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No.112

凍てつく君を引き上げて【氷雪+ニア+ノア】

凍てつく君を引き上げて【氷雪+ニア+ノア】
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ΩDimension4周年おめでとうございます!(大遅刻)
にかこつけた4年前Ω初登場時に練ったプロット救済。ずっと書きたかったけど完全に機会を見失ってたのでここで出しちゃう。
ボス曲のジャケットという大役を任された氷雪ちゃんとニアノアちゃんの話。

 長い柄杓がカタカタと音をたてて震える。細い柄を握る手は冬の空気よりも冷たく、積もる雪よりずっと透明な白に染まりきっていた。
 ボルテ学園、教室棟から少し離れた特別教室棟。その一室に位置する撮影ブースはまばゆい白に包まれていた。写真撮影用の大きなライトで照らされる明るい空間の片隅、機材の強い光が届かぬ物陰に座り込む小さな影が一つ。白と深青で彩られた衣装を纏い、ずり落ちてしまいそうなほど大きな帽子を被った少女――氷雪だ。
 凍えるように縮こまった華奢な身は、冬の海の冷たさを思い起こさせるような青白い衣装に包まれていた。常日頃彼女が身に着けている着物によく似たデザインだが、肩口には大きな切れ込みが入っており、そこから夜の海のような深い青が覗いている。白い布地には鮮やかな海色の細い線が走り縁取っていた。深海色の帯には赤く太い帯紐が結ばれている。髑髏と雪結晶を合わせたような帯留めが中央に輝いていた。
 厚い布地が重なって下半身を包むはずの裾は、大胆に開かれている。その中心を前垂れのような布が守っていた。左右に大きく割れた生地の隙間から覗く脚は、氷柱のように白く細い。影から顔を覗かせる深い青の襦袢とのコントラストが眩しかった。その白さを強調するように、赤い数珠とボロボロになった包帯が片足ずつに巻かれている。
 形の良い白い頭には、海賊帽が載せられている。黒地に金の髑髏マークと濁った赤の羽根で飾られたそれは、小柄な彼女の頭に対して随分と大きなものだ。背を丸め俯いた今の姿勢では、バランスを崩して床に落ちてしまいそうだった。
 寒さを堪えるように己の身を抱え震える彼女の姿は、この部屋において不自然なものだ。室内は滞りなく撮影作業ができるよう、空調が整えられている。むしろ、いくつも点けられた大型ライトの影響で暑さを覚えるほどだ。何より、『雪女』である彼女は人よりも寒さにずっと強い。このように寒さを凌ぐように震え縮こまるのは異常にすら映った。
 どうしよう。
 先ほど――特にこの衣装に着替えてから、氷雪の頭はその五文字で埋め尽くされていた。どうしよう。どうしよう。思わず口からこぼれ落ちそうになるが、可哀想なほど震える唇は音を形作ることができず細い呼気を漏らすだけだ。血の気が消え失せた真っ白な細い指が、まるで縋り付くように柄杓の柄を強く握った。
 ΩDimension――近日行われるアップデートで実装される新システム、およびそれに伴う楽曲追加があるという話は以前から耳にしていた。けれども、そのいくつもの楽曲たちを解禁した先に待ち構える楽曲――所謂『ボス曲』のジャケットを氷雪が担当するということを伝えられたのは、つい数週間前のことだった。
 数年ぶりの新システム、その第一弾を飾るということもあってか、用意された楽曲とエフェクトはどれも非常に難しいものである。しかも、それを専用の特殊ゲージでクリアするという厳しい解禁条件が設けられているのだ。かなり力が入った企画だということは誰が見ても分かる。
 その厳しい条件を全曲満たしてようやく挑戦できる――それもまだ片手で数えられるほどしか存在しない、レベル二〇の楽曲のジャケットを担当することなど、氷雪は欠片も考えていなかった。そもそも、自分がそのような大役を任されることなど想像すらしていなかったのだ。当たり前だ、彼女はそんな大それたことを考えるような性格ではないのだから。
 企画が伝えられた当初は全く実感が湧かず、どこか他人事のように思っていた。しかし、こうして撮影準備を進める内に、事の重大さがじわじわと少女の胸を苛み始めた。ついには、部屋の片隅で一人震えるほどの不安と恐怖が彼女にのしかかったのだった。
 何でわたしが。
 繰り返し湧いてくる疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡る。憂いと恐れに支配された思考は、それに対する明確な解を弾き出すことができない。できるはずなどなかった。
 今まで最高レベルの楽曲を飾ってきたのは、レイシスとマキシマが常だ。最近ではグレイスがその役割を担うことも増えているが、やはり多くはあの二人が務めている。そうでなくとも、古株である嬬武器の兄弟や紅刃、担当経験のあるニアとノアなど、自分よりもずっと相応しい者は大勢いるのだ。なのに、何で自分が――今まで低難易度の楽曲を主に担当してきた自分が今回抜擢されてしまったのか。何で。何で。どうして。疑問が頭を、心を巡り蝕んでいく。どれだけ考えようとも、答える者は今ここに存在しなかった。
 どうにか落ち着こう、と考え吐き出した息は酷く細い。無理に整えようとした呼吸は浅くなるばかりで、過呼吸を起こしてしまいそうな状態だ。少女がどれだけ努力しようとも、震えが止まる気配は無い。華奢な彼女の身体と思考は、答えの見つからない疑問と奥底から込み上げる不安に支配されていた。
 パキ、と高い音が空間に小さく響く。床に垂れた生地が凍り、音をたてたのだ。無意識に雪女の力が暴走している証拠だ。止めなきゃ、と頭に欠片だけ残った冷静な部分が言う。しかし、今の彼女に繊細なコントロールをすることなど不可能だ。パキパキと音が増えていく。室内の一角は真冬と変わらぬ温度まで下がっていっていた。
「あっ! 氷雪姉ちゃんだ!」
「氷雪姉ちゃーん!」
 重く凍る空気を全て吹き飛ばしてしまいそうなほど明るい声が、座り込んで震える少女の名をなぞる。快活な音色に、氷雪の細い肩がびくりと大きく跳ねた。ずっと白い床に縫い付けられていた視線がこわごわとした動きで上がり、音の方向へとゆっくりと移動する。怯えの浮かぶ翡翠の瞳に、柔らかに揺れる長い蒼が映し出された。
「ニ、ア、ちゃん。ノア、ちゃん」
 凍てついた細い喉が何とか紡ぎ出したのは、初等部に属する双子の兎の名だった。いつも元気に満ち溢れぴょんぴょんと飛び跳ねる彼女らは、今日も明るい笑顔を振りまいていた。少女の視線に気付き、兎たちは大きく手を振る。小さな手がぶんぶんと宙を往復する。
 普段ならば学園指定の白に青のセーラー服を身に着けている二人だが、今日は違う。小柄な身は、雲のように真っ白な袖の無いワンピースで彩られていた。
 シンプルなデザインながら、随所にあしらわれたフリルがボリューミーな印象を与える。たっぷりのフリルがあしらわれた胸元、その中央には瞬く星の輝きを模ったアクセサリーが存在を強く主張している。純白の布地はハイウエストで青いリボンによって絞られ、胸の下には金の刺繍が散る夜空色のリボンが垂れて揺れていた。トレードマークの青いリボンカチューシャは、今日は衣装と同じ白だ。兎耳がついたライムライトの靴は、白いリボンとファーが彩るサンダルに変わっている。背中からは、小鳥のような小さくふわふわとした羽が覗いていた。
「……天使さん、でしょうか?」
「そーだよ!」
「海賊の次は天使さんだよ!」
 無意識にこぼした声に、二人の少女は楽しげに応えた。どうかな、とニアはファッションショーのモデルのようにその場でくるりと回る。健康的な肌が透けるほど薄いワンピースの裾と胸元を彩る星模様の青いリボンが、陽光に照らされる花のように鮮やかに開いて舞った。
「え、ぇ。とっても似合っていますよ。かわいい、です」
 楽しげにはしゃぐ双子の姿に、不安で凍りついた少女の心にわずかに熱が灯る。安堵するかのように目をゆっくりと細め、氷雪は硬いながらも言葉を紡いだ。雪色の言葉に、青と白の天使はほんのりと頬を染め笑む。『可愛い』と褒めてもらえたのが嬉しいのだろう、えへへー、と面映ゆそうな笑声とともに紺碧の目が細められた。
「氷雪姉ちゃんもきれいだよ!」
「真っ白ですっごくきれいだよ」
 真っ白お揃いだね、と兎たちはきゃいきゃいと楽しげに声をあげる。新しい衣装と久しぶりのジャケット撮影に気分が高揚しているのだろう、頬は赤く染まり響く声も少し高い。一段と元気に見えた。
 双子兎のまっすぐな賞賛に、氷雪はありがとうございます、と礼を返す。しかしその声は未だ物音に掻き消されてしまうほど細いもので、どうにか微笑みを模ろうとした表情も強ばっていた。見るものに違和感を覚えさせる様相だ。
「……氷雪姉ちゃん、顔真っ白だよ?」
「大丈夫? 具合悪いの?」
 ようやく異変に気づいた双子が、不安げな声で問う。そういえば寒いもんね、と青兎は顔を見合わせる。気温低下の原因は目の前にいる少女なのだが、それには気づいていないようだ。
 眉を下げ心配そうに見つめる後輩の姿に、氷雪の肩がビクリと跳ねる。可哀想なほど怯えた動きだった。ぁ、ぅ、と小さな音が細い喉からこぼれ出る。
「い、いえ。ちょっと……緊張、して、しまって……」
 どうにか平静を取り繕うとするが、答える声は酷く震えていた。指摘された通り、顔色は良いなどとは到底言えないほど青白い。こんな様子では、不調と判断されるのも無理はないことだ。
 心配させてしまっている。困らせてしまっている。焦りが雪女の胸を巣食っていく。細い息を吐く唇は、もう色を失っていた。
「本当に大丈夫?」
「辛いならレイシス姉ちゃんに言ってくるよ?」
「だっ、だいじょうぶ、です。本当に、ただ緊張しているだけ……です、から……」
 だいじょうぶですよ、と雪色の少女は言う。何度も繰り返す言葉は、目の前の二人に伝えるというよりも、己に強く言い聞かせているように見えた。白耳の兎たちは不安げに顔を見合わせる。うーん、と小さな口から悩ましげな音が漏れ出、ハーモニーを奏でる。鏡合わせのように、小さな頭がことりと傾ぐ。昼空色の髪が音も無く揺れた。
「じゃっ、じゃあ」
 静まりかえった冷たい空間の中、声をあげたのはノアだった。姉に比べ少し気の弱いところがある彼女が大きな声を出すのは珍しいことだ。えっとね、えっとね、と呟きながら、ノアはきょとんとした様子の氷雪の前にしゃがみこむ。すぐ目の前、柄杓を握りしめる色を失った手に、己のそれを優しく重ねて包み込んだ。
「あのね、こうしてると安心するの」
 ね、ニアちゃん、と少女は姉を見る。妹の言葉に、ニアはぱちりと瞬く。うん、と元気に答えると、同じようにしゃがみこみ、氷雪と片割れの手に己のそれを重ねた。
「ノアがこわいなー、とか、きんちょうするなー、ってドキドキしてる時はね、いつもニアちゃんがこうやってくれるの」
「ニアも、ノアちゃんが手をぎゅーってしてくれると元気になるの! ノアちゃんの手、すっごくあったかくって安心するんだー」
「だから、氷雪姉ちゃんもこうしたらちょっとだけでも安心できないかな、って……」
 語るノアの声は次第に萎んでいき、丸い眉の端はどんどんと下がっていく。不安の色を浮かべた瑠璃が、天河石をじっと見上げる。大丈夫だろうか。少しでも助けになれないだろうか。迷惑ではないだろうか。幼い彼女のそんな心優しい気遣いが、氷雪には痛いほど伝わってきた。
「……ありがとう、ございます」
 色を失った唇が、二人の天使に礼の言葉を紡いで贈る。心なしか、強張っていた声はほんの少しだけ解けたように聞こえた。
 響きに反し、氷雪の心はどんどんと淀み沈んでいく。こんな小さな子に気を遣わせるなんて。迷惑をかけるだなんて。自己嫌悪がチクチクと胸を刺す。二人分の温かさに包まれているはずの彼女の手は、冷えるばかりだった。
「――なんで、わたしが」
 数え切れないほど繰り返した問いが、小さな口からこぼれ落ちる。数拍、無意識の失言に気づき、氷雪は不安色に染まった目をはっと見開く。青く凍りついた顔が、おそるおそる上げられる。見上げた先には、きょとんとした二対の青があった。降り始めの雪のように微かなそれは、兎の天使たちの耳に届いてしまったらしい。さぁ、と血の気が引いていくのが己でも分かる。常磐の瞳が急いで床へと向けられた。
「氷雪姉ちゃん?」
 心配げに問う兎たちの声に、雪女は可哀想なほど震える。聞かれてしまった。こんな情けない言葉を、こんな小さい子たちに聞かれてしまった。ピシ、と空間が再び冷たい音を鳴らした。
「氷雪姉ちゃん」
 ニアが少女の名を呼ぶ。白い着物に包まれた細い身が更に縮こまった。凍りついてしまったような動きだった。氷雪姉ちゃん、と揃った双子の声は、そんな彼女を包み込み温めるようなとても優しいものだ。
「あのねあのねっ、何か悩んでるんだったらニアたちに言ってみない?」
「えっと、人に言ったらちょっと楽になるかもしれないよ?」
「絶対秘密にするから!」
 真摯な二対のアズライトが、不安に揺れるエメラルドを見つめる。まあるく開かれた星空色には、少しでも力になりたい、という力強い願いが浮かんでいた。あまりにもまっすぐな視線に、萌葱の目がぱちぱちと瞬く。白い喉がひくりと動いた。
「……わたしが」
 ほろり。凍った唇が解ける。白に近いそれは、怯えを孕み震えていた。可哀想なほど小刻みに揺れる唇が、どうにか言葉を紡ぎ出していく。
「わたしが、わたしなんかが、ボスでいいのかな……、って」
 こんなにすぐ緊張して、力もコントロールできなくて、部屋の隅で一人で震えるような、こんな、ただの雪女のわたしが、『ボス曲』なんて大役を。
 恐怖で冷え切った言葉がぽろりぽろりとこぼれていく。音を吐き出す度に、視界がぼやけていく。浅瀬色の瞳に、水が膜張っていく。表面張力が限界を超えこぼれ落ちた雫は、すぐに凍りついてしまった。丸い氷が硬い床を転がっていく。細かな氷粒がいくつも落ちていく音が三人の間に響いた。
 淀む胸の内全てを吐露し、少女の胸にわずかに凪が訪れる。しかし、嫌悪の情がそれを全て塗り潰し、ぐちゃぐちゃに掻き乱していった。こんな小さい子に、こんなに弱い、みっともない姿を見せるだなんて。きっと呆れられてしまう。愛想を尽かされてしまう。嫌われてしまう。こんこんと湧き出す負の感情が、細い身を押し潰さんばかりに襲いかかった。
 カタカタと細かに震える手に重なった小さな手が、力強くぎゅうと握られる。まるで熱を分け与えようとしているようだった。沈みゆく心を、柔らかな温度が一気に引き上げる。
「大丈夫だよ!」
「今日の氷雪姉ちゃん、すっごくきれいですっごくかっこいいもん!」
 キラキラと輝く星空色二対が、川底色を射抜く。少女らの声は、瞳は、自信と元気に満ち溢れていた。二人の言葉は主観的で、決して論理的なものではない。けれども、雪すさぶ少女の心を一気に照らし出し晴らすような勢いがあった。
「でも、やっぱり最初は緊張しちゃうよね」
 ねー、と双子星は顔を見合わせて苦く笑う。ほんのりと染めた頬には羞恥が薄く乗っていた。
 そういえば、この二人もつい数ヶ月前に初めて『ボス曲』の看板を背負ったのだった。けれども、筐体上で盛大に発表されたジャケットの二人は、元気いっぱいの天真爛漫な笑顔をしていたではないか。意外だ、とぱちりと瞬きをする。目の前で笑う双子の兎たちはいつだって元気で、いつだって自信満々で、どんなときでも明るく笑っているのに。そんな彼女たちでも、こんな弱い己のように緊張するのだろうか。
「ノアたちも上手くできるかなーって怖かったけどね、レイシス姉ちゃんが『大丈夫デスヨ』って言ってくれてね」
「『ワタシも最初はとっても緊張しマシタ』って教えてくれたの」
 二人の言葉に、小さな口から、ぇ、と言葉が溢れる。まさかあのレイシスが、と雪色の少女は大きく目を見開いた。
 レイシスはこの世界の看板とも言える、常日頃最前線で活躍している少女だ。多くの『ボス曲』の看板を背負ってきたのも彼女である。いつだって朗らかで、女神のように慈愛に満ちていて、自分をまっすぐに信じている、皆の憧れの女の子。そんなレイシスが撮影で緊張しただなんて、信じられなかった。
「あっ、グレイスちゃんも緊張してたーってオルトリンデ先生が言ってた」
「グレイスさんもですか……?」
 続けて告げられた言葉に、氷雪は思わず驚きの声を漏らす。耳に飛び込んできた情報は、到底信じられないものだった。
 グレイスという少女は芯の通った、いつだって自信に満ち溢れたな子だ。少なくとも、交流の少ない氷雪にはそう映っている。そんな彼女が緊張をするだなんて、冗談のように聞こえる。けれども、情報の出処は彼女をずっと隣で見てきたあの教師なのだ。嘘ではないだろう。
「それ聞いたら安心したの」
「皆同じなんだなー、って」
 だからね、と兎は声を揃える。重ねた手に力がこもる。紅葉のような可愛らしい手が、細く白い手を包み込む。今の氷雪は雪女としての力が暴走している状態だ。周囲の空気はもちろん、彼女自身も雪のように冷たくなっている。このように触れていては、寒いなんて言葉では済まないに決まっている。下手をすれば凍傷を負ってしまう危険性もある。けれども、双子兎はその華奢な手をしっかりと握りしめた。
「氷雪姉ちゃんが緊張するのも一緒だよ!」
「皆と一緒だよ! 普通のこと!」
 だから、大丈夫だよ!
 明朗な二重奏が冷たい空間に響き渡る。星きらめく瞳が大きな孤を描き、色を失ったかんばせへと温かな笑顔を降り注ぐ。
 太陽のような声と表情に、涙に濡れた水宝玉が瞠られる。水底に沈みゆこうとしていた美しい緑の瞳が、ゆっくりと透明度を取り戻していった。眦から透明な雪がはらりと舞う。
 皆一緒。普通。天使たちが高らかに謳う言葉が、渦巻く重い感情で潰れかけた心をそっと掬い上げる。
 本当なのだろうか。心の暗い部分が疑念の声をあげる。しかし、ストンと素直に心に落ちて溶けていく言葉でもあった。当たり前だ、『ボス』なんて大役を初めて担うだなんて、誰だって緊張するだろう。何しろそのイベントの看板であり、企画を象徴するものなのだ。大きな責任感が押し寄せてくるのも、役目が全うできるのかと心細くなるのも、きっと『普通』のことなのだ。目の前の当事者が――緊張や不安といったことに無縁に見える爛漫な少女たちが言うのだから、本当だろう。彼女らが気休めの嘘を吐くなど、欠片も思えなかった。
 それにね、とニアは握った手をそっと撫でる。冷え切った手をなぞる姿は慈しみに満ちていた。それこそ、天から舞い降りた天使のような。
「レイシス姉ちゃんたちが適当に決めるはずないもん!」
「きっといっぱい考えて、氷雪姉ちゃんに決めたんだよ」
「氷雪姉ちゃんがいいんだよ!」
「氷雪姉ちゃんじゃなきゃだめなんだよ!」
 ねっ、と双子は声を揃えて語りかける。寄せ合うように小さな頭が鏡映しに傾ぐ。床についてしまいそうなほど長い青髪がさらりと揺れた。
 一生懸命紡ぎ出された言葉たちに、少女は目を瞠る。ほんのりと紅を取り戻しつつある唇がぽかんと開かれる。驚愕をありありと示していた。
 自分でなければいけないだなんて、考えたこともなかった。決まったことは決まったことで、そこにあるはずの理由など考えたことがなかった――考える余裕など、繊細な少女は持ち合わせていなかった。
 あのレイシスが――誰よりも世界を愛し、誰よりも尽力するあの少女が、意味の無い選出をするわけがないのだ。答える者がいない今真意を知ることはできないが、そこには確かな理由が存在するはずだ。氷雪でいけない理由が。
「……そう、なのでしょうか」
「そうだよ!」
 依然不安に染まった声に、快活な声が二つ重なる。確信を持った響きをしていた。青く長い睫毛に縁取られた目が弧を描く。満面の笑みが緊張と不安に冷えた少女を照らし出した。
「それに、氷雪姉ちゃん一人じゃないよ」
「ニアたちが一緒だよ。三人一緒なら、きっと大丈夫!」
 一回り小さい柔らかな手二対が、爪まで凍りきった手を握りしめる。憂いに揺れる少女に元気を、勇気を分け与えようとするような光景だった。
「……そう、ですね」
 二人が一緒にいてくれますものね、と氷雪は眩しげに目を細める。こぼれ落ちた声からは、緊張に縛られた硬さや不安を孕んだ冷たさは薄れていた。常の彼女が紡ぎ出す、柔らかで穏やかな響きが帰ってきていた。
 そうだ、一人きりではない。ニアとノアがいるのだ。担当する楽曲は違えど、二人も今回の『ボス曲』を背負う役目だ。同じ立場の人間が、共に在ってくれる。寄り添ってくれる。どれだけ心強いことだろう。『一緒』の一言が、少女の心を掬って引き上げる。笑顔と激励という陽光に照らされ、柔らかなそれに絡みついた呪縛が少しずつ剥がれていった。
「うん!」
 元気いっぱいの二重奏が冷えた空間に響く。冬の寒空の下のような冷気は、いつの間にか随分と和らいでいた。千々に乱れた心が落ち着きを取り戻しているのだ。暴走した力は、ようやくその姿を隠し始めた。
 重なった小さな掌が離れていく。指先が赤く染まった紅葉手が、胸の前でぎゅっと握りしめられる。えいえいおー、と元気な声とともに、握り拳が天に向かって掲げられた。
 ぉ、おー、とつられるように氷雪も小さく続く。色が失せた手に、かんばせに、ほんのりと朱が灯った。
 控えめながらも一緒にやってくれた嬉しさにか、双子の天使はにこりと満開の笑みを咲かせた。おー、ともう一度声があがる。先ほどよりも一回り大きな、部屋の外まで聞こえてしまいそうな合奏だ。
 青兎たちがすくりと立ち上がる。丈の短いワンピースの裾がふわりと舞う。たなびく白と青を追い、視線がゆっくりと持ち上がる。潤んだ燐灰石に、差し伸ばされた白く細い腕二つが映った。
「さっ、行こ!」
「一緒に行こう!」
 小さな手を目いっぱいに開き、ニアとノアは腕を伸ばす。ソプラノボイスが重なって可愛らしい音色を奏でた。
 常磐がゆっくりと瞬く。柄杓を固く握りしめていた右手がゆっくりと解けた。白い着物に包まれた細い腕が、こわごわとした様子で伸ばされる。救いの光を求めるように上がったそれに、二つのたなごころが重なった。
 小さな手が細い手を抱きとめ、握りしめ、ぎゅっと引く。わっ、と小さな声をあげながら、氷雪はふらつきながらも立ち上がった。ぺた、と素足が床に触れる音が空間に落ちる。
 自分たちより頭半分上の若葉を見上げ、露草が曲線を描く。空いている手が天に向かって大きく上げられた。
「撮影頑張ろうね!」
「いっぱい綺麗に撮ってもらおうね!」
 もうすぐ行われる撮影に思いを馳せる二人は、元気いっぱいに言う。『撮影』という単語に、解けた身が一瞬強張る。足下から這い寄る緊張を振り払うように、少女はふぅと細く息を吐いた。
 大丈夫だ。レイシスが選んでくれたんだから。二人がいるんだから。一人じゃないんだから。
 双子たちがくれた言葉を心の内で唱える。胸の内を覆う黒い靄がスッと晴れていく気がした。
「……はい、頑張りましょう」
 パタパタとサンダルが床を打つ音に、柔らかな声が混じる。温度を取り戻しつつある空間に溶けて消えそうなそれは、兎たちの耳にしっかりと届いたようだ。真夏に咲くひまわりのような大輪の笑顔がぱっと咲いた。
 双子兎と雪女は手を繋ぎ駆けていく。光に照らされた撮影ブースに人影が三つ飛び込んだ。

畳む

#氷雪ちゃん #ニア #ノア

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