No.123, No.122, No.121, No.120, No.119, No.118, No.117[7件]
雪色サンタさん【プロ氷】
雪色サンタさん【プロ氷】
サンタな上に赤縁眼鏡はずるくないですか
ありがとうSOUND VOLTEX……ありがとうKONAMI……ありがとう眼鏡……プロ氷眼鏡おそろ最高……(何でも推しカプに繋げるオタク)
低い呻り声が物が溢れかえる机の上を張っていく。ゴポゴポと沸き立つあぶくが弾ける音が空気を揺らす。それを掻き消すように、ガサガサと騒がしい音がデスクの下部からあがった。
あれぇ、と識苑は呆けた声を漏らす。ゴソゴソと耳障りな音が続く。また抜けた声を漏らし、青年は頭を掻きつつ机の下から身を起こす。頭には小さな綿埃が乗っていた。
息抜きにコーヒーでも飲もう、と湯を沸かしたはいいが、肝心のインスタントコーヒーが見つからない。在庫はまだあったと思っていたのだが、備え付けの棚や積み上がった段ボール箱の奥の奥まで漁ってもそれらしきパッケージは影すら見せなかった。まさか買い忘れていたのだろうか。毎日のように飲むのだから大量に買ってストックしていたはずなのだが。乱れた髪をガシガシと掻き、青年は小さな呻り声をあげる。せっかく沸かしたのに、とみみっちい後悔が胸の隅から湧き上がった。
コンコンコン。雑多に散らかった部屋にノックの音が飛び込んでくる。放課後である今、技術準備室を訪ねてくる者は少ない。技術班の者だろうか。いや、あの用件第一の面々がノックなんて礼儀正しいことはしない。だとしたら生徒か。それにしても、わざわざ放課後に技術教師である自分の元に訪れるなんて随分と珍しい。
「どうぞー」
「…………し、失礼、します」
普段の調子で返事をする。しばしの沈黙の後、カラリと軽い音をたてて鉄製の引き戸がわずかに開けられた。狭い隙間から今にも消え入りそうな細い声が滑り込む。少し上ずったそれは、耳慣れた愛おしい響きをしていた。
「あ、氷雪ちゃん」
鼓膜を揺らした音に、技術教師は弾んだ声で愛しい人の名前をなぞる。戸口の隙間から覗く白は、大切な生徒であり愛する恋人である氷雪の色だ。しかし、今日は少しばかり様子がおかしい。最近では恥ずかしがることなく素直に入室する彼女だが、今日は一歩も踏み入れず戸の隙間からこちらを眺めるばかりだ。出会ったばかりの頃を思い出す様子である。どうしたのだろう、と小さく首を傾げた。
せんせい、と少し掠れた声が呼ぶ。なぁに、と努めて柔らかな声で返す。あの、その、と揺れる声が、技術室と準備室の境目に落ちる。幾許、手が入る程度に開かれていた扉が、軽い音をたてながらゆっくりと大きく開かれていった。
まず目に飛び込んできたのは赤だ。旬を迎え熟れきったリンゴのように鮮やかな紅色が、夕焼け色の瞳を染め上げる。
彼女を象徴するような白い着物は、丈の短い真っ赤なワンピースに変わっていた。縦方向に編み目が浮かんでいる生地の端は、白いボアで縁取られている。胸元と少し割れた裾は濃い茶色の丸ボタンで留められていた。ノースリーブのため、日に焼けていないまろい肩があられもなく覗いている。ワンピースと同じ色をした余裕のあるアームカバーが、手折れそうなほど細い腕を二の腕の中ほどから守っていた。
ワンピースの裾からは黒のフリルスカートがわずかに覗いている。こちらもかなり丈が短く、肌の防護という点では衣服としての機能を果たしていない。代わりに、黒いタイツが細くも柔らかな足を守っている。うっすらと肌の色が透けているのがどこか艶やかだ。履き物も、普段の黒く厚い下駄ではなく、柔らかな白いボアとリボンで彩られた真っ赤なロングブーツに変わっていた。
鮮烈に赤いリブワンピースの真ん中を、オレンジ色の太い紐が走っている。先は彼女の頭より二回り以上は大きい白い袋に繋がっていた。リボンのショルダーで斜め掛けされたそれは、大きな空色の球、下部を包む赤い生地、薄橙の結晶模様で彩られ、ポップな印象を与えた。
深夜に降り積もる雪のように白い髪、それに包まれた小ぶりな頭には、柔らかに垂れた三角帽子が被さっていた。真っ赤な生地をボア生地が縁取るのはワンピースと同じだが、左右に猫の耳のような三角飾りが付いているのが特徴的だ。長い三つ編みを結い飾るのは、オレンジの編み紐でなく白くふわふわとしたヘアゴムだ。普段は顔を隠すように長い前髪は、片側を青い雪結晶で飾られたヘアピンで分けられていた。
長い髪で少しばかり隠れた頬は、赤く色付いていた。清水のように透き通る雪色の肌を紅が染める様は、可愛らしいものだ。白と黒のボア生地で縁取られたアームカバーに包まれた手が、胸元に走る幅の太いショルダーをぎゅっと握る。
「めっ……メリー……クリスマス、です……」
絞り出すように放たれた声は、少しひっくり返っていた。揺れる音は口から漏れ出てすぐに溶けて消えていく。ぁ、ぅ、と細い声がピンク色の潤った唇からこぼれ落ちる。水底色の瞳は地へと吸い込まれ、ゼリーのようにふるふると震えていた。
普段の彼女からは想像も付かない衣装で現れた恋人に、識苑は大きく目を見開いた。目の前の現実を受け止めきれぬ身体はしきりに目を瞬かせ、口は呆けたようにぽかんと開いていた。なんとも間の抜けた表情である。
「あ、えっ…………え……?」
こんなに可愛らしくめかしこんだ愛し子が目の前にいるのだ、もっと言うべき言葉があるとは分かっている。けれども、処理落ちを起こした脳味噌がアウトプットしたのは呆然とした間抜けな音だけである。あ、え、と意味を成さない単音ばかりが開きっぱなしの口からどんどんと落ちていく。無駄な響きが散らかった部屋の床に積み重なっていった。
「あの、えっと……、さっ、サンタさん、です」
そう言って、氷雪は被った三角帽の端をきゅっと握った。ふわふわとした三角耳と、てっぺんについた丸いぽんぽん飾りが揺れた。
真っ赤な衣服。真っ赤な三角帽。それに、大きな袋。確かにサンタらしい衣装だ。しかし、彼女が何故そんな格好をしているのか。何故普段の美しい着物ではなくこんなに可愛らしい衣装を身に纏っているのか。今の脳味噌には、湧いて出てくる疑問を処理する能力など無かった。
「ぁ、の……、やはり、変、でしょうか……?」
「えっ、あっ、いや! 似合ってる! めちゃくちゃ似合ってる! すっごく可愛い!」
萎んでいく声を、高揚し上擦った声が掻き消す。しょんぼりと表情を曇らせる少女を前に、青年はぶんぶんと千切れんばかりの勢いで首を横に振った。可愛い。綺麗。大人っぽい。似合ってる。月並みな台詞が口を突いて出る。ようやく元の処理能力を取り戻しつつある脳味噌は、今度は熱暴走を始めた。
これでもかと降ってくる賞賛の言葉に、翡翠のまなこが大きく瞠られる。小さく開いた口から、ひゅ、と息が漏れる音。薄紅が刷かれていたかんばせは、あっという間に赤く染め上げられていった。白く細い喉が上下する。オレンジの太いショルダーを握る手に力が込められた。
「本当にすっごく、もうほんと、めっちゃくちゃ可愛いよ! 氷雪ちゃんが選んだの?」
褒め言葉だけが湧き出漏れ出る口から、ようやく会話らしい言葉が落ちる。普段はシンプルな白と黒で柔らかな身を彩る彼女が、こんな目が醒めるような赤を選ぶのは珍しい。肩だけとはいえ、肌を晒すのも奥ゆかしい彼女らしからぬ選択だ。誰かのアドバイスがあったのか、はたまたジャケット撮影か。クリスマスも近い今の時期を考えると、後者だろうか。最近はジャケット撮影に関わっていないため、その辺りの情報には疎い。
「班田さんが選んでくださったんです」
そう言って、少女は胸元に両手を当てる。大きく開かれた目がふわりと柔らかに細まり、桜色の唇が軽く綻ぶ。小さく笑声を漏らしはにかむ様は愛くるしい。
彼女の口から出てきた『班田』の名に、識苑は瞬きを一つ落とす。班田はたしか高等部の生徒だ。人と関わることをあまり得意としない彼女と付き合いがあるのは、同学年の少女二人や同郷の留学生ぐらいである。そんな少女が、新たなる友好関係を築いている。喜ばしいことだ。
「ネメシスクルーにもなるんです。少し、恥ずかしいですけれど……」
胸元に添えられた手がきゅと握り締められる。固く包まれた白い指先には、緊張が灯っていた。しかし、普段なら凍りついたように強張り色を失う表情は、今回はほんの少し解けたものだ。ネメシスクルーになるのも三度目だ、多少の慣れもあるだろう。それ以上に、新たな衣装が嬉しいのだろう。彼女も年頃の女の子なのだ。
あっ、と雪色は声をあげる。可憐なたなごころが解かれ、ワンピースのポケットに入っていく。しばしの間、細い指が取り出したのは楕円形のケースだった。半透明のワインレッドが開かれ、中から何かを取りだされる。ケースを再びポケットにしまうと、少女はたおやかな指でつまんだ小ぶりなものをカチャカチャと広げた。顔が軽く伏せられ、おそるおそるといった調子で上がる。未だ紅がうっすらと浮かぶかんばせに、ぱっと鮮やかな赤が咲いた。
氷雪が取り出し着けたのは、シンプルな眼鏡だった。プラスチックのリムは衣装と同じく赤で、アンダーのみで丸みのあるレンズを支えていた。細身なデザインは柔らかな雰囲気をまとう彼女によく似合っている。
「眼鏡も選んでいただいんです」
両の手をテンプルに添え、少女は弾んだ声を奏でる。言葉を紡ぎ出す桜色の唇は、ゆるやかに綻んでいた。新しいアクセサリーが嬉しいのか、はたまた人に見繕ってもらったのが嬉しいのか。どちらもだろうな、と考え、識苑は頬を緩めた。
「え、っと……、あの、……め、眼鏡、おそろい、ですね」
咲き誇る椿のように色づいた頬がふにゃりと柔らかく緩む。苔瑪瑙が幸せそうに細められ、白い睫に縁取られた目がふわと弧を描く。えへ、と細く開いた口が可愛らしい笑い声を漏らした。
幸いに彩られ綻びきったその笑みに、心の臓が跳ねるように大きく拍動する。ポンプの役割を果たす臓器がどんどんと動きを速めていく。同時に、ぎゅっと紐で引き絞られるような感覚もした。
「そ、うだね。うん。おそろいだ」
バクバクとうるさく音をたてる心臓をどうにか無視して、何とか返事をする。言葉を紡ぐ口はぎこちなくつかえる様子に反してだらしなく緩み、奏でる音色はとろけきった甘い響きをしていた。
ただでさえ新たな衣装を見せてくれた恋人が愛しくて仕方が無いのに、そこに『おそろい』なんてことを言われては、可愛くて可愛くて仕方が無いではないか。湧き出る幸が胸を、心を、頭を、身体を満たしていく。溢れ出たそれが、表情筋を緩めていく。へにゃへにゃと口元が、頬が、目元が緩むのが自分でも分かる。きっと、なんとも情けない顔になっているだろう。本当ならばこんな顔を彼女に見せるべきではないが、幸せが際限無く湧き出る今ばかりは緩んでいく筋肉をコントロールすることなど不可能だった。
「今年は氷雪ちゃんがサンタなんだ。すごいね」
ネメシスの住人たちのデータから作られたネメシスクルーは、皆の普段の姿だけではなく季節に合わせた衣装やジャケット衣装の姿のものも生み出されている。クリスマスならば、トナカイモチーフの衣装に身を包んだニアとノア、そのものずばりサンタの格好をしたグレイスなど、前例はある。今年はその役目が氷雪に回ってきたようだ。
「そうなんです。ちゃんと、頑張ってプレゼント配りますよ」
雪の少女は胸の前で両の手をぎゅっと握り締める。とろけへにゃりと下がっていた眉の端は少しばかり持ち上がり、萌葱の瞳には真摯で真剣な光が宿っていた。かすかに滲む恐れを払うように、白はこくりと小さく頷く。頑張ります、と、健康的につやめく唇が宣言するように今一度言葉を形作った。
気合いを入れた様子に、識苑はふっと目を細める。頑張り屋で真面目な彼女らしい姿だ。同時に、数年前の彼女からは全く想像できない姿であった。己の体質にコンプレックスを持っているのも相まって、人と関わりをもつことが少なかったこの幼き優しい雪女は、引っ込み思案で酷く控えめな性格をしている。誰よりもぬくもりを求めているのに、人と触れ合うことを自ら避けてしまうほどだ。そんな彼女が、友人たちに背を押されたとはいえ『サンタクロース』の役目を引き受け、全うしようとしている。随分と社交的に、積極的になったものだ。成長したなぁ、とまるで親のように感慨深くなってしまう。
「あっ、あ、の……」
少しだけ高く細い声。可愛らしい唇が何か言いたげにもごもごと動く。えっと、と何度か繰り返して、少女は再び目の前に立つ恋人を見上げた。先ほどまでぱちりと開いた目は不安げに揺れ、溢れるやる気を象徴するように上がっていた眉は軽く下がっていた。ふわ、と頬に血潮の色が浮かぶ。
「先生は、サンタさんへのお願い決まりましたか……?」
ことりと首を傾げ問う愛し子に、青年はぱちりと瞬きをした。お願い、と口の中で呟く。つられるように桃色の頭が傾ぐ。乱暴にまとめられたポニーテールがゆらりと揺れた。数瞬、あぁ、と合点のいった声があがった。
「先生、もうサンタって歳じゃないからなぁ」
クリスマスまであとわずかだ。サンタを信じている子どもたちはもうプレゼントのリクエストやお願い事をしている頃だろう。しかし、自分はもう立派な大人である。『サンタにお願いをする』という考えすら今の今まで湧いてこなかった程度には、サンタからはもう随分と前に卒業してしまった。
もうサンタになる側だもん、と冗談めかして言う。そうか、もうそんな歳なのか。絶対的な時の流れが胸を深々と刺す。今まで考えたことはあったものの、いざ言葉にするとダメージが襲いかかってくるものだ。想定外の自傷行為に、胸が鈍い痛みを覚える。思わず苦い笑いが少し口角の下がった口からこぼれ出た。
乾いた笑いを漏らす恋人を前に、氷雪はきゅっと唇を引き結ぶ。赤で彩られた胸の前で握った手を、もう片手が包み込む。祈りの姿にも似ていた。
はくりと愛らしい小さな口が開く。酸素を求めるように、はくはくと幾度も唇が開閉する。こっ、とわずかに裏返った声が細く白い喉から発せられた。
「今年は、わたしがサンタさん、ですから……、えっと、あの…………」
しどろもどろに声を漏らしながら、少女は肩から下げた大きな袋に手を突っ込んだ。先が軽く膨らんだアームカバーに包まれた両腕がわたわたと動き、袋の中身を掻き回す。幾許かして、解かれ開いた白い袋から腕が引き抜かれた。
紅葉手に包まれていたのは、小箱だった。両の手で包み込める程度の大きさのそれは、早朝の澄んだ空を思わせるような水色の包装紙と幅の太いつややかな白いリボンでラッピングされていた。よく見ると、包装紙には薄く雪の結晶を模したマークが散っている。冬らしくも可愛らしいデザインだ。
「く、クリスマスにはまだまだ早いですけれど……」
サンタさんからの、プレゼントです。
呟くように言って、氷雪はたなごころに包んだ小箱を差し出した。顔を伏せているため、表情は見えない。しかし、長い髪の隙間から見える耳は牡丹のように赤く色付いていた。よく見れば、箱を持った手は微かに震えている。雪のように澄み渡る白の指は、色を失っていた。
夕陽の瞳がぱちぱちと瞬く。きょとりと丸くなったそれが、ふっと細められた。不健康な白い瞼の隙間から覗く山吹には、愛慕と歓喜、確かな幸福が浮かんでいた。
頑張り屋の彼女はサンタクロースの役目を果たそうと頑張っているのだ。人との関わりという己の苦手を克服し努力する姿に、愛おしさが溢れ出る。そんなところに己は惹かれたのだ。
優しい彼女のことだから、きっと己だけでなく学園中の皆にプレゼントを渡しているだろう。それでも、愛する人からプレゼントを贈られるということは、心が沸き立つほど嬉しかった。幸福感が胸を、脳を満たしていく。また口元がへにゃりとだらしなく緩むのが自分でも分かった。
「ありがと」
礼を言う声は、幸いに満ち満ちたとろけていた。小さな両の手を包み込むように箱を受け取る。重なった手は、その色が表すとおり冷たかった。触れたそれが怯えたようにばっと去っていく。血の気を失った手が、胸の真ん中を分かつように掛けられたショルダーを握った。
「あ、の、えっと……、でっ、では、わたし、着替えてきます。撮影も終わりましたので」
失礼します、と大きく一礼。耳の付いたサンタ帽を揺らし、少女はくるりと踵を返し扉へと駆けていく。幼い手が慌てた様子で戸を開ける。くるりと振り返って小さく一礼し、少女は戸を閉め技術準備室を出て行った。
パタパタとくぐもって聞こえる足音を耳にしながら、識苑は今日何度目かの瞬きをした。彼女らしからぬ、随分と忙しない動きだった。いつものように手を振り別れの挨拶を言う暇すらなかったのだから尚更である。もう放課後になって随分と経つ。早く着替えて帰りたかったのだろうか。ならば余計な会話で引き留めてしまったのは申し訳なかったな、と小さな後悔が胸をよぎった。
両の手で持った小箱に視線を移す。片手で持ち直し、可愛らしい飾り結びにされたリボンを解き、美しい包装紙を破らないようにそっと開いていく。カサカサと紙が擦れる音が狭苦しい部屋に落ちた。
リボンと紙の下から現れたのは、四角い白い缶だった。正方形に近いそれには、『ハーブティー』とデザインチックな英字の筆記体で書かれている。金色で縁取られた蓋の上には、小さな紙が薄青のマスキングテープで貼り付けられていた。
たまにはコーヒー以外も飲んでくださいね。氷雪。
シンプルな飾り枠が彩るメッセージカードには、丸っこい可愛らしい文字でそう書かれていた。署名もある通り、間違いなく氷雪の文字だ。思い遣りのこもった、それでいて諫めるような文面に、思わず苦笑が漏れる。コーヒーばかり飲んでいると胃が荒れますよ、と彼女は時折言う。それでも懲りずに飲んでいた結果が今回のプレゼントなのだろう。己のことを考え抜いたプレゼントへの嬉しさと、心配をかけてしまった申し訳なさが胸の内で混ざり合う。困ったように頭を掻いた。
金インクで模様が描かれた蓋をそっと外す。瞬間、ハーブの特徴的な爽やかな匂いがふわと舞った。中には個包装されたティーバッグが整然と並んでいた。積み上げられた山々を崩さないように机の上にスペースを作る。そこに手にした缶箱を置き、中身を一つ抜き取る。淡いオレンジ色のパッケージには、『カモミール』と流麗な英書体で書かれていた。
ちらりと机の脇に目をやる。電気ケトルの中身はまだぬるいはずだ、すぐに沸くだろう。インスタントコーヒーのために沸かしていたものだから、量も十分だろう。ティーバッグの紅茶一杯入れる程度に問題ないくらいの。
緩く笑み、青年はケトルのスイッチを入れる。小さなボタンを押す指先は、どこか浮かれていた。
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血肉と果実【奈+恋】
血肉と果実【奈+恋】
今更も今更に10月のエンドシーンネタななこの。
好き合ってないし付き合ってないけど同生産ラインで百合とか薔薇生産しているので注意。
奈恋奈は一生親友以上恋人未満みたいな関係性でいてほしい。
あーん、と可愛らしい声とともに、白い指が眼前に迫る。ふとした拍子に折れてしまうのではないかと不安になるほど細い指先には、小さな赤があった。不格好な多角形のそれは、毒々しいほど鮮やかだ。透き通り、光を受けてどこかきらめく様はガラスの欠片を思わせた。
差し出されたそれに、恋刃は小さく眉をひそめる。健康的な色をした唇が引き結ばれ、口角が悩ましげに下がる。きらめく粒と同じほど赤い瞳は、いつだって真っ直ぐに相手を見据える彼女らしくもなくうろうろと宙を彷徨っていた。逡巡、少女は震える口を小さく開き、指の持ち主に向けてわずかに身を乗り出す。あーん、と再び愛らしい声。あーん、とかすかに震え掠れた復唱。白を飾る透る赤は、血肉の色をした舌の上に乗せられ口内へと消えた。華奢な顎が動き、少女は迎え入れたそれを咀嚼する。瞬間、紅玉の瞳が険しげに細められた。
「すっぱぃ……」
「そんなに?」
口いっぱいに広がる酸味に、赤い少女はうぅ、と苦々しい声を漏らす。小指の爪ほどの小さな実だというのに、舌の上はそれが中に秘めた酸味で一気に塗り潰されてしまった。リンゴやイチゴのように真っ赤に熟れた外見からは全く想像できない味だ。旬を迎えていることもこの味の強さの一因だろうか。だとしてもすっぱいったらない。
小さくうなりながら顔をしかめる恋刃を、奈奈は不思議そうな顔で眺める。赤い粒――ザクロを食べさせた、つまりは己がこんな顔をしている原因は彼女だというのに、七色の瞳はどこか楽しげに輝いていた。すっぱさに悶える己の顔はそんなにも物珍しいのだろうか。それとも、ただ『あーん』ができて嬉しいのだろうか。後者だといいのだけれど、と少女は机上のペットボトルに手を伸ばした。しかめっ面で口をつけ、大きく傾け中身を煽る。甘いストレートティーだというのに、レモンティーのような風味が口の中に広がった。
少女らの――正確には奈奈の目の前にはザクロの実が転がっていた。手のひらサイズのそれは熟し、中から目に痛いほど鮮やかな赤が覗いている。絵の具をそのまま塗りたくったようなそれは、どこか不気味な印象すら与える。反して、丁寧に磨かれた宝石のような美しさも持ち合わせていた。
弾けるようにこぼれたその一粒を取り上げ、虹色の少女は指先で小さな赤を転がす。色彩感覚が狂いそうなほど強い色をした粒を見つめる瞳には、好奇心と愛おしさがにじんでいた。
「ねぇ、恋刃」
「なに?」
紅茶の甘みと渋みで口内を洗い流そうとする赤に、虹はそっと目を細める。カラフルな瞳には、どこかいたずらげな光が灯っていた。
「ザクロって、人のお肉の味がするんですって」
七色に彩られた少女の言葉に、紅茶を飲む恋刃の動きが止まる。ぐ、と口に含んだ液体を噴き出しそうになるのを必死に堪える。どうにか飲み下し、紅緋に染まる少女は目の前に座る親友をじとりと見た。
「何で私に食べさせた後にそんな話をするの……?」
ザクロは人肉の味。確かに聞いたことのある話だ。しかし、人に食べさせておいて『人のお肉の味』などと告げるのは、さすがに愛しい愛しい親友とはいえいたずらがすぎる。先ほどから幾度も手ずから食べさせているのだから尚更だ――可愛らしい『あーん』の声に逆らえず全部食べた自分も悪いのだけれど。
昔聞いた覚えがあったから、と少女はこともなげに言う。本当にただ与太として話したようだ。親友はどこかずれたところがある。それが出たのだろう。しかしタイミングと内容が最悪である。
「そもそも、何でこんなに私に食べさせるの? 奈奈が食べたらいいじゃない」
むぅと頬を膨らませ、恋刃はふてくされたように投げかける。味が気になるならば、人に食べさせて感想を聞くよりも、自分で実際に食べてみる方がいいに決まっている。だのにこの親友は先ほどから己に食べさせるばかりで自分で食べようとはしない。不思議ったらない。
「だって、恋刃みたいだから」
透き通ってて、真っ赤で、つやつやで。恋刃の目みたい。
澄んだ瞳とどこか儚げな微笑みを浮かべた少女は、歌うように言葉を紡ぐ。純粋な、裏も何もない声と表情だ。そんな顔でまっすぐに言われては、胸の内に溜め込んだ言葉なぞ失ってしまう。ふわ、と頬が熱を持つ感覚。けれども、その温度も『人のお肉の味』というフレーズにすぐ引っ込んでしまった。
「お味はどう?」
「すっぱいだけよ」
「人のお肉はすっぱいってことなのかしら」
「奈奈?」
不穏な言葉をぽろぽろとこぼす友に、少女はひきつる口元をあらわに小首を傾げる。どこか天然なところがある彼女だ、悪気などないのだろう。けれども、こんな話題をいつまでも続けるのはごめんだ。お肉から離れましょ、と乞いにも似た声で言うと、そうね、とふわりとした笑みが返される。天然なところがあるだけで、奈奈は心優しい子だ。悪気など一切無いのだろう。けれども、どこか遊ばれているような感覚がするのは何故なのか。名に恋を冠する少女は密かに頬を膨らませた。
「あ。ねぇ、恋刃」
「なに」
名を呼ぶ奈奈に、恋刃は短く返す。拗ねたような音になってしまったのを誤魔化すように、紅茶を一口。酸味が残っていた口内は、やっと元のフラットな様相を取り戻した。
「ザクロって血の味とも言われてるんですって」
つややかな瞳がふわりと虹を描く。七色の瞳に宿る光は、どこか妖艶に見えた。
純粋な少女に不釣り合いな輝きと爆弾のような言葉に、赤色の少女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。『血』の一音節に、心臓がドクリと跳ねた。
ねぇ、と友は口を開く。グロスを塗ったようにつやめく唇の隙間から覗く舌は、ザクロのように――血のように赤かった。
「血の味、した?」
「……しないわよ。ただすっぱいだけ」
好奇心といたずらの色をにじませた言葉に、少女はぶっきらぼうに返す。血はもっと鉄臭くて、生臭くて、ほの甘い。血のような色をしたこの果実とは似ても似つかない味だ。先ほどまでの己の反応からそんなこと分かっているだろうに、わざわざ問うてくるのは天然故か、それとも故意のものか。愛らしいこの親友は時々訳の分からないことを言う。そこがまた可愛らしいと思ってしまう己も大概なのだけれど。
ふぅん、と興味深そうな音を漏らし、奈奈は再びザクロの粒を一つ摘み取る。白い指先に赤が灯る。
「こんなに血みたいな――恋刃みたいな色なのにね」
摘んだ粒を指先で転がしながら、虹色は愛おしげにその赤を見つめる。少し持ち上げ光に透かし、きらめくそれを眺める姿は、大切な宝物を愛でるようなものに見えた。
指先が口元に運ばれ、少女は血色の粒を可憐な口に入れた。もぐ、と小さな顎が動く。瞬間、七色の目が驚愕に大きく開いた。まあるい可愛らしい目はすぐさまつむられ、ピンク色の唇がきゅっと寄せられた。
「……本当にすっぱいのね」
「散々言ったじゃない」
ほら、と顔をしかめる親友に、恋刃はペットボトルを差し出す。ありがとう、と弱々しい声とともに、虹の少女は深い琥珀をこくこくと飲む。赤いラベルで彩られたそれから口を離した少女は、今一度すっぱい、とこぼした。瞳からあの輝きは失せ、眉を八の字に下げたどこかしょんぼりとした表情をしていた。さんざっぱら味を聞いていたとはいえ、あのすっぱさをいきなり体験してはこんな顔になってしまうのも無理はない。けれども、そこにはどこか幼い子どものような可愛らしさがあった。ふ、と笑みがこぼれ落ちる。
「ケーキでも食べて口直ししましょ?」
赤はそう言って席を立つ。目の前の割れたザクロとペットボトルを級友にもらったビニール袋に詰め込み、うー、と小さく声を漏らす虹に手を差し伸べた。口内を支配しているであろう酸味に目を眇める少女は、ぱちりと大きく瞬きをする。透き通る可憐な手が、大きく広げられた華奢な手を取った。
「Cafe VOLTE、秋の新作ケーキが出てるはずよ。食べに行きましょ」
「……ザクロのケーキ、あるかしら?」
「そろそろザクロから離れましょ?」
あれだけの酸味を味わっておいてまだザクロに固執するのだから、この親友は分からない。そんなところも可愛いのだけれど、と思ってしまう自分も大概だ。
ほら、と恋刃は愛しい親友の手を引く。幼き頃からの親友に手を引かれ、奈奈はその細い足を動かした。黒いスカートと白いワンピースがふわりと舞う。
何食べようかしら。やっぱりモンブランじゃない。カボチャもいいかも。弾んだ声を交わしながら、少女たちはケーキに思いを馳せる。ビニール袋の中で、ザクロがまた一つ粒をこぼした。
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お菓子といたずらを君と【烈風刀+初等部】
お菓子といたずらを君と【烈風刀+初等部】
様々なものの現実逃避にハロウィンネタ。地味に昔から考えてた弟君とちびっこたちハレルヤ添えレフレイ風味。III時空。出てくる子はタグを見てね。
ハロウィンにちっちゃい子やおっきい子にお菓子たかられる弟君の話。
カサ、と手にした紙袋が音をたてる。中に詰まった小さな袋、その中に詰まった菓子を見やり、烈風刀はふ、と息を吐いた。
今日は十月三十一日、ハロウィンである。毎年子どもたちがお菓子といたずらを求めてやってくる日だ。
もちろん、いたずらをされてはたまらない。子どもとはいえ、否、子どもだからこそ皆容赦のないいたずらを仕掛けてくるのだ。一人相手ならまだいい。しかし、何人もが相手となると正面から受け止めるのはかなり厳しいものである。連続でやってくることを考えると尚更だ。それに、菓子をもらえず悲しい顔をする子どもたちの姿はできれば見たくはない。子どもたちはいつだって元気で笑顔であってほしいのだ。
だからこそ、少年は毎年この日に菓子を用意していた。生徒の自由を尊重し、イベント事に全力を注ぐこの学園は、校則が他に比べて緩い。菓子の持ち込みは許されていた。今日のような日は尚更である。
今年のお菓子は、カボチャパウダーを練り込んだ生地とココア生地を合わせたアイスボックスクッキーだ。薄い橙と焦げ茶の市松模様はハロウィンらしい色合いだろう。味に関してもかぼちゃとココアの組み合わせは相性が悪くない。量産もしやすいから、こういうイベントにはもってこいの品だ。
さて、今年は誰が一番に来るだろう。やはり業務で真っ先に会うレイシスと雷刀だろうか。そんなことを考えながら、作戦会議室を目指し廊下を歩く。足音が広い空間に響いた。
「れふとおにーちゃん!」
元気な声と足音が後ろから飛んでくる。パタパタパタと軽やかなそれがどんどんと近づいてくる。耳慣れた可愛らしい声に、碧はくるりと振り返った。
視界に飛び込んできたのは、白い塊三つだった。真っ白な何かの中央には、黒い丸が二つある。頂点は少し膨れ上がり、三角形のような形が二つ浮き上がっていた。そんな不思議な物体が、素早く駆け寄ってくる。さながらホラー映画の一場面だ。異様な光景に、少年はびくりと肩を震わせる。一体何だ、と戦きながらもよく見ると、裾がひらひらと揺れている。大きな布を被っているようだ。
布を被った小さき者たちは、少年の前でピタリと止まった。頭に三角耳の形が浮かぶ真っ白な生地の端からは青、桃、黄の三色の尻尾が覗いていた。布の中央辺りでくり抜かれた穴から、キラリと鮮やかな目が三対光った。
「トリック……」
「オア!」
「トリート、です!」
三つの愛らしい声が一つの単語を作り上げる。中でばんざいするように手を上げたのか、布の両端が持ち上がりひらめいた。上がった裾からカラフルな靴下が覗く。
元気な声に――バタフライキャットとひとまとめにして呼ばれる初等部の子猫、蒼、雛、桃の弾んだ声に、少年は頬を緩める。どうやら、今年はお化けの仮装のようだ。遠目ではただの白い塊にしか見えなかったそれには面食らったが、こうやって近くで見てみればとても可愛らしいものである。
烈風刀は屈みこみ、少女たちと視線を――彼女らの目は穴の奥に隠れてしっかりとは見えないが――合わせる。穴の奥、夜闇の中の猫のように目を輝かせる子猫たちを見て、彼は首を傾げた。
「三人とも、そんな小さな穴でちゃんと前が見えているのですか?」
「見えてるよ!」
「大丈夫……」
「きちんと見えています!」
少年の問いに、少女たちは元気に答える。こちらまでまっすぐに駆け寄ってきたのがその証拠だろうが、見ている分にはどうにも危なっかしい。ひらひらはためく布をどこかに引っかけてしまうのではないか。長い裾を踏んで転んでしまうのではないか。少しの不安が碧の胸をよぎる。
「そうですか。でも、足下には気を付けてくださいね。踏んで転んでは大変ですから」
少年の言葉に、はーい、と三人合唱が返される。中で片手を上げたのだろう、小さなお化けたちの頭の横に小さな山ができあがった。
「それより! れふとおにーちゃん!」
「お菓子くれなきゃいたずらしちゃいますよ!」
「するよー……」
バサバサと布をはためかせ、少女らは声をあげる。ハロウィンでよく聞く言葉だ。元気盛り、いたずら盛りの年頃だ、本当にいたずらする気満々なのだろう。布の裾から覗く三色の尻尾は獲物を狙う猫のそれのようにゆらゆら揺らめいていた。白い布地に包まれた耳が期待するようにぴょこぴょこと動く。
「それは困りますね。はい、どうぞ」
紙袋から包みを三つ取り出し、子猫たちに差し出す。甘い香りを上げるそれを目の前に、目出し穴の奥で三色三対の瞳が輝くのが分かった。
お化けたちの裾がばっと上がり、小さな手三つ露わになる。紅葉のようなたなごころが、クッキーの入った袋を一つずつ掴んだ。
「クッキーだ!」
「ハロウィン色だ……!」
「可愛いです!」
袋の中に並ぶ市松模様を見て、三人はきゃいきゃいと可愛らしい声をあげる。頭から布を被っている故表情は全く見えないが、声の調子から喜んでいることがありありと分かった。はしゃぐお化け猫たちの様子に、碧は口元を綻ばせる。こうやって喜んでくれる姿を見ると、作ってよかったと毎年思うのだ。
「お菓子くれたからいたずらはなしですね」
「それは助かります」
桃の言葉に、烈風刀は柔らかに返す。どこか残念そうな響きをしているのは気のせいではないだろう。菓子をもらえて嬉しいのは彼女らの本心だろうが、いたずらをしたいのも本心なのだ。そのことは、日頃のはしゃぐ姿からよく見て取れた。
「……だめ?」
「駄目ですね」
クッキー片手に首を傾げる蒼に、少年は苦笑する。日頃から面倒を見ている愛しい子猫たちではあるが、さすがにお菓子といたずらいっぺんに選ぶのは反則だ。きちんと菓子をあげたのだから、いたずらをされては困る。相手が何をしてくるか分からない子どもならば尚更である。
えー、と唇を尖らせる蒼と雛を、だめですよ、と桃が窘める。クッキーで許してくださいね、と念を押すと、はーい、とお化け猫たちは素直に手を上げて答えた。
「ありがとね!」
「れふとおにーちゃん、ありがとう……」
「ありがとうございました」
布の中に包みをしまい、猫たちは三者三様に礼を述べる。さよならー、とまた合唱。くるりと一斉にターンし、少女らは廊下を駆けていった。ひらひらとはためく白いお化けたちが、初等部に続く廊下の角を曲がって消えていく。
立ち上がり、烈風刀は小さく息を吐く。真っ白なお化けという三人の仮装には驚かされたが、大きな布をひらめかせ大きく動く彼女らの姿は可愛らしいものだった。渡したお菓子も、狙い通りハロウィンらしい部分を喜んでもらえたようで何よりである。いたずらまで欲張られたのは少し困ったが。
さて、次は誰が現れるだろう。そんなことを考えながら、少年はまた廊下を歩こうと一歩踏み出す。
ぱたぱたと軽い足音。前方から誰かが駆けてきているのが見えた。小さな点だったそれが、どんどんと近づいて大きくなっていく。オレンジ色と白色の小さな影は、碧い少年の前でぴたりと立ち止まった。
「お菓子ちょうだい!」
元気な声にワン、と可愛らしい鳴き声が続く。初等部のリボンと、その愛犬のわたがしだ。普段は大きなリボンで飾られた黄金色の頭は、今は真っ白な三角耳のカチューシャで彩られていた。もこもことした素材が可愛らしい。まるで愛犬とお揃いのそれは、月色の頭によく似合っていた。
彼女らしいまっすぐすぎる言葉に、少年は小さく笑みをこぼす。お菓子が大好きなリボンにとっては、いたずらよりもお菓子が何よりも重要なのだろう。いたずらの『い』の字すら出てこないのが実に正直で、いっそ好感すら持てた。
「はい、どうぞ」
少年は屈み、紙袋からクッキーが入った袋を取り出し、菓子を愛する少女に手渡す。透明なラッピング袋の中に詰まった焼き菓子を見て、まあるくふくふくとしたかんばせがぱぁと輝いた。やったー、と喜びの声と、ぴょんぴょんと跳ねる音。隣に寄り添う愛犬も、飼い主の嬉しそうな様子にワン、と一鳴きした。
すぐさまねじられたラッピングタイを外し、少女は袋の中に手を入れる。紅葉手が中身を一枚取りだし、いただきまーす、と口に放り込んだ。サクン、とよく焼けた生地が割れる音。柔らかな頬がもごもごと動く。次第に、星光る夕焼け色の瞳がキラキラと輝きだした。
「おいしい!」
「それはよかった」
菓子好きの少女の言葉に、作り手の少年は口元を綻ばせる。やはり、『美味しい』と喜んでもらえるのは嬉しい。菓子をこよなく愛し食べてきた彼女にも満足のいく出来だというのも嬉しいことだ。もしゃもしゃと笑顔でクッキーを頬張る少女を、碧い瞳が愛おしげに眺めた。
「ほら、わたがしも食べて!」
ほらほら、と飼い主は愛犬へと一枚差し出す。キューン、と不安げな声をあげ、わたがしは小さく一歩退いた。丸くもこもことした身体が動き、つぶらな黒い瞳が少年の方へ向けられる。本当に食べていいのか、と問うように潤んでいた。
自分の知識が確かであれば、犬が食べていけないような材料は使っていない。しかし、人間の食物の味付けは動物たちには濃すぎるため良くないという話は度々聞いている。動物用ではないものを食べさせるのは、わたがしの身体のことを考えると控えるべきだろう。
ストップ、と少女と犬の間に手を割り込ませる。突然のことに、夕陽色の目がぱちりと瞬いた。
「これは犬用のものではないので食べられない……というより、食べさせない方がいいですね。ごめんなさい」
「そっかー……」
諭す少年の言葉に、星色の目をした少女はしょんぼりとした顔で俯く。きっと、愛犬と菓子を食べるという幸せを分け合いたかったのだろう。落ち込んだ飼い主を慰めるように、リボンでおめかしをした愛犬がすりすりと足下に擦りつく。ワン、とまた一鳴き。まるで気にするな、と励ましているようだ。
「また今度、わたがしも食べられる物を作ってきますね」
「ほんと?」
烈風刀の言葉に、リボンは顔をあげる。そこには、まだほんのりと悲しみがにじんでいた。それを振り払うように、はい、と力強く返事をする。待っていてくださいね、と足下のふわふわとした白い身体を撫でた。ワン、と元気な鳴き声が一つ廊下に響く。蒲公英の瞳が、柔らかな白と澄んだ浅葱を往復する。輝きを取り戻したその色が、元気よくぱちりと瞬いた。
「約束だよ!」
「はい、約束です」
少女は小指をピンと立てた手をこちらに伸ばす。少年も同じように小指を立て、手を差し出した。指と指が絡み合う。ゆーびきーりげーんまーん、と可愛らしい声とともに繋がった手が揺れた。
お菓子ありがとー。ワン。一言ずつ言い残し、一人と一匹は廊下を駆けていった。小さな背が初等部棟へと続く廊下に消えたことを確認し、碧は立ち上がる。帰ったら犬用クッキーのレシピを調べねば、と考えながら、再び廊下を歩き出した。
「れーふとー!」
「れふとー!」
また後ろから声。そして、タン、タン、とリズミカルに地を叩く音。少し特殊な足音に眉をひそめながらも、名を呼ばれた少年は振り返る。そこには、黒いマントをはためかせた二人の兎がいた。ライムグリーンの靴が床を踏みしめ、宙を飛ぶ。マントが羽のようにひらひらと舞った。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子くれなきゃいたずらしちゃうよー!」
ぴょん、と器用に烈風刀の目の前に着地し、ニアとノアはお決まりの文言を口にする。大きく開いた口からは、普段は見えない八重歯が覗いていた。きっと、仮装用の小道具だろう。丈の長い真っ黒なマントを見るに、吸血鬼の仮装だろうか。小さな両の手には、お菓子が顔を覗かせる紙袋が握られている。もう各所でたくさんお菓子をもらってきたらしい。
「二人とも、廊下を飛んではいけないと言っているでしょう」
「……トリックオアトリート!」
「おっ、お菓子!」
険しい面持ちでいつも通り注意する少年に、少女らはもう一度ハロウィンの挨拶を繰り返す。どうやらそれで誤魔化す気らしい。イベント事で浮ついているのは分かるが、やはり危ないのだから注意してほしいものだ。楽しいイベントだというのに、狭い空間で跳んで跳ねて怪我をしては台無しになってしまうのだから。
ふぅん、と翡翠の瞳が細められる。そこには日頃子どもたちと相対する彼らしからぬ少し冷たい色が宿っていた。
「悪い子にあげるお菓子はありませんよ」
「飛びません!」
「ちゃんと歩きます!」
はっきりと通る声に、双子兎はビシリと額に揃えた手を当て必死な声で叫ぶ。良い子にするからお菓子ください、と兎たちは合唱する。こちらを見つめる瑠璃の瞳はうるうると揺らめいていた。普通ならば、菓子をくれないならばいたずらをするところだろうに、よほど菓子が食べたいらしい。いたずらのことなどもう忘れてしまったようだ。きちんと言いつけを守ろうとする姿勢といい、素直なのはよろしいことである。
「良い子にしているならあげましょう。どうぞ」
「やったー!」
「ありがとう、れふと!」
はい、と小さな手に包みを乗せてやる。瞬間、悲しげに歪んでいた顔がぱぁと明るくなった。クッキー片手にぴょんぴょんと元気に跳ね、二人は礼の言葉を口にする。あ、と気まずげな音がこぼれ、地面を蹴る足音がピタリと止む。本当に言いつけを遵守するつもりのようだ。素直で微笑ましい姿に、少年は小さく笑みをこぼした。
チラリ、と青兎たちは碧を見上げる。星空色の視線が、手に持った袋と少年を往復する。何か言いたげな様子に、どうしたのだろうか、と小さく首を傾げる。もしや、もう一つ欲しいと言い出すのだろうか。
「一人一個ですよ」
「わ、分かってるよ!」
「そうじゃなくてー……」
うー、と不満げに呻きをあげ、少女たちは再び烈風刀を見上げる。ゆらゆら揺れる二対のアズライトが、エメラルドを見上げる。カサ、と小さな手に握られた紙袋が音をたてた。
「れふとはハロウィンやらないのー……?」
頭を寄せるように首を傾げ、兎たちは声を揃えて問う。予想外の言葉に、若草色の目がぱちりと瞬きをした。
ハロウィンならきちんと楽しんでいる。今まであってきた少女らのように仮装こそしていないが、子どもたちに渡すためにわざわざ菓子を作る程度には自分もハロウィンを満喫していた。二人にもきちんと菓子を渡したのだから、それは伝わっているはずだ。だのに、何故そのようなことを問うのだろう。
しばしの思考。あ、と小さな音が薄い唇からこぼれ落ちる。そういうことか、と頷き、少年は屈みこむ。蒼天のような瞳をまっすぐに見つめ、彼は手を差し出した。
「トリック・オア・トリート」
お菓子くれなきゃいたずらしちゃいますよ、といたずらげな調子でお決まりの文言を口にする。薄い唇の端は、ゆるりと持ち上がっていた。
ぴこん、と二人の頭に付けられたリボンカチューシャが揺れる。見つめた先、紺碧の瞳がキラキラと輝き出す。待っていました、とばかりにノアは持っていた紙袋に急いで手を突っ込む。長い袖を器用に操り、中から一つの袋を取りだした。
「お菓子あげるよ!」
「いたずらしないでー!」
きゃいきゃいとはしゃぎながら、双子は伸ばされた手に小さな袋を乗せる。白い英字が書かれた透明な袋の中には、クッキーが入っていた。溶けてしまったように輪郭が少しひしゃげ少し濃い焼き色をしたそれは、手作りだと一目で分かるものだ。きっと、彼女らも自分と同じようにハロウィンで皆に配る菓子を作ってきたのだ。そわそわとした様子を見るに、それを自分にも渡したくて仕方無かったらしい。それはそうだ、せっかく用意してきたのならば食べてもらいたい。それは、料理を作る者として当たり前の欲求だ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ!」
「れふともお菓子ありがとう! 大切に食べるね!」
少年はふわりと笑って礼を言う。ニアとノアの二人ももらった袋を大事そうに両の手で包み込み、ニコリと笑う。青空色の睫で縁取られた目が、虹のように大きな弧を描いた。
また明日ねー。ハッピーハロウィーン。双子兎はそう言って、玄関へと早足で歩いて行った。ちゃんと言いつけ通り歩いているあたり、彼女らは根は素直で良い子なのだ。いつも楽しい気持ちがそれを上回ってしまうのが問題なのだけれど、それはまだ幼い故だろう。
さて、と少年は袋の中を見る。クラスの友人たちに渡したのもあって、大きな紙袋の中身は朝よりだいぶ減っていた。それでも、まだ訪れていない子どもたちに配る分はあるはずだ。そして、愛しいレイシスにも。
彼女もハロウィンを楽しんでいるだろうか。菓子を渡したら喜んでくれるだろうか。そんなことを考え、少年は再び歩き出そうとした。
瞬間、視界が紫に染まる。目の前が一色に塗り潰され、ビクン、とクリーム色のジャケットに包まれた肩が跳ねた。突然の異常から逃げるように、反射的に一歩後退る。少し広くなった視界に、今度はオレンジが映り込んだ。ぱたぱたと羽がはためく音が静かな廊下に落ちる。
「菓子ヨコセー!」
「ジャナイトイタズラシチャウヨ?」
勢いの良い声とクスクスと高い笑い声が耳をくすぐる。目の前に突如現れたのは、学園の理科室に住み着いている小さな悪魔、カヲルとアシタだ。姉妹たちも、ハロウィンを楽しもうとしているらしい。学園内でも随一のいたずらっ子――今までの所業を考えるとそんな可愛らしい言葉で済ませていいのか疑問だが――の彼女らにはもってこいのイベントなのだ、普段よりも増して元気に見えた。
八重歯覗く口がサッサトシロヨ、ハヤクハヤク、と少し乱暴な調子で言葉を紡ぎ出す。先の尖った尻尾がゆらゆらと振られていた。
「いたずらされては困ります。はい、どうぞ」
袋から包みを二つ取り出し、小さな手に乗せてやる。シンプルなラッピングが施された小袋を見て、少女らは二マリと笑う。そこにはまだいたずらの色が宿っていた。
「コレッポッチジャ足リナイヨー?」
「モットヨコセー!」
菓子の袋を掴んだまま、双子は怒りを表すように両手を掲げる。八重歯覗く口からはケタケタと意地悪げな笑い声が漏れていた。どうやら、意地でもいたずらがしたいようだ。
「一人一つですよ」
「知ルカ!」
「クレナイナライタズラダネー」
眉を寄せ、烈風刀は小さな悪魔たちを眇目で見つめる。そんなことはお構いなしとばかりに、二人はわがままを叫んだ。クスクスとまた笑い声。こんなに幼いのに、とても悪魔らしい響きをしていた。
ホラホラ、と少女らは小さな三つ編みを揺らしにじり寄る。その手には、いつの間にか緑色の小瓶が握られていた。きっと、彼女ら謹製の香水だ。それも、ほぼ確実にただの香水ではない。怪しい効能付きのものである。ただでさえろくなことを起こさないのだ、『ハロウィン』といういたずらっ子の祭典のために用意されたそれがどんな効能を持つかなど考えたくもない。
きゅぽん、と蓋が抜かれる音。同時に、少年ははぁ、と溜め息一つ吐いた。投げやりに袋に手を突っ込み、もう一袋取り出す。今にも瓶を傾けんとする双子の前に、それを掲げて差し出した。
「特別ですよ。半分こしてくださいね」
他の子どもたちのいたずらなら甘んじて受け入れただろう。しかし、カヲルとアシタはただの幼い子どもでなく悪魔である。そんな何が起こるか全く分からない、実害を伴う彼女らのいたずらを受けるのはごめんである。菓子一個で回避できるなら素直にしておくべきだ。
「エー」
「モウ一個クレレバイイジャン」
「二人だけ特別なのですよ? わがまま言わない」
毅然とした碧の言葉に、双子悪魔は顔を見合わせる。不満げにぷくりと頬を膨らます姿は年相応の可愛らしいものだ。その手に握られた怪しい香水の瓶が全てを台無しにしているのだけれど。
チェー、と二人はいじけた声を発する。どうやら、この一袋で手を打ってくれるようだ。内心、ほっと胸を撫で下ろす。二人だけを特別扱いするのは少し気が引けるが、謎の香水の餌食になるとなれば話は別だ。菓子一個で己の身を守れるのならば安いものである。
カサカサとビニールが擦れる音。真っ先に袋を開け、少女らは白い手袋に包まれた手を袋の中に入れる。細く小さな指がクッキーを一枚掴み、口に運ぶ。サクリ、と軽い生地が割れる音がした。
「ウメー!」
「オイシイネ、カヲルタン!」
目の前に浮かぶブラッドレッドの瞳がキラキラと輝き出す。どうやら、お気に召したようだ。ウメー。オイシー。楽しげに声をあげながら、少女らは袋の中身をひょいひょいと口に放り込んでいく。頬を膨らませもぐもぐと食べる姿は、小動物的愛らしさがあった。この姿だけ見れば、ただの可愛らしい子どもなのだから困る。
食べれば無くなる。それは必然だ。二人で半分こ、それもハイペースで食べたため、袋はあっという間に空になってしまった。同じ色した二対の瞳が、名残惜しげに空になった袋を見つめる。しばしして、期待で彩られた顔がこちらに向けられた。
「ダメです」
「チェー」
「ケチー」
「特別だと言ったでしょう」
唇を尖らせる悪魔たちに、烈風刀は袋を後ろ手で隠しながら言う。これ以上食べられてはキリが無い。悪質ないたずらを盾にわがままを突き通させるのも、教育上よろしくない。ここできちんと終わらせなければいけないのだ。
「……マァ、勘弁シテヤンヨ。ネ、アシタタン」
「仕方ナイネー。カヲルタン」
姉妹は顔を見合わせケラケラと笑う。悪魔じみた響きが廊下にこだました。瞬間、目の前の小さな躯体が消える。どういう原理かは知らないが、どうやら満足して帰ったようだ。最初から最後まで心臓に悪い少女らだ。
高い笑い声が未だ耳に残る中、少年は歩き出す。度々子どもたちに引き留められるため、作戦会議室までの道のりはまだ遠い。アップデート作業は一昨日の時点で終わらせており、正常に動いていることは昨日確認済みである。ハロウィンを楽しみたいレイシスの望みを叶えるため、この一週間調節に調節を重ね、今日行うべき業務はできるだけ減らした。慌てる必要はないが、それでもあまり遅くなるのもよくないだろう。手早く済ませ、彼女が長くハロウィンを楽しめるようにしてやらねばならないのだ。それが今自分が何よりもやるべき事である。
作戦会議室目指し、少年はまた一歩踏み出す。タタタ、と軽快な足音が近づいてくる。また子どもたちだろうか。今度は誰が来るだろう、と考え、碧い少年はふと目を細め振り返った。
「烈風刀ー!」
耳に飛び込んできた耳慣れた声と視界に映った朱に、碧は眉を寄せる。これでもかというほど露骨に顔がしかめられた。
そんな彼の様子など毛ほども気にせず、走り寄ってきた少年――雷刀はキラキラと輝く目で弟を見つめる。大きな手をこれでもかと広げ、ずいと碧の目の前に差し出した。
「トリックオアトリート! 菓子くれ!」
「もうあげたでしょうが」
弾む声を冷たい声が切り捨てる。明らかにうんざりとした、機嫌の悪さを露わにした声だ。子どもたちの前ではまず見せない様子である。相手が血を分けた兄だからこそ、取り繕うことなく感情をさらけ出しているのだ。そして、こんな感情を抱くのも相手が兄だからである。
昨晩クッキーをラッピングしている最中、雷刀は突然言ってきたのだ。『トリック・オア・トリート』と一日早い挨拶を。明日まで待て、と拒否したが、彼はいたずらげな笑みで時計を指差した。よく見れば、壁掛け時計の短針は十二を指していた。どうやら、ラッピングしている内に日付を超えてしまったらしい。お決まりの文言が再び紡がれるより先に、脇に積み重なっていたクッキー一枚を引っ掴みその口に放り込んだのが今日の夜中の話である。これで彼の分は終わりだ、と思っていたのだが、また要求してくるとは。何とも図々しい兄を持ったものである。
「それはそれ、これはこれだろ? てかオレだけクッキー一枚とかさすがにひでーだろ」
ほら、と朱は広げた手をひらひらと振る。幼い子どもであれば可愛らしい光景であるが、相手は同い年の双子の兄である。可愛らしさなど欠片も感じない。ふてぶてしさだけがそこにあった。
「何? それとも烈風刀はいたずらがいい?」
ニヤ、と口角を吊り上げ、雷刀は笑う。差し出された手が顔の横まで持ち上がり、指が曲がり伸ばされを繰り返す。明らかに何かよからぬことを働こうとする動きだ。じり、と朱い少年は一歩にじり寄る。ほらほらー、と煽る声は腹立たしいものだ。
はぁ、とこれ見よがしに嘆息する。彼の考えるいたずらなど大したものではないだろうが、そんなものに構ってやる暇などない。紙袋の中に手を入れ、引っ掴んだそれを投げ渡す。宙を舞ったそれを、目の前の朱はきっちりと受け止めた。カサ、と手の内に収まった透明な袋が声をあげる。
「さんきゅ。いたずらは勘弁してやんよ」
「図々しいにも程があるでしょう」
ニコニコと楽しげな笑みを浮かべる雷刀に、烈風刀は酷く渋い顔で返す。何が『勘弁』だ、二度ももらうなどと卑怯なことをしているというのに。何とも身勝手で面倒な兄を持ったものである。
ふと頭に疑問がよぎる。これだけ人に菓子をねだる彼だが、その手には先ほど渡した菓子以外何も持っていない。ぱっと見たかぎりでは、ポケットに何かを入れている様子もないようだ。ふむ、と頷く。そのまま、少年はずいと手を差し出した。
「……トリック・オア・トリート」
碧は冷たい声と視線を浴びせる。え、と目の前の紅緋がきょとりと丸くなる。八重歯覗く口が間抜けに開かれた。
「人にねだっておいて、貴方は何も持っていないなんてことありませんよね?」
小首を傾げ、碧の少年はニコリと笑う。花浅葱の睫に彩られた目は柔らかな弧を描いているが、その表情は笑顔からは程遠い冷たさを孕んでいた。どこか気迫のあるそれは恐ろしさすら感じるものだ。
弟の言葉に、兄の身体がギクリと固まる。あ、え、と意味を持たない音が気まずげに開いた口から漏れ出る。真紅の瞳はうろうろと宙を泳ぎ、定まらない。ザリ、と音をたてて一歩後退ったのが見えた。踏み出し、離れた分の距離を詰める。ほら、と一言催促すると、びくんと目の前の身体が大袈裟なほど跳ねた。
「えーっと……」
濁った声を漏らしながら、朱はきょろきょろと視線を彷徨わせる。呻き声がいくらか漏れた後、彼は今しがたもらったばかりのクッキーをそろそろと差し出した。
「駄目に決まっているでしょうが」
ふざけた行動を冷え切った声が切り捨てる。だよなぁ、と諦めきった声が響いた。分かっているなら最初からやるな、と眉間に更に皺が刻まれる。よほど凄まじい形相をしているのだろう、うぇ、と目の前の朱が小さく苦い声を漏らしたのが見えた。
「お菓子がないのでしたら、いたずらしますね?」
一言放ち、烈風刀は一歩踏み出す。同時に、雷刀は一歩後退る。踏み出す。後退る。踏み出す。後退る。何度も繰り返されるそれに、一向に二人の距離は縮まらない。往生際が悪いにも程というものがある。
「…………やだ!」
子どもめいた声をあげ、雷刀は急いで踵を返す。ダン、と強く足を踏み出す。力強い足音ととも、片割れは廊下の奥へと消えていった。
一人だけの廊下に溜め息が一つ落ちる。呆れと疲労を滲ませた重苦しいものだった。鈍く痛む頭に手を添える。秋も終盤の空気でほんのりと冷えたそれが心地良く思えた。
人にしつこく菓子を要求しておいて、いざ自分が同じ文言を言われては逃げるなど、どれだけふざけているのだ。まさか小さい子相手にもやっているのではないか、と疑念が浮かび上がる。否、さすがにないだろう。彼も子どもたちが好きで、なかなかに面倒見が良いのだ。おそらく大人しくいたずらを受けているだろう。それが双子の弟相手となったら逃げるというのは何とも情けないが。
彼は自分だけクッキー一枚で済まされるのは酷い、と主張していた。それくらい分かっている。だから、家に帰ったら残った生地を焼いて、夕食後に一緒に食べようと考えていたのだ。けれども、こんなことをされてはさすがにそんな甘いことをする気は起こらない。冷凍したままにして、今度の休みに自分一人だけで食べてしまおう。そんなことを考えながら、少年はまた歩みを再開する。軽い足音が廊下に響いた。
「烈風刀!」
可憐な声とともに、ぱたぱたと軽やかな足音。前方、広がる視界に桃色が揺れる。紫色の三角帽がふわっと浮いた。
「烈風刀! トリック・オア・トリート! デス!」
落ちてしまいそうになった帽子を手で押さえつつ、走り寄ってきたレイシスは声高にハロウィンの挨拶をした。桃色の目と桜色の唇はにっこりと弧を描いており、彼女のテンションをよく表している。
レイシスはイベント事が大好きだ。しかし、イベントとアップデートは重なるもので、当日は運営業務に追われ満足にイベントを楽しむことはあまりできなかった。しかし、今年は少しだけ早めのハロウィン関連アップデートを行い、当日の業務を極力減らしたのだ。少なくとも、レイシスへの負担は最小限にしている。だからこそ、今年は楽しんできてください、と放課後彼女を友人たちの元へ送り出したのだ。あの時見せた、いっそ泣き出してしまいそうなほどの満面の笑みは、まだ瞼の裏に焼き付いている。
今年こそはとことん楽しむと決めたらしい。彼女の服装は、クリーム色の学園指定制服から変わっていた。濃紫のパフスリーブワンピースには、そこかしこをオレンジと黒の大ぶりなリボンが彩っている。丈は短いが、ふんだんにあしらわれたフリルからボリューミーな印象を与えられる。普段は高い位置でツインテールにしているピンク色の髪は、今日は太くゆるい三つ編みのお下げにアレンジされていた。頭にはワンピースと同じ色をした大きな三角帽子が被されている。先日、別世界と繋がった際に撮影したハロウィンドレスだ。今日という日にぴったりな衣装である。肩に掛けられたトートバッグは膨らんでいる。きっと、友人らに菓子をたくさんもらったのだろう。彼女の交友関係の広さと人望が窺える。
愛しい少女の可愛らしい姿に、烈風刀は口元を綻ばせる。魔女らしくも少女然としたデザインは、愛らしい彼女によく似合っていた。二つ結びになった三つ編みが、普段よりも幼く純朴とした印象を与える。楚々とした彼女のために作られた衣装は、その魅力を何倍にも膨らませていた。
「はい、お菓子あげますから――」
だらしなく緩みそうになる頬に力を入れつつ、少年は紙袋に手を入れる。掴んで取り出したのは、先ほどニアとノアにもらったクッキーだった。想定外のものに、碧い目が丸くなる。一度しまい、改めて袋の中を覗き込む。あれだけあったクッキーの包みは、綺麗に無くなっていた。
あれ、と思わず疑問符が多分に含まれた声が漏れる。何度袋の中を手で引っ掻き回しても、あるのは二人にもらったクッキーだけだ。自分で作ったものは一つも見当たらない。どうやら、先ほど雷刀に渡したものが最後だったようだ。あの兄め、と弟は眉を寄せる。せっかくたくさん作ってきた――愛しいレイシスにも食べて喜んでもらうために作ってきたというのに、無くなっては意味がないではないか。きちんと計算して用意しなかった自分にも非はあるが、直接の原因となった兄へ恨みを向けてしまう。白い眉間に皺が刻まれた。
「アレ? 烈風刀?」
ずっと紙袋の中を探る少年の姿に違和感を覚えたのだろう、少女は不思議そうに首を傾げ、彼の名を呼ぶ。野の花が風にそよぐように、撫子の髪がふわりと揺れた。
「えっと……その……」
「もしかシテ、お菓子ないんデスカ?」
「…………はい」
少女の問いに、少年は消沈した声で答える。もらったお菓子が入った紙袋を丁寧に地面に置き、両手を頭の横まで上げる。降参のポーズだ。好きにしてくれ、と全身で語っていた。
はわ、とレイシスはこぼす。その声は悲しみと喜びがない交ぜになった不思議な色をしていた。お菓子がもらえない悲嘆と、いたずらができる歓喜が同時に湧き起こってきているのだろう。菓子好きでイベント好きな彼女としては複雑であろう。
「……ジャア、いたずらしちゃいマス!」
しばしの沈黙の後、キラン、と紅水晶の瞳が輝く。温厚な彼女には珍しい、いたずらっ子の光が宿っていた。せっかくのハロウィンだ、お菓子だけでなくいたずらも楽しみだったであろうことはよく分かる。それが堪能できる今に目を輝かせるのは必然だ。
一体どんないたずらをされるのだろう、と少年は楽しげな少女を目の前に考える。清楚で元気な彼女は、どちらかというといたずらをされる側だ。年相応にお茶目な部分はあれど、いたずらをすることなど滅多にない。そんな彼女のいたずら、それもハロウィンというはっきりとした名目のある本気のものなど、想像が付かなかった。
薔薇色の少女は、じりじりと碧の少年に近づく。距離が縮まる度に、鼓動が速くなっていく。何をされるか分からない緊張もあるが、それ以上に好きな女の子が自分のすぐ近くまで来ているという事実が心臓を力いっぱい動かした。こくり、と息を呑む。口の中は二つの緊張でどんどんと乾いていった。
「コチョコチョー!」
元気な声とともに、少女は少年へと飛びかかる。好きな女の子がすぐ近くまで――しかも、己の胸に飛び込んでくるように迫ってきた事実に、烈風刀の頬にぶわっと紅が刷かれた。天河石の目が怯えたように、逃げるようにぎゅっと閉じられる。
抱きつくように大きく開かれた細い腕は、少年の脇腹へと伸ばされた。たおやかな指が曲げられ、伸ばされ、制服の上から薄い肌をくすぐる。白い指は何度も蠢き、少年の横腹を細かくなぞった。
敏感な部分に触れられ、肌が粟立つ。瞬間、身体中にくすぐったさが広がっていく。は、と呼気にも似た音が開かれた口から漏れた。
「ぁっ、は、ははッ!」
容赦ない手の動きに、烈風刀は大きな笑い声をあげる。物静かな彼らしくもない、腹の底から出すような大声だ。くすぐられているのだ、そんな声もあげてしまうのも仕方が無いだろう。我慢しろと言う方が難しい。
「ッ、あ、はは! れいし、す! あは、やめ、やめてくだ、ははは!」
「逃げちゃダメデスヨー?」
コチョコチョー、と楽しげな声を奏でながら、少女の細く美しい指が少年の脇腹をくすぐる。容赦など全くない、本気の動きだ。何にでもまっすぐ全力を出す彼女だ、いたずらも例外では無いのだろう。された側はたまったものではないが。
ははは、と少年はらしくもない大笑声をあげ続ける。あげるしかないのだ。全身を支配するくすぐったさに何もできなくなってしまっていた。距離を取ろうにも、愛するレイシスに『逃げないで』だなんて言われては、動くことなど本能が拒否する。結果、ただただその場に立ち尽くし、少女のいたずらを一身に受けるばかりだ。
「は、ぁっ、はは! あ、は! れい、しす! も、や、ぁっ、はははは!」
涙すら浮かべ笑う碧の姿に、桃はふふ、と笑みをこぼす。小悪魔めいた、いたずらっ子な響きだ。白魚のような手は止まることなく、こちょこちょと少年の脇腹をなぞる。その度に、彼は普段よりも少し高い笑い声をあげた。人のいない廊下に、いたずらっ子の楽しげな声と被害者の笑い声が響いた。
どれほど経っただろうか、ようやく少女の手が退いていく。ようやく全身を襲うくすぐったさから解放され、烈風刀は思わずその場に崩折れた。腹を抱えるように脇腹を押さえて蹲り、ぜーはーと大きく息を吐く。あまりにも大きく長く笑ったため、呼吸するのもままならない。そういえばくすぐりは拷問に使われるとどこかで聞いたな、と酸素が足りていない脳味噌が余計なことを思い出した。
「大丈夫デスカ?」
ワタシのせいデスケド、と言いながら、レイシスは蹲った少年の顔を覗き込む。その目からはいたずらっ子の光は消え失せ、常通りの優しい色が戻っていた。心配げの声には、どこか満足感が滲んでいる。やはり、盛大に全力でいたずらできたのが嬉しいようだ。彼女が喜んでくれたならば、と少年の献身的な部分が満たされていく。未だ息が整わない身体は、もう少し加減してくれ、と泣き言を吐いた。
だいじょうぶです、と息も絶え絶えに答える。すー、はー、と意識的に深呼吸をする。長い間くすぐられていたためか、まだ脇腹がぞわぞわとした感覚に陥る。ひ、と時折引きつった笑い声が名残のように漏れ出た。バクバクと心臓が大きく鼓動する。くすぐられていた名残もだが、好きな女の子に触れそうなほど近く、否、実際に触れられたことに小さな心が反応しているのだ。上気した頬は、いたずらによる笑みだけでなく恋の色がふわりと浮かんでいた。
「らい、ねん、は、ちゃんと、用意、します、の、で……、勘弁、して、くださいね……」
「もちろんデス! お菓子くれたらいたずらなんかしマセンヨ」
笑い疲れもはや虫の息の烈風刀の言葉に、レイシスは笑顔で答える。大輪の花のように華やかな笑顔は可愛らしいものだ。けれども、碧にはそのかんばせがどこか恐ろしいものに見えた。
降ってきた声に、少年は安堵の息を吐く。素直できちんとした彼女がトリックもトリートもいっぺんにやるとは思えないが、いたずらを受けたばかりの脳味噌にはその保証の言葉は何よりも染み入った。
懸命な深呼吸の末、ようやく息が整ってきた。はー、と一度大きく息を吐き、烈風刀は立ち上がる。まだ脇がそわそわとする感覚があるが、笑いも息も大方収まった。もう動けるだろう。
ニコニコと人好きする笑みを浮かべる桃を見やる。菓子という彼女が一番求めていたものを差し出すことができなかった悔やみはあれど、最終的にいたずらで満足してくれたのはいい。しかし、やられっぱなしというのも己の性にあわない。少しのいたずら心が、少年の胸に芽生えた。
「……とりっく、おあ、とりーと」
笑い疲れた声で碧は言葉を紡ぐ。どこか拙い響きをしていた。急くように差し出された手に、桃ははわっ、と声をあげる。驚きに開かれたラズベリルは、すぐにどこか得意げに細まった。
「もちろん、用意してありマスヨ!」
ふふん、と楽しげに鼻を鳴らし、少女は肩に掛けたトートバックに手を入れる。中を掻き回してしばらく、なめらかな手が透明な袋を掴んで取り出した。小さなそれの中には、小ぶりなマフィンが収められていた。カボチャを練り込んだのだろう、オレンジ色の生地はドーム状に丸く膨らみ、その斜面には三角形が三つチョコレートで描かれていた。二つの逆三角形の間に小さな三角形がある様は、ジャック・オ・ランタンを思わせる。ハロウィンらしい可愛らしい菓子だ。
手渡された愛らしいデザインの菓子に、少年はふわりと笑みをこぼす。彼女の料理の腕前は高い。このような見目の美しさ、そこから想像できる美味しさは確かに保証されている。何より、好きな女の子の手作りお菓子をもらえたのが大きい。密かながらも多大な恋心を抱える碧にとって、それは何よりも嬉しく喜ばしいことだ。表情が緩むのも仕方の無いことだろう。
「ダカラ、いたずらしちゃダメデスヨ?」
「お菓子をもらえたのですからしませんよ」
顎に人差し指を当て、レイシスは茶目っ気たっぷりに言う。烈風刀も軽い口調で真面目な言葉を返した。ふふ、と笑声が二つこぼれ落ちる。
「ハロウィン、楽しいデスネ!」
そう言って、薔薇色の少女はニコリと笑った。お菓子にいたずら、どちらも堪能できた今年のハロウィンは、彼女にとって良い思い出となったようだ。今まで業務を最優先にし、イベント事を楽しむ機会を失っていた彼女が、これほどまでハロウィンを楽しんでいる。愛する人が喜びに溢れ笑う様に、碧の少年の胸に幸福が広がっていく。彼女の幸せが、彼にとっての最大の幸せだった。
それはよかった、と烈風刀は微笑む。ハイ、と少女はにっこりとした笑顔で頷いた。
カボチャ色の陽が、二人の横顔を照らした。
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お昼は二人でたこパしよっ【嬬武器兄弟】
お昼は二人でたこパしよっ【嬬武器兄弟】
いつもの診断メーカーで掌編書こうとしたら思いの外長くなったので。
嬬武器兄弟がたこ焼き焼くだけ。
AOINOさんには「100グラム足りなかった」で始まり、「優しい風が髪を揺らした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以上でお願いします。
「あっ、百グラム足りねぇ」
やべ、と雷刀は顔をしかめる。電子計量器の液晶画面には、必要分量から百グラムほど少ない数字が表示されていた。ボウルに移していた袋の中身はもう空っぽである。どれだけ逆さにして振っても、出てくるのは一グラムにも満たない微量の粉だけだ。
え、という声とともに、野菜が刻まれる小気味良い音が止む。隣を見ると、包丁を手にしたままこちらを向く烈風刀の姿があった。手早く手を洗った彼はこちらに歩み寄り、一緒にスケールの数字を覗き込んだ。
「……買い置き、ありませんでしたよね?」
「これが最後だったと思う……」
どうしよ、と少年は縋るような目で碧を見る。他の具材の準備はとうに済ませてしまった。もう戻れない場所まで来てしまっているのだ。だのに肝心のものがこれでは、今日の昼食が台無しになってしまう。縋るように再び袋を逆さに振る。最早欠片すら出てこなかった。
ふむ、と弟は顎に指を当てる。貸してください、と言われ、袋を手渡す。裏面をじっくりと読んだ彼は冷蔵庫にまっすぐに向かい、奥から小麦粉を取り出した。
「残りは小麦粉でもいいでしょう。原材料はほぼ同じのようですし」
そう言って、彼は袋の留め具を外しボウルに粉を入れていく。デジタルの数字がちょうど必要な分量を示したところで、テキパキと片付けた。その流れるような手さばきを呆然と眺める。朱い頭がこわごわと傾いだ。
「いいのか……?」
「まぁ、出汁が足りないかもしれませんけれど、食べる時に鰹節をたっぷりかければいいでしょう」
不安げに尋ねる兄にあっけらかんと言い放ち、弟は再びまな板に向かう。包丁が動く度、プラスチックの板の上で緑が細かくなっていく。ザクザクと耳障りの良い音がキッチンに響いた。
基本的に、烈風刀はレシピ遵守を心掛けている。大体これくらいでいいだろう、といつも勘で料理をする自分とは大違いだ。けれども、時たまこうやって雑になることがある。彼が培ってきた知識と経験あってこその判断なのだから、そう見えるだけであって信頼できる合理的なものだ。それでも、真面目な彼が己と同じようなことをするだなんて、と毎度意外に思ってしまう。同時に親近感を覚えた。そんなことを言ったら、感覚だけでやっている貴方とは違う、と怒られるだろうけれど。
「さ、こっちは終わりましたよ。生地の方、お願いしますね」
ボウルに刻んだ野菜を入れ、烈風刀はこちらを見やる。未だスケールに乗せられたボウルを前に佇む自分に、少し冷めた目線が送られる。あっ、と声を漏らし、雷刀は急いで粉袋の裏面に書かれた分量の水と卵を入れてかき混ぜる。少しダマのできたそれとお玉を抱え、雷刀も彼に続いて食卓へと足早に向かった。
いつも多くの料理が並ぶテーブルの上には、ボウルやスチロールトレイといった食器と言い難いものが並んでいた。その中央に、大きなホットプレートが鎮座している。久しぶりの彼の登場に、朱は目を輝かせた。
手早く付属品とコンセントをセットし、スイッチを入れる。熱を発し始めたそれに、烈風刀は窪み一つ一つに油を塗り込んでいく。全体に油が染み渡ったことを確認し、彼は先ほど作ったばかりの生地を流し込む。じゅわぁ、と音とともに白が黒いプレートを塗り潰していく。水分の多いそれは一気に丸い窪みを満たしていった。
脇に置いていたトレイを手に取り、彼は刻んだタコを一つ一つ手早く放り込んでいく。それが終わると、すぐさま揚げ玉が入った袋を傾けプレート全体に降らせていく。続けて刻んだキャベツと紅ショウガ。黒かったプレートは、白と緑と赤で彩られた。
じゅうじゅうと鳴くプレートを前に、雷刀は竹串を持つ。スッと金属プレートに走る溝に合わせて手早く線を引き、今度は深い窪みへと差し込む。端にはみ出した生地を中に巻き込むようにしてくるくると回してひっくり返していく。軽やかな指さばきにより、半円だった生地は丸い形に整えられていった。
すっかり球体になった生地をころころと転がし、きつね色になった頃合いを見計らって皿に移していく。いくつもの丸が白い食器の上を転がり、串でつつかれ整列する。上からソースを掛け、マヨネーズ、青のり、そして弟が言ったようにたっぷりの鰹節を浴びせる。生地の熱を受けた鰹節がひらひらと拙いダンスを踊った。
「烈風刀、できたぞー」
「ありがとうございます」
油を引き直し生地と具材を再び投入している弟の前に、たこ焼きが載った皿を置く。ちょうど入れ終わったのだろう、烈風刀は礼の言葉を言い手を止めた。
パシン、と手を合わせる音。続けて、いただきます、と二人分の声が重なった。
箸を手に取り、まあるいそれを一つ引っ掴む。ふーふー、と念入りに息を吹きかけ、口の中に放り込む。瞬間、ソースと甘さとマヨネーズの塩気、青のりの風味、生地と鰹節の濃厚な味が口の中に広がった。同時に、凄まじい熱が舌と口内粘膜を焼いていく。
「あっふ!」
「ちゃんと冷まして食べなさい」
もう、と呆れた声を発しつつ、烈風刀ははふはふと空気を求めて口を開ける兄の前に麦茶が入ったグラスを置く。礼を言う暇も無くそれを手に取り、口の中に流し込む。冷たい液体が粘膜を冷まし潤していく。喉を焼きつつ、柔らかなたこ焼きは少年の胃の腑に収められた。
「んめー!」
中身が空になったグラスを机に置き、雷刀は歓喜の声をあげる。口内を焼き払っていったたこ焼きは、思わず声をあげるほどの美味しさだった。さすがたこ焼き粉、と内心頷く。今回は半分近くがただの小麦粉なのだけれど。それでもいつも通り美味く感じるのは、弟が言ったように鰹節で旨味を補っているからだろう。やはり、彼の知識と経験に基づく判断は素晴らしいものだ。
麦茶を注ぎつつ、向かい側を見やる。自分以上に念入りに息を吹きかける碧の姿が目に入った。青色の箸が動き、ソースたちで彩られた丸を口に運ぶ。はふ、と息を吐き出す音。口に手を当て、彼は咀嚼する。少し膨れて動く頬は子どもらしく愛らしいものだ。喉が動き、嚥下する様が分かる。一拍置いて、美味しい、と柔らかな声が聞こえた。だろ、と朱は得意げに箸を回した。
「貴方、本当にたこ焼きを焼くのが上手ですよね」
「だろー? オニイチャンすごいだろー?」
こういうことばかりですけどね、と烈風刀は笑う。なんだよ、と拗ねた口調で返す。音に反して口角は上がり、緩い孤を描いていた。ふ、と笑声が二つテーブルにこぼれ落ちる。
じゅわじゅわと声をあげる生地を見て、雷刀は竹串を操る。くるりくるり回転する生地の面倒を見つつ、冷めつつあるたこ焼きを口にする。カリッとした表面が、とろりととろける中身が相変わらず口内を焼く。それでも、食べる手は止められなかった。この瞬間が好きだ。たこ焼きやお好み焼きといった食べながら作るものは、なんだかある種のイベントのようで楽しいのだ。
作業をしながらものを食べるなど、行儀が悪いと怒られるだろう。けれども、今日ばかりは烈風刀は何も言わなかった。大切な昼食の調理をしているのだから当たり前だ。今日ばかりは彼が口出しできることなど無い。そこも少しだけ好きだった。あの何でもできる弟に頼られている感覚がするのは嬉しい。たとえそれが、たこ焼きを焼くなんて単純なことであっても。
焼けた生地を皿に移して、ソースたちを降らせて、プレートに油を敷いて、生地を流し込んで、具材を撒いて。それを繰り返しながら昼食の時間は進んでいく。調理しつつのそれは、普段よりも長くゆったりとした時間だった。
ボウルの中の生地が無くなり、ザルやトレイの中の具材たちも消える。ほとんどのものが焼け、プレートの上も穴あき状態だ。端の焼けにくいものを中央に移動させながら、雷刀はたこ焼きを頬張る。随分と冷めてしまったが、これぐらいのものも良い。舌を犠牲にしながら熱々なものを食べるのもいいが、冷めて表面がしっとり柔らかになったものも十二分に美味いのだ。
ようやくプレートの上から生地がいなくなる。皿の上の丸たちもすっかり少年らの胃の中に収められた。パン、と再び手を合わせる音。ごちそうさまでした、と二重奏が奏でられた。
あっつ、と呟き、雷刀は窓際に歩み寄る。鍵を開け、背丈より大きな窓を開く。さぁと清涼な風が熱っぽいリビングダイニングに吹き込んできた。汗ばんだ肌を澄んだ風が撫ぜ、身体を冷ましていく。調理後や食後のこの感覚がいつも心地良くてたまらなかった。
「来週はお好み焼きな」
「粉物続きではありませんか」
くるりと振り返り、雷刀は指を立てて笑う。呆れた笑みが返された。
そんなことを言いつつも、きっと彼は来週も己の望みを叶えてくれるだろう。今度は粉が足りないなんて事態に至らないように、次の買い出しではお好み焼き粉を買わないと。後で買い物リストに書き足そう、と考え、少年はゆるりと頬を緩めた。
週末の午後、優しい風が朱い髪を揺らした。
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書き出しと終わりまとめ11【SDVX】
書き出しと終わりまとめ11【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその11。ボというか嬬武器兄弟6個。毎度の如く診断する時の名前がちょくちょく違うのは気にしない。
成分表示:ライレフ(神十字)5/嬬武器兄弟1
青空に白を浮かべて/神十字
AOINOさんには「ある晴れた日のことだった」で始まり、「そっと笑いかけた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
ある晴れた昼下り。神、と愛しい声が己を示す語をなぞる。紙面に落としていた視線を上げる。広がった視界に洗濯かごを抱えた蒼の姿が映った。
「洗濯物干すの手伝ってくれませんか?」
眉尻を少し下げた青年は、手にしたかごを軽く持ち上げる。中にはシーツと思われる白い布がこんもりと山を成していた。きっと、今朝回収したのだろう。これだけ晴れているのだから、シーツのような大きなものを乾かすにはちょうどいい。
いいぜ、と返し、本を棚に戻す。小走りで駆け寄り、洗濯かごをその手から奪った。大丈夫ですよ、と青年は軽く眉を寄せる。いーの、と言って、奪い取られないよう強く抱きかかえた。
「貴方、過保護なところがありますよね」
「そーか? オレの方が力あんだから、オレが持った方がごーりてきじゃん」
どこか呆れた様子の彼に、飄々とした口調で返す。事実ではある。日々子どもの相手をする彼は見た目以上に力があるが、人間誰しも限界がある。働き者の彼が疲労という限界を少しでも迎えないよう気を遣うのは、人を守る存在として――彼に救われ慕う身として当たり前だ。
裏口を開け、庭に出る。晴天という言葉がよく似合う、陽の光と鮮やかな青と緑が眩しい世界だった。絶好の洗濯日和だ。蒼は駆け足で物干し場に向かい、ロープを張る。その後ろを紅はゆったりとした歩調で続いた。
かごを地面に置き、中からシーツを一枚取り出す。大判のそれをバサリと一度振り、皺を伸ばす。広がったそれを、ピンと張られたロープに跨がせる。傍らのかごに入れられた洗濯ばさみで両横を閉じ、手でパンパンと生地を叩く。これで一枚完成だ。
「すっかり様になっていますね」
いつの間にか戻ってきた青年はそう言ってクスクスと笑う。目を細め口元に指をやるその笑みはどこか上品だ。協会周りに咲く、名も知らぬこぶりな白い花が脳裏に浮かんだ。
「洗濯物が様になる神様って何だよ……」
「人に寄り添う優しい優しい神様のことではありませんか?」
頬を膨らませ返すが、相手は気にする様子もない。歌うように言うと、彼もシーツを一枚手に取る。己と同じように広げ、吊るし、止める。そよぐ風が二枚の白い布を揺らせた。
「さ、早く干してしまいましょう」
「おう」
手分けしてどんどんと敷布を干していく。はためく布が二桁を越したところで、かごの中は元の茶色に戻った。
「ありがとうございます。おかげで早く終わりました」
「つかれたー……」
溜め息を吐くようにこぼし、ぐっと背伸びをする。見上げた空は雲一つなく青い。風も適度に吹いているから、きっとすぐに乾くだろう。干したての匂いのするシーツに身を任せる幸せを思い浮かべ、神は口元を緩める。今日の子どもたちは幸せに包まれて眠るのだろう。良いことだ。
「うちのシーツも今日洗えばよかったなー」
「そうですね。これだけ天気が良ければすぐに乾くでしょうし」
「今から帰って洗ってくるか?」
藍玉がぱちりと瞬く。瞬間、ふ、と笑声が緑の草原に落ちた。はは、と青年は大口を開けて笑う。浅葱の睫毛に縁取られた目が、大きく弧を描いた。
「何で笑うんだよ」
「い、いえ、すみません」
突然笑われ、思わず不服げな声を漏らす。善意で言ったというのに、こうも笑われては流石に気分が良くない。すみません、と謝る声は笑みを噛み殺したものだ。ふふ、と笑い声が蒼天に登った。
「すっかり人の生活に馴染みましたね」
はー、と息を吐きながら、蒼は言う。ぱちり、と紅玉の目が瞬いた。
たしかに彼の言う通りだ。昔の――目覚めたての自分ならば、わざわざ洗濯物を気にかけることなどしなかっただろう。すっかり人の生活に慣れた証拠だ――それほど、彼と共に過ごし、生きてきた証拠でもある。喜ばしいことなのだろうか。それとも神として嘆くべきことなのだろうか。
「大丈夫ですよ。神様にそこまでさせられません」
地面に置いたかごを抱え、青年は笑いかけた。ふふ、とまた声を漏らして笑う。よほどツボに入ったらしい。そこまで笑わなくていいだろ、と唇を尖らせる。すみません、と再び謝る声は、やはり笑みを含んだものだ。
「さ、戻りましょう。お茶を用意しますね」
「やった」
「洗濯物を気にかけてくれる優しい神様は労らないといけませんからね」
「……そろそろ怒るぞ」
「すみません」
軽口を叩きながら、二人連れ立って歩く。草が掻き分けられる音が空に響いた。
依然口元が緩んだ横顔を見る。幸せそうなそれは、いつだって己が求めてきたものだ。ヒトの笑顔は尊く素晴らしいものだ。それが、愛する者のものならば尚更だ。
「お茶請け多めで許してやんよ」
茶目っ気たっぷりに言って、人に寄り添う神様は愛しい笑顔にそっと笑いかけた。
夜、二人きり、鼓動重ねて/神十字
AOINOさんには「暗闇なんて怖くなかった」で始まり、「緑が目に眩しかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字)以内でお願いします。
暗闇が怖くないといえば嘘になる。
ヒトと暮らす幸せを思い出してしまった今、再び眠りという闇に包まれるのがほんの少しだけ恐ろしかった。また一人になる。また忘れ去られる。昔は諦観していたそれらは、今では考えただけで怖気がそわりと走るのだ。
「貴方、たまに甘えたになりますよね」
クスクスと笑い声が耳をくすぐる。囁くような声音は、幼い子どもに語りかける時のそれと同じだ。
「いーじゃん、たまになんだから」
濁す言葉は拗ねた響きをしていた。これでは子ども扱いされても仕方がない。己の幼稚さに思わず眉を寄せる。閉じられた口がもにょもにょと動いた。
そうですね、と返し、枕に頭を預けた青年は目を細める。言葉を紡ぐ口元は、依然緩い弧を描いていた。ふふ、と上機嫌な笑声がベッドに落ちる。夜闇の中の翡翠は眠気で潤んで見えた。
ごそごそと布団の中で身体を動かし、目の前の蒼に寄る。腕を伸ばし、そのまま隣に横たわる身を抱き締めた。
ゼロ距離の中、白い首元に顔を寄せる。石鹸の清潔な匂いが鼻孔をくすぐる。服越しに、温かな熱が伝わってくる。とくりとくりと命の脈動が聞こえる。
生きている。ここにいる。存在している。
それを、自らの手で確認できる。
胸の闇を払う幸福に、人ならざる者は小さく息を吐く。白い肌にぐりぐりと頭を擦り付ける。くすぐったいですよ、と笑みを含んだ抗議の声があがった。
トントンと背に触れる手が穏やかなリズムを刻む。幼子を寝かしつける手付きだ。今日はとことん子ども扱いだ。不満だが、心地のいいそれには抗うことができなかった。
「おやすみなさい」
愛しい声が耳をくすぐる。顔を離し、枕に頭を預け、真正面から愛し子を見つめる。紅玉に射抜かれた藍玉はぱちりと瞬き、柔らかに細められた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた碧が、夜だというのに眩しいぐらいつやめいて見えた。
上手くなるまでいっぱいれんしゅーしよーな/ライレフ
あおいちさんには「呼吸も忘れてしまいそうだった」で始まり、「魔法は3秒で解けました」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
呼吸なぞ忘れてしまった。
ぬめる舌が口腔を荒らす。歯を、硬口蓋を、頬粘膜を、赤が隅々まで味わっていく。熱が、己のそれを攫って絡みつく。ざらりとした表面を擦り合わせると、背筋を何かが走っていく。肩に添えた手に力が入る。捕らえられた頬をよりがっしりと掴まれ、熱塊が更なる奥へと潜り込んだ。
頭がぼぅと靄がかっていく。口吻による快楽だけではない、酸素が不足しているのだ。バシバシと掴んだ肩を叩く。意図を察してか、重なった唇が離れていく。未練がましく伸ばされた舌と舌との間に、透明な糸が橋がかった。
「烈風刀、ほんとに息継ぎ下手くそだよなー」
余裕綽々といった様子で雷刀は言う。うるさい、と発しようとした声は喉奥に消えた。代わりに、悔しげな呻きが漏れた。
息継ぎが下手であるのは全くの事実だ。快楽に溺れやすい己の身体は、目の前の悦びに身を委ねすぐに呼吸の仕方を忘れてしまう。浅い触れ合いなら何とかなる。けれども、今のような深いものとなると、悦楽に翻弄され息を忘れてしまうのだ。
なんと淫らなのだろう。なんとはしたないのだろう。己でも嫌気が差す。けれども、どれだけ嫌悪を積み重ねようが、兄によって暴かれた本性は変わりようがなかった。むしろ、悪化の一途を辿っている。頭を抱える他ない。
「れんしゅーする?」
赤い舌が伸ばされ、ちろりと唇を舐められる。真正面から見据える紅玉の奥には、炎がきらめいていた。情火燃ゆる瞳に射抜かれ、腹の奥が鳴き声をあげる。気がつけば、はい、と細い声で返していた。
彼の言う『練習』なぞ、口実でしかない。それを理解した上で――理解するより先に本能が返答をしたのだから、己も大概だ。若葉の眉が寄せられる。ちゅ、と眉間に口づけが落とされた。
ちゅ、ちゅ、とリップ音が降りてくる。温かな唇が、己のそれと重なる。刹那、熱は離れた。
「ちょっとずつ長くしてこーなー」
困ったように眉を下げ、兄は笑う。そんな表情をさせるほど、己は浅ましい顔を晒していたようだ。頬に熱が集まる。きゅ、と唇を真横に引き結んだ。
ふ、と笑声。瞬間、また唇が重なる。一秒触れて、離れて、二秒重なって、離れて、三秒交わって、離れて。付いて離れてを繰り返す。ふ、と鼻にかかった音が漏れた。
「そうそう、鼻で息吸って」
言葉とともに、口づけが降ってくる。今度は押し付け合うような長いものだ。声の通り、鼻で呼吸をする。けれども、それもすぐに途切れた。
ぬめる塊が唇を撫でる。反射的に開くと、すぐさま熱い舌が侵入してくる。ちょんと先で突いて、舐めて、絡み合う。重なる度、合わさった場所から甘い息が漏れ出る。呼気が出ていくばかりで、吸気に気を払うことなどできなかった。
兄の言葉など、三秒も経たずに解けて消えた。
笑顔奏でる貴方が/嬬武器兄弟
あおいちさんには「あなたはいつも笑うから」で始まり、「来年の今日もあなたといたい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以上でお願いします。
この人はいつも笑うな、と心の底で呟く。
もちろん、相応に怒ったり、悲しんだり、泣いたりする姿も見る。けれども、その顔に一番多く浮かぶのは晴れやかな笑みなのだ。いつだって、彼は世界の全てを楽しむように笑っている。
胼胝の浮かんだ硬い手が、指板の上を素早く駆ける。小さなピックが弦を弾く。様々な機械を通し、音を形作ってステージ上に響いた。攻撃的な音色に混じって、微かな鼻歌が耳に届く。上機嫌なそれは、今演奏中の楽曲だ。女性ボーカルのそれが、オクターブ低い音で奏でられる。
また笑っている。それも、鼻歌なんか歌うくらい楽しそうに。同じくピックを操りながら、烈風刀は横目で兄を見やる。普段からよく動く大きな口は、愉快げに口角を上げていた。手元を覗く瞳も、ぱっちりと開き輝いている。
明日は今年三度のライブステージだ。それも、別世界からのゲストを交えた大きなものである。緊張を覚えるのが普通だ。少なくとも、己は緊張を覚えている。楽器を手にするようになってからまだ日は浅く、ステージに立つようになったのもまだまだ数が少ない。ただでさえ緊張する場面だというのに、加えてゲストを招くなんて普段以上にミスが許されない状況に置かれているのだ。神経が張り詰めてしまうのも仕方の無いことである。
だのに、兄はこんな状況でも笑っているのだ。普段と変わらず笑みを浮かべ、変わらぬ風に軽やかにピックを操り、豊かな音色を奏でる。神経が尖った今の己には、異常にすら映る光景だ。こんな大舞台を前に、常と変わらずにいられるだなんて、どれだけ肝が据わっているのだろう。それとも彼らしく何も考えていないのだろうか、なんて失礼なことを考える。
「どした?」
ギターに吸い込まれていた朱い目がこちらに向かう。無意識に顔までそちらに向いていたようだ。焦りが胸を走る。きゅ、と喉が締まる感覚がした。
「あ、もしかしてミスってた?」
「いえ、合ってますよ」
少しの不安を浮かべた顔に、首を振って返す。事実、雷刀の奏でるメロディは正確なものだった。音はもちろんリズムの狂いすら無いのだから恐ろしい。
よかったぁ、と再び笑顔が咲く。依然明るい、陳腐な表現をすれば向日葵のような大輪の笑みだ。こんな状況でも笑うだなんて。胸の底に何かが渦巻く感覚がした。
「……緊張しないのですか?」
気づけば、言葉が口を突いて出ていた。しまった、と反射的に顔をしかめる。そんなことを聞いても仕方無いということなど分かっているというのに。どうせ『してない』とばっさり切られるのが関の山だ。
「してるぜ?」
きょとりとした表情で雷刀は言う。予想外の返答に、浅葱の瞳がまあるく見開かれる。驚愕を表すように、ぱちぱちと幾度も瞬いた。
「軽音部とかでライブは結構やってるけどさー、これだけ規模でかいのは初めてなんだよな。さすがに緊張する」
ピックを指で擦りながら、兄はへらりと笑う。眉の端が少し下がった、少し頼りがないものだ。『緊張』という言葉が己を安心させるための嘘ではないと言うことを裏付けていた。
「……では、何故そんなに笑っているのですか? 緊張してる人の表情とはとても思えませんよ」
彼の表情はどう見ても普段と同じだ。太陽のように明るい笑顔を浮かべ、心の底から楽しそうに弦を弾く。これが緊張している人間の動きだとは到底思えなかった。
「緊張はしてるけどさ、それと楽しいのは別じゃん? 楽しかったら笑うって」
「そう……でしょうか」
言葉の意味は分かる。大舞台への緊張と、演奏する楽しさは全くの別物だ。けれども、『演奏する』ということ自体に重圧が掛かり、演奏と緊張がイコールで繋がった今、常のような楽しさを覚えるのは難しい。完全に忘れたわけではないが、薄れてしまっているのは確かだ。
「そうだって」
だいじょーぶだいじょーぶ、と元気な声とともに背を叩かれる。力の加減というものを知らない彼のそれは少しの痛みを覚えるものだ。しかし、何故か今はそれが頼もしかった。
「来年も一緒にやってりゃ分かるって!」
どうせ行くならデートで/ライレフ
AOINOさんには「たまには遠回りしてみようか」で始まり、「あーあ、言っちゃった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
「たまには遠回りしてみねぇ?」
隣を歩いていた兄が一歩前に出て振り返る。肩にかけた鞄の中身がガサと音をたてた。
「嫌ですよ。お肉とお魚が傷むでしょう」
弾んだ銚子の提案を、烈風刀はバッサリ切り捨てる。今日のセールは肉と魚が特に安く、いつもより多く買い込んだのだ。早く帰って生鮮食品を冷蔵庫に入れなければならない。意味も無く遠回りをする余裕など無かった。
それもそっか、と呟き、雷刀は弟の隣へと戻る。珍しく諦めがいい。彼の突飛な思いつきも、大切な日々の食材には敵わないらしい。
「かき氷食いたかったんだけどなー」
「かき氷?」
「こっからちょっと外れたところに和菓子屋? があるんだけどさ、そこのかき氷がうめーらしいんだよ」
そういえば、この間レイシスがそのようなことを話していたことを思い出す。グレイスと行ってきたんデスヨ、と語る彼女の表情は幸福でとろけていた。かき氷のおいしさはもちろん、溺愛する妹と共に過ごせたのが嬉しいのだろう。
「今日行く必要は無いでしょう」
「だってこっちのスーパーに行くことあんまりねーし。それに、こういう時でもねーと二人で一緒に出かけねーじゃん」
たしかに、二人が住む部屋から少しばかり離れたこのスーパーを利用することは少ない。今日訪れたのも、大型のセールが行われていたからだ。学園からも離れ、通学路として利用することのないこの道を通ることはあまりないことだ。
しかし、と烈風刀は横目で兄を見やる。碧の瞳に映る横顔は少しむくれていた。思いつきの提案だと思っていたが、もしかしたら家を出た時から算段を立てていたのかもしれない。それをすげなく却下されたのならばこの反応にも納得だ。
「……かき氷ぐらい、次の休みに食べに行けばいいじゃないですか」
甘味ぐらい、こんな買い物帰りでなくとも普通に二人で出かけて食べに行けばいいではないか。確かに、日々の学業と運営業務で疲れた身体を癒やすために休日は家にいることが多いが、出かけるのが嫌なわけではない。恋人とならば尚更だ。
ぽろりと言葉がこぼれ落ちる。小さなそれは、風に乗って兄の耳まで届いたらしい。えっ、と驚いたような、嬉しそうな声が隣から聞こえた。突然の音に、それが意味することに、少年ははっと目を開く。それもすぐに苦々しげに細められた。
「……うん! そーだな! 次の休みに行こ! 約束な!」
弾みに弾んだ声が耳に飛び込んでくる。視線をやらなくとも、兄が喜色満面の笑みを浮かべているのが分かった。
楽しみだなー、と跳ねる音が前に出る。次の休日への期待に突き動かされているのか、彼はどんどんと歩いて行く。そのまま走り出しそうな勢いだ。あぁもう、とこぼし、烈風刀も歩みを早めた。
あぁ、言ってしまった。もう戻すことなどできない。この言葉も、湧いて出た期待と喜びも。
音にできない五文字/ライレフ
AOINOさんには「たった5文字が言えなかった」で始まり、「少しだけ待っていて」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
たった五文字すら言えないのか、自分は。
考え、歯噛みする。口の奥で嫌な音が響いた。
は、と息を吐く。す、と息を吸う。呼吸を幾度も繰り返し、ようやく口を開く。薄く開いた唇の隙間から、あ、の一音が漏れ出た。
「あ……あ、ぅ……ぁ、あ」
言葉を発するべき口から出てくるのは、意味を成さない単音ばかりだ。それも、今にも消え入りそうな薄っぺらい音である。あんまりな醜態に、再び奥歯を噛み締める。エナメル質が削れてしまいそうなほど固い音が引き結んだ口から漏れ出た。
トントン、と抱き締められた背を叩かれる。優しいリズムが身体に、心に染みていく。噛み締められた口元がほろりと解けた。
落ち着けって、と宥める声が耳をくすぐる。柔らかなそれは、明らかに己を気遣ってのものだ。『愛してる』なんて簡単な言葉を口にすることができない、愚かな己を。
その事実が心臓を突き刺す。頭の奥底から自身に対する罵倒が沸いて出ては反響する。白い眉間に深い皺が刻まれた。
「無理して言うことじゃねーからな? また今度で――」
「む、無理では、ありません」
反射的に声を遮る。柔らかな言葉を切り捨てる音は、愚かなほどに震えていた。
そうだ、無理ではない。言える。自分だって『愛してる』の五文字ぐらい言えるのだ。そんな短い言葉、言えないはずがないのだ。当たり前のことだ。誰にだって絶対にできることなのだ。
言い聞かせるように心の内で言葉を重ねる。大丈夫、大丈夫、と唱える。それでも、心の臓は己でも驚くほど早鐘を打ち、脳味噌は溶けてしまったかのように思考がまとまらない。喉がきゅうと狭まる感覚がした。
言える。言うんだ。言わなければ。はく、と口を開く。声帯が震え、音を作り出した。
「……も、もう少しだけ、待ってください」
畳む
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】
7年前(≒ボで二次創作始めた頃)に書いたほぼ完成済みのファイルが発掘されたのでリライトしたもの。3000字ちょいが9000字弱に膨れ上がって笑っちゃったな。
付き合ってないつもりで書いたけど同生産ラインで腐向けを生産しているので色々と怪しい。ご理解ください。
弟君にお勉強教えてもらうニアノアちゃんと弟君にお勉強教えてもらうオニイチャンの話。II時空。
ホームルームが終わると同時に、教室は声に満ち溢れる。帰ろうと鞄を引っ掴む者、部活に行こうと手早く準備を済ませる者、友人と歓談しようと席を移動する者。狭い教室は人が行き交い、声が飛び交い、音が響き合っていた。
教科書、参考書、ノート、ペンケース、弁当箱。日々の道具を鞄に詰め、烈風刀は席を立つ。今日の放課後も運営業務が待ち構えているのだ。手早く作業に取りかかり早く帰るためにも、急いで行動すべきだ。
「烈風刀ー、さっさと行こーぜ」
大きな声が己を呼ぶ。声の主である雷刀は、教室の入り口でひらひらと手を振っていた。肩にかけられた鞄はいっそ不自然なほど薄く、腕と身体の間でぺしゃりと潰れている。おそらく、弁当箱ぐらいしか入っていないのだろう。勉強の意思が全く見えぬ姿に思わず眉をひそめる。息を一つ吐いて、少年は大股で彼の元へと足を向けた。
「レイシスはどうしました?」
「日直の仕事で職員室行くから先行ってて、だってさ」
姿の見えぬ桃の少女の行方を尋ねると、端的な言葉が返ってくる。だからさっさと行こ、と一声。兄は本館に続く廊下へと飛び出した。一歩遅れて、弟も続く。廊下に響く忙しない足音の中に、二つ新しいものが飛び込んだ。
「れーふーとー!」
大きな声が己を呼ぶ。背中から飛んできたそれに、名を呼ばれた少年は急いで振り返る。碧の視線の先には、高等部の生徒の中を縫って飛ぶ子ども二人の姿が映った。真っ白な制服を着た生徒たちの間を、星空模様の青が跳びはねる。ライムグリーンの靴が床を踏みしめる軽快な音が高く響いた。
「え? ニア? ノア?」
「珍しくね?」
二匹の兎の登場に、兄弟は二人ともぽかんと口を開けた。二人の様子など気にすることなく、少女たちは跳ね回る。
彼らの前に現れたのは、常日頃から仲良くしている初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らが自分たちに寄ってくることは珍しいことではない。しかし、時間が問題だった。
高等部の授業日程は今終わったところだが、初等部のそれはもう数時間も前に終わったはずだ。遊びたい盛りの彼女らが遊び相手を求め学校にいること自体はよくある。しかし、高等部教室棟にまで、しかも授業が終わってすぐの時間に来ることなど、今まで一度も無かったはずだ。一体どうしたのだろうか。何かあったのだろうか。不安が少年たちの頭をよぎる。
ぴょんぴょん跳びはねる少女たちは、ようやく求めた少年の元に降り立った。最後にぴょんと跳ね、ニアは勢いよく烈風刀に飛びつく。突然のそれを、反射的に受け止める。えへへー、と嬉しそうな笑声と、ニアちゃん危ないってばぁ、という高い声が少年の耳をくすぐった。
抱えた小さな身体を丁重に地面に下ろす。そのまま屈みこみ、並んで立つ少女二人と視線を合わせた。
「突然飛びついたら危ないでしょう。それに、廊下を飛んではいけないと言っているではありませんか」
紺碧の瞳を見つめ、少年は諫める言葉を紡いだ。常々言っていることだが、楽しいことが大好き、飛ぶのが大好きな彼女らはいつも忘れて跳びはねてしまうのだ。歩きやすい靴を与えて以後、改善の兆しは見えているが、やはりテンションが上がるとぴょんぴょんと跳びはねている姿をよく見る。外ならまだしも、屋内、それも狭い廊下で跳ねるだなんて危ない。天井や蛍光灯に頭をぶつけては大変だ。
「はーい」
「ごめんなさい……」
しょんぼりした声が二つ返ってくる。お揃いに八の字に下がった眉と気まずげにこちらを見る蒼い瞳から、反省の意は存分に汲み取ることができる。次から気を付けましょうね、と優しい眼差しで星空色を覗き込む。沈んだ表情が一転、ぱぁと明るく輝きだした。
「それにしても、こんな時間にどうしたのですか?」
首を傾げる烈風刀に、あのねあのね、とニアとノアは鏡合わせのように背に担いだリュックサックを下ろす。余った長い袖のまま器用に中を漁り、一つの冊子を取り出した。掲げるようにもたれたそれの表紙には、『ドリル 算数』とポップな書体で書かれていた。
「図書館でみんなとお勉強してたんだけど、分からない問題があってね」
「だかられふと、教えて!」
ドリルを抱えたまま、双子兎は目の前の少年をじぃと見つめた。まんまるな青が二対、少年を射抜く。ちょっといいですか、と断りを入れ、少女らが手にしたドリルを受け取る。ぱらぱらとページをめくると、癖のついた場所が開いた。何度も書いては消しての跡が残ったそのページに、彼女らの努力がうかがえる。
首だけで後ろを振り返る。後ろに立ってこちらを覗き込んでいた兄は、全てを察したのか笑って手を振った。勉強頑張れよー、と呑気な声とともに、軽快な足跡が一つ遠ざかっていった。廊下を走らない、と飛ばした声は、角を曲がった背には届かない。
こほん、と咳払い。不安げにこちらを見つめてくる双子に、少年は柔らかな笑みを向ける。
「いいですよ。僕なんかでよければ」
少年の返答に、ラズライトの瞳が四つ輝き出す。やったー、と兎たちはニコニコと笑顔を浮かべ、ハイタッチをする。よほど嬉しいらしい。勉強意欲があることはいいことだ、と碧は一人小さく頷いた。
「今の時間図書室は混んでいるでしょうし、ここの教室でやってしまいましょうか」
そう言って、出てきたばかりの教室を指差す。廊下から見える室内は、ほとんどの生徒は退出したのか机と椅子ばかりが見える。残っている生徒も数人程度のようだ。隅の席を借りれば邪魔にはならないだろう。
はーい、と元気な返事が二つ。言うや否や、ニアとノアは足早に教室へと飛び込んだ。腰を上げ、烈風刀もその後ろに続く。高等部の教室は物珍しいのか、二人は瞳を輝かせて室内を見回していた。
こちらですよ、と手招きしながら、人の少ない窓際の席へと足を運ぶ。後ろから四番目、兄の席に鞄を置き、隣り合う机を一つ寄せてくっつける。前の席の椅子をくるりと回して後ろ側にし、三人で机を囲む形を作った。二人は座面に手を付きどうにか乗り上げる。初等部の二人には、高等部の椅子は大きいようだ。ぶらぶらと地に着かず垂れた足を所在なさげに振っていた。
ドリルを机に広げる彼女らを横目に、碧の少年は鞄からノートとペンケースを取り出す。一番最後のページを一枚ちぎり取り、愛用のシャープペンシルとともに机上に置いた。
「最初の部分は分かりますか?」
「分かるよ!」
「けど、ここの高さが分からないの」
ニアの言う通り、最初の問は回答欄が埋められていた。しかし、ノアの言葉通り続く部分が分からないのか、後ろの方は空欄だ。余白部分にいくつもの計算式が書かれていることから、彼女らがどれほどこの問題に苦戦しているのかが伝わってくる。
問題を読み込み、烈風刀は唇に指を当てる。どうもこの問題は、わざとややこしい書き方をしているように見える。意地の悪い問題だ。さて、どうやって教えようか。考えながら、少年は紙面に書かれた図形をちぎったノートに書き写す。大きめに書いたそれを、二人の前に差し出した。
「ここの高さは、こちらの高さから底辺を引いたものですね?」
図形に補助線を書き込み、より分かりやすいものへと変化させていく。シャープペンシルで数字を書き込むと、蒼い双子はこくこくと頷いた。求めたい箇所を何重にもなぞって目立たせ、斜線を引いて区別を付ける。
「では、こちらの三角形の高さはこの二つの図形の高さを足したものになります」
「……てことは、五センチ?」
首を傾げながら問うニアに、少年はニコリと笑いかける。正解です、と続いた言葉に、彼女はやったぁ、と嬉しそうに声をあげた。二本の鉛筆が紙面を走り、図形に少年と同じように線と数を書き入れていく。
「じゃあここは四センチだから……、二十平方センチメートル……で、いいの?」
負けていられないとばかりに、ノアも解を求める。ことりと首を傾げ、不安げにこちらを伺ってくる少女に、少年は優しい笑みを向けた。
「二人ともすごいですね。さぁ、あとは公式を使うだけですよ」
念には念を押して、図形の下に使うべく公式を書き入れる。そんなもの見ずとも、二匹の兎は真剣に問題を睨み、余白に計算式を書いていった。カリカリと鉛筆が紙の上を走る小さな音が、放課後の教室に積もっていく。しばしして、二人分のそれは息を合わせたように同時に止まった。
「できたー!」
「れふと、これで合ってる?」
数時間かけて闘ってきた問をようやく解き終わり、ニアは元気な声をあげた。控えめにドリルを差し出し、ノアは求めた解の正否を問うてくる。不安げな声に反して、その目は難問の解を一度でも導き出したという高揚感にきらめいていた。
「……うん、正解です。二人ともよくできました」
埋まった回答欄を眺め、烈風刀は大きく頷く。ぱちぱちと手を叩き、賞賛の言葉と拍手を贈ると、二人はぱぁと満面の笑みを咲かせた。鉛筆を放り出し、互いの手を取り、やったね、と喜ぶ姿は可愛らしいものだ。きゃいきゃいとはしゃぐ少女らを、少年は愛おしげな目で見つめた。
「れふとれふと! 頑張ったから頭撫でて!」
筆記用具と紙切れを鞄にしまっていると、向かい側に座ったノアがはしゃいだ声をあげる。身を乗り出した少女、その形の良い丸い頭が目の前に差し出される。蒼い髪を飾るリボンカチューシャが揺れた。
「ニ、ニアちゃんずるい! ノアも!」
姉の様子に、少年の隣に座った妹も焦った様子で頭を差し出す。俯かれた顔は、少しだけ夕焼けに染まっていた。
頭を二つも向けられ、碧はぱちぱちと瞬きをする。二人の頑張りは確かなものだ。しかし、その頑張りを褒め称えるのは頭を撫でるだけでよいのだろうか。そもそも、歳はかなり離れていても彼女たちは女の子だ。男に頭を触られて気持ち悪くないのだろうか。様々な疑問が頭をかけていく。それらは、れふとー、と催促する声に掻き消された。
逡巡の末、烈風刀は差し出された頭に手を伸ばす。負担をかけないようにそぅっと手を乗せ、優しく優しく、髪が乱れてしまわないよう丁寧に撫でてやる。おそるおそるといった手つきだが、少女らにとっては満足のいくものだったようだ。えへへ、と歓喜に満ちた笑声が二つこぼれ落ちたのが聞こえた。
大きな手が、蒼い頭からそっと退いていく。求めたご褒美が終わりを迎えたことを悟ったのか、少女らは同時に顔を上げた。そこには、真夏の太陽のように輝く満面の笑みと、控えめながらも花咲くような可憐な笑みが浮かんでいた。
「れふと、ありがと!」
「れふとのおかげでやっと解けたよ!」
「問題が解けたのは二人が日頃からちゃんと勉強していて、解き方を知っていたからですよ。僕はちょっとだけアドバイスをしただけです」
真正面からの元気な言葉に、少年はふわりと口元を緩める。心のそこからの言葉だった。自分がやったことといえば、図形に補助線を引いたぐらいだ。解くことができたのは、日頃授業をちゃんと聞き、復習をし、公式を覚え、解法を覚えていた彼女らの実力故のものである。どこぞの兄もこれぐらいやってくれれば、とくだらないことを考える。あの男が自ら勉強に手を付けることなぞ無いだろうが。
「二人ともお疲れ様でした。さぁ、遅くなる前に帰りましょう。玄関まで送っていきますから」
「はーい!」
「ありがとう!」
少年の言葉に、少女らは急いでドリルと筆箱をリュックにしまう。ぴょんと椅子から飛び降り、愛用のそれを背負った。烈風刀も席を立ち、机と椅子を元の位置に戻す。夕焼けに染められつつある教室は、元の姿へと戻った。
鞄を担いだ少年を挟むように、双子兎は並んで立つ。それが当たり前であるかのように、長い袖に包まれた手が少年の手を握った。ぱちり、と天河石の瞳が瞬く。それもすぐに柔らかく細められた。
タッと地面を踏み出す音。姉兎は繋いだ手を引き駆け出す。危ないですよ。危ないってば。二重の声が教室に響いた。
タン、とキーが軽い音をたてる。最後の一文を入力し終え、烈風刀はぐっと背伸びをした。ほのかな痛みを訴える目頭を指で揉む。長時間モニタを見つめていたダメージはなかなかのもののようで、痛みと心地良さが広がった。
コンコン、と固い音が部屋に転がり込む。音に気づいた矢先に、ガチャリとドアが開く音がした。烈風刀、と己を示す語が飛び込んでくる。椅子のまま振り返ると、そこには雷刀の姿があった。
「返事をする前にドアを開けない。ノックの意味が無いでしょう」
「別に見られて困るようなことしてないだろ? いーじゃん」
眉をひそめ、もう何度言ったか分からぬ文言を口にする。注意された彼はあっけらかんとした様子で手を振り笑った。そういう意味ではない、マナーの問題だ、と何度言っても聞かないのだ。この兄は。苛立ちを隠す様子無く、はぁと大きく溜め息を吐いた。
「で、何の用ですか?」
腕を組み、部屋の入り口に立ったままの朱を見やる。済ませるべき作業も復習も終わり、今日はもう自由だ。しかし、どうせ彼のことだ。口にするのはろくでもない誘いや泣き言だろう。そんな兄のために時間を割いてやる気は無い。
「漢文教えて」
そう言って、雷刀は手にしていた冊子を持ち上げ示す。扇子のように片手で持たれたそれの表紙には、『漢文テキストワーク』と明朝体で大きく記されていた。
兄の言葉に、手にしたそれに、烈風刀は目を瞠る。碧の目は、驚愕一色に染まっていた。よく手入れされた唇がぽかんと開く。彼らしくもない、どこか間の抜けた表情だ。
あの雷刀が、あの勉強嫌いで有名な雷刀が、赤点と追試の常習犯である雷刀が、己に教えを乞いに来た。それも、教師に言われて渋々ではなく、己の意志で。
眼前に広がる光景を受け止めきれず、少年は硬直する。石になったよう、とはこのような姿を言うのだろう。指先一本動かせぬまま、碧は呆然とした様子で目の前の片割れを見つめた。
あまりにも露骨な態度から、弟の考えていることが分かったのだろう。朱の少年は悔しそうに目を眇める。しかし、己の日頃の態度を思い返してか、その目はバツが悪そうに逸らされた。えっとさぁ、と開いた唇は少し尖っていた。
「今日ニアとノアが勉強教えてもらいにきてたじゃん? あいつらも頑張ってんだし、オレもたまにはちゃんとやんないとなー……、とか」
思っただけ、と続いた最後の言葉は、彼らしくもない小さく細いものだ。胸に渦巻く何かを晴らすように、朱はガシガシと頭を掻く。風呂に入って少し湿ったままの髪がぶわりと乱れる。うぅ、と小さな呻りが部屋に落ちる。
淀みながらも紡がれた兄の言葉が、弟の胸を打つ。『ちゃんとやんないと』と砕けた言葉が胸の内に広がっていく。あの兄が、だらしのない兄が、勉強が大嫌いな兄が、人の姿を見て己を変えようとしている。なんと成長したのだろう。なんと素晴らしいことなのだろう。胸の内に温かなものが満ちていく。きっとこれは、感動と言うのだろう。
「分かりました」
ふわりと笑い、烈風刀は快諾する。自分もまだまだ深い理解を得ているとは言い難い。けれども、彼の抱える疑問を解く少しの助けになれたならば。力強い何かが己を動かす。努力しようとする者を応援したい。これはきっと自然な感情だ。
碧の言葉に、朱はぱぁと顔を輝かせた。ありがと、と弾んだ声が部屋に響き渡る。教えを乞うべく、少年は大股で師となる弟の元へと歩みを進めた。
キーボードを片付け、勉強机の上に二人分のスペースを確保する。鞄から教科書と参考書、ノートを取り出し、端に置いた。隣に立った雷刀は、持っていた問題集を開く。少し癖のついたそこの端には、ミミズがのたくったような文字が連なっていた。彼なりに色々と考えた証である。それだけで、烈風刀は胸がいっぱいになる心地だった。
「どこが分からないのですか?」
「………………全部」
「……僕の尋ね方が悪かったですね。どの部分を知りたいのですか?」
「ここの違いが分かんなくてさー」
兄が指差す部分を眺める。基礎から少し発展した問題だ。基礎がまだしっかりとしていない彼が躓くのも仕方の無いことだろう。まだ基礎問題が何問か回答してあるだけ頑張った方だ。それだけで褒めたい気分だが、ぐっと我慢する。まずは彼の学習意欲と知識欲を満たすのが先決だ。
机の端に詰んだ参考書を取り出し、パラパラとページをめくる。彼が疑問に思っている箇所のページを開き、問題集の上部に置いた。参考書の例題に、シャープペンシルでポイントとなる部分に軽く丸を付ける。
「ここはレ点なので上下逆にする、というのは分かりますね?」
「うん」
「まずレ点から処理して、その後に他の部分を入れ替えます」
処理すべき記号に丸を付け、その順番を示す数字を振っていく。朱い目がペンの先を、問題文を追っていく。片手に握られたシャープペンシルが、紙面の上をゆっくりと走っていく。筆跡の薄さが、彼の自信のなさを物語っていた。合っていますよ、と努めて優しく言葉を贈る。ほんと、と心配げな声が返ってきた。
「そう、書いた通りですね。あとは書き下していくだけです。この解説が分かりやすいかと思います」
そう言って、参考書に載っている解説文に丸を付ける。分かった、と細い声とともに、カリカリとペンが軽やかな音をたてていく。紅玉が問題文と解説、回答欄を往復する。輝く朱は真剣一色に染まっていた。
これ以上何か言う必要は無いだろう。それに、じっと見ていては彼が集中できまい。教科書を手に取り、先日授業で教わった部分を開く。ペンが紙の上を走る音とページをめくる音が二人きりの部屋に積もっていった。
「これでいい……のか?」
しばしして、雷刀はようやく声をあげる。教科書から顔を上げ、烈風刀はおずおずと差し出された紙面を見る。出題された短い漢文は、しっかりと書き下されていた。ひらがなが多いように見えるが、そこは今気にかける場所ではない。
「正解です」
「よっしゃー!」
烈風刀の満面の笑みと弾む言葉に、雷刀も嬉しそうに咆哮をあげた。多少教えてもらったとはいえ、自力で解けたことが本当に嬉しいのだろう。その表情はいつも以上に晴れやかな笑顔で彩られていた。
喜気とした笑声をあげ問題を眺める彼の頭に、そっと手を伸ばす。そのまま、赤い髪で彩られたそこをそっと撫でた。ほんのりと湿った感触が手から伝わってくる。
鼻声にまで発展した笑声がぴたりと止む。どうしたのだろう。まだ気になる問題があるのだろうか。少年は小さく首を傾げ、兄の横顔を見る。整った顔がこちらを向く。大きな緋色の目がぱちりと大きく瞬いた。
「……え? 烈風刀……?」
あがった声は細く、動揺に満ちていた。どうしたのだろう。何故名前を呼ぶのだろう。自分が何かしただろうか。そこまで考えて、碧ははっとする。しているではないか。今まさに、頭を撫でるなど子ども扱いにも程があることをしているではないか。カァ、と頬に熱が集まる。それもサッと引いていった。
「すっ、すみません!」
朱い髪を撫で回していた手を勢いよく離す。漫画ならば効果音でもつきそうな素早さだ。あの、その、としどろもどろに言葉を紡ぐ。焦燥が駆り立てる脳味噌ではなかなか意味のある文が構築出来なかった。
「あの、今日ニアとノアにやってあげて、それで、だからついやってしまっただけであって、その、わざとではなく」
発した言葉は全て言い訳だ、と言われても仕方のないものであった。しかし、本当につい、夕方の出来事につられて、無意識だったのだ。でなければ、双子の兄弟の頭を撫でるなんて褒め方をするわけがない。お互いいい歳なのに、そんな子どもっぽい扱いをするなど怒るに決まっている。
ぽそ、と何か声が聞こえた気がした。非難の言葉だろうか。今回のことは全て自分が悪い。真正面から受け止めるべく、意味も無く動く口を真一文字に引き結ぶ。えー、と寂しげな音が静かになった部屋に落ちた。
「えーっと……、やめないでほしいなー……なんて」
だめ、と小さく首を傾げ、雷刀は問う。その頬にはふわりと紅が散っていた。眉は八の字に下がり、こちらを見つめる目は心なしか潤んでいるように見える。控えめにねだる姿は、可愛らしいと形容するのが相応しいものだった。
きゅ、と喉が細まる。兄弟の珍しい姿に、烈風刀はぱちぱちと大きく瞬いた。いつだって自分勝手に物事を進める彼が、こんな風に尋ねてくる。しかも、こんなに可愛らしい様子で、である。ぅ、と喉が細い音をあげる。少年の頬にもつられて朱が差した。
おそるおそる手を持ち上げ、形の良い頭へと手を伸ばす。丸みを帯びた朱を、白い手がそっと撫でる。節の目立ち始めた手が、髪を整えるように往復する。壊れ物に触れるかのような、慎重で優しい手つきだ。伝わる温さと柔らかな感触にか、炎瑪瑙がきゅうと細まった。隙間から見える瞳は、喜びに満ちた色をしていた。
「よくできました」
不意にこぼれ落ちた一言に、雷刀はへへ、と小さく笑う。どちらも幸いに満ちた響きだ。
静かな夜の部屋、兄弟を温かなものが包んだ。
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こたつと微睡みと過ぎ去る日々と【嬬武器兄弟】
こたつと微睡みと過ぎ去る日々と【嬬武器兄弟】書き納め。嬬武器兄弟が大晦日にこたつでだらだらするだけ。
今年はお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
重い音とどこか間の抜けた声が笑い声に包まれたスタジオに響く。しばらくして、空気を切る音と打撃音、聞き苦しい悲鳴の何とも言い難い三重奏がスピーカーから流れた。
めまぐるしく人が入れ替わる画面をぼんやりと眺め、烈風刀はコーヒーに口をつける。舌の上をぬるい苦みが染め、少し鈍くなった特有の香ばしさが鼻を抜けていく。手軽なドリップコーヒーとしては十分な味だ。冷えつつある黒を飲み干し、マグを元の位置に置く。深茶の天板の上に、同じ形をした赤と青が並んだ。
朝早くから始めた大掃除は夕方にようやく終わり、夕食の年越し蕎麦も普段より少し早い夕食で食べた。夜が降り更けた今は、例年通り二人で年末恒例のバラエティ番組を眺めていた。弟にとっては特段心惹かれる内容ではないが、兄が毎年見たいとリモコンを取るのでそれに付き合っている状態だ。興味がさほどないのならば自室に引き上げてしまってもいいのだが、掃除も冬休みの宿題も済ませてしまったのだからやることがない。それに、一年の終わり、大晦日ぐらい家族と過ごしたいものだ。
斜向かい、隣り合った一辺に座る兄を見る。彼の目の前には、半分ほど食べられたみかんとその皮が山積みになった紙のゴミ箱があった。瑞々しい小さな房を一つつまんだ指は、健康的な赤で彩られた口元に辿り着くことなく机の上で止まっている。黙々とみかんを咀嚼していた口は閉じられ、液晶画面に熱心に注がれていた視線は磨かれた天板に吸い込まれていた。朱い頭はこくりこくりと前後に揺れている。
「こたつで寝ないでくださいよ」
「んー……」
「年越しまで起きていたいのでしょう」
「んー……」
揺れる頭に言葉を投げかけるが、返ってくるのは唸りに似た音ばかりだ。それも、半分眠っている響きをしていた。先ほどまで液晶画面に映し出される芸人たちを見て声をあげて笑っていたとは思えない様相だ。こたつがもらたす暖かさに負けそうになっているのだろう。この兄はいつもそうだ。
テーブルの上に並んだマグを見やる。深い赤と薄い青で彩られたそれの中には、底に少しだけ焦げ茶をした水滴が残っている。どちらも空になっていた。カフェインたっぷりのコーヒーを飲んで尚船を漕ぐほど眠くなるのだから、こたつというものは恐ろしい――同じ条件の自分の元には睡魔が訪れていないのだから、気質の問題もあるのだろうけれど。
自分の分のついでだ、目覚ましに淹れてきてやろう。考え、少年はカーペットに手をつける。身体の半分を包み込む心地良い温度にどうにか抗いつつ、分厚いこたつ布団と毛布の中から抜け出す。机上に並んだマグを手に、碧は立ち上がった。
冷えたフローリングを足早に進み、キッチンへと向かう。目盛りに合わせて電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。棚からパック詰めされたドリップコーヒーを二人分取りだし、空っぽになったカップにセットした。
冬の空気が背を撫ぜる。身体を無理矢理冷ますようなそれに、思わず大きく身震いをする。つい先ほどまでこたつの暖かさに包まれていた身体には、キッチンの冷え切った空気は凶器にも近い。どうせ何杯も飲むと分かっていたのだから、一式をリビングに持って行った方が良かっただろうか。いや、さすがにそれは堕落しすぎではないか。寒さで冴えつつある頭で益体もないことを考えている間に、カチン、とスイッチが上がる音がテレビの喧騒が遠くに聞こえる空間に響いた。水が沸く低くくぐもった音が止み、静寂が少年と薄く黒の残る陶器を包む。
紙製のドリッパーに均等に湯を注ぎ入れる。湯で満たされたそれが水位を減らし、完全に雫が落ちきったところで取り、ゴミ箱に捨てた。寒さをよく表す白い湯気を上げるマグを手に、少年はリビングへと戻る。厚い靴下で保護された足は、普段よりもいくらか動きが速かった。
リビングの中央、こたつの前。みかんが積まれた籠とゴミ箱、リモコンが載ったそれの傍らで烈風刀は足を止める。目の前に広がる光景に、整った眉が薄く寄せられた。
溢れそうなほどみかんの皮が詰まった紙のゴミ箱の正面には、朱い塊があった。そこから繋がる肩と丸まった背は、ゆっくりと上下している。授業中よく見る姿だ。つまり、机に突っ伏して眠っている。
兄のマグを突っ伏した頭の前に置き、穏やかに上下運動を繰り返す肩に手を伸ばす。掴み揺さぶろうとする直前で、少年は手を止めた。セーターに包まれた鍛えられた腕が引き、不満げに一文字を描いていた口元がわずかに解ける。細い溜め息が緩んだ口からこぼれ落ちた。
日中、それも朝早くから彼はよく働いてくれた。風呂掃除に洗濯物干し、リビングの掃除にエアコンのフィルター掃除、家中の電灯の掃除。加えてくしゃくしゃになったプリントや通販の段ボール箱が溜まりに溜まった自室の掃除。分担したとはいえ、ものぐさで掃除が苦手な彼が朝から頑張って整理整頓をこなしたのだ、疲れているに決まっていた。疲弊した身体に温かな料理で胃が満たされ、とどめにこたつの温もりが身体を包んだのなら、眠ってしまうのも仕方が無いことだろう。動き疲れて眠ってしまうなんて子どもっぽいのだけれど。
テレビの横に置かれた卓上時計に目をやる。音も無くなめらかに動く針は、日付が変わるまであと一時間と少しだと伝えてきた。やっぱ年越しは起きて過ごしたいじゃん、と彼は毎年浮き足立った様子で主張している。このまま寝過ごしては後がうるさいだろう。日付が変わる二十分ほど前に起こしてやろう。そう考え、烈風刀は定位置に座った。冷えたキッチンとフローリングを歩き冷えた足を、程よい温もりが包み込んだ。
みかん籠の隣に置かれたリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変える。ザッピングしてみるが、やはり大晦日と言うこともあってどのチャンネルも特番ばかりだ。無駄に電気を食うのだから、興味を引くものが無ければ消してしまった方がいいとは分かっている。しかし、音も何もない部屋で一人過ごすというのも何だか寂しいものだ。唯一の話し相手が眠ってしまっているのならば尚更である。テレビの賑やかしい音は、生まれてしまった空白を埋めるのには都合が良かった。
結局、たまに見るニュース番組にチャンネルを合わせる。番組の雰囲気はがらりと変わっており、例に漏れず年越しをテーマに編成されていた。埃一つ無い画面に、今年のニュースがランキング形式で並べ立てられる。感心や驚きを含んだ出演者やギャラリーの声がスピーカーから流れた。わざとらしいそれが耳を通過していく。
今年も色々なことがあったな、と鮮やかに映像を映し出す液晶画面をぼんやりと眺めながら考える。自分たちにとって一番のニュースは、バージョンアップによる世界の刷新と、ヴァルキリーモデルという新たな筐体の稼働だろう。年が変わる前から性能向上や新機能の実装、それらの調整に向けて皆で奔走した日々が思い起こされる。一年しか経っていないというのに、もう随分と懐かしく思えた。
皆で尽力した甲斐あって、評判は上々だ。努力が報われた喜びと安心はあれど、まだ気を緩めるわけにはいかない。ユーザーたちは更なる世界を、機能を求めているのだ。ゲーム運営に関わる者として、それに応える義務がある。ここで満足して立ち止まらず、もっともっと精進せねばならないのだ。口には出さないが、きっと皆同じ思いだろう。来年も頑張らねばな、と小さく頷き、新たに満たされたマグを口に運んだ。程よい温度が喉を潤し、胃から身体を温めた。
みかんを食べ、テレビを眺め、携帯端末をいじくり、コーヒーを飲み。一人きりの時間はスピーカーから流れる騒がしい音とともに静かに過ぎていく。
ゴーン、と鈍い音がスピーカー越しの喧騒に紛れて耳に飛び込んでくる。鐘の音だ。もう除夜の鐘が鳴る頃か、と時計へと目をやる。気付けば、新年まであと十五分という時刻になっていた。
かすかな寝息を立てる兄の背を軽く叩く。雷刀、と眠りの海に身を浸した片割れの名を呼ぶ。深く沈みいっているのか、返事は無い。雷刀、ともう一度強く名をなぞり、今度は肩を揺さぶる。癖のある朱い髪がふわふわと揺れた。しばしして、掴んだ肩がふるりと震える。断続的なそれの後、んー、と濁った音が天板と髪の隙間から漏れ出た。
朱い頭がゆっくりと上がり、突っ伏し隠れていた顔があらわになる。額にうっすらと赤い跡が残ったかんばせは、まだ眠気で化粧されていた。やっとといった様子で半分だけ上がった瞼から覗く紅玉はけぶり、普段の輝きを失っている。鈍い朱がゆっくりと瞬き、くぁ、と大きく口が開く。大きなあくびと気の抜ける音が真っ赤な口から漏れ出た。
「もうすぐ日付変わりますよ」
「まじ……?」
拳を軽く握り猫のように目元を擦りながら、雷刀はテレビ画面の右上、現在時刻を示す数字列に目をやる。うわマジだ、と少しだけ輪郭を取り戻した声があがった。どうやら驚愕で少し目は覚めたようだ。
こたつ布団に潜り込んでいた腕が這い出、机上のマグへと伸びる。赤い陶器が赤々とした唇と触れ合う。傾けて少し、つめて、と少年は顔をしかめた。湯飲みのように握られたぐっと傾き、中身が一気に煽られる。冷たさと苦みでようやく意識が覚醒に至ったのか、瞼はすっかりと開き、覗く瞳は元の透明度を取り戻していた。
朱い頭が天板に再び乗せられる。今度は正面から突っ伏すのではなく、横向きだ。プラスチック製の板面に押しつけられた頬がむにゅりと柔らかに形を変える。輝きが灯った瞳は隣に座る蒼玉を見上げていた。
「なー、烈風刀」
「何ですか」
未だほんのりと眠気がにじむ声が己の名をなぞる。みかんの皮をゴミ箱に入れながら短く返すと、ぱちりと開いた朱がそっと細まったのが見えた。笑みにも似たそれは、愛しさを宿した曲線をしていた。
「今年もありがとな」
歌うような軽やかな調子で兄は言う。言葉を紡ぎ出す口元は緩み、わずかに口角を上げている。確かな笑みを形作っていた。
「何ですか、いきなり」
「いやー、こういう時ぐらいしかこういうこと言えねーし?」
訝しげな声に、どこか拗ねたような、少し照れくさそうな声が返される。だって世話になったのは事実じゃん、とほんのりと尖った唇が音を紡ぎ出した。天板に潰されていない方の頬がぷくりと膨らんだのが見えた。
素直な彼らしいとも、自由奔放な彼らしくないともいえる言葉だ。まっすぐな音色は、確かに弟の胸に染みこんだ。ふ、と訝り固くなった口元が緩む。
「こちらこそ。来年もよろしくお願いしますね」
世話になったのはこちらもである。まだまだ力不足だと考えているようだが、長い年月をかけ研鑽を積んだ彼は十二分にレイシスたちのサポートを務められている。新たなバージョンと筐体の稼働も、彼の力があってこそできたのだ。一人でも欠けていれば、今過ごす日々はきっとなかっただろう。どんなに謙遜しようと、それは変わらぬ事実だ。
柔らかな声に、おう、と短い声が応える。寝起きとは思えないほど元気の良い、わずかに照れを孕んだ音だ。へへ、とはにかむ音が朱の緩んだ口元からこぼれ落ちる。続いて、碧の音にならない笑みが漏れ出た。
ワァ、とスピーカーから一際大きな音が響く。不意の大音に、朱と碧が鮮やかな色を放つ液晶画面へと向けられた。右上に小さく表示されていたデジタル時計は消え、広いスタジオの後方に設置された大液晶へと姿を移していた。デジタルの角張った数字は、年が変わるまであと五分を切ったことを全身で示していた。おっ、と弾んだ声があがる。炎瑪瑙が輝き、リモコンを掴む。ボタンが幾度か押され、スピーカーから流れる音が大きくなった。
液晶画面に釘付けになった朱を横目に、碧は籠へと手を伸ばす。手のひらからこぼれ落ちそうなほど大ぶりなそれを一つ掴み、皮を剥く。現れた実を分け、一房手に取った。
昨年もこのように彼とともに過ごしたことを思い出す。テレビから流れるカウントダウンの声に己の声を高らかに重ねるその姿を見ながら年を越したのだ。昨年も今年もそうなのだから、きっと来年もそうなのだろう。そんなことを考え、少年は小さくなった実を口にする。噛んだ瞬間口内に溢れ出た果汁は、甘酸っぱかった。
畳む
#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀