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No.162

諸々掌編まとめ8【スプラトゥーン】

諸々掌編まとめ8【スプラトゥーン】
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色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。全員名前なんて無いのでなんかそれっぽい感じで想像してね。
成分表示:インクリング4/オクトリング+インクリング3/インクリング←オクトリング/新3号+コジャケ

二文字目なんて押せなくて/インクリング
「そらっ!」
 声とともに、隣に並んだ友人の身体が揺れる。うわっ、と声をあげてたたらを踏んだ彼は、すぐさま振り返って叫んだ。
「お前、またやっただろ!」
「何にもしてねーけど?」
「嘘つけ! 絶対押しただろ!」
 キッと睨みつける友人に、ケラケラと笑う少年は手にしたジムワイパーを後ろ手にして背で隠す。身の丈ほどもあるそれを隠せるはずなどなく、友人は更に目を鋭く眇めた。あーもう、と苛立ちを隠すことなく声をあげ、彼は首だけで振り返りこちらを向く。眉根はくっついてしまいそうなほど寄せられていた。
「ぜってー『バ』って押してあるだろ」
「押してあるね」
 クソが、と吐き捨て、友人はロッカーへと走っていく。乱暴に開けて閉めた彼の手には、ジムワイパーが握られていた。お前ふざけんなよ、と叫ぶ友人と、気付かねー方が悪いんだよ、と笑う少年はロビーの外へと消えていった。
 近頃、己の周りではジムワイパーが流行っていた。ブキとしてではない、いたずらの道具としてだ。
 回転するハンコであるジムワイパーには、もちろん字が刻まれている。バトルでは自動的に回転する部分だが、付け根にあるダイアルを手動で回すこともできるのだ。つまり、任意の文字を指定することができる。例えば『バ』とか、『カ』とか。
 いたずら盛りである己たちの周りでそれを悪用する者が出ないはずがなかった。皆こぞってカンブリアームズに押しかけ、ジムワイパーを手に入れ、背に、頬に、頭に印を押して遊ぶ日々だ。バトルで使っている様子を全くと言っていいほど見かけないのだから、本当にいたずらの道具としてしか見なされていない。ブキチに申し訳ないなぁ、と鈍色に輝く手元のそれを見下ろして考えた。
「隙ありっ!」
 元気な声とともに背中に衝撃。うわっ、と声をあげ、どうにか踏ん張って倒れないようにする。くるりと振り返れば、そこには予想通りジムワイパーを肩に担いだクラスメイトの姿があった。
「何押したんだよ」
「ひみつー」
 はぁ、と溜め息を吐いて問うが、ろくな答えなど返ってこない。友人唯一のジムワイパー使いは、口元を隠してにひひと笑った。
「どうせ『ア』あたりでしょ」
「さぁ?」
 唇を尖らせて答え合わせをしようとする。予想通り、とぼけた声と笑い顔が返ってきただけだった。
 ぐっ、と身をよじり、背中を見ようとする。うっすらとインクが滲んでいるのは視界に入ったが、肝心の文字は見えない。脱いで確認するしかないだろう。
 チャ、と構える音。急いで体勢を戻せば、そこには再びジムワイパーを構えた友人の姿があった。後ろにステップを踏んで距離を取る。逃げるんだ、と友人は意地の悪い声で問うてくる。いたずらされるの嫌だし、と返し、こちらもジムワイパーを構える。随分と前に試合は終わり、互いにインクの補填は十分。少し『遊ぶ』ぐらいはできるはずだ。
 ダン、と踏み込む音。先に出たのは友人だった。ギアの効果だろうか、凄まじいスピードで距離を詰めてくるその身を横に二歩ずれて躱す。そのまま構え、銀の巨体を横に振る。あちらも一歩下がって避けた。
 踏み込んで、下がって、振って、躱して。二人踊るようにブキを操る。いたずらとは違う高揚感が胸を染めていく。やっぱり、いたずらよりバトルがいい。互いに自然と綻ぶ口元を隠すことなく己の体躯ほどもある鈍色を振るった。
 トン、タン、ダン。軽やかなステップの音がロッカールームに響く。身を捩った瞬間、視界から影が消える。背後を取られたのだ。眉を寄せ、急いで振り返る。そこには、今にも剣先を押しつけんとする友人の姿があった。
 踏み込もうとした瞬間、目の前の銀が下ろされる。後退り距離を取るが、距離を詰める様子はない。訳の分からぬ状況に目をぱちくりとさせていると、友人はそのまま伸びをする。くるりと振り返って真っ白な背を見せた。
「疲れたし帰るわ。……あとで答え合わせするといいよ」
 じゃーね、と手を振って友人はロッカールームを出て行く。駆け足気味のその背は、透明な自動ドアをくぐり抜けてすぐロビーの出口へと消えた。
 取り残され、ぱちりと瞬きをする。答え合わせねぇ、と一人ぼやき、ブキをロッカーに片付けた。半袖のシャツから腕を抜き取り、ぐるりと回して背面を身体の前へと持ってくる。予想通り、そこにはインクが滲んでいた。
「……『ス』?」
 しかし、押されていた文字は予想外のものだった。大抵の友人は『バカ』とか『アホ』とか子供じみた悪口の言葉を押していく。『ス』なんてものは初めてだ。
 ス、と口の中で呟く。『ス』から始まる悪口なんてあっただろうか。頭の引き出しをひたすらに開けていく。気付けば、ス、ス、とブツブツと呟いてしまっていた。
「……『スカ』?」
 思いついたのはそんな言葉ぐらいだ。罵倒とは言い難いが、十二分にマイナスイメージのある言葉である。それを押そうとした意図は全くもって分からないけど。
 洗濯しなきゃなぁ、と気怠げに漏らしながらシャツを元の通りに着直す。ロッカーに入れっぱなしのパーカーを取り出し、簡単に羽織った。今日はもう帰ろう。こんな文字を押されたままバトルに向かうのは気が進まない。ギアを変えるのも面倒だ。どちらにせよ、早く落とすに限る。
 手を振り去っていった友人の背が思い返される。あいつ、と頭の中で小さく吐き捨てる。明日はこちらから仕掛けてやろう。他の友人らと同じものでは芸が無い。真意は分からずとも奇を衒ってきたあの友人にも対抗したい。何か短くて愉快な言葉を探しておかなければ。
 パーカーの下、頭に焼き付くあの一文字のことを考えながら、ロッカールームを出た。




全ては無意識で無自覚で/オクトリング+インクリング
「おばちゃん! イカダッシュアップルひとつ!」
「アゲアゲバサミサンド一つお願いします」
 元気な声と落ち着いた声に、あいよぉ、と穏やかな声が返される。しばしして、紙袋に包まれたサンドとビニール袋に入れられたジュースが大きな手にそれぞれ渡された。
「いっつもそれ飲んでるな」
「ギア作りたいからね。君こそいっつもそれ食べてるね」
「カネ無いからな」
 バイトやればいいのに。あそこ殺気立ってて嫌なんだよ。分かる。軽口を交わしながら、少年と少女はそれぞれの食べ物に口を付ける。チュゥ、と可愛らしい音。バリン、と豪快な音。あれほど賑やかだった二人の空間は、咀嚼音だけになってしまった。
 少年は丁寧に下処理された有頭エビにかぶりつく。バキン、ボキン、と固い殻を鋭い牙で噛み砕いていく。食べ慣れた、否、食べ飽きた味だが、不味いわけではない。食事のスピードは上がるばかりだ。大きな口と成長期の食欲によって、あれだけ巨大なサンドはあっという間に姿を消した。ごちそうさまでした、と呟きつつ少年は包み紙を丁寧に畳んだ。
 ミッ、と短い悲鳴があがる。次いで、びちゃ、と何かが床を打つ音。耳慣れたそれに、少年は眉を寄せる。口を拭っていた紙ナプキンを手早く畳み、音の方へと視線をやる。そこには、予想通り繭を八の字に下げた少女の姿があった。
「またこぼしたのか……」
「……慣れないんだもん」
 ミィ、と少女は鳴き声をあげる。少年は引き結んだ口元をほどき、はぁ、と溜め息を吐いた。
 彼女は食べるのがとても下手くそだ。サンドを食べれば中身をこぼし、ジュースを飲めば逆流させてストローから噴射させる始末である。おそらく、力の入れ方が悪いのだろう。それにしても下手くそだが。
 あぁもう、とまた溜め息。少年はポケットに手を入れた。取り出したのは、シンプルな青いタオルハンカチだ。洗濯され清潔なそれを、少女の口元へと伸ばした。
「また口の周りベトベトじゃないか」
 うー、と小さな呻り声を上げながら、少女はされるがままに口を拭かれる。垂れる雫を丁寧に拭い、水分と砂糖のねばつきを取り除いていく。最後にぐぃ、と強く拭い取り、少年は汚れたハンカチを手早く畳む。
「いつになったらこぼさず飲めるようになるんだ」
「注意はしてるんだよ? でもこぼしちゃうんだよねぇ」
 なんでだろ、と少女は手にした袋を眺める。赤いイカのラベルが貼られたそれは、中身が三分の一程まで減っていた。もちろん、それほど飲んだのではないことは明らかだ。
 彼女との付き合いはかれこれ半年ほどなる。この店で食事を共にしたことなど、両の手足の指ではとうに数えられなくなったほどだ。だというのに毎回こぼしているのだから呆れたものである。
「まぁ、君が拭いてくれるしいいんじゃない?」
「すぐ人に頼るんじゃない」
 にへらと笑う少女に、少年は眉根を寄せる。常に二人揃っているわけではないのだ。他人に頼り切りの現状は非常に良くないことである。いい加減独り立ちしてほしいものだが、と子どもらしくもないことを考えた。
「え? でも私ハンカチ持ってるよ?」
 ほら、と少女はハーフパンツのポケットからなにかを取り出す。ベージュ色の小ぶりなタオル、つまりはハンカチである。予想だにしていないものの登場に、少年は目をぱちくりと瞬かせた。
「持ってるなら自分で拭けばいいだろう」
「いつも拭く前に君が拭いてくれるんだもん。使う暇無いよ」
 きょとりとした顔で返す彼女に、少年の目がまたぱちりと瞬く。つまり、彼女が自分で処理する前に自分が拭いてしまっているのだ。それが当たり前のように。当然のように。事実に、まだ丸い頬にさっと朱が散った。
「……今度からは自分で拭けよ」
 ふぃと目を逸らし、少年はぶっきらぼうに言う。はーい、と気の抜けた返事が返された。
 ジュゴォ、と残り少ないジュースが飲み干される音が人の少ないロビーに響いた。




フィストバンプは辺りをきちんと確認してから行いましょう/インクリング
Sizzle SeasonPVネタ。6/30未明に書いたものなので実際の条件とは色々違う。


 パァン、と軽快な破裂音が響き渡る。ブチ模様の審判が掲げた旗は、己が勝利者の一人であることを示していた。
 得物をくるりと回し、少女は薄く笑みを浮かべる。勝利とは何よりも輝かしいものだ。それが〇・一パーセント差の大接戦の末に手に入れたものであるなら尚更だ。
 軽快な音楽が鳴り響く。勝利者たちを讃える音色だ。瞬きの後、少女はすっと腰を低く下ろす。両の指に二丁拳銃をはめ、器用な手さばきでくるくると回した。勝利の際に必ず見せる、お気に入りのポーズだ。真っ赤な相棒にはこのポーズが一番映えるのだ。
 正面を向いたまま、小さく横へと目を向ける。頭半分上にあるつぶらな瞳と視線がかちあった。レンズの奥にある青い瞳はらんらんと輝いている。まだ試合の興奮が抜けきらない様子である。きっと、小さな青に映る己もそうだ。そう簡単に身体が高ぶりを忘れるはずがないのだから。
 すぐ隣、カラフルなギアに包まれた腕がすっと上がる。握り掲げられた大きな拳に、少女は小さく笑みを漏らした。
 隣に立つ彼は、試合中塗りとサポートに徹していた。おかげで、安心して前線に立つことができたのだ。敵を倒した数は己が頭一つ抜けているが、塗りに関しては彼が断トツだ。ナワバリバトルという塗ることを重視するルールでは、彼の貢献は凄まじいものであった。
 相棒を回す速度を上げる。勢いづいたそれから指を抜き、宙へと高く放り投げた。すぐさま拳を握り、隣の拳へと伸ばす。大きな手と手がこつりと合わせられた。興奮冷めやらぬ二対の目が不敵に細められた。
 ヒュ、と風を切る音。高くに飛ばした相棒が戻ってきたのだろう。手を上に向け、人差し指を立てる。落ちてきた赤へと華麗に指を通す――はずだった。
 ゴン、と鈍い音が上がる。続けて、小さな呻き声。ガシャン、と金属が地に打ち付けられる音が響いた。
 オレンジの瞳がパチリと瞬く。この指に感じるはずの相棒の重みはどこにもない。嫌な予感に唇を引き結びながら、少女は視線を下へと向ける。そこには、愛銃であるデュアルスイーパーの片割れが転がっていた。また瞬き、そろそろと視線を上げる。向けた横側には、頭を抱え身を縮こませる少年の姿があった。
 全てのピースがはまる。それもとてつもなく嫌な形に。
「いってぇ……」
「ごっ、ごめん!」
 呻く少年に、少女は急いで謝る。慌てふためきわーわーと声を上げ、つっかえながら何度も謝罪の言葉を繰り返す。しばしして顔を上げた少年、その胸元が視界に入る。ビビッドな色をしたギアのど真ん中には、鮮やかなシアンが散っていた。模様ではない、インクだ。それも、自分の髪色と全く同じ色をした。
 少女は再び悲鳴を上げる。愛銃を直撃させた上に、ギアまで汚してしまったのだ。焦燥と後悔に声を上げてしまうのは仕方がないことだろう。
「ごっ、ごめ……、ごめん……、あっ、クリーニング代!」
「いやいい……大丈夫だから……」
 あわあわと焦り混乱に陥った少女を、少年は手で制す。浮かべたのは苦笑だ。輝く瞳からは高ぶりはすっかり抜け落ち、代わりに薄く潤みを孕んでいた。何によるものかなど明白だ。それがまた、小さな心に焦燥を招いた。
「ていうか俺らのインクはすぐ消えるだろ。クリーニングとかしなくて平気だって」
「そっ、そっか……そうだね……」
 落ち着いた様子で頭を掻く少年に、少女はしょんぼりと項垂れる。己は加害者だ、本当は目を合わせて話し、謝らねばならない。けれども、上げるべき視線は地へ吸い寄せられてしまっていた。申し訳無さと恥ずかしさが心の全てを支配し、合理的な行動を阻害しているのだ。
 明るい音楽が鳴り止む。一瞬しんと音を失った空間に、気まずさばかりが漂った。普段なら浮ついた調子でロビーへと向かう足は、地に縫い付けられたかのように動かなかい。こんな状況で動けるはずなどない。
「まぁ、次からは気をつけなよ」
「はい……」
 ひらひらと手を振る少年に、少女は呟くような声で返す。勝利の高揚など全て吹っ飛んでしまった。あるのは後悔ばかりだ。調子に乗ってこんな馬鹿げた事故を引き起こしてしまったのだから無理はない。自業自得である。分かっているからこそ、苦しくて仕方がなかった。
 とぼとぼとした足取りでロビーへと向かう。そのまま、慣れた手つきでバトルへのエントリーを済ませた。
 ハッと顔を上げ、少女は青い顔をする。本当ならば帰って反省すべきであろう。しかし、手癖で試合を続けることを選んでしまった。あまりにもうかつな行動に、少女はしょぼくれた声を上げた。
 エントリー取り消し受付時間はとうに過ぎている。勝手に帰っては迷惑をかけてしまう。もう始めるしかないのだ。小さく泣き声を漏らし、少女はスポナーへと向かう。バトルステージに向かうため、愛用のそれの前に立つ。タン、と靴が床を打つ軽い音が聞こえた。
 あ、と小さく声が上がる。聞き覚えのある――ついさっき聞いたばかりの音色に、少女は急いで顔を上げる。そこには、カラフルなギアと黒縁眼鏡で身体を彩る少年の姿があった。数分前に愛銃をぶつけた、インクを浴びせた、その姿が。
 剥き出しの肩がビクンと跳ねる。ミッ、と少女は悲鳴めいた声を上げた。それはそうだ、つい先ほど迷惑をかけた相手に再会したのだ。心は揺れ動き、身体を強張らせるだろう。
 眼鏡の奥の瞳がふっと細められる。少し苦味がにじむ笑みが、己を射抜いた。
「次は気をつけなよ」
「わっ、分かってるよ!」
 茶化すような声に、少女は大きく声を上げる。ごめん、としょげた声でまた謝る。いいって、と少年はまた笑った。すっと笑みが解け、青い瞳が鋭さを宿す。口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「勝つぞ。んで、さっきのリベンジな」
「……うん!」
 勝ち気な言葉に、少女は元気よく応える。勝利への意気込みを表すかのように、赤い二丁拳銃がぎゅっと握られた。




ずぼらさんと世話焼きさんと安らぎと/インクリング+オクトリング
 ピンポーン。どこか間の抜けた音が陽が注ぐ廊下に響く。開いてるよー、と目の前のドアの奥から大きな声が聞こえた。いつも通りの反応に、少女は小さく息を漏らす。年季の入ったノブに手をかけ回すと、言葉通り扉は容易に開いた。
「ちゃんと鍵掛けないと危ないって言ってるでしょ」
「だいじょぶだよ。防犯カメラあるって大家さん言ってたし」
「それは何かあった後に活躍するものでしょ」
 悪びれる様子もなくケラケラと笑うインクリングに、オクトリングは深い溜め息を吐く。女の子の一人暮らしで鍵を掛けないなど無防備どころの話ではない。事件が起こってからでは遅いのだ。
 鍵とチェーンを掛け、少女は靴を脱いで部屋にあがる。室内は相変わらずの惨状だった。レジ袋にペットボトル、通販サイトの段ボール、脱ぎ散らかした服の山。大層な散らかり具合だ。これでは空き巣が入っても気づくことなどできないだろう。
 この間片付けたのにこの有様である。維持できるとは毛頭思っていなかったものの、いざ現実を突きつけられると気分は下降していく。形のいい眉が苦々しげに寄せられた。
「ちゃんと片付けなよ」
「片付けてるよ? ただ、昨日ちょーっと散らかしちゃっただけだよ?」
 呆れるオクトリングに、インクリングはとぼけた調子で返す。まあるい目はこちらには向けられず、宙をウロウロと泳いでいた。明らかに嘘である。一日でここまで散らかせたらもはや天才だ。
「あっ! そうだ! なんと! なんとですね!」
 少女は大声をあげる。何だ、と眇目で見やる。友人は、じゃーん、と大袈裟な効果音を口にしながら部屋の一角を指差した。
「洗濯ちゃんとしたんだよ! えらいでしょ!」
 得意げに胸を張る少女に、呆れ返った視線が向けられる。賞賛の声を求める少女は、きょとりとした目で友人を見た。
「何で畳まないの?」
「え? 畳まなくても着れるでしょ?」
「効率が悪いよ。毎回この山掘って服着る気なの?」
「いつもそうだけど……」
 インクリングは不可思議そうに首を傾げる。まるでそれが常識であるような口ぶりだ。実際、彼女の中ではそうなのだろう。世間はどうであれ。
 はぁ、と何度目かの溜め息。洗濯物の山に近づき、すぐ隣に腰下ろす。正座した膝に山の頂上にあったタオルを取って置いた。そのまま流れるようにテキパキと畳んでいく。世話を焼くのはいつものことだ。いつもあってはならないことだけれど。
 アイス食べるー、と友人は問う。食べる、と手を止めずに返した。パタパタと駆ける音が部屋に取り残された。
 すぐ隣のキッチンから流れる物音を遠くで聞きながら、オクトリングは丁寧かつ手早く洗濯物を畳んでいく。さほど量のない山はすぐさま高度を失っていった。
 最後の一つを手に取る。膝に広げると、かすかな違和感を覚えた。干したてにしてはあまりにも皺だらけだ。こころなしか、どこかしっとりとした手触りをしているように感じる。不可思議なそれを眼前に広げ、少女は首を傾げる。一拍、おそるおそる生地を鼻先に寄せた。
「汗くさ……」
 鼻孔をくすぐる酸い臭いに、少女は顔をしかめる。彼女のことだ、きっと脱ぎ散らかした服の上に洗濯物を放り投げたのだろう。一枚だけ洗い忘れるのもまた彼女らしい。らしいが、不衛生だ。長い睫毛に縁取られた目が険しげに細められた。
 汗臭さの奥にふわりと何かが香る。彼女の匂いだ。スキンシップをよく取りいつでもくっついてくる彼女の匂いだ。いつ脱いだか分からない服、汚れの塊から臭うものだというのに、心はどこか安らかな温度を覚える。一緒にいるだけで安心感を覚える彼女の匂いは、少女の心に刻み込まれていた。
 しばしの沈黙。コクリと息を飲む。そのまま、オクトリングは再び服に顔を寄せた。すぅ、と鼻で小さく息を吸う。汗と彼女の匂いが混じり合った何とも言えない香りが少女の肺を満たした。
 洗っていない服に顔で触れるなど不衛生だ。何より、他人の服の匂いを嗅ぐなど異常だ。けれども、安らぎを求め少女は小さく呼吸を続けた。
「おまたせー。イチゴでよかったよね?」
 ガチャ、とドアが開く音。元気な声。友人の声。服の持ち主の声。引き戻された現実に、息が止まる。見られた。確実に見られた。人の服の匂いを嗅ぐ現場を。
「え? どしたの? なんか付いてた?」
「…………これ、洗ってないよ。汗臭い」
 きょとりとした声をあげる友人へとぎこちなく振り返る。ほら、と努めて平静を装いながら服を渡した。受け取った彼女は先程の己と同じように鼻を寄せる。うわマジだ、と苦々しい声があがった。
「うわー、ごめん。ばっちぃよね」
「慣れちゃったよ。いいからアイスちょうだい。溶けちゃうでしょ」
 棒アイスの袋を持つ友人に手を差し出す。心臓がバクバクとうるさく脈打つ。普段通りにできているだろうか。気づかれていないだろうか。緊張と不安が少女の胸を埋め尽くした。
 ほい、とアイスを渡される。すぐに顔を逸らし、袋を開けた。ビニールが破れる音が小さく響いた。
「また洗濯しなきゃなー」
 めんど、とこぼしながらインクリングは腰を下ろす。彼女もまた袋を開けた。黒い口にチョコレート色のアイスが消えていく。んー、と満足げな声があがった。
「あっ、洗濯物ありがとね」
「今度からは自分で畳んでね」
 心音を押さえつけながら言う。はーい、と気の抜けた声が散らかった室内に落ちた。




三勝二敗/オクトリング+インクリング
 ロビー端末にアイコンがいくつも表示される。大きな液晶画面には、バツ印の黒いマークが三つ並んでいた。すなわち昇格戦に失敗したということである。
 ポップなフォントで書かれた『ウデマエキープ』の一文を前に、インクリングは崩折れる。床に膝と手をつき項垂れる姿は漫画めいたものだ。あまりにも大袈裟だが、本人はいたって真剣である。これほどまで激しく身体に表れるほど、少年の胸の内には苛烈な情が巻き起こっていた。
 また負けた。また昇格に失敗した。認めたくない現実がバトルで疲れ切った脳味噌に響いていく。今週だけで四回は突きつけられた敗北に、少年はギリと歯を食いしばった。
「おつかれ」
 崩れ落ちた身体に声がかけられる。緩慢に頭を上げ、強く細められた目が音の方へと向く。そこには、ジュースの袋を持ったオクトリングの姿があった。
「Sのままか」
「うるせぇ」
 端末にでかでかと表示された昇格戦の結果を眺め、オクトリングは呟く。今一度突きつけられた事実に、地を這うような低く重い声が返された。もはや慣れきった反応を気にすることなく、少年はジュースを口にする。ジュゴ、と残り少ない液体が吸い上げられる音がした。
「一回休んだら」
「うるせぇよ。身体冷えんだろうが」
 冷徹にも聞こえるほど冷静な声に、インクリングは苛立ちを隠すことなく吐き捨てる。疲れているのだ、休むのは正解の一つである。けれども、そこで身体が冷えてしまえばまたアップに時間を消費してしまう。昇格戦に挑む時間が減ってしまう。時間とは掛け替えのない財産だ。少なくとも、シーズンの終了を間近にした今の己にとっては。
 そう、と短く返し、友人は空になったジュースの袋を手に売店へと向かう。そちらから声をかけておいてこれである。興味がないのであれば話しかける必要などないだろうに。他者の神経を逆撫でしたいのだろうか。疲れと悔しさで気が立った心は悪しき方向へと傾いていく。苛立ちを逃がすように、大きく溜め息を吐く。ガシガシと熱くなった頭を掻いた。
 足音。紙が擦れる音。鼻先をかすめるソースと油の匂い。うっすらと伝わる熱。心地よいそれにつられ、胡乱な視線が上がっていく。目の前には、売店名物のアゲバサミサンドがあった。
「食べなよ」
「別にいらねぇし」
「腹減ってたら動けなくなるぞ」
 唇を尖らせて言うと、正論がぶつけられた。ほら、とオクトリングは手にした袋を眼前に押し付ける。ぐ、と唸る喉。はぁ、と溜め息一つ。大きな手が差し出された袋を乱暴に奪った。
 乱雑に包装を破り、中身を露出させる。生地からはみ出た大きなカニの爪にかじりつく。丁寧な下処理と調理をされたそれは、バキンと音をたてて噛み砕かれた。口内に塩気が、油気が広がっていく。バリボリと大口で噛み、ほとんど塊のまま飲み込む。胃が熱くなる感覚がした。
 バキン。ボキン。ジャクン。ザクリ。硬い音がロビーに響く。少年は黙々と食べゆく。何戦も連続して戦った身体には、油分と塩分と肉と炭水化物がたっぷり詰め込まれたサンドがこれ以上なく美味に感じた。グゥ、と腹が鳴る。胃が痛みを覚える。そこでやっと己が随分と腹を空かせていたことに気付いた。
「カツサンドを食べて勝つ、三度。なんてね」
 一心不乱にサンドを貪る身体がピタリと止まる。残り少なくなったフライから、大きな口が離される。は、と油でテカテカになった唇から、疑問符たっぷりの声が漏れ出た。
「願掛けってやつ」
 表情の無い顔でオクトリングは言う。澄ましたそれは真剣に見える。けれども、発する言葉は冗談そのものだ。
 眇め、インクリングは視線を泳がせる。何とも返しにくい言葉である。この友人は時たま真顔でよく分からないことを言うのだ。オクトリング特有の生真面目さ故か、はたまた彼の個性か。付き合いはそこそこになるが、その点に関しては未だに理解が追いついていない。
 窮し、沈黙。しばしして、少年は無言で食事を再開した。余計なことを言って話がこじれたら面倒である。聞かなかったふりをするのが一番だ。
 あ、と短い音。あー、とどこか後悔のにじむ音。なんだ、と視線だけ上げると、口元に指を添えたオクトリングが映った。
「それ、カツ入ってないや」
「…………なんなんだよぉ」
 至極真面目な声に、至極情けない声が返される。本当にこの友人のことがよく分からない。理解するにはもっと時間がかかるだろう。理解できる確証などないが。
「まぁ、腹は膨れただろ?」
「おかげさまで」
 あんがと、とインクリングはぶっきらぼうに言う。お粗末様、とオクトリングは涼し気な顔で応えた。
「腹ごなしに行ってきたら」
「おう」
 短く返し、少年は包装紙をクシャクシャに丸める。握ったそれを、大きな手が回収する。丸いゴミは友人の手を離れ、放物線を描いてゴミ箱に吸われていった。カコン、と軽快な音が響く。
 インクリングは地に置いたままだったブキを握る。黒と桃で彩られた相棒をぎゅっと握り直した。
 腹は膨れた。疲れもほのかに消えた気がする。あれだけ気が立っていた頭も少し冷えた感覚がした。
 いってらっしゃい。背に声。おう、と手を振り、インクリングはポットの中へと入る。自動扉が閉まり、ロビーに流れる音楽も友人の姿も消え失せた。
 目を閉じ、ふぅ、と息を吐く。今一度開いた目には、輝きが戻っていた。貪欲に勝利を求める輝きが。
 ぜってぇ勝つ。力強く呟き、少年は再びバトルへと身を投じた。




あなたのいろ、あなたの/インクリング←オクトリング
 鍵を差し込み、回す。カシャン、と軽い音を耳にしながら、オクトリングは扉を開く。どうぞ、と中を示すと、おじゃましまーす、と元気な声が薄暗い廊下に飛び込んだ。
 たまにはゲームしよ、とロッカールームで言われたのが一時間前。たまにはいいね、と返して二人電車に揺られて数十分。コンビニでお菓子を買い込んで、話しながらゆっくりと歩いて、今、自室に至る。
 靴も揃えずに飛び込んでいった友人に苦笑を漏らしつつ、オクトリングは錠とチェーンを下ろす。靴を脱ぎ、ひっくり返ったスニーカーも一緒に揃えて綺麗に並べた。ぬるい廊下を裸足でぺたぺたと歩く。冷凍庫に買ったアイスを入れ、嵌められたガラス窓から明かりが漏れるドアを開けた。
「ごめん、今クーラー点ける――」
 続く言葉は喉の奥に消えた。理由は簡単だ、見られたくない物がそこにあった。見られたくない物を抱えた友人の姿がそこにあった。
「クッション買ったんだねー」
 イカ姿のインクリングを模したクッションを抱え、友人であるインクリングはニコニコと笑う。クッションと同じ色、真っ青な目は今は緩やかな弧を描いている。可愛いよねこれ、と漏らす声は弾んだものだ。
「あたしもおんなじの持ってるよ! お揃いだねー!」
「そ、う、なんだ」
 ぎゅうとクッションを抱き締める友人を眺め、否、目を離すことができぬまま、少女は応える。どうにか絞り出した声は細く、言葉も不自然なほどつかえたものとなってしまった。
 お揃い。それはそうだろう。だって、貴女の目の色を選んだのだから。
 きっかけはたまたまだ。買い物に行った帰り道、たまたまファンシーショップの前を通り、たまたま特集コーナーが目に入り、たまたま陳列されたクッションが目に入り、たまたま彼女のことを思い出しただけだ。気が付いた時には、店員の声を背を受けショッパーを片手に店を出たところだった。
 毎日友人――否、恋心を寄せる彼女を想い抱き締めたクッションが、今当人の手の中にある。ぎゅうぎゅうと抱き締められている。会話どころではなかった。悲鳴をあげてもおかしくないような状況だ。あまりにも想像し得ない風景に、声すら出ない状況だ。硬い表情をした少女は、ただただその場に立ち尽くすしかなかった。
 早く奪わねば。早く隠さねば。いや、奪うなど不自然だ。けれども、ずっとあれを抱えられているなど。バレたら。バレてしまったら。
 心臓が早鐘を打つ。喉が詰まる。口が渇く。炎天下のさなか歩いた後だというのに、身体がどんどんと冷えていく。もはや手にしたビニール袋を握り締めるだけで手いっぱいだった。脳のリソースは、ほとんどが現状を誤魔化すための計算に使われていた。
「ふっかふかだねー。あたしのはもう潰れちゃってるよ」
 大事にしてるんだね、とインクリングは笑う。あまりにも純粋な笑顔に、言葉に、ひくりと喉がおかしく蠢いた。
 好きな子を思って買った品だ、大切にしているのは当然である。見抜かれたのではないか。気付かれたのではないか。心拍数が上がっていく。袋を握った手はもう血の気を感じないほど冷えていた。
「やっぱお手入れしてるの?」
「……え? あ、えっと……、うん。ちょっと形を整えてあげたり、天気の良い日はお日様に当てたりしてるよ」
 突然の問いかけに、少女はびくりと肩を揺らす。どうにか平静を装い答えると、やっぱマメだねー、と呑気な声が返ってきた。普段通りのそれを見るに、混乱に陥る己には違和感を抱いていないようだ。おそらく、己の感情にも気付いていない。よかった、とオクトリングは小さく息を吐く。ふかふかだー、とクッションを強く抱き締める友の姿に、わずかな安寧は吹っ飛んで消えた。
 満足したのか、インクリングはクッションを軽く整えベッドにそっと置く。床に乱雑に置かれたビニール袋から、汗を掻いたペットボトルと大容量パックの菓子を取り出した。
「ゲームしよっ!」
「そう、だね。しよっか」
 オクトリングはローテーブルに菓子とジュースを置く友人の下へと歩みを進める。五指は相変わらず温度を失っている。足元の感覚もどこか不安定に感じる。けれども、ここで立ち尽くしたままではあまりにも不自然だ。恋心の露呈を恐れる身体は、自然を装いながらどうにか動いた。
 対戦ゲームに興じ、お菓子を食べ、また対戦ゲームで声をあげ、冷やしておいたアイスを食べ、協力ゲームで盛り上がり。共に過ごす時間は穏やかに、しかし確実にすぎて行く。気がつけば、窓の外は夕焼け空になっていた。
「大丈夫? そろそろ電車の時間じゃない?」
「あっ、ほんとだ。あっぶな、忘れてた」
 言葉とともに時計に視線をやったインクリングは、声をあげて携帯ゲーム機をリュックサックに突っ込む。机上のゴミを空になったビニール袋に詰め、飲みかけのペットボトルを片手に少女は立ち上がる。ショルダーベルトに腕を通す動きは性急だ。そこまで慌てなくても大丈夫だよ、とオクトリングは小さく笑みを漏らす。ついね、と友人もまた笑みを返した。
「ありがとね。楽しかった!」
「こっちもありがとう。駅まで一緒に行っていい?」
「暑いからだいじょぶだよー。また明日ね!」
 じゃ、と大きく手を上げ、彼女は部屋を出ていく。駆け足で追いつき、スニーカーを履く背を追い越してチェーンと鍵を開ける。ドアを開くと、蒸した熱気が部屋に雪崩れ込んできた。うわ、と二人同時に声をあげる。重なったそれに、笑みが二つ重なった。
「ばいばい! また明日!」
「また明日」
 ブンブンと手を振って駆け行く友人の背を見送る。青色のリュックを担いだ背が消えるのを見送って、少女は踵を返す。錠とチェーンを下ろし、元に戻っただけなのに広く感じる玄関に靴を揃え、ぬるさを増した廊下を歩く。ドアを開け、クーラーで適温にされた部屋へと戻った。
 はぁ、と大きく息を吐く。遊ぶのは楽しかった。二人きりで遊ぶのなんて久しぶりなのだから、尚更楽しかった。けれども、どうにもクッションの一件が鼓動を早めたままで止まらないのだ。生き物の生涯の拍動回数は決まっているという話を聞いたことがある。それが本当ならば、今日にでも死んでしまいそうなほどの勢いだ。
 はぁ、とまた溜め息。重力に身を任せ、ベッドに倒れ込む。マットレスが軋む音と綿が身体を受け止める音が部屋に響いた。のろのろと手を伸ばし、インクリング型のクッションを掴む。そのまま、日頃の癖のまま、ぎゅうと抱きかかえた。
 ふわりと何かが香る。知ってる香りが鼻腔をくすぐる。何だろう。いつものクッションなのに。何の匂いだろう。疲労で動きが鈍った頭で考える。この香り。安心する香り。いつもの香り。
 彼女の香りだ。
 気付いた瞬間、心臓はばくりと大きく脈動する。ドッ、ドッ、と鼓膜が破裂するかのような大きな音が耳のすぐそばで聞こえる。胸が痛い。頭が痛い。身体は異常を訴えているというのに、心はこれ以上無く熱いなにかに包まれていた。
 そうだ、彼女がぎゅうぎゅうと抱きかかえていたからだ。あれだけ強く抱いていたのだから、一時的に匂いが移ってしまったのだ。種族由来の聡明なる思考が原因を突き止める頃には、少女の呼吸は浅くなっていた。過剰な拍動のせいもある。何より、高揚だ。片恋する相手の匂いなど、恋する心には劇薬だ。愛おしいそれを求めて、身体は勝手に動き出す。大好きな人を求めて、大好きな人の匂いを求めて、身体に取り込もうとする。
 落ち着かねば。どうにか意識を動かし、はぁ、と大きく息を吐く。身体は反射的にはっ、と短く息を吸った。瞬間、彼女の香りが身体を包む。また拍動が速度を増したように感じた。
 ダメなのに。離さなきゃ。こんなの、変態だ。頭がどれほど訴えようと、心と身体は動かない。愛しいあの子を求め、呼吸を繰り返すだけだ。はぁ、と息を吐く。クッションの生地が温度を灯す。すぅ、と息を吸う。恋寄せるあの子の匂いが心に火を灯す。
 夕陽差し込む一人きりの部屋には、小さな呼吸音だけが満たされていた。




テイクアウトすればいいことに気付いたけどまた怒られた/新3号+コジャケ
notうちの新3号


 うげぇ、と潰されたような聞き苦しい声が四畳半に響く。隣人への被害など欠片も考えられていない声量だ。仕方が無い、なにせ画面に映し出された数字はこの上なくグロテスクなものだったのだから。
 ナマコフォンの液晶画面、開いた家計簿アプリを睨み、三号と呼ばれるインクリングは低い呻きをあげる。家賃は変更無し。電気代と水道代、ガス代はほぼ変動無し。先月の買い溜めのおかげで雑費は少ない。しかし、食費が凄惨だ。食費を記したタブには、己一人ならばゆうに二ヶ月は過ごせるほどの金額が表示されていた。入力ミスか、とレシートや使用履歴を辿るも、間違いらしきものは見当たらない。紛うこと無き現実だ。
 眇目が液晶画面からフローリングへと向けられる。安物のラグの上には、床に垂れた長いゲソを食む生き物がいた。この間拾ったコジャケだ。砂漠で出会ったこの生物と暮らし始めたのは一ヶ月ほど前だっただろうか。海からやってきたであろうコジャケは、何故かジャンク品を嗅ぎ分けることに優れていた。これは便利だ、と上機嫌で連れて帰り、共に暮らす今に至る。
 全ての原因はこいつにある。このちびっこい生き物は、食欲と胃の容量がおかしいのだ。食パンは一食で一斤、米ならば二合は食う。安いジャムや特売の納豆で誤魔化してはいるものの、消費速度はえげつない。こんなものを養っていては、エンゲル係数が急勾配になるのは必然である。
 あぐあぐと開閉する尖った口からゲソを引っこ抜き、三号は唸る。どうにかして食費を浮かせなければならない。さもなくば家賃すら払えなくなってしまう。屋根の無い生活は勘弁だ。
 飯、飯、と呟く。何か安くこいつの腹を存分に満足させるものはないか。何か、食い物は。しばしして、ウンウンと唸る声が止む。険しげな目元が、引き結ばれた口が綻び、大きく開かれる。これだ、とまたしても隣人関係を悪化させる大声が響いた。
 部屋を引っ掻き回し始める主人の姿を、コジャケはぼんやりと眺めていた。




「何これ?」
 広いロビーの片隅、ジュークボックスが設置されたコーナーに声が落ちる。黒で縁取られた丸い目の先には、『要らないフード食べます』と書かれたスケッチブックがあった。大判のそれの隣には見知った顔がいる。コジャケだ。特徴的な髪型からして、街なかでよく見かける子だろう。普段は街のそこかしこに鎮座しているこの生物が、何故ロビーにいるのだろう。丸い頭が傾いだ。
「どした?」
「なんか、ご飯食べるって」
 鮮やかな色彩のマキアミロールを片手に少年が問う。少女が指差す先を眺め、彼もまた首を傾げた。
「要らない飯って――」
 理解できない、とばかりに呆れた声が途切れる。ぴょこぴょこと身体を揺らすコジャケに向けられた視線が、手にしたフードへと移る。ふぅん、と感心したような声。次いで、ほれ、と愉快げな声。間抜けに開いた尖った口に、マキアミロールが差し込まれた。
 身体に対して大振りな口が、長いそれをしかと受け止める。そのまま顔を上げ、ストンと丸呑みにした。何とも形容しがたい声があがる。言語として理解できないものの、確かな喜色を浮かべたものだった。
「おもしれー」
「いいのかなぁ」
「いいんじゃね? もっと持ってこよ」
 おばちゃん、マキアミロール五個ちょーだい。元気な声をあげ、少年はロッカールーム横のカウンターへと走っていく。いいのかなぁ、と不安げな声が落ちた。
「……ちゃんと噛まなきゃだめだよ?」
 小首を傾げて咎める少女に、鳥にも蛙にも似た声が返された。


 ロビー二階、手すりにもたれかかり少女はロビーを見下ろす。ジュークボックスの隣、ベンチの上には変わらずコジャケがいた。丸い身体はこころなしか膨れて見える。飯を食った証拠だ。つまり、作戦は功を奏したのだ。
 バトルに赴く少年少女たちは、フードチケットを持て余していることが多い。特に、マキアミロールの交換チケットはゴミ箱に捨てようとする者すら出てくるほどだ。つまり、処分に困っている者がいる。食べ物の処分に。
 準備は簡単だった。部屋に埋もれていたスケッチブックに文章を書いて、コジャケとともにロビーに置く。たったそれだけであの大食らいの食費を浮かせられるのだから最高だ。にひ、と上機嫌な笑みが漏れた。
「お嬢ちゃん」
 頭上から声。聞き慣れた声。襲い来る嫌な予感。
 三号はおそるおそる顔を上げる。そこには、売店で働く女性がいた。大きな顔には普段見せる温厚な笑みは無い。あるのは明らかな怒りだ。
「あれ置いたの、お嬢ちゃんだね?」
「え? あ……、はい……」
「困るんだよねぇ。皆面白がって食べさせるんだよ」
 はぁ、と女性は嘆息する。苛立ちと悲哀が見える音色をしていた。それが目的です、なんて到底言えるはずのない雰囲気が少女の身を包んでいた。
「ああいうの、良くないよ。やめなね」
「はい……」
 むすりと咎める女性に、三号はしおらしく答える。ここで反発することなどできない。最悪通報され、ロビーを出禁にされてしまう。そんなことになっては、収入源の一つであるバトルに参加できなくなってしまう。火の車になった家計のために日々奔走する少女にとっては、何としてでも回避すべきものだ。
 とぼとぼと階段を降り、コジャケの元へと向かう。元凶は相変わらずとぼけた顔をしていた。帰るよ、と三号は小さな身体を抱き上げる。表現しがたい鳴き声が返された。
 食費どうしよ。悲嘆に満ちた声がロビーの片隅に落ちた。




まじょのうわさ/インクリング
フォト機能で撮った写真に小説をつける試みをした時のもの。写真は割愛。エンチャント一式可愛いよね。


 イカ、タコ、クラゲ。夕暮れの駅前には常に様々な種族が行き交っている。ホームへと向かう駆け足の音、談笑する声、ナマコフォンのシャッター音。溢れる音色も様々だ。
 低い階段に腰を下ろし、少女は道行く者たちを眺める。流れる集団に向けられた瞳は険しげだ。はぁ、と嘆息が落ちる。駅の利用者だけでも大概なものだというのに、ロビーを利用する若者たちまでたむろしているのだから更に酷い。ゴミゴミ、という表現はこのような光景のためにあるのではないか。そう考えてしまうほどの有様だった。
 本当ならばこんなところになどいたくない。ロビーのロッカールームにでもいる方が快適だ。けれど、そんな選択肢など存在しない。今の己には、ここぐらいしか居場所がないのだ。はぁ、とまた溜め息。重いそれは雑踏に紛れて消えた。
「ねぇねぇ」
 隣から声。きっとイカッチャに向かう者たちが話しているのだろう。仲の良いことだ、吐き気がするほどに。はっ、と少女は大袈裟なほどに鼻を鳴らす。まろい頬が突いた手に押しつけられ、柔らかで美しい形を崩した。
「ねぇってば!」
 隣から声。今度は大声量、それも確実に己に向けられたものだった。何だ、と少女は音の方へと緩慢に顔を向ける。不機嫌そうに細まったイエローの瞳の先に、黒が映った。
「ねぇねぇ、『魔女』の噂って知ってる?」
 声の主、インクリングはオレンジの長い髪を揺らして問うてくる。ニコニコと笑みを浮かべる幼い顔は可愛らしいと形容するに相応しいだろう。しかし、少女は依然険しい表情を崩さない。当たり前だ、いきなり知らぬ者に声を掛けてくる、それも『魔女の噂』なんて胡散臭いことを尋ねてくる輩にろくなやつなどいるはずがない。警戒心の高い少女にとって、目の前の存在は即座に警戒対象へと分類された。
「無視とかひどくない!? 聞いてよ!」
 沈黙を保っていると、怪しいインクリングはミィミィと高い声で喚き始める。耳障りなそれに、少女はバイザーを被り直すふりをして顔を背ける。ねぇってば、と何度目かの追撃が少女の背にぶつけられた。
「……なに」
 逸らした顔を戻し、見上げ、少女は低い声で短く問う。こんなものを放っておいては、面倒事が増えるだけだ。ただでさえここの管理者に良い顔をされていないというのに、騒ぎなど起こしては確実に追い出される。ここを失うのは困るのだ。
「だから、『魔女』の噂って知ってる?」
「知らない」
 楽しげに問う朱髪のインクリングに、黄髪のインクリングは短く返す。もう関係無いとばかりに顔を逸らす。足音、そして視界が朱で染まる。あのね、と怪しい少女は丸い瞳を輝かせて話し出した。
「夜の駅に行くと魔女に会えるんだって! 『おいでおいで』ってしてくるの。でもね、声の方に行っちゃダメなんだよ。そのまま魔女の家に連れてかれちゃうんだって!」
 怖いでしょー、と勿忘草の目が一心に見つめてくる。蒲公英の目が再び険しげに細められた。無視したいところだが、またうるさくなることぐらい容易に想像が付く。怖い怖い、と適当に返してやると、全然思ってないでしょ、とむくれた声が返ってきた。
「……まぁ、いいんじゃない。連れて行かれたいやつもいるでしょ」
 はっ、と少女は笑う。険しげな表情は変わらぬまま、短く笑う。己を嘲り笑い飛ばす。
 そう、自分のように。友達と喧嘩して、親とも喧嘩して、家にも街にも居場所が無い自分のような者は、ここではないどこか遠くに行ってしまいたい気分だ。たとえそれが『魔女』なんて空想上の存在によってでも。
 そう、と短い声が落ちる。あまりにもあっさりとした反応に、少女は思わず顔を上げる。じゃあ、と楽しげな声が降ってくる。恐ろしさを覚えるほど、楽しげな声が。
「覚えておきなね、お嬢ちゃん」
 ニコリとインクリングは笑う。黒いトップスは、夜闇のようなローブへと変貌している。飾り気の無い頭には、顔を覆うほど大ぶりなとんがり帽子があった。テンプレートなお化けのように手を垂らし、インクリングは笑う。鋭利な歯を見せつけるような、寒気を覚える笑みが向けられる。ただ一人、己だけに。
 びくりと少女は身体を震わせる。何だ、こいつは。知らないやつだ。知らない存在だ。とても、同族とは思えない存在だ。背筋を撫でる何かが、凍るような笑顔を認識した脳味噌が警鐘を鳴らし始める。逃げなければ。バトルで鍛えた手足を動かし、少女は立ち上がった。
「……あれ?」
 瞬間、視界から黒が消える。きょろきょろと辺りを見回しても、そこにあのインクリングの影は無い。いるのはイカ、タコ、クラゲ。見知らぬ者たちが行き交う姿だけだ。
 呆然と少女は立ち尽くす。何だ。何だったんだ、今のは。夢なのだろうか。あんなにはっきりとしていたのに。あの声はこの耳にこびりついているというのに。本当に、夢なのか。突然の事象に、頭の中が疑問で引っ掻き回される。しばしの沈黙、また重い息が落ちた。
 帰ろ、と呟き、少女は駅へと向かう。家には絶賛喧嘩中の親がいるのだから、本当ならば帰りたくなどない。けれども、あんなおかしな体験をしてここに居続けるのはなんだか恐ろしかった。己はこんなに怖がりだっただろうか。考え、日が暮れ始めた街を歩き、すぐ向かいの改札口へと向かう。ICカードをかざそうとしたところで、はたと動きが止まった。
「……あれ?」
 萌黄の瞳が、改札から離れていく。視線が届いたのは、駅の脇、小さな通路だ。ビルと駅の間にあるそこには、人がいることなどない。何かがあることなどない。けれども、今日は何故だか妙にその場所に惹かれるのだ。
 おいで。
 小さく声が聞こえる。聞き慣れた声だ。聞き慣れぬ声だ。だというのに、足は勝手に動いていく。おいで。おいで。声に引かれ、少女は足を動かす。頭は行くなと喚き立てる。意識はダメだと騒ぎ立てる。だが、細い身体はどんどんと袋小路へと向かっていった。
「おいで」
 テンプレートなお化けのように手を垂らし、黒い何かが言う。笑う。招く。一緒に来いと。
 こくりと頷き、少女は歩みを進める。足取りは熱に浮かされたようにふらついていた。動きは何かに糸で手繰り寄せられているようにぎこちないものだった。頭は行くなと喚き立てる。意識はダメだと騒ぎ立てる。心は、声に鷲掴みされて惹かれてやまなかった――身体を勝手に動かすほどに。
 いい子。
 優しい声が少女の耳を撫でる。影が少女を包み込む。闇が少女を飲み込む。真っ黒な何かが、少女の手を取って引いた。
 夜の小路には、もう誰もいなかった。




チョコミントアイスと青羽織/インクリング
23年7月開催のフェスネタ


 舌の上を冷たさが流れていく。追従するように甘み、そして爽やかな風味が口いっぱいに広がった。少しばかり主張の大きなチョコレートを噛む。強い甘みとカカオの香りが口内で弾ける。ミントの風味と合わさったそれは、至福のものだ。残るチョコレートを舐め溶かしながら、もう一口。ミントの香りが鼻を抜けた。
「チョコミント?」
 賑やかな音楽に混じって声。耳をくすぐるそれの方へとすぃと視線をやる。そこには、少女の姿があった。べっ甲でできた丸眼鏡の向こう側、大きな目は緩やかな弧を描いている。ニカリと開けられた口からは、鋭い牙が覗いている。美味しそうだね、と軽やかな声が投げかけられた。
 少年はぱちりと目を瞬かせる。隣に立つ少女は、法被のようなものを羽織っていた。非常に珍しいことである。なにせ、今はフェス期間だ。何ヶ月かに一度あるこのお祭りでは、フェスTというギアを着用することが義務付けられている。あのコーディネートにうるさいフク屋ですらフェス期間中は着替えることを是としないほど徹底されたものである。そんな中、違う格好をしている者がいるなんて。何故今まで気づかなかったか疑問に思うほど異様な光景である。
「バニラなのに」
「色々あんだよ」
 胸元を覗き込む少女はそう言って笑う。少年はむくれて返した。カップに入ったチョコミントアイスに、プラスチックスプーンが乱暴に刺さる。ぐっ、とすくってまた口の中に放り込んだ。
 アイスといえば?
 その問いには『チョコミント』以外に答えはない。もちろん、チョコミント派に投票し、大量のポイントを稼ぐ――はずだった。
 バニラに投票してくれ。投票所で受付を済ませようとした矢先、友人が投票しようとする手を押さえてそう言ってきたのだ。曰く、『お前がいれば絶対に勝てる』と。
 そんな曖昧な理由で投票先を変えるはずなどない。そもそも変えてはいけないのだ。きちんとテーマに沿った投票をし、全力で戦うのがフェスというものである。今回の己のように確固たる意志があるならば尚更だ。たかが他人に頼まれた程度で曲げることなどあり得ないのだ。
 何度も否定し説き伏せたが、なおも友人は食い下がってきた。しまいには『タイマン勝負で勝ったらバニラ派になってくれ』と愛ブキを取り出したのだからどうしようもない。何がそこまで彼を動かすのか、全く理解ができないものである。
 へぇ、と少女は興味深そうに呟く。羽織の下から覗くシャツは白い。きっと、バニラ派なのだろう。陣営としては味方だが、信念としては敵である。
「いいなぁ、チョコミント」
「買えばいいだろ」
 手元の安っぽい紙カップを見つめ、少女は言う。庇うように体をひねり、物欲しげな視線からアイスを守った。そこで売ってんだろ、と少し遠くにある屋台をスプーンで指差す。眼鏡の奥の目がスプーンの先へと動き、また戻ってくる。夜の中、曖昧な笑みがネオンの下に照らし出された。
 いいなぁ、と少女は呟く。何度目かのそれに、少年は目元を険しげに歪めた。怪しい。怪しいったらない。うっすらと持っていた疑念が、言葉が重ねられる度に強くなっていく。
 インクリングは呑気で陽気な種族だ。見知らぬ他人に声をかけることなぞ造作ないだろう。しかし、今はフェス、夜の街である。こんな時に声をかけてくるような輩、しかもフェスらしからぬ格好をしている者を警戒するなという方が無理な話だ。
 まぁいいや、と少女は陽気な声をあげる。くるりと回り、こちらへと身体を向けた。白い線が走る裾が、夜の空気を含んでふわりと舞った。
「フェス、楽しんでね」
 またニカリと笑い、少女はひらひらと大きな手を振る。何だこいつ、と少年は依然険しげな目を瞬かせた。
「……あれ?」
 瞬間、風景が変わる。法被を着た少女の姿が、まるで透明になったかのように無くなったのだ。あれ、と呟き、少年は辺りを見回す。アイスを食べるインクリング。オミコシを見上げるオクトリング。頭にサイリウムを刺したクラゲ。あの法被を着た少女の姿はどこにもなかった。まるで、彼女だけ世界から切り取られてしまったかのように。
 おーい、と遠くから聞き馴染んだ声。呆然としたまま振り返ると、そこには駆け寄ってくる友人の姿があった。浅黒い肌はほのかに色付いた白のフェスTに包まれている。ヨビ祭開始直後から投票し、バトルにバトルを重ねてホラガイを集めていただけあって、もはや見慣れた姿だ。フェスが終わってしばらくはあのバニラ色のフクを着ていないことに違和感を覚えるのが容易に想像できる。それほどまで、彼は今回のフェスに注力していた。
「ごめんごめん、待たせたな」
「ほんとだよ。アイス奢れよ」
「バニラな」
「チョコミントに決まってんだろ」
 軽口を叩きあいつつ、残ったアイスを口の中に放り込む。カップを傾け、溶けて液体になったそれも全て飲み込んだ。屋台横のゴミ箱にカップとスプーンを放り投げる。役目を果たした容器は、音楽に満ちた夜闇に消えた。
「なんかあった?」
「え? あぁ……、なんか話してきたやつがいてさ」
 バニラ派っぽいんだけど、とこぼすと、ぽいって何だよ、と笑い声が返される。その通りだが、白いシャツは見えたものの柄までは確認していない。もしかしたら、まだ投票していなかった可能性もある。確実に勝利――という名のスーパーサザエを得るため、ヨビ祭結果発表まで投票しない者も稀にいるのだ。
「フェスT見なかったのか?」
「いや、法被着てて分かんなかった」
「法被?」
 言葉に、友人は不可思議そうな声をあげる。訳が分からない、とばかりに吸盤が目立つ頭を大きく傾けた。つられるように少年も首を傾げる。疑問に満ちた視線が互いに向けられた。
「いや、フェス中はフェスT以外着たらダメってルールだろ。最初に説明されただろ?」
「……え?」
 当然のように告げる友人に、少年は呆けた声を漏らす。そうだっけ、と疑問と動揺で満ち溢れた声が己の口からこぼれた。
 急いで記憶の糸を辿っていく。確かに、投票の際は毎回『フェス中はフェスTを着用すること』と言われている。そこまで強いルールがあっただろうか。改めて辺りを見回す。道行く人々は皆一様にフェスTを着ていた。上着を羽織っているものなどいない。誰一人として。
「つーかこんなに暑いのに上着着るやつとかいないだろ」
「そう……だけど……」
 呆れ返った様子で友人は言う。疑念に満ち満ちた声で少年は言う。祭の夜の片隅になんとも言えない空間が発生した。
 まぁいいや。沈黙を破ったのは友人の方だった。日に焼けた手が己の手へと伸びる。しかと掴まれ、ぐいと引かれた。
「行こうぜ。ポイント稼ぎまくんねーと」
「あ、ぁ。うん」
 ほらほら、と友人は急ぎ足で雑踏をかき分けていく。引かれるがままに、少年は足を動かした。
 羽織を着た少女。フェスTを着ているか分からなかった少女。アイスを見るだけだった少女。煙のように消えた少女。
 あれは一体何だったのだろう。夢か、現実か。
 口の中に残る冷たさが、全てが現実であると語っていた。

畳む

#インクリング #オクトリング #新3号 #百合

スプラトゥーン


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