No.209, No.208, No.207, No.206, No.205, No.204, No.203[7件]
爪の先まで全部全部【ライレフ】
爪の先まで全部全部【ライレフ】
Domに尽くすタイプのSubって可愛いじゃないすか(ろくろ回し)
自分で自分をダメにする準備するの可愛いじゃないすか(ろくろ回し)
そんな感じでDom/Subユニバース右左。Dom/Sub要素はだいぶ薄いけど……。
爪切りする右左の話。
パチン。パチン。小気味良い音がいくつも部屋に落ちていく。目の前に並んだ硬い白に刃が宛がい、握ったテコに力を入れる。パチン、と気持ち良いほど軽快な音と共に白が分かたれた。細かに角度を変えながら繰り返し、伸びてしまった目の前の爪を切っていく。爪切りが仕事する音だけが空気を揺らしていた。
リズム良く動いていた手が止まる。眼前に持ち上げられた足をそっと支え直し、烈風刀は爪切りを閉じる。今度は傍らに置かれたヤスリを手に取った。切ったばかりの足の爪に添え、少年は細かい動きで柔らかな線になるよう削っていく。刃がどれだけ細かく丁寧に仕事しようとも、直線的に切る以上鋭利な部分はどうしても生じてしまう。そこが皮膚に引っかかって傷を付けてしまったら大変だ。きちんと丸く、美しくせねばならない。己に課された――己が己であるための使命だった。
かすかな音をたてて爪が削られていく。操る手は薄いガラスを扱うかのような繊細な動きをしていた。ヤスリが皮膚に当たって怪我をさせては本末転倒だ。当然である。丁重に動く手によって、少しばかり見えていた角はどんどんと消え去っていく。柔らかなカーブが足先に戻っていった。表面にも軽く掛けてツヤを出していく。足を人に見せる機会はなかなかないものの、やはり美しいに越したことはない。丁寧に、優しく、細やかに。剣胼胝がまだ残る手が道具を操っていく。
両足全てを処理し終え、碧は目の前、支えていた足をそっと離す。持ち上げられ続けていた足は優しく床に着地した。
「ありがと」
いいこ、と雷刀は目の前に座ったパートナーの頭を撫でる。大きな手が、まだ乾かしたばかりでふわふわとした浅葱の海を滑っていく。たったそれだけで、真剣な眼差しをしていた冷たい海色が一瞬でとろけて甘い色を灯した。ん、と鳴き声のような音が紅色で飾られた喉からあがった。
「まだ手が残っていますよ」
はっと瞠られた目が何度も瞬き、元の澄んだ色に戻っていく。道具一式を手に、烈風刀は床からソファへと移った。へーい、と気の抜けた声と共に目の前に手が差し出される。添えるように握る動きは、恭しさすら感じさせるものだった。
また爪切りで手の爪を切っていく。パチン、パチン、と軽い音が二人の間に積もっていく。できるだけアーチを描くように切り、時折破片を捨て、少年は伸びたそれを処理していった。
「短めにおねがいな」
「はいはい」
兄の言葉を、弟は軽くあしらう。毎回言われる、分かりきったことだ。言われずともこなしていた。深爪にならないよう気をつけながら、烈風刀は慣れた手つきで白い部分を切り取っていく。足に比べて薄いそれはすぐに整えられた。今度は足よりも時間を掛けてヤスリをかけていく。身振り手振りの大きな彼のことだ、少しでも尖っていては自分を、他人を引っ掻いてしまうかもしれない。入念に整えるべきであった。
それに、と碧は手を動かしながら考える。この指は、己のうちがわの柔らかな部分に触れるのだ。引っ掻けるほど長くては、内臓を傷付けてしまう。それは互いに避けたい事態であった。だからこそ毎回『短めに』と言うのだろう。何度も、必ず。
それだけ想ってくれているという現実に、それだけ身体を重ねているという事実に、少年の頬に色が宿っていく。顔が、腹の奥が熱を持ち始めたのが己でも分かった。小さく深呼吸し、少年は手元に意識を集中させる。邪念を振り払うように手を動かした。
全ての処理を終え、ようやくヤスリが手から離れていく。少し角張っていた爪は綺麗に整い、明かりを受けてぴかぴかと輝いてすら見えた。達成感と満足感に、知らず知らずの内に結ばれていた口元が綻ぶ。気付かれないよう軽く顔を伏せ、碧は使い捨てのそれと切った爪をティッシュでまとめる。包んだ手は中身がこぼれ落ちないように受け止めながら、白をゴミ箱に捨てた。これで爪切りは全て終わりだ。
「やっぱ烈風刀がやるとキレーだなー」
電灯に透かすように手を掲げ、雷刀ははしゃいだ様子で爪を見つめる。どうやらきちんと仕事をこなせたようだ。開いて、握って、朱は恋人によって綺麗に整えられた爪を眺める。夜だというのに茜色の瞳は輝いていた。
「烈風刀」
名を呼ぶ声。視線を向けると、そこにはこちらに向かって腕を大きく広げる兄の姿があった。ん、と機嫌の良い声と共に更に腕が広げられる。目元は穏やかに弧を描きながらも、その奥に光を宿している。どこか陰ったような、ギラつくような、鋭さすら見せる光が。
誘われるがままに、射貫かれるがままに、弟はソファに乗り上げる。普段ならば行儀が悪いと言ってやらない行動だ。けれども、今ばかりはこうするのが当然だ。求める人に呼ばれて最適解を選ばない理由など無い。
鍛えられた身体が傾き、広げられた腕の中に飛び込む。すぐさま手が動き、迎え入れたこの身をぎゅうと抱きしめてきた。抱き留めてくれたその身体に碧は腕を回し、少しだけ力を入れて抱き締める。焼けていない肌を飾る首輪が小さく音をたてた。
「いつもありがとな」
いいこ、いいこ。歌うように、唱えるように、まじなうように雷刀は言葉を繰り返す。あやすように背を叩く手が萌葱の頭に添えられ、なぞるように撫でた。頭を撫でられる感覚が、耳に注ぎ込まれる言葉が、身体を包み込む温度が、隅から隅まで染みこんで己というものを溶かしていく。ん、と鼻にかかった情けない声が漏れ出る。常ならば羞恥を覚えるところだが、今ばかりはどろどろにされるような喜びが勝った。与えられる全てが甘くて、心地よくて、きもちいい。シロップにでも漬け込まれたらこんな心地がするのだろうか、なんて馬鹿なことを考えた。
えらい。すごい。そんな言葉が耳から脳味噌を溶かしていく。透き通った藍晶石が炙られたようにとろけ、つややかに輝いた。どういたしまして、と烈風刀はなんとか言葉を返す。その声には普段のような芯など無く、やわくとろけた響きをしていた。当然だ、Domに褒められてまともな頭を保っていられるわけがない。
頭を撫でていた手が自然な動きでうなじへと下っていく。うっすらと水気が残る生え際を撫で、使い込まれてなお輝く首輪を撫で、広い背中を撫でていく。指先が何度も触れるも、爪が当たる痛みなどない。短く切り揃えたそれは誰も傷付けないのだ。だというのに、手が動く度に碧の身体は震える。背筋を電流が駆け上がっていく。だからこそ、雷刀、となんとか咎める音色で名前を呼んだ。
微細な快楽をもたらすそれが行き着く先がどこなのかなど分かっている。どこに触れて、暴いて、ぐちゃぐちゃにするかなど想像に容易い。けれども、それにはまだ早いのだ。まだテレビが愉快なドラマ番組を流すような時間である。深く触れあうにはまだまだ早い夜だ。そもそも、ここはリビングである。寝室以外で『そういうこと』をすると後が面倒くさいことは二人とも経験しつくしているのだ。時間と場所を限るのは、暗黙のルールのはずである。
想像に容易い。だからこそ、身体が、うちがわが熱を持つ。この切り揃えられたばかりの手が何をするのか、何をされるのか。いつだって、爪切りが終われば己の全てをつまびらかにされるのだ。知っているからこそ、この行為が好きでたまらない。尽くす喜びも褒められる喜びももちろんだが、頭からつま先まで愛を注がれ支配される未来を確約されるのがたまらなかった。
へーい、と拗ねた声が耳の真隣で聞こえる。抗議するように、兄は弟の背を何度か叩いた。先ほどまでの艶のある動きは消え、ただただ慈しみとじゃれる幼げだけがある。普段の彼らしい姿であった。
その手が己を全部開いて晒してめちゃくちゃにするのだと考えて、腹の奥底が疼いた。
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過ぎ去る色に思い馳せ【ヒロニカ】
過ぎ去る色に思い馳せ【ヒロニカ】
色気より食い気なニカちゃん存在しろという願望。ニカちゃんにドキッとしちゃうヒロ君存在しろという願望。都合の悪いところは全部都合が良いように捏造してる。
屋上から桜を眺めるヒロニカの話。
高い音とともに風が吹き去っていく。春風にしてはあまりにも勢いの良いものだった。途端、白いものが視界をひらめく。小さなそれは宙を気ままに漂った後、コンクリートに淡い桃色を残した。
一部始終を追っていた赤い目が、風が吹いてきた方へと向けられる。無軌道に動く丸い瞳に映ったのは白く高い建物の群れ、その根元に広がるピンクの海だった。
「桜咲いてますね」
「えっ? マジ?」
ヒロの言葉に、ベロニカは声をあげる。ヒラメが丘団地、そのリスポーン地点にある欄干に足掛け半分身を乗り出し、少女はあたりを見回した。危ないですよ、と慌てて言うも、欠片も聞こえていない様子だ。月のような黄色い目はよく動いて世界を見渡していた。
「おー。マジだ、咲いてんな」
「すごいですね」
乗り出しすぎないよう注意しながら、少年ももたれかかるように欄干に手をかける。丸いミモザとサルビアの中、揺れてさざめく桃が舞う。またぶわりと吹いてきた風が、下から花びらを巻き上げた。おわっ、と跳ねた声と同時に、ブーツがコンクリートを叩く音が昼下がりの空に響いた。
「実家の周りもこんな感じだったなぁ」
「そうなんですか? ちょっと羨ましいですね」
呟くような声に、ヒロはどこか間延びした声を返す。穏やかなそれは、春の陽気によく似ていた。
地元は建物が並ぶばかりで、自然とはあまり縁が無かった。街路樹は植えられていたものの、ほとんどがイチョウだったのだ。色鮮やかな秋は飽きるほど見てきたが、明るくひらめく春を感じたのはバンカラ街に引っ越してからである。味気ない緑に囲まれた己にとっては、幼い頃から春の象徴ともいえる美しい花を見られたという彼女の環境に羨みを覚えてしまう。桜咲く春というのはちょっとした憧れなのだ。
また風が吹く。高い建物にぶつかったそれは壁を駆け上がって、屋上へと猛突進してくる。身を任せた花びらも、同じスピードで空へと駆け上がった。真っ向から顔に風を受け、小さな桃に鼻をくすぐられ、少年は軽く仰け反って欄干から手を離した。これだけ風が強いのだから、これ以上見るのは危ないかもしれない。現に、彼女は一度地に足をつけたのだ。そろそろささやかな花見をやめ、街に戻るべきだろう。
「ベロニカさん、そろそろ――」
戻りましょうか、と問いかける声は不自然に途切れた。言葉を紡ぎ出す口は、開閉する機能を忘れて間抜けに半分開いていた。
隣に並ぶベロニカは、依然眼下の桜を眺めていた。くりくりと丸い、時には鋭く光る目は少し細められている。キリリとした力強い目尻は、今は少しだけ下がっているように見えた。ハキハキと指示を飛ばす口は今は閉じられており、けれども少し綻んでいるようにも映る。どれもが穏やかで、だがどこか寂しげで、散りゆく桜のように儚げで、芽吹く春のように美しい。いつだって鋭く、格好良く、誰もを魅了する彼女からはとても想像できない――否、よほど近くにいないと見られない表情だろう。少なくとも、己には。
喉がきゅうと細くなる感覚。胸がぎゅうと握り締められるような感覚。苦しい心臓が、大きな音をたてて拍動する。身体の真ん中から何かが込み上げてくるも、喉に詰まって何も生まれない。紅玉はただただ、穏やかな光を灯した琥珀を見つめるばかりだ。
「何で普通に生ってるさくらんぼってあんなにまずいんだろうな」
ふっと小さく息を吐き、インクリングはまるで歌うように言葉を吐き出す。嘲笑にも似た響きだが、そこにはどこか純朴な幼さが見える。眩しそうだった目元は、今は伏せられていた。
へ、とオクトリングは気が抜けた声を漏らす。あんなに美しい横顔は、あんなに儚げな表情は、全てさくらんぼへと向けられたものだったようだ。あまりにも不釣り合いで、あまりにも彼女らしい。やっと喉が音を発する機能を思い出したぐらいには衝撃的なのだけれど。
「……食べられるように品種改良されてないからでしょうか」
「あー、たしかにな」
おそるおそるといった調子で返すと、よく通る声が大きな口から発せられる。先ほど見せた何もかもなど消え去った、すっきりさっぱりといった響きをしていた。
「言ってたら食いたくなってきたな。ザトウ行くか」
「え? あ、はい。そうですね」
振り返って笑うベロニカに、ヒロは少し高い声を漏らす。それもすぐに元通りになり、穏やかでなめらかに言葉を紡いだ。
ヤガラ市場もいいかもしれません。あそこフルーツめっちゃあるもんな。そんな言葉を交わし、少年少女は団地を後にする。桜をまとった風はその背中を押していった。畳む
日曜朝はテレビの前で【嬬武器兄弟】
日曜朝はテレビの前で【嬬武器兄弟】
公募アピカネタだけどオニイチャンタテレンジャー見てるんだよなぁと考えた結果がこちら。私が最近特撮見てる影響なのは内緒。
テレビの前に集まる嬬武器兄弟の話。
休日に似つかわない騒がしい足音が遠くで聞こえる。すぐさま乱暴にドアが開け放たれる音がリビングに飛び込んできた。
「寝坊した!」
おそらく寝起きであろう雷刀の叫びが聞こえる。うるさい足音と情けない声がどんどんと近づいてくる。パーカーに包まれた腕が、ローテーブルに置かれたままのリモコンを引ったくった。不必要なほど力強くボタンを押し、テレビの電源を入れるのが横目に見える。暗かった液晶画面に一瞬で光が宿り、静かだったスピーカーから派手な爆発音が鳴り響いた。
忙しない様子に眉をひそめることすらなく、烈風刀はコーヒーを一口飲む。淹れたばかりで熱いぐらいのそれが口内を満たしていく。苦みが舌の上に広がり、香ばしい香りが鼻を抜けた。
相変わらずドタドタと動いていた兄は、ようやくソファに腰を下ろす。勢い余ったそれは、己が座る座面まで跳ね上げた。カップの中の黒い湖面が波立つ。眉間に小さく皺が寄った。
またマグに口を付けながら、弟は密かに隣を見やる。寝起きはいつもぼやけた朱い瞳はぱっちりと開き、いつもの輝かしい光を灯している。視線はまっすぐ真ん前、テレビへ画面と向けられていた。拳を握って眺める様はまさに釘付け、首ったけと言うのが相応しい。
碧い目も液晶画面へと向けられる。二人暮らしには少しばかり不釣り合いな大画面には、今まさに変身ポーズを取るヒーローの姿が映っていた。偉丈夫がまばゆい光に包まれ、真っ赤なスーツ姿へと様変わりする。手を天に突き出しポーズを取った彼は、タテレンジャーレッド、と名乗り上げた。
ツマミ戦隊タテレンジャー。
今まさに放送されているのは、突如この夏から始まった特撮番組だ。きっと同時期に追加された楽曲の影響だろう。この世界はネメシスの影響で何でもかんでも起きる世界なのだ。楽曲の名を冠した特撮番組が始まるぐらい、エイプリルフールに一晩でマンションが生えてきた時よりずっとマシである。
そのヒーロー五人組に、兄である雷刀は虜になっていた。流れるように鮮やかな変身ポーズ、鬼気迫る迫力満点の肉弾戦、生身かCGが区別が付かないほど派手なアクション、そして豪快に怪人と戦う巨大ロボット。所謂『男の子』を魅了する要素ばかりが詰まっているのだ、同年代より幼げたっぷりな兄が虜になってもおかしくはない。
盛大な爆発音が値段以上に高品質なスピーカーから流れる。場面は巨大化した怪人と合体ロボットの対決へと移ったようだ。怪人の、ロボットの一挙手一投足で街が――架空の街を模したミニチュアだろうが――派手に壊されていく。本当にこれが正義のヒーローなのだろうか、と少年は眉をひそめた。隣で見入る子どもめいた高校二年生は、いけー、と拳を突き上げ応援しているが。
またマグの中身を飲む。少しばかりぬるくなったそれは、まだ薫り高い。ちびちびと口を付けながら、烈風刀もまた画面に視線を向ける。必殺技がハーモニーを奏でて叫ばれ、ロボットがエフェクトをまといながら派手なアクションを繰り広げる。怪人の叫び声と爆発音がリビングに響いた。また街が壊れる。
ロボットから降り変身を解いたヒーローたちは、口々に労りの言葉を投げかける。しかし、ブルーとブラックは不自然なほど互いを避けていた。前回の放送で二人の過去の確執が判明したのだ。深い深いその溝は、一話や二話で解決するはずがないだろう。されるとしても次週だ。下手をすれば今クールの最後まで引きずる可能性もある。
「面白かったー!」
エンディング楽曲が流れる中、雷刀が声をあげる。大きく伸びをしているのが視界の端に映った。タテレンジャーの放送はもう終わるが、テレビを消す様子はない。次の三十分も正義のヒーローが戦う特撮番組があるのだから当然だろう。タテレンジャーをきっかけに、兄は特撮番組にすっかりハマっていた。買い物帰り、変身アイテムが売られるおもちゃ売り場に吸い込まれていきそうになる彼を引き留める羽目になっている程度には。
烈風刀はマグを傾ける。ぐっと飲み干し、席を立った。同じく飲み干したのだろう、兄も後ろから付いてくる。湯を沸かしている横で、食パンをトースターに突っ込む彼が見えた。
「食べてから見た方がいいんじゃないんですか」
「今日は寝坊しちまったからしかたねーだろー」
ドリップコーヒーを用意しながら、弟は小さな棘が生えた言葉を投げる。少しむくれた声が返ってきた。オレの分も淹れといて、と都合のいい言葉と共にマグカップが隣に置かれた。自分でやってください、とコーヒーのパックを上に置く。カチン、と湯が沸いたとケトルが知らせてきた。トースターも一緒に高い鳴き声をあげる。
タテレンジャーの放送が開始してから、兄は休日でも午前中に起きるようになった。何年も何年も休日は昼過ぎまで寝ていたあの彼が、である。大きな進歩だ――その進歩に関わっているのが子どもがターゲット層の特撮番組というのが何とも言い難い気分になるが。
もう少し早く起きてくれれば、一緒に朝食を食べられるのだけど。碧い少年はあり得ない風景を夢想する。タテレンジャーの放送は午前が終わる少し前の時間だ。平日通り起きる己の起床時間とは、確実に被ることがない。過去は朝早くの時間に放映していたと聞いた時は、何だか惜しい気持ちになってしまったのは秘密にしておこう。
「烈風刀ー、はじまっぞー」
いつの間にかテレビの前へと移動した兄が呼ぶ。はいはい、とマグカップ二個手にしながら、弟はソファへと向かった。
ビビッドカラーで彩られた画面には、オープニング曲のサビと共に大技のキックを決めるヒーローの姿が映されていた。
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二人で一緒に作りましょ【ヒロニカ】
二人で一緒に作りましょ【ヒロニカ】
ハッピーバレンタイン!!!!!!!!!!!!
バレンタインにチョコレートを作るニカちゃんは見たいがニカちゃん宅に機材があると思えなくない?の結果がこちらになります。ヒロ君はきっと親が良い機材買っときなさいと持たせてくれてるから揃ってるタイプ。都合の悪いところは都合の良いように捏造してる。
チョコを作りたいニカちゃんとチョコを作るヒロ君の話。
低い音がキッチンに響く。特徴的な扉の向こう側は、オレンジの光で満ちていた。その中央にはいくつもの丸っこい容器が横たわっている。黒に近い茶が流し込まれたそれは、光を受けてつやつやと輝いていた。
「あとは焼けるまで待つだけだな」
「……あぁ。えぇ、そうですね」
達成感に満ち溢れたベロニカの声に、どこか遠くに飛んでいた意識が現実に引き戻される。口から出たのは、何とも言い難い生返事だ。あぁ、とヒロは内心で頭を抱える。これだけ行動してくれた彼女に投げかけるには、あまりにも不誠実な声だった。
「どした? 腹減ったか?」
「いえ。楽しみだな、と」
「そーだろ?」
にひ、といたずらげな、それでいてとびきり可愛い笑顔がこちらに向けられる。あまりの眩さに、少年は目を細める。強い光に耐えるようにも、愛おしさに満ちあふれているようにも見えた。
バレンタインにやる菓子作りたいから台所貸してくれ。
ベロニカにそう言われたのは昨日、二月十三日のことだった。
曰く、たまには手作りのなんかをやりたい。曰く、ネットでレシピ探しても美味そうなやつはオーブン使うレシピばっか。曰く、うちに予熱できるオーブンもトースターも何もない。だから道具が揃っているヒロんとこの台所貸してくれ、と。
混乱の渦に飲まれたのは言わずもがなである。何しろ、付き合っている女性からバレンタインのチョコレートを渡すのだと面と向かって、これ以上になくはっきりと言われたのだ。しかも、これだけのために手ずから作ってくれるのだ。その上、己の家で作る。つまるところ、バレンタインを二人きりで、しかも己の部屋で過ごすということである。思春期の心が受け止めきれるはずがない。
そんな突然。何でそこまで。というか事前に渡すこと本人に言っちゃってもいいのか。湧いて出る言葉がぐるぐると頭の中を巡ってぐちゃぐちゃにしていく。全ては、ダメか、と首を傾げて問われた瞬間吹き飛んだ。口から出たのは『はい』の二文字だけである。
そうして両手いっぱいの材料を買い込んだ彼女が部屋を訪れたのが早くの時間のこと。二人でレシピ、機材の確認をし取りかかったのはどれほど前だろう。慣れない計量や予定外の温度調整、飛び散る薄力粉やナッツ類の破片との格闘、オーブンの取扱説明書の再確認、安物の脆い型の相次ぐ破損と重労働をこなし、やっと焼成に辿り着いた今に至る。
思い返しただけで溜め息が漏れそうになるのを、ヒロはぐっと堪える。互いに一人暮らし故に料理経験はそこそこあれども、菓子作りなどこれが初挑戦である。インターネット曰く『初心者さん向け』『簡単お手軽』レシピだというのに、計量ミスや行程ミス、そもそも初めてのオーブン機能仕様による不慣れさが重なりどれだけかかったか時計を確認することすら怖い有様だ。焼き上がりを待つ今すら、あんな高温でも本当に焦げずに焼けるのか不安で仕方ない。当の本人であるベロニカはもう安心しきった様子だが。
そわり、と少年の背を何かが撫ぜる。そうだ、ベロニカが、愛しい恋人が己のためにバレンタインのチョコレートを作ってくれたのだ。彼女が初めて自分のために作ってくれたのだ。気分が浮き立たないはずがない。激務から解放され、余裕を取り戻した心は世間一般でいう甘い状況を認識してそわだつ。今更になって鼓動が大きくなったように思えた。
「焼けるまで漫画読んでていいか? こないだ途中で帰っちまったし」
「え? あ、あぁ、いいですよ。どうぞ」
サンキュー、と弾む声と軽い足取りで少女はキッチンを出て行く。オーブンの前に一人取り残され、恋人であるオクトリングは数拍置いて、えぇ、と小さく声を漏らした。
バレンタインである。しかも恋人の部屋に二人きりである。ここはもうちょっと、なんか甘いあれが、恋人っぽいイベントがあるのではないだろうか。いや、二人で一緒にお菓子作りなんて恋愛ゲームにありそうな甘いイベントではあるけれど。でも。
浮き足立った心が行き場を無くして世界を彷徨う。縋る場所が無くて一人彷徨う。ようやく落ち着いたところで、やっとここにいても仕方ないということに思い至った。オーブンの様子をつぶさに見る必要は無い。部屋に戻らねばならない。けれども、戻ったところで恋人は漫画に夢中で自分などほったらかしだ。邪魔をすれば手痛いなにかしらが飛んでくるのは明白である。一人で過ごすしかないのだ。恋人と一緒なのに。バレンタインなのに。
叫び出したくなる喉を押さえて、少年はどうにかこらえる。二人でいても一人一人で行動するのはいつものことではないか。バレンタインだからって意識しすぎだ。いつも通り過ごして、焼けた菓子を食べればいい。それだけで幸せではないか。言い聞かせるように一人大きく頷き、ヒロは部屋に続く扉に手を掛ける。オーブンの唸り声に、ノブの鳴き声が混じって消えた。
「もう結構匂いすんのな」
背でドアを閉めたところで、声が、視線が飛んでくる。大好きな音の方へと目をやると、ラグの上に寝転がったベロニカがこちらを見上げていた。手には漫画本が一冊、脇には五冊ほど積んである。断り通り、既に読み始めているようだ。
「あー、確かに結構しますね」
つられて鼻を動かしてみると、確かにチョコレートの強い香りを感じた。流し込んだ時点では近くにいてようやく鼻先をかすめる程度だった甘さが、今では板一枚隔てていても存在を感じる。きっと、今し方己と一緒に入ってきたのだろう。火を受けた生地は、それほどまでに香りを誇っているということだ。
「というかドア貫通してねぇか?」
「そんなことは……無いと思いたいんですけど……」
少女はすんすんと鼻を鳴らして首を傾げる。部屋の主は不安げに返した。本当ならばあり得ない、と言い切りたいが、生憎ここは家賃の安さが取り柄の古いアパートである。キッチンと部屋の扉に匂いを通すほどの隙間があってもおかしくはない。普段は気にしない部分なだけに不安が残る。
「早く焼けねーかなー」
漫画ならばウキウキというオノマトペがぴったりな音色で少女は呟く。彼女も同様に浮き足立っているのだ、と思い至り、また心臓が大きく動き出す。否、おそらく甘いお菓子を食べられるのを楽しみにしているのだろう。でも、作りに行きたいと、作りたいと言ったのは誰でもない彼女ではないか。けれど。でも。青い頭の中にまた言葉が積み上がっていく。少しばかり臆病な性格がそれに腕を突っ込んでぐるぐるとかき混ぜた。
漫画を読みふける恋人から少し離れ、ヒロはベッドに腰を下ろす。尖った指先が少し宙を彷徨って、ローテーブルの上に置かれたタブレット端末を取った。ロックを解除してブラウザを立ち上げる。記事、動画、バトルメモリー、プロ選手のSNS投稿。世には情報が溺れんばかりに流れている。時間を潰すのにはもってこいだ。今日も今日とて、上達のコツを求めインターネットの海へと飛び込んだ。
チーン、とどこか間抜けな高い音が遠くから聞こえた。はっとタブレットから顔を上げ、音の方を見やる。磨りガラスの向こうに見えていたはずのオレンジの光は今は無い。キッチンに続く扉の向こう側は、いつも通り薄闇に包まれていた。同時に、鼻孔を香りが刺激する。砂糖、バター、ナッツ、そしてチョコレートの甘い芳香は、意識を現実に引き上げるには十分の力を持っていた。
「焼けた!」
ほぼ同時に、弾みに弾んだ声が床から上がる。視線を移した頃には、そこにはもう積み重なった単行本しかいなかった。代わりに、バタバタ、ガチャン、と騒がしい音が部屋を走って飛んでいく。ヒロも慌てて立ち上がった。
ほんの数歩で辿り着くキッチンへ続く扉は開け放たれていた。急いでくぐり抜けると、そこにはオーブンの扉に手を掛けるベロニカの姿があった。暖房の効いた部屋に浸っていた頬はうすらと上気し、真ん丸になった瞳は夏の日差しを浴びる向日葵そのもののように輝いている。いつだって不敵な笑みを浮かべる口元は、今は高揚しきって薄く開いていた。
「ヒロ! 鍋つかみどこだ!」
「これです!」
ばっと振り返った少女が問う。すぐさま、壁に掛けてあった鍋つかみを投げて渡した。片手で取ったそれを急いではめ、インクリングはオーブンの扉をひっ掴む。ガチャン、と盛大な音と、華やかな香りがキッチンに響き渡った。鍋つかみに包まれた手が天板をひしと掴み、真っ暗になった庫内から引き抜く。現れたそれに、黄と赤が吸い寄せられた。
鉄の天板の上には、丸く背の高い型に入った茶色が並んでいた。入れる前までは容器の半分まで満たしていなかったチョコレートマフィンは、大きく膨らんで型からぶわりと飛び出して背を伸ばしている。真っ平らにしたはずの表面はもこもこと入道雲めいて膨らんでいた。焼けてつやつやとした表面はいくらかひび割れ、中に混ぜ込んだナッツが顔を覗かせている。頑張って粉砕した白いそれは、黒い生地の中で星のように輝いて見えた。
わぁ、と感動と歓喜で飾り付けられた声が二つ重なる。二つのキラキラとした視線を受けながら、天板はシンク横の作業台へと下ろされた。暖房が無く冷えたキッチンに、小さな湯気がいくつも昇っていく。
「成功だよな!?」
「成功ですよ!」
満面の笑みで問うベロニカに、ヒロは同じほどはしゃいだ声で返す。大きな口がニッと笑み、四角張った大きな手が高く上げられる。すぐさま尖った手も上げられ、ハイタッチをした。いぇーい、とはしゃぎきった声がほの寒いキッチンに重なって響く。
「あとは冷ますんでしたっけ」
「みたいだなー」
キッチンに置きっぱなしにしていた携帯端末を二人で確認する。開きっぱなしだったレシピページには『粗熱を取って完成!』と記してあった。意外な工程に少年は首を傾げる。料理は何だって出来たてが一番美味しいはずだ。現に、似た材料のホットケーキは焼きたてが一番美味しい。なのにわざわざ冷たくしてしまうとはどういうことなのだろう。本当に必要な過程なのだろうか。疑問はあれど、なにぶん菓子作りは初めてなので分からない。
「なぁ」
分からないなら素直に従っておくべきだろう、と一人頷いたところで、隣から声が投げかけられる。珍しくどこか遠慮がちな響きに、オクトリングはぱちりと瞬いて音の方へと顔を向ける。たんぽぽ色の綺麗な瞳と視線がかちあった。見つめるそれは、時折マフィンの方にも向けられる。口元は好奇心を抑えられない子どものようにどこかむにむにと動いていた。
「もう食べてもよくねぇか? 料理って出来たてが一番美味ぇだろ?」
訊ねる声は打開を始めるタイミングを見つけた時のような高揚感と期待に溢れていた。どうやら、彼女も同じ疑問と考えを持っていたようだ。可愛らしさと喜びに、ヒロは頬を緩める。えぇ、と自然と言葉がこぼれ落ちた。
「僕もそう思ってました。食べちゃいましょうか」
「よっしゃ!」
ぱしんと手を打ったベロニカは早速マフィンに手を伸ばす。両手で一個ずつ引っ掴み、片方をこちらへと差し出した。ほら、と喜びに弾んだ声が、喜びに輝く笑顔が真っ向からぶつかってくる。跳ねる心臓をどうにか御しながら、ありがとうございます、と小さなカップを受け取った。
焼きたての熱さに少し手を焼きながら、二人でマフィンにかぶりつく。焼きたてで柔らかな生地はすぐに噛み切ることができた。口の中に広がったのは、まずチョコレートの芳醇な香りだ。追随するように、舌の上を少しだけ強い甘みが駆け抜けていく。時折当たるナッツの硬い歯触りが嬉しい。初めての菓子作りとしては大成功だろう。うぅん、と思わず漏れた感嘆は重なった。
「美味ぇな!」
「はい! すっごく美味しいです。ちゃんとできてよかった……」
「あぁ、ほんとよかった……」
食べた限り、生焼けにはなっていないのだから本当に大成功だ。よかったぁ、と二人で安堵の声をあげながら菓子を食べていく。手の平に載るそれはすぐに胃袋の中に収まってしまった。ごちそうさまでした、と呟いて、ヒロは剥きながら食べて破けたマフィンカップを小さく畳んでいく。鼻に抜ける息はまだチョコレートの甘みが残っている気がした。
「なぁ、ヒロ」
名前を呼ばれ、少年ははい、と応えて声の主に視線を向ける。また月色の瞳と視線がばっちりとぶつかる。真ん丸で綺麗な目には、どこか不安げな、それでも喜びを隠しきれない色が浮かんでいた。あのさ、と手入れされ整った唇が曖昧に開かれる。うっすらと端っこが持ち上がって、小さな笑みを作り上げた。
「悪ぃけどラッピングとかはそういうのはあたしにはできねぇからさ。……こんままでも受け取ってくれっか?」
ベロニカははにかんで問うてくる。いつだって勝ち気に上がった眉は今は少しだけ垂れていて、少し焼けた健康的な頬はうっすらと紅色で彩られている。細められた金色は、暖かな光を灯して揺れ動いていた。
手に持っていたゴミが手入れされた床に落ちる。それに気付いた時には、目の前の手を両手で握っていた。ぎゅっと、グリップを握る時ぐらいぎゅっと強く荒れていない手を握り締める。うぉ、と驚きに跳ねた声が二人きりのキッチンに落ちた。
「もちろん! ありがとうございます!」
頬を紅潮させ、赤い目を輝かせ、大きな口をめいっぱい開いて、ヒロは叫ぶ。これ以上にない歓喜が声に、顔に、心に満ち満ちる。嬉しすぎて何もかもが破裂してしまいそうな心地だった。自然と頬が緩んでいく。溶けるように目が垂れていく。そんなのみっともないと分かっていても、今ばかりは表情筋をコントロールすることができなかった。
「……うん。こっちこそ、あんがと」
丸くなっていた太陽色の目がうっそりと細められる。カラストンビが覗く大きな口からとろけた声がこぼれ落ちる。彼女の感情全てを表していた。
「あっ、でも僕が全部食べるのは悪いですよね……。ベロニカさん、半分持って帰ります?」
「いいのか? ヒロのだぞ?」
「作ったのはベロニカさんでしょう。作った人が全然食べられないのはもったいないですよ。こんなに美味しいのに」
ね、と少年は笑いかける。しばしして、うん、と元気な声が返された。
キッチンを漂う甘い香りに、幸せに満ちた笑い声が加わった。
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あの青はどこにも【ワイ→エイ】
あの青はどこにも【ワイ→エイ】
本誌を読んで脳を焼かれた結果がこれだよ!!!!! 何でおらんねんお前!!!!!!!!
ということで何があったのかという妄想。こうだったらいいのにな。都合の悪いところは全部都合良く捏造してる。
いつもいたはずのあいつを探すワイヤーグラスくんの話。25年2月号までのネタバレ含む。
エイトがいない。
否、正確に言えば『見つからない』だ、とワイヤーグラスは考える。大昔に交換した連絡先全てを使っても、出る度街を見やっても、どこにもいない。彼のことだ、野良試合を観戦しているだろうとステージに赴いてみても、あの青は影すら見せない。真剣に試合模様を見つめる赤はどこを探しても見つからない。
バンカラごちゃまぜキング杯。
突如発表されたそれは、バンカラだけに収まらず、ハイカラまで巻き込んだ大イベントだ。全ルールを制した、イカした者を決める――強者を決める大会。バンカラに名を轟かせる戦いだ。
そんな絶好の大舞台に立たない理由など無い。強さとは変動するものだ。トップに立っていれど、今後強豪が出てこないなんて道理はない。事実、突如現れたブルーチームには敗北を喫したのである。『強者』が揺るぎのない事実であるわけではないことは、既に証明されてしまっているのだ。
新たに現れる実力者を潰して回るのは――己が誰よりも『強者』であることを知らしめるのは、いつだって必要なことである。新バンカラクラスでの動きがそうだったように。
ならば、とチームに了承を取り、解散した新バンカラクラスの面々に連絡を取った。強さを求める者に、強者であろうとする者たちに、強さの末に君臨する者たちに。
元々好戦的なヒトの集まりだ。皆が一も二もなく乗った――ただ一人、連絡がつかないエイトを除いては。
新バンカラクラスを解散してからというものの、彼の姿を見ていない。あれだけ『強い』と噂される者に挑み、その実力を誇示し、ブラックラベルでブキを封じていた彼の姿はどこにもない。不気味なほど、まるで最初からいなかったかのように、どこにもいない。見つからない。
そもそも、新バンカラクラスを解散してからは連絡の類を取っていなかった。それは全員に言えるが、今回繋がらなかったのはエイトのみである。一人戦いを挑みブラックラベルを貼ってまわりと律儀に活動していたのに、この時分の連絡に答えないなど彼らしくもない。最強を決める戦いに、あの男がやってこないはずがないのだ。誰よりも強さに固執していた者が。誰よりも強さを誇示していた者が。誰よりも強くあろうとしていた者が。
ワァ、と歓声があがる。気だるげに視線を上げ、ワイヤーグラスは広い観客席を挟んで随分と遠くなったステージを見やる。ゴンズイ地区の細い立体通路では、撃ち合いが行われていた。互いに味方は全員落ち、最後の一人だ。残り時間はわずか四十秒。この撃ち合いを制した者が勝利を掴むだろう。
.52ガロンがシールドを展開する。機動力を活かしてドライブワイパーが回り込む。短い音をたて、ドライブワイパーが溜めに入る。させまいと、.52ガロンのインクが細い身を捉える。
ワイプアウト。
瞬間、観客が沸き立った。歓声が、悲鳴が、怒号が、快哉が、広い空間を満たす。鼓膜を破かんばかりのうるさいものだが、もう慣れっこだ。観客として敵を観察する機会は多いのだから、慣れていない方が問題である。
そう。きっと、あいつも。
彼岸花色の瞳が観客席を眺める。感情をあらわにする観客たちの中に、あの青はいない。あの深い青は、誰よりも敵を観察する青は、誰よりも先手を取る青はどこにもいない。探しても、探しても、どこにもいない。
チッ、と少年は短く舌打ちを漏らす。観客の数人が振り返り、うわ、と声を漏らすのが聞こえた。ワイヤーグラスじゃん。何でこんなとこに。試合見にきたんじゃね。あれがかよ。雑音が長い耳にぶつかる。好奇の目が、畏怖の目が、ブラッドオレンジに露骨なまでに注がれる。その中に青はいない。あの誰よりもヒトを見つめる、誰の前でも自信たっぷりに立つ青はいない。いつだって炎を宿した赤い瞳はどこにもない。
チッ、とワイヤーグラスは今一度舌打ちを漏らす。たったそれだけで、遠巻きの視線はすぐさま散っていった。見られることも、観察されることも、どうでもいいことを囁かれるのも、少年にとっては慣れっこだ。けれども、今日ばかりは不快で仕方ない。そもそも、目的の者が見つからないのだからもうここに用はないではないか。踵を返し、出口へと向かった。
当てが一つ外れただけだというのに、何故こうも苛立つのだろう。たかが数日連絡が取れないだけで、何故こうも胸が騒ぐのだろう。姿が見えないだけで、何故こうも頭の隅が圧迫されるのだろう。分からない。己にとって、エイトは一時期つるんでいた一人にすぎない。その強さを見初めて新バンカラクラスというものを作ったが、関わりはそれだけだ。なのに、それだけの存在なのに、何故こうも頭を掻き乱すのだ。
そもそも、己は何故ここまで彼を求めているのだろう。新バンカラクラスは8傑の中の上位クラス、更に強い者の集まりだった。バンカラ、それどころかハイカラまで含めた全ての頂点に立つ上で彼らを誘うのは自然ではあるが、ここまで固執する必要はあるのだろうか。毎日のように連絡を確認し、チーム活動の合間に試合観戦に赴き、暇があれば街中を目で掻き分け探すほどの必要性が。
今日何度目かの舌打ちを漏らし、ワイヤーグラスはバンカラ街へと歩みを進める。ごちゃまぜキング杯エントリー受け付け終了までもう時間が無い。エイトが見つからなければ、誰か適当に見繕えばいいだろう。それこそ、未だに一目置かれる8傑から引き抜けばいい。8傑と名が知れているだけあって、あの面々も十分に強い。戦力になるはずである。エイトである必要は無い――無いはずだ。
無いはずなのに、何故こうも胸が引っ掻き回されるのだ。
ワイヤーグラスには分からない。己の心が分からない。分からないが、求めているのは確かだ。あの誰よりも強者であることを求める青を。誰よりも強くあろうとする青を。
はぁ、と少年は息を吐く。丁寧に整えられた橙のゲソが揺れる。普段なら全く気に止めないというのに、首筋に当たるそれが妙に煩わしく思えた。
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選んで掴んで並べて飾って【マルノミ】
選んで掴んで並べて飾って【マルノミ】
本誌25年2月号を読んで狂ったオタクの怪文書。該当号以前のネタバレ有。
マルノミ君の缶バッジはゲーム内のバッジと同じ意味を持ってたらいいねって。だから集めてたらいいねって。それを理解されてたらいいねって。捏造しかない。口調も名前も分かりません助けてください。
名前判明次第タグ付けるし本文加筆修正するかもしれない。
バッジを集める子とバッジに振り回される子の話。
軽い音をたてて目の前に鮮やかな円が並べ立てられていく。シンプルなイラストから金銀に光るものまで、描かれたバッジはどれも特徴的でデザイン的だ。全て手のひらに収まる小さなサイズだというのに、特別な存在感と輝きを放っているように見えた――きっと目の前の存在のせいだろう。
「で、どれにするん?」
「どれも何もないだろ。自分で選べ」
「それが邪魔くさいから選んで言うとるんや」
ほらほらぁ、とマルノミはまだまだ缶バッジを並べていく。二人とも直に座った床、目の前のフローリングに綺麗に整列していくそれはもう両の手足の指を使っても数えられないほどの量になっていた。どこにこんな数をしまいこんでいたのだ、と疑問が浮かぶほどである。この中から二つも選べなど、しかも自分で選ぶのが面倒臭いからなんて理由で押しつけてくるのだからこの男は面倒だ。彼には見えぬよう、小さく息を吐いた。
マルノミはバッジを集めている。
ブキのじゅくれん度、スペシャルウェポンの使用数、バトルの勝利数、果てはギアのレア度。国際ナワバリバトル連盟は様々な条件を設け、バッジの配布を行っている。ブキを使うだけで簡単に手に入るものもあれば、数多の勝利を要求されるものまである。一種の勲章のようなものだ。努力した者へ、強い者へ与えられる、確かな証。
何でもかんでも『一番』を目指すマルノミが収集に手を出すのはある種の必然であった。何と言ったって、一つの『一番』を讃えるものなのだ。一番ブキを使った者。一番勝った者。一番集めた者。何かしらにおいての『一番』を認めるそれに、彼が目を付けないはずがない。
そうしてバッジ集めに駆り出されるようになって随分と経つ。初めの頃はじゅくれん度バッジが主だったが、今ではガチルール勝利数バッジやバンカラマッチ勝ち抜け数バッジなどバトルに関するものも多くなっていた。彼がどれだけ強いか――強くなったか。それを端的に証明している。
問題は、そのバッジをマルノミがゲソに付けるようになったことだ。頭部に位置するゲソには痛覚が無いとはいえ、随分と大胆なことをしたものだ。『一番』の証、実力の誇示、対戦チームへの牽制。理由はこんなものだろう。どうせ本人は『流行のファッションや』なんて誤魔化すだろうが。
時には日替わりで、時には定番で、時には固定で。ゲソに輝くバッジは変化していく。彼曰く気分で変えているようだが、ウデマエS+到達の証だけは絶対に付けているのだから変なところで分かりやすい。
同じチームとして活動する以上、コロコロと変わるバッジを隣で見てきた。そして、何故か今に至る。
「ヒトが選んだところで何の意味も無いだろう」
「あるて。ボクには思いつかへん組み合わせが出てくるかもしれんやろ?」
パチン、と最後のバッジを並べ終え、マルノミは言う。じゅくれん度バッジ、勝利数バッジ、ブランドバッジ、イベントマッチバッジ。様々な絵柄がじっとこちらを見つめてくる。もちろん、持ち主もじっとこちらを見つめてくる。早く選べ、と言いたげなものだった。
ここで躱し続けるのは不可能に近いだろう。もう適当に選ぶ他無い。ざっと眺めて、一つを手に取る。彼が愛用するギア、アロメスローガンTを販売しているアロメのブランドバッジだ。選ぶのが面倒で、すぐ下にあったグレートバリアのスペシャルウェポンバッジを手に取る。ほら、と二つを持ち主であるマルノミの手に押しつける。カランと音をたてた二つを眺め、彼は小さく首を傾げた。太い眉が少しばかり中心に寄っているのが見えた。
「なんか、イカしてないなぁ」
「は?」
渡したバッジをカチャカチャと音をたてていじりまわしながらマルノミは言う。あまりにも身勝手な言葉に、思わず低い声が漏れた。
「だってアロメのピンクにバリアの青は合わんやろ? 見た目も丸っこぅて似とるし」
「選べと言ったのはお前だろうが」
「センス良いの期待しとった言うとんのや」
分からへんやっちゃなぁ、とマルノミは溜め息を吐く。こちらのセリフである。ヒトにセンスだか何だかを要求する前に自分に決断力を求めろという話である。はぁ、とこちらもこれ見よがしに溜め息を吐いてやった。
目の前、綺麗に整列して待つバッジの海に手を突っ込む。まとめるように二つ引っ掴んで、またマルノミに投げた。丁寧に扱いぃや、と文句が飛んでくるが無視する。扱いに文句を言うくらいならばヒトに触らせるべきではないのだ。
ふぅん、とマルノミは鼻を鳴らす。しばしして、カチャカチャと金属が擦れる音。パチンパチンと何かが閉じられていく音。下がっていた視線を上げると、そこにはあぐらを掻き、ゲソを指でいじくるマルノミがいた。床にまで垂れる長いゲソにはバッジが三つ取り付けられている。一つはウデマエS+到達バッジ、一つはショクワンダーのスペシャルウェポンバッジ、残りの一つはデンタルワイパースミのじゅくれん度五到達バッジだ。どうやら適当に手渡した物を付けたらしい。先ほどきちんと選んだ苦労は一体何だったのだ、と天を仰ぎたくなる。
「ええやん」
「……お前の趣味が分からん」
「キミの趣味は分かるけどな」
カラストンビを見せてマルノミは笑う。適当に引っ掴んだ物に趣味も何もない。どうせ皮肉だろう。皮肉を言うぐらいなら自分で選べ、と言いたくなるのをグッと堪える。彼に口で勝つには随分と骨が折れる。何より、相手するのが面倒だ。また選べ、なんて言われたらたまったものではない。
「しばらくはこれにしよかな」
ゲソに付けた三つの丸を眺めて彼は言う。カチャカチャと缶バッジがぶつかりあって小さな声をあげるのが聞こえた。どうやら余程気に入ったらしい。もしくは考えるのが面倒になったらしい。どうせ後者だ。
「おおきになー」
「今度からは自分で選べよ」
「悩まん限りそうするわ」
礼を言うマルノミに一言刺す。効いた様子は全く無い。懲りることも全く無いだろう。付き合わされる頻度は低いものの、またこんな事態が起こるのが確定しているだなんて深い深い溜め息を吐きたくなる。
一つ一つ丁寧に拾って片付けるマルノミを一瞥する。彼の手の中に、収集用の箱の中にしまわれていくバッジたちを――どれも望まれていて、『一番』ではないバッジたちを眺める。艶めく表面を持つ者たちは、室内灯の光を受けて誇らしげに輝いていた。
彼の求めるバッジは一つしかない。シーズン毎のXランキング結果に応じて手に入るもの――数多の猛者たちの頂点に立つ者が手に入れられる、金色のバッジだ。ランキングという『一番』が分かりやすい証に彼が飛びつかないはずがないのだ。最近は潜ってメキメキとパワーを上げているようだが、まだまだ獲得条件を満たすトップ層には程遠い。彼ほどの実力ならばいつか到達できるだろうが、その『いつか』がいつであるかなど、彼本人も分かっていないだろう。だからこそ、求める。
瞬きを装って目を瞑る。黒くなった世界の中に、長いゲソに金色のバッジが輝く姿が浮かび上がる。この空想が実像になる日を待ち望むのは、彼だけではないはずだ。無くなってしまったのだ。
だって、こいつの『一番』を見たいなんてこと、ずっと前から望んでいるのだから。
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もうちょっと季節ってものを考えなさいよ!【はるグレ】
もうちょっと季節ってものを考えなさいよ!【はるグレ】最近春なのに暑すぎない????というあれ。京終始果絶対熱中症体験してるだろというIV当時からずっと見てる幻覚。
春の夏日に帰るはるグレの話。
世界に光が降り注ぐ。つい先月ならばもう茜に染まり始めていた空は、まだまだ昼の色を残している。傾きつつあるものの、冬の越えた太陽は元の調子を取り戻し暖かな陽光をあたりに振りまいていた。それはもう、元気が良すぎるぐらいに。
溜め息一つ吐き、グレイスは空を一瞥する。年が明けてから頭上を覆い尽くしていた厚い雲はさっぱりと消え、抜けるような青さを取り戻していた。太陽を遮るものなど一つも無い。おかげで強い日差しが目に刺さって痛いほどだ。焼き付いてちらつく目を瞬かせ、少女はまた息をこぼした。
「あっついわね……」
季節が一つ変わり、暖かな春が訪れた。しかし、最近はあまりにも暖かすぎる、というよりも暑い日々が続いていた。今日なんて、四月だというのに春から一足飛んで夏日である。桜はまだ華やかに咲いているというのにこの気温なのだから、季節感がごちゃまぜだ。四季のあるネメシスに来て日が浅い己にとっては尚更である。
うんざりといった調子で細められた躑躅の目が、音もなく動いて隣を見やる。視線の先に現れたのは、今日も今日とて隣やら後ろやらを付いて回る京終始果だ。黒く長い髪はいつも通り後ろで一つにまとめられ、身体はいつも通り萌葱の忍装束に包まれている。いつも通り、深い緑の長袖に黒い手甲、大ぶりな脚絆、丈の短い外套、とどめに長い襟巻きを巻いた姿だ。
「あんた、暑くないの……?」
懐疑をたっぷり乗せた声と視線で少女は問う。彼の格好は春の陽気にもあまりにも似つかわしくないものだ。寒がりだってもっと程度というものがあるだろう。加えて、今日のような夏めいた様相ならば輪を重ねて異常だ。こんなに着込んでいて、この気温を乗り越えられるものなのだろうか。忍といえど、中身はただの人間――肉体を持った存在である。暑さ寒さを感じるはずだ。けれども、彼は普段と変わらず顔色一つ変えないのだから外からでは何も分からないのだ。実態を知るには本人に訊ねるほか無い。
「特に……」
「ほんと? 喉渇くーとか、ふらふらするーとか、そういうの無い?」
首を傾げる始果に、グレイスもまた首を傾げて問う。繰り返しになるが、この少年は表情を変えるということを知らない。否、多少は変わるも、その度合いは微細である。気付けるのはこちらに来る前から付き合いある四人ぐらいだろう。喜怒哀楽はもちろん、快不快など一目で見抜くなど不可能である。何より、彼は人間らしい所作を知らない。己のように夏日に『暑い』と口に出したり、吹雪くさなかに『寒い』と着込んだりすることなど無かった。だからこそ、疑わしいのだ。こいつは自身の変化に気付いていない可能性の方が高いのだから。
あぁ、と襟巻きから覗く口が小さく音を発する。口元に指を当て、狐の少年はわずかに頷いた。
「少し頭がぐらぐらしますね……」
「そっ……それ、熱中症じゃない!」
事もなげに言う始果に、グレイスは悲鳴めいた声をあげる。こちらの夏はまだちゃんと味わっていないものの、暑い日に引き起こる『熱中症』というものについてはレイシスと烈風刀に聞いていた。ここ数年は春でも暑い日が増えてきているから、と事前に注意と対処法を教えられていたのだ。気温変化に慣れていないんですから気をつけてくだサイネ、と言われたのは記憶に新しい。まさしく『気温変化に慣れていない』彼が、式典以外では服装を変えるということを知らない彼が陥ってしまったのだろう。
「水! 水飲みなさい!」
鞄に慌てて手を突っ込み、躑躅は取り出したペットボトルのキャップを開ける。こぼす危険性など忘れ、手甲に包まれた手に勢いよく押しつけた。不思議そうに見つめた狐は、透明なそれに口を付ける。ちょっとずつよ、と急いで言い足す。蒲公英色の目が瞬き、言葉の通り一口ずつ小さく水を飲み下していった。
こういう時はたしか、水飲ませて、冷やして、冷たいもの食べさせて。冷やすってどの部分だっけ。たしか『首』の付く場所だったはず。凄まじい勢いで頭が回転し、脳内の引き出しを手当たり次第開けて対処法を探していく。とりあえず、冷やさねばならないのは確実だ。先ほどの水は常温である。もっと冷たいものを飲ませねば。何を。目が回りそうな勢いで思考が巡る。縋るようにビビッドピンクの瞳が辺りを見回す。端っこに引っかかったのは、青と白の看板だ。空に向けるよう高くそびえたつそれは、見慣れてきたコンビニエンスストアのロゴであった。
「歩ける? 大丈夫? 水飲んでるわよね?」
「大丈夫です……」
問い詰める少女に、少年は短く返す。常と変わらぬ声だというのに、今はなんだか弱っているように聞こえた。不安による錯覚か、それとも実際に衰弱しているのか。どちらでも変わりは無い。症状が出ている今、とにかく対処せねばならないのだ。
二人――常磐の袖をしかりと掴んだ少女と、言われた通りちびちびと水を飲む少年は看板の下目指して歩く。ついつい早足になってしまいそうなのをどうにかこらえ、グレイスはやけにしっかりした足取りの彼を引っ張っていった。
足取りが速くなるのを抑えられなかったのか、コンビニにはものの数分で辿り着いた。わずかに張り出た庇の陰に始果を押しやる。ここで待ってなさいよ、と指を差して告げ、少女は急いで店内へと駆けていった。開けたアイスケースの中から氷菓と氷を掴んでレジへと足早に向かう。慣れぬ会計をどうにか手早く済ませ、走る一歩手前の早さで外へと出た。
「これ食べて! あとマフラー取りなさい!」
「はい……」
スティックタイプのアイスを押しつけ、言葉より先にマフラーを引っ剥がす。されるがままの少年は、慣れない手つきで袋を開けて水色のそれを口に入れた。引き抜いた長い襟巻きを手早く畳み、ひとまず鞄に突っ込む。あらわになった首元を探り、短い外套もどうにか脱がせた。これで肌が出た。熱が放出できるはずだ。いや、出してよかったのだろうか。直接日光に晒されては熱くなるだけではないか。どうだったか。必死に記憶を引っ張り出した頭の中はぐちゃぐちゃで、何が正しいのか分からなくなる。苦しげに呻き声を上げながら、グレイスは始果の横に並ぶ。少しばかり背伸びをし、買ったばかりの袋入り氷を始果の首筋に当てた。薄い外套が剥ぎ取られた肩が小さく震える。ミモザの目が見開いたままこちらに向けられた。グレイス、とアイスを咥えていた口が疑問形で名前を紡ぐ。
「たしか首冷やさないといけないの。我慢しなさい」
「はい……」
切羽詰まった声に気圧されたのか、忍の少年は小さく首を傾げてながらも言われるがままに首筋をさらけ出したままでいた。シャリシャリとシャーベット状のアイスが囓られる音が二人の間に落ちていく。袋の中のロックアイスの角が取れてきた頃、少年の口から何もまとっていない薄い棒が引き抜かれた。刻印された『はずれ』の文字が青空の下に晒される。
「どう? 良くなった? まだダメ?」
「少し落ち着きました……」
「少しじゃダメなのよ! ほら、これ持って。首に当ててなさい」
ゴミを回収し、グレイスは空いた手を誘導して首筋に当てたままの氷を本人に持たせる。頑丈な防具に包まれた手は導かれるがままに忠実に動き、首の後ろを押さえる彼女の手とバトンタッチした。しばらくぶりに踵を地面につけ、少女は深く息を吐く。未だに状況を理解できていないこいつのことだ、まだまだ休む必要があるだろう。いつでもどこでも突然現れる――つまり、いつだってどこにいるか分からない彼が一人で倒れたら誰も看病できないのだから。
「それ、ちゃんと当てときなさいよ」
強い調子で言い捨て、少女はまた店内へと駆けていく。今度は二つセットのアイスと水のペットボトルを引っ掴み、レジへと駆けた。同じ足取りで外へ出、言われるがままに氷を押し当てた彼の下へと戻る。袋からアイスを取り出し、半分に分けてキャップを開けて空になっている方の手に握らせた。
「もうちょっと食べときなさい。あと水も」
熱中症の対処法はある程度分かっているものの、どれぐらい行えばいいかまでは分からない。けれども、冷やさないより冷やしすぎる方がマシなはずである。アイスを食べて、水を飲ませれば症状は改善するはずだ。考えながら、グレイスは己の分のアイスを開ける。ゴミをひとまとめにしてから、チューブ状のそれに口を付けた。コーヒーの味が、頭が痛くなるほどひやりとした感覚が、舌の上を流れていく。長らく感じていなかった涼に、自然と息が漏れる。ただの溜め息だというのに、先ほどよりも冷たく思えた。
また口を付け、隣を見やる。指示した通り、始果は言葉もなくアイスを食べていた。首に当てられた袋の中身はもうだいぶ溶けてしまったのか、水が張っているように見える。こちらももう一つ買った方がいいだろうか。考えながら、いつしかじぃと見つめながら、グレイスはシャーベット状の中身を吸い上げた。
「酷くなったら言いなさいよ」
「もう大丈夫ですけど……」
「あんたの『大丈夫』は信用なんないの!」
掴み所の無い声を鋭い声が切り捨てる。心配がうっすらと張ったマゼンタが、焦点が分からないイエローをまっすぐに射貫く。はぁ、と何も分かっていない調子の声が返ってきた。
風も無い中、少年と少女は黙ってアイスを口にする。蝉の鳴き声が聞こえてきそうなほど青い空は、依然太陽が燦々と輝いていた。
畳む
#京終始果#グレイス#はるグレ