No.187, No.186, No.185, No.184, No.183, No.182, No.181[7件]
慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】
慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】
推しカプ同じ布団で寝てくれ(定期post)→プロ氷は一緒に寝るの無理だろ→それでも同じ空間にいてくれ……というオタクがわがままごねた結果がこれだよ。毎度のごとく都合良く捏造してるよ。
冷たくしてあげたい識苑先生と冷たくしてもらうのは申し訳ない大学生氷雪ちゃんの話。
低い駆動音が部屋に染み渡っていく。呻り声とともに機械が吐き出す風は冷たく、触れれば冬と錯覚しそうなほどのものだ。除湿モードに切り替えた空調機は、狭い部屋をひたすらに冷気で満たしていった。
「本当にすみません……」
膝にかけたタオルケットを握り、氷雪は消え入りそうな声で呟く。川底のように澄んだ瞳は暗く陰り、白い柳眉は顔からこぼれ落ちてしまいそうなほど端が下がっていた。普段は太い三つ編みでまとめている髪は今は解いて下ろされており、上等な白い着物も薄手の浴衣に着替えている。何年経ってもほっそりとした美しい足は皺の寄ったシーツの上で膝を合わせて折り畳まれている。縮こまった身体は普段よりも更に小さく見えた。
「いいよ。どうせパソコンのために点けてなきゃいけないしね」
ベッドの上にあぐらを掻き、識苑はへらりと笑う。こんな顔と言葉で彼女の気は晴れないと分かっているものの、これぐらい笑い飛ばしてやらねばという思いが強い。事実、部屋で駆動する各種機械の排熱は凄まじく、室温を一度や二度上げるほどだ。それらを冷やし熱暴走を防ぐためにも、夏は冷房を躊躇なくガンガンと動かし部屋を冷やしきっていた。壊れた場合の修理費用や作業時間のロスを考えると、人間にとっては寒いぐらいに稼働させた方がリスクが少ないのだ――そう、人間にとっては。
恋人である氷雪は雪女である。雪の中で生まれ、雪の中で育ってきた。そんな彼女のなのだから、当然暑さには弱い。温度によっては生命を脅かされるほどであり、高気温が続く夏は天敵と言っても差し支えがないだろう。ネメシスでの暮らしを始めてから多少は耐性は付いたと本人は語るが、それでもまだまだ夏の暮らしには不便をしているようだ。ここ最近は酷暑が続いているのだから尚更だろう。
そんな彼女が、この夏のさなかに泊まりに来た。ならば対策は立てておくべきだろう。彼女が来る前にエアコンのリモコンの下ボタンを二回押したのも、普段なら常温保存する茶を冷蔵庫に入れたのも、氷を普段の倍は作ったのも秘密だ。
問題は夜である。欲望に身を任せて言えば、共に寝たい。同じ布団に入って、ちょっとだけおしゃべりをして、並んで寝たい。歳に似つかわしくないあまりにも少女趣味な願望であるが、彼女にこれ以上の『恋人らしいこと』を求めるのは己が許さない。それに、氷雪が泊まることなど半年に一回あるかどうかなのだ。これぐらい考えるのは心身共に健康な人間ならば当然だろう。
だが、彼女は暑さに――つまりは熱に弱い。人と並んで寝るなど、他人の体温を感じながら一晩過ごすなど言語道断である。最悪命を落とす可能性だってあるのだ。己のわがままと恋人の命を天秤に掛けるなんてことはあってはならない。加えて、彼女は寒ければ寒いほど過ごしやすいということは想像に容易い。ならば、と彼女は冷房直下の場所に布団を敷き、己は普段使っているベッドに寝るのが正解だろう。
「でも、あ、の……、さすがに、申し訳が……」
「暑さって氷雪の命に関わるよね? 申し訳ないとか考えることじゃないよ。生きるためなんだから」
「…………は、い。すみません、ありがとうございます」
やはりというべきか、心優しい彼女はこの配置を気にしてしまうようだ。出会った頃よりは好意を受け取るようになっているものの、まだまだ引け目を感じてしまうらしい。こちらとしては、どうにか片付けてもまだまだごちゃつく床の上、そこになんとか敷いた安物の布団で眠らせてしまうことに申し訳無さを感じるのだけれど。
「……一緒に寝れたら、いいんですけど」
ぽそり。小さな声が工具が転がる床に落ちる。向かい合った目の前、布団の上で正座をした恋人の頬は紅で染まっていた。真冬の椿もかくやの鮮やかさである。愛おしさが胸を満たしていく。今すぐにでも抱きしめたい衝動が手を動かし、少女へと腕を伸ばす。なんとか残っていた理性が脳味噌を殴って揺らし、無遠慮な動きをベッドの上へと封じ込めた。
「かっ、身体は、大丈夫なんです……、たぶん。でも、まだ、緊張してしまって……」
朱が広がる顔が伏せられ、白い頭があらわになる。肩に少しだけかかった長い雪色がするりと布の上を滑って落ちた。
緊張かぁ、と識苑は心の内で漏らす。肺にあるものを全て吐き出したかのような、肩に重いものが落ちてきてしがみつかれたような、そんな心地がした。
恋人は雪原と同じほど白くて純情で、とことん恥ずかしがり屋で奥手である。付き合って何年も経つが、それでもまだ触れあうことは得意ではない方だ。ちょっとだけ進んだ口づけで溶けそうになるほど緊張しているのは、目を瞑ってこちらを待つ顔がいつだって物語っていた。最近では溶けるまではいかなくなったものの、やはりまだまだ緊張はするらしい。触れる頬はいつだってぷるぷると震えていた。
そんな彼女なのだ、経験が無い『恋人と一緒のベッドで寝る』だなんて行為に緊張を覚えるのは当然である。そもそも、氷雪がこの部屋にまだ泊まるようになって日が浅いのだ。『一緒の部屋で寝る』ことにすら慣れていないというのに、二段も三段も飛ばして『一緒のベッドで寝る』など彼女の心が受け入れられるはずがない。キャパシティオーバーで溶けてしまうのは目に見えていた。
けれども、それでも、付き合って数年経つのにまだ『緊張する』と言われるのは少しばかり辛いものがある。己はまだ彼女にとって安息の地にはなっていない。その事実が睡魔忍び寄る頭に染み渡っていく。もう髪を乾かしたというのに、頭が重くなったかのように感じた。
「あっ、あ、の。えっと」
シーツの上、白がぶわりと舞う。勢いよく上げられた氷雪の顔は、少しばかり色を失っていた。花緑青の瞳は目いっぱいに開かれ、手入れを済ませたばかりの唇は忙しなく開閉を繰り返している。えっと、その、と漏らす声は普段よりも少し大きく、けれども細くて高いものになっていた。どうやら己の馬鹿げた感情は顔に出ていたらしい。あぁ、と識苑は心の中で頭を抱える。彼女が気に病むなど分かりきっているというのに、何故こんなことをしてしまうのだ。もういい歳だというのに、何故こんな年若い少女に気を遣わせているのだ。自己嫌悪が心に黒いもやを撒き散らしていく。そんなこと胸の内の動乱など一切無い、とばかりに、技術教師は普段通りの笑みを浮かべた。こんなものはきっと看破されてしまうけれど、いつまでもしょぼくれた顔をしているわけにはいかないのだ。
「えっと、あの、き、緊張といいますか……」
依然慌てた調子で雪色の少女は言葉を紡ぎ出す。上擦っていた声は落ち着くことなく、むしろ悪化している。けれども、顔には色が戻っていた。むしろ、柔らかなまろい頬は紅葉したように色づいている。噛み合わない声と表情に、月色の目がぱちりと瞬く。あうあうと打ち上げられた魚のように口を開いては閉じる氷雪だったが、どうやら落ち着いたらしい。すぅ、はぁ、と大きく深呼吸する音が聞こえてきた。
「…………まだ、すごく、ドキドキするので」
好きな人と一緒に寝るのは、ドキドキしすぎて、溶けちゃうかもしれないので。
細い声で言葉が編まれていく。音が止んだ後も口はまた開閉を繰り返し、全てを隠すように顔が伏せられた。銀糸が絡まる耳はしもやけのように真っ赤で、彼女の心がどうなっているかということを雄弁に語っていた。
好きな人。ドキドキ。可愛らしいワードが、己にとって都合が良すぎるワードが、愛する人の口から紡がれたワードが、頭に、心に染み渡っていく。先ほどまで立ち込めていたもやは、ひとかけらも残さず吹き飛んで消えた。代わりに、熱いものが胸を満たしていく。苦しいぐらい熱いものが。叫びたいほど温かくてたまらないものが。
ベッドの上に投げ出していた手を素早く動かし、鷲掴むようにして顔を隠す。冷房で冷やされた手には、ケアをされたばかりの頬と額が随分と熱く感じた。何故そう感じるかなど自明である。自分の顔が何色で染まっているかなど鏡を見なくとも分かる。口がみっともなく緩んでしまっているのも誰よりも己が一番分かっていた。そっかぁ、と漏らした声は、無様なほどとぎれとぎれで上擦ってとろけきっていた。
指の隙間から対面を見る。こちらを見る氷雪の顔も紅梅といい勝負をするほど赤かった。それがまた、己の心を煽る。苦しくなるほど愛おしさをもたらして、顔に血を上らせていく。ぅ、と思わず嗚咽のような声が漏れた。
「うん…………、じゃ、また、いつか。あんまり緊張しなくなったら……えっと……」
ヨロシクオネガイシマス。揺れる視線を隠すように頭を下げてそう伝える声は己でも驚くほどぎこちがないものだった。普段彼女の前では余裕ぶった姿で在ろうとしているのに、なんと不格好なのだろう。恥ずかしくて布団を被って逃げてしまいたい衝動に駆られる。これ以上彼女の前で格好悪いことはしたくないのでどうにか抑え込んだが。
「は、はい……、えと、……よろしく、おねがいします」
返す言葉はところどころひっくり返っていた。目の前の氷雪もまた、己と同じように視線をうろうろと泳がせていた。それもどんどん俯いて隠れていく。やはり耳は紅で染まったままだった。
「……寝よっか!」
「はい! 寝ましょう!」
裏っ返った声でした提案は、すぐさま可決された。おやすみ、と互いに交わす声は隣の部屋に聞こえてしまいそうなほど大きくて、夜にはあまりにも不釣り合いなほど元気なものだった。
手元のリモコンを操作すると、ピッと短い音と同時に部屋の照明が落ちる。真っ暗闇の中では、もうあの白い髪も、緑の瞳も、赤く染まった頬も、何も見えなくなってしまった。
衣擦れの音が聞こえる。きっと、タオルケットを掛けたのだろう。寝ようと提案した手前、己も眠るしかない。もそもそと鈍い動きで夏用の薄い掛け布団の中に潜り込んだ。除湿モードの冷気で冷やされた肌には、薄布が随分と暖かく感じた。
「……し、おん、さん」
「なぁに」
暗闇の中、声。努めて柔らかな響きで返すが、沈黙が闇を満たすばかりだった。しばしして、また衣擦れの音。まだ順応が終わっていない目には、暗闇の中には何も見えない。けれども、あの美しい翡翠がこちらを見ているように感じられるのは、きっと木のせいではないはずだ。
「おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
いい夢を。
呟くように、歌うように、寝言のように、言葉を紡ぐ。またごそごそと布が擦れる音が闇に落ちた。寝返りを打って、壁の方へと視線を向ける。あれだけ熱かった顔も、頭も、心も、這い寄る睡魔によって落ち着きを取り戻していた。
闇夜が、機器の駆動音が部屋を満たす。そこに安らかな呼吸が二つ加わるのはすぐだった。
畳む
諸々掌編まとめ14【SDVX】
諸々掌編まとめ14【SDVX】
色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど最近3000字ぐらいのが多い。あと大体嬬武器兄弟。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟2/ライレフ3/ロワ→ジュワ
夏空、雨香り/嬬武器兄弟
参考:“降り始め”と“雨上がり”で違う!? 「雨の匂い」の正体は? - ウェザーニュース
湿気った空気が剥き出しの肌を撫ぜる。熱を孕んだそれは、昇降口に向かうにつれ存在を強く主張していった。湯でも沸かしているのではないか、なんて馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。夏の蒸した空気は人の思考を少し狂わせる程の力を持っていた。
ロッカーを開いて靴を履き替える。窓際に並ぶ傘立てから、朝置いたビニール傘を抜き出した。外に続くガラスドアへと足を進めるごとに、空気が湿度を増していく。サウナと言われても信じるほどの蒸し暑さに、烈風刀は小さく眉根を寄せた。
両開きのドアをくぐり抜けると、一気に湿り気がまとわりついてくる。街なかでよく撒かれているミストの下を潜り抜けた時を思い出す。肌で感じる温度は正反対だが。
「あっつ!」
後ろから叫びに近い声。しかめ面で振り返ると、そこには同じような顔をした双子の兄がいた。普段はぱっちりとした鮮やかな緋色の瞳は瞼の奥に半分ほど隠れている。八重歯がチャームポイントの大きな口はへの字に曲がっていた。うへぇ、と下がり調子の重い声が暗さを増したコンクリートへと落ちていった。
声に出さないものの、烈風刀も全く同じ心地だ。ただでさえ蒸し暑い日々が続いているというのに、今日に至っては朝から雨が降る始末である。一時は激しく音をたてて地を打っていた雨粒は、ホームルームの時点でもう姿を消していた。けれども、彼らがもたらした水分はしっかりと空気に残っているのだ。夏の気温、日差し、そして水気。全ては不快指数を凄まじい勢いで増加させていった。
「やっぱ傘いらなかったじゃん」
うっすらと日が差す空を見上げ、雷刀はどこか得意げに言う。事実、彼に手には烈風刀のように傘は無い。調子の良い言葉に、弟は眉間に皺を刻んだ。
「朝は降っていたでしょう。何言ってるんですか」
「でも烈風刀が入れてくれたし? 一本でじゅーぶんだったじゃん?」
「無理矢理入った、の間違いでしょう」
部屋を出た時点で鈍色の曇り空。数分歩いたところでポツポツと降り出し、すぐさま音を響き渡らせるほどの勢いとなった。降水確率四〇パーセントを過信し傘を持たずに出てきた兄は、入れて、と己の差した傘に身体をぐぃっと押し入れてきたのだ。持っていた白い柄は当然のように奪われ、当たり前のように身を寄せられ。狭い、頼む、と言いあいながら登校したのをあまり人に見られなかったのは今日唯一の幸運だ。不運の全ては傘を持たない自業自得の片割れがもたらしてきたのだけれど。
「あっつ……すげーにおい……」
眇目で見やる弟のことなど気にもかけず、雷刀はうんざりとした調子で声を漏らす。雨上がりの世界は、絡みつくような熱気と湿気、独特の臭いで満たされていた。鼻をかすめる臭気に、烈風刀は口元を歪める。ほこりっぽいような、湿っぽいような、土っぽいような、粉っぽいような何とも言えない臭いは、己の好みにはかすりもしないものだ。蒸し暑い空気も相まって、不快感ばかりが募っていく。
「なんだっけ。名前あんだっけ?」
「あるんですか?」
朱の声に、碧は首だけで振り返る。動いた翡翠の瞳に、顎に手を当て宙を見上げる兄の姿が映った。夕日より鮮烈な朱い頭が徐々に傾いていく。呻きに似た声がまっすぐになった口から聞こえた。
「あったはず。こないだなんかで見た」
「ひとつも覚えてないではないですか」
うーん、と喉を鳴らす兄に、弟はうんざりとした表情で返す。情報などとは到底言えないほど、何もかもがあやふやだ。おそらくたまたま思考に引っかかったそれを吟味せず直接吐き出しただけなのだろう。感覚ばかりが鋭い片割れはいつだってそんな調子だ。
「降りそうな臭いは『ペトリコール』でしたっけ」
「そんなんも聞いた気がする……でもなんか違う……もっとすげー名前だった……」
なんだっけー、と朱は重い声で繰り返す。薄くなった雲から姿を現し始めた夕日が、テスト中のそれに似た顔を照らし出した。
うんうんと唸る片割れを横目に、碧は携帯端末を取り出す。開いたウェブブラウザ、角が丸い入力欄に『雨上がり 臭い』と打ち込む。硬さが窺える指が虫眼鏡アイコンをタップした。コンマ数秒で現れた画面、その一番上に、少し大きな文字が並ぶ。『雨上がりの匂いはゲオスミンと呼ばれ』という一文が青色でハイライトされていた。
「『ゲオスミン』だそうです」
「そう! それ!」
短く告げる弟に、兄は叫ぶように返す。剣胼胝が残る人差し指がまっすぐに伸び、白い端末を指し示した。
「もうちょいで思い出せたのに」
「絶対思い出せませんよ」
唇を尖らせる雷刀を、烈風刀はバッサリと切り捨てる。思い出せたし、と膨れ面で漏らす兄を横目に、弟は手にした小型端末を鞄にしまう。そのまま、一人歩き出した。烈風刀、と慌てた調子で名前を呼ばれる。気にすることなく、少年は歩みを進める。迫る足音、並ぶ足音。
「すげー名前だな。ゲオスミン」
「そうですね。何というか……考えつかない響きです」
「分かる」
味わうように、記憶に刻むように、朱は立ち込めるそれの名前を繰り返す。覚えたての言葉を何度も口にする子どもとまるきり同じだ。ゲオスミン、と碧も口の中で呟いてみる。堅苦しく力強い響きは、ペトリコールと対を成す言葉とは到底思えないものだった。
茜に照らされる中、兄弟は帰路を進んでいく。蒸した空気といかめしい名前の臭いが二人にまとわりついていた。
雨、一人、コインランドリー/ライレフ
ゴウンゴウン。低い音をたてて銀の筒が回る。ガラス戸を隔てた中、音も無く白い布も回る。無骨な機械の中で柔らかな布が持ち上げられては落ちを繰り返すさまはさながら餅つきだ。普段使っている縦型洗濯機では見られない、ある種珍しい光景である。
雨続きで。洗濯物は部屋干しでもなかなか乾かなくて。でも溜まった欲望は抑えられなくて。愛情を注ぎ注がれる瞬間が恋しくてたまらなくて。
結果、小雨の中コインランドリーを訪れ、わざわざ金銭を使い愚かな情事で汚したシーツを洗う今に至る。
ゴウンゴウン。低い音が一人きりの建物内に響く。規則的な音色は、うっすら聞こえる雨音も相まって眠気を誘うような響きをしていた。きっと、自業自得の疲れが残っているのもあるのだけれど。
洗濯段階を終えたシーツは、とっくに乾燥段階に入っていた。大型の洗濯乾燥機をシーツだけが占領するのはなんとも贅沢である。本当ならば他の洗濯物も持ってきたかったが、一人で運ぶにはこれが精一杯だ。二人で運べばよいのだが、己の欲望に付き合わせた――あちらも乗ってきたのだから連帯責任だなんて思うのは少し勝手がすぎる――恋人の身体に鞭打って出歩かせるのは気が引ける。持っていける分中途半端に洗うよりもシーツ一枚だけに絞ってしまった方がいいだろう。それに、普段使わないガス乾燥機に耐えられない衣服が万一混じろうものなら大問題だ。
回る布の横、小さな電子パネルへと視線をやる。古めかしい赤いデジタル数字は、終了まで残り十分を切ったことを示していた。盗まれるのではないかという不安がつきまといずっと座って始終を見ていたが、やっと終わりが来るらしい。ふぅ、と何もしていないというのに小さく息を吐く。なかなか見ない光景は面白かったが、八割方は単調で代わり映えがしない動きだからか最終的に退屈さが勝っていた。
ゴウンゴウン。白い布が洗われ乾かされていく。昨晩の欲望など全て洗い流してまっさらにしていく。綺麗に消し去って日常へと帰らせてくる。
自動ドアの外を見やる。外はまだ小雨が続いていた。天気予報も向こう一週間は雨である。何しろ梅雨に入ったのだ。雨が降るのは自然であり当然である。それを分かっていて、シーツを干すのが難しい天気だと知っていてベッドに雪崩込んだのだから己は大概である。我慢はしたのだ。爆発した時が運悪く悪天候の日々と重なっていただけで。そんな言い訳を考え、少年はまた息を吐いた。
ゴウンゴウン。洗われ乾かされ、シーツが回る。昨晩の熱よりもずっと穏やかな温かさに触れるまで、あと八分。
朝のお楽しみは夜から/嬬武器兄弟
朱い瞳が青白い庫内を見回す。台所の一角にある冷蔵庫の中身は、普段よりも閑散としていた。牛乳は残っているものの、手から伝わる重さをみるにあと一杯分ぐらいか。買い足す必要があるだろう。卵はまだあるから買わなくてもいい。野菜は玉ねぎを使い切ったところだったはずだ。軽く整理しながら保存している食材を確認していく。明日の買い物で余計なものを買うのは避けたいのだ。
ガサゴソと音をたてて、庫内に手を入れ片付けていく。三つ重なったの納豆パックの影、少し奥から食パンの袋が発掘された。皺の寄ったビニールに書かれた賞味期限は明後日。ちょうど二枚あるから、明日の朝食に使えばいいだろう。
牛乳。卵。食パン。食材が頭の中に並べ立てられていく。全てが繋がった瞬間、青白い光に照らされた瞳に輝きが宿った。
「烈風刀ー」
冷蔵庫の扉を閉め、雷刀は弟の名を呼ぶ。何ですか、と返ってきた声は少しだけ遠い。微かに聞こえる物音から、彼もまた部屋の整理をしているのが窺えた。自身の手によって掃除は行き渡っているだろうにマメなものである。
「明日の朝、フレンチトーストでもいい?」
「いいですよ」
了承の声に、兄はよっしゃと小さく声を漏らす。早速閉めたばかりの扉を開け、器用な手付きで材料を取り出した。
卵を割ってほぐし、砂糖を気持ち多めに入れ、残っていた牛乳を全て注ぎ入れて混ぜる。ジッパー付きの保存袋に食パンを一枚ずつ放り込み、先ほどの卵液を等分して注いでいく。入念に空気を抜いて、ぴっちりと閉じた。軽快な足取りで冷蔵庫に戻り、整理して少し広くなった庫内に袋を横たわらせて置く。明日の朝に思いを馳せながら扉を閉じた。
「別に明日の朝でもいいでしょうに」
隣から声と水の音。目を向けると、手を洗っている烈風刀が映った。濡れた手がスポンジを掴み、シンクに放り込まれたままのボウルをひょいと取って洗い出す。あんがと、と礼を言うと、ついでですから、と事も無げな声が返ってきた。
「そーだけどさ。やっぱ時間置いて染みこませたやつのが美味いじゃん?」
漬け込み時間を要するフレンチトーストだが、時間をかけず液を染みこませる方法はある。食パンにフォークで軽く穴を開け、卵液と一緒に容器に入れ電子レンジで軽く温めるだけでも十分によく液は行き渡るのだ。手軽さと手早さを考えるとそちらの方がいいが、やはり時間があるのならばじっくりと漬けて染みこませたい。長い時間をて甘い卵液を全て吸い込んだフレンチトーストは、崩れそうなほどトロトロで美味しいのだ。
それにさ、と雷刀は人差し指を立てる。洗い物を拭いて片付けた弟は、タオルを畳みながら兄へと顔を向けた。
「明日の朝ごはんが決まってたらなんか楽しいだろ? 楽しみで早く起きれそうじゃん?」
にへらと朱は笑う。所謂時短レシピはある。それでも美味しくできあがる。けれど、このワクワクした期待の気持ちだけはどうやったって生み出せないのだ。それに、せっかくの休みなのだからちょっとの楽しみや幸せを用意しておきたいではないか。
碧い目がぱちりと瞬く。丸いそれが、ふっと柔らかな線を描いて細くなった。蛍光灯に照らされた瞳に宿る色は温かで穏やかだ。
「そうですね」
「だろー?」
「でも、楽しみすぎて眠れない、なんてことにはならないでくださいよ」
「さすがにそれはねーって!」
軽口を叩く烈風刀に、雷刀は大きく返す。笑みを隠しきれない軽やかな響きをしていた。夜も随分と更けた頃だというのに、キッチンは明るく温かな空気が満ちていた。
朱は白い扉に視線を移す。少し固い大きな手が、つるりとしたそこを愛おしげに撫でた。
真夏のお手入れは優美に/ロワ→ジュワ
春のくさはらを思わせる緑が、まさしく壊れ物を扱うかのように丁重な動きですくい上げられる。白い手袋に包まれた手に握られるブラシが、ウェーブがかった若草色をそうっと、そうっと撫でていく。夏の湿気を薄くまとった緑髪は、丁寧な指先によって柔らかさと軽さを取り戻し始めた。
髪を梳かれる女も、髪を梳く男も言葉一つ発しない。男の方は、これ以上無く真剣な面持ちで手を動かしていた。万が一にも髪が引っかかるなんてことがあれば喉を掻き切る、と言わんばかりの鋭い輝きと危うさ、そして恭しさが彼を包んでいた。同時に、これ以上に無い褒美を賜ったような幸福に満ちた表情をしていた。
女の方は、触れられているというのに表情らしい表情が無い。長い睫に縁取られた麗しい目はうっすらと細くなっている。化粧の気配が無いのに鮮やかに色付いた口元はまっすぐに閉じられていた。動きの少なさからも眠っているのではないか――それどころか、生きたヒトではなく一つの美術品なのではないかと思わせるような、人知を超えた何かを醸し出していた。必然、男の動きに全く反応をしない。美しい長髪は好き放題にされていた。
ボリューミーな髪全てに手を施し終えたのか、男はブラシを傍らの教壇に置く。大ぶりな櫛を離した手が緑をさらい、白い手袋の上にほそやかな緑がまとめられていく。それもまた、恭しくこまやかな動きだった。
柔らかな布地の上で、シルクのようにすべやかな髪が形を変えていく。三つに分けられた緑は器用に編み込まれ、最後はうなじより少し高い位置で丸められた。長いピンをいくつか通して固定された髪は、つるりと滑っていくようなつややかさを失うことなく美しい球状にまとめられている。まるで初夏を知らせる葉桜のようなみずみずしさと鮮やかさがあった。若干低い位置でまとめられている様はうっすらと幼さを漂わせる。反して、ぴょいと跳ねる後れ毛は心臓が跳ねるほどあでやかだ。どこを取っても豊かな体つきや澄ましたかんばせとは印象が全く異なるが、相反することなく調和していた。むしろ、冷たさすら感じる大人然とした姿に可愛らしさと艶やかさが添えられ、更なる魅力を引き出していた。
「どうですか」
鏡を手に男は問う。ミュージカルのようななめらかな歌声に似た響きをしていた。問われた女は唇はおろか表情筋すら動かさない。しかし、その表情が心なしか晴れやかになったように見えるのは気のせいではないだろう。なにせ、剥き出しの背を覆い熱を閉じ込めていた長い髪がいっぺんに取り払われたのだ。熱を孕んでいた背を撫ぜる涼しさは、いっとう心地の良いものだろう。
彼女に心酔する男もそれを感じ取ったのか、満足したように二、三と頷く。あぁ、と漏れ出た感嘆の吐息はとろけたものだった。まるで恋人に愛を囁くような響きをしていた。
「……あら」
微かな音をたて、音楽室の前方にある自動ドアが開かれる。飛び込んできたのは、どこか固さがある少女の声だった。男の青い瞳がすぃと動き、教室と扉の境目で立ち尽くす生徒を見る。扉を開けた張本人であるグレイスは、眇めた目でうろうろと教室中を眺めていた。『気まずい』という心の中身が顔面にバッチリと現れている。
「あぁ、もう授業の時間でしたか」
「いや、まだよ。私がちょっと早く来ただけ」
仮面の奥で柔らかく笑う青年に、少女はゆるく首を振る。事実、黒板の取り付けられた時計は午後一番の授業を始めるにはまだ早い時間を示していた。
「……あら?」
宙を彷徨っていた躑躅の視線がピタリと止まる。マゼンタの双眸に映るのはつややかに輝くエメラルドグリーンだ。音楽の担当教師であるシャトー・ロワーレが『ジュワユース』と呼んで愛してやまない彼女の髪は、普段と違い美しい球体となり形の良い頭を彩っていた。常は床についてしまうのではないかと気に掛かっているだけに、綺麗にまとめられた姿は少女の心に安心感をもたらす。同時に、見た者全てを惹きこむような美麗さに目を奪われていた。
「涼しそうでいいわね。綺麗」
「よかったですね、ジュワユース」
固かった表情をやっと緩めた生徒の言葉に、音楽教師は愛剣の顔を覗き込む。瞬きすらしない金の目は依然まっすぐと虚空を見つめるだけで表情が変わる気配も無い。それでも何かを感じ取ったのか、勝手に何かを解釈したのか、青年はうんうんと満足げに頷く。異常であるが、いつも通りの光景だった。少なくとも、あまり物怖じしないグレイスがツッコミの一つもしない程度には。
「最近よく結んでるわよね。貴方がやってるの?」
ジュワユースはほとんど動かない。剣の精と噂される彼女が歩く、それどころか指先を動かす様子すら、少女は見たことがなかった。顔の筋肉一つすら動かさないことで有名だ。妖精だし人間とは感性が違うんじゃない、いやロワーレ先生が何でも押しつけるからでしょ、と生徒の間では一つの謎として話題に上ることは多々ある。事実は所有者本人すら知らないのだけれど。
「はい。そのままでは背中が暑そうですので」
にこやかに答え、ロワーレは萌ゆる春山のような髪にそっと触れる。手袋越しでは感触は分からないだろうが、布地に引っかかることなくさらりと流れていく様からよく手入れがされていることが分かる。当然だ、所有者は執着を通り越した恐ろしい何かを感じるほど日々愛を囁き熱心に注いでいるのだ。日頃の手入れに瑕疵など一つもなかった。
普段、ジュワユースは豊かな長髪をまとめることなく垂らしている。床に毛先が触れても一切反応しないほど――ロワーレは非常に慌てるが――無頓着だ。しかし、ある夏に彼女は言ったのだ。あつぃ、と。
そこからのロワーレの動きは素早いものだった。剣の姿であれヒトの姿であれ手入れの頻度と入念さを増し、共にいる際は空調で心地良い温度を保つことを欠かさず、最終的には背を覆ってしまう長い髪をまとめて熱を逃がしてやるようになった。本人から否定的な反応がないのを良いことに、青年は様々なヘアアレンジを試し始めた。ポニーテール、ツインテール、ハーフアップ、多様な編み込み、そして今日のようなお団子。様々な髪型が精の頭を彩った。今のところ抗議の声も喜びの声も無い。
へぇ、とグレイスは感心したように息を吐く。彼女自身、姉のような存在にヘアアレンジをして遊ばれることが多い。年頃の少女らしくあろうと雑誌やウェブサイトを熱心に漁った時期もあった。それ故に、目は肥えている方だ。その感性をもってしても、ジュワユースに施されたヘアアレンジは見事なものだった。『暑さをしのぐ』という機能性の中に、美しさや艶めきを残すのは初心者にはなかなかできないことだ。音楽が専攻であるこの教師は、己の髪に頓着がなさそうなこの教師は、それを見事にやってのけたのだ。これが『愛』というやつだろうか、と少女は考える。それにしては、熱烈を通り越して苛烈だが。
「そろそろ戻りましょうか」
ロワーレはジュワユースの細い肩に触れる。途端、美しい緑髪と健康的な肉体は消え去った。残るのは剥き身の剣だ。授業の時間が近いから本来の姿に戻ったのだろう。ボルテ学園の音楽教師が愛剣をタクトとして使うのは有名な話だ。もちろん、生徒であるグレイスも知っている。席が最前列であるため、その切っ先が目の前を横切る恐ろしさを何度も味わっていた。
「いいの? せっかくやってあげたんでしょ?」
躑躅は首を傾げる。あの毛量、あの手の込みようから見るに、髪をゆわうにはある程度の時間がかかっただろう。そして、おそらくそれはゲームのセーブデータのように保存などされず、次に会う時には全て解けている。好きな人――ヒトではないけれど――の新たな姿をそうも簡単に見れなくなってしまってもいいのだろうか。疑問で彩られた声と瞳に、仮面の奥の瑠璃色がぱちりと瞬く。あぁ、と漏らした低い声はどこか柔らかで甘くて、紡ぐ口元は綻んでいた。
「どんな姿であっても、ジュワユースは美しいですから」
ロワーレは白い仮面の奥でにこりと笑う。そう、とグレイスは曖昧な笑みを返す。答えになっていないが、それ以上を突き詰める度量を少女は持っていなかった。突き詰めれば授業が三つは潰れる羽目になるだろう。
トトト、と軽い足音が音楽室の床を転がっていく。教壇斜め左の最前列、自身に割り当てられた席に座り、グレイスは小さく息を吐いた。余計なことを言って捕まらなくてよかった、という安堵がこれでもかとにじみ出ていた。
白い指先が躑躅色の髪に触れる。癖が強く長いそれが、動きに合わせてふわふわと揺れる。今日、彼女は自身で髪を整えていた。まだまだほつれやゆるみが目立つが、朝の短い時間でやったにしては上出来である。それでも、ロワーレが整えたものよりも劣っているのは少女自身が一番分かっていた。
まだ昼休みであることを確認し、グレイスは携帯端末を取り出す。動画アプリを開き、検索窓をタップする。細長い入力欄に『ヘアアレンジ ロング やりかた』と短いワードが刻まれた。
恋人要項/ライレフ
頭とソファの背もたれがぶつかり鈍い音をたてる。覚えるはずの痛みは頭の中に渦巻く疑問によって誤魔化されてしまった。うぅん、と呻き声が喉から漏れる。唇はぴったりと合わさり、真一文字を描いていた。
背もたれに預けた体重を移動させ、雷刀は元の姿勢に戻る。膝を肘置きにし背を丸めて携帯端末を眺める姿は褒められたものではない。けれど、今この手にある液晶画面の中身を堂々と披露するのは己であれど難しかった。
手のひらに収まる程度の携帯端末、その煌々と光る液晶画面に並ぶのは『恋人』『アピール』『積極的』『ドキドキ』など、どこか乙女チックで甘ったるい、まばゆいほどに輝いて見える単語ばかりだ。画面から砂糖やら蜜やらのような匂いが漂ってきそうなほどの密度である。普段ならば決して見ないようなページだ――今は藁にも縋る思いで見ているのだけれど。
先日、長年積もりに積もった恋心が報われた。雷刀は実の弟である烈風刀に告白し、想いが通じ合ったのだ。それこそ踊らんばかりに喜び、歓喜のあまり涙し、溢れた愛をたっぷりぶつけたほどである。
交際は順調である。だが、順調すぎるのだ。お互い初めての交際ということもあり、手を出しあぐねているのが己でもよく分かる。もっと『恋人』らしいことをしたい。もっと『恋人』らしくありたい。そう思う心はどんどんと大きくなり、少年を突き動かした。手始めに、インターネットで情報を集めるという些細なことから。
そうして『恋人らしいこと』と曖昧極まるワードで検索をかけ、トップに出たページから片っ端から読み漁り。どれも短いページだというのに、夜はすっかりと更けていた。
問題はその記事の内容だ。華やかな装飾で綴られたページに書いてあることはほぼ同じだった。『手を繋ぐ』とか、『抱き締める』とか、『一緒に出掛ける』とか、『メッセージを送りあう』とか。
どれも日常的な行動だった。ふらふらと歩く己を引き留めるために手を繋ぐことは多い。抱き締めるのだって感情表現の一つとして度々行っている。一緒に出掛ける、メッセージを送るに至っては日常に染みこんだ必然の行動であった。買い物に行くには手が多い方が便利であるし、メッセージを交わさなければ料理や風呂の段取りが付かない。『恋人らしいこと』のほとんどはもう達成しているのだ。
頭を抱えたのは言うまでもない。だって、まさか『恋人らしいこと』をほぼ達成しているだなんて思わないではないか。何年も共に暮らしている肉親であることも大きいだろう。にしたって、こうも早々とクリアしているとは思わないではないか。今まで行ってきた全ての行為に恋人らしい甘やかでときめく要素は無かったけれども。
煌々と光る強化ガラスを指で弾く。『恋人としたこと十選!』と題されたページがスクロールされていき、下部で止まる。そこに並ぶのは直球的な一言だ。『キスする』という、一番に思い浮かぶ行動。
はぁ、と雷刀は深く息を吐く。あまりの重さに質量を持ち床を転がっていきそうな勢いである。当然だ、唯一残された『恋人らしいこと』が現時点で一番ハードルが高い、雲の上にあるような手が届かないものなのだから。
「キスなぁ……」
呟いた途端、ぐちゃぐちゃと掻き回されていた思考がピタリと止まる。まるで映画のスクリーンのように、弟の姿が、顔が思い浮かんだ。キス。口付け。頭の中で言葉を重ねる度、意識は自然と唇へとズームアップしていく。それが間近で、触れそうで、くっ付きそうで。
「腰を悪くしますよ」
ぼけにぼけた意識に澄んだ声が飛び込んでくる。丸まりに丸まった少年の背が、バネめいた動きで勢い良くまっすぐに正された。うわ、と驚きの声が後ろで聞こえた。
まずい。見られた。いや隠してたし見えていないか。バレたのでは。焦燥が頭を染めゆく。普段通りに返そうと口を動かすも、声帯は仕事を果たさなかった。ひゅ、と情けない音をたてて息が漏れ出るだけだ。
気にしていないのか、声の主である弟は何も言わずに隣に座った。揃いの携帯端末を取り出し、軽い指捌きで操っていく。おそらくメッセージや天気を確認しているのだろう。洗濯物は少しばかり溜まっていた。
ドッ、ドッ、と心臓が広がっては縮み、体内に爆音を響かせる。肉と皮膚を破って外に漏れ出てしまってもおかしくないほどの激しさだ。恋人のことを、それもあまりにも格好が付かない内容を考えていたら本人が現れたのだからこうなるのも仕方の無いことである。
「どうしたんですか?」
訝しげな声が飛んでくる。いつの間にか項垂れていた頭をバッと上げると、そこにはこちらを見る烈風刀の姿があった。透明度の高い碧い目は半月になってこちらを見据えている。整えられた眉は少しばかり中央に寄っているように見えた。
「あ、いや、なんにも? べつに? ふつーだけど?」
「普通の人はそんな動きをしないんですよ」
バタフライめいて視線が宙を泳いでいく。言葉を吐き出す口は音の数よりも動きが多かった。指先は素早く携帯端末をスリープ状態にし、軽快にパスして恋人から遠ざける。明らかに不審者の動きであった。これを普通と呼ぶならば社会が混乱に陥ってもおかしくはない。もちろん、冷静極まりない碧にはすぐさま指摘された。
え、あ、うん。しどろもどろに声を漏らし、雷刀は再び項垂れる。頭が痛い。顔が熱い。指先が冷たい。地に足が付いている感覚が無い。まるで高熱を出した時のようだ。実際はただ身体全てが羞恥に染まっているだけなのだけれど。
「また何か隠しているんですか? 先週の化学のテキスト提出し忘れたとか」
「いや、それはちゃんと出した」
訝る弟に兄は手を振って否定する。じゃあ何なんですか、と溜め息交じりの声が飛んできた。心に刺さったそれが痛みを訴え、また心拍数を上げていく。このまま身体ごと破裂してしまいそうな勢いだ。
「……あのさ、オレら……こう……あれ、……付き合ってんじゃん?」
「……まぁ、そうですね」
おそるおそる言葉を紡いでいく。問いにはきちんと肯定が返ってきた。安堵し、朱は深く息を吐く。隠していた携帯端末を右手に持ち、スリープを解除する。そのまま、輝く画面を碧へと向けた。
「恋人らしいこと分かんなくて調べてた……」
「あー……」
隠し立てても疑われる、最悪心配をかけるだけだ。ならば、恥を忍んで正直に白状した方がいい。結果、返ってきたのは生返事だった。けれど、少し高い調子のそれには呆れも嘲りもない。むしろ、同感の響きがあった。
「オニイチャンだって努力すんだよぉ……」
「あー……まぁ、はい。そうなりますよね。そういうところは真面目ですよね」
絞り出した声に何とも言えない声が返される。褒められているのかけなされているのか分からないものであった。少なくとも、慰めは多少なりとも感じる。ほのかに羞恥の色が見えるのは気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「まぁ、そんで色々見たんだけどさ。出てくるやつ大体もうやってて……」
「はい?」
沈んだ声で説明を並べ立てていくと、ひっくり返ったような声が返される。反射的に隣を見ると、そこには頬に紅を浮かべた恋人の姿があった。潤いのある唇は少しばかり震えている。丸い瞳は忙しなく瞼の奥に隠れては現れを繰り返していた。
「だって手ぇ繋ぐのもぎゅってすんのも出掛けんのも連絡すんのも全部やってんじゃん! 出掛けんのとか毎週だし!」
「それはそうですけど……、いや、でも買い出しをデートにカウントするのはおかしくないですか!?」
でーと。
烈風刀が放った言葉を思わず復唱する。でーと。デート。そうだ、恋人と出掛けることはデートと言うのだ。けれど、己たちの毎週の買い出しと『デート』というイメージはかけ離れている。たしかに、彼の言ったように『デート』ではないだろう。そっか、と思わず感嘆の声が漏れた。
「……え? じゃあ今度ちゃんとデートする?」
え、と少し高い音が二人の間に落ちる。対面、日焼けしていないかんばせがみるみるうちに赤に染まっていく。いつぞやの花見で見た先生の赤ら顔がこんな感じだっただろうか、とどこか外れたことが頭の中に浮かんだ。
赤い顔が俯いて隠れて、つむじがこちらに向けられる。浅葱の髪の下からは、あ、う、と溺れて喘ぐような音が聞こえてきた。変なことを言っただろうか。いや、確実に変なことを言った。突然『デート』に誘うなど、いくら恋人とは言え突飛も突飛だった。こういうのは完璧なルートを立てて、雰囲気を作って、さらっとやるものなのだ。少なくとも、レイシスに借りた少女漫画ではそうしていた。こんな間抜けに誘うものではないのだ。あまりの浅慮に今度は雷刀が俯く番だった。
「…………し、ましょう」
細い、吐息にも似た音が静まりきった部屋に落ちる。顔を上げると、そこには相変わらず赤い顔をした弟がいた。目は潤んでいるも、どこか据わっている。口元はぎゅっと結ばれ美しいまでの一本線を描いていた。
「デート、しましょう」
「え? は? い、いいのっ!?」
「するんですよ」
思わず立ち上がる雷刀に、烈風刀は低い声で返す。地に響くようなそれは、いつぞやお化け屋敷に入る前に聞いた腹を括った時の声と似ていた。反して、己は高い声で返す。間抜け極まりなかった。
思わず後退りそうになった身体を、伸びた手がTシャツの端を掴んで引き留める。逃がさんと言わんばかりだった。事実、こんな些細な動きと拘束だというのに、一ミリたりとも動けなくなる。餌を求める魚のようにぱくぱくと口を動かすのがやっとだった。
「デートスポット調べましょう。特集記事とかどこかにあるでしょう」
ぐっと引かれ、兄はまたソファに腰を下ろす。すぐさま弟が拳一個分距離を詰め、自身の携帯端末を取り出して見せてきた。検索エンジンの入力窓には、早くも『ネメシス デート 定番』と入力されていた。
「……こういうのってオレが決めてくるもんじゃね?」
「二人で決めて二人で行きたいところに行った方が満足できますよ」
ほら、と烈風刀は掴んだままの裾を引っ張る。誘われるがままに、大小様々な文字が並ぶ液晶画面へと視線を移した。
碧と朱がまばゆい画面を一心に見つめる。夜はまだ長い。
しあわせは二人で/ライレフ
皮膚の厚い指が強化ガラスをなぞっていく。指が弾くように動くと同時に、ガラス越しの情報が勢いよくスクロールしていく。ごちゃまぜの情報が次々と液晶に表示されては消えていった。
タイムラインを一通り見終え、雷刀は携帯端末の電源ボタンを押す。煌々と光る画面が暗闇一色に染まり、光を反射して鏡のように持ち主の顔を映し出した。
「烈風刀ー」
物言わぬ端末をポケットに放り込み、兄は弟の名前を呼ぶ。隣に座る弟は、目の前の画面から目を離すことなく、何ですか、と短く返した。
「ちょっとこっち向いて?」
「何です――」
熱心に今日の献立探しをしていた目がこちらへと向く。わずかに寄せられた眉、じとりと半月になった苔瑪瑙、薄く開いた口、スリープ状態にした端末を握る手、半分ひねってこちらを向いた身体。恋人はしかりとこちらへと意識を向けた。雷刀もまた同じように向き合い、半歩擦って寄って距離を詰める。そのまま、倒れるように片割れの胸へと飛び込んだ。うわ、と少し上擦った声が照明光る天井へと昇っていった。
あまり大きく体重をかけなかったこともあり、倒れ込んだ身体は弟の鍛えられた胸にしかと受け止められた。何なんですか、と棘が生えしきる声を気にすることなく、朱は腕を伸ばし目の前の身体をぎゅうと抱きしめる。薄い布越しに温度が重ね合わさり、心地よい熱を覚える。まだ風呂に入っていないからか、彼の香りを普段よりも強く感じた。腕の中の熱がひくりと震える。
「……幸せ?」
ぎゅうと更に腕に力を込め、ぴとりと更に身体を寄せ、雷刀は短く問う。息の詰まる音。数拍、重く吐き出される音。上から降り注ぐそれは、腕の中にいる彼の心情をめいっぱいに表していた。
「本当に何なんですか」
「いやさー、『触ると幸せホルモンが出るのは心を許してる人相手だから』っての見てさ」
指を動かすだけで繋がるインターネットの海は、色んな情報が満ちて流れて現れては消えてゆく。つい先ほどたまたま目に入ったのは、アプリがおすすめとして差し出してきた短い投稿だった。
皮膚接触で幸せホルモンが出るのは心を許している相手だからであり、そうでない者との接触は攻撃と受け取る。
ゴシック体のフォントが記す情報には明確なソースは記されておらず、真偽など分からない。ただの与太話、ネットの噂、と一瞬で記憶から消え去るようなものである――己にとっては違うが。
真偽など分からない。ならば、試せばよいではないか。ちょうど隣には愛する恋人がいるのだから。
は、と疑問符が山盛りに盛りつけられた声が降ってくる。当然だ、いきなり幸せだの何だのと言われてすぐさま理解しろだなんて無茶である。相手が主席であり続けるほど優秀な頭脳を持つ烈風刀であれど、だ。けれども彼の聡明なる――そして兄の突飛な言動に慣れた脳味噌は、たった数拍で事態を理解したらしい。ほの寒さで白む肌にぶわりと紅色が広がり散っていった。整えられた唇がはくりと開いて閉じてを繰り返す。まるで今この現実を咀嚼しているようだった。
「………………幸せ、ですよ」
はぁ、と大きな溜め息。それに紛れるように小さな言葉がつやめく唇からこぼれ落ちた。胸に飛び込んで頭をうずめた兄の耳にも、きちんと落ちて入って染みていった。
そっか、と雷刀は漏らす。しかりと噛みしめるような、それでいて弾んで弾んでどこかにいってしまいそうなほど浮かれた、この世の幸福を全て詰め込んだようなとろけた声をしていた。衝動に身を任せ、目の前の鍛えられた胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。恋人の確かなる声によってもたらされた愛を、溢れんばかりの幸せを全身で表す。伝わったのだろう、伝えられたのだろう、あやすように背中をトントンと軽く叩かれた。
「雷刀」
愛しい声が己の名を紡ぐ。じゃれつく猫のように動かしてた頭を止め、兄は顔を上げる。目の前には、依然頬を朱色に染めた弟の姿があった。浅葱の瞳はどこか潤んでいて、ゆらゆらと揺れ彷徨っている。口元はまるで定規で線を引いたかのように結ばれているようで、真ん中あたりがどこかもにゃもにゃと動いていた。そんな口元が動き、雷刀、とまた名前を呼ばれる。なーに、と返す声は己でも笑ってしまうほど甘ったるい響きをしていた。
背に回されていた手が動く。布の上を滑って、どこかに行ったそれが持ち上がって、己の頬にひたりと当てられた。どんな時でも手入れを欠かさない手はすべらかで、それでも武器を扱う者らしい固さが目立つ。肌を通して伝わる温度が普段よりも高く感じるのは、きっとほのかな冷たさをまとった空気のせいだけではないはずだ。
「……幸せ、ですか?」
見上げた先、眉を少しだけ下げた弟は細い声で問いを漏らす。揺れる響きが耳朶を撫でて鼓膜を震わせる。行動の意味を、言葉の意味を理解した瞬間、朱はこれ以上ないほどの笑みを浮かべた。
「トーゼンじゃん!」
半ば叫ぶように愛を高らかに謳う。頭を動かし、頬に触れた手にすりすりと擦りつく。もっともっと幸せホルモン――否、幸せが欲しいのだ。愛する人と触れ合う幸せが。
小さく息を吐くのが聞こえる。揺れていた碧の瞳が輝く朱をまっすぐに見つめる。朱もまた、正面からその澄んだ碧をまっすぐに見つめた。
小さな、幸せに満ちた、愛に溢れた笑声が広くない部屋に二つ落ちた。
畳む
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
先生!おかしといたずらください!【ボルテナイザー・マキシマ】
マキシマ先生のハロウィンボイスに脳を焼かれた結果がこれだよ。たすけてください。先生におませさんって言われたい。
死ぬほど資料漁ったけど口調あやふやだし元からマキシマ先生に死ぬほど理想と夢を見ているオタクなので色々と色々。
マキシマ先生が生徒とハロウィンを過ごす話。
今日もボルテ学園の校門は賑わいを見せていた。下校時間を過ぎた今、多くの生徒が帰路に着こうとゲートへ歩みを進めている。だが、今日この時に限っては歩みを止めている者も多い。特に初等部の幼い子どもたちは、ゲートから逸れて走っていっている姿が見受けられた。彼女らが向かった先からは、きゃいきゃいと可愛らしい声が溢れて広がっている。楽しげで嬉しげな、聞いているだけで胸が温かくなるような響きだ。
少年少女の中心は青で染まっていた。否、青い身体をした男性がいるのだ。子どもたちの倍以上はある体躯は筋骨隆々と表現するのが相応しい、丹精込めて鍛え上げらたことがひと目で分かるものだ。着衣を最小限で済ませていることもあり、美術品がごとく仕上げられた肉体は惜しみもなく晒されている。筋肉の陰影を深く刻んだ肌はきらめいて見えるほどつややかで、まるで朝露をまとっているようにすら見える。そこかしこに細かな傷は残っていれど、それすらも作品の一要素であるかのように堂々としていた。
「Foooooo! みんな、ちゃんと並ぶんだゾッ☆ 先生もお菓子も逃げないからネーッ!」
自身を『先生』と称す男性――ボルテナイザー・マキシマは、まるでポーズを決めるように両手に下げた袋を高く持ち上げる。白いそれの縁から小さな飴がいくらかこぼれ落ちる。ビシリと決めた身体に、溢れ出るほど菓子がある様に、きゃあきゃあと可愛らしい歓声があがった。
秋晴れを空風が飾る本日は十月三十一日、所謂ハロウィンである。自由な校風で有名なボルテ学園は、今日一日菓子といたずらのせめぎあいでどこもかしこも普段以上に賑やかだった。いたずらを仕掛ける者、菓子で武装し自衛する者、イベントにかこつけて菓子を食べる者、いたずらを返り討ちにせんと闘う者。学園中がハロウィン一色である。サプライズと称して教師が盛大ないたずらもとい改造を仕掛けるほどだ――別の教師にしこたま怒られていたが。
ボルテナイザー・マキシマもハロウィンを楽しむ一人だった。生徒からはいたずらを仕掛けられ、躱し、菓子を与え、菓子をもらい、と一日をこなしてきた。授業が終わった今は、初等部の生徒を中心に菓子を配っているところだ。生徒にハロウィンを楽しんでもらいたい。そんな教師としての思慮が見える姿であった。肝心の子どもたちは菓子に夢中でハロウィンなんてことは忘れている様子だけれど。
「せんせー!」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
子どもたちの中に星空まとう兎が飛び込む。初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らもハロウィンを楽しんでいるのだろう、片手には菓子がたくさん詰まった袋を抱えていた。それに隠れたハーフパンツのポケット部分は、不自然なほど膨らんでいる。何が入っているかなど、彼女らを知る者にはすぐさま理解できる。そして、理解と同時に逃げ出すだろう。初等部の双子兎は仲の良さだけでなくいたずらっ子としても有名なのだ。
「ニアGIRL! ノアGIRL! ハッピーハロウィーンッ!」
彼女たちと親しい――つまりは彼女たちの性格をばっちりと知っているというのに、マキシマは逃げることなく笑顔を浮かべていた。大きく開いた口からは、学園の外にまで響き渡るような声が弾け出る。綺麗に生え揃った白い歯が秋の穏やかな日差しを受けて輝いた。
「勿論、二人にもお菓子を用意してるゾーッ!」
袋を持った両手を器用に操り、マキシマは二つの包みを取り出す。市販の、けれども子どものお小遣いで買うにはちょっと手が届かない、程よい甘さとよく詰まった生地で評判のマドレーヌだ。透明な袋に入れオレンジのリボンで飾られたそれは、まさにハロウィンに相応しいものだ。菓子の登場に、双子兎の目が輝き出す。わー、と元気な声があがった。ありがとー、と元気な礼とともに、ニアは長い袖で隠された手を菓子へと伸ばす。ニアちゃん、と妹は姉の脇腹をツンツンと突いた。笑顔満面に彩られた目がハッと開き、腕がすぐさま引かれていく。そんな不自然な動きをしているというのに、マキシマは全く気にせず二人をにこやかに眺めていた。
「せんせー? あのね?」
「ニアたち、お菓子じゃなくていたずらがいいなー」
二人の顔は依然笑みで飾られていた。けれども、目の奥に輝くのは喜びのきらめきではなく意地悪気な影を落としていた。真ん丸な目が弓張月のように、小さな口が三日月のように弧を描いて笑顔を浮かべる。可愛らしいはずのそれは、瞳に宿るもののせいでどこか不穏な雰囲気をまとっていた。手を隠す長い袖が柳のようにぷらんぷらんと揺れる。それが膨らんだポケットに辿り着く前に、二人の額に何かが触れた。
「先生にいたずらがしたいーッ? このお・ま・せ・さ・んめッ☆」
双子の額にちょんと触れたマキシマの指に、ほんのわずかに力が込められる。離れさせるようにちょいとつつかれ、ビタミングリーンの耳がふわんと揺れる。わわっ、と兎たちは慌てた声を漏らした。
「ダメかー」
双子は揃って声をあげる。どこか晴れ晴れとして弾んだ調子なのはきっと気のせいではないだろう。いたずらめいた輝きが消えた瞳が、普段通りゆるりと口角を持ち上げた可愛らしい口元が、いたずらが失敗した彼女らの心を語っていた。
「じゃあ先生。改めてー」
「トリック・オア・トリート、だよ!」
「Hmm……。じゃーあー……先生はTreatを選ぶゾッ!」
持っていってねッ、とマキシマは彼女らの手の上に先ほどの菓子を載せる。ありがとー、と元気な声が二つ重なった。
「マキシマ先生ー!」
菓子片手に駆けていく双子兎を見送るマキシマの背に鋭い声が飛んでくる。名を呼ばれ、教師はいつも通りの爽やかを通り越して暑苦しい笑みを浮かべたまま振り返った。彼の目元を覆うバイザーに赤が映る。小さかったそれはどんどんど大きくなり、すぐさまその足元まで追いついた。昇降口から校門前ゲートまでの短い距離を走っただけだというのに、声の主はゼェハァと大袈裟なほど息をこぼす。疲労で俯いていた黄色い頭がバッと上がり、同時に日に焼けていない白い手が突き出された。
「菓子配ってるって聞きました! ください!」
「魂! みっともないよ!」
ねだり叫ぶ少年――赤志魂の後ろから、青雨冷音が叫んで走って寄ってくる。走って少しだけあらわになった目元は見開かれ、焦りと羞恥でわずかに色づいて見えた。一心不乱にマキシマを見つめる腐れ縁の首根っこを掴んだ彼は、ぐっと力を入れて引き剥がす。菓子一直線の少年は踏ん張って堪えた。この調子では菓子がもらえるまで動かないことぐらい、誰にだって理解できる。
「魂BOYもハッピーハロウィーンッ! HAHAHA、元気なのはいいことだゾーッ」
はい、とマキシマはまっすぐに突き出された魂の手に菓子を載せる。ありがとうございます、と普段の彼からは想像できないほどの声が辺りに響いた。
「すみません……」
「そこまでして欲しいもんなの……?」
はしゃいで菓子を眺める少年の後ろで、冷音は縮こまって謝罪の言葉を漏らす。その後ろから疑問の言葉が飛んでくる。彼らの友人である不律灯色だ。授業のほとんどを寝て過ごしていると噂される彼は、いつもと同じ眠たげな目で菓子を手にはしゃぐ魂を眺めていた。
「イベントは楽しむものだゾッ☆ 冷音BOY! 灯色BOY! お菓子といたずらどっちにするッ?」
三人の様子を気にすることなく――否、むしろ申し訳無さそうに縮こまる冷音を気遣うように、マキシマは普段通り呵々大笑する。彼の大声量を聞き慣れた少年は、ホッとした様子でリュックサックのショルダーベルトを握っていた手を緩めた。この大音量を間近で聞いているというのに、灯色は眠たげどころか寝ているかのように瞼を下ろしている。
「お、お菓子でお願いします……」
ゴソゴソとリュックを漁る冷音の目の前に、ビニール袋に包まれた菓子が差し出される。ありがとうございます、と少しつかえつかえになりながら、青いパーカーに包まれた手がこわごわと動いて受け取る。ハッピーハロウィーン、とまた大声が空に昇っていった。少しだけ晴れやかになった表情に、薄く笑みが浮かぶ。これでは反対じゃないだろうか、と出そうになった疑問は喉の奥に押し込めることに決めたようだ。
「灯色BOYはいたずらかなッ?」
「お菓子だよ……さっさとちょうだい……」
問うて構える――もちろん冗談だ――マキシマに、灯色は呆れ返った声であしらう。けだるげに差し出された生徒の手に、教師は先ほどと同じ菓子を載せた。今にも閉じてしまいそうな目が手の中にあるマドレーヌを見つめる。またこれか、と言いたげな瞳をしていた。ふぅん、と少年は小さく鼻を鳴らす。
今しがた灯色に渡されたマドレーヌは、よくマキシマが彼に与えるものだった。まだ学園にやってきて日の浅い頃、迷い子だった少年はこれをよく食べた。いっとう好んでいるわけではない。ただ毎回それだけ数が多いから、バランスよく数を減らそうと選んで食べただけだ。しかし、マキシマにはそれが『灯色が好むもの』として映ったらしい。彼は時たま差し入れにこの菓子を少年に渡すのだ。否定するのも面倒だから、と灯色は語る。けれども、彼にとってこの菓子はまだ未発達の心の中の『思い出』のひとつとして鈍い光を灯すものであるのは確かだった。
せんせー。ありがとー。さよならー。またあしたー。幼い声がゲート前に響く。時折少女の声や少年の声も混ざる。もちろん、その中でひときわ響いて輝くのはボルテ学園英語教師――誰よりも生徒を思い行動するボルテナイザー・マキシマの声だった。
畳む
あんたに編み込んで【ヒロ←ニカ】
あんたに編み込んで【ヒロ←ニカ】
ハッピーハロウィン(フライング)(明日の体調が怪しいため)
キョンキョンぼう可愛い! そういやこれ三つ編み付いてんすね! お揃い! とかそういう単純な思考による単純な話。都合の悪いところは都合の良いように勝手に捏造してる。
ハロウィンギアが気になるベロニカちゃんハロウィンギアに興味津々なヒロ君の話。
前後に付けられた大きな装飾を横に避け、丼をひっくり返したような帽子を被る。そのままくるくると回して正しい被り方をする。不思議なことに、顔の真ん前に配置された大きな厚紙は透けて向こう側がはっきりと見えた。おぉ、とベロニカは思わず感嘆の声を漏らした。どういう仕組みか分からないものの、こんな顔を隠すようなデザインでしっかりと視界が確保できるようになっているのは驚きだ。見た目を最優先した機能性の低いギアだと思っていたが、そうではないようだ。
「前見えますか?」
「見える。すげーわこれ」
尋ねる声に急いでそちらへと顔を向ける。透ける札紙の向こうには、どこか心配そうな顔をしたヒロがいた。やはり視界の確保への懸念が大きいのだろう。そんな表情を振り払うように弾んだ声を、恥ずかしながら弾んでしまった声をあげる。それでも信じられないのか、送られる視線はまだ訝りを残していた。
「ヒロも被ってみろよ。すげーんだって」
被ったギア、キョンキョンぼうを脱ぎ捨て、目の前の青い頭へと載せる。うわ、と短い悲鳴があがった。怯んだように屈んだ頭を見下ろしながら、帽子の位置を調節してやる。こわごわと上げた顔からは次第に猜疑の色が消え、高揚にも似た感動の色が広がっていく。赤い瞳は感情を表すように大きく丸くなっていく。口元は小さく開き、はわぁと小さな溜め息が落ちた。
「ちゃんと見えるんですね。どういう仕組みなんでしょう」
「何なんだろうな。こっちから見たらただの紙なのに」
眼前に取り付けられた厚みのある紙をいじくりながら少年は呟く。少女も不思議そうに前から横からと覗き込んだ。やはり何度見ても正面からでは達筆すぎて読み下せない文字書かれたただの厚紙だ。けれど、横から見るとうっすらと前が透けて見える。きちんと被って見た結果は先ほど十二分に味わった。普通の紙のように見えるが、何か特殊なものなのだろうか。知的好奇心が年頃の少年少女をこれでもかとくすぐって、あちらへこちらへと動かした。
横から紙を眺める黄色い目がすぃと動く。レモンの瞳に映るのは、ギアの背面に付けられた装飾だ。背の半ばまであるそれは、三つ編みにされた髪のようなものだった。かっちりと編み込まれた様子は縄を思い起こさせる。前に取り付けられた札も大概意味が分からない装飾だが、こちらも何のためにあるのかが全く分からない。下手をすればバトル中どこかに引っかけてしまう危険性があるのだから、実用性を下げるものである。先ほどのような配慮はあれど、やはり見目を最優先したギアのようだ。
そういえば、とベロニカは記憶を辿る。インクリングはゲソを気合いを入れて伸ばし、前に垂らした三つ編みにしている者がいる。己もその一人だ。しかし、オクトリングがそのようなヘアスタイルをしているのは見たことがなかった。彼らの多くは長いゲソ――オクトリングは『ゲソ』ではないと目の前の友人に教えられた覚えがあるが――を分けて下ろしているか、簡単に結っているかがほとんどだ。
気合いを入れればゲソは伸ばすことができる。けれどもそれをしないのは何故なのだろう。バンカラ街のオクトリングもまた『イカした』ことに力を注いでいるのに、何故ヘアスタイルには無頓着なのだろう。インクリングとオクトリングはトレンドが違うのだろうか。いや、ロビーに広げっぱなしにされていた雑誌ではどちらも同じように扱っていた覚えがある。では、何故。
疑問と好奇心で埋め尽くされた少女の心は、容易く身体を動かす。角張った手が伸び、後ろに垂れた三つ編みの装飾を避け、背へと流れる青いゲソに触れる。先が緩やかにカールしたそれは、冷房が切られてぬるいロッカールームの中でもひやりとしていた。耳の後ろ側、太い部分に這わせた指をゆっくりと動かしなぞる。先端に辿り着いたところで、年頃の少女にしては硬い指が躊躇いがちに泳ぐ。しばしして、ゆるくうねったそれをしかりとつまむ。そのまま、ぐっと下に引っ張った。
「いった!」
瞬間、目の前で悲鳴があがる。形が良いブルーの頭がぐっと後ろに傾く。バランスを崩した帽子が揺れ動き、そのまま床へと落ちた。わっ、と思わずこちらも声をあげる。
「すまん!」
「一体どうしたんですか……?」
即座に手を離し、ベロニカは悲鳴と同じぐらい大声で謝る。ゲソを引っ張られた当人は、己の愚行に怒ることなく問いかけるだけだ。動揺をあらわにした声は、本当に状況が理解できていないことを如実に表していた。
「これ、後ろ三つ編みになってんだろ? オクトリングも気合い入れて引っ張ったら三つ編みにできねーのかなーって」
しょぼくれた声で答えを返す。この有様では返答ではなく言い訳にしか聞こえなかった。事実そうであるのだけれど。あまりにもイカしてない、みっともない、子どもそのものの行動だった。今になって羞恥と後悔が湧き起こってくる。何より、彼に危害を与えてしまったのが大問題だ。普段から世話を焼いてくれる優しい友人を衝動的な好奇心で傷付けるなど馬鹿にも程というものがある。
あぁ、と少年は納得した声をあげる。そこにうすらと笑みを含んでいるように聞こえたのは、きっと気のせいなんかでないだろう。当たり前だ、こんなガキくさいことをして笑われない方がおかしいのだ。
「オクトリングはインクリングに比べて触手の本数が少ないですからね。三つ編みはよっぽど頑張らないと難しいんじゃないでしょうか」
「あー……、本数は気合いじゃどうにもならねーもんな」
インクリングの頭部にあるゲソは六本だが、オクトリングのそれは四本だ。目の前の頭を見るに、それも左右に二本ずつ分かれた配置をしている。己たちのように気合いで伸ばしたとしても、アンバランスになってしまうだろう。
種族差によってヘアスタイルに違いが出てくるとは。なるほどなぁ、とベロニカはこぼす。目の前のヒロは、事態を飲み込めていないのかきょとりとした顔をしていた。
「できたらいいのにな。三つ編み似合いそうだし」
指を伸ばし、今度は顔の脇にある一本に触れる。ゲソの持ち主はびくりと身体を震わせた身を引いたが、すぐさま平常通り、何でもないという風な顔でこちらを見た。怯えさせてしまった事実に、また胸を悔恨が掻き混ぜて黒く染め上げていく。全ては自分が悪いのだけれど。
取れてしまった帽子に、無くなってしまった三つ編みに、心臓を撫でるように風が吹いていく。うっすらと、けれども確かに冷たいそれには覚えがある。ダイヤの乱れで待ち合わせの時間に会えない改札口。合流のタイミングを見誤って先にバトルに行かれてしまったロビー。予定が合わずしばしの間戦えない連絡が来た床の上。そんな時はいつだって冷えた何かが心の臓を這っていくのだ。
今は目の前に彼がいる。ギアの試着を終えれば、ナワバリバトルに繰り出す予定だ。なのに、何故こんな気分になるのだろう。少女は目をしばたたき、小首を傾げる。胸のあたりを撫でてみるが、依然として冷たさは消えなかった。
「せっかくのハロウィンですし使ってみたいですけど、ヒト速……ヒト速かぁ……」
「あたしもどうすっかなー」
ブツブツと呟くヒロに、ベロニカも難しそうな声を返す。ヒト速はトライストリンガーと相性は悪くないものの、今から普段通りのギア構成になるようにコーデを組み直すのは骨だ。自分の趣味嗜好を考えるに、使うとしても今回のハロウィン特別フェスが最初で最後だろう。そのために新しくコーデを考えるというのはどうにも面倒くささが勝つ。
悩ましげに眉を寄せ、いつの間にか拾った帽子を睨みつける友人を見やる。.96ガロンを扱うヒロにとって、ヒト速であるこのギアを採用するのは難しいだろう。.96ガロンはヒト速の効果量がそれはそれは低いのだ。わざわざ活かせないものに枠を割くのは非合理的である。それを分かっていても悩むほど、彼はこれに惹かれているようだ。
帽子に取り付けられた三つ編みが揺れる。三つ編み。オクトリングにはできないヘアスタイル。オクトリングである彼ではきっとずっと見られないヘアスタイル。
「……ま、いっか」
少女は小さくこぼす。は、と吐き出した息は、胸中の混迷具合と正反対に軽い響きをしていた。
今さっき見れたじゃないか。たとえギアの装飾とはいえ、三つ編みを下げた姿が見られたじゃないか。違うヘアスタイルをした彼が見れたじゃないか――己と揃いのヘアスタイルにした彼が見れたじゃないか。
吐いた途端、ぐちゃりと渦巻く感情が吹き飛んで消えていく。冷たいものが撫でていた胸に温度が戻ってくる。むしろ、温かさを覚える何かが胃の腑に落ちた気がした。
「どうしました?」
問われ、ベロニカは視線を前に戻す。そこには、今一度ギアを被ったヒロの姿があった。後ろに偽物の三つ編みを垂らした彼の姿が。
ふっと思わず笑みを漏らす。口元が緩む。とくりとくりと心の臓が普段よりも大きな駆動音を鳴らし始めた気がした。どれも不可解だ。けれど、どれも心地よさがあった。
「どうせなら写真撮っときゃよかったなって」
「さすがに勘弁してください」
ニカリと笑う少女に、少年は笑って返す。ギアを取り扱っている今、どちらの手元にもナマコフォンは無い。冗談と言うことは分かりきっていた。そもそも、彼が写真の類をあまり得意としていないことはよく知っている。珍しいコーデをしていようと、不躾にカメラを向けようだなんてことは一つも思わなかった。互いに冗談だと分かっているからこそ、笑みを交わせるのだ。
「作るだけ作ってみっかなぁ」
貸していたギアを眼前の頭からひょいと取り、ベロニカはスロッシャーのように指先でくるくると回す。インクの色に染まった長い三つ編みも一緒に回った。ぺちぺちと身体に当たるのが鬱陶しく、すぐにやめて胸を隠すように持つ。前から見ると相変わらず不透明な札が少女を見上げた。
「使うならこっちでしょうか」
そう言って少年が取り出したのは、不気味の一言に尽きる仮面だった。ヒトの顔に似ているようで、出っ張っている額や顎がヒトならざる者だと語っている。要所要所に開けられた穴たちや、矢印のような赤い模様が更に不気味さを加速させていた。
「何だそれ」
「『ホッケかめん』だそうです。ホッケ……なんでしょうか?」
裏表を確認していたオクトリングの手が止まる。そのまま両手を側面に当て、かぽりと顔に被せた。顔面全てを覆う仮面により、一瞬にして顔も表情が失われる。目元だけがうっすらと透けて見えるのが、どこか滑稽だった。
「……似合ってんじゃね?」
「似合うとか似合わないとか、そういうギアじゃないと思いますけどね」
軽口を叩き合い、二人でクスクスと笑い合う。ハロウィンまであと少し。
畳む
緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
緑橙誘いて【嬬武器兄弟】
ハッピーハロウィン(フライング)(内容的にフライングしないといけない)
ハロウィンだしボルテ学園は色々企画してそうだなーって感じでどうにかこうにか。毎度の如く捏造しかないよ。
ジャック・オ・ランタン眺める嬬武器兄弟の話。
リビングに続くドアをくぐり抜けると、三角吊り目と目があった。
丸っこい身体、もとい顔は深い緑と橙がまだらに散り、室内照明を受けてデコボコとした表面があらわになっている。三角の双眸は底見えぬ暗さだ。歪な口元も、目と同じほど底が見えない闇を奥に隠していた。けれども記号化された顔つきはコミカルで、愛らしさも感じさせる――リビングの机の上に一人鎮座しているのは不審極まりないが。
「おかえり」
キッチンから声。見ると、マグカップを手にした雷刀の姿があった。黒いTシャツを背にしたそれは、中身を淹れたばかりなのかほのかに湯気が見える。冬色をした手元と少しだけ厚みのある半袖とはちぐはぐだ。飲み物で暖を取る前に上着でも羽織ればいいのに、と考えてしまうのは当然だろう。今はそんなことより言うべきことがあるが。
「ただいま。何ですかこれ」
挨拶は欠かすことなく、けれども何よりも先に烈風刀は問う。このオブジェは朝の時点では影すら見ていない。今日、己よりも一足先に帰宅した兄の手によって持ち込まれたのは明白だ。
「そりゃ、かぼちゃだろ」
「分からないとでも?」
「ごめん」
茶化した風に答える朱に、碧は眇めて短く言う。すぐさま謝罪の言葉が飛んできた。互いに、言葉に反して声も口ぶりも軽い。秋風に晒され結ばれた口が解けていく心地がした。
「放課後おっさんがジャック…………えっと、かぼちゃランタンの教室やっててさ」
あぁ、と弟は思わず声を漏らす。先日、美術教師であるライオットが『ワークショップを行うので規格外のかぼちゃをいくらか売ってくれないか』と訪ねてきた記憶がよみがえったのだ。
植物も生きている以上、化けて大きくなりすぎたものや逆に他個体に栄養を奪われ小さくなってしまうものもある。味やサイズの問題で販売には回すことができない個体はどうしても生まれてしまうのだ。加工販売にまでは手が回っていないのもあり、堆肥にするなどして処分するしかない現状である。それを引き取ってくれるなど、しかもワークショップで活かしてくれるなど、こちらとしても喜ばしいことだ。日頃の付き合い――特に、あの時畑を引き継いで面倒を見てくれた人だ――もあり、無償で譲ったのだった。予備が必要だろう、と理由をつけて少し余計に引き取ってもらったのは秘密だが。
なるほど、今日がそのハロウィン特別企画ワークショップの実施日だったらしい。校庭の方から機械の駆動音や子どもたちの高い声が聞こえたのは、きっと制作の真っ最中だったからだろう。
「一番でっけーの作らせてもらった!」
「よく彫れましたね……」
目測でも両手でやっとどうにか持てるほどの大きさだと分かるほどである、化けてあまり身が詰まっていないものだろう。にしたって、かぼちゃの皮は硬くて厚い。これほどのサイズならば包丁は確実に通らず、彫刻刀でも貫通させられるか怪しいほどだ。目を一つ彫るのでも一苦労であるのは容易に想像できる。だというのに、中身はしっかりくり抜かれているのは目口の奥の闇からよく分かる。三角の目もジグザグの口も、切り口はナイフで削ったのか綺麗に整えられている。放課後の短時間でよく作れたものだと感心するほどの出来だ。
「おっさんが結構手伝ってくれたしな。こう、チェーンソーでヂューン! って」
謎の擬音とともに、兄は腕で空気を横薙ぎにする。きっとチェーンソーを操るライオットを真似しているのだろうが、その動きは明らかにランタンの形状を作り上げるには大袈裟で大雑把すぎる。そもそもこの手のものを作るにはチェーンソーよりも電動ドリルの方が相応しいのではないか。いや、最終的に立派な物が出来上がっているのだからいいではないか。思考を重ねて、喉から出そうになる言葉をどうにか押さえつけた。
「中にろうそく入れんだって。やろーぜ」
ほらほら、と雷刀はどこからかろうそくとライターを取り出した。左手に握られたろうそくは持ち主の髪よりも更に鮮やかな赤で、高校生の拳で握って尚はみ出るほど長く太い。明らかに仏壇に供えるためのものだった。かぼちゃはかなり大きいものの、さすがに入るのかと不安が浮かぶ。でかければでかいほどいい、と彼は何においてもよく言っているが、そろそろ適材適所という言葉を覚えるべきである。
テーブルに敷いた大判ラップの上に置かれたかぼちゃが持ち上げられる。台座を買い忘れたのか、雷刀はテーブルにろうそくの底面をぐりぐりと擦りつけるようにして底を広げていく。かなり無理に潰して立たせ、倒れないようにそっと火を点けた。食卓の上だけが更に明るさを増す。それもすぐさまオレンジの中に消えた。トトトと弾んだ足音に続いてパチリと軽い音が鳴った途端、部屋は闇に包まれる。しかし、目の前だけは穏やかな光で照らされていた。おぉ、とどこか上擦った声が二つ部屋に落ちた。
中のろうそくが大きいためか、直線で構成されたの顔から漏れる灯りははっきりとしたものだ。直視しては眩しいだろうが、かぼちゃで覆われることで輝かしい光は和らいでいる。LEDではなく炎だからだろうか、普段よりも柔らかな色をして見えた。
「いいじゃん」
「綺麗ですね」
何故だか二人ともひそめて言葉を交わす。まるで声と息に合わせるかのようにランタンの中で炎が揺れた。このまま消えてしまうような、消してしまうような心地に思わず口を噤む。兄もそうだったようで、隣から音が消えた。聞こえるのは、ほんのわずかな呼吸の揺らぎだけだ。
ゆらゆらと炎が揺らめく。室内だから風なんてものは無いのに、何もかも静止していて動くものは無いのに炎は揺らめく。まるで命が宿っているようだ、なんてメルヘンじみた錯覚に陥る。そういえば、ジャック・オ・ランタンは死者の魂が関わるものだとどこかで聞いた気がした。死者の魂。音も無く揺れ動くもの。見えないもの。
パチン、と軽い音が静かだった部屋に落ちる。ぶわりと光が部屋を満たす。気付けば、部屋の電気は点けられ、目の前のランタンは持ち上げられ中身のろうそくが消されたところだった。
「キレーだったな」
「……えぇ、とても」
ろうそくの後処理をしながら雷刀は笑う。烈風刀も遅れて首肯する。声帯が普段以上に震えたのは、きっと気のせいではない。
どうやら引き込まれていたのは自分だけだったようだ。滅多に味わわない炎の揺らめきとかじった程度のあやふやな知識が悪い方向に意識を引っ張っていったらしい。こんなのまるっきり子どもではないか、と内心自嘲する。兄のことを笑ってなどいられないほど己も単純な部分があるのだから嫌になる。
ぐっと目を瞑り、ぱっと開ける。目の前にはあの光は無い。ただ、かぼちゃとにらめっこする兄の姿があるだけだ。
「……これって食えんの?」
「一応食用の品種ですけれど……、化けているからあまり美味しくないと思いますよ」
「そっかー」
もったいねーけど捨てるしかねーか、と雷刀は唇を尖らせる。かぼちゃは表情を変えること無く、にらめっこを続けていた。
畳む
どれにせよ腕は死ぬ【新3号】
どれにせよ腕は死ぬ【新3号】
久しぶりにヒロモやったら序盤でパブロ振らせるミッションあることに気付いて宇宙猫顔になったので。いやこんな序盤にパブロをオススメするの正気か? 初心者に時間制限付きステージでパブロ振らせるとか正気か?
肉体の限界を試される新3号の話。
どぷんと液体が湧く音。べしゃりと固体が落ちる音。ヤカンの金網から吐き出された黄色は、白い地に放り出されて転がったまま動かない。相棒の生死を確かめるようにコジャケが駆け寄り、その鮮やかなイエローの髪をつつく。三度触れて動かぬことを見て、何とも表現しがたい鳴き声が固い嘴から漏れる。そのまま、全てを呑み込まんばかりに大きく口を開けた。
「食えないっつってんでしょ」
地面に放られた手が素早く動き、持ち上がった上顎を掴む。そのまま、力強く引き寄せ、持ち上げ、大きく空に放り投げた。言語化しがたい鳴き声と丸い体躯が液晶が作り出す蒼天へとまっすぐに昇っていった。
はぁ、と嘆息し、インクリングは再び地を転がる。ヒーロスーツに包まれた腕はまだ熱を持っていた。じんじんとこもる熱も、ずぐずぐと疼く痛みも落ち着く様子がない。また溜め息。少女は端末を開き、イカの姿に戻りキャンプ地へと飛び立った。
「おかえりー!」
降り立ちヒトの形へと変わると、元気な声が飛んでくる。爽やかで弾けるような明るさに、少女は目元を険しくする。気付かないのか、気にしていないのか――おそらく前者だ――一号と呼ばれるインクリングはぶんぶんと手を振った。
気にも留めず、黄髪の少女は歩みを進めキャンプ地の隅へと腰を下ろす。いつの間にか戻ってきたのか、相棒のコジャケがこちらをじぃと見上げていた。何も無いわよ、と手の甲を向けて振って突き放す。瞬間、腕にまた痛みが走った。グッ、と漏れ出掛けた呻きをどうにか喉で殺す。仕留めきれなかったのか、あれ、と跳ねるような声がこちらに飛んでくるのが聞こえた。
「三号、どうしたの? 腕痛いの?」
二人挟んで向こう側、足音が聞こえ始めてどんどん大きくなる。顔を上げた頃には、目の前にはしゃがみ込みこちらを見つめる一号の姿があった。金に十字が刻まれた丸瞳がじぃとこちらを見つめる。ぱちぱちと瞬くそれには表面にうすらと好奇心が刷かれている。輝きすら思わせる視線は、グローブに包まれた手は、スーツに包まれた少女の腕へと向かった。
触れるより先に、勢いよく腕を引く。途端、また前腕に痛みが走った。今度は殺せきれなかった呻きが結んだ唇から漏れる。それでも触らせまいと、三号と呼ばれるインクリングは腕を己の身体で隠そうとした。
「え? 怪我したの!? 大丈夫!?」
「何もないわよ」
チッ、とこれみよがしに舌打ちをし、三号は尻で後退って距離を取る。それもすぐに詰められた。目の前の太い眉はへにゃりと下がり、黄金の目は曇りを振り払うように瞬いている。『心配しています』と言いたげな顔だった。実際、心配しているのだろう。この一号とやらは底抜けにヒトがいいのだ。それこそ、腹が立つほどに。
「怪我なら手当しないとだよ? 『油断せず早期治療…戦場の鉄則!』ってじーちゃんが言ってた!」
「怪我じゃないっつってんでしょ」
また腕に伸ばされる手を振り払い、少女は先輩隊員を睨めつける。青い双眸はこれでもかと眇められ、眉は強く寄せられ、口元は威嚇するようにカラストンビを剥き出しにしている。同年代の少年少女なら怯むほどの気迫だ。しかし、相手は成人した、それもなんだかよく知らないが色々と経験を積んできた先輩である。表情を変えることなく、ただただこちらを見つめてきた。純粋な、清廉な、本当にこちらを慮った視線が、警戒心丸出しのインクリングへと注がれる。視線がかち合い、逸れることなくぶつかりあう。
「…………パブロ、疲れんのよ」
長い戦いの末、敗北したのは三号だった。ふぃ、と顔を逸らし、少女は吐き捨てるように告げる。へ、と呆けたような声。数拍置いて、あぁ、と納得の声と頷きが返ってきた。
オルタナの一区画、『ながいきヤングニュータウン』と記された場所に辿り着いてしばらくが経った。これまでの経験もあってか、探索は前の区画に比べて随分と順調に進んでいる。ケバインクの除去ももうすぐ終わるころだ。ただ、一つ問題が残っていた。
ケバインクの海に埋もれたヤカン、そこに設定されたミッション。迫りくるヌリヌリ棒から逃げながら的を全て壊すそれは、三号にとって苦戦するばかりだ。何しろ、オススメされるブキがパブロである。身の丈以上ある大きなフデを振り回し小さな的を狙って壊すのはなかなかに手こずる。それを棒に潰されぬよう、漏れなく壊すために素早く行わなければいけないのだから忙しいったらない。特に、己は今まで引き金を引くだけでインクが出るシューター系統しか使ってきていないのだ。大きな得物を絶え間なく振り回し続けるパブロを使えばどうなるかなど自明である。
「パブロは難しいよねぇ」
眉尻を下げて笑う一号に、三号はまた舌打ちを返す。『難しい』のではない、ただただ『疲れる』のだ。同年代よりも体力はあるものの、あんなものを振り回し続けるなど初めての行為であり日常ではまずあり得ない動きである。慣れぬ内は体力を必要以上に消耗するのは当たり前なのだ。難しいなんてことはない。そう吐き捨ててやりたいものの、全ては言い訳にしか聞こえないだろう。それぐらいのことは疲れた身体と頭でも理解していた。
「『使うといい』と、司令は言っとるよ」
隣から声。そして鼻に刺さるような臭い。眇目でそちらを見ると、そこには箱を差し出す二号の姿があった。手袋に包まれた手が持つそれは、ドラッグストアで見かける湿布だ。小さな箱の隙間から、薬の嫌な匂いが漏れ出ている。開封済みのようだ。
「何でそんなもん持ってんのよ」
「さぁ? とりあえず貼っとき」
あぐらをかいた膝の上に薬臭い箱が載せられる。逡巡。溜め息とともに手に取り、箱を開け袋の中からいくらか引き抜いた。スーツを脱いで腕を晒し、痛みと熱を覚える部分に遠慮なくペタペタと貼っていく。ひやりとした感触が、患部が確かなる熱を持っていることを証明していた。薬品が染みこむことを表すように皮膚がじんじんと痛み出す。筋肉の悲鳴とはまた別の刺激に、少女は小さく顔を歪めた。
「他の使ってみる?」
「残りバケスロとヴァリよ」
ミッションで使用できるブキは三種。バケットスロッシャー、パブロ、ヴァリアブルローラーだ。一部での略称が『バケツ』であるバケットスロッシャーは、インクをすくい上げるように腕を大きく動かさねばならないブキだ。パブロほどではないがこちらも腕に限界が来る。ではヴァリアブルローラーが良いかと言われればそうでもない。ローラー種はどれもサイズが大きく、その中でもヴァリアブルローラーは変形ギミックを搭載しているためかかなりの重量を誇るものだ。縦に配置された的がある都合上、どうしても縦に振り上げる機会は多い。こちらも腕を、それどころか身体全体を酷使するブキであった。
「あー……バケスロもかなり腕動かすもんね」
「ヴァリはまだ動きが少ないけど、そもそも持ち上げるのに力いるしねぇ」
「そう?」
首を傾げる一号に、そうでしょ、と二号は呆れたように返す。何を言っているんだこいつは、と三号も険しい視線を送る。ダイナモより軽いけどなぁ、と小首を傾げてこぼす黒色に、黄色は片眉を上げて睨めつける。白色はふるふると小さく首を振った。
「もう筋トレでもするしかないんじゃない」
口角を片方上げて吐き捨てる。もちろん、筋肉を鍛え上げたとてあの大業物を絶えず振り回すなど不可能だ。そもそも、今から鍛え始めても効果が出るのは何ヶ月も先だ。今すぐ攻略したいこの心にも身体にも意味など為さない。ハッ、と鼻で笑い飛ばした。途端、あぁ、とまた弾けるような明るい声が蒼天に響いた。
「いいね! でも今日は休んだ方がいいよ。明日からにしよ!」
「冗談に決まってんでしょ」
立ち上がって拳を握る一号に、三号は呆れ返った声を返す。このインクリングは己よりもずっと年上だというのに子どものように疑うことを知らない。よくここまで純粋なまま生きて来れたものだと感心するほどだ。もちろん、悪い意味でだが。
「『一つだけ言うと』」
二人の間にスッと声が差し込まれる。視線をやると、そこにはこちらを見る二号の姿があった。そして、その奥に座る司令の顔も映る。普段は背を丸め膝と頬に付けられた腕は解かれ、ピンと人差し指を一本立てている。相変わらず口元が動く気配はない。ただ、深青の瞳がじぃとこちらを見つめていた。
「『パブロならフデダッシュで轢いて壊せる』と、司令は言っとるよ」
「早く言いなさいよ!」
思わず地に拳を叩きつけ吠える。瞬間、腕を痛みが襲った。痛みに目を引き絞り、三号はギッと司令を睨みつける。今の痛みは自業自得であるが、そもそもこの腕の酷い疲労感は攻略法を教えず押し黙っていたこいつにも責任がある。この痛みと怒りをぶつけるのは当然だ。疲弊と突沸した感情で揺さぶられる脳味噌はそうやって解を弾き出した。
「でも今日はお休みしよ? これ以上痛くなったら大変だもん」
「『戦いに備えて体調は万全にしておこう』と、司令は言っとるよ」
「言われなくても休むわよ」
思い遣る言葉たちを少女は手を翻して切り捨てる。無様にも湿布を貼るような有様だというのにまた挑戦するほど馬鹿なはずがないだろう。何を考えているのだ、こいつらは。ハッ、とまた鼻を鳴らした。
「カフェオレでも飲んどく?」
「……飲む」
くるくると傘を回す二号に、一拍置いて返す。相棒のせいで家計が火の車な我が家である、食べ物を施されるのはいつだって歓迎だ。だが、今このタイミングで寄越されるのは拗ねた子どもをなだめすかすようなものに思えて気に食わない。けれども、動き回って嵩を減らしに減らした空っぽの胃は、プライドを容易く蹴り飛ばした。
どこからか取り出されたカップに、どこからか取り出されたポットが温かな飲み物を注ぎ入れる。コーヒーの香ばしい匂い、ほのかな砂糖の甘い匂い。心地良いそれらを腕に貼られた湿布の薬臭さが全て上書きしていった。
畳む
クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】
クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】ヒロ君は勉強熱心なので(幻覚)色んな本買ってたらいいな……買いすぎて本棚に入らなくて床に積んでたらいいな……という幻覚。整理整頓得意そうな子がのっぴきならない理由で部屋を汚してるのは可愛いね。ついでにニカちゃんは整理整頓ができないけどどこに何があるかは分かるから不便してないタイプだといい。
部屋にヒトを入れたくないヒロ君と興味津々で部屋に行きたがるベロニカちゃんの話。
回されたシリンダー錠が硬い鳴き声をあげる。握られたドアノブも続くようにガチャリと鳴いた。
「……どうぞ」
「おじゃましまーす」
金属たちと同じほど硬い声でヒロは言う。電車の中からずっと渋面を貼り付けていた彼のことなど気にせず、ベロニカは呑気な声とともにドアをくぐった。
玄関の狭い三和土にはクツギアがいくらか並んでいる。つま先から踵まできっちりと揃えられて整列している様は、海藻が丁寧に植えられた水槽を思い起こさせる。シューズラックの上には底の浅いトレーがある。鍵やメモ帳、薬用リップが転がっていた。
ガチャンと扉が閉まる音。パチンと軽い音とともに、天井から光が降り注いだ。あの、と控えめな、依然強張った声が続く。振り返ると、そこには相変わらず苦々しげに眉を寄せ複雑そうに唇をうごめかせる友人の姿があった。
「すぐ取ってくるのでここで待っていてくれませんか? 十秒で終わりますから」
「あんたのと間違えるかもしれねーだろ。あたしも探す」
適当な言葉を並べ立て、ベロニカは靴を脱いで廊下へと上がる。ひゅ、と息を呑む音が聞こえたが、気のせいだということにする。
上げた目線の先、続く短い廊下と部屋の境界には丈の短いカーテンが掛けられている。電気が点けられていないこともあり、薄布の向こう側は見えない。秘められた奥地を暴くべく、少女は歩みを進めた。
ヒロはヒトを部屋に迎えたくないようだ。本人曰く、『汚い』『狭い』『足の踏み場が無い』『人を迎えられるような場所じゃない』らしい。嘘だとすぐに分かるような言葉ばかりである。あの狭苦しいロッカーを美しく機能的に整理するような彼が部屋を散らかすはずがない。いつの日だったか、存在する物全てが転がり散らばる大層汚い己の部屋をその日の予定も何もかも放り出して片付けたような彼なのだ。他人の部屋を片付けられるヒトが、自分の部屋を汚すわけが無い。
なにか別の理由があるのだろう。嘘を吐くほど入れたくないのだ。踏み入らない方がいいに決まっている。けれど、好奇心というものはなかなかコントロールできないもので。『クリーニングの際にギアを取り違えた』『すぐ返すはずのそれを忘れてきた』なんて、訪れるにはうってつけの理由があればついつそれを盾にしてしまうわけで。結果、折れた彼は部屋を訪れることを許してくれた――終始苦しげな顔をしていたけれど。
十歩も無いような廊下をずんずんと歩んでいく。部屋のすぐ手前にあるキッチンは油汚れが見当たらないぐらい綺麗に手入れされている。鍋やフライパンも狭いスペースの中工夫してしまわれていた。こんなところまで綺麗に整えるようなヒトの部屋が汚いわけがないではないか。一体何が待ち受けているのだろう。好奇心は注がれ続ける刺激を養分に膨らむばかりだ。健気に訴える罪悪感や良心を弾き飛ばすほどに。
おじゃましまーす、と再び唱え、ベロニカはカーテンに手をかける。軽いそれは、ちょっと力を入れただけで動いて端へと寄った。ベールの向こう側が、玄関から差す光にうすらと照らされ眼前に広がる。
まず飛び込んできたのは本だ。大小厚薄入り乱れた本がいくつも積み重なり、床の上に背の低いタワーを築いている。何本も立ち並ぶ姿はさながら住宅街だ。目を凝らすと、カーテンが閉められた窓の横には本棚がある。己の身の丈ほどあるその腹の中は満杯で、雑誌一冊入れる隙間すら無い。どうやら、床の住人たちは居住地が見つからないためにそこにいるようだ。
部屋の中央、あまり大きくないローテーブルの上にも小さな塔がある。傍らには大判の雑誌が悠々と身体を伸ばしている。端っこにはマグカップが申し訳無さそうに佇んでいた。傍らにあるゴミ箱らしき筒から、ビニール袋の取っ手が伸びている。処理したばかりなのだろう、中身は見えなかった。
パチンとまた軽い音。瞬間、また光が降り注ぐ。薄闇に包まれていた部屋の全貌が白色灯の下にさらけだされた。
本棚の上には、更に本が積み重なっている。部屋の中で安住の地を待つ住人は、棚一つでは足りないほどいるように見えた。隣、窓際にある大きなかごからはTシャツが一枚這い出ている。おそらく洗濯物だろう。すぐさま視線を九十度移動させると、カラフルな背表紙と目が合う。やはり中身は満員だ。壁際に寄せられたベッドは整えられており、本当にここで寝起きしているのかと疑うほど綺麗だ。壁には帽子型のアタマギアがいくつか並んでいる。等間隔に並ぶ様はインテリアと言われても信じるほどである。また視線を動かすと、今度はカレンダーと視線がかち合う。二ヶ月分の日付が記されたそこには、大きな丸印や少し角張った字が記されていた。今日の日付の部分には、赤丸と『ギア』という文字がある。
「すみません……汚くて……」
背中に消え入りそうな声がぶつかる。細いそれは呼吸ができていないのかと疑うほど苦しげだ。うぅ、と漏らす嗚咽は羞恥が色濃く滲んでいた。
「いや、あたしの部屋より綺麗だろ。何言ってんだ?」
思わず振り返り、少女は真ん丸になった目で少年を見る。口を引き結んだ友人は、いえ、ほんと、あの、と否定の声を漏らすばかりだ。
掃除してくれた身だ、ヒロは己の部屋の惨状を知っている。なのに、ちゃんと足の踏み場があって、洗濯物が片付けられていて、布団も整えられている部屋を『汚い』と評すのは意味が分からない。この程度で『汚い』ならば、己の部屋は『ゴミ捨て場』とでも表現するのが正しい。
「床見えてんだから綺麗だろ」
「『綺麗』のハードル低すぎませんか?」
証明するようにズカズカと部屋を進む。きちんと動線を確保してあるのか、問題なく中央の机まで進むことができた。広げられた雑誌が目に入る。大きなロゴの下に、.96ガロンを持ったプロ選手の写真が何枚も並んでいる。整列した細かい文字は二色に分かれている。おそらくインタビュー記事だろう。
「もう本棚を置く場所が無くて……床に置くしかないんですよね……」
はぁ、と喉に栓でもされていたのかと思うほど重い溜息。あぁ、と落ちた声はやはり恥ずかしげなものだ。彼にとってこの部屋はヒトに見せられないほど『汚い』らしい。あたしの部屋見た時よく倒れなかったな、と今更な感心が浮かんできた。同時に、好奇心に弾き飛ばされていた罪悪感が這い戻ってきて主張を始める。ここまで嫌がるのに無遠慮に足を踏み入れてしまった。彼のミスを盾に無理をさせた。湧き出る後悔の念が大声でがなりたてて頭を揺らす。何度も殴っては刺してくるそれらに、ベロニカは小さく喉を上下させた。
「あっ! ギアはきちんと保管しているので! 綺麗ですから! 洗ってありますから!」
大声をあげて、バタバタと足音をたててヒロは部屋を突き進む。クローゼットを開け、すぐさま何かを引っ掴んで戻ってくる。これです、と押し付けるように渡され、少女は気圧された短い声を漏らした。厚いビニールのショッパーに手を入れ、中身を引き出して確認する。まさに取り違えていたギアだ。ギアスロットが記されたタグを確認すると、昨日クリーニングに出した時のまま、まっさらになっている。確かに己のものであった。
「これだわ。あんがと」
「すみません、こんなことになってしまって……」
「『行きたい』って押しかけたのはあたしだろ? 何で謝んだよ」
まぁ、それは、はい。オクトリングは歯切れの悪い言葉を漏らす。いつだって人の目をまっすぐに見る赤い目は床ばかりを見ていて、豊かに動かす口元はもにゃもにゃと曖昧に動いている。整えられた眉の端っこは下がりきっている。よほど落ち込んでいるらしい。また罪悪感が鋭く胸を刺した。
「……ごめん」
「いえ、最終的に迎えたのは僕です。ベロニカさんが謝ることはありません」
今更になって謝罪を漏らす。すぐさま否定する彼も、またしょもしょもと萎んでいってしまった。明るく照らされた部屋だというのに、なんだか冬の暗がりに飛び込んでしまったかのような心地がした。誤魔化すように頭を掻く。耐えきれず視線をうろつかせると、足元のテーブルが黄色い瞳に映った。紙面の上、.96ガロンを構えた選手とバッチリ目が合う。それすら気まずくて、また視線を彷徨わせる。飛び込んできたのは、雑誌の下から顔を覗かせる『ストリンガー』の文字だった。堅苦しいフォントで書かれたそれの下には、モノクロで描かれたトライストリンガーのイラストがある。折れ目が付いた緑色の帯には、『構造』『基礎』『重版』と色んな言葉が並んでいた。
「トラスト、興味あんの?」
訊ねる声は弾んでしまった。反省の色も何も無いそれに返ってきたのは、え、というきょとりとした声。すぐさま、ヒュ、と息を呑む音が聞こえた。え、あ、は、と意味を持たない音が彼の口から漏れては床を転がっていく。
「いえ、あ、の……ちょっと気になっただけで……ほんのちょっとだけ……」
本当に、ただ気になって、他意はなく、とヒロは言葉を重ねていく。『しどろもどろ』という言葉を体現したような有様だった。友人の様子に、ベロニカは視界が斜めになるほど首を傾げる。彼は探究心が強い努力家だ。様々なブキに興味を持つことは自然である。事実、対戦相手に匠にブキを扱うプレイヤーがいると一緒にバトルメモリーを見返すことは多いし、試し撃ち場でそのブキをふるっている様子も見る。床に積み上げられた本も、背表紙を見る限り多数のブキ指南書や整備に関する本が多く見受けられる。何故こんなにも慌てるのか、全く理解ができなかった。
「戻りましょうか! スケジュール変わっちゃいますし!」
「そこまで急がなくていいだろ……」
バタバタとらしくもない足音をたてて進む少年の背に、少女は呆れ返った声を漏らす。本当に、ここに来てからずっと様子がおかしい。様子をおかしくしてしまったのは無理矢理押しかけた己なのだけれど。罪悪感がまた心臓を刺した。
「まだ電車まで時間あんだろ。ゆっくり行こうぜ。コケっぞ」
「そう、ですね」
都合の悪い感情を押し込めるように言葉を紡ぐ。返ってくるのはやはりしょぼくれた声だ。また罪悪感が心臓を、脳味噌を刺す。後悔も加わり、針地獄を作り上げる勢いで膨らんでいった。
二人交互に靴を履き、部屋を出る。コンクリートで囲まれた廊下は熱がこもってほのかに暑い。息を吐くと同時に、錠が掛けられる音が響いた。
白い表紙が、緑の帯が、頭に浮かんだまま離れない。視界に映った本は、ほとんどがシューターに関するものだった。その中に一つだけ輝く、己のブキ。机に出して置いたままにするほど読み込んでいる己のブキ。ふわりとうちがわにある柔らかな部分が宙に浮かんでいく。確かな熱が胸に注がれていく。
何事にも挑戦する彼だ。互いに研究する彼だ。いつかトライストリンガーを使う日が来るかもしれない。己と同じブキを使う日が来るかもしれない。考えただけで、動かす足とその音が軽く弾んだものとなった。
まぁ、トラスト二枚はしんどいけど。笑みを含んだ声がこぼれ落ちる。小さなそれは、大きな足音に掻き消されて消えた。畳む
#Hirooooo #VeronIKA #ヒロニカ