No.211, No.210, No.209, No.208, No.207, No.206, No.205[7件]
雨と横顔【ライレフ】
雨と横顔【ライレフ】
横顔に見とれるシチュが好きなんすよというヘキ。顔面と思考が一致してないのが好きなんすよというヘキ。
雨の日の右左の話。
窓が揺れる。強風を受けガタガタと震えつつもしかと立つ様は頼もしいものである。それでも、凄まじい音をたてる暴風を前にしては割れてしまうのではないか、倒れてしまうのではないか、とほんの少しの不安が残る。杞憂だと分かっていても、このゴウゴウとかビュウビュウとか激しく低い自然の呻り声を聞くと心の隅っこには暗いものが残るのだ。
健気に雨風を防ぐ窓ガラスの向こうを眺め、雷刀は小さく息を吐く。薄い板一つ隔てた外は、台風一歩手前の暴風雨が我が物顔で駆け回っていた。空は墨めいた黒で埋め尽くされ、太陽など陰すら無い。視界いっぱい、世界いっぱいに広がる様を見るに、今日一日中はこの調子だろう。
ただでさえ横殴りの酷い雨だというのに、子ども程度なら吹き飛ばしそうな勢いの風まであっては、せっかく咲いた桜は全て散ってしまうだろう。花見は先週して正解だったようだ。だけども、やはりあれだけの美しいものが蹴散らされてしまうのはわずかに心が痛む。綺麗なものは傷つけられぬままでいてほしいのだ。やだなぁ、と思わず沈んだ声が漏れた。
暗い世界から、淀む思考から視線を外し、弟を横目で見やる。同じように窓の向こうを眺める瓜二つの横顔は、普段と少し違った表情をしていた。
穏やかな曲線を描く整えられた眉は、今は少し鋭い角度になっている。寄せられたその間には、薄く皺が刻まれていた。いつだって目の前をはっきり見通す碧の目は、今は眠気に抗うように細められている。そこに宿る色は陰っていて、けれども普段よりもはっきりとしているように見えた。すっと通った鼻、その下に佇む口は直線を描くように結ばれている。まるで何かを堪えているかのようだ。普段はまろく柔らかな頬は、今はどこか強張っているように見える。固く閉じた口元がその印象を強めていた。
キレーだ。兄はぼんやりと考える。子どもたちやレイシスに接する時の柔らかな表情も綺麗で可愛らしいが、今のような険しさがよく見える表情も端正で美しい。惚れたフィルターもかかっているだろうが、やはりどんな表情でも恋人は素敵なのだ――たとえ何を考えていようとも。
「コインランドリー行けばいいじゃん」
「この暴風雨で外に出れるわけがないでしょう」
呆れた調子の朱の言葉に、碧は溜め息まじりに返す。腕の中に抱えられた洗濯物かごが彼の身体に食い込むのが見えた。山盛りの衣服がバランスを崩しかけるも、鍛えられた手によってすぐさま押し止められ中に押し込まれた。
「明日にすればいいだろー」
「バスタオルは早めに洗ってしまいたいんですよ」
じゃあバスタオルだけ洗えばいいのに、と出かけた言葉を飲み込む。ベランダが隔絶された今、バスタオルのような乾きにくいものを部屋干しにすれば臭いが付いてしまうのは交代制で家事を担当する己もよく分かっていた。除湿機とサーキュレーターがどれだけフル稼働しようも、最近の洗剤がどれだけ臭わないことを謳っていても、うっすらと湿った臭いが残ってしまうのだから面倒なものである。毎度ながら乾燥機、もしくはドラム式洗濯機が欲しくなる。置く場所も無ければ手が届かない値段の代物なのだから、永劫に叶うことはないが。
はぁ、と烈風刀はまた一つ溜め息をこぼす。どれだけ溜息を吐こうが天気は回復しないと分かっているだろうが、そうでもしなければやってられないことは痛いほど伝わってきた。己が同じ立場だったら同じかそれ以上にごちゃごちゃと言っていただろう。
険しげな、恨めしげな横顔から視線を外し、雷刀は携帯端末を取り出す。光る液晶を指で撫で、ニュースアプリを起動する。天気のタブ一面に表示されているのは傘のマークだけだ。どの時間帯にも鎮座しているそれの上には、八〇だとか九〇だとかの高い数字が書かれている。これでは今日中に洗濯するなど不可能だろう。つまり、洗濯物を余計に増やすような行動はできないのだ。
はぁ、と溜め息が二つ重なる。風を必死に受け止める窓の悲鳴が、小さなそれをかき消した。
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もうちょっと季節ってものを考えなさいよ!【はるグレ】
もうちょっと季節ってものを考えなさいよ!【はるグレ】
最近春なのに暑すぎない????というあれ。京終始果絶対熱中症体験してるだろというIV当時からずっと見てる幻覚。
春の夏日に帰るはるグレの話。
世界に光が降り注ぐ。つい先月ならばもう茜に染まり始めていた空は、まだまだ昼の色を残している。傾きつつあるものの、冬の越えた太陽は元の調子を取り戻し暖かな陽光をあたりに振りまいていた。それはもう、元気が良すぎるぐらいに。
溜め息一つ吐き、グレイスは空を一瞥する。年が明けてから頭上を覆い尽くしていた厚い雲はさっぱりと消え、抜けるような青さを取り戻していた。太陽を遮るものなど一つも無い。おかげで強い日差しが目に刺さって痛いほどだ。焼き付いてちらつく目を瞬かせ、少女はまた息をこぼした。
「あっついわね……」
季節が一つ変わり、暖かな春が訪れた。しかし、最近はあまりにも暖かすぎる、というよりも暑い日々が続いていた。今日なんて、四月だというのに春から一足飛んで夏日である。桜はまだ華やかに咲いているというのにこの気温なのだから、季節感がごちゃまぜだ。四季のあるネメシスに来て日が浅い己にとっては尚更である。
うんざりといった調子で細められた躑躅の目が、音もなく動いて隣を見やる。視線の先に現れたのは、今日も今日とて隣やら後ろやらを付いて回る京終始果だ。黒く長い髪はいつも通り後ろで一つにまとめられ、身体はいつも通り萌葱の忍装束に包まれている。いつも通り、深い緑の長袖に黒い手甲、大ぶりな脚絆、丈の短い外套、とどめに長い襟巻きを巻いた姿だ。
「あんた、暑くないの……?」
懐疑をたっぷり乗せた声と視線で少女は問う。彼の格好は春の陽気にもあまりにも似つかわしくないものだ。寒がりだってもっと程度というものがあるだろう。加えて、今日のような夏めいた様相ならば輪を重ねて異常だ。こんなに着込んでいて、この気温を乗り越えられるものなのだろうか。忍といえど、中身はただの人間――肉体を持った存在である。暑さ寒さを感じるはずだ。けれども、彼は普段と変わらず顔色一つ変えないのだから外からでは何も分からないのだ。実態を知るには本人に訊ねるほか無い。
「特に……」
「ほんと? 喉渇くーとか、ふらふらするーとか、そういうの無い?」
首を傾げる始果に、グレイスもまた首を傾げて問う。繰り返しになるが、この少年は表情を変えるということを知らない。否、多少は変わるも、その度合いは微細である。気付けるのはこちらに来る前から付き合いある四人ぐらいだろう。喜怒哀楽はもちろん、快不快など一目で見抜くなど不可能である。何より、彼は人間らしい所作を知らない。己のように夏日に『暑い』と口に出したり、吹雪くさなかに『寒い』と着込んだりすることなど無かった。だからこそ、疑わしいのだ。こいつは自身の変化に気付いていない可能性の方が高いのだから。
あぁ、と襟巻きから覗く口が小さく音を発する。口元に指を当て、狐の少年はわずかに頷いた。
「少し頭がぐらぐらしますね……」
「そっ……それ、熱中症じゃない!」
事もなげに言う始果に、グレイスは悲鳴めいた声をあげる。こちらの夏はまだちゃんと味わっていないものの、暑い日に引き起こる『熱中症』というものについてはレイシスと烈風刀に聞いていた。ここ数年は春でも暑い日が増えてきているから、と事前に注意と対処法を教えられていたのだ。気温変化に慣れていないんですから気をつけてくだサイネ、と言われたのは記憶に新しい。まさしく『気温変化に慣れていない』彼が、式典以外では服装を変えるということを知らない彼が陥ってしまったのだろう。
「水! 水飲みなさい!」
鞄に慌てて手を突っ込み、躑躅は取り出したペットボトルのキャップを開ける。こぼす危険性など忘れ、手甲に包まれた手に勢いよく押しつけた。不思議そうに見つめた狐は、透明なそれに口を付ける。ちょっとずつよ、と急いで言い足す。蒲公英色の目が瞬き、言葉の通り一口ずつ小さく水を飲み下していった。
こういう時はたしか、水飲ませて、冷やして、冷たいもの食べさせて。冷やすってどの部分だっけ。たしか『首』の付く場所だったはず。凄まじい勢いで頭が回転し、脳内の引き出しを手当たり次第開けて対処法を探していく。とりあえず、冷やさねばならないのは確実だ。先ほどの水は常温である。もっと冷たいものを飲ませねば。何を。目が回りそうな勢いで思考が巡る。縋るようにビビッドピンクの瞳が辺りを見回す。端っこに引っかかったのは、青と白の看板だ。空に向けるよう高くそびえたつそれは、見慣れてきたコンビニエンスストアのロゴであった。
「歩ける? 大丈夫? 水飲んでるわよね?」
「大丈夫です……」
問い詰める少女に、少年は短く返す。常と変わらぬ声だというのに、今はなんだか弱っているように聞こえた。不安による錯覚か、それとも実際に衰弱しているのか。どちらでも変わりは無い。症状が出ている今、とにかく対処せねばならないのだ。
二人――常磐の袖をしかりと掴んだ少女と、言われた通りちびちびと水を飲む少年は看板の下目指して歩く。ついつい早足になってしまいそうなのをどうにかこらえ、グレイスはやけにしっかりした足取りの彼を引っ張っていった。
足取りが速くなるのを抑えられなかったのか、コンビニにはものの数分で辿り着いた。わずかに張り出た庇の陰に始果を押しやる。ここで待ってなさいよ、と指を差して告げ、少女は急いで店内へと駆けていった。開けたアイスケースの中から氷菓と氷を掴んでレジへと足早に向かう。慣れぬ会計をどうにか手早く済ませ、走る一歩手前の早さで外へと出た。
「これ食べて! あとマフラー取りなさい!」
「はい……」
スティックタイプのアイスを押しつけ、言葉より先にマフラーを引っ剥がす。されるがままの少年は、慣れない手つきで袋を開けて水色のそれを口に入れた。引き抜いた長い襟巻きを手早く畳み、ひとまず鞄に突っ込む。あらわになった首元を探り、短い外套もどうにか脱がせた。これで肌が出た。熱が放出できるはずだ。いや、出してよかったのだろうか。直接日光に晒されては熱くなるだけではないか。どうだったか。必死に記憶を引っ張り出した頭の中はぐちゃぐちゃで、何が正しいのか分からなくなる。苦しげに呻き声を上げながら、グレイスは始果の横に並ぶ。少しばかり背伸びをし、買ったばかりの袋入り氷を始果の首筋に当てた。薄い外套が剥ぎ取られた肩が小さく震える。ミモザの目が見開いたままこちらに向けられた。グレイス、とアイスを咥えていた口が疑問形で名前を紡ぐ。
「たしか首冷やさないといけないの。我慢しなさい」
「はい……」
切羽詰まった声に気圧されたのか、忍の少年は小さく首を傾げてながらも言われるがままに首筋をさらけ出したままでいた。シャリシャリとシャーベット状のアイスが囓られる音が二人の間に落ちていく。袋の中のロックアイスの角が取れてきた頃、少年の口から何もまとっていない薄い棒が引き抜かれた。刻印された『はずれ』の文字が青空の下に晒される。
「どう? 良くなった? まだダメ?」
「少し落ち着きました……」
「少しじゃダメなのよ! ほら、これ持って。首に当ててなさい」
ゴミを回収し、グレイスは空いた手を誘導して首筋に当てたままの氷を本人に持たせる。頑丈な防具に包まれた手は導かれるがままに忠実に動き、首の後ろを押さえる彼女の手とバトンタッチした。しばらくぶりに踵を地面につけ、少女は深く息を吐く。未だに状況を理解できていないこいつのことだ、まだまだ休む必要があるだろう。いつでもどこでも突然現れる――つまり、いつだってどこにいるか分からない彼が一人で倒れたら誰も看病できないのだから。
「それ、ちゃんと当てときなさいよ」
強い調子で言い捨て、少女はまた店内へと駆けていく。今度は二つセットのアイスと水のペットボトルを引っ掴み、レジへと駆けた。同じ足取りで外へ出、言われるがままに氷を押し当てた彼の下へと戻る。袋からアイスを取り出し、半分に分けてキャップを開けて空になっている方の手に握らせた。
「もうちょっと食べときなさい。あと水も」
熱中症の対処法はある程度分かっているものの、どれぐらい行えばいいかまでは分からない。けれども、冷やさないより冷やしすぎる方がマシなはずである。アイスを食べて、水を飲ませれば症状は改善するはずだ。考えながら、グレイスは己の分のアイスを開ける。ゴミをひとまとめにしてから、チューブ状のそれに口を付けた。コーヒーの味が、頭が痛くなるほどひやりとした感覚が、舌の上を流れていく。長らく感じていなかった涼に、自然と息が漏れる。ただの溜め息だというのに、先ほどよりも冷たく思えた。
また口を付け、隣を見やる。指示した通り、始果は言葉もなくアイスを食べていた。首に当てられた袋の中身はもうだいぶ溶けてしまったのか、水が張っているように見える。こちらももう一つ買った方がいいだろうか。考えながら、いつしかじぃと見つめながら、グレイスはシャーベット状の中身を吸い上げた。
「酷くなったら言いなさいよ」
「もう大丈夫ですけど……」
「あんたの『大丈夫』は信用なんないの!」
掴み所の無い声を鋭い声が切り捨てる。心配がうっすらと張ったマゼンタが、焦点が分からないイエローをまっすぐに射貫く。はぁ、と何も分かっていない調子の声が返ってきた。
風も無い中、少年と少女は黙ってアイスを口にする。蝉の鳴き声が聞こえてきそうなほど青い空は、依然太陽が燦々と輝いていた。
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爪の先まで全部全部【ライレフ】
爪の先まで全部全部【ライレフ】
Domに尽くすタイプのSubって可愛いじゃないすか(ろくろ回し)
自分で自分をダメにする準備するの可愛いじゃないすか(ろくろ回し)
そんな感じでDom/Subユニバース右左。Dom/Sub要素はだいぶ薄いけど……。
爪切りする右左の話。
パチン。パチン。小気味良い音がいくつも部屋に落ちていく。目の前に並んだ硬い白に刃が宛がい、握ったテコに力を入れる。パチン、と気持ち良いほど軽快な音と共に白が分かたれた。細かに角度を変えながら繰り返し、伸びてしまった目の前の爪を切っていく。爪切りが仕事する音だけが空気を揺らしていた。
リズム良く動いていた手が止まる。眼前に持ち上げられた足をそっと支え直し、烈風刀は爪切りを閉じる。今度は傍らに置かれたヤスリを手に取った。切ったばかりの足の爪に添え、少年は細かい動きで柔らかな線になるよう削っていく。刃がどれだけ細かく丁寧に仕事しようとも、直線的に切る以上鋭利な部分はどうしても生じてしまう。そこが皮膚に引っかかって傷を付けてしまったら大変だ。きちんと丸く、美しくせねばならない。己に課された――己が己であるための使命だった。
かすかな音をたてて爪が削られていく。操る手は薄いガラスを扱うかのような繊細な動きをしていた。ヤスリが皮膚に当たって怪我をさせては本末転倒だ。当然である。丁重に動く手によって、少しばかり見えていた角はどんどんと消え去っていく。柔らかなカーブが足先に戻っていった。表面にも軽く掛けてツヤを出していく。足を人に見せる機会はなかなかないものの、やはり美しいに越したことはない。丁寧に、優しく、細やかに。剣胼胝がまだ残る手が道具を操っていく。
両足全てを処理し終え、碧は目の前、支えていた足をそっと離す。持ち上げられ続けていた足は優しく床に着地した。
「ありがと」
いいこ、と雷刀は目の前に座ったパートナーの頭を撫でる。大きな手が、まだ乾かしたばかりでふわふわとした浅葱の海を滑っていく。たったそれだけで、真剣な眼差しをしていた冷たい海色が一瞬でとろけて甘い色を灯した。ん、と鳴き声のような音が紅色で飾られた喉からあがった。
「まだ手が残っていますよ」
はっと瞠られた目が何度も瞬き、元の澄んだ色に戻っていく。道具一式を手に、烈風刀は床からソファへと移った。へーい、と気の抜けた声と共に目の前に手が差し出される。添えるように握る動きは、恭しさすら感じさせるものだった。
また爪切りで手の爪を切っていく。パチン、パチン、と軽い音が二人の間に積もっていく。できるだけアーチを描くように切り、時折破片を捨て、少年は伸びたそれを処理していった。
「短めにおねがいな」
「はいはい」
兄の言葉を、弟は軽くあしらう。毎回言われる、分かりきったことだ。言われずともこなしていた。深爪にならないよう気をつけながら、烈風刀は慣れた手つきで白い部分を切り取っていく。足に比べて薄いそれはすぐに整えられた。今度は足よりも時間を掛けてヤスリをかけていく。身振り手振りの大きな彼のことだ、少しでも尖っていては自分を、他人を引っ掻いてしまうかもしれない。入念に整えるべきであった。
それに、と碧は手を動かしながら考える。この指は、己のうちがわの柔らかな部分に触れるのだ。引っ掻けるほど長くては、内臓を傷付けてしまう。それは互いに避けたい事態であった。だからこそ毎回『短めに』と言うのだろう。何度も、必ず。
それだけ想ってくれているという現実に、それだけ身体を重ねているという事実に、少年の頬に色が宿っていく。顔が、腹の奥が熱を持ち始めたのが己でも分かった。小さく深呼吸し、少年は手元に意識を集中させる。邪念を振り払うように手を動かした。
全ての処理を終え、ようやくヤスリが手から離れていく。少し角張っていた爪は綺麗に整い、明かりを受けてぴかぴかと輝いてすら見えた。達成感と満足感に、知らず知らずの内に結ばれていた口元が綻ぶ。気付かれないよう軽く顔を伏せ、碧は使い捨てのそれと切った爪をティッシュでまとめる。包んだ手は中身がこぼれ落ちないように受け止めながら、白をゴミ箱に捨てた。これで爪切りは全て終わりだ。
「やっぱ烈風刀がやるとキレーだなー」
電灯に透かすように手を掲げ、雷刀ははしゃいだ様子で爪を見つめる。どうやらきちんと仕事をこなせたようだ。開いて、握って、朱は恋人によって綺麗に整えられた爪を眺める。夜だというのに茜色の瞳は輝いていた。
「烈風刀」
名を呼ぶ声。視線を向けると、そこにはこちらに向かって腕を大きく広げる兄の姿があった。ん、と機嫌の良い声と共に更に腕が広げられる。目元は穏やかに弧を描きながらも、その奥に光を宿している。どこか陰ったような、ギラつくような、鋭さすら見せる光が。
誘われるがままに、射貫かれるがままに、弟はソファに乗り上げる。普段ならば行儀が悪いと言ってやらない行動だ。けれども、今ばかりはこうするのが当然だ。求める人に呼ばれて最適解を選ばない理由など無い。
鍛えられた身体が傾き、広げられた腕の中に飛び込む。すぐさま手が動き、迎え入れたこの身をぎゅうと抱きしめてきた。抱き留めてくれたその身体に碧は腕を回し、少しだけ力を入れて抱き締める。焼けていない肌を飾る首輪が小さく音をたてた。
「いつもありがとな」
いいこ、いいこ。歌うように、唱えるように、まじなうように雷刀は言葉を繰り返す。あやすように背を叩く手が萌葱の頭に添えられ、なぞるように撫でた。頭を撫でられる感覚が、耳に注ぎ込まれる言葉が、身体を包み込む温度が、隅から隅まで染みこんで己というものを溶かしていく。ん、と鼻にかかった情けない声が漏れ出る。常ならば羞恥を覚えるところだが、今ばかりはどろどろにされるような喜びが勝った。与えられる全てが甘くて、心地よくて、きもちいい。シロップにでも漬け込まれたらこんな心地がするのだろうか、なんて馬鹿なことを考えた。
えらい。すごい。そんな言葉が耳から脳味噌を溶かしていく。透き通った藍晶石が炙られたようにとろけ、つややかに輝いた。どういたしまして、と烈風刀はなんとか言葉を返す。その声には普段のような芯など無く、やわくとろけた響きをしていた。当然だ、Domに褒められてまともな頭を保っていられるわけがない。
頭を撫でていた手が自然な動きでうなじへと下っていく。うっすらと水気が残る生え際を撫で、使い込まれてなお輝く首輪を撫で、広い背中を撫でていく。指先が何度も触れるも、爪が当たる痛みなどない。短く切り揃えたそれは誰も傷付けないのだ。だというのに、手が動く度に碧の身体は震える。背筋を電流が駆け上がっていく。だからこそ、雷刀、となんとか咎める音色で名前を呼んだ。
微細な快楽をもたらすそれが行き着く先がどこなのかなど分かっている。どこに触れて、暴いて、ぐちゃぐちゃにするかなど想像に容易い。けれども、それにはまだ早いのだ。まだテレビが愉快なドラマ番組を流すような時間である。深く触れあうにはまだまだ早い夜だ。そもそも、ここはリビングである。寝室以外で『そういうこと』をすると後が面倒くさいことは二人とも経験しつくしているのだ。時間と場所を限るのは、暗黙のルールのはずである。
想像に容易い。だからこそ、身体が、うちがわが熱を持つ。この切り揃えられたばかりの手が何をするのか、何をされるのか。いつだって、爪切りが終われば己の全てをつまびらかにされるのだ。知っているからこそ、この行為が好きでたまらない。尽くす喜びも褒められる喜びももちろんだが、頭からつま先まで愛を注がれ支配される未来を確約されるのがたまらなかった。
へーい、と拗ねた声が耳の真隣で聞こえる。抗議するように、兄は弟の背を何度か叩いた。先ほどまでの艶のある動きは消え、ただただ慈しみとじゃれる幼げだけがある。普段の彼らしい姿であった。
その手が己を全部開いて晒してめちゃくちゃにするのだと考えて、腹の奥底が疼いた。
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過ぎ去る色に思い馳せ【ヒロニカ】
過ぎ去る色に思い馳せ【ヒロニカ】
色気より食い気なニカちゃん存在しろという願望。ニカちゃんにドキッとしちゃうヒロ君存在しろという願望。都合の悪いところは全部都合が良いように捏造してる。
屋上から桜を眺めるヒロニカの話。
高い音とともに風が吹き去っていく。春風にしてはあまりにも勢いの良いものだった。途端、白いものが視界をひらめく。小さなそれは宙を気ままに漂った後、コンクリートに淡い桃色を残した。
一部始終を追っていた赤い目が、風が吹いてきた方へと向けられる。無軌道に動く丸い瞳に映ったのは白く高い建物の群れ、その根元に広がるピンクの海だった。
「桜咲いてますね」
「えっ? マジ?」
ヒロの言葉に、ベロニカは声をあげる。ヒラメが丘団地、そのリスポーン地点にある欄干に足掛け半分身を乗り出し、少女はあたりを見回した。危ないですよ、と慌てて言うも、欠片も聞こえていない様子だ。月のような黄色い目はよく動いて世界を見渡していた。
「おー。マジだ、咲いてんな」
「すごいですね」
乗り出しすぎないよう注意しながら、少年ももたれかかるように欄干に手をかける。丸いミモザとサルビアの中、揺れてさざめく桃が舞う。またぶわりと吹いてきた風が、下から花びらを巻き上げた。おわっ、と跳ねた声と同時に、ブーツがコンクリートを叩く音が昼下がりの空に響いた。
「実家の周りもこんな感じだったなぁ」
「そうなんですか? ちょっと羨ましいですね」
呟くような声に、ヒロはどこか間延びした声を返す。穏やかなそれは、春の陽気によく似ていた。
地元は建物が並ぶばかりで、自然とはあまり縁が無かった。街路樹は植えられていたものの、ほとんどがイチョウだったのだ。色鮮やかな秋は飽きるほど見てきたが、明るくひらめく春を感じたのはバンカラ街に引っ越してからである。味気ない緑に囲まれた己にとっては、幼い頃から春の象徴ともいえる美しい花を見られたという彼女の環境に羨みを覚えてしまう。桜咲く春というのはちょっとした憧れなのだ。
また風が吹く。高い建物にぶつかったそれは壁を駆け上がって、屋上へと猛突進してくる。身を任せた花びらも、同じスピードで空へと駆け上がった。真っ向から顔に風を受け、小さな桃に鼻をくすぐられ、少年は軽く仰け反って欄干から手を離した。これだけ風が強いのだから、これ以上見るのは危ないかもしれない。現に、彼女は一度地に足をつけたのだ。そろそろささやかな花見をやめ、街に戻るべきだろう。
「ベロニカさん、そろそろ――」
戻りましょうか、と問いかける声は不自然に途切れた。言葉を紡ぎ出す口は、開閉する機能を忘れて間抜けに半分開いていた。
隣に並ぶベロニカは、依然眼下の桜を眺めていた。くりくりと丸い、時には鋭く光る目は少し細められている。キリリとした力強い目尻は、今は少しだけ下がっているように見えた。ハキハキと指示を飛ばす口は今は閉じられており、けれども少し綻んでいるようにも映る。どれもが穏やかで、だがどこか寂しげで、散りゆく桜のように儚げで、芽吹く春のように美しい。いつだって鋭く、格好良く、誰もを魅了する彼女からはとても想像できない――否、よほど近くにいないと見られない表情だろう。少なくとも、己には。
喉がきゅうと細くなる感覚。胸がぎゅうと握り締められるような感覚。苦しい心臓が、大きな音をたてて拍動する。身体の真ん中から何かが込み上げてくるも、喉に詰まって何も生まれない。紅玉はただただ、穏やかな光を灯した琥珀を見つめるばかりだ。
「何で普通に生ってるさくらんぼってあんなにまずいんだろうな」
ふっと小さく息を吐き、インクリングはまるで歌うように言葉を吐き出す。嘲笑にも似た響きだが、そこにはどこか純朴な幼さが見える。眩しそうだった目元は、今は伏せられていた。
へ、とオクトリングは気が抜けた声を漏らす。あんなに美しい横顔は、あんなに儚げな表情は、全てさくらんぼへと向けられたものだったようだ。あまりにも不釣り合いで、あまりにも彼女らしい。やっと喉が音を発する機能を思い出したぐらいには衝撃的なのだけれど。
「……食べられるように品種改良されてないからでしょうか」
「あー、たしかにな」
おそるおそるといった調子で返すと、よく通る声が大きな口から発せられる。先ほど見せた何もかもなど消え去った、すっきりさっぱりといった響きをしていた。
「言ってたら食いたくなってきたな。ザトウ行くか」
「え? あ、はい。そうですね」
振り返って笑うベロニカに、ヒロは少し高い声を漏らす。それもすぐに元通りになり、穏やかでなめらかに言葉を紡いだ。
ヤガラ市場もいいかもしれません。あそこフルーツめっちゃあるもんな。そんな言葉を交わし、少年少女は団地を後にする。桜をまとった風はその背中を押していった。畳む
日曜朝はテレビの前で【嬬武器兄弟】
日曜朝はテレビの前で【嬬武器兄弟】
公募アピカネタだけどオニイチャンタテレンジャー見てるんだよなぁと考えた結果がこちら。私が最近特撮見てる影響なのは内緒。
テレビの前に集まる嬬武器兄弟の話。
休日に似つかわない騒がしい足音が遠くで聞こえる。すぐさま乱暴にドアが開け放たれる音がリビングに飛び込んできた。
「寝坊した!」
おそらく寝起きであろう雷刀の叫びが聞こえる。うるさい足音と情けない声がどんどんと近づいてくる。パーカーに包まれた腕が、ローテーブルに置かれたままのリモコンを引ったくった。不必要なほど力強くボタンを押し、テレビの電源を入れるのが横目に見える。暗かった液晶画面に一瞬で光が宿り、静かだったスピーカーから派手な爆発音が鳴り響いた。
忙しない様子に眉をひそめることすらなく、烈風刀はコーヒーを一口飲む。淹れたばかりで熱いぐらいのそれが口内を満たしていく。苦みが舌の上に広がり、香ばしい香りが鼻を抜けた。
相変わらずドタドタと動いていた兄は、ようやくソファに腰を下ろす。勢い余ったそれは、己が座る座面まで跳ね上げた。カップの中の黒い湖面が波立つ。眉間に小さく皺が寄った。
またマグに口を付けながら、弟は密かに隣を見やる。寝起きはいつもぼやけた朱い瞳はぱっちりと開き、いつもの輝かしい光を灯している。視線はまっすぐ真ん前、テレビへ画面と向けられていた。拳を握って眺める様はまさに釘付け、首ったけと言うのが相応しい。
碧い目も液晶画面へと向けられる。二人暮らしには少しばかり不釣り合いな大画面には、今まさに変身ポーズを取るヒーローの姿が映っていた。偉丈夫がまばゆい光に包まれ、真っ赤なスーツ姿へと様変わりする。手を天に突き出しポーズを取った彼は、タテレンジャーレッド、と名乗り上げた。
ツマミ戦隊タテレンジャー。
今まさに放送されているのは、突如この夏から始まった特撮番組だ。きっと同時期に追加された楽曲の影響だろう。この世界はネメシスの影響で何でもかんでも起きる世界なのだ。楽曲の名を冠した特撮番組が始まるぐらい、エイプリルフールに一晩でマンションが生えてきた時よりずっとマシである。
そのヒーロー五人組に、兄である雷刀は虜になっていた。流れるように鮮やかな変身ポーズ、鬼気迫る迫力満点の肉弾戦、生身かCGが区別が付かないほど派手なアクション、そして豪快に怪人と戦う巨大ロボット。所謂『男の子』を魅了する要素ばかりが詰まっているのだ、同年代より幼げたっぷりな兄が虜になってもおかしくはない。
盛大な爆発音が値段以上に高品質なスピーカーから流れる。場面は巨大化した怪人と合体ロボットの対決へと移ったようだ。怪人の、ロボットの一挙手一投足で街が――架空の街を模したミニチュアだろうが――派手に壊されていく。本当にこれが正義のヒーローなのだろうか、と少年は眉をひそめた。隣で見入る子どもめいた高校二年生は、いけー、と拳を突き上げ応援しているが。
またマグの中身を飲む。少しばかりぬるくなったそれは、まだ薫り高い。ちびちびと口を付けながら、烈風刀もまた画面に視線を向ける。必殺技がハーモニーを奏でて叫ばれ、ロボットがエフェクトをまといながら派手なアクションを繰り広げる。怪人の叫び声と爆発音がリビングに響いた。また街が壊れる。
ロボットから降り変身を解いたヒーローたちは、口々に労りの言葉を投げかける。しかし、ブルーとブラックは不自然なほど互いを避けていた。前回の放送で二人の過去の確執が判明したのだ。深い深いその溝は、一話や二話で解決するはずがないだろう。されるとしても次週だ。下手をすれば今クールの最後まで引きずる可能性もある。
「面白かったー!」
エンディング楽曲が流れる中、雷刀が声をあげる。大きく伸びをしているのが視界の端に映った。タテレンジャーの放送はもう終わるが、テレビを消す様子はない。次の三十分も正義のヒーローが戦う特撮番組があるのだから当然だろう。タテレンジャーをきっかけに、兄は特撮番組にすっかりハマっていた。買い物帰り、変身アイテムが売られるおもちゃ売り場に吸い込まれていきそうになる彼を引き留める羽目になっている程度には。
烈風刀はマグを傾ける。ぐっと飲み干し、席を立った。同じく飲み干したのだろう、兄も後ろから付いてくる。湯を沸かしている横で、食パンをトースターに突っ込む彼が見えた。
「食べてから見た方がいいんじゃないんですか」
「今日は寝坊しちまったからしかたねーだろー」
ドリップコーヒーを用意しながら、弟は小さな棘が生えた言葉を投げる。少しむくれた声が返ってきた。オレの分も淹れといて、と都合のいい言葉と共にマグカップが隣に置かれた。自分でやってください、とコーヒーのパックを上に置く。カチン、と湯が沸いたとケトルが知らせてきた。トースターも一緒に高い鳴き声をあげる。
タテレンジャーの放送が開始してから、兄は休日でも午前中に起きるようになった。何年も何年も休日は昼過ぎまで寝ていたあの彼が、である。大きな進歩だ――その進歩に関わっているのが子どもがターゲット層の特撮番組というのが何とも言い難い気分になるが。
もう少し早く起きてくれれば、一緒に朝食を食べられるのだけど。碧い少年はあり得ない風景を夢想する。タテレンジャーの放送は午前が終わる少し前の時間だ。平日通り起きる己の起床時間とは、確実に被ることがない。過去は朝早くの時間に放映していたと聞いた時は、何だか惜しい気持ちになってしまったのは秘密にしておこう。
「烈風刀ー、はじまっぞー」
いつの間にかテレビの前へと移動した兄が呼ぶ。はいはい、とマグカップ二個手にしながら、弟はソファへと向かった。
ビビッドカラーで彩られた画面には、オープニング曲のサビと共に大技のキックを決めるヒーローの姿が映されていた。
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二人で一緒に作りましょ【ヒロニカ】
二人で一緒に作りましょ【ヒロニカ】
ハッピーバレンタイン!!!!!!!!!!!!
バレンタインにチョコレートを作るニカちゃんは見たいがニカちゃん宅に機材があると思えなくない?の結果がこちらになります。ヒロ君はきっと親が良い機材買っときなさいと持たせてくれてるから揃ってるタイプ。都合の悪いところは都合の良いように捏造してる。
チョコを作りたいニカちゃんとチョコを作るヒロ君の話。
低い音がキッチンに響く。特徴的な扉の向こう側は、オレンジの光で満ちていた。その中央にはいくつもの丸っこい容器が横たわっている。黒に近い茶が流し込まれたそれは、光を受けてつやつやと輝いていた。
「あとは焼けるまで待つだけだな」
「……あぁ。えぇ、そうですね」
達成感に満ち溢れたベロニカの声に、どこか遠くに飛んでいた意識が現実に引き戻される。口から出たのは、何とも言い難い生返事だ。あぁ、とヒロは内心で頭を抱える。これだけ行動してくれた彼女に投げかけるには、あまりにも不誠実な声だった。
「どした? 腹減ったか?」
「いえ。楽しみだな、と」
「そーだろ?」
にひ、といたずらげな、それでいてとびきり可愛い笑顔がこちらに向けられる。あまりの眩さに、少年は目を細める。強い光に耐えるようにも、愛おしさに満ちあふれているようにも見えた。
バレンタインにやる菓子作りたいから台所貸してくれ。
ベロニカにそう言われたのは昨日、二月十三日のことだった。
曰く、たまには手作りのなんかをやりたい。曰く、ネットでレシピ探しても美味そうなやつはオーブン使うレシピばっか。曰く、うちに予熱できるオーブンもトースターも何もない。だから道具が揃っているヒロんとこの台所貸してくれ、と。
混乱の渦に飲まれたのは言わずもがなである。何しろ、付き合っている女性からバレンタインのチョコレートを渡すのだと面と向かって、これ以上になくはっきりと言われたのだ。しかも、これだけのために手ずから作ってくれるのだ。その上、己の家で作る。つまるところ、バレンタインを二人きりで、しかも己の部屋で過ごすということである。思春期の心が受け止めきれるはずがない。
そんな突然。何でそこまで。というか事前に渡すこと本人に言っちゃってもいいのか。湧いて出る言葉がぐるぐると頭の中を巡ってぐちゃぐちゃにしていく。全ては、ダメか、と首を傾げて問われた瞬間吹き飛んだ。口から出たのは『はい』の二文字だけである。
そうして両手いっぱいの材料を買い込んだ彼女が部屋を訪れたのが早くの時間のこと。二人でレシピ、機材の確認をし取りかかったのはどれほど前だろう。慣れない計量や予定外の温度調整、飛び散る薄力粉やナッツ類の破片との格闘、オーブンの取扱説明書の再確認、安物の脆い型の相次ぐ破損と重労働をこなし、やっと焼成に辿り着いた今に至る。
思い返しただけで溜め息が漏れそうになるのを、ヒロはぐっと堪える。互いに一人暮らし故に料理経験はそこそこあれども、菓子作りなどこれが初挑戦である。インターネット曰く『初心者さん向け』『簡単お手軽』レシピだというのに、計量ミスや行程ミス、そもそも初めてのオーブン機能仕様による不慣れさが重なりどれだけかかったか時計を確認することすら怖い有様だ。焼き上がりを待つ今すら、あんな高温でも本当に焦げずに焼けるのか不安で仕方ない。当の本人であるベロニカはもう安心しきった様子だが。
そわり、と少年の背を何かが撫ぜる。そうだ、ベロニカが、愛しい恋人が己のためにバレンタインのチョコレートを作ってくれたのだ。彼女が初めて自分のために作ってくれたのだ。気分が浮き立たないはずがない。激務から解放され、余裕を取り戻した心は世間一般でいう甘い状況を認識してそわだつ。今更になって鼓動が大きくなったように思えた。
「焼けるまで漫画読んでていいか? こないだ途中で帰っちまったし」
「え? あ、あぁ、いいですよ。どうぞ」
サンキュー、と弾む声と軽い足取りで少女はキッチンを出て行く。オーブンの前に一人取り残され、恋人であるオクトリングは数拍置いて、えぇ、と小さく声を漏らした。
バレンタインである。しかも恋人の部屋に二人きりである。ここはもうちょっと、なんか甘いあれが、恋人っぽいイベントがあるのではないだろうか。いや、二人で一緒にお菓子作りなんて恋愛ゲームにありそうな甘いイベントではあるけれど。でも。
浮き足立った心が行き場を無くして世界を彷徨う。縋る場所が無くて一人彷徨う。ようやく落ち着いたところで、やっとここにいても仕方ないということに思い至った。オーブンの様子をつぶさに見る必要は無い。部屋に戻らねばならない。けれども、戻ったところで恋人は漫画に夢中で自分などほったらかしだ。邪魔をすれば手痛いなにかしらが飛んでくるのは明白である。一人で過ごすしかないのだ。恋人と一緒なのに。バレンタインなのに。
叫び出したくなる喉を押さえて、少年はどうにかこらえる。二人でいても一人一人で行動するのはいつものことではないか。バレンタインだからって意識しすぎだ。いつも通り過ごして、焼けた菓子を食べればいい。それだけで幸せではないか。言い聞かせるように一人大きく頷き、ヒロは部屋に続く扉に手を掛ける。オーブンの唸り声に、ノブの鳴き声が混じって消えた。
「もう結構匂いすんのな」
背でドアを閉めたところで、声が、視線が飛んでくる。大好きな音の方へと目をやると、ラグの上に寝転がったベロニカがこちらを見上げていた。手には漫画本が一冊、脇には五冊ほど積んである。断り通り、既に読み始めているようだ。
「あー、確かに結構しますね」
つられて鼻を動かしてみると、確かにチョコレートの強い香りを感じた。流し込んだ時点では近くにいてようやく鼻先をかすめる程度だった甘さが、今では板一枚隔てていても存在を感じる。きっと、今し方己と一緒に入ってきたのだろう。火を受けた生地は、それほどまでに香りを誇っているということだ。
「というかドア貫通してねぇか?」
「そんなことは……無いと思いたいんですけど……」
少女はすんすんと鼻を鳴らして首を傾げる。部屋の主は不安げに返した。本当ならばあり得ない、と言い切りたいが、生憎ここは家賃の安さが取り柄の古いアパートである。キッチンと部屋の扉に匂いを通すほどの隙間があってもおかしくはない。普段は気にしない部分なだけに不安が残る。
「早く焼けねーかなー」
漫画ならばウキウキというオノマトペがぴったりな音色で少女は呟く。彼女も同様に浮き足立っているのだ、と思い至り、また心臓が大きく動き出す。否、おそらく甘いお菓子を食べられるのを楽しみにしているのだろう。でも、作りに行きたいと、作りたいと言ったのは誰でもない彼女ではないか。けれど。でも。青い頭の中にまた言葉が積み上がっていく。少しばかり臆病な性格がそれに腕を突っ込んでぐるぐるとかき混ぜた。
漫画を読みふける恋人から少し離れ、ヒロはベッドに腰を下ろす。尖った指先が少し宙を彷徨って、ローテーブルの上に置かれたタブレット端末を取った。ロックを解除してブラウザを立ち上げる。記事、動画、バトルメモリー、プロ選手のSNS投稿。世には情報が溺れんばかりに流れている。時間を潰すのにはもってこいだ。今日も今日とて、上達のコツを求めインターネットの海へと飛び込んだ。
チーン、とどこか間抜けな高い音が遠くから聞こえた。はっとタブレットから顔を上げ、音の方を見やる。磨りガラスの向こうに見えていたはずのオレンジの光は今は無い。キッチンに続く扉の向こう側は、いつも通り薄闇に包まれていた。同時に、鼻孔を香りが刺激する。砂糖、バター、ナッツ、そしてチョコレートの甘い芳香は、意識を現実に引き上げるには十分の力を持っていた。
「焼けた!」
ほぼ同時に、弾みに弾んだ声が床から上がる。視線を移した頃には、そこにはもう積み重なった単行本しかいなかった。代わりに、バタバタ、ガチャン、と騒がしい音が部屋を走って飛んでいく。ヒロも慌てて立ち上がった。
ほんの数歩で辿り着くキッチンへ続く扉は開け放たれていた。急いでくぐり抜けると、そこにはオーブンの扉に手を掛けるベロニカの姿があった。暖房の効いた部屋に浸っていた頬はうすらと上気し、真ん丸になった瞳は夏の日差しを浴びる向日葵そのもののように輝いている。いつだって不敵な笑みを浮かべる口元は、今は高揚しきって薄く開いていた。
「ヒロ! 鍋つかみどこだ!」
「これです!」
ばっと振り返った少女が問う。すぐさま、壁に掛けてあった鍋つかみを投げて渡した。片手で取ったそれを急いではめ、インクリングはオーブンの扉をひっ掴む。ガチャン、と盛大な音と、華やかな香りがキッチンに響き渡った。鍋つかみに包まれた手が天板をひしと掴み、真っ暗になった庫内から引き抜く。現れたそれに、黄と赤が吸い寄せられた。
鉄の天板の上には、丸く背の高い型に入った茶色が並んでいた。入れる前までは容器の半分まで満たしていなかったチョコレートマフィンは、大きく膨らんで型からぶわりと飛び出して背を伸ばしている。真っ平らにしたはずの表面はもこもこと入道雲めいて膨らんでいた。焼けてつやつやとした表面はいくらかひび割れ、中に混ぜ込んだナッツが顔を覗かせている。頑張って粉砕した白いそれは、黒い生地の中で星のように輝いて見えた。
わぁ、と感動と歓喜で飾り付けられた声が二つ重なる。二つのキラキラとした視線を受けながら、天板はシンク横の作業台へと下ろされた。暖房が無く冷えたキッチンに、小さな湯気がいくつも昇っていく。
「成功だよな!?」
「成功ですよ!」
満面の笑みで問うベロニカに、ヒロは同じほどはしゃいだ声で返す。大きな口がニッと笑み、四角張った大きな手が高く上げられる。すぐさま尖った手も上げられ、ハイタッチをした。いぇーい、とはしゃぎきった声がほの寒いキッチンに重なって響く。
「あとは冷ますんでしたっけ」
「みたいだなー」
キッチンに置きっぱなしにしていた携帯端末を二人で確認する。開きっぱなしだったレシピページには『粗熱を取って完成!』と記してあった。意外な工程に少年は首を傾げる。料理は何だって出来たてが一番美味しいはずだ。現に、似た材料のホットケーキは焼きたてが一番美味しい。なのにわざわざ冷たくしてしまうとはどういうことなのだろう。本当に必要な過程なのだろうか。疑問はあれど、なにぶん菓子作りは初めてなので分からない。
「なぁ」
分からないなら素直に従っておくべきだろう、と一人頷いたところで、隣から声が投げかけられる。珍しくどこか遠慮がちな響きに、オクトリングはぱちりと瞬いて音の方へと顔を向ける。たんぽぽ色の綺麗な瞳と視線がかちあった。見つめるそれは、時折マフィンの方にも向けられる。口元は好奇心を抑えられない子どものようにどこかむにむにと動いていた。
「もう食べてもよくねぇか? 料理って出来たてが一番美味ぇだろ?」
訊ねる声は打開を始めるタイミングを見つけた時のような高揚感と期待に溢れていた。どうやら、彼女も同じ疑問と考えを持っていたようだ。可愛らしさと喜びに、ヒロは頬を緩める。えぇ、と自然と言葉がこぼれ落ちた。
「僕もそう思ってました。食べちゃいましょうか」
「よっしゃ!」
ぱしんと手を打ったベロニカは早速マフィンに手を伸ばす。両手で一個ずつ引っ掴み、片方をこちらへと差し出した。ほら、と喜びに弾んだ声が、喜びに輝く笑顔が真っ向からぶつかってくる。跳ねる心臓をどうにか御しながら、ありがとうございます、と小さなカップを受け取った。
焼きたての熱さに少し手を焼きながら、二人でマフィンにかぶりつく。焼きたてで柔らかな生地はすぐに噛み切ることができた。口の中に広がったのは、まずチョコレートの芳醇な香りだ。追随するように、舌の上を少しだけ強い甘みが駆け抜けていく。時折当たるナッツの硬い歯触りが嬉しい。初めての菓子作りとしては大成功だろう。うぅん、と思わず漏れた感嘆は重なった。
「美味ぇな!」
「はい! すっごく美味しいです。ちゃんとできてよかった……」
「あぁ、ほんとよかった……」
食べた限り、生焼けにはなっていないのだから本当に大成功だ。よかったぁ、と二人で安堵の声をあげながら菓子を食べていく。手の平に載るそれはすぐに胃袋の中に収まってしまった。ごちそうさまでした、と呟いて、ヒロは剥きながら食べて破けたマフィンカップを小さく畳んでいく。鼻に抜ける息はまだチョコレートの甘みが残っている気がした。
「なぁ、ヒロ」
名前を呼ばれ、少年ははい、と応えて声の主に視線を向ける。また月色の瞳と視線がばっちりとぶつかる。真ん丸で綺麗な目には、どこか不安げな、それでも喜びを隠しきれない色が浮かんでいた。あのさ、と手入れされ整った唇が曖昧に開かれる。うっすらと端っこが持ち上がって、小さな笑みを作り上げた。
「悪ぃけどラッピングとかはそういうのはあたしにはできねぇからさ。……こんままでも受け取ってくれっか?」
ベロニカははにかんで問うてくる。いつだって勝ち気に上がった眉は今は少しだけ垂れていて、少し焼けた健康的な頬はうっすらと紅色で彩られている。細められた金色は、暖かな光を灯して揺れ動いていた。
手に持っていたゴミが手入れされた床に落ちる。それに気付いた時には、目の前の手を両手で握っていた。ぎゅっと、グリップを握る時ぐらいぎゅっと強く荒れていない手を握り締める。うぉ、と驚きに跳ねた声が二人きりのキッチンに落ちた。
「もちろん! ありがとうございます!」
頬を紅潮させ、赤い目を輝かせ、大きな口をめいっぱい開いて、ヒロは叫ぶ。これ以上にない歓喜が声に、顔に、心に満ち満ちる。嬉しすぎて何もかもが破裂してしまいそうな心地だった。自然と頬が緩んでいく。溶けるように目が垂れていく。そんなのみっともないと分かっていても、今ばかりは表情筋をコントロールすることができなかった。
「……うん。こっちこそ、あんがと」
丸くなっていた太陽色の目がうっそりと細められる。カラストンビが覗く大きな口からとろけた声がこぼれ落ちる。彼女の感情全てを表していた。
「あっ、でも僕が全部食べるのは悪いですよね……。ベロニカさん、半分持って帰ります?」
「いいのか? ヒロのだぞ?」
「作ったのはベロニカさんでしょう。作った人が全然食べられないのはもったいないですよ。こんなに美味しいのに」
ね、と少年は笑いかける。しばしして、うん、と元気な声が返された。
キッチンを漂う甘い香りに、幸せに満ちた笑い声が加わった。
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降りこめる本能【ライレフ/R18】
降りこめる本能【ライレフ/R18】雨で薄暗い中暑いのも忘れて致す右左が見たかっただけ。
ぬかるみに足を突っ込んだような粘ついた音が鼓膜にへばりつく。現実は違う。そんな無邪気な子どものような動きによるものではない。粘膜と粘膜が擦れあい、潤滑油ではしたなく濡れそぼった穴がみっともない声をあげているのだ。身体が動く度、粘り気のある液体がこねくられる湿った音が、引き締まった肉と肉がぶつかりあう乾いた音が薄暗い部屋に響く。日常とはかけ離れた淫らな合奏が部屋を満たしていた。
業務も課題も無い休日で。テストは終わったばかりで急いで勉強する必要性も薄くて。有り体に言えば暇で。外は雨で。二人きりで長く過ごせるのは久しぶりで。
互いにごく普通の、年齢相応に健全な男子高校生だ。つがいを求める欲望など、つがいと触れあう欲望など、腹の底にずっと抱えている。見ないふりをしているだけで、いつだって燻っている。暇な土曜日の昼下がりにそれが燃え上がり爆発して発露することは必然的とも言えた。
そうやって時間も場所も常識も捨て去りソファに雪崩れ込んで、行儀が悪いと指摘するのも馬鹿らしく服を脱ぎ捨て、肌と肌とを直接触れあわせて、粘膜と粘膜で繋がる今に至る。
ぐじゅ、ぶちゅ、と濁った淫猥な音があがる。耳を塞ぎたくなるような響きが鼓膜を震わす度、凄まじい勢いで脊髄を電気信号が駆け抜けていく。快楽と命名されたそれは、脳味噌をぶん殴り烈風刀のまともな思考を奪っていった。ゴリゴリと常識ぶった部分が削れていく頭は、『きもちいい』の五音節を理解することで手一杯だ。
きもちよくて、きもちよすぎて、閉じる機能を忘れた口から声が漏れる。上擦ったそれは、少女のものだと勘違いされても仕方が無い響きをしていた。恥ずかしいと思う機能すら失われた頭は、我慢することを忘れた脳味噌は、本能が赴くままに甘い声を――今まさに繋がっている恋人の情欲を煽る音色を奏でた。
肉の悦びから逃れるようにぎゅっと閉じられていた目が薄く開いていく。涙をたたえた瞳は、大切に手入れされ澄み切った池を思い起こさせた。こんこんと湧いて出て溢れる水が、紅潮した肌に透明な線を引いていく。熱に浮かされとろけきった瞳は、本能に炙られて色付いた肌は、整ったかんばせを塗らす涙は、耳をも溶かすような嬌声をあげる口は、欲望の炎に薪をどんどんとくべていく。獣の本能に支配されつつ雷刀は、衝動がままに腰を打ちつけた。同じく獣欲に蝕まれる弟も、湧き出る衝動がままに甘ったるい声をあげた。
目の前の首に回した腕、汗ばんだ肌と肌がくっつきあって何とも言い難い感触を生み出す。雨で気温が下がって涼しいから、と今日は冷房を消していたのを頭のまともな部分がかろうじて思い出す。雲で隠れて日が差さないとはいえ、部屋は生ぬるい空気で満たされているだろう。その上激しく動いているのだから、汗を掻くのは必然であった。普段ならば暑いだなんだと文句を垂れる口は、意味を持たない音をこぼすだけだ。耐えられずリモコンを取るであろう手は、己の腰をがしりと掴んで離そうとしない。汗と体液で濡れた肌は、今は不快感を遙かに上回る快感と幸福感を生み出した。
涙でけぶった視界の中、ギラつく鮮やかな唐紅だけが浮き上がる。恋人の象徴である色。恋人が目の前に存在しているという事実。恋人が己だけを見つめているという証左。全てが馬鹿みたいに拍動する胸の奥に、愛する人を迎え入れた腹の底に更なる火を灯す。ぁッ、とソリッドな声が部屋に落ちた。
耳障りな水っぽい音が、赤みを増した耳に、淫悦でとかされた脳味噌に叩きつけられる。常ならば表現し難いほどの羞恥を覚えるはずのそれは、ひたすらに本能を煽って身体を昂ぶらせていく。悦びを謳い上げる口が、らいと、らいと、と愛する人の名をどうにか形作る。きもちよさに支配された脳味噌は、大好きな人を求める声を発せさせた。愛を抱えた心も飢えた身体も満たされているはずなのに、碧い少年は足りないとばかりに拙く音を紡いでいく。それがつがいにこれ以上無く効くことなど知らずに。
れふと、と吼えるような声。同時に、ごちゅん、と身体全てに響き渡るような衝撃。情欲を煽られた朱い少年は、丁寧に解され柔らかになった内部に一気に自身を突き入れる。閉じた肉を掻き分けられ、めいっぱいに刺激され、快楽信号がキャパシティオーバーになりそうなほど叩きつけられ、烈風刀は悲鳴めいた嬌声をあげた。それもまた、雷刀の腹に秘めたる獣欲を煽る。エナメル質が軋む高い音が卑猥な合奏の中に落ちた。
ぁ、あ、と突き上げられる度に掠れた細い声が開きっぱなしの口から吐き出される。まるでちゃちいおもちゃのようだ。おもちゃめいた単純な動作しかできないほど、少年の身体は快楽に支配されていた。ただひとつ、腹の中身を除いて。
ぐっ、と雄肉が這入ってくる。突き進むそれを逃すまいと、もっと奥へと誘わんと、ナカはぐねぐねとうねる。快楽を、子種をねだるようにまとわりついて絡みつく。まだ果てまいと、もっとつがいを貪らんと、更なる快楽を求めんと、剛直はそれを振り切り去っていく。まだ足りない、なんてわがままを通そうと、肉色の粘膜が蠢いてすがりつく。全ての動作がはしたないピンク色の悦びを生み出し、幾重にも重なった理性の皮を剥がして本能だけを剥き出しにしていく。雨天で陰った部屋に獣めいた声がどんどんと積もっていく。
腹の奥底を小突かれる度、身体から力が抜けていく。快楽ばかりを受容して言うことを聞かない脳味噌は、筋肉にもろくに指令を出さずにいた。汗ばんでうっすらと濡れた腕が、同じく汗ばんだ首をなぞるようにして解けて落ちる。上手く着地できなかった右腕が、だらりとソファの座面から垂れた。普段ならばすぐに上げて戻すが、今ばかりはそんな余裕がなど無い。腹の底から響き渡る法悦を味わうのに必死な身体は、ろくに動くことができなかった。
ハ、ぁっ、と呼吸なのか声なのか分からないものだけが口から漏れる。腕から伝わる温もりが無くなった分、腹が切なくてたまらない。欲しくて、触れたくて手を伸ばしたいのに、快楽に浸りきった脳味噌は能動的に筋肉へ電気信号を送ることなどとうに諦めていた。突かれる度、落ちて垂れた腕が揺れる。ソファの生地が擦れては心地良さなど覚えないはずだというのに、今ばかりはそれすらも快感を生んだ。腹の奥に突き込まれたものに全身を作り変えられてしまったようだ、なんて馬鹿げたことが頭の隅に浮かぶ。突かれた瞬間、それは弾け飛んで消えた。
ごちゅん、なんて漫画めいた音が聞こえるほど、行き止まりを強く穿たれる。瞬間、世界が止まった。
「――ァっ、あっ!」
一拍遅れて、凄まじい情報が――快楽が全身を駆け巡る。どうやら、許容量を超えたそれは脳味噌を焼け付かせたらしい。受容しきれぬそれを逃がすように、組み敷かれた身体が大きく跳ねる。喉仏が浮かぶ首がぐっとしなって、形の良い頭が固く作られているはずのソファの肘掛けに沈み込んだ。濃い布の上に鮮やかなが若葉が散る。額に張り付いていたそれも、衝撃のあまりに宙に浮かんでまた落ちた。
ままならない呼吸の合間、囀るように目の前の愛し人を呼ぶ。さいこうにきもちいいのに、おなかが寂しくて、腕が寂しくて、ぬくもりが足りなくて。けれども、快楽に融かされてろくに動かない身体は声を発するので精一杯だ。言葉だけでも兄を掴もうと、兄に縋りつこうと、弟は何度も名前を繰り返す。三度目を発するところで、ひぁ、という己自身の高い声が遮った。声も身体もどろどろに融けて、彼に融かされて、形を成さなくなっていく。それがきもちよくてたまらない。
腰の右側をひやりと空気が撫ぜる。代わりに、左頬に温かなものが訪れた。頬に触れられているのだと気付くより先に、唇に熱。口内に熱。触れる度に痺れるようなそれに、はしたない声が際限なく湧いて出てくる。全て、雷刀の口内に吸われてくぐもったものになってしまった。
「ァ、う……、ッ、ゥ……」
絡もうとする舌はどちらも溢れるほど唾液をたっぷりまとっていて、捕らえられることができない。それでも、ぬめる表面を熱いものが掠めていく感覚は腰を重くするには十分な刺激だった。痺れを切らしたように舌が離れていく。追いかけてだらしなく伸ばされた己のそれが、温かなものに包まれる。ぢゅう、と行儀の悪い音。同時に、凄まじい電気信号がシナプスを殴った。舌を吸われ扱かれる快楽が、その間も絶えずナカを穿たれる快楽が、脳味噌をダメにしていく。食らわれる碧にできることなど、もう甘ったるい――つがいを煽り、焚きつけ、昂ぶらせる声を漏らすぐらいだ。
張り出した傘がゴリゴリと内部を削るように去っていく。追いかけるように締め付ける内壁を、見事な先端が勢いよく突き進んだ。熱ときもちよさでとろけた肉は、張り裂けんばかりに法悦を叫んだ。連動するように、弟の口からも淫悦に染まりきった嬌声があがる。垂れ下がった目元から透明なものが流れて赤く染まった頬を静かに彩る。
ずるぅ、とされるがままだった己の舌が愛しい人の口から力無く抜ける。元の場所にしまわれるはずのそれは、喘ぎ声とともに突き出され天を向いた。興奮で湧いて出る唾液が口から溢れて、肌をしとどに濡らしていく。赤く熟れた粘膜が濡れてつやめくのはあまりにも刺激的な光景だ。食らう者が短く低く喘ぐぐらいには。
きもちよすぎて、もう口を動かすだけで精一杯だ。脳味噌は快楽を受け取るばかりで肉体を動かす信号を送ることなどとうに忘れていた。また愛しい人に触れたいのに、腕はもう指一本動かす余裕など無い。代わりと言わんばかりに、兄の腰に軽く回された足がしがみつくように、抱き締めるように絡みついた。本能に支配されているのだろう、振りほどかんばかりに突き出されるその身体に、烈風刀は鍛えられた足で縋りつく。汗ばんだ肌同士ではすぐに滑り落ちてしまうだろうに、外でも中でも恋人を抱き締めた。とうの昔に肉欲に溺れてダメになった脳味噌を本能が動かしてたのだ。
腰を掴まれる力が強くなる。ただでさえ激しかった腰つきが更に早まり、大胆な、重いものになる。上から降り注ぐ獣めいた吐息が唸りめいた嬌声へと変わっていく。何度も見てきた光景だ。何度も体験してきた動きだ。だからこそ、それが何を意味するかなどすぐさま分かる。この腹に精を吐き出し、種を植えつけようとしているのだ。は、ァッ、と艶めいた声が、どこか笑みを含んだ声が漏れる。だって、そんなの最高に決まっているではないか。期待が声に表れないわけがない。
れふと、と名を呼ばれる。ぼやけた視界の中に映るのは、険しげに眉を寄せ、目を細め、こわばったように口を開く恋人の顔だ。どれもが肉の悦びにとろけていて、どれもが己の欲望を焚きつけるものだった。視線に、声に、雄を迎え入れた腹が反応する。みっともなく大口開いて咥えこんだ場所が、きゅうと収縮するのが己でも分かった。あ、と濁った、熱で焼けた声が落ちてくる。彼がきもちよくなっている証拠だ。それが嬉しくて、また腹が勝手に蠢く。諫めるように一発ぶちこまれた。悲鳴めいた喘ぎが仰け反った喉から奏でられる。
暗い部屋のはずなのに、視界に白いものがちらつく。細かなパーティクルが何度も散る様は、己の限界を――頂点に上り詰めつつあることを示していた。腹に渦巻く熱を吐き出したくて、一番きもちいいところに行きたくて、内部は雄肉を煽るように細かに締めては撫でてを繰り返す。全くの無意識であるが、効果はてきめんだったようだ。腹を穿つ動きが更に重いものになった。
ぐ、ぁ、と降ってくる嬌声が数を増していく。ごちゅん、と耳に、骨に音が響く。掠れた短い音が聞こえた瞬間、腹の中で熱が爆発した。一番奥から熱いものが広がっていく。内臓全部を融かしてしまいそうな凄まじい温度に、目の前で、頭の中で、何かが弾けた。
「――ッ、ぅ、あっ!」
ビクン、と身体が跳ねて背が反る。頭が反る。盛大な、艶やかな、とろけた声がみっともなく開かれた口から跳ね出る。部屋に喜悦溢るる嬌声を響かせる。瞠られた目から涙が弾け飛んでソファの生地を濡らす。
腹の中も外も熱い。どちらも精によるものだ。どちらもきもちよくてたまらないものだ。ねだるように、達したばかりの内部がうねって硬度を失いつつある剛直を撫でて回る。うぁ、と上擦った声が聞こえた。更に腹の中に熱いものが――精が、種が、愛が注ぎこまれる。何もかもを焼きつくすその感覚に、横たわった身がまた大きく震えた。あ、ぁ、とはしたない、悦びに満ち満ちた声が開きっぱなしになったままの口から漏れる。熱に浮かされたそれは、腹を満たす欲望と同じほどどろりとしていた。
腹に、胸に、腕にぬくもり。耳の横を少し湿った柔らかなものが掠めていく。その感覚は分かれど、達したばかりの身体は反応する余裕すらなかった。あー、と少しだけ上擦った、満足げな声が耳朶を撫でる。兄が覆い被さってきたのだと気付くには随分と時間を要した――天上まで放り上げられた頭ですぐに状況を理解しろという方が無理なのだ。
短く、どこか甘さの残る呼吸が次第に落ち着いてく。やっとまともな量の酸素を取り入れた頭は、ゆっくりと現実の輪郭を辿り寄せていった。のしかかり触れる身体が重い。汗ばんで湿った肌が触れて気持ちが悪い。空調が効いていない部屋が暑い。貪るようにまぐわっていた間は快楽でしかなかったそれらは、今は不快感しか生み出さない。常人の思考回路を取り戻した脳味噌は快不快を正常に認識しだしたのだ。
パタパタ。軽い音が荒い呼吸の間を縫って部屋に落ちる。雨はまだ止んでいないようだ。朝から降っているのに。どれほど降り続くのだろう。明日には晴れるだろうか。洗濯物が。現実に足を付けた頭の中を所帯じみた考えが巡っていく。
そうだ、洗濯しなければいけないのだ。雨で部屋干しをするしかないのだから数は少ない方が良いに決まっているのに、何故わざわざ洗濯物を増やすようなことをしてしまったのだろう。しかもソファなんて後始末が大変なところで。冷静さを取り戻しつつある少年の頭の中に後悔ばかりが降り積もっていく。それほどまで溜まっていたのだ、なんて片割れが使いそうな言い訳がちょっとだけ動きの鈍い思考の底から湧いて出てくる。あまりにも稚拙すぎる言い様に、自己嫌悪は募っていくばかりだ。
「れふとー?」
頬に柔らかな、温かな感触。いつの間にか閉じていた目を開けると、そこにはこちらを覗き込むように見つめる兄の姿があった。涙というフィルターが消え失せた視界の中、朱い瞳がうっすらと部屋に差し込む光を映して輝く。つい数分前までは獣めいてギラついていたというのに、今はすっかりと穏やかな、けれどもまだ熱が残って輪郭がとろけたものになっていた。興奮で溢れた唾液でつやめく唇がゆっくりと動く。
「だいじょぶ?」
「だいじょうぶです」
同じほどの調子で弟は返す。声を出すことで、ようやく長く息を吐き出すことを思い出した。音が聞こえそうなほど深く呼吸を繰り返す。キックと同じほど重く響いていた鼓動はだんだんと速度を落とし、普段のものへと戻っていく。一気に押し寄せてきた疲労に、はぁ、と重く深い嘆息が漏れ出た。
互いに汗やらなんやらでどろどろだ。シャワーを浴びなければ。閉め切って運動したから身体も部屋も暑い。もう冷房を点けてしまった方がいいだろう。放り出した服をまとめておかねば。ソファの後処理も早い内にしないと。ほんの数秒考えただけでタスクがどんどんと積み上がっていく。どれも疲れ切った身体でこなすにはあまりにも重労働だった――全て自業自得なのは重々承知なのだけれど。
パタパタ。バタバタ。サァ。ザァ。窓ガラス一枚隔てて鈍くなった音が静かな部屋に転がっていく。雨の日の湿ったぬるい空気が二人を包んでいた。
畳む
#ライレフ#腐向け#R18