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血肉と果実【奈+恋】
血肉と果実【奈+恋】
今更も今更に10月のエンドシーンネタななこの。
好き合ってないし付き合ってないけど同生産ラインで百合とか薔薇生産しているので注意。
奈恋奈は一生親友以上恋人未満みたいな関係性でいてほしい。
あーん、と可愛らしい声とともに、白い指が眼前に迫る。ふとした拍子に折れてしまうのではないかと不安になるほど細い指先には、小さな赤があった。不格好な多角形のそれは、毒々しいほど鮮やかだ。透き通り、光を受けてどこかきらめく様はガラスの欠片を思わせた。
差し出されたそれに、恋刃は小さく眉をひそめる。健康的な色をした唇が引き結ばれ、口角が悩ましげに下がる。きらめく粒と同じほど赤い瞳は、いつだって真っ直ぐに相手を見据える彼女らしくもなくうろうろと宙を彷徨っていた。逡巡、少女は震える口を小さく開き、指の持ち主に向けてわずかに身を乗り出す。あーん、と再び愛らしい声。あーん、とかすかに震え掠れた復唱。白を飾る透る赤は、血肉の色をした舌の上に乗せられ口内へと消えた。華奢な顎が動き、少女は迎え入れたそれを咀嚼する。瞬間、紅玉の瞳が険しげに細められた。
「すっぱぃ……」
「そんなに?」
口いっぱいに広がる酸味に、赤い少女はうぅ、と苦々しい声を漏らす。小指の爪ほどの小さな実だというのに、舌の上はそれが中に秘めた酸味で一気に塗り潰されてしまった。リンゴやイチゴのように真っ赤に熟れた外見からは全く想像できない味だ。旬を迎えていることもこの味の強さの一因だろうか。だとしてもすっぱいったらない。
小さくうなりながら顔をしかめる恋刃を、奈奈は不思議そうな顔で眺める。赤い粒――ザクロを食べさせた、つまりは己がこんな顔をしている原因は彼女だというのに、七色の瞳はどこか楽しげに輝いていた。すっぱさに悶える己の顔はそんなにも物珍しいのだろうか。それとも、ただ『あーん』ができて嬉しいのだろうか。後者だといいのだけれど、と少女は机上のペットボトルに手を伸ばした。しかめっ面で口をつけ、大きく傾け中身を煽る。甘いストレートティーだというのに、レモンティーのような風味が口の中に広がった。
少女らの――正確には奈奈の目の前にはザクロの実が転がっていた。手のひらサイズのそれは熟し、中から目に痛いほど鮮やかな赤が覗いている。絵の具をそのまま塗りたくったようなそれは、どこか不気味な印象すら与える。反して、丁寧に磨かれた宝石のような美しさも持ち合わせていた。
弾けるようにこぼれたその一粒を取り上げ、虹色の少女は指先で小さな赤を転がす。色彩感覚が狂いそうなほど強い色をした粒を見つめる瞳には、好奇心と愛おしさがにじんでいた。
「ねぇ、恋刃」
「なに?」
紅茶の甘みと渋みで口内を洗い流そうとする赤に、虹はそっと目を細める。カラフルな瞳には、どこかいたずらげな光が灯っていた。
「ザクロって、人のお肉の味がするんですって」
七色に彩られた少女の言葉に、紅茶を飲む恋刃の動きが止まる。ぐ、と口に含んだ液体を噴き出しそうになるのを必死に堪える。どうにか飲み下し、紅緋に染まる少女は目の前に座る親友をじとりと見た。
「何で私に食べさせた後にそんな話をするの……?」
ザクロは人肉の味。確かに聞いたことのある話だ。しかし、人に食べさせておいて『人のお肉の味』などと告げるのは、さすがに愛しい愛しい親友とはいえいたずらがすぎる。先ほどから幾度も手ずから食べさせているのだから尚更だ――可愛らしい『あーん』の声に逆らえず全部食べた自分も悪いのだけれど。
昔聞いた覚えがあったから、と少女はこともなげに言う。本当にただ与太として話したようだ。親友はどこかずれたところがある。それが出たのだろう。しかしタイミングと内容が最悪である。
「そもそも、何でこんなに私に食べさせるの? 奈奈が食べたらいいじゃない」
むぅと頬を膨らませ、恋刃はふてくされたように投げかける。味が気になるならば、人に食べさせて感想を聞くよりも、自分で実際に食べてみる方がいいに決まっている。だのにこの親友は先ほどから己に食べさせるばかりで自分で食べようとはしない。不思議ったらない。
「だって、恋刃みたいだから」
透き通ってて、真っ赤で、つやつやで。恋刃の目みたい。
澄んだ瞳とどこか儚げな微笑みを浮かべた少女は、歌うように言葉を紡ぐ。純粋な、裏も何もない声と表情だ。そんな顔でまっすぐに言われては、胸の内に溜め込んだ言葉なぞ失ってしまう。ふわ、と頬が熱を持つ感覚。けれども、その温度も『人のお肉の味』というフレーズにすぐ引っ込んでしまった。
「お味はどう?」
「すっぱいだけよ」
「人のお肉はすっぱいってことなのかしら」
「奈奈?」
不穏な言葉をぽろぽろとこぼす友に、少女はひきつる口元をあらわに小首を傾げる。どこか天然なところがある彼女だ、悪気などないのだろう。けれども、こんな話題をいつまでも続けるのはごめんだ。お肉から離れましょ、と乞いにも似た声で言うと、そうね、とふわりとした笑みが返される。天然なところがあるだけで、奈奈は心優しい子だ。悪気など一切無いのだろう。けれども、どこか遊ばれているような感覚がするのは何故なのか。名に恋を冠する少女は密かに頬を膨らませた。
「あ。ねぇ、恋刃」
「なに」
名を呼ぶ奈奈に、恋刃は短く返す。拗ねたような音になってしまったのを誤魔化すように、紅茶を一口。酸味が残っていた口内は、やっと元のフラットな様相を取り戻した。
「ザクロって血の味とも言われてるんですって」
つややかな瞳がふわりと虹を描く。七色の瞳に宿る光は、どこか妖艶に見えた。
純粋な少女に不釣り合いな輝きと爆弾のような言葉に、赤色の少女はぱちぱちと瞬きを繰り返す。『血』の一音節に、心臓がドクリと跳ねた。
ねぇ、と友は口を開く。グロスを塗ったようにつやめく唇の隙間から覗く舌は、ザクロのように――血のように赤かった。
「血の味、した?」
「……しないわよ。ただすっぱいだけ」
好奇心といたずらの色をにじませた言葉に、少女はぶっきらぼうに返す。血はもっと鉄臭くて、生臭くて、ほの甘い。血のような色をしたこの果実とは似ても似つかない味だ。先ほどまでの己の反応からそんなこと分かっているだろうに、わざわざ問うてくるのは天然故か、それとも故意のものか。愛らしいこの親友は時々訳の分からないことを言う。そこがまた可愛らしいと思ってしまう己も大概なのだけれど。
ふぅん、と興味深そうな音を漏らし、奈奈は再びザクロの粒を一つ摘み取る。白い指先に赤が灯る。
「こんなに血みたいな――恋刃みたいな色なのにね」
摘んだ粒を指先で転がしながら、虹色は愛おしげにその赤を見つめる。少し持ち上げ光に透かし、きらめくそれを眺める姿は、大切な宝物を愛でるようなものに見えた。
指先が口元に運ばれ、少女は血色の粒を可憐な口に入れた。もぐ、と小さな顎が動く。瞬間、七色の目が驚愕に大きく開いた。まあるい可愛らしい目はすぐさまつむられ、ピンク色の唇がきゅっと寄せられた。
「……本当にすっぱいのね」
「散々言ったじゃない」
ほら、と顔をしかめる親友に、恋刃はペットボトルを差し出す。ありがとう、と弱々しい声とともに、虹の少女は深い琥珀をこくこくと飲む。赤いラベルで彩られたそれから口を離した少女は、今一度すっぱい、とこぼした。瞳からあの輝きは失せ、眉を八の字に下げたどこかしょんぼりとした表情をしていた。さんざっぱら味を聞いていたとはいえ、あのすっぱさをいきなり体験してはこんな顔になってしまうのも無理はない。けれども、そこにはどこか幼い子どものような可愛らしさがあった。ふ、と笑みがこぼれ落ちる。
「ケーキでも食べて口直ししましょ?」
赤はそう言って席を立つ。目の前の割れたザクロとペットボトルを級友にもらったビニール袋に詰め込み、うー、と小さく声を漏らす虹に手を差し伸べた。口内を支配しているであろう酸味に目を眇める少女は、ぱちりと大きく瞬きをする。透き通る可憐な手が、大きく広げられた華奢な手を取った。
「Cafe VOLTE、秋の新作ケーキが出てるはずよ。食べに行きましょ」
「……ザクロのケーキ、あるかしら?」
「そろそろザクロから離れましょ?」
あれだけの酸味を味わっておいてまだザクロに固執するのだから、この親友は分からない。そんなところも可愛いのだけれど、と思ってしまう自分も大概だ。
ほら、と恋刃は愛しい親友の手を引く。幼き頃からの親友に手を引かれ、奈奈はその細い足を動かした。黒いスカートと白いワンピースがふわりと舞う。
何食べようかしら。やっぱりモンブランじゃない。カボチャもいいかも。弾んだ声を交わしながら、少女たちはケーキに思いを馳せる。ビニール袋の中で、ザクロがまた一つ粒をこぼした。
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お菓子といたずらを君と【烈風刀+初等部】
お菓子といたずらを君と【烈風刀+初等部】
様々なものの現実逃避にハロウィンネタ。地味に昔から考えてた弟君とちびっこたちハレルヤ添えレフレイ風味。III時空。出てくる子はタグを見てね。
ハロウィンにちっちゃい子やおっきい子にお菓子たかられる弟君の話。
カサ、と手にした紙袋が音をたてる。中に詰まった小さな袋、その中に詰まった菓子を見やり、烈風刀はふ、と息を吐いた。
今日は十月三十一日、ハロウィンである。毎年子どもたちがお菓子といたずらを求めてやってくる日だ。
もちろん、いたずらをされてはたまらない。子どもとはいえ、否、子どもだからこそ皆容赦のないいたずらを仕掛けてくるのだ。一人相手ならまだいい。しかし、何人もが相手となると正面から受け止めるのはかなり厳しいものである。連続でやってくることを考えると尚更だ。それに、菓子をもらえず悲しい顔をする子どもたちの姿はできれば見たくはない。子どもたちはいつだって元気で笑顔であってほしいのだ。
だからこそ、少年は毎年この日に菓子を用意していた。生徒の自由を尊重し、イベント事に全力を注ぐこの学園は、校則が他に比べて緩い。菓子の持ち込みは許されていた。今日のような日は尚更である。
今年のお菓子は、カボチャパウダーを練り込んだ生地とココア生地を合わせたアイスボックスクッキーだ。薄い橙と焦げ茶の市松模様はハロウィンらしい色合いだろう。味に関してもかぼちゃとココアの組み合わせは相性が悪くない。量産もしやすいから、こういうイベントにはもってこいの品だ。
さて、今年は誰が一番に来るだろう。やはり業務で真っ先に会うレイシスと雷刀だろうか。そんなことを考えながら、作戦会議室を目指し廊下を歩く。足音が広い空間に響いた。
「れふとおにーちゃん!」
元気な声と足音が後ろから飛んでくる。パタパタパタと軽やかなそれがどんどんと近づいてくる。耳慣れた可愛らしい声に、碧はくるりと振り返った。
視界に飛び込んできたのは、白い塊三つだった。真っ白な何かの中央には、黒い丸が二つある。頂点は少し膨れ上がり、三角形のような形が二つ浮き上がっていた。そんな不思議な物体が、素早く駆け寄ってくる。さながらホラー映画の一場面だ。異様な光景に、少年はびくりと肩を震わせる。一体何だ、と戦きながらもよく見ると、裾がひらひらと揺れている。大きな布を被っているようだ。
布を被った小さき者たちは、少年の前でピタリと止まった。頭に三角耳の形が浮かぶ真っ白な生地の端からは青、桃、黄の三色の尻尾が覗いていた。布の中央辺りでくり抜かれた穴から、キラリと鮮やかな目が三対光った。
「トリック……」
「オア!」
「トリート、です!」
三つの愛らしい声が一つの単語を作り上げる。中でばんざいするように手を上げたのか、布の両端が持ち上がりひらめいた。上がった裾からカラフルな靴下が覗く。
元気な声に――バタフライキャットとひとまとめにして呼ばれる初等部の子猫、蒼、雛、桃の弾んだ声に、少年は頬を緩める。どうやら、今年はお化けの仮装のようだ。遠目ではただの白い塊にしか見えなかったそれには面食らったが、こうやって近くで見てみればとても可愛らしいものである。
烈風刀は屈みこみ、少女たちと視線を――彼女らの目は穴の奥に隠れてしっかりとは見えないが――合わせる。穴の奥、夜闇の中の猫のように目を輝かせる子猫たちを見て、彼は首を傾げた。
「三人とも、そんな小さな穴でちゃんと前が見えているのですか?」
「見えてるよ!」
「大丈夫……」
「きちんと見えています!」
少年の問いに、少女たちは元気に答える。こちらまでまっすぐに駆け寄ってきたのがその証拠だろうが、見ている分にはどうにも危なっかしい。ひらひらはためく布をどこかに引っかけてしまうのではないか。長い裾を踏んで転んでしまうのではないか。少しの不安が碧の胸をよぎる。
「そうですか。でも、足下には気を付けてくださいね。踏んで転んでは大変ですから」
少年の言葉に、はーい、と三人合唱が返される。中で片手を上げたのだろう、小さなお化けたちの頭の横に小さな山ができあがった。
「それより! れふとおにーちゃん!」
「お菓子くれなきゃいたずらしちゃいますよ!」
「するよー……」
バサバサと布をはためかせ、少女らは声をあげる。ハロウィンでよく聞く言葉だ。元気盛り、いたずら盛りの年頃だ、本当にいたずらする気満々なのだろう。布の裾から覗く三色の尻尾は獲物を狙う猫のそれのようにゆらゆら揺らめいていた。白い布地に包まれた耳が期待するようにぴょこぴょこと動く。
「それは困りますね。はい、どうぞ」
紙袋から包みを三つ取り出し、子猫たちに差し出す。甘い香りを上げるそれを目の前に、目出し穴の奥で三色三対の瞳が輝くのが分かった。
お化けたちの裾がばっと上がり、小さな手三つ露わになる。紅葉のようなたなごころが、クッキーの入った袋を一つずつ掴んだ。
「クッキーだ!」
「ハロウィン色だ……!」
「可愛いです!」
袋の中に並ぶ市松模様を見て、三人はきゃいきゃいと可愛らしい声をあげる。頭から布を被っている故表情は全く見えないが、声の調子から喜んでいることがありありと分かった。はしゃぐお化け猫たちの様子に、碧は口元を綻ばせる。こうやって喜んでくれる姿を見ると、作ってよかったと毎年思うのだ。
「お菓子くれたからいたずらはなしですね」
「それは助かります」
桃の言葉に、烈風刀は柔らかに返す。どこか残念そうな響きをしているのは気のせいではないだろう。菓子をもらえて嬉しいのは彼女らの本心だろうが、いたずらをしたいのも本心なのだ。そのことは、日頃のはしゃぐ姿からよく見て取れた。
「……だめ?」
「駄目ですね」
クッキー片手に首を傾げる蒼に、少年は苦笑する。日頃から面倒を見ている愛しい子猫たちではあるが、さすがにお菓子といたずらいっぺんに選ぶのは反則だ。きちんと菓子をあげたのだから、いたずらをされては困る。相手が何をしてくるか分からない子どもならば尚更である。
えー、と唇を尖らせる蒼と雛を、だめですよ、と桃が窘める。クッキーで許してくださいね、と念を押すと、はーい、とお化け猫たちは素直に手を上げて答えた。
「ありがとね!」
「れふとおにーちゃん、ありがとう……」
「ありがとうございました」
布の中に包みをしまい、猫たちは三者三様に礼を述べる。さよならー、とまた合唱。くるりと一斉にターンし、少女らは廊下を駆けていった。ひらひらとはためく白いお化けたちが、初等部に続く廊下の角を曲がって消えていく。
立ち上がり、烈風刀は小さく息を吐く。真っ白なお化けという三人の仮装には驚かされたが、大きな布をひらめかせ大きく動く彼女らの姿は可愛らしいものだった。渡したお菓子も、狙い通りハロウィンらしい部分を喜んでもらえたようで何よりである。いたずらまで欲張られたのは少し困ったが。
さて、次は誰が現れるだろう。そんなことを考えながら、少年はまた廊下を歩こうと一歩踏み出す。
ぱたぱたと軽い足音。前方から誰かが駆けてきているのが見えた。小さな点だったそれが、どんどんと近づいて大きくなっていく。オレンジ色と白色の小さな影は、碧い少年の前でぴたりと立ち止まった。
「お菓子ちょうだい!」
元気な声にワン、と可愛らしい鳴き声が続く。初等部のリボンと、その愛犬のわたがしだ。普段は大きなリボンで飾られた黄金色の頭は、今は真っ白な三角耳のカチューシャで彩られていた。もこもことした素材が可愛らしい。まるで愛犬とお揃いのそれは、月色の頭によく似合っていた。
彼女らしいまっすぐすぎる言葉に、少年は小さく笑みをこぼす。お菓子が大好きなリボンにとっては、いたずらよりもお菓子が何よりも重要なのだろう。いたずらの『い』の字すら出てこないのが実に正直で、いっそ好感すら持てた。
「はい、どうぞ」
少年は屈み、紙袋からクッキーが入った袋を取り出し、菓子を愛する少女に手渡す。透明なラッピング袋の中に詰まった焼き菓子を見て、まあるくふくふくとしたかんばせがぱぁと輝いた。やったー、と喜びの声と、ぴょんぴょんと跳ねる音。隣に寄り添う愛犬も、飼い主の嬉しそうな様子にワン、と一鳴きした。
すぐさまねじられたラッピングタイを外し、少女は袋の中に手を入れる。紅葉手が中身を一枚取りだし、いただきまーす、と口に放り込んだ。サクン、とよく焼けた生地が割れる音。柔らかな頬がもごもごと動く。次第に、星光る夕焼け色の瞳がキラキラと輝きだした。
「おいしい!」
「それはよかった」
菓子好きの少女の言葉に、作り手の少年は口元を綻ばせる。やはり、『美味しい』と喜んでもらえるのは嬉しい。菓子をこよなく愛し食べてきた彼女にも満足のいく出来だというのも嬉しいことだ。もしゃもしゃと笑顔でクッキーを頬張る少女を、碧い瞳が愛おしげに眺めた。
「ほら、わたがしも食べて!」
ほらほら、と飼い主は愛犬へと一枚差し出す。キューン、と不安げな声をあげ、わたがしは小さく一歩退いた。丸くもこもことした身体が動き、つぶらな黒い瞳が少年の方へ向けられる。本当に食べていいのか、と問うように潤んでいた。
自分の知識が確かであれば、犬が食べていけないような材料は使っていない。しかし、人間の食物の味付けは動物たちには濃すぎるため良くないという話は度々聞いている。動物用ではないものを食べさせるのは、わたがしの身体のことを考えると控えるべきだろう。
ストップ、と少女と犬の間に手を割り込ませる。突然のことに、夕陽色の目がぱちりと瞬いた。
「これは犬用のものではないので食べられない……というより、食べさせない方がいいですね。ごめんなさい」
「そっかー……」
諭す少年の言葉に、星色の目をした少女はしょんぼりとした顔で俯く。きっと、愛犬と菓子を食べるという幸せを分け合いたかったのだろう。落ち込んだ飼い主を慰めるように、リボンでおめかしをした愛犬がすりすりと足下に擦りつく。ワン、とまた一鳴き。まるで気にするな、と励ましているようだ。
「また今度、わたがしも食べられる物を作ってきますね」
「ほんと?」
烈風刀の言葉に、リボンは顔をあげる。そこには、まだほんのりと悲しみがにじんでいた。それを振り払うように、はい、と力強く返事をする。待っていてくださいね、と足下のふわふわとした白い身体を撫でた。ワン、と元気な鳴き声が一つ廊下に響く。蒲公英の瞳が、柔らかな白と澄んだ浅葱を往復する。輝きを取り戻したその色が、元気よくぱちりと瞬いた。
「約束だよ!」
「はい、約束です」
少女は小指をピンと立てた手をこちらに伸ばす。少年も同じように小指を立て、手を差し出した。指と指が絡み合う。ゆーびきーりげーんまーん、と可愛らしい声とともに繋がった手が揺れた。
お菓子ありがとー。ワン。一言ずつ言い残し、一人と一匹は廊下を駆けていった。小さな背が初等部棟へと続く廊下に消えたことを確認し、碧は立ち上がる。帰ったら犬用クッキーのレシピを調べねば、と考えながら、再び廊下を歩き出した。
「れーふとー!」
「れふとー!」
また後ろから声。そして、タン、タン、とリズミカルに地を叩く音。少し特殊な足音に眉をひそめながらも、名を呼ばれた少年は振り返る。そこには、黒いマントをはためかせた二人の兎がいた。ライムグリーンの靴が床を踏みしめ、宙を飛ぶ。マントが羽のようにひらひらと舞った。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子くれなきゃいたずらしちゃうよー!」
ぴょん、と器用に烈風刀の目の前に着地し、ニアとノアはお決まりの文言を口にする。大きく開いた口からは、普段は見えない八重歯が覗いていた。きっと、仮装用の小道具だろう。丈の長い真っ黒なマントを見るに、吸血鬼の仮装だろうか。小さな両の手には、お菓子が顔を覗かせる紙袋が握られている。もう各所でたくさんお菓子をもらってきたらしい。
「二人とも、廊下を飛んではいけないと言っているでしょう」
「……トリックオアトリート!」
「おっ、お菓子!」
険しい面持ちでいつも通り注意する少年に、少女らはもう一度ハロウィンの挨拶を繰り返す。どうやらそれで誤魔化す気らしい。イベント事で浮ついているのは分かるが、やはり危ないのだから注意してほしいものだ。楽しいイベントだというのに、狭い空間で跳んで跳ねて怪我をしては台無しになってしまうのだから。
ふぅん、と翡翠の瞳が細められる。そこには日頃子どもたちと相対する彼らしからぬ少し冷たい色が宿っていた。
「悪い子にあげるお菓子はありませんよ」
「飛びません!」
「ちゃんと歩きます!」
はっきりと通る声に、双子兎はビシリと額に揃えた手を当て必死な声で叫ぶ。良い子にするからお菓子ください、と兎たちは合唱する。こちらを見つめる瑠璃の瞳はうるうると揺らめいていた。普通ならば、菓子をくれないならばいたずらをするところだろうに、よほど菓子が食べたいらしい。いたずらのことなどもう忘れてしまったようだ。きちんと言いつけを守ろうとする姿勢といい、素直なのはよろしいことである。
「良い子にしているならあげましょう。どうぞ」
「やったー!」
「ありがとう、れふと!」
はい、と小さな手に包みを乗せてやる。瞬間、悲しげに歪んでいた顔がぱぁと明るくなった。クッキー片手にぴょんぴょんと元気に跳ね、二人は礼の言葉を口にする。あ、と気まずげな音がこぼれ、地面を蹴る足音がピタリと止む。本当に言いつけを遵守するつもりのようだ。素直で微笑ましい姿に、少年は小さく笑みをこぼした。
チラリ、と青兎たちは碧を見上げる。星空色の視線が、手に持った袋と少年を往復する。何か言いたげな様子に、どうしたのだろうか、と小さく首を傾げる。もしや、もう一つ欲しいと言い出すのだろうか。
「一人一個ですよ」
「わ、分かってるよ!」
「そうじゃなくてー……」
うー、と不満げに呻きをあげ、少女たちは再び烈風刀を見上げる。ゆらゆら揺れる二対のアズライトが、エメラルドを見上げる。カサ、と小さな手に握られた紙袋が音をたてた。
「れふとはハロウィンやらないのー……?」
頭を寄せるように首を傾げ、兎たちは声を揃えて問う。予想外の言葉に、若草色の目がぱちりと瞬きをした。
ハロウィンならきちんと楽しんでいる。今まであってきた少女らのように仮装こそしていないが、子どもたちに渡すためにわざわざ菓子を作る程度には自分もハロウィンを満喫していた。二人にもきちんと菓子を渡したのだから、それは伝わっているはずだ。だのに、何故そのようなことを問うのだろう。
しばしの思考。あ、と小さな音が薄い唇からこぼれ落ちる。そういうことか、と頷き、少年は屈みこむ。蒼天のような瞳をまっすぐに見つめ、彼は手を差し出した。
「トリック・オア・トリート」
お菓子くれなきゃいたずらしちゃいますよ、といたずらげな調子でお決まりの文言を口にする。薄い唇の端は、ゆるりと持ち上がっていた。
ぴこん、と二人の頭に付けられたリボンカチューシャが揺れる。見つめた先、紺碧の瞳がキラキラと輝き出す。待っていました、とばかりにノアは持っていた紙袋に急いで手を突っ込む。長い袖を器用に操り、中から一つの袋を取りだした。
「お菓子あげるよ!」
「いたずらしないでー!」
きゃいきゃいとはしゃぎながら、双子は伸ばされた手に小さな袋を乗せる。白い英字が書かれた透明な袋の中には、クッキーが入っていた。溶けてしまったように輪郭が少しひしゃげ少し濃い焼き色をしたそれは、手作りだと一目で分かるものだ。きっと、彼女らも自分と同じようにハロウィンで皆に配る菓子を作ってきたのだ。そわそわとした様子を見るに、それを自分にも渡したくて仕方無かったらしい。それはそうだ、せっかく用意してきたのならば食べてもらいたい。それは、料理を作る者として当たり前の欲求だ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ!」
「れふともお菓子ありがとう! 大切に食べるね!」
少年はふわりと笑って礼を言う。ニアとノアの二人ももらった袋を大事そうに両の手で包み込み、ニコリと笑う。青空色の睫で縁取られた目が、虹のように大きな弧を描いた。
また明日ねー。ハッピーハロウィーン。双子兎はそう言って、玄関へと早足で歩いて行った。ちゃんと言いつけ通り歩いているあたり、彼女らは根は素直で良い子なのだ。いつも楽しい気持ちがそれを上回ってしまうのが問題なのだけれど、それはまだ幼い故だろう。
さて、と少年は袋の中を見る。クラスの友人たちに渡したのもあって、大きな紙袋の中身は朝よりだいぶ減っていた。それでも、まだ訪れていない子どもたちに配る分はあるはずだ。そして、愛しいレイシスにも。
彼女もハロウィンを楽しんでいるだろうか。菓子を渡したら喜んでくれるだろうか。そんなことを考え、少年は再び歩き出そうとした。
瞬間、視界が紫に染まる。目の前が一色に塗り潰され、ビクン、とクリーム色のジャケットに包まれた肩が跳ねた。突然の異常から逃げるように、反射的に一歩後退る。少し広くなった視界に、今度はオレンジが映り込んだ。ぱたぱたと羽がはためく音が静かな廊下に落ちる。
「菓子ヨコセー!」
「ジャナイトイタズラシチャウヨ?」
勢いの良い声とクスクスと高い笑い声が耳をくすぐる。目の前に突如現れたのは、学園の理科室に住み着いている小さな悪魔、カヲルとアシタだ。姉妹たちも、ハロウィンを楽しもうとしているらしい。学園内でも随一のいたずらっ子――今までの所業を考えるとそんな可愛らしい言葉で済ませていいのか疑問だが――の彼女らにはもってこいのイベントなのだ、普段よりも増して元気に見えた。
八重歯覗く口がサッサトシロヨ、ハヤクハヤク、と少し乱暴な調子で言葉を紡ぎ出す。先の尖った尻尾がゆらゆらと振られていた。
「いたずらされては困ります。はい、どうぞ」
袋から包みを二つ取り出し、小さな手に乗せてやる。シンプルなラッピングが施された小袋を見て、少女らは二マリと笑う。そこにはまだいたずらの色が宿っていた。
「コレッポッチジャ足リナイヨー?」
「モットヨコセー!」
菓子の袋を掴んだまま、双子は怒りを表すように両手を掲げる。八重歯覗く口からはケタケタと意地悪げな笑い声が漏れていた。どうやら、意地でもいたずらがしたいようだ。
「一人一つですよ」
「知ルカ!」
「クレナイナライタズラダネー」
眉を寄せ、烈風刀は小さな悪魔たちを眇目で見つめる。そんなことはお構いなしとばかりに、二人はわがままを叫んだ。クスクスとまた笑い声。こんなに幼いのに、とても悪魔らしい響きをしていた。
ホラホラ、と少女らは小さな三つ編みを揺らしにじり寄る。その手には、いつの間にか緑色の小瓶が握られていた。きっと、彼女ら謹製の香水だ。それも、ほぼ確実にただの香水ではない。怪しい効能付きのものである。ただでさえろくなことを起こさないのだ、『ハロウィン』といういたずらっ子の祭典のために用意されたそれがどんな効能を持つかなど考えたくもない。
きゅぽん、と蓋が抜かれる音。同時に、少年ははぁ、と溜め息一つ吐いた。投げやりに袋に手を突っ込み、もう一袋取り出す。今にも瓶を傾けんとする双子の前に、それを掲げて差し出した。
「特別ですよ。半分こしてくださいね」
他の子どもたちのいたずらなら甘んじて受け入れただろう。しかし、カヲルとアシタはただの幼い子どもでなく悪魔である。そんな何が起こるか全く分からない、実害を伴う彼女らのいたずらを受けるのはごめんである。菓子一個で回避できるなら素直にしておくべきだ。
「エー」
「モウ一個クレレバイイジャン」
「二人だけ特別なのですよ? わがまま言わない」
毅然とした碧の言葉に、双子悪魔は顔を見合わせる。不満げにぷくりと頬を膨らます姿は年相応の可愛らしいものだ。その手に握られた怪しい香水の瓶が全てを台無しにしているのだけれど。
チェー、と二人はいじけた声を発する。どうやら、この一袋で手を打ってくれるようだ。内心、ほっと胸を撫で下ろす。二人だけを特別扱いするのは少し気が引けるが、謎の香水の餌食になるとなれば話は別だ。菓子一個で己の身を守れるのならば安いものである。
カサカサとビニールが擦れる音。真っ先に袋を開け、少女らは白い手袋に包まれた手を袋の中に入れる。細く小さな指がクッキーを一枚掴み、口に運ぶ。サクリ、と軽い生地が割れる音がした。
「ウメー!」
「オイシイネ、カヲルタン!」
目の前に浮かぶブラッドレッドの瞳がキラキラと輝き出す。どうやら、お気に召したようだ。ウメー。オイシー。楽しげに声をあげながら、少女らは袋の中身をひょいひょいと口に放り込んでいく。頬を膨らませもぐもぐと食べる姿は、小動物的愛らしさがあった。この姿だけ見れば、ただの可愛らしい子どもなのだから困る。
食べれば無くなる。それは必然だ。二人で半分こ、それもハイペースで食べたため、袋はあっという間に空になってしまった。同じ色した二対の瞳が、名残惜しげに空になった袋を見つめる。しばしして、期待で彩られた顔がこちらに向けられた。
「ダメです」
「チェー」
「ケチー」
「特別だと言ったでしょう」
唇を尖らせる悪魔たちに、烈風刀は袋を後ろ手で隠しながら言う。これ以上食べられてはキリが無い。悪質ないたずらを盾にわがままを突き通させるのも、教育上よろしくない。ここできちんと終わらせなければいけないのだ。
「……マァ、勘弁シテヤンヨ。ネ、アシタタン」
「仕方ナイネー。カヲルタン」
姉妹は顔を見合わせケラケラと笑う。悪魔じみた響きが廊下にこだました。瞬間、目の前の小さな躯体が消える。どういう原理かは知らないが、どうやら満足して帰ったようだ。最初から最後まで心臓に悪い少女らだ。
高い笑い声が未だ耳に残る中、少年は歩き出す。度々子どもたちに引き留められるため、作戦会議室までの道のりはまだ遠い。アップデート作業は一昨日の時点で終わらせており、正常に動いていることは昨日確認済みである。ハロウィンを楽しみたいレイシスの望みを叶えるため、この一週間調節に調節を重ね、今日行うべき業務はできるだけ減らした。慌てる必要はないが、それでもあまり遅くなるのもよくないだろう。手早く済ませ、彼女が長くハロウィンを楽しめるようにしてやらねばならないのだ。それが今自分が何よりもやるべき事である。
作戦会議室目指し、少年はまた一歩踏み出す。タタタ、と軽快な足音が近づいてくる。また子どもたちだろうか。今度は誰が来るだろう、と考え、碧い少年はふと目を細め振り返った。
「烈風刀ー!」
耳に飛び込んできた耳慣れた声と視界に映った朱に、碧は眉を寄せる。これでもかというほど露骨に顔がしかめられた。
そんな彼の様子など毛ほども気にせず、走り寄ってきた少年――雷刀はキラキラと輝く目で弟を見つめる。大きな手をこれでもかと広げ、ずいと碧の目の前に差し出した。
「トリックオアトリート! 菓子くれ!」
「もうあげたでしょうが」
弾む声を冷たい声が切り捨てる。明らかにうんざりとした、機嫌の悪さを露わにした声だ。子どもたちの前ではまず見せない様子である。相手が血を分けた兄だからこそ、取り繕うことなく感情をさらけ出しているのだ。そして、こんな感情を抱くのも相手が兄だからである。
昨晩クッキーをラッピングしている最中、雷刀は突然言ってきたのだ。『トリック・オア・トリート』と一日早い挨拶を。明日まで待て、と拒否したが、彼はいたずらげな笑みで時計を指差した。よく見れば、壁掛け時計の短針は十二を指していた。どうやら、ラッピングしている内に日付を超えてしまったらしい。お決まりの文言が再び紡がれるより先に、脇に積み重なっていたクッキー一枚を引っ掴みその口に放り込んだのが今日の夜中の話である。これで彼の分は終わりだ、と思っていたのだが、また要求してくるとは。何とも図々しい兄を持ったものである。
「それはそれ、これはこれだろ? てかオレだけクッキー一枚とかさすがにひでーだろ」
ほら、と朱は広げた手をひらひらと振る。幼い子どもであれば可愛らしい光景であるが、相手は同い年の双子の兄である。可愛らしさなど欠片も感じない。ふてぶてしさだけがそこにあった。
「何? それとも烈風刀はいたずらがいい?」
ニヤ、と口角を吊り上げ、雷刀は笑う。差し出された手が顔の横まで持ち上がり、指が曲がり伸ばされを繰り返す。明らかに何かよからぬことを働こうとする動きだ。じり、と朱い少年は一歩にじり寄る。ほらほらー、と煽る声は腹立たしいものだ。
はぁ、とこれ見よがしに嘆息する。彼の考えるいたずらなど大したものではないだろうが、そんなものに構ってやる暇などない。紙袋の中に手を入れ、引っ掴んだそれを投げ渡す。宙を舞ったそれを、目の前の朱はきっちりと受け止めた。カサ、と手の内に収まった透明な袋が声をあげる。
「さんきゅ。いたずらは勘弁してやんよ」
「図々しいにも程があるでしょう」
ニコニコと楽しげな笑みを浮かべる雷刀に、烈風刀は酷く渋い顔で返す。何が『勘弁』だ、二度ももらうなどと卑怯なことをしているというのに。何とも身勝手で面倒な兄を持ったものである。
ふと頭に疑問がよぎる。これだけ人に菓子をねだる彼だが、その手には先ほど渡した菓子以外何も持っていない。ぱっと見たかぎりでは、ポケットに何かを入れている様子もないようだ。ふむ、と頷く。そのまま、少年はずいと手を差し出した。
「……トリック・オア・トリート」
碧は冷たい声と視線を浴びせる。え、と目の前の紅緋がきょとりと丸くなる。八重歯覗く口が間抜けに開かれた。
「人にねだっておいて、貴方は何も持っていないなんてことありませんよね?」
小首を傾げ、碧の少年はニコリと笑う。花浅葱の睫に彩られた目は柔らかな弧を描いているが、その表情は笑顔からは程遠い冷たさを孕んでいた。どこか気迫のあるそれは恐ろしさすら感じるものだ。
弟の言葉に、兄の身体がギクリと固まる。あ、え、と意味を持たない音が気まずげに開いた口から漏れ出る。真紅の瞳はうろうろと宙を泳ぎ、定まらない。ザリ、と音をたてて一歩後退ったのが見えた。踏み出し、離れた分の距離を詰める。ほら、と一言催促すると、びくんと目の前の身体が大袈裟なほど跳ねた。
「えーっと……」
濁った声を漏らしながら、朱はきょろきょろと視線を彷徨わせる。呻き声がいくらか漏れた後、彼は今しがたもらったばかりのクッキーをそろそろと差し出した。
「駄目に決まっているでしょうが」
ふざけた行動を冷え切った声が切り捨てる。だよなぁ、と諦めきった声が響いた。分かっているなら最初からやるな、と眉間に更に皺が刻まれる。よほど凄まじい形相をしているのだろう、うぇ、と目の前の朱が小さく苦い声を漏らしたのが見えた。
「お菓子がないのでしたら、いたずらしますね?」
一言放ち、烈風刀は一歩踏み出す。同時に、雷刀は一歩後退る。踏み出す。後退る。踏み出す。後退る。何度も繰り返されるそれに、一向に二人の距離は縮まらない。往生際が悪いにも程というものがある。
「…………やだ!」
子どもめいた声をあげ、雷刀は急いで踵を返す。ダン、と強く足を踏み出す。力強い足音ととも、片割れは廊下の奥へと消えていった。
一人だけの廊下に溜め息が一つ落ちる。呆れと疲労を滲ませた重苦しいものだった。鈍く痛む頭に手を添える。秋も終盤の空気でほんのりと冷えたそれが心地良く思えた。
人にしつこく菓子を要求しておいて、いざ自分が同じ文言を言われては逃げるなど、どれだけふざけているのだ。まさか小さい子相手にもやっているのではないか、と疑念が浮かび上がる。否、さすがにないだろう。彼も子どもたちが好きで、なかなかに面倒見が良いのだ。おそらく大人しくいたずらを受けているだろう。それが双子の弟相手となったら逃げるというのは何とも情けないが。
彼は自分だけクッキー一枚で済まされるのは酷い、と主張していた。それくらい分かっている。だから、家に帰ったら残った生地を焼いて、夕食後に一緒に食べようと考えていたのだ。けれども、こんなことをされてはさすがにそんな甘いことをする気は起こらない。冷凍したままにして、今度の休みに自分一人だけで食べてしまおう。そんなことを考えながら、少年はまた歩みを再開する。軽い足音が廊下に響いた。
「烈風刀!」
可憐な声とともに、ぱたぱたと軽やかな足音。前方、広がる視界に桃色が揺れる。紫色の三角帽がふわっと浮いた。
「烈風刀! トリック・オア・トリート! デス!」
落ちてしまいそうになった帽子を手で押さえつつ、走り寄ってきたレイシスは声高にハロウィンの挨拶をした。桃色の目と桜色の唇はにっこりと弧を描いており、彼女のテンションをよく表している。
レイシスはイベント事が大好きだ。しかし、イベントとアップデートは重なるもので、当日は運営業務に追われ満足にイベントを楽しむことはあまりできなかった。しかし、今年は少しだけ早めのハロウィン関連アップデートを行い、当日の業務を極力減らしたのだ。少なくとも、レイシスへの負担は最小限にしている。だからこそ、今年は楽しんできてください、と放課後彼女を友人たちの元へ送り出したのだ。あの時見せた、いっそ泣き出してしまいそうなほどの満面の笑みは、まだ瞼の裏に焼き付いている。
今年こそはとことん楽しむと決めたらしい。彼女の服装は、クリーム色の学園指定制服から変わっていた。濃紫のパフスリーブワンピースには、そこかしこをオレンジと黒の大ぶりなリボンが彩っている。丈は短いが、ふんだんにあしらわれたフリルからボリューミーな印象を与えられる。普段は高い位置でツインテールにしているピンク色の髪は、今日は太くゆるい三つ編みのお下げにアレンジされていた。頭にはワンピースと同じ色をした大きな三角帽子が被されている。先日、別世界と繋がった際に撮影したハロウィンドレスだ。今日という日にぴったりな衣装である。肩に掛けられたトートバッグは膨らんでいる。きっと、友人らに菓子をたくさんもらったのだろう。彼女の交友関係の広さと人望が窺える。
愛しい少女の可愛らしい姿に、烈風刀は口元を綻ばせる。魔女らしくも少女然としたデザインは、愛らしい彼女によく似合っていた。二つ結びになった三つ編みが、普段よりも幼く純朴とした印象を与える。楚々とした彼女のために作られた衣装は、その魅力を何倍にも膨らませていた。
「はい、お菓子あげますから――」
だらしなく緩みそうになる頬に力を入れつつ、少年は紙袋に手を入れる。掴んで取り出したのは、先ほどニアとノアにもらったクッキーだった。想定外のものに、碧い目が丸くなる。一度しまい、改めて袋の中を覗き込む。あれだけあったクッキーの包みは、綺麗に無くなっていた。
あれ、と思わず疑問符が多分に含まれた声が漏れる。何度袋の中を手で引っ掻き回しても、あるのは二人にもらったクッキーだけだ。自分で作ったものは一つも見当たらない。どうやら、先ほど雷刀に渡したものが最後だったようだ。あの兄め、と弟は眉を寄せる。せっかくたくさん作ってきた――愛しいレイシスにも食べて喜んでもらうために作ってきたというのに、無くなっては意味がないではないか。きちんと計算して用意しなかった自分にも非はあるが、直接の原因となった兄へ恨みを向けてしまう。白い眉間に皺が刻まれた。
「アレ? 烈風刀?」
ずっと紙袋の中を探る少年の姿に違和感を覚えたのだろう、少女は不思議そうに首を傾げ、彼の名を呼ぶ。野の花が風にそよぐように、撫子の髪がふわりと揺れた。
「えっと……その……」
「もしかシテ、お菓子ないんデスカ?」
「…………はい」
少女の問いに、少年は消沈した声で答える。もらったお菓子が入った紙袋を丁寧に地面に置き、両手を頭の横まで上げる。降参のポーズだ。好きにしてくれ、と全身で語っていた。
はわ、とレイシスはこぼす。その声は悲しみと喜びがない交ぜになった不思議な色をしていた。お菓子がもらえない悲嘆と、いたずらができる歓喜が同時に湧き起こってきているのだろう。菓子好きでイベント好きな彼女としては複雑であろう。
「……ジャア、いたずらしちゃいマス!」
しばしの沈黙の後、キラン、と紅水晶の瞳が輝く。温厚な彼女には珍しい、いたずらっ子の光が宿っていた。せっかくのハロウィンだ、お菓子だけでなくいたずらも楽しみだったであろうことはよく分かる。それが堪能できる今に目を輝かせるのは必然だ。
一体どんないたずらをされるのだろう、と少年は楽しげな少女を目の前に考える。清楚で元気な彼女は、どちらかというといたずらをされる側だ。年相応にお茶目な部分はあれど、いたずらをすることなど滅多にない。そんな彼女のいたずら、それもハロウィンというはっきりとした名目のある本気のものなど、想像が付かなかった。
薔薇色の少女は、じりじりと碧の少年に近づく。距離が縮まる度に、鼓動が速くなっていく。何をされるか分からない緊張もあるが、それ以上に好きな女の子が自分のすぐ近くまで来ているという事実が心臓を力いっぱい動かした。こくり、と息を呑む。口の中は二つの緊張でどんどんと乾いていった。
「コチョコチョー!」
元気な声とともに、少女は少年へと飛びかかる。好きな女の子がすぐ近くまで――しかも、己の胸に飛び込んでくるように迫ってきた事実に、烈風刀の頬にぶわっと紅が刷かれた。天河石の目が怯えたように、逃げるようにぎゅっと閉じられる。
抱きつくように大きく開かれた細い腕は、少年の脇腹へと伸ばされた。たおやかな指が曲げられ、伸ばされ、制服の上から薄い肌をくすぐる。白い指は何度も蠢き、少年の横腹を細かくなぞった。
敏感な部分に触れられ、肌が粟立つ。瞬間、身体中にくすぐったさが広がっていく。は、と呼気にも似た音が開かれた口から漏れた。
「ぁっ、は、ははッ!」
容赦ない手の動きに、烈風刀は大きな笑い声をあげる。物静かな彼らしくもない、腹の底から出すような大声だ。くすぐられているのだ、そんな声もあげてしまうのも仕方が無いだろう。我慢しろと言う方が難しい。
「ッ、あ、はは! れいし、す! あは、やめ、やめてくだ、ははは!」
「逃げちゃダメデスヨー?」
コチョコチョー、と楽しげな声を奏でながら、少女の細く美しい指が少年の脇腹をくすぐる。容赦など全くない、本気の動きだ。何にでもまっすぐ全力を出す彼女だ、いたずらも例外では無いのだろう。された側はたまったものではないが。
ははは、と少年はらしくもない大笑声をあげ続ける。あげるしかないのだ。全身を支配するくすぐったさに何もできなくなってしまっていた。距離を取ろうにも、愛するレイシスに『逃げないで』だなんて言われては、動くことなど本能が拒否する。結果、ただただその場に立ち尽くし、少女のいたずらを一身に受けるばかりだ。
「は、ぁっ、はは! あ、は! れい、しす! も、や、ぁっ、はははは!」
涙すら浮かべ笑う碧の姿に、桃はふふ、と笑みをこぼす。小悪魔めいた、いたずらっ子な響きだ。白魚のような手は止まることなく、こちょこちょと少年の脇腹をなぞる。その度に、彼は普段よりも少し高い笑い声をあげた。人のいない廊下に、いたずらっ子の楽しげな声と被害者の笑い声が響いた。
どれほど経っただろうか、ようやく少女の手が退いていく。ようやく全身を襲うくすぐったさから解放され、烈風刀は思わずその場に崩折れた。腹を抱えるように脇腹を押さえて蹲り、ぜーはーと大きく息を吐く。あまりにも大きく長く笑ったため、呼吸するのもままならない。そういえばくすぐりは拷問に使われるとどこかで聞いたな、と酸素が足りていない脳味噌が余計なことを思い出した。
「大丈夫デスカ?」
ワタシのせいデスケド、と言いながら、レイシスは蹲った少年の顔を覗き込む。その目からはいたずらっ子の光は消え失せ、常通りの優しい色が戻っていた。心配げの声には、どこか満足感が滲んでいる。やはり、盛大に全力でいたずらできたのが嬉しいようだ。彼女が喜んでくれたならば、と少年の献身的な部分が満たされていく。未だ息が整わない身体は、もう少し加減してくれ、と泣き言を吐いた。
だいじょうぶです、と息も絶え絶えに答える。すー、はー、と意識的に深呼吸をする。長い間くすぐられていたためか、まだ脇腹がぞわぞわとした感覚に陥る。ひ、と時折引きつった笑い声が名残のように漏れ出た。バクバクと心臓が大きく鼓動する。くすぐられていた名残もだが、好きな女の子に触れそうなほど近く、否、実際に触れられたことに小さな心が反応しているのだ。上気した頬は、いたずらによる笑みだけでなく恋の色がふわりと浮かんでいた。
「らい、ねん、は、ちゃんと、用意、します、の、で……、勘弁、して、くださいね……」
「もちろんデス! お菓子くれたらいたずらなんかしマセンヨ」
笑い疲れもはや虫の息の烈風刀の言葉に、レイシスは笑顔で答える。大輪の花のように華やかな笑顔は可愛らしいものだ。けれども、碧にはそのかんばせがどこか恐ろしいものに見えた。
降ってきた声に、少年は安堵の息を吐く。素直できちんとした彼女がトリックもトリートもいっぺんにやるとは思えないが、いたずらを受けたばかりの脳味噌にはその保証の言葉は何よりも染み入った。
懸命な深呼吸の末、ようやく息が整ってきた。はー、と一度大きく息を吐き、烈風刀は立ち上がる。まだ脇がそわそわとする感覚があるが、笑いも息も大方収まった。もう動けるだろう。
ニコニコと人好きする笑みを浮かべる桃を見やる。菓子という彼女が一番求めていたものを差し出すことができなかった悔やみはあれど、最終的にいたずらで満足してくれたのはいい。しかし、やられっぱなしというのも己の性にあわない。少しのいたずら心が、少年の胸に芽生えた。
「……とりっく、おあ、とりーと」
笑い疲れた声で碧は言葉を紡ぐ。どこか拙い響きをしていた。急くように差し出された手に、桃ははわっ、と声をあげる。驚きに開かれたラズベリルは、すぐにどこか得意げに細まった。
「もちろん、用意してありマスヨ!」
ふふん、と楽しげに鼻を鳴らし、少女は肩に掛けたトートバックに手を入れる。中を掻き回してしばらく、なめらかな手が透明な袋を掴んで取り出した。小さなそれの中には、小ぶりなマフィンが収められていた。カボチャを練り込んだのだろう、オレンジ色の生地はドーム状に丸く膨らみ、その斜面には三角形が三つチョコレートで描かれていた。二つの逆三角形の間に小さな三角形がある様は、ジャック・オ・ランタンを思わせる。ハロウィンらしい可愛らしい菓子だ。
手渡された愛らしいデザインの菓子に、少年はふわりと笑みをこぼす。彼女の料理の腕前は高い。このような見目の美しさ、そこから想像できる美味しさは確かに保証されている。何より、好きな女の子の手作りお菓子をもらえたのが大きい。密かながらも多大な恋心を抱える碧にとって、それは何よりも嬉しく喜ばしいことだ。表情が緩むのも仕方の無いことだろう。
「ダカラ、いたずらしちゃダメデスヨ?」
「お菓子をもらえたのですからしませんよ」
顎に人差し指を当て、レイシスは茶目っ気たっぷりに言う。烈風刀も軽い口調で真面目な言葉を返した。ふふ、と笑声が二つこぼれ落ちる。
「ハロウィン、楽しいデスネ!」
そう言って、薔薇色の少女はニコリと笑った。お菓子にいたずら、どちらも堪能できた今年のハロウィンは、彼女にとって良い思い出となったようだ。今まで業務を最優先にし、イベント事を楽しむ機会を失っていた彼女が、これほどまでハロウィンを楽しんでいる。愛する人が喜びに溢れ笑う様に、碧の少年の胸に幸福が広がっていく。彼女の幸せが、彼にとっての最大の幸せだった。
それはよかった、と烈風刀は微笑む。ハイ、と少女はにっこりとした笑顔で頷いた。
カボチャ色の陽が、二人の横顔を照らした。
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お昼は二人でたこパしよっ【嬬武器兄弟】
お昼は二人でたこパしよっ【嬬武器兄弟】
いつもの診断メーカーで掌編書こうとしたら思いの外長くなったので。
嬬武器兄弟がたこ焼き焼くだけ。
AOINOさんには「100グラム足りなかった」で始まり、「優しい風が髪を揺らした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以上でお願いします。
「あっ、百グラム足りねぇ」
やべ、と雷刀は顔をしかめる。電子計量器の液晶画面には、必要分量から百グラムほど少ない数字が表示されていた。ボウルに移していた袋の中身はもう空っぽである。どれだけ逆さにして振っても、出てくるのは一グラムにも満たない微量の粉だけだ。
え、という声とともに、野菜が刻まれる小気味良い音が止む。隣を見ると、包丁を手にしたままこちらを向く烈風刀の姿があった。手早く手を洗った彼はこちらに歩み寄り、一緒にスケールの数字を覗き込んだ。
「……買い置き、ありませんでしたよね?」
「これが最後だったと思う……」
どうしよ、と少年は縋るような目で碧を見る。他の具材の準備はとうに済ませてしまった。もう戻れない場所まで来てしまっているのだ。だのに肝心のものがこれでは、今日の昼食が台無しになってしまう。縋るように再び袋を逆さに振る。最早欠片すら出てこなかった。
ふむ、と弟は顎に指を当てる。貸してください、と言われ、袋を手渡す。裏面をじっくりと読んだ彼は冷蔵庫にまっすぐに向かい、奥から小麦粉を取り出した。
「残りは小麦粉でもいいでしょう。原材料はほぼ同じのようですし」
そう言って、彼は袋の留め具を外しボウルに粉を入れていく。デジタルの数字がちょうど必要な分量を示したところで、テキパキと片付けた。その流れるような手さばきを呆然と眺める。朱い頭がこわごわと傾いだ。
「いいのか……?」
「まぁ、出汁が足りないかもしれませんけれど、食べる時に鰹節をたっぷりかければいいでしょう」
不安げに尋ねる兄にあっけらかんと言い放ち、弟は再びまな板に向かう。包丁が動く度、プラスチックの板の上で緑が細かくなっていく。ザクザクと耳障りの良い音がキッチンに響いた。
基本的に、烈風刀はレシピ遵守を心掛けている。大体これくらいでいいだろう、といつも勘で料理をする自分とは大違いだ。けれども、時たまこうやって雑になることがある。彼が培ってきた知識と経験あってこその判断なのだから、そう見えるだけであって信頼できる合理的なものだ。それでも、真面目な彼が己と同じようなことをするだなんて、と毎度意外に思ってしまう。同時に親近感を覚えた。そんなことを言ったら、感覚だけでやっている貴方とは違う、と怒られるだろうけれど。
「さ、こっちは終わりましたよ。生地の方、お願いしますね」
ボウルに刻んだ野菜を入れ、烈風刀はこちらを見やる。未だスケールに乗せられたボウルを前に佇む自分に、少し冷めた目線が送られる。あっ、と声を漏らし、雷刀は急いで粉袋の裏面に書かれた分量の水と卵を入れてかき混ぜる。少しダマのできたそれとお玉を抱え、雷刀も彼に続いて食卓へと足早に向かった。
いつも多くの料理が並ぶテーブルの上には、ボウルやスチロールトレイといった食器と言い難いものが並んでいた。その中央に、大きなホットプレートが鎮座している。久しぶりの彼の登場に、朱は目を輝かせた。
手早く付属品とコンセントをセットし、スイッチを入れる。熱を発し始めたそれに、烈風刀は窪み一つ一つに油を塗り込んでいく。全体に油が染み渡ったことを確認し、彼は先ほど作ったばかりの生地を流し込む。じゅわぁ、と音とともに白が黒いプレートを塗り潰していく。水分の多いそれは一気に丸い窪みを満たしていった。
脇に置いていたトレイを手に取り、彼は刻んだタコを一つ一つ手早く放り込んでいく。それが終わると、すぐさま揚げ玉が入った袋を傾けプレート全体に降らせていく。続けて刻んだキャベツと紅ショウガ。黒かったプレートは、白と緑と赤で彩られた。
じゅうじゅうと鳴くプレートを前に、雷刀は竹串を持つ。スッと金属プレートに走る溝に合わせて手早く線を引き、今度は深い窪みへと差し込む。端にはみ出した生地を中に巻き込むようにしてくるくると回してひっくり返していく。軽やかな指さばきにより、半円だった生地は丸い形に整えられていった。
すっかり球体になった生地をころころと転がし、きつね色になった頃合いを見計らって皿に移していく。いくつもの丸が白い食器の上を転がり、串でつつかれ整列する。上からソースを掛け、マヨネーズ、青のり、そして弟が言ったようにたっぷりの鰹節を浴びせる。生地の熱を受けた鰹節がひらひらと拙いダンスを踊った。
「烈風刀、できたぞー」
「ありがとうございます」
油を引き直し生地と具材を再び投入している弟の前に、たこ焼きが載った皿を置く。ちょうど入れ終わったのだろう、烈風刀は礼の言葉を言い手を止めた。
パシン、と手を合わせる音。続けて、いただきます、と二人分の声が重なった。
箸を手に取り、まあるいそれを一つ引っ掴む。ふーふー、と念入りに息を吹きかけ、口の中に放り込む。瞬間、ソースと甘さとマヨネーズの塩気、青のりの風味、生地と鰹節の濃厚な味が口の中に広がった。同時に、凄まじい熱が舌と口内粘膜を焼いていく。
「あっふ!」
「ちゃんと冷まして食べなさい」
もう、と呆れた声を発しつつ、烈風刀ははふはふと空気を求めて口を開ける兄の前に麦茶が入ったグラスを置く。礼を言う暇も無くそれを手に取り、口の中に流し込む。冷たい液体が粘膜を冷まし潤していく。喉を焼きつつ、柔らかなたこ焼きは少年の胃の腑に収められた。
「んめー!」
中身が空になったグラスを机に置き、雷刀は歓喜の声をあげる。口内を焼き払っていったたこ焼きは、思わず声をあげるほどの美味しさだった。さすがたこ焼き粉、と内心頷く。今回は半分近くがただの小麦粉なのだけれど。それでもいつも通り美味く感じるのは、弟が言ったように鰹節で旨味を補っているからだろう。やはり、彼の知識と経験に基づく判断は素晴らしいものだ。
麦茶を注ぎつつ、向かい側を見やる。自分以上に念入りに息を吹きかける碧の姿が目に入った。青色の箸が動き、ソースたちで彩られた丸を口に運ぶ。はふ、と息を吐き出す音。口に手を当て、彼は咀嚼する。少し膨れて動く頬は子どもらしく愛らしいものだ。喉が動き、嚥下する様が分かる。一拍置いて、美味しい、と柔らかな声が聞こえた。だろ、と朱は得意げに箸を回した。
「貴方、本当にたこ焼きを焼くのが上手ですよね」
「だろー? オニイチャンすごいだろー?」
こういうことばかりですけどね、と烈風刀は笑う。なんだよ、と拗ねた口調で返す。音に反して口角は上がり、緩い孤を描いていた。ふ、と笑声が二つテーブルにこぼれ落ちる。
じゅわじゅわと声をあげる生地を見て、雷刀は竹串を操る。くるりくるり回転する生地の面倒を見つつ、冷めつつあるたこ焼きを口にする。カリッとした表面が、とろりととろける中身が相変わらず口内を焼く。それでも、食べる手は止められなかった。この瞬間が好きだ。たこ焼きやお好み焼きといった食べながら作るものは、なんだかある種のイベントのようで楽しいのだ。
作業をしながらものを食べるなど、行儀が悪いと怒られるだろう。けれども、今日ばかりは烈風刀は何も言わなかった。大切な昼食の調理をしているのだから当たり前だ。今日ばかりは彼が口出しできることなど無い。そこも少しだけ好きだった。あの何でもできる弟に頼られている感覚がするのは嬉しい。たとえそれが、たこ焼きを焼くなんて単純なことであっても。
焼けた生地を皿に移して、ソースたちを降らせて、プレートに油を敷いて、生地を流し込んで、具材を撒いて。それを繰り返しながら昼食の時間は進んでいく。調理しつつのそれは、普段よりも長くゆったりとした時間だった。
ボウルの中の生地が無くなり、ザルやトレイの中の具材たちも消える。ほとんどのものが焼け、プレートの上も穴あき状態だ。端の焼けにくいものを中央に移動させながら、雷刀はたこ焼きを頬張る。随分と冷めてしまったが、これぐらいのものも良い。舌を犠牲にしながら熱々なものを食べるのもいいが、冷めて表面がしっとり柔らかになったものも十二分に美味いのだ。
ようやくプレートの上から生地がいなくなる。皿の上の丸たちもすっかり少年らの胃の中に収められた。パン、と再び手を合わせる音。ごちそうさまでした、と二重奏が奏でられた。
あっつ、と呟き、雷刀は窓際に歩み寄る。鍵を開け、背丈より大きな窓を開く。さぁと清涼な風が熱っぽいリビングダイニングに吹き込んできた。汗ばんだ肌を澄んだ風が撫ぜ、身体を冷ましていく。調理後や食後のこの感覚がいつも心地良くてたまらなかった。
「来週はお好み焼きな」
「粉物続きではありませんか」
くるりと振り返り、雷刀は指を立てて笑う。呆れた笑みが返された。
そんなことを言いつつも、きっと彼は来週も己の望みを叶えてくれるだろう。今度は粉が足りないなんて事態に至らないように、次の買い出しではお好み焼き粉を買わないと。後で買い物リストに書き足そう、と考え、少年はゆるりと頬を緩めた。
週末の午後、優しい風が朱い髪を揺らした。
畳む
書き出しと終わりまとめ11【SDVX】
書き出しと終わりまとめ11【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその11。ボというか嬬武器兄弟6個。毎度の如く診断する時の名前がちょくちょく違うのは気にしない。
成分表示:ライレフ(神十字)5/嬬武器兄弟1
青空に白を浮かべて/神十字
AOINOさんには「ある晴れた日のことだった」で始まり、「そっと笑いかけた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
ある晴れた昼下り。神、と愛しい声が己を示す語をなぞる。紙面に落としていた視線を上げる。広がった視界に洗濯かごを抱えた蒼の姿が映った。
「洗濯物干すの手伝ってくれませんか?」
眉尻を少し下げた青年は、手にしたかごを軽く持ち上げる。中にはシーツと思われる白い布がこんもりと山を成していた。きっと、今朝回収したのだろう。これだけ晴れているのだから、シーツのような大きなものを乾かすにはちょうどいい。
いいぜ、と返し、本を棚に戻す。小走りで駆け寄り、洗濯かごをその手から奪った。大丈夫ですよ、と青年は軽く眉を寄せる。いーの、と言って、奪い取られないよう強く抱きかかえた。
「貴方、過保護なところがありますよね」
「そーか? オレの方が力あんだから、オレが持った方がごーりてきじゃん」
どこか呆れた様子の彼に、飄々とした口調で返す。事実ではある。日々子どもの相手をする彼は見た目以上に力があるが、人間誰しも限界がある。働き者の彼が疲労という限界を少しでも迎えないよう気を遣うのは、人を守る存在として――彼に救われ慕う身として当たり前だ。
裏口を開け、庭に出る。晴天という言葉がよく似合う、陽の光と鮮やかな青と緑が眩しい世界だった。絶好の洗濯日和だ。蒼は駆け足で物干し場に向かい、ロープを張る。その後ろを紅はゆったりとした歩調で続いた。
かごを地面に置き、中からシーツを一枚取り出す。大判のそれをバサリと一度振り、皺を伸ばす。広がったそれを、ピンと張られたロープに跨がせる。傍らのかごに入れられた洗濯ばさみで両横を閉じ、手でパンパンと生地を叩く。これで一枚完成だ。
「すっかり様になっていますね」
いつの間にか戻ってきた青年はそう言ってクスクスと笑う。目を細め口元に指をやるその笑みはどこか上品だ。協会周りに咲く、名も知らぬこぶりな白い花が脳裏に浮かんだ。
「洗濯物が様になる神様って何だよ……」
「人に寄り添う優しい優しい神様のことではありませんか?」
頬を膨らませ返すが、相手は気にする様子もない。歌うように言うと、彼もシーツを一枚手に取る。己と同じように広げ、吊るし、止める。そよぐ風が二枚の白い布を揺らせた。
「さ、早く干してしまいましょう」
「おう」
手分けしてどんどんと敷布を干していく。はためく布が二桁を越したところで、かごの中は元の茶色に戻った。
「ありがとうございます。おかげで早く終わりました」
「つかれたー……」
溜め息を吐くようにこぼし、ぐっと背伸びをする。見上げた空は雲一つなく青い。風も適度に吹いているから、きっとすぐに乾くだろう。干したての匂いのするシーツに身を任せる幸せを思い浮かべ、神は口元を緩める。今日の子どもたちは幸せに包まれて眠るのだろう。良いことだ。
「うちのシーツも今日洗えばよかったなー」
「そうですね。これだけ天気が良ければすぐに乾くでしょうし」
「今から帰って洗ってくるか?」
藍玉がぱちりと瞬く。瞬間、ふ、と笑声が緑の草原に落ちた。はは、と青年は大口を開けて笑う。浅葱の睫毛に縁取られた目が、大きく弧を描いた。
「何で笑うんだよ」
「い、いえ、すみません」
突然笑われ、思わず不服げな声を漏らす。善意で言ったというのに、こうも笑われては流石に気分が良くない。すみません、と謝る声は笑みを噛み殺したものだ。ふふ、と笑い声が蒼天に登った。
「すっかり人の生活に馴染みましたね」
はー、と息を吐きながら、蒼は言う。ぱちり、と紅玉の目が瞬いた。
たしかに彼の言う通りだ。昔の――目覚めたての自分ならば、わざわざ洗濯物を気にかけることなどしなかっただろう。すっかり人の生活に慣れた証拠だ――それほど、彼と共に過ごし、生きてきた証拠でもある。喜ばしいことなのだろうか。それとも神として嘆くべきことなのだろうか。
「大丈夫ですよ。神様にそこまでさせられません」
地面に置いたかごを抱え、青年は笑いかけた。ふふ、とまた声を漏らして笑う。よほどツボに入ったらしい。そこまで笑わなくていいだろ、と唇を尖らせる。すみません、と再び謝る声は、やはり笑みを含んだものだ。
「さ、戻りましょう。お茶を用意しますね」
「やった」
「洗濯物を気にかけてくれる優しい神様は労らないといけませんからね」
「……そろそろ怒るぞ」
「すみません」
軽口を叩きながら、二人連れ立って歩く。草が掻き分けられる音が空に響いた。
依然口元が緩んだ横顔を見る。幸せそうなそれは、いつだって己が求めてきたものだ。ヒトの笑顔は尊く素晴らしいものだ。それが、愛する者のものならば尚更だ。
「お茶請け多めで許してやんよ」
茶目っ気たっぷりに言って、人に寄り添う神様は愛しい笑顔にそっと笑いかけた。
夜、二人きり、鼓動重ねて/神十字
AOINOさんには「暗闇なんて怖くなかった」で始まり、「緑が目に眩しかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字)以内でお願いします。
暗闇が怖くないといえば嘘になる。
ヒトと暮らす幸せを思い出してしまった今、再び眠りという闇に包まれるのがほんの少しだけ恐ろしかった。また一人になる。また忘れ去られる。昔は諦観していたそれらは、今では考えただけで怖気がそわりと走るのだ。
「貴方、たまに甘えたになりますよね」
クスクスと笑い声が耳をくすぐる。囁くような声音は、幼い子どもに語りかける時のそれと同じだ。
「いーじゃん、たまになんだから」
濁す言葉は拗ねた響きをしていた。これでは子ども扱いされても仕方がない。己の幼稚さに思わず眉を寄せる。閉じられた口がもにょもにょと動いた。
そうですね、と返し、枕に頭を預けた青年は目を細める。言葉を紡ぐ口元は、依然緩い弧を描いていた。ふふ、と上機嫌な笑声がベッドに落ちる。夜闇の中の翡翠は眠気で潤んで見えた。
ごそごそと布団の中で身体を動かし、目の前の蒼に寄る。腕を伸ばし、そのまま隣に横たわる身を抱き締めた。
ゼロ距離の中、白い首元に顔を寄せる。石鹸の清潔な匂いが鼻孔をくすぐる。服越しに、温かな熱が伝わってくる。とくりとくりと命の脈動が聞こえる。
生きている。ここにいる。存在している。
それを、自らの手で確認できる。
胸の闇を払う幸福に、人ならざる者は小さく息を吐く。白い肌にぐりぐりと頭を擦り付ける。くすぐったいですよ、と笑みを含んだ抗議の声があがった。
トントンと背に触れる手が穏やかなリズムを刻む。幼子を寝かしつける手付きだ。今日はとことん子ども扱いだ。不満だが、心地のいいそれには抗うことができなかった。
「おやすみなさい」
愛しい声が耳をくすぐる。顔を離し、枕に頭を預け、真正面から愛し子を見つめる。紅玉に射抜かれた藍玉はぱちりと瞬き、柔らかに細められた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた碧が、夜だというのに眩しいぐらいつやめいて見えた。
上手くなるまでいっぱいれんしゅーしよーな/ライレフ
あおいちさんには「呼吸も忘れてしまいそうだった」で始まり、「魔法は3秒で解けました」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
呼吸なぞ忘れてしまった。
ぬめる舌が口腔を荒らす。歯を、硬口蓋を、頬粘膜を、赤が隅々まで味わっていく。熱が、己のそれを攫って絡みつく。ざらりとした表面を擦り合わせると、背筋を何かが走っていく。肩に添えた手に力が入る。捕らえられた頬をよりがっしりと掴まれ、熱塊が更なる奥へと潜り込んだ。
頭がぼぅと靄がかっていく。口吻による快楽だけではない、酸素が不足しているのだ。バシバシと掴んだ肩を叩く。意図を察してか、重なった唇が離れていく。未練がましく伸ばされた舌と舌との間に、透明な糸が橋がかった。
「烈風刀、ほんとに息継ぎ下手くそだよなー」
余裕綽々といった様子で雷刀は言う。うるさい、と発しようとした声は喉奥に消えた。代わりに、悔しげな呻きが漏れた。
息継ぎが下手であるのは全くの事実だ。快楽に溺れやすい己の身体は、目の前の悦びに身を委ねすぐに呼吸の仕方を忘れてしまう。浅い触れ合いなら何とかなる。けれども、今のような深いものとなると、悦楽に翻弄され息を忘れてしまうのだ。
なんと淫らなのだろう。なんとはしたないのだろう。己でも嫌気が差す。けれども、どれだけ嫌悪を積み重ねようが、兄によって暴かれた本性は変わりようがなかった。むしろ、悪化の一途を辿っている。頭を抱える他ない。
「れんしゅーする?」
赤い舌が伸ばされ、ちろりと唇を舐められる。真正面から見据える紅玉の奥には、炎がきらめいていた。情火燃ゆる瞳に射抜かれ、腹の奥が鳴き声をあげる。気がつけば、はい、と細い声で返していた。
彼の言う『練習』なぞ、口実でしかない。それを理解した上で――理解するより先に本能が返答をしたのだから、己も大概だ。若葉の眉が寄せられる。ちゅ、と眉間に口づけが落とされた。
ちゅ、ちゅ、とリップ音が降りてくる。温かな唇が、己のそれと重なる。刹那、熱は離れた。
「ちょっとずつ長くしてこーなー」
困ったように眉を下げ、兄は笑う。そんな表情をさせるほど、己は浅ましい顔を晒していたようだ。頬に熱が集まる。きゅ、と唇を真横に引き結んだ。
ふ、と笑声。瞬間、また唇が重なる。一秒触れて、離れて、二秒重なって、離れて、三秒交わって、離れて。付いて離れてを繰り返す。ふ、と鼻にかかった音が漏れた。
「そうそう、鼻で息吸って」
言葉とともに、口づけが降ってくる。今度は押し付け合うような長いものだ。声の通り、鼻で呼吸をする。けれども、それもすぐに途切れた。
ぬめる塊が唇を撫でる。反射的に開くと、すぐさま熱い舌が侵入してくる。ちょんと先で突いて、舐めて、絡み合う。重なる度、合わさった場所から甘い息が漏れ出る。呼気が出ていくばかりで、吸気に気を払うことなどできなかった。
兄の言葉など、三秒も経たずに解けて消えた。
笑顔奏でる貴方が/嬬武器兄弟
あおいちさんには「あなたはいつも笑うから」で始まり、「来年の今日もあなたといたい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以上でお願いします。
この人はいつも笑うな、と心の底で呟く。
もちろん、相応に怒ったり、悲しんだり、泣いたりする姿も見る。けれども、その顔に一番多く浮かぶのは晴れやかな笑みなのだ。いつだって、彼は世界の全てを楽しむように笑っている。
胼胝の浮かんだ硬い手が、指板の上を素早く駆ける。小さなピックが弦を弾く。様々な機械を通し、音を形作ってステージ上に響いた。攻撃的な音色に混じって、微かな鼻歌が耳に届く。上機嫌なそれは、今演奏中の楽曲だ。女性ボーカルのそれが、オクターブ低い音で奏でられる。
また笑っている。それも、鼻歌なんか歌うくらい楽しそうに。同じくピックを操りながら、烈風刀は横目で兄を見やる。普段からよく動く大きな口は、愉快げに口角を上げていた。手元を覗く瞳も、ぱっちりと開き輝いている。
明日は今年三度のライブステージだ。それも、別世界からのゲストを交えた大きなものである。緊張を覚えるのが普通だ。少なくとも、己は緊張を覚えている。楽器を手にするようになってからまだ日は浅く、ステージに立つようになったのもまだまだ数が少ない。ただでさえ緊張する場面だというのに、加えてゲストを招くなんて普段以上にミスが許されない状況に置かれているのだ。神経が張り詰めてしまうのも仕方の無いことである。
だのに、兄はこんな状況でも笑っているのだ。普段と変わらず笑みを浮かべ、変わらぬ風に軽やかにピックを操り、豊かな音色を奏でる。神経が尖った今の己には、異常にすら映る光景だ。こんな大舞台を前に、常と変わらずにいられるだなんて、どれだけ肝が据わっているのだろう。それとも彼らしく何も考えていないのだろうか、なんて失礼なことを考える。
「どした?」
ギターに吸い込まれていた朱い目がこちらに向かう。無意識に顔までそちらに向いていたようだ。焦りが胸を走る。きゅ、と喉が締まる感覚がした。
「あ、もしかしてミスってた?」
「いえ、合ってますよ」
少しの不安を浮かべた顔に、首を振って返す。事実、雷刀の奏でるメロディは正確なものだった。音はもちろんリズムの狂いすら無いのだから恐ろしい。
よかったぁ、と再び笑顔が咲く。依然明るい、陳腐な表現をすれば向日葵のような大輪の笑みだ。こんな状況でも笑うだなんて。胸の底に何かが渦巻く感覚がした。
「……緊張しないのですか?」
気づけば、言葉が口を突いて出ていた。しまった、と反射的に顔をしかめる。そんなことを聞いても仕方無いということなど分かっているというのに。どうせ『してない』とばっさり切られるのが関の山だ。
「してるぜ?」
きょとりとした表情で雷刀は言う。予想外の返答に、浅葱の瞳がまあるく見開かれる。驚愕を表すように、ぱちぱちと幾度も瞬いた。
「軽音部とかでライブは結構やってるけどさー、これだけ規模でかいのは初めてなんだよな。さすがに緊張する」
ピックを指で擦りながら、兄はへらりと笑う。眉の端が少し下がった、少し頼りがないものだ。『緊張』という言葉が己を安心させるための嘘ではないと言うことを裏付けていた。
「……では、何故そんなに笑っているのですか? 緊張してる人の表情とはとても思えませんよ」
彼の表情はどう見ても普段と同じだ。太陽のように明るい笑顔を浮かべ、心の底から楽しそうに弦を弾く。これが緊張している人間の動きだとは到底思えなかった。
「緊張はしてるけどさ、それと楽しいのは別じゃん? 楽しかったら笑うって」
「そう……でしょうか」
言葉の意味は分かる。大舞台への緊張と、演奏する楽しさは全くの別物だ。けれども、『演奏する』ということ自体に重圧が掛かり、演奏と緊張がイコールで繋がった今、常のような楽しさを覚えるのは難しい。完全に忘れたわけではないが、薄れてしまっているのは確かだ。
「そうだって」
だいじょーぶだいじょーぶ、と元気な声とともに背を叩かれる。力の加減というものを知らない彼のそれは少しの痛みを覚えるものだ。しかし、何故か今はそれが頼もしかった。
「来年も一緒にやってりゃ分かるって!」
どうせ行くならデートで/ライレフ
AOINOさんには「たまには遠回りしてみようか」で始まり、「あーあ、言っちゃった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
「たまには遠回りしてみねぇ?」
隣を歩いていた兄が一歩前に出て振り返る。肩にかけた鞄の中身がガサと音をたてた。
「嫌ですよ。お肉とお魚が傷むでしょう」
弾んだ銚子の提案を、烈風刀はバッサリ切り捨てる。今日のセールは肉と魚が特に安く、いつもより多く買い込んだのだ。早く帰って生鮮食品を冷蔵庫に入れなければならない。意味も無く遠回りをする余裕など無かった。
それもそっか、と呟き、雷刀は弟の隣へと戻る。珍しく諦めがいい。彼の突飛な思いつきも、大切な日々の食材には敵わないらしい。
「かき氷食いたかったんだけどなー」
「かき氷?」
「こっからちょっと外れたところに和菓子屋? があるんだけどさ、そこのかき氷がうめーらしいんだよ」
そういえば、この間レイシスがそのようなことを話していたことを思い出す。グレイスと行ってきたんデスヨ、と語る彼女の表情は幸福でとろけていた。かき氷のおいしさはもちろん、溺愛する妹と共に過ごせたのが嬉しいのだろう。
「今日行く必要は無いでしょう」
「だってこっちのスーパーに行くことあんまりねーし。それに、こういう時でもねーと二人で一緒に出かけねーじゃん」
たしかに、二人が住む部屋から少しばかり離れたこのスーパーを利用することは少ない。今日訪れたのも、大型のセールが行われていたからだ。学園からも離れ、通学路として利用することのないこの道を通ることはあまりないことだ。
しかし、と烈風刀は横目で兄を見やる。碧の瞳に映る横顔は少しむくれていた。思いつきの提案だと思っていたが、もしかしたら家を出た時から算段を立てていたのかもしれない。それをすげなく却下されたのならばこの反応にも納得だ。
「……かき氷ぐらい、次の休みに食べに行けばいいじゃないですか」
甘味ぐらい、こんな買い物帰りでなくとも普通に二人で出かけて食べに行けばいいではないか。確かに、日々の学業と運営業務で疲れた身体を癒やすために休日は家にいることが多いが、出かけるのが嫌なわけではない。恋人とならば尚更だ。
ぽろりと言葉がこぼれ落ちる。小さなそれは、風に乗って兄の耳まで届いたらしい。えっ、と驚いたような、嬉しそうな声が隣から聞こえた。突然の音に、それが意味することに、少年ははっと目を開く。それもすぐに苦々しげに細められた。
「……うん! そーだな! 次の休みに行こ! 約束な!」
弾みに弾んだ声が耳に飛び込んでくる。視線をやらなくとも、兄が喜色満面の笑みを浮かべているのが分かった。
楽しみだなー、と跳ねる音が前に出る。次の休日への期待に突き動かされているのか、彼はどんどんと歩いて行く。そのまま走り出しそうな勢いだ。あぁもう、とこぼし、烈風刀も歩みを早めた。
あぁ、言ってしまった。もう戻すことなどできない。この言葉も、湧いて出た期待と喜びも。
音にできない五文字/ライレフ
AOINOさんには「たった5文字が言えなかった」で始まり、「少しだけ待っていて」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
たった五文字すら言えないのか、自分は。
考え、歯噛みする。口の奥で嫌な音が響いた。
は、と息を吐く。す、と息を吸う。呼吸を幾度も繰り返し、ようやく口を開く。薄く開いた唇の隙間から、あ、の一音が漏れ出た。
「あ……あ、ぅ……ぁ、あ」
言葉を発するべき口から出てくるのは、意味を成さない単音ばかりだ。それも、今にも消え入りそうな薄っぺらい音である。あんまりな醜態に、再び奥歯を噛み締める。エナメル質が削れてしまいそうなほど固い音が引き結んだ口から漏れ出た。
トントン、と抱き締められた背を叩かれる。優しいリズムが身体に、心に染みていく。噛み締められた口元がほろりと解けた。
落ち着けって、と宥める声が耳をくすぐる。柔らかなそれは、明らかに己を気遣ってのものだ。『愛してる』なんて簡単な言葉を口にすることができない、愚かな己を。
その事実が心臓を突き刺す。頭の奥底から自身に対する罵倒が沸いて出ては反響する。白い眉間に深い皺が刻まれた。
「無理して言うことじゃねーからな? また今度で――」
「む、無理では、ありません」
反射的に声を遮る。柔らかな言葉を切り捨てる音は、愚かなほどに震えていた。
そうだ、無理ではない。言える。自分だって『愛してる』の五文字ぐらい言えるのだ。そんな短い言葉、言えないはずがないのだ。当たり前のことだ。誰にだって絶対にできることなのだ。
言い聞かせるように心の内で言葉を重ねる。大丈夫、大丈夫、と唱える。それでも、心の臓は己でも驚くほど早鐘を打ち、脳味噌は溶けてしまったかのように思考がまとまらない。喉がきゅうと狭まる感覚がした。
言える。言うんだ。言わなければ。はく、と口を開く。声帯が震え、音を作り出した。
「……も、もう少しだけ、待ってください」
畳む
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】
7年前(≒ボで二次創作始めた頃)に書いたほぼ完成済みのファイルが発掘されたのでリライトしたもの。3000字ちょいが9000字弱に膨れ上がって笑っちゃったな。
付き合ってないつもりで書いたけど同生産ラインで腐向けを生産しているので色々と怪しい。ご理解ください。
弟君にお勉強教えてもらうニアノアちゃんと弟君にお勉強教えてもらうオニイチャンの話。II時空。
ホームルームが終わると同時に、教室は声に満ち溢れる。帰ろうと鞄を引っ掴む者、部活に行こうと手早く準備を済ませる者、友人と歓談しようと席を移動する者。狭い教室は人が行き交い、声が飛び交い、音が響き合っていた。
教科書、参考書、ノート、ペンケース、弁当箱。日々の道具を鞄に詰め、烈風刀は席を立つ。今日の放課後も運営業務が待ち構えているのだ。手早く作業に取りかかり早く帰るためにも、急いで行動すべきだ。
「烈風刀ー、さっさと行こーぜ」
大きな声が己を呼ぶ。声の主である雷刀は、教室の入り口でひらひらと手を振っていた。肩にかけられた鞄はいっそ不自然なほど薄く、腕と身体の間でぺしゃりと潰れている。おそらく、弁当箱ぐらいしか入っていないのだろう。勉強の意思が全く見えぬ姿に思わず眉をひそめる。息を一つ吐いて、少年は大股で彼の元へと足を向けた。
「レイシスはどうしました?」
「日直の仕事で職員室行くから先行ってて、だってさ」
姿の見えぬ桃の少女の行方を尋ねると、端的な言葉が返ってくる。だからさっさと行こ、と一声。兄は本館に続く廊下へと飛び出した。一歩遅れて、弟も続く。廊下に響く忙しない足音の中に、二つ新しいものが飛び込んだ。
「れーふーとー!」
大きな声が己を呼ぶ。背中から飛んできたそれに、名を呼ばれた少年は急いで振り返る。碧の視線の先には、高等部の生徒の中を縫って飛ぶ子ども二人の姿が映った。真っ白な制服を着た生徒たちの間を、星空模様の青が跳びはねる。ライムグリーンの靴が床を踏みしめる軽快な音が高く響いた。
「え? ニア? ノア?」
「珍しくね?」
二匹の兎の登場に、兄弟は二人ともぽかんと口を開けた。二人の様子など気にすることなく、少女たちは跳ね回る。
彼らの前に現れたのは、常日頃から仲良くしている初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らが自分たちに寄ってくることは珍しいことではない。しかし、時間が問題だった。
高等部の授業日程は今終わったところだが、初等部のそれはもう数時間も前に終わったはずだ。遊びたい盛りの彼女らが遊び相手を求め学校にいること自体はよくある。しかし、高等部教室棟にまで、しかも授業が終わってすぐの時間に来ることなど、今まで一度も無かったはずだ。一体どうしたのだろうか。何かあったのだろうか。不安が少年たちの頭をよぎる。
ぴょんぴょん跳びはねる少女たちは、ようやく求めた少年の元に降り立った。最後にぴょんと跳ね、ニアは勢いよく烈風刀に飛びつく。突然のそれを、反射的に受け止める。えへへー、と嬉しそうな笑声と、ニアちゃん危ないってばぁ、という高い声が少年の耳をくすぐった。
抱えた小さな身体を丁重に地面に下ろす。そのまま屈みこみ、並んで立つ少女二人と視線を合わせた。
「突然飛びついたら危ないでしょう。それに、廊下を飛んではいけないと言っているではありませんか」
紺碧の瞳を見つめ、少年は諫める言葉を紡いだ。常々言っていることだが、楽しいことが大好き、飛ぶのが大好きな彼女らはいつも忘れて跳びはねてしまうのだ。歩きやすい靴を与えて以後、改善の兆しは見えているが、やはりテンションが上がるとぴょんぴょんと跳びはねている姿をよく見る。外ならまだしも、屋内、それも狭い廊下で跳ねるだなんて危ない。天井や蛍光灯に頭をぶつけては大変だ。
「はーい」
「ごめんなさい……」
しょんぼりした声が二つ返ってくる。お揃いに八の字に下がった眉と気まずげにこちらを見る蒼い瞳から、反省の意は存分に汲み取ることができる。次から気を付けましょうね、と優しい眼差しで星空色を覗き込む。沈んだ表情が一転、ぱぁと明るく輝きだした。
「それにしても、こんな時間にどうしたのですか?」
首を傾げる烈風刀に、あのねあのね、とニアとノアは鏡合わせのように背に担いだリュックサックを下ろす。余った長い袖のまま器用に中を漁り、一つの冊子を取り出した。掲げるようにもたれたそれの表紙には、『ドリル 算数』とポップな書体で書かれていた。
「図書館でみんなとお勉強してたんだけど、分からない問題があってね」
「だかられふと、教えて!」
ドリルを抱えたまま、双子兎は目の前の少年をじぃと見つめた。まんまるな青が二対、少年を射抜く。ちょっといいですか、と断りを入れ、少女らが手にしたドリルを受け取る。ぱらぱらとページをめくると、癖のついた場所が開いた。何度も書いては消しての跡が残ったそのページに、彼女らの努力がうかがえる。
首だけで後ろを振り返る。後ろに立ってこちらを覗き込んでいた兄は、全てを察したのか笑って手を振った。勉強頑張れよー、と呑気な声とともに、軽快な足跡が一つ遠ざかっていった。廊下を走らない、と飛ばした声は、角を曲がった背には届かない。
こほん、と咳払い。不安げにこちらを見つめてくる双子に、少年は柔らかな笑みを向ける。
「いいですよ。僕なんかでよければ」
少年の返答に、ラズライトの瞳が四つ輝き出す。やったー、と兎たちはニコニコと笑顔を浮かべ、ハイタッチをする。よほど嬉しいらしい。勉強意欲があることはいいことだ、と碧は一人小さく頷いた。
「今の時間図書室は混んでいるでしょうし、ここの教室でやってしまいましょうか」
そう言って、出てきたばかりの教室を指差す。廊下から見える室内は、ほとんどの生徒は退出したのか机と椅子ばかりが見える。残っている生徒も数人程度のようだ。隅の席を借りれば邪魔にはならないだろう。
はーい、と元気な返事が二つ。言うや否や、ニアとノアは足早に教室へと飛び込んだ。腰を上げ、烈風刀もその後ろに続く。高等部の教室は物珍しいのか、二人は瞳を輝かせて室内を見回していた。
こちらですよ、と手招きしながら、人の少ない窓際の席へと足を運ぶ。後ろから四番目、兄の席に鞄を置き、隣り合う机を一つ寄せてくっつける。前の席の椅子をくるりと回して後ろ側にし、三人で机を囲む形を作った。二人は座面に手を付きどうにか乗り上げる。初等部の二人には、高等部の椅子は大きいようだ。ぶらぶらと地に着かず垂れた足を所在なさげに振っていた。
ドリルを机に広げる彼女らを横目に、碧の少年は鞄からノートとペンケースを取り出す。一番最後のページを一枚ちぎり取り、愛用のシャープペンシルとともに机上に置いた。
「最初の部分は分かりますか?」
「分かるよ!」
「けど、ここの高さが分からないの」
ニアの言う通り、最初の問は回答欄が埋められていた。しかし、ノアの言葉通り続く部分が分からないのか、後ろの方は空欄だ。余白部分にいくつもの計算式が書かれていることから、彼女らがどれほどこの問題に苦戦しているのかが伝わってくる。
問題を読み込み、烈風刀は唇に指を当てる。どうもこの問題は、わざとややこしい書き方をしているように見える。意地の悪い問題だ。さて、どうやって教えようか。考えながら、少年は紙面に書かれた図形をちぎったノートに書き写す。大きめに書いたそれを、二人の前に差し出した。
「ここの高さは、こちらの高さから底辺を引いたものですね?」
図形に補助線を書き込み、より分かりやすいものへと変化させていく。シャープペンシルで数字を書き込むと、蒼い双子はこくこくと頷いた。求めたい箇所を何重にもなぞって目立たせ、斜線を引いて区別を付ける。
「では、こちらの三角形の高さはこの二つの図形の高さを足したものになります」
「……てことは、五センチ?」
首を傾げながら問うニアに、少年はニコリと笑いかける。正解です、と続いた言葉に、彼女はやったぁ、と嬉しそうに声をあげた。二本の鉛筆が紙面を走り、図形に少年と同じように線と数を書き入れていく。
「じゃあここは四センチだから……、二十平方センチメートル……で、いいの?」
負けていられないとばかりに、ノアも解を求める。ことりと首を傾げ、不安げにこちらを伺ってくる少女に、少年は優しい笑みを向けた。
「二人ともすごいですね。さぁ、あとは公式を使うだけですよ」
念には念を押して、図形の下に使うべく公式を書き入れる。そんなもの見ずとも、二匹の兎は真剣に問題を睨み、余白に計算式を書いていった。カリカリと鉛筆が紙の上を走る小さな音が、放課後の教室に積もっていく。しばしして、二人分のそれは息を合わせたように同時に止まった。
「できたー!」
「れふと、これで合ってる?」
数時間かけて闘ってきた問をようやく解き終わり、ニアは元気な声をあげた。控えめにドリルを差し出し、ノアは求めた解の正否を問うてくる。不安げな声に反して、その目は難問の解を一度でも導き出したという高揚感にきらめいていた。
「……うん、正解です。二人ともよくできました」
埋まった回答欄を眺め、烈風刀は大きく頷く。ぱちぱちと手を叩き、賞賛の言葉と拍手を贈ると、二人はぱぁと満面の笑みを咲かせた。鉛筆を放り出し、互いの手を取り、やったね、と喜ぶ姿は可愛らしいものだ。きゃいきゃいとはしゃぐ少女らを、少年は愛おしげな目で見つめた。
「れふとれふと! 頑張ったから頭撫でて!」
筆記用具と紙切れを鞄にしまっていると、向かい側に座ったノアがはしゃいだ声をあげる。身を乗り出した少女、その形の良い丸い頭が目の前に差し出される。蒼い髪を飾るリボンカチューシャが揺れた。
「ニ、ニアちゃんずるい! ノアも!」
姉の様子に、少年の隣に座った妹も焦った様子で頭を差し出す。俯かれた顔は、少しだけ夕焼けに染まっていた。
頭を二つも向けられ、碧はぱちぱちと瞬きをする。二人の頑張りは確かなものだ。しかし、その頑張りを褒め称えるのは頭を撫でるだけでよいのだろうか。そもそも、歳はかなり離れていても彼女たちは女の子だ。男に頭を触られて気持ち悪くないのだろうか。様々な疑問が頭をかけていく。それらは、れふとー、と催促する声に掻き消された。
逡巡の末、烈風刀は差し出された頭に手を伸ばす。負担をかけないようにそぅっと手を乗せ、優しく優しく、髪が乱れてしまわないよう丁寧に撫でてやる。おそるおそるといった手つきだが、少女らにとっては満足のいくものだったようだ。えへへ、と歓喜に満ちた笑声が二つこぼれ落ちたのが聞こえた。
大きな手が、蒼い頭からそっと退いていく。求めたご褒美が終わりを迎えたことを悟ったのか、少女らは同時に顔を上げた。そこには、真夏の太陽のように輝く満面の笑みと、控えめながらも花咲くような可憐な笑みが浮かんでいた。
「れふと、ありがと!」
「れふとのおかげでやっと解けたよ!」
「問題が解けたのは二人が日頃からちゃんと勉強していて、解き方を知っていたからですよ。僕はちょっとだけアドバイスをしただけです」
真正面からの元気な言葉に、少年はふわりと口元を緩める。心のそこからの言葉だった。自分がやったことといえば、図形に補助線を引いたぐらいだ。解くことができたのは、日頃授業をちゃんと聞き、復習をし、公式を覚え、解法を覚えていた彼女らの実力故のものである。どこぞの兄もこれぐらいやってくれれば、とくだらないことを考える。あの男が自ら勉強に手を付けることなぞ無いだろうが。
「二人ともお疲れ様でした。さぁ、遅くなる前に帰りましょう。玄関まで送っていきますから」
「はーい!」
「ありがとう!」
少年の言葉に、少女らは急いでドリルと筆箱をリュックにしまう。ぴょんと椅子から飛び降り、愛用のそれを背負った。烈風刀も席を立ち、机と椅子を元の位置に戻す。夕焼けに染められつつある教室は、元の姿へと戻った。
鞄を担いだ少年を挟むように、双子兎は並んで立つ。それが当たり前であるかのように、長い袖に包まれた手が少年の手を握った。ぱちり、と天河石の瞳が瞬く。それもすぐに柔らかく細められた。
タッと地面を踏み出す音。姉兎は繋いだ手を引き駆け出す。危ないですよ。危ないってば。二重の声が教室に響いた。
タン、とキーが軽い音をたてる。最後の一文を入力し終え、烈風刀はぐっと背伸びをした。ほのかな痛みを訴える目頭を指で揉む。長時間モニタを見つめていたダメージはなかなかのもののようで、痛みと心地良さが広がった。
コンコン、と固い音が部屋に転がり込む。音に気づいた矢先に、ガチャリとドアが開く音がした。烈風刀、と己を示す語が飛び込んでくる。椅子のまま振り返ると、そこには雷刀の姿があった。
「返事をする前にドアを開けない。ノックの意味が無いでしょう」
「別に見られて困るようなことしてないだろ? いーじゃん」
眉をひそめ、もう何度言ったか分からぬ文言を口にする。注意された彼はあっけらかんとした様子で手を振り笑った。そういう意味ではない、マナーの問題だ、と何度言っても聞かないのだ。この兄は。苛立ちを隠す様子無く、はぁと大きく溜め息を吐いた。
「で、何の用ですか?」
腕を組み、部屋の入り口に立ったままの朱を見やる。済ませるべき作業も復習も終わり、今日はもう自由だ。しかし、どうせ彼のことだ。口にするのはろくでもない誘いや泣き言だろう。そんな兄のために時間を割いてやる気は無い。
「漢文教えて」
そう言って、雷刀は手にしていた冊子を持ち上げ示す。扇子のように片手で持たれたそれの表紙には、『漢文テキストワーク』と明朝体で大きく記されていた。
兄の言葉に、手にしたそれに、烈風刀は目を瞠る。碧の目は、驚愕一色に染まっていた。よく手入れされた唇がぽかんと開く。彼らしくもない、どこか間の抜けた表情だ。
あの雷刀が、あの勉強嫌いで有名な雷刀が、赤点と追試の常習犯である雷刀が、己に教えを乞いに来た。それも、教師に言われて渋々ではなく、己の意志で。
眼前に広がる光景を受け止めきれず、少年は硬直する。石になったよう、とはこのような姿を言うのだろう。指先一本動かせぬまま、碧は呆然とした様子で目の前の片割れを見つめた。
あまりにも露骨な態度から、弟の考えていることが分かったのだろう。朱の少年は悔しそうに目を眇める。しかし、己の日頃の態度を思い返してか、その目はバツが悪そうに逸らされた。えっとさぁ、と開いた唇は少し尖っていた。
「今日ニアとノアが勉強教えてもらいにきてたじゃん? あいつらも頑張ってんだし、オレもたまにはちゃんとやんないとなー……、とか」
思っただけ、と続いた最後の言葉は、彼らしくもない小さく細いものだ。胸に渦巻く何かを晴らすように、朱はガシガシと頭を掻く。風呂に入って少し湿ったままの髪がぶわりと乱れる。うぅ、と小さな呻りが部屋に落ちる。
淀みながらも紡がれた兄の言葉が、弟の胸を打つ。『ちゃんとやんないと』と砕けた言葉が胸の内に広がっていく。あの兄が、だらしのない兄が、勉強が大嫌いな兄が、人の姿を見て己を変えようとしている。なんと成長したのだろう。なんと素晴らしいことなのだろう。胸の内に温かなものが満ちていく。きっとこれは、感動と言うのだろう。
「分かりました」
ふわりと笑い、烈風刀は快諾する。自分もまだまだ深い理解を得ているとは言い難い。けれども、彼の抱える疑問を解く少しの助けになれたならば。力強い何かが己を動かす。努力しようとする者を応援したい。これはきっと自然な感情だ。
碧の言葉に、朱はぱぁと顔を輝かせた。ありがと、と弾んだ声が部屋に響き渡る。教えを乞うべく、少年は大股で師となる弟の元へと歩みを進めた。
キーボードを片付け、勉強机の上に二人分のスペースを確保する。鞄から教科書と参考書、ノートを取り出し、端に置いた。隣に立った雷刀は、持っていた問題集を開く。少し癖のついたそこの端には、ミミズがのたくったような文字が連なっていた。彼なりに色々と考えた証である。それだけで、烈風刀は胸がいっぱいになる心地だった。
「どこが分からないのですか?」
「………………全部」
「……僕の尋ね方が悪かったですね。どの部分を知りたいのですか?」
「ここの違いが分かんなくてさー」
兄が指差す部分を眺める。基礎から少し発展した問題だ。基礎がまだしっかりとしていない彼が躓くのも仕方の無いことだろう。まだ基礎問題が何問か回答してあるだけ頑張った方だ。それだけで褒めたい気分だが、ぐっと我慢する。まずは彼の学習意欲と知識欲を満たすのが先決だ。
机の端に詰んだ参考書を取り出し、パラパラとページをめくる。彼が疑問に思っている箇所のページを開き、問題集の上部に置いた。参考書の例題に、シャープペンシルでポイントとなる部分に軽く丸を付ける。
「ここはレ点なので上下逆にする、というのは分かりますね?」
「うん」
「まずレ点から処理して、その後に他の部分を入れ替えます」
処理すべき記号に丸を付け、その順番を示す数字を振っていく。朱い目がペンの先を、問題文を追っていく。片手に握られたシャープペンシルが、紙面の上をゆっくりと走っていく。筆跡の薄さが、彼の自信のなさを物語っていた。合っていますよ、と努めて優しく言葉を贈る。ほんと、と心配げな声が返ってきた。
「そう、書いた通りですね。あとは書き下していくだけです。この解説が分かりやすいかと思います」
そう言って、参考書に載っている解説文に丸を付ける。分かった、と細い声とともに、カリカリとペンが軽やかな音をたてていく。紅玉が問題文と解説、回答欄を往復する。輝く朱は真剣一色に染まっていた。
これ以上何か言う必要は無いだろう。それに、じっと見ていては彼が集中できまい。教科書を手に取り、先日授業で教わった部分を開く。ペンが紙の上を走る音とページをめくる音が二人きりの部屋に積もっていった。
「これでいい……のか?」
しばしして、雷刀はようやく声をあげる。教科書から顔を上げ、烈風刀はおずおずと差し出された紙面を見る。出題された短い漢文は、しっかりと書き下されていた。ひらがなが多いように見えるが、そこは今気にかける場所ではない。
「正解です」
「よっしゃー!」
烈風刀の満面の笑みと弾む言葉に、雷刀も嬉しそうに咆哮をあげた。多少教えてもらったとはいえ、自力で解けたことが本当に嬉しいのだろう。その表情はいつも以上に晴れやかな笑顔で彩られていた。
喜気とした笑声をあげ問題を眺める彼の頭に、そっと手を伸ばす。そのまま、赤い髪で彩られたそこをそっと撫でた。ほんのりと湿った感触が手から伝わってくる。
鼻声にまで発展した笑声がぴたりと止む。どうしたのだろう。まだ気になる問題があるのだろうか。少年は小さく首を傾げ、兄の横顔を見る。整った顔がこちらを向く。大きな緋色の目がぱちりと大きく瞬いた。
「……え? 烈風刀……?」
あがった声は細く、動揺に満ちていた。どうしたのだろう。何故名前を呼ぶのだろう。自分が何かしただろうか。そこまで考えて、碧ははっとする。しているではないか。今まさに、頭を撫でるなど子ども扱いにも程があることをしているではないか。カァ、と頬に熱が集まる。それもサッと引いていった。
「すっ、すみません!」
朱い髪を撫で回していた手を勢いよく離す。漫画ならば効果音でもつきそうな素早さだ。あの、その、としどろもどろに言葉を紡ぐ。焦燥が駆り立てる脳味噌ではなかなか意味のある文が構築出来なかった。
「あの、今日ニアとノアにやってあげて、それで、だからついやってしまっただけであって、その、わざとではなく」
発した言葉は全て言い訳だ、と言われても仕方のないものであった。しかし、本当につい、夕方の出来事につられて、無意識だったのだ。でなければ、双子の兄弟の頭を撫でるなんて褒め方をするわけがない。お互いいい歳なのに、そんな子どもっぽい扱いをするなど怒るに決まっている。
ぽそ、と何か声が聞こえた気がした。非難の言葉だろうか。今回のことは全て自分が悪い。真正面から受け止めるべく、意味も無く動く口を真一文字に引き結ぶ。えー、と寂しげな音が静かになった部屋に落ちた。
「えーっと……、やめないでほしいなー……なんて」
だめ、と小さく首を傾げ、雷刀は問う。その頬にはふわりと紅が散っていた。眉は八の字に下がり、こちらを見つめる目は心なしか潤んでいるように見える。控えめにねだる姿は、可愛らしいと形容するのが相応しいものだった。
きゅ、と喉が細まる。兄弟の珍しい姿に、烈風刀はぱちぱちと大きく瞬いた。いつだって自分勝手に物事を進める彼が、こんな風に尋ねてくる。しかも、こんなに可愛らしい様子で、である。ぅ、と喉が細い音をあげる。少年の頬にもつられて朱が差した。
おそるおそる手を持ち上げ、形の良い頭へと手を伸ばす。丸みを帯びた朱を、白い手がそっと撫でる。節の目立ち始めた手が、髪を整えるように往復する。壊れ物に触れるかのような、慎重で優しい手つきだ。伝わる温さと柔らかな感触にか、炎瑪瑙がきゅうと細まった。隙間から見える瞳は、喜びに満ちた色をしていた。
「よくできました」
不意にこぼれ落ちた一言に、雷刀はへへ、と小さく笑う。どちらも幸いに満ちた響きだ。
静かな夜の部屋、兄弟を温かなものが包んだ。
畳む
良い子にはたっぷりのご褒美を【ライレフ】
良い子にはたっぷりのご褒美を【ライレフ】
ライレフでDom/Subユニバースパロ。リンクの解説を参考に色々捏造しまくってるので注意。
DomオニイチャンがSub弟君におしおきしたりご褒美あげたりしていちゃいちゃするだけ。
かじかむ手で鞄のポケットから鍵を取り出す。失くしてしまわないように二色のキーホルダーで目印を付けたそれをノブに差し込み回すと、錠が外れる軽い音が廊下に響いた。薄暗い蛍光灯の明かりを受け鈍く光るドアノブを回し、兄弟は部屋へと入る。ただいま、と暗い室内に二人分の声が響いた。
靴を乱雑に脱ぎ捨て、雷刀は中身の詰まっていない学生鞄をリビングに放り込む。常ならば乱暴に扱う様を咎めるであろう烈風刀は、今日は何も言わない。玄関の鍵とチェーンをかけた後、彼もその隣に己の鞄をそっと置いた。
そのままの足で、兄は洗面所へと駆けていく。風邪が流行り出す時分だ、手洗いとうがいはしっかりしろ、と面倒見の良い弟に常日頃言われている。その言葉に素直に従い、手早く済ませた。
入れ違いに入ってきた碧を尻目に、少年は赤髪を揺らしすぐさまリビングへと戻る。急いで電気を点け、寄り添うように並ぶ二つの鞄の横を通り過ぎ、入ってすぐの場所に置かれた棚へと一直線に向かう。上部に取り付けられた扉を開き、綺麗に片付けられたそこの奥にしまわれた箱を取り出す。埃一つ付いていない夜闇色のそれをゆっくりと開き、同じ色のクッションに埋まったものを眺める。緩く孤を描く朱は、慈しみにもサディズムにも似た不思議な色をしていた。
己にとっても片割れにとっても大切なそれをそっと取り出す。まるで触れただけで壊れてしまう飴細工でも扱うような手つきだ――もっとも、大きな両の手で持ち上げたものは、そんな美しく可憐なものとは全く違うのだけれど。
しっかりとした造りのそれを胸に抱え、雷刀は悠々とした足取りで窓際に置かれたソファへと向かう。二人分には少しだけ大きなそれの中央に腰を下ろす。普段ならば兄弟並んで座るために片端へと寄るのだが、帰宅直後の今は中央に座る必要があった。
手にした物の縁や表面を指でなぞる。つやめく生地やキラキラと光る金具を眺めながら、まだ洗面所にいるであろう弟を待つ。来るまでそう時間はかからないとは分かっているが、弾む心と待ち遠しさに手の中の宝物を忙しなく触ってしまう。待ち合わせに早く来てしまった時のような気分だ。
カチャリ、とノブが回る小さな音が、一人きりのリビングに落ちる。輝く瞳をそちらへ向けると、細く開いたドアの隙間から柔らかな碧が覗いた。ようやく姿を現した彼は、滑り込むように部屋に入り、過剰なほど丁寧な手つきで扉を閉める。振り返ったその頬には、薄らと紅が浮かんでいた。それが外の冷たい空気に晒された故のものではないということは、朱が一番理解していた。
自室に運ぶべき鞄の横を通り過ぎ、烈風刀は兄が座るソファへと向かう。その足取りは、彼にしては珍しくどこか浮き足立ったものだ。少しばかりふらつく様子は、熱に浮かされた人間のそれにも似ている。
足早にソファに辿り着き、少年は座った片割れを見下ろす。学内でよく見かける、問題を起こした兄を叱りつける光景のように見えるが、今の彼は一言も発さず目の前の兄弟をじぃと見つめるだけだ。薄桃色が滲む顔とどこか潤んだ瞳で相手を見つめる様は、告白を決意した少女を思わせるものだった。
烈風刀、と揺らぐ碧を眺め、雷刀は世界で唯一の兄弟の名前を呼ぶ。はい、と返ってきた声は震えていた。恐怖や憤怒によるものではない、わずかな緊張と強い想望によるものだということは、互いに理解していた。
「『おすわり』」
朱い少年が発したのは、短い命令だった。それも万が一にも人間に向けるものではない、犬や猫といった動物に対するようなものだ。他人が聞けばまず眉をひそめ、批判するだろう。もちろん、言われた者は激怒するに決まっている。何ならば多少の暴力を振るっても許される、と他者が判してもおかしくない。そんなことをされたというのに、当の本人――規律を重んじ、礼儀を欠かさない碧い少年は不自然なほど黙ったままだ。
瞬間、烈風刀はそのまま崩れ落ちるように床に座った。正座が崩れたような形でぺたりとフローリングに腰を下ろし、身体の前で手を揃え床についた姿は、犬が『おすわり』する姿によく似ていた。
それが当然であるというように、少年は行儀が良いとはとても言えない姿で目の前の兄を見上げる。丸い翡翠の瞳は、期待でキラキラと輝いていた。
従順な様を見下ろし、雷刀は愛おしげに笑む。褒めるように形の良い頭を撫でてやると、眼下の水宝玉が歓喜にとろりととろけたのが見えた。手を離すと、『おすわり』をした少年はぐいと頭を反らす。日に焼けていない白い喉を見せつける動きだ。素直で可愛らしい弟のために、兄は筋の浮かぶそこに付けられた黒いチョーカーへと手を伸ばした。
すべらかな肌を傷つけないよう気を払いつつ、電灯に照らされ輝く小さな金具を解く。細いそれの端と端を持ち、ゆっくりと取り外す。『外向け』のアクセサリーをテーブルに置き、座ったままの少年は己の膝の上に置いたものを手に取った。
雷刀が帰ってすぐに棚から取り出したのは、真っ赤な首輪だった。幅は太く、嵌めるための金具も大ぶりなものだ。人の首に付ければ、過剰なほど存在を主張するだろう。傷一つ無い明るい色の生地はつややかに輝いており、その質の高さをよく表していた。
大袈裟なほど丁寧な手つきで金具を外し、広げた赤を晒されたままの首にそっと宛がう。触れる無機質な冷たさにか、それとも待ち望んだものが与えられた喜びにか、座り込んだ身体が小さく震えたのが見えた。ゆっくりと巻き付け、息苦しくならない程度の場所でベルト穴に金具を通す。椿のような鮮やかな赤い輪が、白い肌を彩った。
首元から手が去ってようやく烈風刀は頭を戻す。天河石の瞳が、再び兄を見上げる。主人の言葉をじっと待つ、躾の行き届いた犬と同じ姿をしていた。
「ちゃんと大人しくできてえらいな」
ニコリと笑みを浮かべ、雷刀はさらさらとした浅葱の髪を優しく撫でる。小さな子どもに向けるような声音だ。普段ならば子ども扱いするな、と怒るであろう片割れは何も言わない。与えられる感触と言葉に嬉しそうに目を細めるだけだ。
「こないだのテストも学年で一番だったし、アプデ前にミス見つけてバッチリ対処してくれたし、こんなに忙しい中でもニアたちの面倒ちゃーんと見てるし。烈風刀は本当にえらいな。すっげー良い子だな」
頭を撫でたまま、兄は賞賛の言葉を並べ立てる。人によっては馬鹿にしていると取られるような口ぶりだ。しかし、これは心の底から湧き出たものだ。事実、弟のおかげで多くの者が助かっている。そんな素晴らしい彼を褒めないんだなんて、あり得ないことだ。
「……ありがとうございます」
讃える言葉に、烈風刀は感謝の言葉を述べる。その声音は、いつも兄が発するような、子どものように無邪気なものだ。細まり緩く孤を描く碧の瞳は、歓喜に満ち溢れた色をしている。ほぅと小さくこぼした息は、発した音とは正反対のどこか色香が漂うものだった。
犬のように首輪をつけられ床に座った人間を、椅子に座った人間が眺めつつ撫でる。傍から見れば異常な光景だ。特に、学内の彼らしか見たことのない者ならば己の目を疑うだろう。けれど、二人にとってこれは当たり前のことだった。ここは『他者が多くいる外』ではなく『二人きりの家の中』で、互いは大切なパートナーなのだから。
互いの第二性――雷刀が他者を支配することを求めるDomであり、烈風刀が他者に支配されることを求めるSubであると判明したのは、高等部に進学して少し経った頃だった。知った頃には二人とも既にゲーム運営業務に携わっており、どうしたものかと焦ったことは記憶に新しい。学内に第二性を自覚した者はまだ少なく、いたとしても運営業務があまりにも多忙故にパートナーとしての関係性を深める時間が取れそうにない。学外ならば尚更だ。できるだけ近くにいることができて、多忙な自分たちに合わせることが可能、だなんてあまりにも難しい条件だ。
解決策が見つからず悩む中でも、そんなことは関係ないとばかりに身体は度々不調を訴えるのだから面倒だ。百歩譲って、己が苦しむのはいい。だが、その不調により業務に支障が出ることが一番の問題だった。兄弟にとって、愛しいレイシスに迷惑をかけることは死ぬよりも辛く苦しいことだ。どうしたものか、と不調の度に頭を抱えたものだ。
学生の間だけでも一時的にパートナーにならないか、と提案したのは、意外なことに雷刀の方だった。幸いなことに属性は噛み合っており、信頼関係も既に築かれている。双子の兄弟で共にいることが多く、その上同じ家に住んでいるのだ。片方が不調を訴えた時、すぐに対処出来るのは便利である。特に、両者とも運営業務中に携わっており、業務中調子が崩れた際すぐさま回復に尽力できることは、『レイシスに迷惑をかけない』という最重要事項を満たすこれ以上にないメリットだった。
そうして『学生の間』『不調に対処出来るように』『正式なパートナーが見つかるまで一時的に』という前提の関係が結ばれたのは、夏が本格的に始まる頃だった。
それから時間が経った今、その前提はとうに崩れ去ってしまっていた。共に過ごす内に互いの存在がどんどんと大きくなり、現在は『一時的』などではない、正真正銘のパートナーとなったのだ。
しかし、静かに深まったこの関係を他者に口外することなどできない。少なくとも、学生の間は無理だろう。男同士で正式な関係を結ぶことは珍しくないこととはいえ、変に詮索される可能性が無いとは断言できない。それでレイシスに迷惑をかけようものなら、目も当てられない。黙っているのが最適解だ。
なので、表向きは変わらず『一時的なもの』で通している。関係性を結んだという安心感を与えるために贈った首輪も、あまり主張のない細くシンプルなデザインのものだ――あくまで『人目がある』『外』でのみつけるものだが。
もちろん、そんな簡素なもので支配したい、支配されたい、という強い本能が満たされるはずがない。だから、誰も見ていない、たった二人きりの時だけは別の首輪をつける取り決めをしたのだ。己の色がこの人間を支配している、己はこの色が示す人間に支配されている、と一目で分かる、鮮やかな朱の首輪をつけよう、と。
「烈風刀」
触り心地の良い綺麗な髪を撫でていた手を離し、兄は再び弟の名を呼ぶ。とろけた藍玉が紅玉を見上げる。その顔は、大切なおもちゃを奪われた子どものような、飼い主に見捨てられた子犬のような、不満と悲愁が色濃く浮かんだものだ。外では涼しげな表情をしている彼が見せる本能をさらけ出した幼い表情に、朱は喉奥で小さく笑う。彼のこんな顔を見ることができるのは自分だけだ、と考え、欲求で渇いた胸がほんの少しだけ満たされた。
そのまま、ソファに座った少年は大きく腕を広げる。意図を読み取り、烈風刀はすぐさま立ち上がった。失礼します、と少し硬い声から一拍置いて、しなやかな身体がソファに乗り上がる。恥ずかしがるように所在なくもぞもぞと動き、手を広げ待つ片割れの足を跨ぐように膝立ちになる。そのまま、彼は青い制服に包まれた太股の上にゆっくりと腰を下ろした。高校生二人分の体重に、布で包まれたクッションが深く沈む。
向かい合ったまま、雷刀は膝に乗るその身体を包み込むように手を回した。胸の内にある感情全てを伝えるようにぎゅうと抱き締めると、捕らえた身体がひくりと跳ねる。遅れて、白いジャケットに包まれた腕が頭ごと包み込むように首に回された。
抱き締めた身体、己の正面にある逞しい胸に頭を埋める。深く呼吸をすると、ほのかな汗の匂いと愛するパートナーの匂いが混じった芳香が鼻腔をくすぐる。静かに吐き出した呼気は、歓喜と安堵に満ちていた。一日の内に積もった何かが、ゆっくりと消えていく。それでも、支配欲の強い少年の胸を満たせるほどのものではない。大切な者をより求め、少年は甘えるようにぐりぐりと額を押しつけた。
同じものを欲してか、烈風刀も抱きついた兄の首元に顔を埋める。首輪の固い革が当たる感触と、肌を直接撫でる呼気のくすぐったさに、柘榴石の瞳が細められた。回した手で、背を優しく撫でてやる。安心したように、抱えた身体からゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
碧い頭がもぞりと動く。刹那、首筋に小さな痛みが走った。驚きに、朱い目が大きく見開かれる。噛まれたのだ、と理解して、丸いそれがふっと細められた。つい先ほどまで明るく柔らかな色をしていた瞳の奥に、妖しい光が宿る。
そんなことは露知らず、烈風刀は目の前の肌に牙を立てる。深く傷つけるような力強いものではなく、猫がじゃれつくような甘噛みだ。ほんのりと痕が浮かぶ程度の弱い力で、美しく並んだ歯が場所を変えて幾度も突き立てられる。ほのかに汗ばんだ肌が、小さく開かれた口から溢れる唾液で濡れた。
愛しい弟は今日のように噛みつくことがある。スキンシップを得意としない彼なりに甘えようとした結果なのだろう――もしくは、手酷く仕置きされ心も体も支配し尽くされたくてやっているのだ。どちらにせよ、パートナーである雷刀には構う義務がある。義務など無くても、可愛らしくて不器用な彼の欲求を満たしてやりたくてたまらない。それがどちらであれど。
「れーふーとー」
甘え噛みつく愛し人の背を、回した手でぽんぽんと軽く叩く。いたずらっ子を諭すような声音だ。しかし、烈風刀には強く諫めるように聞こえたのか、控えめに立てられていた牙が急いで離れた。残されたのは、すぐさま消えてしまうような薄い歯形と、唾液が渇いていく冷たさだけだ。
埋めた首元から顔を上げた少年は、眼下の紅玉髄を見つめる。視線を受け止め見上げた先、逆光で少し暗く見える孔雀石には、少しの後悔と強い罪悪感、それ以上の多大な期待が浮かんでいた。
「噛んじゃだめって言ってるだろー?」
「す、すみません」
優しく言い聞かせるように、そっと柔らかな頬を撫でる。すぐさま、少し震えた謝罪の声が降ってきた。形の良い眉を八の字に下げる様から、己の失態を自責し、言いつけを守らなかったことを後悔していることが分かる。しかし、その顔はほんのりと上気し、吐く息もどこか熱を帯びている。言葉と表情が正反対だ。
そのどちらもが烈風刀の本心であるということは、しっかりと理解している。ただ、どちらの欲望を満たしてやるかは、支配権を持つ雷刀の自由だ。
「次からは気を付けような。烈風刀は良い子だから、ちゃんと約束守れるよな?」
すべらかな頬をゆっくりと撫でながら、赤い口から諭す言葉が紡がれる。努めて優しい声は、先ほどのいたずらに対してもう怒っていないと語っていた。
「えっ……? ……あ、はい。気を、付けます」
告げられた優しい言葉に、少年はぱちくりと目を瞬かせる。淀みながら慌てて返した言葉には、動揺と落胆が色濃く滲んでいた。普通ならば怒られずに済んだ安堵で満ちるであろう顔は、どこか暗く沈んだものだ。やはり、言葉と表情がちぐはぐだ。
予想通りの様子に、雷刀は内心ほくそ笑む。支配を望む弟は、己の粗相が許されず、手酷く『おしおき』されることを期待していたのだろう。だから、わざとそちらを選ばなかったのだ。支配されることを望む人間を、何も与えずに放置する。これだって十分な『おしおき』だ。支配欲の強い己も我慢せねばならないのは辛いものがあるが、悪いことをした者には相応の罰が必要なのだから仕方無い。
戸惑いながらもきちんと反省の言葉を返した褒美に、兄はわしゃわしゃと乱暴に頭を撫でた。普段ならば気持ちよさそうに目を細める弟だが、今浮かぶ表情は不服と悲嘆と当惑と後悔がぐちゃぐちゃに混ざった複雑なものだ。何か言いたげな様子だが、手入れされ整った唇は引き結ばれており、言葉を発する様子はない。
黙りこくる恋人を尻目に、雷刀は背に回したままだった片腕をゆっくりと離す。過ごしやすい室温になっているはずだというのに、肌に触れる空気が酷く冷たく思えた。膝の上、解放され自由になった少年の身体が小さく跳ねる。依然こちらを見つめたままの瞳に、強い不安が広がったのがはっきりと見えた。
「そういや、帰ってから何にも飲んでないよな? 喉渇かねぇ?」
再度柔らかな頬を包みこみ、朱は普段通りの明るい調子で尋ねる。慈しむように、緩い曲面に沿って優しく手を這わす。乗り上がったままの身体は、未だ強ばりろくに動かない。
「コーヒーでも淹れてくる。ブラックでよかったよな?」
「えっ? いえ、それくらい僕が――」
「烈風刀」
ようやく反応を示した烈風刀の声を、落ち着いた声が遮る。短く静かな響きだが、そこには有無を言わせない力強さがあった。
「『まて』」
笑顔で言い放たれた命令に、碧の身体が凍ったように硬直する。瞬きすらできずにいる彼の顔には、強い動揺と痛苦が浮かんでいた。
しばらくして、はい、とか細い返事が部屋に落ちた。のろのろと名残惜しそうに膝から降りた少年は、今一度床に腰を下ろす。絶望に染まった青白い顔が、己の恋人であり支配者である朱色を見上げた。
迷わず床に座った弟の姿に困ったような笑みをこぼし、雷刀は板張りの床に付けられた手をそっと取る。命じなくともごく自然に地べたに座るのは非常に真面目な彼らしく愛らしいが、こういう時ぐらいは素直に隣に座ってほしいものだ。互いに命令する、命令されるという一種の主従関係ではあれど、根底は何よりも大切なパートナーなのだ。共に過ごすならば、その存在を確かに感じられる隣にいてほしい。
握って繋いだ手を軽く引く。従順な片割れは、されるがままに立ち上がった。そのままゆっくりと腕を引き、己の隣に座らせる。入れ替わるように立ち上がる。くるりと横を向き、若草色の頭を見下ろす。柔らかなソファの座面に沈んだ弟の身体は、寒さを堪えるように縮こまっていた。
「すぐ淹れてくる。烈風刀は良い子だから、大人しく待てるよな?」
強張る身体を少しでも解こうと、兄は下を向いた弟の頭を撫でる。指で梳くように、形の良い頭をゆっくりとなぞっていく。少し屈み、視線を合わせて優しく語りかけると、不安に揺らめく藍晶石が炎瑪瑙をまっすぐに見た。
「……はい。大丈夫、です」
返ってきた声はわずかに震えていたが、その響きはしっかりとしたものだった。Domの言いつけを守らねばならない、というSubの本能だけではない。彼の生真面目さや信頼に応えようとする真摯な姿勢がはっきりと見て取れた。『良い子』という言葉を強調したのも大きな要因だろう。『良い子』でいれば褒美が与えられることは、賢い弟はとうに学習済みだ。
しっかりと返事出来たことを褒めるように今一度頭を撫で、雷刀はキッチンへと足を向ける。戸棚から取り出したマグカップ二つに水を注ぎ、カウンターに置かれた電気ケトルに入れて電源スイッチを押す。小型の機械を低い呻り声を上げる間に、スティックタイプのインスタントコーヒーを取り出す。いつもならきちんとドリップするのだが、これはあくまで『おしおき』の一環だ。時間が掛からない簡素なもので十分である。
烈風刀はとにかく世話を焼きたがる。炊事や洗濯、掃除などの家事全般はもちろん、恋人の爪の処理や髪の手入れすら丁寧に行うほど、世話して尽くすことを日常の喜びとしていた。飲み物などを用意するのも、普段ならば彼の仕事だ。好みを全て把握し、体調などを考慮しその場に最適なものを出す完璧ぶりである。
そんな人間から、世話する役割を奪う。これだって十分に『おしおき』だ。
愛用のマグの取っ手を撫でながら、雷刀は思案する。先ほどの様子を見るに、思った以上に参っているらしい。これ以上『おしおき』を重ねては、サブドロップを起こしてしまう可能性がある。自身の過失はもうしっかり理解しているのだから、そろそろ切り上げてまためいっぱい甘やかしてやろう。うんうん、と頷き、黒い粉末をカップに適当に放り込み、沸き立ての湯を注ぎ込む。真っ白な湯気とインスタントの安っぽい香りが、少し肌寒いキッチンに広がった。
白が舞う二つのマグカップを両手に、兄は弟の待つソファへと戻る。『おしおき』の真っ最中である彼は、言いつけ通り大人しく座って待っていた。きちんと背筋を伸ばし、膝に手を置いた姿勢の良い佇まいは、真面目な烈風刀らしい。けれども、その顔は軽く伏せられており、口元は固く引き結ばれているのが遠目でも分かった。
日常の皮を被った異質な光景に、少年は密かに口角を上げる。己の言葉ひとつで相手を支配する悦びと、愚直なまでに従順な彼への愛おしさが胸いっぱいに広がる。命に従ったことを褒めてやりたい。いたずらをしたことを罰してやりたい。早く構ってやりたい。もっと虐めてやりたい。相反する欲求が身体を突き動かす。
「はい、これ。熱いから気を付けろよ」
「……ありがとうございます」
手にした淡い空色を渡すと、少しの間を置いて礼の言葉が返ってくる。しかし、その響きは普段よりも幾分か細く暗いものだ。髪の間から垣間見えた宝石のように丸く澄んだ瞳は、輝きを失いつつあった。可哀想で可愛らしいその様子に、少年の背筋を甘い感覚が駆け抜けた。
吊り上がりかけた口角をどうにか整え、雷刀は常通りの明るい笑みを作る。ちゃんと待ててえらいな、と頭を撫でてやると、見下ろしたその肩が少し跳ねたのが見えた。ふるりと震えるその姿は、愛らしいという表現がよく似合う。
己の分のカップを手に持ち、朱は碧の横に腰を下ろす。湯気で隠れた黒い湖面に薄い波紋が広がった。同心円状にさざめくそれを眺めるふりをしつつ、密かに隣を見やる。しゃんと背筋を伸ばして座る弟は、細かな傷のついたマグカップを両手で抱え、己と同じように真っ黒な湖面を見つめていた。液体が波打つ様を映す浅葱は薄く曇っており、彼の意識は現実でないどこか遠くにいるのだと察することができる。
従順に『まて』を完遂したパートナーに賞賛という褒美を与えたが、やはりそれっぽっちでは足りないようだ。何故放り出されたのか。何故自身が行動することが許されなかったのか。全て自分のせいなのだ。このまま見捨てられてしまうのではないか。そんな悲観的で自罰的な思考に陥っているのは、長年連れ添ってきた雷刀には言葉にしなくても理解できた。
さて、どうするべきか。理由無く褒めるなり抱き締めるなりしても、今の烈風刀は哀れみと受け取ってしまうだろう。完全に逆効果だ。ならば、どんなに些細なことでもいいから彼が起こした行動をきちんと評価し、全て肯定して褒めてやるべきだ。
喉奥で唸りつつ、手にしたマグカップを口元に運ぶ。茜色のそれをゆっくりと傾け、湯気の漂うコーヒーを口にする。瞬間、舌先に凄まじい熱と鋭い痛みが走った。思ったよりもずっと熱い液体が、赤い舌を焼く。突如身体を駆け抜けた痛みに、雷刀は反射的にマグから口を離す。口内にわずかに残った熱いコーヒーが、粘膜を焼いていく。ゴクリと飲み干し、喉粘膜まで焼かれた少年は呻きを漏らした。ひりつく舌を犬のようにべろんと出す。外気で冷まそうとするその行動は、焼け石に水でしかない。
「何をしているのですか」
「舌火傷した……」
呆れた声が隣から飛んでくる。固かった声音は通常のものに戻っていた。いつも通りの間の抜けた兄の姿に、ようやく調子が戻ったのだろう。若草色の眉が呆れたようにひそめられた。
「先ほど僕に気を付けろと言ったばかりでしょう」
「もういけると思ったんだよ」
いたい、と情けない声をあげる雷刀を見て、烈風刀は嘆息する。返す言葉など欠片も無かった。うぅ、と恨めしげな音を漏らす。隣に座る弟は、反面教師を横目にふぅふぅとマグに息を吹きかける。深闇色の湖面がまた揺れた。
また同じ過ちを起こさないよう、兄も同じく息を吹きかける。十二分に冷まして一口。今度は程よい熱が口の中に広がっていく。けれども、舌先は依然鈍い痛みを訴え続けるのだ。味も何もあったものではない。思わず眉間に皺を寄せた。
コトリ、と硬質な音が二人きりの部屋に落ちる。音の方へ視線をやると、そこには目の前のローテーブルにマグを置く烈風刀の姿があった。その中身はまだろくに減っていない。一体どうしたのだろう、と首を傾げるより先に、あの、と細い声が飛んできた。
「あ、の…………、っ、貴方、いつも『舐めれば治る』と言っていますよね」
「え? そうだけど――」
治療の手間が面倒臭く感じる己は、『傷など舐めれば治る』と常々言っている。それが一体どうしたのだろうか。怪我なんてしていないのに――否、『怪我』なら先ほどしたばかりではないか。『火傷』という明確な怪我を。
あ、と少年は声を漏らす。傷。舐める。恥じらう姿と口にした言葉が、頭の中で結びつく。彼が今考えている行動はあまりにも愉快で、あまりにも淫蕩なものだ。思わぬ積極性に、雷刀は目を瞠る。それも、湧き上がる愉悦が全てを塗り潰していった。
「うん。これぐらいなら、舐めればすぐ治るって」
言葉とともに、べぇと舌を出し患部を見せつける。ひりひりと痛むそこを、碧い目がじぃと見つめる。先ほどまでの呆れは消え失せ、今は熱を孕んだ視線がこちらへと向けられていた。
「……それだけで治るのでしたら、舐めましょうか?」
薄い唇から、ちろりと赤い舌が覗く。唾液でコーティングされたそれは、電灯の明かりを受けてつややかに光っていた。その光景も、仕草も、今の彼の何もかもが妖艶に映る。事実、恥ずかしげに眉を八の字に下げ、頬を染めて舌を出す様は淫靡であった。
マグをテーブルに起き、雷刀は弟の方へ身体を向ける。膝の上に乗った手をするりと撫でる。白いそれがゆっくりと動き、手のひらと手のひらが合わさる。指の間に入った指がゆっくりと曲がり、緩く絡められた。所謂恋人繋ぎだ。スキンシップを得意としない彼のことを考えると、驚くほどの積極性だ。よっぽどの情動が彼を動かしているのだろう。
そっと顔が近づいてくる。つられるように、目の前の身体が前傾姿勢になってゆく。受け止めるべく、肩に手を添えた。潤んだ瞳と瞳がかち合う。どちらも奥底に焔を灯していた。
距離がどんどんと縮まり、ゼロに近くなる。眼前の口が開き、控えめに出された舌が伸ばされる。触れやすいよう――治療すべき患部を舐めやすいよう、朱もべろりと大きく舌を出した。
ちょん、と舌先と舌先が触れ合う。瞬間、鈍い痛みが走った。顔に出てしまわぬよう、必死に表情筋をコントロールする。努力が実ったのか、単に気付いていないだけか、碧は気にする様子なくちょん、ちょん、と舌先で更に触れてくる。小鳥が実を啄むような可愛らしい動きだ――行ってることは、この上なく破廉恥なのだけれど。
つつく舌先が離れ、一度しまわれる。こくりと白い喉が動く。意を決したのか、また赤いそれが顔を覗かせる。べろりと大きく出されたそれが、患部を覆うように重なった。
ぬるつく舌が、火傷を負ったそれを舐める。時折しまい、口内で唾液をまぶし、またぺろぺろと舐める。出しっぱなしで乾くはずの火傷舌は、持ち主のものでない唾液にまみれてらてらとつやめいていた。
甲斐甲斐しく患部を舐めていた舌が去っていく。これで終わりだろうか、と碧を見ると、一拍置いて口が大きく開かれる。そのまま、出されたままの舌をぱくりと食んだ。迎え入れられた口内で、唾液をまとった舌がざらつく己のそれを舐めていく。たっぷりの唾液をもって痛む患部が舐め尽くされる感覚に、腹に重いものがわだかまる。それが何であるかなど、とうに分かっていた。
口を離した瞬間を見計らい、雷刀は大きく口を開ける。そのまま、目の前の口にかぶりついた。唇ごと食んで捕らえ、呆けたように開いた隙間から舌をねじ込む。口内で唾液を補充していた片割れのそれを、己のそれで絡め取った。
ぬる、と舌の腹と腹が擦れ合う。ざらりとした感覚に、背筋を何かが素早く駆けていく。甘美な刺激がもっと欲しくて、少年は更に舌を動かす。ん、と鼻にかかった声が室内に落ちて消えた。
絡め取った熱が退き、再び触れ合う。今度は舌先でのじゃれあいだ。治療という名目は、まだ烈風刀の中で生きているらしい。真面目な彼らしい、とゆるりと広角を上げた。
二人分の唾液を十二分にまとっているとはいえ、やはり火傷した部分は触れる度痛む。けれども、それが気にならないほど甘ったるい感覚が脳を焼いた。もっと、とねだるように奥に潜り込む。熱の塊が触れ合い擦れ合うのは、この上なく気持ちが良かった。『治療』なんて銘打ってこんな卑猥なことをしているという背徳感のスパイスまでついているのだから尚更だ。
随分と長い『治療』が終わり、口と口が離れる。べろりと互いにだらしなく出した舌の間に、細い糸が橋がかる。光を受けて輝くそれを、もったいないというように相手の舌ごと舐め取った。
二人分の呼吸音が部屋に落ちては積もってゆく。目の前の弟の姿は――つやめく舌をだらしなく垂れ下げ、頬を紅に染め、眦を下げた目に涙をたたえた恋人の姿は、この上なく淫らだった。
衝動に任せ、雷刀は繋いだ手をぐいと引く。バランスを崩した弟の身体が、胸に雪崩込んでくる。うわ、と小さな悲鳴があがった。
「これだけ舐めたなら夜には治るかもな。ありがと、烈風刀」
「い、え……、これぐらい、なんでもありません」
礼の言葉とともに、ニコリと笑いかける。腕の中の愛し人は、嬉しそうにはにかんだ。赤らんだ頬で控えめに笑む様は愛らしい。けれども、瞳に宿る情火がその愛らしさを淫らな印象に塗り替えた。
飛び込んできた彼の腰に、手を添える。そのまま、腰骨を、背筋の窪みを、項を大きな手が這ってゆく。わざとらしいほどゆっくりとしたその感触にか、腕の中の身体がそわりと震えた。見上げる浅海色は、既に熱でとろけて潤んでいた。
「手当してくれるし、こんなにオレのこと気遣ってくれるなんて、烈風刀はめちゃくちゃ良い子だな。すごいぞー。えらいぞー」
褒め称える言葉とともに、わしゃわしゃと若葉色の頭を撫でる。喜びと温かさにか、弟はへにゃりと笑った。日頃怜悧な顔つきをした彼からは想像できないほど、とろけきった笑みだった。愛おしさが、嗜虐心が胸の中に溢れ出る。後者に無理矢理蓋をしつつ、兄は言葉を紡ぎ出す。
「えらくて良い子な烈風刀にはいーっぱいご褒美あげないとな。何が欲しい? 何でもあげるぜ?」
乱した髪をさっさっと梳かし整えつつ、朱は小首を傾げて問う。『ご褒美』の部分をことさらゆっくり言ってやると、腕の中の身体がぶるりと震えた。それが喜悦と期待によるものだということは、手にとるように分かった。
しばしの沈黙が二人を包む。恥じらうようにもぞもぞと動く身体を撫でつつ、雷刀は言葉を待つ。どれだけだって待ってやるつもりだ。何でも与えてやるつもりだ。もっとも、彼が何を望むかなど、もう分かりきっているのだけれど。
「――雷刀が欲しい、です」
いっぱい褒めて、いっぱい愛してください。
ゆっくりと言葉を紡ぎ、烈風刀は艶然に笑う。柔らかな弧を描く燐灰石の瞳は、これ以上ないほど欲望に溺れていた。
予想通りの要求に、少年は喉奥で笑う。あまりにも可愛らしい言葉だった。あまりにもいやらしい言葉だった。どちらも、Domの本能を刺激する。目の前のつがいを支配し、愛してやることこそが、今の自分の使命だ。
背に回した手に、絡み合った手に力を込める。肯定の意であり、逃さないという意でもあった。きちんと伝わったのか、捕まえられた少年はゆるりと口角を上げる。整った顔は、幸福と想望、淫欲で彩られていた。
ふっと身体の力を抜く。そのまま、重力に逆らうことなく後ろに倒れた。ぼすん、と柔らかな座面が大きく沈み込む。ギシ、とソファのスプリングが大きな抗議の声をあげた。
上に乗せた同世代男性の身体は相応に重い。しかし、その重さが、制服越しに伝わる温もりが何よりも愛おしかった。胸に溢れる愛情に、思わず笑声がこぼれ出る。上機嫌なそれをどう解釈したのか、腕の中の彼は、ぁ、と細い声をあげた。
上に乗った烈風刀が、座面に手をつき身を起こす。傍から見れば、彼が己を押し倒している構図だ。普段とは逆である。それもまた、非日常を演出する。
背に回した手を離し、目の前のネクタイに手をかける。丁寧に結われた部分を乱雑に下に引くと、青いそれは簡単に解けた。今度は、ネクタイの下に隠されていたボタンに手をかける。一番上まできっちり閉じられたそこを、己と同じように二つ外してやる。日に焼けていない白い肌が姿を表した。首輪の赤とのコントラストが眩しく、妙に艶かしく映った。
ぁ、と声が降ってくる。熱を孕んだ、甘ったるい響きをしていた。見下ろす視線は、続きを待望としたとろけたものだ。当たり前だ、『おしおき』を終え、念願の『ご褒美』をもらっている人間が、続きを期待しないはずがない。
頭上、かすかに開いた口を見て、雷刀はふと先ほどのいたずらを思い出す。かぷかぷと幼い猫のように甘噛みする姿は可愛らしいものだった。しかし、あの程度では痕など残っていないだろう。それだけが不満だ。どうせやるならば、痕ぐらい残してほしいものだ――実際にやれば『おしおき』必至だが。
上体を軽く起こす。上に乗った烈風刀との距離が一気に縮まる。急激な接近に、溶けた朝空色の瞳が瞠られる。口づけされると勘違いしたのだろう、美しい碧が白い瞼の奥に隠れた。
弟の様子など気にせず、雷刀はぐわ、と大きく口を開ける。『噛む』というのはこうやるのだぞ、とお手本を示すように、はだけた白い肌に牙を立てた。
畳む
淫らに溺れて【ライレフ/R-18】
淫らに溺れて【ライレフ/R-18】
オニイチャンに「がんばれ♡がんばれ♡」と言わせたかっただけの話。
あと貞淑ぶってるくせに快楽によわよわな弟君が書きたかっただけの話。
「ひ、ぁ……あっ、ア」
ぐちゅ、と粘ついた音が二人きりの部屋に響く。耳を塞ぎたくなるようなそれに思わず身を捩ると、またぐちゅ、と淫猥な音が鳴った。当たり前だ、音の発生源は己と恋人が結び合わさった場所なのだ。動けば音が鳴るのは必然である。理解はしているが、それを正常に処理することなど、ピンク色に染まりきった脳味噌では到底不可能だった。
現状から逃げたくて身体を動かす。結合部から淫靡な音が鳴る。剥き出しになった本能が刺激される。淫らな身体が、頭が反応する。きもちがいい、と。
烈風刀にとっては負の連鎖だ。現状では断ち切ることのできない連鎖が、白い身を襲う。逃げることなど到底不可能だった。なにせ、過ぎた快楽で腰は抜けてしまい、足もとうに力が入らなくなっている。震える足を叱咤し立ち上がり、咥え込んだ雄を抜き出し、脱ぎ散らかした服を持って部屋を去るなど、今の身に要求するにはあまりにも高度な動きだった。
「れーふと」
己を呼ぶ声に、少年はびくりと肩を震わせる。ぎこちない動きで音の方へ視線をずらす。快楽と涙で少しぼやけた視界には、困ったように眉端を下げた兄の顔が映った。
労るようにするりと腰を撫でられる。たったそれだけの触れ合いで、脳味噌はきもちがいいものだと誤認した。腰骨から背筋を電流が駆け上がっていく。ぁ、と甘えるような音が開きっぱなしの口から漏れ出た。
動きに反して、その手に優しさなど欠片も無い。実際は真逆だ。早く動け、と催促しているのだ。動かないままでは終わらないぞ、と言外に告げているのだ。分かりきった現実をいちいち突きつけてくるのだ、この男は。
普段ならこの筋張った腰を、肉付きの薄い尻をめいっぱいに鷲掴み、好き勝手に腰を打ち付けるというのに。今日に限ってはただ寝転がっているだけだ。あるとすれば気まぐれに肌を撫で、こちらの欲を煽る程度である。卑怯だ、と叫びたくなる。しかし、この体位――受け入れる側である己が突き入れる側である兄の上に跨り動く騎乗位は、双方合意の上で行われているものである。文句を言うのは何だか憚られた。
組み敷いた彼の腹の上についた手に力を込める。どうにか腰を持ち上げようとするが、力が入らない足では身体を支えることなどできない。動くことなど不可能だった。鍛えられた腕がカクンと崩れ、前のめりになる。そのまま、目の前の胸に倒れ伏した。ずる、と兄自身が勢い良く抜けていく。柔らかな壁を一気に擦り上げられる感覚に、アッ、と上擦った声があがった。
「だいじょぶか?」
崩折れた背に手が触れる。熱いそれが、そろそろと肌の上を這っていく。背から下へ下へとなぞり、トントンとあやすように腰を叩かれる。それだけで脳髄が痺れた。うつ伏せた身体がびくびくと跳ねる。あ、ぁ、と耳を塞ぎたくなるような声が己の口から漏れ出た。
「起きれる? 無理ならもうやめとくけど」
気遣う言葉は、実質脅しだった。ここまでして――入念に愛撫を施し、一度雄を迎え入れる快感を味わわせておいて、『このまま行為を終える』なんて、今の烈風刀にとっては脅迫以外の何でもない。この腹に燻る熱は、雄を咥え込み、子種を与えられなければ晴らすことなどできないのだ。
そんなこと分かりきっているはずなのに。思わず眼下の紅玉を睨めつける。かち合った朱は、苛烈な炎で昏く輝いていた。情欲の焔だ。捕食者の輝きだ。どれもこれも、上に跨ったこの身体を食らい尽くさんとするものだ。お前だって、この薄い腹を穿ち、種を植え付けなければその炎は収まらないだろうに。つくづく意地の悪い男だ。
だいじょうぶです、とどうにか返す。そう返すしかなかった。このまま終わりにされて、無事でいられるわけがないのだから。
組み敷いた兄の脇に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。油の切れた機械のように、ぎこちない動きで上体が起こされていく。腕を伸ばし、足に力を入れ、どうにか元の体勢に戻ることができた。倒れ伏した際に抜け落ちた雄茎が、尻の間で存在を主張する。肌を焼くような熱に、ぁ、と情火の灯った声が漏れた。白い腰が無意識に揺らめく。ずりずりと雄の証を肌に擦り付ける姿は、淫らの一言に尽きた。
兄の腹に手をつく。本来ならば体重を預けることに遠慮を覚えるが、今日ばかりは別だ。これぐらいやってやらねば気が済まない。
足と腕に力を込め、ぐっと腰を持ち上げる。天を衝く雄肉を、股の間、秘められた場所へと誘う。つい先ほどまで愛しい熱を咥え込んでいた狭穴は、物欲しげにはくはくと収縮した。白い肌の奥から熟れきった肉の色が覗くのは蠱惑的であった。
はしたなくひくつく淫口に、熱杭を宛がう。ちゅく、と濡れそぼつ孔とカウパーしたたる穂が触れて卑猥な声をあげた。口づけにも似た音に、持ち上がった身がぶるりと震える。きゅうぅと腹の奥が浅ましい鳴き声をあげた。音にならない声が喉奥から漏れ出る。淫欲に焼かれ、熱を孕んでいた。
大きく息を吸って、吐く。足と腕の力を調節しつつ、ゆっくりと腰を下ろしていく。すっかりと綻びきった秘蕾に、肉の楔が打ち込まれていった。切っ先が肉の洞に切り込んでいく度、じゅぐ、と熟れた果実を潰すかのような音があがる。淫猥な響きに、雄を抱き込んだナカがきゅうと縮こまった。
ぐ、と下から低い唸り声が聞こえる。偶然とはいえ、先端を思い切り締め付けられたからだろう。いい気味だ、と内心笑みを浮かべ、腰を進めていく。張り出た部分が柔らかな壁をゴリゴリと擦っていく。何もかも焼き尽くしてしまいそうな熱の塊が、腹の中を支配していく。背筋を甘くやわい何かが撫でた。
「――は、ぁ、あッ、アッ!」
長い長い時間の末、ようやく肉鞘に業物が根本まで全て納められた。張り詰めた先端が、道の突き当りをこつりと小突く。瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。頭の奥がビリビリと痺れる。目の前に白い閃光が瞬く。高い嬌声がシーツの海に落ちて消えた。
崩折れそうになるのを、腕に力を入れることでどうにか防ぐ。また倒れ抜け落ち、挿入れ直す事態だけは避けたかった。こんな衝撃を何度も味わっては、脳味噌が使い物にならなくなってしまうことは簡単に想像できた。
ようやく鋭い快楽が波引いていく。淫らなる肚は、侵入者を強く抱き締めて離さない。ぴったりと密着した今なら、浮き出た血管の凹凸さえ分かりそうだ。ドクリ、ドクリ、と肚の内で剛直が脈打つ感覚。己の鼓動と重なり、一つのものになってしまったかのように錯覚する。そんなこと、あり得ないのに。
傅く雄を待ち望んだ内部が蠕動し、主人を更に奥へと誘う。もう行き止まりだというのに、浅ましい身体はもっとと泣き声をあげるのだ。肉襞がぞわぞわと蠢き、逞しい幹を撫で上げる。
「ちゃんと挿入れれたなー。えらいえらい」
楽しげな声とともに、下ろしきった腰を大きな手が撫ぜる。再び鋭い感覚が背筋を駆け、脳髄を焼いた。ひ、と引きつった音が漏れる。甘ったるい、物欲しげな音色をしていた。こちらの思考――何も考えられず本能が声をあげているだけだが――など分かりきっているのだろう、八重歯が覗く口がにまりと歪んだ。
引き締まった腰を、硬い手が往復する。早くしろ、と急かしているのだ。情欲燃え盛る己の身のためにも、さっさと動かねばならない。だのに、伝わる熱に、感触に、脳が焼かれていく。喉からとろけた声が漏れ出るばかりで、身体を動かすことなどできなかった。
「ほら。がんばれ、がんばれー」
茶化すような声とともに、トントンと優しく叩かれる。ふざけた行為を咎めようにも、触れられる度に甘い痺れが身体中に広がっていき、言葉を紡ぐことができない。震える声帯は、耳を塞ぎたくなるような高い音ばかりを作った。
腹についた手に力をこめる。動くから黙れ、という静かなる意思表示だ。伝わったのか、肌を弄んでいた手が離れていく。代わりに、汗ばんだ髪を大きな手が梳かした。硬い指が垂れた若葉色に差し込まれ、毛先へと下りてゆく。こちらを見上げる目は愛おしげに細められていた――その奥には依然炎が燃え盛っているのだけれど。
ぐっと力をこめ、身体を、腰を持ち上げる。熱い刃がゆっくりと内部を擦る感覚に、目の前に光が瞬く。快楽信号に反応した内部が蠢き、肉槍を撫で上げる。ぽってりと腫れた孔は、ひくひくとひっきりなしに収縮を繰り返した。
どうにか雄を半ばまで抜き取る。震える身体を何とか支え、今度は来た道を戻っていく。熱された楔がとろけきった内壁を再び割り開いていく。硬い切っ先が、張り出した傘が、血管浮かぶ幹が、うちがわをゆっくりと擦っていく。絶えず送られてくる快楽信号が、頭を焦がしていく。肉を拓かれていく度、引きつった甘い息が口端から漏れた。
全てを飲み込まぬよう注意し、腰を落としていく。カタカタと震える手足で支える辛さを考えると、腰を下ろしきってしまった方がいいと分かっている。しかし、また張り詰めた硬い先端で奥底を突かれては、この身体が、頭がもつはずがない。思考する理性の削り取られた脳味噌でもそれぐらいは分かった。
カクつく手足をどうにか踏ん張り、再び腰を持ち上げていく。ぐねぐねと肉襞が動き、呑み込んだ肉刀を撫で上げる。ひくつく縁がきゅうきゅうとくびれた部分を締め付ける。ぐち、と肉と肉が交わる淫猥な響きが部屋に落ちた。
は、と八重歯覗く紅い口から呼気が漏れたのが見えた。わずかなそれは、欲望の炎が燃え盛るものだった。かすかな響きが、肌を撫でる。背筋を撫ぜる。脳を揺らす。きゅん、と陰茎を呑み込んだ肉洞が一気に締まった。息を呑む音が二つこぼれる。
「ぅ、あ……、ア、っ、うぁ……」
抜いて、受け入れて、また抜いて、再び咥え込んで。腰を動かす度、ずちゅ、ぬちゅ、と卑猥な音が結合部からあがる。開きっぱなしの口から嬌声がこぼれ落ちていく。脳まで犯されているような気分だ。今すぐにでも耳を塞ぎたい気分だ。けれども、手は兄の腹の上から動かすことができない。再びバランスを崩す恐怖故ではない。今身を投じている快楽から抜け出せないからだ。理性が綺麗に削り取られた脳味噌は、きもちがいいことばかりを選択する。柔らかで敏感な媚肉を硬く猛った雄で開拓される快楽は、何より優先すべきことだと桃色の脳味噌は判断を下した。
緩慢だった動きが、徐々に速度を増していく。肉と肉が擦れ、汁と汁が混ざり、猥雑な音を奏でる。ポロポロと落ちるあられもない声がアクセントになっていた。欲望を煽る協奏曲に、腹上の痴態を見つめる紅玉髄が更なる光を灯す。ギラギラと輝くそれは、視線だけで愛しいつがいを食い尽くしてしまいそうなものだった。
見据える朱いまなこに、白い身がゾクリと震える。食われる恐怖と期待と喜悦が背筋を撫でる。腹に灯った炎が高らかに燃え上がる。薄い肚がはしたない欲望の声をあげて締まった。
ひ、ぅ、と細い艶声が俯き丸まった喉からあがる。振りたくられる腰は上下運動だけでは飽き足らず、くねくねと揺れていた。腹側のイイところを、硬い先端がコツコツと突く。背側のやわい部分を、張り出たエラがゴリゴリと擦る。あまりの快楽に、脳味噌がバチバチと音をたてた。それでも、腰の動きは止まらない。むしろ、快楽を追い求め激しさを増していっていた。
あまりの凄まじさに恐怖すら覚える快楽の波に意識が飲まれる。頭の中がどんどんと靄がかり、視界が狭まっていく。碧い瞳には、鮮烈な朱しか映らない。
過ぎた悦楽は毒でしかないことは、聡明なる烈風刀は学習済みである。やめなければならないはずなのに、本能に忠実な身体は腰をくねらせた。身をよじる度、逞しい雄杭が内部を蹂躙する。狭い隘路を耕し、己の形へと作り変えていく――否、そんなことをしなくとも、とうに雄の味を覚え込んだうちがわは熱された刃をぴったりと納めた。
ぐちゅ、ぷちゅ、と淫靡な音が部屋に落ちては積もっていく。結び合わさった境目には、潤滑油と腸液と先走りの混合物が泡立っていた。いきり勃った剛直と熟れた後孔がしとどに濡れ、薄明かりに照らされる様は淫靡の一言に尽きた。
「――うぁッ!?」
決して下ろしきらぬようにと踏ん張った足、その下に敷かれたシーツが滑る。ずる、と爪先が横に滑る。受け入れきらぬよう浮いていた分の高さが一気に失われた。重力に逆らえない身体は下へと落ちていく――つまり、猛る雄を根本まで一気に呑み込むこととなる。
ごちゅん、と肚の奥底から鈍い音があがるのが聞こえた。
「はッ、ア、ああああああッ!!」
脳内が、視界が、意識が白む。真っ白に染まった世界に、閃光がいくつも瞬く。脳の奥がビリビリと強く痺れる。肉付きの薄い身体が弓なりにしなり、仰け反った喉から高い悲鳴があがった。法悦を高らかに謳い上げた、甘美な音色をしていた。
脳髄に叩き込まれた快楽の電気信号に、狭い内部が収縮し雄を抱きしめる。離れたくない、離さない、と言わんばかりに、うねる襞が蠢き硬い幹に吸い付いた。熟し膨れた狭口が、怒張の根本を強く咥え込む。ぎり、と歯を食いしばる音が落ちた。
勃ち上がった烈風刀自身から、白濁が勢いよく吐き出される。持ち主の腹と組み敷いた雷刀の腹に白が舞い散った。充血した赤い肉竿を白が伝い彩る様は淫らであった。
突然の、しかも脳神経を焼き切るような凄まじい快楽に、全身から力が抜ける。絶えず動いた身体が、過ぎた快感を受け止めきれなかった脳が、限界を訴える。体重を支えていた腕から力が抜ける。引き締まった身が、再び前へと倒れた。
「っ、と」
短い声とともに、崩折れる身体が途中で止まる。片手で身を起こした雷刀が受け止めたのだ。汗ばんだ肌と肌が重なる。熱と熱が触れ合う。激しい運動後のそれは、常ならば不快感を覚えるはずだというのに、今は愛おしく思えた。伝わる温度に、ぁ、ととろけた甘い声を漏らした。
「ちゃんと頑張れたなー。えらいえらい」
褒め称える言葉を耳に流し込まれる。達したばかりの身体は、普段と変わらぬそれすらきもちがいいことだと誤った判断を下した。追撃とばかりに――絶対に意図していないだろうが――トントンとあやすように優しく背を叩かれる。かすかな振動に、脳天が痺れ、視界がチラつく。ぁ、あ、ととろけきった音が声帯から発せられた。
烈風刀ぉ、と己の名を呼ぶ声がする。少しだけ潜められたそれは、明らかに情欲の炎を纏っていた。甘えた低い響きが鼓膜を震わせる。ゾクゾクと背筋を電流が駆け抜けていく。閉じられぬ口からは意味のない音が溢れるばかりで、返答などできない。それを分かっていてか、朱はそのまま言葉を続けた。
「オレ、まだイってねーんだけどさ」
もうちょい頑張れる?
耳に直に注がれた言葉に、碧の身体がビクンと一際大きく跳ねる。引きつった音が喉からあがる。先ほどまでの快楽に浸ったものではない。明確な恐怖を表していた。
頑張れるか、だと。無茶を言うな。この身体はもう限界なのだ。これ以上動くだなんて、これ以上快感を与えられるだなんて、絶対に無理だ。
確かに兄はまだ達しておらず、この肚の中でいきり勃ったままである。自分だけが果ててしまった罪悪感はあるが、限界値を超える淫悦への恐怖が勝る。死んでしまう、だなんて馬鹿な言葉が頭をよぎるほどだ。
精一杯の力を振り絞り、ぎこちない動きで首を横に振る。翡翠の瞳から雫が溢れ、頬に透明な筋を描いた。
「む、り、です……、も、むり……」
「烈風刀は何もしなくていいからさ。ただきもちよくなってるだけでいいから。な?」
おねがい、と柔らかな言葉とともに、耳朶に口づけひとつ。ちゅ、と可愛らしいリップ音に、また雫が伝い落ちる。ふぁ、と甘ったるい声があがり、引き締まった背が反る。まるで電流でも流されているように、びくりびくりと断続的に小さく跳ねた。
きもちよくなってるだけでいい。
きもちよく。
きもちいい。
熱を吐き出し欠片の冷静さを取り戻した脳味噌は、無理だと泣き言を言う。しかし、依然本能に支配された身体はあまりにも正直だ。行為の度に多大な快楽に浸らされ、とうに躾けられた身体は、『きもちいい』という言葉に敏感だった。期待に、薄い肚の中身がきゅうきゅうと収縮し、迎え入れた雄肉を抱き締める。鼓動がとくりとくりと加速していく。精を吐き萎えた自身がひくりと反応を示した。
ぅ、う。濁った音が喉奥から漏れる。苦悩の音だ。理性と本能が戦う音だ――そんなこと、無意味だというのに。
今一度瞬く。潤んだ天河石から涙が溢れ落ちる。呆然と開いていた唾液まみれの口が閉じ、引き結ばれる。しばしの沈黙の末、はい、とか細い声が鍛えられた身体の上を滑った。
あんがと、と口づけが頬に落とされる。少しだけカサついた感触と普段よりも高く感じる温度に、もたれかかった身が震える。少しの触れ合いすら、今の烈風刀にとっては快楽を発生させるものだった。
「起き上がれる?」
「は、い……」
心配げな問いに、なんとか返す。体重を預けていた身体からどうにかして身を起こし、元の体勢に戻る。腹について身体を支える手と跨った足は依然ガクガクと震えていた。これで本当に身体を支えられるのだろうか。不安は、腰を捕らえた手によって解消された。薄い肉に指が食い込むほど力強く鷲掴まれる。絶対に離さない、逃さないという意志が嫌というほど伝わってきた。
退路を塞がれたというのに、藍玉の目には燃え盛る情火が浮かんでいた。小さく開いた口から熱い呼気が漏れ出る。この先の行為――『きもちよくなってるだけ』と言われた行為への期待が、少年の身体を支配していた。淫悦に溺れた瞳は、こちらをまっすぐに射抜く朱を見つめていた。早く、早く、とねだるように。
ぐ、と鷲掴んだ手に力が込められる。鍛え上げられた腕が動き、馬鹿力で高校二年生相当の身体を持ち上げようとする。意図を察し、碧は足に力を入れ腰を浮かせる。開きっぱなしの口から、透明な唾液がおとがいを伝い落ちた。
持ち上がった腰を、一気に引き付けられる。同時に、組み敷かれた朱の腰が跳ね上がる。腰骨と尻肉とがぶつかり合い、高い音があがる。内部でも、硬い切っ先と行き止まりの襞が勢いよくぶつかり、ごん、と腹の奥に鈍い音が響き渡った。
「ぃっ、ア、ァあ!!」
脳味噌に叩き込まれる強大な電気信号に、弟は悦楽に染まりきった悲鳴をあげる。当たり前だ、最大の弱点である奥底を思いっきり突かれて、ただで済むはずがない。過ぎた快楽を逃がすために声をあげるのは、一種の防衛本能だ。
つがいの弱点――つまるところ、一番きもちよくなる場所を知り尽くした兄は、そこを重点的に狙う。『きもちよくなってるだけでいい』という言葉を、しっかりと実行していた。
ばちゅん、ぐちゅん、と淫らな音をたてて肉体がぶつかり合う。猛りきった雄が、ふわふわとしたうちがわを蹂躙する。烈風刀にとっては地獄であり天国であった。脳が受容できないほどの快楽を絶えず叩き込まれるのは、きもちがいいことだけをひたすら与えられるのは、拷問であり褒美だ。
間抜けに開いた赤い口からは、とろとろにとろけた甘ったるい声と、溢れ出る唾液がひっきりなしに漏れていた。奥を突かれる度、理性が抉り取られ、本能が頭を支配する。嬌声を抑えるだなんて理性的な行動ができるはずなどなかった。
「ぃうっ、あ……、やッ……! あ! アァ!」
ごちゅ、どちゅ、と奥底を音をたてて抉られる。切っ先が秘めたる襞をノックする度、視界に光が明滅する。脳髄が痛いほど痺れる。快楽が視界を、思考を、意識を融かしていく。暴力的なまでの性感に、艶めいた声をあげることしかできなかった。
カクン、と腹についた手が折れる。法悦に殴られ続けた身体が限界を迎えたのだ。そのまま、上半身が前に倒れていく。再び目の前の胸に蹲ることとなった。先ほどと違うのは、腰を掴まれていたことにより屹立を咥え込んだままだということだ。
鍛えられた重い身体を受け止めたまま、兄は絶えず掴んだ腰を振り下ろし、己の腰を振りたくる。彼もまた快楽に意識を支配されているのだろう。食いしばった口からは、獣めいた唸りが漏れていた。
倒れたことにより、雄楔が擦る場所が変わる。熟れた先端が、張ったエラが、膨張した茎が、ごりゅごりゅと音をたてて擦っていく。張り出た傘が往復し、ふっくらとした前立腺を刺激する。弱い部分を力強く擦り上げられ、烈風刀はまた悲鳴めいた嬌声をあげる。前立腺と最奥という最大の弱点を一気に責め立てられて、まともな声が出せるはずなどない。
「烈風刀ッ、烈風刀、きもちい?」
容赦の無いピストンの最中、雷刀は蹲った弟に尋ねる。快感に融かされ掠れた音をしていた。
問いに答える声はない。応えることなどできるはずがないのだ。言葉の宛先である碧は、快楽の海に沈んでしまっているのだから。けれども、あがる甘く艶めいた悲鳴が何よりも雄弁に答えを語っていた。
れふと、れふと。淫音響く中、とろけ始めた低い声が己の名をなぞる。たったそれだけで、内壁は悦び蠢いた。柔肉が咥え込んだ雄をぎゅっぎゅっと締め付け絡みつく。兄が腰を掴むのと同じく、弟も逃さないと言わんばかりにナカを締め付けた。
きもちいい。きもちいい。きもちいい。
あー、あー、と意味を成さない音がぼろぼろと口から出ていく。涙声が混じり始めた音は情欲に溶かされドロドロになっていた。雄を煽る響きだ。捕食者を誘う響きだ。うちがわから身体を、頭を蹂躙され、食い散らかされる快楽が少年を支配していた。
ピストン運動が早まっていく。ごちゅ、どちゅ、と最奥を穿つ勢いが増していく。このまま襞をこじ開け、奥の奥まで犯してしまいそうな勢いだ。そうせんとばかりに、朱は腰を打ち付ける。筋肉浮かぶ腹に先端の形が浮かび上がってしまいそうなほどの激しさだ。激烈なまでの律動で揺さぶられる度、碧の声帯は艶めく音を奏で響かせる。それがまた、食らう者の欲望に火を点けた。
ぐちゅん、と湿った音が鳴った。瞬間、最奥の守護者たる襞が、熱塊によってこじ開けられた。先端が奥底へと潜り込む。勢いよく突き込まれたそれが、秘められたる場所を土足で踏み荒らす。
視界がスパークする。凄まじい電気信号が、腰骨を、脊髄を、脳髄を駆け抜けていく。バチン、と頭の中で何かが大きな音をたてて弾けた。
「ぃッ、アっ、あ――――!!」
一際大きな声があがる。嬌声を上げ続け掠れ始めたそれは、途中で音を失った。声を発せなくなるほどの快楽が頭に直接叩き込まれたのだ。大きく開いた口から出るのは、か細い呼吸ばかりだ。
しとどに濡れた碧自身から、再び精が吐き出される。本日二回目のそれは、量も色も薄い。突き上げる雄に押し出されるように、びゅくり、びゅくり、と少量の濁液が断続的に漏れる。性感高まり赤らんだ肌に白が散る様は、卑猥を極めたものだ。
ぎゅう、と蹲った身体が丸まる。縋るように、兄の胸に爪を立てた。果てた内部は、ぞわぞわと侵入者を根元から先端まで撫で上げる。いくつもの襞が侵略者を抱き締める。それでも突き上げる腰が止まることはない。まだ頂点へと辿り着いていない雄は、絡みつく内壁を振りほどき、つがいの身体を貪った。
最奥を雄の象徴が犯す。ぐぷん、ごぷん、と猥雑な音をあげ、秘められるべき場所がどんどんと暴かれていく。奥底を守っていた襞を欲望の証が往復する度、白い身体がビクビクと跳ねる。痙攣という方が正しい姿だった。あまりにも膨大で処理しきれぬ快楽信号に、身体がついていかないのだ。先ほどまでのコケティッシュな声を奏でていた声帯は、己の役目を放棄していた。
パァン、と肉と肉とが強くぶつかり合う。肉欲によってリミッターが外された動きは、痛みを伴うほどの強さだ。痛覚信号と快楽信号を同時に与えられ、脳味噌が二つを紐付ける。マゾヒスティックな快感が、腰から身体へと広がっていった。腰を打ち付けられる度、じくじくとした悦びが背をなぞった。
律動が激しさを増していく。頂点へ向かってのラストスパートだ。ぐちゅぐちゅと結合部が淫猥な音を奏でる。ごぷごぷと腹奥が猥褻な音を打ち鳴らす。音になりきらない嬌声がのしかかった肌の上を滑っていった。
ぐぽん、と鈍い音が身体中に響いた。瞬間、腹の奥の奥、秘めたるべき場所が凄まじい熱をもつ。蹂躙者から欲望が吐き出されたのだ。びゅーびゅーと勢いよく吐き出される濁流が、暴かれてはいけない秘部を白に染め上げていく。凄まじい情欲の熱を以て焼いていく。狭い奥底だけでは受容しきれず、欲望の本流は逆流し、柔襞蠢くうちがわまでも焼いて染めた。
脳を焼く快楽信号に、淫乱なる肚が悦びの声をあげる。待望の子種を与えてくださった主人に、肉洞はきゅうきゅうと抱きついた。襞が根本から撫で上げ、更なる精をねだる。よっぽど効いたのか、ぐぁ、と濁った声が聞こえた。猛る雄からびゅくびゅくと欲望宿る白が絞り出される。
どれほど経ったか、ようやく精の迸りが止んだ。未だ内部をじくじくと焼く熱に、植え付けられた子種に、烈風刀はビクビクと身体を震わせる。ぁ、あ、と久方ぶりに発した声はとろけきった、悦びと幸いに満ち溢れたものだった。長らく待ち望んだものを与えられ、眦がとろりと下がる。口角がゆるりと持ち上がる。水晶石から透明な雫がこぼれ落ちる。快楽を逃がすためのものでない、紛うことなく幸福を謳った雫であった。
「だい、じょーぶ?」
腰を掴んだ手が離れていく。突っ伏した頭に、温かなものが乗せられた。汗ばみ重くなった髪を、硬い指が梳かす。さらさらと撫でる感触に、蹲る身体が小さく跳ねる。未だ快楽の頂に取り残された烈風刀にとって、ほんの些細な触れ合いすら快楽を生み出すものだった。ひぅ、と引きつった甘い音を声帯が奏でた。
「…………だいじょうぶ、な、わけ、ない、で、しょう」
息も絶え絶えに呟いて、顔を上げ頭上の朱を睨む。自覚はあるのか、ぅ、と喉が詰まったような音が聞こえた。それがまた、神経を逆撫でする。形の良い眉が強く寄せられた。
確かにこの行為にも、体位にも、行為の続行にも同意はした。だが、いくら何でもこれはやり過ぎだ。理性を失っていたとはいえ『きもちがいい』なんて言葉に惑わされた自分も自分ではあるが、これほどまでやっていいと誰が言ったのか。手加減というものを覚えるべきだ。
「でも、ちゃんときもちよかっただろ?」
目の前の兄は誤魔化すようにへらりと笑う。今度は烈風刀が言葉に詰まる番だった。ぅ、と気まずげな音を漏らし、まっすぐに睨めつけていた瞳を逸らした。
彼の言う通り、『きもちよかった』のは事実だ。少なくとも、達してなお現実に戻ってこれなかったほどの快楽をこの身に刻まされたのは確かだ。けれども、それを認めることなぞできない。『きもちがよかった』だなんて淫らな言葉を口にすることなど、初心なところがある少年には不可能に近いことだった。
頭を撫でていた手が離れる。硬い輪郭をした手が、背に這わされた。背の窪みを、硬い指先がなぞっていく。ゾクゾクと背筋を何かが駆けていく。ひぅ、と甘えるような声が白い喉からこぼれた。汗ばんだ肌の上を指が、手が滑っていく。腰に到達したそれは、指の赤い痕が浮かぶそこを愛おしげに撫でた。アッ、と高い声が薄暗い部屋を切り裂く。雄の証を抱き込んだままの肉筒がきゅんきゅんと収縮した。ぐ、と苦しげな響きが頭上から降ってくる。
烈風刀。己の名を愛しい声がなぞる。熱が宿った、焔のような音色をしていた。情事の時にしか耳にしない響きに、引き締まった身がふるりと震える。思わず息を呑んだ。
れふと。熱にとろけた声が降ってくる。汗ばんだ手が、薄紅色に色付いた臀部を撫ぜる。確かに背筋を走った快楽に、少年は甘い声を漏らした。腹奥で消えかけていた炎が、また音をたてて燃え上がる。赤く熟れた孔の縁が、ひくひくといやらしくひくついた。走る快感から逃げるように身を捩る。ぐちゅ、と未だ結び合わさった場所から淫らな水音があがった。耳から腹を犯す響きに、背が震える。白い喉が小さく反った。
加減無く揺さぶられた身体は疲れ果てている。快楽信号を叩き込まれ続けた脳味噌も、意識が落ちてしまいそうなほど揺れていた。けれども、肌を撫ぜる温度と熱をもった響きに、もうどうしようもないほど情火が灯ってしまった。なんとはしたないのだろう。なんとふしだらなのだろう。どれほど嫌悪しても、炎が消えることはない。
らいと。舌足らずなとろけた声で、愛しいつがいの名を呼ぶ。返事の代わりに、痕が残る腰に再び手が這わされた。
畳む
お祭り騒ぎを君と【レイ+グレ】
お祭り騒ぎを君と【レイ+グレ】
浴衣グレイスちゃんクルーかわいい~~~~~~レイシスちゃんとお祭り行って遊んで~~~~~~!
となったので書いた話。レイグレ姉妹がお祭りで遊ぶだけ。
おそるおそる目の前の雪色にかじりつく。ふわふわとしたそれは、甘みを残してすぐさま消えた。
初めての感覚に、少女は目を見開く。不思議な感覚を追い求め、もう一口。細い棒にくるくると巻かれた飴の糸は、舌に触れた瞬間しゅわりと解けて消えていく。口内に残る甘さは砂糖の塊らしく強いものだが、不思議としつこさはなかった。
躑躅の瞳をキラキラと輝かせ、グレイスはもそもそと綿飴との格闘を続ける。ふわふわとした柔らかな感触と時折訪れるパリッとした食感に、少女は一瞬にして魅せられていた。
「口の周り、ベタベタになっちゃいマスヨ」
小ぶりな綿菓子が姿を消し始めた頃、隣から優しい声が降ってくる。はっと見上げた先には、穏やかな笑みを浮かべたレイシスがいた。ハイ、と差し出された手には、ウェットティッシュの袋があった。どうやら、夢中になって食べていた様子をずっと見られていたらしい。それも、口の周りを汚すような幼稚な様を。
始終を見られていた羞恥に、少女は頬を赤らめ、笑みから逃げるように視線を下に落とす。ありがと、と呟くように礼を言って一枚受け取る。すぐさま砂糖の残滓が残る口元を強く拭った。
「綿飴食べるのって難しいデスヨネ。すぐにベタベタになっちゃいマス」
ふわりとこぼし、レイシスは手にしたりんご飴を一口かじった。パリッと赤い薄飴が割れる音と、シャクッと硬いりんごが噛み砕かれる音が、雑踏の中に舞って消えた。未だ頬を染めたグレイスも、その色付いた顔を隠すように綿飴にかじりつく。今度は汚さぬように注意し、そっと口に運んだ。白い雲が口内でしゅわっと溶けゆく。何度体験しても面白いものだ。
「あっ、グレイス! アレ! ヨーヨー釣りやりマショウ!」
白い綿菓子と赤いりんご飴が姿を消し、支柱だった割り箸がゴミ箱に放り込まれた頃、はしゃいだ声が己の名をなぞった。返事をするより先に、細く小さな手が強く握られる。そのまま手を引かれ、スピネルの瞳が驚きにぱちりと瞬いた。ちょっと、と制止の声をあげるより先に、妹の手を取った姉は人混みを掻き分け足早に歩みを進める。下駄の軽快な足音が互い違いに響いた。
ひしめく人の間を縫い歩き、少女らは『ヨーヨー釣り』と太い文字が描かれた垂れ幕が下がる屋台へと向かう。辿り着いたそこには、小さなビニールプールが置かれていた。心なしか普通のものより深く見えるそれには、色とりどりの水ヨーヨーが浮かんでいる。いくつもの鮮やかなドットが描かれたもの、夜空を描いたように星が散るもの、流水の中を金魚が泳ぐもの、色とりどりの線が走るもの。様々に彩られた小さな風船が、作られた海の中を漂っていた。
躑躅色が白熱灯に照らされた水風船たちを見つめる。小さな腹いっぱいに水と空気を詰め込んだそれらは、満月のように真ん丸で、ちょうど手のひらに収まるようなサイズが愛らしいものだ。表面に浮かぶ雫が光を受けてキラキラときらめく様は、雨上がりの傘が陽に照らされる様子に似ていた。
二人分お願いしマス、という弾んだ声に、グレイスははっと顔を上げる。急いで向けた視線の先には、にこやかに笑うレイシスがいた。ハイ、という声とともに、細く白い何かが手渡される。反射的に受け取って瞬き数拍、少女はどこか気まずげに礼を述べた。
手渡されたのは、緩くねじられたこよりの先に小さく細いかぎ針が付けられたものだった。一体これをどう使うのだろう。マゼンタの瞳が瞬き、細い首が傾げられる。横目で姉を見やる。購入者である彼女ならば、確実に使い方を知っているだろう。実際に見るのが早い。
桃の少女はこよりの先端を持ち、針の先端をヨーヨーたちが浮かぶプールへそっと沈める。水面に浮かんだ丸いゴム紐に、曲がった針が慎重な様子で通される。そうっと細い釣り竿を持ち上げると、紐の先に繋がった水ヨーヨーが宙に浮かんだ。
ヤッタァ、とはしゃぐレイシスの声と、お嬢ちゃん上手いねぇ、という売り子の声が狭い屋台に響く。薔薇色の少女の手には、白地に緑の縞模様と青い丸が彩られた――学園でよく見かける丸い猫を模したものだ――小さな水ヨーヨーがすっぽりと収められていた。
なるほど、そう使うのか。心の中で頷き、少女も隣で喜ぶ彼女をまねてそっとこよりの先を水に沈める。すすす、と水中をゆっくりと移動し、目当てのものに繋がるゴム紐へと針を引っかけた。きゅ、と紙の釣り竿を持つ手に力が込められる。ゆっくり静かに持ち上げるも、水を吸った頼りない紙紐は音も無く切れてしまった。パシャ、と水風船が水面に落ちる無慈悲な音が大きく響いた。
「もう一回!」
急いで財布から硬貨を取り出し、グレイスは売り子に勢いよく突き出す。はい、と愉快そうな声とともに、頼りなさげな釣り竿と三枚の硬貨が交換された。
真剣な光を宿したアザレアが、水面をじぃと見つめる。先ほどはこよりを水に沈めてから適当に獲物を定めたのが悪かったのだろう。千切れにくくなるよう、水分はなるべく吸わせないのが吉のはずだ。姉のように、取りたいものを選んでからこよりを――否、針部分だけを沈めるのがいいだろう。
色とりどりの水ヨーヨーが浮かぶ海を見渡し、いっとう好みのものを見定める。見初めたそれから伸びるゴム紐は、運悪く多くのそれと交わり紛れてしまっていた。この混線具合では、目的のものをたぐり寄せられるか分からない。一か八かだ。
神経を研ぎ澄ませ、少女はそっと針を水に沈める。刹那の迷いの末、真ん中に浮かぶゴム輪に細いそれを通した。また千切れてしまわぬように、そっと、そうっとこよりを持ち上げる。するすると水面を撫ぜるゴム紐の先には、己が欲していた黒い真ん丸があった。心を落ち着け、ゆっくりと腕を上げていく。今度こそ、透明な海の上から水ヨーヨーが引き上げられた。
こよりが千切れてしまうより先に、店主が小さな風船を器に取り上げる。おめでとう、と差し出されたそれは、水滴をしたたらせキラキラと輝いていた。少女の顔が、同じほどぱぁと輝く。ついに捕まえた愛しの真ん丸を愛おしそうに両の手で包んで受け取った。
「取れた!」
「おめでとうございマス!」
溢れ出る嬉しさのあまり、妹は隣に屈む姉の方へ顔を向ける。妹がこれだけ楽しんでくれたのが嬉しいのだろう、彼女も負けないほど満面の笑顔を咲かせていた。晴れやかなその表情を見て、躑躅ははっと我に返る。なんという反応をしてしまったのだろう。これでは幼い子どものようではないか。湧き上がる羞恥心に、柘榴石の視線は急いで地へと吸い込まれていった。
「お揃いデスネ」
これ以上になく弾んだレイシスの声に、グレイスはぱちぱちと瞬きをする。地面に向けられていた視線が、己の手のひらへと戻っていく。白いたなごころに包まれた水風船は、学園で時折見かける黒く丸い猫を模したもの――姉がつい先ほど吊り上げたそれと色違いのものだ。気づかぬ内に、お揃いのものを選んでしまったらしい。かぁ、と少女の頬に朱が広がっていく。
「……たまたまよ」
「TAMA猫だけにデスカ?」
「違うわよ!」
飛んできた軽口に、勢いよく返す。妹の覇気など気にする様子もなく、姉は楽しげにころころと笑った。無意識にお揃いのものを選んでしまった羞恥と、姉とお揃いのものを手に入れた喜びが、少女の胸をぐるぐると掻き回す。心底楽しげな薔薇に抗うように、躑躅はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。
ありがとうございマシタ、とにこやかな笑みを浮かべた店主に礼を言い、レイシスは浴衣の裾を捌いて立ち上がる。ワンテンポ遅れ、グレイスも立ち上がる。何も言わずとも――言ってもどうしようもないと学習していた――白い手と手が重なった。
「次は何をしマショウカ」
焼きそばニ、たこやきニ、射的ニ、かき氷ニ、とレイシスは指折り数える。食べ物ばっかりじゃない、とのグレイスの指摘に、彼女はえへへとはにかんだ。
「ダッテ、お祭りでしか食べられないじゃないデスカ」
「家で作れるでしょ?」
「お家で作って食べるのと屋台で買って食べるのは違うんデス!」
ぐっと拳を握りしめて力説する少女に、思わず圧倒される。そうなの、と返すのがやっとだった。そうナンデス、と力強く言われては、もう否定する言葉など消え失せてしまった。
「グレイスはどれがいいデスカ? 何でも買ってあげマスヨ!」
「自分で買うわよ。ちゃんとお小遣い持ってきてるんだから」
ぐっと拳を握りしめ息巻き胸を張る姉に、妹は眉を寄せて返す。眇められたラズベリルには、喜びと申し訳なさと悔しさがない交ぜになった複雑な色が浮かんでいた。
一緒に夏祭りに行きマショウ、と誘ってきたレイシスは、何かにつけてグレイスに物を買い与えようとしてきた。誘った側だからこれぐらいはしたい、と彼女は言うが、絶対にただの建前だ。姉らしく妹を甘やかしたいという彼女の考えは、新たな生を受けたしばらく経った少女にだって分かる。
高校二年生の財力なんてたかがしれている。彼女の懐事情のことも考えて、本来ならば強く拒否するべきだ。けれども、あの鮮やかに咲く花のような笑顔を向けて迫られると、いつも息が詰まってしまい断るのが厳しく思えるのだ。結果、綿菓子と型抜きと水ヨーヨーを買い与えられた今に至る。
せっかく、ちゃんと不自由なく遊べるようにお小遣いを持ってきたのに。躑躅の少女は唇を尖らせる。姉に甘やかされるのが心底嫌だ、と言えば嘘になるが、こんな風に幼い子どものように甘やかされるのはどうにも不服だ。自分は、彼女が思っているほどこどもではないのだから。
対等でありたい。
言葉にするならこうだろうか。過度に甘やかされることなく、互いに思い遣りあって、共に並んで、語り合える。そんな関係を夢見るが、『妹』という認識がまだまだ強い今は難しいだろう。く、と赤い唇が強く噛み締められた。
「……じゃあ、あれ」
わだかまる感情を隠しきれぬ声音で、グレイスは少し先を指差す。数人の子どもがたむろしている屋台には、青に白の波模様が映える布地に『かき氷』と赤い文字で大きく描かれていた。
「かき氷! いいデスネ!」
ぐっと拳を握りしめ、レイシスは楽しげな声をあげる。先ほど彼女が挙げた候補に入っていただけあってか、楽しみにしていたようだ。早く行きマショウ、と手を引かれ、少女らは白熱灯に照らされる屋台の元へと駆けていった。
狭い屋台の中には、大きな電動かき氷器と様々なシロップが並んでいた。赤、緑、青、黄、紫。まるで虹のように鮮やかな色の液体が入った瓶が並んでいる。机には『シロップかけ放題』というポップが飾られていた。どうやら、購入者が己でシロップをかけるのがこの屋台の方針らしい。
「ジャア、二つ分――」
「一つでいいでしょ。私は自分で買うんだから」
指を二本立てたレイシスを尻目に、グレイスは店主に硬貨を差し出す。一つお願い。あいよ。短い言葉と金銭が交わされた。
「買ってあげるノニ」
頬を膨らませ、薔薇の少女は躑躅を見つめる。紅水晶の瞳は、不服そうに細められていた。はぁ、と溜め息をこぼし、あしらうようにひらひらと手を振る。
「自分で買えるんだからいいわよ。で、貴方はどうするの?」
「ワタシも! おじさん、一つお願いしマス!」
手を上げ元気よく言う少女に、店主はちょっと待っててな、と返す。機械は一台しかないのだから、仕方が無いだろう。ハーイ、と桃色は手に持った水ヨーヨーをぷらぷらと揺らして遊んだ。
下部が大きく開かれた機械に、発泡スチロールでできた白い容器がセットされる。年季の入ったボタンが押されると、ガガガ、と大きな躯体が盛大な声をあげ始めた。しばしして、削られた細かな氷がカップの中に降り注いだ。豪快な音とともに、輝く氷が雪のように降り積もっていく。あっという間に、容器には氷の山ができあがった。端に、スプーン状に加工されたストローが豪快に刺される。
「あいよ。シロップはかけ放題だから好きなの選びな」
「あ、ありがとう」
勢いよく片手で渡された器を気圧されながら受け取り、グレイスは数歩横へと足を進める。目の前にずらりと並んだシロップの瓶の群れに、少女はぱちぱちとまあるい瞳を瞬かせた。
いちご、メロン、ブルーハワイ、レモン、グレープ、みぞれ、抹茶、コーラ、カルピス。様々な文字が大きな瓶の前面に貼り付けてある。透明なガラス瓶の中に揺蕩うシロップは、光を受けてつやめいていた。
どれにしよう。カラフルなシロップを目の前に、グレイスは視線を泳がせる。いちごやメロンは、今まで食べてきた菓子のフレーバーから何となく味の想像がつく。コーラやカルピスは、氷にかけて食べた時の味の想像がつかない。ブルーハワイとみぞれに至っては、名前すら知らないものだ。目が醒めるような鮮やかな青と、カラフルな瓶の中で異質な様相をした無色透明が、更に謎を深める。
悩み悩んだ末、少女は『いちご』というラベルが貼られた瓶へと手を伸ばした。大きなそれに差してある長い銀の匙を手に取る。先端に付けられた小さな深いカップに真っ赤な液体が満たされすくわれる。こぼさないように慎重に手を進め、細かな氷の山の頂へとシロップを垂らす。純白の上を、鮮烈な赤が広がっていった。一瞬のそれに、少女は目を丸くする。もう一杯だけ、とまたシロップをすくってかける。白い氷はすっかり真っ赤な蜜に染め上げられた。
「ワタシは何にしマショウ」
よく通る声が隣から聞こえた。随分と弾んだそれに、少女は視線を音の方へと移す。自分の分を手に入れたのか、同じ容器を手にしたレイシスの姿があった。どれにしようカナ、と指先が瓶を指す度、白い花咲く群青の袖が揺れる。楽しげな笑みに満ちあふれた横顔は、少女らしい可愛らしいものだ。
神様の言う通り。飛び跳ねるような声が止むとともに、指の動きも止まる。たおやかな細い指が指し示したのは、『ブルーハワイ』と書かれた瓶だった。ヨシ、とはっきりした言葉をこぼし、薔薇の少女は長い匙を手に取った。真っ青な液体の中に匙を沈め、たっぷりのそれをすくう。明らかに人工的に作られた極彩色に躊躇うことなく、彼女は白い雪山にシロップを降り注がせた。雪原が一瞬にして海色に染められた。どこか冒涜的な映像に、思わず口元が引きつる。一体、あれはどんな味がするのだろう。少なくとも、食べ物の色はしていないのだが。
「サ、邪魔になっちゃいますから行きマショウ」
ありがとうございマシタ、と店主ににこやかな声と表情を投げかけ、レイシスは妹の手を取る。二人の間で揃いの水風船がぶつかって揺れた。
屋台の群れから少し離れた場所に二人で辿り着く。休憩スペースとして開放されているようで、辺りには人がごった返していた。座るのは難しいが、立って食べることぐらいはできるだろう。姉もそう考えたのか、端の方へと歩みを進める。人が少しだけまばらなそこは、二人並んで立つには十分な空間だ。
「サ、食べマショウ。溶けちゃいマス」
繋いだ手を離し、少女は容器に刺されたストローに手をかける。カラフルな縞模様で彩られたそれを引き抜き、丸くスプーン状になった先端部分を青い雪山の頂に入れる。一匙すくい、夜闇でも目立つ青を口に入れた。シャクン、と軽い音の後、ンー、と感嘆の声があがる。桃色の睫に縁取られた目は柔らかな孤を描いていた。
グレイスもストローを手に取る。綺麗な山が崩れてしまわぬようそっと抜き、赤に染められた氷を小さくすくい取る。赤い欠片をおそるおそる口に運ぶ。簡易匙を咥えた瞬間、冷たさと甘さが口いっぱいに広がった。舌の上ですぐに溶けて消えたそれに、少女はぱちりと目を瞬かせる。アザレアの瞳には光がきらめいていた。
冷たい。甘い。美味しい。人混みを歩き続けた身体に、氷の冷たさと人工甘味料の甘さが染み渡っていく。どれも心地の良いものだ。もう一口、もう一口、と躑躅の少女は黙々と匙を動かす。ひんやりとした氷が舌の上で溶けて、涼やかな食感と甘美な味を残して消えていく。先ほどの綿飴とよく似ているが、全く違う楽しさがあった。
何口目かを口に含んだ瞬間、頭に電撃が走り抜けていく。強烈な痛みに、輝くマゼンタの瞳が歪められる。ぅ、とストローを含んだ口から鈍い唸りが漏れ出た。
「いったぁ……」
「急いで食べるからデスヨ」
思わず額を押さえると、クスクスと笑い声がかけられる。見つめる瞳は姉ぶったそれの様相をしていた。
また子ども扱いをされている、と少女は頬を膨らませる。妹の様子を気にすることなく、姉は青をすくったスプーンを咥える。瞬間、アゥ、と短い悲鳴があがった。どうやら彼女の頭にもあの痛みが襲ったようだ。貴方もじゃない、とむくれた声で指摘すると、エヘヘ、とはにかんだ笑声が返された。
「アッ、グレイス。見てくだサイ」
何かを思いついたのか、レイシスは目を輝かせて妹を見る。すると、突然口を大きく開け、べろりと舌を出した。何だ、と疑うより先に、驚愕がグレイスを襲う。尖晶石が心情を強く表すように真ん丸に開かれた。
「えっ、何、それ。えっ?」
目の前に出されたレイシスの舌は、真っ青に染まっていた。明らかに人のそれの色ではない。異常な光景だ。
バグだろうか。いやでもそれにしてはレイシスは慌てていないではないか。というか、何でこんなものを見せつけてきたのだ。様々な疑問がぐるぐると頭を巡る。小さな口が呆然とした様子で開かれた。ぁ、ぅ、と混乱に満ちた声が漏れる。髪と同じ色をした形の良い眉が八の字に下がっていく。
「えっ、大丈夫なの?」
「大丈夫デスヨ。かき氷のシロップの色が移っちゃいマシタ」
エヘヘー、とレイシスは笑う。最初から何も知らない自分を驚かせる気だったのだろう。スプーン片手に浮かべる笑みに、悪びれる様子はなかった。
心配させるんじゃないわよ、と叫びそうになるのをぐっと堪える。こんな些細なことで心配しただなんて言ったら、また子ども扱いされるに決まっている。未だ胸に残る驚愕と不安と安堵がぐちゃりと混ざりあわさって、複雑な色を作り上げる。そう、とぶっきらぼうに言い放ち、グレイスはまた氷をすくって口に運んだ。しゃくりと細かな氷が鳴き声をあげる。
ふと疑問が湧き上がる。青いかき氷を食べたレイシスの舌は鮮やかな青に染まっていた。では、赤いかき氷の食べた自分の舌も、この目に痛いほどの赤に染まっているのだろうか。衝動に身を任せたまま、少女はぺろりと小さく舌を出す。一生懸命視線を下をやっても、己で己の舌を見ることは不可能だった。謎は謎のままだ。
「グレイスはいちごデスカラ……赤いままデスネ」
妹の舌を覗き込み、残念デスネ、と薔薇の少女は眉尻を少し下げる。一連の子どもじみた行動を見られていた羞恥が胸の底からぶわりと湧き起こる。躑躅の少女は急いで舌をしまった。別に、と鋭い声で返し、またかき氷を口に運ぶ。再び鋭い痛みが頭を走っていった。ぅ、と低い唸りがこぼれる。災難は重なるものらしい。うぅ、と喉奥から情けない声が漏れ出た。
「一口食べてみマス?」
ハイ、アーン、とレイシスはストローを差し出した。スプーン状に加工された先には、真っ青に染まった氷が載せられていた。時間がたったそれは、少しだけ水に変わっていた。青い氷と水が、明かりに照らされきらめく。
ふわと丸く柔らかな頬に朱が舞い広がる。白い喉がひくりと揺れた。ストローのスプーンが強く握られ、くしゃりと潰れる。
あーん、なんてされる羞恥と、『ブルーハワイ』という謎のフレーバーに対する興味が胸の内で闘う。しばらくの格闘の末、好奇心旺盛な心は後者に軍配をあげた。
あ、と小さく口を開く。可愛らしい口に、ストローがそっと差し込まれた。舌に触れた瞬間、急いで口を閉じ、匙の上の氷を浚って頭を後ろに引く。柔らかなプラスチックが、赤々とした口から勢いよく引き抜かれた。
口の中に広がったのは、今まで食べていたものとほとんど変わらない甘みだった。心なしか爽やかさを感じるのは、あの目が醒めるような色によるものだろうか。『ブルーハワイ』なんて謎に満ちた名前をしているのにこんな味だなんて、何だか拍子抜けだ。こぶりな唇が少し尖らされた。
「色ついてるかもしれマセンヨ。べーってしてみてくだサイ」
べー、と再び青い舌を出す姉の姿につられ、妹も控えめに舌を出す。ちろりと出されたそれを見て、桃の少女はうーんと難しそうに唸った。
「ついてマセンネ……。一口じゃだめなんデショウカ」
もう一口食べマスカ、とまた匙を差し出すレイシスに、いいわよ、と短く返す。舌が染まる様に興味はあるが、人のものをたくさんもらってまでやることではない。そもそも、自分では見られないのだから意味が無いではないか。
「次は別のを食べてみマショウ? メロンとか色がつきやすいデスヨ!」
「次って……もう入んないわよ。それに冷たいものばっかりじゃ身体に悪いわ」
かき氷はまだ半分ほど残っているが、先ほど綿菓子一つ食べたこともあってか少女の小さな胃はだいぶ膨れていた。火照った身体も、甘ったるい氷のおかげでもうすっかりクールダウンしている。これ以上冷たいものを食べるのは少し難しく思えた。それに、かき氷を二個食べたなんてうっかりこぼしたら、きっとオルトリンデとライオットが窘めてくるだろう。あの二人もレイシスに負けず劣らず過保護なのだ。
「ジャア、来年! 来年も一緒にかき氷食べマショウ!」
妹の言葉に、姉はピンと人差し指を立てて応える。マゼンタを見つめるピンクの瞳には、喜びの輝きと少しの不安が宿っていた。
来年、と飛んできた言葉を小さく復唱する。次。来年。心の中で姉の言葉をなぞる。甘美で温かなそれは、少女の胸にゆっくりと広がり満たしていった。
一年後の未来も、共に在れるのだろうか。こんな自分が、まだこの輝かしい少女の隣に存在することはできるのだろうか。
作り変わった身体はもう定着し、小さな姿に戻ることはなくなった。資格も取り、ナビゲーターとしての腕も磨いてきたつもりだ。今では、共に舞台に立ち、歌と踊りを披露するまで至っている。それでも、まだまだ幼い少女の胸に憂慮がのしかかる。彼女に対するコンプレックスは未だ重く残るものだ。
それでも、それを超える喜びが胸の奥底から湧き上がってくる。共に行こうと言ってくれた。来年も共に在ると言ってくれた。無邪気な姉の言葉は、妹の胸に温かなものをもたらした。
「……えぇ」
するりと肯定の言葉がこぼれ落ちる。音を形取った口の端は緩く持ち上がり、アザレア咲く瞳はゆるりと細められた。胸に湧いて出る幸いがこぼれ落ちたような、そんな優しく甘い笑顔だった。
妹の言葉に、姉は大きな目を真ん丸に見開く。薄く膜張っていた不安の色は、綺麗に消え失せていた。あるのは、めいっぱいの喜びの色だ。
「ハイ! 約束デスヨ!」
弾けるような声とともに、手が差し出される。握った手は、小指だけがピンと立ち上がっていた。ふ、と柔らかな息をこぼし、グレイスも同じ形の手を差し出す。細い小指はすぐに白い指に絡め取られた。小指と小指が絡み合い、ぎゅっと固く結ばれる。指切りげんまん、と弾んだ声が提灯の明かりに照らされた空間に響いた。
「指切ッタ! 約束デス! 絶対デスカラネ!」
「はいはい」
楽しげに息巻くレイシスに、グレイスは呆れたように笑って返す。貴方こそ忘れるんじゃないわよ、と軽口を叩くと、忘れマセンヨ、とむくれた声が返ってきた。丸く柔らかな頬がぷくりと膨れる。まるで手にした水風船のようだ、と考えて、また笑みがこぼれた。
「グレイスとの約束を忘れるわけありマセンカラ!」
真正面から飛んできた力強い言葉に、マゼンタの目が丸くなり、幾度も瞬く。胸の内に広がっていく温かな感情とこそばゆい感覚に、少女はふわりと破顔した。そっと細められた目が、暖色の光を受けてキラキラと輝いた。
「そうね」
「そうデスヨ」
呟くように言うと、また力強い言葉が返される。自信と喜びに満ちあふれたそれは、信頼たり得るものだった――否、最初から信用しているのだ。この純真無垢で、いつだってまっすぐで、何事にも真剣に向き合う少女が、誰かに、自分に嘘なんて吐くはずがないのだから。
もう溶けかけた氷をどうにかすくい取り、躑躅は口に運ぶ。少しぬるい甘みが心地良かった。
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書き出しと終わりまとめ10【SDVX】
書き出しと終わりまとめ10【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその10。ボ6個。
成分表示:はるグレ1/ライレフ3/嬬武器兄弟1/グレイス1
愛苦/はるグレ
AOINOさんには「ある晴れた日のことだった」で始まり、「答えはどこにもなかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
晴れた日のことだ。
「グレイス、好きですよ」
そう言って始果は口元を綻ばせる。表情が無いと言っても過言ではない彼が見せる貴重な顔だ。愛する少女の前でしか見せない、特別な笑みだ。柔らかなそれは、青空に映えるものだった。
そう、と言ってグレイスは視線を逸らす。好意を一心に向けられているというのに、少女の表情は陰ったものだ。整った眉が寄る。俯く顔に太陽が影を作る。
始果は度々『好きだ』と告げてくる。温かな感情を向けられて嬉しくないはずなどない。けれども、その言葉を信じ切ることができるほど、少女の心に余白は無かった。
バグの海で出会った時、グレイスは始果の記憶能力を狂わせた。日常生活には支障がないものの、戦争が終結した今も彼の記憶力は低いままだ。知識もバラバラに抜け落ちたもので、度々人に世話を焼かれている。狂わせた影響なのか、感情表現も非常に希薄だ。
この好意は、記憶能力を狂わせた影響によるものではないか。
彼が愛しい言葉を紡ぐ度、疑問が少女の胸に湧いて出る。暗いそれは、柔らかで小さな心を簡単に食らい尽くした。
これは何かの間違いなのだ。だって、記憶なんて大切なものを狂わせて恨まれないはずがない。好意を示されるはずがない。好かれるはずなどない。己にそんな資格など無い。
重い言葉が少女の胸にぐるぐると渦巻く。間違いない、と決めつける言葉は、自分に言い聞かせるものだった。許されてはならない、と強い自罰意識が見えるものだ。誰よりも、何よりも、彼女自身が己が誰かに愛されることを許せなかった。
グレイス、と柔らかな声が己の名前を呼ぶ。ゆっくりと伏せた顔を上げると、そこには穏やかな顔をした始果がいた。躑躅色の前髪に白い手が伸びる。長いそれを掻き分け、スピネルの瞳が陽の光の下に晒された。
好きです、と一言。少年は微笑む。愛しさに溢れた表情だった。愛を詰め込んだ声だった。何もかも、グレイスにとって苦しいものだった。
この言葉を素直に受け取ることができる日は来るのだろうか。
答えなどどこにもなかった。
祭り囃子につられて/ライレフ
あおいちさんには「言葉が見つからなかった」で始まり、「懐かしい味がした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
呆れのあまり、言葉が見つからなかった。
「何ですか、その量……」
「いや……どれも美味しそうだったから……」
どうにか発した言葉に、兄はばつが悪そうに目を逸らし濁った言葉を返す。その手には、たくさんのビニール袋や棒に刺さった食べ物が握られていた。
縁日やってるらしいし行こーぜ、と手を引き家を出たのが夕方に差し掛かる頃。多くの屋台を二人で見て回った頃には、世界はすっかり闇に包まれていた。張り巡らされた提灯の明かりが照らし出す世界は昼のように明るいが、気付けばもう夕食を済ませている時間だった。
晩飯を食べてしまおう、買ってくるから待ってて、と人混みの中へと走り消えていった兄を待つこと十数分。戻ってきた彼の手に握られた数々の品を見て、烈風刀は眉をしかめた。勝手に走っていった時点で嫌な予感はしていたのだが、まさしく的中してしまった。
「貴方、これ全部食べるつもりなのですか」
「二人なら食べきれるだろ?」
「そうですけれど、買いすぎです。いくら使ったのですか」
お祭り価格とはよく言ったもので、屋台の品々は基本的に価格が高い。それが悪いことだとは言わないが、さすがにこの量は無駄遣いだと言いたくなるものだった。手にした品々の数も、ざっと見た限り健康優良児である兄弟二人ならばどうにか胃に収まる量ではあるが、それでも限界に近いものだ。計画性が無いとしか言いようがない。
「いいじゃん、お祭りの時ぐらい」
「否定はしません。けれど、明らかに夕食に相応しくないものもありますよね? 夕食を買いに行ったのではなかったのですか?」
ゆらゆらとビニール袋を揺らすその手には、りんご飴やいちご飴が握られていた。どうみても『夕食』には相応しくない代物である。大方、祭りの雰囲気に酔って衝動買いしたのだろう。
「いいじゃん。デザートだよ、デザート」
ほら、と言って雷刀は赤いりんご飴をこちらに向ける。反射的に受け取ると、彼は辺りを見回した。
「あっちの方空いてるっぽいし、あっち行って食べよーぜ」
「帰ってからの方がいいのではないのですか?」
「せっかくのお祭りなんだから、ここで食べた方がいいって。その方が絶対うめーもん」
そんなの場の空気に酔っているだけではないか、と言う反論は眼前に差し出された黄色によって阻まれた。焼きとうもろこしだ。焼けた醤油の香りが鼻をくすぐる。くぅ、と腹の虫が小さな声をあげた。
「はい、烈風刀の分な」
そう言って兄はビニール袋を手渡してくる。ずしりと重たいそれを受け取ると、そのまま手を握られた。提灯の柔らかな光に照らされた顔に朱が差す。
「オレ、すぐはぐれちまうじゃん? ちゃんと掴んでて」
反論の言葉は、都合の良い言葉によって消し去られた。たしかに、この人混みでは自由奔放で好奇心旺盛な兄はすぐにどこかに行ってはぐれてしまうだろう。そうなれば手間だ。ならば、仕方が無い。余計な手間を省くために一番効率が良い手段なのだ。言い聞かせ、弟はそっと手を握り返す。少し沈んだ視界、目の前の口元がニッと大きな弧を描いたのが見えた。
頬に宿る熱を誤魔化すように、烈風刀は手にしたとうもろこしをかじる。きつね色のそれは、どこか懐かしい味がした。
奇跡よ、どうか続いて/ライレフ
AOINOさんには「いわゆる奇跡だったのです」で始まり、「君がいないと息もできない」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
いわゆる奇跡なのだろう。
家族で、男兄弟で、唯一無二の片割れで。そんな関係性の自分たちが『恋人』なんて甘やかな存在になったのは、奇跡としか言い様がない。こんなこと、奇跡でなかったら何だというのだ。烈風刀は幾度も考える。奇跡でも無ければ、この想いが実ることなど無いに決まっている。
だからこそ、不安で押し潰されそうになる。『奇跡』なんてあり得ないものの上に築かれたこの関係が、いつ壊れてしまうかなど分からない。人と人との関係なんて、ほんの些細なことで簡単に崩れ去ってしまうのだ。それが『奇跡』なんて不可思議で不安定な存在の上に成ったものならば尚更だ。
もし、この『奇跡』が解けてしまったならば。
背筋に冷たいものが走っていく。明確な恐怖だ。はっきりとした怯えだ。今の関係性が壊れてしまったならば、もう元には戻れないだろう。ただの『兄弟』として生きていくことなど、絶対に不可能だ。だからこそ、恐れが身体を支配する。もう引き返しようのない場所にいるのに、ここはあまりにも不安定だ。いつ壊れてしまってもおかしくないのに、こんなところに二人で立っている。いつまでも居続けることなどできるはずがない。こんな関係が永遠に続くはずなどない。ずっと彼と一緒にいられるはずがない。
「烈風刀?」
柔らかな声に、はっと目を開く。薄暗い視界の中に、鮮烈な朱が飛び込んでくる。丸い柘榴石が不思議そうにぱちりと瞬いた。
「どした? 調子悪い? 今日はやめとく?」
「い、え……。大丈夫、です」
不安げに八の字を描く眉を見て、少年は淀んだ声で返す。ほんとに、と心配げに問うてくる愛しい人の首に腕を回し、そっと抱き寄せる。なんでもありませんよ、と囁けば、小さな呻り声が耳をくすぐった。
「嘘吐くなよ」
「嘘なんて吐いていませんよ」
だから、早く。
むくれた調子で言葉を紡ぐ兄の耳に、そっと言葉を流し込む。こくん、と喉が鳴る音が聞こえた。
「無理だと思ったらすぐ言えよな」
「はいはい」
未だ訝しげに目を細める彼に、あしらう調子で声を発する。むぅ、と柔らかな頬が膨らむ。ほんとに無理すんなよ、と今一度釘を刺される。鈍いようで変なところで聡い彼には、この虚勢は見抜かれてしまったようだ。それでも、こちらの意志を汲んでくれるのだから、彼は優しい。その優しさにずっと甘えているのだ、と考えて、烈風刀は自嘲気味に笑みをこぼす。天河石の瞳に陰が差した。
目が醒めるような朱が近づく。愛おしい熱を想い描きつつ、少年は目を閉じる。すぐさま、唇に温かなものが触れた。啄むような触れ合いが、どんどんと深くなっていく。呼吸が奪われていく。それでも、今はこの熱に溺れる他無かった。
もう君がいないと呼吸すらできない。
蝉と昼空/嬬武器兄弟
あおいちさんには「夏が始まる」で始まり、「これから何かが始まる予感がした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
あぁ、夏が始まるのだ。
抜けるような青空を見上げ、烈風刀はベランダに一人立ち尽くす。彼を囲むように色とりどりの衣服と汚れ一つ無いタオルがはためく。
ジー、ジー、と特徴的な音が鼓膜をこれでもかと震わせる。鼓膜を通り過ぎて頭に直接突き刺してくるようなそれを、少年はぼぅとした様子で聞く。アパートの前、歩道に植えられた並木には多くの蝉がしがみつき、短い生を謳歌しているのだろう。何重にも折り重なったこの鳴き声が何よりの証拠だ。
昨日まで蝉は鳴いていただろうか。記憶の糸をたぐるが、あまりにも日常に溶けこんだそれを思い起こすことは不可能だった。今この瞬間――洗濯物を干す最中、ふと中天に近づきつつある太陽を見上げた今、脳がこの音を認識したのだ。不思議なものである、と思うと共に、そんなものか、とも思う。人間は、興味の無いことは案外認識しないものだ。
雲一つ無い青空。照りつける太陽。蝉時雨。『夏』という語を思い起こすには十分の要素たちだった。
そも、気付けばもう期末試験も終わり、再来週には終業式ではないか。夏にはとうに足を突っ込んでいるような時期だ。だのに今の今まで自覚しなかったのだから自分も大概惚けている。
「烈風刀ー、風呂掃除終わったー」
カララ、と軽い音と共に飛び込んできた声に、意識が現実に引き戻される。ぱちりと瞬き一つ、音の方へ顔を向けると、空とは正反対の色をした兄が立っていた。
「どーした?」
「あぁ、いえ。何でもありません」
首を傾げる雷刀に、少年は視線を下に落とす。誤魔化すように、手に持ったタオルを軽く振る。パン、と布地が広がる音が蒼天に上がる。
「うっわ、蝉の声すげーな。夏って感じ」
洗濯かごからバスタオルを手にした雷刀は青空を眺め言う。うんざりしたようにも取れる言葉は、どこか弾んだものだ。
そうですね、と物干し竿にタオルを吊しながら応える。同じことを考えた、という事実に、胸がどこかこそばゆくなる。単純な兄と同じ思考をしてしまった悲しみか、それとも愛しい家族と同じことを考えたことに対する喜びか。青春真っ只中の少年の複雑な心は、自分でも理解ができなかった。
「そういやもうすぐ夏休みだなー。今年は何やるんだろう」
「貴方はその前に補習があるでしょう」
「思い出させんなよ……」
弾んでいた声が一気に萎む。コロコロと変わる表情と音に、少年はくすりと小さく笑みを漏らす。笑い事じゃねーだろー、とむくれた声が飛んできた。
「ま、補習なんてさっさと終わらせて遊ぼーな。レイシスも誘ってさ」
切り替えた様子の兄はニッと笑う。何もかもを照らすような輝く笑みに、少年はそっと目を細める。そうですね、と返し、彼も口元を緩めた。
今年も賑やかな夏が始まる予感がした。
貴方の音/ライレフ
あおいちさんには「君の好きな歌を口ずさんだ」で始まり、「今なら伝えられる」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以上でお願いします。
愛する彼女を象徴する歌を口ずさむ。そういえば、この歌は兄も好きだったな、と余計な情報が呼び起こされる。愛しい少女のために作られた曲なのだ、己たち兄弟が好きになるのは当然のことだった。
トントンとまな板と包丁が軽やかな音をたてる。合間に、シャキシャキと小気味の良い音が挟まる。細切りになった人参は、今晩の味噌汁の具材になる予定だ。
「あ、オレもそれ好き」
後ろから飛んできた声に、手が、歌が止まる。強張った表情で音の方へと視線を移す。そこには冷蔵庫を開ける兄の姿があった。
聞かれていた、という事実に、白い耳に血の色が差す。胸の内に重い何かがどろりと渦巻く。包丁を握る手にかすかに力がこもった。
「やっぱレイシスの曲は最高だよなー」
「……当たり前でしょう」
麦茶をグラスに注ぐ兄の言葉に、短く返す。突き放すような響きになってしまったのは仕方のないことだろう。愛する彼女を歌った楽曲が素晴らしいのは当然のことであるし、気の利いた答えを返せるほどの余裕など今は持ち合わせていない。
弟の様子など気にかけることなく、兄はグラスを傾ける。健康的な色をした喉が大きく動く。横目に、烈風刀は調理を再開する。シャクンと人参が軽やかな音をたてた。
「オレ、あれも好き。えっと――」
そう言って兄はメロディーを奏で出す。テテテ、と口ずさむそれは、以前己がジャケットを担当した楽曲だ。機嫌良く歌う横顔は楽しげなものだ。彼は人前で歌うことに抵抗がないらしい。
「何だっけ」
「何故曲名は覚えていないのですか……」
「だって烈風刀が担当する曲、英語ばっかじゃん」
「貴方もでしょう」
そうだけど、と雷刀は唇を尖らせる。自分の担当した曲名すら覚えているか怪しいのではないか、と疑念が湧く。これ以上話を進めるのはやめておいた方がいいだろう。
「グラス、ちゃんと洗っておいてくださいよ」
「へいへい」
気の抜けた返事とともに、水が流れる音が響き出す。洗い物をする彼を横目に、烈風刀は具材を鍋に入れる。今度は大根を取り出し、まな板に据える。白い円柱に刃を入れると、瑞々しい音があがった。
「何か手伝う?」
「大丈夫ですよ。先に課題を終わらせてください」
覗き込む兄に返すと、ぅ、と濁った音がキッチンに落ちた。勉強嫌いな彼のことだ、今の今まで忘れていたのだろう。提出期限もうすぐですよ、と追撃を飛ばすと、へい、と萎んだ声が返された。
スリッパが床を打つ力のない音が後ろを通り、ダイニングへと消えていく。パタン、とドアが閉じる音が後ろ手に聞こえた。
切ったばかりの大根を鍋に入れる。次は油揚げだ。先に湯抜きしておいたそれに包丁を入れる。柔らかな生地が音もなく分かたれた。
まな板を包丁が叩く音の中、兄の歌声がリフレインする。好き、と言いながら歌う横顔は愛おしく可愛らしい。何より、自分が担当した曲を好きだと言われ、喜びが胸の内に湧いて出た。ジャケットを担当した曲はどれも思い入れのあるものだ。それを『好き』とまっすぐに言われて、嬉しくないはずなどなかった。そんなこと、恥ずかしくて面と向かって言えないけれど。
僕も貴方のあの曲、好きですよ。
口の中で呟いてみる。素直な言葉はいつか伝えられるだろうか。
奇跡も愛も受け止めきれずに/グレイス
葵壱さんには「いわゆる奇跡だったのです」で始まり、「明日はきっと優しくなれる」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば12ツイート(1680字)以上でお願いします。
いわゆる奇跡だったのだろう、と、少女は己の手を見る。随分と小さくなってしまったそれを、意味もなく握って開いてを繰り返す。たしかな感触に、マゼンタの目が細められた。
あの日――レイシスが手を伸ばし迎えに来てくれた日、古いプログラムでできた己の身体はネメシスの力によって再構成された。渇求した『あちら側』での存在を認められ、ヒトらしく暮らすようになって早幾月。再構成する段階で縮んでしまったグレイスの身体は、既に元のすらりとした体躯に戻っていた。
それでも、まだ創り変えらたコアがしっかりと安定していないからか、ふとした拍子に幼い姿に戻ってしまうことがある。様々な要因が重なってしまった今日がそうだった。幸い、運営業務に差し障ることはなかったが、大事をとって先に帰宅することとなったのだ。
レイシス謹製の服に着替え、グレイスはベッドに浅く座る。小さくなった身体をたしかめるように撫で、胸に手を当てる。創り変わったコアが脈動するのが、厚い布地越しに伝わってくる。生きているのだ、と改めて確認し、少女は小さな溜め息をついた。
身体が縮む度、この意味のない行為をするのが彼女の癖となっていた。コアが動くことなどごく当たり前のことではないか、と人は首を傾げるだろう。けれどもグレイスにとって――一度消失寸前に陥った彼女にとっては、他者にとっての当たり前など当たり前ではない。現に、未だ不安定なこの身体は同じ形を保ち続けることができていないのだ。このまま元に戻らなかったら、もっともっと小さくなってしまったら、消えてしまったら。決して口に出すつもりはないが、少女の中には不安はまだまだ残っている。
生まれ過ごした時間はレイシスたちとさほど変わらないものである。しかし、グレイスは誰もいないバグの海で生の大部分を過ごしてきた。他人と関わることが無いに等しかった少女の情操は、彼女らよりも発達していない。人よりも不安になってしまうのは仕方のないことだ。
奇跡なのだ、と改めて考える。
本来ならば、己はあの日世界諸共――それかただ独り――消滅していたはずなのだ。けれど、『死にたくない』と醜く発した言葉を、レイシスは聞き届けてくれた。手を差し伸べてくれた。救ってくれた。ネメシスで生きる願いを叶えてくれた。これが『奇跡』でなく何というのだ。
レイシスという存在無しでは、今のグレイスは在りえない。感謝してもしきれない存在だ。なにせ、言葉通り命の恩人なのである。彼女無しでは、ネメシスに愛された彼女無しでは、己はとっくにバグに飲み込まれて消えていたのだから。
だのに、あの少女が降り注ぐ満開の愛を、己は正面から受け止めきれずにいる。素直に捉えず、斜に構えて邪険に扱ってしまうのだ。
グレイスは誰もいないバグの海で一人生きてきた少女である。愛を与えられることなどなかった。愛の受け止め方など知らなかった。だから、分からないのだ。素直な受け取り方を。
愛を与えてくれるのに、愛に応えられない。どう応えていいか分からない。それが嫌でたまらない。命の恩人を邪険に扱うなど、最低ではないか。
何より、グレイスはレイシスを好いている。好意には好意で応えたい。それは当たり前の思考だ。けれど、その当たり前が実行できない。歯痒くて仕方なかった。
もっと自分が素直ならば。愛の受け止め方を知っていれば。愛の渡し方を知っていれば。
何度考えても、心は、身体はついてきてくれない。いつまで経ってもぶっきらぼうにあしらってしまうのだ。何度歯噛みしても、育ちきっていない情緒は思考に追いついてくれないのだ。
ふぅ、と息を吐く。存外重いそれに、思わず苦笑を漏らす。溜め息を吐きたいのはレイシスの方だろうに。何故加害者の自分がこんなことをしているのだろう。自己嫌悪がまた一つ募っていく。
きっと明日――下手をすれば今日の業務終了後――は、レイシスが部屋を訪れるだろう。『大丈夫デスカ?』と心底心配な表情と声で尋ねてくるはずだ。あの心優しい姉は。
明日は素直になれるだろうか。優しくなれるだろうか。
なれたらいいのに、と考えて、少女はアザレアの瞳を閉じた。
畳む
雪色サンタさん【プロ氷】
雪色サンタさん【プロ氷】サンタな上に赤縁眼鏡はずるくないですか
ありがとうSOUND VOLTEX……ありがとうKONAMI……ありがとう眼鏡……プロ氷眼鏡おそろ最高……(何でも推しカプに繋げるオタク)
低い呻り声が物が溢れかえる机の上を張っていく。ゴポゴポと沸き立つあぶくが弾ける音が空気を揺らす。それを掻き消すように、ガサガサと騒がしい音がデスクの下部からあがった。
あれぇ、と識苑は呆けた声を漏らす。ゴソゴソと耳障りな音が続く。また抜けた声を漏らし、青年は頭を掻きつつ机の下から身を起こす。頭には小さな綿埃が乗っていた。
息抜きにコーヒーでも飲もう、と湯を沸かしたはいいが、肝心のインスタントコーヒーが見つからない。在庫はまだあったと思っていたのだが、備え付けの棚や積み上がった段ボール箱の奥の奥まで漁ってもそれらしきパッケージは影すら見せなかった。まさか買い忘れていたのだろうか。毎日のように飲むのだから大量に買ってストックしていたはずなのだが。乱れた髪をガシガシと掻き、青年は小さな呻り声をあげる。せっかく沸かしたのに、とみみっちい後悔が胸の隅から湧き上がった。
コンコンコン。雑多に散らかった部屋にノックの音が飛び込んでくる。放課後である今、技術準備室を訪ねてくる者は少ない。技術班の者だろうか。いや、あの用件第一の面々がノックなんて礼儀正しいことはしない。だとしたら生徒か。それにしても、わざわざ放課後に技術教師である自分の元に訪れるなんて随分と珍しい。
「どうぞー」
「…………し、失礼、します」
普段の調子で返事をする。しばしの沈黙の後、カラリと軽い音をたてて鉄製の引き戸がわずかに開けられた。狭い隙間から今にも消え入りそうな細い声が滑り込む。少し上ずったそれは、耳慣れた愛おしい響きをしていた。
「あ、氷雪ちゃん」
鼓膜を揺らした音に、技術教師は弾んだ声で愛しい人の名前をなぞる。戸口の隙間から覗く白は、大切な生徒であり愛する恋人である氷雪の色だ。しかし、今日は少しばかり様子がおかしい。最近では恥ずかしがることなく素直に入室する彼女だが、今日は一歩も踏み入れず戸の隙間からこちらを眺めるばかりだ。出会ったばかりの頃を思い出す様子である。どうしたのだろう、と小さく首を傾げた。
せんせい、と少し掠れた声が呼ぶ。なぁに、と努めて柔らかな声で返す。あの、その、と揺れる声が、技術室と準備室の境目に落ちる。幾許、手が入る程度に開かれていた扉が、軽い音をたてながらゆっくりと大きく開かれていった。
まず目に飛び込んできたのは赤だ。旬を迎え熟れきったリンゴのように鮮やかな紅色が、夕焼け色の瞳を染め上げる。
彼女を象徴するような白い着物は、丈の短い真っ赤なワンピースに変わっていた。縦方向に編み目が浮かんでいる生地の端は、白いボアで縁取られている。胸元と少し割れた裾は濃い茶色の丸ボタンで留められていた。ノースリーブのため、日に焼けていないまろい肩があられもなく覗いている。ワンピースと同じ色をした余裕のあるアームカバーが、手折れそうなほど細い腕を二の腕の中ほどから守っていた。
ワンピースの裾からは黒のフリルスカートがわずかに覗いている。こちらもかなり丈が短く、肌の防護という点では衣服としての機能を果たしていない。代わりに、黒いタイツが細くも柔らかな足を守っている。うっすらと肌の色が透けているのがどこか艶やかだ。履き物も、普段の黒く厚い下駄ではなく、柔らかな白いボアとリボンで彩られた真っ赤なロングブーツに変わっていた。
鮮烈に赤いリブワンピースの真ん中を、オレンジ色の太い紐が走っている。先は彼女の頭より二回り以上は大きい白い袋に繋がっていた。リボンのショルダーで斜め掛けされたそれは、大きな空色の球、下部を包む赤い生地、薄橙の結晶模様で彩られ、ポップな印象を与えた。
深夜に降り積もる雪のように白い髪、それに包まれた小ぶりな頭には、柔らかに垂れた三角帽子が被さっていた。真っ赤な生地をボア生地が縁取るのはワンピースと同じだが、左右に猫の耳のような三角飾りが付いているのが特徴的だ。長い三つ編みを結い飾るのは、オレンジの編み紐でなく白くふわふわとしたヘアゴムだ。普段は顔を隠すように長い前髪は、片側を青い雪結晶で飾られたヘアピンで分けられていた。
長い髪で少しばかり隠れた頬は、赤く色付いていた。清水のように透き通る雪色の肌を紅が染める様は、可愛らしいものだ。白と黒のボア生地で縁取られたアームカバーに包まれた手が、胸元に走る幅の太いショルダーをぎゅっと握る。
「めっ……メリー……クリスマス、です……」
絞り出すように放たれた声は、少しひっくり返っていた。揺れる音は口から漏れ出てすぐに溶けて消えていく。ぁ、ぅ、と細い声がピンク色の潤った唇からこぼれ落ちる。水底色の瞳は地へと吸い込まれ、ゼリーのようにふるふると震えていた。
普段の彼女からは想像も付かない衣装で現れた恋人に、識苑は大きく目を見開いた。目の前の現実を受け止めきれぬ身体はしきりに目を瞬かせ、口は呆けたようにぽかんと開いていた。なんとも間の抜けた表情である。
「あ、えっ…………え……?」
こんなに可愛らしくめかしこんだ愛し子が目の前にいるのだ、もっと言うべき言葉があるとは分かっている。けれども、処理落ちを起こした脳味噌がアウトプットしたのは呆然とした間抜けな音だけである。あ、え、と意味を成さない単音ばかりが開きっぱなしの口からどんどんと落ちていく。無駄な響きが散らかった部屋の床に積み重なっていった。
「あの、えっと……、さっ、サンタさん、です」
そう言って、氷雪は被った三角帽の端をきゅっと握った。ふわふわとした三角耳と、てっぺんについた丸いぽんぽん飾りが揺れた。
真っ赤な衣服。真っ赤な三角帽。それに、大きな袋。確かにサンタらしい衣装だ。しかし、彼女が何故そんな格好をしているのか。何故普段の美しい着物ではなくこんなに可愛らしい衣装を身に纏っているのか。今の脳味噌には、湧いて出てくる疑問を処理する能力など無かった。
「ぁ、の……、やはり、変、でしょうか……?」
「えっ、あっ、いや! 似合ってる! めちゃくちゃ似合ってる! すっごく可愛い!」
萎んでいく声を、高揚し上擦った声が掻き消す。しょんぼりと表情を曇らせる少女を前に、青年はぶんぶんと千切れんばかりの勢いで首を横に振った。可愛い。綺麗。大人っぽい。似合ってる。月並みな台詞が口を突いて出る。ようやく元の処理能力を取り戻しつつある脳味噌は、今度は熱暴走を始めた。
これでもかと降ってくる賞賛の言葉に、翡翠のまなこが大きく瞠られる。小さく開いた口から、ひゅ、と息が漏れる音。薄紅が刷かれていたかんばせは、あっという間に赤く染め上げられていった。白く細い喉が上下する。オレンジの太いショルダーを握る手に力が込められた。
「本当にすっごく、もうほんと、めっちゃくちゃ可愛いよ! 氷雪ちゃんが選んだの?」
褒め言葉だけが湧き出漏れ出る口から、ようやく会話らしい言葉が落ちる。普段はシンプルな白と黒で柔らかな身を彩る彼女が、こんな目が醒めるような赤を選ぶのは珍しい。肩だけとはいえ、肌を晒すのも奥ゆかしい彼女らしからぬ選択だ。誰かのアドバイスがあったのか、はたまたジャケット撮影か。クリスマスも近い今の時期を考えると、後者だろうか。最近はジャケット撮影に関わっていないため、その辺りの情報には疎い。
「班田さんが選んでくださったんです」
そう言って、少女は胸元に両手を当てる。大きく開かれた目がふわりと柔らかに細まり、桜色の唇が軽く綻ぶ。小さく笑声を漏らしはにかむ様は愛くるしい。
彼女の口から出てきた『班田』の名に、識苑は瞬きを一つ落とす。班田はたしか高等部の生徒だ。人と関わることをあまり得意としない彼女と付き合いがあるのは、同学年の少女二人や同郷の留学生ぐらいである。そんな少女が、新たなる友好関係を築いている。喜ばしいことだ。
「ネメシスクルーにもなるんです。少し、恥ずかしいですけれど……」
胸元に添えられた手がきゅと握り締められる。固く包まれた白い指先には、緊張が灯っていた。しかし、普段なら凍りついたように強張り色を失う表情は、今回はほんの少し解けたものだ。ネメシスクルーになるのも三度目だ、多少の慣れもあるだろう。それ以上に、新たな衣装が嬉しいのだろう。彼女も年頃の女の子なのだ。
あっ、と雪色は声をあげる。可憐なたなごころが解かれ、ワンピースのポケットに入っていく。しばしの間、細い指が取り出したのは楕円形のケースだった。半透明のワインレッドが開かれ、中から何かを取りだされる。ケースを再びポケットにしまうと、少女はたおやかな指でつまんだ小ぶりなものをカチャカチャと広げた。顔が軽く伏せられ、おそるおそるといった調子で上がる。未だ紅がうっすらと浮かぶかんばせに、ぱっと鮮やかな赤が咲いた。
氷雪が取り出し着けたのは、シンプルな眼鏡だった。プラスチックのリムは衣装と同じく赤で、アンダーのみで丸みのあるレンズを支えていた。細身なデザインは柔らかな雰囲気をまとう彼女によく似合っている。
「眼鏡も選んでいただいんです」
両の手をテンプルに添え、少女は弾んだ声を奏でる。言葉を紡ぎ出す桜色の唇は、ゆるやかに綻んでいた。新しいアクセサリーが嬉しいのか、はたまた人に見繕ってもらったのが嬉しいのか。どちらもだろうな、と考え、識苑は頬を緩めた。
「え、っと……、あの、……め、眼鏡、おそろい、ですね」
咲き誇る椿のように色づいた頬がふにゃりと柔らかく緩む。苔瑪瑙が幸せそうに細められ、白い睫に縁取られた目がふわと弧を描く。えへ、と細く開いた口が可愛らしい笑い声を漏らした。
幸いに彩られ綻びきったその笑みに、心の臓が跳ねるように大きく拍動する。ポンプの役割を果たす臓器がどんどんと動きを速めていく。同時に、ぎゅっと紐で引き絞られるような感覚もした。
「そ、うだね。うん。おそろいだ」
バクバクとうるさく音をたてる心臓をどうにか無視して、何とか返事をする。言葉を紡ぐ口はぎこちなくつかえる様子に反してだらしなく緩み、奏でる音色はとろけきった甘い響きをしていた。
ただでさえ新たな衣装を見せてくれた恋人が愛しくて仕方が無いのに、そこに『おそろい』なんてことを言われては、可愛くて可愛くて仕方が無いではないか。湧き出る幸が胸を、心を、頭を、身体を満たしていく。溢れ出たそれが、表情筋を緩めていく。へにゃへにゃと口元が、頬が、目元が緩むのが自分でも分かる。きっと、なんとも情けない顔になっているだろう。本当ならばこんな顔を彼女に見せるべきではないが、幸せが際限無く湧き出る今ばかりは緩んでいく筋肉をコントロールすることなど不可能だった。
「今年は氷雪ちゃんがサンタなんだ。すごいね」
ネメシスの住人たちのデータから作られたネメシスクルーは、皆の普段の姿だけではなく季節に合わせた衣装やジャケット衣装の姿のものも生み出されている。クリスマスならば、トナカイモチーフの衣装に身を包んだニアとノア、そのものずばりサンタの格好をしたグレイスなど、前例はある。今年はその役目が氷雪に回ってきたようだ。
「そうなんです。ちゃんと、頑張ってプレゼント配りますよ」
雪の少女は胸の前で両の手をぎゅっと握り締める。とろけへにゃりと下がっていた眉の端は少しばかり持ち上がり、萌葱の瞳には真摯で真剣な光が宿っていた。かすかに滲む恐れを払うように、白はこくりと小さく頷く。頑張ります、と、健康的につやめく唇が宣言するように今一度言葉を形作った。
気合いを入れた様子に、識苑はふっと目を細める。頑張り屋で真面目な彼女らしい姿だ。同時に、数年前の彼女からは全く想像できない姿であった。己の体質にコンプレックスを持っているのも相まって、人と関わりをもつことが少なかったこの幼き優しい雪女は、引っ込み思案で酷く控えめな性格をしている。誰よりもぬくもりを求めているのに、人と触れ合うことを自ら避けてしまうほどだ。そんな彼女が、友人たちに背を押されたとはいえ『サンタクロース』の役目を引き受け、全うしようとしている。随分と社交的に、積極的になったものだ。成長したなぁ、とまるで親のように感慨深くなってしまう。
「あっ、あ、の……」
少しだけ高く細い声。可愛らしい唇が何か言いたげにもごもごと動く。えっと、と何度か繰り返して、少女は再び目の前に立つ恋人を見上げた。先ほどまでぱちりと開いた目は不安げに揺れ、溢れるやる気を象徴するように上がっていた眉は軽く下がっていた。ふわ、と頬に血潮の色が浮かぶ。
「先生は、サンタさんへのお願い決まりましたか……?」
ことりと首を傾げ問う愛し子に、青年はぱちりと瞬きをした。お願い、と口の中で呟く。つられるように桃色の頭が傾ぐ。乱暴にまとめられたポニーテールがゆらりと揺れた。数瞬、あぁ、と合点のいった声があがった。
「先生、もうサンタって歳じゃないからなぁ」
クリスマスまであとわずかだ。サンタを信じている子どもたちはもうプレゼントのリクエストやお願い事をしている頃だろう。しかし、自分はもう立派な大人である。『サンタにお願いをする』という考えすら今の今まで湧いてこなかった程度には、サンタからはもう随分と前に卒業してしまった。
もうサンタになる側だもん、と冗談めかして言う。そうか、もうそんな歳なのか。絶対的な時の流れが胸を深々と刺す。今まで考えたことはあったものの、いざ言葉にするとダメージが襲いかかってくるものだ。想定外の自傷行為に、胸が鈍い痛みを覚える。思わず苦い笑いが少し口角の下がった口からこぼれ出た。
乾いた笑いを漏らす恋人を前に、氷雪はきゅっと唇を引き結ぶ。赤で彩られた胸の前で握った手を、もう片手が包み込む。祈りの姿にも似ていた。
はくりと愛らしい小さな口が開く。酸素を求めるように、はくはくと幾度も唇が開閉する。こっ、とわずかに裏返った声が細く白い喉から発せられた。
「今年は、わたしがサンタさん、ですから……、えっと、あの…………」
しどろもどろに声を漏らしながら、少女は肩から下げた大きな袋に手を突っ込んだ。先が軽く膨らんだアームカバーに包まれた両腕がわたわたと動き、袋の中身を掻き回す。幾許かして、解かれ開いた白い袋から腕が引き抜かれた。
紅葉手に包まれていたのは、小箱だった。両の手で包み込める程度の大きさのそれは、早朝の澄んだ空を思わせるような水色の包装紙と幅の太いつややかな白いリボンでラッピングされていた。よく見ると、包装紙には薄く雪の結晶を模したマークが散っている。冬らしくも可愛らしいデザインだ。
「く、クリスマスにはまだまだ早いですけれど……」
サンタさんからの、プレゼントです。
呟くように言って、氷雪はたなごころに包んだ小箱を差し出した。顔を伏せているため、表情は見えない。しかし、長い髪の隙間から見える耳は牡丹のように赤く色付いていた。よく見れば、箱を持った手は微かに震えている。雪のように澄み渡る白の指は、色を失っていた。
夕陽の瞳がぱちぱちと瞬く。きょとりと丸くなったそれが、ふっと細められた。不健康な白い瞼の隙間から覗く山吹には、愛慕と歓喜、確かな幸福が浮かんでいた。
頑張り屋の彼女はサンタクロースの役目を果たそうと頑張っているのだ。人との関わりという己の苦手を克服し努力する姿に、愛おしさが溢れ出る。そんなところに己は惹かれたのだ。
優しい彼女のことだから、きっと己だけでなく学園中の皆にプレゼントを渡しているだろう。それでも、愛する人からプレゼントを贈られるということは、心が沸き立つほど嬉しかった。幸福感が胸を、脳を満たしていく。また口元がへにゃりとだらしなく緩むのが自分でも分かった。
「ありがと」
礼を言う声は、幸いに満ち満ちたとろけていた。小さな両の手を包み込むように箱を受け取る。重なった手は、その色が表すとおり冷たかった。触れたそれが怯えたようにばっと去っていく。血の気を失った手が、胸の真ん中を分かつように掛けられたショルダーを握った。
「あ、の、えっと……、でっ、では、わたし、着替えてきます。撮影も終わりましたので」
失礼します、と大きく一礼。耳の付いたサンタ帽を揺らし、少女はくるりと踵を返し扉へと駆けていく。幼い手が慌てた様子で戸を開ける。くるりと振り返って小さく一礼し、少女は戸を閉め技術準備室を出て行った。
パタパタとくぐもって聞こえる足音を耳にしながら、識苑は今日何度目かの瞬きをした。彼女らしからぬ、随分と忙しない動きだった。いつものように手を振り別れの挨拶を言う暇すらなかったのだから尚更である。もう放課後になって随分と経つ。早く着替えて帰りたかったのだろうか。ならば余計な会話で引き留めてしまったのは申し訳なかったな、と小さな後悔が胸をよぎった。
両の手で持った小箱に視線を移す。片手で持ち直し、可愛らしい飾り結びにされたリボンを解き、美しい包装紙を破らないようにそっと開いていく。カサカサと紙が擦れる音が狭苦しい部屋に落ちた。
リボンと紙の下から現れたのは、四角い白い缶だった。正方形に近いそれには、『ハーブティー』とデザインチックな英字の筆記体で書かれている。金色で縁取られた蓋の上には、小さな紙が薄青のマスキングテープで貼り付けられていた。
たまにはコーヒー以外も飲んでくださいね。氷雪。
シンプルな飾り枠が彩るメッセージカードには、丸っこい可愛らしい文字でそう書かれていた。署名もある通り、間違いなく氷雪の文字だ。思い遣りのこもった、それでいて諫めるような文面に、思わず苦笑が漏れる。コーヒーばかり飲んでいると胃が荒れますよ、と彼女は時折言う。それでも懲りずに飲んでいた結果が今回のプレゼントなのだろう。己のことを考え抜いたプレゼントへの嬉しさと、心配をかけてしまった申し訳なさが胸の内で混ざり合う。困ったように頭を掻いた。
金インクで模様が描かれた蓋をそっと外す。瞬間、ハーブの特徴的な爽やかな匂いがふわと舞った。中には個包装されたティーバッグが整然と並んでいた。積み上げられた山々を崩さないように机の上にスペースを作る。そこに手にした缶箱を置き、中身を一つ抜き取る。淡いオレンジ色のパッケージには、『カモミール』と流麗な英書体で書かれていた。
ちらりと机の脇に目をやる。電気ケトルの中身はまだぬるいはずだ、すぐに沸くだろう。インスタントコーヒーのために沸かしていたものだから、量も十分だろう。ティーバッグの紅茶一杯入れる程度に問題ないくらいの。
緩く笑み、青年はケトルのスイッチを入れる。小さなボタンを押す指先は、どこか浮かれていた。
畳む
#プロ氷