No.224, No.223, No.222, No.221, No.220, No.219, No.218[7件]
そのきにさせてよ【タコイカ】
そのきにさせてよ【タコイカ】
ゆるゆるとろとろのマイペースタコ君と振り回される可哀想なイカ君が見たくて書いたものがこちらになります。イカタコに名前があるので注意。
暑がりなタコ君とお出かけしたいイカ君の話。
「あっつぅ……」
そんな呟きが聞こえた瞬間、光溢れる世界はは音も無く消えた。扉が閉じる重い音。サンダルが脱ぎ捨てられる音。ぺたぺたと力無い足音が通り過ぎていく。え、と呟いた頃には、恋人の姿は消え去っていた。急いで振り返るもいない。そこにあるのは、先ほど電気を消したばかりの部屋から漏れる明かりだけだ。
急いで玄関の鍵を閉め、イタは靴を脱いで廊下へと戻る。騒がしい足音を立てながら、すぐさま扉を開いた。一人暮らしにしては広い居住室には誰もいない。入っていったはずの家主であり恋人――シュウの姿すら、影すら無い。迷うことなく、まっすぐにローテーブルへと走って屈みこむ。机の下、出掛ける前はちゃんと立てて置いてあったはずの丸いツボは横に倒れていた。中身は影の黒でなく、水色で満たされている。
「出ろって!」
「やーだー」
タコツボを机の下から引きずり出し、抱え込んでインクリングの少年は叫ぶ。中にひきこもったオクトリングの少年は、外とは正反対の気の抜けた声をあげた。入り口まであった水色がどんどんと奥へと引っ込んでいく。逃がすまいと、大きな手が中に突っ込まれた。ツヤツヤとした頭に四角い指が食い込む。やめてよぉ、と悲痛な声がツボの中からあがった。
「出掛けるっつったじゃん!」
「あついからやだー」
日曜日は二人で出掛けよう、と約束したのは一週間前のことだった。二人でお出かけ、つまりは久々のデートである。胸を弾ませ恋人の家に訪れ、いつもよりもしゃんとした格好をした彼にわずかに鼓動を早めながらも外に出ようとした――途端、これである。
季節は夏、本日は最高気温は三十六度の猛暑日なのだから『暑い』という仕方無いとは言えよう。けれど、『暑い』の一言ですぐさま引き返すなど、一週間前から楽しみにしていたものを放棄されるなどいくらなんでも理不尽だ。出掛けると行っても、行き先は涼しいショッピングモールであるし、移動も快適な電車だ。移動のために十分そこらは歩く必要はあれど、日傘もあれば冷たい飲み物だって用意済みだ。暑さや寒さが苦手な恋人のために全て持ってきたのだ。なのに。なのに。
「いいじゃん。今日はおうちデートにしよ」
「引きこもってたらデートもクソもないじゃんか!」
気ままに、いっそ腹が立つくらいマイペースに、もう投げやりにすら聞こえる声を漏らしてシュウはもぞもぞと動く。悲痛な叫びが部屋に響いた。『デート』と言うのならせめてツボから出てくるべきである。けれど、こうなってしまった恋人がすぐに出てくるわけがない。とにかく面倒臭がりで狭いところが大好きなのだ。そんなところがチャームポイントではあるが、今日ばかりは許す気は無い。
「デートするっつったのシュウじゃん! うそつき!」
「言ったけどぉ……こんな暑い中外出る方が危ないじゃん。おうちにいよ?」
「日傘あるから! お茶も用意してるしハンディファンもあるし氷もある! 冷たいの全部用意してある!」
用意周到じゃん、とオクトリングは感心の声を漏らす。それでも、出てくる様子は欠片も無かった。そんな声が聞きたくてここまで用意してきたのではない。デートがしたくて、彼のために用意してきたのだ。何としてでも引きずり出さねばならない。全てが無駄になるのはさすがに精神を、心の大切なところを剥がして揺るがして粉々にされてしまう。
「アロワナモール、駅から近いじゃん。そんな歩かないからだいじょぶだって」
「歩くのやー。溶けちゃうよ?」
「溶けないってばー!」
ツボの中に手を突っ込むも、家主はのらりくらりぺちょりぬちょりと躱してくる。触れても、指を突き立ててもツルツル滑るだけだ。掴んで引っこ抜くのはもう諦めた方がいいだろう。目を伏せ、イタは小さく息を吐く。両の手でしっかりと壺を持ち、逆さにして大きく振った。あぶないよー、という声が落ちてくるだけだった。
「シュウ……約束したじゃん……」
「デートしたいんならさぁ」
しょぼくれた悲痛な声をとろりとした声が塞ぐ。元に戻ったツボの中からにゅっと何かが伸びてくる。水色の触手は、ツボを抱え直した少年の頬をそっと撫でた。小さな吸盤が柔らかな頬に吸い付いて、少しだけ痕を残していく。
「その気にさせて? できるでしょ?」
優しい声は楽しげで、どこか笑ってるようにすら聞こえた。ぺちぺちと細い手が頬を叩く。そのまま捕まえようと手を伸ばす。勘付かれたのか、すぐさままたツボの中に引っ込んでしまった。声はいつだって間延びしてゆるりとしたものなのに、行動だけは妙に素早いのだ。だからこそ、前線でフデを操り活躍できるのだろうけれど。
うぅ、とインクリングは呻きを漏らす。『その気』と言われても、彼を引っ張り出せるような手持ちのカードは先ほど切ってしまった。残りは外に出て以降の行動に価値を付与するしかないだろう。少年は唸る。唸り、目を伏せる。先ほど下ろしてきて潤った財布の中身が空っぽになっていく様が瞼の裏に映された。
「クレープ奢るから」
「えー?」
「アイスも付ける!」
「えぇー?」
「こないだ欲しがってたギア買ったげる! クラーゲスのやつ!」
「えええー?」
どれだけ提案しても、返ってくるのは変わらず気の抜けた声だった。気の抜けた、どころかもはや楽しんでいる声だった。なんでぇ、とイタは沈んだ声をあげる。半分涙がにじんだ、痛々しい響きをしていた。だのに、ツボの中から聞こえるのはクスクスという小さな笑い声だけだ。
「今日は物じゃ釣れないよ? もーちょい考えて?」
また触手が伸びてくる。頬を撫でくすぐって、すぐさま去って行った。完全にからかっている。お前さぁ、と思わず乱暴な言葉を吐き出してしまったのは仕方が無いことだろう。返ってくるのは相変わらず笑声なのだからどうしようもないのだけれど。
はぁ、と溜め息を吐いて、インクリングは抱えていたツボを床に転がす。わー、とアトラクションを楽しむ子どものような声が中から聞こえてきた。一周して目の前に戻ってきたそれに、もう一度溜め息を浴びせかけた。
身体から、意識から力を抜いて、ヒトの形を溶けさせる。黄色いインクが床に散らばり、本来の柔らかなイカのフォルムが現れた。ぺたぺたと触腕を器用に使って這い、転がったタコツボの前に鎮座する。また溜め息一つ。息を呑む音一つ。長い触腕がツボの縁を掴んだ。助走を付けて、三角頭がツボの中に這入っていく。元々小さなツボだ、たとえ勢いを付けても侵入できるのは頭の半分と触腕の一本ぐらいである。せっまー、と楽しげな声がすぐそばで聞こえた。
どうにか潜り込ませた触腕を、更に捻じこんでいく。狭い狭い、と少し慌てた声は聞こえないことにした。暗くて何も見えない中、先の平べったい触腕でなめらかな頬――だと信じたい――を撫でる。水色の頭に、己の額をぺたりと引っ付けた。
「……約束したじゃん。デート、行こ?」
頭のすぐそこ、絶対に聞こえるように、でも驚かせないように、囁くような声でイタは語りかける。ねぇ、と漏れた声はもう湿った色を帯びていた。
じゃぷん。水が跳ねる音がすぐそこであがる。勢い良く身体が外に押し出され、壁目掛けて後ろ向きですっ飛んでいく。悲鳴をあげるより先に、温かな何かが身体を包んだ。
「そーそー。よくできましたー」
頭上から声が降ってくる。見上げると、そこにはヒトの形に戻ったシュウがいた。太い眉は柔らかな線を描いていて、黄色い瞳はいたずらげに細められていて、口元はゆるく弧を描いている。掴み所が無い彼らしい柔らかな表情だ。しかも、特に機嫌がいい時の顔である。どうやら、語りかける作戦は功を奏したようだ。よっしゃ、と幅の広い触腕が天へと突き上げられる。
「でももうちょっとイタとくっついてたいなー。さっきのきもちよかったし」
ねぇ、と先の尖った指が肌を撫ぜる。一本一本を使ってなぞるように撫でられただけで、背筋がふるりと震える。違う。ダメだ。流されてはいけない。ここで流されてしまったら今までの努力は全て水泡に帰してしまう。そんなのダメだ。大きく頭を振り、意識を集中して急いでヒトの姿へと戻る。抱き心地良かったのにぃ、と間延びした声がしたから聞こえてきた。
「よくできたんだろ? だったら約束守ってよ」
唇を尖らせ、じぃと恋人を見つめる――というよりも、睨む。地取りとした視線を向けても、返ってくるのははぁい、と相変わらず気の抜けた声だ。
「降りないと出掛けらんないよ?」
「乗せたのシュウじゃん」
撫でていた手が頬から、肩から、脇腹から、背へと移動していく。尻に到達しそうなところで、パシンと払ってやった。ちぇー、とわざとらしい声があがる。気にしないふりをして、気付かないふりをして、イタは立ち上がる。流れるような動きで扉の前へと歩み、座ったままの恋人へと手を伸ばした。
「いこ」
「いこー」
四角い手に長い指が伸ばされる。乗せられたそれをしかと包んで、掴んで、外っ側へと引っ張り上げた。
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涼しさは一緒に【ライレフ】
涼しさは一緒に【ライレフ】
一緒に寝る右左が見たかっただけなどと供述しており。やっぱ夏は電気代節約しなきゃだからね(?)
クーラーを賭けた右左の話。
赤い唇が白い縁に寄せられる。薄く汗を掻いたマグカップは、持ち主によって大きく傾いた。薄く上気した喉が盛大に動く。しばしして、息を吐く音が部屋に響いた。共鳴するように、低い唸り声が部屋に落ちる。夏の生命線であるエアコンは、今日も元気に役目を果たしていた。シャワーを浴びて火照った身体に冷風と冷水。これ以上無い幸福が嬬武器雷刀の身体を満たしていく。
夏の間、己は昼も夜もリビングで過ごすことが多い。というのも、自室の冷房の動きが鈍く感じるからだ。日中熱しに熱された空気を冷やすのに時間を要するのは頭では理解できるものの、どうにももどかしい。ならば、既に涼しくなっているリビングで過ごすのが快適で合理的だ――こちらも眠る前には消さなければならないのだけど。
大きな手に携帯端末が握られる。ロックを外した液晶画面、端っこに鎮座するニュースサイトのウィジェットには『熱中症注意報』の文字が鮮やかに輝いていた。つまり、明日も暑くて湿っていて息苦しくて過ごしにくい。うへぇ、と情けない声とともに、赤い眉が小さく寄せられ八の字を描く。
インターネットでは『冷房は冷やす時に一番電気を食う』『つけっぱなしの方が電気代がかからない』なんてまことしやかに囁かれているが、どうにももったいない気持ちの方が強い。並外れた暑さの中帰ってきてすぐに涼しい空気に飛び込めるのはこれ以上無く魅力的であるが、やはり四六時中つけっぱなしというのは気が引ける。珍しく、兄弟で意見が一致した部分だ。
飲み干したカップを洗い、朱はエアコンの電源を消す。夏一番の功労者は音も無く口を閉じた。後ろ髪を引かれながらドアを開けた途端、熱気が正面からぶつかってくる。空調など存在しない暗い空間は、夜になっても随分と熱がこもってじっとりとしていた。眉が八の字を、口がへの字を描く。
早足で廊下を進み、自室に身を滑り込ませる。素早くクーラーを点けて、再び廊下へと戻った。そのまま、数歩進んで隣のドアを開く。途端、涼しい空気が身体を撫ぜた。険しげな表情が解け、普段の柔らかで朗らかなものへと戻る。
「何ですか、こんな時間に」
「涼ませて」
部屋の主――嬬武器烈風刀の声に、雷刀は軽い調子で返す。椅子の背もたれに腕を掛けて振り返った彼の顔は、就寝前には相応しくない険しいものとなっていた。健康的な色をした唇が一本の線を描き、解けて息を吐き出す。
「またですか」
呆れ、怒り、諦め。色んなものが混ざった声を正面から飛んでくる。気にすること無く、兄はベッドに腰を下ろした。だって、その声にはほのかな明るさがあったように思えたから。
「いいじゃん。あっつい部屋にいて熱中症になったらやばいじゃん?」
「そんな簡単にはなりませんよ」
ほんの数分でしょう、と弟は眉をひそめる。その数分が地獄なんだって、と兄は笑った。眉間に刻まれた皺が更に深みを増す。
「そんなに暑いならリビングで寝たらどうですか」
「さっき電源消しちゃったからもう暑くなってるって。死ぬ死ぬ」
あぐらを掻いて振り子のように揺れながら、冗談めかして返す。実は、既に考えた案だった。けれども、『みっともない』とかなんとかで弟に却下されるに間違いないと思い黙っていたのだ。けれど、今さっき彼の口からその提案が出た。言質を取れた。これで明日から涼しい空間ですぐに眠ることができるだろう。ふふん、と鼻歌めいた息が漏れ出た。
「それか、こっちで寝るとか」
「へ?」
ご機嫌に弧を描いていた口がぽかんと開く。八重歯が覗く赤いそこは、随分と間抜けな形をしていた。机に向かい直した背中から言葉が聞こえた言葉は、脳の処理を一時停止させるには十分なものなのだから仕方が無い。
「え? いいの?」
「本気にしないでくださいよ」
思わず上擦った声に、げんなりとした声が返される。再びこちらを向いた烈風刀の顔は、やはり釣り眉で眇目でへの字口だ。けれども、その頬にほんのりと紅が散っているのは部屋のライティングのせいではないだろう。もちろん、シャワーを浴びたせいでも。
「分かった! 枕取ってくる!」
「本気にしないでくださいよ! やめてください!」
ベッドの上に大人しく座っていた身体がすくりと立ち上がる。体育の徒競走もかくやという動きで、雷刀は駆け出した。背中に慌てきった声が飛んでくる。先に言ったのは烈風刀じゃん、と扉を開けると同時に叫んだ。
「――来客用の布団一式持ってきてください! 貴方寝相悪いんですから!」
開けっぱなしの扉から、深夜という事実を忘れた大声が飛んでくる。諦めきった、呆れきった、受け入れきった言葉に、分かった、とこれまた夜を忘れた声が返された。
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夏日にはご注意【インクリング】
夏日にはご注意【インクリング】
この季節熱中症で倒れるイカタコ絶対にいるだろと心配性のイカタコも絶対にいるだろの合体技。イカは楽観的だったり心配性だったりしろ。
バトルに行きたいイカ君とバトルに行かせたくないイカちゃんの話。
「離せって!」
「やだ! 絶対ダメだからね!」
ロッカールームのど真ん中、金属ロッカーの扉を開きっぱなしにしたまま少年少女が叫ぶ。思いきり口を開けるインクリングの少年の手にはゴーグルが、目を見開くインクリングの少女の手には少年の腕が握られていた。剥き出しになった腕が振りほどこうと大きく揺れる。細く白い腕がそれに無理矢理追いすがった。痴情のもつれの現場、と説明されても納得のいく光景だ。
「また熱中症になったらどうするの!」
「なんねーよ!」
「なるよ! 懲りないでしょ!」
少女は吠える。同じく少年もカラストンビを剥き出しにして吠えた。緑の瞳が睨む。赤の瞳が眇められてぶつかる。どちらも怯む様子も、退く様子も無い。譲らないことは明白であった。
先週、己は熱中症で倒れた。とはいっても軽いもので、適切な処理を施され水分を摂っただけですぐに回復したぐらいである。医者にちゃんと水飲みなね、と叱られたのもあり、最近はしっかりと水を飲み、塩飴とやらも舐めている。汗はこまめに拭き、ハンディファンなんてものを使って身体を冷やす。熱中症対策はバッチリだ。何の問題も無い夏休みの今、バトルに明け暮れるには最高の身体だろう。
けれども、幼馴染みはそれを許さなかった。また熱中症になる。また倒れる。だからバトルなんてダメ。そういって聞かないのだ。言葉だけならまだいい。今日なんて身体で制してくるのだから最悪である。
「屋内ならまだしもユノハナだよ!? 影無いじゃん!」
「あるだろ! 高台のとことか!」
「あれは物陰であって日陰じゃないでしょ!」
キャンキャンと高い声が耳をつんざく。ダメ、やだ、と否定の言葉が耳を貫く。剥き出しになった感情が正面からぶつけられる。あのなぁ、と苛立った声を吐き出したのは仕方が無いことだ。
「対策してるっつってんだろ! 信用しろ!」
「できない!」
まだ高い声がロッカールームに響き渡る。悲鳴めいたソプラノがそれに真っ向から立ち向かった。何でだよ、と裏返った嘆き声が、叫び声が巨大な口からあがる。心の底から吐き出されたそれは、床にぶつかってビリビリと震わせた。
「だって昔からそう言って同じことして怪我してたじゃん! 長年の実績!」
ギッ、と漫画ならそんな擬音が付きそうなほど鋭い目つきで少女は少年を見上げる。ターコイズの瞳には確かなる輝きが、情動が満ちていた。それが溢れて、雫となって、黒く縁取られた目元からこぼれる。白い肌に一本の線が引かれた。
「倒れたら……、死んだらやだよぉ……」
天河石の目が、涙をたたえた目がふるふると震える。ライトの安っぽい光を受けてきらきらと輝く。透明な雫がはらはらとこぼれてTシャツの襟元を濡らしていく。白いドット柄が水分を受けて暗くにじんでいった。
そうだ。昔からそうだ。こいつは『死』をおそれていた。縁日で取った水風船が割れた時。長らく使っていたペンが壊れた時。大切に育てていたアサガオが枯れた時。連れ添っていたウーパールーパーが生を全うした時。こいつはいつだって泣いていた。いつだって『嫌だ』と言っていた。今だってそうなのかもしれない。『死』を、隣の『死』を。
なんと大袈裟なのだろう。今後は気をつければいい、と医者のお墨付きをもらったと何度も話したのに。水を飲む様をこれでもかと見せているのに。熱中症対策をたくさんしているのを毎日のように見せているのに。だというのに、心配してくる。迷惑、と言い切ってしまいたい。けれども、彼女の言葉も事実である。何度も同じミスをして何度も同じ傷を重ねてきたのだ。だからこそ、今度ばかりは気をつけているのだけれど。
「…………わーったよ」
重く、深く息を吐き出す。呼気が空気を揺るがせる音と、鼻を啜る音が二人の間に響いた。また一つ雫が流れゆく。
「あれだろ。モーショビには屋外ステ行かない、ならいいだろ」
インクリングは自由な手で人差し指を立て、指揮棒を振るようにくるりと回す。先ほどまで少女を真っ向から睨みつけていたカーマインは、バツが悪そうに逸らされていた。はぁ、とまたわざとらしい溜め息。
彼女の心配が本当であることは分かっている。彼女の心配が本心であることは分かっている。けれども、バトルには行きたい。長期休みの間に腕を磨きたい。ならば、落とし所を作るしかない。これが最大限の譲歩だ。譲歩してやるぐらい己は大人なのだ。そう言い聞かせ、少年は一つ頷いた。
「真夏日」
すん、と鼻を啜る音。ちらりと見やると、一対のグリーンがまっすぐにこちらを見つめていた。涙が張っていた膜は少しだけ晴れ、常の芯の強い色を灯している。それがすっと細められた。
「真夏日も危ない。ちゃんと日陰があって休めるとこに行って。タラポとか、ヤガラとか」
「わがままだなぁ!」
全く退く様子の無い少女に、少年は天を仰いで声をあげる。だから、と少女も声を張り上げた。
「日陰で休める場所があるなら屋外ステもまだ安心だから! ちゃんと水飲んで休んで!」
キッ、とアニメならそんな効果音が鳴りそうな瞳で少女は少年を見上げる。涙はまだ全て晴れていない。心配の色はまだ全て晴れていない。けれども、先ほどまでの意固地な雰囲気は少しだけ和らいでいた。
「飲んでるじゃん」
「もっと飲まなきゃなの!」
事実だけれど、言い訳じみた言葉を吐く。鋭い声が切り裂いた。わかったってば、と少年は掴まれた腕を振る。一生離すまいと言わんばかりに込められていた力は既に解けていた。包まれていた温もりから解放された腕は、少しだけ寒い気がした。
まぁいい。言質は取った。これならばまたバトルに潜れるだろう。ユノハナ大渓谷とネギトロ炭鉱が選出されている今の時間はまた彼女がうるさく言い立てるから控えるが、次のスケジュールならば飛び込めるはずだ。何しろ、ザトウマーケットとバイガイ亭である。文句の付け所が無かった。
そこまで考えて、少年は目を瞬かせる。ん、とやっと閉じた口から疑問符付きの音が漏れ出た。
「……真夏日って何度だ?」
「三十度」
少年の問いに、少女はさらりと答える。当然の常識だと言わんばかりの声音だった。先ほどの悲痛な響きはどこへやら。
「最近は毎日三十度超えだろ!? どこにも行けねーじゃん!」
「だから危ないんだってば!」
またロッカールームに声が響き渡る。譲れない真夏の戦いはまだまだ続きそうだ。
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「そういやこの水どうやって捨てるんだ?」「……あ」【ヒロニカ】
「そういやこの水どうやって捨てるんだ?」「……あ」【ヒロニカ】
線香花火やるヒロニカ見たい!!!!!!の結果がこちらになります。全てはフィクション。都合の良いフィクション。
線香花火をやるヒロニカの話。
カラン。ちゃぽ。ガサ。ぺた。
様々な音が昼の間に磨き上げられたフローリングの上を滑っていく。一歩ぺたりと踏み出し、ヒロは今日両手でないと数えられないほど繰り返した言葉を吐き出した。
「いいですか」
「たらいから絶対出さない」
わーってるよ、と彼女一人は優に入る金だらいを肩に担ぎ、ベロニカは呆れ調子で返した。安物の薄っぺらい金属が音をたてる。
線香花火やりてーな、と彼女が言いだしたのはいつだっただろうか。そして、それがベランダでやりゃいいな、と凄まじい結論に着地したのも。
様々な説得を試したものの、彼女の心には響かなかったようだ。むしろ意固地になってぜってーベランダでやる、とスーパーへと向かおうとしたのだから大変だった。どうにか引き留め、日が傾き始めた頃にどうにか折衷案を捻り出した。絶対に火が燃え広がらない水の上でやる、と。
そうやって二人で閉店間際のホームセンターに駆け込み、金だらいと花火、小型ライターなんて訳の分からない組み合わせの買い物を済ませ、風呂場からペットボトルに水を汲みベランダに向かう今に至る。
ガラン、とコンクリートの上を金だらいが跳ねる。近所迷惑極まりない音だ。ベロニカさん、とひそめた声で主犯を呼ぶ。だいじょぶだって、と呑気な声が返ってきた。
「隣、今日は飲み会だって。昨日くそでけぇ電話の声聞こえてきた」
ハッと愉快げに鼻を慣らし、彼女はたらいにペットボトルで持ってきた水を注いでいく。ドボドボとこれまた盛大な音があがる。彼女の住むアパートは壁があまり厚いとはいえない。現に、隣の部屋からラジオの声やドライヤーの音が聞こえてくるほどだ。だからこそ、隣人の予定を知ることができたのだろう。盗み聞きしてもいいのだろうか。聞こえてきたのだから仕方ないだろう。したところでどうしようもない問答が頭の中で繰り広げられていく。脇に抱えたペットボトルの重さが消えたところで、ようやく現実に戻ってきた。
「早くやろーぜ。せっかく買ったんだしさ」
ニッと笑ってベロニカは奪い取ったペットボトルを揺らす。一呼吸、息を呑む。はい、と吐き出した己の声は沈んでいたのか、弾んでいたのか。
ドボドボと二人でたらいに水を流し込んでいく。立ってならば己たち二人ぐらい優に入るだけの器は、何本目かでやっとなみなみと満たされた。ピ、と電子音。同時に、ガラス窓一枚隔てた先の部屋から光が消える。彼女が電気を消したようだ。次いで、目の前に目映い光。四角い光源には夜が更けつつあることが示されていた。
己もナマコフォンを取り出し、画面照度を最大にする。その間にも、ガサガサと愉快げな音が隣からあがった。床に置くと、ほら、と影がこちらに伸びてくる。液晶画面の白色灯に照らされた手には、細い糸のようなものが握られていた。線香花火だ。
この危険な花火大会をやる上で、もう一つ制限を設けていた。線香花火のみする、ということだ。というのも、普通の手持ち花火では凄まじい量の煙が出る。外からそれだけが見え火事だと勘違いされては一大事だ。通報されて大事になり、事が発覚して退去処分になんてなろうものなら目も当てられない。
けれども、線香花火ならば煙はほとんど出ない。光も大きくないので、外から目立つことも無いだろう。万が一にも、ベランダで花火をやってるだなんてことは誰も思いはしないだろう。
「ヒロ。ほら」
受け取る手に差し伸べる手。小型ライターがこちらに向けられる。一瞬ぎょっとするが、先に点けてくれるのは彼女の優しさだろう。持っている物が凶悪なだけで。
ありがとうございます、と礼を述べ、ヒロは彼女の元へと線香花火を運ぶ。そんな些細な動きでも、細い花火は幽霊のように揺れた。動きが止まるのを見計らったところで、短い音とともにライターの火が灯る。小さなそれが、ねじられた花火の先に触れた。
音も無く火が線を辿っていく。次第に、ぱちぱちと小さな音が鳴り始めた。向かい側から楽しげな笑声。火が爆ぜる音はいつしか二重奏になっていた。
小さな音をたてて、花火が命を燃やす。小さな花だったようなそれは次第に勢いを増し、枝分かれしていく。それも他の花火に比べては些細なもので、儚いもので、可憐なもので。赤い目がじぃと弾ける火を眺める。黄色もまた、白色光に照らされながら小さな花を眺めた。
「綺麗ですね……」
溜め息のようにヒロは吐き出す。瞬間、あれだけ元気だった線香花火は勢いを失い、ぽとりと先端を落としてしまった。じゅ、と水が火の最期を看取る音が聞こえた。
「もう一本やれよ」
「いや、いいですよ」
「何本買ったと思ってんだよ。残す方がもったいねーだろ」
ほら、と自分が手にした線香花火を落とすことなく、ベロニカはもう一本差し出す。ややあって、ありがとうございます、と控えめな声が声が水に落ちた。
床に転がったライターを手に、役目を終えた花火を水に沈める罪悪感を手に、ヒロは線香花火を灯す。カラフルで細い紙の先から、また花が静かに姿を現し始めた。
ぱちぱちと爆ぜる音が消えては宿ってを繰り返す。ベランダの仕切りは薄いはずなのに、アパートの壁は薄いはずなのに、周りは十二分に賑やかなはずなのに。なのに、耳は儚い音だけを捉える。まるで、世界には己たちと花火しかいなくなってしまったような。
同時に火が落ち、たっぷりと満たされた水が鳴き声をあげる。スリープになったナマコフォンの光すら消えてしまったベランダはほとんど真っ暗だ。遠くの街灯の光だけが二人の在処を示していた。
「キレーだったな」
薄い灯りの中、少女は笑う。まるで先ほどまで眺めた線香花火のようだった。否、彼女はあんな短く儚いものではない。もっと華やかで、大きくて、空いっぱいを照らす。打ち上げ花火なんかじゃ足りない。もっともっと、輝かしくて美しい。
「……えぇ」
「もうちょいやっか?」
「いえ、これだけにしておきましょう。片付けるのが大変ですから」
嘘だ。本当ならもっとやりたい。けれども、こうも長く続けていては今度こそ止め時を見失ってしまいそうだ。買ったもの全てを一晩にして消費しきってしまうのはさすがにまずい。こんな危ないことをしておいて何を今更、と脳味噌の端っこで誰かが笑う。その通りだ、と頭の冷静な部分が叱りつける。けれども、と心は理性的では無い声をあげた。
「またやろーな」
正面から声。いつの間にか俯いていた顔を上げると、そこには線香花火の束を片付けたベロニカがいた。相変わらず輝かしく可愛らしい笑みが浮かんだそれは、弾みに弾んだそれは、けれどもやわらかな輪郭をしたそれは、まさに幸福と表現するのが相応しいものだった。
「……今度は公園でやりましょう?」
「やだよ。たらい、せっかく買ったんだから使わねーともったいねーだろ」
困ったように少年は小首を傾げる。どこか得意げに少女は笑う。八の字になっていた青い眉は、いつしか柔らかな弧を描いていた。
カラフルな花火がいくつも落ちたたらいが遠くの光を受けて輝く。花火とはまた違うそれは、暗闇に満たされたベランダに確かに灯っていた。
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めくりゆきなぞりなでて【ス腐ラトゥーン/R-18】
めくりゆきなぞりなでて【ス腐ラトゥーン/R-18】
浅はかな策略をひっくり返されるほんのり可哀想なイカ君を見たかったなどと供述しており。これと繋がってるけど話自体は独立してるので読まなくてもいい。
脱がされたくないイカ君と脱がしたかったイカ君の話。
影が視界を暗がらせる変化が、布が擦れる些細な音が、肌の上を熱が移動していく感覚が、脳味噌の一番奥を刺激する。長時間の正座をした足と同じ感覚は鼓動を早めていく。ドクドクと心臓が脈打つ音が耳のすぐそばで聞こえる。手入れを忘れて少しかさついた唇に小さく力が入ったのが己でも分かった。
「……今日インナー着てねぇんだ?」
肌の上を滑っていく手が止まる。自然光を背景に影となった頭が小さく傾くのが見えた。動きを再開した大きな手の平が、腹の真ん中あたりを円を描くように撫ぜる。まるで肌の下、肉の奥、隠され暴かれざる隘路を確認するような手つきだった。くすぐったさに、カラは小さく息を漏らす。この呼吸は純然たるくすぐったさによるものだ。ほのかに熱が灯り始めたのは気のせいだ。言い聞かせながらも、肌が擦れる度に刺激された腹がひくひくと震える。くすぐったさ故のものだ、絶対に。
「汗染みねぇの?」
たくし上げたTシャツの裾をいじりながらエンは問う。純粋な声だった。それはそうだろう、己は普段はどんなギアを着ようとインナーシャツを着ているのだから。
バトルというものは晴天の下で行われ、何分もフル活動するためすぐに汗を掻く。汗が染みこみ肌に張り付く不快感を軽減するためには、多少暑くてもインナーシャツを着るのは当然であろう。また、生地によっては濡れてしまうと肌の色が透ける。ガールはもちろん、ボーイでもそれを嫌いインナーで防ぐ者は多いのだ。
けれども、今日の己はその一枚の布を脱いでいた。バトルを終え、汗をたっぷり吸ったそれは既に脱ぎ捨て鞄にしまっていた。もちろん、替えはロッカーに用意してある。だが、今日は着ないことを選んだ。理由は簡潔だ。
「……お前が」
くすぐったさをこらえるために結んでいた唇を解く。汗が引いてサラサラとした腹の上を這い回る手の動きが止まった。窓から差し込む薄い光を受け、紫の目がギラリと輝く。細められたそれはまさに『睨む』という言葉が相応しい。
「お前が、また脱がすのがどうこう言うからだろうが!」
細かった声はクレッシェンドとなり、最後には吠えた。睨む目は、カラストンビを剥き出しにする口は怒気に溢れていた。けれども、赤くなった頬が、ふるふると震える唇が全てを上書きしていた。『羞恥』という感情で。
恋人――エンは脱がすことを好む。それも『エロい』『オモムキがある』などとのたまう始末だ。とにかく、己の衣服を何枚も剥ぎ取っていくのを好んだ。こちらとしては大迷惑である。機能性を重視したコーデを性的な目で見てくるなど、いくら恋人といえど許しがたい感性だ。何でもかんでも性を見出すな、という話である。
だから、彼の部屋に訪れる約束をしていた今日は着るものを減らした。レギンスとハーフパンツの重ね着をしていたボトムスはハーフパンツ一枚に替え、インナーはバトルが終わり次第脱ぎ捨てTシャツ一枚となった。これならばじわじわと脱がすなんて芸当はできっこない。何故こいつのために己が我慢をしなければいけないのだ、という怒りはあるものの、あちらの歪んだ感性をどうにかすることは不可能なのだから仕方無い――それを欠片だけ理解しつつある己も。
ふぅん、とエンは鼻を鳴らす。疑問にも感心にも聞こえる響きをしていた。傾げていた頭が元のまっすぐな位置に戻り、何度か小さく頷く。また反対側に傾いていった。まるでメトロノームだ。
「いや、脱がされんのそんなにヤだったのかよ!?」
「ったりめーだろうが! 変態!」
「変態じゃねーよ! イッパンセーヘキだろ、こんぐらい!」
こんなのが普通でたまるか、とカラは吐き捨てる。脱がすことに悦びを覚える者が世間にたくさんいるなど考えたくもない。こいつがおかしいだけなのだ。己の感性こそが一般的なのだ。腹の底から湧き出す怒りを逃がすように、小さく舌打ちをした。ガラわる、とからかうような声が飛んでくる。腹に添えられた手を叩くことで返事をしてやった。
「まぁ、こっちのがヤりやすいしいいわ」
「……は?」
ニコニコなんて擬音が似合う顔でエンは言う。こちらの口から漏れ出たのは、疑問符付きの吐息だった。どういうことだ、と尋ねるより先に、腹に触れた手が肌の上を滑り出す。くすぐったさに開いたままの口から、ぁ、と小さな声が漏れる。明確に色を帯びた、期待がにじんだ音色をしていた。無様な声を聞かせまいと、カラは再び唇を引き結ぶ。健康的な色をした唇がうっすらと白んだ。
なめらかに滑っていった手は、胸で動きを止めた。ほのかに盛り上がった胸筋の形を確かめるように撫で上げ、指も全て使ってやわやわと揉みしだく。くすぐったい。くすぐったくてたまらない。くすぐったいから声が出そうになるのだ。己に言い聞かせながら、少年は食い縛る。それでも、呼吸する鼻から時折抜けていく息はどんどんと甘さを孕んでいっていた。
気付けば、胸を揉む手は二つに増えていた。中途半端にたくし上げられたTシャツに隠れて見えないそれらは、まるでマッサージでもするようにゆっくりと揉み、形を確認するように撫でる。山を強調するようにぎゅっと寄せて、平たくするように伸ばす。発達し固さを持ち始めた筋肉を解すようだった――手つきはあまりにもいやらしいものだが。
手が動きを止める。けれど、これで終わりであるはずがない。次に何が来るかなど分かりきっている。だからこそ、少年は顎に更なる力を込める。みっともない声を吐き出すわけにはいかなかった。そんなの、相手を喜ばせるだけだ。『性行為は互いに快楽を得てこそ』なんてインターネットの海に漂う情報は無責任に言うが、相手だけに優越感を味わわせるなど己のプライドが許さなかった。
種族特有の太い指がそろそろと胸の上を這っていく。辿り着いたのは、薄く盛り上がった胸の頂だった。肌の上を我が物顔で動き回る指が、そこにおわすものにつつくように触れる。それだけで、頭のてっぺんが痺れを覚えた。ん、と鼻から間抜けな息が抜けていく。頬を彩る紅が更に濃度を増した。
子どもが初めて見た植物を触るようにつんつんと触れてくる。たったそれだけの刺激で、柔らかだった頂は固くなっていく。小さく盛り上がっていただけのそれが芯を持ち、勃ちあがって存在を主張し出す。反応したそれは、ただの刺激をきもちがいいものだなんて誤った情報を脳に流し込んでくる。枕の上に投げ出されたオレンジの頭が、現実を否定するように捩られた。
児戯めいた手つきはどんどんと大胆になっていく。つつくだけだったのが、表面を撫でる。やわく押し潰す。しまいには、挟んでこね始めた。些細な刺激だというのに、恋人に開発されきったそこはきもちいいと叫ぶ。脳味噌に嘘を流し込んで、身体を支配せんとしていく。身体に、腹に熱をもたせていく。受け入れたくない快楽に抗うように、カラは身体を捩る。その拍子に挟まれて固定されていた乳首がぎゅうと伸ばされた。ビクン、とバトルで鍛えられた身体が大きく跳ねる。痛み――絶対にこれは痛覚が訴えるものだ――は脳味噌を刺激して、また間違った情報を認識させる。ぃう、と間抜け極まりない声が引き結んだ口から漏れた。
不意に胸を好き放題にしていた手がぴたりと静止する。ようやくこの身を翻弄する刺激が止み、カラは小さく息を吐く。熱を帯びたそれは、二人きりの部屋に溶けていった。普段ならば離れていくはずの手が、肌の上を滑っていく。胸、みぞおち、腹。そして、股ぐら。すっかりと盛り上がったそこを、大きな手があやすように撫でる。布越しとはいえ急所に――きもちいいところに触れられて、少年の身体が大きく跳ねる。ぅ、と漏れ出た声は期待がいっぱいに詰まったものだった。
「シミできてんじゃん」
あーあ、とエンはわざとらしい声を漏らす。笑声によく似た響きをしていた。腹立たしくて、現実を認識したくなくて、シーツを掴んでいた手を振り上げ見下げてくる頭を叩く。ぼーりょくはんたい、とこれまた笑みを、余裕をたっぷりににじませた声が返ってきた。
「薄着にすっからさぁ。ちゃんとレギンス履いとけって」
「お、まえが、脱がしたいだけだろ」
「んなことねーって。すぐヤれんのも好きだし?」
ふざけんじゃねー、とカラはまた頭を叩く。反撃のようにボトムスを引きずり下ろされた。下着ごと一気に引き下ろされたせいで、下腹部が寒さを覚える。勃ち上がった己自身、その先端部が特に冷えを感じる。体液が集中して熱を持っているのだ、寒さを覚えるのは当然だ。断じて胸をいじくり回され先走りを漏らしているからではない。絶対にそんなことはない。胸だけでそんなにもきもちいいなんて思うほど己は変態ではないのだ。
頭の中で言い聞かせた言葉は、ぬぢ、という音に全否定された。張り出た頭を指がくるくると撫で回す。その度に、ぬち、ぐち、と粘っこい音が部屋に響いた。同時に、凄まじい感覚が頭にぶち込まれる。『快楽』という名前がつけられた電子信号が、まともな頭を溶かしていく。きもちいい、と脳味噌が声を張り上げる。噛み殺しきれない嬌声がどんどんと部屋に積もっていった。
「こんなんなってんのかわいそーだし? 抜いとくか」
亀頭をもてあそんでいた指が離れていく。呼吸を落ち着ける間もなく、濡れた大きなものが己自身を包み込んだ。強すぎる刺激に、しっかりとした身体が盛大に跳ねる。引き絞られた喉がぐぅ、と濁った音を漏らした。
ぐち。ぐちゅ。淫猥な音が己の股ぐらからあがる。握られ容赦なく扱かれる触覚的刺激。唾液と先走りがこねられる聴覚的刺激。強烈に襲い来る五感に、肉茎は硬さを増していくばかりだ。込み上がってくる何かを抑える喉が濁った音を漏らす。低く重いものだというのに、ぐちゅぐちゅという卑猥な音に全て消されてしまった。
輪になった指が張り出した部分を重点的に責め立てる。細かな動きとともにちゅこちゅこと可愛らしい、けれども確かに淫靡な音が何度もたつ。その度に莫大な快楽が脳味噌に絶え間なくぶち込まれた。脳神経を直接触られているような心地だ。角度を変え、裏筋を刺激されてはもはや食い縛ることすらできなくなってしまった。ぁ、いぁ、なんて高くて情けない音が口からぼろぼろとこぼれ落ちる。こんな惨めな声など出したくないのに、今すぐにでも蹴っ飛ばして逃げ出してしまいたいのに、淫悦に支配された頭と身体は恋人による施しを受け入れることを選択した。
「あっ、ぅ……んっ、ぅ」
はしたない声を吐き出すだけの口が突如機能を止める。否、塞がれたのだ。エンの口によって。証拠に、唾液まみれの口内は液体とは違う熱いものに満たされていた。熱くて、柔らかくて、でもどこか固くて、しなやかで、ぬめった塊。舌が這入り込んでいた。牙をなぞるように、舌を搾り取るように、硬口蓋をくすぐるように、熱いものが好き勝手に動き回る。法悦を享受するだけの身となってしまった今、応える力など無い。普段以上にされるがまま、舐められるがままだ。んぅ、と唯一機能する鼻が甘ったるい息を吐き出した。
口腔を蹂躙する中でも、恋人は手を止めなどしない。大きな手で握り締め、全体を擦りたて、裏筋をくすぐり、段差を絞り、先端を抉り。ぐちゅぐちゅと部屋に響く音はもはや口から鳴っているのか下半身から鳴っているのか判断がつかなかった。
意識がぐらぐらと揺れる。快楽を際限なく叩き込まれ、酸素まで奪われた脳味噌は危険信号を発していた。シーツを握って耐えようとしていた手を伸ばし、カラはベッドに突き立てられた手、その袖を握る。布に走る皺は、『握る』というよりも『縋る』と表現する方が相応しい柔らかさをしていた。
「――ッ、あっ! う、ィいっ……、ふ、ぁ……」
弱々しい訴えは伝わったようだ、熱の塊が口腔から去っていく。途端、再び情けない声が飛び出した。口の中までやわくとろけさせられたせいで、熱を煽り立てられたせいで、吐き出すそれは甘さと熱を増していた。口の端が、目の端が冷たい。体液が流れ出ているのだ。昂ぶった身体は声と液で快感を逃そうと必死になっていた――結局、己で己を煽るだけなのだけれど。
「ぇ、んっ、もっ! やめ、ぇ……アッ!」
「だから出しとけって。こんままやめる方がしんでぇだろ」
放り出された足が、剥き出しにされた腹が、弱々しく縋る腕がビクビクと震える。握られた己自身も限界を訴えるように小さく跳ねる。それも全て握る手が押さえつけ、悦楽へと変換させてしまうのだけれど。
はしたなく先走りを漏らす穴を指で何度も擦られる。敏感な先端を強く刺激され、また少女めいた声が飛び出た。惨めでたまらないそれをせき止めるように、また口が塞がれる。今度は浅い、じゃれるようなものだった。それでも昂ぶりに昂ぶった身体には毒でしかない。些細な刺激すらきもちいいものだと誤認する身体はほんの少し擦れるだけでも細い息を漏らした。溢れそうになる唾液を飲み下すだけで、体温が一度上がったように錯覚する。
どうにか繋ぎ止めている意識が揺れる。陰ってぼやけているはずの視界が薄くなっていく。筋肉が痙攣する間隔がどんどんと短くなっていく。限界なのだ。もう内にわだかまる熱を吐き出したくてたまらない。けれども、こんな一方的に責め立てられて吐精するなどごめんだ。常の己ならばそう考えるだろう――けれども、今は常の頭ではない。快楽に支配され、身体の全部がきもちいいことだけを求めているのだ。だから。
「えんっ、でぇ……ぅ、っ…………や、だ」
「出しとけ出しとけ。いーっぱい出して、きもちよくなんな?」
解されやわやわにされた口を精一杯に動かして、カラは限界を訴える。返ってきたのは余裕綽々をそのまま体現したかのような声――そして、更に激しく責め立てる手つきだった。全体を、弱い部分を何度も何度も、好き放題に、好きなところを存分にいじくられる。きもちよくてたまらなかった。何も考えられなくなるぐらい、声を漏らすのがやっとなくらい、きもちよくてしかたがない。快感を絶え間なく注がれた頭はもうどろどろに溶けて使い物にならなくなっていた。本能だけが剥き出しになって、快楽を求める。恋人によってもたらされる快楽を。
ビクビクと投げ出された足が震える。あがる嬌声がどんどんと短くなっていく。袖に縋っていた手はとうに解け、再びシーツの上に投げ出されていた。世界が溶けていく。白くなっていく。なにもかもがなくなっていく。
ぐり、と境目の裏側を親指が擦り立てる。それがとどめだった。
「――ッ、ゥあっ!」
鍛えられた身体が盛大に跳ねる。しなやかな足がつま先までピンと伸びる。放り出された手がシーツをひっかくように動く。衝撃を受け止めたベッドも苦しげな声をあげた。
「ッ、アっ!? いィ!?」
確かに精を吐き出した。やっと呼吸ができると思ったのに、下半身からはまだ凄まじい悦楽が注がれ続けた。痛いほどの、苦しいほどの快楽が脳味噌に更にぶち込まれる。じゅこじゅこと聞こえる音は、手が動きを止めていない確かな証だった。擦られる度に、まだ芯を持った己自身から白濁がしぶいていく。達している証拠だ。だから、いつもならば終わるはずなのに。
「あっ、お、まッ! や、ぁ、ウ……!」
身体が、足が、手が跳ねる。過ぎた淫悦を逃そうと、何度も頭を振る。それでも手は止まってくれない。このまま全部をダメにしてしまいそうな勢いだ。からだも、あたまも、こころも、ぜんぶ。
「ア、ッ、あぁ! むっ、いぃ……ァっ!」
尿道を今日何度目かの精が通っていく。痛みを覚えそうなほどの射精。水滴と大差無いそれを最後に、手は雄の証から離れていった。
何度も詰まっては吸ってを不規則に繰り返していたせいで、呼吸は喘鳴じみていた。口の端が冷たい。目尻が冷たい。腹が冷たい。反して、身体は熱い。頭が熱い。おなかが熱い。外側と内側は正反対の温度をしていた。翻弄されめいっぱい動かしていた心臓が、バクバクと胸を盛り上げそうなほど跳ねて盛大な音をたてる。放り出した手足は余韻に浸るように小さく震えていた。
「これで全部出たかー?」
どろどろになった脳味噌がようやく形を取り戻していく。最初に認識したのは、そんな声だった。どこか抜けた、いつも通りの、腹が立つぐらい呑気な恋人の声。何度もしばたたかせぼやけを振り払った視界には、べとべとになった手を眺めるエンの姿があった。指の先を合わせて擦って、にちゃにちゃと気持ちの悪い音を作り出している。何もかもが腹の虫を刺激する最悪の姿だった。
「っ、まえ……ふざ、けんな、よ……!」
力が入らない足をどうにか動かして、覆い被さる彼を蹴る。『蹴る』なんて言葉は相応しくない、せいぜい『つつく』程度の動きだった。おかげで相手は堪えている様子など欠片も無い。カピカピんなってきた、と手を握って開いてを繰り返して遊んでいるほどだ。
「だってさぁ、出しといた方がよくね? メスイキだけじゃ物足んねーだろ?」
「うるせぇ!」
今度こそ足にしっかりと力を込め、覆い被さる腹を蹴っ飛ばす。今度はきちんとダメージを与えられたようで、鈍い呻きが降ってきた。それでも沸き立つ怒りが払拭されることはない――熱を持った腹が解消されることなどない。欲望を吐き出したというのに、身体の真ん中はまだまだ何かを欲していた。それを口になんてしないけれど。
「んで? お前はきもちよーくなったわけだけど?」
声とともに足を何かが滑っていく。ハーフパンツも下着も全て剥ぎ取られ、下半身はとうに丸裸にされていた。膝裏に熱。同時に、ぐぃと腹が圧迫される。視界の端に己の右足が映った。
「もちろん、終わんねーよな」
問いの形を取った声は、有無を言わせぬものだった。ほぼ同時に、秘められた場所に何かが宛がわれる。まだ細いそれは、『これから』を予見させるには十二分だ。
「……やすませろ。みずほしい」
「やだ。こっちは我慢してんだぞ」
「おめーがかってにやったんだろーが!」
まだ自由な足で脇腹を蹴っ飛ばす。蹴んのやめろ、と悲鳴めいた怒声がしとやかな雰囲気を吹き飛ばしていった。
畳む
帰らぬ日々はおまえと共に【ワイエイ】
帰らぬ日々はおまえと共に【ワイエイ】
盆や正月に帰省しなくて暇だから恋人のところに転がり込む推しカプが見たくてぇ……。ワイヤーグラスくん、気まぐれで実家帰ったり帰らなかったりしそう。
珍しく付き合ってるワイエイだけど相変わらずカプ要素は風味程度。ご理解。
転がり込む男と転がり込まれる男の話。
何故こんなことになったのだろうか。
目の前、フローリングに寝転がる少年を眺めエイトは思考を巡らせる。この数時間で数えられないほど繰り返した問いは、どれだけ頭を働かせても解が出てくることはなかった。
いきなりチャイムが鳴って。チェーンをかけたまま開ければワイヤーグラスがいて。半ば無理矢理中に入られ。何をするかと思えば勝手に本棚を漁り。無言でフローリングに寝転がって雑誌を読み出す。どこを取っても意味が分からなかった。彼が自由――そんな言葉で済ませるにはあまりにも傍若無人であるが――なのはいつものことだが、時期が時期だ。季節は夏も半ば、所謂盆である。ロビーですれ違う者たちは口々に帰省がどうだと交わし、駅は普段以上にごった返している。ロビーの入り口に辿り着くのに苦労するほどだ。皆が皆、賑やかしいこの街を離れていた。己は面倒なので帰らないが。
もちろん、ワイヤーグラスもその一人であるはずだ。チームの面々と会話をしていたのを聞いたのだから確定である。だのに、何故この盆のまっさなかにここに――バンカラ街中央に近い己に部屋にいるのか。実家に帰るはずであろう彼が何故ここに留まっているのか。訳が分からない現実である。
「バックナンバーねぇの?」
紙の束が合わさり音をたてる。音もなく立ち上がったワイヤーグラスは、古いスポーツ雑誌を片手にこちらを見た。へ、と己らしくもない間の抜けた音が口から漏れ出る。
「本棚にあるよ」
「全部読んだ」
取り繕いながら発した声は、鋭利な声に切り裂かれた。彼が持っていた雑誌が床に山になっていた同胞の一番上に音をたてて着地する。種族特有の角張った指が床をなぞるように動いて、雑誌の山を抱える。裸足とフローリングが彼らしくもなく間の抜けた音を奏でた。カラフルな背中の向こう側から本が棚にしまわれていく淑やかな音が聞こえた。
あぁ、と呟くようにこぼし、エイトは廊下へと歩む。玄関にほど近い場所に置いていた段ボールの一つを持ち上げ抱える。週明けに回収に出そうとしていた古雑誌の一部だ。必要な部分はスクラップにしているため歯抜けだが、彼が読む分には十分だろう。そもそも全ては己の私物である。どんな状態であろうが文句を言われる筋合いは無い。
そう、文句を言われる筋合いは無いのだ。こんな突然押しかけて、勝手に棚を漁り、床を占領する輩に我が物顔をされる筋合いなど無いのだ。なのに、何故己はこんなに忠実に動いてしまうのだろう。馬鹿らしいったらない。
「読んだら帰りなよ」
部屋に戻り、段ボールを下ろすとともに言葉を吐く。返事は無い。代わりに、箱が開けられる音が部屋に響いた。ボスン、とめいっぱいに取り出された雑誌が床に着地する。カラフルなニットに包まれた身体が、鍛えられた足がまたフローリングの上に転がった。
はぁ、とエイトはこれ見よがしに溜め息を吐く。あのワイヤーグラス相手にこんな嫌味が通用するはずなどないと分かっている。だが、それぐらいはしないとやってられない状況である。部屋を他人――というには関係は随分親しいものであるが――に占領されて良い顔ができるはすなどない。
幸いなのは、彼の興味が雑誌に全て注がれていることだろうか。これが己に向いていたらたまったものではない。酷暑続きで洗濯物が乾きやすい時分とはいえ、大きなシーツを洗って干すのは面倒なのだ。彼の身勝手でベランダを占領されてはたまったものではない。
赤い目がベッドサイドへと向けられる。背の低い棚の上に置かれたデジタル時計は、まだ昼になって程ない時間であると告げていた。この調子では短くても夕方まで居座るだろう。額のあたりが小さな痛みを訴える。逃がすようにまた重い溜め息を吐いた。
タブレットを手に、エイトも床へと座り込む。律儀に彼が雑誌を読み終わるのを待つ必要など無い。ならば、己も己で普段通り過ごすだけだ。幸いというべきだろうか、昨日は連戦したせいで振り返っていないバトルメモリーが溜まっていた。これを全て見終わり分析する頃には飽きて帰っているだろう――帰ってもらわねば困る。昼ならまだしも夜に彼がろくな行動に出るはずがない。
トレードマークでもあるワイヤレスヘッドホンをタブレットに接続し、専用アプリでバトルメモリーを再生していく。適宜止め、ナマコフォンのメモアプリに注目すべき時間と簡潔なメモを残していく。流して、止めて、書いて、また流して。時折、ヘッドホン越しに紙がめくる音が聞こえた気がした。
二人の時は穏やかに過ぎていく。あのワイヤーグラスといるとは思えないほど静かで、柔らかで、落ち着く時間が部屋を満たしていた。ナマコフォンのキーが鳴らす固い音、雑誌のページがめくられる音、音すら無い呼吸二つ。普段の苛烈さが嘘のような落ち着きが二人を包んでいた。まるで、仲の良い友達のように。長らく連れ添った恋人のように。
バトルメモリーの再生を止める。ふと液晶画面から目を上げると、部屋は濃い影を落としていた。カーテンが開けた窓の向こう、空は目に痛いほどの青から網膜に焼き付くような赤に姿を変えつつある。もう夕方になってしまったようだ。これならば彼を帰すには十分だろう。そもそも、あのぐらいの量ならばもう読み終わっているはずだ。
一人頷いていると、頭に、耳に感覚。つい先ほどまでは無かった子どもの歌声が丸い耳を撫ぜる。へ、と間の抜けた声を発し、思わず上を見やる。そこには、己の赤いヘッドフォンを無造作に掴んだワイヤーグラスの姿があった。人のギアに勝手に触れてきた不快感、一段落したとはいえ作業を途切れさせた怒り、無理矢理剥ぎ取られた混乱。何もかもが胸を逆撫でしていく。唇の端っこが短く痙攣したのは仕方が無いことだろう。
「飯行くぞ」
「は?」
「腹減った」
これ以上無く端的に、これ以上無く言葉足らずに宣言したワイヤーグラスは、エイトの頭にヘッドホンを押しつけてはめこむ。そのまま踵を返し、玄関へと向かった。帰るということだろう。やっと解放される感動に、やっと一人の時間を堪能できる喜びに、エイトは密かに胸を撫で下ろす。気心知れた関係とはいえ、彼に部屋に居座られては安息など無いのだ――無いはずである。先ほどのあの感覚など、全てまやかしなのだ。
「何してんだ」
段ボールの外に出された雑誌をまとめていると、背後から声が降ってきた。身をよじって見上げると、ぬらりと立ち見下ろすワイヤーグラスがあった。表情は逆光になって見えない。ゆったりとしたニットで膨らんだシルエット、ポケットに手を突っ込んだ無頼な出で立ち。どれも圧迫感を覚えるものだ。けれども、耳を撫ぜた声は驚くほど穏やかなものだった。まるで、ただの少年のような。
「きみこそどうしたんだ? 帰るんだろ」
「だから、飯食いに行くつってんだろ。早く来い」
は、と疑問形の息を漏らすより先に、雑誌をまとめていた腕に負荷がかかる。浅黒い腕が加減無く引っ張られ、力がままに無理矢理立ち上がる羽目になった。大きな手が解ける様子は無く、そのまま玄関へと引き連れられていった。早く靴履け、と吐き捨てた彼は、器用に足だけで大ぶりなスニーカーを履きこなした。
どうしてこんなことに。
今日何十回目かの疑問は相変わらず答えが出てくる様子は無かった。
満たされた腹がほどよい心地良さを身体に巡らせてくる。は、と吐き出した息は、温かく穏やかなものだった。ニンニクの香りがするのは余計だが。
「……すまない」
「あ?」
隣、ナマコフォンをいじるワイヤーグラスに尋ねる。不機嫌そうな低い声が返ってきた。あくまで『不機嫌そう』であって、悪しき音ではない。むしろ充足に満ち鋭さを失った響きをしていた。
「今手元に現金が無くてね。代金は次会った時渡せばいいかい?」
部屋から無理矢理引っ張り出された先、彼が足を向けたのはバイガイ亭だった。盆の最中でもある程度余裕がある大型店舗は、すぐさま二人を受け入れた。そこからはワイヤーグラスが全て注文を済ませ、黙々と食べ、伝票を奪取され。何もかもが目まぐるしく、追いつく余裕がないスピードで運んでいき、やっと自由な意思で店を出る今に至る。気にかかるのは、食事代は全て彼が出したということだ。きっと会計でもたもたと二人で財布を取り出すのを面倒くさがったのだろう。否、それ以前に突然引き連れられた故に己は財布を持っていない。それを知っての行動だったのかもしれない。全ては用意する余裕すら与えてくれなかった彼のせいだが。
あ、と心底不思議そうな声が飛んできた。レンズの無い眼鏡の奥の濃紅はきょとりという表現が似合うほど丸くなっている。常は吊り上がった勝ち気な眉は、満腹感に絆されてかいつもより角度を下げていた。
「奢る」
「いや、いいよ。借りは作りたくない」
「今日居座っただろ。その代金と思っとけ」
言葉少なな彼に言葉を返していく。最後に向かってきたのは、彼らしくもない殊勝な言葉だった。へ、と今日何度目かの音が漏れる。ルビーレッドの瞳が先ほどの彼よろしく丸くなる。声をこぼした口は小さく開いたままだった。
彼に『居座った』という認識があるなど露ほども考えていなかった。その上、『代金』だなんて律儀な言葉まで飛び出してくるのだから驚きである。何かの間違いでは無いか、と訝しげな目つきで隣を歩く彼をひっそりと見やる。何だ、と鋭い声が飛んできた。
「いや、きみにそんな感覚があると思わなくてね」
「チームじゃよくあることだ」
ワイヤーグラスはチームを率いるリーダーである。メンバー固定のチーム故、集まる機会は多いだろう。そこに飲食店が挙がるのも当然である。この街はコーヒー一杯で長居しても許される、否、諦められている店が多いのだ。チームリーダーとして代金を立て替えるのは、リーダーらしくはあるが『ワイヤーグラス』というヒトからは想像できない行動である。何せ、理不尽、強引、傍若無人をヒトの形に落とし込んだような姿ばかり見せるのだ、この男は。こんなにいきなり殊勝な姿を見せることなど天地がひっくり返ったような心地だ。
バンカラ街から少し離れた道、少し暗がったそこで足音が一つに減る。目をやると、そこにはこちらを見るワイヤーグラスがいた。緩やかな逆三角形を描く身体は半分捻られてこちらに向ききっていない。きっと、そちらが彼が帰る方向なのだろう。ようやく離れられる。振り回されずに済む。安堵がくちくなった腹を中心に広がっていった。思わず息が漏れ出る。ニンニクの匂いがうっすらと鼻をついた。
「じゃ、明日」
ひらりと手を振り、ワイヤーグラスは身を翻して歩んでいく。大きく速い足取りなこともあり、その背はすぐに闇に消えてしまった。青い頭一つ、古ぼけた街灯に照らされた道に取り残される。は、ともう数えるのが馬鹿らしくなった疑問符付きの溜め息が漏れた。
明日も来るのか。明日も来る気なのか。雑誌はもう読み終わっただろうに。そもそも盆なら実家に帰るべきだろうに。何故己の部屋に居座るのだ。何故いつものように手を出すことなく、ただただ穏やかに過ごすのだ。意味が分からなかった。行動は凪いだものだというのに、胸の内を大時化めいて掻き乱す。理解が追いつかない脳味噌は無駄な回転をするばかりだった。
長い長い思考の末、エイトは溜め息一つ落とす。質量があるならばコンクリートの地面をへこませてしまいそうなものだった。当然だ、キャパオーバーによるフリーズ寸前の脳味噌が疲労を覚えないはずが無いのだから。丸一日かけて掻き乱された心がそう簡単に落ち着くはずなどないのだから。
「……スーパー寄っていくか」
彼は『明日』と言った。明日も来るのである。つまり、明日も食事が必要だ。彼のことだ、今日のように『居座った代金』としてまた奢ってくるだろう。しかし、それは己の意地が許さない。金銭をなぁなぁにされるのは不愉快である。何より、やられっぱなしでいられるわけがなかった。そう何度も外食して、金を使って、彼と二人でいるところを見られてたまるものか。
種族特有のとがった指が慣れた手つきでナマコフォンを開き、電子決済アプリを立ち上げる。ど真ん中に表示された数字は、いつもの倍買っても問題の無いことを語っていた。
二人分一気に作れる料理は何だろうか。カレーはあまりにも多い。スープでは腹の足しにならないだろう。ならば、炊いた米と焼いた肉か。己一人ならともかく、ヒトに振る舞うのだから手早く作れるレシピを探さねばならない。カコカコと鳴き声をあげながら、ナマコフォンは持ち主の指示通りの情報を液晶画面に並べていった。サムネイルと少しだけ表示されたページ内容を頼りに、レシピを漁っていく。何故こんなことに、という疑問ははたき落として頭の隅に追いやってしまう。
けぶるように暗い道、底の薄い靴が薄ぼけたコンクリートを叩いていった。
畳む
静かに重ねて【ヒロニカ】
静かに重ねて【ヒロニカ】鼻歌に鼻歌重ねるいたずらっ子ニカちゃんが見たかっただけ。いたずらっ子ニカちゃんはもっと存在してもいい。
バトルメモリーで反省会するヒロニカの話。
目の前の端末、鮮やかな色を映し出していた画面が薄暗くなる。バトルメモリーの再生が終わった証に、ベロニカは小さく息を吐く。今しがたまで見返していたのは僅差で敗北を喫したバトルのそれだ、己の不備や改善点を洗い出していく作業はなかなかに苦しく、骨が折れるものだった。けれど、時間を掛けて分析した確かなる結果は手元に、頭にしっかりと残っている。改めるべき行動が、次の勝利に繋げるための立ち回りが、確かなる強さに繋がる経験が。
カコカコとボタンを操作し、アプリを落とす。動画の代わりに待ち受け画面に表示された時計は、まだ夕方にも差し掛からない時間であることを語っていた。昼ご飯を遅くに食べたのもあり、大食らいの腹はまだ大人しく黙ったままだ。手土産としてつまめる菓子を持ってきたものの、活躍する番は少し遠くだろう。
また一つ息を吐き、少女はワイヤレスヘッドホンを外す。細くシンプルで圧迫感の少ないデザインといえど、重みを失うとやはり解放感を覚えた。防護壁を失った耳をくすぐるエアコンの冷たい空気にぶるりと身を震わせる。細い身を折ってしまわないように注意を払いながら、愛用しているそれを膝の上に乗せた。
微かな音が耳を撫ぜる。何だろう、と黄色い目が部屋の中を見回す。音の発生源は斜向かい、ローテーブルの前に座ったヒロだった。どこか鋭さを増した赤い目は抱えたタブレットに一心に注がれている。彼もバトルメモリーを見返しているのだろう。手にしたスタイラスペンが画面を擦るのが見えた。
聞こえる音は真剣そのものの目元からは想像できないほど微かで、柔らかなものだった。鼻歌だ。ほんのりと高い音色が、最近注目を集めているユニットの新曲をなぞっていた。
ヒロは時折鼻歌を歌う。それも無意識なようで、指摘したり自分で気付くと顔を赤らめてすぐに止めてしまうのだ。彼の少し細くて、いつもよりちょっとだけ高くて、どこか可愛らしい音色は好きだった。だから、最近では指摘するのは控えている。好きなものが聞けなくなってしまうようなことを行うほど己は馬鹿ではない――それに、自分で気付いて恥じらう彼の表情は可愛らしいのだから。
爽やかで、けれども確かなる力が宿ったメロディが部屋に漂う。気付かれぬようナマコフォンをいじるふりをしながら、ベロニカはその音色に耳を傾ける。無意識ながらも興が乗っているようで、音は次第に大きくなっていく。愛らしい音が邪魔者を失った耳を満たしていく。
ふと、頭の隅っこで何かが声を発する。ひそめいたそれは、まだ幼さを残す心をくすぐるものだった。少女の口元が緩い孤を描く。蒲公英色の瞳がわずかに細くなった。浮かんだ表情は、まさしくいたずらっ子のそれだ。
口を閉じたまま、ベロニカは喉を震わせる。開放されるべき場所が閉じられた音は、鼻へと抜けて形となった。部屋に流れる少年の鼻歌に、少女の鼻歌が重なる。メインメロディに沿うようなその音色は、美しいハーモニーを奏で出した。密かなその合奏が心地良い。二人で奏でるというのはなかなかにいいものだ、と心の中で小さく笑みを漏らした。
いつしか、音は止んでいた。息が吐き出される音。ペンが置かれる音。プラスチックが擦れる音。机の上に赤いヘッドホンが転がった。どうやらバトルメモリーの分析が終わったようだ。
「あれ、珍しいですね」
「んー?」
きょとりと丸くなった彼岸花の瞳がこちらを見る。見つめ返す菜の花の瞳は依然細くなったままだ。三日月を描いて、少年を見る。何も知らない少年を。
「ベロニカさんが鼻歌歌うことってあんまりないでしょう?」
「たまにはやるって。こないだの新曲良かったしさ」
「あぁ、いいですよね」
不思議そうな色をしていた丸い目がキラキラと輝き出す。ヒロは音楽が好きだ。ギアとしての性能ももちろん考えているが、それでも数多のギアの中から大ぶりなヘッドホンを選んで常に身につけるぐらいには音楽に身を投じていた。バトルだけでなく、曲でも語りあかせる彼との関係は最高の一言に尽きる。
「爽やかな雰囲気が歌声に合ってますよね」
「そうそう。それに楽器の主張がどれも細いようでちゃんとしててさ。かっけーよな」
「いいですよねー」
また新曲出ると嬉しいのですが、とヒロは呟く。流行ってんだから出すって、とベロニカは笑う。語る彼は普段通りの姿だった。つまり、鼻歌を歌っていたことに気付いていない。己がそれに重ねていたことも。
少女は小さく笑みを漏らす。成功した秘密のいたずらは、好きな人と歌う独り占めの幸福は、これ以上無く胸を満たしていた。
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#Hirooooo #VeronIKA #ヒロニカ