No.117, No.116, No.115, No.114, No.113, No.112, No.111[7件]
良い子にはたっぷりのご褒美を【ライレフ】
良い子にはたっぷりのご褒美を【ライレフ】
ライレフでDom/Subユニバースパロ。リンクの解説を参考に色々捏造しまくってるので注意。
DomオニイチャンがSub弟君におしおきしたりご褒美あげたりしていちゃいちゃするだけ。
かじかむ手で鞄のポケットから鍵を取り出す。失くしてしまわないように二色のキーホルダーで目印を付けたそれをノブに差し込み回すと、錠が外れる軽い音が廊下に響いた。薄暗い蛍光灯の明かりを受け鈍く光るドアノブを回し、兄弟は部屋へと入る。ただいま、と暗い室内に二人分の声が響いた。
靴を乱雑に脱ぎ捨て、雷刀は中身の詰まっていない学生鞄をリビングに放り込む。常ならば乱暴に扱う様を咎めるであろう烈風刀は、今日は何も言わない。玄関の鍵とチェーンをかけた後、彼もその隣に己の鞄をそっと置いた。
そのままの足で、兄は洗面所へと駆けていく。風邪が流行り出す時分だ、手洗いとうがいはしっかりしろ、と面倒見の良い弟に常日頃言われている。その言葉に素直に従い、手早く済ませた。
入れ違いに入ってきた碧を尻目に、少年は赤髪を揺らしすぐさまリビングへと戻る。急いで電気を点け、寄り添うように並ぶ二つの鞄の横を通り過ぎ、入ってすぐの場所に置かれた棚へと一直線に向かう。上部に取り付けられた扉を開き、綺麗に片付けられたそこの奥にしまわれた箱を取り出す。埃一つ付いていない夜闇色のそれをゆっくりと開き、同じ色のクッションに埋まったものを眺める。緩く孤を描く朱は、慈しみにもサディズムにも似た不思議な色をしていた。
己にとっても片割れにとっても大切なそれをそっと取り出す。まるで触れただけで壊れてしまう飴細工でも扱うような手つきだ――もっとも、大きな両の手で持ち上げたものは、そんな美しく可憐なものとは全く違うのだけれど。
しっかりとした造りのそれを胸に抱え、雷刀は悠々とした足取りで窓際に置かれたソファへと向かう。二人分には少しだけ大きなそれの中央に腰を下ろす。普段ならば兄弟並んで座るために片端へと寄るのだが、帰宅直後の今は中央に座る必要があった。
手にした物の縁や表面を指でなぞる。つやめく生地やキラキラと光る金具を眺めながら、まだ洗面所にいるであろう弟を待つ。来るまでそう時間はかからないとは分かっているが、弾む心と待ち遠しさに手の中の宝物を忙しなく触ってしまう。待ち合わせに早く来てしまった時のような気分だ。
カチャリ、とノブが回る小さな音が、一人きりのリビングに落ちる。輝く瞳をそちらへ向けると、細く開いたドアの隙間から柔らかな碧が覗いた。ようやく姿を現した彼は、滑り込むように部屋に入り、過剰なほど丁寧な手つきで扉を閉める。振り返ったその頬には、薄らと紅が浮かんでいた。それが外の冷たい空気に晒された故のものではないということは、朱が一番理解していた。
自室に運ぶべき鞄の横を通り過ぎ、烈風刀は兄が座るソファへと向かう。その足取りは、彼にしては珍しくどこか浮き足立ったものだ。少しばかりふらつく様子は、熱に浮かされた人間のそれにも似ている。
足早にソファに辿り着き、少年は座った片割れを見下ろす。学内でよく見かける、問題を起こした兄を叱りつける光景のように見えるが、今の彼は一言も発さず目の前の兄弟をじぃと見つめるだけだ。薄桃色が滲む顔とどこか潤んだ瞳で相手を見つめる様は、告白を決意した少女を思わせるものだった。
烈風刀、と揺らぐ碧を眺め、雷刀は世界で唯一の兄弟の名前を呼ぶ。はい、と返ってきた声は震えていた。恐怖や憤怒によるものではない、わずかな緊張と強い想望によるものだということは、互いに理解していた。
「『おすわり』」
朱い少年が発したのは、短い命令だった。それも万が一にも人間に向けるものではない、犬や猫といった動物に対するようなものだ。他人が聞けばまず眉をひそめ、批判するだろう。もちろん、言われた者は激怒するに決まっている。何ならば多少の暴力を振るっても許される、と他者が判してもおかしくない。そんなことをされたというのに、当の本人――規律を重んじ、礼儀を欠かさない碧い少年は不自然なほど黙ったままだ。
瞬間、烈風刀はそのまま崩れ落ちるように床に座った。正座が崩れたような形でぺたりとフローリングに腰を下ろし、身体の前で手を揃え床についた姿は、犬が『おすわり』する姿によく似ていた。
それが当然であるというように、少年は行儀が良いとはとても言えない姿で目の前の兄を見上げる。丸い翡翠の瞳は、期待でキラキラと輝いていた。
従順な様を見下ろし、雷刀は愛おしげに笑む。褒めるように形の良い頭を撫でてやると、眼下の水宝玉が歓喜にとろりととろけたのが見えた。手を離すと、『おすわり』をした少年はぐいと頭を反らす。日に焼けていない白い喉を見せつける動きだ。素直で可愛らしい弟のために、兄は筋の浮かぶそこに付けられた黒いチョーカーへと手を伸ばした。
すべらかな肌を傷つけないよう気を払いつつ、電灯に照らされ輝く小さな金具を解く。細いそれの端と端を持ち、ゆっくりと取り外す。『外向け』のアクセサリーをテーブルに置き、座ったままの少年は己の膝の上に置いたものを手に取った。
雷刀が帰ってすぐに棚から取り出したのは、真っ赤な首輪だった。幅は太く、嵌めるための金具も大ぶりなものだ。人の首に付ければ、過剰なほど存在を主張するだろう。傷一つ無い明るい色の生地はつややかに輝いており、その質の高さをよく表していた。
大袈裟なほど丁寧な手つきで金具を外し、広げた赤を晒されたままの首にそっと宛がう。触れる無機質な冷たさにか、それとも待ち望んだものが与えられた喜びにか、座り込んだ身体が小さく震えたのが見えた。ゆっくりと巻き付け、息苦しくならない程度の場所でベルト穴に金具を通す。椿のような鮮やかな赤い輪が、白い肌を彩った。
首元から手が去ってようやく烈風刀は頭を戻す。天河石の瞳が、再び兄を見上げる。主人の言葉をじっと待つ、躾の行き届いた犬と同じ姿をしていた。
「ちゃんと大人しくできてえらいな」
ニコリと笑みを浮かべ、雷刀はさらさらとした浅葱の髪を優しく撫でる。小さな子どもに向けるような声音だ。普段ならば子ども扱いするな、と怒るであろう片割れは何も言わない。与えられる感触と言葉に嬉しそうに目を細めるだけだ。
「こないだのテストも学年で一番だったし、アプデ前にミス見つけてバッチリ対処してくれたし、こんなに忙しい中でもニアたちの面倒ちゃーんと見てるし。烈風刀は本当にえらいな。すっげー良い子だな」
頭を撫でたまま、兄は賞賛の言葉を並べ立てる。人によっては馬鹿にしていると取られるような口ぶりだ。しかし、これは心の底から湧き出たものだ。事実、弟のおかげで多くの者が助かっている。そんな素晴らしい彼を褒めないんだなんて、あり得ないことだ。
「……ありがとうございます」
讃える言葉に、烈風刀は感謝の言葉を述べる。その声音は、いつも兄が発するような、子どものように無邪気なものだ。細まり緩く孤を描く碧の瞳は、歓喜に満ち溢れた色をしている。ほぅと小さくこぼした息は、発した音とは正反対のどこか色香が漂うものだった。
犬のように首輪をつけられ床に座った人間を、椅子に座った人間が眺めつつ撫でる。傍から見れば異常な光景だ。特に、学内の彼らしか見たことのない者ならば己の目を疑うだろう。けれど、二人にとってこれは当たり前のことだった。ここは『他者が多くいる外』ではなく『二人きりの家の中』で、互いは大切なパートナーなのだから。
互いの第二性――雷刀が他者を支配することを求めるDomであり、烈風刀が他者に支配されることを求めるSubであると判明したのは、高等部に進学して少し経った頃だった。知った頃には二人とも既にゲーム運営業務に携わっており、どうしたものかと焦ったことは記憶に新しい。学内に第二性を自覚した者はまだ少なく、いたとしても運営業務があまりにも多忙故にパートナーとしての関係性を深める時間が取れそうにない。学外ならば尚更だ。できるだけ近くにいることができて、多忙な自分たちに合わせることが可能、だなんてあまりにも難しい条件だ。
解決策が見つからず悩む中でも、そんなことは関係ないとばかりに身体は度々不調を訴えるのだから面倒だ。百歩譲って、己が苦しむのはいい。だが、その不調により業務に支障が出ることが一番の問題だった。兄弟にとって、愛しいレイシスに迷惑をかけることは死ぬよりも辛く苦しいことだ。どうしたものか、と不調の度に頭を抱えたものだ。
学生の間だけでも一時的にパートナーにならないか、と提案したのは、意外なことに雷刀の方だった。幸いなことに属性は噛み合っており、信頼関係も既に築かれている。双子の兄弟で共にいることが多く、その上同じ家に住んでいるのだ。片方が不調を訴えた時、すぐに対処出来るのは便利である。特に、両者とも運営業務中に携わっており、業務中調子が崩れた際すぐさま回復に尽力できることは、『レイシスに迷惑をかけない』という最重要事項を満たすこれ以上にないメリットだった。
そうして『学生の間』『不調に対処出来るように』『正式なパートナーが見つかるまで一時的に』という前提の関係が結ばれたのは、夏が本格的に始まる頃だった。
それから時間が経った今、その前提はとうに崩れ去ってしまっていた。共に過ごす内に互いの存在がどんどんと大きくなり、現在は『一時的』などではない、正真正銘のパートナーとなったのだ。
しかし、静かに深まったこの関係を他者に口外することなどできない。少なくとも、学生の間は無理だろう。男同士で正式な関係を結ぶことは珍しくないこととはいえ、変に詮索される可能性が無いとは断言できない。それでレイシスに迷惑をかけようものなら、目も当てられない。黙っているのが最適解だ。
なので、表向きは変わらず『一時的なもの』で通している。関係性を結んだという安心感を与えるために贈った首輪も、あまり主張のない細くシンプルなデザインのものだ――あくまで『人目がある』『外』でのみつけるものだが。
もちろん、そんな簡素なもので支配したい、支配されたい、という強い本能が満たされるはずがない。だから、誰も見ていない、たった二人きりの時だけは別の首輪をつける取り決めをしたのだ。己の色がこの人間を支配している、己はこの色が示す人間に支配されている、と一目で分かる、鮮やかな朱の首輪をつけよう、と。
「烈風刀」
触り心地の良い綺麗な髪を撫でていた手を離し、兄は再び弟の名を呼ぶ。とろけた藍玉が紅玉を見上げる。その顔は、大切なおもちゃを奪われた子どものような、飼い主に見捨てられた子犬のような、不満と悲愁が色濃く浮かんだものだ。外では涼しげな表情をしている彼が見せる本能をさらけ出した幼い表情に、朱は喉奥で小さく笑う。彼のこんな顔を見ることができるのは自分だけだ、と考え、欲求で渇いた胸がほんの少しだけ満たされた。
そのまま、ソファに座った少年は大きく腕を広げる。意図を読み取り、烈風刀はすぐさま立ち上がった。失礼します、と少し硬い声から一拍置いて、しなやかな身体がソファに乗り上がる。恥ずかしがるように所在なくもぞもぞと動き、手を広げ待つ片割れの足を跨ぐように膝立ちになる。そのまま、彼は青い制服に包まれた太股の上にゆっくりと腰を下ろした。高校生二人分の体重に、布で包まれたクッションが深く沈む。
向かい合ったまま、雷刀は膝に乗るその身体を包み込むように手を回した。胸の内にある感情全てを伝えるようにぎゅうと抱き締めると、捕らえた身体がひくりと跳ねる。遅れて、白いジャケットに包まれた腕が頭ごと包み込むように首に回された。
抱き締めた身体、己の正面にある逞しい胸に頭を埋める。深く呼吸をすると、ほのかな汗の匂いと愛するパートナーの匂いが混じった芳香が鼻腔をくすぐる。静かに吐き出した呼気は、歓喜と安堵に満ちていた。一日の内に積もった何かが、ゆっくりと消えていく。それでも、支配欲の強い少年の胸を満たせるほどのものではない。大切な者をより求め、少年は甘えるようにぐりぐりと額を押しつけた。
同じものを欲してか、烈風刀も抱きついた兄の首元に顔を埋める。首輪の固い革が当たる感触と、肌を直接撫でる呼気のくすぐったさに、柘榴石の瞳が細められた。回した手で、背を優しく撫でてやる。安心したように、抱えた身体からゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
碧い頭がもぞりと動く。刹那、首筋に小さな痛みが走った。驚きに、朱い目が大きく見開かれる。噛まれたのだ、と理解して、丸いそれがふっと細められた。つい先ほどまで明るく柔らかな色をしていた瞳の奥に、妖しい光が宿る。
そんなことは露知らず、烈風刀は目の前の肌に牙を立てる。深く傷つけるような力強いものではなく、猫がじゃれつくような甘噛みだ。ほんのりと痕が浮かぶ程度の弱い力で、美しく並んだ歯が場所を変えて幾度も突き立てられる。ほのかに汗ばんだ肌が、小さく開かれた口から溢れる唾液で濡れた。
愛しい弟は今日のように噛みつくことがある。スキンシップを得意としない彼なりに甘えようとした結果なのだろう――もしくは、手酷く仕置きされ心も体も支配し尽くされたくてやっているのだ。どちらにせよ、パートナーである雷刀には構う義務がある。義務など無くても、可愛らしくて不器用な彼の欲求を満たしてやりたくてたまらない。それがどちらであれど。
「れーふーとー」
甘え噛みつく愛し人の背を、回した手でぽんぽんと軽く叩く。いたずらっ子を諭すような声音だ。しかし、烈風刀には強く諫めるように聞こえたのか、控えめに立てられていた牙が急いで離れた。残されたのは、すぐさま消えてしまうような薄い歯形と、唾液が渇いていく冷たさだけだ。
埋めた首元から顔を上げた少年は、眼下の紅玉髄を見つめる。視線を受け止め見上げた先、逆光で少し暗く見える孔雀石には、少しの後悔と強い罪悪感、それ以上の多大な期待が浮かんでいた。
「噛んじゃだめって言ってるだろー?」
「す、すみません」
優しく言い聞かせるように、そっと柔らかな頬を撫でる。すぐさま、少し震えた謝罪の声が降ってきた。形の良い眉を八の字に下げる様から、己の失態を自責し、言いつけを守らなかったことを後悔していることが分かる。しかし、その顔はほんのりと上気し、吐く息もどこか熱を帯びている。言葉と表情が正反対だ。
そのどちらもが烈風刀の本心であるということは、しっかりと理解している。ただ、どちらの欲望を満たしてやるかは、支配権を持つ雷刀の自由だ。
「次からは気を付けような。烈風刀は良い子だから、ちゃんと約束守れるよな?」
すべらかな頬をゆっくりと撫でながら、赤い口から諭す言葉が紡がれる。努めて優しい声は、先ほどのいたずらに対してもう怒っていないと語っていた。
「えっ……? ……あ、はい。気を、付けます」
告げられた優しい言葉に、少年はぱちくりと目を瞬かせる。淀みながら慌てて返した言葉には、動揺と落胆が色濃く滲んでいた。普通ならば怒られずに済んだ安堵で満ちるであろう顔は、どこか暗く沈んだものだ。やはり、言葉と表情がちぐはぐだ。
予想通りの様子に、雷刀は内心ほくそ笑む。支配を望む弟は、己の粗相が許されず、手酷く『おしおき』されることを期待していたのだろう。だから、わざとそちらを選ばなかったのだ。支配されることを望む人間を、何も与えずに放置する。これだって十分な『おしおき』だ。支配欲の強い己も我慢せねばならないのは辛いものがあるが、悪いことをした者には相応の罰が必要なのだから仕方無い。
戸惑いながらもきちんと反省の言葉を返した褒美に、兄はわしゃわしゃと乱暴に頭を撫でた。普段ならば気持ちよさそうに目を細める弟だが、今浮かぶ表情は不服と悲嘆と当惑と後悔がぐちゃぐちゃに混ざった複雑なものだ。何か言いたげな様子だが、手入れされ整った唇は引き結ばれており、言葉を発する様子はない。
黙りこくる恋人を尻目に、雷刀は背に回したままだった片腕をゆっくりと離す。過ごしやすい室温になっているはずだというのに、肌に触れる空気が酷く冷たく思えた。膝の上、解放され自由になった少年の身体が小さく跳ねる。依然こちらを見つめたままの瞳に、強い不安が広がったのがはっきりと見えた。
「そういや、帰ってから何にも飲んでないよな? 喉渇かねぇ?」
再度柔らかな頬を包みこみ、朱は普段通りの明るい調子で尋ねる。慈しむように、緩い曲面に沿って優しく手を這わす。乗り上がったままの身体は、未だ強ばりろくに動かない。
「コーヒーでも淹れてくる。ブラックでよかったよな?」
「えっ? いえ、それくらい僕が――」
「烈風刀」
ようやく反応を示した烈風刀の声を、落ち着いた声が遮る。短く静かな響きだが、そこには有無を言わせない力強さがあった。
「『まて』」
笑顔で言い放たれた命令に、碧の身体が凍ったように硬直する。瞬きすらできずにいる彼の顔には、強い動揺と痛苦が浮かんでいた。
しばらくして、はい、とか細い返事が部屋に落ちた。のろのろと名残惜しそうに膝から降りた少年は、今一度床に腰を下ろす。絶望に染まった青白い顔が、己の恋人であり支配者である朱色を見上げた。
迷わず床に座った弟の姿に困ったような笑みをこぼし、雷刀は板張りの床に付けられた手をそっと取る。命じなくともごく自然に地べたに座るのは非常に真面目な彼らしく愛らしいが、こういう時ぐらいは素直に隣に座ってほしいものだ。互いに命令する、命令されるという一種の主従関係ではあれど、根底は何よりも大切なパートナーなのだ。共に過ごすならば、その存在を確かに感じられる隣にいてほしい。
握って繋いだ手を軽く引く。従順な片割れは、されるがままに立ち上がった。そのままゆっくりと腕を引き、己の隣に座らせる。入れ替わるように立ち上がる。くるりと横を向き、若草色の頭を見下ろす。柔らかなソファの座面に沈んだ弟の身体は、寒さを堪えるように縮こまっていた。
「すぐ淹れてくる。烈風刀は良い子だから、大人しく待てるよな?」
強張る身体を少しでも解こうと、兄は下を向いた弟の頭を撫でる。指で梳くように、形の良い頭をゆっくりとなぞっていく。少し屈み、視線を合わせて優しく語りかけると、不安に揺らめく藍晶石が炎瑪瑙をまっすぐに見た。
「……はい。大丈夫、です」
返ってきた声はわずかに震えていたが、その響きはしっかりとしたものだった。Domの言いつけを守らねばならない、というSubの本能だけではない。彼の生真面目さや信頼に応えようとする真摯な姿勢がはっきりと見て取れた。『良い子』という言葉を強調したのも大きな要因だろう。『良い子』でいれば褒美が与えられることは、賢い弟はとうに学習済みだ。
しっかりと返事出来たことを褒めるように今一度頭を撫で、雷刀はキッチンへと足を向ける。戸棚から取り出したマグカップ二つに水を注ぎ、カウンターに置かれた電気ケトルに入れて電源スイッチを押す。小型の機械を低い呻り声を上げる間に、スティックタイプのインスタントコーヒーを取り出す。いつもならきちんとドリップするのだが、これはあくまで『おしおき』の一環だ。時間が掛からない簡素なもので十分である。
烈風刀はとにかく世話を焼きたがる。炊事や洗濯、掃除などの家事全般はもちろん、恋人の爪の処理や髪の手入れすら丁寧に行うほど、世話して尽くすことを日常の喜びとしていた。飲み物などを用意するのも、普段ならば彼の仕事だ。好みを全て把握し、体調などを考慮しその場に最適なものを出す完璧ぶりである。
そんな人間から、世話する役割を奪う。これだって十分に『おしおき』だ。
愛用のマグの取っ手を撫でながら、雷刀は思案する。先ほどの様子を見るに、思った以上に参っているらしい。これ以上『おしおき』を重ねては、サブドロップを起こしてしまう可能性がある。自身の過失はもうしっかり理解しているのだから、そろそろ切り上げてまためいっぱい甘やかしてやろう。うんうん、と頷き、黒い粉末をカップに適当に放り込み、沸き立ての湯を注ぎ込む。真っ白な湯気とインスタントの安っぽい香りが、少し肌寒いキッチンに広がった。
白が舞う二つのマグカップを両手に、兄は弟の待つソファへと戻る。『おしおき』の真っ最中である彼は、言いつけ通り大人しく座って待っていた。きちんと背筋を伸ばし、膝に手を置いた姿勢の良い佇まいは、真面目な烈風刀らしい。けれども、その顔は軽く伏せられており、口元は固く引き結ばれているのが遠目でも分かった。
日常の皮を被った異質な光景に、少年は密かに口角を上げる。己の言葉ひとつで相手を支配する悦びと、愚直なまでに従順な彼への愛おしさが胸いっぱいに広がる。命に従ったことを褒めてやりたい。いたずらをしたことを罰してやりたい。早く構ってやりたい。もっと虐めてやりたい。相反する欲求が身体を突き動かす。
「はい、これ。熱いから気を付けろよ」
「……ありがとうございます」
手にした淡い空色を渡すと、少しの間を置いて礼の言葉が返ってくる。しかし、その響きは普段よりも幾分か細く暗いものだ。髪の間から垣間見えた宝石のように丸く澄んだ瞳は、輝きを失いつつあった。可哀想で可愛らしいその様子に、少年の背筋を甘い感覚が駆け抜けた。
吊り上がりかけた口角をどうにか整え、雷刀は常通りの明るい笑みを作る。ちゃんと待ててえらいな、と頭を撫でてやると、見下ろしたその肩が少し跳ねたのが見えた。ふるりと震えるその姿は、愛らしいという表現がよく似合う。
己の分のカップを手に持ち、朱は碧の横に腰を下ろす。湯気で隠れた黒い湖面に薄い波紋が広がった。同心円状にさざめくそれを眺めるふりをしつつ、密かに隣を見やる。しゃんと背筋を伸ばして座る弟は、細かな傷のついたマグカップを両手で抱え、己と同じように真っ黒な湖面を見つめていた。液体が波打つ様を映す浅葱は薄く曇っており、彼の意識は現実でないどこか遠くにいるのだと察することができる。
従順に『まて』を完遂したパートナーに賞賛という褒美を与えたが、やはりそれっぽっちでは足りないようだ。何故放り出されたのか。何故自身が行動することが許されなかったのか。全て自分のせいなのだ。このまま見捨てられてしまうのではないか。そんな悲観的で自罰的な思考に陥っているのは、長年連れ添ってきた雷刀には言葉にしなくても理解できた。
さて、どうするべきか。理由無く褒めるなり抱き締めるなりしても、今の烈風刀は哀れみと受け取ってしまうだろう。完全に逆効果だ。ならば、どんなに些細なことでもいいから彼が起こした行動をきちんと評価し、全て肯定して褒めてやるべきだ。
喉奥で唸りつつ、手にしたマグカップを口元に運ぶ。茜色のそれをゆっくりと傾け、湯気の漂うコーヒーを口にする。瞬間、舌先に凄まじい熱と鋭い痛みが走った。思ったよりもずっと熱い液体が、赤い舌を焼く。突如身体を駆け抜けた痛みに、雷刀は反射的にマグから口を離す。口内にわずかに残った熱いコーヒーが、粘膜を焼いていく。ゴクリと飲み干し、喉粘膜まで焼かれた少年は呻きを漏らした。ひりつく舌を犬のようにべろんと出す。外気で冷まそうとするその行動は、焼け石に水でしかない。
「何をしているのですか」
「舌火傷した……」
呆れた声が隣から飛んでくる。固かった声音は通常のものに戻っていた。いつも通りの間の抜けた兄の姿に、ようやく調子が戻ったのだろう。若草色の眉が呆れたようにひそめられた。
「先ほど僕に気を付けろと言ったばかりでしょう」
「もういけると思ったんだよ」
いたい、と情けない声をあげる雷刀を見て、烈風刀は嘆息する。返す言葉など欠片も無かった。うぅ、と恨めしげな音を漏らす。隣に座る弟は、反面教師を横目にふぅふぅとマグに息を吹きかける。深闇色の湖面がまた揺れた。
また同じ過ちを起こさないよう、兄も同じく息を吹きかける。十二分に冷まして一口。今度は程よい熱が口の中に広がっていく。けれども、舌先は依然鈍い痛みを訴え続けるのだ。味も何もあったものではない。思わず眉間に皺を寄せた。
コトリ、と硬質な音が二人きりの部屋に落ちる。音の方へ視線をやると、そこには目の前のローテーブルにマグを置く烈風刀の姿があった。その中身はまだろくに減っていない。一体どうしたのだろう、と首を傾げるより先に、あの、と細い声が飛んできた。
「あ、の…………、っ、貴方、いつも『舐めれば治る』と言っていますよね」
「え? そうだけど――」
治療の手間が面倒臭く感じる己は、『傷など舐めれば治る』と常々言っている。それが一体どうしたのだろうか。怪我なんてしていないのに――否、『怪我』なら先ほどしたばかりではないか。『火傷』という明確な怪我を。
あ、と少年は声を漏らす。傷。舐める。恥じらう姿と口にした言葉が、頭の中で結びつく。彼が今考えている行動はあまりにも愉快で、あまりにも淫蕩なものだ。思わぬ積極性に、雷刀は目を瞠る。それも、湧き上がる愉悦が全てを塗り潰していった。
「うん。これぐらいなら、舐めればすぐ治るって」
言葉とともに、べぇと舌を出し患部を見せつける。ひりひりと痛むそこを、碧い目がじぃと見つめる。先ほどまでの呆れは消え失せ、今は熱を孕んだ視線がこちらへと向けられていた。
「……それだけで治るのでしたら、舐めましょうか?」
薄い唇から、ちろりと赤い舌が覗く。唾液でコーティングされたそれは、電灯の明かりを受けてつややかに光っていた。その光景も、仕草も、今の彼の何もかもが妖艶に映る。事実、恥ずかしげに眉を八の字に下げ、頬を染めて舌を出す様は淫靡であった。
マグをテーブルに起き、雷刀は弟の方へ身体を向ける。膝の上に乗った手をするりと撫でる。白いそれがゆっくりと動き、手のひらと手のひらが合わさる。指の間に入った指がゆっくりと曲がり、緩く絡められた。所謂恋人繋ぎだ。スキンシップを得意としない彼のことを考えると、驚くほどの積極性だ。よっぽどの情動が彼を動かしているのだろう。
そっと顔が近づいてくる。つられるように、目の前の身体が前傾姿勢になってゆく。受け止めるべく、肩に手を添えた。潤んだ瞳と瞳がかち合う。どちらも奥底に焔を灯していた。
距離がどんどんと縮まり、ゼロに近くなる。眼前の口が開き、控えめに出された舌が伸ばされる。触れやすいよう――治療すべき患部を舐めやすいよう、朱もべろりと大きく舌を出した。
ちょん、と舌先と舌先が触れ合う。瞬間、鈍い痛みが走った。顔に出てしまわぬよう、必死に表情筋をコントロールする。努力が実ったのか、単に気付いていないだけか、碧は気にする様子なくちょん、ちょん、と舌先で更に触れてくる。小鳥が実を啄むような可愛らしい動きだ――行ってることは、この上なく破廉恥なのだけれど。
つつく舌先が離れ、一度しまわれる。こくりと白い喉が動く。意を決したのか、また赤いそれが顔を覗かせる。べろりと大きく出されたそれが、患部を覆うように重なった。
ぬるつく舌が、火傷を負ったそれを舐める。時折しまい、口内で唾液をまぶし、またぺろぺろと舐める。出しっぱなしで乾くはずの火傷舌は、持ち主のものでない唾液にまみれてらてらとつやめいていた。
甲斐甲斐しく患部を舐めていた舌が去っていく。これで終わりだろうか、と碧を見ると、一拍置いて口が大きく開かれる。そのまま、出されたままの舌をぱくりと食んだ。迎え入れられた口内で、唾液をまとった舌がざらつく己のそれを舐めていく。たっぷりの唾液をもって痛む患部が舐め尽くされる感覚に、腹に重いものがわだかまる。それが何であるかなど、とうに分かっていた。
口を離した瞬間を見計らい、雷刀は大きく口を開ける。そのまま、目の前の口にかぶりついた。唇ごと食んで捕らえ、呆けたように開いた隙間から舌をねじ込む。口内で唾液を補充していた片割れのそれを、己のそれで絡め取った。
ぬる、と舌の腹と腹が擦れ合う。ざらりとした感覚に、背筋を何かが素早く駆けていく。甘美な刺激がもっと欲しくて、少年は更に舌を動かす。ん、と鼻にかかった声が室内に落ちて消えた。
絡め取った熱が退き、再び触れ合う。今度は舌先でのじゃれあいだ。治療という名目は、まだ烈風刀の中で生きているらしい。真面目な彼らしい、とゆるりと広角を上げた。
二人分の唾液を十二分にまとっているとはいえ、やはり火傷した部分は触れる度痛む。けれども、それが気にならないほど甘ったるい感覚が脳を焼いた。もっと、とねだるように奥に潜り込む。熱の塊が触れ合い擦れ合うのは、この上なく気持ちが良かった。『治療』なんて銘打ってこんな卑猥なことをしているという背徳感のスパイスまでついているのだから尚更だ。
随分と長い『治療』が終わり、口と口が離れる。べろりと互いにだらしなく出した舌の間に、細い糸が橋がかる。光を受けて輝くそれを、もったいないというように相手の舌ごと舐め取った。
二人分の呼吸音が部屋に落ちては積もってゆく。目の前の弟の姿は――つやめく舌をだらしなく垂れ下げ、頬を紅に染め、眦を下げた目に涙をたたえた恋人の姿は、この上なく淫らだった。
衝動に任せ、雷刀は繋いだ手をぐいと引く。バランスを崩した弟の身体が、胸に雪崩込んでくる。うわ、と小さな悲鳴があがった。
「これだけ舐めたなら夜には治るかもな。ありがと、烈風刀」
「い、え……、これぐらい、なんでもありません」
礼の言葉とともに、ニコリと笑いかける。腕の中の愛し人は、嬉しそうにはにかんだ。赤らんだ頬で控えめに笑む様は愛らしい。けれども、瞳に宿る情火がその愛らしさを淫らな印象に塗り替えた。
飛び込んできた彼の腰に、手を添える。そのまま、腰骨を、背筋の窪みを、項を大きな手が這ってゆく。わざとらしいほどゆっくりとしたその感触にか、腕の中の身体がそわりと震えた。見上げる浅海色は、既に熱でとろけて潤んでいた。
「手当してくれるし、こんなにオレのこと気遣ってくれるなんて、烈風刀はめちゃくちゃ良い子だな。すごいぞー。えらいぞー」
褒め称える言葉とともに、わしゃわしゃと若葉色の頭を撫でる。喜びと温かさにか、弟はへにゃりと笑った。日頃怜悧な顔つきをした彼からは想像できないほど、とろけきった笑みだった。愛おしさが、嗜虐心が胸の中に溢れ出る。後者に無理矢理蓋をしつつ、兄は言葉を紡ぎ出す。
「えらくて良い子な烈風刀にはいーっぱいご褒美あげないとな。何が欲しい? 何でもあげるぜ?」
乱した髪をさっさっと梳かし整えつつ、朱は小首を傾げて問う。『ご褒美』の部分をことさらゆっくり言ってやると、腕の中の身体がぶるりと震えた。それが喜悦と期待によるものだということは、手にとるように分かった。
しばしの沈黙が二人を包む。恥じらうようにもぞもぞと動く身体を撫でつつ、雷刀は言葉を待つ。どれだけだって待ってやるつもりだ。何でも与えてやるつもりだ。もっとも、彼が何を望むかなど、もう分かりきっているのだけれど。
「――雷刀が欲しい、です」
いっぱい褒めて、いっぱい愛してください。
ゆっくりと言葉を紡ぎ、烈風刀は艶然に笑う。柔らかな弧を描く燐灰石の瞳は、これ以上ないほど欲望に溺れていた。
予想通りの要求に、少年は喉奥で笑う。あまりにも可愛らしい言葉だった。あまりにもいやらしい言葉だった。どちらも、Domの本能を刺激する。目の前のつがいを支配し、愛してやることこそが、今の自分の使命だ。
背に回した手に、絡み合った手に力を込める。肯定の意であり、逃さないという意でもあった。きちんと伝わったのか、捕まえられた少年はゆるりと口角を上げる。整った顔は、幸福と想望、淫欲で彩られていた。
ふっと身体の力を抜く。そのまま、重力に逆らうことなく後ろに倒れた。ぼすん、と柔らかな座面が大きく沈み込む。ギシ、とソファのスプリングが大きな抗議の声をあげた。
上に乗せた同世代男性の身体は相応に重い。しかし、その重さが、制服越しに伝わる温もりが何よりも愛おしかった。胸に溢れる愛情に、思わず笑声がこぼれ出る。上機嫌なそれをどう解釈したのか、腕の中の彼は、ぁ、と細い声をあげた。
上に乗った烈風刀が、座面に手をつき身を起こす。傍から見れば、彼が己を押し倒している構図だ。普段とは逆である。それもまた、非日常を演出する。
背に回した手を離し、目の前のネクタイに手をかける。丁寧に結われた部分を乱雑に下に引くと、青いそれは簡単に解けた。今度は、ネクタイの下に隠されていたボタンに手をかける。一番上まできっちり閉じられたそこを、己と同じように二つ外してやる。日に焼けていない白い肌が姿を表した。首輪の赤とのコントラストが眩しく、妙に艶かしく映った。
ぁ、と声が降ってくる。熱を孕んだ、甘ったるい響きをしていた。見下ろす視線は、続きを待望としたとろけたものだ。当たり前だ、『おしおき』を終え、念願の『ご褒美』をもらっている人間が、続きを期待しないはずがない。
頭上、かすかに開いた口を見て、雷刀はふと先ほどのいたずらを思い出す。かぷかぷと幼い猫のように甘噛みする姿は可愛らしいものだった。しかし、あの程度では痕など残っていないだろう。それだけが不満だ。どうせやるならば、痕ぐらい残してほしいものだ――実際にやれば『おしおき』必至だが。
上体を軽く起こす。上に乗った烈風刀との距離が一気に縮まる。急激な接近に、溶けた朝空色の瞳が瞠られる。口づけされると勘違いしたのだろう、美しい碧が白い瞼の奥に隠れた。
弟の様子など気にせず、雷刀はぐわ、と大きく口を開ける。『噛む』というのはこうやるのだぞ、とお手本を示すように、はだけた白い肌に牙を立てた。
畳む
淫らに溺れて【ライレフ/R-18】
淫らに溺れて【ライレフ/R-18】
オニイチャンに「がんばれ♡がんばれ♡」と言わせたかっただけの話。
あと貞淑ぶってるくせに快楽によわよわな弟君が書きたかっただけの話。
「ひ、ぁ……あっ、ア」
ぐちゅ、と粘ついた音が二人きりの部屋に響く。耳を塞ぎたくなるようなそれに思わず身を捩ると、またぐちゅ、と淫猥な音が鳴った。当たり前だ、音の発生源は己と恋人が結び合わさった場所なのだ。動けば音が鳴るのは必然である。理解はしているが、それを正常に処理することなど、ピンク色に染まりきった脳味噌では到底不可能だった。
現状から逃げたくて身体を動かす。結合部から淫靡な音が鳴る。剥き出しになった本能が刺激される。淫らな身体が、頭が反応する。きもちがいい、と。
烈風刀にとっては負の連鎖だ。現状では断ち切ることのできない連鎖が、白い身を襲う。逃げることなど到底不可能だった。なにせ、過ぎた快楽で腰は抜けてしまい、足もとうに力が入らなくなっている。震える足を叱咤し立ち上がり、咥え込んだ雄を抜き出し、脱ぎ散らかした服を持って部屋を去るなど、今の身に要求するにはあまりにも高度な動きだった。
「れーふと」
己を呼ぶ声に、少年はびくりと肩を震わせる。ぎこちない動きで音の方へ視線をずらす。快楽と涙で少しぼやけた視界には、困ったように眉端を下げた兄の顔が映った。
労るようにするりと腰を撫でられる。たったそれだけの触れ合いで、脳味噌はきもちがいいものだと誤認した。腰骨から背筋を電流が駆け上がっていく。ぁ、と甘えるような音が開きっぱなしの口から漏れ出た。
動きに反して、その手に優しさなど欠片も無い。実際は真逆だ。早く動け、と催促しているのだ。動かないままでは終わらないぞ、と言外に告げているのだ。分かりきった現実をいちいち突きつけてくるのだ、この男は。
普段ならこの筋張った腰を、肉付きの薄い尻をめいっぱいに鷲掴み、好き勝手に腰を打ち付けるというのに。今日に限ってはただ寝転がっているだけだ。あるとすれば気まぐれに肌を撫で、こちらの欲を煽る程度である。卑怯だ、と叫びたくなる。しかし、この体位――受け入れる側である己が突き入れる側である兄の上に跨り動く騎乗位は、双方合意の上で行われているものである。文句を言うのは何だか憚られた。
組み敷いた彼の腹の上についた手に力を込める。どうにか腰を持ち上げようとするが、力が入らない足では身体を支えることなどできない。動くことなど不可能だった。鍛えられた腕がカクンと崩れ、前のめりになる。そのまま、目の前の胸に倒れ伏した。ずる、と兄自身が勢い良く抜けていく。柔らかな壁を一気に擦り上げられる感覚に、アッ、と上擦った声があがった。
「だいじょぶか?」
崩折れた背に手が触れる。熱いそれが、そろそろと肌の上を這っていく。背から下へ下へとなぞり、トントンとあやすように腰を叩かれる。それだけで脳髄が痺れた。うつ伏せた身体がびくびくと跳ねる。あ、ぁ、と耳を塞ぎたくなるような声が己の口から漏れ出た。
「起きれる? 無理ならもうやめとくけど」
気遣う言葉は、実質脅しだった。ここまでして――入念に愛撫を施し、一度雄を迎え入れる快感を味わわせておいて、『このまま行為を終える』なんて、今の烈風刀にとっては脅迫以外の何でもない。この腹に燻る熱は、雄を咥え込み、子種を与えられなければ晴らすことなどできないのだ。
そんなこと分かりきっているはずなのに。思わず眼下の紅玉を睨めつける。かち合った朱は、苛烈な炎で昏く輝いていた。情欲の焔だ。捕食者の輝きだ。どれもこれも、上に跨ったこの身体を食らい尽くさんとするものだ。お前だって、この薄い腹を穿ち、種を植え付けなければその炎は収まらないだろうに。つくづく意地の悪い男だ。
だいじょうぶです、とどうにか返す。そう返すしかなかった。このまま終わりにされて、無事でいられるわけがないのだから。
組み敷いた兄の脇に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。油の切れた機械のように、ぎこちない動きで上体が起こされていく。腕を伸ばし、足に力を入れ、どうにか元の体勢に戻ることができた。倒れ伏した際に抜け落ちた雄茎が、尻の間で存在を主張する。肌を焼くような熱に、ぁ、と情火の灯った声が漏れた。白い腰が無意識に揺らめく。ずりずりと雄の証を肌に擦り付ける姿は、淫らの一言に尽きた。
兄の腹に手をつく。本来ならば体重を預けることに遠慮を覚えるが、今日ばかりは別だ。これぐらいやってやらねば気が済まない。
足と腕に力を込め、ぐっと腰を持ち上げる。天を衝く雄肉を、股の間、秘められた場所へと誘う。つい先ほどまで愛しい熱を咥え込んでいた狭穴は、物欲しげにはくはくと収縮した。白い肌の奥から熟れきった肉の色が覗くのは蠱惑的であった。
はしたなくひくつく淫口に、熱杭を宛がう。ちゅく、と濡れそぼつ孔とカウパーしたたる穂が触れて卑猥な声をあげた。口づけにも似た音に、持ち上がった身がぶるりと震える。きゅうぅと腹の奥が浅ましい鳴き声をあげた。音にならない声が喉奥から漏れ出る。淫欲に焼かれ、熱を孕んでいた。
大きく息を吸って、吐く。足と腕の力を調節しつつ、ゆっくりと腰を下ろしていく。すっかりと綻びきった秘蕾に、肉の楔が打ち込まれていった。切っ先が肉の洞に切り込んでいく度、じゅぐ、と熟れた果実を潰すかのような音があがる。淫猥な響きに、雄を抱き込んだナカがきゅうと縮こまった。
ぐ、と下から低い唸り声が聞こえる。偶然とはいえ、先端を思い切り締め付けられたからだろう。いい気味だ、と内心笑みを浮かべ、腰を進めていく。張り出た部分が柔らかな壁をゴリゴリと擦っていく。何もかも焼き尽くしてしまいそうな熱の塊が、腹の中を支配していく。背筋を甘くやわい何かが撫でた。
「――は、ぁ、あッ、アッ!」
長い長い時間の末、ようやく肉鞘に業物が根本まで全て納められた。張り詰めた先端が、道の突き当りをこつりと小突く。瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。頭の奥がビリビリと痺れる。目の前に白い閃光が瞬く。高い嬌声がシーツの海に落ちて消えた。
崩折れそうになるのを、腕に力を入れることでどうにか防ぐ。また倒れ抜け落ち、挿入れ直す事態だけは避けたかった。こんな衝撃を何度も味わっては、脳味噌が使い物にならなくなってしまうことは簡単に想像できた。
ようやく鋭い快楽が波引いていく。淫らなる肚は、侵入者を強く抱き締めて離さない。ぴったりと密着した今なら、浮き出た血管の凹凸さえ分かりそうだ。ドクリ、ドクリ、と肚の内で剛直が脈打つ感覚。己の鼓動と重なり、一つのものになってしまったかのように錯覚する。そんなこと、あり得ないのに。
傅く雄を待ち望んだ内部が蠕動し、主人を更に奥へと誘う。もう行き止まりだというのに、浅ましい身体はもっとと泣き声をあげるのだ。肉襞がぞわぞわと蠢き、逞しい幹を撫で上げる。
「ちゃんと挿入れれたなー。えらいえらい」
楽しげな声とともに、下ろしきった腰を大きな手が撫ぜる。再び鋭い感覚が背筋を駆け、脳髄を焼いた。ひ、と引きつった音が漏れる。甘ったるい、物欲しげな音色をしていた。こちらの思考――何も考えられず本能が声をあげているだけだが――など分かりきっているのだろう、八重歯が覗く口がにまりと歪んだ。
引き締まった腰を、硬い手が往復する。早くしろ、と急かしているのだ。情欲燃え盛る己の身のためにも、さっさと動かねばならない。だのに、伝わる熱に、感触に、脳が焼かれていく。喉からとろけた声が漏れ出るばかりで、身体を動かすことなどできなかった。
「ほら。がんばれ、がんばれー」
茶化すような声とともに、トントンと優しく叩かれる。ふざけた行為を咎めようにも、触れられる度に甘い痺れが身体中に広がっていき、言葉を紡ぐことができない。震える声帯は、耳を塞ぎたくなるような高い音ばかりを作った。
腹についた手に力をこめる。動くから黙れ、という静かなる意思表示だ。伝わったのか、肌を弄んでいた手が離れていく。代わりに、汗ばんだ髪を大きな手が梳かした。硬い指が垂れた若葉色に差し込まれ、毛先へと下りてゆく。こちらを見上げる目は愛おしげに細められていた――その奥には依然炎が燃え盛っているのだけれど。
ぐっと力をこめ、身体を、腰を持ち上げる。熱い刃がゆっくりと内部を擦る感覚に、目の前に光が瞬く。快楽信号に反応した内部が蠢き、肉槍を撫で上げる。ぽってりと腫れた孔は、ひくひくとひっきりなしに収縮を繰り返した。
どうにか雄を半ばまで抜き取る。震える身体を何とか支え、今度は来た道を戻っていく。熱された楔がとろけきった内壁を再び割り開いていく。硬い切っ先が、張り出した傘が、血管浮かぶ幹が、うちがわをゆっくりと擦っていく。絶えず送られてくる快楽信号が、頭を焦がしていく。肉を拓かれていく度、引きつった甘い息が口端から漏れた。
全てを飲み込まぬよう注意し、腰を落としていく。カタカタと震える手足で支える辛さを考えると、腰を下ろしきってしまった方がいいと分かっている。しかし、また張り詰めた硬い先端で奥底を突かれては、この身体が、頭がもつはずがない。思考する理性の削り取られた脳味噌でもそれぐらいは分かった。
カクつく手足をどうにか踏ん張り、再び腰を持ち上げていく。ぐねぐねと肉襞が動き、呑み込んだ肉刀を撫で上げる。ひくつく縁がきゅうきゅうとくびれた部分を締め付ける。ぐち、と肉と肉が交わる淫猥な響きが部屋に落ちた。
は、と八重歯覗く紅い口から呼気が漏れたのが見えた。わずかなそれは、欲望の炎が燃え盛るものだった。かすかな響きが、肌を撫でる。背筋を撫ぜる。脳を揺らす。きゅん、と陰茎を呑み込んだ肉洞が一気に締まった。息を呑む音が二つこぼれる。
「ぅ、あ……、ア、っ、うぁ……」
抜いて、受け入れて、また抜いて、再び咥え込んで。腰を動かす度、ずちゅ、ぬちゅ、と卑猥な音が結合部からあがる。開きっぱなしの口から嬌声がこぼれ落ちていく。脳まで犯されているような気分だ。今すぐにでも耳を塞ぎたい気分だ。けれども、手は兄の腹の上から動かすことができない。再びバランスを崩す恐怖故ではない。今身を投じている快楽から抜け出せないからだ。理性が綺麗に削り取られた脳味噌は、きもちがいいことばかりを選択する。柔らかで敏感な媚肉を硬く猛った雄で開拓される快楽は、何より優先すべきことだと桃色の脳味噌は判断を下した。
緩慢だった動きが、徐々に速度を増していく。肉と肉が擦れ、汁と汁が混ざり、猥雑な音を奏でる。ポロポロと落ちるあられもない声がアクセントになっていた。欲望を煽る協奏曲に、腹上の痴態を見つめる紅玉髄が更なる光を灯す。ギラギラと輝くそれは、視線だけで愛しいつがいを食い尽くしてしまいそうなものだった。
見据える朱いまなこに、白い身がゾクリと震える。食われる恐怖と期待と喜悦が背筋を撫でる。腹に灯った炎が高らかに燃え上がる。薄い肚がはしたない欲望の声をあげて締まった。
ひ、ぅ、と細い艶声が俯き丸まった喉からあがる。振りたくられる腰は上下運動だけでは飽き足らず、くねくねと揺れていた。腹側のイイところを、硬い先端がコツコツと突く。背側のやわい部分を、張り出たエラがゴリゴリと擦る。あまりの快楽に、脳味噌がバチバチと音をたてた。それでも、腰の動きは止まらない。むしろ、快楽を追い求め激しさを増していっていた。
あまりの凄まじさに恐怖すら覚える快楽の波に意識が飲まれる。頭の中がどんどんと靄がかり、視界が狭まっていく。碧い瞳には、鮮烈な朱しか映らない。
過ぎた悦楽は毒でしかないことは、聡明なる烈風刀は学習済みである。やめなければならないはずなのに、本能に忠実な身体は腰をくねらせた。身をよじる度、逞しい雄杭が内部を蹂躙する。狭い隘路を耕し、己の形へと作り変えていく――否、そんなことをしなくとも、とうに雄の味を覚え込んだうちがわは熱された刃をぴったりと納めた。
ぐちゅ、ぷちゅ、と淫靡な音が部屋に落ちては積もっていく。結び合わさった境目には、潤滑油と腸液と先走りの混合物が泡立っていた。いきり勃った剛直と熟れた後孔がしとどに濡れ、薄明かりに照らされる様は淫靡の一言に尽きた。
「――うぁッ!?」
決して下ろしきらぬようにと踏ん張った足、その下に敷かれたシーツが滑る。ずる、と爪先が横に滑る。受け入れきらぬよう浮いていた分の高さが一気に失われた。重力に逆らえない身体は下へと落ちていく――つまり、猛る雄を根本まで一気に呑み込むこととなる。
ごちゅん、と肚の奥底から鈍い音があがるのが聞こえた。
「はッ、ア、ああああああッ!!」
脳内が、視界が、意識が白む。真っ白に染まった世界に、閃光がいくつも瞬く。脳の奥がビリビリと強く痺れる。肉付きの薄い身体が弓なりにしなり、仰け反った喉から高い悲鳴があがった。法悦を高らかに謳い上げた、甘美な音色をしていた。
脳髄に叩き込まれた快楽の電気信号に、狭い内部が収縮し雄を抱きしめる。離れたくない、離さない、と言わんばかりに、うねる襞が蠢き硬い幹に吸い付いた。熟し膨れた狭口が、怒張の根本を強く咥え込む。ぎり、と歯を食いしばる音が落ちた。
勃ち上がった烈風刀自身から、白濁が勢いよく吐き出される。持ち主の腹と組み敷いた雷刀の腹に白が舞い散った。充血した赤い肉竿を白が伝い彩る様は淫らであった。
突然の、しかも脳神経を焼き切るような凄まじい快楽に、全身から力が抜ける。絶えず動いた身体が、過ぎた快感を受け止めきれなかった脳が、限界を訴える。体重を支えていた腕から力が抜ける。引き締まった身が、再び前へと倒れた。
「っ、と」
短い声とともに、崩折れる身体が途中で止まる。片手で身を起こした雷刀が受け止めたのだ。汗ばんだ肌と肌が重なる。熱と熱が触れ合う。激しい運動後のそれは、常ならば不快感を覚えるはずだというのに、今は愛おしく思えた。伝わる温度に、ぁ、ととろけた甘い声を漏らした。
「ちゃんと頑張れたなー。えらいえらい」
褒め称える言葉を耳に流し込まれる。達したばかりの身体は、普段と変わらぬそれすらきもちがいいことだと誤った判断を下した。追撃とばかりに――絶対に意図していないだろうが――トントンとあやすように優しく背を叩かれる。かすかな振動に、脳天が痺れ、視界がチラつく。ぁ、あ、ととろけきった音が声帯から発せられた。
烈風刀ぉ、と己の名を呼ぶ声がする。少しだけ潜められたそれは、明らかに情欲の炎を纏っていた。甘えた低い響きが鼓膜を震わせる。ゾクゾクと背筋を電流が駆け抜けていく。閉じられぬ口からは意味のない音が溢れるばかりで、返答などできない。それを分かっていてか、朱はそのまま言葉を続けた。
「オレ、まだイってねーんだけどさ」
もうちょい頑張れる?
耳に直に注がれた言葉に、碧の身体がビクンと一際大きく跳ねる。引きつった音が喉からあがる。先ほどまでの快楽に浸ったものではない。明確な恐怖を表していた。
頑張れるか、だと。無茶を言うな。この身体はもう限界なのだ。これ以上動くだなんて、これ以上快感を与えられるだなんて、絶対に無理だ。
確かに兄はまだ達しておらず、この肚の中でいきり勃ったままである。自分だけが果ててしまった罪悪感はあるが、限界値を超える淫悦への恐怖が勝る。死んでしまう、だなんて馬鹿な言葉が頭をよぎるほどだ。
精一杯の力を振り絞り、ぎこちない動きで首を横に振る。翡翠の瞳から雫が溢れ、頬に透明な筋を描いた。
「む、り、です……、も、むり……」
「烈風刀は何もしなくていいからさ。ただきもちよくなってるだけでいいから。な?」
おねがい、と柔らかな言葉とともに、耳朶に口づけひとつ。ちゅ、と可愛らしいリップ音に、また雫が伝い落ちる。ふぁ、と甘ったるい声があがり、引き締まった背が反る。まるで電流でも流されているように、びくりびくりと断続的に小さく跳ねた。
きもちよくなってるだけでいい。
きもちよく。
きもちいい。
熱を吐き出し欠片の冷静さを取り戻した脳味噌は、無理だと泣き言を言う。しかし、依然本能に支配された身体はあまりにも正直だ。行為の度に多大な快楽に浸らされ、とうに躾けられた身体は、『きもちいい』という言葉に敏感だった。期待に、薄い肚の中身がきゅうきゅうと収縮し、迎え入れた雄肉を抱き締める。鼓動がとくりとくりと加速していく。精を吐き萎えた自身がひくりと反応を示した。
ぅ、う。濁った音が喉奥から漏れる。苦悩の音だ。理性と本能が戦う音だ――そんなこと、無意味だというのに。
今一度瞬く。潤んだ天河石から涙が溢れ落ちる。呆然と開いていた唾液まみれの口が閉じ、引き結ばれる。しばしの沈黙の末、はい、とか細い声が鍛えられた身体の上を滑った。
あんがと、と口づけが頬に落とされる。少しだけカサついた感触と普段よりも高く感じる温度に、もたれかかった身が震える。少しの触れ合いすら、今の烈風刀にとっては快楽を発生させるものだった。
「起き上がれる?」
「は、い……」
心配げな問いに、なんとか返す。体重を預けていた身体からどうにかして身を起こし、元の体勢に戻る。腹について身体を支える手と跨った足は依然ガクガクと震えていた。これで本当に身体を支えられるのだろうか。不安は、腰を捕らえた手によって解消された。薄い肉に指が食い込むほど力強く鷲掴まれる。絶対に離さない、逃さないという意志が嫌というほど伝わってきた。
退路を塞がれたというのに、藍玉の目には燃え盛る情火が浮かんでいた。小さく開いた口から熱い呼気が漏れ出る。この先の行為――『きもちよくなってるだけ』と言われた行為への期待が、少年の身体を支配していた。淫悦に溺れた瞳は、こちらをまっすぐに射抜く朱を見つめていた。早く、早く、とねだるように。
ぐ、と鷲掴んだ手に力が込められる。鍛え上げられた腕が動き、馬鹿力で高校二年生相当の身体を持ち上げようとする。意図を察し、碧は足に力を入れ腰を浮かせる。開きっぱなしの口から、透明な唾液がおとがいを伝い落ちた。
持ち上がった腰を、一気に引き付けられる。同時に、組み敷かれた朱の腰が跳ね上がる。腰骨と尻肉とがぶつかり合い、高い音があがる。内部でも、硬い切っ先と行き止まりの襞が勢いよくぶつかり、ごん、と腹の奥に鈍い音が響き渡った。
「ぃっ、ア、ァあ!!」
脳味噌に叩き込まれる強大な電気信号に、弟は悦楽に染まりきった悲鳴をあげる。当たり前だ、最大の弱点である奥底を思いっきり突かれて、ただで済むはずがない。過ぎた快楽を逃がすために声をあげるのは、一種の防衛本能だ。
つがいの弱点――つまるところ、一番きもちよくなる場所を知り尽くした兄は、そこを重点的に狙う。『きもちよくなってるだけでいい』という言葉を、しっかりと実行していた。
ばちゅん、ぐちゅん、と淫らな音をたてて肉体がぶつかり合う。猛りきった雄が、ふわふわとしたうちがわを蹂躙する。烈風刀にとっては地獄であり天国であった。脳が受容できないほどの快楽を絶えず叩き込まれるのは、きもちがいいことだけをひたすら与えられるのは、拷問であり褒美だ。
間抜けに開いた赤い口からは、とろとろにとろけた甘ったるい声と、溢れ出る唾液がひっきりなしに漏れていた。奥を突かれる度、理性が抉り取られ、本能が頭を支配する。嬌声を抑えるだなんて理性的な行動ができるはずなどなかった。
「ぃうっ、あ……、やッ……! あ! アァ!」
ごちゅ、どちゅ、と奥底を音をたてて抉られる。切っ先が秘めたる襞をノックする度、視界に光が明滅する。脳髄が痛いほど痺れる。快楽が視界を、思考を、意識を融かしていく。暴力的なまでの性感に、艶めいた声をあげることしかできなかった。
カクン、と腹についた手が折れる。法悦に殴られ続けた身体が限界を迎えたのだ。そのまま、上半身が前に倒れていく。再び目の前の胸に蹲ることとなった。先ほどと違うのは、腰を掴まれていたことにより屹立を咥え込んだままだということだ。
鍛えられた重い身体を受け止めたまま、兄は絶えず掴んだ腰を振り下ろし、己の腰を振りたくる。彼もまた快楽に意識を支配されているのだろう。食いしばった口からは、獣めいた唸りが漏れていた。
倒れたことにより、雄楔が擦る場所が変わる。熟れた先端が、張ったエラが、膨張した茎が、ごりゅごりゅと音をたてて擦っていく。張り出た傘が往復し、ふっくらとした前立腺を刺激する。弱い部分を力強く擦り上げられ、烈風刀はまた悲鳴めいた嬌声をあげる。前立腺と最奥という最大の弱点を一気に責め立てられて、まともな声が出せるはずなどない。
「烈風刀ッ、烈風刀、きもちい?」
容赦の無いピストンの最中、雷刀は蹲った弟に尋ねる。快感に融かされ掠れた音をしていた。
問いに答える声はない。応えることなどできるはずがないのだ。言葉の宛先である碧は、快楽の海に沈んでしまっているのだから。けれども、あがる甘く艶めいた悲鳴が何よりも雄弁に答えを語っていた。
れふと、れふと。淫音響く中、とろけ始めた低い声が己の名をなぞる。たったそれだけで、内壁は悦び蠢いた。柔肉が咥え込んだ雄をぎゅっぎゅっと締め付け絡みつく。兄が腰を掴むのと同じく、弟も逃さないと言わんばかりにナカを締め付けた。
きもちいい。きもちいい。きもちいい。
あー、あー、と意味を成さない音がぼろぼろと口から出ていく。涙声が混じり始めた音は情欲に溶かされドロドロになっていた。雄を煽る響きだ。捕食者を誘う響きだ。うちがわから身体を、頭を蹂躙され、食い散らかされる快楽が少年を支配していた。
ピストン運動が早まっていく。ごちゅ、どちゅ、と最奥を穿つ勢いが増していく。このまま襞をこじ開け、奥の奥まで犯してしまいそうな勢いだ。そうせんとばかりに、朱は腰を打ち付ける。筋肉浮かぶ腹に先端の形が浮かび上がってしまいそうなほどの激しさだ。激烈なまでの律動で揺さぶられる度、碧の声帯は艶めく音を奏で響かせる。それがまた、食らう者の欲望に火を点けた。
ぐちゅん、と湿った音が鳴った。瞬間、最奥の守護者たる襞が、熱塊によってこじ開けられた。先端が奥底へと潜り込む。勢いよく突き込まれたそれが、秘められたる場所を土足で踏み荒らす。
視界がスパークする。凄まじい電気信号が、腰骨を、脊髄を、脳髄を駆け抜けていく。バチン、と頭の中で何かが大きな音をたてて弾けた。
「ぃッ、アっ、あ――――!!」
一際大きな声があがる。嬌声を上げ続け掠れ始めたそれは、途中で音を失った。声を発せなくなるほどの快楽が頭に直接叩き込まれたのだ。大きく開いた口から出るのは、か細い呼吸ばかりだ。
しとどに濡れた碧自身から、再び精が吐き出される。本日二回目のそれは、量も色も薄い。突き上げる雄に押し出されるように、びゅくり、びゅくり、と少量の濁液が断続的に漏れる。性感高まり赤らんだ肌に白が散る様は、卑猥を極めたものだ。
ぎゅう、と蹲った身体が丸まる。縋るように、兄の胸に爪を立てた。果てた内部は、ぞわぞわと侵入者を根元から先端まで撫で上げる。いくつもの襞が侵略者を抱き締める。それでも突き上げる腰が止まることはない。まだ頂点へと辿り着いていない雄は、絡みつく内壁を振りほどき、つがいの身体を貪った。
最奥を雄の象徴が犯す。ぐぷん、ごぷん、と猥雑な音をあげ、秘められるべき場所がどんどんと暴かれていく。奥底を守っていた襞を欲望の証が往復する度、白い身体がビクビクと跳ねる。痙攣という方が正しい姿だった。あまりにも膨大で処理しきれぬ快楽信号に、身体がついていかないのだ。先ほどまでのコケティッシュな声を奏でていた声帯は、己の役目を放棄していた。
パァン、と肉と肉とが強くぶつかり合う。肉欲によってリミッターが外された動きは、痛みを伴うほどの強さだ。痛覚信号と快楽信号を同時に与えられ、脳味噌が二つを紐付ける。マゾヒスティックな快感が、腰から身体へと広がっていった。腰を打ち付けられる度、じくじくとした悦びが背をなぞった。
律動が激しさを増していく。頂点へ向かってのラストスパートだ。ぐちゅぐちゅと結合部が淫猥な音を奏でる。ごぷごぷと腹奥が猥褻な音を打ち鳴らす。音になりきらない嬌声がのしかかった肌の上を滑っていった。
ぐぽん、と鈍い音が身体中に響いた。瞬間、腹の奥の奥、秘めたるべき場所が凄まじい熱をもつ。蹂躙者から欲望が吐き出されたのだ。びゅーびゅーと勢いよく吐き出される濁流が、暴かれてはいけない秘部を白に染め上げていく。凄まじい情欲の熱を以て焼いていく。狭い奥底だけでは受容しきれず、欲望の本流は逆流し、柔襞蠢くうちがわまでも焼いて染めた。
脳を焼く快楽信号に、淫乱なる肚が悦びの声をあげる。待望の子種を与えてくださった主人に、肉洞はきゅうきゅうと抱きついた。襞が根本から撫で上げ、更なる精をねだる。よっぽど効いたのか、ぐぁ、と濁った声が聞こえた。猛る雄からびゅくびゅくと欲望宿る白が絞り出される。
どれほど経ったか、ようやく精の迸りが止んだ。未だ内部をじくじくと焼く熱に、植え付けられた子種に、烈風刀はビクビクと身体を震わせる。ぁ、あ、と久方ぶりに発した声はとろけきった、悦びと幸いに満ち溢れたものだった。長らく待ち望んだものを与えられ、眦がとろりと下がる。口角がゆるりと持ち上がる。水晶石から透明な雫がこぼれ落ちる。快楽を逃がすためのものでない、紛うことなく幸福を謳った雫であった。
「だい、じょーぶ?」
腰を掴んだ手が離れていく。突っ伏した頭に、温かなものが乗せられた。汗ばみ重くなった髪を、硬い指が梳かす。さらさらと撫でる感触に、蹲る身体が小さく跳ねる。未だ快楽の頂に取り残された烈風刀にとって、ほんの些細な触れ合いすら快楽を生み出すものだった。ひぅ、と引きつった甘い音を声帯が奏でた。
「…………だいじょうぶ、な、わけ、ない、で、しょう」
息も絶え絶えに呟いて、顔を上げ頭上の朱を睨む。自覚はあるのか、ぅ、と喉が詰まったような音が聞こえた。それがまた、神経を逆撫でする。形の良い眉が強く寄せられた。
確かにこの行為にも、体位にも、行為の続行にも同意はした。だが、いくら何でもこれはやり過ぎだ。理性を失っていたとはいえ『きもちがいい』なんて言葉に惑わされた自分も自分ではあるが、これほどまでやっていいと誰が言ったのか。手加減というものを覚えるべきだ。
「でも、ちゃんときもちよかっただろ?」
目の前の兄は誤魔化すようにへらりと笑う。今度は烈風刀が言葉に詰まる番だった。ぅ、と気まずげな音を漏らし、まっすぐに睨めつけていた瞳を逸らした。
彼の言う通り、『きもちよかった』のは事実だ。少なくとも、達してなお現実に戻ってこれなかったほどの快楽をこの身に刻まされたのは確かだ。けれども、それを認めることなぞできない。『きもちがよかった』だなんて淫らな言葉を口にすることなど、初心なところがある少年には不可能に近いことだった。
頭を撫でていた手が離れる。硬い輪郭をした手が、背に這わされた。背の窪みを、硬い指先がなぞっていく。ゾクゾクと背筋を何かが駆けていく。ひぅ、と甘えるような声が白い喉からこぼれた。汗ばんだ肌の上を指が、手が滑っていく。腰に到達したそれは、指の赤い痕が浮かぶそこを愛おしげに撫でた。アッ、と高い声が薄暗い部屋を切り裂く。雄の証を抱き込んだままの肉筒がきゅんきゅんと収縮した。ぐ、と苦しげな響きが頭上から降ってくる。
烈風刀。己の名を愛しい声がなぞる。熱が宿った、焔のような音色をしていた。情事の時にしか耳にしない響きに、引き締まった身がふるりと震える。思わず息を呑んだ。
れふと。熱にとろけた声が降ってくる。汗ばんだ手が、薄紅色に色付いた臀部を撫ぜる。確かに背筋を走った快楽に、少年は甘い声を漏らした。腹奥で消えかけていた炎が、また音をたてて燃え上がる。赤く熟れた孔の縁が、ひくひくといやらしくひくついた。走る快感から逃げるように身を捩る。ぐちゅ、と未だ結び合わさった場所から淫らな水音があがった。耳から腹を犯す響きに、背が震える。白い喉が小さく反った。
加減無く揺さぶられた身体は疲れ果てている。快楽信号を叩き込まれ続けた脳味噌も、意識が落ちてしまいそうなほど揺れていた。けれども、肌を撫ぜる温度と熱をもった響きに、もうどうしようもないほど情火が灯ってしまった。なんとはしたないのだろう。なんとふしだらなのだろう。どれほど嫌悪しても、炎が消えることはない。
らいと。舌足らずなとろけた声で、愛しいつがいの名を呼ぶ。返事の代わりに、痕が残る腰に再び手が這わされた。
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お祭り騒ぎを君と【レイ+グレ】
お祭り騒ぎを君と【レイ+グレ】
浴衣グレイスちゃんクルーかわいい~~~~~~レイシスちゃんとお祭り行って遊んで~~~~~~!
となったので書いた話。レイグレ姉妹がお祭りで遊ぶだけ。
おそるおそる目の前の雪色にかじりつく。ふわふわとしたそれは、甘みを残してすぐさま消えた。
初めての感覚に、少女は目を見開く。不思議な感覚を追い求め、もう一口。細い棒にくるくると巻かれた飴の糸は、舌に触れた瞬間しゅわりと解けて消えていく。口内に残る甘さは砂糖の塊らしく強いものだが、不思議としつこさはなかった。
躑躅の瞳をキラキラと輝かせ、グレイスはもそもそと綿飴との格闘を続ける。ふわふわとした柔らかな感触と時折訪れるパリッとした食感に、少女は一瞬にして魅せられていた。
「口の周り、ベタベタになっちゃいマスヨ」
小ぶりな綿菓子が姿を消し始めた頃、隣から優しい声が降ってくる。はっと見上げた先には、穏やかな笑みを浮かべたレイシスがいた。ハイ、と差し出された手には、ウェットティッシュの袋があった。どうやら、夢中になって食べていた様子をずっと見られていたらしい。それも、口の周りを汚すような幼稚な様を。
始終を見られていた羞恥に、少女は頬を赤らめ、笑みから逃げるように視線を下に落とす。ありがと、と呟くように礼を言って一枚受け取る。すぐさま砂糖の残滓が残る口元を強く拭った。
「綿飴食べるのって難しいデスヨネ。すぐにベタベタになっちゃいマス」
ふわりとこぼし、レイシスは手にしたりんご飴を一口かじった。パリッと赤い薄飴が割れる音と、シャクッと硬いりんごが噛み砕かれる音が、雑踏の中に舞って消えた。未だ頬を染めたグレイスも、その色付いた顔を隠すように綿飴にかじりつく。今度は汚さぬように注意し、そっと口に運んだ。白い雲が口内でしゅわっと溶けゆく。何度体験しても面白いものだ。
「あっ、グレイス! アレ! ヨーヨー釣りやりマショウ!」
白い綿菓子と赤いりんご飴が姿を消し、支柱だった割り箸がゴミ箱に放り込まれた頃、はしゃいだ声が己の名をなぞった。返事をするより先に、細く小さな手が強く握られる。そのまま手を引かれ、スピネルの瞳が驚きにぱちりと瞬いた。ちょっと、と制止の声をあげるより先に、妹の手を取った姉は人混みを掻き分け足早に歩みを進める。下駄の軽快な足音が互い違いに響いた。
ひしめく人の間を縫い歩き、少女らは『ヨーヨー釣り』と太い文字が描かれた垂れ幕が下がる屋台へと向かう。辿り着いたそこには、小さなビニールプールが置かれていた。心なしか普通のものより深く見えるそれには、色とりどりの水ヨーヨーが浮かんでいる。いくつもの鮮やかなドットが描かれたもの、夜空を描いたように星が散るもの、流水の中を金魚が泳ぐもの、色とりどりの線が走るもの。様々に彩られた小さな風船が、作られた海の中を漂っていた。
躑躅色が白熱灯に照らされた水風船たちを見つめる。小さな腹いっぱいに水と空気を詰め込んだそれらは、満月のように真ん丸で、ちょうど手のひらに収まるようなサイズが愛らしいものだ。表面に浮かぶ雫が光を受けてキラキラときらめく様は、雨上がりの傘が陽に照らされる様子に似ていた。
二人分お願いしマス、という弾んだ声に、グレイスははっと顔を上げる。急いで向けた視線の先には、にこやかに笑うレイシスがいた。ハイ、という声とともに、細く白い何かが手渡される。反射的に受け取って瞬き数拍、少女はどこか気まずげに礼を述べた。
手渡されたのは、緩くねじられたこよりの先に小さく細いかぎ針が付けられたものだった。一体これをどう使うのだろう。マゼンタの瞳が瞬き、細い首が傾げられる。横目で姉を見やる。購入者である彼女ならば、確実に使い方を知っているだろう。実際に見るのが早い。
桃の少女はこよりの先端を持ち、針の先端をヨーヨーたちが浮かぶプールへそっと沈める。水面に浮かんだ丸いゴム紐に、曲がった針が慎重な様子で通される。そうっと細い釣り竿を持ち上げると、紐の先に繋がった水ヨーヨーが宙に浮かんだ。
ヤッタァ、とはしゃぐレイシスの声と、お嬢ちゃん上手いねぇ、という売り子の声が狭い屋台に響く。薔薇色の少女の手には、白地に緑の縞模様と青い丸が彩られた――学園でよく見かける丸い猫を模したものだ――小さな水ヨーヨーがすっぽりと収められていた。
なるほど、そう使うのか。心の中で頷き、少女も隣で喜ぶ彼女をまねてそっとこよりの先を水に沈める。すすす、と水中をゆっくりと移動し、目当てのものに繋がるゴム紐へと針を引っかけた。きゅ、と紙の釣り竿を持つ手に力が込められる。ゆっくり静かに持ち上げるも、水を吸った頼りない紙紐は音も無く切れてしまった。パシャ、と水風船が水面に落ちる無慈悲な音が大きく響いた。
「もう一回!」
急いで財布から硬貨を取り出し、グレイスは売り子に勢いよく突き出す。はい、と愉快そうな声とともに、頼りなさげな釣り竿と三枚の硬貨が交換された。
真剣な光を宿したアザレアが、水面をじぃと見つめる。先ほどはこよりを水に沈めてから適当に獲物を定めたのが悪かったのだろう。千切れにくくなるよう、水分はなるべく吸わせないのが吉のはずだ。姉のように、取りたいものを選んでからこよりを――否、針部分だけを沈めるのがいいだろう。
色とりどりの水ヨーヨーが浮かぶ海を見渡し、いっとう好みのものを見定める。見初めたそれから伸びるゴム紐は、運悪く多くのそれと交わり紛れてしまっていた。この混線具合では、目的のものをたぐり寄せられるか分からない。一か八かだ。
神経を研ぎ澄ませ、少女はそっと針を水に沈める。刹那の迷いの末、真ん中に浮かぶゴム輪に細いそれを通した。また千切れてしまわぬように、そっと、そうっとこよりを持ち上げる。するすると水面を撫ぜるゴム紐の先には、己が欲していた黒い真ん丸があった。心を落ち着け、ゆっくりと腕を上げていく。今度こそ、透明な海の上から水ヨーヨーが引き上げられた。
こよりが千切れてしまうより先に、店主が小さな風船を器に取り上げる。おめでとう、と差し出されたそれは、水滴をしたたらせキラキラと輝いていた。少女の顔が、同じほどぱぁと輝く。ついに捕まえた愛しの真ん丸を愛おしそうに両の手で包んで受け取った。
「取れた!」
「おめでとうございマス!」
溢れ出る嬉しさのあまり、妹は隣に屈む姉の方へ顔を向ける。妹がこれだけ楽しんでくれたのが嬉しいのだろう、彼女も負けないほど満面の笑顔を咲かせていた。晴れやかなその表情を見て、躑躅ははっと我に返る。なんという反応をしてしまったのだろう。これでは幼い子どものようではないか。湧き上がる羞恥心に、柘榴石の視線は急いで地へと吸い込まれていった。
「お揃いデスネ」
これ以上になく弾んだレイシスの声に、グレイスはぱちぱちと瞬きをする。地面に向けられていた視線が、己の手のひらへと戻っていく。白いたなごころに包まれた水風船は、学園で時折見かける黒く丸い猫を模したもの――姉がつい先ほど吊り上げたそれと色違いのものだ。気づかぬ内に、お揃いのものを選んでしまったらしい。かぁ、と少女の頬に朱が広がっていく。
「……たまたまよ」
「TAMA猫だけにデスカ?」
「違うわよ!」
飛んできた軽口に、勢いよく返す。妹の覇気など気にする様子もなく、姉は楽しげにころころと笑った。無意識にお揃いのものを選んでしまった羞恥と、姉とお揃いのものを手に入れた喜びが、少女の胸をぐるぐると掻き回す。心底楽しげな薔薇に抗うように、躑躅はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。
ありがとうございマシタ、とにこやかな笑みを浮かべた店主に礼を言い、レイシスは浴衣の裾を捌いて立ち上がる。ワンテンポ遅れ、グレイスも立ち上がる。何も言わずとも――言ってもどうしようもないと学習していた――白い手と手が重なった。
「次は何をしマショウカ」
焼きそばニ、たこやきニ、射的ニ、かき氷ニ、とレイシスは指折り数える。食べ物ばっかりじゃない、とのグレイスの指摘に、彼女はえへへとはにかんだ。
「ダッテ、お祭りでしか食べられないじゃないデスカ」
「家で作れるでしょ?」
「お家で作って食べるのと屋台で買って食べるのは違うんデス!」
ぐっと拳を握りしめて力説する少女に、思わず圧倒される。そうなの、と返すのがやっとだった。そうナンデス、と力強く言われては、もう否定する言葉など消え失せてしまった。
「グレイスはどれがいいデスカ? 何でも買ってあげマスヨ!」
「自分で買うわよ。ちゃんとお小遣い持ってきてるんだから」
ぐっと拳を握りしめ息巻き胸を張る姉に、妹は眉を寄せて返す。眇められたラズベリルには、喜びと申し訳なさと悔しさがない交ぜになった複雑な色が浮かんでいた。
一緒に夏祭りに行きマショウ、と誘ってきたレイシスは、何かにつけてグレイスに物を買い与えようとしてきた。誘った側だからこれぐらいはしたい、と彼女は言うが、絶対にただの建前だ。姉らしく妹を甘やかしたいという彼女の考えは、新たな生を受けたしばらく経った少女にだって分かる。
高校二年生の財力なんてたかがしれている。彼女の懐事情のことも考えて、本来ならば強く拒否するべきだ。けれども、あの鮮やかに咲く花のような笑顔を向けて迫られると、いつも息が詰まってしまい断るのが厳しく思えるのだ。結果、綿菓子と型抜きと水ヨーヨーを買い与えられた今に至る。
せっかく、ちゃんと不自由なく遊べるようにお小遣いを持ってきたのに。躑躅の少女は唇を尖らせる。姉に甘やかされるのが心底嫌だ、と言えば嘘になるが、こんな風に幼い子どものように甘やかされるのはどうにも不服だ。自分は、彼女が思っているほどこどもではないのだから。
対等でありたい。
言葉にするならこうだろうか。過度に甘やかされることなく、互いに思い遣りあって、共に並んで、語り合える。そんな関係を夢見るが、『妹』という認識がまだまだ強い今は難しいだろう。く、と赤い唇が強く噛み締められた。
「……じゃあ、あれ」
わだかまる感情を隠しきれぬ声音で、グレイスは少し先を指差す。数人の子どもがたむろしている屋台には、青に白の波模様が映える布地に『かき氷』と赤い文字で大きく描かれていた。
「かき氷! いいデスネ!」
ぐっと拳を握りしめ、レイシスは楽しげな声をあげる。先ほど彼女が挙げた候補に入っていただけあってか、楽しみにしていたようだ。早く行きマショウ、と手を引かれ、少女らは白熱灯に照らされる屋台の元へと駆けていった。
狭い屋台の中には、大きな電動かき氷器と様々なシロップが並んでいた。赤、緑、青、黄、紫。まるで虹のように鮮やかな色の液体が入った瓶が並んでいる。机には『シロップかけ放題』というポップが飾られていた。どうやら、購入者が己でシロップをかけるのがこの屋台の方針らしい。
「ジャア、二つ分――」
「一つでいいでしょ。私は自分で買うんだから」
指を二本立てたレイシスを尻目に、グレイスは店主に硬貨を差し出す。一つお願い。あいよ。短い言葉と金銭が交わされた。
「買ってあげるノニ」
頬を膨らませ、薔薇の少女は躑躅を見つめる。紅水晶の瞳は、不服そうに細められていた。はぁ、と溜め息をこぼし、あしらうようにひらひらと手を振る。
「自分で買えるんだからいいわよ。で、貴方はどうするの?」
「ワタシも! おじさん、一つお願いしマス!」
手を上げ元気よく言う少女に、店主はちょっと待っててな、と返す。機械は一台しかないのだから、仕方が無いだろう。ハーイ、と桃色は手に持った水ヨーヨーをぷらぷらと揺らして遊んだ。
下部が大きく開かれた機械に、発泡スチロールでできた白い容器がセットされる。年季の入ったボタンが押されると、ガガガ、と大きな躯体が盛大な声をあげ始めた。しばしして、削られた細かな氷がカップの中に降り注いだ。豪快な音とともに、輝く氷が雪のように降り積もっていく。あっという間に、容器には氷の山ができあがった。端に、スプーン状に加工されたストローが豪快に刺される。
「あいよ。シロップはかけ放題だから好きなの選びな」
「あ、ありがとう」
勢いよく片手で渡された器を気圧されながら受け取り、グレイスは数歩横へと足を進める。目の前にずらりと並んだシロップの瓶の群れに、少女はぱちぱちとまあるい瞳を瞬かせた。
いちご、メロン、ブルーハワイ、レモン、グレープ、みぞれ、抹茶、コーラ、カルピス。様々な文字が大きな瓶の前面に貼り付けてある。透明なガラス瓶の中に揺蕩うシロップは、光を受けてつやめいていた。
どれにしよう。カラフルなシロップを目の前に、グレイスは視線を泳がせる。いちごやメロンは、今まで食べてきた菓子のフレーバーから何となく味の想像がつく。コーラやカルピスは、氷にかけて食べた時の味の想像がつかない。ブルーハワイとみぞれに至っては、名前すら知らないものだ。目が醒めるような鮮やかな青と、カラフルな瓶の中で異質な様相をした無色透明が、更に謎を深める。
悩み悩んだ末、少女は『いちご』というラベルが貼られた瓶へと手を伸ばした。大きなそれに差してある長い銀の匙を手に取る。先端に付けられた小さな深いカップに真っ赤な液体が満たされすくわれる。こぼさないように慎重に手を進め、細かな氷の山の頂へとシロップを垂らす。純白の上を、鮮烈な赤が広がっていった。一瞬のそれに、少女は目を丸くする。もう一杯だけ、とまたシロップをすくってかける。白い氷はすっかり真っ赤な蜜に染め上げられた。
「ワタシは何にしマショウ」
よく通る声が隣から聞こえた。随分と弾んだそれに、少女は視線を音の方へと移す。自分の分を手に入れたのか、同じ容器を手にしたレイシスの姿があった。どれにしようカナ、と指先が瓶を指す度、白い花咲く群青の袖が揺れる。楽しげな笑みに満ちあふれた横顔は、少女らしい可愛らしいものだ。
神様の言う通り。飛び跳ねるような声が止むとともに、指の動きも止まる。たおやかな細い指が指し示したのは、『ブルーハワイ』と書かれた瓶だった。ヨシ、とはっきりした言葉をこぼし、薔薇の少女は長い匙を手に取った。真っ青な液体の中に匙を沈め、たっぷりのそれをすくう。明らかに人工的に作られた極彩色に躊躇うことなく、彼女は白い雪山にシロップを降り注がせた。雪原が一瞬にして海色に染められた。どこか冒涜的な映像に、思わず口元が引きつる。一体、あれはどんな味がするのだろう。少なくとも、食べ物の色はしていないのだが。
「サ、邪魔になっちゃいますから行きマショウ」
ありがとうございマシタ、と店主ににこやかな声と表情を投げかけ、レイシスは妹の手を取る。二人の間で揃いの水風船がぶつかって揺れた。
屋台の群れから少し離れた場所に二人で辿り着く。休憩スペースとして開放されているようで、辺りには人がごった返していた。座るのは難しいが、立って食べることぐらいはできるだろう。姉もそう考えたのか、端の方へと歩みを進める。人が少しだけまばらなそこは、二人並んで立つには十分な空間だ。
「サ、食べマショウ。溶けちゃいマス」
繋いだ手を離し、少女は容器に刺されたストローに手をかける。カラフルな縞模様で彩られたそれを引き抜き、丸くスプーン状になった先端部分を青い雪山の頂に入れる。一匙すくい、夜闇でも目立つ青を口に入れた。シャクン、と軽い音の後、ンー、と感嘆の声があがる。桃色の睫に縁取られた目は柔らかな孤を描いていた。
グレイスもストローを手に取る。綺麗な山が崩れてしまわぬようそっと抜き、赤に染められた氷を小さくすくい取る。赤い欠片をおそるおそる口に運ぶ。簡易匙を咥えた瞬間、冷たさと甘さが口いっぱいに広がった。舌の上ですぐに溶けて消えたそれに、少女はぱちりと目を瞬かせる。アザレアの瞳には光がきらめいていた。
冷たい。甘い。美味しい。人混みを歩き続けた身体に、氷の冷たさと人工甘味料の甘さが染み渡っていく。どれも心地の良いものだ。もう一口、もう一口、と躑躅の少女は黙々と匙を動かす。ひんやりとした氷が舌の上で溶けて、涼やかな食感と甘美な味を残して消えていく。先ほどの綿飴とよく似ているが、全く違う楽しさがあった。
何口目かを口に含んだ瞬間、頭に電撃が走り抜けていく。強烈な痛みに、輝くマゼンタの瞳が歪められる。ぅ、とストローを含んだ口から鈍い唸りが漏れ出た。
「いったぁ……」
「急いで食べるからデスヨ」
思わず額を押さえると、クスクスと笑い声がかけられる。見つめる瞳は姉ぶったそれの様相をしていた。
また子ども扱いをされている、と少女は頬を膨らませる。妹の様子を気にすることなく、姉は青をすくったスプーンを咥える。瞬間、アゥ、と短い悲鳴があがった。どうやら彼女の頭にもあの痛みが襲ったようだ。貴方もじゃない、とむくれた声で指摘すると、エヘヘ、とはにかんだ笑声が返された。
「アッ、グレイス。見てくだサイ」
何かを思いついたのか、レイシスは目を輝かせて妹を見る。すると、突然口を大きく開け、べろりと舌を出した。何だ、と疑うより先に、驚愕がグレイスを襲う。尖晶石が心情を強く表すように真ん丸に開かれた。
「えっ、何、それ。えっ?」
目の前に出されたレイシスの舌は、真っ青に染まっていた。明らかに人のそれの色ではない。異常な光景だ。
バグだろうか。いやでもそれにしてはレイシスは慌てていないではないか。というか、何でこんなものを見せつけてきたのだ。様々な疑問がぐるぐると頭を巡る。小さな口が呆然とした様子で開かれた。ぁ、ぅ、と混乱に満ちた声が漏れる。髪と同じ色をした形の良い眉が八の字に下がっていく。
「えっ、大丈夫なの?」
「大丈夫デスヨ。かき氷のシロップの色が移っちゃいマシタ」
エヘヘー、とレイシスは笑う。最初から何も知らない自分を驚かせる気だったのだろう。スプーン片手に浮かべる笑みに、悪びれる様子はなかった。
心配させるんじゃないわよ、と叫びそうになるのをぐっと堪える。こんな些細なことで心配しただなんて言ったら、また子ども扱いされるに決まっている。未だ胸に残る驚愕と不安と安堵がぐちゃりと混ざりあわさって、複雑な色を作り上げる。そう、とぶっきらぼうに言い放ち、グレイスはまた氷をすくって口に運んだ。しゃくりと細かな氷が鳴き声をあげる。
ふと疑問が湧き上がる。青いかき氷を食べたレイシスの舌は鮮やかな青に染まっていた。では、赤いかき氷の食べた自分の舌も、この目に痛いほどの赤に染まっているのだろうか。衝動に身を任せたまま、少女はぺろりと小さく舌を出す。一生懸命視線を下をやっても、己で己の舌を見ることは不可能だった。謎は謎のままだ。
「グレイスはいちごデスカラ……赤いままデスネ」
妹の舌を覗き込み、残念デスネ、と薔薇の少女は眉尻を少し下げる。一連の子どもじみた行動を見られていた羞恥が胸の底からぶわりと湧き起こる。躑躅の少女は急いで舌をしまった。別に、と鋭い声で返し、またかき氷を口に運ぶ。再び鋭い痛みが頭を走っていった。ぅ、と低い唸りがこぼれる。災難は重なるものらしい。うぅ、と喉奥から情けない声が漏れ出た。
「一口食べてみマス?」
ハイ、アーン、とレイシスはストローを差し出した。スプーン状に加工された先には、真っ青に染まった氷が載せられていた。時間がたったそれは、少しだけ水に変わっていた。青い氷と水が、明かりに照らされきらめく。
ふわと丸く柔らかな頬に朱が舞い広がる。白い喉がひくりと揺れた。ストローのスプーンが強く握られ、くしゃりと潰れる。
あーん、なんてされる羞恥と、『ブルーハワイ』という謎のフレーバーに対する興味が胸の内で闘う。しばらくの格闘の末、好奇心旺盛な心は後者に軍配をあげた。
あ、と小さく口を開く。可愛らしい口に、ストローがそっと差し込まれた。舌に触れた瞬間、急いで口を閉じ、匙の上の氷を浚って頭を後ろに引く。柔らかなプラスチックが、赤々とした口から勢いよく引き抜かれた。
口の中に広がったのは、今まで食べていたものとほとんど変わらない甘みだった。心なしか爽やかさを感じるのは、あの目が醒めるような色によるものだろうか。『ブルーハワイ』なんて謎に満ちた名前をしているのにこんな味だなんて、何だか拍子抜けだ。こぶりな唇が少し尖らされた。
「色ついてるかもしれマセンヨ。べーってしてみてくだサイ」
べー、と再び青い舌を出す姉の姿につられ、妹も控えめに舌を出す。ちろりと出されたそれを見て、桃の少女はうーんと難しそうに唸った。
「ついてマセンネ……。一口じゃだめなんデショウカ」
もう一口食べマスカ、とまた匙を差し出すレイシスに、いいわよ、と短く返す。舌が染まる様に興味はあるが、人のものをたくさんもらってまでやることではない。そもそも、自分では見られないのだから意味が無いではないか。
「次は別のを食べてみマショウ? メロンとか色がつきやすいデスヨ!」
「次って……もう入んないわよ。それに冷たいものばっかりじゃ身体に悪いわ」
かき氷はまだ半分ほど残っているが、先ほど綿菓子一つ食べたこともあってか少女の小さな胃はだいぶ膨れていた。火照った身体も、甘ったるい氷のおかげでもうすっかりクールダウンしている。これ以上冷たいものを食べるのは少し難しく思えた。それに、かき氷を二個食べたなんてうっかりこぼしたら、きっとオルトリンデとライオットが窘めてくるだろう。あの二人もレイシスに負けず劣らず過保護なのだ。
「ジャア、来年! 来年も一緒にかき氷食べマショウ!」
妹の言葉に、姉はピンと人差し指を立てて応える。マゼンタを見つめるピンクの瞳には、喜びの輝きと少しの不安が宿っていた。
来年、と飛んできた言葉を小さく復唱する。次。来年。心の中で姉の言葉をなぞる。甘美で温かなそれは、少女の胸にゆっくりと広がり満たしていった。
一年後の未来も、共に在れるのだろうか。こんな自分が、まだこの輝かしい少女の隣に存在することはできるのだろうか。
作り変わった身体はもう定着し、小さな姿に戻ることはなくなった。資格も取り、ナビゲーターとしての腕も磨いてきたつもりだ。今では、共に舞台に立ち、歌と踊りを披露するまで至っている。それでも、まだまだ幼い少女の胸に憂慮がのしかかる。彼女に対するコンプレックスは未だ重く残るものだ。
それでも、それを超える喜びが胸の奥底から湧き上がってくる。共に行こうと言ってくれた。来年も共に在ると言ってくれた。無邪気な姉の言葉は、妹の胸に温かなものをもたらした。
「……えぇ」
するりと肯定の言葉がこぼれ落ちる。音を形取った口の端は緩く持ち上がり、アザレア咲く瞳はゆるりと細められた。胸に湧いて出る幸いがこぼれ落ちたような、そんな優しく甘い笑顔だった。
妹の言葉に、姉は大きな目を真ん丸に見開く。薄く膜張っていた不安の色は、綺麗に消え失せていた。あるのは、めいっぱいの喜びの色だ。
「ハイ! 約束デスヨ!」
弾けるような声とともに、手が差し出される。握った手は、小指だけがピンと立ち上がっていた。ふ、と柔らかな息をこぼし、グレイスも同じ形の手を差し出す。細い小指はすぐに白い指に絡め取られた。小指と小指が絡み合い、ぎゅっと固く結ばれる。指切りげんまん、と弾んだ声が提灯の明かりに照らされた空間に響いた。
「指切ッタ! 約束デス! 絶対デスカラネ!」
「はいはい」
楽しげに息巻くレイシスに、グレイスは呆れたように笑って返す。貴方こそ忘れるんじゃないわよ、と軽口を叩くと、忘れマセンヨ、とむくれた声が返ってきた。丸く柔らかな頬がぷくりと膨れる。まるで手にした水風船のようだ、と考えて、また笑みがこぼれた。
「グレイスとの約束を忘れるわけありマセンカラ!」
真正面から飛んできた力強い言葉に、マゼンタの目が丸くなり、幾度も瞬く。胸の内に広がっていく温かな感情とこそばゆい感覚に、少女はふわりと破顔した。そっと細められた目が、暖色の光を受けてキラキラと輝いた。
「そうね」
「そうデスヨ」
呟くように言うと、また力強い言葉が返される。自信と喜びに満ちあふれたそれは、信頼たり得るものだった――否、最初から信用しているのだ。この純真無垢で、いつだってまっすぐで、何事にも真剣に向き合う少女が、誰かに、自分に嘘なんて吐くはずがないのだから。
もう溶けかけた氷をどうにかすくい取り、躑躅は口に運ぶ。少しぬるい甘みが心地良かった。
畳む
書き出しと終わりまとめ10【SDVX】
書き出しと終わりまとめ10【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその10。ボ6個。
成分表示:はるグレ1/ライレフ3/嬬武器兄弟1/グレイス1
愛苦/はるグレ
AOINOさんには「ある晴れた日のことだった」で始まり、「答えはどこにもなかった」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
晴れた日のことだ。
「グレイス、好きですよ」
そう言って始果は口元を綻ばせる。表情が無いと言っても過言ではない彼が見せる貴重な顔だ。愛する少女の前でしか見せない、特別な笑みだ。柔らかなそれは、青空に映えるものだった。
そう、と言ってグレイスは視線を逸らす。好意を一心に向けられているというのに、少女の表情は陰ったものだ。整った眉が寄る。俯く顔に太陽が影を作る。
始果は度々『好きだ』と告げてくる。温かな感情を向けられて嬉しくないはずなどない。けれども、その言葉を信じ切ることができるほど、少女の心に余白は無かった。
バグの海で出会った時、グレイスは始果の記憶能力を狂わせた。日常生活には支障がないものの、戦争が終結した今も彼の記憶力は低いままだ。知識もバラバラに抜け落ちたもので、度々人に世話を焼かれている。狂わせた影響なのか、感情表現も非常に希薄だ。
この好意は、記憶能力を狂わせた影響によるものではないか。
彼が愛しい言葉を紡ぐ度、疑問が少女の胸に湧いて出る。暗いそれは、柔らかで小さな心を簡単に食らい尽くした。
これは何かの間違いなのだ。だって、記憶なんて大切なものを狂わせて恨まれないはずがない。好意を示されるはずがない。好かれるはずなどない。己にそんな資格など無い。
重い言葉が少女の胸にぐるぐると渦巻く。間違いない、と決めつける言葉は、自分に言い聞かせるものだった。許されてはならない、と強い自罰意識が見えるものだ。誰よりも、何よりも、彼女自身が己が誰かに愛されることを許せなかった。
グレイス、と柔らかな声が己の名前を呼ぶ。ゆっくりと伏せた顔を上げると、そこには穏やかな顔をした始果がいた。躑躅色の前髪に白い手が伸びる。長いそれを掻き分け、スピネルの瞳が陽の光の下に晒された。
好きです、と一言。少年は微笑む。愛しさに溢れた表情だった。愛を詰め込んだ声だった。何もかも、グレイスにとって苦しいものだった。
この言葉を素直に受け取ることができる日は来るのだろうか。
答えなどどこにもなかった。
祭り囃子につられて/ライレフ
あおいちさんには「言葉が見つからなかった」で始まり、「懐かしい味がした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
呆れのあまり、言葉が見つからなかった。
「何ですか、その量……」
「いや……どれも美味しそうだったから……」
どうにか発した言葉に、兄はばつが悪そうに目を逸らし濁った言葉を返す。その手には、たくさんのビニール袋や棒に刺さった食べ物が握られていた。
縁日やってるらしいし行こーぜ、と手を引き家を出たのが夕方に差し掛かる頃。多くの屋台を二人で見て回った頃には、世界はすっかり闇に包まれていた。張り巡らされた提灯の明かりが照らし出す世界は昼のように明るいが、気付けばもう夕食を済ませている時間だった。
晩飯を食べてしまおう、買ってくるから待ってて、と人混みの中へと走り消えていった兄を待つこと十数分。戻ってきた彼の手に握られた数々の品を見て、烈風刀は眉をしかめた。勝手に走っていった時点で嫌な予感はしていたのだが、まさしく的中してしまった。
「貴方、これ全部食べるつもりなのですか」
「二人なら食べきれるだろ?」
「そうですけれど、買いすぎです。いくら使ったのですか」
お祭り価格とはよく言ったもので、屋台の品々は基本的に価格が高い。それが悪いことだとは言わないが、さすがにこの量は無駄遣いだと言いたくなるものだった。手にした品々の数も、ざっと見た限り健康優良児である兄弟二人ならばどうにか胃に収まる量ではあるが、それでも限界に近いものだ。計画性が無いとしか言いようがない。
「いいじゃん、お祭りの時ぐらい」
「否定はしません。けれど、明らかに夕食に相応しくないものもありますよね? 夕食を買いに行ったのではなかったのですか?」
ゆらゆらとビニール袋を揺らすその手には、りんご飴やいちご飴が握られていた。どうみても『夕食』には相応しくない代物である。大方、祭りの雰囲気に酔って衝動買いしたのだろう。
「いいじゃん。デザートだよ、デザート」
ほら、と言って雷刀は赤いりんご飴をこちらに向ける。反射的に受け取ると、彼は辺りを見回した。
「あっちの方空いてるっぽいし、あっち行って食べよーぜ」
「帰ってからの方がいいのではないのですか?」
「せっかくのお祭りなんだから、ここで食べた方がいいって。その方が絶対うめーもん」
そんなの場の空気に酔っているだけではないか、と言う反論は眼前に差し出された黄色によって阻まれた。焼きとうもろこしだ。焼けた醤油の香りが鼻をくすぐる。くぅ、と腹の虫が小さな声をあげた。
「はい、烈風刀の分な」
そう言って兄はビニール袋を手渡してくる。ずしりと重たいそれを受け取ると、そのまま手を握られた。提灯の柔らかな光に照らされた顔に朱が差す。
「オレ、すぐはぐれちまうじゃん? ちゃんと掴んでて」
反論の言葉は、都合の良い言葉によって消し去られた。たしかに、この人混みでは自由奔放で好奇心旺盛な兄はすぐにどこかに行ってはぐれてしまうだろう。そうなれば手間だ。ならば、仕方が無い。余計な手間を省くために一番効率が良い手段なのだ。言い聞かせ、弟はそっと手を握り返す。少し沈んだ視界、目の前の口元がニッと大きな弧を描いたのが見えた。
頬に宿る熱を誤魔化すように、烈風刀は手にしたとうもろこしをかじる。きつね色のそれは、どこか懐かしい味がした。
奇跡よ、どうか続いて/ライレフ
AOINOさんには「いわゆる奇跡だったのです」で始まり、「君がいないと息もできない」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
いわゆる奇跡なのだろう。
家族で、男兄弟で、唯一無二の片割れで。そんな関係性の自分たちが『恋人』なんて甘やかな存在になったのは、奇跡としか言い様がない。こんなこと、奇跡でなかったら何だというのだ。烈風刀は幾度も考える。奇跡でも無ければ、この想いが実ることなど無いに決まっている。
だからこそ、不安で押し潰されそうになる。『奇跡』なんてあり得ないものの上に築かれたこの関係が、いつ壊れてしまうかなど分からない。人と人との関係なんて、ほんの些細なことで簡単に崩れ去ってしまうのだ。それが『奇跡』なんて不可思議で不安定な存在の上に成ったものならば尚更だ。
もし、この『奇跡』が解けてしまったならば。
背筋に冷たいものが走っていく。明確な恐怖だ。はっきりとした怯えだ。今の関係性が壊れてしまったならば、もう元には戻れないだろう。ただの『兄弟』として生きていくことなど、絶対に不可能だ。だからこそ、恐れが身体を支配する。もう引き返しようのない場所にいるのに、ここはあまりにも不安定だ。いつ壊れてしまってもおかしくないのに、こんなところに二人で立っている。いつまでも居続けることなどできるはずがない。こんな関係が永遠に続くはずなどない。ずっと彼と一緒にいられるはずがない。
「烈風刀?」
柔らかな声に、はっと目を開く。薄暗い視界の中に、鮮烈な朱が飛び込んでくる。丸い柘榴石が不思議そうにぱちりと瞬いた。
「どした? 調子悪い? 今日はやめとく?」
「い、え……。大丈夫、です」
不安げに八の字を描く眉を見て、少年は淀んだ声で返す。ほんとに、と心配げに問うてくる愛しい人の首に腕を回し、そっと抱き寄せる。なんでもありませんよ、と囁けば、小さな呻り声が耳をくすぐった。
「嘘吐くなよ」
「嘘なんて吐いていませんよ」
だから、早く。
むくれた調子で言葉を紡ぐ兄の耳に、そっと言葉を流し込む。こくん、と喉が鳴る音が聞こえた。
「無理だと思ったらすぐ言えよな」
「はいはい」
未だ訝しげに目を細める彼に、あしらう調子で声を発する。むぅ、と柔らかな頬が膨らむ。ほんとに無理すんなよ、と今一度釘を刺される。鈍いようで変なところで聡い彼には、この虚勢は見抜かれてしまったようだ。それでも、こちらの意志を汲んでくれるのだから、彼は優しい。その優しさにずっと甘えているのだ、と考えて、烈風刀は自嘲気味に笑みをこぼす。天河石の瞳に陰が差した。
目が醒めるような朱が近づく。愛おしい熱を想い描きつつ、少年は目を閉じる。すぐさま、唇に温かなものが触れた。啄むような触れ合いが、どんどんと深くなっていく。呼吸が奪われていく。それでも、今はこの熱に溺れる他無かった。
もう君がいないと呼吸すらできない。
蝉と昼空/嬬武器兄弟
あおいちさんには「夏が始まる」で始まり、「これから何かが始まる予感がした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字程度)でお願いします。
あぁ、夏が始まるのだ。
抜けるような青空を見上げ、烈風刀はベランダに一人立ち尽くす。彼を囲むように色とりどりの衣服と汚れ一つ無いタオルがはためく。
ジー、ジー、と特徴的な音が鼓膜をこれでもかと震わせる。鼓膜を通り過ぎて頭に直接突き刺してくるようなそれを、少年はぼぅとした様子で聞く。アパートの前、歩道に植えられた並木には多くの蝉がしがみつき、短い生を謳歌しているのだろう。何重にも折り重なったこの鳴き声が何よりの証拠だ。
昨日まで蝉は鳴いていただろうか。記憶の糸をたぐるが、あまりにも日常に溶けこんだそれを思い起こすことは不可能だった。今この瞬間――洗濯物を干す最中、ふと中天に近づきつつある太陽を見上げた今、脳がこの音を認識したのだ。不思議なものである、と思うと共に、そんなものか、とも思う。人間は、興味の無いことは案外認識しないものだ。
雲一つ無い青空。照りつける太陽。蝉時雨。『夏』という語を思い起こすには十分の要素たちだった。
そも、気付けばもう期末試験も終わり、再来週には終業式ではないか。夏にはとうに足を突っ込んでいるような時期だ。だのに今の今まで自覚しなかったのだから自分も大概惚けている。
「烈風刀ー、風呂掃除終わったー」
カララ、と軽い音と共に飛び込んできた声に、意識が現実に引き戻される。ぱちりと瞬き一つ、音の方へ顔を向けると、空とは正反対の色をした兄が立っていた。
「どーした?」
「あぁ、いえ。何でもありません」
首を傾げる雷刀に、少年は視線を下に落とす。誤魔化すように、手に持ったタオルを軽く振る。パン、と布地が広がる音が蒼天に上がる。
「うっわ、蝉の声すげーな。夏って感じ」
洗濯かごからバスタオルを手にした雷刀は青空を眺め言う。うんざりしたようにも取れる言葉は、どこか弾んだものだ。
そうですね、と物干し竿にタオルを吊しながら応える。同じことを考えた、という事実に、胸がどこかこそばゆくなる。単純な兄と同じ思考をしてしまった悲しみか、それとも愛しい家族と同じことを考えたことに対する喜びか。青春真っ只中の少年の複雑な心は、自分でも理解ができなかった。
「そういやもうすぐ夏休みだなー。今年は何やるんだろう」
「貴方はその前に補習があるでしょう」
「思い出させんなよ……」
弾んでいた声が一気に萎む。コロコロと変わる表情と音に、少年はくすりと小さく笑みを漏らす。笑い事じゃねーだろー、とむくれた声が飛んできた。
「ま、補習なんてさっさと終わらせて遊ぼーな。レイシスも誘ってさ」
切り替えた様子の兄はニッと笑う。何もかもを照らすような輝く笑みに、少年はそっと目を細める。そうですね、と返し、彼も口元を緩めた。
今年も賑やかな夏が始まる予感がした。
貴方の音/ライレフ
あおいちさんには「君の好きな歌を口ずさんだ」で始まり、「今なら伝えられる」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以上でお願いします。
愛する彼女を象徴する歌を口ずさむ。そういえば、この歌は兄も好きだったな、と余計な情報が呼び起こされる。愛しい少女のために作られた曲なのだ、己たち兄弟が好きになるのは当然のことだった。
トントンとまな板と包丁が軽やかな音をたてる。合間に、シャキシャキと小気味の良い音が挟まる。細切りになった人参は、今晩の味噌汁の具材になる予定だ。
「あ、オレもそれ好き」
後ろから飛んできた声に、手が、歌が止まる。強張った表情で音の方へと視線を移す。そこには冷蔵庫を開ける兄の姿があった。
聞かれていた、という事実に、白い耳に血の色が差す。胸の内に重い何かがどろりと渦巻く。包丁を握る手にかすかに力がこもった。
「やっぱレイシスの曲は最高だよなー」
「……当たり前でしょう」
麦茶をグラスに注ぐ兄の言葉に、短く返す。突き放すような響きになってしまったのは仕方のないことだろう。愛する彼女を歌った楽曲が素晴らしいのは当然のことであるし、気の利いた答えを返せるほどの余裕など今は持ち合わせていない。
弟の様子など気にかけることなく、兄はグラスを傾ける。健康的な色をした喉が大きく動く。横目に、烈風刀は調理を再開する。シャクンと人参が軽やかな音をたてた。
「オレ、あれも好き。えっと――」
そう言って兄はメロディーを奏で出す。テテテ、と口ずさむそれは、以前己がジャケットを担当した楽曲だ。機嫌良く歌う横顔は楽しげなものだ。彼は人前で歌うことに抵抗がないらしい。
「何だっけ」
「何故曲名は覚えていないのですか……」
「だって烈風刀が担当する曲、英語ばっかじゃん」
「貴方もでしょう」
そうだけど、と雷刀は唇を尖らせる。自分の担当した曲名すら覚えているか怪しいのではないか、と疑念が湧く。これ以上話を進めるのはやめておいた方がいいだろう。
「グラス、ちゃんと洗っておいてくださいよ」
「へいへい」
気の抜けた返事とともに、水が流れる音が響き出す。洗い物をする彼を横目に、烈風刀は具材を鍋に入れる。今度は大根を取り出し、まな板に据える。白い円柱に刃を入れると、瑞々しい音があがった。
「何か手伝う?」
「大丈夫ですよ。先に課題を終わらせてください」
覗き込む兄に返すと、ぅ、と濁った音がキッチンに落ちた。勉強嫌いな彼のことだ、今の今まで忘れていたのだろう。提出期限もうすぐですよ、と追撃を飛ばすと、へい、と萎んだ声が返された。
スリッパが床を打つ力のない音が後ろを通り、ダイニングへと消えていく。パタン、とドアが閉じる音が後ろ手に聞こえた。
切ったばかりの大根を鍋に入れる。次は油揚げだ。先に湯抜きしておいたそれに包丁を入れる。柔らかな生地が音もなく分かたれた。
まな板を包丁が叩く音の中、兄の歌声がリフレインする。好き、と言いながら歌う横顔は愛おしく可愛らしい。何より、自分が担当した曲を好きだと言われ、喜びが胸の内に湧いて出た。ジャケットを担当した曲はどれも思い入れのあるものだ。それを『好き』とまっすぐに言われて、嬉しくないはずなどなかった。そんなこと、恥ずかしくて面と向かって言えないけれど。
僕も貴方のあの曲、好きですよ。
口の中で呟いてみる。素直な言葉はいつか伝えられるだろうか。
奇跡も愛も受け止めきれずに/グレイス
葵壱さんには「いわゆる奇跡だったのです」で始まり、「明日はきっと優しくなれる」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば12ツイート(1680字)以上でお願いします。
いわゆる奇跡だったのだろう、と、少女は己の手を見る。随分と小さくなってしまったそれを、意味もなく握って開いてを繰り返す。たしかな感触に、マゼンタの目が細められた。
あの日――レイシスが手を伸ばし迎えに来てくれた日、古いプログラムでできた己の身体はネメシスの力によって再構成された。渇求した『あちら側』での存在を認められ、ヒトらしく暮らすようになって早幾月。再構成する段階で縮んでしまったグレイスの身体は、既に元のすらりとした体躯に戻っていた。
それでも、まだ創り変えらたコアがしっかりと安定していないからか、ふとした拍子に幼い姿に戻ってしまうことがある。様々な要因が重なってしまった今日がそうだった。幸い、運営業務に差し障ることはなかったが、大事をとって先に帰宅することとなったのだ。
レイシス謹製の服に着替え、グレイスはベッドに浅く座る。小さくなった身体をたしかめるように撫で、胸に手を当てる。創り変わったコアが脈動するのが、厚い布地越しに伝わってくる。生きているのだ、と改めて確認し、少女は小さな溜め息をついた。
身体が縮む度、この意味のない行為をするのが彼女の癖となっていた。コアが動くことなどごく当たり前のことではないか、と人は首を傾げるだろう。けれどもグレイスにとって――一度消失寸前に陥った彼女にとっては、他者にとっての当たり前など当たり前ではない。現に、未だ不安定なこの身体は同じ形を保ち続けることができていないのだ。このまま元に戻らなかったら、もっともっと小さくなってしまったら、消えてしまったら。決して口に出すつもりはないが、少女の中には不安はまだまだ残っている。
生まれ過ごした時間はレイシスたちとさほど変わらないものである。しかし、グレイスは誰もいないバグの海で生の大部分を過ごしてきた。他人と関わることが無いに等しかった少女の情操は、彼女らよりも発達していない。人よりも不安になってしまうのは仕方のないことだ。
奇跡なのだ、と改めて考える。
本来ならば、己はあの日世界諸共――それかただ独り――消滅していたはずなのだ。けれど、『死にたくない』と醜く発した言葉を、レイシスは聞き届けてくれた。手を差し伸べてくれた。救ってくれた。ネメシスで生きる願いを叶えてくれた。これが『奇跡』でなく何というのだ。
レイシスという存在無しでは、今のグレイスは在りえない。感謝してもしきれない存在だ。なにせ、言葉通り命の恩人なのである。彼女無しでは、ネメシスに愛された彼女無しでは、己はとっくにバグに飲み込まれて消えていたのだから。
だのに、あの少女が降り注ぐ満開の愛を、己は正面から受け止めきれずにいる。素直に捉えず、斜に構えて邪険に扱ってしまうのだ。
グレイスは誰もいないバグの海で一人生きてきた少女である。愛を与えられることなどなかった。愛の受け止め方など知らなかった。だから、分からないのだ。素直な受け取り方を。
愛を与えてくれるのに、愛に応えられない。どう応えていいか分からない。それが嫌でたまらない。命の恩人を邪険に扱うなど、最低ではないか。
何より、グレイスはレイシスを好いている。好意には好意で応えたい。それは当たり前の思考だ。けれど、その当たり前が実行できない。歯痒くて仕方なかった。
もっと自分が素直ならば。愛の受け止め方を知っていれば。愛の渡し方を知っていれば。
何度考えても、心は、身体はついてきてくれない。いつまで経ってもぶっきらぼうにあしらってしまうのだ。何度歯噛みしても、育ちきっていない情緒は思考に追いついてくれないのだ。
ふぅ、と息を吐く。存外重いそれに、思わず苦笑を漏らす。溜め息を吐きたいのはレイシスの方だろうに。何故加害者の自分がこんなことをしているのだろう。自己嫌悪がまた一つ募っていく。
きっと明日――下手をすれば今日の業務終了後――は、レイシスが部屋を訪れるだろう。『大丈夫デスカ?』と心底心配な表情と声で尋ねてくるはずだ。あの心優しい姉は。
明日は素直になれるだろうか。優しくなれるだろうか。
なれたらいいのに、と考えて、少女はアザレアの瞳を閉じた。
畳む
凍てつく君を引き上げて【氷雪+ニア+ノア】
凍てつく君を引き上げて【氷雪+ニア+ノア】
ΩDimension4周年おめでとうございます!(大遅刻)
にかこつけた4年前Ω初登場時に練ったプロット救済。ずっと書きたかったけど完全に機会を見失ってたのでここで出しちゃう。
ボス曲のジャケットという大役を任された氷雪ちゃんとニアノアちゃんの話。
長い柄杓がカタカタと音をたてて震える。細い柄を握る手は冬の空気よりも冷たく、積もる雪よりずっと透明な白に染まりきっていた。
ボルテ学園、教室棟から少し離れた特別教室棟。その一室に位置する撮影ブースはまばゆい白に包まれていた。写真撮影用の大きなライトで照らされる明るい空間の片隅、機材の強い光が届かぬ物陰に座り込む小さな影が一つ。白と深青で彩られた衣装を纏い、ずり落ちてしまいそうなほど大きな帽子を被った少女――氷雪だ。
凍えるように縮こまった華奢な身は、冬の海の冷たさを思い起こさせるような青白い衣装に包まれていた。常日頃彼女が身に着けている着物によく似たデザインだが、肩口には大きな切れ込みが入っており、そこから夜の海のような深い青が覗いている。白い布地には鮮やかな海色の細い線が走り縁取っていた。深海色の帯には赤く太い帯紐が結ばれている。髑髏と雪結晶を合わせたような帯留めが中央に輝いていた。
厚い布地が重なって下半身を包むはずの裾は、大胆に開かれている。その中心を前垂れのような布が守っていた。左右に大きく割れた生地の隙間から覗く脚は、氷柱のように白く細い。影から顔を覗かせる深い青の襦袢とのコントラストが眩しかった。その白さを強調するように、赤い数珠とボロボロになった包帯が片足ずつに巻かれている。
形の良い白い頭には、海賊帽が載せられている。黒地に金の髑髏マークと濁った赤の羽根で飾られたそれは、小柄な彼女の頭に対して随分と大きなものだ。背を丸め俯いた今の姿勢では、バランスを崩して床に落ちてしまいそうだった。
寒さを堪えるように己の身を抱え震える彼女の姿は、この部屋において不自然なものだ。室内は滞りなく撮影作業ができるよう、空調が整えられている。むしろ、いくつも点けられた大型ライトの影響で暑さを覚えるほどだ。何より、『雪女』である彼女は人よりも寒さにずっと強い。このように寒さを凌ぐように震え縮こまるのは異常にすら映った。
どうしよう。
先ほど――特にこの衣装に着替えてから、氷雪の頭はその五文字で埋め尽くされていた。どうしよう。どうしよう。思わず口からこぼれ落ちそうになるが、可哀想なほど震える唇は音を形作ることができず細い呼気を漏らすだけだ。血の気が消え失せた真っ白な細い指が、まるで縋り付くように柄杓の柄を強く握った。
ΩDimension――近日行われるアップデートで実装される新システム、およびそれに伴う楽曲追加があるという話は以前から耳にしていた。けれども、そのいくつもの楽曲たちを解禁した先に待ち構える楽曲――所謂『ボス曲』のジャケットを氷雪が担当するということを伝えられたのは、つい数週間前のことだった。
数年ぶりの新システム、その第一弾を飾るということもあってか、用意された楽曲とエフェクトはどれも非常に難しいものである。しかも、それを専用の特殊ゲージでクリアするという厳しい解禁条件が設けられているのだ。かなり力が入った企画だということは誰が見ても分かる。
その厳しい条件を全曲満たしてようやく挑戦できる――それもまだ片手で数えられるほどしか存在しない、レベル二〇の楽曲のジャケットを担当することなど、氷雪は欠片も考えていなかった。そもそも、自分がそのような大役を任されることなど想像すらしていなかったのだ。当たり前だ、彼女はそんな大それたことを考えるような性格ではないのだから。
企画が伝えられた当初は全く実感が湧かず、どこか他人事のように思っていた。しかし、こうして撮影準備を進める内に、事の重大さがじわじわと少女の胸を苛み始めた。ついには、部屋の片隅で一人震えるほどの不安と恐怖が彼女にのしかかったのだった。
何でわたしが。
繰り返し湧いてくる疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡る。憂いと恐れに支配された思考は、それに対する明確な解を弾き出すことができない。できるはずなどなかった。
今まで最高レベルの楽曲を飾ってきたのは、レイシスとマキシマが常だ。最近ではグレイスがその役割を担うことも増えているが、やはり多くはあの二人が務めている。そうでなくとも、古株である嬬武器の兄弟や紅刃、担当経験のあるニアとノアなど、自分よりもずっと相応しい者は大勢いるのだ。なのに、何で自分が――今まで低難易度の楽曲を主に担当してきた自分が今回抜擢されてしまったのか。何で。何で。どうして。疑問が頭を、心を巡り蝕んでいく。どれだけ考えようとも、答える者は今ここに存在しなかった。
どうにか落ち着こう、と考え吐き出した息は酷く細い。無理に整えようとした呼吸は浅くなるばかりで、過呼吸を起こしてしまいそうな状態だ。少女がどれだけ努力しようとも、震えが止まる気配は無い。華奢な彼女の身体と思考は、答えの見つからない疑問と奥底から込み上げる不安に支配されていた。
パキ、と高い音が空間に小さく響く。床に垂れた生地が凍り、音をたてたのだ。無意識に雪女の力が暴走している証拠だ。止めなきゃ、と頭に欠片だけ残った冷静な部分が言う。しかし、今の彼女に繊細なコントロールをすることなど不可能だ。パキパキと音が増えていく。室内の一角は真冬と変わらぬ温度まで下がっていっていた。
「あっ! 氷雪姉ちゃんだ!」
「氷雪姉ちゃーん!」
重く凍る空気を全て吹き飛ばしてしまいそうなほど明るい声が、座り込んで震える少女の名をなぞる。快活な音色に、氷雪の細い肩がびくりと大きく跳ねた。ずっと白い床に縫い付けられていた視線がこわごわとした動きで上がり、音の方向へとゆっくりと移動する。怯えの浮かぶ翡翠の瞳に、柔らかに揺れる長い蒼が映し出された。
「ニ、ア、ちゃん。ノア、ちゃん」
凍てついた細い喉が何とか紡ぎ出したのは、初等部に属する双子の兎の名だった。いつも元気に満ち溢れぴょんぴょんと飛び跳ねる彼女らは、今日も明るい笑顔を振りまいていた。少女の視線に気付き、兎たちは大きく手を振る。小さな手がぶんぶんと宙を往復する。
普段ならば学園指定の白に青のセーラー服を身に着けている二人だが、今日は違う。小柄な身は、雲のように真っ白な袖の無いワンピースで彩られていた。
シンプルなデザインながら、随所にあしらわれたフリルがボリューミーな印象を与える。たっぷりのフリルがあしらわれた胸元、その中央には瞬く星の輝きを模ったアクセサリーが存在を強く主張している。純白の布地はハイウエストで青いリボンによって絞られ、胸の下には金の刺繍が散る夜空色のリボンが垂れて揺れていた。トレードマークの青いリボンカチューシャは、今日は衣装と同じ白だ。兎耳がついたライムライトの靴は、白いリボンとファーが彩るサンダルに変わっている。背中からは、小鳥のような小さくふわふわとした羽が覗いていた。
「……天使さん、でしょうか?」
「そーだよ!」
「海賊の次は天使さんだよ!」
無意識にこぼした声に、二人の少女は楽しげに応えた。どうかな、とニアはファッションショーのモデルのようにその場でくるりと回る。健康的な肌が透けるほど薄いワンピースの裾と胸元を彩る星模様の青いリボンが、陽光に照らされる花のように鮮やかに開いて舞った。
「え、ぇ。とっても似合っていますよ。かわいい、です」
楽しげにはしゃぐ双子の姿に、不安で凍りついた少女の心にわずかに熱が灯る。安堵するかのように目をゆっくりと細め、氷雪は硬いながらも言葉を紡いだ。雪色の言葉に、青と白の天使はほんのりと頬を染め笑む。『可愛い』と褒めてもらえたのが嬉しいのだろう、えへへー、と面映ゆそうな笑声とともに紺碧の目が細められた。
「氷雪姉ちゃんもきれいだよ!」
「真っ白ですっごくきれいだよ」
真っ白お揃いだね、と兎たちはきゃいきゃいと楽しげに声をあげる。新しい衣装と久しぶりのジャケット撮影に気分が高揚しているのだろう、頬は赤く染まり響く声も少し高い。一段と元気に見えた。
双子兎のまっすぐな賞賛に、氷雪はありがとうございます、と礼を返す。しかしその声は未だ物音に掻き消されてしまうほど細いもので、どうにか微笑みを模ろうとした表情も強ばっていた。見るものに違和感を覚えさせる様相だ。
「……氷雪姉ちゃん、顔真っ白だよ?」
「大丈夫? 具合悪いの?」
ようやく異変に気づいた双子が、不安げな声で問う。そういえば寒いもんね、と青兎は顔を見合わせる。気温低下の原因は目の前にいる少女なのだが、それには気づいていないようだ。
眉を下げ心配そうに見つめる後輩の姿に、氷雪の肩がビクリと跳ねる。可哀想なほど怯えた動きだった。ぁ、ぅ、と小さな音が細い喉からこぼれ出る。
「い、いえ。ちょっと……緊張、して、しまって……」
どうにか平静を取り繕うとするが、答える声は酷く震えていた。指摘された通り、顔色は良いなどとは到底言えないほど青白い。こんな様子では、不調と判断されるのも無理はないことだ。
心配させてしまっている。困らせてしまっている。焦りが雪女の胸を巣食っていく。細い息を吐く唇は、もう色を失っていた。
「本当に大丈夫?」
「辛いならレイシス姉ちゃんに言ってくるよ?」
「だっ、だいじょうぶ、です。本当に、ただ緊張しているだけ……です、から……」
だいじょうぶですよ、と雪色の少女は言う。何度も繰り返す言葉は、目の前の二人に伝えるというよりも、己に強く言い聞かせているように見えた。白耳の兎たちは不安げに顔を見合わせる。うーん、と小さな口から悩ましげな音が漏れ出、ハーモニーを奏でる。鏡合わせのように、小さな頭がことりと傾ぐ。昼空色の髪が音も無く揺れた。
「じゃっ、じゃあ」
静まりかえった冷たい空間の中、声をあげたのはノアだった。姉に比べ少し気の弱いところがある彼女が大きな声を出すのは珍しいことだ。えっとね、えっとね、と呟きながら、ノアはきょとんとした様子の氷雪の前にしゃがみこむ。すぐ目の前、柄杓を握りしめる色を失った手に、己のそれを優しく重ねて包み込んだ。
「あのね、こうしてると安心するの」
ね、ニアちゃん、と少女は姉を見る。妹の言葉に、ニアはぱちりと瞬く。うん、と元気に答えると、同じようにしゃがみこみ、氷雪と片割れの手に己のそれを重ねた。
「ノアがこわいなー、とか、きんちょうするなー、ってドキドキしてる時はね、いつもニアちゃんがこうやってくれるの」
「ニアも、ノアちゃんが手をぎゅーってしてくれると元気になるの! ノアちゃんの手、すっごくあったかくって安心するんだー」
「だから、氷雪姉ちゃんもこうしたらちょっとだけでも安心できないかな、って……」
語るノアの声は次第に萎んでいき、丸い眉の端はどんどんと下がっていく。不安の色を浮かべた瑠璃が、天河石をじっと見上げる。大丈夫だろうか。少しでも助けになれないだろうか。迷惑ではないだろうか。幼い彼女のそんな心優しい気遣いが、氷雪には痛いほど伝わってきた。
「……ありがとう、ございます」
色を失った唇が、二人の天使に礼の言葉を紡いで贈る。心なしか、強張っていた声はほんの少しだけ解けたように聞こえた。
響きに反し、氷雪の心はどんどんと淀み沈んでいく。こんな小さな子に気を遣わせるなんて。迷惑をかけるだなんて。自己嫌悪がチクチクと胸を刺す。二人分の温かさに包まれているはずの彼女の手は、冷えるばかりだった。
「――なんで、わたしが」
数え切れないほど繰り返した問いが、小さな口からこぼれ落ちる。数拍、無意識の失言に気づき、氷雪は不安色に染まった目をはっと見開く。青く凍りついた顔が、おそるおそる上げられる。見上げた先には、きょとんとした二対の青があった。降り始めの雪のように微かなそれは、兎の天使たちの耳に届いてしまったらしい。さぁ、と血の気が引いていくのが己でも分かる。常磐の瞳が急いで床へと向けられた。
「氷雪姉ちゃん?」
心配げに問う兎たちの声に、雪女は可哀想なほど震える。聞かれてしまった。こんな情けない言葉を、こんな小さい子たちに聞かれてしまった。ピシ、と空間が再び冷たい音を鳴らした。
「氷雪姉ちゃん」
ニアが少女の名を呼ぶ。白い着物に包まれた細い身が更に縮こまった。凍りついてしまったような動きだった。氷雪姉ちゃん、と揃った双子の声は、そんな彼女を包み込み温めるようなとても優しいものだ。
「あのねあのねっ、何か悩んでるんだったらニアたちに言ってみない?」
「えっと、人に言ったらちょっと楽になるかもしれないよ?」
「絶対秘密にするから!」
真摯な二対のアズライトが、不安に揺れるエメラルドを見つめる。まあるく開かれた星空色には、少しでも力になりたい、という力強い願いが浮かんでいた。あまりにもまっすぐな視線に、萌葱の目がぱちぱちと瞬く。白い喉がひくりと動いた。
「……わたしが」
ほろり。凍った唇が解ける。白に近いそれは、怯えを孕み震えていた。可哀想なほど小刻みに揺れる唇が、どうにか言葉を紡ぎ出していく。
「わたしが、わたしなんかが、ボスでいいのかな……、って」
こんなにすぐ緊張して、力もコントロールできなくて、部屋の隅で一人で震えるような、こんな、ただの雪女のわたしが、『ボス曲』なんて大役を。
恐怖で冷え切った言葉がぽろりぽろりとこぼれていく。音を吐き出す度に、視界がぼやけていく。浅瀬色の瞳に、水が膜張っていく。表面張力が限界を超えこぼれ落ちた雫は、すぐに凍りついてしまった。丸い氷が硬い床を転がっていく。細かな氷粒がいくつも落ちていく音が三人の間に響いた。
淀む胸の内全てを吐露し、少女の胸にわずかに凪が訪れる。しかし、嫌悪の情がそれを全て塗り潰し、ぐちゃぐちゃに掻き乱していった。こんな小さい子に、こんなに弱い、みっともない姿を見せるだなんて。きっと呆れられてしまう。愛想を尽かされてしまう。嫌われてしまう。こんこんと湧き出す負の感情が、細い身を押し潰さんばかりに襲いかかった。
カタカタと細かに震える手に重なった小さな手が、力強くぎゅうと握られる。まるで熱を分け与えようとしているようだった。沈みゆく心を、柔らかな温度が一気に引き上げる。
「大丈夫だよ!」
「今日の氷雪姉ちゃん、すっごくきれいですっごくかっこいいもん!」
キラキラと輝く星空色二対が、川底色を射抜く。少女らの声は、瞳は、自信と元気に満ち溢れていた。二人の言葉は主観的で、決して論理的なものではない。けれども、雪すさぶ少女の心を一気に照らし出し晴らすような勢いがあった。
「でも、やっぱり最初は緊張しちゃうよね」
ねー、と双子星は顔を見合わせて苦く笑う。ほんのりと染めた頬には羞恥が薄く乗っていた。
そういえば、この二人もつい数ヶ月前に初めて『ボス曲』の看板を背負ったのだった。けれども、筐体上で盛大に発表されたジャケットの二人は、元気いっぱいの天真爛漫な笑顔をしていたではないか。意外だ、とぱちりと瞬きをする。目の前で笑う双子の兎たちはいつだって元気で、いつだって自信満々で、どんなときでも明るく笑っているのに。そんな彼女たちでも、こんな弱い己のように緊張するのだろうか。
「ノアたちも上手くできるかなーって怖かったけどね、レイシス姉ちゃんが『大丈夫デスヨ』って言ってくれてね」
「『ワタシも最初はとっても緊張しマシタ』って教えてくれたの」
二人の言葉に、小さな口から、ぇ、と言葉が溢れる。まさかあのレイシスが、と雪色の少女は大きく目を見開いた。
レイシスはこの世界の看板とも言える、常日頃最前線で活躍している少女だ。多くの『ボス曲』の看板を背負ってきたのも彼女である。いつだって朗らかで、女神のように慈愛に満ちていて、自分をまっすぐに信じている、皆の憧れの女の子。そんなレイシスが撮影で緊張しただなんて、信じられなかった。
「あっ、グレイスちゃんも緊張してたーってオルトリンデ先生が言ってた」
「グレイスさんもですか……?」
続けて告げられた言葉に、氷雪は思わず驚きの声を漏らす。耳に飛び込んできた情報は、到底信じられないものだった。
グレイスという少女は芯の通った、いつだって自信に満ち溢れたな子だ。少なくとも、交流の少ない氷雪にはそう映っている。そんな彼女が緊張をするだなんて、冗談のように聞こえる。けれども、情報の出処は彼女をずっと隣で見てきたあの教師なのだ。嘘ではないだろう。
「それ聞いたら安心したの」
「皆同じなんだなー、って」
だからね、と兎は声を揃える。重ねた手に力がこもる。紅葉のような可愛らしい手が、細く白い手を包み込む。今の氷雪は雪女としての力が暴走している状態だ。周囲の空気はもちろん、彼女自身も雪のように冷たくなっている。このように触れていては、寒いなんて言葉では済まないに決まっている。下手をすれば凍傷を負ってしまう危険性もある。けれども、双子兎はその華奢な手をしっかりと握りしめた。
「氷雪姉ちゃんが緊張するのも一緒だよ!」
「皆と一緒だよ! 普通のこと!」
だから、大丈夫だよ!
明朗な二重奏が冷たい空間に響き渡る。星きらめく瞳が大きな孤を描き、色を失ったかんばせへと温かな笑顔を降り注ぐ。
太陽のような声と表情に、涙に濡れた水宝玉が瞠られる。水底に沈みゆこうとしていた美しい緑の瞳が、ゆっくりと透明度を取り戻していった。眦から透明な雪がはらりと舞う。
皆一緒。普通。天使たちが高らかに謳う言葉が、渦巻く重い感情で潰れかけた心をそっと掬い上げる。
本当なのだろうか。心の暗い部分が疑念の声をあげる。しかし、ストンと素直に心に落ちて溶けていく言葉でもあった。当たり前だ、『ボス』なんて大役を初めて担うだなんて、誰だって緊張するだろう。何しろそのイベントの看板であり、企画を象徴するものなのだ。大きな責任感が押し寄せてくるのも、役目が全うできるのかと心細くなるのも、きっと『普通』のことなのだ。目の前の当事者が――緊張や不安といったことに無縁に見える爛漫な少女たちが言うのだから、本当だろう。彼女らが気休めの嘘を吐くなど、欠片も思えなかった。
それにね、とニアは握った手をそっと撫でる。冷え切った手をなぞる姿は慈しみに満ちていた。それこそ、天から舞い降りた天使のような。
「レイシス姉ちゃんたちが適当に決めるはずないもん!」
「きっといっぱい考えて、氷雪姉ちゃんに決めたんだよ」
「氷雪姉ちゃんがいいんだよ!」
「氷雪姉ちゃんじゃなきゃだめなんだよ!」
ねっ、と双子は声を揃えて語りかける。寄せ合うように小さな頭が鏡映しに傾ぐ。床についてしまいそうなほど長い青髪がさらりと揺れた。
一生懸命紡ぎ出された言葉たちに、少女は目を瞠る。ほんのりと紅を取り戻しつつある唇がぽかんと開かれる。驚愕をありありと示していた。
自分でなければいけないだなんて、考えたこともなかった。決まったことは決まったことで、そこにあるはずの理由など考えたことがなかった――考える余裕など、繊細な少女は持ち合わせていなかった。
あのレイシスが――誰よりも世界を愛し、誰よりも尽力するあの少女が、意味の無い選出をするわけがないのだ。答える者がいない今真意を知ることはできないが、そこには確かな理由が存在するはずだ。氷雪でいけない理由が。
「……そう、なのでしょうか」
「そうだよ!」
依然不安に染まった声に、快活な声が二つ重なる。確信を持った響きをしていた。青く長い睫毛に縁取られた目が弧を描く。満面の笑みが緊張と不安に冷えた少女を照らし出した。
「それに、氷雪姉ちゃん一人じゃないよ」
「ニアたちが一緒だよ。三人一緒なら、きっと大丈夫!」
一回り小さい柔らかな手二対が、爪まで凍りきった手を握りしめる。憂いに揺れる少女に元気を、勇気を分け与えようとするような光景だった。
「……そう、ですね」
二人が一緒にいてくれますものね、と氷雪は眩しげに目を細める。こぼれ落ちた声からは、緊張に縛られた硬さや不安を孕んだ冷たさは薄れていた。常の彼女が紡ぎ出す、柔らかで穏やかな響きが帰ってきていた。
そうだ、一人きりではない。ニアとノアがいるのだ。担当する楽曲は違えど、二人も今回の『ボス曲』を背負う役目だ。同じ立場の人間が、共に在ってくれる。寄り添ってくれる。どれだけ心強いことだろう。『一緒』の一言が、少女の心を掬って引き上げる。笑顔と激励という陽光に照らされ、柔らかなそれに絡みついた呪縛が少しずつ剥がれていった。
「うん!」
元気いっぱいの二重奏が冷えた空間に響く。冬の寒空の下のような冷気は、いつの間にか随分と和らいでいた。千々に乱れた心が落ち着きを取り戻しているのだ。暴走した力は、ようやくその姿を隠し始めた。
重なった小さな掌が離れていく。指先が赤く染まった紅葉手が、胸の前でぎゅっと握りしめられる。えいえいおー、と元気な声とともに、握り拳が天に向かって掲げられた。
ぉ、おー、とつられるように氷雪も小さく続く。色が失せた手に、かんばせに、ほんのりと朱が灯った。
控えめながらも一緒にやってくれた嬉しさにか、双子の天使はにこりと満開の笑みを咲かせた。おー、ともう一度声があがる。先ほどよりも一回り大きな、部屋の外まで聞こえてしまいそうな合奏だ。
青兎たちがすくりと立ち上がる。丈の短いワンピースの裾がふわりと舞う。たなびく白と青を追い、視線がゆっくりと持ち上がる。潤んだ燐灰石に、差し伸ばされた白く細い腕二つが映った。
「さっ、行こ!」
「一緒に行こう!」
小さな手を目いっぱいに開き、ニアとノアは腕を伸ばす。ソプラノボイスが重なって可愛らしい音色を奏でた。
常磐がゆっくりと瞬く。柄杓を固く握りしめていた右手がゆっくりと解けた。白い着物に包まれた細い腕が、こわごわとした様子で伸ばされる。救いの光を求めるように上がったそれに、二つのたなごころが重なった。
小さな手が細い手を抱きとめ、握りしめ、ぎゅっと引く。わっ、と小さな声をあげながら、氷雪はふらつきながらも立ち上がった。ぺた、と素足が床に触れる音が空間に落ちる。
自分たちより頭半分上の若葉を見上げ、露草が曲線を描く。空いている手が天に向かって大きく上げられた。
「撮影頑張ろうね!」
「いっぱい綺麗に撮ってもらおうね!」
もうすぐ行われる撮影に思いを馳せる二人は、元気いっぱいに言う。『撮影』という単語に、解けた身が一瞬強張る。足下から這い寄る緊張を振り払うように、少女はふぅと細く息を吐いた。
大丈夫だ。レイシスが選んでくれたんだから。二人がいるんだから。一人じゃないんだから。
双子たちがくれた言葉を心の内で唱える。胸の内を覆う黒い靄がスッと晴れていく気がした。
「……はい、頑張りましょう」
パタパタとサンダルが床を打つ音に、柔らかな声が混じる。温度を取り戻しつつある空間に溶けて消えそうなそれは、兎たちの耳にしっかりと届いたようだ。真夏に咲くひまわりのような大輪の笑顔がぱっと咲いた。
双子兎と雪女は手を繋ぎ駆けていく。光に照らされた撮影ブースに人影が三つ飛び込んだ。
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濡れ髪に触れて【ライレフ】
濡れ髪に触れて【ライレフ】
オニイチャンは絶対に髪をろくに乾かさないという幻想と弟君はなんかかんか世話焼きだという幻想と髪に触るという性癖が合わさった結果がこれだよ。
冷たい空気が肌を撫ぜる。常ならば身を縮こませるようなそれは、長風呂で火照った身体には心地良く感じた。ほぅ、と思わず息が漏れ出る。熱を孕んだ呼気は、暗い廊下に溶けて消えた。
肺の空気を吐き出した喉が渇きを訴える。長時間の入浴を終えた身体は水分を欲しているようだ。水でも飲もう、と烈風刀はキッチンへと足を向ける。一歩踏み出したところで、少年の動きは止まった。
照明が落とされ闇に包まれた廊下の中腹、リビングダイニングに続くドアにはめ込まれたガラスからは、光が漏れ出ていた。部屋に人がいる、もしくはいた証拠だ。夜も更けたこの時間、リビングに誰か――唯一の同居人で兄である雷刀がいることは少ない。大方、自室に引き上げる前に訪れ、そのまま電気を消し忘れたのだろう。何事においても大雑把な彼は何度注意しても改善しないのだ。整った若葉色の眉が険しげに寄せられた。
足早に廊下を歩く。さほど広くはない住居では、目的の場所へはすぐに辿り着いた。リビングの扉、細かい傷のついたノブに手を掛ける。冷えたそれを回すと、軽い音をたててドアが開いた。
扉の先の空間には、芝居がかった男女の声が響いていた。おそらく、音の発生源はテレビだろう。この時間は連続ドラマをやっていたはずだ。テレビまで点けっぱなしにしていったのか、と細い眉が更に寄せられる。白い眉間に深い皺が刻まれた。
ダイニングを通り過ぎ、リビングに辿り着く。壁際に置かれたテレビには、手を繋ぎ道を行く男女の姿が映し出されていた。向かい側、二人掛けのソファへと視線を移す。予想に反して、そこには人影があった。眼前に広がる光景に、天河石の瞳が瞬いた。
ソファにはこの状況を作ったであろう犯人――雷刀が座っていた。普通ならば液晶画面に向けられているであろう顔は俯いている。物語の顛末を見守るべき紅緋の目は閉じられていた。背もたれにもたれかかっているはずの背は丸まり、腹の前で腕を組んだ状態で前傾姿勢になっている。かくん、かくん、と丸まっては伸ばされる首には、白いタオルが掛けられている。きっと、風呂を上がってからそのままにしているのだろう。だらしのない彼にはよくあることだ。
普段はぴょこぴょこと跳ねた癖のある髪は、どこかまっすぐに下りて見える。沈んで色濃く映るそれは濡れていることを示していた。髪を乾かしていないのがありありと分かる。洗面所にドライヤーを置いているというのに、この片割れはきちんと髪を乾かすことが少ない。今日もそうなのだろう。
はぁ、と溜め息一つ。テーブルの上に置かれたリモコンを手に取り、テレビの電源を落とす。内蔵スピーカーから流れる軽快な音楽は止み、鮮やかな色を映し出す液晶は黒に包まれた。リモコンを定位置に戻し、今度は兄の肩に手を掛ける。そのまま、加減することなく船を漕ぐ身体を揺らした。
「雷刀、起きてください」
ぐらぐらと揺れる身体がビクンと大きく跳ねる。んぁ、と常よりもいくらか低い声が聞こえた。呻き声とともに、曲がった首がゆっくりとまっすぐに戻る。伏せられた顔が上がり、緩慢な動きでこちらを向いた。
「んー……? あれ? れふと?」
己の名を呼ぶ声はふにゃふにゃとして芯を持たず、どこか舌足らずだ。半分ほどしか開かれていない紅玉からは普段の澄んだ輝きは失せ、けぶった色をしている。眠っていたのがよく分かる様子だった。唸りとともに、緩く握られた拳が目元を擦る。猫が顔を洗う姿によく似ていた。
「寝るならちゃんと部屋で寝てください。というか、その前に髪を乾かしてください」
「えー……」
応える声は先ほどよりもはっきりしている。けれども、返事は淀んだものだ。面倒臭い、と声色が明確に語っていた。
目元を擦っていた拳が開き、いつもより色の沈んだ緋色の頭へと伸ばされる。節が目立つ指が、湿り気の残る髪の毛を一房つまむ。捩るように指先が動く。んー、と疑問符がついた声が静かになったリビングに落ちた。
「そこそこ乾いてんじゃん」
「どこがですか」
ピンとつまんだ髪を弾き、ケロリとした顔で雷刀は言う。対面する烈風刀の声と顔は、その正反対に渋いものだ。呆れを多分に含んだ声とともに、少年は目の前の頭へと手を伸ばす。指先から伝わる温度は冷たく、普段のふわふわとした触り心地は無い。じとりと湿ったものだ。やはり乾いてなどいない。自然乾燥で完全に乾かすことなど無理に等しいのだから当たり前だ。薄い唇が苦々しげに引き結ばれた。
「ちゃんと乾かしてください」
「めんどい」
「『めんどい』ではありません。風邪をひきますよ」
ここ数ヶ月高かった気温は徐々に落ち着きを取り戻し、最近では空調が必要ないほど快適なものだ。夜になると寒さを覚えることもあるくらいである。そんな中髪を乾かさずにいるなど、風邪の原因になるかもしれないではないか。日々の運営業務はどんどんと量を増し、忙しくなっているのだ。こんな時にくだらないことで体調を崩されては困る。
面倒臭そうに細められた柘榴石がぱちりと瞬く。座面に放り出されていた腕が、首元のタオルを掴んだ。柔らかなそれが音も無く首から抜ける。
「じゃあ、烈風刀が乾かして」
はい、と目の前にタオルが差し出された。同時に、上がっていた顔が軽く伏せられる。まるで撫でてくれと頭を差し出す犬のようだ。
いきなりの行動に、藍玉の瞳が幾度も瞬く。ようやく意味を理解して、丸く開かれた目がうんざりとした様子で眇められた。
自分でやるのが面倒臭いから乾かして、なんてのたまうなど、どれだけものぐさなのだ。大体、高校生にもなってそんなことを人に、それも双子の弟に頼むなどふざけている。行動がまるきり幼い子どものそれだ。この歳でやるようなことではない。
はぁ、と重く息をこぼす。伸ばされた手にあるタオルを乱暴に奪い取り、目の前の頭に放り投げるように被せる。手を大きく開き、ぐわと指を曲げる。そのまま白に包まれた頭に立て、大きく動かした。
「いってぇ!」
「黙っていてください」
あがった悲鳴を冷たく切り捨て、碧はガシガシと手を動かす。兄の言葉に従うのは癪だが、こんなふざけたことで風邪をひかれるよりもずっとマシだ。今月はアップデート作業が詰まっているのだ。そんな時に体調を崩され、数少ない戦力が失われてしまうような事態は避けるべき事項である。甘いな、と内心自嘲する。どんなに理屈をこねくり回そうと、このだらしのない片割れを甘やかしていることには相違ない。
その代わり、加減などしてやらない。頼んだことを後悔しろ、と暗い念を込めつつ、少年は腕を動かす。思いやりなど、今の烈風刀には欠片も持ち合わせていなかった。
柔らかな布地が動きにあわせて形を変える。ふわふわとしていたそれが、だんだんと重みを増していく。髪が有している水分がタオルに吸われているのだ。そのままわしゃわしゃと拭いてやる。髪と布が擦れる音が静かな空間に落ちた。
苦しげな唸りがだんだんと消えていく。ようやく観念したか、と布地の下にある顔をちらりと見やった。
タオルの下に隠れた真紅の瞳は気持ちよさそうにきゅうと細められ、緩い孤を描いていた。痛みに横に引かれていた口元も、どこか緩んでいる。頭を撫でられて喜ぶ犬を思わせる光景だった。
予想外の表情に、浅葱の目が軽く見開かれる。まあるいそれがぱちぱちと幾度も瞬いた。
こんなにも乱雑に拭いているというのに、このような顔をするなど思ってもみなかった。そんなに気持ちの良いものなのだろうか、と手を止めることなく考える。髪の手入れは昔から己で全てやっており、他人に髪を拭いてもらうことなどほとんど経験したことが無い。想像すらつかない。
乾いていた白がすっかり湿って重くなった頃、少年はようやく手を離した。形の良い頭からタオルを引いて取る。布に包まれていた髪は、強風の中歩いたかのようにボサボサになっていた。代わりに、先ほどよりもずっと色が明るくなり、毛先も軽くなっている。常のように跳ねているのがその証拠だ。
うー、と唸りとともに兄は目を開ける。赤紅が眩しげにぱちぱちと瞬いた。膝の上で揃えられていた手が、再び頭へと向かう。ぐしゃぐしゃになった髪を触ると、おぉ、と感心したような声をあげた。
「乾いたな。あんがと」
へらりと笑い、雷刀は礼を言う。そのまま立ち上がろうとする彼の頭に手を乗せ、ぐっと押した。わ、と驚愕の声とともに、起こされた身体が座面へと戻る。柔らかなスプリングが軽い音をたてた。
「何だよー」
「そのままでは駄目でしょう」
「いいじゃん。乾いたんだし」
「水分を粗方取っただけです。完全には乾いていません」
えー、と不満げな声があがる。開いた口は疎ましげに口角を下げていた。普段はぱっちりと開かれた丸い目は、今は瞼が軽く降りている。うたた寝をしていたほどだ、もう眠気が限界に近いのだろう。それでも、このまま部屋に帰してやるほど弟は甘くなかった。まだ湿った状態なのに、眠らせるわけにはいかない。ここまできたら最後まで乾かしてやろう。少しの使命感が少年の心に湧く。
待っていてください、と鋭く告げ、烈風刀は足早にリビングを出る。湿気の残る洗面所に飛び込み、棚からドライヤーを引っ掴む。パタパタと忙しない足音をたて、急いで居間へと踵を返した。
大人しくソファに座ったままの兄の横を通り過ぎ、ドライヤーをコンセントに繋ぐ。長いコードを引きつつ、目を擦る彼の前に立った。手元を見て察したのか、朱色の頭が無言で伏せられた。
手にしたドライヤーのスイッチを入れる。瞬間、ブオォと大きな音が小型の躯体から発せられた。
吐き出される温かな風を、乱れた髪に吹きかける。大きく一房掴み、頭頂部から毛先に掛けてゆっくりとした手つきで風を当てていく。往復しながらしばらく当て続け、指先から湿り気が伝わってこないことを確認し、また一房掴んで風を吹きかけていく。乾かしながら、緋の髪を撫で梳かして整えていく。同じ動きを何度も何度も繰り返すにつれ、湿った感触はどんどんとふわふわとした柔らかなものへと変化していった。普段通りの触り心地に戻っていっていることに、小さな達成感が胸に芽生える。密かに口元を綻ばせつつ、碧は粛々と手を動かした。
最後の一房を乾かし終えると、今度はわしゃわしゃと全体を掻き乱しつつ、乾きにくい根元に温風を当てていく。生乾きの部分など作ってはいけない。やるならば最後までしっかりと、が己の信条だ。時折梳いて整えながら、少年は朱い髪に風を吹きかけた。
先ほどよりも丁寧な手つきに加え、温かな風を受けているからだろうか、雷刀の表情は先ほど以上に穏やかでとろけたものだった。赤い睫に縁取られた目は柔らかな孤を描き、口角は緩く持ち上がり、笑みを形取っている。幸色に満ちたそれに、温かな何かが胸の内に広がっていく。これだけ心地良さそうな姿を見ると、こちらまで良い気分になるものだ。
最後に全体に風を当て、サッサッと撫でて梳かす。長年放置された樹木のように方々に跳ねた髪は、どんどんと落ち着きを取り戻していった。これで完成だ。片手でドライヤーのスイッチを切る。暴風吹き荒れる音がピタリと止まった。
「乾きましたよ」
「おー」
言葉とともに小型機械を折りたたむと、感嘆に満ちた声があがった。雷刀は自らの頭に手を当て、さわさわと撫でる。癖のついた髪の毛が指に弾かれぴょこぴょこと揺れた。おー、とまた声が漏れ出たのが見えた。
「ふわっふわのさらっさら」
「ちゃんと乾かせばこうなりますよ」
当たり前のことに感心の音を漏らす兄の姿に、弟は呆れた声を漏らす。やはり髪を乾かしていないのか、と指で弾いて遊ぶ彼を眇目で睨めつける。かちあった紅玉髄が一瞬で気まずげな色に染まり、ばっと勢いよく逸らされた。どう見ても図星である。はぁ、とわざとらしく溜め息を吐く。う、と苦々しげな声が返ってきた。
「そういや、烈風刀の髪はいつもさらさらだもんな」
慌てた調子の声とともに、跳ねる赤髪から手が外れる。鍛えられた逞しい腕がこちらへと伸ばされた。胼胝の浮いた指が鮮やかな若草に潜り込み、そっと肌を撫ぜるように掻き分ける。手入れされた髪が音も無く揺れた。指通しを楽しむように、つややかな頭髪がさらさらと梳かされる。なぞる手つきは慈しみに満ちていた。
触れられる度に胸に満ちる温かな感覚に、少年は気付かれぬようほんの少しだけ瞼を伏せる。不機嫌そうに引き結ばれていた口元が、かすかに綻んだ。
しばしして、癖のある前髪に触れる指が静かに離れていく。流れていた穏やかな時はそっと終わりを迎えた。
「あんがとな、烈風刀」
そう言って、雷刀はへにゃりと相好を崩した。穏やかな孤を描く目元は普段よりも少しだけ下がっており、眠気を宿していることがよく分かる。証明するように、くぁ、とあくびが犬歯が覗く大きな口から漏れ出た。
「寝るなら部屋で寝てくださいよ」
「わーってるって」
二度目の弟の言葉に、兄はひらひらと手を振って応える。大きく開かれた口から再びあくびが漏れ出るのが見えた。
本当だろうか、と片割れを横目で見ながら、烈風刀はドライヤーのコードをまとめる。夜もだいぶ更けてきているのだ、明日に備えて己も早く眠らなければいけない。早く片付けてしまわないと、と少年は洗面所へと足を向けた。
「なーなー」
リビングのドアを開いたところで、背中に声が飛んでくる。首だけで振り返ると、そこにはソファの背もたれに腕を掛けてこちらを眺める朱の姿があった。眠気でとろけていた目には、何故か先ほどまではなかった輝きが宿っている。好奇心を前面に出した子どものような様相だ。
「今度はオレが烈風刀の髪乾かしたい」
眠たげな目元に反し、声は常のように元気に弾んだものだった。いいだろ、と少年は小首を傾げる。乾かしたばかりの茜色が、動きに合わせてさらりと揺れた。
「無理でしょう」
尋ねる言葉をバッサリと切り捨てる。そこに冷たさは無く、ただ淡々と事実を告げる響きをしていた。えー、と不満げな声が返される。だらりと垂れ下がった手がソファの背面をバタバタと軽く叩いた。
「僕はお風呂から上がったらすぐに乾かしています。貴方に乾かしてもらう機会なんてありませんよ」
「じゃあ、明日だけ乾かさないで」
「何で貴方のためにそんなことをしないといけないのですか」
身勝手な要求に碧は険しげに川底色の目を眇める。髪が濡れたままで過ごすなど、余計な冷たさと不快感を覚えるだけの愚行だ。何で兄の欲求を満たすために己がそんな思いをせねばならないのだ。澄み渡る浅海色に呆れとほんの少しの怒りが浮かぶ。瞳に宿った感情を読み取ってか、兄は小さな唸りを漏らす。未練がましい音色をしていた。
紅葉色の瞳が諦め悪く宙を彷徨う。数拍、丸いそれがぱっと見開かれた。尖っていた唇は解け、にぃと孤を描く。何かひらめいたのだろう。それも、ろくでもないことを。普段の経験から嫌でも分かった。
「じゃあさ、一緒に入れば解決だな!」
「は?」
元気に飛び出した言葉に、烈風刀はぽかんと口を開ける。漏れ出た音は怪訝さに満ちていた。やはりろくでもないことを考えていたようだ。理解しがたい言葉に、頭が軽い痛みを覚える。思わず顔を覆いそうになるのを必死に堪えた。
「一緒に入れば一緒に上がるだろ? そしたら烈風刀の髪濡れたまんまじゃん? そのままオレが乾かしてやれる」
キラキラと輝くガーネットは、名案だろう、と告げていた。どこがだ、とエメラルドがこれでもかと険しく細められる。髪と同じ色をした細い眉がぎゅっと寄せられた。
あまりにも無茶苦茶な提案だった。そもそも、高校生にもなって二人で風呂に入るなど普通ならあり得ない――そう、普通ならば。しかし、己たちの関係は『普通』から逸脱したものだ。今まで何度か経験がある以上、あり得ない、と切り捨てるのは少しばかり難しい。けれども、こんなふざけたことのために共に入るなどごめんだ。
「決まりなー。じゃ、おやすみ」
いつの間にか立ち上がりこちらへと歩み寄っていた雷刀がぽんと背を叩く。ちょっと、と反論をするよりも先に、言葉の宛先は暗い廊下に足早に消えた。開かれたままだった扉が、音をたてて急いで閉められる。もう声が届くことは無いだろう。
一人取り残された烈風刀は呆然とその場に立ち尽くす。あまりにも突然で、あまりにも勝手で、あまりにもふざけた行動だ。一方的に言い捨て回避する余裕すら与えなかった彼に、ふつふつと怒りが湧いてくる。ドライヤーのコードを握る手に力が込められる。ビニールに包まれたそれが寄せられ、端が軽くばらけた。
はぁ、と少年は息を吐き出す。非常に重々しい、怒りと呆れがふんだんに詰め込まれたものだった。
あの兄のことだ、明日は絶対に『一緒に入る』とごねるだろう。それこそ、幼子のように。忘れっぽいくせに、こういうことばかりはしっかりと覚えて声を大にして主張してくるのだから質が悪いったらない。
しかし、と少年は軽く俯く。重く苛烈な感情が渦巻く胸に小さな何かが顔を覗かせた。
普段は自分が世話を焼くばかりで、雷刀に何かしてもらうことなどほとんどない。先の行動が実際に行われるというのならば、これ以上になく貴重な機会だ。
つい先ほどまで眺めていた兄の顔が思い出される。髪を拭かれ乾かされる彼の表情はとても気持ちが良さそうで、幸いに彩られたものだった。他者に髪を手入れしてもらうことは、そんなに気持ちが良いのだろうか。まだ知らぬ温かな何かが、明日己に与えられるかもしれない。そう考えて、淡い何かが心に宿ったのは気のせいではないだろう。
胸の内に芽生えたそれを振り払うように、碧の少年は強く頭を振る。せっかく整えた髪がバサバサと音をたてて乱れた。
はぁ、とまた溜め息が漏れ出る。疲れが滲んだものだった。そうだ、他人の髪を乾かすなんて慣れないことをして疲れているのだ。だから、こんな馬鹿なことを考えてしまう。きっとそうだ、と少年は一人頷く。己に言い聞かせるような動きだった。
「……早く寝なければ」
息を吐いたまま開かれた口から、自然と言葉が漏れ出る。明日も学校が、運営業務があるのだ。しっかりと睡眠を取り、忙しない日常へ備えなければならない。こんなところでドライヤーを握りしめて突っ立っているわけにはいかないのだ。
はぁ、とまた溜め息一つこぼし、烈風刀は扉横のスイッチに手を伸ばす。プラスチックのそれを軽く押さえると、部屋はすぐさま暗闇に満たされた。そのままノブを握り、少年は扉を開けて廊下へと出た。
夜闇に包まれたリビングには、ただ静寂が広がっていた。
畳む
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】
教えて!【ニア+ノア+嬬武器兄弟】7年前(≒ボで二次創作始めた頃)に書いたほぼ完成済みのファイルが発掘されたのでリライトしたもの。3000字ちょいが9000字弱に膨れ上がって笑っちゃったな。
付き合ってないつもりで書いたけど同生産ラインで腐向けを生産しているので色々と怪しい。ご理解ください。
弟君にお勉強教えてもらうニアノアちゃんと弟君にお勉強教えてもらうオニイチャンの話。II時空。
ホームルームが終わると同時に、教室は声に満ち溢れる。帰ろうと鞄を引っ掴む者、部活に行こうと手早く準備を済ませる者、友人と歓談しようと席を移動する者。狭い教室は人が行き交い、声が飛び交い、音が響き合っていた。
教科書、参考書、ノート、ペンケース、弁当箱。日々の道具を鞄に詰め、烈風刀は席を立つ。今日の放課後も運営業務が待ち構えているのだ。手早く作業に取りかかり早く帰るためにも、急いで行動すべきだ。
「烈風刀ー、さっさと行こーぜ」
大きな声が己を呼ぶ。声の主である雷刀は、教室の入り口でひらひらと手を振っていた。肩にかけられた鞄はいっそ不自然なほど薄く、腕と身体の間でぺしゃりと潰れている。おそらく、弁当箱ぐらいしか入っていないのだろう。勉強の意思が全く見えぬ姿に思わず眉をひそめる。息を一つ吐いて、少年は大股で彼の元へと足を向けた。
「レイシスはどうしました?」
「日直の仕事で職員室行くから先行ってて、だってさ」
姿の見えぬ桃の少女の行方を尋ねると、端的な言葉が返ってくる。だからさっさと行こ、と一声。兄は本館に続く廊下へと飛び出した。一歩遅れて、弟も続く。廊下に響く忙しない足音の中に、二つ新しいものが飛び込んだ。
「れーふーとー!」
大きな声が己を呼ぶ。背中から飛んできたそれに、名を呼ばれた少年は急いで振り返る。碧の視線の先には、高等部の生徒の中を縫って飛ぶ子ども二人の姿が映った。真っ白な制服を着た生徒たちの間を、星空模様の青が跳びはねる。ライムグリーンの靴が床を踏みしめる軽快な音が高く響いた。
「え? ニア? ノア?」
「珍しくね?」
二匹の兎の登場に、兄弟は二人ともぽかんと口を開けた。二人の様子など気にすることなく、少女たちは跳ね回る。
彼らの前に現れたのは、常日頃から仲良くしている初等部の双子、ニアとノアだ。彼女らが自分たちに寄ってくることは珍しいことではない。しかし、時間が問題だった。
高等部の授業日程は今終わったところだが、初等部のそれはもう数時間も前に終わったはずだ。遊びたい盛りの彼女らが遊び相手を求め学校にいること自体はよくある。しかし、高等部教室棟にまで、しかも授業が終わってすぐの時間に来ることなど、今まで一度も無かったはずだ。一体どうしたのだろうか。何かあったのだろうか。不安が少年たちの頭をよぎる。
ぴょんぴょん跳びはねる少女たちは、ようやく求めた少年の元に降り立った。最後にぴょんと跳ね、ニアは勢いよく烈風刀に飛びつく。突然のそれを、反射的に受け止める。えへへー、と嬉しそうな笑声と、ニアちゃん危ないってばぁ、という高い声が少年の耳をくすぐった。
抱えた小さな身体を丁重に地面に下ろす。そのまま屈みこみ、並んで立つ少女二人と視線を合わせた。
「突然飛びついたら危ないでしょう。それに、廊下を飛んではいけないと言っているではありませんか」
紺碧の瞳を見つめ、少年は諫める言葉を紡いだ。常々言っていることだが、楽しいことが大好き、飛ぶのが大好きな彼女らはいつも忘れて跳びはねてしまうのだ。歩きやすい靴を与えて以後、改善の兆しは見えているが、やはりテンションが上がるとぴょんぴょんと跳びはねている姿をよく見る。外ならまだしも、屋内、それも狭い廊下で跳ねるだなんて危ない。天井や蛍光灯に頭をぶつけては大変だ。
「はーい」
「ごめんなさい……」
しょんぼりした声が二つ返ってくる。お揃いに八の字に下がった眉と気まずげにこちらを見る蒼い瞳から、反省の意は存分に汲み取ることができる。次から気を付けましょうね、と優しい眼差しで星空色を覗き込む。沈んだ表情が一転、ぱぁと明るく輝きだした。
「それにしても、こんな時間にどうしたのですか?」
首を傾げる烈風刀に、あのねあのね、とニアとノアは鏡合わせのように背に担いだリュックサックを下ろす。余った長い袖のまま器用に中を漁り、一つの冊子を取り出した。掲げるようにもたれたそれの表紙には、『ドリル 算数』とポップな書体で書かれていた。
「図書館でみんなとお勉強してたんだけど、分からない問題があってね」
「だかられふと、教えて!」
ドリルを抱えたまま、双子兎は目の前の少年をじぃと見つめた。まんまるな青が二対、少年を射抜く。ちょっといいですか、と断りを入れ、少女らが手にしたドリルを受け取る。ぱらぱらとページをめくると、癖のついた場所が開いた。何度も書いては消しての跡が残ったそのページに、彼女らの努力がうかがえる。
首だけで後ろを振り返る。後ろに立ってこちらを覗き込んでいた兄は、全てを察したのか笑って手を振った。勉強頑張れよー、と呑気な声とともに、軽快な足跡が一つ遠ざかっていった。廊下を走らない、と飛ばした声は、角を曲がった背には届かない。
こほん、と咳払い。不安げにこちらを見つめてくる双子に、少年は柔らかな笑みを向ける。
「いいですよ。僕なんかでよければ」
少年の返答に、ラズライトの瞳が四つ輝き出す。やったー、と兎たちはニコニコと笑顔を浮かべ、ハイタッチをする。よほど嬉しいらしい。勉強意欲があることはいいことだ、と碧は一人小さく頷いた。
「今の時間図書室は混んでいるでしょうし、ここの教室でやってしまいましょうか」
そう言って、出てきたばかりの教室を指差す。廊下から見える室内は、ほとんどの生徒は退出したのか机と椅子ばかりが見える。残っている生徒も数人程度のようだ。隅の席を借りれば邪魔にはならないだろう。
はーい、と元気な返事が二つ。言うや否や、ニアとノアは足早に教室へと飛び込んだ。腰を上げ、烈風刀もその後ろに続く。高等部の教室は物珍しいのか、二人は瞳を輝かせて室内を見回していた。
こちらですよ、と手招きしながら、人の少ない窓際の席へと足を運ぶ。後ろから四番目、兄の席に鞄を置き、隣り合う机を一つ寄せてくっつける。前の席の椅子をくるりと回して後ろ側にし、三人で机を囲む形を作った。二人は座面に手を付きどうにか乗り上げる。初等部の二人には、高等部の椅子は大きいようだ。ぶらぶらと地に着かず垂れた足を所在なさげに振っていた。
ドリルを机に広げる彼女らを横目に、碧の少年は鞄からノートとペンケースを取り出す。一番最後のページを一枚ちぎり取り、愛用のシャープペンシルとともに机上に置いた。
「最初の部分は分かりますか?」
「分かるよ!」
「けど、ここの高さが分からないの」
ニアの言う通り、最初の問は回答欄が埋められていた。しかし、ノアの言葉通り続く部分が分からないのか、後ろの方は空欄だ。余白部分にいくつもの計算式が書かれていることから、彼女らがどれほどこの問題に苦戦しているのかが伝わってくる。
問題を読み込み、烈風刀は唇に指を当てる。どうもこの問題は、わざとややこしい書き方をしているように見える。意地の悪い問題だ。さて、どうやって教えようか。考えながら、少年は紙面に書かれた図形をちぎったノートに書き写す。大きめに書いたそれを、二人の前に差し出した。
「ここの高さは、こちらの高さから底辺を引いたものですね?」
図形に補助線を書き込み、より分かりやすいものへと変化させていく。シャープペンシルで数字を書き込むと、蒼い双子はこくこくと頷いた。求めたい箇所を何重にもなぞって目立たせ、斜線を引いて区別を付ける。
「では、こちらの三角形の高さはこの二つの図形の高さを足したものになります」
「……てことは、五センチ?」
首を傾げながら問うニアに、少年はニコリと笑いかける。正解です、と続いた言葉に、彼女はやったぁ、と嬉しそうに声をあげた。二本の鉛筆が紙面を走り、図形に少年と同じように線と数を書き入れていく。
「じゃあここは四センチだから……、二十平方センチメートル……で、いいの?」
負けていられないとばかりに、ノアも解を求める。ことりと首を傾げ、不安げにこちらを伺ってくる少女に、少年は優しい笑みを向けた。
「二人ともすごいですね。さぁ、あとは公式を使うだけですよ」
念には念を押して、図形の下に使うべく公式を書き入れる。そんなもの見ずとも、二匹の兎は真剣に問題を睨み、余白に計算式を書いていった。カリカリと鉛筆が紙の上を走る小さな音が、放課後の教室に積もっていく。しばしして、二人分のそれは息を合わせたように同時に止まった。
「できたー!」
「れふと、これで合ってる?」
数時間かけて闘ってきた問をようやく解き終わり、ニアは元気な声をあげた。控えめにドリルを差し出し、ノアは求めた解の正否を問うてくる。不安げな声に反して、その目は難問の解を一度でも導き出したという高揚感にきらめいていた。
「……うん、正解です。二人ともよくできました」
埋まった回答欄を眺め、烈風刀は大きく頷く。ぱちぱちと手を叩き、賞賛の言葉と拍手を贈ると、二人はぱぁと満面の笑みを咲かせた。鉛筆を放り出し、互いの手を取り、やったね、と喜ぶ姿は可愛らしいものだ。きゃいきゃいとはしゃぐ少女らを、少年は愛おしげな目で見つめた。
「れふとれふと! 頑張ったから頭撫でて!」
筆記用具と紙切れを鞄にしまっていると、向かい側に座ったノアがはしゃいだ声をあげる。身を乗り出した少女、その形の良い丸い頭が目の前に差し出される。蒼い髪を飾るリボンカチューシャが揺れた。
「ニ、ニアちゃんずるい! ノアも!」
姉の様子に、少年の隣に座った妹も焦った様子で頭を差し出す。俯かれた顔は、少しだけ夕焼けに染まっていた。
頭を二つも向けられ、碧はぱちぱちと瞬きをする。二人の頑張りは確かなものだ。しかし、その頑張りを褒め称えるのは頭を撫でるだけでよいのだろうか。そもそも、歳はかなり離れていても彼女たちは女の子だ。男に頭を触られて気持ち悪くないのだろうか。様々な疑問が頭をかけていく。それらは、れふとー、と催促する声に掻き消された。
逡巡の末、烈風刀は差し出された頭に手を伸ばす。負担をかけないようにそぅっと手を乗せ、優しく優しく、髪が乱れてしまわないよう丁寧に撫でてやる。おそるおそるといった手つきだが、少女らにとっては満足のいくものだったようだ。えへへ、と歓喜に満ちた笑声が二つこぼれ落ちたのが聞こえた。
大きな手が、蒼い頭からそっと退いていく。求めたご褒美が終わりを迎えたことを悟ったのか、少女らは同時に顔を上げた。そこには、真夏の太陽のように輝く満面の笑みと、控えめながらも花咲くような可憐な笑みが浮かんでいた。
「れふと、ありがと!」
「れふとのおかげでやっと解けたよ!」
「問題が解けたのは二人が日頃からちゃんと勉強していて、解き方を知っていたからですよ。僕はちょっとだけアドバイスをしただけです」
真正面からの元気な言葉に、少年はふわりと口元を緩める。心のそこからの言葉だった。自分がやったことといえば、図形に補助線を引いたぐらいだ。解くことができたのは、日頃授業をちゃんと聞き、復習をし、公式を覚え、解法を覚えていた彼女らの実力故のものである。どこぞの兄もこれぐらいやってくれれば、とくだらないことを考える。あの男が自ら勉強に手を付けることなぞ無いだろうが。
「二人ともお疲れ様でした。さぁ、遅くなる前に帰りましょう。玄関まで送っていきますから」
「はーい!」
「ありがとう!」
少年の言葉に、少女らは急いでドリルと筆箱をリュックにしまう。ぴょんと椅子から飛び降り、愛用のそれを背負った。烈風刀も席を立ち、机と椅子を元の位置に戻す。夕焼けに染められつつある教室は、元の姿へと戻った。
鞄を担いだ少年を挟むように、双子兎は並んで立つ。それが当たり前であるかのように、長い袖に包まれた手が少年の手を握った。ぱちり、と天河石の瞳が瞬く。それもすぐに柔らかく細められた。
タッと地面を踏み出す音。姉兎は繋いだ手を引き駆け出す。危ないですよ。危ないってば。二重の声が教室に響いた。
タン、とキーが軽い音をたてる。最後の一文を入力し終え、烈風刀はぐっと背伸びをした。ほのかな痛みを訴える目頭を指で揉む。長時間モニタを見つめていたダメージはなかなかのもののようで、痛みと心地良さが広がった。
コンコン、と固い音が部屋に転がり込む。音に気づいた矢先に、ガチャリとドアが開く音がした。烈風刀、と己を示す語が飛び込んでくる。椅子のまま振り返ると、そこには雷刀の姿があった。
「返事をする前にドアを開けない。ノックの意味が無いでしょう」
「別に見られて困るようなことしてないだろ? いーじゃん」
眉をひそめ、もう何度言ったか分からぬ文言を口にする。注意された彼はあっけらかんとした様子で手を振り笑った。そういう意味ではない、マナーの問題だ、と何度言っても聞かないのだ。この兄は。苛立ちを隠す様子無く、はぁと大きく溜め息を吐いた。
「で、何の用ですか?」
腕を組み、部屋の入り口に立ったままの朱を見やる。済ませるべき作業も復習も終わり、今日はもう自由だ。しかし、どうせ彼のことだ。口にするのはろくでもない誘いや泣き言だろう。そんな兄のために時間を割いてやる気は無い。
「漢文教えて」
そう言って、雷刀は手にしていた冊子を持ち上げ示す。扇子のように片手で持たれたそれの表紙には、『漢文テキストワーク』と明朝体で大きく記されていた。
兄の言葉に、手にしたそれに、烈風刀は目を瞠る。碧の目は、驚愕一色に染まっていた。よく手入れされた唇がぽかんと開く。彼らしくもない、どこか間の抜けた表情だ。
あの雷刀が、あの勉強嫌いで有名な雷刀が、赤点と追試の常習犯である雷刀が、己に教えを乞いに来た。それも、教師に言われて渋々ではなく、己の意志で。
眼前に広がる光景を受け止めきれず、少年は硬直する。石になったよう、とはこのような姿を言うのだろう。指先一本動かせぬまま、碧は呆然とした様子で目の前の片割れを見つめた。
あまりにも露骨な態度から、弟の考えていることが分かったのだろう。朱の少年は悔しそうに目を眇める。しかし、己の日頃の態度を思い返してか、その目はバツが悪そうに逸らされた。えっとさぁ、と開いた唇は少し尖っていた。
「今日ニアとノアが勉強教えてもらいにきてたじゃん? あいつらも頑張ってんだし、オレもたまにはちゃんとやんないとなー……、とか」
思っただけ、と続いた最後の言葉は、彼らしくもない小さく細いものだ。胸に渦巻く何かを晴らすように、朱はガシガシと頭を掻く。風呂に入って少し湿ったままの髪がぶわりと乱れる。うぅ、と小さな呻りが部屋に落ちる。
淀みながらも紡がれた兄の言葉が、弟の胸を打つ。『ちゃんとやんないと』と砕けた言葉が胸の内に広がっていく。あの兄が、だらしのない兄が、勉強が大嫌いな兄が、人の姿を見て己を変えようとしている。なんと成長したのだろう。なんと素晴らしいことなのだろう。胸の内に温かなものが満ちていく。きっとこれは、感動と言うのだろう。
「分かりました」
ふわりと笑い、烈風刀は快諾する。自分もまだまだ深い理解を得ているとは言い難い。けれども、彼の抱える疑問を解く少しの助けになれたならば。力強い何かが己を動かす。努力しようとする者を応援したい。これはきっと自然な感情だ。
碧の言葉に、朱はぱぁと顔を輝かせた。ありがと、と弾んだ声が部屋に響き渡る。教えを乞うべく、少年は大股で師となる弟の元へと歩みを進めた。
キーボードを片付け、勉強机の上に二人分のスペースを確保する。鞄から教科書と参考書、ノートを取り出し、端に置いた。隣に立った雷刀は、持っていた問題集を開く。少し癖のついたそこの端には、ミミズがのたくったような文字が連なっていた。彼なりに色々と考えた証である。それだけで、烈風刀は胸がいっぱいになる心地だった。
「どこが分からないのですか?」
「………………全部」
「……僕の尋ね方が悪かったですね。どの部分を知りたいのですか?」
「ここの違いが分かんなくてさー」
兄が指差す部分を眺める。基礎から少し発展した問題だ。基礎がまだしっかりとしていない彼が躓くのも仕方の無いことだろう。まだ基礎問題が何問か回答してあるだけ頑張った方だ。それだけで褒めたい気分だが、ぐっと我慢する。まずは彼の学習意欲と知識欲を満たすのが先決だ。
机の端に詰んだ参考書を取り出し、パラパラとページをめくる。彼が疑問に思っている箇所のページを開き、問題集の上部に置いた。参考書の例題に、シャープペンシルでポイントとなる部分に軽く丸を付ける。
「ここはレ点なので上下逆にする、というのは分かりますね?」
「うん」
「まずレ点から処理して、その後に他の部分を入れ替えます」
処理すべき記号に丸を付け、その順番を示す数字を振っていく。朱い目がペンの先を、問題文を追っていく。片手に握られたシャープペンシルが、紙面の上をゆっくりと走っていく。筆跡の薄さが、彼の自信のなさを物語っていた。合っていますよ、と努めて優しく言葉を贈る。ほんと、と心配げな声が返ってきた。
「そう、書いた通りですね。あとは書き下していくだけです。この解説が分かりやすいかと思います」
そう言って、参考書に載っている解説文に丸を付ける。分かった、と細い声とともに、カリカリとペンが軽やかな音をたてていく。紅玉が問題文と解説、回答欄を往復する。輝く朱は真剣一色に染まっていた。
これ以上何か言う必要は無いだろう。それに、じっと見ていては彼が集中できまい。教科書を手に取り、先日授業で教わった部分を開く。ペンが紙の上を走る音とページをめくる音が二人きりの部屋に積もっていった。
「これでいい……のか?」
しばしして、雷刀はようやく声をあげる。教科書から顔を上げ、烈風刀はおずおずと差し出された紙面を見る。出題された短い漢文は、しっかりと書き下されていた。ひらがなが多いように見えるが、そこは今気にかける場所ではない。
「正解です」
「よっしゃー!」
烈風刀の満面の笑みと弾む言葉に、雷刀も嬉しそうに咆哮をあげた。多少教えてもらったとはいえ、自力で解けたことが本当に嬉しいのだろう。その表情はいつも以上に晴れやかな笑顔で彩られていた。
喜気とした笑声をあげ問題を眺める彼の頭に、そっと手を伸ばす。そのまま、赤い髪で彩られたそこをそっと撫でた。ほんのりと湿った感触が手から伝わってくる。
鼻声にまで発展した笑声がぴたりと止む。どうしたのだろう。まだ気になる問題があるのだろうか。少年は小さく首を傾げ、兄の横顔を見る。整った顔がこちらを向く。大きな緋色の目がぱちりと大きく瞬いた。
「……え? 烈風刀……?」
あがった声は細く、動揺に満ちていた。どうしたのだろう。何故名前を呼ぶのだろう。自分が何かしただろうか。そこまで考えて、碧ははっとする。しているではないか。今まさに、頭を撫でるなど子ども扱いにも程があることをしているではないか。カァ、と頬に熱が集まる。それもサッと引いていった。
「すっ、すみません!」
朱い髪を撫で回していた手を勢いよく離す。漫画ならば効果音でもつきそうな素早さだ。あの、その、としどろもどろに言葉を紡ぐ。焦燥が駆り立てる脳味噌ではなかなか意味のある文が構築出来なかった。
「あの、今日ニアとノアにやってあげて、それで、だからついやってしまっただけであって、その、わざとではなく」
発した言葉は全て言い訳だ、と言われても仕方のないものであった。しかし、本当につい、夕方の出来事につられて、無意識だったのだ。でなければ、双子の兄弟の頭を撫でるなんて褒め方をするわけがない。お互いいい歳なのに、そんな子どもっぽい扱いをするなど怒るに決まっている。
ぽそ、と何か声が聞こえた気がした。非難の言葉だろうか。今回のことは全て自分が悪い。真正面から受け止めるべく、意味も無く動く口を真一文字に引き結ぶ。えー、と寂しげな音が静かになった部屋に落ちた。
「えーっと……、やめないでほしいなー……なんて」
だめ、と小さく首を傾げ、雷刀は問う。その頬にはふわりと紅が散っていた。眉は八の字に下がり、こちらを見つめる目は心なしか潤んでいるように見える。控えめにねだる姿は、可愛らしいと形容するのが相応しいものだった。
きゅ、と喉が細まる。兄弟の珍しい姿に、烈風刀はぱちぱちと大きく瞬いた。いつだって自分勝手に物事を進める彼が、こんな風に尋ねてくる。しかも、こんなに可愛らしい様子で、である。ぅ、と喉が細い音をあげる。少年の頬にもつられて朱が差した。
おそるおそる手を持ち上げ、形の良い頭へと手を伸ばす。丸みを帯びた朱を、白い手がそっと撫でる。節の目立ち始めた手が、髪を整えるように往復する。壊れ物に触れるかのような、慎重で優しい手つきだ。伝わる温さと柔らかな感触にか、炎瑪瑙がきゅうと細まった。隙間から見える瞳は、喜びに満ちた色をしていた。
「よくできました」
不意にこぼれ落ちた一言に、雷刀はへへ、と小さく笑う。どちらも幸いに満ちた響きだ。
静かな夜の部屋、兄弟を温かなものが包んだ。
畳む
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