No.193, No.192, No.191, No.190, No.189, No.188, No.187[7件]
向き合う意地、向き合った世界【新3号+新司令】
向き合う意地、向き合った世界【新3号+新司令】
うちのヒーローズに決着つけるために書いたやつ。この話を読んでないと何もかもが分からない。
相変わらずうちの新司令はカスだしうちの新3号はバンカラ生まれバンカラ育ちだし色んなところを捏造しかしてない。
新3号と新司令が喧嘩してるだけ。
バトルロビーへ続く扉の前はいつだって賑わっている。駅の真ん前でただでさえヒト通りが多いというのに、そこにバトルを終えた若者がたむろしているのだから密度は高まるばかりだ。足早に行き交う者たちが何故他者にぶつかることなく歩いていけるのか不思議に思うほどである。
ロビー入り口、そのすぐ脇。一匹のガール――隊員に『司令』と呼ばれるインクリングは、じっと座っていた。建物の前、それも出入り口に座り込むなど迷惑極まりないのは承知だ。けれども、ヒトに混じって姿を誤魔化すにはこれが一番いいのだ。
インクリングはあたりを見回す。キョロキョロキョロキョロと挙動不審なほどあたりを見回す。こうやってヒトの波の中身を探してどれほどになるだろう。体感ではゆうに半日は神経を張り巡らせている。視神経も筋肉も脳味噌も随分と疲労を覚えていた。それでも、見張る目を止めることなど出来なかった。探さねばならないのだ。いるかどうかすら分からないあの子を、この中から。
出会った時から『三号』と呼んできた隊員がキャンプを訪れなくなってどれほど経っただろう。意地が悪いことをした自覚はある。相応に罰を受ける自覚がある。けれども、その罰を与える相手がいつまで経ってもやってこないのだ。当然だ、あの気の強い、プライドで武装を重ねてやっとヒトと対峙するような少女が来るはずがない。こんな馬鹿げたたちの悪いいたずらをするようなやつのところに再びやってくる道理などないのだから。
空気を割らんばかりに罵ったあの叫声を、嫌悪と敵意をあらわにしたあの凄まじい形相を、今まで見たことのないほどの速さで走り去った小さな背中を思い出す。その度に、心臓のあたりが熱湯をかけられたように痛みを覚えるのだ。あんなお粗末ないたずらで――彼女にとっては長い時間をかけた裏切りで怒らせてしまったことがよほど堪えているらしい。全ては自業自得なのだけれど。
表現し難い声が鼓膜を震わせる。聞き慣れた――オルタナの白い地で何度も聞いてきた鳴き声に、司令はバッと顔を上げる。ゲソを振り乱し、急いで音の方へと顔を向ける。視界の中、ヒト混みの隙間から見えたのは、赤いモヒカンヘアーと銀のくちばし、緑のズボンを履いたコジャケだった。
こんな街なかにコジャケが、シャケがいるはずがない。最近はビッグランというシャケの襲撃が起こっていると聞くが、現在それを示す警報は発令されていない。つまり、誰かが連れ込んだのだ。そして、コジャケと暮らすような者などそうそういない――それこそ、あの子ぐらいしか。
立ち上がり、司令はあたりを見回す。コジャケのそばにヒトの姿は無い。もう雑踏に紛れてしまったのだろうか。どこだ、と目をこらし、懸命に探っていく。忙しなく動く目の端に何かがきらめく。反射的に視線を向けると、オーロラ色に輝く白がロビーへと向かっていくのが見えた。頭部に取り付けられたその色――耳の上部を覆うようなヘッドギアは見知ったものだ。過去の己が使い、今は他人へと譲られたヒーローブレインだ。あれはアタリメ司令から支給されたものであり、おそらく一般流通はしていない。ならば、あのギアの持ち主は。
ダンッ、と勢いよく地を蹴り、司令はヒトの中を切り進んでいく。凄まじい足音に気圧されたのか道を譲る者が多く、思ったよりも楽に進むことができた。割れたヒト混み、その正面、ロビーに続く自動ドアが開く。輝くギアに飾られた頭の持ち主がその中に入っていくのが見えた。
「三号!」
腹の底から、肺の中身を全て使って、声帯が裂けんばかりに声を出す。街中に響き渡るような大声量に、いくらかの者が足を止める。件の少女もその一匹だった。ヒトの波を掻き分け、司令は走る。ようやく辿り着いたドアの真ん前、歩みを再開しようとした少女の細い腕をがしりと掴んだ。
己が力強く腕を引いたからだろう、目の前の少女はたたらを踏むように振り返る。きょとりと丸くなった群青の目は、たしかにこの子があの『三号』であると語っていた。ようやく見つけた安堵に、やっと再会した歓喜に、口元が綻ぶ。三号、と弾むような声でまた少女に与えた記号を口にした。
腕が引っ張られる感覚。よろけそうになり、反射的に掴んでいた腕を離す。隠れるように腕が回り、目の前の身体が反転した。そのまま、捕まったはずの少女は駆け出す。雑踏に自ら身体を投げ込み、逃げるように走り去った。
三号、とまた叫び、司令は駆け出す。ヒトの波に逆らって走り、オーロラで彩られた頭を一心に目指す。背の低いクラゲに引っかかっていたところを何とか追いつき、目に痛いほどのライムグリーンに包まれた腕を再び掴んだ。
「三号ってば!」
何度も、何度でも彼女を呼ぶ。部隊のことは秘匿するのが暗黙の了解だ、本当ならば名前で呼ぶべきだろう。けれど、己は彼女の名前を知らないのだ。半年ほど過ごしてもなお、彼女の名前を知ることはなかった。当然だ、名前を聞く機会など無かったのだ。訪ねる機会など無かったのだ。隊員名で呼ぶ機会すら無かったのだ。己の刹那主義めいた好奇心が全てを潰したのだ。後悔が胸を押し寄せ、中身がダメになるほど潰していく。ぐぅ、と喉がおかしな音を漏らした。
目の前の背中が振り返る。ようやくこちらを向いた顔は、警戒心と嫌悪に塗れていた。眇められた目はこちらを射殺さんばかりの鋭さを宿し、口は威嚇するようにカラストンビが剥き出しになっている。細い眉は見たことがないほど吊り上がっていた。普段から機嫌の悪い顔や怒った顔を見せることが多い彼女だったが、これほど酷いものは――こちらの全てを拒否し否定するようなものは初めてだ。剥き出しの敵意に、思わず後ずさりそうになる。すんでのところで留まり、こちらもまっすぐに見つめた。海色と空色がぶつかりあって火花を散らす。
「……離しなさいよ」
「やだ」
また振り払おうとしたのだろう、三号は掴まれた腕をグッと力強く引く。容易に予測できた行動に、司令は掴む手に更に力を込めた。結果、硬直状態は変わらず続く。チッ、と鋭い舌打ちが聞こえた。
「戻ってきて」
戻ってきてほしい。またオルタナを調査してほしい。アオリたちのためにアタリメ司令を見つけるのに協力してほしい――考えて、全部が違うことにようやく気付く。違う、New!カラストンビ部隊としての活動のためではない。ただ、ただ己が彼女に戻ってきてほしいだけなのだ。またキャンプで共に過ごしたいだけなのだ。食事をして、攻略を練って、調査結果を聞いて、チャレンジを見届けて。そんな日々をまた送りたいだけなのだ。
は、と低い声が二人の間に落ちる。明らかに苛立った、明らかに怒気を孕んだ、明らかに軽蔑を示した音だった。視線も合わせて、負の感情を全てぶつけられているような錯覚に陥る――否、きっとこれは錯覚などではない。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ」
瞬間、腕に痛み。自由のままだった腕で思いきり叩き落とされたのだと理解した頃には、掴んだ腕は離れてしまっていた。ザ、と靴が地をする嫌な音。
「三号!」
「うるさい!」
悲鳴に近い声で名前を、自分にとっては『名前』である記号を呼ぶ。それも全て凄まじい怒声に潰された。
何あれ。喧嘩じゃない。うるさ。痴話喧嘩かな。どっちも女じゃん。チジョーノモツレってやつじゃない。こんなとこでやんなよ。
訝しげな声が、うんざりとした声が、好奇心にまみれた声が聞こえる。気付けば、二人の周りにはわずかながらも空間が生まれ、遠巻きにヒトだかりができていた。誰も彼もが己たちに奇異の目を向けている。中にはナマコフォンを構える者までいる始末だ。
ダッ、と地を蹴る音。それが示すことを瞬時に理解し、司令も地を蹴って駆け出す。特注ギアで彩られた頭を睨み、必死で追いかける。再び手を伸ばしたところで、ガシャン、と盛大な音が鳴り響いた。同時に、腹と足に痛み。慌てて目を向けると、そこにはキッチリと閉じた改札口があった。どうやら彼女は駅内へと逃げ込んだらしい。
急いでポケットを漁る。ろくに物など入れられない小さなポケットの中には、携帯端末が一つあるだけだ。ICカードはもちろん、現金も無い。そもそも、切符を買っている間に彼女は電車に乗ってしまうだろう。もう追いかける術は無いのだ。
どうしようもなくて、その場に立ち尽くす。薄く開いた口は浅い息を繰り返していた。腹がじくじくと痛む。それすらどこか遠くの他人事のように感じた。
逃げられた。思いきり否定され、思いきり拒否され、思いきり敵意をぶつけられ、思いきり逃げられた。もう戻ることなど無いと明確に示された。事実に、胃の腑がグンと重くなる。心臓が早鐘を打つ。胸に海水をめいっぱい詰め込まれたような苦しさと重さ、薄い恐怖が広がっていった。
もうダメなのだろうか。戻ってこないのだろうか。絶望ばかりが頭をよぎる。いや、けれどもこうやって会えたではないか。会話できたではないか。言葉が通じるではないか。それに、彼女は少しばかり押しに弱いところがある。ならば、回数を重ねて説得すれば、あるいは。
水面色の目がぐっと眇められる。感情渦巻くその瞳の先には、知らないヒトが行き交う階段があるだけだった。
きょろきょろとあたりを見回し、ヒトの形をした影が無いことを確認する。足音を立てぬようそっと、けれども足早に、少女は坂道を登っていく。後ろをついて回るコジャケがなんとも言い難い鳴き声をあげる。静かに、とひそめた声で言い放つと、相棒は鋭いくちばしを律儀に閉じた。珍しく伝わったようだ。それでも、こいつが跳んで跳ねて這いずり回る音が聞こえては意味が無い。見た目より重量がある身体を抱え上げ、少女はまた坂道を物音立てずに登っていった。
「ここにいなさいよ」
バンカラ街のすみっこ、ヒトが少ない屋上スペースにコジャケを放つ。自由になった相棒は、ずりずりと這って走ってぴょんと跳び、欄干の上にちょこんと乗った。普段の様子から、彼はここが自分の定位置だと思っているらしい。本当に器用なものだ、と小さく息を吐いた。
インクリングは手すりの隙間から下を覗く。やはりヒトはまばらだ。これなら誰かに、あの女に出会うことは無いだろう。踵を返し、足早に来た道を戻った。
何故こんなことをしなければならないのだ、と怒りがふつふつと湧いてくる。原因はあの『司令』だ。街なかで出会ったあの日から、あの自己中心的な女はこちらの都合や他者の目など一切弁えず追ってくるのだ。隠れても、ギアを変えても、時間を変えても、あいつは追ってくる。一度交番に飛び込んで警察に突き出したのに、それでも諦めずつきまとってくるのだから呆れを通り越して恐怖すら覚える。
何故あいつはこうも己に執着するのだろう。騙し続けたぐらいには信頼していないくせに、何故ああも悲痛な声で己を呼ぶのだろう。今までほとんど干渉しなかったくせに、何故オルタナを離れただけでああまで必死に追いかけてくるのだろう。分からない。分からないからこそ腹立たしい。あまりにも身勝手で、あまりにもわがままで、あまりにもヒトの心を軽視している。考えるだけで胃が一気に熱を持った。
「三号!」
灰色のパーカーに包まれた身体がびくりと跳ねる。音の方、つまりは坂の下に目をやると、そこにはあの『司令』がいた。どうやって見つけたのだ、と思わず舌打ちをする。したところで現状は解消されないのだけれど。
ダッ、と地を蹴る音。ダンダンと駆け上がってくる激しい音。このままでは鉢合う、それどころか追い詰められるのは確実だ。一度上に逃げて撒かなければ。踵を返し、『三号』と呼ばれ続けた少女は坂を駆け上がる。盛大な足音が二つ、街の隅に響いた。
戻ってきた屋上広場、階段のすぐ脇に身を隠す。司令が広場の中央まで進んだところで降りて逃げる算段だ。息をひそめ、気配を殺し、じっと身を縮こめる。ダン、と地を踏みしめる音。もう一度地を踏みしめる音。何度も響くそれは明らかにこちらへと向いていた。
「三号」
目の前のインクリングは毎度のごとく己を示す記号を発し、素早く腕を掴む。振り払おうとするも、今日は腕を動かすことすらできなかった。両の手を使い、彼女は握り潰さんばかりの力で己の腕を掴んでくる。逃がす気など欠片も無いのだということがありありと伝わってくる。それが腹立たしくて仕方が無い。何故こいつの都合で拘束されなければならないのだ。
「いい加減にしてくんない!?」
怒号をあげ、三号は渾身の力で腕を振る。しかし、捕らえられたそれはびくとも動かなかった。腕に加えられる力が更に増し、痛みも酷くなる。痛覚を直接刺激するようなそれに、少女は顔をしかめた。
掴む手の持ち主をギッと睨みつける。突き刺し殺さんばかりのそれに、まっすぐ視線が返される。眇め細くなった視界に映る青は、焦燥があらわになっていた。キャンプでは見たことないほど、感情がよく分かる色がしていた。いつだって感情なんて無いと言わんばかりの顔をしていたくせに、今になってこうやって感情を、ヒトらしい部分を見せてくるのだ――あの日だって、普通のヒトのように笑っていたのだから。
胃がカァと凄まじい熱を宿す。頭の後ろ側がジンと痺れる。喉が絞まるような心地。思考全てが沸騰し染め上がっていく感覚。怒りが少女の全てを支配した。
もう一度腕に力を込め、振り払おうと試みる。変わらず、動かすことはできなかった。潰れ弾けんばかりの痛みが広がるだけだ。これでは埒が明かない。呻きを漏らしそうになるのを防ぐように舌打ちを一つした。
「何で逃げるの」
揺れる青が一心にこちらを見つめる。震えた声がまっすぐにこちらに問いかける。悲痛にすら見える有様だ。まるで被害者だと主張するような顔つきだ。それが気に入らなくてたまらない。正当防衛をしたまでの己を『逃げる』だなんて言い放つこいつが気に入らなくてたまらない。腹の底で燃え上がる炎が更に勢いを増した。
「あんたみたいな不審者につきまとわれて大人しくしてるわけないでしょ」
「そうじゃない」
至極当然の言葉を返すも、すぐさま切り捨てられる。ほのかに震えるそれは、苛立つほどに力強いものだった。確信を持った、信念を持った、揺れることの無い言葉だった。
「何で来ないの」
昼の空のような青が、まっすぐに海底色の瞳を射抜く。言葉を紡ぐ唇の動きは硬く、向けられる青円はかすかに揺れている。細い眉はどんどんと下がり、掴む手は縋るように力が増していく。必死な有様は、見る者がいれば彼女の味方につくだろう。その姿に腹が立つ。原因は全てこいつにあるのだ。だというのに、まるで己が悪いかのように見つめるその目が、己がおかしいかのように問う声が、気に食わなくて仕方が無い。自身を正当化するようなその姿が気に食わなくて仕方が無い。
「ヒトのこと騙しといて何言ってんの」
発した声は己でも聞いたことがないほど低かった。憤怒が渦巻く身体では、もう常通りの声を出すことなど不可能なのだ。
こうやって声を発することができるのに、こうやって会話をすることができるのに、こいつは半年以上己と直接話そうとしなかったのだ。こうやって表情を変えられるというのに、己の前だけではずっと無表情を貫いていたのだ。何か理由があったかもしれない。しかし、そんなことは知ったことではない。何も言わず、ずっと黙って、己だけを騙してきたこいつを許すことなどできるはずがない。
「そもそも、調査だかなんだかなんてあたしには関係ない話じゃない。何でそんなこと言われなきゃなんないのよ」
「だって、『三号』でしょ?」
「あんたたちが勝手に言ってるだけじゃない。あたしには関係無い――」
「関係ある!」
切り捨てようとする声は、絶叫めいた声に吹き飛ばされた。腕を掴む力が更に強くなる。このまま潰され千切れんばかりの凄まじいそれに、こちらのことを全く考慮していない身勝手な言動に、少女は表情を歪めた。
「だって、だって三号は三号で、隊員で、だから――」
「だからそれはあんたたちが勝手に言ってるだけでしょ!」
途切れ途切れに紡がれる言葉を大声が遮る。瞬間、目の前のスカイブルーが瞠られた。宿す光が鳴りを潜め、深さを増していく。焦燥の色は消え、悲哀一色に染まっていく。呆然に近い顔は、痛みを堪えるようなものだった。傷ついた、と言わんばかりのものだった。全てが少女の神経を逆撫でする。お前の身勝手な行動が全てを招いたというのに、傷ついたと訴えてくるなどなんと恥知らずなことか。傷ついたのはお前ではない。お前は傷つけた方ではないか。お前は被害者なんかじゃない。加害者で。自分勝手で。ストーカーで。不器用ながらも世話をしてくれたのに。心を寄せてくれたのに。なのに。
「あたしを巻き込むな!」
空間が震えるほどの音が少女の口から吐き出される。加減無く声を出した喉は痛みを訴えた。中身全てを使い切った肺が痛い。中身をぐちゃぐちゃに掻き乱された頭が痛い。延長戦をフルで戦ったかのように心臓が痛い。臓器が無いはずの胸の真ん中の場所が痛い。身体が、心が、痛みを訴える。睨みつける視界がうすらとぼやけた気がした。
真ん丸になっていた空色が元に戻り、黒い瞼の奥に消える。目の前の黄色い頭がゆっくりと動き、表情を隠した。己の荒い呼吸だけが世界に落ちていく。喘鳴に近いそれが落ち着く頃、やっと目の前の女は顔を上げた。再度向けられた顔からは、被害者ぶった色は消え失せている。代わりに、静けさに満ちた穏やかな、けれども温度が抜け落ちた何かがあった。それでも、瞳は輝きを取り戻している。何かを求めて不気味なほどギラギラと輝いている。撃ち抜くようにまっすぐにこちらを見つめている。
「わかった」
こぼれた声からは、今までの激情は見られなかった。溜め息にも似たそれに、無意識に食いしばっていた少女の口元から力が抜けた。眇めた海色の目はまだ警戒に満ちている。いきなり聞き分けの良いことを言い始めたものを警戒するなという方が無理があるのだ。こういう時こそ神経を張り詰めねばならない。少女依然鋭い視線を送る。刺さんばかりのそれを浴びているというのに、目の前のインクリングは小さく笑んだ。
「もう追いかけないからさ。だから、最後にタイマンしてよ」
「は?」
笑みとともにこぼれた言葉に、三号は眉をひそめる。言葉という形は取っていれど、前後の繋がりが全く分からない。訴えれば勝てるような行動から解放されることと、一対一での勝負のどこに関係性があるのだ。そもそも、こちらは追いかけ回され日常を脅かされた被害者である。なのに、何故加害者であるこいつに交換条件を持ちかけられなければならないのだ。
「それで諦めるから。おねがい」
「何でそんなのに付き合わなきゃ――」
「逃げるの」
静かに流れる声を、棘で武装した声が弾き飛ばす。それも、落ちついた、けれども力を宿した一言が押さえつけた。は、と少女は思わず低い音を漏らす。何故そんな風に言われなければならないのだ。まるで己が勝負に怯えているようではないか。まるで己が勝てないから拒否しているようではないか。怒りで煮えたぎる頭は、簡単な挑発ですぐさま沸騰した。
「……いいわよ」
やってやろうじゃない、と三号は啖呵を切る。こいつは己がオルタナを走り回っている間、ずっと座って何もしていなかったのだ。実力のほどは知らないが、あれだけろくに身体を使っていなければなまっているに決まっている。毎日のように地を駆け回り、チャレンジをクリアし、その上日々バトルに励んでいる自分が負けるはずがない。最後にこいつをぶちのめして、追いかけ回される日々が終わるのだ。そう考えると、なかなか魅力的な提案にすら思えてきた。最近負けが込んでいてどうにもフラストレーションが溜まっているのだ。
「ステージはユノハナ。ナワバリ……というか、キル数勝負で」
告げる声は終始穏やかで、あれだけ悲哀にまみれていた顔には微笑みが浮かんでいた。一変したその様子に、いっそ不気味さすら覚える。ああも喚き立てられるよりはずっとマシなのだけれど。
「……分かった」
少しの沈黙の後、少女は確かに頷く。基礎の基礎であるナワバリバトルやオブジェクト関与と管理が要求されるガチルールではなく、『キル数勝負』という部分が少し引っかかる。わざわざキルで競おうと言うほど、あちらは腕に自信があるのだろうか。否、きっと本当に己と戦いたいのだろう。ガチルールはオブジェクト関与をしなければ勝敗がつかないし、ナワバリは逃げ回って塗るだけで勝てるのだ。真っ向勝負をするなら、キルで競うのが一番良い。
「じゃ、行こっか」
掴まれた腕を引かれる。いつの間にか、肉を潰さんばかりの力はすっかりと弱まっていた。この程度ならば、力を振り絞って引き剥がせば逃げられるだろう。けれども、少女は大人しく手を引かれて歩んだ。受けた勝負から逃げるのはプライドが許さなかった。
二人連れ立って、不気味なほど静かに歩んでいく。足音に混じって、潰れたような鳴き声が聞こえた気がした。
息を吸う。ひたすらに酸素を取り込み続けた喉と肺は激痛を叫んだ。胃の腑が押し上げられるような感覚。食道へと上ろうとするそれを必死に押さえ込み、少女はインクの中を駆け泳ぐ。呼吸する喉が、酸素を取り込む肺が、やめろと喚くのを捻じ伏せて。
トリガーを引き、でたらめにインクをばら撒く。青いインクを己の黄色で上書きしていく。音は――敵にインクが当たり、ダメージを受けた声は聞こえない。どこだ、と少女はあたりを見回す。中央の激戦区だというのに、ここにはあまりにも青が少ない。つまり、隠れる場所がほぼ無いのだ。自陣に戻って塗っているのだろうか。否、今回はキル数勝負なのだ。わざわざ塗りに戻るメリットは薄い。金網を歩いて行かねば自陣に戻れないこのユノハナ大渓谷ならば尚更だ。
とぷん、と背後で水の音が聞こえた。
すぐさま振り向き、三号は引き金を引く。ヒーローシューターレプリカもとい、その性能の元となっているスプラシューターは弾ブレがそこまで無い。だというのに、インク一滴すら当たった感覚がしなかった。当然だ、目の前に人の影はもう無い。乾ききった大地とイエローのインクが広がるだけだ。
また水の音。振り返るより先に、背に痛みが走った。撃たれたのだと理解する頃には、己はスポナーの上にいた。チッ、とインクリングは舌打ちを漏らす。音が鳴った口元は引き結ばれ、強張りを見せている。焦燥が丸分かりの顔つきをしていた。
急いで飛び出し、また中央へと泳いでいく。肺が、胃が、手足が、異変と疲労を訴える。全てを無視し、少女は泳ぐ。ヒュ、と呼吸しようとした喉が細い音をたてた。
おかしい。
相手はスプラシューター、つまり己と同じブキを使っているのだ。なのに、何故こうも撃ち勝てないのだ。同じ射程だというのに当たらない。なのに相手の弾は当たる。ボムを投げてもかすった様子すら見せない。なのに相手のボムはこの身体を捉える。ウルトラショットで対応しようにも、発動要件を満たすより先に倒されてしまう。だというのに、こちらは物陰に隠れていても一撃必殺のそれを当てられる始末だ。
訳が分からない。少女は今一度舌打ちをする。普段の鋭さはとうに失われ、リップノイズと差異のないものとなっていた。
中央へと躍り出て、また塗り広げる。とにかくウルトラショットを使えるようにならねば。相手の潜伏場所を潰さねば。焦りのままに、三号はトリガーを引く。ひたすらに塗り潰し、塗り重ねていく。気が付けば、カチカチと乾いた音が手元から上がっていた。インクが尽きたのだ。回復しなければ。身をインクに沈めようとした瞬間、ガシャン、と重厚な音があたりに響いた。それが何を意味するかなど、分かりきっている。
急いで音の反対方向へと逃げる。けれど、次いで聞こえた銃声は己の横方向から鼓膜を直接揺らした。視界がブルーに染まる。痛みが全身を染めていく。途切れた意識が復活した時には、既にスポナーの上だった。またやられたのだ。
何故だ。ウルトラショットの発動音は後ろから聞こえたのに。なのに何故真横から飛んでくるのだ。インチキだ。何か卑怯な手を使っているに違いない。だって、そうでもなければ、瞬時に移動だなんて。少女はギリ、とカラストンビを噛み締める。眇めた目は、寄せた眉は、食い縛った口元は、焦りと悔しさ、わずかな恐怖に塗り潰されていた。
泳ぐ。泳ぐ。泳ぐ。なんとしてでも自陣に入らせてはならない。リスポーン地点で延々とキルされることだけは避けねばならない。ウルトラショットはリスポーン時に付与されるアーマーを一気に剥がして潰す威力を持っているのだ。そんなこと、絶対に許してはならない。なんとしてでも阻止しないと。
右高台から中央広場へと降り立つ。瞬間、足元が弾けた。一瞬の空白の後、それがキューバンボムだということを理解する――理解した頃には、またスポナーの上にいた。
降り立つ位置を予測し、降りた瞬間爆破するようにボムを置かれたのだ。つまり、完全に行動を読まれている。降りる位置も、逃げる場所も、撃つ範囲も、全て読まれている。背筋を冷たいものがなぞっていく。身体の芯まで凍えさせるようなそれを頭を振って弾き飛ばし、少女は再びスポナーから降り立つ。またインクへと身を投じようとしたところで、べしゃり、と間の抜けた音が耳元で聞こえた。地面に倒れ込んでいるのだと気付くには随分と時間を要した――足音が鼓膜を震わせ、伏せた身体に影が差すほどには。
「ねぇ」
頭上で声が聞こえる。地についた手に、ブキを握る手に力を込め、少女は早急に身を起こそうとする。しかし、何度も撃ち抜かれ爆破された身体は言うことを聞かなかった。べしゃり、とまた無様な音。今身体を起こすのは不可能らしい――つまり、このまま撃たれ、デスを重ねるのだ。
嫌だ。そんなのは嫌だ。リスキルなんて嫌だ。己はそんなことをされるほど弱くない。ちゃんと戦って、撃って、勝たねば。せめて、一度ぐらいはあの身体をスポナーへと送らねば。
ガチャ、と手にしたスプラシューターが鳴き声をあげる。持ち上げようとするも、腕の筋肉が全て取り払われてしまったかのように指一本動かすことができなかった。
「視野狭すぎない?」
呆れきった声が頭上から降り注ぐ。は、と発しようとした声は、喉から飛び出ることなく消えた。代わりに、凄まじい勢いで何かが食道を駆け上っていく。押さえ込むより先に、三号の口からインクが吐き出された。飛び出たそれが、地面をびちゃびちゃと叩く。凄まじい疲労と短時間にリスポーンを繰り返したのが原因だろう。口の端からインクが垂れていく。あまりにもみっともなく、あまりにも惨めな姿であった。
「私のことしか見てないでしょ。だからボムでやられるし、足元塗られても気付かなくて足取られてる」
違う。そんなことはない。ちゃんとあたりを見回して塗っている。そもそも、撃ち合いの時は相手しか見ないのは当然ではないか。姿を捉えねば弾が当たることなど無い。確かに撃ち合い中足元が悪くなることはあるが、そんなことで己のパフォーマンスが鈍ることなんて無い。
「射程も把握してないよね。絶対当たらない距離から無闇に撃ってる。インク切れるに決まってるじゃん」
違う。そんなことはない。対面前に塗り広げるために射程外からでも撃つのは当然ではないか。射程が分からないはずがない。このブキを持ち始めて随分と経つのに、射程が分からないなんてことは無い。弾のブレが悪さをしているだけだ。
「塗り広げ雑すぎ。これだけ塗り狭かったら潜伏する暇無いよね? そもそも囲まれたら逃げられないのに」
違う。そんなことはない。移動できるようきちんと塗り広げているし、相手のインクは潰している。射程外で塗りが届かない部分やまばらになる部分はあるが、塗ることに執着しては撃ち合う余裕が無くなる。ほんの少しの塗り残しぐらい見逃すのは当たり前ではないか。
「ていうかインク管理できないのって相当問題だよ? 対面中インク切れたらただの的になるだけなのに」
違う。そんなことはない。長時間の撃ち合いでインクが切れることはあるが、それは運が無いだけだ。撃ち合いの最中、逃げて潜伏しインクを回復することなどできない。今あるインクで戦うしかない。そんなのは当然のことだ。
「スペシャル確認できてないのどうかと思うなぁ。相手がスペ溜まってるのに突っ込んでいっても返り討ちにされるだけなの分かるでしょ」
違う。そんなことはない。スペシャルウェポンの発動は音で確認している。見逃すわけがなかった。事実、発動してからはすぐに身を隠している。そもそも、対面中も塗りが発生するのだから突然スペシャルウェポンを繰り出されるなど当然ではないか。そこに己の非など無い。
「……なわけ、ないでしょ」
腕に力を入れ、やっとのことで上半身を起こす。震える足を叱咤し、地を踏みしめ、少女はどうにか立ち上がった。口から垂れるインクを拳で拭う。肌に付いたイエローはすぐさま宙に溶けて消えた。
「そんなわけないでしょ!」
「あるよ」
激昂し叫ぶ三号に、司令は短く返す。ただただ短く声を発する。わずかな唇の動きで全てを否定する。
「全部できてなくて、弱いって言ってるの」
真っ向からぶつけられた冷えた声は、見つめる目は、憐憫の情すら浮かんでいた。
弱い。その三音節が少女の頭を殴る。たった一つ浴びせられたそれが頭を染め上げ、怒りの火に薪をくべ、思考を焼き尽くしていく。目の前が暗く陰った。
食い縛り、少女はガシャリと派手な音をたててスプラシューターを構える。銃口が目の前の人を捉えるより先に、衝撃が、激痛が身体を染め上げていく。気付けば、やはりスポナーの上にいた。急いで飛び出し、相手の前に躍り出る。震える手でブキを構えるも、銃身は揺れて狙いが定まらない。トリガーを引く指も、ついには力が入らなくなりインクを撃ち出すことができなくなった。ついに疲労が限界を越えたのだ。当たり前だ、この二分ちょっとでバカみたいな数のデスを重ねたのだ。短時間に数えられないほど再生した身体がまともに動くわけがない。事実、力が入らなくなった足は身体を支えるという役割を放棄した。べしゃり、とまた惨めな音が耳元であがった。
違う。弱くなんかない。己は弱くなんかない。強いのだ。こいつなんかに負けるはずがない。こんな、いつも座ってるだけのやつなんかに。人を騙すようなやつなんかに。最低なやつなんかに負けるはずがない。だって、己は強くて、強くなくてはいけなくて、だから。
「勝ちたいでしょ」
「……あ、たり、まえでしょ」
「これじゃ勝てないよ」
基礎もできてないのに勝てるわけないでしょ。
冷えきった声が、呆れきった声が、憐れみに満ちた声が降り注ぐ。頭上から注いで、染みて、思考を燃やしていく。心を焼き尽くしていく。
違う。そんなことはない。馬鹿を言うな。調子に乗るな。様々な言葉が内臓の中を渦巻く。どれも声帯を震わせるには至らなかった。残る力を振り絞り、見下ろす青を睨めつける。太陽を背に受けた顔は、どんな色をしているのか分からなかった。
「勝ちたいなら――もっと強くなりたいなら、帰ってきなよ」
平坦な声が、それでも少しの震えが見える声が落ちてくる。は、とこきめいた疑問の音が口から漏れた。
「帰ってくるなら鍛えてあげるからさ」
「いらないわよ!」
馬鹿になった肺の中身を、カラカラに渇いた喉を、仕事を果たすことを忘れかけていた声帯をめいっぱい使い、少女は吼える。悲惨なまでに割れた声が、砂舞う空へと昇っていった。
そう、と短い声が降ってくる。そこから一分の隙も無く、低い銃声が降り注いだ。
視界が青に染まると同時に、ホイッスルの高い音が聞こえた気がした。
ロビーの隅、バトルの個人成績やメモリーを見ることができる端末の前には二匹のガールがいた。一匹は苦虫を口いっぱいに放り込まれて噛み潰したかのように、もう一匹はどこかスッキリとした顔で液晶画面を眺めている。
少しノイズが走る画面には、プライベートマッチの結果が記されていた。LOSE、つまり負けを示す語の下に書かれた自身の名前を眺め、三号は更に眉間に皺を寄せる。塗りポイント六一三、キル数ゼロ、デス数十五。悲惨の一言に尽きるリザルトだった。黄色で囲まれた文字たちから視線を上げ、すぐ上、青色で囲まれた部分を見る。WINの文字で飾られた枠の中、『Player』のネームの横にも数字が書かれている。塗りポイント八八四、キル数一五、デス数ゼロ。ナワバリバトルとして見れば、塗りポイントの差異はあまり多くない。けれども、今回の勝負は『キル数勝負』だ。デスゼロ――つまり、一度も倒されなかったことは、圧倒的勝利を表している。
負けた。
機械が語る厳正な結果に、否定したい現実に、認めたくない事実に、少女はカラストンビを噛み締める。音が鳴るほどのそれに痛みを覚えるも、筋肉は感情に操られたままで言うことを聞かない。身体が悲鳴をあげようと、心は加減をする余裕など持ち合わせていなかった。
何で負けた。こんなやつに何で負けた。何で撃ち合いに勝てなかった。何で一キルすら取れなかった。何で。何で。
多数の、けれども根源は一つの疑問が頭をぐるぐると回る。答えは分かっている。けれども、それを認めることなどできない。だって、己は強くて、強くなくてはいけなくて、だから負けるはずなど。
「負けっぱなしでいいの」
涼しい声が鼓膜を震わせる。画面から音の方へと視線を、敵意を向ける。少し滲んだ視界の中には、汗一つ無い顔でこちらを見つめる司令がいた。言葉を紡ぎ出す口、その端っこはうっすら上がっている。激戦の後だというのに、何でもないという風な顔をしていた。
「……んなわけないでしょ」
ガシャリ、と握ったスプラシューターが音をたてる。持ち上げたくても、銃口を向けたくても、撃ち殺したくても、腕はぴくりとも動かなかった。バトルと再生で体力を使い果たした身体はまだろくに言うことを聞かないのだ。
「じゃあ帰ってきなよ。定期的にタイマンやったげるから」
さらりと告げられた言葉に、少女は吐息のような音を漏らす。疑問符でめいっぱいに彩られたそれは、ようやく少女の口を怒りから解放した。
何を言っているのだ、こいつは。あの場所に、あの部隊に戻ることと、敗北を喫したことに関係性など無い。定期的にタイマン、という言葉の意図も分からない。定期的に戦うことに何の意味があるのだ。一度の負けなど、今覆してやればいいのだから。
「今やればいい話でしょ。もう一回やるわよ」
「ゼロキル十五デス」
風に吹かれる柳のように動く三号に、司令は端末を指差す。先ほど嫌というほど見た数字だ。『キル数勝負』で負けた事実を突きつけてくる数字だ。笑みすら浮かべた涼しげな顔に、スプラシューターを軽々と扱う手つきに、少女は呻きを漏らした。屈辱に、憤怒に、悲痛に彩られた音をしていた。
「勝てないでしょ」
「やんなきゃ分かんないでしょ!」
力を振り絞り、少女は目の前の胸倉を掴む。普段なら持ち上げるところだというのに、今は柔らかな皺を作るのがやっとだ。指が上手く動かない。身体が上手く動かない。怒りに身を任せても、疲弊した身体は拒否をする。あまりの情けなさにまた呻きがこぼれる。
「分かるよ。このレベルに負けるわけない」
伊達にウデマエXじゃないんだから、と司令は歌うように言葉を紡ぐ。耳慣れぬ単語に、三号は更に表情を険しくした。バトル、その一つであるバンカラマッチはウデマエはS+が最高だ。Xなんてものはない。Xマッチならば分かるが、あれはウデマエでなく数値で実力を示されるものだ。つまり、ただのハッタリである。ハッ、と少女は鼻を鳴らす。胸倉を掴む手に力を込める。依然、指は震えて柔らかなままだ。
「だからさ」
歌うように、なぞるように、撫でるように、司令は言う。冷えきっていた目には温もりが宿り、頬は色を灯して緩み、口元はゆるい弧を描いていた。
「鍛えてあげる。強くなりたいなら協力したげる」
「いらないっつってんでしょ!」
「今これだけ酷いのに独学で強くなれるの? 私に勝てるぐらいに?」
曇り無き眼が少女に向けられる。純粋さを装った瞳は、暗に『無理だ』と語っていた。ギリ、とキチン質がまた嫌な音をたてた。
今の戦い方は全て独学だ。バトルに身を投じ、身につけてきたものだ。今は負けが込んで悲惨な数字が並んでいるが、最近はゆっくりながらも勝率は高くなっている。成熟しているのは明らかだ。独りでも強くなれることは明白だ。
けれども、先の戦いが邪魔をする。一キルも取れなかった事実。十五回も撃ち殺された事実。行動全てを読まれた事実。彼女曰く『弱い』部分を指摘された事実。それらが確固たるものであったはずの自信を潰さんとのしかかってくる。否定する言葉を押し込めてくる。
「定期的に私とタイマンして立ち回り磨けばいいよ。何だったら暇な時に軽く教えたげるし」
軽い調子で司令は言う。一本立てた指をくるりと回す仕草は余裕綽々といったものだった。少女の神経を逆撫でするものである。掴む指に、感覚が戻りつつある指に力を込める。だからさ、と続いた声には、締められる苦しさなど欠片も見えなかった。
「帰ってきてよ」
おねがい。
司令は、一匹のインクリングは紡ぎ出す。こぼす、と表現するのが正しいほどの小ささだった。今までの様子からは考えられないほどの細さだった。縋るような必死さが滲んだものだった。
何で。何でこいつはここまで己に執着するのだ。追いかけ回すほど。叩き負かすほど。鍛えてやるだなんて言い出すほど。こんな、情けない声を出すほど。こんなにも縋りついて離そうとしないのは一体何故なのだ。
布を掴んでいた腕を離す。重い頭が沈んで落ちていく。だらりと垂れた己のゲソが、傷だらけのブーツが、傷一つ無いスプラシューターが、整備された地面が視界を埋める。
分からない。少女には到底理解できない。理解しようと思わない。けれども。
「……たい」
拳を握り締め、三号は俯いた顔を上げる。深海のような深い瞳には、炎が灯っていた。轟々と音を鳴らし、酸素を奪い尽くさんとばかりに燃え盛る炎が。
「絶対に、勝ってやるから」
鍛えてやる。教えてやる。そんな馬鹿な言葉は、殺したいほど腹立たしい言葉は、全て利用してやる。そして、こいつを打ち負かすのだ。完膚なきまでに叩きのめし、敗北の苦さを存分に味わわせてやるのだ。だから、今は従ってやる。従ったふりをしてやる。こいつを負かすために。こいつに勝つために。
「ボコボコにしてやる!」
「楽しみにしてる」
叫びにも似た少女の声に、司令は穏やかな声で返す。口元に浮かぶ笑みは深さを増しているように見えた。
目の前、右手にあったスプラシューターが左手に持ち替えられる。空いたその手がゆるりと動く。手に柔らかな、温かな感触。目をやると、そこには己の手を握る司令の手があった。
「帰ろ」
インクリングは笑う。無表情を貫いていたインクリングは笑う。温かな色を宿した、幸福の光を宿した顔で笑う。怪訝そうな視線が真っ向から向けられた。
「……帰るって?」
「え? キャンプに帰ろ?」
「……え? あぁ、うん?」
首を傾げると、あちらも首を傾げてくる。己にとって、キャンプはただのオルタナでの活動拠点だ。『戻る』ならまだしも、『帰る』はいまいちピンとこない表現である。こいつにとってはあそこが家のようなものなのだろうか。あんなところに住んでいるのか、と湧いてきた疑問に、少女は眉をひそめた。
「……あー、そっか」
傾げた首が戻り、目が丸くなり、すぐさま閉じられ。目の前の口から漏れ出たのは、溜め息めいた疲れ果てた声だった。そっかぁ、と続けざまに何度もこぼしていく音は暗く沈みきったものだ。今更になって疲労が襲ってきたらしい。いいザマだ、と三号は鼻を鳴らした。
手が引かれる。いつぞやのように握り潰さんばかりのものではなく、引き千切らんばかりのものではなく、優しいものだ。こちらがついてくることを見越したようなものだ。鼻につくが、今は従ってやる。全てはこいつに勝つためだ。
「とりあえず、射程把握するところからね」
「射程なんか分かってるわよ」
「……まぁでも、もっかいちゃんと射程確認しとこっか」
二匹のガールは手を繋いで歩く。二丁のスプラシューターが連れ立っていった。畳む
善し悪しと受け入れることは全くの別問題【インクリング】
善し悪しと受け入れることは全くの別問題【インクリング】
Ordertuneブックレット読んで嘘やん……………………となったので書いた。ジュークボックスで配信されている以上一般市民イカタコにもファンはいるだろうしあの記事読んだらショック受けるだろうなぁと。音ゲーやってるくせに音楽知識全然無いから何かそこらへん適当に流し読んでください。
音楽好きのイカ君の話。Ordertuneネタバレ有。
重い音が開け放たれたロッカーに吸い込まれる。ホチキス止めの紙束はリノリウムを穿たんばかりの勢いで落ち、硬さに負けて床に這いつくばった。
手にした雑誌は落ち、読んでいた紙面は視界から消えた。けれども、少年の視線は動くことがない。身体は凍ってしまったかのように硬直しているようで、手だけがぶるぶると震えている。紙があった場所をまっすぐに見つめた目も、水面に映る月のように輪郭を揺らしていた。
「ん? なに? どした?」
ロッカーの扉に隠れて立ち尽くすインクリングの少年の背に、訝しげな声がぶつけられる。友人の声だと頭は認識しているのに、口は全く動かない。否、歯の根が合わないように震えている。身体が、内臓が全部重くて、声を発することなどできなかった。
「ほんとにどーしたんだよ」
懐疑を通り越して心配の音色すら孕んだ声が真横から聞こえる。ん、と疑問形の声が聞こえる。ほどなくして、紙たちが擦れ動く音が足元からたつ。薄い紙がめくられていくさざなみめいた響きが鼓膜をなぞった。
「何? 今月も懸賞当たんなかった?」
「…………MOF8の」
細かに揺れるだけだった口がようやく動き出す。どうにか吐き出した声は、心と同じほど揺れてブレていた。
「MOF8の曲、盗作だって」
発した声がそのまま石のように固まって胃の腑に落ちていく感覚がした。思いきり落とされて、反動で内臓がひっくり返るような心地。そのまま中身を吐き出してしまいそうな気分。
帰宅まで我慢できず、ロッカーにしまっておいた雑誌を手にしたのは何分前だろう。今日発売したばかりの音楽雑誌は特集が多くいつもより厚かったことを覚えている。各種特集ページを読み進めながら薄くインクの香りが漂う紙をめくっていくと、見開きページが目に入った。レコードを模したロゴに近頃よく見かける緑の顔、目を隠すサンバイザー。Dedf1shだ。
Dedf1shといえば、数年前から話題になっているも誰もその姿に辿り着けなかったアーティストだ。最近になって顔出しするようになったが、その露出はとうとう雑誌寄稿まで及んだらしい。多彩な楽曲を作り出すトラックメイカー、その楽曲批評が読めるだなんて。心を躍らせながら、緑の目は細かな文字を追った。
素朴ながらも芯が通った言葉はどれも響くものだった。そう、この曲はその音がいいのだ。その技術に触れるとはさすが。活動停止辛すぎるよな。感嘆に声を漏らしそうなのをこらえながら、少年は紙面を追っていく。瞳が捕らえたのは、何十何百と眺め目に焼き付いたジャケットだ。愛してやまないMOF8を象徴するものだ。この曲にも触れてくれるのか。現役アーティストから見たこの曲はどんなものなのだろう。湧き立つ心に身を任せ、丸い萌葱色は並ぶ文字を辿った。
これはボクが作った曲だ。
勝手に音源を引っ張ってきてリリースしたみたいだな。
MOF8、そのジャケットの隣に書かれたいくつもの文章。ほんのわずかなその文字たちは己の頭を殴り、脳を揺らし、思考を止め、呼吸を遮った。心臓が爆発でもしたかのように大きく跳ねる。酸素を欲した肺が筋肉を動かすが、喉は上手く取り入れられずに惨めな音をたてた。視界がブレ、ぼやけ、全ての感覚が消えていく。
やっと取り戻した今も、まだ心臓はうるさく鼓動を続けていた。感覚は戻れど、頭は動かない。否、動かしたくないのだ。だって、大好きなアーティストが、大好きな曲が、盗作だったなんて、そんなの。
事態を飲み込めないのか、友人は眉をひそめ眺めるばかりだ。急いでその手から雑誌を奪い、該当のページを開いて押し付ける。なんだよ、とむくれた声。しばしの沈黙の後、何とも表現し難い蠢くような声が聞こえた。
「うわー……マジかー……」
「うそだろぉ……」
事態を理解した友人は信じがたいと言いたげに呟く。その言葉が、先ほど目にした文章が夢や幻でないことを突きつけてくる。心を刺すそれに耐えきれず、少年は頭を抱えてその場にくずおれた。ぶつかったロッカー扉が抗議の声をあげる。
「お前、馬鹿みてぇに流してたもんな」
うわー、と友人はまた声を漏らす。明らかに引いている声だった。それはそうだ、盗作するアーティストを目の当たりにして負の感情を抱かないはずがない。名義を偽って発表するだなんてたちが悪いことをしているのだから尚更だ。
「……まぁ、ドンマイ?」
「何がドンマイだよぉ……」
「それ以外に言えることねーだろ」
肺の中にある空気全てを吐き出すように嘆息する。身体が重い。頭が重い。もう動きたくない心地だった。
「元はDedf1shの曲なんだろ? じゃあDedf1sh追えばいいじゃん」
「ちげぇんだよ……一曲盗作だったってことは他も怪しいだろ……」
幽鬼めいた少年の声に、友人は一拍置いてあぁ、とこぼした。
MOF8の楽曲は多彩だ。重低音が唸るように織りなす曲もあれば、シンセサイザーの軽快な音色を重ねる曲もある。迫力ある管楽器演奏に愉快なコーラスを合わせた楽曲は愛してやまないものだ。ジュークボックスで流しすぎて友人たちに怒られた程度には。
それも全部、誰か知らないヒトの楽曲かもしれない。ヒトの楽曲を盗んで発表しているのかもしれない。多彩な作風はただただ他人の継ぎ接ぎだっただけなのかもしれない。
疑念ばかりが頭を支配していく。全てが盗作だなんて確証は無い。同時に、一曲だけなんて確証も無いのだ。どれがオリジナルでどれが盗作かだなんて、誰も保証してくれない。
MOF8も、過去のDedf1shと同様に突如現れた正体不明のアーティストだ。ジュークボックスに何曲か収録されているものの、外部露出は一切無い。ここ数年は新曲の発表すら無いのだ。誰かの別名義ではないかと囁かれるほどである。
新作の発表がないのも、外部露出がないのも、『全て盗作だったから』で説明できてしまう。納得できてしまう。納得したくないのに、現実は突きつけて突き刺して無理矢理受け入れさせようとしてくる。
「まぁ、ほら。こーゆー時は別の曲聞こうぜ? な?」
肩に感覚。努めて軽薄な声を出す友人が叩いているのだと理解するまで随分とじかんがかかった。促されるがままに、少年は立ち上がる。不気味なまでに鈍く遅く力無く動く様は、幽霊と言われても信じられるようなものだった。
友人に手を引かれ、少年はロッカールームを出てジュークボックスの下へと歩む。筐体前に立つと、手が勝手に動いた。手癖で曲を選ぼうとしたところで、不自然なほど急激に動きがストップする。今選ぼうとした曲も盗作かもしれない。大好きなMOF8の曲じゃないかもしれない。そもそも、MOF8なんて『アーティスト』はいないかもしれなくて。
コインが落ちる高い音。機械が動く重い音。程なくして、バトル中よく耳にする楽曲がロビーに響き渡った。鋭いギターサウンドが空間を震わせる。
「ベイカ嫌いだっつってんだろ」
「ベイカがアレでも曲はいいだろ」
露骨なまでに眉根を寄せ、少年は友人を睨めつける。視線の先の青い目もまたこちらを睨みつけた。他人が見れば鏡写しのようだろう。
財布からコインを取り出し、無言でジュークボックスを操作する。収録されたばかりの曲を選び、硬貨を入れた。うるさいまでの音楽が消え、少し間の抜けた電子音が整備された空間を埋めていった。
「やっぱDedf1shじゃん」
「いいだろうが」
鼻を鳴らすように笑う友人に、少年はぶっきらぼうに返す。いいんじゃね、と普段通りの薄っぺらい軽い声が隣から聞こえた。
ジュークボックスの近く、小さな審判が眠るソファの隅に座る。今日はもう動きたくない気分だ。本当ならばイヤホンで聞きたいが、生憎ナマコフォンとイヤホンはロッカーに置きっぱなしだ。スピーカーから流れる音楽に身を委ねるしかない。委ねて何も考えたくない。音の中に埋まっていたい。何も考えず、何にも囚われず、何にも侵されず、ただ音楽を聞いていたい。
少年は壁にもたれかかって目を伏せる。軽やかなクラップと美しいハイトーンが疲れ切った頭に染み込んでいった。畳む
その程度でお前を隠せるはずがない【ワイ→←エイ】
その程度でお前を隠せるはずがない【ワイ→←エイ】
エイトくんを評価しまくってるワイヤーグラスくんとんなこと露ほども思って無いし気付いてないエイトくん良いな……というあれ。ワイヤーグラスくんもワイヤーグラスくんでそこそこ重い感情抱えてたら私が喜ぶ。あと色んなとこ捏造しまくってるし色んな解釈はゲームのオンライン要素寄り。
自由気ままに野良に潜ってるワイヤーグラスくんと隠れて野良に潜ってるエイトくんの話。大体3話前ぐらいの時系列。
広いロッカールーム、その一角。チープな金属扉に隠れるように頭を潜り込ませ、エイトは愛用するミミタコ8を外す。カゴの中に静かに放り込み、代わりにロブスターブーニーを取り出した。目元はもちろん、長めのヘアスタイルも全て隠すように目深に被り、ブキを片手に足早にロッカールームを出る。開けたロビーでは多くの者たちがエイムやイカロールの練習に励んでいた。普段と違い、こちらを見る目は皆無に近い。
新バンカラクラスであるエイトは目立つ。それはもう目立つ。特徴的なギアを着けていることもあり、ロビーに入ればすぐに存在を気付かれるほどには目立つ。存在に気づいて離れていくものもあれば、これみよがしに声を交わす者もいる。やりたくねー。当たりたくねー。何で野良で潜ってんだよ。時にはげんなりとした声で、時には嘲るような声で紡がれる言葉は、それこそ耳にタコができるほど聞いたものである。
ならば、目立たなければいい。
ヒトというのはどうやら色を特徴として捉え、大きく印象持ち、強く覚えるらしい。頭と真反対の色をした、それはもう目立つ真っ赤なミミタコ8を外すだけで飛んでくる声の数は減った。つばの大きな帽子を目深に被り、ギアと同じぐらい鮮烈な赤い目を隠せば、潜めた声の数は激減した。プレートの名前は変えられないものの、近頃は騙りが多いからか気にする者は少ない。『本物』がまぎれているだなんて思うヤツの方が少ないのだ。インクリングは単純な種族だと聞かされていたが、オクトリングも同じほど間抜けらしい。これできちんとバトルができるのかと不安を覚えるほどである。
マッチングを開始し、少年は壁際を陣取る。普段ならばエイム練習をするところだが、今ばかりは静観する他無い。目立ってしまっては意味がないのだ。手遊ぶように片手でナマコフォンを開いてスケジュールを再確認する。今のステージはマテガイ放水路とゴンズイ地区だ。マテガイ放水路は最近になって手が入り、地形が変わったと知らされている。事前に確認したかぎり侵入ルートが一つ増えただけだが、実戦でどうなるかなどまだ分からない。少しでも経験を積む必要がある。実力だけではない、情報も全て手に入れ優位に立たねばならないのだ。
ベルの音が鳴り響く。マッチングが終わったようだ。慣れた調子で移動し、スポナーへと入る。少しの待機の後、浮遊感。開始地点に並んだ証だ。もうじきバトルが始まるだろう。
スポナーを満たしていた身体をヒトの姿へと変え、エイトはスポナーの上に立つ。武器を構えたところで、両脇からゲェッと汚い悲鳴が聞こえた。何だ、と瞠られた三対の目たちの先をみやる。視界に入ったそれに、腹の奥底から勢いよく声が湧き出てきた。野良のチームメンバーのように無様な声を出さぬよう、喉で必死に押し殺す。潰れたような醜い音がスポナーの上に落ちた。
身体はゆったりとしたニットとサルエルパンツにほとんど隠されているが、覗くわずかな部分だけでも鍛えられていることが分かる。抱えるのは目に痛いほど鮮やかな青で彩られたプライムシューターだ。長いゲソはコーンロウで綺麗にまとめており、顔立ちがしっかりと見える。目つきは鋭く、視界に入った何もかもを射殺すような輝きに満ちていた。その目元には細い銀フレームの眼鏡――あれを眼鏡と称すのは未だに疑問を覚えるが――が光る。何より、ネームプレートに記された名前。
ワイヤーグラス。
8傑――その中でも更に強い者が集まった新バンカラクラス、トップに立つ最強のインクリングがそこにいた。よくよく見ると、彼の両隣のオクトリングもあんぐりと口を開いて固まっている。どうやら野良で一人潜っているところに出くわしてしまったらしい。
「いやいやいやいや」
「うっそだろ、ワイヤーグラスとかマジ?」
「これ無理っしょー……」
聞こえる声は完全に意気消沈していた。強者に勝とうという気概など一欠片も見えない。最初から勝負を放棄していることが丸分かりだ。
罵声を吐きそうになるのを愛銃のグリップを握ることで押し止める。向上心など欠片も感じられない、反骨心の一つも見られない、立ち向かう気概など砂粒ほども無いヤツらなど、今まで数え切れないほど見てきたではないか――相対してきたではないか。掃いて捨てるほどいる弱いヤツを引いただけの話だ。寄せ集めの野良なんてこんなものである。
ポジティブに解釈すれば、絶好のチャンスである。ここから見ただけでも、相手チームはワイヤーグラス以外の面子がすっかりと萎縮しているのが分かる。きっと勇んで前線に躍り出てくることは無いだろう。つまり、前線は己と彼との一騎打ちがほとんどになる。バトルメモリーや現地での観戦で彼の動きは何十何百と見ているが、実際に手合わせできる機会など滅多に無い。新バンカラクラス最強との戦い――またとない好機だ。
またスポナーに身体を沈める。ふ、と短く息を吐く。いつもより浅くなっていたのは、きっと気のせいだ。
勝つ。一回だけでも絶対に撃ち勝つ。
バトル開始の合図とともにステージに降り立つ。赤い瞳は相手のリスポーン地点を――ワイヤーグラスがいるであろう場所を一心に見つめていた。
音が弾けると同時に、目の前、相手陣地に紙吹雪が舞う。見える顔は喜びよりも安堵、もっと言うならば疲弊が強く出ていた――一人を除いて。
そのたった一人であるワイヤーグラスも、特段勝利を喜んでいるようには見えない。へたり込む即席チームの仲間など無視して端末を操作していた。おそらくマップを確認しているのだろう。熱心なものだ、とエイトは小さく息を吐いた。
「こんなん勝てっかよ」
「え? 勝とうとか思ってたの?」
「んなわけないじゃん」
「最初から負けるって決まってんだよなー」
だよなー、とリスポーン地点に座り込んだ野良三人は合唱する。疲弊しきったような素振りに、少年は舌打ちしそうになるのをこらえた。疲労を覚えるほど戦っていなかったくせに。最初からろくに前線に出てこなかったくせに。カバーはおろか撃ち合う素振りすら見せなかったくせに――最初から勝負を放棄していたくせに。勝つ気がないくせに被害者面をするのだから腹立たしい。これだから弱いヤツは弱いままなのだ。
ぐだぐだと文句を垂れ流す弱者など目もくれず、オクトリングはロビーへと戻る。先のバトルでの経験をまとめ、バトルメモリーを見返さねばならない。己の実力にあぐらをかいて研究を怠ってはならない。強者はいつだって強者であらねばならないのだ。
手早くナマコフォンを開き、つい先ほど記録されたリザルトを眺める。並ぶ数字の群れに喉が鳴った。こぼれ落ちた濁った音が喧騒に溶けて消える。
目を引くのはやはりワイヤーグラスのものだ。インクリングをデフォルメしたアイコンの横に並ぶ数字は八とゼロ。つまり、三分の間一度も倒れることなく戦ったことを意味している。対して己のは五と三。三度倒れたのは、全てワイヤーグラスにとの対面だった。遠くからラインマーカーで刺され、マーキングによって把握された行動を見咎められ、削られた状態で対面に持ち込まれ、撃ち合いに負けてリスポーンへと戻る。他の面子――あちらも大概自陣に引きこもっていたが――をいくらか倒して前線を上げようとしたものの、全て抑えられてしまった。上げたところで味方は続こうとしなかったのだから意味は薄かったのだけれど。
サブウェポンの使い方も、メインウェポンの使い方も、スペシャルウェポンの切りどころも、全てが完璧だった。敵が嫌がることを丁寧に行い、攻勢を封じ込め、押し切り抑えきる。まさにお手本のような戦い方だ――実力が違いすぎてほとんどの者にとって参考にはならないだろうが。
はぁ、と思わず溜め息をこぼす。対面に一度も勝てなかったのは悔しい。一人の力で勝てなかったのが悔しい。強い者はいつだって強くあらねばならないのだ。たとえ味方が非協力的であろうが、一人で勝ちを掴まねばならない。それでこそ『強者』なのだから。
「エイト」
耳慣れた声が、生きてきた中で数えられないほど聞いた言葉をなぞる。想定などしていないそれに、ビクンと大きく肩が跳ねた。この声は。いやけれども。だって今、『エイト』は『新バンカラクラスのエイト』の姿をしていなくて。なのに。
ガッと音が鳴りそうなほど肩を強く掴まれ、勢いよく引かれる。たたらを踏みそうになるのを体幹に物を言わせてこらえ、エイトは振りほどくように身を反転させた。反動を殺すようにタップを踏んで二、三歩距離を取る。帽子が上半分を隠した視界の中には、予想通り鮮やかなオレンジがあった。深い橙を通り越して血にも似た瞳がこちらを睨みつける。この身を貫き刺し殺すような視線だった。
「……よく分かったね」
相対するワイヤーグラスに、エイトはどうにか笑みを浮かべて返す。あぁ、と威圧的な声が聞こえた。銀のアタマギアの奥、吊り目が眇められ鋭さを増す。十人中八人はこの顔を見ただけで逃げるだろう。そして残り二人は名前を聞いて逃げ帰る。
「分かるに決まってんだろ」
鼻を鳴らしインクリングは言う。は、と今度はこちらが疑問の声を漏らす番だった。
己は今、目立つアタマギアを外し、目やヘアスタイルといった特徴を隠している。ネームは『エイト』のままであれど、騙りが多いここ最近は信用に値しない情報だ。バトル中は別のインク色に変わっていたのだから、あのさなかで『新バンカラクラスのエイト』の印象を持つはずがない。だのに、何故。
「動き見りゃ分かる」
当然のように吐き捨てる強者に、オクトリングはますます首を傾げる。確かにヒトには動きにはどうしても癖が存在する。開幕まっすぐに中央に進む、対面時はサブウェポンから入る、潜伏を多用する、スペシャルの切りどころが同じなど様々だ。弱点に繋がるそれを消そうと日夜注意しているものだが、気付いていないだけでまだまだあるらしい。いや、それはいい。問題は『何故彼が己の癖を覚えているか』だ。
彼は強い者にしか興味が無い。そして、己は彼に敗れた――悔しいけれども、彼にとっては『弱いヤツ』だ。新バンカラクラスに誘われたものの、その事実は覆せていない。彼の中では己は『弱いヤツ』であり、有象無象の一人でしかないのだ。だというのに、何故彼は己の癖を覚えているのだ。まるで今までの戦いを見てきたかのような。まるで意識してきたかのような。そんなこと、あるはずがないのに。
「お前も分かるだろ」
「まぁ、きみほどとなるとさすがにね」
ほらな、とワイヤーグラスはまた鼻を鳴らす。誰だって強者のことは覚えるだろう。己は彼を研究しているのだから尚更だ。だが、彼にとっては事情が違うではないか。強者ならともかく、弱者を覚えているなど。
「もう一戦付き合え」
「は?」
「侵入できるようになったとこ研究しきれてねぇんだよ。手伝え」
は、とまた疑問符にまみれた声が漏れる。相手はこちらの様子など歯牙にもかけず、スタスタと歩き出していた。まるで付いてくるのが当然であるかのような姿だ。色とりどりの毛糸で飾られた背中はどんどんと遠ざかり、マッチング手続きをするために動いていく。
覚えられていた。
彼が弱者に意識を向けていた驚愕、理由が全く分からぬ故の猜疑――そして、己は彼が記憶するに値した存在であるという事実への歓喜。マイナスもプラスも心の中をぐるぐると巡って、鼓動を早くしていく。マイナスもプラスも殴りかかるように突っ込んできて、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
これではまるで彼が己のことを認めているようではないか。そんなはずはない。彼は『負けた弱いヤツ』に興味があるはずなど無いのだ。脅威になり得ない己を意識するはずがないのだ。けれど、現実が、『彼は己の癖を把握している』という事実が全ての前提を破壊していく。ろくに思考できない脳味噌を更に使い物にならないものにしていく。
拳を握りしめ、エイトは歩き出す。手続きをするワイヤーグラスを追って歩き出す。うるさい鼓動を、無様に浮き足立ちそうな心を、醜く慌てふためく脳味噌を押さえつけるように、悠々とした足取りで歩みを進めた。
共に戦うなどまたとない機会だ。すぐ隣で戦えば、彼の癖が更に分かるはずだ。味方に出す指示やカバー時の立ち回りを盗めるかもしれない。対面するよりも貴重な、今後あるか分からないほどのチャンスだ。それをみすみす逃すわけにはいかない。どうでもいいことを考えて立ち尽くすわけにはいかないのだ。
混迷し高揚しごちゃつく思考を切り替え、少年は歩みを進める。ようやく追いついたカラフルな身体の横に立ち、端末を操作する。チームで潜る時と同じように手続きを終えた。
盗むのだ。暴くのだ。全てを研究し、解き、ワイヤーグラスに勝つのだ。誰よりも強者としてあるのだ。あらねばならないのだ。
たった一つの目標を、打ち倒すべく強者を横目でみやり、エイトは.96ガロンを握り締めた。畳む
カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】
カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】
いい双子の日ということで双子の話。意識したことないけどあれってサイズ関係あるのだろうか。
飯作ってくる嬬武器兄弟の話。
白の中から黄色がこぼれ落ちる。常は一つだけのその色は、今日は二つボウルに受け止められた。
「おっ」
予期せぬ幸運に雷刀は思わず声を漏らす。なにせ前がいつだったかすら分からないほど久しぶりの出会いである。しかも今回はよりどりサイズの詰め合わせ、その中でも小さめのものを割った結果なのだから尚更だ。写真でも撮ろうかと尻ポケットに手を伸ばすが、すぐさまやめる。うっかりボウルの中に落としてしまうなんてことがあれば大惨事だ。
食卓で話そう。考えつつ、少年は流れるような手付きで小さい卵をもう二つ割る。四つの黄身と盛り上がる卵白に箸を立て、リズミカルに掻き混ぜた。溶き終わったところにカニ風味かまぼこと塩を投入し、油をたっぷり入れたフライパンで手早く焼き上げる。二つ作って皿に移し、並行して作っていた甘酢あんを掛け、仕上げに冷凍の小ネギを散らす。つやめく琥珀をまとった色鮮やかな黄色に緑が咲いた。見た目も味も完璧な――カニは偽物だが――カニ玉の完成だ。小さく鼻を鳴らし、食卓に運ぶ。先に作っておいた中華スープを温め直し、碗に移してこちらにもネギを散らす。事前に作って冷蔵庫に寝かせておいたほうれん草のナムルを小鉢に持ち付ける。今日は中華尽くしだ。主食は白米だけれど。
「運びますね」
「おっ、さんきゅ」
もう夕飯の時間を過ぎたのだろう、いつの間にか烈風刀がやってきていた。自然な足取りで食器と小鉢を運び、すぐさま戻って白米をよそい、また食卓へと戻っていく。雷刀も汁物を持ち、食卓についた。
いただきます、と声が二つ重なる。弟が用意してくれたスプーンを引っ掴み、兄はカニ玉を切り分ける。あんがこぼれるより先に口に運ぶと、甘酸っぱさと塩気、ほんのりと磯の香りが口いっぱいに広がった。行儀が悪いのを承知で米に載せ、また一口。即席の天津飯は、白米の甘さとカニ玉の濃い味が合わさって得も言われぬハーモニーを生み出した。
「そういやさ、今日の卵双子だったんだよ」
ナムルをつつきつつ、雷刀は先ほどの幸運を口にする。双子、と端を握ったところの烈風刀は復唱した。こうやって話してみると、やはり写真を撮っておいた方がよかったかと少しの後悔が足元にまとわりつく。けれども、食事中に携帯端末をいじるのはさすがに憚られる。すぐ見せられないなら別にいいか、とごま油をまとったほうれん草を一口食べた。
「珍しいですね」
「だろ? 目玉焼きにすりゃよかったかなー」
双子の卵というのはやはり視覚的にインパクトがある。それを活かさなかったのはもったいなかったか。卵にはまだ余裕があったのだからそれも一つの手だったのではないかと今更ながら考えた。
「夜に目玉焼きは物足りないですよ」
「明日の朝に回すとか?」
「冷蔵庫に入れるところないでしょう」
全て事実である。そこまでこだわることでもないか、と先ほどまでの思考を取っ払いながら朱はスプーンから箸へと持ち替える。そだな、と軽く応えて白米をかっこんだ。弟もあんをこぼさぬようカニ玉を口にする。
次はいつ出会えるだろうか。今度は目玉焼きにできるよう朝出てほしいのだけれど。そんなことを考えるが、そう簡単に再会できないことなど分かっている。けれども、一度得た物は期待をしてしまうのだ。
すっぱさちょうどいいですね。だろ。他愛も無い言葉を交わしながら食事は進む。琥珀で満たされた白い皿の上はどんどんと元の色を取り戻していった。
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おとなにはまだ早い【ヒロニカ】
おとなにはまだ早い【ヒロニカ】
「インク切れの会社員」ヒロ君と「バンカラな若者」ニカちゃん(公式PVとかの二つ名)だったらどんなんかなーこんなんになるかなーと考えた結果がこちらになります。付き合ってる時空。
子どもに手は出さない大人がとても好き。大人になったらどうなるかは知らないよ。
大人だと主張するニカちゃんと大人であろうとするヒロ君の話。
流れる水の音が消え、カチンと電灯が落とされる音が背後から聞こえた。次いで足音。スリッパが打ち鳴らすそれはすぐそばで絶え、代わりに座るソファの座面が沈む気の抜けた音がした。
「お疲れ様です」
「ん。なんか面白いのやってる?」
「特段」
そ、と隣に座ったばかりの恋人は短く返す。大きな手が遠慮無しにリモコンを引っ掴んで、慣れた手付きで操作していく。電子のカーソル音と共に、さして大きくないテレビの中を様々なサムネイル画像が流れていく。濁流のような視覚情報はやがて止まり、空気が抜けるような音がスピーカーから流れた。小さな画像が画面いっぱいに広がり、すぐさま暗転する。
「こないだ配信始まってさ」
見よ、という提案より先に映像は再生されていく。配給会社の大きなロゴが画面を占有すると同時に、肩に重みと温もり。寄りかかってきた小さな頭を撫でてやると、上機嫌な高い笑声が耳のすぐ横で聞こえた。
週末、こうして二人で過ごすのはもう日常となりつつある。社会人である己――ヒロと高校生であるベロニカが時間を気にせずゆっくり過ごせるのは土曜日ぐらいだ。今日は部屋で持ち寄った漫画を読んで、流れるように夕食を共にした。門限に間に合う電車まで時間があるこの夜は、映画を見て過ごすと決めたらしい。映画一本見るにはいくらか短い時間だが、これはこれで『続きを一緒に見る』という楽しみが生まれる。悪くはない選択だった。
白色ライトが照らす中、二人黙して物語を味わっていく。王道ストーリーは承が終わるころのようで、画面の中では主人公が浜辺に突っ伏して泥だらけになっている姿が映し出されていた。王道が故に先の展開が読めてしまうため、集中力は少し途切れつつある。先に飲み物でも用意した方がよかったな、と些末な考えが主人公の慟哭が響き渡る中よぎった。
すり、と手の甲に感触。角張った白い指が、浅黒い肌の上を滑っていく。じゃれつくような動きだが、ゆったりとしたそれにはどこか艶めかしさがあった。焦らすように広い部分をじわじわとなぞって、吸い込まれるように指と指の間に潜っていく。脱力した己の指はすぐに開いて、小さな侵入者を受け入れた。
すり、と肩に感触。頭を擦り付ける動きは子が甘えるようなものだが、今この時ばかりは奥底にこごった欲望が透けて見える。ふ、と息を吐き出す音にすら熱を持っているように聞こえた。
足を軽く動かし、ヒロは拳半分だけ恋人から距離を取る。抗議するように、捕らえられたままの手を強く握られた。わざとらしく物音を立て、ベロニカは拳一個分距離を詰める。離れた分だけずり落ちた頭がまた寄せられ、不満げにぐりぐりと擦り付けられた。愛らしい姿に、青年は思わず息を呑む。崩れそうになる理性をどうにか立て直し、今度は拳一個分離れる。焦れたのか、恋人は握った手を思いきり引っ張った。バトルに身を投じ鍛えられていれど、相手はまだまだ子どもである。座面に沈めた手はびくともしなかった――しないように思い切り力を込めていたのだから当然である。
「逃げんなよ」
「逃げてません」
苛立ちを隠しもしない声が耳に直接注がれる。受け流すように努めて静かに返すと、また抉るように頭を押しつけられた。逃げてんだろうが、とむくれた声が壮大な劇伴にまぎれて消えた。
「ベロニカ」
腹を括るように小さく息を吐き、ヒロは画面から恋人へと視線を移す。身体ごと相手へと向こうとして軽くひねると、支えを失いバランスを崩した恋人がそのまま胸に飛び込んできた。わっ、と小さな悲鳴が二つ重なる。大人びたことをする彼女を諭すはずが、余計に事態を悪化させてしまった。スピーカーから流れる波音が何とも言えない沈黙を埋める。それでも二人を包む空気は形容しがたい温度をしていた。
「ヒロ」
甘えきった声が、とろけつつある声が、胸の中からあがる。悔しいが、こちらの心拍数も上がるばかりだ。どれだけ理性的であろうとしても、己も健康な男である。恋人を胸に収め、艶やかな声で名を呼ばれては気分が逸るのは自然の摂理だ。けれども、毅然とした態度を示さねばならない。己は『大人』なのだから。
「駄目です」
「何でだよ」
「言ったでしょう。社会人になるまでそういうのはおあずけです」
恋人であるベロニカは高校生だ。少なくとも、学生である間――まだ『子ども』である間は手を出すつもりはない。付き合い始めた頃からそう言い聞かせ同意しているというのに、最近の彼女はそれを破ろうとしてくるのだ。全ては誕生日を迎え成人したからである。高校生でありながら成人――所謂『大人』になった少女は、『大人』扱いを望むのだ。
ヒロからすれば、たとえ法律上で『大人』同然となろうが彼女はまだまだ子どもだ。高校生は成人しようともまだ保護されるべき『青少年』なのだ。当初の約束の通り、『そういうこと』をするつもりは欠片も無い――無くさねばならない。『大人』が不用意に『子ども』を傷付けてはならないのだ。
「もう大人なんだぞ? いいじゃん」
「高校生の間はまだ『青少年』ですよ。それに、約束したでしょう」
「……まぁ、そうだけどさー」
いいじゃんかよー、と恋人はむずがるように頭を擦り付ける。見える横顔は頬は少し膨らみ唇を尖らせており、まだまだ幼さを窺わせるものだ。やはり、こんな年若い『子ども』に手を出すのはいけないことだ。理性は正論を喚き立てる。同調した心は、姿を現しかけた本能を無理矢理押し込めて見えなくした。
「貴女はまだまだ若いんです。まだ学生で、見える世界が狭い間にそういうことをするのはもったいないんです。もっと世界が広くなって、見えるものが多くなってからでも遅くありません」
「遅ぇって」
「遅くない」
互いに引かず問答を繰り広げる。法律に個の責任を認められたベロニカはそれを盾に訴えてくる。『子ども』扱いをやめられない――やめてはならないヒロは約束を理由に突っぱねる。頑固者同士譲る姿勢は見せなかった。遅い、遅くない、と硬い声が二つ何度も重なってはソファへと落ちていく。
「…………好きな人とそういうことしたいのは、おかしいのかよ」
はたと口を噤んだ少女は、依然尖った唇でぽつりと呟く。ぐ、と青年の喉からおかしな音が漏れた。
一瞬呼吸が止まってしまったのは仕方が無いことだ。これだけ可愛らしい姿や心を見せられては、心拍数は上がるばかりだし、胸は締め付けられるばかりだし、腹の奥には何かが溜まるばかりだ。押し込められて窮屈そうにしていた本能が、理性が載せた蓋を押しのけてようとする。今一度封印するため、青年は強く目を瞑る。ここで折れるわけにはいかないのだ。
「お、かしくんは、ないですけど」
大人然とした正しい姿をとるはずが、発した声は途切れ途切れの情けないものとなってしまった。あぁ、と胸中で思わず頭を抱えて蹲る。『大人』でありたいというのに、『恋人』としての己は我慢を貫き通せないのだから情けなくて仕方が無い。彼女の前では模範的な『大人』でありたいというのに、まだ四半世紀しか人生経験を積んでいない己はそれを演じきれないのだ。無様としか言い様がない。
「あと四年、頑張れませんか」
結ばれていない手をそっと細い背に回し、あやすようにゆっくりと撫でる。触れた細い身体がひくりと震え強張るが、小さな吐息とともにすぐに解けた。身体に掛かる重みが更に増える。理性を揺らす幸福であった。
「四年も待ってくれんの」
「待つに決まってるでしょう」
大切な貴女を待てないはずがないでしょう。
歌うように言葉を紡ぎ、ヒロは愛しいヒトの背をトントンと叩く。んぅ、と鼻に抜けるような息の音。熱っぽいそれはすぐに消え、んー、とむずがるような声があがった。
「ぜってーだかんな」
「絶対ですよ」
指切りでもしますか、なんて軽口を叩いてみる。子ども扱いすんな、とむくれ声があがった。繋がったままの手に少しだけ力が込められるのが伝わってくる。ぎゅっぎゅと握り締めるゆるやかな店舗は、指切りする時のそれとよく似ていた。
己は『大人』だ。ベロニカにとっては『大人』であらねばならない。けれども、恥ずかしいことに心はまだ成熟しきっていないのだ。少なくとも、こんなに愛しているヒトを手放す選択肢など無いぐらいには『子ども』だ。大切なものは何年でも守り通してやる――他の誰にだって渡さない、己だけのものだと思うほど『子ども』だ。そして、そんな姿を彼女に見せるわけにはいかない。少なくともあと四年は『大人』を演じねばならないのだ。
演じきれるだろうか、なんて心の片隅の何かが弱音を吐く。演じねばならないのだ、と頭の中で何かが叫んだ。
慈しむように、縋るように、青年は少女の背を撫でる。ほったらかしにされた画面の中では、子どもたちが愛を叫んでいた。
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クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】
クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】
ヒロ君は勉強熱心なので(幻覚)色んな本買ってたらいいな……買いすぎて本棚に入らなくて床に積んでたらいいな……という幻覚。整理整頓得意そうな子がのっぴきならない理由で部屋を汚してるのは可愛いね。ついでにニカちゃんは整理整頓ができないけどどこに何があるかは分かるから不便してないタイプだといい。
部屋にヒトを入れたくないヒロ君と興味津々で部屋に行きたがるベロニカちゃんの話。
回されたシリンダー錠が硬い鳴き声をあげる。握られたドアノブも続くようにガチャリと鳴いた。
「……どうぞ」
「おじゃましまーす」
金属たちと同じほど硬い声でヒロは言う。電車の中からずっと渋面を貼り付けていた彼のことなど気にせず、ベロニカは呑気な声とともにドアをくぐった。
玄関の狭い三和土にはクツギアがいくらか並んでいる。つま先から踵まできっちりと揃えられて整列している様は、海藻が丁寧に植えられた水槽を思い起こさせる。シューズラックの上には底の浅いトレーがある。鍵やメモ帳、薬用リップが転がっていた。
ガチャンと扉が閉まる音。パチンと軽い音とともに、天井から光が降り注いだ。あの、と控えめな、依然強張った声が続く。振り返ると、そこには相変わらず苦々しげに眉を寄せ複雑そうに唇をうごめかせる友人の姿があった。
「すぐ取ってくるのでここで待っていてくれませんか? 十秒で終わりますから」
「あんたのと間違えるかもしれねーだろ。あたしも探す」
適当な言葉を並べ立て、ベロニカは靴を脱いで廊下へと上がる。ひゅ、と息を呑む音が聞こえたが、気のせいだということにする。
上げた目線の先、続く短い廊下と部屋の境界には丈の短いカーテンが掛けられている。電気が点けられていないこともあり、薄布の向こう側は見えない。秘められた奥地を暴くべく、少女は歩みを進めた。
ヒロはヒトを部屋に迎えたくないようだ。本人曰く、『汚い』『狭い』『足の踏み場が無い』『人を迎えられるような場所じゃない』らしい。嘘だとすぐに分かるような言葉ばかりである。あの狭苦しいロッカーを美しく機能的に整理するような彼が部屋を散らかすはずがない。いつの日だったか、存在する物全てが転がり散らばる大層汚い己の部屋をその日の予定も何もかも放り出して片付けたような彼なのだ。他人の部屋を片付けられるヒトが、自分の部屋を汚すわけが無い。
なにか別の理由があるのだろう。嘘を吐くほど入れたくないのだ。踏み入らない方がいいに決まっている。けれど、好奇心というものはなかなかコントロールできないもので。『クリーニングの際にギアを取り違えた』『すぐ返すはずのそれを忘れてきた』なんて、訪れるにはうってつけの理由があればついつそれを盾にしてしまうわけで。結果、折れた彼は部屋を訪れることを許してくれた――終始苦しげな顔をしていたけれど。
十歩も無いような廊下をずんずんと歩んでいく。部屋のすぐ手前にあるキッチンは油汚れが見当たらないぐらい綺麗に手入れされている。鍋やフライパンも狭いスペースの中工夫してしまわれていた。こんなところまで綺麗に整えるようなヒトの部屋が汚いわけがないではないか。一体何が待ち受けているのだろう。好奇心は注がれ続ける刺激を養分に膨らむばかりだ。健気に訴える罪悪感や良心を弾き飛ばすほどに。
おじゃましまーす、と再び唱え、ベロニカはカーテンに手をかける。軽いそれは、ちょっと力を入れただけで動いて端へと寄った。ベールの向こう側が、玄関から差す光にうすらと照らされ眼前に広がる。
まず飛び込んできたのは本だ。大小厚薄入り乱れた本がいくつも積み重なり、床の上に背の低いタワーを築いている。何本も立ち並ぶ姿はさながら住宅街だ。目を凝らすと、カーテンが閉められた窓の横には本棚がある。己の身の丈ほどあるその腹の中は満杯で、雑誌一冊入れる隙間すら無い。どうやら、床の住人たちは居住地が見つからないためにそこにいるようだ。
部屋の中央、あまり大きくないローテーブルの上にも小さな塔がある。傍らには大判の雑誌が悠々と身体を伸ばしている。端っこにはマグカップが申し訳無さそうに佇んでいた。傍らにあるゴミ箱らしき筒から、ビニール袋の取っ手が伸びている。処理したばかりなのだろう、中身は見えなかった。
パチンとまた軽い音。瞬間、また光が降り注ぐ。薄闇に包まれていた部屋の全貌が白色灯の下にさらけだされた。
本棚の上には、更に本が積み重なっている。部屋の中で安住の地を待つ住人は、棚一つでは足りないほどいるように見えた。隣、窓際にある大きなかごからはTシャツが一枚這い出ている。おそらく洗濯物だろう。すぐさま視線を九十度移動させると、カラフルな背表紙と目が合う。やはり中身は満員だ。壁際に寄せられたベッドは整えられており、本当にここで寝起きしているのかと疑うほど綺麗だ。壁には帽子型のアタマギアがいくつか並んでいる。等間隔に並ぶ様はインテリアと言われても信じるほどである。また視線を動かすと、今度はカレンダーと視線がかち合う。二ヶ月分の日付が記されたそこには、大きな丸印や少し角張った字が記されていた。今日の日付の部分には、赤丸と『ギア』という文字がある。
「すみません……汚くて……」
背中に消え入りそうな声がぶつかる。細いそれは呼吸ができていないのかと疑うほど苦しげだ。うぅ、と漏らす嗚咽は羞恥が色濃く滲んでいた。
「いや、あたしの部屋より綺麗だろ。何言ってんだ?」
思わず振り返り、少女は真ん丸になった目で少年を見る。口を引き結んだ友人は、いえ、ほんと、あの、と否定の声を漏らすばかりだ。
掃除してくれた身だ、ヒロは己の部屋の惨状を知っている。なのに、ちゃんと足の踏み場があって、洗濯物が片付けられていて、布団も整えられている部屋を『汚い』と評すのは意味が分からない。この程度で『汚い』ならば、己の部屋は『ゴミ捨て場』とでも表現するのが正しい。
「床見えてんだから綺麗だろ」
「『綺麗』のハードル低すぎませんか?」
証明するようにズカズカと部屋を進む。きちんと動線を確保してあるのか、問題なく中央の机まで進むことができた。広げられた雑誌が目に入る。大きなロゴの下に、.96ガロンを持ったプロ選手の写真が何枚も並んでいる。整列した細かい文字は二色に分かれている。おそらくインタビュー記事だろう。
「もう本棚を置く場所が無くて……床に置くしかないんですよね……」
はぁ、と喉に栓でもされていたのかと思うほど重い溜息。あぁ、と落ちた声はやはり恥ずかしげなものだ。彼にとってこの部屋はヒトに見せられないほど『汚い』らしい。あたしの部屋見た時よく倒れなかったな、と今更な感心が浮かんできた。同時に、好奇心に弾き飛ばされていた罪悪感が這い戻ってきて主張を始める。ここまで嫌がるのに無遠慮に足を踏み入れてしまった。彼のミスを盾に無理をさせた。湧き出る後悔の念が大声でがなりたてて頭を揺らす。何度も殴っては刺してくるそれらに、ベロニカは小さく喉を上下させた。
「あっ! ギアはきちんと保管しているので! 綺麗ですから! 洗ってありますから!」
大声をあげて、バタバタと足音をたててヒロは部屋を突き進む。クローゼットを開け、すぐさま何かを引っ掴んで戻ってくる。これです、と押し付けるように渡され、少女は気圧された短い声を漏らした。厚いビニールのショッパーに手を入れ、中身を引き出して確認する。まさに取り違えていたギアだ。ギアスロットが記されたタグを確認すると、昨日クリーニングに出した時のまま、まっさらになっている。確かに己のものであった。
「これだわ。あんがと」
「すみません、こんなことになってしまって……」
「『行きたい』って押しかけたのはあたしだろ? 何で謝んだよ」
まぁ、それは、はい。オクトリングは歯切れの悪い言葉を漏らす。いつだって人の目をまっすぐに見る赤い目は床ばかりを見ていて、豊かに動かす口元はもにゃもにゃと曖昧に動いている。整えられた眉の端っこは下がりきっている。よほど落ち込んでいるらしい。また罪悪感が鋭く胸を刺した。
「……ごめん」
「いえ、最終的に迎えたのは僕です。ベロニカさんが謝ることはありません」
今更になって謝罪を漏らす。すぐさま否定する彼も、またしょもしょもと萎んでいってしまった。明るく照らされた部屋だというのに、なんだか冬の暗がりに飛び込んでしまったかのような心地がした。誤魔化すように頭を掻く。耐えきれず視線をうろつかせると、足元のテーブルが黄色い瞳に映った。紙面の上、.96ガロンを構えた選手とバッチリ目が合う。それすら気まずくて、また視線を彷徨わせる。飛び込んできたのは、雑誌の下から顔を覗かせる『ストリンガー』の文字だった。堅苦しいフォントで書かれたそれの下には、モノクロで描かれたトライストリンガーのイラストがある。折れ目が付いた緑色の帯には、『構造』『基礎』『重版』と色んな言葉が並んでいた。
「トラスト、興味あんの?」
訊ねる声は弾んでしまった。反省の色も何も無いそれに返ってきたのは、え、というきょとりとした声。すぐさま、ヒュ、と息を呑む音が聞こえた。え、あ、は、と意味を持たない音が彼の口から漏れては床を転がっていく。
「いえ、あ、の……ちょっと気になっただけで……ほんのちょっとだけ……」
本当に、ただ気になって、他意はなく、とヒロは言葉を重ねていく。『しどろもどろ』という言葉を体現したような有様だった。友人の様子に、ベロニカは視界が斜めになるほど首を傾げる。彼は探究心が強い努力家だ。様々なブキに興味を持つことは自然である。事実、対戦相手に匠にブキを扱うプレイヤーがいると一緒にバトルメモリーを見返すことは多いし、試し撃ち場でそのブキをふるっている様子も見る。床に積み上げられた本も、背表紙を見る限り多数のブキ指南書や整備に関する本が多く見受けられる。何故こんなにも慌てるのか、全く理解ができなかった。
「戻りましょうか! スケジュール変わっちゃいますし!」
「そこまで急がなくていいだろ……」
バタバタとらしくもない足音をたてて進む少年の背に、少女は呆れ返った声を漏らす。本当に、ここに来てからずっと様子がおかしい。様子をおかしくしてしまったのは無理矢理押しかけた己なのだけれど。罪悪感がまた心臓を刺した。
「まだ電車まで時間あんだろ。ゆっくり行こうぜ。コケっぞ」
「そう、ですね」
都合の悪い感情を押し込めるように言葉を紡ぐ。返ってくるのはやはりしょぼくれた声だ。また罪悪感が心臓を、脳味噌を刺す。後悔も加わり、針地獄を作り上げる勢いで膨らんでいった。
二人交互に靴を履き、部屋を出る。コンクリートで囲まれた廊下は熱がこもってほのかに暑い。息を吐くと同時に、錠が掛けられる音が響いた。
白い表紙が、緑の帯が、頭に浮かんだまま離れない。視界に映った本は、ほとんどがシューターに関するものだった。その中に一つだけ輝く、己のブキ。机に出して置いたままにするほど読み込んでいる己のブキ。ふわりとうちがわにある柔らかな部分が宙に浮かんでいく。確かな熱が胸に注がれていく。
何事にも挑戦する彼だ。互いに研究する彼だ。いつかトライストリンガーを使う日が来るかもしれない。己と同じブキを使う日が来るかもしれない。考えただけで、動かす足とその音が軽く弾んだものとなった。
まぁ、トラスト二枚はしんどいけど。笑みを含んだ声がこぼれ落ちる。小さなそれは、大きな足音に掻き消されて消えた。畳む
今日も明日も全力で【ヒロニカ】
今日も明日も全力で【ヒロニカ】弊ヒロニカはバトルジャンキーなのでクリスマスよりイベマ優先するだろと思ったので(24/12/26はサメ祭だったため)
あと育ち盛りバトルジャンキーなので弊ヒロニカは食べ盛りの健啖家だと思う。きっとめちゃくちゃ食う。そんな大遅刻クリスマス話。
ピザ屋帰りのヒロ君とベロニカちゃんの話。
コートでは暑いほど暖かな屋内も、着込んでも凍えるほど寒い屋外も、どこもかしこもが油の匂いで満ちていた。
ともすれば胃がもたれるような強烈なものだが、空腹の今は胃をこれでもかと刺激し痛みすら感じさせるほどのふくよかで芳しい香りだった。溶けて流れゆく油の匂い、香ばしく焼かれた肉の匂い、炙られとろけたチーズの匂い、ふわふわのカリカリに仕上がった小麦の匂い。何もかもが少女の鼻腔を満たし、食欲を溢れさせ、胃の腑が仕事するようつつき回した。
ぐうぅ、と腹の虫が抗議の声をあげる。早く食わせろ、早く胃に入れろ、早く腹を満たせ、と叫ぶ。朝食を軽めに済ませたのもあり、腹は底が抜けて無くなってしまったかのように空っぽだ。盛大な音を響かせるのも仕方が無いことだろう。あまりにも凄まじい芳香に唾液が湧いてくるのも。
ベロニカは手にしたビニール袋の中身を見やる。大きなピザが入った平たく丸い紙のパッケージはまだ温かで、うっすらと湯気を上げていた。箱とビニールが遮っているものの、やはりあの食欲そそる香りは鼻に届くほど強く匂っている。今すぐ蓋を開けて一切れだけでも食べてしまいたい。否、これは割り勘で買ったものなのだ。たとえ一切れでも、一人で勝手に食べるなど言語道断である。そもそも、ここはベンチも何もないただの歩道だ。おもむろにピザを取り出して食べ歩くなんて非常識なことはさすがにできない。いくら腹が潰れて無くなってしまうほど空腹でも、それぐらいの常識と理性は持っていた。
「すごい匂いですね」
弾んだ声が隣から聞こえる。心を見透かしたような言葉に、少女はビクン、と肩を跳ねさせた。そろりと見やると、そこにはビニール袋を軽く掲げたヒロの姿があった。彼の手にあるそれには紙袋と紙箱、おまけにカラフルなチラシが入っている。そちらもそちらで油と肉の素敵な匂いを漂わせていた。ぐぅ、とまた腹が鳴る。今度は痛みを伴ったものだった。
「お腹が空く匂いですよね、これ」
「マジでなー……」
ガサリ、と袋が下げられる音。ぐぅ、と輪唱のような腹の声。はは、とヒロは小さく笑声をあげた。腹が減っているのはお互い様らしい。食べたい、食べたい、食べたい。早くカリカリになった生地にかぶりつきたい。塩と油たっぷりのチーズで口を満たしたい。油したたる肉に食らいつきたい。サクサクのビスケットを頬張りたい。三大欲求の一つががなりたてる。ぐう、とまた腹の虫が大きな鳴き声をあげた。
「走ってこーぜ」
「ピザ崩れませんか?」
「だいじょぶじゃね? こう、横のまま抱えりゃ」
首を傾げるヒロに、ベロニカは手に提げたピザを抱え直して見せる。腕を地面と平行にし、そこに箱を載せ、手で縁をしっかりと掴む形だ。まるで料理を運ぶ店員である。
「もうちょっとだけ待ってくれませんか? コンビニに寄るので」
「ジュースとか昨日買っただろ?」
どこか苦く笑う少年に、今度は少女が首を傾げる番だった。
今日は十二月二十五日。俗に言うクリスマスである。本当ならば二人でゆっくり過ごす予定だったのだが、明日イベントマッチを行うという知らせが入ったのだ。ならば早めに集まって早めに解散しよう、と決めたのはすぐだった。なにせイベントマッチは不定期開催な上に毎回内容が変わるのである。同じ内容のイベントが次いつ開催されるかなど誰も分からない。二人で過ごすことはいつでもできるが、イベントマッチは明日しかできない。バトルをこよなく愛する二人がどちらを優先するかなど火を見るより明らかだ。
そうして昨日ジュースと菓子を買い込み、今日は朝から予約したピザとチキンとビスケットを受け取りに行き、二人きりのパーティー会場であるヒロの部屋に帰る今に至る。
「たぶんこれだけじゃ足りないと思いまして、ポテトとチキンを予約したんですよね」
「ナイス!」
はにかむヒロに、ベロニカは親指を立てて褒め称える。今しがた取りに行ったピザたちもそこそこの量はあるものの、育ち盛り食べ盛りの己たちの腹を存分に満たすことができるかは若干怪しい部分がある。かといって、これ以上の品を頼めば予算を大幅にオーバーする。なので安い菓子類を買い込んだのだが、ここでまさかの主菜追加登場である。大手コンビニならば味も安定しているだろう。ピザ屋のものとの違いを楽しむことまでできる。最高の提案だった。
「帰ったら半分払うな」
「いいですよ。僕が食べたくて予約したので」
「あたしも食べるんだから出させろ。それともヒロ一人で全部食べんのか? あたしの真ん前で?」
軽く手を振ってあしらおうとするオクトリングに、インクリングはじとりと眇めて睨みつける。優しい彼ならば絶対にあり得ない、意地の悪い問いだ。う、と詰まった音が横一文字になった口から漏れ出るのが聞こえた。赤い瞳が宙を彷徨う。しばしして、少年は眉根を軽く寄せながら目を伏せた。
「……分かりました。でもそこそこしますよ?」
「いいよ。美味いもんなんだからある程度金かかんのはしょうがねーだろ。……てかそこそこするもん一人だけで買おうとしてたのか、あんた」
今回の食事代は割り勘だと決めていた。バトルで稼いではいるものの、これだけの量となると一人で賄うのは無理がある。そもそも、二人きりで半分こして食べるのだ。二人で半分ずつ負担するのは当然の結論である。だというのに、隣を歩くこいつは一人で負担を増やそうとしたらしい。心優しい彼らしくはあるが、さすがに看過できないものだった。互いに奢られてばかりでは気が済まないのを分かっている上での行動なのだから尚更である。
う、とまた詰まった声。今度は呻き声に近いものだった。あー、えー、と意味をなさない声が白い息上がる口から漏れていく。観念したのか、すみません、と謝罪の言葉が紡がれた。
「ちょっとぐらいいい格好させてくれてもいいじゃないですか」
「こんなことで見栄張んな。いいカッコすんならバトルの時にしろ」
唇を尖らせる少年を、少女はバッサリと切り捨てる。また濁った音が隣から聞こえた。どうにも己の言葉が刺さったらしい。金銭面で頼りになるようなことをするよりも、バトルで背を任せたり戦況を切り開いてくれる方がずっと格好がいいことぐらい彼も分かっているのだから。
「早く取りに行こーぜ。ピザ冷めちまう」
「そうですね」
早足で歩き出すベロニカに、ヒロも同じほどの速さで続く。ヒトの少ない歩道を、柔らかな白い息と軽快な足音、油気たっぷりの香りが撫でていった。
畳む
#Hirooooo #VeronIKA #ヒロニカ