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飛んで跳んでおさんぽ【インクリング→インクリング】

飛んで跳んでおさんぽ【インクリング→インクリング】
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イカタコ改修を口実にさんぽデートしてくれ!!!!!!!!!!
という感じの話。ビーコン農家のイカちゃんと振り回されるイカ君の話。


 長い銃身を支え、構える。銀が差し伸ばす射線を操りつつ、少年は周囲を探っていく。チャージキープを活かしつつ、不規則に位置を変えすぐさま物陰へと銃口を向ける。ちらりとマップを確認するも、インクが塗り広げられている様子は無い。いや、相手はマニューバーだ。スライドを使えば敵インクの上も難なく移動できる。塗り状況に大きな変化は無くとも油断はできない――そもそも油断なんかしようものなら容赦なくシバかれるのだからできるはずがないのだけれど。
 大きく塗られたインクの上、隠れていそうな物陰、隅に散る小さなインク溜まり。時には潜伏し、時にはチャージキープを使い、インクリングの少年は全ての要素に神経と銃口を向ける。ブラフに見当違いな方向へと数発撃つも、相手が出てくる気配は無い。普段は短気なくせに、バトルとなると途端に根比べが上手くなるのだからずるいものである。チッ、と舌打ち一つ。わざとそれらしい位置を狙いつつ、マップを確認する。気がつけば、広いステージ上にはいくつかのインクの点、そしてジャンプビーコンが増えていた。己が置いたオレンジではない、強く存在を主張する紫――敵のインクの色だ。つまり。
 また舌打ち一つ。リッター4Kカスタムを担ぎ直し、少年は敵陣手前に置いたジャンプビーコンへと跳ぶ。すぐさま足元を軽く塗り、敵ビーコンが設置された方向へと構える。チャージ、一発。射程端で捉えた小型機械は煙を上げて砕けた。
 ぞぷん、と液体が波立つ――インクの中から何かが現れる音が背後で聞こえた。
 すぐさまイカ状態になり、少年は音と反対方向へとインクを泳いだ。パシュ、と軽い音――マニューバーがスライドする音。飛んでくる紫をイカロールで躱すも、重量の差で移動速度はこちらが劣る。すぐに間合いを詰められた。
 インクから飛び出しオレンジを纏った視界の中、赤い銃口がまっすぐに己を睨んでいるのが映った。




 タブレットの上をペンが滑っていく。カツカツと硬質な音とともに、画面上のマップにいくつもの丸が描かれていった。うーん、と楽しさをにじませた悩ましげな声。ヂュゴゴ、とストローがジュースを吸い上げる音。どちらもうるさいほど賑やかなフードコートに溶けて消えた。
「こんぐらいかなぁ」
 ガラスの上を駆けていたペンを回し、インクリングの少女は息を吐く。丸まっていた背が伸び、背もたれに細い身を預ける。安っぽい椅子が小さく抵抗の声をあげた。
 ジュースカップに手を伸ばす友人を眺め、インクリングの少年は唇を尖らせる。じとりと細められた緑の目はどこか暗さがあった。
「卑怯だろ」
「索敵甘いそっちが悪いでしょ。すぐビーコン置けば気付けたかもしんないのに」
 いじけた子どもそのものの声で吐き捨てると、向かい側からすぐさま正論が飛んでくる。反論の余地など無いそれに、瞼で半分隠された目が更に姿を失っていく。尖っていた唇は情けなくへの字に曲がってしまった。
「あとなんか見辛かった場所無い?」
 少年の様子など気にすることなく、少女は二人の間に置かれたタブレット端末、その大きな画面に表示されたマップをペンで指す。背を丸めて覗き込み、少年は小さく唸った。
「やっぱ新しく広がったとこは見辛い。でも抑えの時は来ること分かりやすいからめちゃくちゃ警戒しねーとって感じじゃない……と思う」
「置いても普通に壊されそうだしねぇ。上がる時ちょっとでも塗り返したらすぐバレるし」
「あんま変わってねー感じすんだよな。隠しやすくなったけど結局位置は変わってねーっつーか」
「だよねぇ」
 地図を眺め言葉を紡ぐ少年に、少女は深く溜め息を吐く。コマめいて指の上を回っていたスライタスペンが大きな手から離れ、テーブルの上に転がった。パーカーに包まれた身体が勢い良く後ろへと傾く。ガタン、と危うさを覚える音が二回吹き抜けへと昇っていった。
 深い緑の視線が端末の画面をなぞっていく。液晶画面には様々な色が踊っていた。赤や青の丸。一部の地形を強調する緑の斜線。マップを二部刷るような橙の線と六つの四角。走り気味の黒の文字たち。タラポートショッピングパークのステージマップには、この数時間の少女――と微力ながら己も――の努力の証が刻まれていた。
 タラポ行くよ、と手を引かれたのが待ち合わせ場所についてすぐのこと。訳も分からず電車に揺られ、到着したのが二時間前。そのままずっとステージを駆け回り、マップ画像に書き込みながら研究し、やっと休憩する今に至る。
 先日、タラポートショッピングパークはリニューアルオープンした。それに伴い、バトルステージも改装工事が行われたのだ。それに飛びついたのが友人であり、所謂『ビーコン農家』の少女である。彼女はバトルで勝つというよりも、ビーコンを設置することに命を賭けているように見えるほどの熱狂なビーコン使いだ。端的に言えば狂っていた。植える場所確認しなきゃでしょ、と説明も何もなしに無理矢理リッター4Kカスタムを押しつけてくる程度には。
 互いにビーコンを設置し、短射程視線で潜伏しやすい場所を探し、長射程視線で見辛い場所を探し。事前予約したステージ貸出時間めいっぱい研究を重ねた。おかげでビーコンの設置場所はもちろん、各ルールでのルート取りや意識すべきポイントが多く発見できた。こちらとしては非常に大きな収穫である――ビーコンに取り憑かれた彼女は満足いかないようだが。
 ストローに口を付けつつ、少年はひそりと正面へと視線を向ける。ふて腐れた様子だった友人は、既に機嫌を取り戻しけろりとした顔でエビ焼きに舌鼓を打っていた。熱さと柔らかさにはふはふと口を動かしながら詰めこむ様から、どれだけ空腹であったかが分かる。長時間動き回り頭もフル回転させたのだから当然だろう。大きな口でかぶりつき、まろい頬を膨らませ、唇の端をソースで彩る姿は可愛らしいの一言に尽きた。急速で落ち着いたはずの鼓動がわずかに加速する。わざとらしくタブレットへと視線を落とし、少年は思いきりジュースを飲み込んだ。残り少ない飲み物が大層聞き苦しい声をあげた。
 休日の昼下がり、ショッピングモールに女の子と二人きりで出掛ける。思春期と青春、恋の真っ只中である少年にとっては『デート』と認識してしまうような事実だ。なのに、現実は色気も何もないバトル一色の時間である。彼女はこちらの気持ちなど欠片も知らないのだから当たり前だ。こうやって二人きりで食事をするのも、ステージ研究を続けるために腹を膨らませること以外考えていないだろう。相手はバトルジャンキーもといビーコンジャンキーなのだ。
 ほぅ、と短い、満足げな溜め息。次いで、ごちそうさまでした、と短い言葉。顔を上げると、そこにはテキパキと食器を片付ける少女がいた。食事を終え、バトルに潜るために帰るのだろう。結局己はただ研究のために駆り出されただけなのだ。
「……何で俺なんだよ」
「リッカス使えるのあんたぐらいでしょ。みーんなビーコンブキ持たないんだから」
 喧騒に掻き消えそうなほど小さなぼやきは、運悪く少女の耳に届いてしまったらしい。分かりきった事実を告げられ、少年は唇をもにゃもにゃと動かす。彼女の友人の多くは短射程使い、わずかにいる中・長射程使いもサブウェポンにジャンプビーコンを持つブキを使わない。駆り出されるのは自然であった――そもそも彼女の友人らがビーコンブキを使わないのは、彼女がビーコンブキしか使わないことが原因だろうけど。
 好きなヒトに選ばれた。けれども理由は友情とか愛とか恋なんてものは無い、ただの消去法なのだから現実は残酷である。そもそも、あちらはこちらを異性としてみていないのだから愛や恋が介在する余地など無い。結局のところ、己がずっと燻るだけなのだ。勇気を出せず、みっともなくもだもだと惑い、勝手に思いを募らせていく己だけが。
「ねぇ」
 影差す思考に声が飛び込んでくる。はっと顔を上げると、目の前にはトレーと食器をまとめて持った少女がいた。椅子と背中の間に挟んで置いていた鞄は肩に掛けられている。もう帰る気であるのが容易に分かった。
「このあと時間ある?」
「あるけど……何? まだやんの?」
 まっすぐにこちらを見つめる想いビトからわずかに視線を逸らし、少年は息を吐く。休んだものの、みっちり二時間頭と身体をフルに使った疲れはまだ残っている。ここから実戦に赴くのは少し骨だ。明日にしよーぜ、と訴えるべく、大袈裟な調子で手を振り口を開いた。
「違う違う。買い物付き合って」
「……は?」
 飛び出すはずの言葉は、首を振る少女の言葉に遮られた。声を紡ぐはずだった少年の口は間抜けにぽかんと開いている。どしたの、と怪訝な声と表情が向けられた。
「せっかく来たんだし買い物したいじゃん。リニューアルオープンしたんだしさ」
「一人でいきゃいいだろ」
「一人だと悩んだとき困るじゃん。付き合ってよ。あんたセンス良いんだから」
 ハッ、と少年は大袈裟に鼻を鳴らす。投げやりな様子など気に掛けることなく、少女はさらりと言葉を紡ぐ。恋心を抱えた少年の心をくすぐる言葉を。
 会話するはずの喉が、声を発することなくぐぅと鈍い音をあげる。己が選ばれたことに『ついで』いがいの理由など無いと分かっている。分かっているけれども。
「……何見んの」
 呟くように尋ね、少年は立ち上がる。逡巡、少女の手にあったトレーをなかば強引に奪い取った。ありがと、と柔らかな声が尖った耳をくすぐる。音色に撫でられたそこがじんわりと熱を持った気がした。
「靴見たい。今履いてるのだいぶボロボロになってきちゃった」
 続くように立ち上がった少女の足元を見る。ギアから普段使いのものに履き替えられたスニーカーは、つま先部分に汚れが目立っている。側面のソール部分もいくらかよれてひび割れているのが見えた。白い靴紐はすっかりとくすみ、まとめられていたはずの紐端も扇のように広がっている。確かにそろそろ新しいものを見繕ってもおかしくない頃合いだろう。
「んじゃ、さっさと行こーぜ」
「うん。よろしく」
 トレーと食器を返却すべく、少年はフードコートを大股に進んでいく。後ろから軽快な足音が続く。ただ床を叩く音でしかないそれがどこか楽しげに聞こえるのは、きっと己の気のせいだろう。『こんなのデートじゃん』だなんて馬鹿げたことを考えるこの脳味噌の錯覚だ。言い聞かせ、少年は歩みを早めた。
畳む

#インクリング

スプラトゥーン

諸々掌編まとめ12【SDVX】

諸々掌編まとめ12【SDVX】
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色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟4/奈+恋/雷+グレ/ライレフ


強火はコンロの最大火力を指す言葉ではない/嬬武器兄弟
 掴んだ黒を口に運ぶ。歯に触れたそれはすぐに解けた――否、崩れた。味蕾を殺すような強烈な苦味とザリザリとした不快な食感が舌の上を広がっていく。砂を食べた方がマシだ、と思うほどのものである。これが食べ物であることを認めたくないほどの代物だ。今すぐ吐き出してしまいたいほどおぞましい何かだ。そんなことは許されないのだけれど。
「……雷刀」
「ダメだかんな」
 対面から不安げな声が飛んでくる。この十数分だけでも三度聞いた言葉が重ならないようにすぐさま声を重ねる。有無を言わせぬような鋭さで言ったつもりが、響きは少しばかり震えた情けないものとなってしまった。聞き入れないとばかりにまた箸で黒を掴む。薄っぺらいそれはボロリと崩れ、欠片しか残らなかった。躍起になってかき集め、掴み、崩れる前に口に放り込む。凄まじい苦味と青臭さ、ざらつく食感とやけに硬い歯ごたえ、焦げ臭さがまた五感を蹂躙していった。
 料理を始めてから少し経ち、ある程度の基礎は身についたと思っていた。そろそろ簡単な料理ならばレシピを見ずとも作れるだろうと思っていた。味見をきちんとすれば弟のように勘で味付けできるだろうと思っていた。全ては思い込みだ。今更気付いたところでどうにもならないのだが。
 冷蔵庫には野菜が中途半端に余っている。ならば、野菜炒めにしよう。そうしてフライパンに材料を放り込んでできあがったのが、目の前にうず高く積み上がった黒の山である。材料の全ては真っ黒に焦げ付き、元の色がほとんど分からない。キャベツやほうれん草と思われるものは薄い部分が炭と化していた。そのくせ人参や玉ねぎは火が通りきっていない。豚こま肉も例外なく焦げ、噛みちぎるのも一苦労なほど固くなっている。塩胡椒で味を付けたはずが、全て焦げによって上書きされていた。だのに時折胡椒の塊が舌を刺すのだから悲惨でならない。見た目からしても、味見をしても、食べ物として成立していない。『料理』として食卓に出すなど絶対に許されない代物であった。
 こんなもの、到底人様――たとえ家族で兄弟で己の料理の腕の拙さを知っている弟でも、食べさせることなどできない。結果、兄弟二人の夕飯になるはずだったそれは己の目の前にだけ置いた。弟の分は冷凍のからあげと常備菜、味噌汁でどうにか成り立たせた。冷凍食品、そして常に作り置きをしてくれている弟には感謝ばかりが募っていく。同じほど、申し訳無さも積み上がっていった。
 何が悪かったのか。まず火加減だろう。火加減が強くなければ焦げないのだ。あとは調理時間か。気がついたころには葉物野菜は炭となっていた。長く炒めすぎたのだろう。あとは。
 苦味に支配される口内から意識を逸らすように原因を探っていく。考えれば考えるほど悪い点しか見つからない。なのに、何故調理中は気付かなかったのだろう。何故気付かずにこんな代物を生み出してしまったのだろう。後悔がどんどんとのしかかってくる。飲み下した喉がおかしな音をたてた。
「やはり手伝った方がいいですよ。一人で食べるなんて無理でしょう」
「ダメ。やだ。オレが全部食べる」
 箸を置き手を差し伸べる烈風刀に、雷刀は強く首を横に振る。整った手が近付きつつある皿を急いで取り、己しか手が届かない場所に置いた。そんな顔で言っても、と困ったような呆れたような声が食卓に落ちた。
「オレが作ったんだからオレが責任とんねーといけねーだろ」
「それはそうですけど」
「だからダメ。烈風刀は食べなくていい」
 きっぱりと言い、兄はまた野菜炒めとなるはずだった黒の山に箸を伸ばす。こぼれそうなほど掴み、崩れ去る前に口に放り込む。最低限の咀嚼をして飲み込み、味噌汁を飲んで苦味を流す。黒い野菜たちはゆっくりなれど着実に姿を消していった。
 心配げな、申し訳無さそうな碧が視界の端に映る。心優しい弟はどうにもこの失敗作が気になって仕方がないらしい。二人分の材料で作った結果生まれた山のような失敗作を一人で食べる己が心配で仕方ないらしい。気持ちはありがたいが、食べさせるわけにはいかない。いつも美味しい料理を作ってくれる弟に、いつも丁寧に料理を教えてくれる弟に、己の驕りによって生まれたこいつを食べさせるなどあってはならないのだ。全ては彼の教えを――『慣れないうちはちゃんと計量してレシピ通りに作る』という基本中の基本を守らなかった己が悪いのだから。
 またひっ掴んで口に放り込み、飲み込む。苦味を忘れようと味噌汁椀を手にとったところで、その軽さに違和感を覚えた。苦々しく細くなった朱い目が黒い椀へと向けられる。プラスチックの食器の中身は、既に空っぽだった。どうやら、先ほどの一口が最後だったらしい。こういう日に限って味噌汁はきっかり二杯分しか作っていないのだ。ぐぅ、と喉が低い音を鳴らす。残りは白米で誤魔化すしかないようだ。冷凍のやつ残ってたっけ、と冷凍庫の中身を必死に思い出そうとした。
 テーブルの上に沈黙が積もっていく。食器がぶつかるかすかな音だけが、普段は人の声で満たされる部屋に落ちていった。




雨の音、春の足音/嬬武器兄弟
 バタバタと頭上で騒がしい音が鳴る。安物のビニール生地は、強い雨脚にも負けず己の仕事を淡々とこなしていた。ぱしゃんと足元で軽い音が鳴る。そろそろ傷みが目立ち始めた靴は、跳ねる水にも耐え抜き足を守った。
 水溜まりを避けながら、雷刀は歩みを進める。ちらりと透明なビニール傘越しに空を見るが、薄墨色の雲が晴れる気配も激しい雨が止む気配も無い。当然だ、今日の天気予報は雨、降水確率八〇パーセントである。雨粒は朝からずっと地を叩き世界を濡らしていた。
 雨水が乗って重くなった傘が、バランスを崩してゆっくりと傾いていく。左隣のナイロンバッグめがけいくそれに慌てて、細い柄を引き寄せる。反対側に勢いよく動いた雨水が己の右肩を濡らした。つめてっ、と思わず声を漏らす。まっすぐ持たないからでしょう、と少し笑みを含んだ声が雨音に混じって聞こえた。
 普段ならばこんな土砂降りの日に外に出ることはない。わざわざ雨に降られて洗濯物を増やすなんてことはしたくないのだ。けれど、今回ばかりは事情が違う。何しろ今日のセールでは牛乳が一パック一六〇円なのだ。その上、キャベツが一玉八〇円である。何としてでも買わねばならない。牛乳もキャベツも日々凄まじい勢いで消費されていくのだ。
 そうして二人でスーパーを目指し、無事お一家族二つまでのそれらを確保し、切らしていた食材や日用品を買い、帰り道に至る。
 傘をまっすぐに持ち直しつつ、雷刀は歩みを進める。開店直後の早い時間だからか、それともあまりに強い雨のためか、広い歩道には兄弟二人しかいなかった。休日の朝だからか、車通りも少ない。まるで世界に二人だけ取り残されたようだ。最近読んだ漫画の影響か、そんな空想が頭の中に広がっていく。なんだか面白くて、思わずくるりと傘を回す。うわ、と隣から跳ねた声が聞こえた。
「冷たいじゃないですか。やめてください」
 碧い瞳が眇められ、じとりとこちらを睨みつける。どうやら、今の手遊びで傘に溜まった雨水が弟の方へ飛んでいってしまったようだ。見ると、左肩にかけたネイビーのナイロンバッグと、シアンのパーカーの左肩部分の生地がいくらか暗く色を変えていた。水を吸っている証拠である。
「え? あっ、ごめん」
「子どもじゃないんですから」
 謝るも、返ってくるのは呆れ声だ。幸い、今日買ったものはビニール袋に小分けにして詰めている。バッグの中身に影響はないだろう。だからこそ互いにこの程度で済んでいるのだ。ごめんごめん、と軽い調子で謝罪の言葉を口にする。ぱしゃん、とまた足元で水が跳ねる。またうわ、と驚いた声が聞こえた。
 低い言葉が飛んでくる前に、兄は二歩踏み出し先を歩んでいく。これ以上隣を歩くのは互いに危険だ。少し早い調子で足を動かし、どんどんと雨降る世界を歩んでいく。バシャバシャと水が薄く張ったコンクリートが声をあげる。時折足首に感じる冷たさを無視しながら、朱は帰り道を進んだ。
 程なくして、赤信号が目の前に立ちはだかった。雨でけぶる世界の中でも煌々と輝く赤に従い、雷刀は足を止める。ここの信号は少し長い。多少待つことになりそうだ。手持ち無沙汰に右肩にかけたナイロンバッグを担ぎ直しながら、少年は辺りを見る。大通りから離れたこともあり、人の姿は見えない。雨雲に覆われた空は灰色で、コンクリートの地面は水で濡れて黒色で、かすれつつある横断歩道は変わらず白で、等間隔で植えられた街路樹はまだ冬を越したばかりで枯れ木色で。無彩色に近い世界の中、暇潰しに色を探していった。
 気付いたのはすぐだった。葉が落ち枝だけの姿になった街路樹は、枝先に色を宿していた。分かれて走る枝のそこかしこに、小さな赤い粒が身を寄せている。ゆるく膨らんだそれは、まさに花の蕾だ。そういえばここは桜並木だったか、と少年は記憶を辿る。古びたこの道は、入学式の時分になると淡い白が舞い散って積もりゆくのだ。
「青になりましたよ」
 雨音でぼやけた耳に、慣れた声が突然飛び込んでくる。びくん、と思わず肩が跳ねる。バランスを欠いた傘が雨水を右肩に降り注がせた。つめてっ、とまた声を漏らした。
 白んだ世界の中、進んでゆく浅葱の背中を追いかける。駆ける足がまた飛沫を飛ばす。隣に並ぶより先に、いつもより一歩は距離を取られた。
「なーなー、桜まだかな」
 雨とビニール傘が奏でる音色に負けぬよう、少しだけ声を張る。きちんと聞こえたのだろう、晴天色の瞳がこちらを向いた。薄暗い空の下でも鮮やかなそれが、すっと空間をなぞっていく。あぁ、と小さな声が聞こえた。
「どうでしたっけ」
 開花宣言はされていたと思うのですが、と烈風刀は小さく首を傾げる。たしかに、SNSのニュースアカウントがそんなことを投稿していた覚えがある。あれはこのあたりのことだったろうか。それとももっと南の方の話だっただろうか。流し読みしただけのそれは全く詳細が思い出せない。そもそも見出しを見ただけで中身を読んだ覚えがない。
「あと数日で咲いてもおかしくはないですね」
「分かるもんなの?」
 弟の言葉に、兄は目を丸くする。見ただけで分かるものなのだろうか。いや、弟である烈風刀は学年主席であり博識である。その上菜園を営むほど植物の知識は豊富だ。この程度のこと、手に取るように分かってもおかしくはない。
「何となくですよ。これだけ芽が膨らんでいますし」
 最近暖かいですしね、と言葉が続く。たしかに、ここ一週間は着込まずとも問題なく過ごせるほどの気温になっていた。通学時に薄く汗を掻く日があるほどだ。季節が春に移ってからもうすぐ一ヶ月が経つ。彼の言う通り、そろそろ咲いてもおかしくない頃だろう。そっか、と感心の声を漏らした。
「まだ咲いてなくてよかった」
 兄はぽつりとこぼす。ビニールを叩いて鳴らす雨音の中からきちんと拾ってくれたのだろう、え、と珍しく間の抜けた音が返ってきた。
「ほら、今日の雨で散っちゃったらもったいないじゃん?」
「あぁ、たしかに」
 ピンと指を立てて言うと、弟は小さく頷いた。花というのは短い命だ。小さく美しく輝かしい命だ。せっかく咲いたというのに、雨に降られて全て散ってしまうなんてことがあったらあまりにも残念だ。花見だってしたいのだ。
 花見、と考えて少年は目を細める。今年は花見はできるだろうか。夏からずっと準備を進めていたプロリーグも、先日無事に終わった。まだまだアップデートは山積みだが、そろそろまとまった休みが取れてもいい頃合いだ。皆で食べ物や持ち物を持ち寄って、学園の敷地内で花見をするぐらいの休みが。
 早く咲かねぇかなぁ。雨音で支配された世界に、穏やかな声が落ちた。




狭さと温もり、それとふれあい/ライレフ
 淡い青が大波を起こし、音をたてる。盛大な音色とともに大量の湯が湯船から溢れ出ていった。白が立ち上るほど温かなそれが風呂場の床をざぱりと撫で、排水溝へと勢いよく流れゆく。碧い目は苦い色を灯してその光景を見つめた。
「あったけー」
 水道代とガス代が無駄になっていく様など欠片も知らない呑気な声が浴室に響く。ばしゃん、と大きな音。大きな波。せっかく張った湯船の中身はどんどんと溢れ、嵩を減らしていった。
「ちょっと。溢れるじゃないですか」
 もったいない、と烈風刀は縁から流れゆく湯を目で追いかける。熱めに沸かして張った湯を無闇に溢れさせるのは、良く言えば贅沢、悪く言えば無駄遣いである。こんなところまで切り詰めねばならぬほど家計は切迫していないが、無駄遣いに思えるようなことは苦手だ。そもそも、水道代とガス代の節約のためにこうして二人で湯船に浸かっているというのに。
 ネメシスの冬は寒い。雪の気配は去れども、冷え切ったから風が温度を奪っていく日々が続いていた。使い捨てカイロを手放すにはまだ早いような気温である。
 冷えた身体を温めるには風呂、特に湯船に浸かるのが一番良いだろう。身体の芯まで温めるのは冬場において重要であるし、何より寒さで凝り固まった身体を熱い湯で解すのは心地が良い。冷えた空気に晒された日ならば尚更だ。
 問題は、今住まう部屋の風呂には追い焚き機能が無いことである。そうなると、一人毎に湯を張り替えねばならない。半身浴より少し多い程度とはいえ、せっかくの湯を捨てまた沸かして貯めを繰り返すのは経済的にも時間的にもよろしくない。しかし、後に入る方が冷めて水に片足を突っ込んだような湯船に浸かることになれば風邪をひいてしまう。ではどうすればいいか。
 二人で入っちゃえばいいじゃん、と兄が指を立てて言ったのはいつの日だったか。随分と遠い昔のように思える。少なくとも、学園に入学するより前から行っていたような気がした。入学前の記憶はどうにも曖昧で思い出せないのだけれど。
「烈風刀」
 狭い浴室に己の名を示す音が響く。人を二人抱え込んで青さを失った水面から視線を上げる。目の前には、大きく腕を広げた雷刀の姿があった。
「これじゃ足伸ばせねーし狭いだろ?」
 な、と兄は小首を傾げて問う。広げた腕は、自身の身体全てを使ってこちらを抱きとめる気概に溢れていた。
 今は二人で体育座りのように身を縮こめ、向かい合って湯に浸かっている状態だ。足を伸ばせば相手の身体を蹴ってしまうし、肩までひたるのも難しい。ならば、二人で同じ方向を向いて入ればいいと言うのだ。行動派の兄にしては理論的であり、合理的である。その裏に『くっつきたい』『抱き締めたい』なんて邪な想いがあるのは明白だけれど。
 せっかく沸かした湯は節約すべきだ。身体はじっくりと温めるべきだ。手足は伸ばして筋肉を解すべきだ。ならば、従った方がいいに決まっている。羞恥よりも節制だ。己のための言い訳を並べ立て、弟はそっと立ち上がる。身を隠すように素早く反転し、また湯船に入る。しばしして、広げた腕の中、開かれた胸の中に、鍛えられた背が飛び込んだ。狭くて四角い海が音もなく波立つ。
 ばしゃん、とまた盛大な音。整った唇から文句が飛び出すより先に、厚みの少ない腹を隆起が見られ始めた腕が包み込んだ。すぐさまぎゅっと締められ、捉えた身体を抱き寄せる。むき出しの肌と肌が、湯すら入らないほどくっついた。
 温かい。熱いぐらいに沸かして張ったから温かいのは当然だ。けれども、今背から伝わってくる温もりは、風呂がもたらすものよりもっと温かくもっと心地よく思えた。いつの間にか強張っていた身体から力を抜き、烈風刀は足を伸ばす。同期するように、身体の横から兄の足が伸びていくのが見えた。
 ほぅ、と二人で息を吐く。予定よりも減ってしまったものの、湯船の中身は身体を温めるには十分な量だった。かじかんでいた足の指が解けていく。確かめるように少し動かすと、また湯がさざなみ立った。
 首の後ろに息遣いを感じる。狭い風呂場に少し低いメロディが反響する。寒さが解ける気持ち良さ故か、己を抱きとめた故か、兄は鼻歌を歌うほど機嫌が良いらしい。いくら湯気立ち込める風呂場とはいえ、濡れたむき出しの肌に息がかかるのは少しばかり寒さを感じる。けれど、不思議と止めようという気は起きなかった。
「昔は二人で入っても広かったのになー」
「もう高校生ですよ。昔とは体格が全然違うでしょう」
 この湯船は、昔は――とてもおぼろげな記憶だけれど――二人で向かい合って足を伸ばせるほど広かった。けれど、それはお互い小さかったからだ。高校生二人で入れば狭いに決まっている。このギリギリ足が伸ばせる湯船は明らかに人間が二人で入ることを想定していないのだ。
「成長しましたから」
 温かな水面を声が揺らす。溜め息のようなそれは湯気とともに消えた。
 そうだ、己たち兄弟は成長した。春に測った身長は高校生の平均よりも高かったし、日々の業務で駆け回っているからか足も腕も同学年の男子よりは鍛えられている。成長して、大きくなって、すっかり変わってしまった。身体だけでなく、心も、関係も。
 節制は大切だ。けれども、高校生にもなって兄弟二人で一緒に風呂に入ってまで節制するなど過剰である。きっちりと管理した家計は湯船を二回張っても問題ないほど余裕があるし、この辺りの水道代やガス代は良心的な価格だ。ここまでやるのは異常だ――『節制』という一点だけから見れば。裏を返せば、それ以外の理由があれば十二分にやる価値がある行為なのだ。例えば、『恋人と一緒に過ごしたい』なんて欲求を満たすとか。
 現状――恋人の誘いに乗り、一緒に風呂に入り、裸で抱き締められているという事実を再認識したところで、顔が熱湯で満たされたかのように熱を持つ。烈風刀は勢いよく湯をすくい、うっすらと汗が浮かんだ顔に浴びせた。熱く感じるほどの温度にしたからだろう、水を浴びたというのにこの顔の熱は冷める様子がなかった。
 はぁ、と満足げな溜め息が首筋に落ちる。そのまま冷たく柔らかなものが肌を撫で、温かで湿ったものが肌に触れる。腹に回された腕に力が込められ、引き寄せられるのが分かった。
「寝ないでくださいよ」
「だいじょーぶ」
 水の中、この身を抱き締める腕を軽く叩く。紡いだ言葉が信用できないぐらいには眠気をまとった声が返ってきた。首筋に押し当てられているであろう頭がむずがるように動く。ぐりぐりと頭をこすりつけるのは、撫でろと飼い主に要求する犬に似ていた。溺れても知りませんからね、と一言告げると、だいじょぶだって、と依然ゆるんだ声が落ちた。
 ふぅ、と息を吐き、碧はすっかり水位が減った湯を眺める。少し前ならばもうぬるくなっていた湯はまだ温かさを保っていた。冷えるのが遅くなるほど気温が高くなってきた証拠である。冬はもう過ぎ去り、春を迎えようとしているのだ。ならば、今冬はこれが最後かもしれない。夏場のように湯が冷めにくい時期ならば、二人で入る必要はない。春だって、少しぐらい寒くとも時間を決めれば順番に入って事足りる。二人一緒に入って、抱き締めて温まる必要なんてなくなるのだ。
 狭い風呂に二人で入るより、短い時間でも足を伸ばして一人で入る方がいいに決まっている。けれども、この時間を失うのはなんだか胸のどこかが風に晒されるような気分になるのだ。馬鹿げた感覚だ。けれども、言い訳を並べ立ててまで行う程度にはこの時間を求めているのだ、己は。
 血色が良くなった唇がまっすぐに引き結ばれる。湯気を浴びた目が眇められる。湯に浸していない頬に紅色が広がっていった。また湯をすくい、烈風刀は豪快に顔を洗う。飛沫が湯船から溢れ、床を滑って排水口に流れていった。
 首筋に、肩に重み。耳の後ろ側から聞こえる呼吸は少し細く規則的なものになっていた。まるきり寝入る時のそれである。
「起きてください」
「……ねてねーよ」
 腕を後ろに回し、弟は朱い頭を軽く叩く。一拍置いて、睡魔の影が見える声が晒された肌を撫でていった。
「眠いならあがりますよ」
 溜め息がちに吐かれた言葉に、兄はえー、と不満げな声を漏らす。すっかり緩んでいた腹の拘束が少しだけ強くなった。逃さんと言わんばかりである。
「もーちょいだけだから」
 おねがい、とやわこい声が鼓膜を震わせる。輪郭が曖昧なのは、眠気によるものだけではないだろう。それが容易に分かるほど、関係は深くなっていた。
「……のぼせても知りませんからね」
 少なくとも、甘えきったそれに応えてしまう程度には。
 わずかに身体の力を抜き、後ろに体重を預ける。ひたりと肌と肌が隙間なく重なる。濡れた人の肌に触れるなど、普通は不快感を覚えるはずである。けれども、今このときは安堵をもたらすものだった。
 春が近い空気の中、湯はまだ温かい。もう少しぐらいなら、浸かっていても湯冷めものぼせもしないだろう。考え、碧はまた落ち着いた息を吐いた。




罪をはんぶんこ/嬬武器兄弟
 足の裏から冷たいものが身体を登っていく。冬の夜の廊下はスリッパ無しでは氷の上を歩いているのと同義だった。ぶるりと雷刀は大きく体を震わせる。たかがキッチンに行くだけだと油断した結果がこれだ。それでも、履き物すら放り出すほどの衝動が己の身を動かしていた。具体的には、腹が。
 胃の底の辺りが、目の奥の方が痛みを訴える。夕食を食べてから日付が変わって二時間経つほど長時間、ずっとゲームをやっていたのだ。敵を確実に仕留めるために画面を注視し、耳から伝わる些細な情報すら逃せないほど気を張り巡らせるシューティングゲームは体力も気力も削られる。集中するあまりなかなか疲れに気づけないのがまた厄介だ。あまりに負けが込み机に突っ伏したところでやっと心身の疲労と空腹を自覚したぐらいである。
 普段ならば夜中の空腹は部屋に置いてある菓子を食べて凌ぐのだが、今日ばかりはそれだけで足りる気がしなかった。何しろ、最低でも四時間は飲まず食わずだったのだ。さすがにスナック菓子一袋だけで満たされる気はしない。この胃はカップ麺でも食べなければ満足してくれないことなど容易に想像がつく。
 キッチンに続くドアを開ける。目的の場所は、随分と夜中だというのに明るかった。冴えきった朱い目が瞬く。明かりを消し忘れたのか、それとも弟も起きているのか。おそらく後者だろう。あの几帳面な弟がキッチンの明かりを消し忘れることなどない。きっと夜中に目が覚めて水でも飲みに来たのだ。
 廊下と同じぐらい冷えたフローリングの上を、雷刀は裸足で歩いていく。進むにつれ、どこか暖かさを覚えた。まるで鍋で煮物をしている時のような、火と湯気の気配だ。こんな夜中なのに、と少年は小さく首を傾げる。牛乳でも温めているのだろうか。はちみつを入れたホットミルクや牛乳たっぷりのココアは鍋で作った方が美味しいのだ。
 ようやく明かりの元へと辿り着く。コンロの前には、予想通り烈風刀の姿があった。同時にバリ、と盛大な音が鼓膜を震わせる。夜には似つかわしくない音に、兄はまたぱちりと瞬く。またバリ、という袋が開くような音。次いで、ぼちゃん、と何かが水に落ちる音。ガサガサと袋が擦れる音。そして、油の濃厚な匂いがほのかに温かなキッチンにぶわりと広がった。
 インスタントラーメンの匂いだ。それも、常備している塩ラーメンの匂いだ。腹が求めてやまない、この時間に浴びるにはあまりにも刺激が強い香りである。グゥ、と盛大な音が己の身体から響いた。
 ガサガサと音。瞬間、鍋と対峙していた碧い頭がゴミ箱の方へと――こちらへと振り返った。立ち上る湯気の向こう、普段とおんなじの透き通った浅海色の瞳が鮮やかに輝く。
 あ、と二つの声が重なった。




 色の薄い縮れた麺。油がたっぷりと浮かんだスープ。同封された香り高いゴマ。鮮やかな刻んだ青ネギ。二つの丼の中には、ラーメンができあがっていた。わざわざネギを刻んで入れるなど、夜中に食べるには手間暇のかかった豪勢なものである。しかし、このネギが夜中に多量にカロリーを摂取する罪悪感を薄めるためのものであることは雷刀にも分かった。
 いただきます、といつもよりも性急な声が二つ重なる。すぐさまずぞぞ、と麺をすする大きな音が響いた。
 口の中を熱が、塩気が、油気が満たしていく。舌が痺れるような心地だった。それが幸せで仕方がない。真夜中、それも長時間何も食べていない胃袋にとって、インスタントラーメンは最大の恵みであった。無心で麺をすすり、ネギをかじり、スープを飲む。丼の中身が空になった頃には、空腹感はさっぱり無くなり満足感と幸福感が全身を満たしていた。
「烈風刀がラーメンってめずらしーな」
 食べ終わった丼に箸を入れ、兄は言う。弟が夜食を食べる姿は時折見かける。しかし、即席麺を作ってまで食べるという姿はあまり見かけないものだ。カラン、と箸と器がぶつかる軽い音が鳴ると同時に、麺をすする音が不自然に止まる。しばしして、箸を置く音が明るいテーブルの上に転がった。
「今日は夕飯が早かったでしょう。さすがにお腹が空いてしまって……」
 空色の目が宙を泳ぐ。白い指がそろりとテーブルを撫ぜる。温かな食事を摂ったからか、白い肌は少しだけ赤みを帯びていた。珍しく落ち着きがない姿である。それはそうだ、普段から栄養バランスと量をきちんと考えた食事を作る彼が夜中にインスタントラーメンなんて栄養バランスもへったくれもないものを食べている姿を見られては気まずくもなるだろう。己ですら夜中のラーメンは少しばかり罪悪感と背徳感を覚えてしまうのだから。
「たまにはいいな」
 油で薄く光る口元がニッと笑みを作る。腹が満たされ温もりを得た朱い目元はほのかにとろけていた。
「貴方はよくカップ麺を食べているでしょう」
 トン、と丼を机に置く音に少し尖った声が続く。そだけどさ、と笑みを含んだ声が返された。即席麺の類は全てキッチンに収納しているのだ、己がそこそこの頻度で食べていることは筒抜けである。
 対面の丼を引き寄せ、己のものと重ねて箸を放り込む。落とさないように二膳の箸を軽く押さえ、雷刀は立ち上がった。
「片付けとく。おやすみ」
 ついでとはいえ作ってもらったのだ、片付けぐらいは己がやるべきだろう。不利な話題を切り上げるためでもあるが。え、と少し揺れる声を無視して、少年は足早にキッチンへと向かう。しばしして、おやすみなさい、と穏やかな声が聞こえた。
 重ねた丼をほどき、両方に水を入れる。スポンジに食器用洗剤を垂らし、予め水に浸して置いてあった鍋に手をかけた。油が残らないようにきちんと洗い、かごに伏せて置く。丼に張った水を捨てたところで、ふと何かが頭をよぎった。
 一人分のラーメンは二つに分けられた。けれど、丼の中身はいつも通り、一袋作った時と同じ量で満たされていた。味は常と変わらないどころか濃く感じたので、スープを水で薄めたということはないだろう。そもそも、麺も一袋分のしっかりとした量が入っていた。つまり。
 考えて少年は笑みを浮かべる。ふは、と油をまとった笑声がシンクに落ちた。




温もりが赤を包んで/奈+恋
※性に関する描写有

 重い。痛い。
 その言葉ばかりが頭の中を満たしていく。一歩足を動かす度に、身体の真ん中から違和感が広がっていく。常はしっかりと前を見据える紅玉の瞳は、今は廊下の先よりも床を見ることが多かった。
 腹が重い。鈍く痛い。
 下腹部を覆うようなそれが、怜悧な頭にノイズをかける。厳しさがありながらも愛らしさを感じさせるかんばせを崩していく。整えられた美しい細い眉はわずかに寄せられ、眉間に薄く皺を刻んでいた。どれも彼女の必死な努力によって抑えられているものの、親しい者が見れば気付いてしまうだろう。
 頭の中を埋め尽くす二単語を、腹のあたりを包みこむ違和感を吹き飛ばすように、恋刃は廊下を歩んでいく。それでも足取りは普段よりも遅く、一歩一歩が鈍く重いものになっていた。当然だ、痛みを抱えたままでいるのはまだ幼さが抜けきらない中学生には難しいことなのだ。けれど、常通りであらねばならない。弱った姿を人に見せるなどあってはいけないのだ。
「恋刃」
 普段よりもゆるやかな足音が積もりゆく廊下に、落ち着いた声が響く。ひくん、とむき出しになった肩が小さく跳ねた。後ろから聞こえたこの声の持ち主など分かりきっている。そして、いつになく硬さを孕んだそれが何を意味しているかなども。
「どうしたの、奈奈」
 小さく深呼吸、恋刃はいつもの笑顔を貼り付けて振り返る。そこには、やはり奈奈がいた。虹色の丸く美しい目は今は細くなっている。リップをしなくとも潤ってつややかな唇は引き結ばれている。細く儚げな眉は小さく寄せられていた。怒っていることなど、付き合いの長い己にはひと目で分かる。だからこそ、この場を穏便に切り抜けねばならないのだ。
 硬い靴底が廊下を打つ。硬質な音は虹色の少女の感情を表すかのようなものだった。白い手が伸び、後ろに回していた己の腕を掴む。自己主張が苦手な彼女にしては大胆な行動だ。晒された腕を掴む細い手はしかりと力が入っていて、逃しはしないとこれでもかと主張している。己が彼女の感情を見抜いているように、彼女も己の状態を見抜かれているのだ。でなければ、ただ廊下を歩いているだけでこんなに強い力で腕を掴みはしない。
 ぐっと腕を引かれ、少女は思わずたたらを踏む。そんな友人の様子などつゆほども気にせず、奈奈は廊下を歩いていく。奈奈、と抗議するように友人の名を呼ぶ。いいから、と振り返ることすらなく険しい声が返ってきた。
「奈奈、お昼休み終わっちゃうわよ? 次移動教室で――」
「いいから来て」
 困ったように問うてみるも、すぐさま強い声が重ねられる。固く、険しく、それでいて苦しむような、耐えるような響きだ。そんな声を出させているという事実に、赤い眉が八の字を描く。
「保健委員長がそんな調子でいいのかしら」
 追撃のような言葉に、血色をした少女は小さく呻く。保健委員、つまりは生徒の健康を真っ先に考える組織に属する者がこんなに弱った状態では――姉と友人以外には気付かれていないと思うけれど――説得力が無い。それが組織のトップである己ならば尚更のことだ。分かってはいても、どうにも弱い部分を見せたくないプライドが邪魔をする。こうやって、不調をひと目で見抜くほど交流の深い友人に無理矢理連れられないと行動できないぐらいには。
 二人で廊下を、来た道を戻っていく。程なくして辿り着いたのは、保健室だった。保健委員長である恋刃にとって馴染みのある、けれども今は少しばかり近付きたくない場所だ。分かっているだろうに、奈奈は手を離すこと無くまっすぐに部屋へと入っていく。自動ドアをくぐり抜けると、消毒液の独特な匂いが鼻を刺激した。
 シャ、と勢いのいい音。上げられずにいた視線をゆっくりと正面へと戻していく。そこには、畳まれた布団をベッドの上にテキパキとセットしている友人の姿があった。
「いや、ちょっと大袈裟――」
「寝て」
 慌てて友人へと手を伸ばす。ちょうどベッドメイクを終えた虹色の少女は、まっすぐな声で短く言った。命令とも、懇願とも取れる音だ。普段の彼女が発することがない、強い響きだ。付き合いの長い己には分かるが、よっぽどのことがなければこんな声を出すはずがない。だからこそ、逆らえない。
 鈍い動きで上履きを脱ぎ、ベッドへと乗り上がる。抵抗するようにぺたりとマットレスの上に座っていると、そっと肩を押された。力などほとんど入っていないのに、そのまま簡単にベッドに倒れ込んでしまう。すぐさま掛け布団を被せられ、カーテンが引かれる。世界はあっという間に四角く切り取られてしまった。
 足音、何かを漁る音、水が注がれる音。昼休みも終わり際、二人きりの保健室に無機質な音が響く。逃げるように枕に頭を埋めるも、家の布団とは全く違う匂いが現実から逃してくれなかった。
 シャ、と再びカーテンが開けられる。おそるおそる音の方へと目を向ける。予想通り、そこには湯たんぽを抱えた奈奈がいた。
「これ、お腹に当てて。少し楽になると思う」
「……ありがと」
 差し出された容器をおずおずと受け取り、恋刃は布団の中にそれを引き入れる。言われた通り腹に当てると、少しだけあの重さと痛みが薄れたように思えた。やはり、この痛みは温めるのが一番効果的だ。分かってはいたものの、実行するのは――わざわざ保健室で借りた湯たんぽを腹に当てる姿を見られたり、カイロを腹に仕込んでいることに気付かれてしまうのは、いつだって毅然として在りたい己には難しいことだった。友人には全部お見通しで、だからこそ無理矢理にでも引き連れてきたのだろうけれど。
「先生には奈奈が言っておくね。だから、ちゃんとお腹あっためて寝て」
「うん……」
 声音は子どもを諌める時のそれとまるきり同じだった。芯の通った、有無を言わさない音色だった。普段の彼女しか知らない者には全く想像できないものだろう――己は時折聞く、否、言わせてしまう羽目になるのだけれど。
 綿布団の上に奈奈の手が置かれる。そっと滑っていった美しい白は、ちょうど布団の盛り上がった場所――湯たんぽを抱えた腹のあたりで止まった。たおやかな手がそっと布団を、その下にある己の腹を撫でる。うぅ、と情けない声が漏れた。もっとも、こんな状態を見られて、こんなに世話を焼かれている時点でとても情けないのだけれど。
「大丈夫だから」
 暖かくして寝れば、いつもの恋刃に戻れるから。
 歌うような声は慈愛に満ちていた。まるでおばけを恐れる子どもを寝かしつけるような、迷子になって泣いている子どもを励ますような、祈るような、そんな音色をしていた。
 わかった、と恋刃は小さく返す。ふ、と小さく息を吐く音と、トントンと軽く布団を叩く感覚が少女を包んだ。まるきり子ども扱いのそれに、思わず唇を尖らせる。口元は掛け布団の影になって見えなかったのか、白い手は物言わずにそっと離れていった。
「おやすみ、恋刃」
「……おやすみ」
 少しひそめられた声に、同じくひそめて返す。きっと己が眠りやすいように小さな声で言ってくれたのだろうけれど、なんだかいけないことをしている気分になる。保健室に二人でいることなんていつものことのはずなのに、なんだか恥ずかしさや後ろめたさが込み上げてくる。逃げるように、布団を頭まですっぽりと被った。
 カーテンが開けられる音。ゆっくりと閉められる音。少しの足跡と、自動ドアが開く音。先生、と変わらずひそめた調子で話す友人の声が布団の隙間から聞こえた。きっと一時限分休む手続きを代わりにとってくれているのだろう。勝手に寝るだけでは無断欠席扱いになってしまうのだ。
 腹に当てた湯たんぽをぎゅっと抱きしめる。温かなそれが、腹の重みと痛みを和らげていく。お湯の温もりが、布団の温もりが、瞼を撫でて降ろしていく。
 起きたら奈奈にお礼を言わないと。謝らないと。無理してごめんって言わないと。もう大丈夫って言わないと。これ以上奈奈を心配させちゃいけない。
 睡魔が動きを鈍らせる中、少女は拙く思考を重ねていく。縋るように腹の温もりを抱き締め、恋刃はそっと瞼を下ろした。




いつでもおんなじ味で/雷刀+グレイス
 物音を立てぬよう注意しつつ、そっとキッチンを覗き込む。二人暮らしにしては広いそこには、包丁がまな板を叩く軽快な音が響いていた。まるでリズムを刻んでいるような、気持ちよさすら覚えるほどの音色だった。丸い躑躅がぱちりと瞬く。影からじぃと見つめる姿は不審極まりないが、瞳に宿る光は真摯なものだ。それでも、うろうろと泳ぐ様は怪しさに拍車をかけた。
 本日土曜日、グレイスはレイシスと二人で嬬武器の兄弟の部屋に遊びに来ていた。テレビゲームにボードゲームにと遊びに興じていると、あっという間に時は過ぎてしまう。気づけば、午後を回ってしばらく経っていたほどである。
 昼飯作るな、と立ち上がったのは雷刀だった。兄弟は家事に当番制を採用しているようで、今週は雷刀が料理当番だそうだ。手伝うわ、とグレイスも立ち上がったが、大丈夫だと兄弟二人で制されてしまっては大人しく座るしかなかった。けれど、気になって仕方がない。遊びに訪れる際はいつも手土産を持ってきているが、わざわざ昼食を作らせ食べさせてもらうこととではどうにも釣り合っていないように思えるのだ。こちらは店で選んで買うだけだが、あちらは時間と材料、手間をかけているのだ。それが等価と言われて素直に首を縦に振ることはグレイスにはできなかった。
 結局いてもたってもいられず、水をもらってくると言い訳をしてキッチンに向かった今に至る。
 少女は依然視線を泳がせ思案する。来たはいいものの、申し出を断られたらどうしよう。それはそれで迷惑ではないだろうか。けれど、手数は増えて困ることはない。己も経験を積み、人並みに料理ができるほどになったのだ。足を引っ張ることは無いだろう。けれど。
「グレイス?」
 ぐるぐると思考する頭に己を示す音が飛び込んでくる。不意打ちのようなそれに、少女はぴゃわっと小さく悲鳴をあげた。急いで声の方へと視線を向ける。そこには、包丁片手にこちらを見つめる雷刀の姿があった。
「座ってていいのに。腹減ってるだろ?」
「……作ってもらってばかりじゃ悪いじゃない」
 へらりと笑う朱に、躑躅は唇を尖らせて返す。これが時折、たまに、ぐらいならばいい。けれど、午前中に訪れた時はほぼ毎回作ってもらっているのだ。申し訳無さは募っていくばかりである。せめて材料を持ってこれたらならば、と考えるが、いくらなんでも手土産に野菜や肉を持っていくわけにはいかない。結果、いつも彼らの冷蔵庫の中身を余計に消費させてしまうばかりだった。
「オレらが遊びに行った時は作ってくれるじゃん。それでよくね?」
「頻度が違うでしょ。……やっぱり、悪いわ」
「んなに気にしなくていいのに」
 少し縮こまったグレイスを眺め、雷刀は笑う。会話の中でも、手はきっちりと動いていた。刻み終わった野菜を手早くまとめ、火の通りにくいものから順にフライパンに入れて炒めていく。餌を与えられた油が盛大な音と香りをたてた。
 焼きムラを作らないようにするためだろう、菜箸で適度に掻き回し、少年は次々と野菜を入れていく。次第に加熱された野菜の甘い香りがキッチンを満たしはじめた。さっさっと炒め、朱い少年はコンロ前の棚へと手を伸ばす。塩をほんの少し入れ、続けざまに引き出しから計量スプーンを取り出す。今度は醤油を大さじできっちりと量って入れた。
「意外ね」
 マゼンタの目がぱちりと瞬き、桜色の唇から小さな声が漏れる。ちょうど炒め終え火を消したタイミングだったからだろう、それは朱の耳にしっかりと届いた。
「何が?」
「貴方、ちゃんと量って作るのね」
 日頃の嬬武器雷刀は、物事の全てを『大体』や『こんぐらい』といった曖昧な言葉で表している。業務が絡まなければ、明確な数字が出てくることは稀だと言ってもいいほどである。そんな彼なのだ、料理でも調味料など一切量らず大雑把に味付けをするものかと思っていた。こんな風にしっかりと計量スプーンを使う様など、全く想像ができないものであった。
 ひっでぇ、と雷刀は笑う。言葉に反して陽気な音色がキッチンを漂っていく。あんな、と彼はくるりと菜箸で宙に円を描いた。
「ものによるけどさ、ちゃんと量ってやんないと反応起きなかったりして失敗する料理とかもあんだよ」
 少年の言葉に、グレイスは小さく頷く。料理、その中でもとりわけ菓子作りでよく聞く話だ。菓子作りなんてボウルに付いた水の一滴も許されないようなものもある。日常の料理でもそういうものはきっとたくさんあるのだろう。料理のさしすせそがそうだろうか、と頭の隅で考えた。
「それに味が安定しないしな。濃すぎたら調整できねーし」
 彼の言う通りである。薄味は少しずつ調味料を足していけばきちんとした味にすることができるが、一度濃い味になってしまえば後戻りはできない。材料を増やして中和することもできるが、手間な上に材料が余計にかかってしまう。食べきれない量になってしまう危険性もあるのだ。非常に合理的な考えだ。
「まぁ、全部烈風刀の受け売りだけど」
「いいじゃない。教わったことをちゃんとやってるんだから」
 苦く笑う雷刀に、グレイスは小さく首を傾げて返す。教わったことをきちんとこなすのは良いことだ。己だって、レイシスに教わったことを忠実にやっているからこそ人並みに料理が作ることができるのだ。それも、彼が師事するのは料理上手で仲間内では有名な嬬武器烈風刀である。その教えをしっかりと守り、美味な料理を作ろうとする姿勢は自然なものであろう。
 そっか、と雷刀は呟く。いつの間にかまな板の上には豚肉が刻まれていた。奥では電子レンジが動いている。一体何を作っているのだろうか。好奇心に身を任せ、少女は手元を眺める。大皿に盛られた野菜の炒めもの。細かく切られた豚肉。フライパンの近くに見える筒はソースだろうか。
「それにさ」
 声に、思考が現実に戻ってくる。細い肩が小さく跳ね、まんまるな愛らしい瞳が朱へと向けられる。視界の中、朱い少年は八重歯を覗かせ笑みを咲かせた。
「オレらだけで食うならいいけど、今日はレイシスとグレイスにも食ってもらうんだぜ? ちゃんとした美味いもん作んないとだろ?」
 なっ、と朱はまた菜箸を回す。まるで魔法を唱える魔法使いのようだった。にこやかな表情は自信とやる気に満ちている。食べる人を喜ばせようという心意気がよく分かるものだった。
 ラズベリルがぱちぱちと瞬く。丸くなったそれは、すぐにふわりと細くなった。潤いつやめく唇がそっと解ける。聞き入り真剣そのものだった表情は、柔らかに綻び穏やかな色を灯した。
「そうね。レイシスにまずいもの食べさせるわけにはいかないもの」
「そのとーり」
 グレイスにもな、と続ける少年に、少女は少しばかり視線を逸らす。そうもはっきり言われると、どうにもこそばゆい。自分のことまで考えてくれているというのは嬉しいことだが、まだ慣れられないことでもあった。朱も分かっているのだろう、何も知らないといった風にフライパンに油を敷き直した。
「つーことでっ、楽しみにしててな」
「……分かったわ」
 楽しみにしてる、と躑躅は笑う。おう、と朱は自信満々に応えた。まな板が持ち上げられ、フライパンに豚肉が投入される。ジュワァ、と肉が焼ける大きな音と胃袋を刺激する香りがキッチンに響いた。
 これ以上居座るのも悪いだろう。グレイスはそっとキッチンから出る。スタスタと淀みなく進む足は途中でふっと止まった。
「……お水もらうの忘れてた」
 もちろん、水をもらうなどキッチンに行くための言い訳だ。けれど、長居した上に空のコップを持って帰ってくるのは明らかにおかしい。『手伝いに行ってました』と自分で主張しているようなものだ。それはさすがにまずい。というより恥ずかしい。だって、そんなことがあってはあの桃と碧は微笑ましそうにこちらを見てくるに決まっているではないか。そればかりは避けるべきだ。
 少女は急いで踵を返す。お水ちょうだい、と油の香ばしく甘い匂いの中に飛び込んだ。




赤と紫にうずもれて/嬬武器兄弟
 朱い視線が食卓をゆっくりとなぞっていく。常ならば馳走を前に輝く瞳は、今はどこか暗くなっていた。愛らしさを感じさせるまんまるな姿も、瞼に押され細くなっている。よく動く八重歯が覗く口元も、筆で線を引いたかのようにまっすぐに結ばれていた。
 食卓には様々な料理が並んでいる。炊きたてでツヤツヤの白米。大皿いっぱいの麻婆茄子。出汁がよく染みた茄子の揚げ浸し。白と紫のコントラストが眩しい茄子の浅漬け。ドレッシングを弾くほどみずみずしいトマトとレタスのサラダ。煮てもなお鮮やかさを保ったトマトと卵の味噌汁。どれも料理上手な弟の確かな腕によって調理された、美味しさが確約された素晴らしい料理である。
 素晴らしい料理であるが。
「……烈風刀」
「あと箱一つ分なんです」
 眇められた目が向かい側、同じく唇を引き結んだ片割れへと向かう。碧い瞳は瞼の奥に逃げ、眉は皺を刻むほど寄せられている。硬く動く口からは、引き絞るような苦い声が漏れ出た。三日前も聞いた――その時は『箱二つ』だったが――言葉に、雷刀はますます目を細くする。狭まった朱の中には様々な色がぐるぐると渦巻いていた。
 一年ほど前から始まった烈風刀の菜園趣味はどんどんと本格的になり、遂にはベランダを飛び出し畑を一つ持つほどとなった。学園の隅、園芸部の一角を譲り受けたそれは丁寧な手入れにより豊かなものとなり、植えられた苗たちもすくすくと育っていた。それはそれはすくすくと。想像を遙かに越えるほどに。
 夏になる頃、様々な野菜が実った。実りすぎたのだ。夏に向けて植えたトマトと茄子だけでも、みちみちに箱に詰めてなおいくつも積まれるほど凄まじい量となった。少なくとも、兄弟二人で消費するのは不可能なほどに。
 レイシスに分け、近所に配り、と無理矢理数を減らしたものの、それでもまだかなりの数が残っている。そうなると、あとは二人で消費するしかない。
 その結果、毎日が茄子とトマトで埋め尽くされる日々が続いている。
「味噌炒め……夏野菜カレー……らたとゆ……ミートソース……田楽……」
「分かってます……」
 指を折りながら、雷刀はここ最近の晩飯を並べ立てていく。見事に茄子とトマトづくしである。赤と紫が内臓に染み付いて取れなくなるのではと思うほど茄子とトマトづくしである。美味しく調理されているものの、全ては茄子とトマトである。他の具材も用いられているものの、さすがにこうも続くと飽きというものが来る。烈風刀も理解しているのだろう、嫌味とも取れるそれに反論することなく、ひたすら苦々しい表情で受け止めていた。
「今週中には使い切れるでしょうから。だから、我慢してください」
 絞り出すような弟の声に、兄は小さく頷く。彼を非難しているわけではない。苦しめたいわけではない。けれども、さすがに食べる喜びよりも同じものが続く苦しさが勝っていた。きっと当人、元凶である烈風刀も同じだろう。だからこそ、毎日のように消費し、保存の効くものを率先して作り、常備菜として消費したり冷凍保存しているのだ。分かってはいる。分かってはいるものの。
「いただきます」
 沈んだ声が二つ落ちる。箸を持つ音、食器と擦れる音、食物を噛みしめる音が二人きりの食卓に満ちていった。
 常備菜を作っている。冷凍保存している。ということは、最終的には食べねばならないのである。それがどれほど先であるか。少なくとも、常備菜は今週中に食べ終えることはできないだろう。結局、来週も少しの地獄が続くのだ。
 来週のメニューどうすっかなぁ。
 ぼんやりと考えながら、来週の食事当番は紫を口に運んだ。
畳む

#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀 #恋刃 #虹霓・シエル・奈奈 #グレイス #ライレフ #腐向け

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この世に在らんことを【神+十字】

この世に在らんことを【神+十字】
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五月十日はGottの日!
ということで何とか存在してる神様と頑張る十字さんの話。俺設定しかないから雰囲気で読んでください。

 穏やかな呼吸が埃舞う空間に落ちていく。腕にかかる温かな重みに、規則的な落ち着いた寝息に、青年は思わず笑みを含んだ吐息を漏らした。
 緋色の瞳が動き、すぐ隣、身体を折るように俯いて眠る蒼を眺める。こちらに少しもたれかかった状態なのもあり表情は見えないが、落ち着いた呼吸からよく寝入っていることが分かった。逡巡、紅い青年は物音立てずに動き、今にも前に倒れてしまいそうな姿勢で眠る青年の身体に触れる。慎重な動きで抱きとめ、椅子の上に上半身を横たわらせた。姿勢が大きく変わったというのに、当人は目覚めることなく穏やかに呼吸をしている。歳らしからぬ――と言っても、彼の年齢は知らないのだけれど――あどけない寝顔に、薄い唇から細く柔らかな吐息が漏れた。
  青年の傍ら、いくらか積まれた本を眺める。どれも古く、表紙は擦れて描かれた絵や模様が見えなくなっていた。てっぺんに乗ったものなど、空押しのように残ったタイトルだけがうっすらと見えるような有様である。傷と大差ないようなそのへこみは、その本が地域の伝承をまとめたものであるということを示していた。更に下に積まれたものの表紙は見えないが、おそらくどれも伝承や郷土資料、御伽噺の類だろう。
 最近友人――出会いが出会いなだけに、こう表現していいかすら分からないが――である彼は、ひたすらに資料を集めていた。地域に残る数々の伝承の中に『紅い神』の話はないか――神である紅い己が動いた記録が残っていないかと、調べに調べていた。村内に保管してある資料から、隣町が保有する資料、果ては書店に並ぶ御伽噺の本まで調べる始末である。それほど、彼は貪欲に情報を求めていた。ただ一つ、小さな村を訪れ、小さな災い一つだけを跳ね返した神の話を。
 全ては己――彼により長い眠りから目覚めた『名も無い神』のためだとははっきり分かっていた。『神』という存在は、信仰によって存在することができる。信じ崇める心はもちろん、その存在を信じる、存在を知るだけでもこの世に顕現する(信仰)となるのだ。だから、彼は記録を求める。神が存在した記録を。他者に『こんな存在がいた』と信じさせられるように。人々の記憶に残るように。
 大変な作業だろう。事実、蒐集は難航しているようだった。なにせ、昔々のとある村に伝わるだけの話だ。彼が己の存在を知った書物には詳しく記してあったが、あれは神に魅せられた者(信者)が記録したものだろう。そうでなければ説明が付かないほどの分量と熱量である――だからこそ彼も惹か(ここを訪)れてしまったのだろうけれど。
 実際のところ、『ヒトが困っていた時に神様が助けてくれた』なんて話はよくあるものである。大量にある御伽噺めいた記録の一つが、それも名が知れているわけでもない村に残る記録が大々的に取り扱われているはずがない。それでも、彼は探すのだ。己の――彼が目覚めさせ、今こうやってどうにか存在している神を確かなものにするために。
 信仰(存在を証明する者)は確かにここに在るのに。信じてくれる者()がいるから己はこうやって存在できているのに。それだけで十分だというのに。
信じてくれる神(オレ)はちゃんとここにいるんだけどなぁ」
 神は小さく漏らす。細く、けれども重さを孕んだそれは、土埃が溜まった床に落ちて消えた。
 今、神として存在している。己はそれだけで十分だ。なのに、彼は探す。一人では力が足りないと探す。その姿はまるで狂信者だ。記録に――魅せられた者(信者)が文章として残した強い念にあてられ引き込まれた、取り憑かれたヒトだ。ただの郷土史の記録だけを信じて村外れの廃教会(こんな場所)に来たのが何よりの証拠である。自覚は無いようだが。
 もぞ、と蒼が動く。居心地悪そうにいくらか身じろぎし、また寝息を立て始めた。苦しいのだろうか、と神は考える。己はこの古ぼけた長椅子で眠ることにすっかり慣れているが、彼は違う。常はきちんとヒトとして暮らす蒼は、こんな硬い場所で心地良く眠れるはずなど無いのだ。ヒトは柔らかなベッドで寝るのが普通であることをすっかり失念していた。配慮のつもりが、変わらず苦しい思いをさせてしまうなど失笑ものである。紅玉が細くなり、細い眉が寄せられる。癖のように頭を掻く手付きは粗暴だった。
 眠る横顔に手を伸ばす。垂れた蒼髪を指先で退けると、白い頬があらわになった。常日頃中でも外でも働き回っている肌はほんのりと焼けており、健康的な印象をもたらした。大きな傷は無く、荒れた様子も無い。きちんとした生活を送っていることがうかがえた。
 逡巡、神は眠るその頬に指で触れる。手袋を付けているのだから、感触は分からない。けれども、確かな温かさが布越しに伝わってきた気がした。
畳む

#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀

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とけるほどにあつくて【タコイカ】

とけるほどにあつくて【タコイカ】
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ヒトへの擬態化は幼少期では不完全(初代アートブックより)→じゃあ完全変化を身につけたての頃だとちょっとしたことでイカに戻ったりするのでは……?
とか考えた結果の産物。便宜上タコとイカに名前があるので注意。
完全変化身につけたて付き合いたて大人の階段上りたてのタコ君とイカ君の話。

 ちゅ。ちゅ。
 可愛らしい音がベッドの上に落ちていく。二人きりの部屋、薄いガラス窓の向こう側、遠くから子どもの声が聞こえる。それを上書きするように、口元からは愛らしくも淫らな音があがった。
 唇と唇が離れていく。酸素を求めた唇は、両者とも開いていた。頭半分下にあるその隙間から、鮮やかな色の下がちらと覗く。唾液でたっぷりに濡れて艶めくそれが酷く淫靡に思えて、思わず唾を飲み込んだ。
 自身も同じほど、否、少し長く舌を出す。離れたばかりの頭と頭が、くっついてしまいそうなほど近づいていく。数拍、わずかに姿を現した極彩色の粘膜が触れ合った。
 熱い。
 舌先から伝わる熱に、インクリングの少年――ウキは小さく眉を寄せる。不快感や苦痛によるものではない。脳が痺れるような感覚によるものだ。事実、伏せられた目の端っこはゆるく下がってとろけていた。
 先端だけで触れ合っていた熱が、ぬめる粘膜の上をなぞって口内に侵入してくる。ぬるりとしたものが、舌を、歯を、口蓋を、頬の内側を器用に撫ぜていく。すっかり覚えてしまったきもちがいいところを刺激され、少年は息を漏らす。鼻を抜けたそれは、とろけきった甘ったるい音色をしていた。
 ぐちゅ。くちゅ。艶めかしい音が口内を通して脳味噌に直接注ぎ込まれる。熱が感覚が、音が、頭の中身をぐちゃぐちゃに掻き回していく。恐ろしいことだというのに、きもちがよくて仕方がなかった。
 絡めあった舌をぢゅ、と強く吸われる。瞬間、背筋を何かが駆け上っていった。神経全部を走って直接脳味噌に叩き込まれたそれは、快楽というラベルが貼られていた。不規則に吸われる度、閉じて真っ暗になったはずの視界に小さな光が明滅する。まるで星空のようだ、なんてロマンチックなことを考える暇など無い。ただただ押し寄せる感覚に身を任せるしかなかった。
 口腔を通して快楽がめいっぱいに注ぎ込まれる。無意識に鼻を抜けて出た声は、どんどんと色香を漂わせるものになっていた。
 どろり、と融け落ちる感覚がした。
 熱を伝える触覚が、とろけるような味覚が、ダメになりそうなほどの快楽が、一気に消えて失くなる。あ、と頭上から声が降ってくる。気がついた時には、視界は真っ黒から真っ白へと移り変わっていた。ぼやけたその端に、錨のマークが見える。己にとって唯一無二のオクトリングがよく着るギアの柄だ。つまり、頭が、目が、それほどの位置まで落ちている――ヒトの視界を保てなくなってしまっていた。
「またかー」
 頭上から声が、温もりが降ってくる。大きな手がつるりとした表面をなぞっていく。優しい動きはまるっきり子どもをあやすそれだった。悔しさに声を出そうとするも、ヒトの形を失ったばかりの声帯は上手く働かなかった――それ以上に、まだ思考が許容量以上の快楽でぼやけているからだけど。
「これじゃいつまで経ってもセックスできなくね?」
「できるし……だいじょーぶにきまってんだろ……」
 からかうような言葉に、どうにか言い返す。普段ならばうるさいとすら言われるほどはっきりとした声は、依然甘くやわこい輪郭をしていた。
「そういうことはヒトの形に戻ってから言おーなー」
 あしらうように言葉を紡ぎ、オクトリングの少年――チサは、膝の上に抱えた愛しい者を撫でる。ヒトの姿を保てなくなり、イカの形に戻ってしまったコイビトをあやすように撫でる。子ども扱いにしか感じないそれに、インクリングは呻き声を漏らした。
 安定してヒトの形に変化できる年頃になった己たちは、ナワバリバトルで出会った。初めは敵として戦い、その勇ましく物怖じしない戦い方に目を奪われ、勇気を絞って言葉を交わし、フレンド登録をし、数え切れないほど共に戦い。そんな日々を送っていく中、内側に抱えた感情はどんどんと大きくなり、次第に形を変えた。友情から恋慕へと。
 これまた勇気を振り絞って告白し、喜びに溢れた答えを得て。関係はトモダチからコイビトへと変化した。とはいっても、ほとんどは今までと同じだ。バトルして、反省会をして、対策を練って、練習して、またバトルして。フレンドたちから『バトル馬鹿』とからかわれるほどにブキを操り戦ってきた。
 その間にちょっとした触れ合いが混じり始めたのはいつだっただろうか。帰り道手を繋いで、負けて落ち込む中抱き締めあって、互いの家で遊ぶ中口付けをして。少しずつステップを踏んでいき、今ではちょっぴり進んだ口付けをするほどになっていた。
 問題はここからであった。口腔での触れ合いの最中、己はヒトの姿を保てなくなるのだ。完全に無理だというわけではない。それでも、きもちよさで頭の中がいっぱいになると、身体はヒトの形を維持できなくなるのだ。おかげでいつまで経っても口付けの『先』まで進めない現状である。
 何でなんだよ、とウキは心の中で吠える。ようやくナワバリバトルへの参加条件を満たすほどヒトの形を安定させられるようになったのだ。なのに、こんなちょっとしたオトナの触れ合いですぐにイカに戻ってしまうなんて。悔しいったらない。
 うぅ、とくぐもった呻きが止む。戻った心拍数と体温を確認するように深呼吸二回。外側の全てをシャットアウトするほど意識を集中させ、頭の中でヒトの形を描く。はっきりと浮かべたその姿を、焼き付けるように、刻みつけるように強く思う。とぷん、と雫が跳ねるような音が身体の中に響いた気がした。
「おっ、戻った」
 先ほどまで頭上から聞こえていた声が後ろから飛んでくる。尻の下に少し硬い、けれども温かな感触。やっとヒトの形に戻ったのだ。試合中は意識せずともヒトとイカを行き来できるというのに、普通の生活――始まったばかりのこの関係を『普通』と表現するにはまだ早い気がするけれど――ではこんな状態なのだから欠片も笑えない。
 腹に腕が回される。半袖のギアから覗く剥き出しの肌は温かだ。指を組んで合わさった手に、己のそれをそっと重ねてみる。輪を作っていた腕が形を崩し、合わさった指が解け、己のものを包むように重ねられた。先の尖った指が表面を撫でていく。むずかゆさに、ふは、と短い笑声が漏れた。
「快楽に弱いんかな」
「エロ漫画みてーなこと言ってんじゃねーよ」
 後ろから聞こえたふざけた言葉に、少年は重ねられた手をペしりと叩く。いてぇよ、と痛みも何も感じさせない声とともに、同じ程の強さで手を指先で弾かれた。
「だってお前がこんなことになんの、キスするときぐらいだろ」
 普通に触ってもなんともねーのに、と不思議そうな呟き。腹に回された手がするりと動き、二枚重ねの生地で守られた腹を撫ぜる。円を描く軌道は、あの審判猫に触れるときと同じように思えた。
 確かにこの程度の触れ合いで何かが起こったことはない。手を繋ぐのも大丈夫。抱き締めあうのも大丈夫。こうやって膝に座らされ密着するのも大丈夫。唇を合わせるだけの口付けも大丈夫。では、何故ちょっとだけ先に進んだ口付けではああなってしまうのだろう。確かに口の中をくすぐりあうのはきもちいいけれど、ヒトの形を保てなくなるのはさすがに異常である。
「それか敏感とか?」
「んなわけねーだろ。そんなんだったらバトルできねーって」
 バトルの際、己は主に前線ブキを使っている。真っ先に先陣を切り、いの一番に敵を仕留める役割だ。ステージを駆け回って撃たれ撃ち抜きを常に経験しているのもあり、痛みには強い方である。敵を見つける嗅覚や感覚は優れていると自負しているが、敏感であるのはまた違うだろう。
 本当に何でなんだろうな。もう数え切れないほど繰り返した疑問が溜め息とともに吐き出される。腹を撫で回す手が止まり、うーん、と小さな悩み声が耳の後ろから聞こえた。しばし続いたそれがはたと止む。よし、とどこか晴れた声が耳の裏側にぶつかった。
「試してみるか」
「は?」
「手ぇ貸して」
 ほら、と視界の端で何かが揺れる。チサの手だ。言われるがままに重ねていた手を上げ、ゆるく振られるそれへと寄せた。手首に温度がまとわりつく。すぐはねのけられるような簡単なものだというのに、逃がすか、と言われているように思えた。
「なー、どうすんだ――」
 問う声に、ちゅ、と可愛らしい音が重なる。同時に、手の甲に少し乾いた、けれども温かで柔らかな感触。手に口付けられているのだと気付く頃には、二回目が降ってきた。
 ちゅ、ちゅ、と幾度も、幾重にも、薄く日に焼けた肌に口付けが落とされる。短く軽いそれは、指でくすぐられているようだった。音にならない笑い声が唇の隙間から漏れる。
 両手で数えられる程度に繰り返されたそれが止む。手首から温度が去っていく。手の平に移ったそれは、挙げた己の手をくるりと前後にひっくり返してまた去っていった。再び、手首に薄く硬い感触。すぐに、手の平に温度。手の甲と同じように口付けられていることなどすぐに分かった。
「くすぐってーって」
 ちゅ、ちゅ、と愛らしい音が落ちる中、ウキはケラケラと笑う。ブキを握り日々固くなりゆく皮膚を唇でなぞられるのはこそばゆい。手には神経が集中しているのだ、くすぐったさを覚えるのは誰だって同じだろう。これがチサの言う『敏感』を『試して』いるのだとしたら、意味のないものだ。
 部屋の落ち続けたリップ音が止む。気が済んだのだろうか。こんなの意味が無いといってやらねば。そうだ、彼にも試してみればいいではないか。やられっぱなし、くすぐられっぱなしだった今、ちょっとした仕返しをしたい気分だった。
「気ぃ済んだ――」
 か、と尋ねる声は、喉の奥に引っ込んだ。
 ぬるり、と手の平に感覚。先ほどまでとは比べ物にならないほどの熱。皮膚の上を何かが這っていく不快感。神経に直接触れられたような刺激。未知の何かが一瞬で脳味噌を焼いてフリーズさせた。
 ひゃ、と思わず甲高い声がまだ細い喉からあがる。己のものとは全く思えないそれに、依然襲い来る謎の感覚に、レイヤードシャツに包まれた身体が大きく跳ねた。
 何だ、今のは。何が起こったのだ。ようやく復旧した脳味噌はすぐさま困惑の渦に飲み込まれ、ぐちゃぐちゃに掻き回されていく。肌の上を這いずり回る感覚は、夏の日差しに炙られたクラゲを触った時のものによく似ていた。けれど、ここにクラゲなどいない。いるのは己とコイビトだけだ。つまり。
 ぎこちない動きで頭を動かし、ウキは拘束され掲げられたままの手へと視線を移す。日焼け色の肌の上を極彩色が這っていく。ケバケバしいほどに鮮やかなそれの根本には、薄い唇が、チサの顔があった。痛いほど鮮烈なブルーパープルが動く。同時に、肌を焼くような温度も動いた。
 舐められているのだ。肌を舐められているのだ。理解を拒否していた頭が、ようやく現実を認識する。瞬間、スーパージャンプでもするかのように身体がびくんと跳ね上がった。大袈裟なまでな動きは、全て手首と腹に回された腕によって阻止された。
「お、ま、なにして――」
 問う声は完全にひっくり返った情けないものだった。震えた、明らかに怯えを含んだものだというのに、皮膚を這うそれは動きを止めない。ぬるり、べろり、と気ままに、しつこいほどに這い回った。
 離れなくては。ようやく頭が下した判断を実行しようとするも、捕まえられた腕はびくともしない。相手はエクスプロッシャーのような重量級を好んで使うようなやつなのだ、最近感じ始めた明確な筋力差が最悪の現実から逃してくれなかった。むしろ、後ろへと引き寄せてくる。逃さない、と言わんばかりの動きだった。
 肌の上を執拗に這い回っていた熱が移動していく。広い手の甲から、角張った指へとゆっくり移動していく。ひ、と引きつった音が喉から漏れる。熱い。気持ちが悪い。怖い。嫌だ。湧いて出る反射的感情が頭に溜まってぐちゃぐちゃに思考を乱していく。これ以上現状を理解することなどもう不可能だった。
 指先まで動いた熱が止まる。もう終わったのか。気が済んだのか。馬鹿なことをしやがって。一発殴ってやらねば。湧いて出た安堵と憤怒は、また肌を這う――今度は包み込むような熱によってすぐさま吹き飛ばされた。
 指が熱い。先っぽから根本まで全部熱い。風呂に浸かっているのとはぜんぜん違う、体験したことのない熱さが身を襲った。ぬる、とまた這い回る感覚。熱い中を、また熱いものが這い回る。
 舐められている。ねぶられている。食われている。
 理解した瞬間、ぢゅ、と含まれたままの指を強く吸われた。ぞわ、と背筋を訳の分からないものが走っていく。明確な不快感と不明瞭な感覚が脳を焼いた。
「おい、チサ!」
 怒鳴ろうと声を荒げるも、実際に出たのは悲鳴に近かった。敵にやられたガールが出すような高いものだ。己の口から発せられたなんて信じられないものだ。答えるように再び指を吸われる。密着した口の端から漏れたであろう唾液がいやらしい音を奏でた。
 ぬる。べろ。ちゅ。ぢゅ。様々な音、感覚が――深い口付けと似た感覚が、耳を通して、指を通して脳味噌に叩き込まれる。ぁッ、と短い生の中で初めて出すような声が己の耳を突き刺す。知らない現実が思考全部を掻き回して機能させなくしていった。
 指の腹を、節を、間を、舌がねぶっていく。きもちがわるいはずだ。けれど、頭の端っこの方が正反対の声をあげる。きもちいい、と。一歩進んだ口付けをしている時と同じ感覚だと――快感だと主張した。
 ひ、ァ、と細い音が漏れる。開きっぱなしになった口は、死にたいくらい情けない声をこぼすだけだ。閉じようにも、脳味噌を殴り続ける快感が許してくれない。指を舐められているだけなのに。何で。こんな。疑問ばかりが頭を駆け巡る。皮膚があげる悦びの声が全部流していった。
 きもちいい。きもちわるい。わかんない。こわい。やだ。もっと。ほしい。たすけて。
 どろり、と融け落ちる感覚がした。
 ずる、と身体が滑っていく。仰向けになった背に温もりを感じた頃、視覚神経が機能し始める。ぼやけた視界の中に、白と紫、丸いオレンジが見えた。
「やっぱ敏感じゃね?」
 至極普通の、普段と全く変わらない、何もなかったかのようにおんなじな声が降ってくる。ぼやけた紫が揺れる。ゆっくりと晴れてきた世界、真ん中には小首を傾げるチサの姿があった。
 本当にただただ実験されたのだ。好奇心で舐められ、ねぶられ、食われ、こんな状態にされたのだ。去っていった快感の後ろから、怒りの波が寄せてくる。長い触腕がびちん、とむき出しの膝を叩いた。
「いってぇ!」
「ふざけんなよおまえ!」
 鋭い痛みにあがった悲鳴と感情が爆発した怒声が重なる。片方はどこか舌足らずだ。器用に舌を動かせるほど、脳の復旧作業は進んでいないのだ。
「やってみねぇと分かんねぇだろ?」
「おま、だからって、おまえ」
 真面目極まりない声が顔に落ちてくる。何でこんな声が出せるのだ、こいつは。何であんな訳の分からないことをすぐに実行できるのだ、こいつは。短くない付き合いをしているのにこれっぽっちも理解ができない。怒りに恐れが混じりだすほど理解が追いつかなかった。
「やっぱ敏感だって」
「ちげーっつってんだろ」
「舐められただけでイカに戻っちまうやつが敏感じゃなかったら何なんだよ」
 びちびちと跳ねるイカの身体をヒトの手が抑え込む。喉が詰まったような声が床に近い方からあがった。
 違う。敏感なんかじゃない。あんなの誰だって気持ち悪い。逃げるためにヒトの形を解くのは当たり前だ。己が特殊なせいではない。頭の中でそれらしい理由を並べ立てる。まぁ、とどこか笑みを含んだ声が弾き出していった。
「指フェラから慣れてこーな」
「いみわかんねーこといってんじゃねーよ!」
 バチン、とまた長い触腕で叩く。落とすぞ、と笑みと怒りが絡んだ声が降ってきた。
畳む

#オリタコ #オリイカ #タコイカ #腐向け

スプラトゥーン

諸々掌編まとめ11【SDVX/スプラトゥーン】

諸々掌編まとめ11【SDVX/スプラトゥーン】
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色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
うちの新3号だったり名無しだったりごちゃまぜ。書いてる人はXP14~18をうろうろしてる程度なので戦略とかそういうのは適当に流し読みしてくれるとたすかる。
成分表示:はるグレ/嬬武器烈風刀/嬬武器兄弟2/インクリング+インクリング/新3号+新司令

いけないよふけ/はるグレ
元ネタ https://twitter.com/tnhg_trpg/status/176...

 髪を乾かし終え、始果は足早に部屋に戻る。ベッドの上に座り込む鮮やかな躑躅が目に飛び込んできた。普段は二つにして高く結い上げている長い髪は解かれ、白いシーツの上に大きく広がっている。さながら花畑だ。暖色灯に照らされる横顔は俯き気味で、どこか神妙な顔つきをしていた。自分よりも一回りは小さな手は腹に当てられている。細い喉から小さな唸り声が聞こえた。
「グレイス?」
「……あぁ。おかえり」
「ただいま。どうかしましたか?」
 名を呼ぶと、少女は一拍遅れて顔を上げた。顔つきは普段に近づけようとしているが、まだ何か分からないものがにじんでいた。尋ねると、細い眉が少し寄せられる。血色の良い唇は小さく引き結ばれ、躑躅の瞳はゆるく細められた。うーん、とまた小さな唸り声が聞こえた。
「…………ねぇ、始果」
「はい」
 名を呼ばれ、狐の少年はすぐさま応える。見下ろした顔からは、表現し難い表情は抜け落ちていた。代わりに、彼女らしい――嗜虐性を孕んだ、けれども可愛らしさがある笑みを浮かべていた。
「いけないこと、してみない?」
 にまりと弧を描く口が、ひそめられた調子で言葉を紡ぎ出す。蠱惑的なマゼンタが、こちらをじっと見つめた。




 唸りのような音が部屋を這っていく。ぺきり、がさり、ぺりぺり。少女の手元から聞き慣れない音があがる。手付きには迷いがなく、慣れたものだということがよく分かった。ごぼごぼと地鳴りのような音。しばしして、カチン、と硬い音に諌められたように低い音は消え失せた。
 白い手が取っ手を掴む。先ほど中途半端にめくった上部の蓋の隙間に、電気やかんの中身を注ぎ入れた。暖房の熱を失い始めた部屋に白い湯気が昇っていく。二つの筒に中身を全て注ぎ終えると、少女は紙蓋を下ろし、その上に用意していた割り箸を置いた。抵抗するようにわずかに開いた紙蓋を細い指が器用に閉じていく。
「……なんですか、これ」
「カップ麺よ」
 首を傾げる始果に、グレイスは軽く返す。かっぷめん、と彼女の言葉をオウム返しにする。カップは分かる。湯呑のことだ。麺も分かる。あの山のような食物のことだ。だが、その二つが繋げられると一体何であるのか全く分からない。そもそも、その二単語は繋がるものなのだろうか。疑問ばかりが募っていく。
「ラーメンは分かるでしょ? あれと一緒よ。お湯を注いだらラーメンになるの」
「あれが、この中に……?」
「あれよりはずっと少ないけどね」
 怪訝そうにカップ麺を見つめる狐に、躑躅は笑みを含んだ声で返す。さすがにあれをうちで食べるのは無理よ、と少女は笑った。
「まぁ、あんまりよくないんだけどね」
「……ラーメンを食べるのはよくないのですか?」
「夜中に食べるのはね。胃に負担がかかるし、太っちゃうし」
 そういうものなのか、と少年は依然首を傾げる。空腹は動きを鈍らせる要因の一つだ。耐えることは容易であるが、良いとは言い難い。少なくとも、ネメシスに来てからはそう教えられていた。食べることと『よくない』という言葉の結びつきがいまいち理解できなかった。
 くぅ、と小さな音が二人きりの部屋に落ちる。音の発生源はグレイスだった。シミ一つ無い清潔な寝間着に包まれた腹から漏れたそれは、空腹を示すものだと教えられていた。
「……お腹が空いたのですか?」
「……そうよ」
 尋ねる声に、一拍置いて肯定の語が返される。仕方ないでしょ、と少しいじけた調子の声が追撃で飛んできた。
「いいじゃない、たまには」
 唇を尖らせるグレイスに、始果はそうなのですか、と返す。そうなのよ、とまだ拗ねたような、それでもどこか愉快げな声が部屋に落ちた。
 高い電子音が二人の間に鳴り響く。細い指が携帯端末を操作すると、音はすぐに鳴り止んだ。そのまま、少女は蓋の上に乗せっぱなしだった割り箸へと手を伸ばした。パキリ、と乾いた音が落ちる。あんたも割りなさい、と促され、木でできた食器に手を伸ばす。少女と同じように横へと引くと、同じく乾いた音が鳴った。割れた上部は片方は箸部分より太く、片方は爪楊枝のように細い。これで食器として役目を果たせるのだろうか。懐疑の目を向けていると、へったくそねぇ、と笑い声が聞こえた。
「ほら、蓋取って」
 そう言って、グレイスは半分だけ剥がしていた蓋を全て取り払う。途端に、濃い油の臭いと醤油の香ばしい香りが鼻をくすぐった。見様見真似で蓋を剥がす。赤い文字が並ぶそれの下から、茶と黄色と赤が姿を現した。
「いただきます」
「……いただきます」
 目の前の少女に倣い、手を合わせて言葉を紡ぐ。金色の瞳に映るのは、細い筒に手を添え箸を入れる少女の姿ばかりだ。筒から黄色が高く長く伸びていく。おそらくあれが麺なのだろう。知っているものよりも随分細いので推測でしかないのだけれど。
 伸びたそれが、赤い唇に吸い込まれていく。真似して、己も箸に手を伸ばす。中に突っ込み、麺と思わしきものを持ち上げる。そのまま、静かにすすった。
 初めての『カップ麺』は、油と醤油、少しの非現実の味がした。




洗濯日和とお昼寝日和/嬬武器烈風刀
 鍵をかけ、チェーンを掛ける。靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、廊下を進んだ。袋から飛び出たネギがビニール包装に当たってカサカサと音をたてた。
 きちんと手を洗い、来た道を引き返してリビングのドアを開ける。午後の日差しが差し込む室内はほのかに暖かかった。小春日和か、それとももう冬を超えたのか。どれにせよ、エアコンに頼らなくてもいい日々が続いてほしいものだ。
 静かに歩き、キッチンへと潜り込む。牛乳や肉を手早く冷蔵庫に入れ、調味料をストックかごに入れ、掃除用品を所定の場所に片付け。大きく膨れた買い物袋は次第に萎み、綺麗に畳まれ小さくなった。
 ナイロンバッグを片付け、烈風刀は水切りかごに伏されていたマグカップを手に取る。日差しは暖かかったものの、空気はまだまだ冬の様相をしていていた。見通し甘く冬にしては薄着で出かけたのもあり、身体は温もりを求めていた。温かいコーヒーを飲もう。軽く拭いて、そのままコーヒーポットが置いてあるスペースに向かった。
 音もなくなめらかに進んでいた足がはたりと止まる。碧い目がぱちりと瞬いた。
 ポットが中央に置かれたローテーブル、その前に置かれた二人がけのソファには先客がいた。それは赤い塊だった。人間半分ほどの大きさの塊が、ソファの大半を占領していた。表面は深い赤で、ブラウンとネイビーでチェック模様が描かれている。普段から使っている大判のブランケットだ。繭のようなそれは、規則的に上下している。時折、胎動するように小さく動いた。ブランケットの端からふわふわとした朱が飛び出ているのが見えた。
 浅葱がすっと細くなる。この塊の正体は間違いなく雷刀だ。彼は日頃からソファで居眠りをすることが多い。ブランケットを被っているのは、そのまま寝るには肌寒かったのだろう。空調を点けずに毛布で暖を取っているのは殊勝であるが、ならば自室で寝ればいいではないか。広々としたベッドで眠らず、こんなに身を縮こめ狭いソファで眠る理由が分からない。
 壁に掛けられた時計に視線を移す。太い短針は、夕方と言うにはまだまだ早い時刻を知らせていた。夕飯時までは随分と時間がある。赤い塊に視線を戻す。今日は土曜日で、今日も明日も特に予定は無い。翡翠が一度瞬き、小さく頷いた。
 止まっていた足を動かし、ソファの前に立つ。そのまま、空いているスペースに腰を下ろした。机上に置かれたポットに手を伸ばす。朝淹れたホットコーヒーが、ほのかに湯気をあげながらマグカップに注がれていった。別に部屋で飲んでもいいのだが、それではまるで惰眠を貪る兄に気を遣っているようではないか。何となくの、全く必要が無い小さな意地だった。
 ポケットに入れていた携帯端末を取り出し、なめらかな動きで画面を操作していく。必要な連絡は午前中に済ませた。返信が必要なメッセージが無いことを確認し、ニュースアプリを立ち上げる。天気予報のタブを開くと、小さな画面に太陽がずらりと並んだ。今日は一日中晴れ。明日も一日晴れ。降水確率は十パーセントとあるが、おそらく降ることはないだろう。窓の外、空は濃く見えるほど青く、線のような薄い雲が時折見える程度だった。絶好の洗濯日和である。
 冬はほぼ終わりの時分になっている。冬物を整理しなければいけない頃合いだ。まず、厚手のセーターを洗ってしまおうか。今から洗えば、明日の夕方には乾くだろう。毛布もそろそろ干して片付けるべきか。最近、朝兄を起こしに行くと毛布を蹴飛ばして寝ていることが多い。使わないならさっさと片付けてしまいたかった。
 液晶画面から、隣へと視線を移す。赤い塊は依然規則的に上下した。薄手のブランケットの隙間から、すぅすぅと小さな呼吸が聞こえる。随分と深く眠っているようだった。
 息苦しくはないのだろうか。ふと、些末な疑問が浮かぶ。朱い頭は赤い生地にすっぽりと埋まっていた。寝息が聞こえるのだから、隙間があるのは分かる。だとしても、こもって空気を吸って吐いてをするのは苦しくないのだろうか。暑くないのだろうか。マグを机に置く。少し身を屈め、塊の端っこ、赤髪がはみ出た部分を覗き込んだ。本当にすっぽりと埋まっているようで、顔は全く見えない。ただただ寝息が聞こえるだけだ。
 身を起こし、またカップを持って中身を飲む。苦しくなれば勝手に起きてくるだろう。先ほど身じろぎしていたのだから、自然に顔を出すかもしれない。なんにせよ、心配するようなことではなかった。そもそも、双子の、同い年の高校生に対して抱くような情ではない。相手は寝返りができない子どもではないのだから。
 意味も無くネットの海を泳いでいた携帯端末を眠らせる。目の前の机に静かに置き、またコーヒーを口にした。
 このブランケットも干さなければな。大判だが薄手なので軽く日に当てるだけでいいだろう。明日でもいいか。考え、ベランダに続く窓へと目を移す。空は依然青に染まっていた。




あと三・五/嬬武器兄弟
 爪で浮かせた部分を持ち、そっと力を入れて引く。ピンク色のシールは、ミシン目から少し逸れて崩れた円となって手元に残った。
 剥がしたそれを冷蔵庫の扉に留められた紙に貼り付ける。台紙というにはぺらぺらで心もとないそれは、もう半分ほど埋まっていた。〇・五の小さな数字が並ぶ中、時折二・五の高めの数字が交じる。指でなぞりながらざっくり数えると、もうあと数点で目標の点数に達することが分かった。
「なー」
「どうしました」
 シールの群れから目を離すことなく、雷刀はどこか抜けた声をあげる。隣で湯を沸かす弟も、ケトルから目を離すことなく答えた。
「これ、二枚目狙えるんじゃね?」
 もう一袋からシールを剥がしながら朱は言う。短い爪の先に鮮烈なピンクが咲いた。
 毎年冬から春にかけては、製パン会社がキャンペーンを行っている。パンを買うだけで丈夫な皿が手に入るというこのキャンペーンには毎年のように参加していた。この時期は朝食はトーストがほとんど、間食や夜食も菓子パンを食べることが多い。ただのキャンペーンだが、兄弟にとって季節を感じる一つのイベントとなっていた。
 シールを貼り付けているキャンペーン台紙、その下部に書かれた実施期間は長い。現時点であと二ヶ月近くある。こんなに早く一枚分が貯まるなら、このまま二枚目を狙ってもいいのではないか。皿は何枚あってもいいのだ。
「駄目でしょう」
 ドリッパーに湯を注ぎながら碧は言う。えー、と思わず不満げな声を返した。
「景品の数には限りがあるのですよ。一家族が何枚ももらうのはよくありません」
「でも余った分もったいなくね?」
「レイシスにあげればいいでしょう」
 縋り付く兄を弟は一蹴する。確かにレイシスもシールを集めている。残った分を渡すのは、あぶれたものを無駄にしたくない己たちにとっても、皿が欲しい彼女にとっても嬉しいだろう。皆が得する選択だ。
「今年のお皿はボウルですしね。一枚あれば十分です」
 マグカップにコーヒーを注ぎ入れながら烈風刀は言う。台紙に書かれた今年の皿の写真は、少し深めのサラダボウルだ。確かに、そう複数枚使うような食器ではない。そっかぁ、と下がり調子の声を漏らした。
「コーヒーできましたよ。食べましょう」
 二色のマグを手に弟が言う。シールを剥がした菓子パンたちを片付け、己の分を受け取る。二人でキッチンを出た。
 ダイニングテーブルには、綺麗な三角形のサンドイッチがいくつも並んでいた。




透明グラスと百円玉/嬬武器兄弟
 並び立った透明色が光がきらめく。天井に付けられたLEDライトに照らされているだけだというのに、どれもまるで宝石のように輝いて見えた。
 一つに手を伸ばしてみる。手に感じる重みは、素材が確かなものを伝えてきた。これが一一〇円なのか、と雷刀は目を丸くする。こんなにしっかりした代物がコンビニで売っている菓子より安いだなんて、どういう理屈なのだろう。あちこちから眺めていると、底に貼り付けられたシールが目に入った。シンプルなそれには、赤い色で『三三〇円』と書かれていた。
 途端、好奇心で輝く瞳が陰る。三三〇円も十二分に安い値段ではあるのもの、ここは『百円均一ショップ』なのだ。昨今は百円以上のものが当然のように売られていることは重々承知だが、どこか騙されたような気分になってしまう。上がっていた口角がすっと下がった。
「プラスチックのにしますからね」
 外の空気と同じほど冷たい声が隣から飛んでくる。えー、と返して、手にしていたガラスのコップを棚に戻した。声の方を見やると、カゴを手にした弟の姿があった。灰色のそれの中身はまだ空だ。
「ガラスのが綺麗じゃん」
「その綺麗なガラスのコップを割ったのは誰ですか」
 唇を尖らせて言うと、至極冷静な声が返ってくる。う、と小さく呻いた。午前中、キッチンに響き渡った高い音が呼び起こされる。己の悲鳴と弟の慌てる声、細心の注意を払って箒と新聞紙を操った感触まで戻ってきた。
 兄の様子を気にすることなく、烈風刀はまっすぐに売り場を進んでいく。食器コーナーの奥には、これまた透明色が並んでいた。ただ、輝きは先ほど見たものより鈍い。先入観もあってか、どこか安っぽく見えた。
「プラスチックだとすぐ白くなるじゃん」
「最近のものはそうでもないようですよ」
 へぇ、と雷刀はこぼす。スポンジで擦られるからだろう、過去に使っていた透明なプラスチック容器はすぐに白く曇ってしまった。今は違うのだろうか。技術の進歩というやつだろうか。考えながら、棚に並んだ一つを取る。ガラスのものとは比べものにならないくらい軽く、温度もどこか穏やかだった。裏返して底面を見る。貼り付けられたシールには『一一〇円』と書かれていた。
 いくつか手に取っていく弟の横を通り過ぎ、兄は他の商品を眺めていく。透明を過ぎると、極彩色が並んでいた。赤に青に黄色、緑、ピンク、果ては黒。無地のものからロゴが入ったものまで様々だ。タンブラーのように長く高いもの、子どもが持つような小さく丸いもの、円に近い多角形のもの、形も個性に溢れている。本当にこれが一一〇円で買えるのだろうか。先のグラスのこともあり、少しの疑念がよぎっていった。
「そちらにしますか?」
「いや、透明なのがいい」
 いつの間にか同じほど売り場を進んできた弟が尋ねてくる。小さく首を振り、雷刀は来た道を戻る。先ほど手に取ったプラスチックのコップを二つ、カゴに放り込んだ。そうですか、と短い声が返された。
 ビニール手袋、スポンジ、ハンガー、洗濯ばさみ。売り場を巡り、事前にリストアップしていたものを二人でカゴに入れていく。そっと二個一一〇円の菓子を忍び込ませようとしたところで、すっとカゴが遠くへと引いていった。
「あとでスーパーに行くでしょう」
 冷えた視線を送ってくる弟から逃げるように、兄は手にした菓子を静かに売り場に戻す。何事も無かったかのように隣に並ぶと、エコバッグ用意しておいてください、と常と同じ声が飛んできた。
 会計を済ませ、安物のナイロン袋に買ったものを詰めていく。どれもこぶりなものだったこともあり、肩にかけた袋は中身など無いように平べったい見た目をしていた。店員の声を背に受けながら自動ドアを潜り抜ける。瞬間、クーラーの空気を直接顔にぶつけられたような感覚がした。さっみぃ、と思わず声が漏れる。弟は物言わずに道を進んでいった。慌てて追いかけ隣に並ぶ。碧い瞳は携帯端末に釘付けになっていた。
「あぶねーぞ」
「……あぁ、すみません」
 軽く声をかけると、一拍置いて謝罪の言葉が返ってくる。弟は端末を鞄に放り込むと、一歩大きく踏み出した。歩みは止まらず、どんどんと抜かされ、背が見えるほど遠くなっていく。おい、と思わず漏らして走って寄った。
「そんなに急ぐことねーじゃん」
「先ほどチラシを確認したら、タイムセールをやっているとありました。早く行かないと」
 白菜が、とこぼし、弟はずんずんと突き進む。確かにそれは重要だ。今の時期食卓に並ぶ鍋には白菜が不可欠である。安く多く買える機会を逃すわけにはいかない。小さく息を吸い、タッ、と地を蹴る。大きく足を踏み出し、また地を蹴り、踏み出し。駆け出すと、えっ、と跳ねた声が後ろから聞こえた。
「ちょっと、雷刀」
「早くしないとなんだろ?」
 背中から呼び止める声に、雷刀は振り返って笑う。置いてくぞー、と掛けた声は、どうにも笑みがにじんでしまった。後ろから駆ける音。すぐに隣まで迫ったそれに、危ないでしょう、と呆れた調子の声が付いてきた。
 プラスチックのにしてよかった、と兄は抱えた鞄の中身へと思いを馳せる。ガラスのコップではこんなに乱暴に扱うことはできない。丈夫なプラスチックだからこそ、こんなちょっとした無茶ができるのだ。
 夕方を告げるチャイムの音が遠くから聞こえた。




結局全種買って帰った/インクリング+インクリング
2024年3月のフェスネタ。

「何でサワークリームオニオンねぇの!?」
 叫声が街に響き渡る。感情たっぷりのそれは分厚いガラスにぶつかって消え、向こう側に聞こえることはない。収録中のタレントたちは変わらず軽妙なトークを繰り広げていた。
「マイナーだからでしょ」
「どこがだよ!」
 隣、たった一言放った少女に少年は吠えてかかる。一瞬眉を寄せたインクリングの少女は、掲げたナマコフォンのボタンを押した。軽い音と同時に、小さな液晶画面にバンカラ一の人気タレントたちが収まった。
「サワークリームオニオンほど美味いポテチなんてないだろ!」
「コンソメの方が好き」
 手をわなわなと震わせるインクリングの少年を横目に、少女は携帯端末を操る。先ほど撮った写真を『すりみ』と名付けられたフォルダに移動させた。全く意に介さない友人の様子など気にせず、少年はいいか、と言葉を続けた。
「まずサワークリームオニオンは香りが良いんだよ。色んなポテチはあるけどあれだけ香りが強いやつはない。爽やかで、でも腹が空くような抜群に良い香りがするんだ」
 ろくろを回すように手を構え、目を伏せてインクリングは言う。しかめ面ににも似た表情は真剣そのものだった。菓子について語っているとは想像できないほどの気迫に満ちていた。
「んでもって味も良い。しょっぺーけどそれがいい。口ん中全部サワークリームオニオンの味になるぐらい強いのがいい。そのしょっぱさがベースのポテチの芋の甘さを引き立てるんだよ」
 へー、と少女は合いの手を入れる。視線は完全に目の前の液晶画面に向けられていた。四角い指がボタンを操る。画面に『コンソメ派なんでよろー』と短い文章が現れた。
「香りも味も強い。けど全部さっと溶けていくんだよな。儚いっつーの? ばーんっと殴ってスッと消えて、そんで次が欲しくなる。どんどん食って止まらなくなる」
「ポテチなんて全部そうでしょ」
「こんだけインパクトがあって、香りも味も楽しめるのサワークリームオニオンだけだろ? なのに何でねぇんだよ!」
 少女の言葉など聞いていない調子で少年は語る。胸に手を当て、宙を掴むように指を天へと向けて震わす姿は、熱弁と表現するのがぴったりだった。そんな様子など一瞥すらせず、少女は端末を操る。上から下へと流れゆく文章の海に、先ほどの一文が放流された。パチン、と硬い音をたててナマコフォンが折り畳まれる。ようやく、黄色い瞳に少年の姿が映った。常はくりくりとした丸い目はじとりと細められている。
「フェスなんてサザエもらえればそれでいいじゃん」
「ダメだろ。真剣にやってるやつがいるんだから、こっちも真剣にやらねーと」
 至極真剣な顔で返す少年に、真面目だねぇ、と少女は呆れた調子で返す。この友人は普段は適当極まりないというのに、バトルが絡むと妙に真剣になるのだ。もっと真面目にやることなど山ほどあるというのに、と思うも、指摘するも、全く聞き入れないのだから世話が焼ける。
「とりあえず全部買わねーとなー」
「ただお菓子食べたいだけでしょ」
「食べたいだけならサワークリームオニオン買うわ。ちゃんと確認して、一番好みのやつに入れて、ちゃんと戦わないとダメだろ」
「……ほんっと、馬鹿真面目だね」
「馬鹿じゃねーわ」
 呆れも呆れ、最早感心すら感じさせる調子で少女は言う。少年は眉を寄せて返す。それもすぐ解け、うし、と小さく頷いた。
「じゃ、俺スーパー寄って帰るわ。明日昼からで」
「はいはい。遅れないでよねー」
 ひらひらと手を振る少年に、少女も手を振る。踵を返した細い背が、駅の改札へ吸い込まれて消えた。
 手を下ろし、少女は今一度携帯端末を操る。SNSのタイムラインは、早速三つの勢力による罵り合いと言う名のじゃれあいが繰り広げられていた。第四、第五勢力まで登場するのもいつも通りである。フェス恒例の光景だった。
 熱弁する友人の声がリフレインする。香り、味、しょっぱさ、甘さ。右から左に流れていったはずの様々なワードが頭の中に溜まっていく。たったそれだけだというのに、鼻に抜けるあの香りが、舌を刺激するあの味が、神経を辿って胃を刺激した。
「……ポテチ食べたくなっちゃったじゃん」
 呟き、少女は息を吐く。携帯端末をバックパックのポケットに放り込み、雑踏を縫って歩き出した。
 薄いスニーカーに包まれた足は、まっすぐにコンビニエンスストアに向かっていた。




1:10/新3号+新司令
 とぷん、と音をたてて身体が格子状の出入り口から飛び出る。インクが払われた顔は、これでもかというほど渋いものだった。チッ、と短い音が薄い唇から発せられる。強く寄せられた眉も、酷く眇められた目も、への字を描く口も、そこから漏れる舌打ちも、全てが彼女の機嫌の悪さを表していた。
 またダメだった。マトを壊すだけだというのに、何度やってもクリアできない。バケットスロッシャーのインクが届かない時もあれば、そもそもインク切れを起こしてしまう時もある。挙げ句の果てにはインクレールから足を踏み外す始末である。何もかもが噛み合わない。何もかもが上手くいかない。このミッションだけがいつまで経ってもクリアできずにいた。おかげでイクラは減るばかりだ。それが苛立ちと焦りに拍車を掛ける。
 また鋭く舌打ちをし、三号と呼ばれるインクリングはヒーローシューターを握り締める。足元のコジャケが声をあげて走りゆく。同居人が何かを――カネになるかもしれないものを見つけたというのに、少女は目もくれない。深海色の瞳は足元のヤカンを睨むばかりだ。
「『何度倒れても起き上がる、それがヒーローだ』と司令は言っとるよ」
 通信機から音声が流れてくる。二号のものだ。ミッションを失敗する度、謎の部隊の三人組は声を掛けてくる。彼女らなりの励ましのつもりなのだろう。余計なお世話である。通信機の向こう側に聞こえるように、わざとらしく舌打ちをした。
「やってないくせに適当なこと言わないでくれる?」
 苛立ちを隠す様子も無く三号は言う。ふんふん、と全く意に介さない声が返ってきた。
「『一旦基地に戻ってこい』と司令は言っとるよ」
「何でよ」
 二号の言葉に、少女は低い音で返す。棘のある、むしろ棘しかない声だ。己は攻略を進めたいというのに、何もしないやつらが意味の無いことばかりを言い、挙げ句の果てには命令してくる。腹立たしくて仕方が無かった。
「そろそろお昼ご飯食べよー!」
 二人――発言は三人だが――の様子など知らないとばかりに、元気な声が聞こえてくる。一号だ。弾んだ明るい声に間を取り持つ気遣いなど見られない。ただただ無邪気に言っているのだ。お腹空いたでしょ、と言葉が続く。反応するように、胃が軽い痛みを覚えた。
 遠くから表現しがたい音があがる。凄まじい勢いでコジャケが戻ってくるのが見えた。大方『お昼ご飯』の言葉に反応したのだろう。耳ざといやつだ、と少女は眉を寄せる。また胃が痛みを訴えた。
「……分かったわよ」
 舌打ちを添えて三号は返す。ブーツに包まれた足が、基地がある方向へと向けられた。




 昼食は簡素なものだった。コンビニエンスストアに売っているおにぎりやサンドイッチ、クッキーなどの甘いお菓子にいつものカフェオレ。それでも、三号にとっては十分上等な食料だった。なにせ普段はスーパーで一番安い米や食パン、酷い日はチケットで交換できるマキアミロールを食べて凌ぐような生活をしているのだ。肉と野菜がきちんと食べられる食事は久方ぶりだった。
 無言でひたすら口に食料を押し込む。こんな高価な物は今の生活ならば絶対に食べられない。しかもこれは全て奢りである。夕飯を兼ねるほど食べなければ損だ。残り三人の様子など全く気にせず、三号とコジャケは食べ物を胃に詰めていく。三号って本当にいっぱい食べるねー、と呑気な声が基地に落ちた。
「『ミッションについて教えてくれ』と司令は言っとるよ」
「は?」
 プラスチックのマグカップから口を離し、少女は短く返す。先ほどまで解けていた眉は、一瞬で再び寄せられた。何故こいつ――『司令』と呼ばれる、一言も喋らないやつに説明しなくてはならないのだ。大体、説明したところで何かが変わるはずも無い。無駄な行動であることは明白だ。
「マトを壊すんだよね」
 指をピンと立てて一号が問う。十字がきらめく瞳は純粋そのもので、眩しいほどに輝かしい。毒気を抜かれるような心地だ。己の醜さを白日の下に晒されているような心地だ。まっすぐに睨んでいた目がふぃと逸れた。
「……そうよ」
「三号はバケットスロッシャーを使ってるよね。得意なの?」
「別に。『オススメ』って書いてあるから使ってるだけ」
 ミッションで指定されたブキは、ジェットスイーパー、バケットスロッシャー、ノーチラス47の三種だ。わかばシューターしか持っていない己はどれも使ったことがないものである。ならば、『オススメ』と書いてあるものを使うのが一番良いだろう。
 その思考も全て一号の言葉によって引き出されていく。気が付けば、ミッションについて――上手くいかないことも含めて――全て洗いざらい話していた。本当にこのインクリングは話を引き出すのが上手い。しかも意図してやっているのではないのだからたちが悪い。悪意も何も無い、無邪気なやつが一番厄介なのだ。チッ、とまた舌打ちを漏らした。
 バッ、と布がはためく音がする。思わず視線をやると、そこにはスケッチブックと油性ペンを構えた司令の姿があった。どこから取り出したのだ。というか何に使うのだ。疑問によって視線が縫い付けられた。
 スケッチブックがめくられ、素早い動きでペンを握った腕が動く。何を書いているのだ、こいつは。訳の分からない行動に、三号は依然険しい視線を向ける。しばしして、ペンが走っていた紙面がこちらに向けられた。
 射程はジェット、ノチ、バケツ。
 バケツは曲射が必要。当てにくい。オススメを信じるな!!!!
 ノチはキルタイム早い。チャージいるけどチャーキで調整可能。チャーキ慣れ必要。
 ジェットは火力低いが射程で勝てる。インク効率そこそこ。
 インク切れになるならこまめに潜伏挟む。撃ちっぱなしは悪手。
 下段から破壊。移動するシステム的に下段は射程外に行きやすい。先に潰す。
 届かなそうだったらクイボ投げる。クイボで壊れる。
 ジェットが一番やりやすい。チャーキ使えるならノチ。バケツはオススメじゃない。オススメを信じるな!!!!
 狭い紙面には情報が詰め込みに詰め込まれていた。走り書きそのものの文字で書かれたそれは、現在攻略しているミッションに関する情報だ。まさに『攻略法』だった。
 向けられた紙面を、三号は呆然と見つめる。先ほどの話を聞いただけでこれだけ書いたのか、こいつは。たったあれだけの情報でこんな詳細な情報を書いたのか、こいつは。青い目は丸く瞠られていた。隣から形容しがたい声があがる。食事を終えた同居人の声に、やっと衝撃で止まった頭が動き出した。
 目の前に文字が差し出される。反射的に向けた視線の先には、スケッチブックをこちらに差し出す司令の姿があった。空色の瞳がじぃとこちらを見つめる。受け取れ、と語っていた。
 らしくもなくおずおずと手を伸ばし、文字が躍るそれを受け取る。再び目を向けると、『オススメを信じるな!!!!』と太く強く書かれた文字が飛び込んできた。
「何でよ」
「『オススメが攻略しやすいとは限らない』と司令は言っとるよ」
 漏らした声に、答えが返ってくる。スカイブルーが伏せられ、軍帽が乗った頭が小さく上下する。また開かれた瞳は、まっすぐにこちらを見据えていた。
 ばつが悪そうに口を引き結び、少女はまた文字たちへと視線を移す。一部分からない言葉はあれど、攻略の情報として十二分に機能するものだった。
 海色の瞳が眇められる。何故あんな短い話だけでこれだけ書けるのだ。何故あの短時間でこれだけの攻略法が思いつくのだ。何故これほどまでブキへの理解が深いのだ。悔しい。何度繰り返しても分からなかったものが、話を聞いただけのやつに全て見透かされた。その事実が悔しくてたまらない。小さく喉が鳴った。
「『急がず好きなだけやるといい』と司令は言っとるよ」
「……分かってるわよ」
 こぼし、三号は立ち上がる。手にしたスケッチブックを隣に座った一号に渡す。いいの、と尋ねる声に、いいの、と短く返した。書き連ねられた文章の要点は、もう頭に入れた。あとは試すのみだ。こいつに力を借りる形になったのは悔しいが。
 踵を返し、少女は歩き出す。何とも表現しがたい声があがり、足元に小さな陰が寄ってくるのが見えた。いってらっしゃい、と背中から声が聞こえた。
 ジェットスイーパー、と口の中で呟く。本当にあれがいいのだろうか。あの文面を信じていいのだろうか――否、信じられる、信じさせる力のある文字たちだった。意固地になって使っていたバケットスロッシャーを手放そうと思うほどには。
 ほどなくして辿り着いたヤカン、その金網の上に立つ。身体の力を抜き、インクリング本来の姿へと戻る。高い音と共に、黄色い身体が金網へと吸い込まれていった。
畳む

#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀 #はるグレ #インクリング #新3号 #新司令

SDVXスプラトゥーン

諸々掌編まとめ10【スプラトゥーン】

諸々掌編まとめ10【スプラトゥーン】
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色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
うちの新3号だったり名無しだったりごちゃまぜ。書いてる人はXP14~18をうろうろしてる程度なので戦略とかそういうのは適当に流し読みしてくれると助かる。
成分表示:新3号+新司令/インクリング→インクリング/インクリング+オクトリング3/インクリング→オクトリング

胃に温もり/新3号+新司令
 シャクン、と小気味良い音が大きな口からあがる。瞬間、口内に青い香りとほのかな苦み、次いで優しい甘みが広がった。逃げて奥まっていった切り身にかじりつく。弾力のある身を噛む度、薄い塩気とタンパク質の味が舌に広がっていく。ともすれば強く感じるそれは、野菜の甘みと歯触りとあわさり程よいものになっていた。控えめな、けれども確かな存在感のあるドレッシングが全てをまとめる。美味と評するには十分な味をしていた。
 すっかり食べ飽きたそれを黙々と咀嚼しながら、三号と呼ばれる少女はデバイスを操作する。電子の画面に表示されたオルタナの地図は、手にした時よりもずっと鮮明なものになっていた。それでも、端の部分にはわずかに暗い箇所がいくつかある。調査が不十分であるという証拠だ。
 今日はこのあたりを探しに行くか。考えつつ、三号は物言わずひたすらに口を動かす。大ぶりなラップサンドはかなりの速度で姿を消していった。
「三号、いつもそれ食べてるね」
 隣から声。視線だけやると、キラキラと輝く黄金色とかちあった。十字がきらめく大きな瞳は、サンドを掴んだ己の手元を覗き込んでいる。興味津々といった様子だ。
「あげないわよ」
「いらないよ」
 上半身をひねり、随分と近くなった顔から唯一の食料を遠ざける。髪飾りで彩られた丸い頭がことりと傾いだ。
「毎日食べてるなんて、そんなに美味しいの?」
「……これしか食べるもの無いだけよ」
 己の懐事情はいつだって最悪だ。毎月固定で差っ引かれていく家賃、莫大な食費、明らかに足元を見たギアクリーニング代、勝つためのギアの購入代。いつだって家計は火の車だ。せめて食費だけでも浮かせるためには、チケットで交換できるマキアミロール360°を食べるしかなかった。おかげで、先月よりも食費は減っていた――焼け石に水だけれど。
 うーん、と小さな音を漏らしながら、一号と名乗るインクリングは更に首を傾げる。食べるものが限られているなんて状況が珍しいのだろう。それはそうだ、普通に暮らしていればこんなことなど起こらない。我が家の家計は普通ではないからこうなっているのだ。
「飽きないの?」
「飽きてるわよ」
「じゃあ、今度お菓子持ってくるね。たまには別のものも食べよう!」
 胸の前で手を握りニコリと笑う一号に、三号もまた笑顔を返す。ありがとう、と告げる声も表情も、先ほどまでの眉根が寄った顔からは想像できないほど明るいものだった。
 この先輩隊員――勝手に訳の分からない隊に引き込まれたのだが――は、隊員四人では食べきれないほど多くの差し入れを持ってくる。たらふく食べさせてくれるのはもちろん、残ったものは自由に持ち帰らせてくれるのだ。普段よりずっと上等な食べ物を食べられる上に、食糧の確保までできる。これほど喜ばしいことはない。そういう意味では、一号への信頼は他隊員よりも高い。
 露骨なまでに明るい声に疑問を持つ様子無く――純真無垢と言ってもいい彼女なのだから気付いていないだけだろう――黒で縁取られた琥珀が弧を描く。楽しみにしててね、と弾んだ声が人工世界に響いた。
「……三号」
 今度は後ろから声。最後の一口を放り込み、少女はゆるりと振り返る。白い手袋に包まれた手が、差していた和傘を丁寧に畳む姿が見えた。
 傘を脇の箱に立てかけ、二号と呼ばれるインクリングは影になった場所から大ぶりな保温ポットとプラスチックのマグカップを取り出す。大きなそれを片手に持ち、器用な手付きでカップに中身を注ぎ入れる。流れゆくクリーム色に近い液体から、ふわりと湯気が舞った。
「『温かいものを飲んだ方がお腹が膨れる』と、司令は言っとるよ」
 はい、と二号は湯気立つマグカップをこちらに差し出してくる。柄の無いそれの中はカフェオレで満たされていた。探索の息抜きに、といつも差し出されるものだ。香ばしい匂いが鼻先をかすめた。
 確かに温かいものを飲むと腹は膨れる。合理的な言葉だ。ありがと、と短く礼を言い、三号は両手でマグを受け取る。あまり厚くない素材越しに、熱が強く伝わってくる。そのまま飲むのは厳しいのは明白だ。
 何度も息を吹きかけ、一口。ミルクのまろやかさとコーヒーの苦みが舌を撫ぜる。塩気が残っていた口内を、温かなものが洗い流していった。
 火傷しないように注意しつつ、ちびちびと飲んでいく。さほど大きくないカップは、じきに底を見せていった。ぐっとあおり、底の底、縁に残る雫まで飲み干す。ふぅ、と満足げな吐息が漏れた。
 空になったマグを握る手に、白い手が重ねられる。何だ、と思うより先に、手の内のカップは自然な動きで攫われた。大きなポットがまた傾けられ、熱がほのかに残るマグに中身を注いでいく。静かに去っていったそれは、また静かにこちらへと戻ってきた。
 ありがと、と礼を言い、少女はまたカフェオレを飲んでいく。ゆっくりと飲み干し、また溜め息。再びマグが取られ、カフェオレがたっぷりと注がれて舞い戻ってくる。ありがと、と今度は懐疑が滲んだ声で返した。またちびちびと飲んでいく。飲み終わった瞬間、自然な動きでカップを取られ、これまた自然な動きでカフェオレを注ぎ入れ、当然のようにこちらに渡してきた。
「……何?」
 無言で注がれ続けるおかわりに、少女は眉をひそめる。眇められた目が、湯気立つ小さなカップと眠たげなアンバーを往復した。
「『好きなだけ飲んでいけ』と、司令は言っとるよ」
「いや、もういいわよ」
 小さくポットを揺らす二号に、三号はげんなりとした声を返す。たとえ好んでいようとも、短時間に同じものを何杯も飲むのはさすがに飽きが来る。特にコーヒーは苦みと渋みが下に積み重なっていくので、あまり数をこなそうとは思えない。多くても二杯で十分だ。
 少女の視線など気にすることなく、二号はわずかに屈む。彼女のすぐ隣、不釣り合いなほど大きな帽子を被ったインクリングの口元へと耳を寄せていた。司令と呼ばれるインクリングは、寄せられた大きな耳と自身の口元を隠すように手を添える。何かを耳打ちしているようだった。
「『カフェオレでお腹を満たしていくといい』と、司令は言っとるよ」
 二号の言葉に、司令はこくりと大仰に頷く。赤い瞳が険しげな青をじぃと見つめた。
 牛乳がたっぷり入ったカフェオレは腹を満たしてくれるだろう。だが、それはあくまで一時的なものだ。所詮は飲み干すだけのただの液体だ、噛んで満腹中枢を満たす固形物とは違って長くは続かない。一時間もすれば空腹が襲ってくるのだ。その虚無感は何度も経験していた。主に白湯で。
 それに、牛乳で多少和らげられていてもカフェインが多く入ったコーヒーを飲みすぎては胃が荒れてしまう。腹の足しにするにはあまり適さない飲み物だ。
「はいはい。もうお腹いっぱいだからいいわ。ありがと」
 中身が入ったままのマグを、司令と呼ばれるインクリングに押しつける。頬杖を突いていた手が崩れ、湯気が踊るマグカップを両手で受け取った。大ぶりな帽子で陰った赤が、またじいと青を見つめる。いいのか、と言いたげな視線だった。言葉など何も言わず、少女はくるりと踵を返す。コジャケ、と相棒を呼んだ。
 形容しがたい声とともに、広がる海を眺めていた小さな身体がぴょんと跳ぶ。丸っこい腹で滑るように駆けてきた彼は、またぴょんと跳び、インクタンクの中に器用に収まった。
「『気を付けて』と、司令は言っとるよ」
 二号の声を背に受けるも、三号は口を開くことなく端末を操る。映し出された地図、まだ調査が甘い場所へと印を付ける。今日の目標はこの箇所の調査完了としよう。考え、少女は歩き出す。いってらっしゃーい、と跳んできた元気な声に、ひらひらと手を振った。
 踏みしめる雪がサクサクと音をたてる。キャンプ地での騒がしさはもう消え去っていた。あの賑やかな一号の声も、あのどこかけだるげな二号の声も、あの赤い瞳も無い。
「……自分で言いなさいよね」
 あの司令と呼ばれるインクリングは、自身の口で話すことは無い。少なくとも、己はあのインクリングが話す姿を見たことはない。体つきもよく見えないことも相まって、性別すら知らない有様である。
 自分の口で言わずに事を済ませるなど、失礼にも程がある。たとえその裏に何が隠れていようとも、気遣いは快く受け取りたい。だが、あんな態度を見せられては苛立ちの方が勝るのだ。
 なんなのよ、と何度目か分からぬ悪態をつく。鼻の奥には、まだコーヒーの香りが残っている気がした。




二人、ヤグラに揺られて/インクリング→インクリング
 グリップを握る指先に力を込め、トリガーを引く。そんな簡単な動きで、背のタンクから補充されたインクが銃口から飛び出した。拡散するシアンが地を、マゼンタにまみれた地を染めていく。潜り、引き、塗り、また潜り。繰り返し、陣地を塗り広げていく。味方が動き回れる場所を確保していく。
 インクタンクが高い声をあげる。スペシャルウェポンが使用可能になったという合図だ。素早く塗り広げ、少年は前線へと走りゆく。最前線、敵陣へと動き進むヤグラの上には、クーゲルシュライバーを構えたインクリングがいた。シアンに染まった側面を素早く塗り、インクリングの少年はヤグラへと駆け上がる。金網で囲まれた台に軽やかに飛び乗った。
 己が持つわかばシューターのスペシャルウェポンはグレートバリアだ。ヤグラ上で展開すれば、乗っている味方を守ることができる。もうじきカンモンに到達する今展開すれば、試合を有利に進められるはずだ。早くしなければ、と装置へと手を伸ばした。
「来ないで!」
 瞬間、大声が耳をつんざく。何だ、と目を丸くしていると、鮮やかなパープルと視線が交わる。普段は快活な光を宿した丸い目は、これでもかというほど険しく眇められていた。睨みつける、と表すのが相応しい目つきだ。
「え、何……、いやどうしたんだよ」
「乗らないでって言ってるの!」
 敵を狙う銃口をこちらに向けんばかりの形相で少女は叫ぶ。その細い身は足を踏み外してもおかしくないほど端へと寄っていた。明らかにこちらを避ける動きだった。
「今カンモンだろうが!」
「一人でもカウントは進むでしょ! いいって言ってるの!」
「んなこと言ってる場合か!」
 きゃんきゃんと吠える少女に、少年もまた吠える。今は相手にリードを許している状態だ。一刻も早くカウントを進め、逆転しなければいけないのだ。二人で乗るのが最効率である。
「いいから降りてってば!」
 もはや悲鳴に近い声で少女は叫ぶ。ついにはタンサンボムを取り出し、こちらに投げつけようとする始末だ。華奢な指に包まれた銀のボムが、日差しを受けて光る。
 そこまでして乗らせたくない理由は何なのだ。勝利よりも距離を重んじようとするその理由は何なのだ。己が何をしたというのだ。疑問ばかりが頭の中身を掻き回す。勝つために使わねばならない脳のリソースは、全て疑問に割かれていった。
「マジ何なんだ――」
 低いエンジン音が鼓膜を震わせる。嫌というほど耳にしてきたその音に、紫の目が、橙の目が、瞠られる。二つの頭がぎこちない動きで動く。音の方へ向かった先、広がる視界には、高台でチャージしている――否、今しがたチャージを済ませたハイドラントの姿があった。金色の銃口が陽光を受けてキラリと光る。まるで、間抜けな二匹の獲物を嘲笑うかのように。
 二人分の悲鳴がヤグラの上に響いた。




 ガヤガヤとロビーが騒がしさを取り戻していく。ロッカーに向かう者、売店に向かう者、射撃練習を行う者、再度バトルに向かう者。皆が皆、自由に動いていた。ただ二人を除いては。
 バトルポットの脇、わかばシューターとクーゲルシュライバーを携えたインクリングが二人並ぶ。ゲソの明るいインクカラーに反して、包む空気は非常に重いものだ。表情も暗い――というよりも、むくれた、拗ねたと表現する方が相応しいものだ。つまり、雰囲気は最悪だ。
「……マジで何だったんだよ」
 はぁ、とインクリングの少年はわざとらしいほど大きな溜め息を吐く。すぐ隣、クーゲルシュライバーを握る手に力が入ったのが見えた。
 あの後、試合は散々だった。二人の様子に戦線を上げていた味方二人まで惑い、そのまま前線を崩され一気に押し込まれてしまった。結果はノックアウト負けである。
「……あなたと」
 長い沈黙が破られる。小さく開いた口からこぼれた声は震えていた。怒っているのだろうか。怒りたいのはこちらの方だ。眉を寄せ、少年はちらりと視線をやる。綺麗に編まれた三編みの奥に、下がった眉と伏し目が見えた。
「友達が、いつもあなたとヤグラ乗ってるって言ってくるの。『いつも一緒にいるね』って笑うの。『好きなの?』とか……」
 言葉はどんどんと細くなり、ついには途切れてしまった。ぅ、と小さな嗚咽が聞こえる。眺める横顔は暗くなりゆき、菫色の瞳は潤みを増していく。今にも何かがこぼれ落ちてしまいそうな様子だった。
「ば、っかばかし」
 なんだよそれ、と少年は鼻で笑い飛ばす。いつも一緒にいるなどと言うが、二人でいる時などガチヤグラを練習している時ぐらいだ。共にヤグラに乗るのも、中射程で敵を撃ち払う彼女の役割とヤグラを守るスペシャルウェポンを持つ己の役割があってのことだ。彼女がスプラシューターを担いでいる時は二人で乗ることはない。今、彼女がクーゲルシュライバーを練習しているからこそ起こっていることなのである。そんなこと、二人のブキを見ていれば分かるだろうに。一場面だけ切り取って噂し、あまつさえ本人に投げかけるなどなんともデリカシーの無い者たちだ。呆れるばかりである。
「じゃあ、俺次からZAP持つわ。それなら一緒にヤグラ乗ること無いだろ」
 いいよな、と少年はいつの間にか深く俯いた少女に投げかける。下がった頭が小さく上下するのが見えた。カシャ、と手元のスピナーが彼女の代わりに声をあげる。
「じゃ、変えてくるから待ってろよ」
 地面を見つめたままの少女に告げ、少年はロッカールームへと足を運ぶ。駆け足で向かった己のロッカー、その扉を開く。乱雑に放り込んだ中身を掻き分け、黒く細い銃を取り出す。さすがにわかばシューターほどではないものの、N-ZAP85は塗りの確保が十分できるブキだ。スペシャルウェポンのエナジースタンドで彼女以外の味方を補助することも可能である。射程の短さや前線に立つ役割も相まって、ヤグラに乗ることはないだろう。
 そう、乗ることはない。
 考え、少年の視線がどんどんと沈んでいく。つられるように背も丸まり、身体が縮こまっていく。まだ細い身は、まるでロッカーの中に頭を突っ込むかのような姿勢で止まった。はぁ、と重い溜息が散らかったロッカーの中に放り込まれた。
「……バレてたかぁ」
 彼女の練習に付き合っていたのは本当だ。サポートのためにわかばシューターを選んだのも本当だ――ただ、『一緒にヤグラに乗っても怪しまれない』というちょっとの下心があっただけで。
 ガチヤグラにおいて、グレートバリアはヤグラ上で展開することが多い。つまり、他のブキに比べ違和感無くヤグラに乗ることができるのだ。彼女が乗っているヤグラに。
 恋心を寄せる相手にごく自然な様子で近づく、隣に立つ絶好のチャンスである。可愛らしい顔をきりりと引き締め、的確に相手を仕留めんと大きな得物を操る彼女をすぐ隣で見ることができる唯一無二のチャンスだ。わざわざあまり使っていないわかばシューターを持ち出すぐらいには勝ち取りたいチャンスだった。
 それも彼女があれだけ意識してしまえばもう無理だろう。せっかく彼女が努力を重ねるを己の欲で崩してしまうのは、誰よりも己が許せなかった。
 余計なこと言いやがって、と内心毒づく。女子というのは噂好きだ。惚れた腫れたの話ならば尚更だ。今までは全く他人事だったそれが恨めしくて仕方が無い――もうどうしようもないのだけれど。
 はぁ、とまた重い溜め息。ロッカーの扉を乱暴に閉め、少年は細身の銃を携えて歩き出す。透明な自動ドアの向こうに、未だ俯いた少女の姿が見えた。




醤油ラーメンと炒飯、餃子二皿、それとアサリ/インクリング+オクトリング
 音と飛沫があがりそうな勢いで、丼に箸が突き入れられる。プラスチック製の安っぽい箸は、スープの飛沫とともに宙に持ち上げられた。極彩色に染まった口がぐわりと開かれる。挟み、たっぷり掴んだちぢれ麺が、大きな口の中に吸い込まれていった。ずるる、と大量の麺を思いっきり啜る音が卓上に響く。風船のように膨らんだ頬が黙々と動く。しばしして、細い喉が上下に動く。ニンニクに彩られた細い息が短く吐かれた。
「やっぱさぁ、右から侵入した方がよかったんじゃね?」
 指揮棒のように箸を宙で動かしながら、インクリングの少年は問いかける。丼に添えられていた手は、目の前のタブレット、大きな液晶画面に表示されたマップを指差していた。
「いや、それはさすがに結果論だろ。あそこは正面から行くしかなかった」
 レンゲを置き、オクトリングの少年もタブレットへと手を伸ばす。尖った指が画面をなぞる。バイガイ亭、ガチアサリで用いられるマップの上に赤い矢印が引かれた。中央から左に続く道からゴール正面へと向かう印だ。
「いや、あの時点で俺は七個持ってたんだよ。だったら俺が右から上がってゴール前に潜伏して誰かが一個投げるの待ってた方がゴールしやすかった」
「トラストがガチアサリ持った状態でか? 無理だろ。あっちは四人で防衛してるのにこっちは二人で護衛する羽目になるんだぞ」
 丸いオレンジの目をじとりと睨み、オクトリングは言う。強化ガラスで守られた画面に置かれていた手が再びレンゲを握る。もう半分ほどしかない炒飯の山に差し込み、一気にすくい上げた。小さな食器の上に、こぶりな黄金色の山が築き上げられる。輝きすら感じるそれは、大きな口に全て吸い込まれていった。濃く焼けた頬がもごもごと動く。
「そりゃそうだけどさぁ。そしたら、トラストがこっちにガチアサリ投げてくれりゃよかったんじゃね? そこを俺がすっと拾って、ずばーんっとゴールして、後ろから叩くなりヘイト稼げばなんとかなったかもだし」
 宙で円を描いていた箸が丼の上に落ち着く。かなり減ったラーメンの上にちょこんと乗っていた味玉が、赤紫の箸にさらわれる。つるりとした表面が箸を滑って落ちる前に、半分に切られたそれは開かれた口に投げ入れられた。
「ガチアサリの飛距離を考えろ。届かないだろ」
 味玉で頬を膨らませた友人を見やり、オクトリングは溜息を吐く。飛んでもこんぐらいだよ、と先の細い指が地図上に丸を書く。横長のそれが示す場所は、ゴールには到底届かない、右からの侵入ルートからでも近づくのが難しい位置だった。
「んじゃどうすりゃよかったんだよ」
 否定ばっかしてねぇで意見言え意見を、とインクリングは唇を尖らせて目の前の友人を箸で差す。味玉を咀嚼し飲み込んだ頬は、依然膨らんでいた。
 レンゲを手にしたまま、オクトリングはじっとタブレットを見つめる。小さな唸り。しばしして、地図上に書かれた線が全て消し去られた。
「トラストにガチアサリパスしてもらって、俺が中央に下がって引き付ければよかった……気がする。んで、その間にお前が下ルートとゴール前のアサリを拾ってガチアサリもう一個作ってゴールする」
「だったらやっぱ右ルートから行った方がいいじゃねぇか」
 線を書き入れる焼けた指に、小麦色の指が交わる。角張った指が、ガチアサリが湧く位置をトントンと突いた。
「お前わかばだろ。正面から行ってバリア張った方が遅延できる。スパジャンできるし」
「だったらお前がここらへんにビーコン置きゃよかっただろ。何のためにサ性積んでんだよ」
「相手リッターともみじいただろうが。ソナーで全部狩られたんだよ」
 はぁ、とオクトリングは大きく息を吐く。今日一番の深く、重い息だった。ジャンプビーコンを活かすためにサブ性能アップに大きくギアパワー枠を割く彼にとって、ホップソナーで全てを破壊されるのは酷く辛いことだった。ただでさえ味方が利用しなければ意味を持たないサブウェポンがすぐさま破壊され機能しなくなるなど、サブウェポン無しで戦うも同然である。
「まぁ、でもあそこでエナスタ使うべきだった。あれは俺のミス」
「スペ溜まってたっけ?」
「溜まった直後に抜かれた。即出しゃよかった」
 オクトリングは短く呻く。そこはしゃーねーだろ、とインクリングは丼に箸を差し込む。麺を持ち上げ、また口に運んだ。ずるるる、と豪快な音が机上に響く。リッター4Kの射程は全ブキの中で一番長い。手練れが担げば、短射程が手出しできない高台から撃ち抜くことなど容易であることはどちらも分かっていた。
「俺もリッターにスプボ投げればよかったわ。ボム持ち他にいなかったし」
「正面から投げたらそんまま抜かれただろ。だったらゴール前の固まってたとこに投げた方がいい」
「いや、リッターを先に処理するべきだって。トラスト動きにくそうだったし」
「いや、動きにくかったのは死ぬほどトピ飛んできたからだろ」
 メンマを一気に食べながらインクリングは言う。コップに水を注ぎながらオクトリングは返す。橙と赤の視線がバチリとぶつかる。どちらともなく、はぁ、と溜め息が落ちた。食器が重なる机の上を温かな息と冷えた息が流れていく。
「ブキ変えっかなぁ」
「赤スパ練習したいっつったのお前だろ。使えよ」
「勝てなきゃ意味ねぇじゃん」
「勝つために練習すんだろが」
 箸を置き、インクリングは丼を持ち上げる。縁に口をつけ、大きなそれを傾ける。中を満たしていた濃い茶色のスープが、どんどんと水位を減らしていく。ぷはぁ、と満足げな息とともに置かれた。底に隠されていたバイガイ亭のロゴが、電灯の下に晒される。
「いいからもう一戦行くぞ」
「休ませろよ。腹痛くなるわ」
「次のアサリ明日の早朝だぞ。今やるしかねーじゃん」
 ほら、と伝票を手にインクリングは立ち上がる。急かすように、薄っぺらいそれがひらひらと揺らされる。プラスチックのコップの中身を飲み干し、オクトリングはタブレットを手に立ち上がった。
「……なぁ」
「何だよ」
「次反省会するならカフェにしようぜ」
「何でだよ。ここのが安いし量食えるだろ」
「タブレットがめちゃくちゃ汚れんだよ」
 誰かさんが汁飛ばすからよ、とオクトリングはタブレットの画面をウェットティッシュで拭う。先を行く細い喉から、う、と詰まった音が漏れた。
「……次から炒飯と餃子にするわ」
「お前ぜってー餃子のタレ飛ばすだろ。炒飯だけにしろ」
 へいへい、とインクリングは軽く返す。タブレットを鞄にしまい、オクトリングはその背を追う。薄っぺらい財布を手に、少年たちは会計レジへと向かった。




埋めて詰めて飾って貴女へ/インクリング→オクトリング
 弾けるような響きが耳に飛び込んでくる。己の名と同じ形をしたそれに、オクトリングは手元の液晶画面から視線を上げた。文字情報で溢れていた狭い視界が開け、いきものに溢れた広い世界が広がっていく。その中心には、手を大きく振りながらこちらに駆けてくる友の姿があった。
 もう一度己の名が可愛らしい声で紡がれる。爆ぜるように響いたそれと同時に、眩しいほどの愛らしい笑顔が視界を埋めた。
「ハッピーバレンタイン!」
 そう言って友人であるインクリングは天に拳を突き出した。元気と勢いのあまり、締まった身体が軽く跳ぶ。トン、とスニーカーの靴底がコンクリートを叩く音が響いた。
「バレンタインは来週だよ?」
 ゲソを揺らす少女に、オクトリングは小さく首を傾げる。つやつやとした吸盤が光を受けてきらめいた。
 バレンタイン。由来や歴史は色々あれど、己たち二人の間では『好きなチョコレートを食べる日』ということで通っている。チョコレートが大好物の己にとっては、一年で一番の楽しみ、誕生日を超える大イベントだ。いくら先月中頃からデパートやスーパーがチョコレート特集だらけだといって、日付を間違えるわけがなかった。なにせ、当日は限定チョコレートを買う予定と彼女とチョコを交換して食べる予定が入っているのだから。
「まぁそうなんだけど」
 つぶらな瞳で見つめる友人に、インクリングは苦く笑う。ノリだよノリ、とまた手を振った。それもそうか、とオクトリングは内心頷く。インクリングという種族の特性を抜いても、この友人はどうにも勢いで生きているところが多い。イベントのフライングなどよくあることだ。誕生日一ヶ月前に誕生日プレゼントを贈ってきた時は少しばかり彼女の記憶力を疑ってしまったのだけれど。
「そんな感じでハッピーバレンタイン!」
 にこやかな笑みを絶やさず、少女は下げていた手を掲げる。薄く焼けた大きな手にはショッパーが握られていた。シックな赤の紙を黒く細い飾り枠と流麗な白い文字が飾る。ところどころ散る花びらは金色で、光を受けてキラキラと輝いている。静謐な上品さに華やぎをひとひら落としたような、大人びたデザインだ。
「え、それ」
「ここのブランドのチョコ好きだったよね? 奮発しちゃった」
 ほろりと言葉を漏らすオクトリングに、インクリングは弾んだ声で返す。カラストンビで飾られた極彩色の口が満足げに弧を描いた。
 彼女が持っているショッパーは、超有名チョコレート専門店のものだ。今年もデパートの特設コーナーの中央を華やかに飾っていたのは記憶に新しい。自分の財布事情ではおいそれと手を出せない、けれど味もデザインも全てが最上級の店である。憧れと言っても過言ではない存在だ。それが、目の前にある。それも、こちらに差し出すように。
「え? 大丈夫なの? すっごく高かったでしょ?」
「だいじょーぶ! こないだ勝ち抜けしまくって稼いだからね」
 おろおろと宙で手を彷徨わせるオクトリングに、インクリングはニカリと笑う。たしかに、彼女はここ数日ずっとバンカラマッチに潜っていた。やっと連勝バッジ取れた、とインクまみれの顔で報告してきたことは記憶に新しい。バッジが取れるほど連勝していれば財布も潤っているだろう。だとしても、この店のチョコレートはかなり値が張る。痛い出費には変わりないはずだ。形の良い眉がどんどんと八の字を描いていく。
「はいはい。いいから開けてみて」
 ほら、と声とともに膝の上に重み。いつの間にか下がっていた視界の中、己の膝の上には先ほどのショッパーが載っていた。はやくー、と軽やかな声が陰りゆく心を引き上げ照らす。うん、とゆっくり頷き、少女は傷をつけないようにそっと袋の中身を取り出した。
 現れたのは、銀の缶だった。ハードカバー本と似た大きさをしたそれの蓋には、白い飾り枠となめらかな筆記体が流れるように描かれていた。枠の一部や文字の一部は淡いピンクで彩られている。文章の最後には、ピリオドの代わりにパールピンクの小さなハートが打たれていた。
 これ、とオクトリングの少女は呟く。この缶はバレンタインの時期にしか売り出さない限定デザイン、限定フレーバーなどの多種多様なチョコレートを詰め込んだもののひとつだ。その中でも、値段とサイズから所謂『本命用』とファンの間で囁かれているものである。値段でも目的でも、自分ではまず買わないしもらうことはない代物だ。手にする日が来るなんて、と輝く目が瞬きを繰り返した。
「どれがいいか分かんないから箱が綺麗なの買ったんだけど……、もしかして大丈夫じゃないやつだった?」
「だっ、大丈夫だよ! 大好き! ずっと食べたかったやつだよ!」
 不安げに問う少女に、オクトリングは慌てて声をあげる。慌てるがあまり試合中ですら滅多に出さないような大声になってしまった。あまりの声量に互いに目を瞠る。それもすぐに解け、柔らかな笑みへと変わった。
「これ、毎年買いたくても買えなかったやつなの。ありがとう」
 嬉しい、と少女はこぼす。やわらかでとろけた、解け落ちて消えてしまいそうな響きをしていた。銀を撫でる指に、よかったー、と喜色と安堵が混じった声が落ちた。
「あっ、ごめん。私まだ用意できてない……」
「バレンタイン来週でしょ? 来週でいいよ。というかあたしが早すぎるだけだし」
 楽しみにしてるね、とインクリングは笑う。奮発するね、とオクトリングも笑った。小さな笑声が重なり、雑踏に溶けていく。
「じゃ、あたし先に行ってるね!」
 また大きく手を振り、インクリングの少女は駆け出した。ロビーに続くドアへと向かう友人に、またね、とオクトリングの少女は手を振る。一度振り返って笑った友は、すぐに透明な自動ドアに吸い込まれていった。
 振っていた手を下ろし、少女は視線を膝の上に戻す。そこに横たわる赤は、輝く銀は、静かに存在を主張していた。飾り枠に指を這わせる。少し盛り上がったその感触が、これは現実であると主張していた。
 まさかこんなものがもらえるとは思わなかった。『本命用』が飛び出したのは驚いたが、言葉通りデザインで選んだのだろう。彼女はチョコレートが好きでも、ブランドに詳しいわけではないのだ。きっと好みのデザインを、己が好きそうなデザインを、味を、彼女は選んでくれたのだ。事実に、ふわりと胸が熱を持つ。薄い唇がほろりと綻んだ。
 缶をショッパーに入れ、オクトリングは立ち上がる。今日はナワバリバトルで練習をするつもりだったが、予定変更だ。きちんと掃除し整理しているとはいえ、こんな素敵なものをロッカーなんかに入れてバトルに赴くわけにはいかない。ちゃんと持ち帰り、保存し、時間を作ってゆっくり味わうべきだ。そして、お返しの品を考えなくてはならない。こんなに素敵な贈り物に見合うほど、彼女が喜びそうなものを。
 ナマコフォンを取り出しメッセージアプリを立ち上げる。かの友人のアイコンをタップし、入力欄に今日は一度帰る旨と謝罪を打ち込んだ。紙飛行機のマークを押そうとして、指が止まる。数拍、動き出した指は『来週楽しみにしててね』という一文を紡ぎ出した。








 カチャカチャと金属が擦れる音がロッカールームに響く。ブーツを履き終えたインクリングは小さく息を吐いた。このギアはデザインもギアパワーも良いのだが、履く時手間がかかるのが玉に瑕だ。新しいやつ作ろうかな、と考えながら、ハンガーへと手を伸ばした。
 細かく震える端末が金属と擦れあって鈍い音をたてる。持っていたスカーフを首に掛け、インクリングはナマコフォンへと手を伸ばした。片手で開いた画面には先ほどまで共にいた友人の名前とアイコンがあった。通知をタップすると、メッセージアプリが開く。今日は一度帰るという旨のメッセージと可愛らしいスタンプ二つ、シンプルな背景の中に泳いでいた。
 黒で縁取られた大きな目がふっと細まる。電子の文字を何度も追うそれは、温かな光と薄い冷たさを宿していた。
 先ほどの柔らかな笑みからも、滅多に見ない浮かれた調子のスタンプからも、彼女の喜びが伝わってくる。あれを選んで正解だったようだ――インターネットで『本命用』と名高いものを選んで。
 チョコレート好きの、あのブランドの長年のファンである彼女はこの『本命用』チョコレートのことは知っていただろう。けれど、黙っていてくれた。きっと己が『本命用』ということを知らないと思っていたからだ。それを指摘しては驚くだろう、恥ずかしがるだろう、と優しい友人は見て見ぬ振りをしてくれたのだ。それが意図したものであることなどつゆも知らず。
 バトルをする彼女が好きだった。チョコレートを食べる彼女が好きだった。己の話に柔らかに笑う彼女が好きだった。ゆっくりと穏やかに話す彼女が好きだった。何もかもが好きだった。短い生の中、一番大切で一番大好きで、一番欲しいと思うほど、彼女のことが好きだった。
 だが、この叫びだしたくなるような感情を彼女に悟られてはいけない。こんなもの、絶対彼女は受け取れない。受け取れないと分かっているのに受け取って苦しむか、受け取れないと分かっているからこそ苦しんで謝るかの二択なのは目に見えていた。あの子を困らせるわけにはいかない。あの子を苦しませるわけにはいかない。あの子には幸いだけがあらねばならない。
 けれども抑えきることなどできない。インクリングという種以前に、自分は感情に素直な性分なのだ。全て封じ込めて殺して消し去ることも、無視することも不可能だ。
 だから、種類を誤魔化して『好き』と伝えられるイベント事が大好きだ。特に、いきものの情愛を商売の戦略として使う、近年では性も関係も問わずにプレゼントできるバレンタインは。
 全ては自己満足だ。隠して愛を伝えたつもりになりたいのだ。隠して愛を受け取ってもらえたように思いたいだけなのだ。独りよがりだ。『彼女の幸せ』を盾にして自分を慰めたいだけなのだ。最低であることは分かっていた。けれども、やめられるほど己の精神はおとなではないのだ。
 端末を閉じ、インクリングは首に掛けたままだったスカーフを巻き付ける。フックに掛けた帽子を被り、ラックに放り込んだままのブキを片手にロッカーを閉じた。
「来週かぁ」
 楽しみ、と呟き、少女はロッカールームを出る。指を通した赤いマニューバーがくるりと回った。




実用性<見栄と意地と恋心/オクトリング+インクリング
 ハンガーの海を掻き分ける。少し吊り目がちに見える目が端から端を言ったり来たりする。どうしようか、とオクトリングは鮮やかなギアを眺めた。
 今日は友人たちとオープンマッチで練習する約束をしていた。今の時間はガチホコバトル、そして友人は『ホコショ練習したい』と言っていた。ならば、素早くホコを確保できるスパッタリーだろうか。いや、友人らは全員前衛ブキを持つことがほとんどだ。ならば、少し後ろから援護することも前に出ることもできるノーチラスか。いや、むしろ射線で圧をかけるためにチャージャーか。
 フクギアを掻き分ける手が止まる。そうだ、聞いてしまえばいいのだ。友人二人は性が違うため別のロッカールームにいるが、同性の友人一人はすぐ隣にいる。彼のブキを考えて選択する方がいいだろう。屈んでいた身を伸ばし、扉を開きっぱなしにしたまま軽く仰け反って隣を覗き込んだ。
「なぁ、お前何持って――」
 尋ねる声は途中で止まった、否、途切れてしまった。言葉を失うほどのものがロッカードアの向こう側に広がっていた。
 今隣にいるインクリングは、とにかくギアに頓着しないタイプだ。私服は人並みの格好をしているが、ギアコーデに関しては壊滅的という表現すら足りないほどである。なにせニット帽を被り、タンクトップで腕を惜しみもなくさらけ出し、素足でスニーカーを履く始末である。季節感など一ミリもない、コーディネートの概念など存在しない、ただただ機能だけを考えたギアを身に着けていた。どうにかならねぇのかよ、と文句を言うと、ギアパワー揃ってりゃそれでいいだろ、と素っ気ない言葉が返ってくることはもはや通例だ。
 だが、今はどうだ。
 普段はタンクトップやロングコートといった体温管理が極端なフクに包まれている身体は、爽やかなシャツに包まれていた。青と白のストライプ柄のそれを、真っ青なパーカーがまとめている。重ね着となると暑さを覚えそうだが、中ほどまでまくられた袖が清涼感と快活さを醸し出していた。
 最近は季節が二つは遅れているブーツばかりを履いている足は、シルエットの大きなスニーカーに包まれている。少しスモーキーな白をまとめる黒、ピンポイントに差し込まれる青の三色で構成されたそれはパーカーとよく合っていた。上半身はスリムなシルエットなだけに、厳つさすらある大きなスニーカーは安定感と格好良さをもたらした。
 普段は帽子で隠されていることが多い頭は、サンバイザーで彩られている。普段はツバが前に来るそれは、後ろ側に回されている。最近の流行、今どきの着こなしだ。太いベルトの向こう側にツンツンとしたゲソがよく見える。ツバを後ろに回したことにより、隠れがちな髪型がよく見えるようになっていた。
 総じて、良いコーデだ。カラーもシルエットもバランスの取れた、季節感も考えられた良いコーデだ。まさにイカしていた。
 問題は、それを着こなしているのが呆れるほどコーデに無頓着な友人ということである。何故あの季節感をぶち壊すようなコーデばかりをしていた友人がこんな爽やかなコーデをしているのか。何故あのギアパワーしか考えていない友人がこんなにバランスの取れたコーデをしているのか。全くもって理解できなかった。
「どした?」
 丸い輪郭をした目がこちらを見つめる。だが、少年の頭はその現実や言葉を認識することができなかった。処理することができなかった。衝撃的な光景は脳味噌をぶん殴り、意識を揺らし、処理能力をゴリゴリと削っていく。あんぐりと開いた口からは、は、え、と意味のない音が漏れている。まるで意識への衝撃を音として逃しているようだった。
 何故こんなことに。十数回目の疑問が脳味噌を掻き回す。それが思考の底から何かを引っ掛け、ぐっと持ち上げる。あの彼がお洒落をするような要因を。
「……いや、気合い入れすぎじゃね?」
「うるせぇ!」
 首を傾げ、オクトリングはようやく言葉を紡ぐ。瞬間、大声が全てを吹き飛ばした。正面から怒声めいた音を浴びせられても、オクトリングは依然首を傾げるだけだ。反面、疑問を投げかけられたインクリングの顔は真っ赤に染まっていた。黒で縁取られた目は眇められ、口元は食い縛られている。視線は居心地が悪そうに宙空を彷徨っていた。
 こんな彼がお洒落をする理由があるとすれば一つ。今別のロッカールームで着替えているであろう友人のインクリングだ。少し弱気で、でも勇気はしっかりと持っていて、慌てがちだが判断はしっかりとしている、笑顔が可愛らしいあの女友達に、彼が恋心を寄せていることは知っていた。大方、彼女の前で良い格好をしたいのだろう。
「たっ、たまにはいいだろ! 何だよ、似合ってねーっつーのかよ!」
 子犬が吠え立てるように少年は声を荒げる。頬は赤みを帯びたままで、普段はしかりと前を見据える目は不自然なほど泳いでいる。ハキハキと喋る口はどこか尖っていた。
 たまには、も何もない。今日だからこのコーデにしたのだろう。あの子にちょっとでも格好つけたくてコーデを練ったのだろう。完全に彼女のために考えたコーデである。そういえば彼はここ最近バイトに向かっていたが、あれはギアパワーを整えるためか。そうまでしてあの子のためにお洒落をしたのだ、この友人は。あまりにも健気で、あまりにも可愛らしい。恋とはヒトを変えるものだと聞いていたが、まさか目の当たりにするとは思っていなかった。本音を言うならめちゃくちゃ面白い。声を出して笑いそうなほどには愉快だ。
「いや、似合ってんよ」
 笑いを必死に噛み殺し、オクトリングの少年は言葉を返す。似合っているのは本当だ。少し細身の彼によく合ったコーデだ。特にサンバイザーは髪型も相まってバッチリと決まっていた。これを『似合っていない』と評価するやつとは仲良くなれないと思う程度には。
「お、おぅ……」
 インクリングの少年は短く返す。先ほどの大声の主とは思えないほど小さな、萎みきったものだ。視線は完全にこちらから外れ、依然赤い顔が少し伏せられる。唇はむにむにと何か言いたげに動いている。照れているのだ。照れるぐらいなら聞かなきゃいいのに、という言葉はどうにか飲み込んだ。きっと勢いで飛び出た言葉で、否定されると思ってた言葉なのだろう。今回のコーデへの、彼自身の感性への自信の無さが見て取れた。似合ってる、と追撃しそうになるのをどうにか堪える。面倒事になるのは明白だ。
「いやー、あのお前がよく考えたもんだな」
「『あの』ってなんだ、『あの』って」
「サングラスにダウン着てサンダル履く『あの』お前がだよ」
 唇を尖らせた友人は、う、と呻いて苦い顔をした。心当たりがあるのだろう。ギアパワーの関係上、ダウンにサンダルは彼がよく着るコーデの上位に位置するものだ。
「でもいつも変なギア着てるの見られてんじゃん。今更すぎねぇ?」
 少年は疑問を音にする。彼女と一緒にバトルをするのはこれが初めてではない。両手で数えられる程度ではあるが、過去に何回も共に戦っていた。その際、彼はあのしっちゃかめっちゃかなコーデをしていたはずだ。それを彼女が指摘していた覚えがない。なのに、何故今更になって気を遣いだしたのだろう。
「……いいじゃねーかよ、たまには」
 拗ねたようにインクリングは返す。どうにも煮え切らない、淀んだものだ。説明したくないのだろう。『あの子』のことを一言も言っていないのに何の問いも返ってこなかった時点で自白しているのと同義なのだけれど。
「いーんじゃね、たまには」
 ふ、と堪えきれなかっった笑みが漏れ出る。笑うんじゃねぇ、と鋭い視線と声が飛んできた。
「そういや何持ってくん?」
「ガロン」
「分かった」
 きっと友人二人はスプラシューターコラボとドライブワイパーだろう。前衛ばかりなら、中衛を選んだ方がバランスが良い。何より、全員前衛だとホコの爆発にやられて全滅なんて間抜けな事故が極稀に起こるのだ。
 フクを掻き分け、アタマギアを漁り、ノーチラス79のために作ったコーデに着替えていく。靴紐を結び、立て掛けていたブキを担ぎ、ロッカーの扉を締めた。
 隣に視線をやる。.52ガロンを握った友人は、空いた手でしきりに自身の身体を触っていた。パーカーから覗く裾を整え、袖を何度もまくり、サンバイザーを細かに動かし。とにかくコーデのことが気になっている様子だ。それはそうだ、今から好きな女の子にこの姿を見られるのだから。
「似合ってるっつってんだろ。自信持て」
「……おう」
 あまりにも忙しない様子に笑いを噛み殺しつつ、丸くなった背中をバンバンと叩く。普段なら文句が飛んでくる口は、もにゃもにゃと歯切れ悪く動いていた。これ以上何か言っても意身も効果も無いに決まっている。いくぞー、とむき出しになった手首を掴んで歩き出す。後ろから不安定に床を叩く音がする。すぐに整った足音に変わった。
 彼が想いを寄せるあの子は、お洒落が大好きだ。新作発売日には小遣い全てをギアに注ぎ込むぐらい、完璧なコーデを作るためにバイトに明け暮れギアのかけらを集めるぐらい、一つのブキにいくつもコーデを作るぐらい、お洒落が大好きだ。自分のお洒落も、他人のお洒落も大好きだ。
 彼女は絶対に彼のコーデに反応するだろう。きっと目を輝かせるはずだ。きっと褒めちぎるはずだ。そうなると、彼は面白い反応をするに決まっている。顔を赤くししどろもどろになるか、何でも無いように振る舞うが声が上ずるか、それとも照れて逃げるか。どう転んでも面白い光景だ。
 込み上げてくる笑みを喉奥で殺す。面白いし、何より幸せな光景ではないか。早く見たくてたまらない。ロビーへと向かう足取りはどんどんと早くなっていた。
 二人でロッカールームを出る。すぐ左、眠る審判の隣に友人らの姿が見えた。




めっちゃ引っ掻かれたしめっちゃ怒られたししばらく出禁/オクトリング+インクリング
 軽やかな音が敵陣に響き渡る。同時に、ホイッスルの鋭い音色が高い天井へと昇った。
 勝利を意味するそれに、オクトリングは深い溜め息を吐く。まっすぐだった背中が丸まり、年頃にしては高い位置にある頭が高度を下げていく。気がつけば、敵のインクの上だというのに座り込んでいた。
 永遠に終わらないかと思った。五分間互いに防衛した結果雪崩れ込んだ延長戦、やはり互いに互いの防衛を崩せずに時間だけが過ぎていった。アサリを集め、相手のガチアサリ持ちを倒し、ガチアサリを作り、ゴールに届くことなく倒され。一生続くのではないかと絶望を覚えたほど長い戦いだった。最終的にはボールドマーカーネオが凄まじい執念で敵陣に置き続けていたビーコンにガチアサリ持ちが飛んでゴール、こちらの勝利に終わった。
 はぁ、ともう一度溜め息。緊張が一気に解けた身体に、十分近く動き続けた疲労がのしかかってくる。このまま潰れてしまいそうな心地だ。このまま寝転がってしまいたい気分だ。また大きく息を吐き、伏せた顔をわずかに上げる。周りには同じように座り込んだインクリングたちがいた。中にはブキを放り捨て大の字になって寝転がっているものもいる。相変わらず自由な種族である。
 その中に一人、立っているインクリングがいた。アサリの練習付き合って、と誘ってきた友人だ。勝ったというのに、そこには普段見せる爛漫な笑みも、疲労による歪みも見られない。彼らしくもなく神妙な顔つきをしていた。紫色の丸っこい目は、その手に握ったアサリをじぃと見つめている。
「なにしてんの」
 どうにか立ち上がり、オクトリングは友人の下に歩む。声をかけても、その輝きを感じさせる鮮やかな目はアサリを見つめたままだ。視線を外すことなく、友人は小さく首を傾げた。
「……いやさぁ」
「なに」
「これ、食えんのかな」
 は、と思わず低い声が漏れる。大きな吸盤で飾られた頭が同じように傾いだ。何を言っているのだ、こいつは。
「これ、食うアサリと見た目一緒じゃん。マジのアサリなんかなって」
 鈍く輝く金を見つめ、インクリングの少年は言う。目も、表情も、声色も、全て真剣そのものだ。本気で言っているのだ、こいつは。
「んなわけねぇだろ」
 はぁ、と今日一番の大溜め息を吐き出し、オクトリングの少年は切り捨てる。呆れを隠しもしない、むしろ見せつけるような声をしていた。
 たしかに、ガチアサリで用いるアサリはスーパーに並んでいるアサリと全く同じ見た目だ。しかし、これは地面から勝手に湧いてくるような、その上一定個数持っていたら勝手にガチアサリに変化するような代物だ。ただのアサリ、ただの食べ物のはずがない。そもそも、食べ物を試合に使うだなんてことはないだろう。罰当たりにもほどがある。
「分かんねぇじゃん? 動いてるから作りもんじゃないだろうし」
 手の中で細かに震えるアサリを指差し、友人は言う。やっぱ食えんじゃね、と真剣な面持ちで呟く。くぅ、と小さな音が遠くから聞こえる店内BGMに混じって消えた。どうやら空腹で頭が回っていないらしい。とりあえず早くロビーに戻って何か食べさせなければ。返事すらせず、オクトリングはアサリをしかと掴む手に腕を伸ばした。
「なにー?」
 焼けた腕に白い手が届く前に、地面から声がした。パープルとイエローが同じ動きで音の方へと向いていく。発生源には、H3リールガンの傍らで仰向けで寝転がるインクリングがいた。青いゴーグルを額に掛けた顔は疲れ切っている。特性上集中力と冷静さを非常に試されるブキだ、その上長時間の延長戦となれば疲労も凄まじいものだろう。敵チームである彼は負けたのだから殊更疲れを覚えているかもしれない。
「このアサリ食えんのかなって」
「あー、分かる。思う」
「じゃあ、試すか?」
 今度は後ろから声。そこには、エクスプロッシャーに腰掛けたオクトリングがいた。釣り気味に見える目には疲弊の色が残っているものの、どこかいたずらげに輝いている。小さな声をこぼして彼は立ち上がり、得物を乱暴に担いだ。
「こいつなら焼けるだろ」
 こいつ、と細っこい腕で掲げられたエクスプロッシャーの丸い口元は、風景が歪んでいた。熱気だ。ヒーターを元にして作られたこのブキは、いつだってやけどしてもおかしくないような熱を放出していた。
「いいねー」
「そんまま食うのきつくね?」
「んじゃ俺醤油借りてくるわ」
 嬉々とした声が友人の周りに寄ってくる。気付けば、試合はとうに終わったというのに敵も味方も全員集まっていた。己以外の全員が、調理器具として使われようとしているエクスプロッシャーと未知の存在であるアサリを愉快げに眺めていた。一人が声と共に走り出す。おそらく、ステージ近くにいる席へと向かったのだろう。ここ、バイガイ亭の各席には、醤油に胡椒に塩に酢に一味にと充実した調味料が並んでいるのだ。
 いや、おい、とオクトリングは声を漏らす。試すだなんて危ないだろう。試合に使う道具を加熱するだなんて何が起こるかわからない。地面から生えてくるような訳の分からないものを食べて無事で済むはずがない。そもそも食えるはずがない。やめさせなければ。それでも、混乱と動揺でぐちゃぐちゃにされた頭は文章を生み出すことができない。短い音は、どれもが明るく賑やかな声に掻き消された。
 気付けば、集団の中心にはエクスプロッシャーが置かれていた。周りにはアサリが六個転がっている。まだ残っているものを拾ってきたのだろう。しっかりとガチアサリにならない数に調整しているあたり、本気であることが伺えた。
「醤油借りてきたー!」
 遠くから声、醤油入れを掲げたインクリングが駆けてきた。おつー、さんきゅー、と労う軽薄な声が遠くに聞こえる。常識が通用しない現実に、少年の頭は聴覚から入る情報をシャットアウトしようとしていた。
「よし、焼くか!」
 いぇーい、と陽気な声があがる。友人の手が、その手に握られたアサリが、熱気を上げ続けるエクスプロッシャーの上へと向かっていった。
 いやダメだろ、と試合中でもめったに聞かないほどの大声が、明るい店内に響き渡った。
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#新3号 #新司令 #インクリング #オクトリング #百合

スプラトゥーン

切れる心、切られた縁【新3号+新司令】

切れる心、切られた縁【新3号+新司令】
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サイド・オーダーやる前から考えてた話。サイド・オーダーのネタバレは無い。この話の続きのようなもの。
シオカラーズ履修しても履修しても分からないしうちの新司令はカスだし捏造しかない。
新3号と新司令が喋ってるだけ。

 薄暗い世界を駆け抜ける。誘われるがままに目の前の光に飛び込むと、ようやく水分とぬるさを孕んだ空気から解放された。今しがた身を投じた白の世界、は冬とは思えないほど心地の良い温度をしている。一歩踏み出すと、足元の雪らしきものが不満の声をあげた。作られた晴天と快適な温度の中でも、白は溶けることなく世界を染め上げていた。
 いつ来ても不思議な空間だ。リソースが増えた脳味噌で考えながら、三号と呼ばれるインクリングは歩みを進める。クレーターの下に広がるこの場所は、調査に調査を重ねても謎に満ち溢れていた。抜けるような青空も、天におわす太陽も、足元を彩る雪も、全て人工である。だが、それがどう作られたのか、何を目的で作られたのか、誰が作ったかは見えてこない。調査の中でここに関わると思わしき電子データをいくらか見つけたものの、どれも断片的で全容は見えないままだ。まだまだ調べ足りないという事実に、少女は小さく息を吐く。これだけ時間をかけても未だ理解が進まないなどさすがに嫌気が差してくる。地上で売って金になるものが見つかるから何とか進めているものの、普段ならばとっくに投げ出しているような時間が過ぎていた。
「――らまた連絡してよ」
 踏みしめる雪が鳴く世界の中、声が聞こえた。突然飛び込んできた声に――ヒトが発する音に、少女は身を固くした。
 オルタナと呼ばれるこの地には、現在自分を含む四名しかいない。正確には探せと言われている『じーちゃん』やら連合だかと名乗った三人組やらもいるはずだが、今耳に飛び込んできたそれはどれにも該当しない。聞いたことがないものだった。
 タコゾネスだろうか。いや、これはあの妨害者どもが使うタコの言語ではない。じゃあ、誰が。高まる警戒心につられ、歩みも動きも小さくなっていく。音をたてぬよう注意を払いながら、担いだリュックからヒーローシューターを取り出した。
 見つからないよう、遮蔽物がろくに無い空間を背を低くして進んでいく。先ほどの声は基地の方から聞こえてきた。では、近くにあるコンテナの影に隠れるのが最適だ。常の半分ほどの歩幅で、常の倍近くかけて活動拠点へと向かう。海色の瞳は音の方へとずっと睨みをきかせていた。
 コンテナまであと少しというところで歩みが止まる――否、止まってしまった。険しく引き結ばれていた口がぽかりと開く。え、と魂が抜けたような声が雪の上に落ちた。
 視界の真ん中には、鮮やかなイエローがあった。深いマリンブルーの軍帽とつぎはぎのマントで身を飾るそれは――『司令』と呼ばれるインクリングは、薄型の携帯端末を握っていた。種族特有の尖った大きな耳にそれを当てる姿は、電話を掛けるそれと同じものだ。黄色いカバーで覆われた端末の奥に見える表情は、解れた穏やかなものだった。『笑み』と表現するのが相応しい形をしていた。
「じゃ、元気でね」
 また声が聞こえる。同時に、端末の陰から覗く大きな口が動くのが見えた。音と連動した動きから、発声しているのだと分かる――常に隊員を通して言葉を伝えてくる、一切表情を変えない、口すら開かない、あいつが。
 誰だ。姿や形は司令と呼ばれるあれと同じだ。でも、こんな表情も、こんな声も、こんな姿も知らない。見たことも聞いたこともない。脳味噌が思考という役割を放棄する。停止し、視覚神経が伝達する情報をシャットアウトする。朗らかに話すインクリングを見つめる藍の瞳は、霧が立ちこめたように不確かでぼやけていた。
 話せたのか、こいつ。
 ようやく役割を取り戻した脳味噌が情報をまとめ、アウトプットする。間抜けなそれは、三号の頭を殴りつけるには十分な重さをしていた。
 それはそうだ、あの司令とやらはいつも二号と呼ばれる隊員を通して言葉を伝えてくるのだ。話すことができなければ、二号に伝達を頼むことができない。いつだって俯き帽子で顔を陰らせ二号の耳に寄せる口元は、きっとしっかり動いていたのだろう――喋っていたのだろう。今、目の前の、見たこともない光景のように。
「やっぱ八号は心配性だねぇ」
 きゃらきゃらとした音が鼓膜を震わせる。視界の中、晴れ空色の目が細められ、大きな口が緩い孤を描く。初めて聞く響きだった。初めて見る表情だった。けれど、知っている。これは『笑顔』というのだ。『笑っている』と表す様子だ。どれも初めて見た。どれも知らないものだった。少なくとも、目の前の存在に対しては。
「またねー」
 電話の主は誰もいない空間に向かって大きな手をひらひらと振る。三角耳から携帯端末が離れるのが見えた。インクリングの形によく似たそれがマントの下に消えていく。深海色の瞳はそれをただただ映し出す。情報を脳味噌に伝える。受け取った脳味噌は、再び機能を停止した。
 数拍。青が、空を思わせる青が、意識を刺激した。
 遠く、けれどもしかりとこちらを捉えたブルーが丸くなるのが見えた。皿のようにとはこのことか、と思うほど大きく見開かれたそれは、すぐに元の姿を取り戻した。愛らしさすら感じさせる目は、どこか薄くなる。上がっていた口角はすぐさま角度を無くし、真一文字に結ばれる。いつも見る顔――無愛想など通り越した、表情の無い、感情も思考も全く読み取れないものへと戻った。
 ざ、と足元で何かが聞こえる。ざ、ざ、と音が続く。己の足音だと気付いた頃には、黄色い頭に手が届きそうなほど近くまで進んでいた。
「……あんた、喋れるじゃん」
 開きっぱなしだった口から音が漏れる。発した瞬間、腹の奥が熱を持つ。頭の底がジンと痛みを覚える。だらりと垂れていた手が拳を作る。口は間抜けに開いたままだというのに、喉が詰まったかのような息苦しさを覚えた。
 目の前、こちらを見据えていた青が動く。かち合っていた視線が途切れた。どうやら呟きと同義の声は相手に聞こえたらしい。でなければ、こんな逃げるような動きはしない。逃げるようなことをしている自覚があるのだ、こいつは。
 ブーツに包まれた足が地を蹴る。握られた拳が開かれ、目の前のぼろきれもろとも胸倉を掴む。ぐっと持ち上げ、身を寄せる。無理矢理上げさせた目の前の顔は、露草色の瞳は、常は鋭さを感じさせる視線は、逸らして逃げたままだった。
「あんた、喋れるじゃない!」
 人工の蒼天に怒号が響き渡る。服を掴む腕に力がこもる。いつだって無表情を貫く顔がわずかにしかめられるのが見えた。胸を引っ掴まれて息が苦しいのだろう。それでも、目の前のインクリングは一言も発さない。口はまっすぐな線を描いたままで、呻きすら漏らさない。その姿が爆発する感情を刺激する。燃えるような怒りに燃料を注ぎ入れる。
「いつも黙って……、あたしとは喋らないくせに! 何なの!? 馬鹿にしてんの!?」
 ぐっと腕を引き寄せ、鼻が当たりそうなほど顔を引き寄せ、三号は叫ぶ。普段はけだるげな目元は吊り上がっていた。細い眉は鋭角を描き、眇められた深海の奥には燃え盛るような輝きを宿している。怒りだ。胸の奥に燻っていたものが弾け、怒りへと姿を変え、少女を支配していた。
 目の前の存在は黙したままだ。胸倉を掴まれ身体を持ち上げられているというのに、抵抗の一つも無い。ただただされるがままでいた――唯一、視線だけはずっと逸らして。
 往生際悪く逃げようとする姿に、こんな状況でも己と会話をしようとしない姿に、三号は更に顔を歪める。胸のあたりに熱が集まっていく。喉が締められるような感覚。心臓が締め付けられるような感覚。波音ぐらいしかない空間だというのに、全ての音が遠くに聞こえるような感覚。視覚は逃げゆく青だけを感知する。
「なんか言いなさいよ!」
 掴んだ手を勢い良く引き寄せる。目の前の身体が電車に揺られたようにぐらついた。黄色い頭を飾る軍帽が滑り落ち、地面に当たって軽い音をたてる。それほどの勢いで揺さぶられているというのに、首元を締められているというのに、目の前のインクリングは一言も発さなかった。視線を合わせなかった。まるで、こちらの全てを拒否するように。否定するように。
 話す価値がないとでもいうのか。己には言葉を交わす価値などないとでもいうのか。思考は現状を拡大解釈し、最悪の答えばかりを弾き出す。己で導き出したそれに、頭の底がまた痛みを覚えた。ガンガンと叩かれるような、ジンジンと痺れるような感覚。凄まじいものだというのに、思考は機能を止めなかった。むしろ、焚き火に薪をくべたように勢いを増していく。マイナスへと突き進んでいく。
 ぐぅ、と喉が鳴る。数拍、硬く握っていた拳を解いた。己によって持ち上げられていた身体が落ち、椅子代わりのコンテナボックスに着地する。重い音が雪の世界に落ちた。突き飛ばされるのと同義の行為をされても、音が鳴るほどの衝撃を与えられても、目の前の存在は音を発しなかった。呻きも、不平も、憤怒も、悲哀も、動揺も、何もない。何とでもない、と主張するような姿だ。それがまた神経を逆撫でする。感情を逆撫でする。ふざけんじゃないわよ、と低い声が漏れた。
「死ね!」
 刺し殺さんばかりに睨みつけ、少女は今日一番の大声を上げる。項垂れた頭に罵詈雑言を叩きつけ、踵を返して走り出した。
 足跡の無い来た道を駆けてゆく。明るい世界から逃げるように足を動かし、生ぬるい空気と形容し難い臭いのする通路へと再び飛び込んだ。光が失せ、暗がりが身を包み込む。
 足に力を入れる度、空間を構成する金属が怒声めいた声をあげる。普段は顔をしかめる騒音だというのに、三号は気にする様子すら見せず全力で走った。
 もう二度と行くものか。『じーちゃん』とやらなど知らない。勝手に入れられた隊など知らない。あの三人の都合など知ったこっちゃない。もう二度と関わりたくない。一生会いたくない。記憶から存在を抹消したい。これだけのことをされて、もう顔を合わせようだなんて欠片も考えられるはずがない。
 金属の地面が悲鳴を上げる中、少女は走りゆく。大きな手には、いつぞや渡された銃が握られたままだった。










 蒼天色の目が白を見つめる。魂が無くなったようにぼやけたそれが、次第に元の色を取り戻していく。しばしして、はぁ、と酷く重い溜め息が吐き出された。身体が真っ二つに折れるように傾いていく。長いゲソが地面につかんばかりにだらりと垂れた。
「司令ー!」
 元気な声が背を叩く。緩慢な動きで振り返ると、そこにはこちらに駆けてくる一号の姿があった。後ろにはマイペースに歩く二号の姿も見える。きっと仕事を終えて戻ってきたのだろう。こんな場所ぐらい己一人でも守ることなど容易いというのに、二人はいつも仕事の合間を縫って訪れ寄り添ってくれた。それほど『じーちゃん』――アタリメ司令が心配なのだろう。
 わっ、と跳ねた声。目の前まで来た十字輝く金の目がまんまるになってこちらを見つめた。黒い手袋に包まれた手は膨らんだハリセンボンのように大きく広がっている。可憐な口はカラストンビが見えるほど丸く開いていた。
「服すごいことになってるよ?」
 心配げな、それでいて好奇心が隠せない声と視線が向けられる。一号の細い指が指す場所へと視線を移す。胸元は――三号に掴まれ引き上げられていた胸元は、酷い皺になっていた。灰色のトップスは乱れ、黒いインナーが大きく覗いている。ぼろきれを繋ぎ合わせたかのようなマントの一部はほつれていた。あー、と思わず煮え切らない声を漏らした。
「何かあったん」
 大きな唐傘を手に、二号は問う。問いの形をしていたが、こちらを見つめる月色の目は断定の光を宿していた。それはそうだろう、こんな姿で『何もありません』なんてことはあり得ない。あー、とまた意味の無い音を吐き出した。
「……バレちゃった」
 発した途端、乾いた笑みが込み上げてきた。はは、と漏れた笑声は酷く暗い。落ち込んでいる時のそれとよく似た響きをしていた。落ち込むようなことだったのか、と頭が驚愕の声をあげる。あの子にバレて落ち込むのか、己は。
 何が、と一号は可愛らしい目を丸くして問う。あぁ、と二号は小さく返す。垂れた眠たげな目が眇められる。呆れとも、怒りとも、どうにも表しがたい色をしていた。
「八号と電話してるの聞かれちゃってさー……」
 説明のつもりで続けた言葉は、明らかに言い訳の響きをしていた。下がった調子の音は、拗ねていると言っても相違ない。はは、とまた笑いが漏れる。息を吐き出しただけだというのに、気道を塞がれたような苦しさを覚えた。
 はぁ、とわざとらしい溜め息が聞こえた。蒲公英色が黒い瞼の奥に消え、帽子で飾った白い頭がふるふると横に振られる。隣の黄金色の瞳は、不思議そうにしろ時の間を往復していた。
「自業自得やね」
 二号の短い言葉が胸を刺す。正論中の正論が心臓を刺し貫く。濁った音が喉からあがった。面白がってそういうことするのが悪いんよ、と重い追撃まで飛んでくる。真正面から顔面に岩を投げつけられたような感覚に、司令は強く眉を寄せ目を伏せた。
「何の話?」
「三号に話してるところ見られたって」
「えー!?」
 疑問符にまみれた一号の声が驚愕へと変わる。くりくりとした目がこれでもかというほど見開かれた。大きく開いた口元に手を当てる姿は、信じられないと言わんばかりのものだった。
「あんなに隠してたのに!?」
 一号の言葉は純粋なものだった。ただただ純粋に疑問に思い、純粋に驚き、純粋な言葉で己の思考を表しているのだ。そこに悪意など一欠片もない。分かってはいるが、全てが己を責め立てているように聞こえて仕方が無い。また喉がおかしな音をたてた。
「で、今後どうするん」
 静かな声が混沌の場を切り裂く。向けた視線の先、二号は手遊びのように唐傘をくるりと回した。興味が無いとも見える仕草だ。実際は誰よりも未来を考えてくれているのだろうけど。
「……今後、あるのかなぁ」
 死ねって言われちゃったし、と司令は細く言葉を紡ぐ。事実を音にした瞬間、再び息苦しさを覚えた。何度目かの笑いが漏れる。乾ききったそれは、己で聞いても惨め極まりないものだった。
 一号は今一度目を丸くする。きらめく可愛らしい眼球がこぼれ落ちてしまいそうなほどだ。反面、二号は目を眇める。また溜め息を吐くのが聞こえた。
「でも、これは司令が悪いよ」
「やね。司令が全部悪い」
 常通りの透き通った声で一号は断言する。呆れ返った声で二号も断じた。喉がおかしな音をたてる。反射的に否定しそうになるが、そんな余地は残されていない。自業自得であることなど、己が一番理解していた。
 最初は威厳を示すためだった。己は声にも使う言葉にも緊張感なんてものは無い。自ら話してはただの陽気なインクリング、ただの子ども――という年齢はとうに過ぎ去っているが、客観的に見ても子どもと表現するのが正しい――と変わりない。『New!カラストンビ部隊の司令』という肩書には似つかわしくないものである。
 威厳のある声は無理でも、厳格な言葉は無理でも、それらしい表情なら何とか作り出すことができる。ならば、喋りは二号に任せて己はそれらしい顔をしていよう。そう決めたのは、ここに来てすぐのことだった。
 そのまま時は流れゆく。季節が移った頃、そろそろ話してもいいのではないか、普段通りに振る舞ってもいいのではないか、と二号が提案してきた。たしかに、季節が変わるほど共に過ごしたのだから、そろそろ彼女も己たちへの警戒心を緩めているだろう。毎回二号を通して言葉を伝えるのも手間だ。人となりを見せれば、彼女は更にこちらに歩み寄ってくれるかもしれない。的確な提案だった。うんうん、と頷いたことははっきりと覚えている。
 それを蹴ったのは、間違いなく己だ。
 だって、面白いじゃないか。『自ら喋らない謎の存在』を演じるのは骨が折れるが、面白いじゃないか。物言わねど存在感を放つミステリアスな存在なんて、面白いじゃないか。
 ただの好奇心だ。ただのいたずら心だ。このまま突き通したらどういうことになるのだろう、というただの興味だ。
 そうして変わらず口を閉じ、表情を殺して過ごし、二号の手を煩わせてきた。こんな粗末ないたずらと同義のことに付き合わされるなど、二号としてはたまったものじゃないだろう。本当にいいんやね、とあの日問うてきた声は冷え切っていたことを覚えている。それでも律儀に役割を果たしてくれたのだから、彼女は優しい。共犯じゃん、と醜い屁理屈をこねられないぐらい。
 それがこの有様である。さすがに永遠に隠し通せるとは思っていなかった。けれども、心のどこかでは何とかなるだろうと楽観的に考えていた。何とかなることなどなかったし、最悪の事態に陥っているのだけれど。
「どうしようかなぁ……」
 呟き、司令は落ちつつあった視線を空へと移す。ガラスか何かが張り巡らされた天井は、変わらず青空を映し出していた。晴れたる空は青い。こちらを殺さんばかりに見つめてきたあの目のように青い。あの海色には、もっと苛烈で激烈で燃え盛る何かが宿っていたのだけれど。
 死ね。
 刃物で刺し貫かんばかりの勢いと鈍器で殴りつけるような重さをしていたあの言葉を思い出す。腹の底からめいっぱい出したようなあの怒号を思い出す。感情を剥き出しにしてこちらを睨めつけたあの瞳を思い出す。ほんの数秒の光景だというのに、全て耳にこびりつき目に焼き付いていた。当分は剥がれずにいるだろう。
 どうしよ、と吐息めいた声が地に落ちた軍帽を撫ぜた。
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