No.185, No.184, No.183, No.182, No.181, No.180, No.179[7件]
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
マキシマ先生のハロウィンボイスに脳を焼かれた結果がこれだよ。たすけてください。先生におませさんって言われたい。
死ぬほど資料漁ったけど口調あやふやだし元からマキシマ先生に死ぬほど理想と夢を見ているオタクなので色々と色々。
マキシマ先生が生徒とハロウィンを過ごす話。
今日もボルテ学園の校門は賑わいを見せていた。下校時間を過ぎた今、多くの生徒が帰路に着こうとゲートへ歩みを進めている。だが、今日この時に限っては歩みを止めている者も多い。特に初等部の幼い子どもたちは、ゲートから逸れて走っていっている姿が見受けられた。彼女らが向かった先からは、きゃいきゃいと可愛らしい声が溢れて広がっている。楽しげで嬉しげな、聞いているだけで胸が温かくなるような響きだ。
少年少女の中心は青で染まっていた。否、青い身体をした男性がいるのだ。子どもたちの倍以上はある体躯は筋骨隆々と表現するのが相応しい、丹精込めて鍛え上げらたことがひと目で分かるものだ。着衣を最小限で済ませていることもあり、美術品がごとく仕上げられた肉体は惜しみもなく晒されている。筋肉の陰影を深く刻んだ肌はきらめいて見えるほどつややかで、まるで朝露をまとっているようにすら見える。そこかしこに細かな傷は残っていれど、それすらも作品の一要素であるかのように堂々としていた。
「Foooooo! みんな、ちゃんと並ぶんだゾッ☆ 先生もお菓子も逃げないからネーッ!」
自身を『先生』と称す男性――ボルテナイザー・マキシマは、まるでポーズを決めるように両手に下げた袋を高く持ち上げる。白いそれの縁から小さな飴がいくらかこぼれ落ちる。ビシリと決めた身体に、溢れ出るほど菓子がある様に、きゃあきゃあと可愛らしい歓声があがった。
秋晴れを空風が飾る本日は十月三十一日、所謂ハロウィンである。自由な校風で有名なボルテ学園は、今日一日菓子といたずらのせめぎあいでどこもかしこも普段以上に賑やかだった。いたずらを仕掛ける者、菓子で武装し自衛する者、イベントにかこつけて菓子を食べる者、いたずらを返り討ちにせんと闘う者。学園中がハロウィン一色である。サプライズと称して教師が盛大ないたずらもとい改造を仕掛けるほどだ――別の教師にしこたま怒られていたが。
ボルテナイザー・マキシマもハロウィンを楽しむ一人だった。生徒からはいたずらを仕掛けられ、躱し、菓子を与え、菓子をもらい、と一日をこなしてきた。授業が終わった今は、初等部の生徒を中心に菓子を配っているところだ。生徒にハロウィンを楽しんでもらいたい。そんな教師としての思慮が見える姿であった。肝心の子どもたちは菓子に夢中でハロウィンなんてことは忘れている様子だけれど。
「せんせー!」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
子どもたちの中に星空まとう兎が飛び込む。初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らもハロウィンを楽しんでいるのだろう、片手には菓子がたくさん詰まった袋を抱えていた。それに隠れたハーフパンツのポケット部分は、不自然なほど膨らんでいる。何が入っているかなど、彼女らを知る者にはすぐさま理解できる。そして、理解と同時に逃げ出すだろう。初等部の双子兎は仲の良さだけでなくいたずらっ子としても有名なのだ。
「ニアGIRL! ノアGIRL! ハッピーハロウィーンッ!」
彼女たちと親しい――つまりは彼女たちの性格をばっちりと知っているというのに、マキシマは逃げることなく笑顔を浮かべていた。大きく開いた口からは、学園の外にまで響き渡るような声が弾け出る。綺麗に生え揃った白い歯が秋の穏やかな日差しを受けて輝いた。
「勿論、二人にもお菓子を用意してるゾーッ!」
袋を持った両手を器用に操り、マキシマは二つの包みを取り出す。市販の、けれども子どものお小遣いで買うにはちょっと手が届かない、程よい甘さとよく詰まった生地で評判のマドレーヌだ。透明な袋に入れオレンジのリボンで飾られたそれは、まさにハロウィンに相応しいものだ。菓子の登場に、双子兎の目が輝き出す。わー、と元気な声があがった。ありがとー、と元気な礼とともに、ニアは長い袖で隠された手を菓子へと伸ばす。ニアちゃん、と妹は姉の脇腹をツンツンと突いた。笑顔満面に彩られた目がハッと開き、腕がすぐさま引かれていく。そんな不自然な動きをしているというのに、マキシマは全く気にせず二人をにこやかに眺めていた。
「せんせー? あのね?」
「ニアたち、お菓子じゃなくていたずらがいいなー」
二人の顔は依然笑みで飾られていた。けれども、目の奥に輝くのは喜びのきらめきではなく意地悪気な影を落としていた。真ん丸な目が弓張月のように、小さな口が三日月のように弧を描いて笑顔を浮かべる。可愛らしいはずのそれは、瞳に宿るもののせいでどこか不穏な雰囲気をまとっていた。手を隠す長い袖が柳のようにぷらんぷらんと揺れる。それが膨らんだポケットに辿り着く前に、二人の額に何かが触れた。
「先生にいたずらがしたいーッ? このお・ま・せ・さ・んめッ☆」
双子の額にちょんと触れたマキシマの指に、ほんのわずかに力が込められる。離れさせるようにちょいとつつかれ、ビタミングリーンの耳がふわんと揺れる。わわっ、と兎たちは慌てた声を漏らした。
「ダメかー」
双子は揃って声をあげる。どこか晴れ晴れとして弾んだ調子なのはきっと気のせいではないだろう。いたずらめいた輝きが消えた瞳が、普段通りゆるりと口角を持ち上げた可愛らしい口元が、いたずらが失敗した彼女らの心を語っていた。
「じゃあ先生。改めてー」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
「Hmm……。じゃーあー……先生はTreatを選ぶゾッ!」
持っていってねッ、とマキシマは彼女らの手の上に先ほどの菓子を載せる。ありがとー、と元気な声が二つ重なった。
「マキシマ先生ー!」
菓子片手に駆けていく双子兎を見送るマキシマの背に鋭い声が飛んでくる。名を呼ばれ、教師はいつも通りの爽やかを通り越して暑苦しい笑みを浮かべたまま振り返った。彼の目元を覆うバイザーに赤が映る。小さかったそれはどんどんど大きくなり、すぐさまその足元まで追いついた。昇降口から校門前ゲートまでの短い距離を走っただけだというのに、声の主はゼェハァと大袈裟なほど息をこぼす。疲労で俯いていた黄色い頭がバッと上がり、同時に日に焼けていない白い手が突き出された。
「菓子配ってるって聞きました! ください!」
「魂! みっともないよ!」
ねだり叫ぶ少年――赤志魂の後ろから、青雨冷音が叫んで走って寄ってくる。走って少しだけあらわになった目元は見開かれ、焦りと羞恥でわずかに色づいて見えた。一心不乱にマキシマを見つめる腐れ縁の首根っこを掴んだ彼は、ぐっと力を入れて引き剥がす。菓子一直線の少年は踏ん張って堪えた。この調子では菓子がもらえるまで動かないことぐらい、誰にだって理解できる。
「魂BOYもハッピーハロウィーンッ! HAHAHA、元気なのはいいことだゾーッ」
はい、とマキシマはまっすぐに突き出された魂の手に菓子を載せる。ありがとうございます、と普段の彼からは想像できないほどの声が辺りに響いた。
「すみません……」
「そこまでして欲しいもんなの……?」
はしゃいで菓子を眺める少年の後ろで、冷音は縮こまって謝罪の言葉を漏らす。その後ろから疑問の言葉が飛んでくる。彼らの友人である不律灯色だ。授業のほとんどを寝て過ごしていると噂される彼は、いつもと同じ眠たげな目で菓子を手にはしゃぐ魂を眺めていた。
「イベントは楽しむものだゾッ☆ 冷音BOY! 灯色BOY! お菓子といたずらどっちにするッ?」
三人の様子を気にすることなく――否、むしろ申し訳無さそうに縮こまる冷音を気遣うように、マキシマは普段通り呵々大笑する。彼の大声量を聞き慣れた少年は、ホッとした様子でリュックサックのショルダーベルトを握っていた手を緩めた。この大音量を間近で聞いているというのに、灯色は眠たげどころか寝ているかのように瞼を下ろしている。
「お、お菓子でお願いします……」
ゴソゴソとリュックを漁る冷音の目の前に、ビニール袋に包まれた菓子が差し出される。ありがとうございます、と少しつかえつかえになりながら、青いパーカーに包まれた手がこわごわと動いて受け取る。ハッピーハロウィーン、とまた大声が空に昇っていった。少しだけ晴れやかになった表情に、薄く笑みが浮かぶ。これでは反対じゃないだろうか、と出そうになった疑問は喉の奥に押し込めることに決めたようだ。
「灯色BOYはいたずらかなッ?」
「お菓子だよ……さっさとちょうだい……」
問うて構える――もちろん冗談だ――マキシマに、灯色は呆れ返った声であしらう。けだるげに差し出された生徒の手に、教師は先ほどと同じ菓子を載せた。今にも閉じてしまいそうな目が手の中にあるマドレーヌを見つめる。またこれか、と言いたげな瞳をしていた。ふぅん、と少年は小さく鼻を鳴らす。
今しがた灯色に渡されたマドレーヌは、よくマキシマが彼に与えるものだった。まだ学園にやってきて日の浅い頃、迷い子だった少年はこれをよく食べた。いっとう好んでいるわけではない。ただ毎回それだけ数が多いから、バランスよく数を減らそうと選んで食べただけだ。しかし、マキシマにはそれが『灯色が好むもの』として映ったらしい。彼は時たま差し入れにこの菓子を少年に渡すのだ。否定するのも面倒だから、と灯色は語る。けれども、彼にとってこの菓子はまだ未発達の心の中の『思い出』のひとつとして鈍い光を灯すものであるのは確かだった。
せんせー。ありがとー。さよならー。またあしたー。幼い声がゲート前に響く。時折少女の声や少年の声も混ざる。もちろん、その中でひときわ響いて輝くのはボルテ学園英語教師――誰よりも生徒を思い行動するボルテナイザー・マキシマの声だった。
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あんたに編み込んで【ヒロ←ニカ】
あんたに編み込んで【ヒロ←ニカ】
ハッピーハロウィン(フライング)(明日の体調が怪しいため)
キョンキョンぼう可愛い! そういやこれ三つ編み付いてんすね! お揃い! とかそういう単純な思考による単純な話。都合の悪いところは都合の良いように勝手に捏造してる。
ハロウィンギアが気になるベロニカちゃんハロウィンギアに興味津々なヒロ君の話。
前後に付けられた大きな装飾を横に避け、丼をひっくり返したような帽子を被る。そのままくるくると回して正しい被り方をする。不思議なことに、顔の真ん前に配置された大きな厚紙は透けて向こう側がはっきりと見えた。おぉ、とベロニカは思わず感嘆の声を漏らした。どういう仕組みか分からないものの、こんな顔を隠すようなデザインでしっかりと視界が確保できるようになっているのは驚きだ。見た目を最優先した機能性の低いギアだと思っていたが、そうではないようだ。
「前見えますか?」
「見える。すげーわこれ」
尋ねる声に急いでそちらへと顔を向ける。透ける札紙の向こうには、どこか心配そうな顔をしたヒロがいた。やはり視界の確保への懸念が大きいのだろう。そんな表情を振り払うように弾んだ声を、恥ずかしながら弾んでしまった声をあげる。それでも信じられないのか、送られる視線はまだ訝りを残していた。
「ヒロも被ってみろよ。すげーんだって」
被ったギア、キョンキョンぼうを脱ぎ捨て、目の前の青い頭へと載せる。うわ、と短い悲鳴があがった。怯んだように屈んだ頭を見下ろしながら、帽子の位置を調節してやる。こわごわと上げた顔からは次第に猜疑の色が消え、高揚にも似た感動の色が広がっていく。赤い瞳は感情を表すように大きく丸くなっていく。口元は小さく開き、はわぁと小さな溜め息が落ちた。
「ちゃんと見えるんですね。どういう仕組みなんでしょう」
「何なんだろうな。こっちから見たらただの紙なのに」
眼前に取り付けられた厚みのある紙をいじくりながら少年は呟く。少女も不思議そうに前から横からと覗き込んだ。やはり何度見ても正面からでは達筆すぎて読み下せない文字書かれたただの厚紙だ。けれど、横から見るとうっすらと前が透けて見える。きちんと被って見た結果は先ほど十二分に味わった。普通の紙のように見えるが、何か特殊なものなのだろうか。知的好奇心が年頃の少年少女をこれでもかとくすぐって、あちらへこちらへと動かした。
横から紙を眺める黄色い目がすぃと動く。レモンの瞳に映るのは、ギアの背面に付けられた装飾だ。背の半ばまであるそれは、三つ編みにされた髪のようなものだった。かっちりと編み込まれた様子は縄を思い起こさせる。前に取り付けられた札も大概意味が分からない装飾だが、こちらも何のためにあるのかが全く分からない。下手をすればバトル中どこかに引っかけてしまう危険性があるのだから、実用性を下げるものである。先ほどのような配慮はあれど、やはり見目を最優先したギアのようだ。
そういえば、とベロニカは記憶を辿る。インクリングはゲソを気合いを入れて伸ばし、前に垂らした三つ編みにしている者がいる。己もその一人だ。しかし、オクトリングがそのようなヘアスタイルをしているのは見たことがなかった。彼らの多くは長いゲソ――オクトリングは『ゲソ』ではないと目の前の友人に教えられた覚えがあるが――を分けて下ろしているか、簡単に結っているかがほとんどだ。
気合いを入れればゲソは伸ばすことができる。けれどもそれをしないのは何故なのだろう。バンカラ街のオクトリングもまた『イカした』ことに力を注いでいるのに、何故ヘアスタイルには無頓着なのだろう。インクリングとオクトリングはトレンドが違うのだろうか。いや、ロビーに広げっぱなしにされていた雑誌ではどちらも同じように扱っていた覚えがある。では、何故。
疑問と好奇心で埋め尽くされた少女の心は、容易く身体を動かす。角張った手が伸び、後ろに垂れた三つ編みの装飾を避け、背へと流れる青いゲソに触れる。先が緩やかにカールしたそれは、冷房が切られてぬるいロッカールームの中でもひやりとしていた。耳の後ろ側、太い部分に這わせた指をゆっくりと動かしなぞる。先端に辿り着いたところで、年頃の少女にしては硬い指が躊躇いがちに泳ぐ。しばしして、ゆるくうねったそれをしかりとつまむ。そのまま、ぐっと下に引っ張った。
「いった!」
瞬間、目の前で悲鳴があがる。形が良いブルーの頭がぐっと後ろに傾く。バランスを崩した帽子が揺れ動き、そのまま床へと落ちた。わっ、と思わずこちらも声をあげる。
「すまん!」
「一体どうしたんですか……?」
即座に手を離し、ベロニカは悲鳴と同じぐらい大声で謝る。ゲソを引っ張られた当人は、己の愚行に怒ることなく問いかけるだけだ。動揺をあらわにした声は、本当に状況が理解できていないことを如実に表していた。
「これ、後ろ三つ編みになってんだろ? オクトリングも気合い入れて引っ張ったら三つ編みにできねーのかなーって」
しょぼくれた声で答えを返す。この有様では返答ではなく言い訳にしか聞こえなかった。事実そうであるのだけれど。あまりにもイカしてない、みっともない、子どもそのものの行動だった。今になって羞恥と後悔が湧き起こってくる。何より、彼に危害を与えてしまったのが大問題だ。普段から世話を焼いてくれる優しい友人を衝動的な好奇心で傷付けるなど馬鹿にも程というものがある。
あぁ、と少年は納得した声をあげる。そこにうすらと笑みを含んでいるように聞こえたのは、きっと気のせいなんかでないだろう。当たり前だ、こんなガキくさいことをして笑われない方がおかしいのだ。
「オクトリングはインクリングに比べて触手の本数が少ないですからね。三つ編みはよっぽど頑張らないと難しいんじゃないでしょうか」
「あー……、本数は気合いじゃどうにもならねーもんな」
インクリングの頭部にあるゲソは六本だが、オクトリングのそれは四本だ。目の前の頭を見るに、それも左右に二本ずつ分かれた配置をしている。己たちのように気合いで伸ばしたとしても、アンバランスになってしまうだろう。
種族差によってヘアスタイルに違いが出てくるとは。なるほどなぁ、とベロニカはこぼす。目の前のヒロは、事態を飲み込めていないのかきょとりとした顔をしていた。
「できたらいいのにな。三つ編み似合いそうだし」
指を伸ばし、今度は顔の脇にある一本に触れる。ゲソの持ち主はびくりと身体を震わせた身を引いたが、すぐさま平常通り、何でもないという風な顔でこちらを見た。怯えさせてしまった事実に、また胸を悔恨が掻き混ぜて黒く染め上げていく。全ては自分が悪いのだけれど。
取れてしまった帽子に、無くなってしまった三つ編みに、心臓を撫でるように風が吹いていく。うっすらと、けれども確かに冷たいそれには覚えがある。ダイヤの乱れで待ち合わせの時間に会えない改札口。合流のタイミングを見誤って先にバトルに行かれてしまったロビー。予定が合わずしばしの間戦えない連絡が来た床の上。そんな時はいつだって冷えた何かが心の臓を這っていくのだ。
今は目の前に彼がいる。ギアの試着を終えれば、ナワバリバトルに繰り出す予定だ。なのに、何故こんな気分になるのだろう。少女は目をしばたたき、小首を傾げる。胸のあたりを撫でてみるが、依然として冷たさは消えなかった。
「せっかくのハロウィンですし使ってみたいですけど、ヒト速……ヒト速かぁ……」
「あたしもどうすっかなー」
ブツブツと呟くヒロに、ベロニカも難しそうな声を返す。ヒト速はトライストリンガーと相性は悪くないものの、今から普段通りのギア構成になるようにコーデを組み直すのは骨だ。自分の趣味嗜好を考えるに、使うとしても今回のハロウィン特別フェスが最初で最後だろう。そのために新しくコーデを考えるというのはどうにも面倒くささが勝つ。
悩ましげに眉を寄せ、いつの間にか拾った帽子を睨みつける友人を見やる。.96ガロンを扱うヒロにとって、ヒト速であるこのギアを採用するのは難しいだろう。.96ガロンはヒト速の効果量がそれはそれは低いのだ。わざわざ活かせないものに枠を割くのは非合理的である。それを分かっていても悩むほど、彼はこれに惹かれているようだ。
帽子に取り付けられた三つ編みが揺れる。三つ編み。オクトリングにはできないヘアスタイル。オクトリングである彼ではきっとずっと見られないヘアスタイル。
「……ま、いっか」
少女は小さくこぼす。は、と吐き出した息は、胸中の混迷具合と正反対に軽い響きをしていた。
今さっき見れたじゃないか。たとえギアの装飾とはいえ、三つ編みを下げた姿が見られたじゃないか。違うヘアスタイルをした彼が見れたじゃないか――己と揃いのヘアスタイルにした彼が見れたじゃないか。
吐いた途端、ぐちゃりと渦巻く感情が吹き飛んで消えていく。冷たいものが撫でていた胸に温度が戻ってくる。むしろ、温かさを覚える何かが胃の腑に落ちた気がした。
「どうしました?」
問われ、ベロニカは視線を前に戻す。そこには、今一度ギアを被ったヒロの姿があった。後ろに偽物の三つ編みを垂らした彼の姿が。
ふっと思わず笑みを漏らす。口元が緩む。とくりとくりと心の臓が普段よりも大きな駆動音を鳴らし始めた気がした。どれも不可解だ。けれど、どれも心地よさがあった。
「どうせなら写真撮っときゃよかったなって」
「さすがに勘弁してください」
ニカリと笑う少女に、少年は笑って返す。ギアを取り扱っている今、どちらの手元にもナマコフォンは無い。冗談と言うことは分かりきっていた。そもそも、彼が写真の類をあまり得意としていないことはよく知っている。珍しいコーデをしていようと、不躾にカメラを向けようだなんてことは一つも思わなかった。互いに冗談だと分かっているからこそ、笑みを交わせるのだ。
「作るだけ作ってみっかなぁ」
貸していたギアを眼前の頭からひょいと取り、ベロニカはスロッシャーのように指先でくるくると回す。インクの色に染まった長い三つ編みも一緒に回った。ぺちぺちと身体に当たるのが鬱陶しく、すぐにやめて胸を隠すように持つ。前から見ると相変わらず不透明な札が少女を見上げた。
「使うならこっちでしょうか」
そう言って少年が取り出したのは、不気味の一言に尽きる仮面だった。ヒトの顔に似ているようで、出っ張っている額や顎がヒトならざる者だと語っている。要所要所に開けられた穴たちや、矢印のような赤い模様が更に不気味さを加速させていた。
「何だそれ」
「『ホッケかめん』だそうです。ホッケ……なんでしょうか?」
裏表を確認していたオクトリングの手が止まる。そのまま両手を側面に当て、かぽりと顔に被せた。顔面全てを覆う仮面により、一瞬にして顔も表情が失われる。目元だけがうっすらと透けて見えるのが、どこか滑稽だった。
「……似合ってんじゃね?」
「似合うとか似合わないとか、そういうギアじゃないと思いますけどね」
軽口を叩き合い、二人でクスクスと笑い合う。ハロウィンまであと少し。
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緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
ハッピーハロウィン(フライング)(内容的にフライングしないといけない)
ハロウィンだしボルテ学園は色々企画してそうだなーって感じでどうにかこうにか。毎度の如く捏造しかないよ。
ジャック・オ・ランタン眺める嬬武器兄弟の話。
リビングに続くドアをくぐり抜けると、三角吊り目と目があった。
丸っこい身体、もとい顔は深い緑と橙がまだらに散り、室内照明を受けてデコボコとした表面があらわになっている。三角の双眸は底見えぬ暗さだ。歪な口元も、目と同じほど底が見えない闇を奥に隠していた。けれども記号化された顔つきはコミカルで、愛らしさも感じさせる――リビングの机の上に一人鎮座しているのは不審極まりないが。
「おかえり」
キッチンから声。見ると、マグカップを手にした雷刀の姿があった。黒いTシャツを背にしたそれは、中身を淹れたばかりなのかほのかに湯気が見える。冬色をした手元と少しだけ厚みのある半袖とはちぐはぐだ。飲み物で暖を取る前に上着でも羽織ればいいのに、と考えてしまうのは当然だろう。今はそんなことより言うべきことがあるが。
「ただいま。何ですかこれ」
挨拶は欠かすことなく、けれども何よりも先に烈風刀は問う。このオブジェは朝の時点では影すら見ていない。今日、己よりも一足先に帰宅した兄の手によって持ち込まれたのは明白だ。
「そりゃ、かぼちゃだろ」
「分からないとでも?」
「ごめん」
茶化した風に答える朱に、碧は眇めて短く言う。すぐさま謝罪の言葉が飛んできた。互いに、言葉に反して声も口ぶりも軽い。秋風に晒され結ばれた口が解けていく心地がした。
「放課後おっさんがジャック…………えっと、かぼちゃランタンの教室やっててさ」
あぁ、と弟は思わず声を漏らす。先日、美術教師であるライオットが『ワークショップを行うので規格外のかぼちゃをいくらか売ってくれないか』と訪ねてきた記憶がよみがえったのだ。
植物も生きている以上、化けて大きくなりすぎたものや逆に他個体に栄養を奪われ小さくなってしまうものもある。味やサイズの問題で販売には回すことができない個体はどうしても生まれてしまうのだ。加工販売にまでは手が回っていないのもあり、堆肥にするなどして処分するしかない現状である。それを引き取ってくれるなど、しかもワークショップで活かしてくれるなど、こちらとしても喜ばしいことだ。日頃の付き合い――特に、あの時畑を引き継いで面倒を見てくれた人だ――もあり、無償で譲ったのだった。予備が必要だろう、と理由をつけて少し余計に引き取ってもらったのは秘密だが。
なるほど、今日がそのハロウィン特別企画ワークショップの実施日だったらしい。校庭の方から機械の駆動音や子どもたちの高い声が聞こえたのは、きっと制作の真っ最中だったからだろう。
「一番でっけーの作らせてもらった!」
「よく彫れましたね……」
目測でも両手でやっとどうにか持てるほどの大きさだと分かるほどである、化けてあまり身が詰まっていないものだろう。にしたって、かぼちゃの皮は硬くて厚い。これほどのサイズならば包丁は確実に通らず、彫刻刀でも貫通させられるか怪しいほどだ。目を一つ彫るのでも一苦労であるのは容易に想像できる。だというのに、中身はしっかりくり抜かれているのは目口の奥の闇からよく分かる。三角の目もジグザグの口も、切り口はナイフで削ったのか綺麗に整えられている。放課後の短時間でよく作れたものだと感心するほどの出来だ。
「おっさんが結構手伝ってくれたしな。こう、チェーンソーでヂューン! って」
謎の擬音とともに、兄は腕で空気を横薙ぎにする。きっとチェーンソーを操るライオットを真似しているのだろうが、その動きは明らかにランタンの形状を作り上げるには大袈裟で大雑把すぎる。そもそもこの手のものを作るにはチェーンソーよりも電動ドリルの方が相応しいのではないか。いや、最終的に立派な物が出来上がっているのだからいいではないか。思考を重ねて、喉から出そうになる言葉をどうにか押さえつけた。
「中にろうそく入れんだって。やろーぜ」
ほらほら、と雷刀はどこからかろうそくとライターを取り出した。左手に握られたろうそくは持ち主の髪よりも更に鮮やかな赤で、高校生の拳で握って尚はみ出るほど長く太い。明らかに仏壇に供えるためのものだった。かぼちゃはかなり大きいものの、さすがに入るのかと不安が浮かぶ。でかければでかいほどいい、と彼は何においてもよく言っているが、そろそろ適材適所という言葉を覚えるべきである。
テーブルに敷いた大判ラップの上に置かれたかぼちゃが持ち上げられる。台座を買い忘れたのか、雷刀はテーブルにろうそくの底面をぐりぐりと擦りつけるようにして底を広げていく。かなり無理に潰して立たせ、倒れないようにそっと火を点けた。食卓の上だけが更に明るさを増す。それもすぐさまオレンジの中に消えた。トトトと弾んだ足音に続いてパチリと軽い音が鳴った途端、部屋は闇に包まれる。しかし、目の前だけは穏やかな光で照らされていた。おぉ、とどこか上擦った声が二つ部屋に落ちた。
中のろうそくが大きいためか、直線で構成されたの顔から漏れる灯りははっきりとしたものだ。直視しては眩しいだろうが、かぼちゃで覆われることで輝かしい光は和らいでいる。LEDではなく炎だからだろうか、普段よりも柔らかな色をして見えた。
「いいじゃん」
「綺麗ですね」
何故だか二人ともひそめて言葉を交わす。まるで声と息に合わせるかのようにランタンの中で炎が揺れた。このまま消えてしまうような、消してしまうような心地に思わず口を噤む。兄もそうだったようで、隣から音が消えた。聞こえるのは、ほんのわずかな呼吸の揺らぎだけだ。
ゆらゆらと炎が揺らめく。室内だから風なんてものは無いのに、何もかも静止していて動くものは無いのに炎は揺らめく。まるで命が宿っているようだ、なんてメルヘンじみた錯覚に陥る。そういえば、ジャック・オ・ランタンは死者の魂が関わるものだとどこかで聞いた気がした。死者の魂。音も無く揺れ動くもの。見えないもの。
パチン、と軽い音が静かだった部屋に落ちる。ぶわりと光が部屋を満たす。気付けば、部屋の電気は点けられ、目の前のランタンは持ち上げられ中身のろうそくが消されたところだった。
「キレーだったな」
「……えぇ、とても」
ろうそくの後処理をしながら雷刀は笑う。烈風刀も遅れて首肯する。声帯が普段以上に震えたのは、きっと気のせいではない。
どうやら引き込まれていたのは自分だけだったようだ。滅多に味わわない炎の揺らめきとかじった程度のあやふやな知識が悪い方向に意識を引っ張っていったらしい。こんなのまるっきり子どもではないか、と内心自嘲する。兄のことを笑ってなどいられないほど己も単純な部分があるのだから嫌になる。
ぐっと目を瞑り、ぱっと開ける。目の前にはあの光は無い。ただ、かぼちゃとにらめっこする兄の姿があるだけだ。
「……これって食えんの?」
「一応食用の品種ですけれど……、化けているからあまり美味しくないと思いますよ」
「そっかー」
もったいねーけど捨てるしかねーか、と雷刀は唇を尖らせる。かぼちゃは表情を変えること無く、にらめっこを続けていた。
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どれにせよ腕は死ぬ【新3号】
どれにせよ腕は死ぬ【新3号】
久しぶりにヒロモやったら序盤でパブロ振らせるミッションあることに気付いて宇宙猫顔になったので。いやこんな序盤にパブロをオススメするの正気か? 初心者に時間制限付きステージでパブロ振らせるとか正気か?
肉体の限界を試される新3号の話。
どぷんと液体が湧く音。べしゃりと固体が落ちる音。ヤカンの金網から吐き出された黄色は、白い地に放り出されて転がったまま動かない。相棒の生死を確かめるようにコジャケが駆け寄り、その鮮やかなイエローの髪をつつく。三度触れて動かぬことを見て、何とも表現しがたい鳴き声が固い嘴から漏れる。そのまま、全てを呑み込まんばかりに大きく口を開けた。
「食えないっつってんでしょ」
地面に放られた手が素早く動き、持ち上がった上顎を掴む。そのまま、力強く引き寄せ、持ち上げ、大きく空に放り投げた。言語化しがたい鳴き声と丸い体躯が液晶が作り出す蒼天へとまっすぐに昇っていった。
はぁ、と嘆息し、インクリングは再び地を転がる。ヒーロスーツに包まれた腕はまだ熱を持っていた。じんじんとこもる熱も、ずぐずぐと疼く痛みも落ち着く様子がない。また溜め息。少女は端末を開き、イカの姿に戻りキャンプ地へと飛び立った。
「おかえりー!」
降り立ちヒトの形へと変わると、元気な声が飛んでくる。爽やかで弾けるような明るさに、少女は目元を険しくする。気付かないのか、気にしていないのか――おそらく前者だ――一号と呼ばれるインクリングはぶんぶんと手を振った。
気にも留めず、黄髪の少女は歩みを進めキャンプ地の隅へと腰を下ろす。いつの間にか戻ってきたのか、相棒のコジャケがこちらをじぃと見上げていた。何も無いわよ、と手の甲を向けて振って突き放す。瞬間、腕にまた痛みが走った。グッ、と漏れ出掛けた呻きをどうにか喉で殺す。仕留めきれなかったのか、あれ、と跳ねるような声がこちらに飛んでくるのが聞こえた。
「三号、どうしたの? 腕痛いの?」
二人挟んで向こう側、足音が聞こえ始めてどんどん大きくなる。顔を上げた頃には、目の前にはしゃがみ込みこちらを見つめる一号の姿があった。金に十字が刻まれた丸瞳がじぃとこちらを見つめる。ぱちぱちと瞬くそれには表面にうすらと好奇心が刷かれている。輝きすら思わせる視線は、グローブに包まれた手は、スーツに包まれた少女の腕へと向かった。
触れるより先に、勢いよく腕を引く。途端、また前腕に痛みが走った。今度は殺せきれなかった呻きが結んだ唇から漏れる。それでも触らせまいと、三号と呼ばれるインクリングは腕を己の身体で隠そうとした。
「え? 怪我したの!? 大丈夫!?」
「何もないわよ」
チッ、とこれみよがしに舌打ちをし、三号は尻で後退って距離を取る。それもすぐに詰められた。目の前の太い眉はへにゃりと下がり、黄金の目は曇りを振り払うように瞬いている。『心配しています』と言いたげな顔だった。実際、心配しているのだろう。この一号とやらは底抜けにヒトがいいのだ。それこそ、腹が立つほどに。
「怪我なら手当しないとだよ? 『油断せず早期治療…戦場の鉄則!』ってじーちゃんが言ってた!」
「怪我じゃないっつってんでしょ」
また腕に伸ばされる手を振り払い、少女は先輩隊員を睨めつける。青い双眸はこれでもかと眇められ、眉は強く寄せられ、口元は威嚇するようにカラストンビを剥き出しにしている。同年代の少年少女なら怯むほどの気迫だ。しかし、相手は成人した、それもなんだかよく知らないが色々と経験を積んできた先輩である。表情を変えることなく、ただただこちらを見つめてきた。純粋な、清廉な、本当にこちらを慮った視線が、警戒心丸出しのインクリングへと注がれる。視線がかち合い、逸れることなくぶつかりあう。
「…………パブロ、疲れんのよ」
長い戦いの末、敗北したのは三号だった。ふぃ、と顔を逸らし、少女は吐き捨てるように告げる。へ、と呆けたような声。数拍置いて、あぁ、と納得の声と頷きが返ってきた。
オルタナの一区画、『ながいきヤングニュータウン』と記された場所に辿り着いてしばらくが経った。これまでの経験もあってか、探索は前の区画に比べて随分と順調に進んでいる。ケバインクの除去ももうすぐ終わるころだ。ただ、一つ問題が残っていた。
ケバインクの海に埋もれたヤカン、そこに設定されたミッション。迫りくるヌリヌリ棒から逃げながら的を全て壊すそれは、三号にとって苦戦するばかりだ。何しろ、オススメされるブキがパブロである。身の丈以上ある大きなフデを振り回し小さな的を狙って壊すのはなかなかに手こずる。それを棒に潰されぬよう、漏れなく壊すために素早く行わなければいけないのだから忙しいったらない。特に、己は今まで引き金を引くだけでインクが出るシューター系統しか使ってきていないのだ。大きな得物を絶え間なく振り回し続けるパブロを使えばどうなるかなど自明である。
「パブロは難しいよねぇ」
眉尻を下げて笑う一号に、三号はまた舌打ちを返す。『難しい』のではない、ただただ『疲れる』のだ。同年代よりも体力はあるものの、あんなものを振り回し続けるなど初めての行為であり日常ではまずあり得ない動きである。慣れぬ内は体力を必要以上に消耗するのは当たり前なのだ。難しいなんてことはない。そう吐き捨ててやりたいものの、全ては言い訳にしか聞こえないだろう。それぐらいのことは疲れた身体と頭でも理解していた。
「『使うといい』と、司令は言っとるよ」
隣から声。そして鼻に刺さるような臭い。眇目でそちらを見ると、そこには箱を差し出す二号の姿があった。手袋に包まれた手が持つそれは、ドラッグストアで見かける湿布だ。小さな箱の隙間から、薬の嫌な匂いが漏れ出ている。開封済みのようだ。
「何でそんなもん持ってんのよ」
「さぁ? とりあえず貼っとき」
あぐらをかいた膝の上に薬臭い箱が載せられる。逡巡。溜め息とともに手に取り、箱を開け袋の中からいくらか引き抜いた。スーツを脱いで腕を晒し、痛みと熱を覚える部分に遠慮なくペタペタと貼っていく。ひやりとした感触が、患部が確かなる熱を持っていることを証明していた。薬品が染みこむことを表すように皮膚がじんじんと痛み出す。筋肉の悲鳴とはまた別の刺激に、少女は小さく顔を歪めた。
「他の使ってみる?」
「残りバケスロとヴァリよ」
ミッションで使用できるブキは三種。バケットスロッシャー、パブロ、ヴァリアブルローラーだ。一部での略称が『バケツ』であるバケットスロッシャーは、インクをすくい上げるように腕を大きく動かさねばならないブキだ。パブロほどではないがこちらも腕に限界が来る。ではヴァリアブルローラーが良いかと言われればそうでもない。ローラー種はどれもサイズが大きく、その中でもヴァリアブルローラーは変形ギミックを搭載しているためかかなりの重量を誇るものだ。縦に配置された的がある都合上、どうしても縦に振り上げる機会は多い。こちらも腕を、それどころか身体全体を酷使するブキであった。
「あー……バケスロもかなり腕動かすもんね」
「ヴァリはまだ動きが少ないけど、そもそも持ち上げるのに力いるしねぇ」
「そう?」
首を傾げる一号に、そうでしょ、と二号は呆れたように返す。何を言っているんだこいつは、と三号も険しい視線を送る。ダイナモより軽いけどなぁ、と小首を傾げてこぼす黒色に、黄色は片眉を上げて睨めつける。白色はふるふると小さく首を振った。
「もう筋トレでもするしかないんじゃない」
口角を片方上げて吐き捨てる。もちろん、筋肉を鍛え上げたとてあの大業物を絶えず振り回すなど不可能だ。そもそも、今から鍛え始めても効果が出るのは何ヶ月も先だ。今すぐ攻略したいこの心にも身体にも意味など為さない。ハッ、と鼻で笑い飛ばした。途端、あぁ、とまた弾けるような明るい声が蒼天に響いた。
「いいね! でも今日は休んだ方がいいよ。明日からにしよ!」
「冗談に決まってんでしょ」
立ち上がって拳を握る一号に、三号は呆れ返った声を返す。このインクリングは己よりもずっと年上だというのに子どものように疑うことを知らない。よくここまで純粋なまま生きて来れたものだと感心するほどだ。もちろん、悪い意味でだが。
「『一つだけ言うと』」
二人の間にスッと声が差し込まれる。視線をやると、そこにはこちらを見る二号の姿があった。そして、その奥に座る司令の顔も映る。普段は背を丸め膝と頬に付けられた腕は解かれ、ピンと人差し指を一本立てている。相変わらず口元が動く気配はない。ただ、深青の瞳がじぃとこちらを見つめていた。
「『パブロならフデダッシュで轢いて壊せる』と、司令は言っとるよ」
「早く言いなさいよ!」
思わず地に拳を叩きつけ吠える。瞬間、腕を痛みが襲った。痛みに目を引き絞り、三号はギッと司令を睨みつける。今の痛みは自業自得であるが、そもそもこの腕の酷い疲労感は攻略法を教えず押し黙っていたこいつにも責任がある。この痛みと怒りをぶつけるのは当然だ。疲弊と突沸した感情で揺さぶられる脳味噌はそうやって解を弾き出した。
「でも今日はお休みしよ? これ以上痛くなったら大変だもん」
「『戦いに備えて体調は万全にしておこう』と、司令は言っとるよ」
「言われなくても休むわよ」
思い遣る言葉たちを少女は手を翻して切り捨てる。無様にも湿布を貼るような有様だというのにまた挑戦するほど馬鹿なはずがないだろう。何を考えているのだ、こいつらは。ハッ、とまた鼻を鳴らした。
「カフェオレでも飲んどく?」
「……飲む」
くるくると傘を回す二号に、一拍置いて返す。相棒のせいで家計が火の車な我が家である、食べ物を施されるのはいつだって歓迎だ。だが、今このタイミングで寄越されるのは拗ねた子どもをなだめすかすようなものに思えて気に食わない。けれども、動き回って嵩を減らしに減らした空っぽの胃は、プライドを容易く蹴り飛ばした。
どこからか取り出されたカップに、どこからか取り出されたポットが温かな飲み物を注ぎ入れる。コーヒーの香ばしい匂い、ほのかな砂糖の甘い匂い。心地良いそれらを腕に貼られた湿布の薬臭さが全て上書きしていった。
畳む
諸々掌編まとめ13【スプラトゥーン】
諸々掌編まとめ13【スプラトゥーン】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど今回3000字ぐらいのが多い。あとほぼほぼヒロニカ。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:インクリング+オクトリング/ヒロ→←ニカ/ヒロ→ニカ3/ヒロニカ
好ましくないやつらには好ましくないもんぶつけんだよ!【オクトリング+インクリング】
溶けるような音が小さな舞台に響き渡る。力を得た身体は、何倍、何十倍にも肥大していった。巨大で凶悪な――まさに『帝王』の名に相応しい姿へと変貌し、少年は身体をうねらせ飛び跳ねる。四方八方から銃撃が降り注ごうと、テイオウイカはその体躯に見合わぬ狭き舞台で悠然と踊った。
甲高いホイッスルの音がステージ中に響き渡る。しばしして、身体が縮み元の形へと戻った。見上げた先、まだら模様の審判がこちらへと旗を掲げる。己たちが勝ったという現実を証明していた。
「ナイスー!」
ヒトとなり正面へと戻った視界の中、シャープマーカーネオを手にしたオクトリングがこちらを振り返り親指を立てる。特徴的な牙が覗く口は普段の彼からは考えられないほど開き、口角はいっそ恐ろしいほど上がっている。これ以上にないほど楽しげな、愉悦という言葉がよく似合う笑みだった。
ナイス、と返し、テイオウイカから戻ったインクリングはヤグラから飛び降りる。大きな天井ガラスから降り注ぐ光を浴びて、手にしたバレルスピナーデコがギラギラときらめく。最後のダメ押しを決めてくれた相棒は、まるで勝利を喜ぶかのように輝いていた。
友人が手を上げる。己も同じ程の高さまで上げ、勢いよくハイタッチをした。ぱしぃん、と盛大な音が試合が終わったステージに響いた。ナイス、と再び互いを讃える。二人で勝ち取った勝利なのだ、賛美するのは当然だった。
好ましくねー。性格わる。
背後から声が聞こえる。先程のバトルで敵だった二人だろう。シャープマーカーネオで塗りを広げ、バレルスピナーデコでヤグラを押さえ。奪われればトリプルトルネードとキューバンボムで奪い返し、ダメ押しにテイオウイカで乗り続ける。敵にとってはまさに好ましくない、この上なく不愉快な戦い方だろう。敗者がそんなことを言うのはあまりにもイカしていない、有り体に言ってダサいということを忘れるほどに。
飛んできた負け惜しみに、二匹のインクリングは口角を上げる。カラストンビが覗かせた笑みは、『凶悪』『極悪』と表現するのが相応しいものだった。何よりも美味い馳走を手に入れた悦びに、もう一度盛大な音をたててハイタッチをした。
「まぁ、次頑張ろっか。俺たちならいけるって」
「うん! 絶対勝とうね! かーくんと一緒ならなんだってできるもん!」
男女の声が背後から聞こえる。甘ったるい響きと言葉に、少年たちの顔から笑みが消える。代わりに、眉間に深い皺が刻まれた。あれほど輝いていた瞳は陰り、睨むと表現するのが相応しいほど眇められている。上がっていた口角は下がり、真一文字を描いていた。ケッ、とどちらともなく悪態をつく。次行こーぜ、と紡いだ声は棘がめいっぱいに生えたものだった。いじけると表現するのが相応しいものである。
最強ペア決定戦。
バンカラマッチは四人で戦うルールだが、今回のイベントマッチである『最強ペア決定戦』は二人で、つまりペアで戦うという限定レギュレーションで行われる。友人と戦う者、一期一会の相手と戦う者。組む相手は様々だ。その中でもとりわけ多いのはカップルだ。『最強ペア』なんて名前を冠しているのだから当然である。
バトルに恋愛を持ち込むなど無粋だ。言語道断だ。汚らわしい。
そう言い出したのはどちらだっただろうか。どちらでもいい。やっかみ、僻み、妬み、羨みといったろくでもない感情から発せられた言葉であるのは確かなのだから。
あぁそうだ、当然だ、バトルは清くあるべきだ、などと熱くなった議論は一つの結論に辿り着く。『カップルで参加する腑抜けた奴らを実力で叩きのめそう』という、迷惑極まりないものに。
そして、コンビを組んでバトルに潜り、出会ったカップルたちを完膚なきまでに叩きのめす今に至る。
「つってもさ、そろそろカップル減ってきたじゃん?」
「さすがにここまでパワー上げたらなぁ」
カップルで参加するもののほとんどはバトルを遊び程度に捉えて楽しむ、所謂『ライト層』である。実力が高い者もいるにはいるが、『ライト層』に比べ数は圧倒的に少ない。一定ラインを超えたあたりから、マッチングのほとんどが明らかに野良で組んだ二人組になってきた。
「どうする? やめる?」
「たまにいるだろ、バトルが出会いで~って言う高XPのカップル。ああいうのはまだ残ってんだぞ」
「あー……確かにいるわ……。じゃあやんねぇとな!」
そうだそうだ。やらねばならぬのだ。潰せ。勝つぞ。勝手極まりない、迷惑千万にも程がある言葉を交わしながら、少年たちはマッチング手続きをする。待機の間、インクリングはイカバンカーを撃ち今一度エイムを合わせる。射程端で的確に捉え、常に距離的優位を取るのはバトルで何よりも重要なことだ。せっかく温まった身体を冷やさないためにも軽く動いておいた方がいい。
「……なー」
バンカーが弾ける音。漏れる声。タイミング悪く掻き消されたと思ったが、イカロールの練習をしていた友人には伝わったようだ。なんだー、と尋ねる声が返ってきた。
「どうせだからこのまま最強ペア目指さねぇ?」
イベントマッチのタイトルは『最強ペア決定戦』だ。ならば、自分たちが『最強のペア』になってもいいのではないか。順調にパワーを上げた今なら、達成できるのではないか。上位に食い込み、『最強』の名をほしいままにできるのではないか。久しぶりに二人でコンビを組み、勝ち続けた今、そんなことを考えてしまう。『最強』というイカした肩書を得る未来を。
「いや、カップル潰す方が重要だろうが。何のためにやってんだよ」
非常に冷静な、冷めた声が返ってくる。ノリの良い彼からは想像できないほどのものあった。滅多に出さない響きであった。それほど、友人は『カップルを潰す』という行為に重点を置き、命を懸けていることが分かる。
「まぁ、それはそう」
オクトリングの言葉に、インクリングはさらりと返す。肯定する軽い言葉に反して、苦味のある笑みが漏れた。
そうだ、カップルを潰すためにここにいるのだ。だのに最強がどうやらなど考えるだなんて。高くなる勝率に調子づき、腑抜けたことを考えてしまったようだ。馬鹿だなぁ、と嘲る言葉が胸に重く落ちてくる。吐き出した息は細さに反して重い響きをしていた。
高い音がロビーに響く。マッチングが完了したのだ。すぐさまブキを持って、バトルポッドに入り込みステージへと移動する。ポッド内の液晶画面に相手のネームとプレートが映される。プレートデザイン、二つ名、ネーム、バッジ。構成するどれもがバラバラだ。ネームから性別は判断できないが、野良の可能性が高いだろうか。否、実力者たちは『おそろい』なんてものにこだわっていない。この程度の情報で判断するのは早計だ。
入ったスポナーから飛び出し、ブキを構える。相手はクーゲルシュライバーとスプラシューターコラボ。頭のギアが同じだ。服と靴とは全く調和が見られないそれに、笑みが浮かぶ。トドメとばかりに、視線を交わして頷きあう姿が見えた。
瞼が軽く落ちる。頬が持ち上がる。口角が上がる。ブキを持つ手に力がこもる。胸の奥がカァと熱を持つのが分かった。
潰すぞ。おう。
インクリングとオクトリングは静かに言葉を交わす。どちらも高揚しきったものだ。どちらも獰猛極まりないものだ。どちらも、意志の固さがはっきりと分かるものだった。
少年たちはスポナーに飛び込む。狙いを定めて数拍。オレンジ色に染まった身体が二つ、ステージめがけて飛び出した。
あなたの前で被る猫なんてない【ヒロ→←ニカ】
「そこの高台取るかいっつも悩むんだよな」
「打開に使われやすいですものね。押さえたら強いのですけれど……、アクセスのしやすさでは敵の方が勝るのが気になります」
「それなんだよ。前からも横からも後ろからも刺しやすいし、ヤグラ乗ってるやつもろとも吹き飛ばされることあるし」
「ウルショやカニにとっては格好の的になっちゃいますもんね」
端的な、しかしどうにも不名誉な表現に、ベロニカはストローを噛む。硬いプラスチックがへし折れて癖が付くのが口の中で分かった。少女の様子を気にすることなく、対面の少年は小さな端末に線を書き入れていく。侵入ルートを記す矢印、防衛箇所をピックアップする丸、オブジェクトまでの有効射程ラインを表した四角。様々な図形がゴンズイ地区のマップ画像に書き込まれていた。
掃除が行き届いたロビーの隅、木製の高台横。黄色のインクリングと青のオクトリングがタブレット端末を囲んで座り込む。傍らには様々なブキとインクが散っていた。二人が射程の確認や数多の戦法を練った証だ。
「こっちの高台は……さっきのバトルで試してらっしゃいましたけど、微妙ですよね」
「いけっかと思ったけどダメだ。トラストの射程じゃそこから前線に手ぇ出せねぇ」
敵陣右奥、アクセスするのに一手間かかる高台にバツ印が付けられる。こっちは、だったらこっちのが、と少年少女は議論を重ねる。文字と図形がどんどんと大きな画像を埋めていく。
焼けたしなやかな指が、白い角ばった指が、威勢の良い言葉が、少し荒れた線が、端末の上を駆けていく。一通りまとまった作戦資料を眼下に捉え、二匹はふぅと息を吐く。舌戦に試射にと筋肉をこれでもかと動かしたというのに、そこに疲労は無い。満足感ばかりが見えた。
「マッチング次第になりますけど、とにかく試してみましょうか。僕もカバーできるラインを確認しておきたいです」
「……なぁ、ヒロ」
片付けたタブレットを小脇に抱え、オクトリングは立ち上がる。黄色い瞳が小麦の細い足から上って、赤い瞳をじぃと見る。ヒロと呼ばれた少年ははい、と答える。不思議そうな響きをしていた。
「それ、無理してねぇ?」
「はい?」
小首を傾げて問うベロニカに、ヒロはまた疑問符だらけの声を返す。ひっくり返ったそれは、普段の落ち着いた様子からは想像だにできないほど情けがないものだった。へ、え、と意味のない音を重ねる口は不安げに震え、黄の視線を真っ向から受ける目は何度もしばたたかれる。『動揺』という言葉をこれでもかというほど体現していた。
「無理? え? 反省会がですか?」
「ちげーよ。そうじゃなくて、喋り方」
混乱の渦に飲み込まれた少年は疑問たっぷりに言葉を重ねていく。そんな様子を訝しげに眺める少女はバッサリと切り捨てた。薄い唇を胼胝ができた白い指がビシリと指差す。つられるように、硬さの見える尖った指が主人の口を指差した。
「喋り方……? ぁっ、えっ、もっ、もしかして、この喋り方不愉快でしたか!?」
「ちげーつってんだろ。お前、バトル中はタメ口じゃん。何でいつもはケーゴなんだよ」
手を動かし目を瞬き口を開閉し、わたわたと慌てふためくヒロをベロニカはギロリと睨みつける。目元には苛立ちがうっすらと見えるが、口元は『拗ねる』と表現するのが正しいほど尖っていた。
ヒロは丁寧に話す。この年頃にしては丁寧な口調に隙の少ない理論、それでいて柔らかさと謙虚さを伺わせる落ち着いた喋り方をする。しかし、バトルのさなかでは別だ。戦況を知らせる際に交わす言葉は『ゴール横ロラ』『ショクワン来てる』と非常に簡潔なものばかりだ。色の薄い唇が放つ言葉には普段の恭しさも柔らかさもない。必要なものだけを詰め込んだ、短く鋭い響きだけがステージに響くのだ。
「あー……バトルは情報伝達が最優先ですから忘れちゃうんですよね。すみません」
うすらと頬を染め、ヒロは眉尻下げて頭を掻く。ちょっとした失敗を見られた時のような、恥ずかしさとバツの悪さがあった。本人による答えが出されたというのに、相対するベロニカの表情は曇ったままだ。茜色を一心に見つめていた月色は、どんどんと下がって地へと吸い込まれていった。
「……やっぱ無理してんのか?」
少女の口から言葉がこぼれる。一滴のインクのような小さな言葉が、コンクリートの床に落ちて消える。ロビーに流れる音楽に掻き消えてもおかしくない響きは届いてしまったようで、え、とまた抜けた調子の声が少女の頭に落ちた。
「無理? あっ、バトルで大きな声を出すことですか? さすがにもう慣れました――」
「ちげーっつってんだろ! 話聞け!」
合点いった調子で人差し指を立てて答えようとする声を、怒声が吹き飛ばす。動揺も不安も消えた少年の笑顔が搔き消え、また不安が分厚い化粧を施した。
「だからー……『忘れちゃう』ってことは、バトル中のタメ口が素なんだろ? その、わざわざ敬語喋ってんの、無理してんのかなって」
威勢よく放たれた声はどんどんと萎み、しまいにはもごもごと動く口の中に消えるほど小さくなってしまった。眇められた山吹は陰差し、健康的な色の唇はもどかしそうにむにむにと形を崩しては戻る。あぐらをかいた足首を握る手はほのかに震えており、力が込められていることが分かった。
は、とヒロは溜息にも似た音を漏らす。尻上がりの響きは懐疑がよく見て取れた。無理、と少年は飛んできた言葉を己の口でも作り出す。無理、と今一度紡ぐ声は上がり調子で、どこか素っ頓狂な響きをしていた。
「無理だなんて……。この喋り方は癖みたいなものなんです。無理なんてしてませんよ」
どこか呆れた調子の、けれどもなんだか弾んだ響きで少年は答える。クエスチョンマークと不安が多量に浮かんだ表情は晴れやかなものに戻り、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。いっそ胡散臭さすら感じさせるものだ。
疑うように、試すように、ベロニカは頭上の赤をじぃと見つめる。睨めつけると表現した方が相応しいほどの鋭さだ。ものともせず、ヒロは言葉を続ける。
「そもそも、ベロニカさんの前で無理なんかしませんよ。これだけ熱く語れるヒトの前で無理したり取り繕ったりするのは無理です」
「……ほんとか?」
「嘘を吐いても意味がないでしょう? 怒られるのが分かってるんですから、吐くだけ損です」
まだ不安に揺れる黄金を、紅玉がじぃと見つめる。すっと膝を折り、少年はあぐらをかいたままの少女と視線を合わせる。暖かな色を宿した柘榴石が、細まった琥珀をまっすぐに見つめた。
「ベロニカさんの前が一番自然でいられるんです。無理なんてしてません。無理して仲間と話せるわけないでしょう?」
「……まぁ、それはそう、か」
そうですよ、とヒロは笑う。そっか、とベロニカは引き結んだ唇を綻ばせる。心元なさそうに足首を掴んでいた手が引き締まった太ももへと移動する。短い息とともに、少女は立ち上がった。今度は紅が金を見上げる。
「無理してねぇならいい!」
ニカリと笑い、インクリングは声をあげる。ロビー全体に響くほど、大きく弾ける、ハツラツとした音をしていた。はい、とオクトリングも同じほど弾けた声をあげる。すくりと立ち上がり、また赤と黄がかちあう。そこには陰も何もなく、ただ生き生きとした輝きだけがあった。
「んじゃ次行くか!」
「そうですね……、あ」
少女はトライストリンガーを器用に蹴り上げて取る。.96ガロンや他のブキをまとめて抱えた少年は、ぽつりと音をこぼして固まった。
「どした? トイレか?」
「あの……スケジュール変わっちゃいました……」
え、と漏らしてベロニカは急いで振り返る。ヒロが指差した先、大きな液晶スクリーンに映し出されたスケジュールはガチヤグラからガチホコバトルに変わっていた。反省会――と己の無駄な勘ぐりによる問答をしているうちに、随分と時間が経っていたようだ。少女は苦々しげに唇を引き結ぶ。せっかく編み出した戦法が実践できない悔しさに、己の浅はかさと間抜けさへの怒りに、少女は小さく呻き声を漏らす。警戒心を剥き出しにした鳥の鳴き声によく似ていた。
「ホコは……前に考えたの一個実践できてませんね。やってみます?」
タブレット端末を再び開いた少年は、しなやかな指を操りながら問う。くるりと回して差し出した液晶画面には、ナメロウ金属のマップ画像が映し出されていた。赤い丸、青い矢印、緑の斜線。様々な色が画像の上を踊っている。数日前、二人で反省会および戦略会議をした時のファイルだ。確かに、あの日は時間が無く考えたもの全てを試すことができなかった。つまり、スケジュールが変わったばかりの今は絶好のチャンスだ。
「やる!」
「では一回確認してからにしましょうか。時間が経ってまた見えるものもありますから」
「おう!」
抱えたブキを放り出し、ベロニカは再びあぐらをかいてタブレットを見つめる。抱えていたブキとタブレットを地面に静かに並べたヒロは、複製したファイルを表示させた。
警戒な音楽流れるロビーの隅、熱のこもった声が二つ響いては溶けていった。
バトルに行ったらすぐに取れてがっかりしただなんて言えない【ヒロ→ニカ】
五色が空から降り注ぐ。頭のずっとずっと上、無骨な機器から流れ出るそれは絶え間なく地へと降り立っていた。飛沫が霧のようになり、熱された空気を冷やしていく。盛大に流れ細かに散りを絶え間なく行うインクたちは、夕暮れの赤い世界の中でも己の確かな色を誇っていた。
「すげー……」
「圧巻ですね……」
隣で感嘆の声を漏らす友人につられ、ヒロも溜め息のように言葉を吐き出す。グランドフェスティバル特設会場、その入り口に設置されたカラフルなミストシャワー――ミストと言うにはいささか量が多いが――は少年少女を圧倒するほどダイナミックで鮮やかに入場者を待ち構えていた。
「……いや、これ通っても大丈夫なのか? 死なねぇ?」
ほぅと吐かれた息に不安が宿った声が続く。袖口をくいくいと引かれ、少年は隣へと視線を移す。一緒に会場を訪れた友人、ベロニカは警戒心をあらわにこちらの顔と流れ出るミストシャワーとを視線で往復した。インクリングおよびオクトリングは、自身の身体に適合しないインクを浴びると大きなダメージを受ける。色とりどり、つまりは自身と違う色のインクを浴びることに危険を覚えるのは当然だろう。
「大丈夫ですよ。公式サイトに『安全に配慮したインクを使用しています』と書いてありますから」
ほら、とヒロは手にしたナマコフォンの画面を指差す。細かな文字を追い終えたのか、ほんとだ、と返ってきた声は少し拍子抜けした調子をしているように聞こえた。途端、服を掴む力が強くなる。小さめにつまんで不安げに引く手は、ぐっと握り締め好奇心旺盛に引っぱり連れ行くものに様変わりしていた。前方へと、シャワーの下へと引っ張られるがままに、ヒロは足を動かす。インクが降り注ぐ水音に、元気な足音が二つ飛び込んだ。
ダン、とインクリングは思いっきり地を蹴り飛び込む。タン、と軽く地を駆けオクトリングも色の下へと身を飛び込ませた。瞬間、冷えた空気が、液体の感触が身体を包む。厳しい残暑の空気に晒され続けていた身体にとっては、この上なく心地の良いものだった。わぁ、とどちらともなく声をあげる。はしゃぎきった子どもの響きをしていた。
涼しい空間を潜り抜け、ヒロは会場へと足を踏み入れる。瞬間、音が弾け空気が大きく震えた。楽器の通る音色、負けじと主役を張る歌声、そして盛大な歓声。きっとライブが始まったところなのだろう。入り口を抜けてすぐの場所にステージがあったはずだ。
「何だこれ!?」
隣から悲鳴。何事だ、と急いで顔を向けると、そこには自身の腕を見つめるベロニカの姿があった。視線の先、健康的な色をした剥き出しの肌には緑色のインクがべっとりと付いていた。否、腕だけではない。頭に、頬に、耳に、服に、手に、足に、靴に。身体中のそこかしこがカラフルなインクで彩られていた。インクにまみれた大きな両の手が、持ち主の身体を性急に触っていく。うわ、と時折聞こえる声は驚愕に満ちていた。
少女の姿に、思わず少年も身体を確認する。色合いは違うが、己の身体も彼女と同じようにインクまみれになっていた。皮膚に直接ついているというのに、痛みや違和感は一欠片もない。本当に無害なインクを使っているようだ。
「すごいですね……」
「驚かせんなよなー」
もう、とベロニカは頬を膨らませる。眉は寄せられ目は細くなっているものの、口元は綻んでいる。口ぶりとは反対に、サプライズめいたこのサービスを楽しんでいるようだ。愛らしい様に、ヒロも頬を緩ませた。
「すげぇな。全然落ちねぇし痛くねぇ」
「べとついたり流れたりもしませんね。これ、どういう仕組みなんでしょう」
二人は今一度自身の身体を見回す。衣服はもちろん、肌についたインクが汗で流れ落ちる様子は無い。触れたかぎり、完全に乾いて張り付いているようだった。だのに、痛みも無ければ不快感も無い。訳の分からない技術である。
「頭が一番すげーな。ほら」
そう言い、少女はこちらに青い何かを差し出した。よく見れば、それは彼女の髪だった。常は鮮やかで美しい黄色を三つに編み込んだそれは、今は青で塗り潰されている。先ほどのミストシャワーの仕業だ。反対側、流した長い髪はピンクに染まっている。鮮やかな黄に目に痛いほどのピンク、吸い込まれてしまいそうな深い青は、不思議ながらも彼女自身の黄と調和が取れていた。
「こことかヒロみてーだ」
青色に染まった三つ編みを指差し、ベロニカは笑声をあげる。確かに、彼女に付着した青は己固有のインク色とよく似ていた。チームを組む時は同じ青に染まることもあるが、こうやって黄に青が散る様は見たことがない。
少女の姿に、少年の心臓がドクリと大きく拍動する。ひゅ、と息を吸った喉がおかしな音をたてた。
髪がまばらに染まる様など見たことがない。見たことはないけれど、想起するものはある。以前インターネットで読んだウェブ漫画だ。年齢制限はかからないものの、少しだけ『大人』なその漫画では、キスをすると二人の色が混ざっていた。とっても『大人』な口付けを終えると、女性の髪には男性のインクの色がにじんでいたのだ。まるで、侵蝕するように。自分のものだと主張するように。
今の彼女の姿は、まさにそれのようで――己で染まったようで。
ドッドッと小さな心臓が大きな音をたてる。頬に気温とは関係が無い熱が集まっていく感覚がする。ミストを浴びたばかりだというのに熱くてたまらなかった。無害なインクを浴びたというのに内臓が痛みを訴えていた。全ては己の頭が原因なのは明白だ。
「どした?」
地を見つめていた赤い目がハッと上げられる。視界が地面の茶色から、色とりどりの世界に、訝しげにこちらを見つめる黄色に染まる。髪をつまんだまま小首を傾げる友人――否、想いビトの姿に、少年は口を開く。声を出すはずが、大きなそれからは空気しか出てこない。は、と吐き出された呼気は浅いものだ。己の心臓の駆動とは正反対に細く小さなものだった。
「い、え。似合っているな、と」
「似合う?」
どうにか笑みを作り出し、どうにか言葉を作り出す。オクトリングの言葉に、インクリングはまた小さく首を傾げた。ふぅん、と訝しげに鼻を鳴らし、少女はビビッドカラーに染まった髪を眺める。そっか、としばらくして聞こえた声は上機嫌なものだった。
「ヒロも似合ってんぞ」
「ありがとうございます」
ニカリと笑う片恋相手に、ヒロはにこやかさを意識して礼を返す。依然顔は熱いし、心臓は痛いし、拍動はうるさい。こんなみっともない様子を察せられるにはいかなかった。己の演技が上手くいったのか、頬に付着したインクが隠してくれたおかげか、はたまた彼女の気遣いなのか。ベロニカは何も言わず笑みを返した。その頬にもまた、青が存在を主張している。更に鼓動が早くなった気がした。
「いこーぜ。結局どこに投票すんだ?」
「まだ悩んでいるのですよね……。今回のお題は難しすぎますよ」
「もう色で選ぶか」
「それは真剣に選んだ方に失礼かと」
じゃあどうすんだよ。どうしましょうか。悩む声が、弾む声が、会場へと吸い込まれていく。絶え間なく流れるシャワーが二人の背を隠してしまった。
シーズン開始まであと十日【ヒロ→ニカ】
ロッカールームの一角、赤い瞳が黄色い頭をじぃと睨む。これだけ熱烈な視線を送られているのに、相手は一切気付いていないらしい。言葉を発することもなくじぃとソファに座っていた。気付かないのも当然だろう。その目は、その意識は、全てナマコフォンの小さな画面に釘付けになっているのだから。
「……ベロニカさん」
「…………ん? 何だ?」
ヒロは目の前の、ずっと刺すような視線を送っていた友人の名を呼ぶ。普段よりもいささか低い、他人が聞けば『機嫌が悪い』と判断されてもおかしくないような響きをしていた。名を呼ばれた本人は欠片も知らぬといった顔で、普段と一切変わらない調子で短く返す。彼女らしくもなく少しばかり間があったのは、意識が画面の中に吸い込まれていたからだろう。音を認識するまでタイムラグが生じるほど集中していたのだ。いつだって機敏な彼女らしくもない姿だった。彼女を彼女らしからぬ姿にするほど、液晶画面に映る映像は衝撃的なものだった。
フルイドV。
先日、国際ナワバリ連盟から発表された新たなブキ。ハイドラントやエクスプロッシャーを手がけるブキメーカーが新開発したブキ。バンカラで発達しまだ二種しか存在しないストリンガー種に颯爽と殴り込んできたのがこのブキだった。
発表を見た瞬間のベロニカの反応は凄まじいものだった。滅多に聞かない上擦った歓声をあげ、宝物を見つめる子どものようにキラキラと目を輝かせ、天を衝かんばかりに拳を振り上げたのだ。挙げ句の果てには想いを寄せるように毎日件の発表動画を見る始末である。まるで恋する乙女のようだ。考えただけでも胃が痛くなる表現だが、そうと表すのが一番相応しい様子であった。
「またフルイドの動画ですか」
「そう! 何度見てもほんとにすげーんだよなぁ!」
溜め息交じりに問うオクトリングに、インクリングは目を輝かせて返す。ナマコフォンに向ける視線はプレゼントを目の前にした子どもそのものだ。いつだって鋭さと輝きを宿し、年齢からは考えられないほどの気迫と気概を纏った彼女からは想像できないものだった。非常に可愛らしく胸が苦しくなるほどの破壊力を持っていた。それ以上に、まだ幼い心をめいっぱい叩きつけて割って壊すような恐怖をもたらすものだった。
ちらりと小さな画面へと視線をやる。映っているのはフルイドVだけではない。紹介PVを担当する男性のインクリングもだ。動画内で使い手を務める彼は、たしかトライストリンガーを主に使うプロプレイヤーのはずだ。極秘も極秘、決して外部に漏らせぬ新ブキを先行して体験させてもらい、対戦の様子を撮影され配信されるほどなのだから、よほど信頼のある者なのだろう。それだけに、腕は凄まじいものだった。ベロニカという巧みなるトライストリンガー使いと数え切れないほど手合わせし、研究のためにいくらか使いこんだ身から見ても、その経験と実績が分かる動きをしていた。
そんな素晴らしい――有り体に言って『強い』プレイヤーを見て、この己と同じほど『強い』者を求めるベロニカがどう思うか。
戦いたいと思うだろうか。憧れを抱くだろうか。目指すべく相手とするだろうか。その強さに惚れ込むだろうか――恋するだろうか。
仮定も仮定、根拠の薄い妄想による二音節を考えただけで、チャージャーに撃ち抜かれたように胸に強い痛みが走る。スロッシャーに被せ潰されたように頭が痛む。潜伏ローラーに出くわした時のように心臓が大袈裟なほど脈打つ。ストリンガーの氷結弾を直接撃ち込まれたかのように背筋を冷たいものが駆け抜けていく。
一言で表すならば『恐怖』だった。だって、好きなヒトが別のヒトを好きになるなんてこと、想像したくないに決まっている。
「――き遅いし重量級なんかな。中量級だといいんだけどなー」
弾んだ声に、暗がりへと転がり落ちていた意識が浮上する。焦点の合った視界の中には、ニコニコと輝かしい笑みを浮かべるベロニカがいた。胼胝のある美しい指が指す先にあるのは相変わらずあの動画だ。あのプロプレイヤーだ。あの男性だ。
ぎゅっと拳に力が入る。指が手の平を突き抜けてしまいそうな勢いだ。緩めたいのに、身体が言うことを聞かない。痛覚が神経を刺激するのに、思考はぐるぐるとぐちゃぐちゃと掻き回されるばかりで理性的な動きができない。
「――あ、の」
ヒロは口を開く。か細い声はいつだってハキハキと話す彼らしくもないものだった。やっと異変に気付いたのか、ベロニカはナマコフォンを片手で閉じてまっすぐに少年を見る。どうした、と尋ねる声は真剣そのものだった。幼い光が輝く瞳に、鋭さが戻る。
「あ、の……、ベロニカさんには、トライストリンガーが一番似合うと思います!」
オクトリングは叫ぶ。街中に響き渡りそうな声量だった。事実、自身のロッカーを開いていた者がいくらかぎょっとした顔を向けるほどである。意図したわけではない。今この場で声を制御する機能など、恋を患う頭には不可能なのだ。
「……お、おう。ありがと?」
声量にか、突然の賛辞にか、ベロニカはぱちりと目をしばたたかせる。答える顔も声も気が抜けた、疑問符が浮かんだものだ。それはそうだ。いくら肝の据わった少女と言えど、いきなり呼ばれ大声で脈絡もないことを言われて困惑しないわけがない。
「だ、から、無理にフルイドを使うことはないかと思います! 注目するのは分かりますけど! で、も……あの……」
えっと、と続く声はどんどんと萎んでいく。己の制御できない声に、想いビトの戸惑った様子に、ヒロは見開いた目を泳がせる。己の行動に己が一番驚いていた。理性のストッパーが効かなくなっただけで、こんなに幼い行動を取ってしまう。あまりにも醜く苦しい事実であった。ナンプラー遺跡の採掘跡にでも埋まりたい心地である。
「いや、無理とかそんなんあるわけないだろ。新しいブキは使いたいだろうが。しかもストリンガーだし」
惑っていた黄色い目がじとりと細められる。訝しげな視線が少年の全身を突き刺す。何を言っているんだお前は、と言いたげなものだった。当然である。
「つーか、似合う似合わないじゃなくて強いか強くないかだろ?」
「…………はい、その通りです」
はん、と鼻を鳴らすインクリングに、オクトリングは萎んだ声で返す。言い返す余地など無い、まさしく正論だった。普段の己ならば同じ判断を下すに決まっている。けれども、恋が絡む心は非論理的な言葉ばかりを紡ぎ出すのだ。あまりにもみっともない現実である。
「ほんっとらしくねーなー。なんかあったのか?」
「いえ、何もありません。本当に何もありません。ただベロニカさんにはトライストリンガーが一番似合うと思っただけです」
ほんのりと心配の色を宿した黄が赤に向けられる。逃げるように頭ごと地へと視線を移し、ヒロは言い訳をまくしたてた。何もかもが不自然であるのは己が一番分かっていた。ふぅん、とまた鼻を鳴らすのが聞こえた。
「まぁ、似合ってるって言われて悪い気はしねぇな」
あんがとな、と少女は笑う。柔らかで、温かで、朗らかで、幸せがにじむ笑顔だった――その愛らしい笑みを向けられた当人は地面とにらめっこしていて気付かないのだが。
布が擦れる音。目の前の影と気配が消える。やっとのことで視線を上げると、そこには伸びをするインクリングの姿があった。傍らに置かれていたトライストリンガーは既に彼女の手の中へと戻っていた。
「スケジュール変わったしいこーぜ。今日はナワバリからやるか?」
「……そ、うですね。少し身体を慣らしてからにしましょうか」
スタスタと横を通り抜ける少女に、少年は急いで身を翻して後を追う。不自然に固い声で返してしまったが、彼女は気付いていないらしい。今カジキだってさ、と呑気な声が返ってきた。
少女の手の中にあるナマコフォンには、もうフルイドVも、男性の姿も無かった。
ナワバリはとっても広くて【ヒロニカ】
このヒトにはパーソナルスペースというものがあるのだろうか。
肩から伝わる熱を想い、ヒロは考える。紙が繰られる軽い音が昼下がりの少し陰った部屋に落ちた。
隣、己の肩に頭を体重を預け漫画本を読むベロニカを見やる。常は敵を見とめる鮮烈なイエローは、クリーム色の紙面を絶えず追っていた。読み進める速度は自分よりも遅い。じっくりと味わうタイプなのだろう。時折、漏れる笑みの揺れが肌を伝わってきた。
交際を始めてからというものの、ベロニカのスキンシップは増えた。元から背を叩き鼓舞する、頬に負った傷を手早く手当する、好みのルールとステージ選出に逸るあまり手を繋いで走る、といったことは時折あった。けれど、所謂『コイビト』という関係になってからというものの、それらは当然のようになり、更に積極性を増した。二人きりの時手を繋ぐ、勝利を祝い肩を組む、愚痴を漏らしながら抱きついて頬ずりをする、背もたれのように寄りかかって座る――ちょうど今のように。
嫌なわけではない。むしろ、喜びが何十倍にも勝っている。今だって、心臓が跳ね跳んでいってしまいそうなほど脈打つほどである。けれども、これだけ気安いと己以外の誰かにもやっているのではないか、と不安がよぎるのである。彼女を信頼していないのではない。ただ、彼女が己以外の誰かと触れ合うのが嫌なのだ。端的に言って嫉妬である。何ともイカしていないがどうしようもない。悲しいかな、己はまだ精神が成熟しきっていないし、交際はこれが初めてなのだ。
「ひろー?」
耳のすぐ側から聞こえる声に、少年の肩がビクリと跳ねる。呼ばれるがままに顔を向けると、そこには首を軽く反らせてこちらを見る少女があった。先ほどまで熱心に読んでいた本はその両手に閉じて収まっている。読み終わったのだろう。
「読み終わりましたか?」
「全巻読んだ。どこ戻せばいい?」
「テーブルの上に置いておいてください。後で片付けます」
ん、と短く返事し、インクリングは手にしたコミックスをテーブルの上に置く。彼女らしからぬゆっくりと、慎重さすら感じる動きだ。これらの漫画は己の所有物である。きっと、粗雑に扱ってはならないと思ってくれたのだろう。荒々しく猛々しいバトルを見せる彼女だが、こういうところはきちんとしているのだ。ただただ彼女がきちんと教育され健やかに育った証であるだけなのに、なんだか愛されているような気分になる。勘違いも甚だしいと頭の中の何かが嘲った。
肩に、腕に、身体にかかる重みが増す。肩に、腕に、身体に熱が触れる。肩に、腕に、身体に彼女のぬくもりが直に伝わってくる。寄りかかる少女は、むずがるように頭をこすりつける。躊躇いのない、警戒心の欠片もない姿に、少年の心臓は更に早鐘を打つ。このままではこれだけドギマギしていることがバレてしまう、という焦りすら生まれるほどだ。
「べ、ろにかさんって、結構パーソナルスペースが狭いですよね」
「ぱーそなる……何だそれ」
逃げることもできず、逃げたくない本能に抗えず、少年は意識しすぎる思考から逃れるように言葉を放つ。いきなりの話題転換にか、布と肌が擦れる感覚が止まる。返ってきたのは疑問形の声だった。首を傾げたのか、肩に固いものが擦れて衣擦れの音をたてた。
「簡単に言うと『他者を近づけたくない範囲』です。結構触れたり近づいたりしますし、狭いんだなって」
「ナワバリみたいなもんか?」
「そうですね。近いと思います」
ふぅん、とベロニカは鼻を鳴らす。ふむ、とヒロも口の中で呟いた。たしかに、日夜ナワバリ争い――歴史上では戦争すら行ったほどだ――に明け暮れるインクリングたち相手ならば、『パーソナルスペース』は『ナワバリ』と言い換えた方が伝わりやすい。いや、『ナワバリ』の言葉の強さと種族ゆえの意味の強さを当てはめるのは少し危険か。そんな詮無いことを考える。気づいた頃には、身体にあったはずの熱は姿を失っていた。姿勢を正したのだろうか、と考えていたところに、なぁ、と声が飛んでくる。どこか笑みを含んだそれに引かれるように、ヒロは顔ごと視線を動かす。口角を上げたコイビトの姿が視界を埋めた。
「インクリングってさ、生まれた頃からナワバリ意識つえーんだよ。ナワバリ……まぁ、雑に言うと自分だけのだって場所は広く持とうとするし、広げようとする。それぐらい知ってるよな?」
「はい……?」
突然の言葉に、オクトリングは首を傾げて返す。誰もが知っている常識であるため肯定したものの、その真意が分からず思わず疑問が浮かぶ響きとなってしまった。それでも彼女にはきちんと伝わったらしい。潤いを保った唇が三日月を描いた。うすらと開いたそこから鋭い白が覗く。
「そのひろーい、一生懸けて広げたひっろーいナワバリにあんたを入れる意味」
歌うように少女は言葉を紡ぎ出す。ソファの座面に放り出した手の甲に、温かなもの。すべらかなものが肌の上を滑っていく。少し硬さをみせるものが、くすぐるように指と指の間を撫でる。消えた熱が再び姿を現す。
「わかるよなぁ?」
問いかけ、インクリングはにまりと笑う。はっきりと見えるカラストンビは美しく、輝かんばかりの鋭さがあった。肉食であり捕食者であることをまざまざと主張してくる。
インクリングとってナワバリは、本能に刻まれた生における最重要事項である。それこそ、太古の世界ではインクリングとオクトリングは地上というナワバリを奪い争ったほどだ。
広げ、主張してきたそこに、赤の他人を入れる。そんなの。
ぶわりと身体中に熱が広がっていく。こんがりと焼けた肌に鮮やかな紅が広がり、存在を主張していく。赤い目が瞠られ、太陽もかくやと真ん丸になる。大層大きな口が薄く開かれ、震える舌が覗く。その身体を動かす心臓は、耳元に移動したのではないかと錯覚するほどうるさく音をたてた。
する、と手の甲を撫でていた指が動く。なぞるように動いたそれが、己の指と指の間にそっと埋まり、ぎゅっと握られる。ナワバリに入ったものを――自分のものを逃さんとばかりに、強く握られる。触れ合う面積が広がって、伝わる熱も増える。心地よさを覚えるはずのそれは、今は毒のように身体を巡っていくばかり。心臓をばくばくと跳ね動かし、脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き、心をめためたに引っ掻き回していった。
「気に入らなくなったら蹴り出すけどな」
「……容赦ありませんね」
「そんぐらい分かってんだろ?」
先ほどの甘さも恐ろしさも消え失せた声が軽口を叩く。どうにか返した言葉に、いたずらげな笑みが向けられた。その頬が普段より血の色が濃くなっているのは気のせいだろうか。問う声にまだ甘やかな香りが残っているのは気のせいだろうか。見つめる目に熱が宿っているように見えるのは気のせいだろうか。全部気のせいであってほしい。ナワバリ意識たっぷりの言葉に加えてそれらまで受け入れられるほど、まだ己の器は大きくない。全てをリセットしようと頭を振りたくなる衝動を、ヒロは必死で抑え込んだ。
いつの間にか緩んでいた手が、また握られる。先ほどのような力強いものではなく、じゃれつくような軽いものだ。己の手をおもちゃにしているかのようだった。これだけ振り回されているのだから、あながち間違いではないかもしれない。混迷に混迷を重ね迷走する思考は、明後日の方へと飛んでいっていた。
この手からは、彼女のナワバリからは、当分逃げられそうにない――逃げるつもりはない。
朝ご飯は早くから仕込んで【ヒロ→ニカ】
重なる短い鳴き声が沈んた意識を引っ張り上げていく。真っ黒な瞼が強張ったようにぎこちなく持ち上がり、黄色い瞳が姿を現した。差し込む陽光を直に受けたまんまるは、消え現れを繰り返してやっと普段の姿を取り戻す。寝起きには厳しいまばゆさに濁った音が喉から漏れた。
ごろりと寝返りを打ち、ベロニカは己を照らし出す朝日から逃れる。抱き込んだ布団は普段のものと違う匂いがした。覚えた小さな引っかかりは、意識に飛び込んできた甘い香りによって全て霧散した。砂糖の甘い匂い。焼ける香ばしい匂い。焦げるような少し濃い匂い。寝惚け頭を覚醒まで引き上げるには十二分に足るものだった。
知らない布団を投げ捨て、インクリングはベッドを飛び降り裸足で床を歩いていく。見慣れてきたキッチンに続く扉を開けると、甘い香りがぶわりと広がって身体を包み込んだ。脳と胃を刺激するそれに、腹の虫が寝起き一発目の鳴き声をあげた。
「あれ、起こしちゃいましたか?」
フライ返しを片手に、ヒロはぱちりと目を瞬かせた。コンロの火が落とされる硬い音が二人の間に響く。同時に、砂糖が焼ける匂いがほんの少しだけ気配を薄くした。
「眩しくて目ぇ覚めた」
「あぁ、すみません。カーテン閉めておいた方がよかったですね」
「寝っぱなしもよくねぇし気にすんな」
眉尻を下げ、申し訳無さそうに少年は言う。少女は言葉通り気にする様子なく手をひらひらと振った。事実、度を過ぎた睡眠は回復からすぐさま反転して疲労へと変貌する。ここらで起きるのが身体は正しいと判断したのだろう。
「何? ホットケーキ?」
火が消えたコンロの上、静かになったフライパンを覗き込む。映ったのは予想した丸ではなく四角だった。四方が茶で囲まれた四角が、白い身体を焦げ目で彩って横たわっている。淵の部分はまだしゅわしゅわと油が泡立っていた。
「フレンチトーストです」
「おしゃれじゃん」
「そんなことありませんよ。簡単にできますし」
ぱちぱちと瞬くベロニカに、ヒロは小さく首を振って返す。柔らかな笑みはどこか面映そうに見えた。
彼は否定したものの、己にとってはフレンチトーストとやらはかなり手の込んだ料理である。何しろ長時間調味液に漬けてパンにたっぷりと吸わせなければならないのだ。十分やそこらならまだしも、何時間、それこそ一晩を要するような代物だ。手早くできない料理なのだから、十分に手がかかっているおしゃれな食べ物だった。
「つってもめちゃくちゃ浸しとかないとだろ? めんどいじゃん」
「あー……、電子レンジを使えば簡単にできるんです。何度か温めればすぐに液を吸ってくれるんでしょ」
へぇ、と少女はまた目をしばたたかせる。少年の言葉に、山吹の瞳はいつの間にかキラキラと輝きだしていた。己も料理は人並みにはするものの、彼ほど日常的に行うわけでもなければレシピ開拓の努力もさほどしない。故に、そんな裏技のようなものを聞くのは初めてだった。魔法のようなそれは起き抜けの頭にも輝かしく見えた。
「ちょうど焼けたところですし食べましょうか。飲み物何にしますか?」
「冷たいやつ」
ではコーヒーで。歌うように言いながら、ヒロはフライパンの中身を皿に移す。二口コンロのもう一つにかかっていたフライパンと素早く取り換え、その中身も皿に放り出す。転がり込んできたのは、よく焼け目がついたウィンナーだった。
突然の闖入者に、よく整えられた眉が寄せられ黄色い丸い頭がことりと傾ぐ。フレンチトーストとは甘いものである。食事ではあるものの、味は菓子に近い印象があった。なのに、ウィンナー。塩気の強い肉が一緒に並んでいるのは何故なのだろう。このフレンチトーストは甘くないのだろうか。いや、でもこのキッチンには砂糖が焦げた甘い匂いが満ちているではないか。
「……合うのか?」
「合うんですよ」
首を傾げ呟くインクリングに、オクトリングは短く返す。どこか得意げな響きをしていた。ほんとか、と少女は訝しげに呟く。食べてみてください、と笑みを含んだ声が返された。何だかからかわれているようで不服だが、彼の味覚は己と似通っているはずだ。少なくとも食べれないほどの代物ではないだろう。
並べられた皿を素早く手に取り、ベロニカは器用に扉を開けて部屋へと戻る。昨晩二人で熱心に議論し書き込んだノートと色とりどりのペンを端に寄せ、広くなった場所に料理を置いた。ついでに蹴飛ばした布団を手早く畳んでベッドに戻す。皺の波立つシーツが朝日に照らされていた。
しかし、朝食までもらう羽目になろうとは。眉根を寄せ、少女は小さく唸る。
昨日は遅くまでバトルをしていた。特に新しく登場したナンプラー遺跡はまだ研究が進んでいないこともあり、スケジュール更新までずっと二人で潜っていたほどだ。それでもデータは足りなくて。動きを考える頭は冴えきって。戦略を立てたい心は躍りに躍って。
うちに来い、と言い出したのはベロニカだった。今この頭にある立ち回りやポジションを明日まで溜め込むのは不可能だ。それに、高台を陣取るトライストリンガーの視点だけでなく、ステージを駆け回るシューター視点での所感も確かめておきたい。経験を積みに積んだ今日のうちに議論して、アウトプットしたくてたまらなかった。
それを距離の観点から否定し、こちらの部屋に来ないかと提案したのはヒロだった。こちらの部屋までは駅一つ分だからすぐに帰ることができる。その分議論や戦略の構築に時間を割くことができる。ついでに昨日の残りがあるから軽い食事だって食べられる。彼の提案は論理的で魅力的だ。疲れたはずの身体で歩き出したのはすぐだった。
議論し、思考全てをアウトプットし、ノートに疑問を書き出し、動画サイトに投稿されたステージ案内動画を食い入るように見つめ、研究を重ね。気づいた頃には終電はとっくに過ぎていた。泊まっていってください、と布団一式を引きずり出しながら言う少年に甘え、今朝に至る。
本当ならば早くに起きてすぐに帰る予定だったのだ。さすがに泊まらせてもらった上に朝食まで食べさせてもらうのは申し訳無さが先立つ。今度なんか差し入れでも持っていくか、と考えつつ、少女はフローリングに腰を下ろした。途端、思考に何かが引っかかって冴え始めた頭がつんのめる。ん、と細い喉が鳴った。
ヒロは『電子レンジを使えば』と言っていた。しかし、電子レンジを動かした音は聞いた覚えがなかった。眠っていて聞き逃したのかもしれない。だが、『何度か』という言葉が確かなら、複数回使ったということに間違いはない。あんなに高い音を何度も聞いて、己が目覚めないのは不自然である。
まぁ、それほど疲れていたのだろう。何しろ二時間休み無しでバトルし、夜通し頭も口も動かしたのだ。気づかないこともあるだろう。結論づけ、少女は目の前の皿に視線を移す。できたてなのか、どちらの品もまだ細い湯気をあげていた。
柔らかな甘い香りと肉の焼けた香ばしい香りが狭い部屋を漂っていた。
畳む
おべんと食べよ!【ヒロ→ニカ】
おべんと食べよ!【ヒロ→ニカ】
イカタコ売店の物しか食べてなさそうだけど絶対飽きるよなって思ったあれ。ヒロニカ飯食ってくれ~~~~~という話。推しカプには飯を食わせろ。古事記にもそう書いてある。
アゲバサミサンドを食べ飽きたベロニカちゃんと色々と頑張るヒロ君の話。
「飽きた!」
怒声と同義の叫声がロビーに響く。鉄骨が張り巡らされた天を仰ぎ吠えた少女は、今度は地を睨み嘆息する。険しく眇められた目が、手に持ったアゲバサミサンドをじっと捉える。深く息を吐き出した口がぐわりと大きく開き、荒々しい動きでソースの香りを漂わせるそれにかぶりついた。
「飽きますよね」
ガツガツとサンドを食らう友人の隣、壁に背を預けたヒロが苦笑を漏らす。呼吸すると、手に持ったアゲアゲバサミサンドが放つ油の香りが鼻腔をくすぐってきた。誘われるがままに、少年は大きく開いた口で飛び出た爪を捕らえる。バリバリと豪快な音が口内で弾けた。
「こればっかりはどうしようもありませんからねぇ」
「ビッグマザーマウンテンも似たような味だしなぁ。飽きる! もっと違うもん食いたい!」
今一度吠え、ベロニカはすっかり小さくなったサンドを一気に口に放り込む。柔らかな頬がフグのように丸く膨れ、殻と衣が噛み砕かれる固い音とともに萎んでいった。
バンカラ街にはバトルに打ち込む者が溢れている。溢れるがあまりマッチングが早く、大人数がごった返すことを想定した広いロビーは閑散としていることがほとんどだった。そんなバトルに明け暮れる者たちにとってのひとつの生命線が、片隅で営業している売店である。朝晩春夏秋冬いつだって出来たて熱々のサンドを提供してくれるこの店は、激しいバトルで腹を空かせたインクリングたちにとってオアシスであった。何しろ、国際ナワバリ連盟から提供されるチケットさえあれば誰でも食べられるのである。クリーニング代をむしり取られ素寒貧になっても、連敗に連敗を重ね懐が大吹雪でも、くじ引きで有り金全て溶かしても、チケットさえあれば食べられる。オクトリングはともかく、計画性無くカネを使うインクリングにとって救い以外の何物でもない。
そうはいえども、メニューは非常に少ない。なんと六種である。一人で食べられるものだけに限れば四種という驚きの少なさだ。日常的に利用していれば飽きるのは当然である。日々バトルに明け暮れ、時間がもったいないと外で食事を摂るのを諦めるベロニカたちも例外ではない。日々を彩っていた美味しいサンドは、今では空腹を満たすための手段でしかなくなっていた。
「クマサン商会の方では別の賄いが出るそうですよ」
「商会のやつってバトルじゃなくてシャケシバき倒すやつだろ? あんま好きじゃねーんだよなー」
ソースまみれの包み紙をくしゃくしゃに丸め、インクリングは小さく息を吐く。そうですよね、とオクトリングは小さく頷く。ヒロモベロニカも、戦うことが好きだ。だが、それは練りに練った戦略や日々鍛えた腕を試し、ぶつけ、競い合う、肌や心がヒリつくようなバトルが好きなのである。大勢で襲ってくるシャケを迎撃するバイトは、求めるものと少しばかり違う。
小さな口をもそもそと動かし、ヒロは塩っ気たっぷりのサンドを食べ終える。袋状になった包み紙を丁寧に畳み、ぎゅっとひねって小さくする。あとは、と油の匂いが残る口を開く。大きな手の中で小さくなった包み紙がもてあそばれて転がった。
「いっそのこと、お弁当を作るのも手ですね」
「べんとぉ?」
ヒロの言葉に、ベロニカは素っ頓狂な声をあげる。最後の一音が急激に上がった響きは、驚愕と疑念に満ちていた。山吹の瞳が睨めつけるように細くなる。目にも声にも、ほんの少しの呆れと嘲りが見えた。
「飯買いに行くのがめんどくてここの食ってんだろ。弁当作るのに時間使ったら意味ねーじゃん」
「それはそうですけど、総合するとお弁当が一番時間がかからないんですよね。前日に仕込んでおけば後は持っていくだけですし。買いに行く時間よりは短く済むかと思います」
唇を尖らせる少女に、少年は先の尖った人差し指をくるりと回す。バンカラ街、特にロビーがある地区の飲食店はいつだって混んでいる。コンビニエンスストアすら長蛇の列が頻繁に発生するほどだ。ロビーを出て列に並び、食べ、また戻る。外食で移動や待機に時間を使うよりも、弁当を作る時間の方がずっと短く済む可能性が高い。事実、弁当を持ってきてロッカールームで食べている少年少女は度々見かける。
「なにより、自分が好きなものを好きなだけ食べれます」
「あー……いや、でもよぉ……」
訝り細くなっていた月色が丸くなり、また半月に近くなる。視線も声もゆらゆらと不安定に揺れ動く。歯切れの悪い様子も相まって、心が揺れ動いていることが丸わかりだ。
「弁当ってなると、おかずいっぱい作んなきゃいけねーだろ? あたしそこまでレパートリーないから無理だ」
はぁ、とベロニカは嘆息する。重いそれは諦めとわずかな悔しさで彩られていた。地を転がりゆく響きに、ヒロはぱちりと目をしばたたかせる。赤い瞳が黒い瞼の奥に隠れては現れを短く繰り返す。あぁ、と漏れ出た声はうすらと笑みがにじんでいた。
「おにぎりだけなら一時間もかかりませんよ。サンドイッチなんかは夜に仕込んでおけば早起きする必要がありません」
「……それ、弁当って言えんのか?」
未だ訝り眉を寄せる少女に、少年は思わず笑みをこぼす。己の言葉に疑念を抱き納得できないということは、ベロニカにとって『お弁当』は『色んなおかずがいっぱい入ったもの』であるのだろう。それは、彼女が今まで生きてきた中食べた弁当が、おそらく親が作ってくれた弁当がそうであったことを如実に語っている。おかずがたくさん入った弁当。なんと手間暇、そして愛に満ちているのだろう。彼女が愛をめいっぱいに注がれ生きてきた証左であった。
何笑ってんだよ、とむくれた声と鋭い視線が赤い瞳に突き刺さる。すみません、と謝る己の声にはまだ笑みが、愛おしさがにじんでいた。あ、と問うような、問い詰めるような、追い詰めるような低い声が二人の間に落ちる。すみません、と今一度返した声はようやく落ち着きを取り戻していた。
「ともかく、おにぎりやサンドイッチだけでも十分に『お弁当』になりますよ。コンビニにもたまに売っているでしょう?」
「あー……まぁ、そうだけどさ」
実際に商品として確立されている例を出されるも、少女は頬を膨らませるばかりだ。どうにも腑に落ちない様子である。自分の中の常識と違うものをいきなり突きつけられてすぐに受け入れられるほど、己たちの年頃はまだ精神が成熟しきっていない。同じ状況ならば、己も困惑に満ちた声を出していただろう。
弁当なぁ、とベロニカは小さく漏らす。どこか遠くへ飛んでいくようなそれに連れ立つように、腹の虫が鳴き声をあげたのが聞こえた。
「え?」
「あ?」
短い声が二つ、ロッカールームの片隅に置かれたソファの上に落ちる。片方は跳ねるように高いもので、もう片方は地を這うように低いものだ。どちらも、たった一音だというのに感情に満ち満ちていた。
「ベロニカさんもお弁当作ってきたんですか?」
「そうだけど。何だよ、その顔」
大きな保冷バッグを持ったヒロは、丸い目を何度も瞬き問う。答えるベロニカの膝には、小さな保存容器が載っていた。輪ゴムで厳重にまとめられたそれは、ザトウマーケットのプライベートブランドの容器である。肯定の言葉からも、それが弁当であるのは明白だった。イエローの瞳が黒い瞼の奥に隠れて細くなる。流行りのメイクを取り入れた眉は寄せられ、真ん中に深い皺を刻んでいた。
「いえ……、あの……。実は、ベロニカさんの分も作ってきて……」
刺すような声と視線に、少年は歯切れ悪く答える。視線から逃げるように顔ごと逸らす様も、人の目を見てハキハキと返す普段の彼からはかけ離れた姿だ。
昨日の会話から、ベロニカは簡素な弁当を想像できない様子がよく分かった。想像できないならば、実際に見るのが一番だ。そう考え、昨晩目覚ましアラームを少しだけ早くに設定し、ほんのりと睡魔が絡みつく身体で作ってきたこれは、他人に食べてもらうに耐えうる出来だと自負している。しかし、彼女も作ってきたならば話は別だ。きちんとした『お弁当』像を持つ彼女が作ったそれの前に出せるはずがなかった。
少年は手にしたバッグをそろりそろりと自身の背中へと隠していく。少し大きな保存容器二つ分のそれは、同じ年頃の子よりもしっかりとした身体の後ろに消えていった。
「マジで!?」
弾んだ大きな声とともに、まさしく流れ星のように黄金の瞳が輝く。バトルのさなかとはまた違う煌めきを宿したそれは、少年の手に抱えられた鞄をまっすぐに捉えた。少女は隠れゆくそれへと手を伸ばす。姿が消えきるよりも先に、小麦色の手が青いバッグを捕らえた。
「何で隠すんだよ」
「あー……えっと……、なんとなく?」
むくれるベロニカに、ヒロはまたもや歯切れ悪く返す。顔は未だに彼女から逸れており、視線も所在なさげに宙を彷徨っている。鞄を握る手に少しばかり力を込めてみる。察知されたのか、己が引くよりも先に引っ張られ、果てには埒があかないとばかりに奪い取られた。
理由など、『なんとなく』なんて曖昧なものではない。ただただ『恥ずかしいから』であった。だって、自分ひとりだけが浮かれているみたいではないか。昨日の今日で、しかも他人の分まで勝手に作ってくるだなんてはしゃいでいるようではないか。喜んでもらえるだなんて勝手に思い込んで作ってきただなんて恥ずかしいではないか。まったくもってイカしていない。そんな姿を想いを寄せるヒトの前で自覚して、正常な判断と行動ができるはずがなかった。
「あたしのなんだろ? 食わせろよ。つーか食う」
「もちろんいいですけど……、あの、本当に簡単なものですよ?」
安物の保冷バッグを遠慮なく開ける少女に、少年は不安げに問う。事実、中身はおにぎりとちょっとした副菜一つだけ、簡素も簡素なものである。見栄を張って副菜をつけたものの、彼女が作ってきた『お弁当』には到底敵わないだろう。決して比較し優劣をつけるようなヒトではないことは分かっている。けれども、きちんとした『お弁当』と並べられて食べられるのは胸に恐怖が爪立てるのだ。
「あたしのも簡単だぞ。サンドイッチだけだ」
ほら、とベロニカは自身が持ってきた保存容器を掲げる。細い輪ゴムの背景は白一色だ。保存容器自体は透明だから、中身の色がそのまま出ていることは明白である。本当に『サンドイッチだけ』らしい。
え、と首を傾げるオクトリングに、インクリングもつられるように首を傾げる。しばしの沈黙が二人を包む。んー、と尻上がりな唸りが使い込まれたソファの上に落ちた。
「サンドイッチだけでも弁当になるっつったのヒロだろ?」
「あ、えぇ、まぁ、そうですけれど」
「やってみたら案外簡単だし早くていいな。たまに作るのもいいかもなー」
狼狽えながら返すヒロに、ベロニカは口角を上げて保存容器を指でなぞる。あぁ、はい、そうですね。空白を埋めようと、意味を為さない言葉がボロボロと口からこぼれ出ていく。困惑と消沈、焦燥。様々なものが彼の頭を掻き回していた。
「ヒロのは何だ? サンドイッチ?」
「おにぎりです。あと、ブロッコリーのおかか和えもちょっとだけ」
「すげーじゃん!」
恥ずかしくて、苦しくて、悔しくて、口はもごもごと醜く動きいじけたようなみっともない声で言い訳めいた言葉を紡ぐ。そんな無様な姿を晒しているというのに、ベロニカはきらんと音が聞こえそうなほど瞳を輝かせる。まるであの白黒猫を見つけた茶猫のようだ。いつだって元気に言葉を作り出す口は、めいっぱいに開かれていた。はぁ、と感嘆めいた音がカラストンビの陰から姿を現す。
「あたしはおかず作んの無理だったんだよなー。すげー」
「……別に、和えただけですし。本当に簡単なものですから」
すごいだなんて、と続ける声はロビーから流れる音楽に掻き消されてもおかしくはないものであった。逃げるばかりの顔はついには俯き、地面を眺めて表情を隠す。は、と疑問形の一音が頭の上に降ってきた。
「簡単だろうが何だろうが作ったのは間違いねーだろ? すげーよ」
開けていい、と尋ねる声の後にパカリと蓋が開く音。おぉ、と感動と歓喜でめいっぱいに飾られた音が頭上で弾けた。いただきます。手と手が合わせられる音。割り箸が割れる音。食事の音が少年の丸っこい耳に流れ込んでいく。全て、心臓の音が塗り潰していくようだった。
「うめぇ!」
澄み渡った声が爆発するかのように響き渡る。もごもごと口が、喉が動く音が頭上から、隣から聞こえる。喜びに満ちた音に、少年はおそるおそる顔を上げる。どうにか見やった隣には、箸を操り器用に大きなおにぎりを食べる少女の姿があった。その表情は花咲くように華やいで、目はキラキラと輝いて、かぶりつく口元や膨らむ頬は紅で彩られていて。
「梅干しとか久しぶりに食べた!」
「……すみません、僕の好みで作ってしまって」
上機嫌そのもののベロニカを前にしても、口は謝罪ばかりを紡いでしまう。これだけ喜んでくれることに感謝すべきだというのに、いじけた子どもそのものの態度を取ってしまう。なんてイカしていないのだろう。もう消えてしまいたい気持ちだった。目の前の水を被れば弾けて消えられるだろうか。不穏な考えが青い頭をよぎる。
「元はヒロの弁当なんだろ? ヒロが食いたいもん詰めて当たり前じゃん。あたしは食わせてもらってるだけなんだぜ?」
全部うめーから自信持てって。
バシバシと丸まった背中を大きな手が叩く。息が詰まりそうだった。涙がこぼれてしまいそうだった。全部ぐっと堪えて、大きく息を吸って飲み込む。閉じつつあった目を開き、地面ばかりを見ていた顔を上げ、丸まった背を伸ばし、きちんと姿勢を正す。ようやっと、紅梅が向日葵をまっすぐに見つめた。
「……美味しい、ですか?」
「うめぇ! めっちゃ美味い! ブロッコリーって醤油も合うんだな!」
平常を装った声で問うと、矢継ぎ早に賞賛の声が飛んでくる。鰹節をまとったブロッコリーを頬張る顔はまさに満面の笑みという表現が似合うものだ。あまりの眩しさにヒロは目を細め、唇を噛み締める。あっ、と短い声とともに箸を操る手が止まった。
「ヒロもあたしの食べろよ。もらってばっかじゃやだ」
「そんなの気にしなくても――」
「気にするだろ。こんなに美味いもん食わせてもらってんだからお礼はしなきゃダメだろーが」
まぁ礼になるか分かんないけどな、とベロニカは笑う。先ほどまでの明るい表情は少し陰り、眉尻は申し訳なさそうに下がっている。そんな顔をさせたくて作ったわけではないのに。そんなことない、と飛び出しそうになった言葉をぐっと飲み込む。こんなことを言っても、彼女は更に気にするだけだ。更に気を遣わせてしまうだけだ。ここは好意に甘え、礼としてきちんといただくべきである。
では、と一言断りを入れ、ヒロは保存容器を縛る輪ゴムを外す。青い蓋を開けると、一面白だった。ラップの乱反射で色は見えるものの九割九分白だ。おそるおそる隙間に指を入れ、一つ取り出す。ラップを半分外し、中身を剥き出しにする。合わさった食パン二枚の隙間から少しだけ白っぽい何かが見えた。いただきます、と恭しく呟き、オクトリングは小さくかじりついた。
「――美味しい」
舌の上を満たす塩気に、ほんのりと広がるまろやかな風味に、鼻腔をそっと撫ぜる香りに、少年は溜め息めいた言葉を漏らす。味と食感から、中身はツナをマヨネーズで和えたものだろう。舌を刺激しほのかに香るのはきっと胡椒だ。ツナの油はしっかりと切ってあるものの、マヨネーズたっぷりだからか少し柔らかい。だからこそ、少しパサついたパンによく馴染んでいた。
「ツナマヨ挟んだだけだぞ」
「胡椒入れてありますよね。『挟んだだけ』だなんて、そんな」
とっても美味しいです。
溜め息めいた調子で少年は呟く。赤は緩やかな弧を描き、固く結ばれていた口元は綻んでいた。美味しくて、でもすぐに食べてしまうのはもったいなくて、少年は少しずつかじっていく。食べ終わる頃には、隣から聞こえる食器の音は消えていた。
「……ほんとに美味かった?」
「美味しかったです!」
綻んだ口元そのまま、少年は答える。先ほどの沈み具合など嘘のような、明朗で弾んだものだった。そっか、と応えた少女の唇は少し尖っている。けれども、ふわりと解けた頬の様からそれがただの照れ隠しであることは明白であった。
「ヒロの弁当もめっちゃ美味かった。ありがとな」
「喜んでいただけたのなら、何よりです」
「おう。すげー美味かったしすげー嬉しい」
あんがとな、と少女は笑う。インクの色も相まって、まさしく夏に咲き誇る向日葵のようだった。眩しくて、愛らしくて、面映ゆくて、少年は目を細める。こちらこそ、と返す声は穏やかでほのかにとろけたものだった。
「残りの食ったらナワバリ行こーぜ。次リュウグウだろ?」
「ですね。早く食べてしまいましょうか」
保存容器を片付け、ゴミをまとめて。二人は交換していた弁当箱を元の持ち主へと返していく。少女はラップを剥がし、少年は蓋を取って箸を持った。
いただきます、と華やいだ声が今一度ロッカールームに響いた。
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諸々掌編まとめ14【SDVX】
諸々掌編まとめ14【SDVX】色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど最近3000字ぐらいのが多い。あと大体嬬武器兄弟。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟2/ライレフ3/ロワ→ジュワ
夏空、雨香り/嬬武器兄弟
参考:“降り始め”と“雨上がり”で違う!? 「雨の匂い」の正体は? - ウェザーニュース
湿気った空気が剥き出しの肌を撫ぜる。熱を孕んだそれは、昇降口に向かうにつれ存在を強く主張していった。湯でも沸かしているのではないか、なんて馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。夏の蒸した空気は人の思考を少し狂わせる程の力を持っていた。
ロッカーを開いて靴を履き替える。窓際に並ぶ傘立てから、朝置いたビニール傘を抜き出した。外に続くガラスドアへと足を進めるごとに、空気が湿度を増していく。サウナと言われても信じるほどの蒸し暑さに、烈風刀は小さく眉根を寄せた。
両開きのドアをくぐり抜けると、一気に湿り気がまとわりついてくる。街なかでよく撒かれているミストの下を潜り抜けた時を思い出す。肌で感じる温度は正反対だが。
「あっつ!」
後ろから叫びに近い声。しかめ面で振り返ると、そこには同じような顔をした双子の兄がいた。普段はぱっちりとした鮮やかな緋色の瞳は瞼の奥に半分ほど隠れている。八重歯がチャームポイントの大きな口はへの字に曲がっていた。うへぇ、と下がり調子の重い声が暗さを増したコンクリートへと落ちていった。
声に出さないものの、烈風刀も全く同じ心地だ。ただでさえ蒸し暑い日々が続いているというのに、今日に至っては朝から雨が降る始末である。一時は激しく音をたてて地を打っていた雨粒は、ホームルームの時点でもう姿を消していた。けれども、彼らがもたらした水分はしっかりと空気に残っているのだ。夏の気温、日差し、そして水気。全ては不快指数を凄まじい勢いで増加させていった。
「やっぱ傘いらなかったじゃん」
うっすらと日が差す空を見上げ、雷刀はどこか得意げに言う。事実、彼に手には烈風刀のように傘は無い。調子の良い言葉に、弟は眉間に皺を刻んだ。
「朝は降っていたでしょう。何言ってるんですか」
「でも烈風刀が入れてくれたし? 一本でじゅーぶんだったじゃん?」
「無理矢理入った、の間違いでしょう」
部屋を出た時点で鈍色の曇り空。数分歩いたところでポツポツと降り出し、すぐさま音を響き渡らせるほどの勢いとなった。降水確率四〇パーセントを過信し傘を持たずに出てきた兄は、入れて、と己の差した傘に身体をぐぃっと押し入れてきたのだ。持っていた白い柄は当然のように奪われ、当たり前のように身を寄せられ。狭い、頼む、と言いあいながら登校したのをあまり人に見られなかったのは今日唯一の幸運だ。不運の全ては傘を持たない自業自得の片割れがもたらしてきたのだけれど。
「あっつ……すげーにおい……」
眇目で見やる弟のことなど気にもかけず、雷刀はうんざりとした調子で声を漏らす。雨上がりの世界は、絡みつくような熱気と湿気、独特の臭いで満たされていた。鼻をかすめる臭気に、烈風刀は口元を歪める。ほこりっぽいような、湿っぽいような、土っぽいような、粉っぽいような何とも言えない臭いは、己の好みにはかすりもしないものだ。蒸し暑い空気も相まって、不快感ばかりが募っていく。
「なんだっけ。名前あんだっけ?」
「あるんですか?」
朱の声に、碧は首だけで振り返る。動いた翡翠の瞳に、顎に手を当て宙を見上げる兄の姿が映った。夕日より鮮烈な朱い頭が徐々に傾いていく。呻きに似た声がまっすぐになった口から聞こえた。
「あったはず。こないだなんかで見た」
「ひとつも覚えてないではないですか」
うーん、と喉を鳴らす兄に、弟はうんざりとした表情で返す。情報などとは到底言えないほど、何もかもがあやふやだ。おそらくたまたま思考に引っかかったそれを吟味せず直接吐き出しただけなのだろう。感覚ばかりが鋭い片割れはいつだってそんな調子だ。
「降りそうな臭いは『ペトリコール』でしたっけ」
「そんなんも聞いた気がする……でもなんか違う……もっとすげー名前だった……」
なんだっけー、と朱は重い声で繰り返す。薄くなった雲から姿を現し始めた夕日が、テスト中のそれに似た顔を照らし出した。
うんうんと唸る片割れを横目に、碧は携帯端末を取り出す。開いたウェブブラウザ、角が丸い入力欄に『雨上がり 臭い』と打ち込む。硬さが窺える指が虫眼鏡アイコンをタップした。コンマ数秒で現れた画面、その一番上に、少し大きな文字が並ぶ。『雨上がりの匂いはゲオスミンと呼ばれ』という一文が青色でハイライトされていた。
「『ゲオスミン』だそうです」
「そう! それ!」
短く告げる弟に、兄は叫ぶように返す。剣胼胝が残る人差し指がまっすぐに伸び、白い端末を指し示した。
「もうちょいで思い出せたのに」
「絶対思い出せませんよ」
唇を尖らせる雷刀を、烈風刀はバッサリと切り捨てる。思い出せたし、と膨れ面で漏らす兄を横目に、弟は手にした小型端末を鞄にしまう。そのまま、一人歩き出した。烈風刀、と慌てた調子で名前を呼ばれる。気にすることなく、少年は歩みを進める。迫る足音、並ぶ足音。
「すげー名前だな。ゲオスミン」
「そうですね。何というか……考えつかない響きです」
「分かる」
味わうように、記憶に刻むように、朱は立ち込めるそれの名前を繰り返す。覚えたての言葉を何度も口にする子どもとまるきり同じだ。ゲオスミン、と碧も口の中で呟いてみる。堅苦しく力強い響きは、ペトリコールと対を成す言葉とは到底思えないものだった。
茜に照らされる中、兄弟は帰路を進んでいく。蒸した空気といかめしい名前の臭いが二人にまとわりついていた。
雨、一人、コインランドリー/ライレフ
ゴウンゴウン。低い音をたてて銀の筒が回る。ガラス戸を隔てた中、音も無く白い布も回る。無骨な機械の中で柔らかな布が持ち上げられては落ちを繰り返すさまはさながら餅つきだ。普段使っている縦型洗濯機では見られない、ある種珍しい光景である。
雨続きで。洗濯物は部屋干しでもなかなか乾かなくて。でも溜まった欲望は抑えられなくて。愛情を注ぎ注がれる瞬間が恋しくてたまらなくて。
結果、小雨の中コインランドリーを訪れ、わざわざ金銭を使い愚かな情事で汚したシーツを洗う今に至る。
ゴウンゴウン。低い音が一人きりの建物内に響く。規則的な音色は、うっすら聞こえる雨音も相まって眠気を誘うような響きをしていた。きっと、自業自得の疲れが残っているのもあるのだけれど。
洗濯段階を終えたシーツは、とっくに乾燥段階に入っていた。大型の洗濯乾燥機をシーツだけが占領するのはなんとも贅沢である。本当ならば他の洗濯物も持ってきたかったが、一人で運ぶにはこれが精一杯だ。二人で運べばよいのだが、己の欲望に付き合わせた――あちらも乗ってきたのだから連帯責任だなんて思うのは少し勝手がすぎる――恋人の身体に鞭打って出歩かせるのは気が引ける。持っていける分中途半端に洗うよりもシーツ一枚だけに絞ってしまった方がいいだろう。それに、普段使わないガス乾燥機に耐えられない衣服が万一混じろうものなら大問題だ。
回る布の横、小さな電子パネルへと視線をやる。古めかしい赤いデジタル数字は、終了まで残り十分を切ったことを示していた。盗まれるのではないかという不安がつきまといずっと座って始終を見ていたが、やっと終わりが来るらしい。ふぅ、と何もしていないというのに小さく息を吐く。なかなか見ない光景は面白かったが、八割方は単調で代わり映えがしない動きだからか最終的に退屈さが勝っていた。
ゴウンゴウン。白い布が洗われ乾かされていく。昨晩の欲望など全て洗い流してまっさらにしていく。綺麗に消し去って日常へと帰らせてくる。
自動ドアの外を見やる。外はまだ小雨が続いていた。天気予報も向こう一週間は雨である。何しろ梅雨に入ったのだ。雨が降るのは自然であり当然である。それを分かっていて、シーツを干すのが難しい天気だと知っていてベッドに雪崩込んだのだから己は大概である。我慢はしたのだ。爆発した時が運悪く悪天候の日々と重なっていただけで。そんな言い訳を考え、少年はまた息を吐いた。
ゴウンゴウン。洗われ乾かされ、シーツが回る。昨晩の熱よりもずっと穏やかな温かさに触れるまで、あと八分。
朝のお楽しみは夜から/嬬武器兄弟
朱い瞳が青白い庫内を見回す。台所の一角にある冷蔵庫の中身は、普段よりも閑散としていた。牛乳は残っているものの、手から伝わる重さをみるにあと一杯分ぐらいか。買い足す必要があるだろう。卵はまだあるから買わなくてもいい。野菜は玉ねぎを使い切ったところだったはずだ。軽く整理しながら保存している食材を確認していく。明日の買い物で余計なものを買うのは避けたいのだ。
ガサゴソと音をたてて、庫内に手を入れ片付けていく。三つ重なったの納豆パックの影、少し奥から食パンの袋が発掘された。皺の寄ったビニールに書かれた賞味期限は明後日。ちょうど二枚あるから、明日の朝食に使えばいいだろう。
牛乳。卵。食パン。食材が頭の中に並べ立てられていく。全てが繋がった瞬間、青白い光に照らされた瞳に輝きが宿った。
「烈風刀ー」
冷蔵庫の扉を閉め、雷刀は弟の名を呼ぶ。何ですか、と返ってきた声は少しだけ遠い。微かに聞こえる物音から、彼もまた部屋の整理をしているのが窺えた。自身の手によって掃除は行き渡っているだろうにマメなものである。
「明日の朝、フレンチトーストでもいい?」
「いいですよ」
了承の声に、兄はよっしゃと小さく声を漏らす。早速閉めたばかりの扉を開け、器用な手付きで材料を取り出した。
卵を割ってほぐし、砂糖を気持ち多めに入れ、残っていた牛乳を全て注ぎ入れて混ぜる。ジッパー付きの保存袋に食パンを一枚ずつ放り込み、先ほどの卵液を等分して注いでいく。入念に空気を抜いて、ぴっちりと閉じた。軽快な足取りで冷蔵庫に戻り、整理して少し広くなった庫内に袋を横たわらせて置く。明日の朝に思いを馳せながら扉を閉じた。
「別に明日の朝でもいいでしょうに」
隣から声と水の音。目を向けると、手を洗っている烈風刀が映った。濡れた手がスポンジを掴み、シンクに放り込まれたままのボウルをひょいと取って洗い出す。あんがと、と礼を言うと、ついでですから、と事も無げな声が返ってきた。
「そーだけどさ。やっぱ時間置いて染みこませたやつのが美味いじゃん?」
漬け込み時間を要するフレンチトーストだが、時間をかけず液を染みこませる方法はある。食パンにフォークで軽く穴を開け、卵液と一緒に容器に入れ電子レンジで軽く温めるだけでも十分によく液は行き渡るのだ。手軽さと手早さを考えるとそちらの方がいいが、やはり時間があるのならばじっくりと漬けて染みこませたい。長い時間をて甘い卵液を全て吸い込んだフレンチトーストは、崩れそうなほどトロトロで美味しいのだ。
それにさ、と雷刀は人差し指を立てる。洗い物を拭いて片付けた弟は、タオルを畳みながら兄へと顔を向けた。
「明日の朝ごはんが決まってたらなんか楽しいだろ? 楽しみで早く起きれそうじゃん?」
にへらと朱は笑う。所謂時短レシピはある。それでも美味しくできあがる。けれど、このワクワクした期待の気持ちだけはどうやったって生み出せないのだ。それに、せっかくの休みなのだからちょっとの楽しみや幸せを用意しておきたいではないか。
碧い目がぱちりと瞬く。丸いそれが、ふっと柔らかな線を描いて細くなった。蛍光灯に照らされた瞳に宿る色は温かで穏やかだ。
「そうですね」
「だろー?」
「でも、楽しみすぎて眠れない、なんてことにはならないでくださいよ」
「さすがにそれはねーって!」
軽口を叩く烈風刀に、雷刀は大きく返す。笑みを隠しきれない軽やかな響きをしていた。夜も随分と更けた頃だというのに、キッチンは明るく温かな空気が満ちていた。
朱は白い扉に視線を移す。少し固い大きな手が、つるりとしたそこを愛おしげに撫でた。
真夏のお手入れは優美に/ロワ→ジュワ
春のくさはらを思わせる緑が、まさしく壊れ物を扱うかのように丁重な動きですくい上げられる。白い手袋に包まれた手に握られるブラシが、ウェーブがかった若草色をそうっと、そうっと撫でていく。夏の湿気を薄くまとった緑髪は、丁寧な指先によって柔らかさと軽さを取り戻し始めた。
髪を梳かれる女も、髪を梳く男も言葉一つ発しない。男の方は、これ以上無く真剣な面持ちで手を動かしていた。万が一にも髪が引っかかるなんてことがあれば喉を掻き切る、と言わんばかりの鋭い輝きと危うさ、そして恭しさが彼を包んでいた。同時に、これ以上に無い褒美を賜ったような幸福に満ちた表情をしていた。
女の方は、触れられているというのに表情らしい表情が無い。長い睫に縁取られた麗しい目はうっすらと細くなっている。化粧の気配が無いのに鮮やかに色付いた口元はまっすぐに閉じられていた。動きの少なさからも眠っているのではないか――それどころか、生きたヒトではなく一つの美術品なのではないかと思わせるような、人知を超えた何かを醸し出していた。必然、男の動きに全く反応をしない。美しい長髪は好き放題にされていた。
ボリューミーな髪全てに手を施し終えたのか、男はブラシを傍らの教壇に置く。大ぶりな櫛を離した手が緑をさらい、白い手袋の上にほそやかな緑がまとめられていく。それもまた、恭しくこまやかな動きだった。
柔らかな布地の上で、シルクのようにすべやかな髪が形を変えていく。三つに分けられた緑は器用に編み込まれ、最後はうなじより少し高い位置で丸められた。長いピンをいくつか通して固定された髪は、つるりと滑っていくようなつややかさを失うことなく美しい球状にまとめられている。まるで初夏を知らせる葉桜のようなみずみずしさと鮮やかさがあった。若干低い位置でまとめられている様はうっすらと幼さを漂わせる。反して、ぴょいと跳ねる後れ毛は心臓が跳ねるほどあでやかだ。どこを取っても豊かな体つきや澄ましたかんばせとは印象が全く異なるが、相反することなく調和していた。むしろ、冷たさすら感じる大人然とした姿に可愛らしさと艶やかさが添えられ、更なる魅力を引き出していた。
「どうですか」
鏡を手に男は問う。ミュージカルのようななめらかな歌声に似た響きをしていた。問われた女は唇はおろか表情筋すら動かさない。しかし、その表情が心なしか晴れやかになったように見えるのは気のせいではないだろう。なにせ、剥き出しの背を覆い熱を閉じ込めていた長い髪がいっぺんに取り払われたのだ。熱を孕んでいた背を撫ぜる涼しさは、いっとう心地の良いものだろう。
彼女に心酔する男もそれを感じ取ったのか、満足したように二、三と頷く。あぁ、と漏れ出た感嘆の吐息はとろけたものだった。まるで恋人に愛を囁くような響きをしていた。
「……あら」
微かな音をたて、音楽室の前方にある自動ドアが開かれる。飛び込んできたのは、どこか固さがある少女の声だった。男の青い瞳がすぃと動き、教室と扉の境目で立ち尽くす生徒を見る。扉を開けた張本人であるグレイスは、眇めた目でうろうろと教室中を眺めていた。『気まずい』という心の中身が顔面にバッチリと現れている。
「あぁ、もう授業の時間でしたか」
「いや、まだよ。私がちょっと早く来ただけ」
仮面の奥で柔らかく笑う青年に、少女はゆるく首を振る。事実、黒板の取り付けられた時計は午後一番の授業を始めるにはまだ早い時間を示していた。
「……あら?」
宙を彷徨っていた躑躅の視線がピタリと止まる。マゼンタの双眸に映るのはつややかに輝くエメラルドグリーンだ。音楽の担当教師であるシャトー・ロワーレが『ジュワユース』と呼んで愛してやまない彼女の髪は、普段と違い美しい球体となり形の良い頭を彩っていた。常は床についてしまうのではないかと気に掛かっているだけに、綺麗にまとめられた姿は少女の心に安心感をもたらす。同時に、見た者全てを惹きこむような美麗さに目を奪われていた。
「涼しそうでいいわね。綺麗」
「よかったですね、ジュワユース」
固かった表情をやっと緩めた生徒の言葉に、音楽教師は愛剣の顔を覗き込む。瞬きすらしない金の目は依然まっすぐと虚空を見つめるだけで表情が変わる気配も無い。それでも何かを感じ取ったのか、勝手に何かを解釈したのか、青年はうんうんと満足げに頷く。異常であるが、いつも通りの光景だった。少なくとも、あまり物怖じしないグレイスがツッコミの一つもしない程度には。
「最近よく結んでるわよね。貴方がやってるの?」
ジュワユースはほとんど動かない。剣の精と噂される彼女が歩く、それどころか指先を動かす様子すら、少女は見たことがなかった。顔の筋肉一つすら動かさないことで有名だ。妖精だし人間とは感性が違うんじゃない、いやロワーレ先生が何でも押しつけるからでしょ、と生徒の間では一つの謎として話題に上ることは多々ある。事実は所有者本人すら知らないのだけれど。
「はい。そのままでは背中が暑そうですので」
にこやかに答え、ロワーレは萌ゆる春山のような髪にそっと触れる。手袋越しでは感触は分からないだろうが、布地に引っかかることなくさらりと流れていく様からよく手入れがされていることが分かる。当然だ、所有者は執着を通り越した恐ろしい何かを感じるほど日々愛を囁き熱心に注いでいるのだ。日頃の手入れに瑕疵など一つもなかった。
普段、ジュワユースは豊かな長髪をまとめることなく垂らしている。床に毛先が触れても一切反応しないほど――ロワーレは非常に慌てるが――無頓着だ。しかし、ある夏に彼女は言ったのだ。あつぃ、と。
そこからのロワーレの動きは素早いものだった。剣の姿であれヒトの姿であれ手入れの頻度と入念さを増し、共にいる際は空調で心地良い温度を保つことを欠かさず、最終的には背を覆ってしまう長い髪をまとめて熱を逃がしてやるようになった。本人から否定的な反応がないのを良いことに、青年は様々なヘアアレンジを試し始めた。ポニーテール、ツインテール、ハーフアップ、多様な編み込み、そして今日のようなお団子。様々な髪型が精の頭を彩った。今のところ抗議の声も喜びの声も無い。
へぇ、とグレイスは感心したように息を吐く。彼女自身、姉のような存在にヘアアレンジをして遊ばれることが多い。年頃の少女らしくあろうと雑誌やウェブサイトを熱心に漁った時期もあった。それ故に、目は肥えている方だ。その感性をもってしても、ジュワユースに施されたヘアアレンジは見事なものだった。『暑さをしのぐ』という機能性の中に、美しさや艶めきを残すのは初心者にはなかなかできないことだ。音楽が専攻であるこの教師は、己の髪に頓着がなさそうなこの教師は、それを見事にやってのけたのだ。これが『愛』というやつだろうか、と少女は考える。それにしては、熱烈を通り越して苛烈だが。
「そろそろ戻りましょうか」
ロワーレはジュワユースの細い肩に触れる。途端、美しい緑髪と健康的な肉体は消え去った。残るのは剥き身の剣だ。授業の時間が近いから本来の姿に戻ったのだろう。ボルテ学園の音楽教師が愛剣をタクトとして使うのは有名な話だ。もちろん、生徒であるグレイスも知っている。席が最前列であるため、その切っ先が目の前を横切る恐ろしさを何度も味わっていた。
「いいの? せっかくやってあげたんでしょ?」
躑躅は首を傾げる。あの毛量、あの手の込みようから見るに、髪をゆわうにはある程度の時間がかかっただろう。そして、おそらくそれはゲームのセーブデータのように保存などされず、次に会う時には全て解けている。好きな人――ヒトではないけれど――の新たな姿をそうも簡単に見れなくなってしまってもいいのだろうか。疑問で彩られた声と瞳に、仮面の奥の瑠璃色がぱちりと瞬く。あぁ、と漏らした低い声はどこか柔らかで甘くて、紡ぐ口元は綻んでいた。
「どんな姿であっても、ジュワユースは美しいですから」
ロワーレは白い仮面の奥でにこりと笑う。そう、とグレイスは曖昧な笑みを返す。答えになっていないが、それ以上を突き詰める度量を少女は持っていなかった。突き詰めれば授業が三つは潰れる羽目になるだろう。
トトト、と軽い足音が音楽室の床を転がっていく。教壇斜め左の最前列、自身に割り当てられた席に座り、グレイスは小さく息を吐いた。余計なことを言って捕まらなくてよかった、という安堵がこれでもかとにじみ出ていた。
白い指先が躑躅色の髪に触れる。癖が強く長いそれが、動きに合わせてふわふわと揺れる。今日、彼女は自身で髪を整えていた。まだまだほつれやゆるみが目立つが、朝の短い時間でやったにしては上出来である。それでも、ロワーレが整えたものよりも劣っているのは少女自身が一番分かっていた。
まだ昼休みであることを確認し、グレイスは携帯端末を取り出す。動画アプリを開き、検索窓をタップする。細長い入力欄に『ヘアアレンジ ロング やりかた』と短いワードが刻まれた。
恋人要項/ライレフ
頭とソファの背もたれがぶつかり鈍い音をたてる。覚えるはずの痛みは頭の中に渦巻く疑問によって誤魔化されてしまった。うぅん、と呻き声が喉から漏れる。唇はぴったりと合わさり、真一文字を描いていた。
背もたれに預けた体重を移動させ、雷刀は元の姿勢に戻る。膝を肘置きにし背を丸めて携帯端末を眺める姿は褒められたものではない。けれど、今この手にある液晶画面の中身を堂々と披露するのは己であれど難しかった。
手のひらに収まる程度の携帯端末、その煌々と光る液晶画面に並ぶのは『恋人』『アピール』『積極的』『ドキドキ』など、どこか乙女チックで甘ったるい、まばゆいほどに輝いて見える単語ばかりだ。画面から砂糖やら蜜やらのような匂いが漂ってきそうなほどの密度である。普段ならば決して見ないようなページだ――今は藁にも縋る思いで見ているのだけれど。
先日、長年積もりに積もった恋心が報われた。雷刀は実の弟である烈風刀に告白し、想いが通じ合ったのだ。それこそ踊らんばかりに喜び、歓喜のあまり涙し、溢れた愛をたっぷりぶつけたほどである。
交際は順調である。だが、順調すぎるのだ。お互い初めての交際ということもあり、手を出しあぐねているのが己でもよく分かる。もっと『恋人』らしいことをしたい。もっと『恋人』らしくありたい。そう思う心はどんどんと大きくなり、少年を突き動かした。手始めに、インターネットで情報を集めるという些細なことから。
そうして『恋人らしいこと』と曖昧極まるワードで検索をかけ、トップに出たページから片っ端から読み漁り。どれも短いページだというのに、夜はすっかりと更けていた。
問題はその記事の内容だ。華やかな装飾で綴られたページに書いてあることはほぼ同じだった。『手を繋ぐ』とか、『抱き締める』とか、『一緒に出掛ける』とか、『メッセージを送りあう』とか。
どれも日常的な行動だった。ふらふらと歩く己を引き留めるために手を繋ぐことは多い。抱き締めるのだって感情表現の一つとして度々行っている。一緒に出掛ける、メッセージを送るに至っては日常に染みこんだ必然の行動であった。買い物に行くには手が多い方が便利であるし、メッセージを交わさなければ料理や風呂の段取りが付かない。『恋人らしいこと』のほとんどはもう達成しているのだ。
頭を抱えたのは言うまでもない。だって、まさか『恋人らしいこと』をほぼ達成しているだなんて思わないではないか。何年も共に暮らしている肉親であることも大きいだろう。にしたって、こうも早々とクリアしているとは思わないではないか。今まで行ってきた全ての行為に恋人らしい甘やかでときめく要素は無かったけれども。
煌々と光る強化ガラスを指で弾く。『恋人としたこと十選!』と題されたページがスクロールされていき、下部で止まる。そこに並ぶのは直球的な一言だ。『キスする』という、一番に思い浮かぶ行動。
はぁ、と雷刀は深く息を吐く。あまりの重さに質量を持ち床を転がっていきそうな勢いである。当然だ、唯一残された『恋人らしいこと』が現時点で一番ハードルが高い、雲の上にあるような手が届かないものなのだから。
「キスなぁ……」
呟いた途端、ぐちゃぐちゃと掻き回されていた思考がピタリと止まる。まるで映画のスクリーンのように、弟の姿が、顔が思い浮かんだ。キス。口付け。頭の中で言葉を重ねる度、意識は自然と唇へとズームアップしていく。それが間近で、触れそうで、くっ付きそうで。
「腰を悪くしますよ」
ぼけにぼけた意識に澄んだ声が飛び込んでくる。丸まりに丸まった少年の背が、バネめいた動きで勢い良くまっすぐに正された。うわ、と驚きの声が後ろで聞こえた。
まずい。見られた。いや隠してたし見えていないか。バレたのでは。焦燥が頭を染めゆく。普段通りに返そうと口を動かすも、声帯は仕事を果たさなかった。ひゅ、と情けない音をたてて息が漏れ出るだけだ。
気にしていないのか、声の主である弟は何も言わずに隣に座った。揃いの携帯端末を取り出し、軽い指捌きで操っていく。おそらくメッセージや天気を確認しているのだろう。洗濯物は少しばかり溜まっていた。
ドッ、ドッ、と心臓が広がっては縮み、体内に爆音を響かせる。肉と皮膚を破って外に漏れ出てしまってもおかしくないほどの激しさだ。恋人のことを、それもあまりにも格好が付かない内容を考えていたら本人が現れたのだからこうなるのも仕方の無いことである。
「どうしたんですか?」
訝しげな声が飛んでくる。いつの間にか項垂れていた頭をバッと上げると、そこにはこちらを見る烈風刀の姿があった。透明度の高い碧い目は半月になってこちらを見据えている。整えられた眉は少しばかり中央に寄っているように見えた。
「あ、いや、なんにも? べつに? ふつーだけど?」
「普通の人はそんな動きをしないんですよ」
バタフライめいて視線が宙を泳いでいく。言葉を吐き出す口は音の数よりも動きが多かった。指先は素早く携帯端末をスリープ状態にし、軽快にパスして恋人から遠ざける。明らかに不審者の動きであった。これを普通と呼ぶならば社会が混乱に陥ってもおかしくはない。もちろん、冷静極まりない碧にはすぐさま指摘された。
え、あ、うん。しどろもどろに声を漏らし、雷刀は再び項垂れる。頭が痛い。顔が熱い。指先が冷たい。地に足が付いている感覚が無い。まるで高熱を出した時のようだ。実際はただ身体全てが羞恥に染まっているだけなのだけれど。
「また何か隠しているんですか? 先週の化学のテキスト提出し忘れたとか」
「いや、それはちゃんと出した」
訝る弟に兄は手を振って否定する。じゃあ何なんですか、と溜め息交じりの声が飛んできた。心に刺さったそれが痛みを訴え、また心拍数を上げていく。このまま身体ごと破裂してしまいそうな勢いだ。
「……あのさ、オレら……こう……あれ、……付き合ってんじゃん?」
「……まぁ、そうですね」
おそるおそる言葉を紡いでいく。問いにはきちんと肯定が返ってきた。安堵し、朱は深く息を吐く。隠していた携帯端末を右手に持ち、スリープを解除する。そのまま、輝く画面を碧へと向けた。
「恋人らしいこと分かんなくて調べてた……」
「あー……」
隠し立てても疑われる、最悪心配をかけるだけだ。ならば、恥を忍んで正直に白状した方がいい。結果、返ってきたのは生返事だった。けれど、少し高い調子のそれには呆れも嘲りもない。むしろ、同感の響きがあった。
「オニイチャンだって努力すんだよぉ……」
「あー……まぁ、はい。そうなりますよね。そういうところは真面目ですよね」
絞り出した声に何とも言えない声が返される。褒められているのかけなされているのか分からないものであった。少なくとも、慰めは多少なりとも感じる。ほのかに羞恥の色が見えるのは気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「まぁ、そんで色々見たんだけどさ。出てくるやつ大体もうやってて……」
「はい?」
沈んだ声で説明を並べ立てていくと、ひっくり返ったような声が返される。反射的に隣を見ると、そこには頬に紅を浮かべた恋人の姿があった。潤いのある唇は少しばかり震えている。丸い瞳は忙しなく瞼の奥に隠れては現れを繰り返していた。
「だって手ぇ繋ぐのもぎゅってすんのも出掛けんのも連絡すんのも全部やってんじゃん! 出掛けんのとか毎週だし!」
「それはそうですけど……、いや、でも買い出しをデートにカウントするのはおかしくないですか!?」
でーと。
烈風刀が放った言葉を思わず復唱する。でーと。デート。そうだ、恋人と出掛けることはデートと言うのだ。けれど、己たちの毎週の買い出しと『デート』というイメージはかけ離れている。たしかに、彼の言ったように『デート』ではないだろう。そっか、と思わず感嘆の声が漏れた。
「……え? じゃあ今度ちゃんとデートする?」
え、と少し高い音が二人の間に落ちる。対面、日焼けしていないかんばせがみるみるうちに赤に染まっていく。いつぞやの花見で見た先生の赤ら顔がこんな感じだっただろうか、とどこか外れたことが頭の中に浮かんだ。
赤い顔が俯いて隠れて、つむじがこちらに向けられる。浅葱の髪の下からは、あ、う、と溺れて喘ぐような音が聞こえてきた。変なことを言っただろうか。いや、確実に変なことを言った。突然『デート』に誘うなど、いくら恋人とは言え突飛も突飛だった。こういうのは完璧なルートを立てて、雰囲気を作って、さらっとやるものなのだ。少なくとも、レイシスに借りた少女漫画ではそうしていた。こんな間抜けに誘うものではないのだ。あまりの浅慮に今度は雷刀が俯く番だった。
「…………し、ましょう」
細い、吐息にも似た音が静まりきった部屋に落ちる。顔を上げると、そこには相変わらず赤い顔をした弟がいた。目は潤んでいるも、どこか据わっている。口元はぎゅっと結ばれ美しいまでの一本線を描いていた。
「デート、しましょう」
「え? は? い、いいのっ!?」
「するんですよ」
思わず立ち上がる雷刀に、烈風刀は低い声で返す。地に響くようなそれは、いつぞやお化け屋敷に入る前に聞いた腹を括った時の声と似ていた。反して、己は高い声で返す。間抜け極まりなかった。
思わず後退りそうになった身体を、伸びた手がTシャツの端を掴んで引き留める。逃がさんと言わんばかりだった。事実、こんな些細な動きと拘束だというのに、一ミリたりとも動けなくなる。餌を求める魚のようにぱくぱくと口を動かすのがやっとだった。
「デートスポット調べましょう。特集記事とかどこかにあるでしょう」
ぐっと引かれ、兄はまたソファに腰を下ろす。すぐさま弟が拳一個分距離を詰め、自身の携帯端末を取り出して見せてきた。検索エンジンの入力窓には、早くも『ネメシス デート 定番』と入力されていた。
「……こういうのってオレが決めてくるもんじゃね?」
「二人で決めて二人で行きたいところに行った方が満足できますよ」
ほら、と烈風刀は掴んだままの裾を引っ張る。誘われるがままに、大小様々な文字が並ぶ液晶画面へと視線を移した。
碧と朱がまばゆい画面を一心に見つめる。夜はまだ長い。
しあわせは二人で/ライレフ
皮膚の厚い指が強化ガラスをなぞっていく。指が弾くように動くと同時に、ガラス越しの情報が勢いよくスクロールしていく。ごちゃまぜの情報が次々と液晶に表示されては消えていった。
タイムラインを一通り見終え、雷刀は携帯端末の電源ボタンを押す。煌々と光る画面が暗闇一色に染まり、光を反射して鏡のように持ち主の顔を映し出した。
「烈風刀ー」
物言わぬ端末をポケットに放り込み、兄は弟の名前を呼ぶ。隣に座る弟は、目の前の画面から目を離すことなく、何ですか、と短く返した。
「ちょっとこっち向いて?」
「何です――」
熱心に今日の献立探しをしていた目がこちらへと向く。わずかに寄せられた眉、じとりと半月になった苔瑪瑙、薄く開いた口、スリープ状態にした端末を握る手、半分ひねってこちらを向いた身体。恋人はしかりとこちらへと意識を向けた。雷刀もまた同じように向き合い、半歩擦って寄って距離を詰める。そのまま、倒れるように片割れの胸へと飛び込んだ。うわ、と少し上擦った声が照明光る天井へと昇っていった。
あまり大きく体重をかけなかったこともあり、倒れ込んだ身体は弟の鍛えられた胸にしかと受け止められた。何なんですか、と棘が生えしきる声を気にすることなく、朱は腕を伸ばし目の前の身体をぎゅうと抱きしめる。薄い布越しに温度が重ね合わさり、心地よい熱を覚える。まだ風呂に入っていないからか、彼の香りを普段よりも強く感じた。腕の中の熱がひくりと震える。
「……幸せ?」
ぎゅうと更に腕に力を込め、ぴとりと更に身体を寄せ、雷刀は短く問う。息の詰まる音。数拍、重く吐き出される音。上から降り注ぐそれは、腕の中にいる彼の心情をめいっぱいに表していた。
「本当に何なんですか」
「いやさー、『触ると幸せホルモンが出るのは心を許してる人相手だから』っての見てさ」
指を動かすだけで繋がるインターネットの海は、色んな情報が満ちて流れて現れては消えてゆく。つい先ほどたまたま目に入ったのは、アプリがおすすめとして差し出してきた短い投稿だった。
皮膚接触で幸せホルモンが出るのは心を許している相手だからであり、そうでない者との接触は攻撃と受け取る。
ゴシック体のフォントが記す情報には明確なソースは記されておらず、真偽など分からない。ただの与太話、ネットの噂、と一瞬で記憶から消え去るようなものである――己にとっては違うが。
真偽など分からない。ならば、試せばよいではないか。ちょうど隣には愛する恋人がいるのだから。
は、と疑問符が山盛りに盛りつけられた声が降ってくる。当然だ、いきなり幸せだの何だのと言われてすぐさま理解しろだなんて無茶である。相手が主席であり続けるほど優秀な頭脳を持つ烈風刀であれど、だ。けれども彼の聡明なる――そして兄の突飛な言動に慣れた脳味噌は、たった数拍で事態を理解したらしい。ほの寒さで白む肌にぶわりと紅色が広がり散っていった。整えられた唇がはくりと開いて閉じてを繰り返す。まるで今この現実を咀嚼しているようだった。
「………………幸せ、ですよ」
はぁ、と大きな溜め息。それに紛れるように小さな言葉がつやめく唇からこぼれ落ちた。胸に飛び込んで頭をうずめた兄の耳にも、きちんと落ちて入って染みていった。
そっか、と雷刀は漏らす。しかりと噛みしめるような、それでいて弾んで弾んでどこかにいってしまいそうなほど浮かれた、この世の幸福を全て詰め込んだようなとろけた声をしていた。衝動に身を任せ、目の前の鍛えられた胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。恋人の確かなる声によってもたらされた愛を、溢れんばかりの幸せを全身で表す。伝わったのだろう、伝えられたのだろう、あやすように背中をトントンと軽く叩かれた。
「雷刀」
愛しい声が己の名を紡ぐ。じゃれつく猫のように動かしてた頭を止め、兄は顔を上げる。目の前には、依然頬を朱色に染めた弟の姿があった。浅葱の瞳はどこか潤んでいて、ゆらゆらと揺れ彷徨っている。口元はまるで定規で線を引いたかのように結ばれているようで、真ん中あたりがどこかもにゃもにゃと動いていた。そんな口元が動き、雷刀、とまた名前を呼ばれる。なーに、と返す声は己でも笑ってしまうほど甘ったるい響きをしていた。
背に回されていた手が動く。布の上を滑って、どこかに行ったそれが持ち上がって、己の頬にひたりと当てられた。どんな時でも手入れを欠かさない手はすべらかで、それでも武器を扱う者らしい固さが目立つ。肌を通して伝わる温度が普段よりも高く感じるのは、きっとほのかな冷たさをまとった空気のせいだけではないはずだ。
「……幸せ、ですか?」
見上げた先、眉を少しだけ下げた弟は細い声で問いを漏らす。揺れる響きが耳朶を撫でて鼓膜を震わせる。行動の意味を、言葉の意味を理解した瞬間、朱はこれ以上ないほどの笑みを浮かべた。
「トーゼンじゃん!」
半ば叫ぶように愛を高らかに謳う。頭を動かし、頬に触れた手にすりすりと擦りつく。もっともっと幸せホルモン――否、幸せが欲しいのだ。愛する人と触れ合う幸せが。
小さく息を吐くのが聞こえる。揺れていた碧の瞳が輝く朱をまっすぐに見つめる。朱もまた、正面からその澄んだ碧をまっすぐに見つめた。
小さな、幸せに満ちた、愛に溢れた笑声が広くない部屋に二つ落ちた。
畳む
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