SDVX[157件](2ページ目)
カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】
カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】
いい双子の日ということで双子の話。意識したことないけどあれってサイズ関係あるのだろうか。
飯作ってくる嬬武器兄弟の話。
白の中から黄色がこぼれ落ちる。常は一つだけのその色は、今日は二つボウルに受け止められた。
「おっ」
予期せぬ幸運に雷刀は思わず声を漏らす。なにせ前がいつだったかすら分からないほど久しぶりの出会いである。しかも今回はよりどりサイズの詰め合わせ、その中でも小さめのものを割った結果なのだから尚更だ。写真でも撮ろうかと尻ポケットに手を伸ばすが、すぐさまやめる。うっかりボウルの中に落としてしまうなんてことがあれば大惨事だ。
食卓で話そう。考えつつ、少年は流れるような手付きで小さい卵をもう二つ割る。四つの黄身と盛り上がる卵白に箸を立て、リズミカルに掻き混ぜた。溶き終わったところにカニ風味かまぼこと塩を投入し、油をたっぷり入れたフライパンで手早く焼き上げる。二つ作って皿に移し、並行して作っていた甘酢あんを掛け、仕上げに冷凍の小ネギを散らす。つやめく琥珀をまとった色鮮やかな黄色に緑が咲いた。見た目も味も完璧な――カニは偽物だが――カニ玉の完成だ。小さく鼻を鳴らし、食卓に運ぶ。先に作っておいた中華スープを温め直し、碗に移してこちらにもネギを散らす。事前に作って冷蔵庫に寝かせておいたほうれん草のナムルを小鉢に持ち付ける。今日は中華尽くしだ。主食は白米だけれど。
「運びますね」
「おっ、さんきゅ」
もう夕飯の時間を過ぎたのだろう、いつの間にか烈風刀がやってきていた。自然な足取りで食器と小鉢を運び、すぐさま戻って白米をよそい、また食卓へと戻っていく。雷刀も汁物を持ち、食卓についた。
いただきます、と声が二つ重なる。弟が用意してくれたスプーンを引っ掴み、兄はカニ玉を切り分ける。あんがこぼれるより先に口に運ぶと、甘酸っぱさと塩気、ほんのりと磯の香りが口いっぱいに広がった。行儀が悪いのを承知で米に載せ、また一口。即席の天津飯は、白米の甘さとカニ玉の濃い味が合わさって得も言われぬハーモニーを生み出した。
「そういやさ、今日の卵双子だったんだよ」
ナムルをつつきつつ、雷刀は先ほどの幸運を口にする。双子、と端を握ったところの烈風刀は復唱した。こうやって話してみると、やはり写真を撮っておいた方がよかったかと少しの後悔が足元にまとわりつく。けれども、食事中に携帯端末をいじるのはさすがに憚られる。すぐ見せられないなら別にいいか、とごま油をまとったほうれん草を一口食べた。
「珍しいですね」
「だろ? 目玉焼きにすりゃよかったかなー」
双子の卵というのはやはり視覚的にインパクトがある。それを活かさなかったのはもったいなかったか。卵にはまだ余裕があったのだからそれも一つの手だったのではないかと今更ながら考えた。
「夜に目玉焼きは物足りないですよ」
「明日の朝に回すとか?」
「冷蔵庫に入れるところないでしょう」
全て事実である。そこまでこだわることでもないか、と先ほどまでの思考を取っ払いながら朱はスプーンから箸へと持ち替える。そだな、と軽く応えて白米をかっこんだ。弟もあんをこぼさぬようカニ玉を口にする。
次はいつ出会えるだろうか。今度は目玉焼きにできるよう朝出てほしいのだけれど。そんなことを考えるが、そう簡単に再会できないことなど分かっている。けれども、一度得た物は期待をしてしまうのだ。
すっぱさちょうどいいですね。だろ。他愛も無い言葉を交わしながら食事は進む。琥珀で満たされた白い皿の上はどんどんと元の色を取り戻していった。
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慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】
慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】
推しカプ同じ布団で寝てくれ(定期post)→プロ氷は一緒に寝るの無理だろ→それでも同じ空間にいてくれ……というオタクがわがままごねた結果がこれだよ。毎度のごとく都合良く捏造してるよ。
冷たくしてあげたい識苑先生と冷たくしてもらうのは申し訳ない大学生氷雪ちゃんの話。
低い駆動音が部屋に染み渡っていく。呻り声とともに機械が吐き出す風は冷たく、触れれば冬と錯覚しそうなほどのものだ。除湿モードに切り替えた空調機は、狭い部屋をひたすらに冷気で満たしていった。
「本当にすみません……」
膝にかけたタオルケットを握り、氷雪は消え入りそうな声で呟く。川底のように澄んだ瞳は暗く陰り、白い柳眉は顔からこぼれ落ちてしまいそうなほど端が下がっていた。普段は太い三つ編みでまとめている髪は今は解いて下ろされており、上等な白い着物も薄手の浴衣に着替えている。何年経ってもほっそりとした美しい足は皺の寄ったシーツの上で膝を合わせて折り畳まれている。縮こまった身体は普段よりも更に小さく見えた。
「いいよ。どうせパソコンのために点けてなきゃいけないしね」
ベッドの上にあぐらを掻き、識苑はへらりと笑う。こんな顔と言葉で彼女の気は晴れないと分かっているものの、これぐらい笑い飛ばしてやらねばという思いが強い。事実、部屋で駆動する各種機械の排熱は凄まじく、室温を一度や二度上げるほどだ。それらを冷やし熱暴走を防ぐためにも、夏は冷房を躊躇なくガンガンと動かし部屋を冷やしきっていた。壊れた場合の修理費用や作業時間のロスを考えると、人間にとっては寒いぐらいに稼働させた方がリスクが少ないのだ――そう、人間にとっては。
恋人である氷雪は雪女である。雪の中で生まれ、雪の中で育ってきた。そんな彼女のなのだから、当然暑さには弱い。温度によっては生命を脅かされるほどであり、高気温が続く夏は天敵と言っても差し支えがないだろう。ネメシスでの暮らしを始めてから多少は耐性は付いたと本人は語るが、それでもまだまだ夏の暮らしには不便をしているようだ。ここ最近は酷暑が続いているのだから尚更だろう。
そんな彼女が、この夏のさなかに泊まりに来た。ならば対策は立てておくべきだろう。彼女が来る前にエアコンのリモコンの下ボタンを二回押したのも、普段なら常温保存する茶を冷蔵庫に入れたのも、氷を普段の倍は作ったのも秘密だ。
問題は夜である。欲望に身を任せて言えば、共に寝たい。同じ布団に入って、ちょっとだけおしゃべりをして、並んで寝たい。歳に似つかわしくないあまりにも少女趣味な願望であるが、彼女にこれ以上の『恋人らしいこと』を求めるのは己が許さない。それに、氷雪が泊まることなど半年に一回あるかどうかなのだ。これぐらい考えるのは心身共に健康な人間ならば当然だろう。
だが、彼女は暑さに――つまりは熱に弱い。人と並んで寝るなど、他人の体温を感じながら一晩過ごすなど言語道断である。最悪命を落とす可能性だってあるのだ。己のわがままと恋人の命を天秤に掛けるなんてことはあってはならない。加えて、彼女は寒ければ寒いほど過ごしやすいということは想像に容易い。ならば、と彼女は冷房直下の場所に布団を敷き、己は普段使っているベッドに寝るのが正解だろう。
「でも、あ、の……、さすがに、申し訳が……」
「暑さって氷雪の命に関わるよね? 申し訳ないとか考えることじゃないよ。生きるためなんだから」
「…………は、い。すみません、ありがとうございます」
やはりというべきか、心優しい彼女はこの配置を気にしてしまうようだ。出会った頃よりは好意を受け取るようになっているものの、まだまだ引け目を感じてしまうらしい。こちらとしては、どうにか片付けてもまだまだごちゃつく床の上、そこになんとか敷いた安物の布団で眠らせてしまうことに申し訳無さを感じるのだけれど。
「……一緒に寝れたら、いいんですけど」
ぽそり。小さな声が工具が転がる床に落ちる。向かい合った目の前、布団の上で正座をした恋人の頬は紅で染まっていた。真冬の椿もかくやの鮮やかさである。愛おしさが胸を満たしていく。今すぐにでも抱きしめたい衝動が手を動かし、少女へと腕を伸ばす。なんとか残っていた理性が脳味噌を殴って揺らし、無遠慮な動きをベッドの上へと封じ込めた。
「かっ、身体は、大丈夫なんです……、たぶん。でも、まだ、緊張してしまって……」
朱が広がる顔が伏せられ、白い頭があらわになる。肩に少しだけかかった長い雪色がするりと布の上を滑って落ちた。
緊張かぁ、と識苑は心の内で漏らす。肺にあるものを全て吐き出したかのような、肩に重いものが落ちてきてしがみつかれたような、そんな心地がした。
恋人は雪原と同じほど白くて純情で、とことん恥ずかしがり屋で奥手である。付き合って何年も経つが、それでもまだ触れあうことは得意ではない方だ。ちょっとだけ進んだ口づけで溶けそうになるほど緊張しているのは、目を瞑ってこちらを待つ顔がいつだって物語っていた。最近では溶けるまではいかなくなったものの、やはりまだまだ緊張はするらしい。触れる頬はいつだってぷるぷると震えていた。
そんな彼女なのだ、経験が無い『恋人と一緒のベッドで寝る』だなんて行為に緊張を覚えるのは当然である。そもそも、氷雪がこの部屋にまだ泊まるようになって日が浅いのだ。『一緒の部屋で寝る』ことにすら慣れていないというのに、二段も三段も飛ばして『一緒のベッドで寝る』など彼女の心が受け入れられるはずがない。キャパシティオーバーで溶けてしまうのは目に見えていた。
けれども、それでも、付き合って数年経つのにまだ『緊張する』と言われるのは少しばかり辛いものがある。己はまだ彼女にとって安息の地にはなっていない。その事実が睡魔忍び寄る頭に染み渡っていく。もう髪を乾かしたというのに、頭が重くなったかのように感じた。
「あっ、あ、の。えっと」
シーツの上、白がぶわりと舞う。勢いよく上げられた氷雪の顔は、少しばかり色を失っていた。花緑青の瞳は目いっぱいに開かれ、手入れを済ませたばかりの唇は忙しなく開閉を繰り返している。えっと、その、と漏らす声は普段よりも少し大きく、けれども細くて高いものになっていた。どうやら己の馬鹿げた感情は顔に出ていたらしい。あぁ、と識苑は心の中で頭を抱える。彼女が気に病むなど分かりきっているというのに、何故こんなことをしてしまうのだ。もういい歳だというのに、何故こんな年若い少女に気を遣わせているのだ。自己嫌悪が心に黒いもやを撒き散らしていく。そんなこと胸の内の動乱など一切無い、とばかりに、技術教師は普段通りの笑みを浮かべた。こんなものはきっと看破されてしまうけれど、いつまでもしょぼくれた顔をしているわけにはいかないのだ。
「えっと、あの、き、緊張といいますか……」
依然慌てた調子で雪色の少女は言葉を紡ぎ出す。上擦っていた声は落ち着くことなく、むしろ悪化している。けれども、顔には色が戻っていた。むしろ、柔らかなまろい頬は紅葉したように色づいている。噛み合わない声と表情に、月色の目がぱちりと瞬く。あうあうと打ち上げられた魚のように口を開いては閉じる氷雪だったが、どうやら落ち着いたらしい。すぅ、はぁ、と大きく深呼吸する音が聞こえてきた。
「…………まだ、すごく、ドキドキするので」
好きな人と一緒に寝るのは、ドキドキしすぎて、溶けちゃうかもしれないので。
細い声で言葉が編まれていく。音が止んだ後も口はまた開閉を繰り返し、全てを隠すように顔が伏せられた。銀糸が絡まる耳はしもやけのように真っ赤で、彼女の心がどうなっているかということを雄弁に語っていた。
好きな人。ドキドキ。可愛らしいワードが、己にとって都合が良すぎるワードが、愛する人の口から紡がれたワードが、頭に、心に染み渡っていく。先ほどまで立ち込めていたもやは、ひとかけらも残さず吹き飛んで消えた。代わりに、熱いものが胸を満たしていく。苦しいぐらい熱いものが。叫びたいほど温かくてたまらないものが。
ベッドの上に投げ出していた手を素早く動かし、鷲掴むようにして顔を隠す。冷房で冷やされた手には、ケアをされたばかりの頬と額が随分と熱く感じた。何故そう感じるかなど自明である。自分の顔が何色で染まっているかなど鏡を見なくとも分かる。口がみっともなく緩んでしまっているのも誰よりも己が一番分かっていた。そっかぁ、と漏らした声は、無様なほどとぎれとぎれで上擦ってとろけきっていた。
指の隙間から対面を見る。こちらを見る氷雪の顔も紅梅といい勝負をするほど赤かった。それがまた、己の心を煽る。苦しくなるほど愛おしさをもたらして、顔に血を上らせていく。ぅ、と思わず嗚咽のような声が漏れた。
「うん…………、じゃ、また、いつか。あんまり緊張しなくなったら……えっと……」
ヨロシクオネガイシマス。揺れる視線を隠すように頭を下げてそう伝える声は己でも驚くほどぎこちがないものだった。普段彼女の前では余裕ぶった姿で在ろうとしているのに、なんと不格好なのだろう。恥ずかしくて布団を被って逃げてしまいたい衝動に駆られる。これ以上彼女の前で格好悪いことはしたくないのでどうにか抑え込んだが。
「は、はい……、えと、……よろしく、おねがいします」
返す言葉はところどころひっくり返っていた。目の前の氷雪もまた、己と同じように視線をうろうろと泳がせていた。それもどんどん俯いて隠れていく。やはり耳は紅で染まったままだった。
「……寝よっか!」
「はい! 寝ましょう!」
裏っ返った声でした提案は、すぐさま可決された。おやすみ、と互いに交わす声は隣の部屋に聞こえてしまいそうなほど大きくて、夜にはあまりにも不釣り合いなほど元気なものだった。
手元のリモコンを操作すると、ピッと短い音と同時に部屋の照明が落ちる。真っ暗闇の中では、もうあの白い髪も、緑の瞳も、赤く染まった頬も、何も見えなくなってしまった。
衣擦れの音が聞こえる。きっと、タオルケットを掛けたのだろう。寝ようと提案した手前、己も眠るしかない。もそもそと鈍い動きで夏用の薄い掛け布団の中に潜り込んだ。除湿モードの冷気で冷やされた肌には、薄布が随分と暖かく感じた。
「……し、おん、さん」
「なぁに」
暗闇の中、声。努めて柔らかな響きで返すが、沈黙が闇を満たすばかりだった。しばしして、また衣擦れの音。まだ順応が終わっていない目には、暗闇の中には何も見えない。けれども、あの美しい翡翠がこちらを見ているように感じられるのは、きっと木のせいではないはずだ。
「おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
いい夢を。
呟くように、歌うように、寝言のように、言葉を紡ぐ。またごそごそと布が擦れる音が闇に落ちた。寝返りを打って、壁の方へと視線を向ける。あれだけ熱かった顔も、頭も、心も、這い寄る睡魔によって落ち着きを取り戻していた。
闇夜が、機器の駆動音が部屋を満たす。そこに安らかな呼吸が二つ加わるのはすぐだった。
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諸々掌編まとめ14【SDVX】
諸々掌編まとめ14【SDVX】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど最近3000字ぐらいのが多い。あと大体嬬武器兄弟。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟2/ライレフ3/ロワ→ジュワ
夏空、雨香り/嬬武器兄弟
参考:“降り始め”と“雨上がり”で違う!? 「雨の匂い」の正体は? - ウェザーニュース
湿気った空気が剥き出しの肌を撫ぜる。熱を孕んだそれは、昇降口に向かうにつれ存在を強く主張していった。湯でも沸かしているのではないか、なんて馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。夏の蒸した空気は人の思考を少し狂わせる程の力を持っていた。
ロッカーを開いて靴を履き替える。窓際に並ぶ傘立てから、朝置いたビニール傘を抜き出した。外に続くガラスドアへと足を進めるごとに、空気が湿度を増していく。サウナと言われても信じるほどの蒸し暑さに、烈風刀は小さく眉根を寄せた。
両開きのドアをくぐり抜けると、一気に湿り気がまとわりついてくる。街なかでよく撒かれているミストの下を潜り抜けた時を思い出す。肌で感じる温度は正反対だが。
「あっつ!」
後ろから叫びに近い声。しかめ面で振り返ると、そこには同じような顔をした双子の兄がいた。普段はぱっちりとした鮮やかな緋色の瞳は瞼の奥に半分ほど隠れている。八重歯がチャームポイントの大きな口はへの字に曲がっていた。うへぇ、と下がり調子の重い声が暗さを増したコンクリートへと落ちていった。
声に出さないものの、烈風刀も全く同じ心地だ。ただでさえ蒸し暑い日々が続いているというのに、今日に至っては朝から雨が降る始末である。一時は激しく音をたてて地を打っていた雨粒は、ホームルームの時点でもう姿を消していた。けれども、彼らがもたらした水分はしっかりと空気に残っているのだ。夏の気温、日差し、そして水気。全ては不快指数を凄まじい勢いで増加させていった。
「やっぱ傘いらなかったじゃん」
うっすらと日が差す空を見上げ、雷刀はどこか得意げに言う。事実、彼に手には烈風刀のように傘は無い。調子の良い言葉に、弟は眉間に皺を刻んだ。
「朝は降っていたでしょう。何言ってるんですか」
「でも烈風刀が入れてくれたし? 一本でじゅーぶんだったじゃん?」
「無理矢理入った、の間違いでしょう」
部屋を出た時点で鈍色の曇り空。数分歩いたところでポツポツと降り出し、すぐさま音を響き渡らせるほどの勢いとなった。降水確率四〇パーセントを過信し傘を持たずに出てきた兄は、入れて、と己の差した傘に身体をぐぃっと押し入れてきたのだ。持っていた白い柄は当然のように奪われ、当たり前のように身を寄せられ。狭い、頼む、と言いあいながら登校したのをあまり人に見られなかったのは今日唯一の幸運だ。不運の全ては傘を持たない自業自得の片割れがもたらしてきたのだけれど。
「あっつ……すげーにおい……」
眇目で見やる弟のことなど気にもかけず、雷刀はうんざりとした調子で声を漏らす。雨上がりの世界は、絡みつくような熱気と湿気、独特の臭いで満たされていた。鼻をかすめる臭気に、烈風刀は口元を歪める。ほこりっぽいような、湿っぽいような、土っぽいような、粉っぽいような何とも言えない臭いは、己の好みにはかすりもしないものだ。蒸し暑い空気も相まって、不快感ばかりが募っていく。
「なんだっけ。名前あんだっけ?」
「あるんですか?」
朱の声に、碧は首だけで振り返る。動いた翡翠の瞳に、顎に手を当て宙を見上げる兄の姿が映った。夕日より鮮烈な朱い頭が徐々に傾いていく。呻きに似た声がまっすぐになった口から聞こえた。
「あったはず。こないだなんかで見た」
「ひとつも覚えてないではないですか」
うーん、と喉を鳴らす兄に、弟はうんざりとした表情で返す。情報などとは到底言えないほど、何もかもがあやふやだ。おそらくたまたま思考に引っかかったそれを吟味せず直接吐き出しただけなのだろう。感覚ばかりが鋭い片割れはいつだってそんな調子だ。
「降りそうな臭いは『ペトリコール』でしたっけ」
「そんなんも聞いた気がする……でもなんか違う……もっとすげー名前だった……」
なんだっけー、と朱は重い声で繰り返す。薄くなった雲から姿を現し始めた夕日が、テスト中のそれに似た顔を照らし出した。
うんうんと唸る片割れを横目に、碧は携帯端末を取り出す。開いたウェブブラウザ、角が丸い入力欄に『雨上がり 臭い』と打ち込む。硬さが窺える指が虫眼鏡アイコンをタップした。コンマ数秒で現れた画面、その一番上に、少し大きな文字が並ぶ。『雨上がりの匂いはゲオスミンと呼ばれ』という一文が青色でハイライトされていた。
「『ゲオスミン』だそうです」
「そう! それ!」
短く告げる弟に、兄は叫ぶように返す。剣胼胝が残る人差し指がまっすぐに伸び、白い端末を指し示した。
「もうちょいで思い出せたのに」
「絶対思い出せませんよ」
唇を尖らせる雷刀を、烈風刀はバッサリと切り捨てる。思い出せたし、と膨れ面で漏らす兄を横目に、弟は手にした小型端末を鞄にしまう。そのまま、一人歩き出した。烈風刀、と慌てた調子で名前を呼ばれる。気にすることなく、少年は歩みを進める。迫る足音、並ぶ足音。
「すげー名前だな。ゲオスミン」
「そうですね。何というか……考えつかない響きです」
「分かる」
味わうように、記憶に刻むように、朱は立ち込めるそれの名前を繰り返す。覚えたての言葉を何度も口にする子どもとまるきり同じだ。ゲオスミン、と碧も口の中で呟いてみる。堅苦しく力強い響きは、ペトリコールと対を成す言葉とは到底思えないものだった。
茜に照らされる中、兄弟は帰路を進んでいく。蒸した空気といかめしい名前の臭いが二人にまとわりついていた。
雨、一人、コインランドリー/ライレフ
ゴウンゴウン。低い音をたてて銀の筒が回る。ガラス戸を隔てた中、音も無く白い布も回る。無骨な機械の中で柔らかな布が持ち上げられては落ちを繰り返すさまはさながら餅つきだ。普段使っている縦型洗濯機では見られない、ある種珍しい光景である。
雨続きで。洗濯物は部屋干しでもなかなか乾かなくて。でも溜まった欲望は抑えられなくて。愛情を注ぎ注がれる瞬間が恋しくてたまらなくて。
結果、小雨の中コインランドリーを訪れ、わざわざ金銭を使い愚かな情事で汚したシーツを洗う今に至る。
ゴウンゴウン。低い音が一人きりの建物内に響く。規則的な音色は、うっすら聞こえる雨音も相まって眠気を誘うような響きをしていた。きっと、自業自得の疲れが残っているのもあるのだけれど。
洗濯段階を終えたシーツは、とっくに乾燥段階に入っていた。大型の洗濯乾燥機をシーツだけが占領するのはなんとも贅沢である。本当ならば他の洗濯物も持ってきたかったが、一人で運ぶにはこれが精一杯だ。二人で運べばよいのだが、己の欲望に付き合わせた――あちらも乗ってきたのだから連帯責任だなんて思うのは少し勝手がすぎる――恋人の身体に鞭打って出歩かせるのは気が引ける。持っていける分中途半端に洗うよりもシーツ一枚だけに絞ってしまった方がいいだろう。それに、普段使わないガス乾燥機に耐えられない衣服が万一混じろうものなら大問題だ。
回る布の横、小さな電子パネルへと視線をやる。古めかしい赤いデジタル数字は、終了まで残り十分を切ったことを示していた。盗まれるのではないかという不安がつきまといずっと座って始終を見ていたが、やっと終わりが来るらしい。ふぅ、と何もしていないというのに小さく息を吐く。なかなか見ない光景は面白かったが、八割方は単調で代わり映えがしない動きだからか最終的に退屈さが勝っていた。
ゴウンゴウン。白い布が洗われ乾かされていく。昨晩の欲望など全て洗い流してまっさらにしていく。綺麗に消し去って日常へと帰らせてくる。
自動ドアの外を見やる。外はまだ小雨が続いていた。天気予報も向こう一週間は雨である。何しろ梅雨に入ったのだ。雨が降るのは自然であり当然である。それを分かっていて、シーツを干すのが難しい天気だと知っていてベッドに雪崩込んだのだから己は大概である。我慢はしたのだ。爆発した時が運悪く悪天候の日々と重なっていただけで。そんな言い訳を考え、少年はまた息を吐いた。
ゴウンゴウン。洗われ乾かされ、シーツが回る。昨晩の熱よりもずっと穏やかな温かさに触れるまで、あと八分。
朝のお楽しみは夜から/嬬武器兄弟
朱い瞳が青白い庫内を見回す。台所の一角にある冷蔵庫の中身は、普段よりも閑散としていた。牛乳は残っているものの、手から伝わる重さをみるにあと一杯分ぐらいか。買い足す必要があるだろう。卵はまだあるから買わなくてもいい。野菜は玉ねぎを使い切ったところだったはずだ。軽く整理しながら保存している食材を確認していく。明日の買い物で余計なものを買うのは避けたいのだ。
ガサゴソと音をたてて、庫内に手を入れ片付けていく。三つ重なったの納豆パックの影、少し奥から食パンの袋が発掘された。皺の寄ったビニールに書かれた賞味期限は明後日。ちょうど二枚あるから、明日の朝食に使えばいいだろう。
牛乳。卵。食パン。食材が頭の中に並べ立てられていく。全てが繋がった瞬間、青白い光に照らされた瞳に輝きが宿った。
「烈風刀ー」
冷蔵庫の扉を閉め、雷刀は弟の名を呼ぶ。何ですか、と返ってきた声は少しだけ遠い。微かに聞こえる物音から、彼もまた部屋の整理をしているのが窺えた。自身の手によって掃除は行き渡っているだろうにマメなものである。
「明日の朝、フレンチトーストでもいい?」
「いいですよ」
了承の声に、兄はよっしゃと小さく声を漏らす。早速閉めたばかりの扉を開け、器用な手付きで材料を取り出した。
卵を割ってほぐし、砂糖を気持ち多めに入れ、残っていた牛乳を全て注ぎ入れて混ぜる。ジッパー付きの保存袋に食パンを一枚ずつ放り込み、先ほどの卵液を等分して注いでいく。入念に空気を抜いて、ぴっちりと閉じた。軽快な足取りで冷蔵庫に戻り、整理して少し広くなった庫内に袋を横たわらせて置く。明日の朝に思いを馳せながら扉を閉じた。
「別に明日の朝でもいいでしょうに」
隣から声と水の音。目を向けると、手を洗っている烈風刀が映った。濡れた手がスポンジを掴み、シンクに放り込まれたままのボウルをひょいと取って洗い出す。あんがと、と礼を言うと、ついでですから、と事も無げな声が返ってきた。
「そーだけどさ。やっぱ時間置いて染みこませたやつのが美味いじゃん?」
漬け込み時間を要するフレンチトーストだが、時間をかけず液を染みこませる方法はある。食パンにフォークで軽く穴を開け、卵液と一緒に容器に入れ電子レンジで軽く温めるだけでも十分によく液は行き渡るのだ。手軽さと手早さを考えるとそちらの方がいいが、やはり時間があるのならばじっくりと漬けて染みこませたい。長い時間をて甘い卵液を全て吸い込んだフレンチトーストは、崩れそうなほどトロトロで美味しいのだ。
それにさ、と雷刀は人差し指を立てる。洗い物を拭いて片付けた弟は、タオルを畳みながら兄へと顔を向けた。
「明日の朝ごはんが決まってたらなんか楽しいだろ? 楽しみで早く起きれそうじゃん?」
にへらと朱は笑う。所謂時短レシピはある。それでも美味しくできあがる。けれど、このワクワクした期待の気持ちだけはどうやったって生み出せないのだ。それに、せっかくの休みなのだからちょっとの楽しみや幸せを用意しておきたいではないか。
碧い目がぱちりと瞬く。丸いそれが、ふっと柔らかな線を描いて細くなった。蛍光灯に照らされた瞳に宿る色は温かで穏やかだ。
「そうですね」
「だろー?」
「でも、楽しみすぎて眠れない、なんてことにはならないでくださいよ」
「さすがにそれはねーって!」
軽口を叩く烈風刀に、雷刀は大きく返す。笑みを隠しきれない軽やかな響きをしていた。夜も随分と更けた頃だというのに、キッチンは明るく温かな空気が満ちていた。
朱は白い扉に視線を移す。少し固い大きな手が、つるりとしたそこを愛おしげに撫でた。
真夏のお手入れは優美に/ロワ→ジュワ
春のくさはらを思わせる緑が、まさしく壊れ物を扱うかのように丁重な動きですくい上げられる。白い手袋に包まれた手に握られるブラシが、ウェーブがかった若草色をそうっと、そうっと撫でていく。夏の湿気を薄くまとった緑髪は、丁寧な指先によって柔らかさと軽さを取り戻し始めた。
髪を梳かれる女も、髪を梳く男も言葉一つ発しない。男の方は、これ以上無く真剣な面持ちで手を動かしていた。万が一にも髪が引っかかるなんてことがあれば喉を掻き切る、と言わんばかりの鋭い輝きと危うさ、そして恭しさが彼を包んでいた。同時に、これ以上に無い褒美を賜ったような幸福に満ちた表情をしていた。
女の方は、触れられているというのに表情らしい表情が無い。長い睫に縁取られた麗しい目はうっすらと細くなっている。化粧の気配が無いのに鮮やかに色付いた口元はまっすぐに閉じられていた。動きの少なさからも眠っているのではないか――それどころか、生きたヒトではなく一つの美術品なのではないかと思わせるような、人知を超えた何かを醸し出していた。必然、男の動きに全く反応をしない。美しい長髪は好き放題にされていた。
ボリューミーな髪全てに手を施し終えたのか、男はブラシを傍らの教壇に置く。大ぶりな櫛を離した手が緑をさらい、白い手袋の上にほそやかな緑がまとめられていく。それもまた、恭しくこまやかな動きだった。
柔らかな布地の上で、シルクのようにすべやかな髪が形を変えていく。三つに分けられた緑は器用に編み込まれ、最後はうなじより少し高い位置で丸められた。長いピンをいくつか通して固定された髪は、つるりと滑っていくようなつややかさを失うことなく美しい球状にまとめられている。まるで初夏を知らせる葉桜のようなみずみずしさと鮮やかさがあった。若干低い位置でまとめられている様はうっすらと幼さを漂わせる。反して、ぴょいと跳ねる後れ毛は心臓が跳ねるほどあでやかだ。どこを取っても豊かな体つきや澄ましたかんばせとは印象が全く異なるが、相反することなく調和していた。むしろ、冷たさすら感じる大人然とした姿に可愛らしさと艶やかさが添えられ、更なる魅力を引き出していた。
「どうですか」
鏡を手に男は問う。ミュージカルのようななめらかな歌声に似た響きをしていた。問われた女は唇はおろか表情筋すら動かさない。しかし、その表情が心なしか晴れやかになったように見えるのは気のせいではないだろう。なにせ、剥き出しの背を覆い熱を閉じ込めていた長い髪がいっぺんに取り払われたのだ。熱を孕んでいた背を撫ぜる涼しさは、いっとう心地の良いものだろう。
彼女に心酔する男もそれを感じ取ったのか、満足したように二、三と頷く。あぁ、と漏れ出た感嘆の吐息はとろけたものだった。まるで恋人に愛を囁くような響きをしていた。
「……あら」
微かな音をたて、音楽室の前方にある自動ドアが開かれる。飛び込んできたのは、どこか固さがある少女の声だった。男の青い瞳がすぃと動き、教室と扉の境目で立ち尽くす生徒を見る。扉を開けた張本人であるグレイスは、眇めた目でうろうろと教室中を眺めていた。『気まずい』という心の中身が顔面にバッチリと現れている。
「あぁ、もう授業の時間でしたか」
「いや、まだよ。私がちょっと早く来ただけ」
仮面の奥で柔らかく笑う青年に、少女はゆるく首を振る。事実、黒板の取り付けられた時計は午後一番の授業を始めるにはまだ早い時間を示していた。
「……あら?」
宙を彷徨っていた躑躅の視線がピタリと止まる。マゼンタの双眸に映るのはつややかに輝くエメラルドグリーンだ。音楽の担当教師であるシャトー・ロワーレが『ジュワユース』と呼んで愛してやまない彼女の髪は、普段と違い美しい球体となり形の良い頭を彩っていた。常は床についてしまうのではないかと気に掛かっているだけに、綺麗にまとめられた姿は少女の心に安心感をもたらす。同時に、見た者全てを惹きこむような美麗さに目を奪われていた。
「涼しそうでいいわね。綺麗」
「よかったですね、ジュワユース」
固かった表情をやっと緩めた生徒の言葉に、音楽教師は愛剣の顔を覗き込む。瞬きすらしない金の目は依然まっすぐと虚空を見つめるだけで表情が変わる気配も無い。それでも何かを感じ取ったのか、勝手に何かを解釈したのか、青年はうんうんと満足げに頷く。異常であるが、いつも通りの光景だった。少なくとも、あまり物怖じしないグレイスがツッコミの一つもしない程度には。
「最近よく結んでるわよね。貴方がやってるの?」
ジュワユースはほとんど動かない。剣の精と噂される彼女が歩く、それどころか指先を動かす様子すら、少女は見たことがなかった。顔の筋肉一つすら動かさないことで有名だ。妖精だし人間とは感性が違うんじゃない、いやロワーレ先生が何でも押しつけるからでしょ、と生徒の間では一つの謎として話題に上ることは多々ある。事実は所有者本人すら知らないのだけれど。
「はい。そのままでは背中が暑そうですので」
にこやかに答え、ロワーレは萌ゆる春山のような髪にそっと触れる。手袋越しでは感触は分からないだろうが、布地に引っかかることなくさらりと流れていく様からよく手入れがされていることが分かる。当然だ、所有者は執着を通り越した恐ろしい何かを感じるほど日々愛を囁き熱心に注いでいるのだ。日頃の手入れに瑕疵など一つもなかった。
普段、ジュワユースは豊かな長髪をまとめることなく垂らしている。床に毛先が触れても一切反応しないほど――ロワーレは非常に慌てるが――無頓着だ。しかし、ある夏に彼女は言ったのだ。あつぃ、と。
そこからのロワーレの動きは素早いものだった。剣の姿であれヒトの姿であれ手入れの頻度と入念さを増し、共にいる際は空調で心地良い温度を保つことを欠かさず、最終的には背を覆ってしまう長い髪をまとめて熱を逃がしてやるようになった。本人から否定的な反応がないのを良いことに、青年は様々なヘアアレンジを試し始めた。ポニーテール、ツインテール、ハーフアップ、多様な編み込み、そして今日のようなお団子。様々な髪型が精の頭を彩った。今のところ抗議の声も喜びの声も無い。
へぇ、とグレイスは感心したように息を吐く。彼女自身、姉のような存在にヘアアレンジをして遊ばれることが多い。年頃の少女らしくあろうと雑誌やウェブサイトを熱心に漁った時期もあった。それ故に、目は肥えている方だ。その感性をもってしても、ジュワユースに施されたヘアアレンジは見事なものだった。『暑さをしのぐ』という機能性の中に、美しさや艶めきを残すのは初心者にはなかなかできないことだ。音楽が専攻であるこの教師は、己の髪に頓着がなさそうなこの教師は、それを見事にやってのけたのだ。これが『愛』というやつだろうか、と少女は考える。それにしては、熱烈を通り越して苛烈だが。
「そろそろ戻りましょうか」
ロワーレはジュワユースの細い肩に触れる。途端、美しい緑髪と健康的な肉体は消え去った。残るのは剥き身の剣だ。授業の時間が近いから本来の姿に戻ったのだろう。ボルテ学園の音楽教師が愛剣をタクトとして使うのは有名な話だ。もちろん、生徒であるグレイスも知っている。席が最前列であるため、その切っ先が目の前を横切る恐ろしさを何度も味わっていた。
「いいの? せっかくやってあげたんでしょ?」
躑躅は首を傾げる。あの毛量、あの手の込みようから見るに、髪をゆわうにはある程度の時間がかかっただろう。そして、おそらくそれはゲームのセーブデータのように保存などされず、次に会う時には全て解けている。好きな人――ヒトではないけれど――の新たな姿をそうも簡単に見れなくなってしまってもいいのだろうか。疑問で彩られた声と瞳に、仮面の奥の瑠璃色がぱちりと瞬く。あぁ、と漏らした低い声はどこか柔らかで甘くて、紡ぐ口元は綻んでいた。
「どんな姿であっても、ジュワユースは美しいですから」
ロワーレは白い仮面の奥でにこりと笑う。そう、とグレイスは曖昧な笑みを返す。答えになっていないが、それ以上を突き詰める度量を少女は持っていなかった。突き詰めれば授業が三つは潰れる羽目になるだろう。
トトト、と軽い足音が音楽室の床を転がっていく。教壇斜め左の最前列、自身に割り当てられた席に座り、グレイスは小さく息を吐いた。余計なことを言って捕まらなくてよかった、という安堵がこれでもかとにじみ出ていた。
白い指先が躑躅色の髪に触れる。癖が強く長いそれが、動きに合わせてふわふわと揺れる。今日、彼女は自身で髪を整えていた。まだまだほつれやゆるみが目立つが、朝の短い時間でやったにしては上出来である。それでも、ロワーレが整えたものよりも劣っているのは少女自身が一番分かっていた。
まだ昼休みであることを確認し、グレイスは携帯端末を取り出す。動画アプリを開き、検索窓をタップする。細長い入力欄に『ヘアアレンジ ロング やりかた』と短いワードが刻まれた。
恋人要項/ライレフ
頭とソファの背もたれがぶつかり鈍い音をたてる。覚えるはずの痛みは頭の中に渦巻く疑問によって誤魔化されてしまった。うぅん、と呻き声が喉から漏れる。唇はぴったりと合わさり、真一文字を描いていた。
背もたれに預けた体重を移動させ、雷刀は元の姿勢に戻る。膝を肘置きにし背を丸めて携帯端末を眺める姿は褒められたものではない。けれど、今この手にある液晶画面の中身を堂々と披露するのは己であれど難しかった。
手のひらに収まる程度の携帯端末、その煌々と光る液晶画面に並ぶのは『恋人』『アピール』『積極的』『ドキドキ』など、どこか乙女チックで甘ったるい、まばゆいほどに輝いて見える単語ばかりだ。画面から砂糖やら蜜やらのような匂いが漂ってきそうなほどの密度である。普段ならば決して見ないようなページだ――今は藁にも縋る思いで見ているのだけれど。
先日、長年積もりに積もった恋心が報われた。雷刀は実の弟である烈風刀に告白し、想いが通じ合ったのだ。それこそ踊らんばかりに喜び、歓喜のあまり涙し、溢れた愛をたっぷりぶつけたほどである。
交際は順調である。だが、順調すぎるのだ。お互い初めての交際ということもあり、手を出しあぐねているのが己でもよく分かる。もっと『恋人』らしいことをしたい。もっと『恋人』らしくありたい。そう思う心はどんどんと大きくなり、少年を突き動かした。手始めに、インターネットで情報を集めるという些細なことから。
そうして『恋人らしいこと』と曖昧極まるワードで検索をかけ、トップに出たページから片っ端から読み漁り。どれも短いページだというのに、夜はすっかりと更けていた。
問題はその記事の内容だ。華やかな装飾で綴られたページに書いてあることはほぼ同じだった。『手を繋ぐ』とか、『抱き締める』とか、『一緒に出掛ける』とか、『メッセージを送りあう』とか。
どれも日常的な行動だった。ふらふらと歩く己を引き留めるために手を繋ぐことは多い。抱き締めるのだって感情表現の一つとして度々行っている。一緒に出掛ける、メッセージを送るに至っては日常に染みこんだ必然の行動であった。買い物に行くには手が多い方が便利であるし、メッセージを交わさなければ料理や風呂の段取りが付かない。『恋人らしいこと』のほとんどはもう達成しているのだ。
頭を抱えたのは言うまでもない。だって、まさか『恋人らしいこと』をほぼ達成しているだなんて思わないではないか。何年も共に暮らしている肉親であることも大きいだろう。にしたって、こうも早々とクリアしているとは思わないではないか。今まで行ってきた全ての行為に恋人らしい甘やかでときめく要素は無かったけれども。
煌々と光る強化ガラスを指で弾く。『恋人としたこと十選!』と題されたページがスクロールされていき、下部で止まる。そこに並ぶのは直球的な一言だ。『キスする』という、一番に思い浮かぶ行動。
はぁ、と雷刀は深く息を吐く。あまりの重さに質量を持ち床を転がっていきそうな勢いである。当然だ、唯一残された『恋人らしいこと』が現時点で一番ハードルが高い、雲の上にあるような手が届かないものなのだから。
「キスなぁ……」
呟いた途端、ぐちゃぐちゃと掻き回されていた思考がピタリと止まる。まるで映画のスクリーンのように、弟の姿が、顔が思い浮かんだ。キス。口付け。頭の中で言葉を重ねる度、意識は自然と唇へとズームアップしていく。それが間近で、触れそうで、くっ付きそうで。
「腰を悪くしますよ」
ぼけにぼけた意識に澄んだ声が飛び込んでくる。丸まりに丸まった少年の背が、バネめいた動きで勢い良くまっすぐに正された。うわ、と驚きの声が後ろで聞こえた。
まずい。見られた。いや隠してたし見えていないか。バレたのでは。焦燥が頭を染めゆく。普段通りに返そうと口を動かすも、声帯は仕事を果たさなかった。ひゅ、と情けない音をたてて息が漏れ出るだけだ。
気にしていないのか、声の主である弟は何も言わずに隣に座った。揃いの携帯端末を取り出し、軽い指捌きで操っていく。おそらくメッセージや天気を確認しているのだろう。洗濯物は少しばかり溜まっていた。
ドッ、ドッ、と心臓が広がっては縮み、体内に爆音を響かせる。肉と皮膚を破って外に漏れ出てしまってもおかしくないほどの激しさだ。恋人のことを、それもあまりにも格好が付かない内容を考えていたら本人が現れたのだからこうなるのも仕方の無いことである。
「どうしたんですか?」
訝しげな声が飛んでくる。いつの間にか項垂れていた頭をバッと上げると、そこにはこちらを見る烈風刀の姿があった。透明度の高い碧い目は半月になってこちらを見据えている。整えられた眉は少しばかり中央に寄っているように見えた。
「あ、いや、なんにも? べつに? ふつーだけど?」
「普通の人はそんな動きをしないんですよ」
バタフライめいて視線が宙を泳いでいく。言葉を吐き出す口は音の数よりも動きが多かった。指先は素早く携帯端末をスリープ状態にし、軽快にパスして恋人から遠ざける。明らかに不審者の動きであった。これを普通と呼ぶならば社会が混乱に陥ってもおかしくはない。もちろん、冷静極まりない碧にはすぐさま指摘された。
え、あ、うん。しどろもどろに声を漏らし、雷刀は再び項垂れる。頭が痛い。顔が熱い。指先が冷たい。地に足が付いている感覚が無い。まるで高熱を出した時のようだ。実際はただ身体全てが羞恥に染まっているだけなのだけれど。
「また何か隠しているんですか? 先週の化学のテキスト提出し忘れたとか」
「いや、それはちゃんと出した」
訝る弟に兄は手を振って否定する。じゃあ何なんですか、と溜め息交じりの声が飛んできた。心に刺さったそれが痛みを訴え、また心拍数を上げていく。このまま身体ごと破裂してしまいそうな勢いだ。
「……あのさ、オレら……こう……あれ、……付き合ってんじゃん?」
「……まぁ、そうですね」
おそるおそる言葉を紡いでいく。問いにはきちんと肯定が返ってきた。安堵し、朱は深く息を吐く。隠していた携帯端末を右手に持ち、スリープを解除する。そのまま、輝く画面を碧へと向けた。
「恋人らしいこと分かんなくて調べてた……」
「あー……」
隠し立てても疑われる、最悪心配をかけるだけだ。ならば、恥を忍んで正直に白状した方がいい。結果、返ってきたのは生返事だった。けれど、少し高い調子のそれには呆れも嘲りもない。むしろ、同感の響きがあった。
「オニイチャンだって努力すんだよぉ……」
「あー……まぁ、はい。そうなりますよね。そういうところは真面目ですよね」
絞り出した声に何とも言えない声が返される。褒められているのかけなされているのか分からないものであった。少なくとも、慰めは多少なりとも感じる。ほのかに羞恥の色が見えるのは気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「まぁ、そんで色々見たんだけどさ。出てくるやつ大体もうやってて……」
「はい?」
沈んだ声で説明を並べ立てていくと、ひっくり返ったような声が返される。反射的に隣を見ると、そこには頬に紅を浮かべた恋人の姿があった。潤いのある唇は少しばかり震えている。丸い瞳は忙しなく瞼の奥に隠れては現れを繰り返していた。
「だって手ぇ繋ぐのもぎゅってすんのも出掛けんのも連絡すんのも全部やってんじゃん! 出掛けんのとか毎週だし!」
「それはそうですけど……、いや、でも買い出しをデートにカウントするのはおかしくないですか!?」
でーと。
烈風刀が放った言葉を思わず復唱する。でーと。デート。そうだ、恋人と出掛けることはデートと言うのだ。けれど、己たちの毎週の買い出しと『デート』というイメージはかけ離れている。たしかに、彼の言ったように『デート』ではないだろう。そっか、と思わず感嘆の声が漏れた。
「……え? じゃあ今度ちゃんとデートする?」
え、と少し高い音が二人の間に落ちる。対面、日焼けしていないかんばせがみるみるうちに赤に染まっていく。いつぞやの花見で見た先生の赤ら顔がこんな感じだっただろうか、とどこか外れたことが頭の中に浮かんだ。
赤い顔が俯いて隠れて、つむじがこちらに向けられる。浅葱の髪の下からは、あ、う、と溺れて喘ぐような音が聞こえてきた。変なことを言っただろうか。いや、確実に変なことを言った。突然『デート』に誘うなど、いくら恋人とは言え突飛も突飛だった。こういうのは完璧なルートを立てて、雰囲気を作って、さらっとやるものなのだ。少なくとも、レイシスに借りた少女漫画ではそうしていた。こんな間抜けに誘うものではないのだ。あまりの浅慮に今度は雷刀が俯く番だった。
「…………し、ましょう」
細い、吐息にも似た音が静まりきった部屋に落ちる。顔を上げると、そこには相変わらず赤い顔をした弟がいた。目は潤んでいるも、どこか据わっている。口元はぎゅっと結ばれ美しいまでの一本線を描いていた。
「デート、しましょう」
「え? は? い、いいのっ!?」
「するんですよ」
思わず立ち上がる雷刀に、烈風刀は低い声で返す。地に響くようなそれは、いつぞやお化け屋敷に入る前に聞いた腹を括った時の声と似ていた。反して、己は高い声で返す。間抜け極まりなかった。
思わず後退りそうになった身体を、伸びた手がTシャツの端を掴んで引き留める。逃がさんと言わんばかりだった。事実、こんな些細な動きと拘束だというのに、一ミリたりとも動けなくなる。餌を求める魚のようにぱくぱくと口を動かすのがやっとだった。
「デートスポット調べましょう。特集記事とかどこかにあるでしょう」
ぐっと引かれ、兄はまたソファに腰を下ろす。すぐさま弟が拳一個分距離を詰め、自身の携帯端末を取り出して見せてきた。検索エンジンの入力窓には、早くも『ネメシス デート 定番』と入力されていた。
「……こういうのってオレが決めてくるもんじゃね?」
「二人で決めて二人で行きたいところに行った方が満足できますよ」
ほら、と烈風刀は掴んだままの裾を引っ張る。誘われるがままに、大小様々な文字が並ぶ液晶画面へと視線を移した。
碧と朱がまばゆい画面を一心に見つめる。夜はまだ長い。
しあわせは二人で/ライレフ
皮膚の厚い指が強化ガラスをなぞっていく。指が弾くように動くと同時に、ガラス越しの情報が勢いよくスクロールしていく。ごちゃまぜの情報が次々と液晶に表示されては消えていった。
タイムラインを一通り見終え、雷刀は携帯端末の電源ボタンを押す。煌々と光る画面が暗闇一色に染まり、光を反射して鏡のように持ち主の顔を映し出した。
「烈風刀ー」
物言わぬ端末をポケットに放り込み、兄は弟の名前を呼ぶ。隣に座る弟は、目の前の画面から目を離すことなく、何ですか、と短く返した。
「ちょっとこっち向いて?」
「何です――」
熱心に今日の献立探しをしていた目がこちらへと向く。わずかに寄せられた眉、じとりと半月になった苔瑪瑙、薄く開いた口、スリープ状態にした端末を握る手、半分ひねってこちらを向いた身体。恋人はしかりとこちらへと意識を向けた。雷刀もまた同じように向き合い、半歩擦って寄って距離を詰める。そのまま、倒れるように片割れの胸へと飛び込んだ。うわ、と少し上擦った声が照明光る天井へと昇っていった。
あまり大きく体重をかけなかったこともあり、倒れ込んだ身体は弟の鍛えられた胸にしかと受け止められた。何なんですか、と棘が生えしきる声を気にすることなく、朱は腕を伸ばし目の前の身体をぎゅうと抱きしめる。薄い布越しに温度が重ね合わさり、心地よい熱を覚える。まだ風呂に入っていないからか、彼の香りを普段よりも強く感じた。腕の中の熱がひくりと震える。
「……幸せ?」
ぎゅうと更に腕に力を込め、ぴとりと更に身体を寄せ、雷刀は短く問う。息の詰まる音。数拍、重く吐き出される音。上から降り注ぐそれは、腕の中にいる彼の心情をめいっぱいに表していた。
「本当に何なんですか」
「いやさー、『触ると幸せホルモンが出るのは心を許してる人相手だから』っての見てさ」
指を動かすだけで繋がるインターネットの海は、色んな情報が満ちて流れて現れては消えてゆく。つい先ほどたまたま目に入ったのは、アプリがおすすめとして差し出してきた短い投稿だった。
皮膚接触で幸せホルモンが出るのは心を許している相手だからであり、そうでない者との接触は攻撃と受け取る。
ゴシック体のフォントが記す情報には明確なソースは記されておらず、真偽など分からない。ただの与太話、ネットの噂、と一瞬で記憶から消え去るようなものである――己にとっては違うが。
真偽など分からない。ならば、試せばよいではないか。ちょうど隣には愛する恋人がいるのだから。
は、と疑問符が山盛りに盛りつけられた声が降ってくる。当然だ、いきなり幸せだの何だのと言われてすぐさま理解しろだなんて無茶である。相手が主席であり続けるほど優秀な頭脳を持つ烈風刀であれど、だ。けれども彼の聡明なる――そして兄の突飛な言動に慣れた脳味噌は、たった数拍で事態を理解したらしい。ほの寒さで白む肌にぶわりと紅色が広がり散っていった。整えられた唇がはくりと開いて閉じてを繰り返す。まるで今この現実を咀嚼しているようだった。
「………………幸せ、ですよ」
はぁ、と大きな溜め息。それに紛れるように小さな言葉がつやめく唇からこぼれ落ちた。胸に飛び込んで頭をうずめた兄の耳にも、きちんと落ちて入って染みていった。
そっか、と雷刀は漏らす。しかりと噛みしめるような、それでいて弾んで弾んでどこかにいってしまいそうなほど浮かれた、この世の幸福を全て詰め込んだようなとろけた声をしていた。衝動に身を任せ、目の前の鍛えられた胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。恋人の確かなる声によってもたらされた愛を、溢れんばかりの幸せを全身で表す。伝わったのだろう、伝えられたのだろう、あやすように背中をトントンと軽く叩かれた。
「雷刀」
愛しい声が己の名を紡ぐ。じゃれつく猫のように動かしてた頭を止め、兄は顔を上げる。目の前には、依然頬を朱色に染めた弟の姿があった。浅葱の瞳はどこか潤んでいて、ゆらゆらと揺れ彷徨っている。口元はまるで定規で線を引いたかのように結ばれているようで、真ん中あたりがどこかもにゃもにゃと動いていた。そんな口元が動き、雷刀、とまた名前を呼ばれる。なーに、と返す声は己でも笑ってしまうほど甘ったるい響きをしていた。
背に回されていた手が動く。布の上を滑って、どこかに行ったそれが持ち上がって、己の頬にひたりと当てられた。どんな時でも手入れを欠かさない手はすべらかで、それでも武器を扱う者らしい固さが目立つ。肌を通して伝わる温度が普段よりも高く感じるのは、きっとほのかな冷たさをまとった空気のせいだけではないはずだ。
「……幸せ、ですか?」
見上げた先、眉を少しだけ下げた弟は細い声で問いを漏らす。揺れる響きが耳朶を撫でて鼓膜を震わせる。行動の意味を、言葉の意味を理解した瞬間、朱はこれ以上ないほどの笑みを浮かべた。
「トーゼンじゃん!」
半ば叫ぶように愛を高らかに謳う。頭を動かし、頬に触れた手にすりすりと擦りつく。もっともっと幸せホルモン――否、幸せが欲しいのだ。愛する人と触れ合う幸せが。
小さく息を吐くのが聞こえる。揺れていた碧の瞳が輝く朱をまっすぐに見つめる。朱もまた、正面からその澄んだ碧をまっすぐに見つめた。
小さな、幸せに満ちた、愛に溢れた笑声が広くない部屋に二つ落ちた。
畳む
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
マキシマ先生のハロウィンボイスに脳を焼かれた結果がこれだよ。たすけてください。先生におませさんって言われたい。
死ぬほど資料漁ったけど口調あやふやだし元からマキシマ先生に死ぬほど理想と夢を見ているオタクなので色々と色々。
マキシマ先生が生徒とハロウィンを過ごす話。
今日もボルテ学園の校門は賑わいを見せていた。下校時間を過ぎた今、多くの生徒が帰路に着こうとゲートへ歩みを進めている。だが、今日この時に限っては歩みを止めている者も多い。特に初等部の幼い子どもたちは、ゲートから逸れて走っていっている姿が見受けられた。彼女らが向かった先からは、きゃいきゃいと可愛らしい声が溢れて広がっている。楽しげで嬉しげな、聞いているだけで胸が温かくなるような響きだ。
少年少女の中心は青で染まっていた。否、青い身体をした男性がいるのだ。子どもたちの倍以上はある体躯は筋骨隆々と表現するのが相応しい、丹精込めて鍛え上げらたことがひと目で分かるものだ。着衣を最小限で済ませていることもあり、美術品がごとく仕上げられた肉体は惜しみもなく晒されている。筋肉の陰影を深く刻んだ肌はきらめいて見えるほどつややかで、まるで朝露をまとっているようにすら見える。そこかしこに細かな傷は残っていれど、それすらも作品の一要素であるかのように堂々としていた。
「Foooooo! みんな、ちゃんと並ぶんだゾッ☆ 先生もお菓子も逃げないからネーッ!」
自身を『先生』と称す男性――ボルテナイザー・マキシマは、まるでポーズを決めるように両手に下げた袋を高く持ち上げる。白いそれの縁から小さな飴がいくらかこぼれ落ちる。ビシリと決めた身体に、溢れ出るほど菓子がある様に、きゃあきゃあと可愛らしい歓声があがった。
秋晴れを空風が飾る本日は十月三十一日、所謂ハロウィンである。自由な校風で有名なボルテ学園は、今日一日菓子といたずらのせめぎあいでどこもかしこも普段以上に賑やかだった。いたずらを仕掛ける者、菓子で武装し自衛する者、イベントにかこつけて菓子を食べる者、いたずらを返り討ちにせんと闘う者。学園中がハロウィン一色である。サプライズと称して教師が盛大ないたずらもとい改造を仕掛けるほどだ――別の教師にしこたま怒られていたが。
ボルテナイザー・マキシマもハロウィンを楽しむ一人だった。生徒からはいたずらを仕掛けられ、躱し、菓子を与え、菓子をもらい、と一日をこなしてきた。授業が終わった今は、初等部の生徒を中心に菓子を配っているところだ。生徒にハロウィンを楽しんでもらいたい。そんな教師としての思慮が見える姿であった。肝心の子どもたちは菓子に夢中でハロウィンなんてことは忘れている様子だけれど。
「せんせー!」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
子どもたちの中に星空まとう兎が飛び込む。初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らもハロウィンを楽しんでいるのだろう、片手には菓子がたくさん詰まった袋を抱えていた。それに隠れたハーフパンツのポケット部分は、不自然なほど膨らんでいる。何が入っているかなど、彼女らを知る者にはすぐさま理解できる。そして、理解と同時に逃げ出すだろう。初等部の双子兎は仲の良さだけでなくいたずらっ子としても有名なのだ。
「ニアGIRL! ノアGIRL! ハッピーハロウィーンッ!」
彼女たちと親しい――つまりは彼女たちの性格をばっちりと知っているというのに、マキシマは逃げることなく笑顔を浮かべていた。大きく開いた口からは、学園の外にまで響き渡るような声が弾け出る。綺麗に生え揃った白い歯が秋の穏やかな日差しを受けて輝いた。
「勿論、二人にもお菓子を用意してるゾーッ!」
袋を持った両手を器用に操り、マキシマは二つの包みを取り出す。市販の、けれども子どものお小遣いで買うにはちょっと手が届かない、程よい甘さとよく詰まった生地で評判のマドレーヌだ。透明な袋に入れオレンジのリボンで飾られたそれは、まさにハロウィンに相応しいものだ。菓子の登場に、双子兎の目が輝き出す。わー、と元気な声があがった。ありがとー、と元気な礼とともに、ニアは長い袖で隠された手を菓子へと伸ばす。ニアちゃん、と妹は姉の脇腹をツンツンと突いた。笑顔満面に彩られた目がハッと開き、腕がすぐさま引かれていく。そんな不自然な動きをしているというのに、マキシマは全く気にせず二人をにこやかに眺めていた。
「せんせー? あのね?」
「ニアたち、お菓子じゃなくていたずらがいいなー」
二人の顔は依然笑みで飾られていた。けれども、目の奥に輝くのは喜びのきらめきではなく意地悪気な影を落としていた。真ん丸な目が弓張月のように、小さな口が三日月のように弧を描いて笑顔を浮かべる。可愛らしいはずのそれは、瞳に宿るもののせいでどこか不穏な雰囲気をまとっていた。手を隠す長い袖が柳のようにぷらんぷらんと揺れる。それが膨らんだポケットに辿り着く前に、二人の額に何かが触れた。
「先生にいたずらがしたいーッ? このお・ま・せ・さ・んめッ☆」
双子の額にちょんと触れたマキシマの指に、ほんのわずかに力が込められる。離れさせるようにちょいとつつかれ、ビタミングリーンの耳がふわんと揺れる。わわっ、と兎たちは慌てた声を漏らした。
「ダメかー」
双子は揃って声をあげる。どこか晴れ晴れとして弾んだ調子なのはきっと気のせいではないだろう。いたずらめいた輝きが消えた瞳が、普段通りゆるりと口角を持ち上げた可愛らしい口元が、いたずらが失敗した彼女らの心を語っていた。
「じゃあ先生。改めてー」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
「Hmm……。じゃーあー……先生はTreatを選ぶゾッ!」
持っていってねッ、とマキシマは彼女らの手の上に先ほどの菓子を載せる。ありがとー、と元気な声が二つ重なった。
「マキシマ先生ー!」
菓子片手に駆けていく双子兎を見送るマキシマの背に鋭い声が飛んでくる。名を呼ばれ、教師はいつも通りの爽やかを通り越して暑苦しい笑みを浮かべたまま振り返った。彼の目元を覆うバイザーに赤が映る。小さかったそれはどんどんど大きくなり、すぐさまその足元まで追いついた。昇降口から校門前ゲートまでの短い距離を走っただけだというのに、声の主はゼェハァと大袈裟なほど息をこぼす。疲労で俯いていた黄色い頭がバッと上がり、同時に日に焼けていない白い手が突き出された。
「菓子配ってるって聞きました! ください!」
「魂! みっともないよ!」
ねだり叫ぶ少年――赤志魂の後ろから、青雨冷音が叫んで走って寄ってくる。走って少しだけあらわになった目元は見開かれ、焦りと羞恥でわずかに色づいて見えた。一心不乱にマキシマを見つめる腐れ縁の首根っこを掴んだ彼は、ぐっと力を入れて引き剥がす。菓子一直線の少年は踏ん張って堪えた。この調子では菓子がもらえるまで動かないことぐらい、誰にだって理解できる。
「魂BOYもハッピーハロウィーンッ! HAHAHA、元気なのはいいことだゾーッ」
はい、とマキシマはまっすぐに突き出された魂の手に菓子を載せる。ありがとうございます、と普段の彼からは想像できないほどの声が辺りに響いた。
「すみません……」
「そこまでして欲しいもんなの……?」
はしゃいで菓子を眺める少年の後ろで、冷音は縮こまって謝罪の言葉を漏らす。その後ろから疑問の言葉が飛んでくる。彼らの友人である不律灯色だ。授業のほとんどを寝て過ごしていると噂される彼は、いつもと同じ眠たげな目で菓子を手にはしゃぐ魂を眺めていた。
「イベントは楽しむものだゾッ☆ 冷音BOY! 灯色BOY! お菓子といたずらどっちにするッ?」
三人の様子を気にすることなく――否、むしろ申し訳無さそうに縮こまる冷音を気遣うように、マキシマは普段通り呵々大笑する。彼の大声量を聞き慣れた少年は、ホッとした様子でリュックサックのショルダーベルトを握っていた手を緩めた。この大音量を間近で聞いているというのに、灯色は眠たげどころか寝ているかのように瞼を下ろしている。
「お、お菓子でお願いします……」
ゴソゴソとリュックを漁る冷音の目の前に、ビニール袋に包まれた菓子が差し出される。ありがとうございます、と少しつかえつかえになりながら、青いパーカーに包まれた手がこわごわと動いて受け取る。ハッピーハロウィーン、とまた大声が空に昇っていった。少しだけ晴れやかになった表情に、薄く笑みが浮かぶ。これでは反対じゃないだろうか、と出そうになった疑問は喉の奥に押し込めることに決めたようだ。
「灯色BOYはいたずらかなッ?」
「お菓子だよ……さっさとちょうだい……」
問うて構える――もちろん冗談だ――マキシマに、灯色は呆れ返った声であしらう。けだるげに差し出された生徒の手に、教師は先ほどと同じ菓子を載せた。今にも閉じてしまいそうな目が手の中にあるマドレーヌを見つめる。またこれか、と言いたげな瞳をしていた。ふぅん、と少年は小さく鼻を鳴らす。
今しがた灯色に渡されたマドレーヌは、よくマキシマが彼に与えるものだった。まだ学園にやってきて日の浅い頃、迷い子だった少年はこれをよく食べた。いっとう好んでいるわけではない。ただ毎回それだけ数が多いから、バランスよく数を減らそうと選んで食べただけだ。しかし、マキシマにはそれが『灯色が好むもの』として映ったらしい。彼は時たま差し入れにこの菓子を少年に渡すのだ。否定するのも面倒だから、と灯色は語る。けれども、彼にとってこの菓子はまだ未発達の心の中の『思い出』のひとつとして鈍い光を灯すものであるのは確かだった。
せんせー。ありがとー。さよならー。またあしたー。幼い声がゲート前に響く。時折少女の声や少年の声も混ざる。もちろん、その中でひときわ響いて輝くのはボルテ学園英語教師――誰よりも生徒を思い行動するボルテナイザー・マキシマの声だった。
畳む
緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
ハッピーハロウィン(フライング)(内容的にフライングしないといけない)
ハロウィンだしボルテ学園は色々企画してそうだなーって感じでどうにかこうにか。毎度の如く捏造しかないよ。
ジャック・オ・ランタン眺める嬬武器兄弟の話。
リビングに続くドアをくぐり抜けると、三角吊り目と目があった。
丸っこい身体、もとい顔は深い緑と橙がまだらに散り、室内照明を受けてデコボコとした表面があらわになっている。三角の双眸は底見えぬ暗さだ。歪な口元も、目と同じほど底が見えない闇を奥に隠していた。けれども記号化された顔つきはコミカルで、愛らしさも感じさせる――リビングの机の上に一人鎮座しているのは不審極まりないが。
「おかえり」
キッチンから声。見ると、マグカップを手にした雷刀の姿があった。黒いTシャツを背にしたそれは、中身を淹れたばかりなのかほのかに湯気が見える。冬色をした手元と少しだけ厚みのある半袖とはちぐはぐだ。飲み物で暖を取る前に上着でも羽織ればいいのに、と考えてしまうのは当然だろう。今はそんなことより言うべきことがあるが。
「ただいま。何ですかこれ」
挨拶は欠かすことなく、けれども何よりも先に烈風刀は問う。このオブジェは朝の時点では影すら見ていない。今日、己よりも一足先に帰宅した兄の手によって持ち込まれたのは明白だ。
「そりゃ、かぼちゃだろ」
「分からないとでも?」
「ごめん」
茶化した風に答える朱に、碧は眇めて短く言う。すぐさま謝罪の言葉が飛んできた。互いに、言葉に反して声も口ぶりも軽い。秋風に晒され結ばれた口が解けていく心地がした。
「放課後おっさんがジャック…………えっと、かぼちゃランタンの教室やっててさ」
あぁ、と弟は思わず声を漏らす。先日、美術教師であるライオットが『ワークショップを行うので規格外のかぼちゃをいくらか売ってくれないか』と訪ねてきた記憶がよみがえったのだ。
植物も生きている以上、化けて大きくなりすぎたものや逆に他個体に栄養を奪われ小さくなってしまうものもある。味やサイズの問題で販売には回すことができない個体はどうしても生まれてしまうのだ。加工販売にまでは手が回っていないのもあり、堆肥にするなどして処分するしかない現状である。それを引き取ってくれるなど、しかもワークショップで活かしてくれるなど、こちらとしても喜ばしいことだ。日頃の付き合い――特に、あの時畑を引き継いで面倒を見てくれた人だ――もあり、無償で譲ったのだった。予備が必要だろう、と理由をつけて少し余計に引き取ってもらったのは秘密だが。
なるほど、今日がそのハロウィン特別企画ワークショップの実施日だったらしい。校庭の方から機械の駆動音や子どもたちの高い声が聞こえたのは、きっと制作の真っ最中だったからだろう。
「一番でっけーの作らせてもらった!」
「よく彫れましたね……」
目測でも両手でやっとどうにか持てるほどの大きさだと分かるほどである、化けてあまり身が詰まっていないものだろう。にしたって、かぼちゃの皮は硬くて厚い。これほどのサイズならば包丁は確実に通らず、彫刻刀でも貫通させられるか怪しいほどだ。目を一つ彫るのでも一苦労であるのは容易に想像できる。だというのに、中身はしっかりくり抜かれているのは目口の奥の闇からよく分かる。三角の目もジグザグの口も、切り口はナイフで削ったのか綺麗に整えられている。放課後の短時間でよく作れたものだと感心するほどの出来だ。
「おっさんが結構手伝ってくれたしな。こう、チェーンソーでヂューン! って」
謎の擬音とともに、兄は腕で空気を横薙ぎにする。きっとチェーンソーを操るライオットを真似しているのだろうが、その動きは明らかにランタンの形状を作り上げるには大袈裟で大雑把すぎる。そもそもこの手のものを作るにはチェーンソーよりも電動ドリルの方が相応しいのではないか。いや、最終的に立派な物が出来上がっているのだからいいではないか。思考を重ねて、喉から出そうになる言葉をどうにか押さえつけた。
「中にろうそく入れんだって。やろーぜ」
ほらほら、と雷刀はどこからかろうそくとライターを取り出した。左手に握られたろうそくは持ち主の髪よりも更に鮮やかな赤で、高校生の拳で握って尚はみ出るほど長く太い。明らかに仏壇に供えるためのものだった。かぼちゃはかなり大きいものの、さすがに入るのかと不安が浮かぶ。でかければでかいほどいい、と彼は何においてもよく言っているが、そろそろ適材適所という言葉を覚えるべきである。
テーブルに敷いた大判ラップの上に置かれたかぼちゃが持ち上げられる。台座を買い忘れたのか、雷刀はテーブルにろうそくの底面をぐりぐりと擦りつけるようにして底を広げていく。かなり無理に潰して立たせ、倒れないようにそっと火を点けた。食卓の上だけが更に明るさを増す。それもすぐさまオレンジの中に消えた。トトトと弾んだ足音に続いてパチリと軽い音が鳴った途端、部屋は闇に包まれる。しかし、目の前だけは穏やかな光で照らされていた。おぉ、とどこか上擦った声が二つ部屋に落ちた。
中のろうそくが大きいためか、直線で構成されたの顔から漏れる灯りははっきりとしたものだ。直視しては眩しいだろうが、かぼちゃで覆われることで輝かしい光は和らいでいる。LEDではなく炎だからだろうか、普段よりも柔らかな色をして見えた。
「いいじゃん」
「綺麗ですね」
何故だか二人ともひそめて言葉を交わす。まるで声と息に合わせるかのようにランタンの中で炎が揺れた。このまま消えてしまうような、消してしまうような心地に思わず口を噤む。兄もそうだったようで、隣から音が消えた。聞こえるのは、ほんのわずかな呼吸の揺らぎだけだ。
ゆらゆらと炎が揺らめく。室内だから風なんてものは無いのに、何もかも静止していて動くものは無いのに炎は揺らめく。まるで命が宿っているようだ、なんてメルヘンじみた錯覚に陥る。そういえば、ジャック・オ・ランタンは死者の魂が関わるものだとどこかで聞いた気がした。死者の魂。音も無く揺れ動くもの。見えないもの。
パチン、と軽い音が静かだった部屋に落ちる。ぶわりと光が部屋を満たす。気付けば、部屋の電気は点けられ、目の前のランタンは持ち上げられ中身のろうそくが消されたところだった。
「キレーだったな」
「……えぇ、とても」
ろうそくの後処理をしながら雷刀は笑う。烈風刀も遅れて首肯する。声帯が普段以上に震えたのは、きっと気のせいではない。
どうやら引き込まれていたのは自分だけだったようだ。滅多に味わわない炎の揺らめきとかじった程度のあやふやな知識が悪い方向に意識を引っ張っていったらしい。こんなのまるっきり子どもではないか、と内心自嘲する。兄のことを笑ってなどいられないほど己も単純な部分があるのだから嫌になる。
ぐっと目を瞑り、ぱっと開ける。目の前にはあの光は無い。ただ、かぼちゃとにらめっこする兄の姿があるだけだ。
「……これって食えんの?」
「一応食用の品種ですけれど……、化けているからあまり美味しくないと思いますよ」
「そっかー」
もったいねーけど捨てるしかねーか、と雷刀は唇を尖らせる。かぼちゃは表情を変えること無く、にらめっこを続けていた。
畳む
諸々掌編まとめ12【SDVX】
諸々掌編まとめ12【SDVX】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟4/奈+恋/雷+グレ/ライレフ
強火はコンロの最大火力を指す言葉ではない/嬬武器兄弟
掴んだ黒を口に運ぶ。歯に触れたそれはすぐに解けた――否、崩れた。味蕾を殺すような強烈な苦味とザリザリとした不快な食感が舌の上を広がっていく。砂を食べた方がマシだ、と思うほどのものである。これが食べ物であることを認めたくないほどの代物だ。今すぐ吐き出してしまいたいほどおぞましい何かだ。そんなことは許されないのだけれど。
「……雷刀」
「ダメだかんな」
対面から不安げな声が飛んでくる。この十数分だけでも三度聞いた言葉が重ならないようにすぐさま声を重ねる。有無を言わせぬような鋭さで言ったつもりが、響きは少しばかり震えた情けないものとなってしまった。聞き入れないとばかりにまた箸で黒を掴む。薄っぺらいそれはボロリと崩れ、欠片しか残らなかった。躍起になってかき集め、掴み、崩れる前に口に放り込む。凄まじい苦味と青臭さ、ざらつく食感とやけに硬い歯ごたえ、焦げ臭さがまた五感を蹂躙していった。
料理を始めてから少し経ち、ある程度の基礎は身についたと思っていた。そろそろ簡単な料理ならばレシピを見ずとも作れるだろうと思っていた。味見をきちんとすれば弟のように勘で味付けできるだろうと思っていた。全ては思い込みだ。今更気付いたところでどうにもならないのだが。
冷蔵庫には野菜が中途半端に余っている。ならば、野菜炒めにしよう。そうしてフライパンに材料を放り込んでできあがったのが、目の前にうず高く積み上がった黒の山である。材料の全ては真っ黒に焦げ付き、元の色がほとんど分からない。キャベツやほうれん草と思われるものは薄い部分が炭と化していた。そのくせ人参や玉ねぎは火が通りきっていない。豚こま肉も例外なく焦げ、噛みちぎるのも一苦労なほど固くなっている。塩胡椒で味を付けたはずが、全て焦げによって上書きされていた。だのに時折胡椒の塊が舌を刺すのだから悲惨でならない。見た目からしても、味見をしても、食べ物として成立していない。『料理』として食卓に出すなど絶対に許されない代物であった。
こんなもの、到底人様――たとえ家族で兄弟で己の料理の腕の拙さを知っている弟でも、食べさせることなどできない。結果、兄弟二人の夕飯になるはずだったそれは己の目の前にだけ置いた。弟の分は冷凍のからあげと常備菜、味噌汁でどうにか成り立たせた。冷凍食品、そして常に作り置きをしてくれている弟には感謝ばかりが募っていく。同じほど、申し訳無さも積み上がっていった。
何が悪かったのか。まず火加減だろう。火加減が強くなければ焦げないのだ。あとは調理時間か。気がついたころには葉物野菜は炭となっていた。長く炒めすぎたのだろう。あとは。
苦味に支配される口内から意識を逸らすように原因を探っていく。考えれば考えるほど悪い点しか見つからない。なのに、何故調理中は気付かなかったのだろう。何故気付かずにこんな代物を生み出してしまったのだろう。後悔がどんどんとのしかかってくる。飲み下した喉がおかしな音をたてた。
「やはり手伝った方がいいですよ。一人で食べるなんて無理でしょう」
「ダメ。やだ。オレが全部食べる」
箸を置き手を差し伸べる烈風刀に、雷刀は強く首を横に振る。整った手が近付きつつある皿を急いで取り、己しか手が届かない場所に置いた。そんな顔で言っても、と困ったような呆れたような声が食卓に落ちた。
「オレが作ったんだからオレが責任とんねーといけねーだろ」
「それはそうですけど」
「だからダメ。烈風刀は食べなくていい」
きっぱりと言い、兄はまた野菜炒めとなるはずだった黒の山に箸を伸ばす。こぼれそうなほど掴み、崩れ去る前に口に放り込む。最低限の咀嚼をして飲み込み、味噌汁を飲んで苦味を流す。黒い野菜たちはゆっくりなれど着実に姿を消していった。
心配げな、申し訳無さそうな碧が視界の端に映る。心優しい弟はどうにもこの失敗作が気になって仕方がないらしい。二人分の材料で作った結果生まれた山のような失敗作を一人で食べる己が心配で仕方ないらしい。気持ちはありがたいが、食べさせるわけにはいかない。いつも美味しい料理を作ってくれる弟に、いつも丁寧に料理を教えてくれる弟に、己の驕りによって生まれたこいつを食べさせるなどあってはならないのだ。全ては彼の教えを――『慣れないうちはちゃんと計量してレシピ通りに作る』という基本中の基本を守らなかった己が悪いのだから。
またひっ掴んで口に放り込み、飲み込む。苦味を忘れようと味噌汁椀を手にとったところで、その軽さに違和感を覚えた。苦々しく細くなった朱い目が黒い椀へと向けられる。プラスチックの食器の中身は、既に空っぽだった。どうやら、先ほどの一口が最後だったらしい。こういう日に限って味噌汁はきっかり二杯分しか作っていないのだ。ぐぅ、と喉が低い音を鳴らす。残りは白米で誤魔化すしかないようだ。冷凍のやつ残ってたっけ、と冷凍庫の中身を必死に思い出そうとした。
テーブルの上に沈黙が積もっていく。食器がぶつかるかすかな音だけが、普段は人の声で満たされる部屋に落ちていった。
雨の音、春の足音/嬬武器兄弟
バタバタと頭上で騒がしい音が鳴る。安物のビニール生地は、強い雨脚にも負けず己の仕事を淡々とこなしていた。ぱしゃんと足元で軽い音が鳴る。そろそろ傷みが目立ち始めた靴は、跳ねる水にも耐え抜き足を守った。
水溜まりを避けながら、雷刀は歩みを進める。ちらりと透明なビニール傘越しに空を見るが、薄墨色の雲が晴れる気配も激しい雨が止む気配も無い。当然だ、今日の天気予報は雨、降水確率八〇パーセントである。雨粒は朝からずっと地を叩き世界を濡らしていた。
雨水が乗って重くなった傘が、バランスを崩してゆっくりと傾いていく。左隣のナイロンバッグめがけいくそれに慌てて、細い柄を引き寄せる。反対側に勢いよく動いた雨水が己の右肩を濡らした。つめてっ、と思わず声を漏らす。まっすぐ持たないからでしょう、と少し笑みを含んだ声が雨音に混じって聞こえた。
普段ならばこんな土砂降りの日に外に出ることはない。わざわざ雨に降られて洗濯物を増やすなんてことはしたくないのだ。けれど、今回ばかりは事情が違う。何しろ今日のセールでは牛乳が一パック一六〇円なのだ。その上、キャベツが一玉八〇円である。何としてでも買わねばならない。牛乳もキャベツも日々凄まじい勢いで消費されていくのだ。
そうして二人でスーパーを目指し、無事お一家族二つまでのそれらを確保し、切らしていた食材や日用品を買い、帰り道に至る。
傘をまっすぐに持ち直しつつ、雷刀は歩みを進める。開店直後の早い時間だからか、それともあまりに強い雨のためか、広い歩道には兄弟二人しかいなかった。休日の朝だからか、車通りも少ない。まるで世界に二人だけ取り残されたようだ。最近読んだ漫画の影響か、そんな空想が頭の中に広がっていく。なんだか面白くて、思わずくるりと傘を回す。うわ、と隣から跳ねた声が聞こえた。
「冷たいじゃないですか。やめてください」
碧い瞳が眇められ、じとりとこちらを睨みつける。どうやら、今の手遊びで傘に溜まった雨水が弟の方へ飛んでいってしまったようだ。見ると、左肩にかけたネイビーのナイロンバッグと、シアンのパーカーの左肩部分の生地がいくらか暗く色を変えていた。水を吸っている証拠である。
「え? あっ、ごめん」
「子どもじゃないんですから」
謝るも、返ってくるのは呆れ声だ。幸い、今日買ったものはビニール袋に小分けにして詰めている。バッグの中身に影響はないだろう。だからこそ互いにこの程度で済んでいるのだ。ごめんごめん、と軽い調子で謝罪の言葉を口にする。ぱしゃん、とまた足元で水が跳ねる。またうわ、と驚いた声が聞こえた。
低い言葉が飛んでくる前に、兄は二歩踏み出し先を歩んでいく。これ以上隣を歩くのは互いに危険だ。少し早い調子で足を動かし、どんどんと雨降る世界を歩んでいく。バシャバシャと水が薄く張ったコンクリートが声をあげる。時折足首に感じる冷たさを無視しながら、朱は帰り道を進んだ。
程なくして、赤信号が目の前に立ちはだかった。雨でけぶる世界の中でも煌々と輝く赤に従い、雷刀は足を止める。ここの信号は少し長い。多少待つことになりそうだ。手持ち無沙汰に右肩にかけたナイロンバッグを担ぎ直しながら、少年は辺りを見る。大通りから離れたこともあり、人の姿は見えない。雨雲に覆われた空は灰色で、コンクリートの地面は水で濡れて黒色で、かすれつつある横断歩道は変わらず白で、等間隔で植えられた街路樹はまだ冬を越したばかりで枯れ木色で。無彩色に近い世界の中、暇潰しに色を探していった。
気付いたのはすぐだった。葉が落ち枝だけの姿になった街路樹は、枝先に色を宿していた。分かれて走る枝のそこかしこに、小さな赤い粒が身を寄せている。ゆるく膨らんだそれは、まさに花の蕾だ。そういえばここは桜並木だったか、と少年は記憶を辿る。古びたこの道は、入学式の時分になると淡い白が舞い散って積もりゆくのだ。
「青になりましたよ」
雨音でぼやけた耳に、慣れた声が突然飛び込んでくる。びくん、と思わず肩が跳ねる。バランスを欠いた傘が雨水を右肩に降り注がせた。つめてっ、とまた声を漏らした。
白んだ世界の中、進んでゆく浅葱の背中を追いかける。駆ける足がまた飛沫を飛ばす。隣に並ぶより先に、いつもより一歩は距離を取られた。
「なーなー、桜まだかな」
雨とビニール傘が奏でる音色に負けぬよう、少しだけ声を張る。きちんと聞こえたのだろう、晴天色の瞳がこちらを向いた。薄暗い空の下でも鮮やかなそれが、すっと空間をなぞっていく。あぁ、と小さな声が聞こえた。
「どうでしたっけ」
開花宣言はされていたと思うのですが、と烈風刀は小さく首を傾げる。たしかに、SNSのニュースアカウントがそんなことを投稿していた覚えがある。あれはこのあたりのことだったろうか。それとももっと南の方の話だっただろうか。流し読みしただけのそれは全く詳細が思い出せない。そもそも見出しを見ただけで中身を読んだ覚えがない。
「あと数日で咲いてもおかしくはないですね」
「分かるもんなの?」
弟の言葉に、兄は目を丸くする。見ただけで分かるものなのだろうか。いや、弟である烈風刀は学年主席であり博識である。その上菜園を営むほど植物の知識は豊富だ。この程度のこと、手に取るように分かってもおかしくはない。
「何となくですよ。これだけ芽が膨らんでいますし」
最近暖かいですしね、と言葉が続く。たしかに、ここ一週間は着込まずとも問題なく過ごせるほどの気温になっていた。通学時に薄く汗を掻く日があるほどだ。季節が春に移ってからもうすぐ一ヶ月が経つ。彼の言う通り、そろそろ咲いてもおかしくない頃だろう。そっか、と感心の声を漏らした。
「まだ咲いてなくてよかった」
兄はぽつりとこぼす。ビニールを叩いて鳴らす雨音の中からきちんと拾ってくれたのだろう、え、と珍しく間の抜けた音が返ってきた。
「ほら、今日の雨で散っちゃったらもったいないじゃん?」
「あぁ、たしかに」
ピンと指を立てて言うと、弟は小さく頷いた。花というのは短い命だ。小さく美しく輝かしい命だ。せっかく咲いたというのに、雨に降られて全て散ってしまうなんてことがあったらあまりにも残念だ。花見だってしたいのだ。
花見、と考えて少年は目を細める。今年は花見はできるだろうか。夏からずっと準備を進めていたプロリーグも、先日無事に終わった。まだまだアップデートは山積みだが、そろそろまとまった休みが取れてもいい頃合いだ。皆で食べ物や持ち物を持ち寄って、学園の敷地内で花見をするぐらいの休みが。
早く咲かねぇかなぁ。雨音で支配された世界に、穏やかな声が落ちた。
狭さと温もり、それとふれあい/ライレフ
淡い青が大波を起こし、音をたてる。盛大な音色とともに大量の湯が湯船から溢れ出ていった。白が立ち上るほど温かなそれが風呂場の床をざぱりと撫で、排水溝へと勢いよく流れゆく。碧い目は苦い色を灯してその光景を見つめた。
「あったけー」
水道代とガス代が無駄になっていく様など欠片も知らない呑気な声が浴室に響く。ばしゃん、と大きな音。大きな波。せっかく張った湯船の中身はどんどんと溢れ、嵩を減らしていった。
「ちょっと。溢れるじゃないですか」
もったいない、と烈風刀は縁から流れゆく湯を目で追いかける。熱めに沸かして張った湯を無闇に溢れさせるのは、良く言えば贅沢、悪く言えば無駄遣いである。こんなところまで切り詰めねばならぬほど家計は切迫していないが、無駄遣いに思えるようなことは苦手だ。そもそも、水道代とガス代の節約のためにこうして二人で湯船に浸かっているというのに。
ネメシスの冬は寒い。雪の気配は去れども、冷え切ったから風が温度を奪っていく日々が続いていた。使い捨てカイロを手放すにはまだ早いような気温である。
冷えた身体を温めるには風呂、特に湯船に浸かるのが一番良いだろう。身体の芯まで温めるのは冬場において重要であるし、何より寒さで凝り固まった身体を熱い湯で解すのは心地が良い。冷えた空気に晒された日ならば尚更だ。
問題は、今住まう部屋の風呂には追い焚き機能が無いことである。そうなると、一人毎に湯を張り替えねばならない。半身浴より少し多い程度とはいえ、せっかくの湯を捨てまた沸かして貯めを繰り返すのは経済的にも時間的にもよろしくない。しかし、後に入る方が冷めて水に片足を突っ込んだような湯船に浸かることになれば風邪をひいてしまう。ではどうすればいいか。
二人で入っちゃえばいいじゃん、と兄が指を立てて言ったのはいつの日だったか。随分と遠い昔のように思える。少なくとも、学園に入学するより前から行っていたような気がした。入学前の記憶はどうにも曖昧で思い出せないのだけれど。
「烈風刀」
狭い浴室に己の名を示す音が響く。人を二人抱え込んで青さを失った水面から視線を上げる。目の前には、大きく腕を広げた雷刀の姿があった。
「これじゃ足伸ばせねーし狭いだろ?」
な、と兄は小首を傾げて問う。広げた腕は、自身の身体全てを使ってこちらを抱きとめる気概に溢れていた。
今は二人で体育座りのように身を縮こめ、向かい合って湯に浸かっている状態だ。足を伸ばせば相手の身体を蹴ってしまうし、肩までひたるのも難しい。ならば、二人で同じ方向を向いて入ればいいと言うのだ。行動派の兄にしては理論的であり、合理的である。その裏に『くっつきたい』『抱き締めたい』なんて邪な想いがあるのは明白だけれど。
せっかく沸かした湯は節約すべきだ。身体はじっくりと温めるべきだ。手足は伸ばして筋肉を解すべきだ。ならば、従った方がいいに決まっている。羞恥よりも節制だ。己のための言い訳を並べ立て、弟はそっと立ち上がる。身を隠すように素早く反転し、また湯船に入る。しばしして、広げた腕の中、開かれた胸の中に、鍛えられた背が飛び込んだ。狭くて四角い海が音もなく波立つ。
ばしゃん、とまた盛大な音。整った唇から文句が飛び出すより先に、厚みの少ない腹を隆起が見られ始めた腕が包み込んだ。すぐさまぎゅっと締められ、捉えた身体を抱き寄せる。むき出しの肌と肌が、湯すら入らないほどくっついた。
温かい。熱いぐらいに沸かして張ったから温かいのは当然だ。けれども、今背から伝わってくる温もりは、風呂がもたらすものよりもっと温かくもっと心地よく思えた。いつの間にか強張っていた身体から力を抜き、烈風刀は足を伸ばす。同期するように、身体の横から兄の足が伸びていくのが見えた。
ほぅ、と二人で息を吐く。予定よりも減ってしまったものの、湯船の中身は身体を温めるには十分な量だった。かじかんでいた足の指が解けていく。確かめるように少し動かすと、また湯がさざなみ立った。
首の後ろに息遣いを感じる。狭い風呂場に少し低いメロディが反響する。寒さが解ける気持ち良さ故か、己を抱きとめた故か、兄は鼻歌を歌うほど機嫌が良いらしい。いくら湯気立ち込める風呂場とはいえ、濡れたむき出しの肌に息がかかるのは少しばかり寒さを感じる。けれど、不思議と止めようという気は起きなかった。
「昔は二人で入っても広かったのになー」
「もう高校生ですよ。昔とは体格が全然違うでしょう」
この湯船は、昔は――とてもおぼろげな記憶だけれど――二人で向かい合って足を伸ばせるほど広かった。けれど、それはお互い小さかったからだ。高校生二人で入れば狭いに決まっている。このギリギリ足が伸ばせる湯船は明らかに人間が二人で入ることを想定していないのだ。
「成長しましたから」
温かな水面を声が揺らす。溜め息のようなそれは湯気とともに消えた。
そうだ、己たち兄弟は成長した。春に測った身長は高校生の平均よりも高かったし、日々の業務で駆け回っているからか足も腕も同学年の男子よりは鍛えられている。成長して、大きくなって、すっかり変わってしまった。身体だけでなく、心も、関係も。
節制は大切だ。けれども、高校生にもなって兄弟二人で一緒に風呂に入ってまで節制するなど過剰である。きっちりと管理した家計は湯船を二回張っても問題ないほど余裕があるし、この辺りの水道代やガス代は良心的な価格だ。ここまでやるのは異常だ――『節制』という一点だけから見れば。裏を返せば、それ以外の理由があれば十二分にやる価値がある行為なのだ。例えば、『恋人と一緒に過ごしたい』なんて欲求を満たすとか。
現状――恋人の誘いに乗り、一緒に風呂に入り、裸で抱き締められているという事実を再認識したところで、顔が熱湯で満たされたかのように熱を持つ。烈風刀は勢いよく湯をすくい、うっすらと汗が浮かんだ顔に浴びせた。熱く感じるほどの温度にしたからだろう、水を浴びたというのにこの顔の熱は冷める様子がなかった。
はぁ、と満足げな溜め息が首筋に落ちる。そのまま冷たく柔らかなものが肌を撫で、温かで湿ったものが肌に触れる。腹に回された腕に力が込められ、引き寄せられるのが分かった。
「寝ないでくださいよ」
「だいじょーぶ」
水の中、この身を抱き締める腕を軽く叩く。紡いだ言葉が信用できないぐらいには眠気をまとった声が返ってきた。首筋に押し当てられているであろう頭がむずがるように動く。ぐりぐりと頭をこすりつけるのは、撫でろと飼い主に要求する犬に似ていた。溺れても知りませんからね、と一言告げると、だいじょぶだって、と依然ゆるんだ声が落ちた。
ふぅ、と息を吐き、碧はすっかり水位が減った湯を眺める。少し前ならばもうぬるくなっていた湯はまだ温かさを保っていた。冷えるのが遅くなるほど気温が高くなってきた証拠である。冬はもう過ぎ去り、春を迎えようとしているのだ。ならば、今冬はこれが最後かもしれない。夏場のように湯が冷めにくい時期ならば、二人で入る必要はない。春だって、少しぐらい寒くとも時間を決めれば順番に入って事足りる。二人一緒に入って、抱き締めて温まる必要なんてなくなるのだ。
狭い風呂に二人で入るより、短い時間でも足を伸ばして一人で入る方がいいに決まっている。けれども、この時間を失うのはなんだか胸のどこかが風に晒されるような気分になるのだ。馬鹿げた感覚だ。けれども、言い訳を並べ立ててまで行う程度にはこの時間を求めているのだ、己は。
血色が良くなった唇がまっすぐに引き結ばれる。湯気を浴びた目が眇められる。湯に浸していない頬に紅色が広がっていった。また湯をすくい、烈風刀は豪快に顔を洗う。飛沫が湯船から溢れ、床を滑って排水口に流れていった。
首筋に、肩に重み。耳の後ろ側から聞こえる呼吸は少し細く規則的なものになっていた。まるきり寝入る時のそれである。
「起きてください」
「……ねてねーよ」
腕を後ろに回し、弟は朱い頭を軽く叩く。一拍置いて、睡魔の影が見える声が晒された肌を撫でていった。
「眠いならあがりますよ」
溜め息がちに吐かれた言葉に、兄はえー、と不満げな声を漏らす。すっかり緩んでいた腹の拘束が少しだけ強くなった。逃さんと言わんばかりである。
「もーちょいだけだから」
おねがい、とやわこい声が鼓膜を震わせる。輪郭が曖昧なのは、眠気によるものだけではないだろう。それが容易に分かるほど、関係は深くなっていた。
「……のぼせても知りませんからね」
少なくとも、甘えきったそれに応えてしまう程度には。
わずかに身体の力を抜き、後ろに体重を預ける。ひたりと肌と肌が隙間なく重なる。濡れた人の肌に触れるなど、普通は不快感を覚えるはずである。けれども、今このときは安堵をもたらすものだった。
春が近い空気の中、湯はまだ温かい。もう少しぐらいなら、浸かっていても湯冷めものぼせもしないだろう。考え、碧はまた落ち着いた息を吐いた。
罪をはんぶんこ/嬬武器兄弟
足の裏から冷たいものが身体を登っていく。冬の夜の廊下はスリッパ無しでは氷の上を歩いているのと同義だった。ぶるりと雷刀は大きく体を震わせる。たかがキッチンに行くだけだと油断した結果がこれだ。それでも、履き物すら放り出すほどの衝動が己の身を動かしていた。具体的には、腹が。
胃の底の辺りが、目の奥の方が痛みを訴える。夕食を食べてから日付が変わって二時間経つほど長時間、ずっとゲームをやっていたのだ。敵を確実に仕留めるために画面を注視し、耳から伝わる些細な情報すら逃せないほど気を張り巡らせるシューティングゲームは体力も気力も削られる。集中するあまりなかなか疲れに気づけないのがまた厄介だ。あまりに負けが込み机に突っ伏したところでやっと心身の疲労と空腹を自覚したぐらいである。
普段ならば夜中の空腹は部屋に置いてある菓子を食べて凌ぐのだが、今日ばかりはそれだけで足りる気がしなかった。何しろ、最低でも四時間は飲まず食わずだったのだ。さすがにスナック菓子一袋だけで満たされる気はしない。この胃はカップ麺でも食べなければ満足してくれないことなど容易に想像がつく。
キッチンに続くドアを開ける。目的の場所は、随分と夜中だというのに明るかった。冴えきった朱い目が瞬く。明かりを消し忘れたのか、それとも弟も起きているのか。おそらく後者だろう。あの几帳面な弟がキッチンの明かりを消し忘れることなどない。きっと夜中に目が覚めて水でも飲みに来たのだ。
廊下と同じぐらい冷えたフローリングの上を、雷刀は裸足で歩いていく。進むにつれ、どこか暖かさを覚えた。まるで鍋で煮物をしている時のような、火と湯気の気配だ。こんな夜中なのに、と少年は小さく首を傾げる。牛乳でも温めているのだろうか。はちみつを入れたホットミルクや牛乳たっぷりのココアは鍋で作った方が美味しいのだ。
ようやく明かりの元へと辿り着く。コンロの前には、予想通り烈風刀の姿があった。同時にバリ、と盛大な音が鼓膜を震わせる。夜には似つかわしくない音に、兄はまたぱちりと瞬く。またバリ、という袋が開くような音。次いで、ぼちゃん、と何かが水に落ちる音。ガサガサと袋が擦れる音。そして、油の濃厚な匂いがほのかに温かなキッチンにぶわりと広がった。
インスタントラーメンの匂いだ。それも、常備している塩ラーメンの匂いだ。腹が求めてやまない、この時間に浴びるにはあまりにも刺激が強い香りである。グゥ、と盛大な音が己の身体から響いた。
ガサガサと音。瞬間、鍋と対峙していた碧い頭がゴミ箱の方へと――こちらへと振り返った。立ち上る湯気の向こう、普段とおんなじの透き通った浅海色の瞳が鮮やかに輝く。
あ、と二つの声が重なった。
色の薄い縮れた麺。油がたっぷりと浮かんだスープ。同封された香り高いゴマ。鮮やかな刻んだ青ネギ。二つの丼の中には、ラーメンができあがっていた。わざわざネギを刻んで入れるなど、夜中に食べるには手間暇のかかった豪勢なものである。しかし、このネギが夜中に多量にカロリーを摂取する罪悪感を薄めるためのものであることは雷刀にも分かった。
いただきます、といつもよりも性急な声が二つ重なる。すぐさまずぞぞ、と麺をすする大きな音が響いた。
口の中を熱が、塩気が、油気が満たしていく。舌が痺れるような心地だった。それが幸せで仕方がない。真夜中、それも長時間何も食べていない胃袋にとって、インスタントラーメンは最大の恵みであった。無心で麺をすすり、ネギをかじり、スープを飲む。丼の中身が空になった頃には、空腹感はさっぱり無くなり満足感と幸福感が全身を満たしていた。
「烈風刀がラーメンってめずらしーな」
食べ終わった丼に箸を入れ、兄は言う。弟が夜食を食べる姿は時折見かける。しかし、即席麺を作ってまで食べるという姿はあまり見かけないものだ。カラン、と箸と器がぶつかる軽い音が鳴ると同時に、麺をすする音が不自然に止まる。しばしして、箸を置く音が明るいテーブルの上に転がった。
「今日は夕飯が早かったでしょう。さすがにお腹が空いてしまって……」
空色の目が宙を泳ぐ。白い指がそろりとテーブルを撫ぜる。温かな食事を摂ったからか、白い肌は少しだけ赤みを帯びていた。珍しく落ち着きがない姿である。それはそうだ、普段から栄養バランスと量をきちんと考えた食事を作る彼が夜中にインスタントラーメンなんて栄養バランスもへったくれもないものを食べている姿を見られては気まずくもなるだろう。己ですら夜中のラーメンは少しばかり罪悪感と背徳感を覚えてしまうのだから。
「たまにはいいな」
油で薄く光る口元がニッと笑みを作る。腹が満たされ温もりを得た朱い目元はほのかにとろけていた。
「貴方はよくカップ麺を食べているでしょう」
トン、と丼を机に置く音に少し尖った声が続く。そだけどさ、と笑みを含んだ声が返された。即席麺の類は全てキッチンに収納しているのだ、己がそこそこの頻度で食べていることは筒抜けである。
対面の丼を引き寄せ、己のものと重ねて箸を放り込む。落とさないように二膳の箸を軽く押さえ、雷刀は立ち上がった。
「片付けとく。おやすみ」
ついでとはいえ作ってもらったのだ、片付けぐらいは己がやるべきだろう。不利な話題を切り上げるためでもあるが。え、と少し揺れる声を無視して、少年は足早にキッチンへと向かう。しばしして、おやすみなさい、と穏やかな声が聞こえた。
重ねた丼をほどき、両方に水を入れる。スポンジに食器用洗剤を垂らし、予め水に浸して置いてあった鍋に手をかけた。油が残らないようにきちんと洗い、かごに伏せて置く。丼に張った水を捨てたところで、ふと何かが頭をよぎった。
一人分のラーメンは二つに分けられた。けれど、丼の中身はいつも通り、一袋作った時と同じ量で満たされていた。味は常と変わらないどころか濃く感じたので、スープを水で薄めたということはないだろう。そもそも、麺も一袋分のしっかりとした量が入っていた。つまり。
考えて少年は笑みを浮かべる。ふは、と油をまとった笑声がシンクに落ちた。
温もりが赤を包んで/奈+恋
※性に関する描写有
重い。痛い。
その言葉ばかりが頭の中を満たしていく。一歩足を動かす度に、身体の真ん中から違和感が広がっていく。常はしっかりと前を見据える紅玉の瞳は、今は廊下の先よりも床を見ることが多かった。
腹が重い。鈍く痛い。
下腹部を覆うようなそれが、怜悧な頭にノイズをかける。厳しさがありながらも愛らしさを感じさせるかんばせを崩していく。整えられた美しい細い眉はわずかに寄せられ、眉間に薄く皺を刻んでいた。どれも彼女の必死な努力によって抑えられているものの、親しい者が見れば気付いてしまうだろう。
頭の中を埋め尽くす二単語を、腹のあたりを包みこむ違和感を吹き飛ばすように、恋刃は廊下を歩んでいく。それでも足取りは普段よりも遅く、一歩一歩が鈍く重いものになっていた。当然だ、痛みを抱えたままでいるのはまだ幼さが抜けきらない中学生には難しいことなのだ。けれど、常通りであらねばならない。弱った姿を人に見せるなどあってはいけないのだ。
「恋刃」
普段よりもゆるやかな足音が積もりゆく廊下に、落ち着いた声が響く。ひくん、とむき出しになった肩が小さく跳ねた。後ろから聞こえたこの声の持ち主など分かりきっている。そして、いつになく硬さを孕んだそれが何を意味しているかなども。
「どうしたの、奈奈」
小さく深呼吸、恋刃はいつもの笑顔を貼り付けて振り返る。そこには、やはり奈奈がいた。虹色の丸く美しい目は今は細くなっている。リップをしなくとも潤ってつややかな唇は引き結ばれている。細く儚げな眉は小さく寄せられていた。怒っていることなど、付き合いの長い己にはひと目で分かる。だからこそ、この場を穏便に切り抜けねばならないのだ。
硬い靴底が廊下を打つ。硬質な音は虹色の少女の感情を表すかのようなものだった。白い手が伸び、後ろに回していた己の腕を掴む。自己主張が苦手な彼女にしては大胆な行動だ。晒された腕を掴む細い手はしかりと力が入っていて、逃しはしないとこれでもかと主張している。己が彼女の感情を見抜いているように、彼女も己の状態を見抜かれているのだ。でなければ、ただ廊下を歩いているだけでこんなに強い力で腕を掴みはしない。
ぐっと腕を引かれ、少女は思わずたたらを踏む。そんな友人の様子などつゆほども気にせず、奈奈は廊下を歩いていく。奈奈、と抗議するように友人の名を呼ぶ。いいから、と振り返ることすらなく険しい声が返ってきた。
「奈奈、お昼休み終わっちゃうわよ? 次移動教室で――」
「いいから来て」
困ったように問うてみるも、すぐさま強い声が重ねられる。固く、険しく、それでいて苦しむような、耐えるような響きだ。そんな声を出させているという事実に、赤い眉が八の字を描く。
「保健委員長がそんな調子でいいのかしら」
追撃のような言葉に、血色をした少女は小さく呻く。保健委員、つまりは生徒の健康を真っ先に考える組織に属する者がこんなに弱った状態では――姉と友人以外には気付かれていないと思うけれど――説得力が無い。それが組織のトップである己ならば尚更のことだ。分かってはいても、どうにも弱い部分を見せたくないプライドが邪魔をする。こうやって、不調をひと目で見抜くほど交流の深い友人に無理矢理連れられないと行動できないぐらいには。
二人で廊下を、来た道を戻っていく。程なくして辿り着いたのは、保健室だった。保健委員長である恋刃にとって馴染みのある、けれども今は少しばかり近付きたくない場所だ。分かっているだろうに、奈奈は手を離すこと無くまっすぐに部屋へと入っていく。自動ドアをくぐり抜けると、消毒液の独特な匂いが鼻を刺激した。
シャ、と勢いのいい音。上げられずにいた視線をゆっくりと正面へと戻していく。そこには、畳まれた布団をベッドの上にテキパキとセットしている友人の姿があった。
「いや、ちょっと大袈裟――」
「寝て」
慌てて友人へと手を伸ばす。ちょうどベッドメイクを終えた虹色の少女は、まっすぐな声で短く言った。命令とも、懇願とも取れる音だ。普段の彼女が発することがない、強い響きだ。付き合いの長い己には分かるが、よっぽどのことがなければこんな声を出すはずがない。だからこそ、逆らえない。
鈍い動きで上履きを脱ぎ、ベッドへと乗り上がる。抵抗するようにぺたりとマットレスの上に座っていると、そっと肩を押された。力などほとんど入っていないのに、そのまま簡単にベッドに倒れ込んでしまう。すぐさま掛け布団を被せられ、カーテンが引かれる。世界はあっという間に四角く切り取られてしまった。
足音、何かを漁る音、水が注がれる音。昼休みも終わり際、二人きりの保健室に無機質な音が響く。逃げるように枕に頭を埋めるも、家の布団とは全く違う匂いが現実から逃してくれなかった。
シャ、と再びカーテンが開けられる。おそるおそる音の方へと目を向ける。予想通り、そこには湯たんぽを抱えた奈奈がいた。
「これ、お腹に当てて。少し楽になると思う」
「……ありがと」
差し出された容器をおずおずと受け取り、恋刃は布団の中にそれを引き入れる。言われた通り腹に当てると、少しだけあの重さと痛みが薄れたように思えた。やはり、この痛みは温めるのが一番効果的だ。分かってはいたものの、実行するのは――わざわざ保健室で借りた湯たんぽを腹に当てる姿を見られたり、カイロを腹に仕込んでいることに気付かれてしまうのは、いつだって毅然として在りたい己には難しいことだった。友人には全部お見通しで、だからこそ無理矢理にでも引き連れてきたのだろうけれど。
「先生には奈奈が言っておくね。だから、ちゃんとお腹あっためて寝て」
「うん……」
声音は子どもを諌める時のそれとまるきり同じだった。芯の通った、有無を言わさない音色だった。普段の彼女しか知らない者には全く想像できないものだろう――己は時折聞く、否、言わせてしまう羽目になるのだけれど。
綿布団の上に奈奈の手が置かれる。そっと滑っていった美しい白は、ちょうど布団の盛り上がった場所――湯たんぽを抱えた腹のあたりで止まった。たおやかな手がそっと布団を、その下にある己の腹を撫でる。うぅ、と情けない声が漏れた。もっとも、こんな状態を見られて、こんなに世話を焼かれている時点でとても情けないのだけれど。
「大丈夫だから」
暖かくして寝れば、いつもの恋刃に戻れるから。
歌うような声は慈愛に満ちていた。まるでおばけを恐れる子どもを寝かしつけるような、迷子になって泣いている子どもを励ますような、祈るような、そんな音色をしていた。
わかった、と恋刃は小さく返す。ふ、と小さく息を吐く音と、トントンと軽く布団を叩く感覚が少女を包んだ。まるきり子ども扱いのそれに、思わず唇を尖らせる。口元は掛け布団の影になって見えなかったのか、白い手は物言わずにそっと離れていった。
「おやすみ、恋刃」
「……おやすみ」
少しひそめられた声に、同じくひそめて返す。きっと己が眠りやすいように小さな声で言ってくれたのだろうけれど、なんだかいけないことをしている気分になる。保健室に二人でいることなんていつものことのはずなのに、なんだか恥ずかしさや後ろめたさが込み上げてくる。逃げるように、布団を頭まですっぽりと被った。
カーテンが開けられる音。ゆっくりと閉められる音。少しの足跡と、自動ドアが開く音。先生、と変わらずひそめた調子で話す友人の声が布団の隙間から聞こえた。きっと一時限分休む手続きを代わりにとってくれているのだろう。勝手に寝るだけでは無断欠席扱いになってしまうのだ。
腹に当てた湯たんぽをぎゅっと抱きしめる。温かなそれが、腹の重みと痛みを和らげていく。お湯の温もりが、布団の温もりが、瞼を撫でて降ろしていく。
起きたら奈奈にお礼を言わないと。謝らないと。無理してごめんって言わないと。もう大丈夫って言わないと。これ以上奈奈を心配させちゃいけない。
睡魔が動きを鈍らせる中、少女は拙く思考を重ねていく。縋るように腹の温もりを抱き締め、恋刃はそっと瞼を下ろした。
いつでもおんなじ味で/雷刀+グレイス
物音を立てぬよう注意しつつ、そっとキッチンを覗き込む。二人暮らしにしては広いそこには、包丁がまな板を叩く軽快な音が響いていた。まるでリズムを刻んでいるような、気持ちよさすら覚えるほどの音色だった。丸い躑躅がぱちりと瞬く。影からじぃと見つめる姿は不審極まりないが、瞳に宿る光は真摯なものだ。それでも、うろうろと泳ぐ様は怪しさに拍車をかけた。
本日土曜日、グレイスはレイシスと二人で嬬武器の兄弟の部屋に遊びに来ていた。テレビゲームにボードゲームにと遊びに興じていると、あっという間に時は過ぎてしまう。気づけば、午後を回ってしばらく経っていたほどである。
昼飯作るな、と立ち上がったのは雷刀だった。兄弟は家事に当番制を採用しているようで、今週は雷刀が料理当番だそうだ。手伝うわ、とグレイスも立ち上がったが、大丈夫だと兄弟二人で制されてしまっては大人しく座るしかなかった。けれど、気になって仕方がない。遊びに訪れる際はいつも手土産を持ってきているが、わざわざ昼食を作らせ食べさせてもらうこととではどうにも釣り合っていないように思えるのだ。こちらは店で選んで買うだけだが、あちらは時間と材料、手間をかけているのだ。それが等価と言われて素直に首を縦に振ることはグレイスにはできなかった。
結局いてもたってもいられず、水をもらってくると言い訳をしてキッチンに向かった今に至る。
少女は依然視線を泳がせ思案する。来たはいいものの、申し出を断られたらどうしよう。それはそれで迷惑ではないだろうか。けれど、手数は増えて困ることはない。己も経験を積み、人並みに料理ができるほどになったのだ。足を引っ張ることは無いだろう。けれど。
「グレイス?」
ぐるぐると思考する頭に己を示す音が飛び込んでくる。不意打ちのようなそれに、少女はぴゃわっと小さく悲鳴をあげた。急いで声の方へと視線を向ける。そこには、包丁片手にこちらを見つめる雷刀の姿があった。
「座ってていいのに。腹減ってるだろ?」
「……作ってもらってばかりじゃ悪いじゃない」
へらりと笑う朱に、躑躅は唇を尖らせて返す。これが時折、たまに、ぐらいならばいい。けれど、午前中に訪れた時はほぼ毎回作ってもらっているのだ。申し訳無さは募っていくばかりである。せめて材料を持ってこれたらならば、と考えるが、いくらなんでも手土産に野菜や肉を持っていくわけにはいかない。結果、いつも彼らの冷蔵庫の中身を余計に消費させてしまうばかりだった。
「オレらが遊びに行った時は作ってくれるじゃん。それでよくね?」
「頻度が違うでしょ。……やっぱり、悪いわ」
「んなに気にしなくていいのに」
少し縮こまったグレイスを眺め、雷刀は笑う。会話の中でも、手はきっちりと動いていた。刻み終わった野菜を手早くまとめ、火の通りにくいものから順にフライパンに入れて炒めていく。餌を与えられた油が盛大な音と香りをたてた。
焼きムラを作らないようにするためだろう、菜箸で適度に掻き回し、少年は次々と野菜を入れていく。次第に加熱された野菜の甘い香りがキッチンを満たしはじめた。さっさっと炒め、朱い少年はコンロ前の棚へと手を伸ばす。塩をほんの少し入れ、続けざまに引き出しから計量スプーンを取り出す。今度は醤油を大さじできっちりと量って入れた。
「意外ね」
マゼンタの目がぱちりと瞬き、桜色の唇から小さな声が漏れる。ちょうど炒め終え火を消したタイミングだったからだろう、それは朱の耳にしっかりと届いた。
「何が?」
「貴方、ちゃんと量って作るのね」
日頃の嬬武器雷刀は、物事の全てを『大体』や『こんぐらい』といった曖昧な言葉で表している。業務が絡まなければ、明確な数字が出てくることは稀だと言ってもいいほどである。そんな彼なのだ、料理でも調味料など一切量らず大雑把に味付けをするものかと思っていた。こんな風にしっかりと計量スプーンを使う様など、全く想像ができないものであった。
ひっでぇ、と雷刀は笑う。言葉に反して陽気な音色がキッチンを漂っていく。あんな、と彼はくるりと菜箸で宙に円を描いた。
「ものによるけどさ、ちゃんと量ってやんないと反応起きなかったりして失敗する料理とかもあんだよ」
少年の言葉に、グレイスは小さく頷く。料理、その中でもとりわけ菓子作りでよく聞く話だ。菓子作りなんてボウルに付いた水の一滴も許されないようなものもある。日常の料理でもそういうものはきっとたくさんあるのだろう。料理のさしすせそがそうだろうか、と頭の隅で考えた。
「それに味が安定しないしな。濃すぎたら調整できねーし」
彼の言う通りである。薄味は少しずつ調味料を足していけばきちんとした味にすることができるが、一度濃い味になってしまえば後戻りはできない。材料を増やして中和することもできるが、手間な上に材料が余計にかかってしまう。食べきれない量になってしまう危険性もあるのだ。非常に合理的な考えだ。
「まぁ、全部烈風刀の受け売りだけど」
「いいじゃない。教わったことをちゃんとやってるんだから」
苦く笑う雷刀に、グレイスは小さく首を傾げて返す。教わったことをきちんとこなすのは良いことだ。己だって、レイシスに教わったことを忠実にやっているからこそ人並みに料理が作ることができるのだ。それも、彼が師事するのは料理上手で仲間内では有名な嬬武器烈風刀である。その教えをしっかりと守り、美味な料理を作ろうとする姿勢は自然なものであろう。
そっか、と雷刀は呟く。いつの間にかまな板の上には豚肉が刻まれていた。奥では電子レンジが動いている。一体何を作っているのだろうか。好奇心に身を任せ、少女は手元を眺める。大皿に盛られた野菜の炒めもの。細かく切られた豚肉。フライパンの近くに見える筒はソースだろうか。
「それにさ」
声に、思考が現実に戻ってくる。細い肩が小さく跳ね、まんまるな愛らしい瞳が朱へと向けられる。視界の中、朱い少年は八重歯を覗かせ笑みを咲かせた。
「オレらだけで食うならいいけど、今日はレイシスとグレイスにも食ってもらうんだぜ? ちゃんとした美味いもん作んないとだろ?」
なっ、と朱はまた菜箸を回す。まるで魔法を唱える魔法使いのようだった。にこやかな表情は自信とやる気に満ちている。食べる人を喜ばせようという心意気がよく分かるものだった。
ラズベリルがぱちぱちと瞬く。丸くなったそれは、すぐにふわりと細くなった。潤いつやめく唇がそっと解ける。聞き入り真剣そのものだった表情は、柔らかに綻び穏やかな色を灯した。
「そうね。レイシスにまずいもの食べさせるわけにはいかないもの」
「そのとーり」
グレイスにもな、と続ける少年に、少女は少しばかり視線を逸らす。そうもはっきり言われると、どうにもこそばゆい。自分のことまで考えてくれているというのは嬉しいことだが、まだ慣れられないことでもあった。朱も分かっているのだろう、何も知らないといった風にフライパンに油を敷き直した。
「つーことでっ、楽しみにしててな」
「……分かったわ」
楽しみにしてる、と躑躅は笑う。おう、と朱は自信満々に応えた。まな板が持ち上げられ、フライパンに豚肉が投入される。ジュワァ、と肉が焼ける大きな音と胃袋を刺激する香りがキッチンに響いた。
これ以上居座るのも悪いだろう。グレイスはそっとキッチンから出る。スタスタと淀みなく進む足は途中でふっと止まった。
「……お水もらうの忘れてた」
もちろん、水をもらうなどキッチンに行くための言い訳だ。けれど、長居した上に空のコップを持って帰ってくるのは明らかにおかしい。『手伝いに行ってました』と自分で主張しているようなものだ。それはさすがにまずい。というより恥ずかしい。だって、そんなことがあってはあの桃と碧は微笑ましそうにこちらを見てくるに決まっているではないか。そればかりは避けるべきだ。
少女は急いで踵を返す。お水ちょうだい、と油の香ばしく甘い匂いの中に飛び込んだ。
赤と紫にうずもれて/嬬武器兄弟
朱い視線が食卓をゆっくりとなぞっていく。常ならば馳走を前に輝く瞳は、今はどこか暗くなっていた。愛らしさを感じさせるまんまるな姿も、瞼に押され細くなっている。よく動く八重歯が覗く口元も、筆で線を引いたかのようにまっすぐに結ばれていた。
食卓には様々な料理が並んでいる。炊きたてでツヤツヤの白米。大皿いっぱいの麻婆茄子。出汁がよく染みた茄子の揚げ浸し。白と紫のコントラストが眩しい茄子の浅漬け。ドレッシングを弾くほどみずみずしいトマトとレタスのサラダ。煮てもなお鮮やかさを保ったトマトと卵の味噌汁。どれも料理上手な弟の確かな腕によって調理された、美味しさが確約された素晴らしい料理である。
素晴らしい料理であるが。
「……烈風刀」
「あと箱一つ分なんです」
眇められた目が向かい側、同じく唇を引き結んだ片割れへと向かう。碧い瞳は瞼の奥に逃げ、眉は皺を刻むほど寄せられている。硬く動く口からは、引き絞るような苦い声が漏れ出た。三日前も聞いた――その時は『箱二つ』だったが――言葉に、雷刀はますます目を細くする。狭まった朱の中には様々な色がぐるぐると渦巻いていた。
一年ほど前から始まった烈風刀の菜園趣味はどんどんと本格的になり、遂にはベランダを飛び出し畑を一つ持つほどとなった。学園の隅、園芸部の一角を譲り受けたそれは丁寧な手入れにより豊かなものとなり、植えられた苗たちもすくすくと育っていた。それはそれはすくすくと。想像を遙かに越えるほどに。
夏になる頃、様々な野菜が実った。実りすぎたのだ。夏に向けて植えたトマトと茄子だけでも、みちみちに箱に詰めてなおいくつも積まれるほど凄まじい量となった。少なくとも、兄弟二人で消費するのは不可能なほどに。
レイシスに分け、近所に配り、と無理矢理数を減らしたものの、それでもまだかなりの数が残っている。そうなると、あとは二人で消費するしかない。
その結果、毎日が茄子とトマトで埋め尽くされる日々が続いている。
「味噌炒め……夏野菜カレー……らたとゆ……ミートソース……田楽……」
「分かってます……」
指を折りながら、雷刀はここ最近の晩飯を並べ立てていく。見事に茄子とトマトづくしである。赤と紫が内臓に染み付いて取れなくなるのではと思うほど茄子とトマトづくしである。美味しく調理されているものの、全ては茄子とトマトである。他の具材も用いられているものの、さすがにこうも続くと飽きというものが来る。烈風刀も理解しているのだろう、嫌味とも取れるそれに反論することなく、ひたすら苦々しい表情で受け止めていた。
「今週中には使い切れるでしょうから。だから、我慢してください」
絞り出すような弟の声に、兄は小さく頷く。彼を非難しているわけではない。苦しめたいわけではない。けれども、さすがに食べる喜びよりも同じものが続く苦しさが勝っていた。きっと当人、元凶である烈風刀も同じだろう。だからこそ、毎日のように消費し、保存の効くものを率先して作り、常備菜として消費したり冷凍保存しているのだ。分かってはいる。分かってはいるものの。
「いただきます」
沈んだ声が二つ落ちる。箸を持つ音、食器と擦れる音、食物を噛みしめる音が二人きりの食卓に満ちていった。
常備菜を作っている。冷凍保存している。ということは、最終的には食べねばならないのである。それがどれほど先であるか。少なくとも、常備菜は今週中に食べ終えることはできないだろう。結局、来週も少しの地獄が続くのだ。
来週のメニューどうすっかなぁ。
ぼんやりと考えながら、来週の食事当番は紫を口に運んだ。
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この世に在らんことを【神+十字】
この世に在らんことを【神+十字】
五月十日はGottの日!
ということで何とか存在してる神様と頑張る十字さんの話。俺設定しかないから雰囲気で読んでください。
穏やかな呼吸が埃舞う空間に落ちていく。腕にかかる温かな重みに、規則的な落ち着いた寝息に、青年は思わず笑みを含んだ吐息を漏らした。
緋色の瞳が動き、すぐ隣、身体を折るように俯いて眠る蒼を眺める。こちらに少しもたれかかった状態なのもあり表情は見えないが、落ち着いた呼吸からよく寝入っていることが分かった。逡巡、紅い青年は物音立てずに動き、今にも前に倒れてしまいそうな姿勢で眠る青年の身体に触れる。慎重な動きで抱きとめ、椅子の上に上半身を横たわらせた。姿勢が大きく変わったというのに、当人は目覚めることなく穏やかに呼吸をしている。歳らしからぬ――と言っても、彼の年齢は知らないのだけれど――あどけない寝顔に、薄い唇から細く柔らかな吐息が漏れた。
青年の傍ら、いくらか積まれた本を眺める。どれも古く、表紙は擦れて描かれた絵や模様が見えなくなっていた。てっぺんに乗ったものなど、空押しのように残ったタイトルだけがうっすらと見えるような有様である。傷と大差ないようなそのへこみは、その本が地域の伝承をまとめたものであるということを示していた。更に下に積まれたものの表紙は見えないが、おそらくどれも伝承や郷土資料、御伽噺の類だろう。
最近友人――出会いが出会いなだけに、こう表現していいかすら分からないが――である彼は、ひたすらに資料を集めていた。地域に残る数々の伝承の中に『紅い神』の話はないか――神である紅い己が動いた記録が残っていないかと、調べに調べていた。村内に保管してある資料から、隣町が保有する資料、果ては書店に並ぶ御伽噺の本まで調べる始末である。それほど、彼は貪欲に情報を求めていた。ただ一つ、小さな村を訪れ、小さな災い一つだけを跳ね返した神の話を。
全ては己――彼により長い眠りから目覚めた『名も無い神』のためだとははっきり分かっていた。『神』という存在は、信仰によって存在することができる。信じ崇める心はもちろん、その存在を信じる、存在を知るだけでもこの世に顕現する力となるのだ。だから、彼は記録を求める。神が存在した記録を。他者に『こんな存在がいた』と信じさせられるように。人々の記憶に残るように。
大変な作業だろう。事実、蒐集は難航しているようだった。なにせ、昔々のとある村に伝わるだけの話だ。彼が己の存在を知った書物には詳しく記してあったが、あれは神に魅せられた者が記録したものだろう。そうでなければ説明が付かないほどの分量と熱量である――だからこそ彼も惹かれてしまったのだろうけれど。
実際のところ、『ヒトが困っていた時に神様が助けてくれた』なんて話はよくあるものである。大量にある御伽噺めいた記録の一つが、それも名が知れているわけでもない村に残る記録が大々的に取り扱われているはずがない。それでも、彼は探すのだ。己の――彼が目覚めさせ、今こうやってどうにか存在している神を確かなものにするために。
信仰は確かにここに在るのに。信じてくれる者がいるから己はこうやって存在できているのに。それだけで十分だというのに。
「信じてくれる神はちゃんとここにいるんだけどなぁ」
神は小さく漏らす。細く、けれども重さを孕んだそれは、土埃が溜まった床に落ちて消えた。
今、神として存在している。己はそれだけで十分だ。なのに、彼は探す。一人では力が足りないと探す。その姿はまるで狂信者だ。記録に――魅せられた者が文章として残した強い念にあてられ引き込まれた、取り憑かれたヒトだ。ただの郷土史の記録だけを信じて村外れの廃教会に来たのが何よりの証拠である。自覚は無いようだが。
もぞ、と蒼が動く。居心地悪そうにいくらか身じろぎし、また寝息を立て始めた。苦しいのだろうか、と神は考える。己はこの古ぼけた長椅子で眠ることにすっかり慣れているが、彼は違う。常はきちんとヒトとして暮らす蒼は、こんな硬い場所で心地良く眠れるはずなど無いのだ。ヒトは柔らかなベッドで寝るのが普通であることをすっかり失念していた。配慮のつもりが、変わらず苦しい思いをさせてしまうなど失笑ものである。紅玉が細くなり、細い眉が寄せられる。癖のように頭を掻く手付きは粗暴だった。
眠る横顔に手を伸ばす。垂れた蒼髪を指先で退けると、白い頬があらわになった。常日頃中でも外でも働き回っている肌はほんのりと焼けており、健康的な印象をもたらした。大きな傷は無く、荒れた様子も無い。きちんとした生活を送っていることがうかがえた。
逡巡、神は眠るその頬に指で触れる。手袋を付けているのだから、感触は分からない。けれども、確かな温かさが布越しに伝わってきた気がした。
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諸々掌編まとめ11【SDVX/スプラトゥーン】
諸々掌編まとめ11【SDVX/スプラトゥーン】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
うちの新3号だったり名無しだったりごちゃまぜ。書いてる人はXP14~18をうろうろしてる程度なので戦略とかそういうのは適当に流し読みしてくれるとたすかる。
成分表示:はるグレ/嬬武器烈風刀/嬬武器兄弟2/インクリング+インクリング/新3号+新司令
いけないよふけ/はるグレ
元ネタ https://twitter.com/tnhg_trpg/status/176...
髪を乾かし終え、始果は足早に部屋に戻る。ベッドの上に座り込む鮮やかな躑躅が目に飛び込んできた。普段は二つにして高く結い上げている長い髪は解かれ、白いシーツの上に大きく広がっている。さながら花畑だ。暖色灯に照らされる横顔は俯き気味で、どこか神妙な顔つきをしていた。自分よりも一回りは小さな手は腹に当てられている。細い喉から小さな唸り声が聞こえた。
「グレイス?」
「……あぁ。おかえり」
「ただいま。どうかしましたか?」
名を呼ぶと、少女は一拍遅れて顔を上げた。顔つきは普段に近づけようとしているが、まだ何か分からないものがにじんでいた。尋ねると、細い眉が少し寄せられる。血色の良い唇は小さく引き結ばれ、躑躅の瞳はゆるく細められた。うーん、とまた小さな唸り声が聞こえた。
「…………ねぇ、始果」
「はい」
名を呼ばれ、狐の少年はすぐさま応える。見下ろした顔からは、表現し難い表情は抜け落ちていた。代わりに、彼女らしい――嗜虐性を孕んだ、けれども可愛らしさがある笑みを浮かべていた。
「いけないこと、してみない?」
にまりと弧を描く口が、ひそめられた調子で言葉を紡ぎ出す。蠱惑的なマゼンタが、こちらをじっと見つめた。
唸りのような音が部屋を這っていく。ぺきり、がさり、ぺりぺり。少女の手元から聞き慣れない音があがる。手付きには迷いがなく、慣れたものだということがよく分かった。ごぼごぼと地鳴りのような音。しばしして、カチン、と硬い音に諌められたように低い音は消え失せた。
白い手が取っ手を掴む。先ほど中途半端にめくった上部の蓋の隙間に、電気やかんの中身を注ぎ入れた。暖房の熱を失い始めた部屋に白い湯気が昇っていく。二つの筒に中身を全て注ぎ終えると、少女は紙蓋を下ろし、その上に用意していた割り箸を置いた。抵抗するようにわずかに開いた紙蓋を細い指が器用に閉じていく。
「……なんですか、これ」
「カップ麺よ」
首を傾げる始果に、グレイスは軽く返す。かっぷめん、と彼女の言葉をオウム返しにする。カップは分かる。湯呑のことだ。麺も分かる。あの山のような食物のことだ。だが、その二つが繋げられると一体何であるのか全く分からない。そもそも、その二単語は繋がるものなのだろうか。疑問ばかりが募っていく。
「ラーメンは分かるでしょ? あれと一緒よ。お湯を注いだらラーメンになるの」
「あれが、この中に……?」
「あれよりはずっと少ないけどね」
怪訝そうにカップ麺を見つめる狐に、躑躅は笑みを含んだ声で返す。さすがにあれをうちで食べるのは無理よ、と少女は笑った。
「まぁ、あんまりよくないんだけどね」
「……ラーメンを食べるのはよくないのですか?」
「夜中に食べるのはね。胃に負担がかかるし、太っちゃうし」
そういうものなのか、と少年は依然首を傾げる。空腹は動きを鈍らせる要因の一つだ。耐えることは容易であるが、良いとは言い難い。少なくとも、ネメシスに来てからはそう教えられていた。食べることと『よくない』という言葉の結びつきがいまいち理解できなかった。
くぅ、と小さな音が二人きりの部屋に落ちる。音の発生源はグレイスだった。シミ一つ無い清潔な寝間着に包まれた腹から漏れたそれは、空腹を示すものだと教えられていた。
「……お腹が空いたのですか?」
「……そうよ」
尋ねる声に、一拍置いて肯定の語が返される。仕方ないでしょ、と少しいじけた調子の声が追撃で飛んできた。
「いいじゃない、たまには」
唇を尖らせるグレイスに、始果はそうなのですか、と返す。そうなのよ、とまだ拗ねたような、それでもどこか愉快げな声が部屋に落ちた。
高い電子音が二人の間に鳴り響く。細い指が携帯端末を操作すると、音はすぐに鳴り止んだ。そのまま、少女は蓋の上に乗せっぱなしだった割り箸へと手を伸ばした。パキリ、と乾いた音が落ちる。あんたも割りなさい、と促され、木でできた食器に手を伸ばす。少女と同じように横へと引くと、同じく乾いた音が鳴った。割れた上部は片方は箸部分より太く、片方は爪楊枝のように細い。これで食器として役目を果たせるのだろうか。懐疑の目を向けていると、へったくそねぇ、と笑い声が聞こえた。
「ほら、蓋取って」
そう言って、グレイスは半分だけ剥がしていた蓋を全て取り払う。途端に、濃い油の臭いと醤油の香ばしい香りが鼻をくすぐった。見様見真似で蓋を剥がす。赤い文字が並ぶそれの下から、茶と黄色と赤が姿を現した。
「いただきます」
「……いただきます」
目の前の少女に倣い、手を合わせて言葉を紡ぐ。金色の瞳に映るのは、細い筒に手を添え箸を入れる少女の姿ばかりだ。筒から黄色が高く長く伸びていく。おそらくあれが麺なのだろう。知っているものよりも随分細いので推測でしかないのだけれど。
伸びたそれが、赤い唇に吸い込まれていく。真似して、己も箸に手を伸ばす。中に突っ込み、麺と思わしきものを持ち上げる。そのまま、静かにすすった。
初めての『カップ麺』は、油と醤油、少しの非現実の味がした。
洗濯日和とお昼寝日和/嬬武器烈風刀
鍵をかけ、チェーンを掛ける。靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、廊下を進んだ。袋から飛び出たネギがビニール包装に当たってカサカサと音をたてた。
きちんと手を洗い、来た道を引き返してリビングのドアを開ける。午後の日差しが差し込む室内はほのかに暖かかった。小春日和か、それとももう冬を超えたのか。どれにせよ、エアコンに頼らなくてもいい日々が続いてほしいものだ。
静かに歩き、キッチンへと潜り込む。牛乳や肉を手早く冷蔵庫に入れ、調味料をストックかごに入れ、掃除用品を所定の場所に片付け。大きく膨れた買い物袋は次第に萎み、綺麗に畳まれ小さくなった。
ナイロンバッグを片付け、烈風刀は水切りかごに伏されていたマグカップを手に取る。日差しは暖かかったものの、空気はまだまだ冬の様相をしていていた。見通し甘く冬にしては薄着で出かけたのもあり、身体は温もりを求めていた。温かいコーヒーを飲もう。軽く拭いて、そのままコーヒーポットが置いてあるスペースに向かった。
音もなくなめらかに進んでいた足がはたりと止まる。碧い目がぱちりと瞬いた。
ポットが中央に置かれたローテーブル、その前に置かれた二人がけのソファには先客がいた。それは赤い塊だった。人間半分ほどの大きさの塊が、ソファの大半を占領していた。表面は深い赤で、ブラウンとネイビーでチェック模様が描かれている。普段から使っている大判のブランケットだ。繭のようなそれは、規則的に上下している。時折、胎動するように小さく動いた。ブランケットの端からふわふわとした朱が飛び出ているのが見えた。
浅葱がすっと細くなる。この塊の正体は間違いなく雷刀だ。彼は日頃からソファで居眠りをすることが多い。ブランケットを被っているのは、そのまま寝るには肌寒かったのだろう。空調を点けずに毛布で暖を取っているのは殊勝であるが、ならば自室で寝ればいいではないか。広々としたベッドで眠らず、こんなに身を縮こめ狭いソファで眠る理由が分からない。
壁に掛けられた時計に視線を移す。太い短針は、夕方と言うにはまだまだ早い時刻を知らせていた。夕飯時までは随分と時間がある。赤い塊に視線を戻す。今日は土曜日で、今日も明日も特に予定は無い。翡翠が一度瞬き、小さく頷いた。
止まっていた足を動かし、ソファの前に立つ。そのまま、空いているスペースに腰を下ろした。机上に置かれたポットに手を伸ばす。朝淹れたホットコーヒーが、ほのかに湯気をあげながらマグカップに注がれていった。別に部屋で飲んでもいいのだが、それではまるで惰眠を貪る兄に気を遣っているようではないか。何となくの、全く必要が無い小さな意地だった。
ポケットに入れていた携帯端末を取り出し、なめらかな動きで画面を操作していく。必要な連絡は午前中に済ませた。返信が必要なメッセージが無いことを確認し、ニュースアプリを立ち上げる。天気予報のタブを開くと、小さな画面に太陽がずらりと並んだ。今日は一日中晴れ。明日も一日晴れ。降水確率は十パーセントとあるが、おそらく降ることはないだろう。窓の外、空は濃く見えるほど青く、線のような薄い雲が時折見える程度だった。絶好の洗濯日和である。
冬はほぼ終わりの時分になっている。冬物を整理しなければいけない頃合いだ。まず、厚手のセーターを洗ってしまおうか。今から洗えば、明日の夕方には乾くだろう。毛布もそろそろ干して片付けるべきか。最近、朝兄を起こしに行くと毛布を蹴飛ばして寝ていることが多い。使わないならさっさと片付けてしまいたかった。
液晶画面から、隣へと視線を移す。赤い塊は依然規則的に上下した。薄手のブランケットの隙間から、すぅすぅと小さな呼吸が聞こえる。随分と深く眠っているようだった。
息苦しくはないのだろうか。ふと、些末な疑問が浮かぶ。朱い頭は赤い生地にすっぽりと埋まっていた。寝息が聞こえるのだから、隙間があるのは分かる。だとしても、こもって空気を吸って吐いてをするのは苦しくないのだろうか。暑くないのだろうか。マグを机に置く。少し身を屈め、塊の端っこ、赤髪がはみ出た部分を覗き込んだ。本当にすっぽりと埋まっているようで、顔は全く見えない。ただただ寝息が聞こえるだけだ。
身を起こし、またカップを持って中身を飲む。苦しくなれば勝手に起きてくるだろう。先ほど身じろぎしていたのだから、自然に顔を出すかもしれない。なんにせよ、心配するようなことではなかった。そもそも、双子の、同い年の高校生に対して抱くような情ではない。相手は寝返りができない子どもではないのだから。
意味も無くネットの海を泳いでいた携帯端末を眠らせる。目の前の机に静かに置き、またコーヒーを口にした。
このブランケットも干さなければな。大判だが薄手なので軽く日に当てるだけでいいだろう。明日でもいいか。考え、ベランダに続く窓へと目を移す。空は依然青に染まっていた。
あと三・五/嬬武器兄弟
爪で浮かせた部分を持ち、そっと力を入れて引く。ピンク色のシールは、ミシン目から少し逸れて崩れた円となって手元に残った。
剥がしたそれを冷蔵庫の扉に留められた紙に貼り付ける。台紙というにはぺらぺらで心もとないそれは、もう半分ほど埋まっていた。〇・五の小さな数字が並ぶ中、時折二・五の高めの数字が交じる。指でなぞりながらざっくり数えると、もうあと数点で目標の点数に達することが分かった。
「なー」
「どうしました」
シールの群れから目を離すことなく、雷刀はどこか抜けた声をあげる。隣で湯を沸かす弟も、ケトルから目を離すことなく答えた。
「これ、二枚目狙えるんじゃね?」
もう一袋からシールを剥がしながら朱は言う。短い爪の先に鮮烈なピンクが咲いた。
毎年冬から春にかけては、製パン会社がキャンペーンを行っている。パンを買うだけで丈夫な皿が手に入るというこのキャンペーンには毎年のように参加していた。この時期は朝食はトーストがほとんど、間食や夜食も菓子パンを食べることが多い。ただのキャンペーンだが、兄弟にとって季節を感じる一つのイベントとなっていた。
シールを貼り付けているキャンペーン台紙、その下部に書かれた実施期間は長い。現時点であと二ヶ月近くある。こんなに早く一枚分が貯まるなら、このまま二枚目を狙ってもいいのではないか。皿は何枚あってもいいのだ。
「駄目でしょう」
ドリッパーに湯を注ぎながら碧は言う。えー、と思わず不満げな声を返した。
「景品の数には限りがあるのですよ。一家族が何枚ももらうのはよくありません」
「でも余った分もったいなくね?」
「レイシスにあげればいいでしょう」
縋り付く兄を弟は一蹴する。確かにレイシスもシールを集めている。残った分を渡すのは、あぶれたものを無駄にしたくない己たちにとっても、皿が欲しい彼女にとっても嬉しいだろう。皆が得する選択だ。
「今年のお皿はボウルですしね。一枚あれば十分です」
マグカップにコーヒーを注ぎ入れながら烈風刀は言う。台紙に書かれた今年の皿の写真は、少し深めのサラダボウルだ。確かに、そう複数枚使うような食器ではない。そっかぁ、と下がり調子の声を漏らした。
「コーヒーできましたよ。食べましょう」
二色のマグを手に弟が言う。シールを剥がした菓子パンたちを片付け、己の分を受け取る。二人でキッチンを出た。
ダイニングテーブルには、綺麗な三角形のサンドイッチがいくつも並んでいた。
透明グラスと百円玉/嬬武器兄弟
並び立った透明色が光がきらめく。天井に付けられたLEDライトに照らされているだけだというのに、どれもまるで宝石のように輝いて見えた。
一つに手を伸ばしてみる。手に感じる重みは、素材が確かなものを伝えてきた。これが一一〇円なのか、と雷刀は目を丸くする。こんなにしっかりした代物がコンビニで売っている菓子より安いだなんて、どういう理屈なのだろう。あちこちから眺めていると、底に貼り付けられたシールが目に入った。シンプルなそれには、赤い色で『三三〇円』と書かれていた。
途端、好奇心で輝く瞳が陰る。三三〇円も十二分に安い値段ではあるのもの、ここは『百円均一ショップ』なのだ。昨今は百円以上のものが当然のように売られていることは重々承知だが、どこか騙されたような気分になってしまう。上がっていた口角がすっと下がった。
「プラスチックのにしますからね」
外の空気と同じほど冷たい声が隣から飛んでくる。えー、と返して、手にしていたガラスのコップを棚に戻した。声の方を見やると、カゴを手にした弟の姿があった。灰色のそれの中身はまだ空だ。
「ガラスのが綺麗じゃん」
「その綺麗なガラスのコップを割ったのは誰ですか」
唇を尖らせて言うと、至極冷静な声が返ってくる。う、と小さく呻いた。午前中、キッチンに響き渡った高い音が呼び起こされる。己の悲鳴と弟の慌てる声、細心の注意を払って箒と新聞紙を操った感触まで戻ってきた。
兄の様子を気にすることなく、烈風刀はまっすぐに売り場を進んでいく。食器コーナーの奥には、これまた透明色が並んでいた。ただ、輝きは先ほど見たものより鈍い。先入観もあってか、どこか安っぽく見えた。
「プラスチックだとすぐ白くなるじゃん」
「最近のものはそうでもないようですよ」
へぇ、と雷刀はこぼす。スポンジで擦られるからだろう、過去に使っていた透明なプラスチック容器はすぐに白く曇ってしまった。今は違うのだろうか。技術の進歩というやつだろうか。考えながら、棚に並んだ一つを取る。ガラスのものとは比べものにならないくらい軽く、温度もどこか穏やかだった。裏返して底面を見る。貼り付けられたシールには『一一〇円』と書かれていた。
いくつか手に取っていく弟の横を通り過ぎ、兄は他の商品を眺めていく。透明を過ぎると、極彩色が並んでいた。赤に青に黄色、緑、ピンク、果ては黒。無地のものからロゴが入ったものまで様々だ。タンブラーのように長く高いもの、子どもが持つような小さく丸いもの、円に近い多角形のもの、形も個性に溢れている。本当にこれが一一〇円で買えるのだろうか。先のグラスのこともあり、少しの疑念がよぎっていった。
「そちらにしますか?」
「いや、透明なのがいい」
いつの間にか同じほど売り場を進んできた弟が尋ねてくる。小さく首を振り、雷刀は来た道を戻る。先ほど手に取ったプラスチックのコップを二つ、カゴに放り込んだ。そうですか、と短い声が返された。
ビニール手袋、スポンジ、ハンガー、洗濯ばさみ。売り場を巡り、事前にリストアップしていたものを二人でカゴに入れていく。そっと二個一一〇円の菓子を忍び込ませようとしたところで、すっとカゴが遠くへと引いていった。
「あとでスーパーに行くでしょう」
冷えた視線を送ってくる弟から逃げるように、兄は手にした菓子を静かに売り場に戻す。何事も無かったかのように隣に並ぶと、エコバッグ用意しておいてください、と常と同じ声が飛んできた。
会計を済ませ、安物のナイロン袋に買ったものを詰めていく。どれもこぶりなものだったこともあり、肩にかけた袋は中身など無いように平べったい見た目をしていた。店員の声を背に受けながら自動ドアを潜り抜ける。瞬間、クーラーの空気を直接顔にぶつけられたような感覚がした。さっみぃ、と思わず声が漏れる。弟は物言わずに道を進んでいった。慌てて追いかけ隣に並ぶ。碧い瞳は携帯端末に釘付けになっていた。
「あぶねーぞ」
「……あぁ、すみません」
軽く声をかけると、一拍置いて謝罪の言葉が返ってくる。弟は端末を鞄に放り込むと、一歩大きく踏み出した。歩みは止まらず、どんどんと抜かされ、背が見えるほど遠くなっていく。おい、と思わず漏らして走って寄った。
「そんなに急ぐことねーじゃん」
「先ほどチラシを確認したら、タイムセールをやっているとありました。早く行かないと」
白菜が、とこぼし、弟はずんずんと突き進む。確かにそれは重要だ。今の時期食卓に並ぶ鍋には白菜が不可欠である。安く多く買える機会を逃すわけにはいかない。小さく息を吸い、タッ、と地を蹴る。大きく足を踏み出し、また地を蹴り、踏み出し。駆け出すと、えっ、と跳ねた声が後ろから聞こえた。
「ちょっと、雷刀」
「早くしないとなんだろ?」
背中から呼び止める声に、雷刀は振り返って笑う。置いてくぞー、と掛けた声は、どうにも笑みがにじんでしまった。後ろから駆ける音。すぐに隣まで迫ったそれに、危ないでしょう、と呆れた調子の声が付いてきた。
プラスチックのにしてよかった、と兄は抱えた鞄の中身へと思いを馳せる。ガラスのコップではこんなに乱暴に扱うことはできない。丈夫なプラスチックだからこそ、こんなちょっとした無茶ができるのだ。
夕方を告げるチャイムの音が遠くから聞こえた。
結局全種買って帰った/インクリング+インクリング
2024年3月のフェスネタ。
「何でサワークリームオニオンねぇの!?」
叫声が街に響き渡る。感情たっぷりのそれは分厚いガラスにぶつかって消え、向こう側に聞こえることはない。収録中のタレントたちは変わらず軽妙なトークを繰り広げていた。
「マイナーだからでしょ」
「どこがだよ!」
隣、たった一言放った少女に少年は吠えてかかる。一瞬眉を寄せたインクリングの少女は、掲げたナマコフォンのボタンを押した。軽い音と同時に、小さな液晶画面にバンカラ一の人気タレントたちが収まった。
「サワークリームオニオンほど美味いポテチなんてないだろ!」
「コンソメの方が好き」
手をわなわなと震わせるインクリングの少年を横目に、少女は携帯端末を操る。先ほど撮った写真を『すりみ』と名付けられたフォルダに移動させた。全く意に介さない友人の様子など気にせず、少年はいいか、と言葉を続けた。
「まずサワークリームオニオンは香りが良いんだよ。色んなポテチはあるけどあれだけ香りが強いやつはない。爽やかで、でも腹が空くような抜群に良い香りがするんだ」
ろくろを回すように手を構え、目を伏せてインクリングは言う。しかめ面ににも似た表情は真剣そのものだった。菓子について語っているとは想像できないほどの気迫に満ちていた。
「んでもって味も良い。しょっぺーけどそれがいい。口ん中全部サワークリームオニオンの味になるぐらい強いのがいい。そのしょっぱさがベースのポテチの芋の甘さを引き立てるんだよ」
へー、と少女は合いの手を入れる。視線は完全に目の前の液晶画面に向けられていた。四角い指がボタンを操る。画面に『コンソメ派なんでよろー』と短い文章が現れた。
「香りも味も強い。けど全部さっと溶けていくんだよな。儚いっつーの? ばーんっと殴ってスッと消えて、そんで次が欲しくなる。どんどん食って止まらなくなる」
「ポテチなんて全部そうでしょ」
「こんだけインパクトがあって、香りも味も楽しめるのサワークリームオニオンだけだろ? なのに何でねぇんだよ!」
少女の言葉など聞いていない調子で少年は語る。胸に手を当て、宙を掴むように指を天へと向けて震わす姿は、熱弁と表現するのがぴったりだった。そんな様子など一瞥すらせず、少女は端末を操る。上から下へと流れゆく文章の海に、先ほどの一文が放流された。パチン、と硬い音をたててナマコフォンが折り畳まれる。ようやく、黄色い瞳に少年の姿が映った。常はくりくりとした丸い目はじとりと細められている。
「フェスなんてサザエもらえればそれでいいじゃん」
「ダメだろ。真剣にやってるやつがいるんだから、こっちも真剣にやらねーと」
至極真剣な顔で返す少年に、真面目だねぇ、と少女は呆れた調子で返す。この友人は普段は適当極まりないというのに、バトルが絡むと妙に真剣になるのだ。もっと真面目にやることなど山ほどあるというのに、と思うも、指摘するも、全く聞き入れないのだから世話が焼ける。
「とりあえず全部買わねーとなー」
「ただお菓子食べたいだけでしょ」
「食べたいだけならサワークリームオニオン買うわ。ちゃんと確認して、一番好みのやつに入れて、ちゃんと戦わないとダメだろ」
「……ほんっと、馬鹿真面目だね」
「馬鹿じゃねーわ」
呆れも呆れ、最早感心すら感じさせる調子で少女は言う。少年は眉を寄せて返す。それもすぐ解け、うし、と小さく頷いた。
「じゃ、俺スーパー寄って帰るわ。明日昼からで」
「はいはい。遅れないでよねー」
ひらひらと手を振る少年に、少女も手を振る。踵を返した細い背が、駅の改札へ吸い込まれて消えた。
手を下ろし、少女は今一度携帯端末を操る。SNSのタイムラインは、早速三つの勢力による罵り合いと言う名のじゃれあいが繰り広げられていた。第四、第五勢力まで登場するのもいつも通りである。フェス恒例の光景だった。
熱弁する友人の声がリフレインする。香り、味、しょっぱさ、甘さ。右から左に流れていったはずの様々なワードが頭の中に溜まっていく。たったそれだけだというのに、鼻に抜けるあの香りが、舌を刺激するあの味が、神経を辿って胃を刺激した。
「……ポテチ食べたくなっちゃったじゃん」
呟き、少女は息を吐く。携帯端末をバックパックのポケットに放り込み、雑踏を縫って歩き出した。
薄いスニーカーに包まれた足は、まっすぐにコンビニエンスストアに向かっていた。
1:10/新3号+新司令
とぷん、と音をたてて身体が格子状の出入り口から飛び出る。インクが払われた顔は、これでもかというほど渋いものだった。チッ、と短い音が薄い唇から発せられる。強く寄せられた眉も、酷く眇められた目も、への字を描く口も、そこから漏れる舌打ちも、全てが彼女の機嫌の悪さを表していた。
またダメだった。マトを壊すだけだというのに、何度やってもクリアできない。バケットスロッシャーのインクが届かない時もあれば、そもそもインク切れを起こしてしまう時もある。挙げ句の果てにはインクレールから足を踏み外す始末である。何もかもが噛み合わない。何もかもが上手くいかない。このミッションだけがいつまで経ってもクリアできずにいた。おかげでイクラは減るばかりだ。それが苛立ちと焦りに拍車を掛ける。
また鋭く舌打ちをし、三号と呼ばれるインクリングはヒーローシューターを握り締める。足元のコジャケが声をあげて走りゆく。同居人が何かを――カネになるかもしれないものを見つけたというのに、少女は目もくれない。深海色の瞳は足元のヤカンを睨むばかりだ。
「『何度倒れても起き上がる、それがヒーローだ』と司令は言っとるよ」
通信機から音声が流れてくる。二号のものだ。ミッションを失敗する度、謎の部隊の三人組は声を掛けてくる。彼女らなりの励ましのつもりなのだろう。余計なお世話である。通信機の向こう側に聞こえるように、わざとらしく舌打ちをした。
「やってないくせに適当なこと言わないでくれる?」
苛立ちを隠す様子も無く三号は言う。ふんふん、と全く意に介さない声が返ってきた。
「『一旦基地に戻ってこい』と司令は言っとるよ」
「何でよ」
二号の言葉に、少女は低い音で返す。棘のある、むしろ棘しかない声だ。己は攻略を進めたいというのに、何もしないやつらが意味の無いことばかりを言い、挙げ句の果てには命令してくる。腹立たしくて仕方が無かった。
「そろそろお昼ご飯食べよー!」
二人――発言は三人だが――の様子など知らないとばかりに、元気な声が聞こえてくる。一号だ。弾んだ明るい声に間を取り持つ気遣いなど見られない。ただただ無邪気に言っているのだ。お腹空いたでしょ、と言葉が続く。反応するように、胃が軽い痛みを覚えた。
遠くから表現しがたい音があがる。凄まじい勢いでコジャケが戻ってくるのが見えた。大方『お昼ご飯』の言葉に反応したのだろう。耳ざといやつだ、と少女は眉を寄せる。また胃が痛みを訴えた。
「……分かったわよ」
舌打ちを添えて三号は返す。ブーツに包まれた足が、基地がある方向へと向けられた。
昼食は簡素なものだった。コンビニエンスストアに売っているおにぎりやサンドイッチ、クッキーなどの甘いお菓子にいつものカフェオレ。それでも、三号にとっては十分上等な食料だった。なにせ普段はスーパーで一番安い米や食パン、酷い日はチケットで交換できるマキアミロールを食べて凌ぐような生活をしているのだ。肉と野菜がきちんと食べられる食事は久方ぶりだった。
無言でひたすら口に食料を押し込む。こんな高価な物は今の生活ならば絶対に食べられない。しかもこれは全て奢りである。夕飯を兼ねるほど食べなければ損だ。残り三人の様子など全く気にせず、三号とコジャケは食べ物を胃に詰めていく。三号って本当にいっぱい食べるねー、と呑気な声が基地に落ちた。
「『ミッションについて教えてくれ』と司令は言っとるよ」
「は?」
プラスチックのマグカップから口を離し、少女は短く返す。先ほどまで解けていた眉は、一瞬で再び寄せられた。何故こいつ――『司令』と呼ばれる、一言も喋らないやつに説明しなくてはならないのだ。大体、説明したところで何かが変わるはずも無い。無駄な行動であることは明白だ。
「マトを壊すんだよね」
指をピンと立てて一号が問う。十字がきらめく瞳は純粋そのもので、眩しいほどに輝かしい。毒気を抜かれるような心地だ。己の醜さを白日の下に晒されているような心地だ。まっすぐに睨んでいた目がふぃと逸れた。
「……そうよ」
「三号はバケットスロッシャーを使ってるよね。得意なの?」
「別に。『オススメ』って書いてあるから使ってるだけ」
ミッションで指定されたブキは、ジェットスイーパー、バケットスロッシャー、ノーチラス47の三種だ。わかばシューターしか持っていない己はどれも使ったことがないものである。ならば、『オススメ』と書いてあるものを使うのが一番良いだろう。
その思考も全て一号の言葉によって引き出されていく。気が付けば、ミッションについて――上手くいかないことも含めて――全て洗いざらい話していた。本当にこのインクリングは話を引き出すのが上手い。しかも意図してやっているのではないのだからたちが悪い。悪意も何も無い、無邪気なやつが一番厄介なのだ。チッ、とまた舌打ちを漏らした。
バッ、と布がはためく音がする。思わず視線をやると、そこにはスケッチブックと油性ペンを構えた司令の姿があった。どこから取り出したのだ。というか何に使うのだ。疑問によって視線が縫い付けられた。
スケッチブックがめくられ、素早い動きでペンを握った腕が動く。何を書いているのだ、こいつは。訳の分からない行動に、三号は依然険しい視線を向ける。しばしして、ペンが走っていた紙面がこちらに向けられた。
射程はジェット、ノチ、バケツ。
バケツは曲射が必要。当てにくい。オススメを信じるな!!!!
ノチはキルタイム早い。チャージいるけどチャーキで調整可能。チャーキ慣れ必要。
ジェットは火力低いが射程で勝てる。インク効率そこそこ。
インク切れになるならこまめに潜伏挟む。撃ちっぱなしは悪手。
下段から破壊。移動するシステム的に下段は射程外に行きやすい。先に潰す。
届かなそうだったらクイボ投げる。クイボで壊れる。
ジェットが一番やりやすい。チャーキ使えるならノチ。バケツはオススメじゃない。オススメを信じるな!!!!
狭い紙面には情報が詰め込みに詰め込まれていた。走り書きそのものの文字で書かれたそれは、現在攻略しているミッションに関する情報だ。まさに『攻略法』だった。
向けられた紙面を、三号は呆然と見つめる。先ほどの話を聞いただけでこれだけ書いたのか、こいつは。たったあれだけの情報でこんな詳細な情報を書いたのか、こいつは。青い目は丸く瞠られていた。隣から形容しがたい声があがる。食事を終えた同居人の声に、やっと衝撃で止まった頭が動き出した。
目の前に文字が差し出される。反射的に向けた視線の先には、スケッチブックをこちらに差し出す司令の姿があった。空色の瞳がじぃとこちらを見つめる。受け取れ、と語っていた。
らしくもなくおずおずと手を伸ばし、文字が躍るそれを受け取る。再び目を向けると、『オススメを信じるな!!!!』と太く強く書かれた文字が飛び込んできた。
「何でよ」
「『オススメが攻略しやすいとは限らない』と司令は言っとるよ」
漏らした声に、答えが返ってくる。スカイブルーが伏せられ、軍帽が乗った頭が小さく上下する。また開かれた瞳は、まっすぐにこちらを見据えていた。
ばつが悪そうに口を引き結び、少女はまた文字たちへと視線を移す。一部分からない言葉はあれど、攻略の情報として十二分に機能するものだった。
海色の瞳が眇められる。何故あんな短い話だけでこれだけ書けるのだ。何故あの短時間でこれだけの攻略法が思いつくのだ。何故これほどまでブキへの理解が深いのだ。悔しい。何度繰り返しても分からなかったものが、話を聞いただけのやつに全て見透かされた。その事実が悔しくてたまらない。小さく喉が鳴った。
「『急がず好きなだけやるといい』と司令は言っとるよ」
「……分かってるわよ」
こぼし、三号は立ち上がる。手にしたスケッチブックを隣に座った一号に渡す。いいの、と尋ねる声に、いいの、と短く返した。書き連ねられた文章の要点は、もう頭に入れた。あとは試すのみだ。こいつに力を借りる形になったのは悔しいが。
踵を返し、少女は歩き出す。何とも表現しがたい声があがり、足元に小さな陰が寄ってくるのが見えた。いってらっしゃい、と背中から声が聞こえた。
ジェットスイーパー、と口の中で呟く。本当にあれがいいのだろうか。あの文面を信じていいのだろうか――否、信じられる、信じさせる力のある文字たちだった。意固地になって使っていたバケットスロッシャーを手放そうと思うほどには。
ほどなくして辿り着いたヤカン、その金網の上に立つ。身体の力を抜き、インクリング本来の姿へと戻る。高い音と共に、黄色い身体が金網へと吸い込まれていった。
畳む
諸々掌編まとめ9【SDVX/スプラトゥーン】
諸々掌編まとめ9【SDVX/スプラトゥーン】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
スプラの話はうちの新3号だったり名無しだったりコロイカだったり。独自設定ありなのでご理解。
成分表示:ナサニエル+バタキャ/ライ+レイ/新3号/新3号+コジャケ/インクリング→インクリング/ワイエイ2
雪空に子猫/バタキャ+ナサニエル
ネメシス=メトロポリス。電子の世界の中心にあるこの場所は、いつだって賑やかで人に溢れた場所だ。街道には人が行き交い、店々には客が溢れている。活力で満ちた街だ。
そんな場所でも、静かな日もある。路地裏、それも滅多に人が来ることのない教会ならば尚の事静けさに包まれるのだ。
水色の瞳が古びた窓の外を見やる。少し曇ったガラスの向こう側は、白に染まっていた。季節は冬、天気は雪。厳寒の世界は降り積もる白で支配されていた。
音もなく降りゆく様を眺め、ナサニエルは眉をひそめる。は、と吐いた息はほのかに白い。ストーブを焚いてはいるものの、広い教会内を全て暖めることなど不可能だ。古ぼけてあちこちガタが来ている建物なら尚更である。現に、足元を隙間風が駆け抜けていった。這い寄る寒気に、少年は眉を寄せた。
いつもは生意気な子どもや意味のない懺悔をする少年が訪れるここだが、こんな冷気に満ち溢れた世界をわざわざ出歩く者などいないだろう。今日ばかりはさすがに人など来るまい。もう閉めて裏に引っ込んでしまうのが得策だ。考え、新米天使は教会の入口へと向かう。ひび割れた床の上を足音が静かに流れていった。
ガチャン、と勢いの良い音が広くはない空間に響く。来訪者を示すそれに、少年は露骨に顔をしかめた。
「こんにちはー!」
可愛らしい三重奏が冷えた建物の中を駆けていく。雪の積もった地面を背景に、トリコロールが鮮やかに咲いた。開け放たれた扉から、鋭い寒気が教会内に注ぎ込む。全身を包まんとする冷気が、さらけ出された細い足にまとわりついた。
三匹子猫たちの姿に、ナサニエルはこれでもかと眉を寄せる。歓迎などしていないと言わんばかりの顔だ。機嫌の悪さを隠しもしない表情だ。当たり前だ、招かねざる者に取り繕う理由など無い。
「ここは遊び場じゃないぞ」
目を眇め眉を寄せ、天使は告げる。吐き捨てるようなそれはうんざりとしたものだ。表情も声も言葉も、さっさと帰れ、と強く語っていた。
「きょうかい、あったかいです」
「あったかい……」
「おそとさむーい!」
「だったら大人しく家にこもってろ」
少年の様子など気にもせず、子猫たちは戸を閉め気ままに教会内を歩く。濡れた長靴がペタペタと間の抜けた音をたてた。すてんどぐらすきれいですね。いすつめたい。ぺたぺたいうね。三者三様に古びた建物を楽しみ始めた。
はぁ、と新米天使はこれみよがしに溜め息を吐く。鋭く眇められた色素の薄い目は、自由気ままに歩き回る三色を睨むように眺めていた。
いつだっただろうか、雪降るさなか薄着ではしゃぎまわる姿に呆れて迎え入れてからというものの、三匹猫たちは時折ここに遊びに来るようになっていた。なってしまった。さっさと帰れ、と毎回しかめ面で吐き捨てる彼のことなど気にもかけず、子猫たちは訪れ、勝手に遊び、気が済めば帰っていく。完全に遊び場の一つとして認識されていた。心底面倒くさいことである。
一度甘い姿を見せてみればこれだ。情けなどかけるべきではなかった。チッ、と鋭く舌打ちをし、少年は眇目で小さな背中を見据える。細い腕を組み、足で力強く床を打つ。タン、と硬い音が広い空間に響いた。
「おいチビども。風邪引く気か?」
「ひかないよ!」
「こどもはかぜのこ、ですよ」
「げんきだよ……」
元気いっぱいに雛色は言う。少し得意げに桃色は言う。ことりと首を傾げて蒼色はいう。三人で奏でる声に、くちゅん、と小さな音が続いた。三対の目が響いたそれの方へと向けられる。音の主である蒼は、濡れた手袋で可愛らしい小さな鼻を擦っていた。
透き通る水晶の目がこれでもかと力強く細められる。鋭い眼光を気にすることなく、子猫たちはだいじょうぶ、だいじょうぶだよ、と言葉を交わしていた。くちゅん。くちゅん。また二つくしゃみが続く。鼻をすする音と、ふぇ、とくすぐったげに息を吸う音が教会内に落ちた。
もはや漫画のようなタイミングと展開に、ナサニエルは口を引き結ぶ。寒がる様子はないが、小さな身体は体温の低下とそれによる異変を正直に表していた。このままでは本当に風邪を引いてしまってもおかしくない。己の身体を過信し体調管理が甘い幼子は、案外風邪を引きやすいのだ。
はぁ、と天使は重苦しい溜め息を吐く。諦めが多分に含まれた音色をしていた。観念したという様子だった。随分と小さくなった手が菫色の頭を乱暴に掻く。降参だ、と手を上げているようにも見えた。
おいチビども。少年は苦々しい音色で吐き捨てる。不名誉ながら何度も呼ばれている言葉に、鼻をすする猫たちは頭二個は上にあるしかめ面を見上げた。
「あっちいけ」
ぶっきらぼうに吐き捨てながら、ナサニエルは教会の隅を指差す。三色三対の瞳が細い指の先へと吸い寄せられていった。
天使が指し示す先には、細い金属の柵に守られただるまストーブがあった。悪天候で薄暗い空間の中、赤とオレンジの光が煌々と輝いている。上に載せられたやかんは、シュンシュンと小さな鳴き声をあげていた。
わぁ、と感嘆の声。喜びを表すように、小さな耳が三つぴこぴことせわしなく動いた。今にでも飛びかかりそうな様子だった。
「触るなよ」
「はーい!」
釘を刺す少年に、子猫たちは元気に三重奏を奏でる。三色の長靴に包まれた細い足が、ストーブめがけて駆けていく。水気を含んだ靴底が、湿った足音をたてた。
はぁ、とナサニエルはまた深い溜め息を吐く。こんな甘い対応をするから子どもたちがたかりに来ることなどとうに分かっている。本当なら無理矢理にでも外に放り出して帰すべきなのだ。頭では分かっていても、心の甘っちょろい部分が勝手に顔を出して、勝手に腑抜けた対応を選んでしまう。なんとも丸くなったものだ、とまた嘆息した。そもそも、念のためにとわざわざ協会内のストーブを点けていた時点で大概丸く腑抜けて甘っちょろくなっている。
これも修行とやらだ。人を助ければ面倒くさいったらない天使の修行とやらも終わりに近づくだろう。その天使で新米の冠は取れないだろうが。
依然不機嫌そうに細められた目が薄暗い空間のすみへと向けられる。くしゃみをしていた猫たちは、ストーブを囲む柵から少し離れた位置で温まっていた。あったかいね、ときゃいきゃいとはしゃぐ声がこちらまで聞こえてくる。
スルメでも取ってくるか。頭を掻き、新米天使は居住空間に続く扉へと足を向ける。乾いた床を靴底が打つ音がほの暖かな空気の中に響いた。
白米、豚肉の温サラダ、きんぴらごぼう、じゃがいもと玉ねぎのお味噌汁/ライ+レイ
にんじん、じゃがいも、ごぼう、豚こま肉、味噌。
広い売り場を歩き回り、メッセージアプリに記された食材をカゴに放り込んでいく。無機質な灰色の中に様々な色が咲いた。
ある程度放り込み、カゴの中身を確認する。野菜と肉は指定のものを探し当てた。調味料は一部手に入っていない状態だ。チューブしょうがはどの売場だっただろうか、と天井から吊り下げられた案内看板へと視線をやる。並ぶ細かな文字を追っていると、後ろからあっ、と愛らしい声が聞こえた。
「雷刀」
名を呼ばれ、雷刀は振り返る。回った視線の先には鮮やかな桃色があった。レイシス、と制服姿のままカゴを携えた少女の名を呼ぶ。軽やかな足音とともに、華やかな桃が近づいてくる。
「あれ? レイシスも買い物?」
「ハイ。お肉を買い忘れチャッテ」
カゴを軽く掲げ、レイシスは苦く笑う。無彩色の中には、豚肉のパックが二つ、鶏むね肉のパックが一つあった。どちらも大家族向け、一人暮らしの少女が買うにはあまりにも多すぎる量だ。しかし、相手がこの薔薇色の少女ならば話は別である。なにせ、彼女は食べ盛りの男子高校生である己の倍以上は食べるのだから。
「雷刀もお夕飯のお買い物デスカ?」
「ん。作るのは烈風刀だけど」
カゴの中身に視線をやりつつ、言葉を交わす。にんじん、じゃがいも、ごぼう、豚こま肉、味噌。今晩は豚汁だろうか。寒さが厳しくなるばかりの近頃だ、具だくさんの味噌汁は心身に染み渡るような美味しさだ。それが料理上手な弟によって作られるなら、何よりも美味しいに決まっている。
「……こんな時ぐらい、オレに任せてくれりゃいいのに」
胸にわだかまる黒いものが、ぽつりと口から漏れ出る。言葉の意味を、込められた感情を理解しているのだろう。アァ、とレイシスも少し苦い笑みを浮かべた。
重力戦争は無事終結した。戦いの中しばしの間学園を離れていた烈風刀は、その間行われた授業の一部を放課後受けることとなったのだ。自力で勉強する、先生方の手を煩わせるほどではない、と本人は主張したものの、教師陣の強い希望により補習は決行された。ここ数週間は、彼一人だけ長い放課後を過ごす日々を送っている。
事情が事情とはいえ、主席の彼が放課後に居残り授業をするなんて不思議なものである。とは言っても、烈風刀の聡明な頭と学習能力によって補習授業は予定よりも早く終わりを迎えつつある。それでも、毎日時間割通りに授業を受け、放課後は残って補習をこなし、その上合間には運営業務も行っているのだ。どれだけ身体は動こうとも、疲労は確実に蓄積している。疲れているに決まっているのだ。だから補習中は家事当番を変わる、と言ったのだが、弟は一切聞き入れなかった。結局は、雷刀が折れた。こういう時の片割れは妙に頑固なのだ。
「デモ、忙しい時って料理したくなりマセン?」
「あー……、ちょっと分かる」
レイシスの言葉に、雷刀はバツが悪そうな笑みを浮かべる。何かに尽力しているときほど、息抜きに料理や掃除がしたくなるのだ。特に料理は段取り良くこなすパズルめいた気持ち良さがある。様々な食材を駆使し、あるいは限られた食材を組み上げ何かを作り上げることも達成感がある。たとえ疲れた身体でも、料理はこれ以上なく楽しいだろう。いつだって料理に真摯に向き合う烈風刀ならば当然だ。
そっか、そうだな。小さくこぼし、雷刀はカゴの中身を今一度見やる。にんじん、じゃがいも、ごぼう、豚こま肉、味噌。今週分の食材は、どうやって使われるのだろう。どうやって彼はパズルを組み上げるのだろう。それは、彼にとってどれほど楽しいのだろう。学業で張り詰めた心はどれほど晴れるのだろう。
「ジャア、ワタシお会計してきマスネ。雷刀も早く帰らなきゃダメデスヨ?」
「わーってるって。レイシスこそ、帰り道気ぃつけてな」
ハイ、と元気に返事をし、少女は店内を足早に歩んでいく。セルフレジの列へと消えた桃を見送って、朱はカゴを抱え直す。広い店内から白い天井へと視線を移した。紅緋の瞳が『調味料』と書かれた看板を捉える。
チューブしょうが。だいよーりょーのやつ。メッセージアプリに書かれた買い出しメモを読み上げ、少年は歩き出した。
「あと十枚ねー」「えっ」/新3号
一つ一つ踏みしめ、梯子を登っていく。ブーツが金属の段にかかる度、ガシャン、と硬い音があがる。音は大袈裟で不安を煽るものの、足裏から伝わる感覚は強固でしっかりとしたものだ。遠い地面から這い寄る恐怖を蹴り捨てつつ、少女は確かな足取りで登っていった。金属梯子の鳴き声が、街のざわめきの中消えていった。
登りきった先は狭い舞台だった。なんとか人が立つ余裕がある程度のそこを、慎重な足取りで進んでいく。ほらほら、と浮かれた声が手招いた。
この街では度々『フェス』というイベントが開催される。三陣営に分かれ、バトルで貢献度と得てポイントを競うという単純明快なルールである。本気で戦う者、その名の通りお祭り気分で遊ぶ者、バトルよりも屋台を楽しむ者、変わらずアルバイトに励む者。様々な者が夜の街に溢れていた。
フェスの目玉は百倍マッチだ。貢献度が大量に入手できるそれは皆が狙い、殺気立つほど真剣に戦う特別なバトルである。十倍マッチをいくつも重ね、迎えた百倍マッチ。己は勝利を掴むことができた。これでスーパーサザエの大量獲得に近づいたと内心満面の笑みを浮かべていたところだった。
オミコシ乗ろう!
次のバトルへ向かおうとしたところで、後ろからシャツを引っ掴まれて飛んできた言葉がこれである。は、と疑問を吐き出した瞬間、乗ろう乗ろうと声がまた二つ重なる。終いには、百倍マッチでたまたま同チームになった三人に手を引かれ背を押され、壇上に登る今に至る。
そんなに登りたいものか、と三号と呼ばれる少女は嘆息する。百倍マッチの勝利者は、広場に設置された舞台、通称オミコシに乗ることが許されている。これに乗りたいがためにフェスに心血を注ぐ者もいると聞くほどだ。どうやら、即興チームの三人組はその部類だったらしい。三人で乗ればいいじゃない、と返すと、チーム全員揃ってないと乗れないの、と三重奏が返された。ついでに引く力と押す力まで強くなったのだからもう逃げることなどできない。包囲されている時点で手遅れなのだけれど。
フェスは稼ぎ時だ。普段よりも人が増えるため、マッチングがとてつもなく早い。同じ時間でも、常以上に回数をこなせる。勝利で得られるスーパーサザエの存在も重要だ。これさえあれば通常はカネを払うことでしかできないギアスロットの開放が行えるのだ。常に家計が火の車である己にとっては救いであり何に代えても手に入れるべきものだ。フェスの時間いっぱいまで戦わねばならない。なのにこれである。
はぁ、と三号はまた深い溜め息を吐く。これ見よがしに吐き出されたそれは、やはり夜のざわめきに消える。そもそも、隣の三人組は既に彼女らだけで盛り上がっているのだ。自分の存在などもう路傍の石ころ同然である。本当に何でこんなことに、と少女は顔をしかめた。
隣から聞こえるかしましい声を意識から切り捨て、インクリングは足元に向けていた視線を上げる。もう風景を見るぐらいしかやることがない。いつもの街並みを眺めて貴重な時間を無為に潰すだけだ。ふん、と少女は眇目で鼻を鳴らした。
フェスの夜、常は明るい街は闇が落ちていた。陽の光に照らされた階段は影を落とし、みずみずしく輝く植え込みも夜に溶けている。夜のベールが世界を包んでいた。
その闇を振り払うように、数多の光が灯っていた。フェスのためにだけに設置された提灯が揺れる。昼は寝静まったネオンがこれでもかと自己を主張する。電光掲示板が稼ぎ時だとばかりに広告主の名をきらめかせる。痛いほどの光が世界を照らしていた。
煌々と光るそれらに照らされながら、広場に集った者は踊る。ある者は手を上げ、ある者はタオルを広げ、ある者は軽快にステップを踏み、ある者は頭にサイリウムを突き刺し。皆が音楽に合わせて身体を揺らしていた。闇を振り払うような光の中、皆笑顔を浮かべ天を、オミコシを見上げては笑顔を浮かべていた。
目がくらむような明かりたちに、眩しいほどの雑踏に、三号は目を細める。皆が楽しみ、皆が喜び、皆が笑顔を振りまく。あまりにも輝かしい光景だ。フェス、つまりはお祭りをそのまま形にしたかのような風景だ。
ふぅん、と少女はまた鼻を鳴らす。今度はどこか上機嫌なものだ。こんな街を眺められるのはフェスの夜だけだ。そして、それを見下ろすことができるのはこのオミコシの上ぐらいだろう。なかなかに気分がいい。真一文字に引き結ばれた口は、いつの間にかふわりと解けていた。
「ねぇねぇ、写真撮ろう!」
隣から声、そしてまた袖を引かれる衝撃。え、と思わず呆けた調子で返すと、立って立って、とまた手を引かれた。狭い舞台の上、危なげによろめきながら少女は立ち上がる。訝しげに細められた目に、短い髪を揺らし満面の笑みを浮かべる少女が映った。
「写真って何」
「オミコシの上で写真撮れるんだって! 記念に撮ろう!」
「いや、あたしは――」
「四人じゃないと撮れないの!」
否定の言葉はかき消された。大方返す言葉を予想されていたのだろう。それを押し込める言葉と笑顔を用意して待ち構えられたのだ。
ほら、とインクリングの少女が背を叩く。彼女が指差した闇の中には、ドローンが飛んでいた。笠を被ったそれは、オルタナで世話になっているものと酷似している。あの店主こんなことまでやってるのか、と呆れと感嘆が混じった息が漏れた。
「ほら、いくよー!」
肩に温度。腕を回されたのだと気づいたころには、ぎゅっと身体を引き寄せられていた。耳がかすめる。頬がくっつく。せーの、と元気な三重奏が夜空に上がった。
まぁ、たまにはこういうのもいいか。
三号はふっと目を細める。同時に、パシャ、と軽快な音が大音量の音楽の中に落ちた。
秋雨と洗い物/新3号+コジャケ
しとしと。ぴちょぴちょ。ぱたぱた。ばちゃばちゃ。ざぁざぁ。
瞬く間に勢いを増した雨音に、少女は眉をひそめる。整った細い眉は、皺を刻み込むと言った方が正しいほど強く寄せられていた。大きな手に握られたTシャツにくしゃりと皺が寄った。
ここ数日、バンカラ街は雨に包まれていた。晴れ間はあれど、すぐにまた降り出すのだ。降り続けていると表現しても問題のない程度には、雨雲は絶え間なく街を覆っていた。
真っ暗な空を睨み、三号と呼ばれる少女は溜め息を吐く。この雨のせいでろくに洗濯ができないのだ。狭いベランダしかないこの部屋では、雨の日に洗濯物を干すなど不可能である。妥協して部屋干しをしようにも、一人と一匹で暮らすのがやっとなこの部屋には干す場所など無い。今の懐事情ではコインランドリーという選択肢は最初から無かった。止むのをじっと待つしかないのだ。
はぁ、とインクリングはまた一つ溜め息を吐く。バトルに行こうにも、この雨では外を出歩くのすら億劫だ。雨に降られるのも嫌だし、バトルでギアを汚して洗濯物を増やすのも嫌だ。そも、愛用のギアはここ数日洗濯カゴの中で黙しているだけれど。
洗濯物をまた一つカゴに放り投げ、少女はそのままベッドに倒れ込む。ぼすん、と大きな頭を受け止めた枕が鈍い声をあげた。枕元のナマコフォンに手を伸ばす。緩慢な動きでボタンを操作し、アプリを立ち上げ天気予報を見る。本日は雨、降水確率八十パーセント。明日はくもりのち雨、降水確率六十パーセント。明後日はくもり、降水確率五十パーセント。いくら足掻こうと表示される傘と灰雲のアイコンを睨み、携帯端末を閉じた。手のひらサイズに畳まれたそれは再びベッドの上に転がった。
ごろんと寝返りを打って横を向く。青い目が気だるげに動き、キッチンにほど近い床を映した。ペット用の食器の横には、コジャケが寝転んでいた。食事を終えた彼は暇を持て余しているのか、己と同じように床をころころと転がっていた。短いヒレが床を打つ音が雨音にまじる。
「……コジャケさぁ」
一回転しては戻りを繰り返している小さな相棒の名を呼ぶ。何とも表現し難い鳴き声が部屋に落ちた。両手に乗せられるほど小柄な身体がぴょんと飛び上がる。黄色い目がまっすぐにこちらを見た。
「それ、変えなくていいの?」
四角い指が一本立てられる。それ、と少女が指差したのは、相棒の下半身を包む緑の布だった。
彼は拾った頃からずっとその下着――と言っていいのか分からないが、見た目は下着である――を履いていた。砂漠を駆けずり回る時も、オルタナを走り回る時も、バンカラ街の隅っこに佇む時も、この部屋で転がって遊んでいる時も、ずっと同じものを履いていた。シャワーを浴びせる時に一緒に洗っているから汚れきっているわけではないと思うが、さすがに一切履き替えてないのは問題なのではないだろうか。雨で暇を持て余した脳味噌は、至極どうでもいい疑問を抱き始めた。
「新しいの買ったげよっか」
そうだ、たまには相棒の服を買ってやってもいいではないか。シャケ用の服がこの街に売っているかは怪しいが、己たちインクリングやオクトリング向けの下着から似たようなサイズのものを見繕ってやれば十分だろう。うん、それがいい。突然降って湧いた名案に、少女は満足げに目を細めた。
鳥にも似た鳴き声があがる。普段のどこか間の抜けたものではない、ジャンク品を嗅ぎ当てた時のそれと同じ鋭いものだった。小さな身体がぴょんと跳ねていく。素早く飛んだ彼は部屋の隅に収まった。丸い目がじぃとこちらを見つめる。否、睨みつけると言っても過言ではないほどの鋭い視線が向けられた。
「え? そんなに嫌? 新しい方がいいでしょ?」
初めて見る相棒の姿に、インクリングはきょとりとした顔をする。ぱちぱちと瞬く青い目に、蛙の鳴き声にも似た音が返された。強く鋭いものだった。人懐っこい彼からは想像できないほど、警戒心に溢れた音だった。
新しい服がそんなに嫌なものだろうか。今着ている服がそんなに大切なものなのだろうか。シャケの事情など分からない。シャケの感覚など理解ができない。けれども、普段何も考えていないといった顔をするあの相棒がこんな様子になるのだ。よっぽどのことなのだろう。ごめんごめん、と三号は苦く笑って手を振る。依然警戒が強く滲み出た音が返ってきた。
部屋の隅から――己から一番遠い場所から動こうとしないコジャケの姿に、少女はうぅんと呻きを漏らす。彼がこんな姿を見せるなど初めてだ。おそらく、しばらくはこの調子だろう。少し落ち着いた頃にまた呼んで、おやつでもやろう。さすがに触れてならない部分に触れてしまった詫びはしておいた方がいいはずだ。ジャンク品を掘り当てる彼の嗅覚を失うのは手痛い。
一回転し、身体を窓の方へと向ける。ガラスの向こう、薄暗い世界は未だ雨で包まれていた。雨音もうるさいほどの激しさを保ったままだ。予報通り、当分止みはしないだろう。
「……洗濯物ぉ」
呟き、三号は枕に顔を埋める。コンクリートのベランダとガラス窓を打つ水の音が部屋に静かに響いていた。
シアンの雨降る/インクリング→インクリング
雨の日パラシェルで相合い傘するイカって話から。
機械的な音を細くあげ、ロビーの自動ドアが開く。瞬間、生ぬるさが肌を撫ぜた。埃にも土にも似た匂いが鼻先をかすめる。足元から水気のある空気が這い上がってくる。コンクリートが水に打たれる音が鼓膜を震わせた。
うわ、と少年は思わず顔をしかめる。雨音が街の音を、声を消していく。傘の群れが駅前を、広場を進んでいく。近くの軒下に、同じように顔をしかめるインクリングやオクトリングの姿が見えた。
「どしたの――うっわ」
軽快に訊ねる声は返事を待たずに重いものへと変わった。うっわぁ、とうんざりとした声が頭半分下からあがった。
「傘持ってきてないんだけどー」
「だよなぁ」
唇を尖らせるインクリングの少女に、同じくインクリングである少年は応える。その声も彼女と同じほどうんざりとしたものだった。大きな手がつるりとした頭を掻く。視界の端で同じマゼンタの長いゲソがふわりと舞うのが見えた。
「置き傘とかしてないの?」
「こないだ使ったまま家に置いてきた。お前はしてねーの?」
「私もこないだ使っちゃった」
運わるー、と少女はこぼす。それな、と少年もこぼす。二対の瞳はロビーの外、雨降る世界を睨んでいた。
己たちインクリングは水に弱い種族だ。雨は天敵といっても過言ではない。それ故に雨具はロッカーに備えているのだが、先日の通り雨で使ったまま戻すのをすっかり忘れてしまっていた。雨合羽も用意しておくべきだったか。しかし、この歳で雨合羽を着て歩くというのは全くイカしていない。かといって、無いものは無いのだからどうしようもない。この調子では、近場の店では傘はもう売り切れているだろう。予報晴れだったじゃん、と思わずこぼした言葉に、だよねー、と少し勢いのある声が返された。
止むまで待つか、と少年は溜め息をこぼす。種族の特性故本当に死ぬわけではないが、真水に濡れるのはやはり痛みが強い。降られながら帰るという選択肢は可能な限り避けて通りたい。
途端、ザァと強い音が耳に飛び込んできた。湿った風が肌を叩く。何とも言い難い匂いが強く香る。バタバタバタ、と打楽器の演奏めいた音が身体を包んだ。
「……え? これ止む?」
「止みそうにねぇよなぁ……」
呆然とした声を漏らしながら、二匹のインクリングは同時にナマコフォンを取り出す。四角い指が手早く二つ折りの端末を開き、慣れた手付きでニュースアプリを操作していく。現在の天気の欄には傘マーク。一時間後の欄にも傘マーク。二時間後の欄にも傘マーク。三時間後のものになってやっと灰色雲のマークが付いていた。つまり、当分止みそうにない。うっそでしょ、と悲鳴めいた声が隣から聞こえた。
「えー、どうすんのこれ」
「どうしようもないだろ」
二人揃ってどんよりとした声を漏らす。アプリを操作し、今のステージスケジュールを確認する。現在開催されているバンカラマッチのルールは、ロッカーに置いてあるブキでは参加が難しいものだった。かといって、ナワバリバトルに参加しようにも塗りの面で不安が残るものばかりである。バトルで時間を潰すには微妙な手札だ。
「パラシェルターならあるんだけどな」
溜め息とともに少年は呟く。ロッカーにはパラシェルターが一本眠っている。傘であれど傘ではないそいつは、ロビーの外の世界では活躍できないのだ。戦うためのブキなのだから当たり前なのだが、なんとも納得のいかないものである。
「いいじゃん! 持ってきてよ!」
弾けるような明るい声とともに、短い袖が強く引かれる。たたらを踏みそうになるのを耐え、少年は音の方へと顔を向ける。赤い目がばちんとこちらを射抜いた。鼻がくっつきそうなほど近くまで寄せられた顔に、少年は急いで身体を引く。ダン、と地を強く踏みしめる音が空間に響いた。
「だ、めだろ。ブキ外で使うのってアウトじゃん」
「バレなきゃいーの。最近パラシェルターモチーフの傘出たじゃん? マジのが混ざってても気付かれないって」
揺れる声を気にすること泣く、少女はにまりと笑う。いけるって、と四角い指が一本広場の方へと向けられる。群れのように動く傘の中には、パラシェルターを模したものがいくつもあった。確かに、混ざってしまえば気付かれないだろう。けれど、パラシェルターは一本しかないのだ。使えるのも一人だけである。
「それだったらオレが使うし。何でお前に貸さなきゃいけないんだよ」
「え? 一緒に入ってけばいいじゃん?」
赤い顔を逸らして言う少年に、少女はけろりとした顔で言う。夕焼け色の瞳は、何を言っているのだ、と言いたげに丸くなっていた。
一緒に入っていけばいい。いっしょにはいっていけばいい?
言葉を噛み砕き、飲み下した瞬間、少年の頭はフリーズを起こした。固まりきった脳内を、言葉が反響していく。いっしょにはいっていけばいい。機能を復旧しだした脳が、言葉の意味を処理する。つまりは、相合い傘である。脳味噌が答えを弾き出した瞬間、うすらと日に焼けた顔がインクでもぶちまけたかのように真っ赤に染まった。
「い、や、お前、何言ってんだよ」
「いいじゃん相合い傘ぐらい。私のアパート、君のとこより近いじゃん? 入れてってよ」
ねーねーと少女は鳴き声のように声をあげる。いつの間にか握られた腕が振り子のように動かされた。
相合い傘である。女の子と相合い傘である。年頃の女の子と年頃の男の子が相合い傘である。大問題だ――少なくとも、少年の心にとって。
「いや、おまえ、そんな――」
「相合い傘ぐらいで何照れてんの?」
視線を泳がせしどろもどろに言葉を紡ぐ少年に、少女は言葉をぶつける。意地の悪い響きをしていた。明らかな挑発だ。乗る意味の無い挑発だ。けれども、カッコつけたがりな年頃には無視ができない言葉であった。
「は? 照れてねーし。気ぃ遣ってやってんだけど?」
「んなとこに気遣ってないでパラシェルに入れてってっつってんのよ」
売り言葉に買い言葉。そして綺麗なカウンター。ここまで来て引けるはずなどない。ここで引こうものならこれから雨の日の度にからかわれるに決まっている。もう相合い傘をするしかないのだ。見事に少女の手の平の上で踊らされてしまった。単純すぎだろ、と少年は胸の内で頭を抱えた。
待ってろ、と短く残してバトルロビーへと踵を返す。バトルポットの横を駆けて、自動ドアをくぐってロッカーへと駆けていく。乱暴に開いたそこからパラシェルターを取り出し、また元来た道を走る。後ろで手を組んで待っていた少女の横に立ち、物言わずにパラシェルターを開いた。間違えてパージしないよう加減をしながら、少年はブキを掲げて外へと一歩踏み出す。撥水加工された生地を雨粒がうるさく叩いた。
たん、と軽快な足音。隣に気配。ちらりと視線をやると、わざとらしいほどにこりとした笑顔が視界に入った。
「じゃ、しばらくよろしくー」
「しゃーねーな」
そう言って身を寄せてくる少女に、少年はわざとらしく肩をすくめて返す。今度ジュース奢ったげる、と機嫌の良い声が返ってきた。
大丈夫だ。ただ一緒の傘に入るだけだ。何が相合い傘だ。ただの共犯関係である。むしろ己は被害者だ。悪くない。己に責任は無い。頭の中で強く言い聞かせる。そうでもなければ、隣の小さくて柔らかな存在を強く意識してしまう。そんなことはあってはならない。このぐらいで異性を意識するなどイカしていないにもほどがある。
大丈夫。大丈夫。まじないのように心の中で何度も繰り返す。早まっていく鼓動を無視するように柄をしっかりと握った。
パシュン、と何かが発射されたような音が頭上から聞こえた。
強者で在るために/ワイエイ
23年9月号終わった後ぐらいの時系列。読み始めた頃に書いたものなので作中におけるチームとかそういうのの重要性軽視してる。ご理解。
視界の真ん中を愛用のギアが埋める。バトルの際ずっと履いているそれは、普段よりもどこかくたびれて見えた。
はぁ、と溜め息を吐き、エイトは手を組む。そのまま身体を前に倒し、膝に手を載せた。ギアの青と赤、剥き出しの足、固さが見え始めた指が視界を埋める。項垂れた拍子に垂れた髪がゆらりと揺れるのが少しだけ見えた。
じぃと地を見つめる。ロッカールームの床は少し汚れていた。掃除などのこまめな作業が苦手なインクリングがよく利用しているのだ、無理は無い。普段ならばわずかな嫌悪感を覚えるそれも、今は感情を動かすことはなかった。
負けた。
己は敗北した。それも、『アホ』と名高い、無名のチームにだ。見くびっていたわけではない。どれだけ無名とはいえ、噂だけで8傑へとのし上がったミツアミが加わっていたのだ。何より、新バンカラクラスであるシェーディと8ビットを倒した者である。警戒すべき相手であり、全力で潰すべき相手だ。大枚をはたき特に強い者を集め、トレーニングに力を入れ、己のコンディションを整え。万全を期してバトルを迎えた。
なのに、負けた。
前半は押していた。高台にあるリスポーン地点の手前、スポナーから飛び出したところを狙い撃てるほどの場所まで追い詰めていた。そのまま時間いっぱいまで撃ち抜けば勝てるほどに追い詰めていた。
けれど、負けた。
飛び出たホクサイが塗り進んで掻き回し、その隙をスクイックリンが打ち抜き、スプラシューターとトライストリンガーが前線へと飛び出て。金に目が眩み、チームでの連携が崩れたところを突かれた。途中ウメボシだか何だか訳の分からないことで引っ掻き回されたが、その盤外戦術を抜いても彼らの戦いは――チームメイトを信頼し、完璧な連携を取った戦いは、強者の集まりを打ち砕いた。『アホ』の弱いチームが、強者を、新バンカラクラスであり強者である己を破ったのだ。
強くありたかった。強くあらねばならなかった。
常に勝者であらねばならない。常に強者であらねばならない。敗者に存在意義は無い。弱者に意味など無い。だから、強くあらねばならないのだ。弱者に落ちぶれるなどあってはならないのだ。
ドサ、と重い音。同時に身体がわずかに揺れる。クッションの中に埋め込まれたスプリングがかすかに悲鳴をあげた。
床を見つめていた視線をゆっくりと隣へと移す。見慣れた靴と濃く焼けた肌が視界の端に映った。
「……お疲れ様」
項垂れたまま、エイトは隣に腰を下ろしたワイヤーグラスへと声をかける。返ってきたのは沈黙、次いではぁ、と大きな溜め息。彼らしい様に、日常そのままの姿に、少年はわずかに口元を綻ばせた。
彼も――新バンカラクラス、その最強であるワイヤーグラスも負けた。あの『アホ』の弱いやつらにだ。
試合直後、映し出されたマップを見て我が目を疑った。マップの中央まで青が広がる様に現実を疑った。常ならばマップのほとんどを埋め尽くすオレンジが塗り潰されているなど、信じられるはずがなかった。
けれど、全ては現実だ。受け入れがたい事実だ。
ホイッスルが鳴り響き訪れた静寂の中、審判はブルーチームの勝利を謳った。結果を受け入れたワイヤーグラスはミツアミとの約束通りにブラックラベルを破り捨て、取りやめることを高らかに宣言した。そして、新バンカラクラスの解散。強者を求めた集まりは、強者の集まりは消えて散ってしまった――最強である彼が作ったものが。
先ほどのバトルを思い返す。確かに押していた。リスポーン地点から抜けられないほど押し込めていた。ラインマーカーが飛び貫き、カニタンクが砲を放ち、プライムシューターが全てを撃ち抜く。文句のつけようがない、強者である彼の戦いだった。全てを蹂躙する、最強である彼の戦いだった。
それをブルーチームは破った。また協力で、連携で、前線を崩したのだ。相変わらず盤外戦術はあったものの、それをワイヤーグラスは瞬時に対応した。それでも、勝てなかった。強者である彼が。
ブルーチームは弱者の集まりだ。エイムが飛び抜けて良いわけでもない。ブキを操る身体能力が特別高いわけでもない。スペシャルウェポンが強力なわけでもない。けれど、彼らは勝ち上がった――『チームの連携』という部分で、襲い来る強者全てを倒したのだ。
チーム、とエイトは考える。己のチームは即席であることが常だ。強さに確かな保証はあるものの、ブルーチームのようにチームメイトの動きや能力を完全に把握するのは難しい。各ブキのセオリー通り動くことを大前提として行動するのが限度だ。けれど、強者である己一人が全てをこなせば、全てを潰せば済む話だ――済む話だった。今までの戦法は打ち破られてしまったのだ。
チーム、とエイトは音も無くこぼす。彼らのようにチームを組めば勝てるのだろうか。能力を仔細に把握し、手癖に至るまで戦闘スタイルを把握し、声かけ行動を合わせれば勝てるだろうか。更に強くなれるだろうか。
チーム、とエイトは呟く。吐息めいた細く小さい声は、静まりきったロッカールームにはいやに響いて聞こえた。
「……ワイヤーグラス」
「……何だ」
隣、背もたれに身を預けているであろう彼の名を呼ぶ。今度は声が返ってきた。常のようで、ほのかに熱のこもった響きをしていた。きっと、先ほどのバトルの高揚がまだ残っているのだろう。久々に己を打ち負かす者――『強者』が出てきたのだ、当然である。
項垂れた姿勢を正し、少年は隣へと身体を軽く向ける。背もたれにオレンジの頭を預けたワイヤーグラスをまっすぐに見つめる。視線に気付いたのだろう、天井へと向けられていた目が緩慢な動きでこちらへと向けられる。赤と赤がぶつかりあう。
「チームを組まないか?」
努めて静かに吐き出したはずの声は、わずかに上擦っていた。興奮、緊張、恐怖、全てがないまぜになったそれが、シンと静まりかえった空間に落ちた。
あ、と懐疑に満ちた声が返ってくる。当たり前だ、黙っていたと思えばいきなりチームへの誘いなど不審に感じるだろう。相手がエイト――過去に完膚なきまで打ち負かした相手ならば尚更だ。
「ブルーチームにはチームとしての強さがあった。たとえ弱者でも、協力すれば強さを引き出すことができるというのは今までのバトルで分かっただろう?」
恐れを感じさせるような響きを無視し、オクトリングは言葉を紡ぐ。先の尖った指が小さく擦り合わせられる。中量級なれど大ぶりなブキを巧みに操る指は、どこか弱々しい動きをしていた。
「なら、強者がチームを組めば強いに決まっている。オレたちが組めば、更なる強さを手に入れることができるはずだ」
晴れた赤の目が、深い赤をまっすぐに射抜く。強い輝きを宿した瞳が、薄く高揚が浮かぶ瞳をまっすぐに射抜く。真剣そのものの視線が、強者へとまっすぐに向けられた。
視線の先、ワイヤーグラスは静かに目を伏せる。背もたれに預けた身体がバネめいた動きで起こされ、軽くひねられこちらを向いた。伏せた目が開かれる。そこには、確かな輝きがあった。愉快さを、不遜さを宿した輝きが。
へぇ、とワイヤーグラスはこぼす。その声も酷く愉快げだった。言葉を紡ぐ口元が三日月を描く。インクリングの尖った大きな牙が剥き出しになった笑みは、凶悪の一言に尽きた。
「お前が? オレに負けたお前がか?」
「あぁ」
恐怖すら呼び起こす笑みを前に、エイトは恐れることなく強く言葉を返す。へぇ、とまた愉快さを宿した声が二人きりの空間に落ちる。
「手始めにバトルしてみるかい?」
そう言い、オクトリングは傍らに置いた.96ガロンを手に取る。使い慣れたはずのそれが、妙に重く感じる。両手でしっかりと抱え、見せつけるように片手で構えた。長い銃身が天へと向けられた。
黙し、インクリングは同じく傍らに置いたプライムシューターを手に取る。四角い指がグリップをしっかりと握った。
「ステージは」
「マサバ海峡大橋で」
エイトの言葉に、ワイヤーグラスは目を細める。ふぅん、と鼻を鳴らすのが聞こえた。
マサバ海峡は全体的に開けたステージだ。メインの射撃はもちろん、4Kスコープすら越える射程を持つラインマーカーをまっすぐに飛ばすことができる。カニタンクの射撃やカノン砲もだ。身を隠す場所は多少あれど、狭いそこではラインマーカーで簡単に炙り出されてしまう。メインの射程はわずかにこちらが勝っているが、サブウェポンとスペシャルウェポンの相性を考えれば彼が優位に立てるステージであることは明白だ。ステージを熟知しているワイヤーグラスが気付かないはずがない。
己が優位に立てるステージはある。けれど、それでは意味が無い。別次元の強さである彼をそんな姑息な手で打ち破ろうとするなどあってはならないのだ。相手の全力を引き出してこそ、勝つ意味があるのだ――強者として在ることができるのだ。
ギシ、とスプリングが悲鳴をあげる。座面が揺れる。靴が床を打つ音が二人きりのロッカールームに響いた。カラフルなニット生地に包まれた背中が、揺れるオレンジの髪がどんどんと出口へと遠ざかっていった。
素早く立ち上がり、エイトも出口へと向かう。高揚を抑えきれない足は、ぱたぱたと軽い音をたてた。
絶対に勝つ。勝って、認められ、チームを組む。己は、己たちは更に強くなるのだ。
自動ドアの向こう側、ロビーへと向かう背を一心に見つめ、エイトは心の中で力強く言葉を紡ぐ。真一文字に引き結ばれていた口は自然と解け、緩やかな弧を描いていた。
ドアが開く音とともに足音が消え去る。ロッカールームは、元の静けさを取り戻した。
シャワー浴びたらなんとかなった/ワイエイ
指先へと視線を注ぐ。赤い目が見つめる先、紙をつまんだ指に少しばかり力を入れる。手の内のそれがピンと張って伸び、その存在を主張した。
黒い紙にはインクリングを表すマークが大きく描かれていた。それを丸が囲う姿は愛らしさを思わせるものだ。しかし、その存在を全否定するように書かれた赤いばつ印が全てを台無しにしていた。残るのは不気味さだ。
ブラックラベル。
ブキを封じる力を持つそれは、最近手に入れたものだ。ワイヤーグラスと名乗るインクリングに敗北し、『新バンカラクラス』なるものに誘われた。『強いヤツの集まり』という誘い文句は、力を求める己には何よりも魅力的に映った。久方ぶりに敗北を味わい、次元の違う強者との邂逅を果たしたあの瞬間においては。
指先のラベルを眺めながら、エイトは小さく悩ましげな唸りを漏らす。見た目はザッカ屋に売っていてもおかしくない、ただの小さなステッカーだ。ペラペラと表現できるほど薄い様は安っぽさすら感じさせるほどである。しかし、この紙切れは貼るだけでブキを機能不全に陥らせる力を有しているのだ。一体、どういう原理なのか。薄さからして何か機器を仕込んであるようには見えない。印刷されているインクが特殊なものなのだろうか。それとも、紙自体になんらかの仕掛けがあるのか。うぅん、と結んだ唇から小さな音が落ちた。
「何してんだ」
頭上から声。耳慣れた――否、あの日脳に刻み込まれてしまった声に、エイトは大仰なほどに素早く顔を上げる。疑問と好奇心でいっぱいの赤い瞳に、鮮やかな真紅が映った。
あぁ、とオクトリングの少年は短くこぼす。声の主は、このブラックラベルを己に与えた張本人であるワイヤーグラスだ。吊り気味の深い赤に感情は見えない。ただただ恐ろしいほどの鋭さだけが宿っていた。
刺すような視線から逃れるように、ブラックラベルへと視線を戻す。指先のそれを軽く操り、彼に見えるように少しだけ角度を変える。わずかに加えられた力に、薄く小さな紙は短い声をあげた。
「一体どういう仕組みか気になってね」
エイトの言葉に、ワイヤーグラスは物言わず首を傾げる。鋭利な視線が、佇むだけでも感じられる気迫が身体に被さる。ただ対面しているだけだというのに、恐れを超えて痛みすら覚えるほどだ。
「こんな小さなラベルでブキを封じられるだなんて不思議じゃないか。見た目はただの紙なのに、強大な力を持っている。面白い存在だよ」
それでも、少年は何ともないという風に言葉を続ける。怯える姿など見せてはいけない。それは弱者の振る舞いだ。強者を求める彼の前で、強者としてほんの僅かでも認めてくれた彼の前で、恐れなど振り払わねばならないのだ。強者で在りたい己のためにも。
ふぅん、とインクリングの少年は鼻を鳴らす。心底どうでもいいといった様子だ。きっと、彼にとってこのラベルは手段でしかない。機構などどうでもいい、『ブキを封じる』という結果さえ残ればいいと考えているだろう。わざわざ仕組みを知りたがる己は珍しく映るはずだ。
「これ、ブキにしか効かないのかい?」
「知らねぇ」
試してねぇ、とワイヤーグラスは吐き捨てるように答える。そこらのガールが聞けば悲鳴をあげるような響きをしていた。けれども、そこに怒りや煩わしさといった負の感情はない。ただただ興味がない、関心がかけらも無いとありありと語っていた。
思わず上げた視線の先、映った表情を見るに、はぐらかしているわけではないようだ。きっと、本当に知らないのだろう。効果さえ発揮できるのならば、仕組みを知る必要などない。ブキの構造など知らずとも、バトルはどれだけでもできるのと同じだ。しかし、最初の使用者――つまり製作者である、もしくは製作者を知っている彼すら中身を知らないとは。これ以上の情報を得ることはできないだろう。無闇矢鱈と深堀りして良い結果が残るとは到底思えない相手である。
今一度ブラックラベルを見つめる。不可思議な力を持つ無機物は物言わぬまま手の内でひらひらと揺れた。こうして持っていても何も起こらないあたり、やはりブキの何かしらに反応するのだろうか。サブウェポンには効果があるのだろうか。スペシャルウェポンを封じることはできるのだろうか。興味がこんこんと湧いて出る。答えの出ない問いばかりが浮かんでは頭の底にわだかまった。
「……試すか」
頭上から声。耳慣れぬ愉快さを孕んだ声に、オクトリングは思わず顔を上げる。赤い瞳の先には、薄く口角を上げたインクリングがいた。レンズの無い特徴的なデザインの眼鏡の奥、黒に縁取られた深い赤は煌々と輝いている。まるで獲物を見定めた猛禽類のような、嗜虐を孕んだ輝きが。
ひく、と唇が引きつって動く。悪い予感がする、否、悪いことが起きるのなど火を見るより明らかな光景である。逃げるべきだろう、否、逃げてはいけない。ここで背を向けるなど、弱い者の行動だ。強い己には、強く在りたい己には、逃げるなんて選択肢は存在しなかった。ただ、その恐ろしい視線と真っ向から対峙するしかない――正しくは、視線だけで縫い付けられて動けないだけなのだけれど。
ぺら、と音が聞こえた気がした。次いで、頬に冷たい感触。硬い感触。べたついた感触。何かが貼り付く感触。
エイトは反射的に身を引く。プラスチックの背もたれに背中が勢いよくぶつかった。痛みに意識を向けるより先に、頬へと手を伸ばす。叩くも同然に触れたそこには、紙の感触があった。クシャ、と頬に貼り付いた何か――ブラックラベルが短い鳴き声をあげた。
頬に当てた手が弾くように払われる。己のそれの代わりに、角張った指が触れる。紙越しに伝わる熱が頬を辿っていく。輪郭をなぞるようなそれは品定めをしているように思えた。
「……なんかおかしくなったか」
指が離れるとともに、問いが降ってくる。紅の視線が一心に降ってくる。貫かれるような心地がするほどに。
「い、や……特に、何も」
「そうか」
分かってよかったなと、と吐き捨て、ワイヤーグラスは鼻を鳴らす。先ほどまで場を支配していた重圧感と嗜虐性はすっかり鳴りを潜めていた。結果を見て興味を失ったのだろう。金属フレームの向こう側の目は既にラベルから逸れ、丸くなった赤を見下ろしていた。
強く眉を寄せ、オクトリングは目の前の深紅を見据える。ひくり、と口元が引きつる感覚がした。物の機能を停止させる危険性を孕んだものを勝手に貼り付けられて良い気分などするわけがない。筋肉が感情の発露のために動くのは当然である。
「ど、うやったら、剥がせるのかな?」
震える口角を律しながら、エイトは言葉を紡ぎ出す。努めて冷静に吐き出したそれは、わずかに震えていた。目の前の強者に対する畏怖か。突飛な行動をする者への憤怒か。感情の天秤は後者に傾いていた。
「ブラックラベルを貼ったまま外にいるなんて、『新バンカラクラス』の名に傷がつくだろう? 剥がしてくれないか?」
「洗えば剥がれる」
丁寧な問いに、短い言葉が返される。もはやぶつけると言った方が正しい音色をしていた。そこに何らかの思いは見て取れない。実際、何も思っていないのだろう。目の前の事象に対しての興味などとうに失せてしまっているなんて、顔を見るだけで分かる。
顔洗ってこい、と告げ、インクリングは踵を返す。存外綺麗にまとめられたオレンジが陽光を反射しながら揺れる。つやめくそれは、あっという間に雑踏の中に消えた。
「…………は?」
溜め息にも似た声がこぼれ落ちる。音色は相変わらず震えていた。もはや何によるものなのかすら分からぬほど揺れていた。
先の細い指で自身の頬を撫ぜる。そこには依然紙が、ブラックラベルが鎮座していた。角に指先を差し込んでみるも、欠片も剥がれる様子が無い。引っ掻くと表現するほうが相応しいほどの強さで指を動かすも、黒いそれはべったりと貼り付いて取れなかった。
頬から手を離し、エイトは深くうなだれる。はぁ、と吐き出した息は酷く重苦しいものだった。憤り、疲れ、呆れ、諦め。様々な感情が渦巻き、質量すら感じさせる音を奏でた。
浅黒い指が頬を撫ぜる。依然、ブラックラベルは剥がれる様子もなくそこに鎮座していた。本当に洗えば取れるのだろうか。いわば特殊機器であるブキを封じるそれが、洗う程度で剥がれるのだろうか。にわかに信じがたい言葉である。しかし、ワイヤーグラスが嘘を吐くはずがない。バトルの駆け引きでもなく嘘を吐くメリットなど無いのだ。信じる他なかった。
はぁ、と少年はまた溜め息を吐く。洗えば剥がれるとしても、これを顔に貼り付けたまま水場に行くなど無茶だ。バンカラ街は様々な者が集まっているとはいえ、顔に大判のラベルを貼り付けたものなど目立つに決まっている。それが『新バンカラクラス』として名を馳せている己ならば尚更だ。衆目を避け顔を洗うなど無茶である。
はぁ、とオクトリングは溜め息を吐く。大きな手が頬に、貼り付いたブラックラベルを覆うように当てられた。
「……ロッカーにマスクあったっけ」
呟き、エイトは立ち上がる。手の熱が伝わる頬を意識から弾き出しながら、バトルロビーに続く裏道へと歩みを進めた。
カサリ、とラベルがあげる小さな声が薄暗がりに落ちて消えた。
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年の瀬は豪華に【嬬武器兄弟】
年の瀬は豪華に【嬬武器兄弟】書き納め。お蕎麦には揚げ物載せたくなるよね。
大晦日にスーパー行く嬬武器兄弟の話。
商品PRの録音音声、特徴的な店舗オリジナル音楽、カートが動く音、靴が床を打つ音、人の声。様々なものが人でごった返した空間に途切れることなく流れていく。
「豆腐ありました?」
「ほい。……あれ? 絹でよかったよな?」
「合ってます。ありがとうございます」
手にした買い物かごに入れられた白いパックを確認し、烈風刀は歩みを進める。よかったー、と呟く雷刀もその後ろに続いた。
天かす、油揚げ、と事前にリストアップした品を二人で次々とカゴに入れていく。年の瀬のスーパーは普段以上に人口密度が高く、動くのすらやっとだ。灰色のプラスチックの中に色が溢れる頃には、普段の倍近い時間が経っていた。
チープな音楽が流れる惣菜コーナーへと辿り着く。『年越し!』とマジックペンで書き殴られた赤いポップの下には、豊富な揚げ物が並んでいた。エビ天にイカ天に磯辺揚げ、から揚げにアジフライにスコッチエッグなんてものもある。普段は閑散とした棚は、どこも衣の黄色で埋まっている。底の浅い容器に残った細かな揚げカスの量から、元は山盛りになっていたことが察せられた。
やはり大晦日となると、揚げ物需要が高いらしい。事実、己たち兄弟も今日の目当てはエビ天だ。年越し蕎麦にはエビ天が必要不可欠なのだ。
本当ならばこんな大晦日に人が普段の五割増しになるスーパーには行かない方が良いのだろう。しかし、さすがに大掃除をこなした大晦日やその前日に揚げ物をするのは骨が折れるのだ。手軽さを求めて最寄りのスーパーで買うのが恒例行事となっていた。
「烈風刀ー」
トングとフードパックを持って品定めしていると、名を呼ばれた。碧い瞳が聞き逃すことの無い音の方へと動いていく。そこには、にまりと笑みを浮かべた朱の姿があった。手には己と同じように銀のトングと透明なパックが握られている。カチカチと金属がぶつかる音がPRに励む自動音声にまぎれていった。
「大晦日なんだしさ、贅沢してもよくね?」
「大晦日と贅沢に関連性が見えませんが」
えー、と雷刀は口を尖らせる。またカチカチとトングが鳴き声をあげた。行儀が悪い、と諫めると、動かす手が拗ねたように止まった。
「大掃除頑張ったしちょっとぐらい贅沢してもよくね? カロリー消費しまくってんだから補充しねーと」
「まぁ、たしかに頑張ってくれましたが」
兄の言葉に、弟は丸い目を薄くする。整えられた眉は悩ましげに寄せられていた。なー、と兄は繰り返す。まるで撫でろと擦り付いてくる猫のような姿だった。
言葉通り、今日の雷刀の活躍はめざましいものだった。自室はもちろん、トイレに風呂、洗面所といった本格的に手入れすると七面倒臭い場所を綺麗に磨き上げてくれたのだ。特に風呂場の鏡など湯垢の一つも無くピカピカに仕上げていたのだから素晴らしいものである。これを使って汚していいのだろうか、と躊躇うほどには。
それだけの功績を挙げたのだから、天ぷらの一つや二つ弾んでもいいではないだろうか。エビ天といっても、このスーパーのものはサイズに対してリーズナブルだ。少し多く買ったとて財布へのダメージは少ない。功労を讃えるにしては随分と安上がりだ。
「……いいですよ」
「さすが烈風刀!」
頷く弟に、兄は満面の笑みを返す。カチン、とまたトングが鳴く。勢い余ったのか、パックもクシャリと悲鳴をあげた。
鼻歌でも歌いそうな表情で、雷刀はトングを操っていく。衣たっぷりのエビ天、緑鮮やかな磯辺揚げ、一口で収まりそうにないから揚げ、触れただけで音をたてそうなコロッケ。たくさんの揚げ物が手元のパックに詰められていった。
「……もしかして、それ全部お蕎麦に載せるんですか?」
「そうだけど?」
眉をひそめる烈風刀に、雷刀はきょとりとした顔で返す。丸くなった目は、当然だろう、と言いたげなものだった。はぁ、と思わず溜め息が漏れた。
「お蕎麦が油でギトギトになるでしょう。別で食べた方がいいですって」
「だってエビ天蕎麦もちくわ天蕎麦もコロッケ蕎麦もあるじゃん? 全部一緒にしてもだいじょぶだって」
「から揚げ蕎麦は無いでしょう」
首を振る碧に、朱はまたトングで返事をする。おかしいですって。だいじょぶだって。揚げ物売り場で静かな議論が繰り広げられていく。
「あー、でもぐしょぐしょなから揚げはやだな。から揚げだけ別にすっかな」
「コロッケも別の方がいいでしょう。出汁の中で崩れてぐちゃぐちゃになりますよ」
それもそっか、と雷刀は輪ゴムを手に取る。はち切れんばかりに詰められたパックに二度通し、蓋を押さえ込んだ。手にしたカゴに入れられる。ギチギチと音をたてそうなそれに、これだけで二食は食べられるのではないか、なんて考えてしまう。健啖家な兄だから、一食でもまだ足りないなんて言い出しそうだが。
手にしたままの空っぽパックに、烈風刀も揚げ物を詰めていく。エビ天と磯辺揚げを入れると、手早く輪ゴムで閉じた。カゴに入れたそれが滑ってぶつかり音をたてる。
「そんだけでいいの?」
「あんまり多く入れると油だらけになりますからね」
新年に胃もたれしたくないでしょう、と返すと、こんぐらいで胃もたれしねーだろ、と笑い飛ばす声が返ってくる。普段通り米で食べるならそうだが、今回は蕎麦である。汁物である。温かで穏やかな味とはいえ、汁たっぷりの食べ物に揚げ物をたんまり載せるのは食べ合わせが悪いように思えて憚られた。
「あとなんか買うもんあったっけ? うどん?」
「うどんは冷凍のがあと三つはありますね。大丈夫かと」
「じゃあこれでいっか」
カゴの中身を眺める雷刀に、そうですね、と言って烈風刀は歩き出す。道を塞がないためにか、兄も縦に並んで続いた。
大晦日、音と人がごった返す中に二色が消えていった。
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#嬬武器雷刀#嬬武器烈風刀