんなことに、と嘆くものの、全ては己が曖昧な定義をしてしまった結果である。自業自得だった。
絡み合った指が手の甲を撫でる。クロワ、と己の名を紡ぐ声は夕焼け空には似つかわない、甘さを含んだものだった。
「そろそろ村ですよ。離してください」
心を形が無くなるまで融かしていくような響きをどうにか耐え、青年は固い声で事実を告げる。えー、と不満げな声が赤い世界に響いた。間に潜り込んだ指が抜けていく。重ね合わさった手の平が解けていく。名残惜しそうに肌を撫ぜながら手が離れていく。温もりが去っていく。ほのかに覚えてしまった寂しさを必死に振り払った。
「じゃ、帰ったらな」
離れいった指先が、再び甲をつつく。何を意味するかなど分かりきっていた。すぐさま理解できるほど、こちらも通例になっているのだ。なんたって『他人のいない』『二人きりの』『家の中』なのだから。
離れていった温かさが、また訪れるであろう温かさが背筋を撫でる。はいはい、と呆れを装った声で返して歩を早めた。ずれた足音のリズムはすぐさま合わさる。カサリと紙袋が鳴き声をあげた。
夕焼け空の中、二つの足が道を進んでいく。住まいに辿り着き戸が開かれた瞬間、二つの影が一つに繋がった。
もちろん眠れるはずなんてなくて/プロ氷
豪風が白い髪を吹き荒らす。大振りなブラシとふわふわに仕上げたバスタオルでたなびく雪色を操り、たっぷりと含んだ水分を飛ばしていく。くるぶしまである長い髪を乾かすのは重労働だ。既に慣れているので手間には思わないが、待たせてしまうのは申し訳がない。タオルの手助けを借りながら、氷雪はドライヤーを操った。
ようやく元の姿を取り戻した白絹を高い位置で手早くまとめ、少女は脱衣所を出る。ぺたぺたと小さな足が可愛らしい音を立てた。
「識苑さん、お風呂ありがとうございました」
慌ててドアを開け、待ち人を呼ぶ。手元の液晶画面に注がれていた夕陽色が、湯上がりでほのかに赤がにじむかんばせをに向けられた。
「もっとゆっくり入ってていいのに」
「お借りしているのに長く入るなんて申し訳ありません」
気にしなくていいのになぁ、と識苑は笑う。そう言われても、やはりどうしても気が引けてしまう。家主より先に湯を使っているというのに長風呂だなんて、そんな悠長なことをできるはずがない。
「じゃあ、俺も入ってくるね。湯冷めしないようにあったかくしててね」
昼のうちに乾かして畳んだ服とタオルを手に取り、青年はよっこらしょ、と呟き立ち上がる。すれ違いざま、己よりも一回り大きな手が湯上がりの温かな頭を撫でた。
分かりました、と返し、部屋の中央へ向かう。ローテーブルの前、まだ温かさが残っているであろう座布団の横に腰を下ろした。エアコンが送る温かな風が、乾かしたての白い髪を音も無く揺らした。
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。視線をやると、つい先ほどまで彼がいた場所、その目の前に白いマグカップがあった。昼に綺麗に磨いた白には黒が注がれている。きっと愛飲しているコーヒーだろう。愛しい人は黒く苦いそれを好んで飲んでいた。
まだ湯気がほのかに立っていることから、淹れて間もないことが分かる。ゆっくり飲んでいたかっただろうに、邪魔をしてしまったようだ。申し訳ないことをしてしまった、と少女は眉尻を下げた。
マグの横には背の高い瓶があった。黒いラベルが貼られたそれは、彼が愛飲しているインスタントコーヒーである。中身は朝見た時よりも随分と減っている。また目分量、それも意図して大量に注いで作ったのだろう。下がった眉が少しだけ寄せられた。
恋人である識苑はコーヒーを常飲している。味や香りを好んでいるからではない。カフェインを多く摂取できるから、だ。業務で徹夜続きになることの多い彼は、目を覚ますためにかの黒い飲み物を水の代わりと言っていいほど飲んでいる。それもきちんと淹れたものではなく、わざと粉を多く入れて濃く――つまりカフェインを過剰に摂取できるように作っているのだ。
身体に悪いですよ、とたまに釘を刺すが、へらりと笑ってかわされるだけだ。彼が作り出す様々なものが学園の、ひいては世界の維持に多大なる貢献をしているのは分かっている。けれども、それで身体を壊しては元も子もない。むぅ、と少女は頬を膨らませた。
真っ黒をたたえたカップを手に取る。これ以上彼に飲ませるわけはいけない。捨ててしまうのは食べ物に申し訳がないことなのだから、自分が飲んでしまおう。温かさを有したマグを両手で挟んで持ち、厚い飲み口に唇を寄せる。そのまま、ぐっと傾けた。
びくん、と白い浴衣に包まれた肩が跳ねる。ぅ、と小さな声が漏れる。整った細い眉がぎゅっと寄せられる。湯で温められた赤い唇がきゅっと結ばれる。どれも苦々しさに溢れたものだった。
「にがい……」
苦いという言葉しか出なかった。当たり前だ、コーヒーは苦い飲み物である。それを特別濃く淹れたものなのだから、普通のものよりずっと苦いに決まっている。頭では分かっていた。しかし、予想以上の味だ。舌の全てを苦みで覆いつくし、それ以外の味を判別できなくしてしまわれてもおかしくない酷さである。舌が馬鹿になってしまうとはこういう時に使う表現なのかもしれない。
細い喉がゆっくりと上下する。恐ろしいほど苦いそれを必死に飲み干し、少女はぷは、と息を吐いた。温かな湯で少しとろけていた真ん丸な瞳は、はっきりとした輪郭を取り戻していた。
識苑さん、いつもこんなものを飲んでいるなんて。マグから口を離し、雪色は川底色の目を眇める。こんなに苦いものを飲めば、目が醒めるのも当たり前だ。カフェインが豊富ならば尚更である。同時に、胃が荒れることが容易に想像できる。ただでさえ不健康な生活を送っているというのに、そこに自分でダメージを与えてるだなんて危険としか言い様がない。世界のために頑張っているのは讃え労うべきことだが、身体を壊してしまうようなことをするのは大問題だ。
お風呂から上がってきたらまた言わなくては。考え、中身が空になったマグカップを手にキッチンへと向かう。黒を詰め込んだ胃は妙に重く感じた。
×8 ×4/嬬武器雷刀
力強く柄を握り締める。ぬかるんだ足下など気にせず、踏みしめる足に力を込め、固い地を蹴る。ダン、と強い音がフィールドに響いた。
腰に携えた得物を思い切り振り上げる。凄まじい速度で飛んだ斬撃は、目の前の人影に命中した。こちらの存在に気付いたらしい、抗うように銃身が、大量の弾がこちらへと向けられる。降り注ぐそれを細やかな動きで躱し、また振り上げる。命中。一発。高い断末魔とともに、小さな身体が爆ぜる。地面が鮮やかに染め上げられた。
まずは一人。下がり、雷刀は周りに目をやる。弾が飛び交うフィールドをすいすいと駆け抜ける。時折聞こえる鋭く響き渡る銃声に警戒しつつ、少年は色鮮やかな地面を駆けていく。
背後に銃声と気配。身を潜めて避け、振り向きつつ一旦下がる。丸い弾を振りまき追いかけてくる相手を正面にみとめ、またぐっと柄を握り締める。一歩下がり、一気に踏み込む。朱い斬撃がまっすぐに飛んでいった。
慣れたものなのだろう、相手は横に数歩ずれることで躱した。それでも、小さく聞こえた声からかすりはしたことが分かる。急いで背に手をやり、ガラス玉を放り投げる。宙で変形したそれは、距離を取ろうとする相手目掛けて飛んでいった。ガラスが割れる音。小細工は防がれてしまった。否、気を逸らすことができただけで十分だ。低く得物を構え、まっすぐに踏み込む。一気に距離を詰め、また朱を飛ばした。
シュン、と高い音。今度こと命中したそれは、潰えた相手と地を己と同じ色に染めて消えた。
これで二人目。道を切り開き、どんどんと進んでいく。味方に背を任せ、敵陣へと踏み込んでいく。頑強なブーツに包まれた足が、鮮やかに彩られたフィールドを縫って駆けていく。
パァン。
高い音が蒼天に昇る。音が近い。ちらりと見えた影と音の方向を頼りに駆けてきたが、どうやら正解のようだ。雑多なフィールドの中、斬撃で道を作り、壁を勢い良く登っていく。バシャン、と勢いの良い音と共に身体が宙へと飛び出した。
目的の者はそこにいた。スコープを覗いていた顔が急いで上げられる。大きな銃身を脇に抱え、一歩退くのが見えた。
狭い鉄の足場に着地し、すぐさま踏み込む。瞬間、目の前が白に染められた。高い音とともに光が舞う。視界の端に黒がにじんだ。
どうやらまんまと罠に引っかかってしまったらしい。視界の様子から、相応のダメージを受けていることが分かる。けれど、ここまで来て退くなんて選択肢は無い。目の前の相手を切り伏せる。何よりも成しえなければならないことだ。
地を踏む。力を込める。下から振り抜き、目の前の存在を斬りつける。鋭い斬撃が、目の前の小さな身体を一色に染め上げた。
重い音楽が手元の危機から流れる。ゲーム機の液相画面、その左上には負けを意味する英単語が書かれていた。
「何で負けなんだよ!?」
「貴方、敵を倒すことしか考えてなかったじゃないですか。塗るゲームなのですから塗らないと負けるに決まっているでしょう」
愕然と画面を見つめる雷刀に、烈風刀はイヤホンを外しながら呆れた調子で言う。彼の持つ色違いのゲーム機の中には紙吹雪が舞い、勝利を意味する語が軽快なフォントで書かれていた。
「しかも後衛の僕ばっかり狙って。一人だけ落とし続けても意味がないでしょう」
「そうよ。潰すなら前線のやつからにしなさいよ。私が全部相手する羽目になったんだから」
同じく重く悲しげな音楽が流れるゲーム機を手に、グレイスは悔しげな朱を睨む。彼と同チームだった彼女ももちろん敗北である。リザルトに示された数字は、彼女がどれだけ前線で奮闘していたかを表していた。
「はわぁ~! 塗りポイントナンバーワンデス!」
コーラルピンクの機械を眺め、レイシスは喜びに溢れた声をあげる。にこやかな笑みは、つい先ほどまで真剣勝負をやっていたなどとはとても思えない表情であった。
「誰かさんと違ってひたすら塗ってたものねぇ。……え? このポイント、陣地のほとんどを塗ってたってことじゃない?」
「そうなんデスカ?」
意地悪げな言葉を紡ぎながら、グレイスはボタンを操作する。姉のリザルトを確認した躑躅は、きょとりと目を瞬かせた。妹の言葉に、薔薇色も同じようにぱちりと瞬いた。
「もっかい!」
雷刀は人差し指を天井に掲げ、大きな声をあげる。負けず嫌いな彼がここで引き下がるわけがない。やるわよ、とグレイスも続く。彼女もまた負けず嫌いだ。ボタンを操作し画面を真剣に睨む姿から、勝利への執着が窺えた。
机の上に置かれた携帯端末が震える。手を伸ばし、烈風刀は慣れた様子でアプリを操作する。小さなスピーカーから電子音が流れた。
「次のチームどうします? またランダムでいいッスか?」
少し音質の悪い声がこちらに問う。チーム対戦に加わっていた魂だ。こっちは何でもいいッスよ、と彼は軽い調子で言う。負けたというのに随分と余裕のある声だった。
「オレと烈風刀分けれねぇ?」
「……同じことをする気ですか?」
「塗りなさいって言ってるでしょ」
「リベンジしてぇだけだって」
「分かりましたー。雷刀先輩と烈風刀先輩別にして、あとはランダムってことで」
カチャカチャとコントローラーを操作する音が聞こえる。ロビー画面、その左に連なる名前がどんどんと増えていく。きちんと設定してくれたのだろう、雷刀と烈風刀のネームプレートだけは違う色になっていた。
「ぜってー勝つ!」
「勝ち逃げは許さないんだから」
「レイシス、頑張りましょうね」
「ハイ! またいっぱい塗っちゃいます!」
意気込む者。はしゃぐ者。皆瞳は真剣そのものだ。それはそうだ、全員負けず嫌いなのだから。
試合開始を告げる鈴の音が、四人分のゲーム機から流れた。
4Kスコープ/わかばシューター/スパイガジェット/ジムワイパー
ドライブワイパー/スパッタリー/スクイックリンα/トライストリンガー
旅立つ者を見届け/雪翔+ユーシャ
「雪翔くん、ヘキサダイバーに行ったの!?」
コントローラーを持つ手が止まる。液晶画面を見つめていた空色の目が瞠られた。まあるい中には、もふりとした茶と白が映っていた。
「うん。抽選が当たったんだ」
「えーいいなー。ぼく、落ちちゃったや」
弾んだ声と萎れた声。対照的なそれの主たちは、どちらも目の前の大画面に吸い込まれていた。コマンド選択を終え、ターンが進んでいく画面を二人で眺める。いいなぁ、と嘆息にも似た声が効果音にまじって消えた。
「あ……、でもバグの騒ぎがあったんだっけ? 大丈夫だった?」
「今はなんともないよ」
ヘキサダイバーはバグの影響で時折不安定になる。運悪く、雪翔が体験した日にバグの被害が出てしまったのだ。怪我も無く、念のため行われた検査も結果は異常無しとのことだったので変わらずに過ごしているが、やはりほんの少しだけ不安は残る。あの施設に近づくのがちょっとだけ苦手になるぐらいには。
「ねぇねぇ、何になったの? どんなことしたの?」
「えっとねぇ、商人になったよ!」
商人、とユーシャは復唱する。蛍石の瞳がキラキラと輝きだした。ファンタジーゲームに必ずいるキャラクター、それも勇者として冒険する上で重要な位置にある存在だ。興味を示すのは必然だ。
「えっ! じゃあ武器とか売ったりしたの!? 冒険家とか……勇者とかに会った!?」
「会ったよ! ……会った、よ?」
興奮した様子の少年に返す声は、ほのかな疑問が浮かんでいた。あれ、と獣人は首を傾げる。コントローラーを持った友人も、同じく首を傾げた。
「どうしたの? あっ、思い出したくなかった?」
ごめんね、とユーシャは眉を八の字にして謝る。バグの被害に遭うだなんて酷い思いをしたのだ、それに関することを根掘り葉掘り聞くのはよくないことだと思ったのだろう。そうじゃないよ、と大きな手を慌てて横に振った。
「会ったよ。伝説の勇者の末裔に会ったんだけど……」
商人になったのは確かだ。勇者の末裔に会ったのも確かだ。けれども、何かが引っかかる。重要な部分だけ抜け落ちているような、大切なことだけ綺麗に忘れているような、そんな感覚がするのだ。バグの影響だろうか。記憶に被害があったという話は聞いていない。ならば、何故こうも不自然さが背を撫ぜるのだろう。
うーん、と顎に大きな手を当て雪翔は唸る。大丈夫、と不安げな声が小さな頭に降り注いだ。
「会ったけど、どんな人か忘れちゃったや」
「そっかぁ」
交わす声は少し萎んだものだった。本当ならファンタジーが大好きな彼にいっぱい話をしたいのに、忘れてしまうだなんて。せっかく行ったのになぁ、と大きな耳がしゅんとした様子で垂れた。
何より、この妙な感覚が気になって仕方無かった。仲の良い友達と遊んでいるのに、何だかとっても寂しいのだ。二人でゲームをするのは楽しいのに、胸がきゅっと苦しくなるのだ。何故なのだろう、と幼き獣は考える。答えは出そうになかった。
「今度は一緒に行こうね! ファンタジーの仮想空間いっぱいあったはずだよ!」
「うん! 頑張ってチケット取らないと!」
わふわふと手を上げる雪翔の手に、ユーシャは己のそれを重ねる。元気なハイタッチは、確かな約束を示しているようだった。
お母さんに頼まなきゃ、と少年はコントローラーを操る。テストで良い点取らなきゃいけないね、と獣人は画面を眺める。そうだね、と暗い声が返された。
画面の中の勇者一行は、ボスを倒し装備を揃えようと街へと帰るところだった。
クリーニングって結構馬鹿にならないお値段するよね/店員さん+インクリング
揚げきった材料を生地で挟み、紙で包む。ようやく出来上がった料理を冷めないうちに保温ケースに並べた。これで今日の開店準備はひとまず終わりだ。朝早くからの一仕事終え、女はふぅと息を吐いた。
タッタッタッと軽快な音。客の到来を示す音色に、彼女は食材たちからロビーへと視線を移した。
レジスターと調味料が並ぶカウンターの向こう側には、駆け寄ってくる人影があった。人気ブランドのシンプルな半袖シャツに身を包み、黒に鮮やかな一色のラインが走るレギンスと大きなブーツで彩られた足を動かすのは一人の少女だ。激しく揺れる長い横髪とどんどんと大きくなる――とはいっても、己に比べれば随分と小柄だ――影から、その速度が見て取れた。
レジカウンターに辿り着いた少女は、笑顔を浮かべて手を上げた。ミッ、と発した鳴き声のような短い言葉は彼女なりの挨拶だ。
「あら、いらっしゃい! いつもの?」
彼女はいわゆる常連客だ。毎週のように訪れ、毎回同じメニューを食べていくのですっかりと顔を覚えてしまった。来る度に見せる元気溢れんばかりの笑顔も記憶に残る要因の一つだ。
問いに、少女はまたミッ、と声をあげる。青い瞳は既に保温ケースに並ぶ料理に吸い込まれていた。ぱちぱちと瞬く大きな目はキラキラと輝いている。開店直後にやってくるほどだ、大層腹が減っているのだろう。
しばしして、ハッとしたように丸い目が瞠られる。小柄な身体に対しては大きな手が急いだ調子でポケットに入れられた。ごそごそと中を掻き回す音。少しして、大きなチケットが現れた。少女は少し皺の寄ったそれをカウンターに置ぃ。ずいと勢い良く奥へと差し出す様から、早くちょうだいとねだられているような気分になる。可愛らしい姿に、女は口元を綻ばせた。
チケットを受け取り、レジスターに閉まってケースへと手を伸ばす。赤と黄で構成されたチケットは『アゲバサミサンド』の注文を示すものだ。彼女がいつも食べていく料理である。包みを一つ取り、どうぞと言葉を添えて向こう側の少女へと差し出す。少し角張った両の手が料理をしかりと受け取った。揚げ物がたっぷりと挟まれたそれを、輝く青色が見つめた。
あ、と音が聞こえてきそうなほど大きく口が開かれる。鋭く尖った歯が除く口内に、挟んだ生地から飛び出したカニのハサミが吸い込まれた。バリン、と硬い殻が砕かれる音。きちんと処理し殻までまるごと食べられるそれが、バリボリと大きな音とともに噛み砕かれていく。もごもごと動く口が少し止まり、細い喉が上下する。白い歯で彩られた赤い口に、再びサンドが吸い込まれていく。バリン。一口。ボリン。また一口。食べ進める内に手に力が入ってしまったのか、揚げ物と一緒に挟み込んだ目玉焼きの黄身が潰れるのが見えた。とろりと溢れる黄色を、小さな舌が急いだ調子で舐め取る。まろやかなそれが好きなのだろう、黄金が染みこんだ部分を中心に少女は食事を進めた。
気持ちいいほどの食べっぷりに、女は目を細める。己が作った料理をこんなにも美味しそうに食べてくれる。料理をする者としてこれ以上にない幸福だ。様々な苦労があれども店員になってよかったと思える瞬間だった。
「あらまぁ、汚れちゃってるよ。ちゃんと拭きなね」
カウンター脇に置いてある紙ナプキンを一枚抜き取り、一心不乱に食べ進める少女に差し出す。料理に注ぎ込まれていた海色の瞳がきょとりとした様子でこちらへと向けられた。もう残り少ないサンドを片手に持ち、少女は薄紙を受け取る。衣と黄身と調味料で汚れた口元をぐしゃぐしゃと乱暴に拭い、彼女はまた食べ進めていく。それじゃあ意味が無いよ、と女は困ったように笑った。
食べ終わった頃を見計らい、またナプキンを一枚差し出す。またぐしぐしと強く拭い、彼女は油で汚れた包みと茶色に染まった白い紙をひとまとめにし、ゴミ箱へと捨てた。
「いってらっしゃい」
壁に立てかけていた傘――形状は傘であるが立派なブキだ――を片手に、少女はまた高く手を上げる。ミッ、と来た時と同じ調子の声をあげ、少女は上げたそれをブンブンと振る。そのまま階段下へと駆けていった。元気いっぱいの様子に、つぶらな瞳が愛おしそうに細められた。
それにしても、と女は体躯にしては小さな手を口元に当てる。
彼女がいつも食べるアゲバサミサンドは、金運に恵まれる効果を持ったものだ。それを毎週のように食べていくなんて。
「よっぽどおカネが無いのねぇ……」
元気にナワバリバトルへと向かった少女に不安を覚えながらも、店員は次の客を待った。
小さな影探して/インクリング+コジャケ
※うちの新3号設定(赤貧)
大きな自動ドアをくぐり、ロビーから広場へと出る。普段は重い足取りは、今日はスキップでもしそうなほど軽やかだ。タッタッと雑踏に紛れる足音も軽快に聞こえた。
なにせ、今日は大勝ちした。勝利に次ぐ勝利を重ね、たんまりとカネを得たのだ。ここ数日は負けが込み、泣き縋るように向かったバイトも失敗続きで収入が激減していただけに今日の成果は大きなものだ。嬉しいったらない。なけなしのチケットを使い金運を上げた甲斐があったというものである。
早く帰ろう。久しぶりにまともな食事にありつこう。ハイカットスニーカーに包まれた足を操り、少女は階段を駆け下りていく。長いそれの終わり、ブキ屋との間を埋めるように設置された金網の上に視線をやった。
コジャケ、と相棒の名を口にしようとして少女ははたと止まる。いつもならば保護用の金網の上に鎮座し広場を見渡す小さな相棒の姿は無かった。あるのは無造作に置かれた植木鉢と落書きされた壁だけだ。
今日は別の場所にいるのだろうか。くるりと振り返り、反対側にある植え込みへと足を伸ばす。オルタナへと続くマンホールを見つめる小さな影は無い。ぶらぶらと手持ち無沙汰に足を動かす同胞しかいなかった。
封鎖された門の前を駆け、店に続く道へと向かう。謎の透明な立方体の前に佇む小さな体躯は無い。クラゲが気ままに歩いているだけだ。
珍しい、と少女は丸い目を瞬かせる。普段は広場にいるのだが、今日はどこにも見当たらない。別の場所にいるのだろうか。ああ見えてあの子は神出鬼没だ。己の両の手に乗るような小さな体躯だというのに、この雑踏の中を這い歩きどこかで街行く人々を眺めているのだ。
踵を返し、店が建ち並ぶ通りへと向かっていく。
ザッカ屋の前。ポールの上でぴょこぴょこと跳ねる相棒の姿は無い。
少し歩いてクツ屋の前。出入りする客を眺める相棒の姿は無い。
振り返って見上げた高い看板の上。広場を見下ろす相棒の姿は無い。
裏道を抜けた先の開けた場所。デッキを組む少年少女を見つめる相棒の姿は無い。
急な坂道を駆け上がった高台の上。柵の上で器用に眠る相棒の姿は無い。
うーん、と少女は小さく唸り声を漏らす。心当たりがあるのはこれぐらいだ。それでも見当たらないだなんて、今日は一体どこへ行ったのだというのだろう。
仕方無い、と小さく息を吐き、来た道を戻る。先にクリーニング依頼を済ませてしまおう。普段ならば一回依頼できるかできないかというほどの財政事情だが、今日は三回依頼してなお有り余るほど懐が暖かいのだ。忘れぬ内に済ませてしまわないと、いつまで経ってもいいギアを作ることができない。ろくなギアパワーが付いていないものが多く溜まっているのだ。早く始末してしまいたい。
ナワバトラーの熱い試合が繰り広げられる横を通り抜け、細い裏道を進みロビー前まで戻る。アタッシュケースの横で気怠げに過ごす青年に声を掛けようとしたところで、体躯に対して随分と大きな足が止まった。
青年が座っている後ろ、高い看板で陰った場所。そこには見知った小さな影があった。
小さな身体は、薄く小さなヒレを広げて地面にぺたりとうつ伏せている。小柄な図体からは想像出来ないほど大きな口はぽかりと開かれ、赤い舌が覗いていた。飛び出た黄色い真ん丸な目は閉じられている。何故か崩れることがない背の高い髪は、風に吹かれてそよいでいた。
ここにいたのか、と少女はふっと息を吐く。傷が入り切れた太い眉が、呆れたように八の字を描いた。
そういえば、相棒はここで眠っていることがあるのだった。あまり行ってはいけないと言いつけており、最近ではその忠告通りに過ごしてくれていただけにすっかり忘れていた。数歩足を動かせば見つかる場所だというのに、あれほど街を駆け回るなんて自分はなんと間抜けなのだろう。内心苦い笑いをこぼした。
身を半分翻し、少女は後ろに佇むビルへと視線をやる。そこにはクマサン商会――遡上するシャケたちを倒し尽くそうと日々働く同胞たちが集まる店が構えられていた。
ここに通うのは、シャケを倒すことに命を賭けていると言っていいほど熱心な者が多い。本当に懐が寂しい時に嫌々ながら参加するが、どいつもこいつも恐ろしいほどの気迫に満ちているのだから怖いったらない。
そんな者たちが集まる場所、しかも仕事終わりに店を出てすぐ目の前に映るような場所にいては、追いかけ回されしばき倒されるに決まっている。なので近寄らないように言っていたのだが、今日ばかりは忘れていたようだ。よほど眠かったのだろうか、と健やかな寝顔を眺めて考える。
こんなところにいたら危ないよ。
小さく呟き、少女は眠る相棒に駆け寄る。クリーニングは明日だ。どうせギアパワーを付けるためにまたバトルに明け暮れねばならないのだ。明日の朝一番に依頼し、そのまままっさらなギアを身に着け闘いへと身を投じる方が効率的だろう。
帰るよ。
語りかけるように優しく漏らし、少女は眠るコジャケの身体をそっとすくい上げる。蛍光色のギアに包まれた細い腕に収まる相棒は、依然起きる様子は無い。きっと当分の間は眠っているだろう。一旦家に帰り、この子を置いてから買い物に向かった方がいい。
晩ご飯何にしようかな。たまにはこの子の好きなものも作ってあげないとな。
久方ぶりの温かな食事に思いを馳せ、少女は人々行き交う広場を歩んでいった。
結局2勝3敗で終わった/インクリング
※うちの新3号設定(赤貧バイト嫌い)
遠くでヘリの音が聞こえる。
また誰かが現場に向かったのだろう。理解しがたいことに、この労働施設は大盛況なのだ。絶えずヘリの音が響く薄暗い室内は不気味だった。もうとうに慣れてしまったのだけれど。
高い位置にあるロッカーを開ける。更衣区画のロッカーはいつだって埋まっているが、今日はまばらだ。時間によるものだろうか。些末なことをぼんやりと考えながら、ヘルメットを取る。中に無理矢理収めていた髪がこぼれ落ちるように飛び出した。ライトやインカムといった機材が取り付けられたそれはかなり重い上に蒸れる。外した瞬間、解放感と涼しさが少し乱れた頭部を撫でた。
オレンジのメットを足下に置き、ハーネスを取る。厳重なテーピングを解きながら長靴を脱ぎ、手袋を取る。どれも緩慢な動きだった。本当ならばさっさと片付けて出ていきたいが、連続で何度も仕事に向かった身体は疲労感に支配されていた。普段あまりアルバイトをしないため、なかなか使い慣れない頑強な装備の着脱を行うのも原因の一つだった。
「おつかれ」
「…………お疲れ様」
本当に布なのかと疑うほど分厚く固い作業服を脱いでいると、隣から声がした。アルバイト後は皆疲れ果てて無言で着替えるというのに、珍しい。同時に、嫌な予感がした。見ず知らずの者に突然話しかけてくるようなやつが面倒臭くないわけがないのだ。
最低限の言葉を返し、分厚い生地と格闘を続ける。取り払った非日常のオレンジから、日常のモノクロへと着替えていく。隣からもゴソゴソと厚い布が擦れる音がする。あちらも着替えているのだろう。響きからして男のようだが、気にせずに着替えを続ける。恥ずかしがる余裕など、疲労しきった重い身体には欠片も無かった。
「……なぁ」
モノクロの薄い生地を頭から被る。布地を絞る紐と長い裾を整えているところで、また声がした。一息吐いて雑談でもしたいというのだろうか。こちらにそんな余裕はないのだ。そもそも、突然話しかけてくるようなやつにこれ以上関わりたくなどない。
「お前、コジャケ飼ってるってマジ?」
投げかけられた音は固く、懐疑的な響きをしていた。予想だにしない言葉に、思わず視線を向けてしまう。作業着を上半分だけ脱いだ少年は、眉をひそめこちらを見つめていた。
「飼ってない」
「嘘つけ、商会入る時一緒にいるの見たぞ」
「飼ってない」
詰めるような声に普段通りの声で返していく。嘘言うなよ、と相手は諦めることなく食い下がってくる。予感通り面倒なやつだ。はぁ、とわざとらしく溜め息を吐いた。
「飼ってない。あの子は相棒だから」
あのコジャケは生活を共にする相棒だ。決して『飼う』だなんてペットのような表現をする存在では無い。共に砂漠でジャンク品を漁り、共にオルタナを進んでいく唯一無二の相棒なのだ。
屁理屈言ってんじゃねぇよ、と吐き捨てるような声。先に決めつけてきたのはそちらだというのに。屁理屈などと噛みついてくるなんてなんとも面倒臭いやつだ。そもそも、相棒のことに踏み入ってくる時点で大概面倒臭い。着替える手を早くしていく。乱れた髪もしっかり整えたいところだが、一秒でも早くここから抜け出すために我慢しなければならない。
「コジャケいんのに何でバイトしてんだ? 『相棒』と同じやつシバくのためらわねぇのかよ」
「カネの方が大事」
往生際が悪い相手に言葉をぶつける。少しだけ低く固いそれは、切り捨てると表現した方が相応しい鋭さと冷たさを孕んでいた。
間髪入れずに返ってきた、それも非常に現実的な答えに少年はたじろぐ。えぇ、と動揺が色濃く滲んだ声がロッカー区画に落ちた。
「あの子、大食らいだから……」
コジャケはよく食べる。それはもうよく食べる。エンゲル係数など考えたくないほどよく食べる。おかげで食費はうなぎ登りで、財布の中身は垂直に近いほどの下り坂だ。
普段ならばジャンク品を売りさばき、合間にナワバリバトルに身を投じ稼ぐのだが、今月はそれだけではとても賄えないほど財布には寒風が吹き荒んでいた。ここ最近はジャンク品がなかなか見つからず、ナワバリバトルもバンカラマッチも勝ち星が少ない。だというのに、ケバインクを食べてからは相棒の食欲は更に増した。収入が激減しているのに、出費は悲鳴をあげたいほどかさんでいく。だから、やりたくもないバイトに手を出したのだ。
そうかよ、と少年は引き下がっていく。少し震えたそれには、動揺と落胆、少しの畏怖があった。現実的な答えの何が悪いのか。勝手に踏み込んできて、勝手に引くなどなんとも失礼なやつである。
沈黙の中、愛用のヘッドギアを着ける。赤いブーツに足を入れ、つま先で地を叩きしっかりと履いた。レンタルの長靴と手袋を所定の位置に立てて干し、仕事着全てを大きな洗濯機に放り込む。これでもうアルバイトは終わりだ。
「お疲れ様」
「…………おつかれ」
背に飛んできた声は、何とも言い難い響きをしていた。気にすることなく、外に続く扉を開けた。
太陽の光が、鮮やかな青が目を刺す。薄暗い商会内とは一転し、外は輝かしいほど晴れやかだ。表現しがたい音楽は扉の向こうに消え、人の声と電車の発着を知らせるベルが身を包んだ。
人の間を縫って歩き、ロビーへと向かう。入り口脇に置かれた電子掲示板をじぃと見つめた。今のスケジュールはどうなっているのだろう。稼げるルールならいいのだけれど。考えながら、現在の解放地と次回以降の解放地、ルールに目を通していく。
一番上に書かれた『ガチエリア』の文字に、少女は小さく頷く。このルールは得意な部類で、勝ち越すことも多い。稼ぐのにうってつけだ。先のバイトで財布は多少潤っているものの、万全とは言い難い状態である。もっと稼がねばならない。せめて来月の家賃分は手に入れなければならないのだ。
赤と黒のブーツに包まれた足が、しっかりとした動きで進む。シューターを手にした小さな影が、ロビーへと吸い込まれていった。
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年初め、神社にて【グレイスファミリー】
年初め、神社にて【グレイスファミリー】
書き初め。グレイスちゃんが神社でアルバイトする話。ピリカちゃんの口調は……こう……大目に見ていただけるととても嬉しい……。
昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました、と破魔矢を胸に抱えていった背を見送る。声は少し慌てた調子であれど、しっかりとしたものだった。
連なっていた列も消え、ようやく人の波が凪ぐ。ふぅ、とグレイスは小さく息を吐く。朝から張り詰めていた心が少しだけ解けた気がした。肺の空気を吐き出した瞬間、どっと重くなる感覚が華奢な身体にのしかかる。回遊魚さながらずっと動き回っていたのだ、忙しさで誤魔化されていた疲れが今になって襲ってきたのだった。はぁ、と二度目に吐き出した息は疲弊が色濃くにじんだ響きをしていた。
新年を迎えた元日、少女は神社にいた。そこに姉や仲間たちの姿は無い。当たり前だ、今年は初詣に来たのではない。社務所のアルバイトのために訪れたのだ。
年が明けたばかりの一月、中頃を過ぎた十八日はレイシスの誕生日だ。あの薔薇色の少女は、毎年己の誕生日には素敵なプレゼントと豪奢なケーキを贈ってくれていた。与えられることに慣れていない躑躅の少女にとって、もらうだけの日々は気後れが募るばかりだ。
もらってばかりの事実を気にするぐらいならば、与える側に回ればよいのだ。己もプレゼントを贈ろう。お返しがしたい。姉の喜ぶ顔が見たいのだ。
しかし、常日頃ナビゲーターとして研鑽を積むグレイスの財布事情はよろしいとはとても言い難いものである。少し良いプレゼントを、と考えると諦めの情がほのかに湧いてくるような状態だ。これではもらった分のお返しすらできない。決心したのはいいものの、現実的な壁が立ちはだかったのだった。
ならば選択肢は一つだ。冬休みでありナビゲート業務が休みである正月を狙って、単発のアルバイトを入れたのだ。一日だけとはいえ、正月という忙しく寒い時期ということもあってか時給はなかなかのものである。学生がちょっと良い代物を買うには十分な報酬だ。大切な人たちの誘いを断るのは酷く心苦しかったが、これも全て愛する姉を喜ばせるためなのだ。少女は固い意志を貫いた。
奥に掛けられた時計を見る。時刻は昼も過ぎた頃合いだった。一日限りの仕事も折り返し地点である。先に休憩に入ったバイト仲間ももうすぐ帰ってくるだろう。昼休憩まであと少し、もうちょっとだけ頑張らねば。ぎゅっと目をつむり、躑躅色は小さく頷いた。
「すまない」
前方から声。参拝客が来たのだろう。閉じていた目を開き、口元をどうにか笑みの形にする。ほとんど人と関わることなく暮らしていたためか、笑顔を作るのはまだ苦手だ。それでも、今は接客業をしているのだ。客には明るく朗らかな笑顔で接しなければいけない。無愛想な顔で対応して神社の評判に傷が付くなどあってはならないのだ。
「はい、どうされました――」
少し硬い笑みを浮かべ、グレイスは顔を上げ声の方へと向き直る。指導された通りきちんと言い切るべき言葉は途中で止まった。ただでさえぎこちない表情がビシリと固まる。口角を無理矢理上げた口が丸く開かれる。は、と疑問に染まりきった音が漏れ出た。
「明けましておめでとう、グレイス」
「あけましておめでとうべさ!」
「……明けましておめでとうございます」
参拝客――オルトリンデはゆるく笑み、小さく手を上げた。下から聞こえる元気な声と受け渡し台から覗く小さな手はピリカのものだ。長い白髪の後ろに見えるのは始果だ。襟巻きに口元を埋め、少年はじぃと愛しい少女を見つめていた。
「な、んでいるのよ!」
仕事中だと言うことも忘れて、少女は叫ぶ。固まっていた表情筋が動き出し、驚愕と憤怒、そして羞恥が入り交じった表情を作り上げた。頬が赤くなっているのは、冷え切った外気に晒された故ではないだろう。
「俺もいるぜ!」
「帰んなさい!」
オルトリンデが握る携帯端末から大声が流れる。耳慣れた威勢の良い響きはライオットのものだ。あの図体では境内に入ることができない彼は、音声通話という手段をとったのだろう。いつぞやは諦めた癖に、余計な知識を付けたものだ。ギリ、と思わず奥歯を噛み締めた。
「正月には初詣をするものなのだろう? 四季の行事はきちんとこなすべきだ」
「その通りだぜ。文化の保存は大切だからな」
「グレイスが働いていると聞いてきました。寒くありませんか?」
「グレイス、巫女さんの服さ似合ってるっちゃ!」
どこか得意げな声で語るオルトリンデに加勢するようなライオット。心配げに襟巻きを差し出す始果に巫女服に興味津々なピリカ。四者四様だが、目的が神社への参拝ではないことは明らかだ。
「冷やかしならさっさと帰んなさい。他の参拝客の迷惑よ」
「冷やかしなどではないぞ。せっかくならばと御守りを買いにきたのだ」
冷たい視線を送る躑躅に、戦乙女は小さく首を横に振る。そう、と少女は未だ警戒心が残る声で返す。それもきっと建前だ。いい迷惑である。
「御守り、ここにあるもの全て一つずついただこうか」
「お嬢、破魔矢一本ずつ全部くれ。代金は女に預けてある」
「絵馬全部ください」
「しょーばいはんじょーの御守り一つ欲しいべ!」
「お金は大切にしなさいよ!」
財布から束になった紙幣を取り出す仲間たちに、グレイスは大声をあげる。新年早々そんな大金を使うなど控えるべき行為である。何より、彼女らが口々にする品を本当に欲しているのではないのが丸わかりなのだ。無駄な散財は断固として止めるべきであった。己が原因ならば尚更である。
「言っとくけど、売り上げと私のお給料は関係ないからね」
「そうなのか?」
事実を告げると、赤と橙の瞳が丸くなる。やはりそれが目当てか、とマゼンタの目が苦々しく細められた。
オルトリンデたち四人は、あの重力戦争を共に戦った仲間だ。終戦間際の行動もあってか、ネメシスに来てから向こう、彼女らは己に対して過保護と表現するのが正しいほど接してきた。特にオルトリンデとライオットが顕著だ。何かにつけて世話をしようとし、何かにつけて甘やかそうとする。プレゼントのためにアルバイトをすると白状したところ、少し早いお年玉と称して大金を渡そうとするほどの甘やかしぶりだ。もちろん拒否したが、その結果がこれである。
まぁいい、とオルトリンデは小さく頷く。二色一対の視線が、ずらりと並べられた御守りに注がれた。
「御守りが欲しいのは本当だ。全種買いたいのだが、いくらになる?」
「いっぱい御守り持ってたら神様が喧嘩するわよ。一つにしときなさい」
端から端まですぃと宙をなぞる仲間に、躑躅は目を眇める。年末、テレビで聞いた話だ。確かにいくつもの神様を一度に連れていれば喧嘩も起こるだろう。記憶に留まるほど印象深い話であった。
そうなのか、と戦乙女は再び目を丸くする。悩ましげに顎に指を当て、また端から端まで御守りを眺めた。
「ピリカは商売繁盛のだったわよね。八百円よ」
袖をたくし上げ、少しだけ身を乗りだしてコイントレーを黒兎に差し出す。分かったっちゃ、と小さな手ががま口の財布を開き、硬貨を取り出す。ん、と背伸びをし、ピリカはトレーに銀色を載せた。金額を確認し、赤い御守りを手に取る。神社の名前が書かれた白い袋にそっと入れ、古びた木のカウンターに手をついて背丈を伸ばす少女に手渡した。ありがとだべ、と元気な声と白い息が厚い木板の下から飛んできた。
「では、我は学業成就のものをもらおうか」
「貴方、教える立場でしょ? 何でよ」
「教師といえどまだ実習生の身だ。日々学ぶことはたくさんあるからな」
八百円だったな、とオルトリンデは一万円札を差し出す。そう、と不思議そうに返し、躑躅の少女は釣り銭と青い御守りが入った袋をトレーに載せて差し出した。
「釣りはいい。とっておくがよい」
「売り上げ計算合わなかったら私が怒られるのよ。ちゃんと受け取りなさい」
止めるように手を上げにこやかに告げる女性に、少女は眉間に眉を寄せて返す。そうか、と少し萎んだ声。白い指がいくつものお札と硬貨を取って財布へと戻した。
「やっぱ全種くれ。どれも面白ぇデザインしてっからな」
「絵馬、二枚もらえますか?」
端末の向こう側からライオットが言う。指を二本立てて始果が言う。分かったわ、とグレイスは慌てた調子で品物を袋に詰めた。代金を受け取り、束になって袋に入った破魔矢をオルトリンデに、柄違いの絵馬を始果に渡す。ありがとう。ありがとうございます。礼の言葉が重なった。
「グレイス」
耳馴染んだ声が己を意味する音を紡ぐ。少女はレジスターをしっかりと閉めて顔を上げた。そこには、絵馬を一枚差し出す狐の姿があった。
「何? 返品? 受け付けてないわよ」
「いえ、きみの分です」
忍の少年の言葉に躑躅の少女はぱちりと瞬く。きみの分、とはどういうことだろう。突然の、それも彼らしくもない言葉に脳がぐるりと思考を巡らせた。
「新年には絵馬を書くと聞きました」
どうぞ、と少年は依然絵馬を差し出す。まあるいラズベリルがまた瞬いた。
白い袖に包まれた腕がそろりと宙を彷徨う。しばしの沈黙。揺れる指先が動物の描かれた五角形を取った。ありがと、と小さな言葉とともに、筆絵で飾られた絵馬がなめらかな手の内に収まった。
「邪魔したな。アルバイト、励むがよい」
「寒いから風邪ひかねぇようにしろよ」
「お仕事がんばるだよ!」
「終わったら迎えに来ますね」
声かけ手を振り三人の影と一人の声が去っていく。寒風に吹かれたビニール袋がカサカサと音をたてるのが聞こえた。
嵐のような時間が過ぎ去り、グレイスは大きく息を吐く。はぁ、と音となったそれは重く、疲れがにじむものだった。
こんなことならば神社でアルバイトするなどと言わなければよかった。しかし、理由を言わねばあの過保護な仲間たちが納得するはずがない。仕方が無いことだったが、それでも後悔が押し寄せてくる。はぁ、とまた深く息を吐いた。
鈍さが見える動きで視線が手元に向けられる。五角形の中描かれた干支の動物が、疲弊の色を浮かべたスピネルを見つめていた。
何書こうかしら。そもそも絵馬って何を書くんだったかしら。あとで聞いてみないと。
ほのかに痛みを覚える頭で考えながら、少女は巫女服の襟を正した。
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年を過ごす蕎麦の音【嬬武器兄弟】
年を過ごす蕎麦の音【嬬武器兄弟】
2022年書き納め。嬬武器兄弟が蕎麦を食べるだけ。
今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
ぐらぐらと沸き立つ水面を眺める。そろそろだろうか、と考えていると、キッチンタイマーが高い音を出して予定時間になったことを知らせた。己の体感への信頼を少しだけ深めながら、烈風刀は鍋つかみに手を通す。パスタ鍋の取っ手を持ち、中身をザルにあける。ベコン、とシンクが不満げな声をあげた。
軽く湯切りし、菜箸を使って二人分の丼に分ける。別の鍋で作っていた出汁を麺が入ったそれに注ぎ入れた。澄み切った美しい出汁の色、蕎麦の濃灰色のコントラスト、立ち上る温かな香り。どれも胃を刺激するものだった。くぅ、と腹の虫が鳴き声をあげた。
トースターから海老天を取り出し、キッチンペーパーを敷いた皿に載せる。出来合いのものはあまり買うことはないが、毎年この日だけは買うのが通例になっていた。家中の大掃除で忙しい中、揚げ物をする余裕など無いのだ。
「烈風刀ー、風呂掃除と玄関の掃除終わったー」
ガチャリ、とリビングのドアが開く。覗いた朱は、疲労が滲んだ色をしていた。散らかりに散らかった自室の掃除をようやく終えた身体には辛いものがあったのだろう。日々何度も何度も掃除しろと言っても無視して過ごし、事前に決めた掃除分担に異論を唱えなかった彼に同情する余地はないが。
「あっ、蕎麦できた?」
「ちょうど。海老天とお箸持って行ってください」
キッチンを覗き込み、雷刀は弾んだ声をあげる。輝く紅玉の中にはもう疲労の色は無かった。分かりやすい反応に、思わず小さく笑みを漏らしてしまう。誤魔化すように天ぷらの載った皿を差し出した。
りょーかい、とこれまた弾んだ声。皿を受け取った兄は、軽快な足取りでリビングテーブルへと向かった。カチャカチャと箸を用意する音が聞こえる。少し重い丼を二つ手に持ち、烈風刀はキッチンを出る。箸が並べられた机に年越し蕎麦を置いた。
「いただきまーす」
「いただきます」
所定の位置に座り、手を合わせる。食事の挨拶をしたところで、同時に箸を持った。赤い箸が海老天を引っ掴み、大きく開いた口に入れる。青い箸が出汁の中揺蕩う蕎麦を掴み、そっと口に運ぶ。サクン、と小気味よい音と、ずるる、と豪快な音が暖かな部屋に響いた。
珍しく言葉を交わすことなくひたすらに食べ進めていく。昼ご飯はきちんと食べたが、その後休む間もなく動き回ったせいで腹が空いていた。そろそろ痛みを覚えるような頃合いだ。そんな胃腸に、温かな蕎麦と熱々の天ぷらは最高のごちそうだった。
「今年も色々あったなー」
呟くようにこぼし、雷刀はずぞぞ、と蕎麦を啜る。そうですね、と烈風刀は海老天を出汁に浸しながら応えた。
「バトル大会に新シーズン、アリーナバトルにメガミックスバトルに……、あとは……」
「プロリーグも始まったしな」
二人で出し合ってようやく数えられるほどの出来事があった。毎年ながら激動の一年だ。特に新シーズンは様々な機能追加が一気に行われたため、忙殺という言葉では済まされないほど忙しかった。そろそろ誰か過労で倒れるのではないかと毎日気が気でなかったことは強く覚えている。
「来年は何したい?」
「そうですね……」
ずるずると麺を啜る兄から視線を外し、弟は宙を眺める。手にした箸が迷いを表すように小さく揺れた。
「もう少しアリーナバトルに力を入れたいですね。最近腕がなまっている気がするので」
それはもう激動の日々だった。おかげで、アリーナバトルに赴く頻度は減っていた。行く暇など無かったのだ。バトル大会に向けて特訓した日々はあったものの、やはり時間が経つとなまっているのではないかと不安が湧いてくる。きちんと腕は磨いておかなければならない。いざという時愛しい少女を守れないなんてことがあってはならないのだ。
「お? じゃあ久しぶりに手合わせする?」
剣を構えるように箸を突きつけ、雷刀はニッと笑う。瞳には愉快さと闘志が宿っていた。行儀が悪いですよ、と碧が鋭い視線を送る。へーい、と朱はきちんと持ち直した。
「まっ、オレが勝つけど」
「今のところ僕が勝ち越しているんですが?」
「引き分けの間違いだろ?」
交わす言葉は鋭さを宿していた。それこそ、手合わせの最中のような声色だ。眇められた朱と碧がふっと解け、同時に笑みをこぼす。一転、穏やかな空気が二人を包んだ。
「お正月が明けて落ち着いたらお願いします」
「任せとけって」
また二人で蕎麦を啜る。出汁に浸した海老天は、すっかり水分を吸ってふにゃふにゃになっていた。トースターで温めたてのサクサクも美味しいが、汁を吸ってふにゃりとした衣も美味しい。どちらも楽しめるのが、各々好きなタイミングで載せる今のやり方だ。
「来年もよろしくお願いします」
「よろしくなー!」
烈風刀は衣が剥がれ落ちそうな天ぷらをそっと箸で持ち上げる。雷刀もまた、尻尾だけになった天ぷらを持ち上げた。あ、と二人同時に口を開ける。箸に捕らえられたそれらは、大きく開かれた口の中に吸い込まれていった。
パリン、と固い音が夜が降りきった世界に響いた。
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躑躅色飾る夜【はるグレ】
躑躅色飾る夜【はるグレ】
サンタグレイスちゃんクルー本当に可愛いよねってのとウキウキでサンタクロースやるグレイスちゃん可愛いよねって感じのはるグレ。
メリークリスマス!
白いフェイクファーで彩られた手が銀色に伸びる。冬夜の空気に晒された金属は、凍っているのではないかと疑うほど冷たかった。鈍く光るノブを握り、音をたてないようにゆっくりと回す。横向きの長いそれを下ろしきり、おそるおそるといった調子で引く。普段の彼女からは想像できないほど慎重な手つきをしていた。
傷が付いた扉の向こうは、ほんのりと明るさを持っていた。きっとカーテンを閉めていないのだろう。部屋の主は日常に関わる全てにおいて無頓着なのだ。
細く開けたドアの隙間から、滑り込むように身を差し込み中へと入る。室内は廊下と同じくひやりとした温度をしていた。寄宿舎の各部屋にはエアコンが備え付けられているが、彼が使っているとは到底思えない。予想通りの様子に、緊張で張り詰めた胸に少しの安心が落ちた。
これまた音が鳴らないように注意しながら戸を閉め、少女は薄明かりの中そろそろと足を進めていく。摺り足と表現するのが相応しい動きだった。部屋の床は硬いフローリングである。硬質なヒールが打つ高い音が鳴らないように気を付けねばならないのだ。本当ならば音が鳴らないようなものを履いてくるべきだが、それでは格好が付かない。今日はきちんと着飾らねばならないのだ。
「グレイス?」
二歩進んだところで、すっと影が差す。すぐ近く、目の前から己を示す響きが飛んできた。突然の出来事に、思わずぴゃっと悲鳴をあげる。黒い編み上げブーツで彩られた足が一歩退く。カツン、と高い音が薄闇の中に落ちた。
「ねっ、寝てなさいよ! 何時だと思ってるの!」
「寝ていましたよ。ただ、きみの気配がしたので」
夜中だということを忘れ、グレイスは大声をあげる。部屋の主であり目の前に立つ始果は当然のように言葉を紡ぎ、小さく首を傾げた。気配って何よ、と躑躅の少女は苦い顔をする。彼は忍であり、気配に敏感なことは知っている。それでも人を識別できるだなんて、一体どういう理屈なのだ。疑問渦巻く少女の顔に、不思議そうな色を宿した瞳が向けられた。
「とにかく、ちゃんと寝てない子のところにはサンタは来ないわよ」
悔しまぎれに少し意地の悪いことを言ってやる。返ってきたのは残念そうな声ではなく、さんた、と感情の無い復唱だった。
「さんた……とは何でしょうか?」
「え? サンタはサンタでしょ? あんた、サンタを待ってたんじゃないの?」
不可思議そうに首を傾げる少年に、少女は驚いた声をあげる。彼の後ろ、無機質なベッドへと急いで視線をやる。枕元には、ビビッドな色をした大きな靴下が吊り下げられていた。クリスマスの夜、サンタクロースからのプレゼントを待ち遠しく過ごす子どもとまるきり同じ姿だ。だというのに、何故サンタを知らないというのだ。
つられるように、カナリアの瞳がマゼンタと同じ方向に向けられる。ベッドのすぐ脇に注がれたそれに、あぁ、と合点がいったような声を漏らしたのが聞こえた。
「くりすますはこうするときみが来てくれるのでしょう?」
それが常識であるかのように始果は言う。ぱちりと瞬く目は純粋な色で、疑うことなど全くしていないものだ。ぅ、とグレイスは小さく喉を鳴らした。
クリスマス。サンタクロース。靴下。プレゼント。
全てはネメシスに来て初めて迎えた冬、レイシスが教えてくれたことだ。クリスマスの夜、枕元に靴下を吊しておくとサンタさんがプレゼントを入れてくれるんデスヨ、とにこやかに語る薔薇色の姿は今でも覚えている。事実、クリスマスの翌朝、吊り下げた靴下の中に大きなプレゼントが入れられていた。不思議な現象に驚いたことは記憶に新しい。
けれども、それはサンタクロースという謎の人物によるものではなく、姉の仕業だということはとうに理解していた。後でからくりを知った時は少しの落胆を覚えたが、今では別の感情を宿している。心弾むこれは、きっと楽しさというのだろう。
「とにかく! サンタが来てあげたわよ!」
透き通る肌をした手を胸にかざし、躑躅は高らかに言う。自信満々な音色と大きく鮮やかな瞳は、黒の世界に散りばめられた星々と同じほど輝いていた。
サンタクロースの役割が与えられたのは、ネメシスで過ごす二度目の冬のことだ。トナカイのカチューシャと赤を基調とした衣装、そしてプレゼントがたっぷりと詰められた大袋で身を飾り、同じくサンタになった双子兎と夜を駆け回ったのだ。どの家にも煙突がなくて慌ててしまったことは未だに記憶に残っている。少し苦い思い出を頭の隅に押しやり、少女はふふん、と楽しげな笑い声を漏らした。
今年も冬がやってきた。つまり、またサンタの役割を果たす日が来たのだ。だから普段は眠っているこんな夜中に部屋を抜け出してここを訪れたのだ――プレゼントを渡すべき彼は起きてしまったのだけれど。
肩に担いだ大きな袋を床に置く。口を縛る長いリボンを解き、中に手を入れる。もう残り少なくなったプレゼントの海から目的の物を取り出す。なめらかな手に握られているのは、深緑の箱だった。細長いそれの頭には、真紅のリボンが蝶々結びで巻いてある。クリスマスをよく表した彩りをしていた。
「はい、クリスマスプレゼント。寝てない悪い子だけど、特別にあげるわ」
ふん、と鼻を慣らし、グレイスはこちらを見下ろす始果の胸に緑を押しつける。普段は手甲に包まれている硬い指が、柔らかな手ごと箱を包み込んだ。びくん、と少女は思わず小さく跳ねる。急いで指を離し、プレゼントと大きな手から逃げた。
「開けてもいいですか?」
「……いいけど」
少年の問いに、小さな了承の言葉が返される。節が目立つ手が、シックな色合いをしたリボンと包み紙を解いていく。彼にとっては少し小さめのそれに触れる手つきは丁寧でどこか愛おしげなものだ。開けたところでこんな闇の中見えるのだろうか、と些末な疑問が湧き出る。妙に夜目がきくから見えるのだろう、と一人結論づけた。
壊れ物を扱うかのように、忍の少年は緑に包まれていた白い箱の蓋をゆっくりと開ける。中から現れたのは、紙の緩衝材の中横たわる瓶だった。透明で厚いそれは、たっぷりの液体とピンクで満たされている。薄闇の中でも鮮やかな色合いは存在感を放っていた。
「……花ですか?」
「ハーバリウムよ」
はーばりうむ、と狐は復唱する。予想通りの反応に、知らないわよねぇ、とこぼしてトンと瓶を突いた。
「保存のきく花よ。あんたの部屋、殺風景すぎるのよ。飾っときなさい」
忍の少年は物への執着が全くと言っていいほど無い。彼が身を寄せる寄宿舎の一室は、備え付けの家具と己が持ち込んだクッションしかないのがそれをよく表していた。殺風景という言葉では足りないほどの様相である。少しぐらいは日常に彩りを求めるべきだ。
それに、彼が躑躅咲く植え込みを眺めている姿を学内で何度か見かけた。きっと花が好きなのだろう。だから、鮮やかなピンクの花が詰め込まれたこれを選んだのだ。
はい、と呟くような声で応え、始果は瓶に指を滑らせる。彼の背から差し込む月光を受け、透明なガラスがほのかに輝いた。
「……まぁ、安いやつだからそんなに日持ちしないけど」
保存がきく、と言ったものの、ハーバリウムの寿命はあまり長くない。安物ならば尚更だ。本当ならばよくもつ良い物を選びたかったのだが、学生の身でありナビゲーターとして日々活動する己の財布事情はいいとは言い難い。アルバイトをしたものの、四人分ともなると保存期間が長い上等なものを選ぶのは難しかった。結局、少しチープなもので済ませてしまったのは悔しいことである。
少女の言葉に、少年は首を傾げる。薄闇の中、月光を背にした顔はきょとりとしていた。
「はーばりうむには値段が関係あるのですか?」
「あるでしょ。高い物の方が綺麗だし保存がきくもの」
「そうなのですか……」
とっても綺麗なのに、と狐は呟く。高いのはもっと綺麗よ、と躑躅は思わず返す。言葉にすると、やはり後悔が胸を襲う。音にならない唸りが細い喉から漏れた。
くるりと振り返り、忍は窓辺へと向かう。カーテンが開け放たれたまま、月明かりを部屋に注ぎ込むそれの脇、備え付けのシンプルな机にガラス瓶をそっと置いた。差し込む柔らかな光を受け、花弁の色が薄く滲む影が木製の天板に落ちた。
「大切にしますね」
「そうよ。ちゃんと飾っときなさいよ」
ふわりと笑う始果に、グレイスは呆れたように返す。はい、と優しい響きをした声が二人きりの部屋に落ちた。
脇に置いた大袋の口を縛り直し、少女は白いそれを肩に担ぐ。中身はだいぶ減ったものの、あまり力の無い己の身体には少しの負担を感じる重さをしていた。ふぅ、と思わず疲労が滲む溜め息を漏らした。
「じゃ、もう寝なさいよ」
「……グレイスはまだ寝ないのですか?」
「レイシスの部屋に寄ってから寝るわ」
一日かけたサンタの役目はまだ残っている。最後にクリスマスやサンタクロースを教えてくれた――そして、己にとって初めてのサンタクロースになってくれたレイシスの元にプレゼントを届けねばならない。彼女はいつも、特に妹のように接してくる己に対しては与える側にばかり回っている。たまには与えられる側に回るべきである。何より、お返しがしたいのだ。あの喜びに溢れた日をもたらしてくれた姉に。
そうですか、と少年はこぼす。どこか不満げな音色をしているように聞こえた。彼は少し過保護なきらいがある。こんな遅くまで起きているのが気に入らないのだろうか。それはお互い様だというのに。
「おやすみ。ちゃんと寝なさいよ」
「はい。おやすみなさい」
ひらひらと手を振り、躑躅は部屋を出る。冷えた冬の空気が剥き出しになった肩を撫でた。小さく震え、少女は歩き出す。ポケットに手を入れ、中に合鍵が入っていることを今一度確認しつつ廊下を進んだ。
サンタクロースの夜はもう少しだけ続く。
畳む
諸々掌編まとめ8【スプラトゥーン】
諸々掌編まとめ8【スプラトゥーン】色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。全員名前なんて無いのでなんかそれっぽい感じで想像してね。
成分表示:インクリング4/オクトリング+インクリング3/インクリング←オクトリング/新3号+コジャケ
二文字目なんて押せなくて/インクリング
「そらっ!」
声とともに、隣に並んだ友人の身体が揺れる。うわっ、と声をあげてたたらを踏んだ彼は、すぐさま振り返って叫んだ。
「お前、またやっただろ!」
「何にもしてねーけど?」
「嘘つけ! 絶対押しただろ!」
キッと睨みつける友人に、ケラケラと笑う少年は手にしたジムワイパーを後ろ手にして背で隠す。身の丈ほどもあるそれを隠せるはずなどなく、友人は更に目を鋭く眇めた。あーもう、と苛立ちを隠すことなく声をあげ、彼は首だけで振り返りこちらを向く。眉根はくっついてしまいそうなほど寄せられていた。
「ぜってー『バ』って押してあるだろ」
「押してあるね」
クソが、と吐き捨て、友人はロッカーへと走っていく。乱暴に開けて閉めた彼の手には、ジムワイパーが握られていた。お前ふざけんなよ、と叫ぶ友人と、気付かねー方が悪いんだよ、と笑う少年はロビーの外へと消えていった。
近頃、己の周りではジムワイパーが流行っていた。ブキとしてではない、いたずらの道具としてだ。
回転するハンコであるジムワイパーには、もちろん字が刻まれている。バトルでは自動的に回転する部分だが、付け根にあるダイアルを手動で回すこともできるのだ。つまり、任意の文字を指定することができる。例えば『バ』とか、『カ』とか。
いたずら盛りである己たちの周りでそれを悪用する者が出ないはずがなかった。皆こぞってカンブリアームズに押しかけ、ジムワイパーを手に入れ、背に、頬に、頭に印を押して遊ぶ日々だ。バトルで使っている様子を全くと言っていいほど見かけないのだから、本当にいたずらの道具としてしか見なされていない。ブキチに申し訳ないなぁ、と鈍色に輝く手元のそれを見下ろして考えた。
「隙ありっ!」
元気な声とともに背中に衝撃。うわっ、と声をあげ、どうにか踏ん張って倒れないようにする。くるりと振り返れば、そこには予想通りジムワイパーを肩に担いだクラスメイトの姿があった。
「何押したんだよ」
「ひみつー」
はぁ、と溜め息を吐いて問うが、ろくな答えなど返ってこない。友人唯一のジムワイパー使いは、口元を隠してにひひと笑った。
「どうせ『ア』あたりでしょ」
「さぁ?」
唇を尖らせて答え合わせをしようとする。予想通り、とぼけた声と笑い顔が返ってきただけだった。
ぐっ、と身をよじり、背中を見ようとする。うっすらとインクが滲んでいるのは視界に入ったが、肝心の文字は見えない。脱いで確認するしかないだろう。
チャ、と構える音。急いで体勢を戻せば、そこには再びジムワイパーを構えた友人の姿があった。後ろにステップを踏んで距離を取る。逃げるんだ、と友人は意地の悪い声で問うてくる。いたずらされるの嫌だし、と返し、こちらもジムワイパーを構える。随分と前に試合は終わり、互いにインクの補填は十分。少し『遊ぶ』ぐらいはできるはずだ。
ダン、と踏み込む音。先に出たのは友人だった。ギアの効果だろうか、凄まじいスピードで距離を詰めてくるその身を横に二歩ずれて躱す。そのまま構え、銀の巨体を横に振る。あちらも一歩下がって避けた。
踏み込んで、下がって、振って、躱して。二人踊るようにブキを操る。いたずらとは違う高揚感が胸を染めていく。やっぱり、いたずらよりバトルがいい。互いに自然と綻ぶ口元を隠すことなく己の体躯ほどもある鈍色を振るった。
トン、タン、ダン。軽やかなステップの音がロッカールームに響く。身を捩った瞬間、視界から影が消える。背後を取られたのだ。眉を寄せ、急いで振り返る。そこには、今にも剣先を押しつけんとする友人の姿があった。
踏み込もうとした瞬間、目の前の銀が下ろされる。後退り距離を取るが、距離を詰める様子はない。訳の分からぬ状況に目をぱちくりとさせていると、友人はそのまま伸びをする。くるりと振り返って真っ白な背を見せた。
「疲れたし帰るわ。……あとで答え合わせするといいよ」
じゃーね、と手を振って友人はロッカールームを出て行く。駆け足気味のその背は、透明な自動ドアをくぐり抜けてすぐロビーの出口へと消えた。
取り残され、ぱちりと瞬きをする。答え合わせねぇ、と一人ぼやき、ブキをロッカーに片付けた。半袖のシャツから腕を抜き取り、ぐるりと回して背面を身体の前へと持ってくる。予想通り、そこにはインクが滲んでいた。
「……『ス』?」
しかし、押されていた文字は予想外のものだった。大抵の友人は『バカ』とか『アホ』とか子供じみた悪口の言葉を押していく。『ス』なんてものは初めてだ。
ス、と口の中で呟く。『ス』から始まる悪口なんてあっただろうか。頭の引き出しをひたすらに開けていく。気付けば、ス、ス、とブツブツと呟いてしまっていた。
「……『スカ』?」
思いついたのはそんな言葉ぐらいだ。罵倒とは言い難いが、十二分にマイナスイメージのある言葉である。それを押そうとした意図は全くもって分からないけど。
洗濯しなきゃなぁ、と気怠げに漏らしながらシャツを元の通りに着直す。ロッカーに入れっぱなしのパーカーを取り出し、簡単に羽織った。今日はもう帰ろう。こんな文字を押されたままバトルに向かうのは気が進まない。ギアを変えるのも面倒だ。どちらにせよ、早く落とすに限る。
手を振り去っていった友人の背が思い返される。あいつ、と頭の中で小さく吐き捨てる。明日はこちらから仕掛けてやろう。他の友人らと同じものでは芸が無い。真意は分からずとも奇を衒ってきたあの友人にも対抗したい。何か短くて愉快な言葉を探しておかなければ。
パーカーの下、頭に焼き付くあの一文字のことを考えながら、ロッカールームを出た。
全ては無意識で無自覚で/オクトリング+インクリング
「おばちゃん! イカダッシュアップルひとつ!」
「アゲアゲバサミサンド一つお願いします」
元気な声と落ち着いた声に、あいよぉ、と穏やかな声が返される。しばしして、紙袋に包まれたサンドとビニール袋に入れられたジュースが大きな手にそれぞれ渡された。
「いっつもそれ飲んでるな」
「ギア作りたいからね。君こそいっつもそれ食べてるね」
「カネ無いからな」
バイトやればいいのに。あそこ殺気立ってて嫌なんだよ。分かる。軽口を交わしながら、少年と少女はそれぞれの食べ物に口を付ける。チュゥ、と可愛らしい音。バリン、と豪快な音。あれほど賑やかだった二人の空間は、咀嚼音だけになってしまった。
少年は丁寧に下処理された有頭エビにかぶりつく。バキン、ボキン、と固い殻を鋭い牙で噛み砕いていく。食べ慣れた、否、食べ飽きた味だが、不味いわけではない。食事のスピードは上がるばかりだ。大きな口と成長期の食欲によって、あれだけ巨大なサンドはあっという間に姿を消した。ごちそうさまでした、と呟きつつ少年は包み紙を丁寧に畳んだ。
ミッ、と短い悲鳴があがる。次いで、びちゃ、と何かが床を打つ音。耳慣れたそれに、少年は眉を寄せる。口を拭っていた紙ナプキンを手早く畳み、音の方へと視線をやる。そこには、予想通り繭を八の字に下げた少女の姿があった。
「またこぼしたのか……」
「……慣れないんだもん」
ミィ、と少女は鳴き声をあげる。少年は引き結んだ口元をほどき、はぁ、と溜め息を吐いた。
彼女は食べるのがとても下手くそだ。サンドを食べれば中身をこぼし、ジュースを飲めば逆流させてストローから噴射させる始末である。おそらく、力の入れ方が悪いのだろう。それにしても下手くそだが。
あぁもう、とまた溜め息。少年はポケットに手を入れた。取り出したのは、シンプルな青いタオルハンカチだ。洗濯され清潔なそれを、少女の口元へと伸ばした。
「また口の周りベトベトじゃないか」
うー、と小さな呻り声を上げながら、少女はされるがままに口を拭かれる。垂れる雫を丁寧に拭い、水分と砂糖のねばつきを取り除いていく。最後にぐぃ、と強く拭い取り、少年は汚れたハンカチを手早く畳む。
「いつになったらこぼさず飲めるようになるんだ」
「注意はしてるんだよ? でもこぼしちゃうんだよねぇ」
なんでだろ、と少女は手にした袋を眺める。赤いイカのラベルが貼られたそれは、中身が三分の一程まで減っていた。もちろん、それほど飲んだのではないことは明らかだ。
彼女との付き合いはかれこれ半年ほどなる。この店で食事を共にしたことなど、両の手足の指ではとうに数えられなくなったほどだ。だというのに毎回こぼしているのだから呆れたものである。
「まぁ、君が拭いてくれるしいいんじゃない?」
「すぐ人に頼るんじゃない」
にへらと笑う少女に、少年は眉根を寄せる。常に二人揃っているわけではないのだ。他人に頼り切りの現状は非常に良くないことである。いい加減独り立ちしてほしいものだが、と子どもらしくもないことを考えた。
「え? でも私ハンカチ持ってるよ?」
ほら、と少女はハーフパンツのポケットからなにかを取り出す。ベージュ色の小ぶりなタオル、つまりはハンカチである。予想だにしていないものの登場に、少年は目をぱちくりと瞬かせた。
「持ってるなら自分で拭けばいいだろう」
「いつも拭く前に君が拭いてくれるんだもん。使う暇無いよ」
きょとりとした顔で返す彼女に、少年の目がまたぱちりと瞬く。つまり、彼女が自分で処理する前に自分が拭いてしまっているのだ。それが当たり前のように。当然のように。事実に、まだ丸い頬にさっと朱が散った。
「……今度からは自分で拭けよ」
ふぃと目を逸らし、少年はぶっきらぼうに言う。はーい、と気の抜けた返事が返された。
ジュゴォ、と残り少ないジュースが飲み干される音が人の少ないロビーに響いた。
フィストバンプは辺りをきちんと確認してから行いましょう/インクリング
Sizzle SeasonPVネタ。6/30未明に書いたものなので実際の条件とは色々違う。
パァン、と軽快な破裂音が響き渡る。ブチ模様の審判が掲げた旗は、己が勝利者の一人であることを示していた。
得物をくるりと回し、少女は薄く笑みを浮かべる。勝利とは何よりも輝かしいものだ。それが〇・一パーセント差の大接戦の末に手に入れたものであるなら尚更だ。
軽快な音楽が鳴り響く。勝利者たちを讃える音色だ。瞬きの後、少女はすっと腰を低く下ろす。両の指に二丁拳銃をはめ、器用な手さばきでくるくると回した。勝利の際に必ず見せる、お気に入りのポーズだ。真っ赤な相棒にはこのポーズが一番映えるのだ。
正面を向いたまま、小さく横へと目を向ける。頭半分上にあるつぶらな瞳と視線がかちあった。レンズの奥にある青い瞳はらんらんと輝いている。まだ試合の興奮が抜けきらない様子である。きっと、小さな青に映る己もそうだ。そう簡単に身体が高ぶりを忘れるはずがないのだから。
すぐ隣、カラフルなギアに包まれた腕がすっと上がる。握り掲げられた大きな拳に、少女は小さく笑みを漏らした。
隣に立つ彼は、試合中塗りとサポートに徹していた。おかげで、安心して前線に立つことができたのだ。敵を倒した数は己が頭一つ抜けているが、塗りに関しては彼が断トツだ。ナワバリバトルという塗ることを重視するルールでは、彼の貢献は凄まじいものであった。
相棒を回す速度を上げる。勢いづいたそれから指を抜き、宙へと高く放り投げた。すぐさま拳を握り、隣の拳へと伸ばす。大きな手と手がこつりと合わせられた。興奮冷めやらぬ二対の目が不敵に細められた。
ヒュ、と風を切る音。高くに飛ばした相棒が戻ってきたのだろう。手を上に向け、人差し指を立てる。落ちてきた赤へと華麗に指を通す――はずだった。
ゴン、と鈍い音が上がる。続けて、小さな呻き声。ガシャン、と金属が地に打ち付けられる音が響いた。
オレンジの瞳がパチリと瞬く。この指に感じるはずの相棒の重みはどこにもない。嫌な予感に唇を引き結びながら、少女は視線を下へと向ける。そこには、愛銃であるデュアルスイーパーの片割れが転がっていた。また瞬き、そろそろと視線を上げる。向けた横側には、頭を抱え身を縮こませる少年の姿があった。
全てのピースがはまる。それもとてつもなく嫌な形に。
「いってぇ……」
「ごっ、ごめん!」
呻く少年に、少女は急いで謝る。慌てふためきわーわーと声を上げ、つっかえながら何度も謝罪の言葉を繰り返す。しばしして顔を上げた少年、その胸元が視界に入る。ビビッドな色をしたギアのど真ん中には、鮮やかなシアンが散っていた。模様ではない、インクだ。それも、自分の髪色と全く同じ色をした。
少女は再び悲鳴を上げる。愛銃を直撃させた上に、ギアまで汚してしまったのだ。焦燥と後悔に声を上げてしまうのは仕方がないことだろう。
「ごっ、ごめ……、ごめん……、あっ、クリーニング代!」
「いやいい……大丈夫だから……」
あわあわと焦り混乱に陥った少女を、少年は手で制す。浮かべたのは苦笑だ。輝く瞳からは高ぶりはすっかり抜け落ち、代わりに薄く潤みを孕んでいた。何によるものかなど明白だ。それがまた、小さな心に焦燥を招いた。
「ていうか俺らのインクはすぐ消えるだろ。クリーニングとかしなくて平気だって」
「そっ、そっか……そうだね……」
落ち着いた様子で頭を掻く少年に、少女はしょんぼりと項垂れる。己は加害者だ、本当は目を合わせて話し、謝らねばならない。けれども、上げるべき視線は地へ吸い寄せられてしまっていた。申し訳無さと恥ずかしさが心の全てを支配し、合理的な行動を阻害しているのだ。
明るい音楽が鳴り止む。一瞬しんと音を失った空間に、気まずさばかりが漂った。普段なら浮ついた調子でロビーへと向かう足は、地に縫い付けられたかのように動かなかい。こんな状況で動けるはずなどない。
「まぁ、次からは気をつけなよ」
「はい……」
ひらひらと手を振る少年に、少女は呟くような声で返す。勝利の高揚など全て吹っ飛んでしまった。あるのは後悔ばかりだ。調子に乗ってこんな馬鹿げた事故を引き起こしてしまったのだから無理はない。自業自得である。分かっているからこそ、苦しくて仕方がなかった。
とぼとぼとした足取りでロビーへと向かう。そのまま、慣れた手つきでバトルへのエントリーを済ませた。
ハッと顔を上げ、少女は青い顔をする。本当ならば帰って反省すべきであろう。しかし、手癖で試合を続けることを選んでしまった。あまりにもうかつな行動に、少女はしょぼくれた声を上げた。
エントリー取り消し受付時間はとうに過ぎている。勝手に帰っては迷惑をかけてしまう。もう始めるしかないのだ。小さく泣き声を漏らし、少女はスポナーへと向かう。バトルステージに向かうため、愛用のそれの前に立つ。タン、と靴が床を打つ軽い音が聞こえた。
あ、と小さく声が上がる。聞き覚えのある――ついさっき聞いたばかりの音色に、少女は急いで顔を上げる。そこには、カラフルなギアと黒縁眼鏡で身体を彩る少年の姿があった。数分前に愛銃をぶつけた、インクを浴びせた、その姿が。
剥き出しの肩がビクンと跳ねる。ミッ、と少女は悲鳴めいた声を上げた。それはそうだ、つい先ほど迷惑をかけた相手に再会したのだ。心は揺れ動き、身体を強張らせるだろう。
眼鏡の奥の瞳がふっと細められる。少し苦味がにじむ笑みが、己を射抜いた。
「次は気をつけなよ」
「わっ、分かってるよ!」
茶化すような声に、少女は大きく声を上げる。ごめん、としょげた声でまた謝る。いいって、と少年はまた笑った。すっと笑みが解け、青い瞳が鋭さを宿す。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「勝つぞ。んで、さっきのリベンジな」
「……うん!」
勝ち気な言葉に、少女は元気よく応える。勝利への意気込みを表すかのように、赤い二丁拳銃がぎゅっと握られた。
ずぼらさんと世話焼きさんと安らぎと/インクリング+オクトリング
ピンポーン。どこか間の抜けた音が陽が注ぐ廊下に響く。開いてるよー、と目の前のドアの奥から大きな声が聞こえた。いつも通りの反応に、少女は小さく息を漏らす。年季の入ったノブに手をかけ回すと、言葉通り扉は容易に開いた。
「ちゃんと鍵掛けないと危ないって言ってるでしょ」
「だいじょぶだよ。防犯カメラあるって大家さん言ってたし」
「それは何かあった後に活躍するものでしょ」
悪びれる様子もなくケラケラと笑うインクリングに、オクトリングは深い溜め息を吐く。女の子の一人暮らしで鍵を掛けないなど無防備どころの話ではない。事件が起こってからでは遅いのだ。
鍵とチェーンを掛け、少女は靴を脱いで部屋にあがる。室内は相変わらずの惨状だった。レジ袋にペットボトル、通販サイトの段ボール、脱ぎ散らかした服の山。大層な散らかり具合だ。これでは空き巣が入っても気づくことなどできないだろう。
この間片付けたのにこの有様である。維持できるとは毛頭思っていなかったものの、いざ現実を突きつけられると気分は下降していく。形のいい眉が苦々しげに寄せられた。
「ちゃんと片付けなよ」
「片付けてるよ? ただ、昨日ちょーっと散らかしちゃっただけだよ?」
呆れるオクトリングに、インクリングはとぼけた調子で返す。まあるい目はこちらには向けられず、宙をウロウロと泳いでいた。明らかに嘘である。一日でここまで散らかせたらもはや天才だ。
「あっ! そうだ! なんと! なんとですね!」
少女は大声をあげる。何だ、と眇目で見やる。友人は、じゃーん、と大袈裟な効果音を口にしながら部屋の一角を指差した。
「洗濯ちゃんとしたんだよ! えらいでしょ!」
得意げに胸を張る少女に、呆れ返った視線が向けられる。賞賛の声を求める少女は、きょとりとした目で友人を見た。
「何で畳まないの?」
「え? 畳まなくても着れるでしょ?」
「効率が悪いよ。毎回この山掘って服着る気なの?」
「いつもそうだけど……」
インクリングは不可思議そうに首を傾げる。まるでそれが常識であるような口ぶりだ。実際、彼女の中ではそうなのだろう。世間はどうであれ。
はぁ、と何度目かの溜め息。洗濯物の山に近づき、すぐ隣に腰下ろす。正座した膝に山の頂上にあったタオルを取って置いた。そのまま流れるようにテキパキと畳んでいく。世話を焼くのはいつものことだ。いつもあってはならないことだけれど。
アイス食べるー、と友人は問う。食べる、と手を止めずに返した。パタパタと駆ける音が部屋に取り残された。
すぐ隣のキッチンから流れる物音を遠くで聞きながら、オクトリングは丁寧かつ手早く洗濯物を畳んでいく。さほど量のない山はすぐさま高度を失っていった。
最後の一つを手に取る。膝に広げると、かすかな違和感を覚えた。干したてにしてはあまりにも皺だらけだ。こころなしか、どこかしっとりとした手触りをしているように感じる。不可思議なそれを眼前に広げ、少女は首を傾げる。一拍、おそるおそる生地を鼻先に寄せた。
「汗くさ……」
鼻孔をくすぐる酸い臭いに、少女は顔をしかめる。彼女のことだ、きっと脱ぎ散らかした服の上に洗濯物を放り投げたのだろう。一枚だけ洗い忘れるのもまた彼女らしい。らしいが、不衛生だ。長い睫毛に縁取られた目が険しげに細められた。
汗臭さの奥にふわりと何かが香る。彼女の匂いだ。スキンシップをよく取りいつでもくっついてくる彼女の匂いだ。いつ脱いだか分からない服、汚れの塊から臭うものだというのに、心はどこか安らかな温度を覚える。一緒にいるだけで安心感を覚える彼女の匂いは、少女の心に刻み込まれていた。
しばしの沈黙。コクリと息を飲む。そのまま、オクトリングは再び服に顔を寄せた。すぅ、と鼻で小さく息を吸う。汗と彼女の匂いが混じり合った何とも言えない香りが少女の肺を満たした。
洗っていない服に顔で触れるなど不衛生だ。何より、他人の服の匂いを嗅ぐなど異常だ。けれども、安らぎを求め少女は小さく呼吸を続けた。
「おまたせー。イチゴでよかったよね?」
ガチャ、とドアが開く音。元気な声。友人の声。服の持ち主の声。引き戻された現実に、息が止まる。見られた。確実に見られた。人の服の匂いを嗅ぐ現場を。
「え? どしたの? なんか付いてた?」
「…………これ、洗ってないよ。汗臭い」
きょとりとした声をあげる友人へとぎこちなく振り返る。ほら、と努めて平静を装いながら服を渡した。受け取った彼女は先程の己と同じように鼻を寄せる。うわマジだ、と苦々しい声があがった。
「うわー、ごめん。ばっちぃよね」
「慣れちゃったよ。いいからアイスちょうだい。溶けちゃうでしょ」
棒アイスの袋を持つ友人に手を差し出す。心臓がバクバクとうるさく脈打つ。普段通りにできているだろうか。気づかれていないだろうか。緊張と不安が少女の胸を埋め尽くした。
ほい、とアイスを渡される。すぐに顔を逸らし、袋を開けた。ビニールが破れる音が小さく響いた。
「また洗濯しなきゃなー」
めんど、とこぼしながらインクリングは腰を下ろす。彼女もまた袋を開けた。黒い口にチョコレート色のアイスが消えていく。んー、と満足げな声があがった。
「あっ、洗濯物ありがとね」
「今度からは自分で畳んでね」
心音を押さえつけながら言う。はーい、と気の抜けた声が散らかった室内に落ちた。
三勝二敗/オクトリング+インクリング
ロビー端末にアイコンがいくつも表示される。大きな液晶画面には、バツ印の黒いマークが三つ並んでいた。すなわち昇格戦に失敗したということである。
ポップなフォントで書かれた『ウデマエキープ』の一文を前に、インクリングは崩折れる。床に膝と手をつき項垂れる姿は漫画めいたものだ。あまりにも大袈裟だが、本人はいたって真剣である。これほどまで激しく身体に表れるほど、少年の胸の内には苛烈な情が巻き起こっていた。
また負けた。また昇格に失敗した。認めたくない現実がバトルで疲れ切った脳味噌に響いていく。今週だけで四回は突きつけられた敗北に、少年はギリと歯を食いしばった。
「おつかれ」
崩れ落ちた身体に声がかけられる。緩慢に頭を上げ、強く細められた目が音の方へと向く。そこには、ジュースの袋を持ったオクトリングの姿があった。
「Sのままか」
「うるせぇ」
端末にでかでかと表示された昇格戦の結果を眺め、オクトリングは呟く。今一度突きつけられた事実に、地を這うような低く重い声が返された。もはや慣れきった反応を気にすることなく、少年はジュースを口にする。ジュゴ、と残り少ない液体が吸い上げられる音がした。
「一回休んだら」
「うるせぇよ。身体冷えんだろうが」
冷徹にも聞こえるほど冷静な声に、インクリングは苛立ちを隠すことなく吐き捨てる。疲れているのだ、休むのは正解の一つである。けれども、そこで身体が冷えてしまえばまたアップに時間を消費してしまう。昇格戦に挑む時間が減ってしまう。時間とは掛け替えのない財産だ。少なくとも、シーズンの終了を間近にした今の己にとっては。
そう、と短く返し、友人は空になったジュースの袋を手に売店へと向かう。そちらから声をかけておいてこれである。興味がないのであれば話しかける必要などないだろうに。他者の神経を逆撫でしたいのだろうか。疲れと悔しさで気が立った心は悪しき方向へと傾いていく。苛立ちを逃がすように、大きく溜め息を吐く。ガシガシと熱くなった頭を掻いた。
足音。紙が擦れる音。鼻先をかすめるソースと油の匂い。うっすらと伝わる熱。心地よいそれにつられ、胡乱な視線が上がっていく。目の前には、売店名物のアゲバサミサンドがあった。
「食べなよ」
「別にいらねぇし」
「腹減ってたら動けなくなるぞ」
唇を尖らせて言うと、正論がぶつけられた。ほら、とオクトリングは手にした袋を眼前に押し付ける。ぐ、と唸る喉。はぁ、と溜め息一つ。大きな手が差し出された袋を乱暴に奪った。
乱雑に包装を破り、中身を露出させる。生地からはみ出た大きなカニの爪にかじりつく。丁寧な下処理と調理をされたそれは、バキンと音をたてて噛み砕かれた。口内に塩気が、油気が広がっていく。バリボリと大口で噛み、ほとんど塊のまま飲み込む。胃が熱くなる感覚がした。
バキン。ボキン。ジャクン。ザクリ。硬い音がロビーに響く。少年は黙々と食べゆく。何戦も連続して戦った身体には、油分と塩分と肉と炭水化物がたっぷり詰め込まれたサンドがこれ以上なく美味に感じた。グゥ、と腹が鳴る。胃が痛みを覚える。そこでやっと己が随分と腹を空かせていたことに気付いた。
「カツサンドを食べて勝つ、三度。なんてね」
一心不乱にサンドを貪る身体がピタリと止まる。残り少なくなったフライから、大きな口が離される。は、と油でテカテカになった唇から、疑問符たっぷりの声が漏れ出た。
「願掛けってやつ」
表情の無い顔でオクトリングは言う。澄ましたそれは真剣に見える。けれども、発する言葉は冗談そのものだ。
眇め、インクリングは視線を泳がせる。何とも返しにくい言葉である。この友人は時たま真顔でよく分からないことを言うのだ。オクトリング特有の生真面目さ故か、はたまた彼の個性か。付き合いはそこそこになるが、その点に関しては未だに理解が追いついていない。
窮し、沈黙。しばしして、少年は無言で食事を再開した。余計なことを言って話がこじれたら面倒である。聞かなかったふりをするのが一番だ。
あ、と短い音。あー、とどこか後悔のにじむ音。なんだ、と視線だけ上げると、口元に指を添えたオクトリングが映った。
「それ、カツ入ってないや」
「…………なんなんだよぉ」
至極真面目な声に、至極情けない声が返される。本当にこの友人のことがよく分からない。理解するにはもっと時間がかかるだろう。理解できる確証などないが。
「まぁ、腹は膨れただろ?」
「おかげさまで」
あんがと、とインクリングはぶっきらぼうに言う。お粗末様、とオクトリングは涼し気な顔で応えた。
「腹ごなしに行ってきたら」
「おう」
短く返し、少年は包装紙をクシャクシャに丸める。握ったそれを、大きな手が回収する。丸いゴミは友人の手を離れ、放物線を描いてゴミ箱に吸われていった。カコン、と軽快な音が響く。
インクリングは地に置いたままだったブキを握る。黒と桃で彩られた相棒をぎゅっと握り直した。
腹は膨れた。疲れもほのかに消えた気がする。あれだけ気が立っていた頭も少し冷えた感覚がした。
いってらっしゃい。背に声。おう、と手を振り、インクリングはポットの中へと入る。自動扉が閉まり、ロビーに流れる音楽も友人の姿も消え失せた。
目を閉じ、ふぅ、と息を吐く。今一度開いた目には、輝きが戻っていた。貪欲に勝利を求める輝きが。
ぜってぇ勝つ。力強く呟き、少年は再びバトルへと身を投じた。
あなたのいろ、あなたの/インクリング←オクトリング
鍵を差し込み、回す。カシャン、と軽い音を耳にしながら、オクトリングは扉を開く。どうぞ、と中を示すと、おじゃましまーす、と元気な声が薄暗い廊下に飛び込んだ。
たまにはゲームしよ、とロッカールームで言われたのが一時間前。たまにはいいね、と返して二人電車に揺られて数十分。コンビニでお菓子を買い込んで、話しながらゆっくりと歩いて、今、自室に至る。
靴も揃えずに飛び込んでいった友人に苦笑を漏らしつつ、オクトリングは錠とチェーンを下ろす。靴を脱ぎ、ひっくり返ったスニーカーも一緒に揃えて綺麗に並べた。ぬるい廊下を裸足でぺたぺたと歩く。冷凍庫に買ったアイスを入れ、嵌められたガラス窓から明かりが漏れるドアを開けた。
「ごめん、今クーラー点ける――」
続く言葉は喉の奥に消えた。理由は簡単だ、見られたくない物がそこにあった。見られたくない物を抱えた友人の姿がそこにあった。
「クッション買ったんだねー」
イカ姿のインクリングを模したクッションを抱え、友人であるインクリングはニコニコと笑う。クッションと同じ色、真っ青な目は今は緩やかな弧を描いている。可愛いよねこれ、と漏らす声は弾んだものだ。
「あたしもおんなじの持ってるよ! お揃いだねー!」
「そ、う、なんだ」
ぎゅうとクッションを抱き締める友人を眺め、否、目を離すことができぬまま、少女は応える。どうにか絞り出した声は細く、言葉も不自然なほどつかえたものとなってしまった。
お揃い。それはそうだろう。だって、貴女の目の色を選んだのだから。
きっかけはたまたまだ。買い物に行った帰り道、たまたまファンシーショップの前を通り、たまたま特集コーナーが目に入り、たまたま陳列されたクッションが目に入り、たまたま彼女のことを思い出しただけだ。気が付いた時には、店員の声を背を受けショッパーを片手に店を出たところだった。
毎日友人――否、恋心を寄せる彼女を想い抱き締めたクッションが、今当人の手の中にある。ぎゅうぎゅうと抱き締められている。会話どころではなかった。悲鳴をあげてもおかしくないような状況だ。あまりにも想像し得ない風景に、声すら出ない状況だ。硬い表情をした少女は、ただただその場に立ち尽くすしかなかった。
早く奪わねば。早く隠さねば。いや、奪うなど不自然だ。けれども、ずっとあれを抱えられているなど。バレたら。バレてしまったら。
心臓が早鐘を打つ。喉が詰まる。口が渇く。炎天下のさなか歩いた後だというのに、身体がどんどんと冷えていく。もはや手にしたビニール袋を握り締めるだけで手いっぱいだった。脳のリソースは、ほとんどが現状を誤魔化すための計算に使われていた。
「ふっかふかだねー。あたしのはもう潰れちゃってるよ」
大事にしてるんだね、とインクリングは笑う。あまりにも純粋な笑顔に、言葉に、ひくりと喉がおかしく蠢いた。
好きな子を思って買った品だ、大切にしているのは当然である。見抜かれたのではないか。気付かれたのではないか。心拍数が上がっていく。袋を握った手はもう血の気を感じないほど冷えていた。
「やっぱお手入れしてるの?」
「……え? あ、えっと……、うん。ちょっと形を整えてあげたり、天気の良い日はお日様に当てたりしてるよ」
突然の問いかけに、少女はびくりと肩を揺らす。どうにか平静を装い答えると、やっぱマメだねー、と呑気な声が返ってきた。普段通りのそれを見るに、混乱に陥る己には違和感を抱いていないようだ。おそらく、己の感情にも気付いていない。よかった、とオクトリングは小さく息を吐く。ふかふかだー、とクッションを強く抱き締める友の姿に、わずかな安寧は吹っ飛んで消えた。
満足したのか、インクリングはクッションを軽く整えベッドにそっと置く。床に乱雑に置かれたビニール袋から、汗を掻いたペットボトルと大容量パックの菓子を取り出した。
「ゲームしよっ!」
「そう、だね。しよっか」
オクトリングはローテーブルに菓子とジュースを置く友人の下へと歩みを進める。五指は相変わらず温度を失っている。足元の感覚もどこか不安定に感じる。けれども、ここで立ち尽くしたままではあまりにも不自然だ。恋心の露呈を恐れる身体は、自然を装いながらどうにか動いた。
対戦ゲームに興じ、お菓子を食べ、また対戦ゲームで声をあげ、冷やしておいたアイスを食べ、協力ゲームで盛り上がり。共に過ごす時間は穏やかに、しかし確実にすぎて行く。気がつけば、窓の外は夕焼け空になっていた。
「大丈夫? そろそろ電車の時間じゃない?」
「あっ、ほんとだ。あっぶな、忘れてた」
言葉とともに時計に視線をやったインクリングは、声をあげて携帯ゲーム機をリュックサックに突っ込む。机上のゴミを空になったビニール袋に詰め、飲みかけのペットボトルを片手に少女は立ち上がる。ショルダーベルトに腕を通す動きは性急だ。そこまで慌てなくても大丈夫だよ、とオクトリングは小さく笑みを漏らす。ついね、と友人もまた笑みを返した。
「ありがとね。楽しかった!」
「こっちもありがとう。駅まで一緒に行っていい?」
「暑いからだいじょぶだよー。また明日ね!」
じゃ、と大きく手を上げ、彼女は部屋を出ていく。駆け足で追いつき、スニーカーを履く背を追い越してチェーンと鍵を開ける。ドアを開くと、蒸した熱気が部屋に雪崩れ込んできた。うわ、と二人同時に声をあげる。重なったそれに、笑みが二つ重なった。
「ばいばい! また明日!」
「また明日」
ブンブンと手を振って駆け行く友人の背を見送る。青色のリュックを担いだ背が消えるのを見送って、少女は踵を返す。錠とチェーンを下ろし、元に戻っただけなのに広く感じる玄関に靴を揃え、ぬるさを増した廊下を歩く。ドアを開け、クーラーで適温にされた部屋へと戻った。
はぁ、と大きく息を吐く。遊ぶのは楽しかった。二人きりで遊ぶのなんて久しぶりなのだから、尚更楽しかった。けれども、どうにもクッションの一件が鼓動を早めたままで止まらないのだ。生き物の生涯の拍動回数は決まっているという話を聞いたことがある。それが本当ならば、今日にでも死んでしまいそうなほどの勢いだ。
はぁ、とまた溜め息。重力に身を任せ、ベッドに倒れ込む。マットレスが軋む音と綿が身体を受け止める音が部屋に響いた。のろのろと手を伸ばし、インクリング型のクッションを掴む。そのまま、日頃の癖のまま、ぎゅうと抱きかかえた。
ふわりと何かが香る。知ってる香りが鼻腔をくすぐる。何だろう。いつものクッションなのに。何の匂いだろう。疲労で動きが鈍った頭で考える。この香り。安心する香り。いつもの香り。
彼女の香りだ。
気付いた瞬間、心臓はばくりと大きく脈動する。ドッ、ドッ、と鼓膜が破裂するかのような大きな音が耳のすぐそばで聞こえる。胸が痛い。頭が痛い。身体は異常を訴えているというのに、心はこれ以上無く熱いなにかに包まれていた。
そうだ、彼女がぎゅうぎゅうと抱きかかえていたからだ。あれだけ強く抱いていたのだから、一時的に匂いが移ってしまったのだ。種族由来の聡明なる思考が原因を突き止める頃には、少女の呼吸は浅くなっていた。過剰な拍動のせいもある。何より、高揚だ。片恋する相手の匂いなど、恋する心には劇薬だ。愛おしいそれを求めて、身体は勝手に動き出す。大好きな人を求めて、大好きな人の匂いを求めて、身体に取り込もうとする。
落ち着かねば。どうにか意識を動かし、はぁ、と大きく息を吐く。身体は反射的にはっ、と短く息を吸った。瞬間、彼女の香りが身体を包む。また拍動が速度を増したように感じた。
ダメなのに。離さなきゃ。こんなの、変態だ。頭がどれほど訴えようと、心と身体は動かない。愛しいあの子を求め、呼吸を繰り返すだけだ。はぁ、と息を吐く。クッションの生地が温度を灯す。すぅ、と息を吸う。恋寄せるあの子の匂いが心に火を灯す。
夕陽差し込む一人きりの部屋には、小さな呼吸音だけが満たされていた。
テイクアウトすればいいことに気付いたけどまた怒られた/新3号+コジャケ
notうちの新3号
うげぇ、と潰されたような聞き苦しい声が四畳半に響く。隣人への被害など欠片も考えられていない声量だ。仕方が無い、なにせ画面に映し出された数字はこの上なくグロテスクなものだったのだから。
ナマコフォンの液晶画面、開いた家計簿アプリを睨み、三号と呼ばれるインクリングは低い呻きをあげる。家賃は変更無し。電気代と水道代、ガス代はほぼ変動無し。先月の買い溜めのおかげで雑費は少ない。しかし、食費が凄惨だ。食費を記したタブには、己一人ならばゆうに二ヶ月は過ごせるほどの金額が表示されていた。入力ミスか、とレシートや使用履歴を辿るも、間違いらしきものは見当たらない。紛うこと無き現実だ。
眇目が液晶画面からフローリングへと向けられる。安物のラグの上には、床に垂れた長いゲソを食む生き物がいた。この間拾ったコジャケだ。砂漠で出会ったこの生物と暮らし始めたのは一ヶ月ほど前だっただろうか。海からやってきたであろうコジャケは、何故かジャンク品を嗅ぎ分けることに優れていた。これは便利だ、と上機嫌で連れて帰り、共に暮らす今に至る。
全ての原因はこいつにある。このちびっこい生き物は、食欲と胃の容量がおかしいのだ。食パンは一食で一斤、米ならば二合は食う。安いジャムや特売の納豆で誤魔化してはいるものの、消費速度はえげつない。こんなものを養っていては、エンゲル係数が急勾配になるのは必然である。
あぐあぐと開閉する尖った口からゲソを引っこ抜き、三号は唸る。どうにかして食費を浮かせなければならない。さもなくば家賃すら払えなくなってしまう。屋根の無い生活は勘弁だ。
飯、飯、と呟く。何か安くこいつの腹を存分に満足させるものはないか。何か、食い物は。しばしして、ウンウンと唸る声が止む。険しげな目元が、引き結ばれた口が綻び、大きく開かれる。これだ、とまたしても隣人関係を悪化させる大声が響いた。
部屋を引っ掻き回し始める主人の姿を、コジャケはぼんやりと眺めていた。
「何これ?」
広いロビーの片隅、ジュークボックスが設置されたコーナーに声が落ちる。黒で縁取られた丸い目の先には、『要らないフード食べます』と書かれたスケッチブックがあった。大判のそれの隣には見知った顔がいる。コジャケだ。特徴的な髪型からして、街なかでよく見かける子だろう。普段は街のそこかしこに鎮座しているこの生物が、何故ロビーにいるのだろう。丸い頭が傾いだ。
「どした?」
「なんか、ご飯食べるって」
鮮やかな色彩のマキアミロールを片手に少年が問う。少女が指差す先を眺め、彼もまた首を傾げた。
「要らない飯って――」
理解できない、とばかりに呆れた声が途切れる。ぴょこぴょこと身体を揺らすコジャケに向けられた視線が、手にしたフードへと移る。ふぅん、と感心したような声。次いで、ほれ、と愉快げな声。間抜けに開いた尖った口に、マキアミロールが差し込まれた。
身体に対して大振りな口が、長いそれをしかと受け止める。そのまま顔を上げ、ストンと丸呑みにした。何とも形容しがたい声があがる。言語として理解できないものの、確かな喜色を浮かべたものだった。
「おもしれー」
「いいのかなぁ」
「いいんじゃね? もっと持ってこよ」
おばちゃん、マキアミロール五個ちょーだい。元気な声をあげ、少年はロッカールーム横のカウンターへと走っていく。いいのかなぁ、と不安げな声が落ちた。
「……ちゃんと噛まなきゃだめだよ?」
小首を傾げて咎める少女に、鳥にも蛙にも似た声が返された。
ロビー二階、手すりにもたれかかり少女はロビーを見下ろす。ジュークボックスの隣、ベンチの上には変わらずコジャケがいた。丸い身体はこころなしか膨れて見える。飯を食った証拠だ。つまり、作戦は功を奏したのだ。
バトルに赴く少年少女たちは、フードチケットを持て余していることが多い。特に、マキアミロールの交換チケットはゴミ箱に捨てようとする者すら出てくるほどだ。つまり、処分に困っている者がいる。食べ物の処分に。
準備は簡単だった。部屋に埋もれていたスケッチブックに文章を書いて、コジャケとともにロビーに置く。たったそれだけであの大食らいの食費を浮かせられるのだから最高だ。にひ、と上機嫌な笑みが漏れた。
「お嬢ちゃん」
頭上から声。聞き慣れた声。襲い来る嫌な予感。
三号はおそるおそる顔を上げる。そこには、売店で働く女性がいた。大きな顔には普段見せる温厚な笑みは無い。あるのは明らかな怒りだ。
「あれ置いたの、お嬢ちゃんだね?」
「え? あ……、はい……」
「困るんだよねぇ。皆面白がって食べさせるんだよ」
はぁ、と女性は嘆息する。苛立ちと悲哀が見える音色をしていた。それが目的です、なんて到底言えるはずのない雰囲気が少女の身を包んでいた。
「ああいうの、良くないよ。やめなね」
「はい……」
むすりと咎める女性に、三号はしおらしく答える。ここで反発することなどできない。最悪通報され、ロビーを出禁にされてしまう。そんなことになっては、収入源の一つであるバトルに参加できなくなってしまう。火の車になった家計のために日々奔走する少女にとっては、何としてでも回避すべきものだ。
とぼとぼと階段を降り、コジャケの元へと向かう。元凶は相変わらずとぼけた顔をしていた。帰るよ、と三号は小さな身体を抱き上げる。表現しがたい鳴き声が返された。
食費どうしよ。悲嘆に満ちた声がロビーの片隅に落ちた。
まじょのうわさ/インクリング
フォト機能で撮った写真に小説をつける試みをした時のもの。写真は割愛。エンチャント一式可愛いよね。
イカ、タコ、クラゲ。夕暮れの駅前には常に様々な種族が行き交っている。ホームへと向かう駆け足の音、談笑する声、ナマコフォンのシャッター音。溢れる音色も様々だ。
低い階段に腰を下ろし、少女は道行く者たちを眺める。流れる集団に向けられた瞳は険しげだ。はぁ、と嘆息が落ちる。駅の利用者だけでも大概なものだというのに、ロビーを利用する若者たちまでたむろしているのだから更に酷い。ゴミゴミ、という表現はこのような光景のためにあるのではないか。そう考えてしまうほどの有様だった。
本当ならばこんなところになどいたくない。ロビーのロッカールームにでもいる方が快適だ。けれど、そんな選択肢など存在しない。今の己には、ここぐらいしか居場所がないのだ。はぁ、とまた溜め息。重いそれは雑踏に紛れて消えた。
「ねぇねぇ」
隣から声。きっとイカッチャに向かう者たちが話しているのだろう。仲の良いことだ、吐き気がするほどに。はっ、と少女は大袈裟なほどに鼻を鳴らす。まろい頬が突いた手に押しつけられ、柔らかで美しい形を崩した。
「ねぇってば!」
隣から声。今度は大声量、それも確実に己に向けられたものだった。何だ、と少女は音の方へと緩慢に顔を向ける。不機嫌そうに細まったイエローの瞳の先に、黒が映った。
「ねぇねぇ、『魔女』の噂って知ってる?」
声の主、インクリングはオレンジの長い髪を揺らして問うてくる。ニコニコと笑みを浮かべる幼い顔は可愛らしいと形容するに相応しいだろう。しかし、少女は依然険しい表情を崩さない。当たり前だ、いきなり知らぬ者に声を掛けてくる、それも『魔女の噂』なんて胡散臭いことを尋ねてくる輩にろくなやつなどいるはずがない。警戒心の高い少女にとって、目の前の存在は即座に警戒対象へと分類された。
「無視とかひどくない!? 聞いてよ!」
沈黙を保っていると、怪しいインクリングはミィミィと高い声で喚き始める。耳障りなそれに、少女はバイザーを被り直すふりをして顔を背ける。ねぇってば、と何度目かの追撃が少女の背にぶつけられた。
「……なに」
逸らした顔を戻し、見上げ、少女は低い声で短く問う。こんなものを放っておいては、面倒事が増えるだけだ。ただでさえここの管理者に良い顔をされていないというのに、騒ぎなど起こしては確実に追い出される。ここを失うのは困るのだ。
「だから、『魔女』の噂って知ってる?」
「知らない」
楽しげに問う朱髪のインクリングに、黄髪のインクリングは短く返す。もう関係無いとばかりに顔を逸らす。足音、そして視界が朱で染まる。あのね、と怪しい少女は丸い瞳を輝かせて話し出した。
「夜の駅に行くと魔女に会えるんだって! 『おいでおいで』ってしてくるの。でもね、声の方に行っちゃダメなんだよ。そのまま魔女の家に連れてかれちゃうんだって!」
怖いでしょー、と勿忘草の目が一心に見つめてくる。蒲公英の目が再び険しげに細められた。無視したいところだが、またうるさくなることぐらい容易に想像が付く。怖い怖い、と適当に返してやると、全然思ってないでしょ、とむくれた声が返ってきた。
「……まぁ、いいんじゃない。連れて行かれたいやつもいるでしょ」
はっ、と少女は笑う。険しげな表情は変わらぬまま、短く笑う。己を嘲り笑い飛ばす。
そう、自分のように。友達と喧嘩して、親とも喧嘩して、家にも街にも居場所が無い自分のような者は、ここではないどこか遠くに行ってしまいたい気分だ。たとえそれが『魔女』なんて空想上の存在によってでも。
そう、と短い声が落ちる。あまりにもあっさりとした反応に、少女は思わず顔を上げる。じゃあ、と楽しげな声が降ってくる。恐ろしさを覚えるほど、楽しげな声が。
「覚えておきなね、お嬢ちゃん」
ニコリとインクリングは笑う。黒いトップスは、夜闇のようなローブへと変貌している。飾り気の無い頭には、顔を覆うほど大ぶりなとんがり帽子があった。テンプレートなお化けのように手を垂らし、インクリングは笑う。鋭利な歯を見せつけるような、寒気を覚える笑みが向けられる。ただ一人、己だけに。
びくりと少女は身体を震わせる。何だ、こいつは。知らないやつだ。知らない存在だ。とても、同族とは思えない存在だ。背筋を撫でる何かが、凍るような笑顔を認識した脳味噌が警鐘を鳴らし始める。逃げなければ。バトルで鍛えた手足を動かし、少女は立ち上がった。
「……あれ?」
瞬間、視界から黒が消える。きょろきょろと辺りを見回しても、そこにあのインクリングの影は無い。いるのはイカ、タコ、クラゲ。見知らぬ者たちが行き交う姿だけだ。
呆然と少女は立ち尽くす。何だ。何だったんだ、今のは。夢なのだろうか。あんなにはっきりとしていたのに。あの声はこの耳にこびりついているというのに。本当に、夢なのか。突然の事象に、頭の中が疑問で引っ掻き回される。しばしの沈黙、また重い息が落ちた。
帰ろ、と呟き、少女は駅へと向かう。家には絶賛喧嘩中の親がいるのだから、本当ならば帰りたくなどない。けれども、あんなおかしな体験をしてここに居続けるのはなんだか恐ろしかった。己はこんなに怖がりだっただろうか。考え、日が暮れ始めた街を歩き、すぐ向かいの改札口へと向かう。ICカードをかざそうとしたところで、はたと動きが止まった。
「……あれ?」
萌黄の瞳が、改札から離れていく。視線が届いたのは、駅の脇、小さな通路だ。ビルと駅の間にあるそこには、人がいることなどない。何かがあることなどない。けれども、今日は何故だか妙にその場所に惹かれるのだ。
おいで。
小さく声が聞こえる。聞き慣れた声だ。聞き慣れぬ声だ。だというのに、足は勝手に動いていく。おいで。おいで。声に引かれ、少女は足を動かす。頭は行くなと喚き立てる。意識はダメだと騒ぎ立てる。だが、細い身体はどんどんと袋小路へと向かっていった。
「おいで」
テンプレートなお化けのように手を垂らし、黒い何かが言う。笑う。招く。一緒に来いと。
こくりと頷き、少女は歩みを進める。足取りは熱に浮かされたようにふらついていた。動きは何かに糸で手繰り寄せられているようにぎこちないものだった。頭は行くなと喚き立てる。意識はダメだと騒ぎ立てる。心は、声に鷲掴みされて惹かれてやまなかった――身体を勝手に動かすほどに。
いい子。
優しい声が少女の耳を撫でる。影が少女を包み込む。闇が少女を飲み込む。真っ黒な何かが、少女の手を取って引いた。
夜の小路には、もう誰もいなかった。
チョコミントアイスと青羽織/インクリング
23年7月開催のフェスネタ
舌の上を冷たさが流れていく。追従するように甘み、そして爽やかな風味が口いっぱいに広がった。少しばかり主張の大きなチョコレートを噛む。強い甘みとカカオの香りが口内で弾ける。ミントの風味と合わさったそれは、至福のものだ。残るチョコレートを舐め溶かしながら、もう一口。ミントの香りが鼻を抜けた。
「チョコミント?」
賑やかな音楽に混じって声。耳をくすぐるそれの方へとすぃと視線をやる。そこには、少女の姿があった。べっ甲でできた丸眼鏡の向こう側、大きな目は緩やかな弧を描いている。ニカリと開けられた口からは、鋭い牙が覗いている。美味しそうだね、と軽やかな声が投げかけられた。
少年はぱちりと目を瞬かせる。隣に立つ少女は、法被のようなものを羽織っていた。非常に珍しいことである。なにせ、今はフェス期間だ。何ヶ月かに一度あるこのお祭りでは、フェスTというギアを着用することが義務付けられている。あのコーディネートにうるさいフク屋ですらフェス期間中は着替えることを是としないほど徹底されたものである。そんな中、違う格好をしている者がいるなんて。何故今まで気づかなかったか疑問に思うほど異様な光景である。
「バニラなのに」
「色々あんだよ」
胸元を覗き込む少女はそう言って笑う。少年はむくれて返した。カップに入ったチョコミントアイスに、プラスチックスプーンが乱暴に刺さる。ぐっ、とすくってまた口の中に放り込んだ。
アイスといえば?
その問いには『チョコミント』以外に答えはない。もちろん、チョコミント派に投票し、大量のポイントを稼ぐ――はずだった。
バニラに投票してくれ。投票所で受付を済ませようとした矢先、友人が投票しようとする手を押さえてそう言ってきたのだ。曰く、『お前がいれば絶対に勝てる』と。
そんな曖昧な理由で投票先を変えるはずなどない。そもそも変えてはいけないのだ。きちんとテーマに沿った投票をし、全力で戦うのがフェスというものである。今回の己のように確固たる意志があるならば尚更だ。たかが他人に頼まれた程度で曲げることなどあり得ないのだ。
何度も否定し説き伏せたが、なおも友人は食い下がってきた。しまいには『タイマン勝負で勝ったらバニラ派になってくれ』と愛ブキを取り出したのだからどうしようもない。何がそこまで彼を動かすのか、全く理解ができないものである。
へぇ、と少女は興味深そうに呟く。羽織の下から覗くシャツは白い。きっと、バニラ派なのだろう。陣営としては味方だが、信念としては敵である。
「いいなぁ、チョコミント」
「買えばいいだろ」
手元の安っぽい紙カップを見つめ、少女は言う。庇うように体をひねり、物欲しげな視線からアイスを守った。そこで売ってんだろ、と少し遠くにある屋台をスプーンで指差す。眼鏡の奥の目がスプーンの先へと動き、また戻ってくる。夜の中、曖昧な笑みがネオンの下に照らし出された。
いいなぁ、と少女は呟く。何度目かのそれに、少年は目元を険しげに歪めた。怪しい。怪しいったらない。うっすらと持っていた疑念が、言葉が重ねられる度に強くなっていく。
インクリングは呑気で陽気な種族だ。見知らぬ他人に声をかけることなぞ造作ないだろう。しかし、今はフェス、夜の街である。こんな時に声をかけてくるような輩、しかもフェスらしからぬ格好をしている者を警戒するなという方が無理な話だ。
まぁいいや、と少女は陽気な声をあげる。くるりと回り、こちらへと身体を向けた。白い線が走る裾が、夜の空気を含んでふわりと舞った。
「フェス、楽しんでね」
またニカリと笑い、少女はひらひらと大きな手を振る。何だこいつ、と少年は依然険しげな目を瞬かせた。
「……あれ?」
瞬間、風景が変わる。法被を着た少女の姿が、まるで透明になったかのように無くなったのだ。あれ、と呟き、少年は辺りを見回す。アイスを食べるインクリング。オミコシを見上げるオクトリング。頭にサイリウムを刺したクラゲ。あの法被を着た少女の姿はどこにもなかった。まるで、彼女だけ世界から切り取られてしまったかのように。
おーい、と遠くから聞き馴染んだ声。呆然としたまま振り返ると、そこには駆け寄ってくる友人の姿があった。浅黒い肌はほのかに色付いた白のフェスTに包まれている。ヨビ祭開始直後から投票し、バトルにバトルを重ねてホラガイを集めていただけあって、もはや見慣れた姿だ。フェスが終わってしばらくはあのバニラ色のフクを着ていないことに違和感を覚えるのが容易に想像できる。それほどまで、彼は今回のフェスに注力していた。
「ごめんごめん、待たせたな」
「ほんとだよ。アイス奢れよ」
「バニラな」
「チョコミントに決まってんだろ」
軽口を叩きあいつつ、残ったアイスを口の中に放り込む。カップを傾け、溶けて液体になったそれも全て飲み込んだ。屋台横のゴミ箱にカップとスプーンを放り投げる。役目を果たした容器は、音楽に満ちた夜闇に消えた。
「なんかあった?」
「え? あぁ……、なんか話してきたやつがいてさ」
バニラ派っぽいんだけど、とこぼすと、ぽいって何だよ、と笑い声が返される。その通りだが、白いシャツは見えたものの柄までは確認していない。もしかしたら、まだ投票していなかった可能性もある。確実に勝利――という名のスーパーサザエを得るため、ヨビ祭結果発表まで投票しない者も稀にいるのだ。
「フェスT見なかったのか?」
「いや、法被着てて分かんなかった」
「法被?」
言葉に、友人は不可思議そうな声をあげる。訳が分からない、とばかりに吸盤が目立つ頭を大きく傾けた。つられるように少年も首を傾げる。疑問に満ちた視線が互いに向けられた。
「いや、フェス中はフェスT以外着たらダメってルールだろ。最初に説明されただろ?」
「……え?」
当然のように告げる友人に、少年は呆けた声を漏らす。そうだっけ、と疑問と動揺で満ち溢れた声が己の口からこぼれた。
急いで記憶の糸を辿っていく。確かに、投票の際は毎回『フェス中はフェスTを着用すること』と言われている。そこまで強いルールがあっただろうか。改めて辺りを見回す。道行く人々は皆一様にフェスTを着ていた。上着を羽織っているものなどいない。誰一人として。
「つーかこんなに暑いのに上着着るやつとかいないだろ」
「そう……だけど……」
呆れ返った様子で友人は言う。疑念に満ち満ちた声で少年は言う。祭の夜の片隅になんとも言えない空間が発生した。
まぁいいや。沈黙を破ったのは友人の方だった。日に焼けた手が己の手へと伸びる。しかと掴まれ、ぐいと引かれた。
「行こうぜ。ポイント稼ぎまくんねーと」
「あ、ぁ。うん」
ほらほら、と友人は急ぎ足で雑踏をかき分けていく。引かれるがままに、少年は足を動かした。
羽織を着た少女。フェスTを着ているか分からなかった少女。アイスを見るだけだった少女。煙のように消えた少女。
あれは一体何だったのだろう。夢か、現実か。
口の中に残る冷たさが、全てが現実であると語っていた。
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