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No.92
幸を願う【ライレフ】
幸を願う【ライレフ】
昨年秋に書き上げていた文章が発掘されたので仕上げた。
弟君がオニイチャンを甘やかすだけ。
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ぼすん、とクッションが沈み込む音が部屋に落ちる。鈍い響きは日々は夜の静寂に包まれた部屋の中ではやけに大きく聞こえた。
突然の衝撃に、二人掛けには少し大きなソファが跳ねるように揺れる。すぐ隣から伝わる振動など気にせず、烈風刀は手元の携帯端末を操る。青白く光る液晶画面に並ぶ文字の海を、澄んだ翡翠がすいすいと泳いでいく。硬い言葉で紡がれた物語は、ようやく佳境に入ったところだ。
ぽすん、と小さな音と共に、左肩に何かがぶつかる。ぶつかると言うよりも、触れると言ったほうが正しいほど弱々しいものだ。視界の端に、鮮やかな朱が映る。普段ならば濡れたままのそれは、今日はふわふわとした柔らかなものだ。珍しくちゃんと髪を乾かしてきたらしい。
いつもならば犬がじゃれるようにぎゅうぎゅうと抱きしめてくるが、今日は寄りかかるだけでこちらに腕を伸ばすことすらない。俯いたまま動きもせずに黙っている様は、眠っているのではと勘違いしてしまいそうなものだ。
座面に放り出していた片手に、温かなものがそっと重なる。弱々しく握る手は、風呂からあがったばかりだというのに少し冷えているように思えた。
「……れふとぉ」
力ない声が、二人きりの部屋に落ちる。弟の名を呼ぶその声音は、常の快活な様子から想像もできないほど弱々しい、悲痛が色濃く滲んだものだった。零れ落ちた瞬間に消えてしまいそうな音は、寄り添う烈風刀にはしっかり届いた。
己を求める恋人の声に、少年は手に持った携帯端末をソファの座面にそっと置く。行儀が悪いが、たった今邪魔でしかない存在となったこの機械を早く手放すべきなのだから仕方がない。湧き出る罪悪感に言い訳で蓋をする。今この時ばかりは、規律を守ることよりも兄を気にかける感情の方がずっと大きい。
つい先程まで小型端末が占領していた手が、そっと隣へと寄せられる。大人の形になりつつある手のひらで、形に沿うように朱い頭を撫でた。時折、乾かしたばかりでさらさらとした髪を指で梳く。ふわふわとした感触が心地良かった。襟足を梳くと、肩に寄せられた頭がふるりと震える。くすぐったいのだろう、軽く吐かれた息が首元を撫ぜた。互いに物言わぬまま、ただ重なる温度を共有する。秒針が盤面を歩む音が部屋にこぼれては積もっていく。
長針が幾許か動いた後、朱は、れふとぉ、と再び愛しい碧の名を呼ぶ。優しく撫でる手はそのまま、碧は、なんですか、と努めて柔らかな声で応えた。
「……ちょっとだけ、ぎゅっとしていい?」
いくらかの躊躇いの後、控えめな調子でそう問われる。甘える声は普段の可愛らしく弾んだものではなく、正反対の暗く沈んだものだった。そもそも、感情がすぐさま行動につながる彼が抱きつくことに許可など取ることは稀だ。それほど弱っているという事実に、胸が鈍い痛みを覚えた。
紅緋の髪を撫ぜ梳く手が、そっと離される。ひくりと怯えたように身体を震わせる彼を安心させようと、雷刀、と名を呼ぶ。穏やかな、慈愛に満ちた音色をしていた。
重ねた手はそのまま、烈風刀は居住まいを正し、兄の方へと身体を向ける。そのまま、空いた方の腕を大きく広げた。無言の肯定はしっかりと伝わったのだろう、肩に乗せられていた赤い頭が、そのまま少年の胸の内に飛び込んでくる。倒れ込むと言ったほうが正しい動きだった。
力なく垂れた腕が緩慢に動き、もたれかかる愛し人の背をなぞるように持ち上げられる。抱きしめると言うには程遠い、ただ添えているだけの形だった。碧も、もたれかかる朱の背と頭に腕を回す。いつも彼がするように、ぎゅうと抱きしめた。二人の間に隙間が無くなる。胸に埋もれた頭から、うぅ、とかすかな呻き声があがる。苦しみではなく、ただ悲哀だけがそこにあった。
「……頑張ったではありませんか」
抱きかかえた頭を柔らかく撫でながら、烈風刀は静かに労いの言葉を述べる。宛先である兄は、ただただ黙していた。
嬬武器雷刀は大の勉強嫌いである。テストは常に赤点、もしくは一、二点でぎりぎり回避する程度であり、追試の常習犯だ。放課後の補講で彼の姿を見なかった者はいないと言っても過言ではない。ほとんどの教科において、成績は決して良いとは言えないものである。
そんな彼が何を思ったのだろうか、最近では烈風刀に教えを乞うようになってきた。あれだけ何としてでも逃げようとしてきた勉学にようやく向き合おうとするその姿に感動を覚えつつ、弟は喜んで兄に己が持つ知識を最大限に分け与えたのだった。雷刀自身もやる気に満ち溢れており、基礎から復習し直し、その膨大な知識をゆっくりながら吸収していった。
そんな成長の日々の中、小テストが行われた。ようやく力が発揮できると張り切って挑んだ雷刀だったが、今日返ってきた答案は皆の予想から外れた赤色に塗れたものだった。しっかりと基礎の基礎から勉強した範囲だったというのに、答案用紙の右上には今までよりもほんの少しだけ高い数が記されていた。
失点はケアレスミスによるものがほとんどだったが、書かれた計算式はきちんと基礎を押さえたもので、応用問題にもいくらか挑戦されていた。普段はほぼ白紙で出す彼からすれば大躍進だ。
それでも、努力が報われない結果になってしまったことに変わりはない。酷くショックを受けたのは、悲哀に濡れた茜を見れば明らかだった。これだけやったこと自体がすごい、ケアレスミスさえなければもっと取れたのだからすごいことだ、とレイシスと二人で励ましたが、沈痛な面持ちで俯き答案用紙を握る朱には全く届かない。当たり前だ、どんなに努力しようが、多少解けていただろうが、結果が伴わなければ落ち込むに決まっている。気丈な彼だが、今回ばかりはかなり参った様子だった。
背に回された手が、きゅっと服を握る。まるで、不安に喘ぐ子供が縋るような、力ないものだった。まとわりつく憂慮を払うように、白い手がふわふわとした深緋を撫でた。
「でも……」
「結果はどうであれ、頑張ったことは絶対に変わらぬ事実です。たしかにミスは多かったですが、あれだけ解けていたこと自体がすごいことなのですよ?」
しょんぼりとした声に、烈風刀は努めて優しい言葉を返す。全て、心の底から思っていたことだ。あの兄が、勉強嫌いの赤点常習犯の兄が、ちゃんと勉強し問題を解いたことが何よりも重要で素晴らしいことだった。大丈夫だ、と言うように背をさする。それでも納得がいかないのか、赤い頭の下から、様々な感情が入り交じった呻き声があがった。
「きちんと解けた問題もあったのですから。それだけでも十分に成長しています。雷刀の努力があってこそなのですよ」
えらいえらい、と子供に言い聞かせるような調子で唱え、胸中に収めた頭を優しく撫でる。髪を梳くようにゆっくりと撫でる姿は、震え泣き出しそうな子供を宥めるそれと同じものだった。
普段ならば喜色の滲む笑いを漏らす雷刀だが、今は物一つ言わずに腕の中に囲われたままだ。これでは慰めの一つにもならなかったのだろうか、と烈風刀は密かに眉を寄せる。どんな言葉ならば、彼の心に蔓延る憂いを払えるのだろう。必死に頭を働かせながら、せめてもとその背をとんとんと優しく叩く。幼子をあやす動作だが、自分が不安で押し潰されそうな時、兄はこうやって抱きしめて背を叩いてくれた。あの温かさと心地良さを少しでも分け与えられれば、と祈りを込め、硬く引き締まった背をなぞった。
腕の中に捕らえた朱を見下ろす。どうすればよいのだろうか、と視線を彷徨わせていると、ふと鮮やかな赤に埋もれた耳に目が止まった。形の良いすべらかな耳殻は、今はその髪と同じほど赤く染まっていた。一体どうしたのだろう、と少年はことりと首を傾げた。
「雷刀?」
優しく柔らかな音色で兄の名を奏でる。呼ばれた彼は、弟の腕の中でびくりと大きく震えた。胸に埋もれた頭から、あ、え、と意味をなさない音がくぐもって聞こえる。
不安定に揺れ動く声に、少年は小さな焦燥を覚える。まさか、泣いているのではないか。あまりのショックに体調を崩してしまったのではないか。様々な懸念が浮かんでは心の内に積もっていく。胸に埋まる頬にそっと手を添え、上を向くように促す。触れた肌はいつもより熱く感じた。
「雷刀、大丈夫です――」
か、と問おうとした言葉は喉奥で消えた。視界に広がる光景に、浅葱の目がぱちりと一つ瞬いた。
優しい手付きに従い、雷刀はようやく頭を上げる。その顔は、夕焼け空のように真っ赤に色づいていた。中途半端に開いた口ははくはくと音にならぬ響きを漏らしており、茜色の目は大きく見開かれている。丸い瞳は、沈む日を映した海のように潤み揺らいでいた。
瞠られた碧と朱が交わった瞬間、ヒュ、と歪な音が響く。音の主である雷刀の口は依然開かれたままで、相変わらず意味を成さない音が不規則に漏れ出ていた。
「あっ……、えっ、と……、ほっ、ほめられるなんて、おもってなかった、から……」
あんだけ勉強して全然ダメだったし呆れられるかと思った。こんなに褒めてくれるなんて思わなかった。こんなの甘えすぎだって怒られるかと思った。
つかえつかえに紡がれる言葉は震えたものだった。その声と真っ赤に染まった顔から、彼が酷く照れているということは明白だ。泳ぐ目の中、ほんのりと浮かぶ喜色も、全て恥じらいで上塗りされていた。
そうだろうか、と少年は内心首を傾げる。たしかに『勉強をしない』彼には厳しく接していたが、ほんの少しでも勉強をした場合は褒めていたはずだ――そのほんの少しは、レイシスに誘われた時なのがほとんどなのだけれど。
改めて思い返してみれば、ここまで自発的に甘やかすのは初めてと言ってもいいのかもしれない。いつもは甘えてくる彼を仕方なく――仕方なくだ、と考えることで己の羞恥を誤魔化していることは自覚している――受け入れるばかりで、自ら兄を甘やかしたことなど、両の手で数えられる程度だ。ならば、彼が動揺するのも仕方が無いことなのかもしれない。
「あ、え、と……、あっ、ありが、と……」
忙しなく視線を宙に泳がせ、朱の少年はようやく意味のある言葉を口にする。礼の言葉は、普段の彼からは想像が出来ないほど細く、いっそ可哀想なほどに震えていた。再び下がりゆくその顔は、依然鮮やかな紅で彩られたままだ。
慣れぬ賛辞に動揺する兄の姿を見て、弟の胸に愛おしさが満ちていく。どういたしまして、と柔らかく返して、碧は密かに口角を上げる。口元には、とっておきのいたずらを思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。
「そもそも、勉強が嫌いな貴方が自発的に勉強したことがえらいのです。それがちゃんと結果の一つとして出たのですよ? とてもすごいことではありませんか。もっと自信を持ってください」
ね、といっとう甘ったるい言葉と声を、緋に染まった耳へとそっと注ぎ込む。たったそれだけで、抱き込んだ身体が面白いほど大きく跳ねる。細く喉が鳴る音が聞こえた気がした。
「からかってんだろ……」
「そんなことはありませんよ」
恨めしげな声に、どこか弾んだ涼しげな声が返される。あまりにも可愛らしい反応に、烈風刀は漏れ出そうになる笑声をどうにか喉に押し込める。彼が言う通りちょっとしたいたずら心はあれど、発した言葉に一切の嘘は無かった。彼の努力自体を評価する気持ちは、心の底からの真実だ。
しばしの沈黙の後、なぁ、と小さな声が上がる。しっかりと届いたくぐもった声に、何ですか、と普段通りの響きで返す。穏やかな声音に、雷刀はおずおずと顔を上げる。慈しみに満ちた翠玉を見つめる紅玉には、依然収まらぬ羞恥とわずかな不安が浮かんでいた。
「……頑張ったら、また褒めてくれる?」
恐れを孕んだか細い声が、ささやかな可愛らしい願いを紡ぐ。懇願する瞳を真っ直ぐに見つめ、碧の少年は膜張る不安を払うように柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん」
すぐさま答え、烈風刀は抱えた頭をそっと抱きしめる。丸い頭を今一度優しく撫でると、かすかな笑い声が胸をくすぐった。そこには憂いなどなく、ただ幸せの色で彩られていた。
次はきっと大丈夫ですよ、と耳元で囁く。腕の中に捕らえた身体がひくりと震えた。たっぷり十数秒の沈黙の後、うん、と小さな、されど芯の通った肯定の響きが返ってきた。
負けず嫌いな一面がある兄のことだ、きっとこれからも勉強に努めるだろう。その努力が実を結ぶ日は絶対に来るはずだ。そんなことを考え、烈風刀は静かに目を伏せる。彼の瞼の裏には、満面の笑みで答案用紙を見せる兄の姿が映っていた。
柔らかな頬がすりすりと胸元を擦る。まるで猫が甘えるような仕草だ。可愛らしさに頬を緩めながら、少年は抱えた片割れの背を優しく撫でる。静かな夜の下、ふふ、と幸せに満ちた笑みが二つ重なった。
畳む
#ライレフ
#腐向け
#ライレフ
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SDVX
2024/1/31(Wed) 00:00
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幸を願う【ライレフ】昨年秋に書き上げていた文章が発掘されたので仕上げた。
弟君がオニイチャンを甘やかすだけ。
ぼすん、とクッションが沈み込む音が部屋に落ちる。鈍い響きは日々は夜の静寂に包まれた部屋の中ではやけに大きく聞こえた。
突然の衝撃に、二人掛けには少し大きなソファが跳ねるように揺れる。すぐ隣から伝わる振動など気にせず、烈風刀は手元の携帯端末を操る。青白く光る液晶画面に並ぶ文字の海を、澄んだ翡翠がすいすいと泳いでいく。硬い言葉で紡がれた物語は、ようやく佳境に入ったところだ。
ぽすん、と小さな音と共に、左肩に何かがぶつかる。ぶつかると言うよりも、触れると言ったほうが正しいほど弱々しいものだ。視界の端に、鮮やかな朱が映る。普段ならば濡れたままのそれは、今日はふわふわとした柔らかなものだ。珍しくちゃんと髪を乾かしてきたらしい。
いつもならば犬がじゃれるようにぎゅうぎゅうと抱きしめてくるが、今日は寄りかかるだけでこちらに腕を伸ばすことすらない。俯いたまま動きもせずに黙っている様は、眠っているのではと勘違いしてしまいそうなものだ。
座面に放り出していた片手に、温かなものがそっと重なる。弱々しく握る手は、風呂からあがったばかりだというのに少し冷えているように思えた。
「……れふとぉ」
力ない声が、二人きりの部屋に落ちる。弟の名を呼ぶその声音は、常の快活な様子から想像もできないほど弱々しい、悲痛が色濃く滲んだものだった。零れ落ちた瞬間に消えてしまいそうな音は、寄り添う烈風刀にはしっかり届いた。
己を求める恋人の声に、少年は手に持った携帯端末をソファの座面にそっと置く。行儀が悪いが、たった今邪魔でしかない存在となったこの機械を早く手放すべきなのだから仕方がない。湧き出る罪悪感に言い訳で蓋をする。今この時ばかりは、規律を守ることよりも兄を気にかける感情の方がずっと大きい。
つい先程まで小型端末が占領していた手が、そっと隣へと寄せられる。大人の形になりつつある手のひらで、形に沿うように朱い頭を撫でた。時折、乾かしたばかりでさらさらとした髪を指で梳く。ふわふわとした感触が心地良かった。襟足を梳くと、肩に寄せられた頭がふるりと震える。くすぐったいのだろう、軽く吐かれた息が首元を撫ぜた。互いに物言わぬまま、ただ重なる温度を共有する。秒針が盤面を歩む音が部屋にこぼれては積もっていく。
長針が幾許か動いた後、朱は、れふとぉ、と再び愛しい碧の名を呼ぶ。優しく撫でる手はそのまま、碧は、なんですか、と努めて柔らかな声で応えた。
「……ちょっとだけ、ぎゅっとしていい?」
いくらかの躊躇いの後、控えめな調子でそう問われる。甘える声は普段の可愛らしく弾んだものではなく、正反対の暗く沈んだものだった。そもそも、感情がすぐさま行動につながる彼が抱きつくことに許可など取ることは稀だ。それほど弱っているという事実に、胸が鈍い痛みを覚えた。
紅緋の髪を撫ぜ梳く手が、そっと離される。ひくりと怯えたように身体を震わせる彼を安心させようと、雷刀、と名を呼ぶ。穏やかな、慈愛に満ちた音色をしていた。
重ねた手はそのまま、烈風刀は居住まいを正し、兄の方へと身体を向ける。そのまま、空いた方の腕を大きく広げた。無言の肯定はしっかりと伝わったのだろう、肩に乗せられていた赤い頭が、そのまま少年の胸の内に飛び込んでくる。倒れ込むと言ったほうが正しい動きだった。
力なく垂れた腕が緩慢に動き、もたれかかる愛し人の背をなぞるように持ち上げられる。抱きしめると言うには程遠い、ただ添えているだけの形だった。碧も、もたれかかる朱の背と頭に腕を回す。いつも彼がするように、ぎゅうと抱きしめた。二人の間に隙間が無くなる。胸に埋もれた頭から、うぅ、とかすかな呻き声があがる。苦しみではなく、ただ悲哀だけがそこにあった。
「……頑張ったではありませんか」
抱きかかえた頭を柔らかく撫でながら、烈風刀は静かに労いの言葉を述べる。宛先である兄は、ただただ黙していた。
嬬武器雷刀は大の勉強嫌いである。テストは常に赤点、もしくは一、二点でぎりぎり回避する程度であり、追試の常習犯だ。放課後の補講で彼の姿を見なかった者はいないと言っても過言ではない。ほとんどの教科において、成績は決して良いとは言えないものである。
そんな彼が何を思ったのだろうか、最近では烈風刀に教えを乞うようになってきた。あれだけ何としてでも逃げようとしてきた勉学にようやく向き合おうとするその姿に感動を覚えつつ、弟は喜んで兄に己が持つ知識を最大限に分け与えたのだった。雷刀自身もやる気に満ち溢れており、基礎から復習し直し、その膨大な知識をゆっくりながら吸収していった。
そんな成長の日々の中、小テストが行われた。ようやく力が発揮できると張り切って挑んだ雷刀だったが、今日返ってきた答案は皆の予想から外れた赤色に塗れたものだった。しっかりと基礎の基礎から勉強した範囲だったというのに、答案用紙の右上には今までよりもほんの少しだけ高い数が記されていた。
失点はケアレスミスによるものがほとんどだったが、書かれた計算式はきちんと基礎を押さえたもので、応用問題にもいくらか挑戦されていた。普段はほぼ白紙で出す彼からすれば大躍進だ。
それでも、努力が報われない結果になってしまったことに変わりはない。酷くショックを受けたのは、悲哀に濡れた茜を見れば明らかだった。これだけやったこと自体がすごい、ケアレスミスさえなければもっと取れたのだからすごいことだ、とレイシスと二人で励ましたが、沈痛な面持ちで俯き答案用紙を握る朱には全く届かない。当たり前だ、どんなに努力しようが、多少解けていただろうが、結果が伴わなければ落ち込むに決まっている。気丈な彼だが、今回ばかりはかなり参った様子だった。
背に回された手が、きゅっと服を握る。まるで、不安に喘ぐ子供が縋るような、力ないものだった。まとわりつく憂慮を払うように、白い手がふわふわとした深緋を撫でた。
「でも……」
「結果はどうであれ、頑張ったことは絶対に変わらぬ事実です。たしかにミスは多かったですが、あれだけ解けていたこと自体がすごいことなのですよ?」
しょんぼりとした声に、烈風刀は努めて優しい言葉を返す。全て、心の底から思っていたことだ。あの兄が、勉強嫌いの赤点常習犯の兄が、ちゃんと勉強し問題を解いたことが何よりも重要で素晴らしいことだった。大丈夫だ、と言うように背をさする。それでも納得がいかないのか、赤い頭の下から、様々な感情が入り交じった呻き声があがった。
「きちんと解けた問題もあったのですから。それだけでも十分に成長しています。雷刀の努力があってこそなのですよ」
えらいえらい、と子供に言い聞かせるような調子で唱え、胸中に収めた頭を優しく撫でる。髪を梳くようにゆっくりと撫でる姿は、震え泣き出しそうな子供を宥めるそれと同じものだった。
普段ならば喜色の滲む笑いを漏らす雷刀だが、今は物一つ言わずに腕の中に囲われたままだ。これでは慰めの一つにもならなかったのだろうか、と烈風刀は密かに眉を寄せる。どんな言葉ならば、彼の心に蔓延る憂いを払えるのだろう。必死に頭を働かせながら、せめてもとその背をとんとんと優しく叩く。幼子をあやす動作だが、自分が不安で押し潰されそうな時、兄はこうやって抱きしめて背を叩いてくれた。あの温かさと心地良さを少しでも分け与えられれば、と祈りを込め、硬く引き締まった背をなぞった。
腕の中に捕らえた朱を見下ろす。どうすればよいのだろうか、と視線を彷徨わせていると、ふと鮮やかな赤に埋もれた耳に目が止まった。形の良いすべらかな耳殻は、今はその髪と同じほど赤く染まっていた。一体どうしたのだろう、と少年はことりと首を傾げた。
「雷刀?」
優しく柔らかな音色で兄の名を奏でる。呼ばれた彼は、弟の腕の中でびくりと大きく震えた。胸に埋もれた頭から、あ、え、と意味をなさない音がくぐもって聞こえる。
不安定に揺れ動く声に、少年は小さな焦燥を覚える。まさか、泣いているのではないか。あまりのショックに体調を崩してしまったのではないか。様々な懸念が浮かんでは心の内に積もっていく。胸に埋まる頬にそっと手を添え、上を向くように促す。触れた肌はいつもより熱く感じた。
「雷刀、大丈夫です――」
か、と問おうとした言葉は喉奥で消えた。視界に広がる光景に、浅葱の目がぱちりと一つ瞬いた。
優しい手付きに従い、雷刀はようやく頭を上げる。その顔は、夕焼け空のように真っ赤に色づいていた。中途半端に開いた口ははくはくと音にならぬ響きを漏らしており、茜色の目は大きく見開かれている。丸い瞳は、沈む日を映した海のように潤み揺らいでいた。
瞠られた碧と朱が交わった瞬間、ヒュ、と歪な音が響く。音の主である雷刀の口は依然開かれたままで、相変わらず意味を成さない音が不規則に漏れ出ていた。
「あっ……、えっ、と……、ほっ、ほめられるなんて、おもってなかった、から……」
あんだけ勉強して全然ダメだったし呆れられるかと思った。こんなに褒めてくれるなんて思わなかった。こんなの甘えすぎだって怒られるかと思った。
つかえつかえに紡がれる言葉は震えたものだった。その声と真っ赤に染まった顔から、彼が酷く照れているということは明白だ。泳ぐ目の中、ほんのりと浮かぶ喜色も、全て恥じらいで上塗りされていた。
そうだろうか、と少年は内心首を傾げる。たしかに『勉強をしない』彼には厳しく接していたが、ほんの少しでも勉強をした場合は褒めていたはずだ――そのほんの少しは、レイシスに誘われた時なのがほとんどなのだけれど。
改めて思い返してみれば、ここまで自発的に甘やかすのは初めてと言ってもいいのかもしれない。いつもは甘えてくる彼を仕方なく――仕方なくだ、と考えることで己の羞恥を誤魔化していることは自覚している――受け入れるばかりで、自ら兄を甘やかしたことなど、両の手で数えられる程度だ。ならば、彼が動揺するのも仕方が無いことなのかもしれない。
「あ、え、と……、あっ、ありが、と……」
忙しなく視線を宙に泳がせ、朱の少年はようやく意味のある言葉を口にする。礼の言葉は、普段の彼からは想像が出来ないほど細く、いっそ可哀想なほどに震えていた。再び下がりゆくその顔は、依然鮮やかな紅で彩られたままだ。
慣れぬ賛辞に動揺する兄の姿を見て、弟の胸に愛おしさが満ちていく。どういたしまして、と柔らかく返して、碧は密かに口角を上げる。口元には、とっておきのいたずらを思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。
「そもそも、勉強が嫌いな貴方が自発的に勉強したことがえらいのです。それがちゃんと結果の一つとして出たのですよ? とてもすごいことではありませんか。もっと自信を持ってください」
ね、といっとう甘ったるい言葉と声を、緋に染まった耳へとそっと注ぎ込む。たったそれだけで、抱き込んだ身体が面白いほど大きく跳ねる。細く喉が鳴る音が聞こえた気がした。
「からかってんだろ……」
「そんなことはありませんよ」
恨めしげな声に、どこか弾んだ涼しげな声が返される。あまりにも可愛らしい反応に、烈風刀は漏れ出そうになる笑声をどうにか喉に押し込める。彼が言う通りちょっとしたいたずら心はあれど、発した言葉に一切の嘘は無かった。彼の努力自体を評価する気持ちは、心の底からの真実だ。
しばしの沈黙の後、なぁ、と小さな声が上がる。しっかりと届いたくぐもった声に、何ですか、と普段通りの響きで返す。穏やかな声音に、雷刀はおずおずと顔を上げる。慈しみに満ちた翠玉を見つめる紅玉には、依然収まらぬ羞恥とわずかな不安が浮かんでいた。
「……頑張ったら、また褒めてくれる?」
恐れを孕んだか細い声が、ささやかな可愛らしい願いを紡ぐ。懇願する瞳を真っ直ぐに見つめ、碧の少年は膜張る不安を払うように柔らかな笑みを浮かべた。
「もちろん」
すぐさま答え、烈風刀は抱えた頭をそっと抱きしめる。丸い頭を今一度優しく撫でると、かすかな笑い声が胸をくすぐった。そこには憂いなどなく、ただ幸せの色で彩られていた。
次はきっと大丈夫ですよ、と耳元で囁く。腕の中に捕らえた身体がひくりと震えた。たっぷり十数秒の沈黙の後、うん、と小さな、されど芯の通った肯定の響きが返ってきた。
負けず嫌いな一面がある兄のことだ、きっとこれからも勉強に努めるだろう。その努力が実を結ぶ日は絶対に来るはずだ。そんなことを考え、烈風刀は静かに目を伏せる。彼の瞼の裏には、満面の笑みで答案用紙を見せる兄の姿が映っていた。
柔らかな頬がすりすりと胸元を擦る。まるで猫が甘えるような仕草だ。可愛らしさに頬を緩めながら、少年は抱えた片割れの背を優しく撫でる。静かな夜の下、ふふ、と幸せに満ちた笑みが二つ重なった。
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#ライレフ #腐向け