No.225, No.224, No.223, No.222, No.221[5件]
静かに重ねて【ヒロニカ】
静かに重ねて【ヒロニカ】
鼻歌に鼻歌重ねるいたずらっ子ニカちゃんが見たかっただけ。いたずらっ子ニカちゃんはもっと存在してもいい。
バトルメモリーで反省会するヒロニカの話。
目の前の端末、鮮やかな色を映し出していた画面が薄暗くなる。バトルメモリーの再生が終わった証に、ベロニカは小さく息を吐く。今しがたまで見返していたのは僅差で敗北を喫したバトルのそれだ、己の不備や改善点を洗い出していく作業はなかなかに苦しく、骨が折れるものだった。けれど、時間を掛けて分析した確かなる結果は手元に、頭にしっかりと残っている。改めるべき行動が、次の勝利に繋げるための立ち回りが、確かなる強さに繋がる経験が。
カコカコとボタンを操作し、アプリを落とす。動画の代わりに待ち受け画面に表示された時計は、まだ夕方にも差し掛からない時間であることを語っていた。昼ご飯を遅くに食べたのもあり、大食らいの腹はまだ大人しく黙ったままだ。手土産としてつまめる菓子を持ってきたものの、活躍する番は少し遠くだろう。
また一つ息を吐き、少女はワイヤレスヘッドホンを外す。細くシンプルで圧迫感の少ないデザインといえど、重みを失うとやはり解放感を覚えた。防護壁を失った耳をくすぐるエアコンの冷たい空気にぶるりと身を震わせる。細い身を折ってしまわないように注意を払いながら、愛用しているそれを膝の上に乗せた。
微かな音が耳を撫ぜる。何だろう、と黄色い目が部屋の中を見回す。音の発生源は斜向かい、ローテーブルの前に座ったヒロだった。どこか鋭さを増した赤い目は抱えたタブレットに一心に注がれている。彼もバトルメモリーを見返しているのだろう。手にしたスタイラスペンが画面を擦るのが見えた。
聞こえる音は真剣そのものの目元からは想像できないほど微かで、柔らかなものだった。鼻歌だ。ほんのりと高い音色が、最近注目を集めているユニットの新曲をなぞっていた。
ヒロは時折鼻歌を歌う。それも無意識なようで、指摘したり自分で気付くと顔を赤らめてすぐに止めてしまうのだ。彼の少し細くて、いつもよりちょっとだけ高くて、どこか可愛らしい音色は好きだった。だから、最近では指摘するのは控えている。好きなものが聞けなくなってしまうようなことを行うほど己は馬鹿ではない――それに、自分で気付いて恥じらう彼の表情は可愛らしいのだから。
爽やかで、けれども確かなる力が宿ったメロディが部屋に漂う。気付かれぬようナマコフォンをいじるふりをしながら、ベロニカはその音色に耳を傾ける。無意識ながらも興が乗っているようで、音は次第に大きくなっていく。愛らしい音が邪魔者を失った耳を満たしていく。
ふと、頭の隅っこで何かが声を発する。ひそめいたそれは、まだ幼さを残す心をくすぐるものだった。少女の口元が緩い孤を描く。蒲公英色の瞳がわずかに細くなった。浮かんだ表情は、まさしくいたずらっ子のそれだ。
口を閉じたまま、ベロニカは喉を震わせる。開放されるべき場所が閉じられた音は、鼻へと抜けて形となった。部屋に流れる少年の鼻歌に、少女の鼻歌が重なる。メインメロディに沿うようなその音色は、美しいハーモニーを奏で出した。密かなその合奏が心地良い。二人で奏でるというのはなかなかにいいものだ、と心の中で小さく笑みを漏らした。
いつしか、音は止んでいた。息が吐き出される音。ペンが置かれる音。プラスチックが擦れる音。机の上に赤いヘッドホンが転がった。どうやらバトルメモリーの分析が終わったようだ。
「あれ、珍しいですね」
「んー?」
きょとりと丸くなった彼岸花の瞳がこちらを見る。見つめ返す菜の花の瞳は依然細くなったままだ。三日月を描いて、少年を見る。何も知らない少年を。
「ベロニカさんが鼻歌歌うことってあんまりないでしょう?」
「たまにはやるって。こないだの新曲良かったしさ」
「あぁ、いいですよね」
不思議そうな色をしていた丸い目がキラキラと輝き出す。ヒロは音楽が好きだ。ギアとしての性能ももちろん考えているが、それでも数多のギアの中から大ぶりなヘッドホンを選んで常に身につけるぐらいには音楽に身を投じていた。バトルだけでなく、曲でも語りあかせる彼との関係は最高の一言に尽きる。
「爽やかな雰囲気が歌声に合ってますよね」
「そうそう。それに楽器の主張がどれも細いようでちゃんとしててさ。かっけーよな」
「いいですよねー」
また新曲出ると嬉しいのですが、とヒロは呟く。流行ってんだから出すって、とベロニカは笑う。語る彼は普段通りの姿だった。つまり、鼻歌を歌っていたことに気付いていない。己がそれに重ねていたことも。
少女は小さく笑みを漏らす。成功した秘密のいたずらは、好きな人と歌う独り占めの幸福は、これ以上無く胸を満たしていた。
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そのきにさせてよ【タコイカ】
そのきにさせてよ【タコイカ】
ゆるゆるとろとろのマイペースタコ君と振り回される可哀想なイカ君が見たくて書いたものがこちらになります。イカタコに名前があるので注意。
暑がりなタコ君とお出かけしたいイカ君の話。
「あっつぅ……」
そんな呟きが聞こえた瞬間、光溢れる世界はは音も無く消えた。扉が閉じる重い音。サンダルが脱ぎ捨てられる音。ぺたぺたと力無い足音が通り過ぎていく。え、と呟いた頃には、恋人の姿は消え去っていた。急いで振り返るもいない。そこにあるのは、先ほど電気を消したばかりの部屋から漏れる明かりだけだ。
急いで玄関の鍵を閉め、イタは靴を脱いで廊下へと戻る。騒がしい足音を立てながら、すぐさま扉を開いた。一人暮らしにしては広い居住室には誰もいない。入っていったはずの家主であり恋人――シュウの姿すら、影すら無い。迷うことなく、まっすぐにローテーブルへと走って屈みこむ。机の下、出掛ける前はちゃんと立てて置いてあったはずの丸いツボは横に倒れていた。中身は影の黒でなく、水色で満たされている。
「出ろって!」
「やーだー」
タコツボを机の下から引きずり出し、抱え込んでインクリングの少年は叫ぶ。中にひきこもったオクトリングの少年は、外とは正反対の気の抜けた声をあげた。入り口まであった水色がどんどんと奥へと引っ込んでいく。逃がすまいと、大きな手が中に突っ込まれた。ツヤツヤとした頭に四角い指が食い込む。やめてよぉ、と悲痛な声がツボの中からあがった。
「出掛けるっつったじゃん!」
「あついからやだー」
日曜日は二人で出掛けよう、と約束したのは一週間前のことだった。二人でお出かけ、つまりは久々のデートである。胸を弾ませ恋人の家に訪れ、いつもよりもしゃんとした格好をした彼にわずかに鼓動を早めながらも外に出ようとした――途端、これである。
季節は夏、本日は最高気温は三十六度の猛暑日なのだから『暑い』という仕方無いとは言えよう。けれど、『暑い』の一言ですぐさま引き返すなど、一週間前から楽しみにしていたものを放棄されるなどいくらなんでも理不尽だ。出掛けると行っても、行き先は涼しいショッピングモールであるし、移動も快適な電車だ。移動のために十分そこらは歩く必要はあれど、日傘もあれば冷たい飲み物だって用意済みだ。暑さや寒さが苦手な恋人のために全て持ってきたのだ。なのに。なのに。
「いいじゃん。今日はおうちデートにしよ」
「引きこもってたらデートもクソもないじゃんか!」
気ままに、いっそ腹が立つくらいマイペースに、もう投げやりにすら聞こえる声を漏らしてシュウはもぞもぞと動く。悲痛な叫びが部屋に響いた。『デート』と言うのならせめてツボから出てくるべきである。けれど、こうなってしまった恋人がすぐに出てくるわけがない。とにかく面倒臭がりで狭いところが大好きなのだ。そんなところがチャームポイントではあるが、今日ばかりは許す気は無い。
「デートするっつったのシュウじゃん! うそつき!」
「言ったけどぉ……こんな暑い中外出る方が危ないじゃん。おうちにいよ?」
「日傘あるから! お茶も用意してるしハンディファンもあるし氷もある! 冷たいの全部用意してある!」
用意周到じゃん、とオクトリングは感心の声を漏らす。それでも、出てくる様子は欠片も無かった。そんな声が聞きたくてここまで用意してきたのではない。デートがしたくて、彼のために用意してきたのだ。何としてでも引きずり出さねばならない。全てが無駄になるのはさすがに精神を、心の大切なところを剥がして揺るがして粉々にされてしまう。
「アロワナモール、駅から近いじゃん。そんな歩かないからだいじょぶだって」
「歩くのやー。溶けちゃうよ?」
「溶けないってばー!」
ツボの中に手を突っ込むも、家主はのらりくらりぺちょりぬちょりと躱してくる。触れても、指を突き立ててもツルツル滑るだけだ。掴んで引っこ抜くのはもう諦めた方がいいだろう。目を伏せ、イタは小さく息を吐く。両の手でしっかりと壺を持ち、逆さにして大きく振った。あぶないよー、という声が落ちてくるだけだった。
「シュウ……約束したじゃん……」
「デートしたいんならさぁ」
しょぼくれた悲痛な声をとろりとした声が塞ぐ。元に戻ったツボの中からにゅっと何かが伸びてくる。水色の触手は、ツボを抱え直した少年の頬をそっと撫でた。小さな吸盤が柔らかな頬に吸い付いて、少しだけ痕を残していく。
「その気にさせて? できるでしょ?」
優しい声は楽しげで、どこか笑ってるようにすら聞こえた。ぺちぺちと細い手が頬を叩く。そのまま捕まえようと手を伸ばす。勘付かれたのか、すぐさままたツボの中に引っ込んでしまった。声はいつだって間延びしてゆるりとしたものなのに、行動だけは妙に素早いのだ。だからこそ、前線でフデを操り活躍できるのだろうけれど。
うぅ、とインクリングは呻きを漏らす。『その気』と言われても、彼を引っ張り出せるような手持ちのカードは先ほど切ってしまった。残りは外に出て以降の行動に価値を付与するしかないだろう。少年は唸る。唸り、目を伏せる。先ほど下ろしてきて潤った財布の中身が空っぽになっていく様が瞼の裏に映された。
「クレープ奢るから」
「えー?」
「アイスも付ける!」
「えぇー?」
「こないだ欲しがってたギア買ったげる! クラーゲスのやつ!」
「えええー?」
どれだけ提案しても、返ってくるのは変わらず気の抜けた声だった。気の抜けた、どころかもはや楽しんでいる声だった。なんでぇ、とイタは沈んだ声をあげる。半分涙がにじんだ、痛々しい響きをしていた。だのに、ツボの中から聞こえるのはクスクスという小さな笑い声だけだ。
「今日は物じゃ釣れないよ? もーちょい考えて?」
また触手が伸びてくる。頬を撫でくすぐって、すぐさま去って行った。完全にからかっている。お前さぁ、と思わず乱暴な言葉を吐き出してしまったのは仕方が無いことだろう。返ってくるのは相変わらず笑声なのだからどうしようもないのだけれど。
はぁ、と溜め息を吐いて、インクリングは抱えていたツボを床に転がす。わー、とアトラクションを楽しむ子どものような声が中から聞こえてきた。一周して目の前に戻ってきたそれに、もう一度溜め息を浴びせかけた。
身体から、意識から力を抜いて、ヒトの形を溶けさせる。黄色いインクが床に散らばり、本来の柔らかなイカのフォルムが現れた。ぺたぺたと触腕を器用に使って這い、転がったタコツボの前に鎮座する。また溜め息一つ。息を呑む音一つ。長い触腕がツボの縁を掴んだ。助走を付けて、三角頭がツボの中に這入っていく。元々小さなツボだ、たとえ勢いを付けても侵入できるのは頭の半分と触腕の一本ぐらいである。せっまー、と楽しげな声がすぐそばで聞こえた。
どうにか潜り込ませた触腕を、更に捻じこんでいく。狭い狭い、と少し慌てた声は聞こえないことにした。暗くて何も見えない中、先の平べったい触腕でなめらかな頬――だと信じたい――を撫でる。水色の頭に、己の額をぺたりと引っ付けた。
「……約束したじゃん。デート、行こ?」
頭のすぐそこ、絶対に聞こえるように、でも驚かせないように、囁くような声でイタは語りかける。ねぇ、と漏れた声はもう湿った色を帯びていた。
じゃぷん。水が跳ねる音がすぐそこであがる。勢い良く身体が外に押し出され、壁目掛けて後ろ向きですっ飛んでいく。悲鳴をあげるより先に、温かな何かが身体を包んだ。
「そーそー。よくできましたー」
頭上から声が降ってくる。見上げると、そこにはヒトの形に戻ったシュウがいた。太い眉は柔らかな線を描いていて、黄色い瞳はいたずらげに細められていて、口元はゆるく弧を描いている。掴み所が無い彼らしい柔らかな表情だ。しかも、特に機嫌がいい時の顔である。どうやら、語りかける作戦は功を奏したようだ。よっしゃ、と幅の広い触腕が天へと突き上げられる。
「でももうちょっとイタとくっついてたいなー。さっきのきもちよかったし」
ねぇ、と先の尖った指が肌を撫ぜる。一本一本を使ってなぞるように撫でられただけで、背筋がふるりと震える。違う。ダメだ。流されてはいけない。ここで流されてしまったら今までの努力は全て水泡に帰してしまう。そんなのダメだ。大きく頭を振り、意識を集中して急いでヒトの姿へと戻る。抱き心地良かったのにぃ、と間延びした声がしたから聞こえてきた。
「よくできたんだろ? だったら約束守ってよ」
唇を尖らせ、じぃと恋人を見つめる――というよりも、睨む。地取りとした視線を向けても、返ってくるのははぁい、と相変わらず気の抜けた声だ。
「降りないと出掛けらんないよ?」
「乗せたのシュウじゃん」
撫でていた手が頬から、肩から、脇腹から、背へと移動していく。尻に到達しそうなところで、パシンと払ってやった。ちぇー、とわざとらしい声があがる。気にしないふりをして、気付かないふりをして、イタは立ち上がる。流れるような動きで扉の前へと歩み、座ったままの恋人へと手を伸ばした。
「いこ」
「いこー」
四角い手に長い指が伸ばされる。乗せられたそれをしかと包んで、掴んで、外っ側へと引っ張り上げた。
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涼しさは一緒に【ライレフ】
涼しさは一緒に【ライレフ】
一緒に寝る右左が見たかっただけなどと供述しており。やっぱ夏は電気代節約しなきゃだからね(?)
クーラーを賭けた右左の話。
赤い唇が白い縁に寄せられる。薄く汗を掻いたマグカップは、持ち主によって大きく傾いた。薄く上気した喉が盛大に動く。しばしして、息を吐く音が部屋に響いた。共鳴するように、低い唸り声が部屋に落ちる。夏の生命線であるエアコンは、今日も元気に役目を果たしていた。シャワーを浴びて火照った身体に冷風と冷水。これ以上無い幸福が嬬武器雷刀の身体を満たしていく。
夏の間、己は昼も夜もリビングで過ごすことが多い。というのも、自室の冷房の動きが鈍く感じるからだ。日中熱しに熱された空気を冷やすのに時間を要するのは頭では理解できるものの、どうにももどかしい。ならば、既に涼しくなっているリビングで過ごすのが快適で合理的だ――こちらも眠る前には消さなければならないのだけど。
大きな手に携帯端末が握られる。ロックを外した液晶画面、端っこに鎮座するニュースサイトのウィジェットには『熱中症注意報』の文字が鮮やかに輝いていた。つまり、明日も暑くて湿っていて息苦しくて過ごしにくい。うへぇ、と情けない声とともに、赤い眉が小さく寄せられ八の字を描く。
インターネットでは『冷房は冷やす時に一番電気を食う』『つけっぱなしの方が電気代がかからない』なんてまことしやかに囁かれているが、どうにももったいない気持ちの方が強い。並外れた暑さの中帰ってきてすぐに涼しい空気に飛び込めるのはこれ以上無く魅力的であるが、やはり四六時中つけっぱなしというのは気が引ける。珍しく、兄弟で意見が一致した部分だ。
飲み干したカップを洗い、朱はエアコンの電源を消す。夏一番の功労者は音も無く口を閉じた。後ろ髪を引かれながらドアを開けた途端、熱気が正面からぶつかってくる。空調など存在しない暗い空間は、夜になっても随分と熱がこもってじっとりとしていた。眉が八の字を、口がへの字を描く。
早足で廊下を進み、自室に身を滑り込ませる。素早くクーラーを点けて、再び廊下へと戻った。そのまま、数歩進んで隣のドアを開く。途端、涼しい空気が身体を撫ぜた。険しげな表情が解け、普段の柔らかで朗らかなものへと戻る。
「何ですか、こんな時間に」
「涼ませて」
部屋の主――嬬武器烈風刀の声に、雷刀は軽い調子で返す。椅子の背もたれに腕を掛けて振り返った彼の顔は、就寝前には相応しくない険しいものとなっていた。健康的な色をした唇が一本の線を描き、解けて息を吐き出す。
「またですか」
呆れ、怒り、諦め。色んなものが混ざった声を正面から飛んでくる。気にすること無く、兄はベッドに腰を下ろした。だって、その声にはほのかな明るさがあったように思えたから。
「いいじゃん。あっつい部屋にいて熱中症になったらやばいじゃん?」
「そんな簡単にはなりませんよ」
ほんの数分でしょう、と弟は眉をひそめる。その数分が地獄なんだって、と兄は笑った。眉間に刻まれた皺が更に深みを増す。
「そんなに暑いならリビングで寝たらどうですか」
「さっき電源消しちゃったからもう暑くなってるって。死ぬ死ぬ」
あぐらを掻いて振り子のように揺れながら、冗談めかして返す。実は、既に考えた案だった。けれども、『みっともない』とかなんとかで弟に却下されるに間違いないと思い黙っていたのだ。けれど、今さっき彼の口からその提案が出た。言質を取れた。これで明日から涼しい空間ですぐに眠ることができるだろう。ふふん、と鼻歌めいた息が漏れ出た。
「それか、こっちで寝るとか」
「へ?」
ご機嫌に弧を描いていた口がぽかんと開く。八重歯が覗く赤いそこは、随分と間抜けな形をしていた。机に向かい直した背中から言葉が聞こえた言葉は、脳の処理を一時停止させるには十分なものなのだから仕方が無い。
「え? いいの?」
「本気にしないでくださいよ」
思わず上擦った声に、げんなりとした声が返される。再びこちらを向いた烈風刀の顔は、やはり釣り眉で眇目でへの字口だ。けれども、その頬にほんのりと紅が散っているのは部屋のライティングのせいではないだろう。もちろん、シャワーを浴びたせいでも。
「分かった! 枕取ってくる!」
「本気にしないでくださいよ! やめてください!」
ベッドの上に大人しく座っていた身体がすくりと立ち上がる。体育の徒競走もかくやという動きで、雷刀は駆け出した。背中に慌てきった声が飛んでくる。先に言ったのは烈風刀じゃん、と扉を開けると同時に叫んだ。
「――来客用の布団一式持ってきてください! 貴方寝相悪いんですから!」
開けっぱなしの扉から、深夜という事実を忘れた大声が飛んでくる。諦めきった、呆れきった、受け入れきった言葉に、分かった、とこれまた夜を忘れた声が返された。
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夏日にはご注意【インクリング】
夏日にはご注意【インクリング】
この季節熱中症で倒れるイカタコ絶対にいるだろと心配性のイカタコも絶対にいるだろの合体技。イカは楽観的だったり心配性だったりしろ。
バトルに行きたいイカ君とバトルに行かせたくないイカちゃんの話。
「離せって!」
「やだ! 絶対ダメだからね!」
ロッカールームのど真ん中、金属ロッカーの扉を開きっぱなしにしたまま少年少女が叫ぶ。思いきり口を開けるインクリングの少年の手にはゴーグルが、目を見開くインクリングの少女の手には少年の腕が握られていた。剥き出しになった腕が振りほどこうと大きく揺れる。細く白い腕がそれに無理矢理追いすがった。痴情のもつれの現場、と説明されても納得のいく光景だ。
「また熱中症になったらどうするの!」
「なんねーよ!」
「なるよ! 懲りないでしょ!」
少女は吠える。同じく少年もカラストンビを剥き出しにして吠えた。緑の瞳が睨む。赤の瞳が眇められてぶつかる。どちらも怯む様子も、退く様子も無い。譲らないことは明白であった。
先週、己は熱中症で倒れた。とはいっても軽いもので、適切な処理を施され水分を摂っただけですぐに回復したぐらいである。医者にちゃんと水飲みなね、と叱られたのもあり、最近はしっかりと水を飲み、塩飴とやらも舐めている。汗はこまめに拭き、ハンディファンなんてものを使って身体を冷やす。熱中症対策はバッチリだ。何の問題も無い夏休みの今、バトルに明け暮れるには最高の身体だろう。
けれども、幼馴染みはそれを許さなかった。また熱中症になる。また倒れる。だからバトルなんてダメ。そういって聞かないのだ。言葉だけならまだいい。今日なんて身体で制してくるのだから最悪である。
「屋内ならまだしもユノハナだよ!? 影無いじゃん!」
「あるだろ! 高台のとことか!」
「あれは物陰であって日陰じゃないでしょ!」
キャンキャンと高い声が耳をつんざく。ダメ、やだ、と否定の言葉が耳を貫く。剥き出しになった感情が正面からぶつけられる。あのなぁ、と苛立った声を吐き出したのは仕方が無いことだ。
「対策してるっつってんだろ! 信用しろ!」
「できない!」
まだ高い声がロッカールームに響き渡る。悲鳴めいたソプラノがそれに真っ向から立ち向かった。何でだよ、と裏返った嘆き声が、叫び声が巨大な口からあがる。心の底から吐き出されたそれは、床にぶつかってビリビリと震わせた。
「だって昔からそう言って同じことして怪我してたじゃん! 長年の実績!」
ギッ、と漫画ならそんな擬音が付きそうなほど鋭い目つきで少女は少年を見上げる。ターコイズの瞳には確かなる輝きが、情動が満ちていた。それが溢れて、雫となって、黒く縁取られた目元からこぼれる。白い肌に一本の線が引かれた。
「倒れたら……、死んだらやだよぉ……」
天河石の目が、涙をたたえた目がふるふると震える。ライトの安っぽい光を受けてきらきらと輝く。透明な雫がはらはらとこぼれてTシャツの襟元を濡らしていく。白いドット柄が水分を受けて暗くにじんでいった。
そうだ。昔からそうだ。こいつは『死』をおそれていた。縁日で取った水風船が割れた時。長らく使っていたペンが壊れた時。大切に育てていたアサガオが枯れた時。連れ添っていたウーパールーパーが生を全うした時。こいつはいつだって泣いていた。いつだって『嫌だ』と言っていた。今だってそうなのかもしれない。『死』を、隣の『死』を。
なんと大袈裟なのだろう。今後は気をつければいい、と医者のお墨付きをもらったと何度も話したのに。水を飲む様をこれでもかと見せているのに。熱中症対策をたくさんしているのを毎日のように見せているのに。だというのに、心配してくる。迷惑、と言い切ってしまいたい。けれども、彼女の言葉も事実である。何度も同じミスをして何度も同じ傷を重ねてきたのだ。だからこそ、今度ばかりは気をつけているのだけれど。
「…………わーったよ」
重く、深く息を吐き出す。呼気が空気を揺るがせる音と、鼻を啜る音が二人の間に響いた。また一つ雫が流れゆく。
「あれだろ。モーショビには屋外ステ行かない、ならいいだろ」
インクリングは自由な手で人差し指を立て、指揮棒を振るようにくるりと回す。先ほどまで少女を真っ向から睨みつけていたカーマインは、バツが悪そうに逸らされていた。はぁ、とまたわざとらしい溜め息。
彼女の心配が本当であることは分かっている。彼女の心配が本心であることは分かっている。けれども、バトルには行きたい。長期休みの間に腕を磨きたい。ならば、落とし所を作るしかない。これが最大限の譲歩だ。譲歩してやるぐらい己は大人なのだ。そう言い聞かせ、少年は一つ頷いた。
「真夏日」
すん、と鼻を啜る音。ちらりと見やると、一対のグリーンがまっすぐにこちらを見つめていた。涙が張っていた膜は少しだけ晴れ、常の芯の強い色を灯している。それがすっと細められた。
「真夏日も危ない。ちゃんと日陰があって休めるとこに行って。タラポとか、ヤガラとか」
「わがままだなぁ!」
全く退く様子の無い少女に、少年は天を仰いで声をあげる。だから、と少女も声を張り上げた。
「日陰で休める場所があるなら屋外ステもまだ安心だから! ちゃんと水飲んで休んで!」
キッ、とアニメならそんな効果音が鳴りそうな瞳で少女は少年を見上げる。涙はまだ全て晴れていない。心配の色はまだ全て晴れていない。けれども、先ほどまでの意固地な雰囲気は少しだけ和らいでいた。
「飲んでるじゃん」
「もっと飲まなきゃなの!」
事実だけれど、言い訳じみた言葉を吐く。鋭い声が切り裂いた。わかったってば、と少年は掴まれた腕を振る。一生離すまいと言わんばかりに込められていた力は既に解けていた。包まれていた温もりから解放された腕は、少しだけ寒い気がした。
まぁいい。言質は取った。これならばまたバトルに潜れるだろう。ユノハナ大渓谷とネギトロ炭鉱が選出されている今の時間はまた彼女がうるさく言い立てるから控えるが、次のスケジュールならば飛び込めるはずだ。何しろ、ザトウマーケットとバイガイ亭である。文句の付け所が無かった。
そこまで考えて、少年は目を瞬かせる。ん、とやっと閉じた口から疑問符付きの音が漏れ出た。
「……真夏日って何度だ?」
「三十度」
少年の問いに、少女はさらりと答える。当然の常識だと言わんばかりの声音だった。先ほどの悲痛な響きはどこへやら。
「最近は毎日三十度超えだろ!? どこにも行けねーじゃん!」
「だから危ないんだってば!」
またロッカールームに声が響き渡る。譲れない真夏の戦いはまだまだ続きそうだ。
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温度を上げるソースの味【ヒロ←ニカ】
温度を上げるソースの味【ヒロ←ニカ】意識するタイプのニカちゃん見たいよね……(ろくろ回し)の結果がこちらになります。可愛いじゃないすか。
遅いお昼ご飯食べるヒロニカの話。
薄い包み紙を音を憚ることなく破っていく。薄焼きの生地が剥き出しになったところで、ベロニカはあぐりと大きな口をめいっぱいに開いた。黄色い舌覗く口の中にマキアミロール360°が吸い込まれていく。一息に囓ると、野菜の心地良い青臭さが鼻腔を抜けていった。シャキシャキとした野菜の食感、ソースの絶妙なしょっぱさ、ほろほろと崩れる蒸し魚が口を、胃を満たしていく。大きく動いた喉は、満足げな息を続けざまに吐き出した。
時刻は昼時を過ぎておやつ時。ちょうどスケジュールが変わる時間だ。最近になって出てきたステージを目当てにヒトが集まっていたロビーは、やっと波が引いたところだ。選出ステージが変わったのもあるが、朝からバトルに興じていた者皆の腹が限界を迎える時間だからだ。おかげでロビー隅やロッカールームに備え付けられているソファはどこも埋まっている。今日の食事は二人で壁に背を預けて摂るしかない状態だ。歓談する暇も無く、隣り合ってサンドを口の中に放り込んでいく。
「……野菜じゃ足んねーな」
モシャモシャと食事を続けていた少女は、はたと動きを止めて呟く。胃の中で膨らませようと、もう片手に持ったジュースの缶を煽った。炭酸の小さな泡が弾けて柔らかな口腔を刺激する。甘ったるい作り物の香りが鼻の奥に広がった。
普段はアゲバサミサンドを好んで食べている。けれど、運が悪いことにチケットを使い切ってしまっていたのだ。残っていたチケットを使って腹を満たしているものの、やはり生野菜に蒸し魚と脂っ気が薄いこれは味気ない。育ち盛り、食べ盛りの舌には素材の味は優しすぎるのだ。
「僕の食べますか?」
隣から柔らかな声。急いで音の方へ目をやると、そこには彼の昼食であるアゲバサミサンドを差し出すヒロの姿があった。揚げ物とソースでたっぷりと彩られたそれは、まだ半分ほど残っている。存在感の強いエビの虚ろな目がこちらをじっと見つめてきた。
「いいのか!?」
「どうぞ。どうせならエビ食べちゃってください」
向日葵の目がキラキラと輝いて、紅梅をじぃと見つめる。丸い赤がすぃと細くなって穏やかな弧を描いた。声とともに、サンドと己の距離が狭まる。ソースの芳しい香りが優しい味で満たされつつある胃を刺激した。
サンキュー、とベロニカは満面の笑みを浮かべる。同じぐらい華やかな笑みが返ってきた。慈悲深く差し出されたそれに手を伸ばそうとして、少女ははたと動きを止める。伸ばした右手には食べかけのロールサンド、左手には缶ジュースが握られてたままだ。つまり、塞がっている。壁にもたれて食べている今、どこかに置くこともできない状態だ。元気にピンと伸びた腕が、喜色満面に光を宿していた瞳がうろうろと宙を彷徨った。
「あぁ、そのままかじっちゃってください」
ガサガサと包み紙が取り払われていく。己の方へ向けられた部分が、更に姿を剥き出しにした。目と鼻の先に、衣を身に纏ったエビの頭。半分ほど残ったソース一色の麺。密かなアクセントとして重要なレモン。どれもたくさん食べてきた、美味しくてたまらない品だと分かっている。食事も半ばだというのに、腹が小さく鳴き声をあげた。
「悪ぃな」
眉を八の字にして、ベロニカは苦く笑う。気にしないでください、と穏やかな声が続いた。しばしして、いただきます、と丁寧な声。綺麗に磨かれたカラストンビがまた露わになった。
大きな口が黄金の生地に吸い寄せられ、がぶりと一息にかじりつく。醤油ベースの香ばしい匂い、舌を刺すようでどこかまろやかな塩味、何より揚げ物の油っ気が口の中を満たしていく。先ほどまで食べていたヘルシーな味とは正反対のそれに、思わず高い声を漏らした。
存在感たっぷりの食材たちを飲み下し、少女はちらりと少年を見やる。同じく缶のジュースを持った左手が、どうぞどうぞと言うように動いた。小さく頭を下げ、またぐありと口を開ける。灰色の目をしたエビの頭に食らいつく。そのまま、丁寧に挟まれた生地から抜き取った。行儀が悪いのを承知で、一口、また一口と器用に口を動かしてエビフライを食べていく。処理されたパキパキの殻の香ばしさ、ザクザクの衣の食感、少しだけ付いたレモンの風味、何より塩と油の味。どれもが食べ盛りの子どもの心を奪うものだった。ごくん、と飲みこんで、インクリングは息を吐く。油の香りが漂うそれは、これ以上に無く満足げなものだった。
「悪ぃな。ヒロも食うか? それかジュース」
「いいですよ。ベロニカさん、お腹空いてるでしょう? 自分のお腹をいっぱいにしてください」
缶とロールサンドを差し出すベロニカに、ヒロは小さく首を振る。彼の優しさはありがたいけれど、施されっぱなしは己の性に合わない。悩んだ末、今度奢る、と短く返した。期待しておきます、とどこかいたずらげな声が返ってくる。
少女はまたロールサンドを頬張っていく。野菜の水分と優しい甘さが、油だらけの口を洗っていくようだった。こちらも美味しいことは間違いは無い。けれど、舌はあの強い味ばかりを求めてしまう。今度は切らさないようにせねば、と心に決めて、最後の一口を放り込む。尖った牙が野菜をシャクシャクと噛み砕いていった。
本日の食事を飲み込み終え、空っぽになった口がごちそうさま、と言葉を紡ぐ。小さく息を吐いて、インクリングは缶ジュースを口に運んだ。弾ける炭酸と強い甘さが舌を刺激する。ちらりと視線をやると、隣にいるヒロはまだ食事を続けていた。残りはもう少ないから終えるのも時間の問題だろう。その間に飲んでしまおう、と缶を更に傾けた。
ん、とジュースを飲みこむ喉が小さな音を漏らす。先ほど、ヒロにもらったアゲバサミサンドは美味しくてたまらなかった。最後の一匹のエビも美味しかった。そう、彼が食べている途中だったサンドは――彼が口を付けていたそれは、とても。
喉がおかしな運動をする。瞬間、流れていた液体が変に跳ねて気道へと飛び込んだ。必死に口を押さえ、どうにか中身を飲み下し、ゲホゲホとむせ込む。何度息を吐き出しても、炭酸ジュースはなかなか出ていってくれなかった。無理矢理動く喉も。顔に、頬に感じる温度も。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「だいじょぶだ……」
慌てた声が飛んでくる。今にも飛びついてきそうなそれを、こちらを一心に見つめる朱い目を、包み紙を握った手で制す。むせただけだ、と少女は咳き込みながら返す。大丈夫なんですか、とやはりどこか慌て調子の声が聞こえた。
「落ち着いて飲んでくださいね?」
「だいじょぶ、だよ」
口を押さえるふりをして俯き、心配で彩られているであろう目から逃げる。それでも、心臓はまだ脈打つ速度を下げてくれなかった。頬に感じる温度も一向にひきやしない。これだけで、己が随分と情けない顔をしているのは容易に想像が付く。そんなの、彼に見せられるはずがなかった。見せたくないに決まっていた。
食べ物を共有することぐらい普通ではないか。彼の食べかけのものをもらうくらい普通だったではないか。口を付けたそれを意識することなんて無かったではないか。無いのだ、今だって。でも。心臓はやはりおかしく動いて。頭も顔も熱くなって。心は掻き乱されて。
情けねぇ、とようやく落ち着きを取り戻した喉が吐き出す。ピカピカに磨いたブーツの表面が反射する己の顔は、やはり情けなくてしょうがないものだった。
畳む
#Hirooooo #VeronIKA #ヒロニカ