No.146, No.145, No.144, No.143, No.142, No.141, No.140[7件]
結って遊んで愛らしく【はるグレ】
結って遊んで愛らしく【はるグレ】
髪をいじくって遊ぶ推しカプは尊い。
これのセルフ三次創作です。
緑の上を流れる黒を一房すくう。手のひらに載せたそれに、少女は折りたたみ式のコームを当てた。根元から細い毛先まで、ゆっくりとした手つきで丁寧に梳いていく。時折、プラスチック製の歯が抜けると同時にすくった黒髪が逃げていきそうになる。それほどまで、なめらかでまっすぐとした毛であるということだ。あまりにも櫛通しが良すぎて、本当に整える必要があるのかと疑ってしまうほどである。癖っ毛の己ではまず味わえない感覚だ。少しの嫉妬を抱えながら、グレイスは長い黒髪を恭しさすら覚える手つきで梳いていった。
細いそれを全て整え終える。普段素早い動きに合わせ涼やかになびく黒は、いつにも増してツヤとなめらかさを持っているように見えた。一仕事終え、躑躅は小さく息を吐く。本番はここからだ。
広い背の中程まである長い髪を左右二つに均等に分ける。片方を両手で持ち、頭に沿う動きで上げていく。耳より拳半分ほど高い位置で手を止め、根元を握って固定する。傍らに置いたポーチに手を入れ、ヘアゴムを取り出した。細く小さなそれを、手で仮止めした場所からずれないよう注意しつつ縛っていく。しっかりと結い終えると、さらりとした黒い尻尾が姿を成した。同じ要領で、残り半分も結い上げる。毎朝自身で髪をセットしているだけあって、手つきはこなれたものだ。
結い終え、躑躅の少女は椅子に座りされるがままでいる髪の持ち主の前まで回り込む。カツカツとヒールが床を叩く硬い靴音は、どこか弾んで聞こえた。
尖晶石の瞳が正面から作品を眺める。常は首の後ろで雑にまとめた髪は、細いツインテールに生まれ変わっていた。毛量が少ないものの、するりと流れるような柔らかなストレートヘアであるためか美しい仕上がりになっている。ふふん、と少女は満足げに笑みをこぼした。
当人である髪の持ち主――始果は、不思議な様子で目の前の彼女を見ていた。きっと、髪型で遊ぶ楽しさが理解できないのだろう。日頃髪はおろか生活全般に頓着の無い彼だ、ジャケット撮影の度に様々なヘアスタイルを楽しむ女の子の気持ちが分かるはずなど無い。
鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な様子で、グレイスはツインテールの片方を手に取る。そのまま、長い結い髪をくるくると根元に巻き付けはじめた。ポーチからピンを取り出し、丸い塊となった黒に刺して留める。もう片方も同じようにまとめた。
一歩引き、マゼンタの瞳が依然されるがままでいる少年を眺める。細く長いツインテールは、小さなお団子頭へと様変わりしていた。ふふ、と桜色の唇から笑みと同義の吐息がこぼれる。満足げな、楽しげな響きをしていた。
手慣れた様子でピンを外し、そのままひっかからないよう注意しながらヘアゴムも取り払う。背へと戻ろうとする黒髪を小さな手ですくい取り、緑衣に包まれた肩にかけた。たおやかな指が、細いそれを更に細い三つの束に分ける。そのまま、するすると器用に編み込んでいく。ひとしきり編むと、ヘアゴムを使って留めて再び肩に掛けた。もう一房も手早く編んで肩にそっと掛けた。
再び一歩引き、目の前の彼を見やる。快活な様を思わせるお団子姿は、落ち着いたお下げへと変わった。どこか幼い印象を与える顔と黒く長い髪が相まって、異様に似合って見える。ふ、と閉じた口から吐息がこぼれる。ふふ、と漏れるそれは、あっという間にあはは、と高い笑声へと移り変わった。
「グレイス?」
「っ、ぅ、な、なに……?」
きょとりとした様子で名を呼ぶ狐に、躑躅はどうにか応える。口を押さえ笑いを噛み殺そうとするが、無駄な足掻きだった。三つ編み姿が妙に様になった愛しい人が、何だか面白くてたまらない。どんどんと込み上げてくる感情に、剥き出しになった薄い腹がひくひくと震えた。
「どうかしました……?」
「どっ、どうもしないわ、大丈夫よ」
あまりにも異常に映ったのだろう、心配げな様子でこちらを見つめる金色の目に、少女は軽く手を振って返す。しばしして、長い溜め息とともに湧いて出てくる笑いはおさまった。必死に堪えていたこともあってわずかに疲れを覚える。はー、とまだほのかに笑みが残る息を吐いた。
「すごいですね……」
肩に掛けられた三つ編みを片方手に取り、始果は嘆息するように漏らす。いつも自分で適当にまとめるだけの彼には、新たなヘアスタイルを物珍しく感じるのだろう。ジャケット撮影でも髪型を変えることが少ない少年にとって、矢継ぎ早に髪を結って変化させていくのは初めての体験だ。
「そう? 簡単なのしかやってないけど」
つややかな黒を眺める姿に、グレイスは小首を傾げる。結んだだけのツインテールに丸めるだけのお団子ヘア、分けて編むだけの三つ編み。どれもヘアゴムとピンさえあれば簡単にセットできるものだ。特に、ツインテールなんて位置を決めてまとめ上げるだけの手軽さである。常日頃から髪を結い、姉にも髪を結って遊ばれる己にとってはどれも朝飯前だ。
「こんなの慣れよ。慣れ」
「グレイスはいつも結っていますものね」
自身が持つ黒に向けられていた真ん丸な月色が、すぃと上がり眼前の少女へと向く。床についてしまいそうなほど長い毛先から、頭のてっぺんに近い位置にある根元まで、長いツインテールを金の視線が辿っていく。無感情にも見える瞳には、少しばかりの輝きが宿っているように見えた。
そうね、と少女は長い髪の中ほどを手の甲で軽くすくう。枝垂れ桜を思わせる長い尾がふわりと広がった。伸ばし続けている髪は、毎朝丁寧にブラシを入れ、毛量と頑固なくせに負けないようにしっかりと縛り上げている。最初こそ難儀したものの、今では半分寝ていてもこなせるほど身体に染みついてしまった。
「……あんたもやってみる?」
ふと頭に浮かんだものをそのまま口に出す。音となったそれは、何よりの名案に思えた。ふふ、とまた愉快げな笑みがこぼれる。どことなく浮かれた調子にも聞こえた。
代わって、と躑躅は狐の手を取り軽く引く。突然の出来事に、え、と目の前のお提げ頭が傾いだ。構わず、ほら、と一押しすると、従順な忍は音も無く椅子から立ち上がった。繋いだ手を支点にするようにくるりと回り、少女は入れ替わりで椅子に座る。そのまま、朝早くに起きて整え結い上げたツインテールを解いた。華奢な身を包み込むように、ふわふわとした髪が広がった。満開の桜の木を思わせるようなシルエットとボリュームだ。
「はい、これブラシとヘアゴム」
ポーチから大ぶりなヘアブラシを取り出す。つい先ほどまで鮮烈なアザレをまとめ上げていたヘアゴムと共に、目の前の少年に差し出した。事態を理解できないのか、彼は依然え、とこぼし首を傾げる。珍しく動揺をあらわにした様子に、どことなく愉快さと可愛らしさを覚える。柔らかな輪郭を描く頬が穏やかに綻んだ。
「私がやったみたいに二つに分けて、高い位置で留めればいいのよ。あんたも毎朝髪結んでるんだからできるでしょ?」
ほら、と整えやすいよう、長い髪を後ろ側にさっと流して軽くまとめる。それでも、癖の強い髪は花が開くようにふわりと広がってしまうのだ。まぁブラシで整えれば何とかなるだろう、と毎朝の己の行動を思い返しながら呑気に考えた。
「お願いね」
呆然と立ち尽くす始果に、グレイスはニコリと笑いかける。可愛らしいおねだりとも、早くしろという催促にも見えた。しばしして、分かりました、と少し強張ったらしくもない声が返ってきた。
音も無く少年は背に回る。沈黙少し、ほのかに暖かさを持ち始めた剥き出しの背を、涼しさが撫でた。中央あたりに感じたことから、髪を左右二つに分けたのだろうということが分かる。とりあえず片方だけ持ったのか、すぐに左側だけが温かさを取り戻した。うなじにほの冷たい手が触れる。分けた髪の根元に添えられたそれは、抱えるように髪をすくい上げた。
髪に何か触れる感覚。数拍、右側に少し引っ張られる感覚。ブラシを通したのだろう。癖のある髪は頑固で、歯を素直に通してくれることが少ないのだ。動きとともに傾いてしまう頭に、大丈夫ですか、と不安がうっすらと浮かぶ声が飛んでくる。大丈夫よ、と返すと、そうですか、とまだ暗さの残る声が後ろから聞こえた。
緩慢な動きでブラシが髪を撫ぜていく。そんな調子では梳く意味が薄い。おそらく、頭を引っ張ってしまうのが怖いのだろう。悲しいことに、癖っ毛である己の髪はこの通り櫛通しがあまり良くないのだ。自身のサラサラとしたまっすぐな髪しか扱ったことのない彼には取り扱いが難しかっただろうか。そもそも、愛する少女以外にはまるで興味がない男だ、ブラシなんてものを扱うのはこれが初めてなのかもしれない。
「ブラシ使うの難しいならそのまま結んでもいいわよ。後で適当に梳くわ」
「……分かりました」
助け船を出してやると、わずかな沈黙の後了承の言葉が返ってくる。どこか不服そうな、申し訳なさそうなとをしていたのは気のせいではないだろう。こと己に関しては変なところを気にするのだ、この恋人は。
半分に分けられた髪の根元を軽く握られる。そのまま、そろそろと恐れを孕んだ動きで頭頂へと持ち上げられていった。普段結っている位置まで辿り着いたところで手が止まる。掴むように根元に手が触れ、毛先が持ち上げられる。根元に当てたヘアゴムに、必死に長い髪を通していることが伝わってきた。器用で所作の素早い彼にしては遅い動きで、ボリュームのある髪がまとめ上げられていく。何度か通したところで、髪を取り扱う手が止まった。ふわりと広がる反対側を手がまとめる感覚。同じように、不安定な手つきで髪が結い上げられていく。普段己が行う何倍もの時間を掛けて、アザレアの髪が普段のツインテールへと姿を変えた。
「…………終わりました」
「ありがと」
不安の残る声で作業の終わりが告げられる。弾んだ声で礼を言い、躑躅は携帯端末を取り出し、カメラアプリを起動した。上部のバーをタップして、内側カメラに切り替える。床を映していた小さな画面に、モルガナイトが二つ輝く。
液晶画面に映ったのは、普段と同じようで少し違う己の姿だった。いつも同じ高さで綺麗にまとめられた髪は、今は高さがバラバラだ。結び方もどこかゆるく、時間が経てば崩壊して解けてしまいそうだ。長くふわりとした髪は扱いづらく全てまとめきれなかったのだろう、大きくさらけ出された背中にはまだ髪が何房も伝っている感覚が残っている。
初心者がやったのならばこんなものだろう。むしろ、取り扱いづらい部類の己の髪をこれだけ結えただけで十二分にすごいことなのだ。己でも、寝癖の強い日は扱いづらく感じることもあるのだ。他人がいわんやである。
「…………すみません」
「ちゃんとできてるじゃない。何で謝るのよ」
落ち込みすら窺わせる声で、始果は謝罪の言葉を漏らす。暗く濁った色など吹き飛ばすように、グレイスは普段通りのからりとした声で返した。事実、ちゃんとツインテールに仕上がっているのなら要件は十分に満たしている。なにより、『結んで』と頼んだのは己なのだ。彼が謝る必要性などない。
再び画面の中を見つめる。カメラが液晶に映し出す顔は緩んだものだ。過去の己が見れば、だらしがない、と叱り飛ばすような腑抜け具合である。しかし、どうしようもないことなのだ。だって、心の底から湧き出るこの感情が頬を、口を、目元を綻ばせるのだ。二人きりのプライベートな空間で、表情筋を無理矢理コントロールする必要性も無い。
ふふ、と少女は今日何度目かの笑みを漏らす。喜びと幸せが滲んだ温かな色を宿していた。
「ありがとね、始果」
首だけで振り返り、躑躅は所在なさげに後ろに立つ狐に再度礼の言葉を投げかける。シアンとマゼンタで構成された目は虹のように大きな弧を描き、言葉を紡ぎ出す口は穏やかに解けていた。
好きな人が己の髪を結ってくれた。大好きな人が己のためになれないことを頑張ってくれた。それだけでこの上なく幸せだ。
「……結い直した方がいいのではないですか?」
「何でよ。せっかくやってくれたのに」
きちんとセットしてくれたというのに、解けとは何事か。綻んだ頬が一転、空気を含んでぷくりと膨らむ。臆することなく、けれどもまだ不安を宿したまま、少年は丸くなった顔を見つめた。
「いつもきみがしているみたいに綺麗になりませんでしたから……」
やはり、元の形そのまましっかりと戻せなかったことがかなり気に掛かっているようだ。彼は己がいつも丁寧に髪を整えている姿を知っているだけに、尚更気になるのだろう。どれだけ申し訳なさそうにしても、三つ編み姿ではただシュールである。
「いいのよ。私が結うのより、始果がしてくれたのがいいの」
心からの言葉だった。早さや綺麗さだけを取るならば、自分で結うのが一番だ。けれども、それ以上に恋い慕う人が一生懸命結ってくれたことが嬉しくて、幸せで仕方が無いのだ。こんな宝物みたいなもの、『整っていないから』なんてどうでもいい理由で解くなんてあり得ない。
「……そう、でしょうか」
「そうよ」
疑問が残る声をこぼす忍の少年に、躑躅の少女は上機嫌に返す。いつもより床に近い位置にある長い毛を一房すくい、細い指に巻き付けて遊ぶ。ふわふわと揺れる癖のあるこの髪が、いつも以上に愛しく思えた。
「ねぇ、またやってよ」
少女は弾んだ声でねだる。最初はただの思いつきだったが、なかなかに楽しいではないか。もっともっとこの楽しさを、嬉しさを、幸せを味わいたい。警戒心の強い彼女が稀に見せる、甘えたな姿だ。
長い長い沈黙の後、はい、と消え入りそうな声が返ってくる。あまり気乗りしないことが丸分かりである。それでも最終的には了承するのが彼らしい。
「私でいっぱい練習しなさいよね」
「きみ以外の人の髪を結う事なんてありませんよ?」
「私の髪を結ぶことはあるかもしれないじゃない」
いっぱい練習して、綺麗に結べるようになりなさいよね。
いたずらげに笑いかけると、少年はぱちりと目を瞬かせた。はい、と返ってきた声は、どこか腑に落ちないような、それでいてほのかな幸せを孕んだ音色のように聞こえた。
二人きりの空間に、二輪の躑躅が咲き誇った。
畳む
twitter掌編まとめ3【SDVX】
twitter掌編まとめ3【SDVX】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
成分表示:バタキャ+氷雪ちゃん1/恋+奈1/赤志魂1/グレイス1/ニア+ノア1/神+十字1/嬬武器雷刀1/ユーシャ1/雨魂雨1/火琉毘煉1
大空求めて/バタキャ+氷雪ちゃん
「おそらっ」
「おそら……」
「おーそらっ!」
三匹子猫は上機嫌に歌う。溢れ出る楽しみを表すように、繋いだ手をぶんぶんと振った。
「えっと……お空は……」
はぐれぬようにとしかと掴まれた手の温かさを感じながら、氷雪は頭上のディスプレイをじぃと見やる。白い指で視界いっぱいに広がる液晶をなぞる。たどった『暁光の翼篇』の一文、空きがあるという表示に少女はほっと息を吐いた。
「すぐに体験できるみたいですよ。よかったですね」
やったー、と弾んだ合唱。手にした携帯端末を操作し、電子チケットから辿って案内を見る。色をついて示された場所は、『サンシャインエリア』と書かれていた。こっちです、と小さな手をそっと引く。とてとてと桃が続く。てこてこと蒼が続く。ぱたぱたと雛が駆け出した。
おそらとべたらいいな。
そんな風に空を眺め手を伸ばす子猫たちを眺めて数日。雪女はその姿が気にかかっていた。飽きやすい子猫たちが、あんなに空を渇望している。よほど興味があるのだろう。可愛らしいその願いを叶えてあげたい。自分はその願いを叶える手段を知っている。悩みに悩んだ末、雪女は勇気を振り絞って言ったのだ。『ヘキサダイバーでお空を飛べるみたいですよ』と。
そうして現在地、ヘキサダイバー内中央ロビー。手を繋いだ氷雪、桃、蒼、雛の四人は、受付を済ませサンシャインエリアを目指していた。人が賑わう通路でも決してはぐれぬようにと、四人はしっかりと手を握る。邪魔にならないように道を進み、該当エリアの出入り口に辿り着いた。
少女は全員分の電子チケットをかざし、手を引き連れ立って中に入る。開けた空間には、扉が立ち並んでいた。チケットに表示された番号の部屋に入れば、『仮想現実』が始まる手はずだ。少しだけ慣れた調子で氷雪は劇場内を歩く。二度目なのだから勝手はまだ分かっている方だ。
おそらおそらと歌う子猫に、雪女はふわりと笑みをこぼす。短くはない時間彼女らを見てきたが、ここまではしゃいでいる姿はあまり見ない。本当に喜んでいるようだ。誘ってよかった、と心の底から安堵する。
「ひゆきおねーちゃんはなにになるの……?」
ぴょこりと横から飛び出た蒼がこちらを見上げ尋ねる。え、と氷雪は声を漏らした。
「ももたちはきゅーぴっとさんですよ!」
「ひゆきおねーちゃんは? ひゆきおねーちゃんもきゅーぴっとさん?」
「えっと……、決められなかったので『おまかせコース』にしました」
興味津々の様子で見上げてくる三色三対の瞳に、花緑青の目がぱちりと瞬く。困ったような笑みを浮かべた。
ヘキサダイバーは様々な望みや物語を体験できる場所だ。けれども、望みがいつだってはっきりしているわけではない。漠然と希望はあれど、明確なビジョンが見えぬ者だっている。そのために用意されているのが『おまかせコース』らしい。登録情報や事前アンケートの内容によって、希望に近い世界を自動で選択してくれるのだ。本当ならば説明してやりたいが、内容は体験してからのお楽しみ、らしい。
「あとでひゆきおねーちゃんのどんなのだったかおしえてね!」
「きになる……!」
「しりたいです!」
ぴょこぴょこと興味津々な様子で耳を動かす三色猫に、雪色は分かりました、と微笑む。自分もどんな世界なのか楽しみだ。もちろん、体験したそれを少しぐらいは語りたい。それが彼女らの楽しみの一つとなるのならば尚更だ。
「ここのお部屋ですよ。いってらっしゃい」
電子チケットをかざすと、ピ、と電子音が短くあがる。大きな扉が、仮想空間に繋がる扉が開いた。
いってきます、と大合唱。大きくてと尻尾を振って、子猫たちは扉の中へと入っていく。はしゃぐ小さなその背に手を振り見送った。
プシュン、と自動ドアが閉まる。振っていた手を下ろし、少女は己のチケットを再度見る。示された番号は、すぐ隣の部屋だ。これなら終わってすぐに合流できるだろう。歩きながら考える。
この先にあるのはどんな物語だろう。『おまかせコース』は『空を飛ぶ』という望みをどんな風に叶えてくれるのだろう。
期待と少しの不安を胸に、氷雪は扉を開く。蒼天を映した大きなディスプレイが少女を迎えた。
夏の足音聞きながら/恋+奈
悩ましげな呻り声が店内の片隅に落ちる。少女は眉を寄せ、真剣な顔つきで手にした二つの衣装を眺めていた。否、睨みつけると言った方が正しいほどの鋭さである。
「そんなに悩むことかしら……?」
目の前に衣装を二着掲げられ、空中で体躯に合わせられる奈奈は戸惑いの声をあげる。眉は困ったように八の字を描き、七色の瞳はぱちぱちと瞬いている。白いヘッドドレスに彩られた小さな頭がゆるりと傾いだ。
「悩むわよ! だって奈奈が着るのよ? 最高のを選ばなきゃ……!」
親友の問いに、恋刃は鋭い声を返す。気迫と使命に満ちたものだった。少なくとも、ショッピングモールの水着売り場で見せるようなものではないほど。
水着を両手にうんうんと唸る赤い親友に、七色の少女は依然困ったように笑う。己のことのように、否、己のこと以上に悩む姿には嬉しさを覚えてしまう。けれども、その可愛らしい顔に眉間に深い皺を刻んでまですることだろうか。どうしても疑問が思い浮かんでしまう。
「でも、前に着たのが四着もあるのよ? 今年はその中から選べばいいんじゃないかしら?」
以前ジャケットの撮影に使った水着は、その後運営陣からプレゼントされていた。どれも撮影と友人らと遊びに行くのとで数回しか着ていないものだ。どれも美しいものなのだから、何度か着ねばもったいないのでは無いだろうか。
「ダメよ。数年前のだからもうサイズが合ってないかもしれないし、どうせ海に行くならもっとお洒落してもらいたいもの」
水着姿の奈奈を見られるなんて年に一回ぐらいなんだから、と恋刃は真剣な瞳でこちらを射抜く。そんなに大事だろうか、と奈奈は再び首を傾げた。
「やっぱり奈奈にはフリルがとっても似合うからフリルが多いのがいいかしら。でもこっちのレースのも大人っぽくて奈奈に合いそうなのよね。そもそも色はどうしましょ。今まで着たのは白か黒だし、合わせるか別の色を選ぶか……」
ぶつぶつと呟きながら赤はいくつもの水着を手に取っては戻していく。これ以上無く熱心に見繕われては、容易に動くこともできない。どうしましょ、と七色は視線を泳がせた。
「そもそも、恋刃はどれにするか決めたの?」
「え? 私?」
奈奈の問いに、恋刃は固まる。紅緋の瞳がぱちぱちと瞬いた。己のことなどすっかり忘れていたことが一目で分かる様相である。
「あぁ……、こないだのでいいかしら」
「もうサイズが合ってないかもしれないし、お洒落した方がいいんじゃなかったの?」
あからさまに濁す親友に、少しだけ強い語調で返す。う、と喉を詰まらせる音が細い喉から落ちた。
予想通りの様子に、少女はくすりと苦笑を漏らす。合わせて見るために少しだけ離れていた足を、一歩踏み出す。両手にハンガーを持った親友はぱちぱちと大きな瞳を瞬かせていた。
「今年は奈奈が選んでもいい?」
少しだけ屈んで、気まずげに泳ぎ瞬く深緋を覗き込む。ね、と小首を傾げると、再び喉がつっかえたような音が売り場に落ちた。
「……選んでくれるの?」
「選ばせて?」
だって、奈奈もお洒落した恋刃をもっと見たいもの。
一転眉尻を下げた友人に、奈奈は柔らかく笑む。本当にいいの、と不安げに問う恋刃に、もちろん、とにこりと笑顔を投げかけた。
「……じゃあ、お願い?」
「えぇ」
薄く頬を染め、赤は願いを口にする。常はハキハキとした彼女らしくもない、少し自信なさげな音色をしていた。揺れる心を落ち着けるように、七色は力強く頷く。タタタ、と駆け出し、水着がたくさん並んだラックの前に立つ親友の横に並んだ。
「この間は黒と赤だったよね? 今年は白か、紅刃さんみたいに赤がいいんじゃないかしら」
「白、私にも似合うかしら……」
「恋刃の綺麗な赤い髪には、白はとっても似合うと思うの」
どこか揺れる声と穏やかな声が交わる。次第に、どちらの音も弾んだ楽しげな響きになっていった。
水着の海の中、少女らは盛んに言葉を交わしあった。夏はすぐそこだ。
じゃのめでおむかい/赤志魂
軽やかにキーを叩く手が止まる。キーボードの上に置かれた手が組まれ、そのまま上方にぐっと伸ばされた。あー、と疲れ切った声が部屋に落ちた。
ファイルを保存し、再生ソフトの一時停止ボタンを押して魂はヘッドホンを取る。少しだけ圧迫されていた耳が軽くなった。はぁ、と肺の中の空気を全て追い出すように重く息が吐かれた。
パタ、パタタ。脳味噌に響くような音楽の代わりに、細かな音が鼓膜を震わせる。カーテンの向こう側、窓の外から聞こえるのは水が地を叩く音だ。おそらく、雨が降っているのだろう。作業に没頭していて気付かなかった。
ふっと脳内に青色が浮かぶ。普段は長い前髪で目を隠すいささか内気な旧友。雨の中ではハイテンションで粗野になる知己。雨傘片手に――時にはその身一つで雨空の下に飛び出す腐れ縁。常はおどおどした、雨の中では無鉄砲な紫陽花を思わせる青がよぎった。
時計を見る。時刻は、日付が変わる二時間前を指していた。この程度の時間なら、きっと彼は雨空の元へと駆け出していっているだろう。時計も持たず、下手をすれば傘すら差さずに、この寒空の下へと走るのだ。
容易に想像できる姿に、少年は苦笑を漏らす。雨の中哄笑し駆け回る友人も、ただの天気と腐れ縁をすぐに結びつけてしまう己も、なんと単純なのだろう。はぁ、と呆れを含んだ溜め息が漏れた。
ぐっと伸びをもう一度。キャスター椅子を引き、蒲公英色の少年は立ち上がる。作業に疲れた頭は、糖分を欲していた。どうせなら、温かいものがいい。ココアでも淹れよう、とキッチンへ向かった。
手慣れた調子で砂糖たっぷりのホットココアを作り、部屋に戻る。迎えたのは、ザァと風と水と風が奏でる強い音だった。どうやら、この短時間で雨脚は随分と強まったらしい。窓越しにこれだけ聞こえてくるのだから、よほどの勢いだろう。
再び、青が――今現在、雨空の下にいると確信できる青が脳裏をよぎる。最近の気温は高いとは言い難い。雨降る夜なら尚更低くなっているだろう。そんな中に飛び込み、雨粒に身を打たれ濡れに濡れて楽しむのだ、あの雨馬鹿は。
赤と緑、一対の目がぐ、と眇められる。甘いココアを味わうべき口は、横一文字に結ばれていた。
あの馬鹿が降りしきる雨の中どう行動しようが知ったことではない。けれども、そのせいで風邪をひかれては困るのだ。真面目で成績優秀な彼から宿題や授業内容を教えてもらえないのは、学生生活に多少の支障を来すのだ。
そうだ、己のためなのだ。言い聞かせるように反駁し、魂は手にしたマグカップを机の上に置く。部屋着の上に、撥水効果を持った厚手のパーカーを羽織る。手際よく準備を済ませ、踵を返し部屋から出た。
靴箱から雨靴を取り出し、傘を二本持つ。家の鍵をポケットに入れ、施錠されている玄関ドアを開けた。途端、バタバタバタと降り注ぐ雫が地を強く叩く音が耳に響いた。
パーカーのフードを被り、傘を開く。そのまま、少年は雨夜空へと飛び出した。ビニールを雨が穿つ音が響く。あまりにもうるさいそれに、雨空の下躍っているだろう腐れ縁に、こんな夜中にわざわざ雨傘二本持って家を出た己に眉根を寄せ、魂はバチャバチャと水張るコンクリートの上を早足で進んだ。
吹きつける風の中、独特な高い笑声が聞こえた気がした。
「次は並盛りデスネ!」「無理……」/グレイス
ゴトン、と重い音が目の前であがる。同時に現れた巨大な影に、グレイスはぎゅっと唇を引き結んだ。そうでもしなければ、短い悲鳴をあげてしまっていただろう。それほどまでに、目の前の存在は凄まじいものだった。
深い赤に白で縁取られたどんぶりは、己の手をめいっぱい広げて尚端に届かないほどの直径だ。両手でなければ到底持ち上げられないであろうそれの中は、野菜で満ちていた。真っ白なもやしと色鮮やかなキャベツがこんもりと山を成している。トッピングではなく、まるでそれがメインであるかのような高さだ。その斜面にもたれかかるように、小指の爪ほどあるのではないかという厚さのチャーシューが載せられている。ラーメンだというのに、どんぶりの中には麺もスープも見えなかった。野菜炒めと言われた方が納得がいくビジュアルである。
少女はごくりと息を呑む。食欲由来のものではない、完全に圧倒されてのものだ。当たり前だ、こんなもの圧倒されるに決まっているではないか。注文したのはメニュー表で『初心者向け』と書かれていたミニラーメンなのだ。『小さい』という意味を持つ語を冠したものからこんなものが飛び出てくるとは思わないではないか。予想外の事態に、凄まじい存在感に気圧されるのも仕方の無いことだ。
ちらりと左隣を見やる。カウンター席には、箸を持ち手を合わせる二色の双子の姿があった。彼らの目の前にあるのは、己のそれを二回り、否、三回りは大きくしたようなラーメン――ラーメンだとは未だ思えないが、店の言葉を信じるのならばラーメンなのだろう――があった。どんぶりは、もはや『どんぶり』と表現するのが相応しくない大きさと深さだ。載っている野菜も、もちろん多い。下手をすれば己のものの五倍はある量だ。まさに『山』と表現するのが相応しい姿である。頂点に載っているキャラメル色の炒め物らしき粒が得体の知れない感覚を更に強めた。何より恐ろしいのが、これで『大盛り』という事実である。『大』と表現するにはあまりにも巨大すぎる存在だ。
う、と喉から迫り上がってくる嗚咽をこぼさないように口で手を押さえ、今度は右隣を見やる。そこにいるのは、双子と同様手を合わせる姉だ。満面の笑みを浮かべる姿は可愛らしいと表現するのが相応しい。けれども、目の前にあるものとあまりにも不釣り合いで、一周回って恐怖を引き起こす様であった。
彼女の目の前に置かれているのも、またラーメンなのだろう。断言できないのは、どんぶりがまるでたらいのような大きさであり、凄まじいそれから見えるのが野菜だけだからだ。それも己や双子のものとは段違い、下手をすれば人の顔一つ分ほどの高さがある野菜の山がそこに存在していた。緑と白の山の麓を飾るようにチャーシューがぐるりと載せられている。凄まじい厚みや煮詰められた濃い色から、崖を思い起こさせる様相だった。兄弟のものと同じく、山には謎の粒が振りかけられている。お子様ランチの旗のように頂点にちょこんと飾られたナルトが、これがラーメンであることを唯一語主張する要素だった。
う、と躑躅はまた口を押さえる。嬬武器の兄弟たちのものでもかなり多く感じる己には、もはや見ただけで胃がもたれる量だ。これがこの店で一番多い『特盛り』らしい。大盛りと特盛りの差が激しすぎるのではないか。そんなどうでもいい疑問が湧き起こる。完全に現実逃避であった。
「いただきます!」
両隣から元気の良い声が響く。夕方、学生たちで賑わい騒がしさすら覚える店内でもよく通る声だ。この恐ろしい物体を目の前にしているとは到底思えない、元気いっぱい、食欲いっぱいの声だった。
ちらちらと隣に視線が向く。合掌を済ませた三人は、思い思いに食べ始めていた。大きく箸を開き、野菜をむんずと掴み取り、口に運ぶ。山の下に箸を入れ、埋まった麺を力強く引きずり出して啜る。添えられたレンゲを使い、スープを飲む。作法はラーメンのそれだった。
ごくりと息を呑む。そうだ、これはラーメンなのだ。今は野菜しか見えないが、恐らくこの下には麺があるだろう。放置していたは伸びてしまう。食べるなら、美味しい状態で食べるべきだ。たとえそれが未だ『ラーメン』と信じられない存在であっても。
「…………いただきます」
手を合わせ、食事の挨拶を口にする。箸入れから一膳取りだし、グレイスは目の前の山と対峙する。震える手で箸を操り、山目掛けて突っ込んだ。
騒がしい店内に食事の音が満ち満ちる。夕陽が肩まで姿を隠した頃、元気の良いごちそうさまの挨拶が三つ、力ない合掌の音が一つカウンター席に響いた。
たいへんよくたべました/ニア+ノア
ゆっくりと進む足音。調理器具が料理をすくう音。食器が盆に載せられる音。机に盆が載せられる音。椅子の足が床を擦る音。高揚した子どもの声。授業中の静けさはどこへやら、昼の教室内は賑やかしくなっていた。
教室の真ん中、こくりと息を呑む音が二つ落ちる。双子のニアとノアだ。いつだって元気で可愛らしい表情を浮かべる幼いかんばせは、今は随分と強張っていた。小さな手は、緊張でぎゅっと握られ膝の上に置かれている。長い青髪を飾るリボンカチューシャは、心なしかへたりと力を失っているように見える。
今は午前の授業が終わり、給食の時間だ。二人の目の前には、昼食が載った盆が置かれていた。白いプラスチックの食器には、栄養バランスの考えられた給食が綺麗に並べられている。底の深い二つの器には、ツヤツヤの白米と湯気を立てる味噌汁。大きな皿には主菜のハンバーグと付け合わせの野菜。飲み物は定番のパック牛乳。シンプルながらも、食欲をそそる品々だった。
大好きなハンバーグを目の前にしているというのに、兎たちの表情は依然強張ったままだ。瑠璃紺の瞳は、大きく存在を主張する主菜ではなく、その傍らに転がる副菜と、なみなみと注がれた汁物碗に吸い込まれていた。
今日の給食は白米、茄子と油揚の味噌汁、ハンバーグ、ミニトマト、牛乳。
そして、双子兎は茄子とトマトが大嫌いだった。特に、火を通していないものは。
うぅ、と引き結ばれた小さな口から唸りが漏れる。抗うような音だ。抵抗できないことを知っているからこそ出た音だ。
嫌いなものなら、友達に頼んで食べてもらえばいい。けれども、今月の二人にはその選択が出来なかった。
二人は知っている。献立表に『今月の給食は烈風刀のイキイキお野菜を使っています』と書かれていたことを。
二人は知っている。烈風刀が忙しい中でも時間を捻出し、どれだけ大切に野菜を育てているかということを。
二人は知っている。彼がテレビのインタビューで『皆に美味しく食べてほしいですね』とはにかんでいたことを。
「……ニアちゃん」
「……がんばろ、ノアちゃん」
妹兎が硬い声とともに、隣の青く長い袖を引く。姉兎はその手を解き、己の手を重ねた。同じ大きさの手がきゅっと握られる。勇気を分かち合う姿だった。
「手をあわせましょう!」
給食係が大きく声をあげる。パシン、と手を合わせる音が教室内にいくつも響く。繋いだ手を解き、青兎も袖から手を出しパチンと合わせた。
「いただきます!」
大合唱が響く。箸を持つ音、食器を持つ音、パックにストローを刺す音、野菜が噛まれる音、汁物を啜る音。食事の音色が教室を彩った。
箸を取り、双子の少女は今一度息を呑む。覚悟を決めるためだ。す、と息を吸い、は、と吐く。小さく頷き、二人はミニトマトを掴んだ。『ミニ』という割にはいささか大きく見える赤を、ひと思いに口に放り込む。意を決して、噛み締めた。
まず広がったのは青臭さだ。野菜特有の香りが、口の中を占拠する。続いて、張った皮が破裂しどろりとした何かが流れ込んでくる感覚。舌の上を、生暖かい液体が支配していく。青臭さが一際強くなったように思えた。泣きそうになりながら、どうにか咀嚼していく。剥がれた皮が残る感覚、中途半端に硬い果肉の歯触り、ところどころに散らばっては挟まってくる小さな種の食感、ゼリー状の内容物が舌の上を撫でていく味。最悪と表現するのが相応しいものだ。それでも、どうにか全て飲み下した。
敵は一人倒した。残るは、ただ一人だ。
汁物碗を持つ。浮かぶ紫色の物体を箸で掴み、震えながらも口に入れた。
これまたどろりとした食感。好きな者は『とろける』といった表現をするのだろう。嫌いな二人からすれば『どろどろ』と掴み所がない、けれども妙に存在感を発揮する舌触りだ。口に入れた途端分離した皮の固いような柔いような表現しがたい食感も、また奇妙さを感じさせた。小さい青い眉がぎゅっと寄せられる。素材そのままのミニトマトとは違い味は味噌で誤魔化されているものの、食感はどうにもならなかった。その上、赤いあいつと違って碗の中に細かなものがいくつも浮いている――つまり敵の数が多いことが問題だった。
熱い汁を一緒に飲み、時折油揚げで箸を休めながら、どうにか胃に収めていく。せいぜい二〇〇ミリリットルほどの汁物だというのに、何リットルも飲まされているかのように錯覚した。
ぷは、と少女らは同時に息を吐く。両手で持ち上げた碗の中身は空っぽになっていた。つまり、勝利である。
「ニア、ちゃんと食べたよ……ノアちゃん……」
「ノアもちゃんと食べたよ……ニアちゃん……」
食事中とは思えぬほど疲弊しきった声で、双子兎は互いを讃え合う。牛乳パックにストローを刺し、中身を一気に吸い上げる。口直しだ。野菜の青臭さと何とも言えない舌触りを早く忘れ去ってしまいたかった。
何にせよ、敵は全員倒した。残るは、大好きなハンバーグだ。
苦しげに寄せられていた眉が解ける。険しげに細められた目がキラキラと輝きだす。箸を持つ手に力がこもる。しなりとへたったリボンカチューシャがピンと立った。
「いただきます」
自然と言葉が漏れる。自然と表情が緩む。プラスチックの箸が、ケチャップが掛けられたハンバーグを切り分け、口に運んだ。よく焼かれた肉に歯を立てる。瞬間、油特有の甘さとケチャップの甘じょっぱさ、香辛料のほのかな刺激が口内に広がった。おいしい、と二人同時にこぼす。大嫌いな野菜を倒したあとのお肉は、何よりも美味しかった。
ハンバーグを食べ、ご飯を食べ、またハンバーグを食べ、たまに牛乳を飲み。兎たちは好きなものだけ残った給食を楽しむ。あれだけ強ばり険しかった表情は、すっかり解け明るいものとなっていた。
時計の針は進んでいく。規定の時間になり、給食係が再び手を合わせることを促す。パックの中身を全て飲みこみ、二人は空になった食器の前で手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
元気な合唱が教室に響き渡る。双子兎の元気な声も混じっていた。
挨拶を終え、食べ終わった者から食器を片付けていく。皿と碗、盆を配膳台の所定の位置に重ねていく。席に戻ると、ニアは妹の袖を引いた。
「……あとでれふとに『給食のお野菜おいしかったよ』って言いに行こ」
「……行こっか」
本当は、自分たちの味覚には『美味しい』なんて到底言えない。けれども、彼が丹精込めて作った野菜は家で食べるものよりもずっと苦労せず食べられた気がした。それはきっと、『美味しい』からなのだろう。今の自分たちにはまだ分からないけれど。
大人になったら分かるかな。
そんなことを考えながら、双子兎は細い足をぷらぷら揺らす。靴に付いた兎の耳が、同じ動きでふるふると揺れた。
真相は腹の中/神+十字
「そういえば、貴方って胃はどうなっているのですか?」
スープを飲み干し、青年は対面に疑問を投げ抱える。向かい合った紅は、口の中の食物を飲み込み首を傾げた。
「い?」
「食物を消化する器官です。物を食べられるということは、貴方にもあるのでしょうか」
語りかける目の前の存在は、人間ではない。生命活動――『生命』なんて言葉で表していいのか分からないのだけれど――する上で食事や睡眠を必要としない、神という存在だ。
そんな彼だが、最近では食事の楽しみに目覚めつつある。朝起きて食べ、昼語らって食べ、夜共に料理して食べる。人間のように三食、場合によってはおやつまで食べる毎日を過ごしている。
食事を必要としない。つまり、消化活動する必要が無い。内臓が存在していない可能性はある。けれども、彼は人間のように食事を摂っている。それらは一体どこに消えているのだろう。ふと浮かんだ疑問であった。
「どうなんだろ……」
指に付いたパンくずを舐め取り、神は依然頭を傾ぐ。思案と懐疑を表すように、真紅の瞳がぱちぱちと瞬いた。
「なぁ、その『い』ってニンゲンのどの辺りにあんの?」
「え? えっと、このあたりでしょうか」
突然の言葉に、蒼は戸惑いながらも胸の下あたりを撫でさすって示しながら返す。同じ動作をしてから、よし、と元気な声をあげて紅は立ち上がった。黒いブーツに包まれた足は、台所へと向かっていた。食事はまだ途中だというのに、何故だろう。どうしたのですか、と青年もその背を追った。
ごそごそと棚を漁る音。よし、という言葉とともに立ち上がったその手に握られていたのは、包丁だった。洗ったばかりのそれが、朝日を受けてキラリと輝く。この間研いだところだから、切れ味の良さは抜群だ。硬い手が、柄を逆手に持つ。銀の刃を、尖った切っ先を、己の腹へと向けた。
凄まじい勢いで背筋を寒気が走っていく。考えるより先に足が動いた。身体へと狙いを定めた手を、力いっぱい叩きつける。大して強く握られていなかったのか、凶器は硬い音をたてて床に落ちた。
「何をしているのですか!」
肺の空気全てを使う勢いで声を発する。人生で一度も出したことのない怒声だ。悲鳴とも言い換えられる響きをしていた。近所付き合いを重んじる彼らしくもない、近隣住民への迷惑など欠片も考えていないほどの声量をしていた。
凶行を働こうとしていた張本人、目の前のルビーはきょとりと丸くなっていた。そこに悪意といった負のものは一切見られない。子どものような純粋さだけが輝きの中にあった。
「だって、『胃』ってやつがあるかどうか知りたいんだろ? 裂けば分かるじゃん」
「ば――」
馬鹿、と不敬にも罵る言葉は途中で消えた。絶句するしかない返答であった。あるか分からない。ならば見ればいい。確かに単純明快ですぐさま解決できる手法だ。けれども、決して人体でやるべきではない対処法である。
「死んだらどうするのですか!」
「腹掻っ捌いたぐらいで死なねーよ」
当然だろうといった調子の声に、青年は言葉を詰まらせる。その通りだ。相手は『ニンゲン』なんて腹を裂いた程度で死ぬような脆弱な存在ではない。『神』という死という結末が存在しないに等しい者なのだ。刃が通ろうと死なない。流す血などない。食事を必要としない。睡眠を必要としない。酸素を必要としない。そんな高次元の存在なのだ。
そうですけれど、と返した声は苦々しいものだ。分かっている。目の前の存在が人ならざる者だとは分かっている。肉体的に死ぬことはない存在だと分かっている。けれども、己と同じ形を取っているだけで、同等の存在扱いしてしまう。敬い奉る存在に対してあまりにも礼節を欠いた行動だ。
すみません、と謝罪の言葉は呟くようなものになってしまった。これでは拗ねた子どもではないか。あまりの幼稚さに、ギリと奥歯を噛み締めた。
気にしてねーよ、と神は手を振って笑う。人間の愚行を咎める気はないようだ。安堵とともに、罪悪感が胸を染める。己の愚かさを見逃されるのは、なんだか恐ろしかった。
「んじゃ、改めて――」
「いえ、いいです。やめましょう。さっきのことは忘れてください」
再び包丁を取ろうと屈む身体より先に、床に落ちた凶器を取る。手早く水で洗って拭き、棚の中に片付ける。封をするように、その扉にもたれかかった。
「いいの? 気になるんだろ?」
「えぇ。いいです。もう大丈夫ですから」
問いかける神に、人間は笑んで返す。ぎこちないものだった。目の前の者はそうでも言わねばまた腹に刃を突き立てんとするような存在なのだ、ぎこちなくもなるだろう。
そっか、と素直に頷き、紅は歩き出す。騒動ですっかり忘れていたが、食事の最中だったのだ。食べ物は無駄にしてはいけない。料理したからには、食べきる義務がある。それがどこに消えていくのか分からなくとも。
慌てて背を追い、各自の席に座る。二人一緒に残ったパンに手を伸ばし、齧り付いた。
焼けたパンの表面が砕ける小気味良い音が、朝のダイニングに響いた。
季節変わり、染み渡り/嬬武器雷刀
タオルの隅と隅を持ち、大きく振り上げ勢い良く下ろす。水気たっぷりのそれが、パンと軽やかな音とともにまっすぐに広がった。
皺の減ったそれを吊し、また新たなタオルを伸ばし、吊し、伸ばし、吊し。慣れた様子で作業をこなしていく。二人分の洗濯物が入ったかごの中身はどんどんと減っていった。
バスタオル二枚干したところで、雷刀は大きく息を吐く。洗濯物干しなど、普段なら苦ではない。けれども、今日はさすがに気が滅入った。なにせ、日差しも強ければ気温も高い。今朝のニュースによれば、猛暑日になるとのことだ。午後の強い日光が降り注ぐベランダは、蒸し暑さで満ちていた。
あっつ、と萎れきった声を漏らし、少年は洗濯物から視線を逸らす。コンクリートと鉄パイプで構成された欄干の向こう側、兄弟二人で暮らす部屋の外には青空が広がっていた。絵の具をチューブから出してそのまま塗りたくったような、目に痛いほどの青だ。視界いっぱいに広がるその中に、雲の白など欠片も見当たらない。世界は青色で染め上げられていた。
階下から音が湧き上がってくる。蝉の音だ。短い生を受けた虫たちは、空間を支配せんとばかりに鳴き声を上げていた。
焼かれるような強い日差し。湿度を孕んだ熱い空気。青一色の広大な空。うるさいほどの蝉の音。
「夏だなぁ……」
夏の要素全てを詰め込んだような風景に、朱はしみじみと呟く。肌身に感じる四季に、先ほどまでの沈んだ様子は薄れていた。いっそ感嘆の色が見て取れるほどだ。
ふぅ、と息を吐く。このまま立ち尽くしていては、夏の空気に焼かれるだけだ。早く終わらせ、クーラーのよく効いた室内で冷たいアイスでも食べたいものである。よし、と漏らし、まだ中身が半分はある洗濯かごの中に手を突っ込んだ。
タオルを広げて干し、Tシャツをハンガーに掛けて干し、下穿きや靴下をピンチに挟んで干し、ズボンを吊して干し。茹だるような空気の中、少年はテキパキと作業をこなしていく。ヘアピンで留めて晒した額に汗が浮かぶ。珠となったそれが、形を崩して流れ肌を伝った。腕を持ち上げ、シャツの袖で乱暴に拭う。黒いシャツの一部が、一層深い闇色に染まった。
全て干し終え、雷刀はぐっと身体を伸ばす。何度も屈んでは伸びを繰り返した腰は、強い疲労を訴えていた。猛暑の最中頑張って仕事をこなしたこの身を早く労ってやろう。アイスというご褒美を与えてやろう。そんなことを考えながら、少年はかごを片手にベランダを出た。
ガラス戸を閉め、日を通す薄いカーテンで覆う。クーラーが正常に稼働している室内は、外とは比べものにならないほど涼しい。これこそ、人間が暮らすに適した温度だ。ほぅ、と思わず溜め息が漏れた。
かごを洗面所に戻しに行こうと、廊下へ続く扉へと向かう。もうすぐノブに手が届くというところで、ガチャリと音をたてて目の前のドアが開いた。
「ただいま帰りました」
「おー。おかえり」
現れたのは、朝から農園へと繰り出していた烈風刀だった。つばの広い麦わら帽子の下にある顔、その白い頬には少しだけ泥が付いている。夢中で作業をしていたことがよく分かる姿だった。汚れてんぞ、と頬を示してやる。あぁ、と漏らし、彼は首に掛けたタオルで薄く塗られた土を拭った。
「やっとスイカが穫れたんです。冷やして夜に食べましょう」
ほら、と弟は傍らに抱えていた緑と黒の球を掲げる。こぶりではあるが、良く張りツヤのある姿はスイカらしさに満ちていた。球の向こう側、こちらを見る浅葱の瞳は輝きに満ちている。彼がどれほど甲斐甲斐しく野菜たちの世話をしているかなど、時折手伝う程度の己でも知っている。丹念に丁寧に愛情たっぷり注いだのそれがようやく無事形を成したのだ、子どものようにキラキラと瞳を輝かせるのは無理ないだろう。
真ん丸なそれに、夏を象徴するそれに、雷刀はくすりと笑みをこぼす。
カーテンの隙間から差し込む強い日差し。ガラス戸の向こうの青空。うっすらと聞こえる蝉の声。クーラーの効いた部屋。弟謹製のスイカ。
「夏だなぁ」
しみじみと漏らし、朱はトロフィーのように持ち上げられたそれを受け取る。冷蔵庫入れとくから着替えてきな、と作業服そのままの碧へと投げかけた。ありがとうございます、と弟は踵を返し、リビングを出た。
落とさないようにしっかりと抱え、キッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開き、中身を軽く整理し、スイカを中に入れる。青白いライトを浴びるそれは、サイズに反して堂々としていた。
アイスはまた今度にしよう。冷たい甘さは、夜まで楽しみに取っておくべきだ。
夏を象徴するあの味を想起しながら、少年は笑みをこぼす。早く冷えろよ、と頭の中で緑に投げかけながら、白く厚い扉を閉めた。
スタンプカードと蝉時雨/ユーシャ
賑やかな演奏が校庭内に響いていく。鐘と弦楽器が奏でるリズムに合わせて、子ども達の元気の良い歌声が朝の清澄な空気の中広がった。
歌が終わると、今度は男性の大きな声がスピーカーから流れた。ラジオ体操第一、のかけ声に続き、ピアノの音が響き渡る。軽快なメロディに乗るように、弾んだ声が小さなラジオから響いた。
いち、に、さん、し、と音楽に合わせ、カウントアップが始まる。全てに促音が付いたような跳ねる掛け声に合わせ、子どもたちは腕を上げ、広げ、下ろしを繰り返した。
指示と数字に合わせ、ユーシャは身体を動かす。その動きはかなり鈍いものだった。のろのろと腕を上げ、重力に従うようにだらりと下げる。いっそ投げやりにすら見える動作だ。実際、情熱もやる気も何も無いものである。
重い瞼を必死に上げながら、少年はどうにか体操を続ける。正直なところ、身体を動かすのはおろか立っているのもやっとな状態だ。だって、眠いのだ。無理矢理叩き起こされた時から睡魔がずっとまとわりつき、眠りの海へと誘ってくるのだ。目を開けることが精一杯なくらいである。
分かっている。悪いのは己だ。早朝にラジオ体操があることを知りながら、日付が変わるような時分までゲームに熱中していた己が悪いのだ。母は絶対ラジオ体操の時間に叩き起こすと分かっていながら自ら睡眠時間を削った己が悪いのだ。後悔すると分かっていて画面にかじりついた己が悪いのだ。分かっていても、この夏休み恒例行事が恨めしくて仕方が無かった。
どれだけ眠かろうと、どれだけ身体が重かろうと、足を運び出席したからには身体を動かさねばならない。いっそ耳障りなほど元気な声に従い、少年は腕を、足を動かす。眠気と気だるさに支配された身体は、小気味よいリズムに必死にしがみついた。
深呼吸、の掛け声に、ユーシャはほっと息を吐く。これで終わりだ、と思うと、今までよりも動きが良くなってしまうのだから現金である。息を吸って、吐いて、を繰り返す。落ち着きをもたらすリズムは、更なる眠気を呼び寄せたように思えた。
ピアノの音色が鳴り止む。これで今日のラジオ体操は終わりだ。わぁ、と小さな子どもたちが、前方に設置された長机目掛けて走っていく。元気だなぁ、と眠い目を擦りながら、少年も駆け行く子ども達の後ろについて並んだ。
人数が多いため、列が進むスピードはあまり早くない。一歩、また一歩と細かに進んでいく。並ぶ中、夏の日差しが肌を焼く。昇ったばかりの太陽は、既に活発な活動を始めていた。
ラジオの音楽が消えた校庭に、別の音色が広がっていく。蝉の鳴き声だ。夏のみ姿を現すあの虫は、朝も早くだというのに大声で喚き立てた。寝不足の脳味噌にはいささか厳しい音に、少年は苦々しく目を細めた。
じりじりと進み、ようやく己の番が訪れる。押すよー、という教師の声に、首から提げたスタンプカードを外して差し出した。数字が書かれたマスに、赤い判がぽんと押される。四角いカードの中に、桜が一輪咲いた。
「ありがとうございます……」
「ユーシャ君、眠そうだねぇ」
ふにゃふにゃとした声で礼を言うと、当番の教師は愉快そうに笑った。こくりと頷くことで返事をする。あまりの眠気に声を出すのすら億劫だった。
スタンプはもらった。あとは帰るだけだ。重い足取りで列を離れる。少し寝なねー、と優しい言葉が背に投げかけられた。睡魔がどんどんと支配範囲を広げていく脳味噌は、返事をすることを放棄してしまった。
ふぁ、と大きくあくびをする。教師の言う通り、帰ってから少し寝よう。このまま起きているのは不可能だ。母に小言を言われるだろうが、眠いものは眠いのだから仕方が無い。耐えられるわけがなかった。
もう一度大きなあくびをしながら、少年はゆっくりと家路を辿る。桜咲くスタンプカードが、夏の朝のほんの少しだけ涼しい風に吹かれて揺れた。
その美しさは だけが知っていればいい/雨魂雨
少しだけ屈みこんで、上を向く。見上げ覗き込んだアイオライトは、ぱちりと瞬き一つ落とした。
「……何? どうしたの?」
「いや、何でお前目ぇ隠してんの?」
見下ろしてくる腐れ縁に、魂は姿勢を崩さぬまま首を傾げた。久方ぶりの問いに、冷音ははぁと溜め息を漏らす。今更何を、と言いたげな重さをしていた。
「人の目を見るの苦手だって昔から言ってるでしょ。自分で隠した方が便利なの」
「視力悪くなんねーの?」
「今年の視力検査、一・〇だった」
ふぅん、とつまらなそうに鼻を鳴らす。見下ろす紺青は呆れ返った様相をしていた。そんな目線など気に掛けず、少年は姿勢を戻し、背を伸ばす。視界に広がるのは、目元全てを覆い隠す青い髪だ。二色一対の瞳が、奥に隠れた青一色の瞳を見つめる。何、と警戒心を露わにした声が投げかけられた。
「キレーなのにもったいねぇ」
常に前髪で隠しているため分かりにくいが、この腐れ縁はとてもいい目の色をしている。本人の純朴で優しい性格をそのまま映し出したかのような、透明感のある濃い青。潜ってようやく分かるような、深い海の青。夜の帳が降りきる直前の、一瞬だけ見せる暗く深い青。美しい色だった。雨の日以外は常に隠しているのがもったいないと思わせる程度には。
綺麗、の言葉に、目の前の少年の動きが止まる。少しだけ日差しの色を映した頬に、ほのかに紅が刷かれた。それもすぐに消え、はぁ、と溜め息が降ってくる。
「褒めても何も買ってあげないよ」
「別に下心で言ってるわけじゃねーよ」
呆れきった声に、蒲公英色の少年は二色の目を細める。何かを要求したくて言ったわけではない。単純に、久しぶりにそう思っただけなのだ。己の身長でも尚屈んで覗き込まないと見えない、大切に隠された瞳。人見知りの彼が作った障壁に阻まれた美しい青。その色が、何故だか恋しく思えたのだ。
「魂こそ、綺麗な目なんだから――」
そこまで言って、音が止んだ。言葉を紡いでいた大きな口が、はっとしたように薄く開き、引き結ばれる。少しだけ逸らされた顔には、気まずげな色が浮かんでいた。
大方、『サングラスで目を隠さなくてもいいのに』と同じような言葉を返そうとしたのだろう。その言葉がどれほど暴力的なものだというのを忘れて。
己の目は彼のように一色に染まったものではない。片目が緑、もう片目が赤と二色で構成されていた。ネメシスは広いが、未だに同じような目を持つ者は外部からやってきたあの教師ぐらいしか見たことがない。それほど珍しいものだった。幼き子どもにとって不気味なほど異常に映り、不躾なほど好奇の目を向ける程度には。
成長した今では指摘する者はいない。けれども、やはり良いとは言いがたい興味を持つ者はいた。腐れ縁である冷音はそのことを知っていた。隣でずっと見ていたのだから当たり前だ。だというのに、それをさらけ出せなどと言おうとした自分がどれほど無神経で、嫌悪的で、申し訳なくて、すぐさま言葉を途切れさせたのだろう。優しい彼らしい。
あー、と声をあげ、魂はぐっと背を伸ばす。己でもわざとらしさに呆れるほどの誤魔化し方だ。けれども、こうやって気にしていない様子を見せなければ、この青はいつまでも気を病むのだ。
「帰り、コンビニ寄ろーぜ。アイス食いたい」
「太るよ」
「毎日どんだけ頭脳労働で糖分消費してると思ってんだよ。太らねーよ」
軽口を叩きながら、二人は歩き出す。靴音が二つ、空間に響いた。
まぁいい。あの美しい色を知るのは、己一人でいい。あの丸くも鋭さを宿した目を簡単に見られるのは、己一人だけでいい。あの純粋で透明な瞳を一心に見つめられるのは、己だけでいい。
二色の瞳がどこか満足げに細められる。ふ、と愉快さを孕んだ吐息が糖分を欲する口からこぼされた。
轟炎従え祓い晴れ/火琉毘煉
ザァ、と葉がさざめく音が辺りに響き渡る。快晴だというのに、今この場はどこか淀み暗くなって見えた――事実、淀んでいるのだから当然である。空気というものは、場に存在するものに影響されやすいのだ。
清澄と混濁の境に立ち、少年は懐に手を入れる。取り出したのは札だ。ピンと張った細長い紙には、暗い朱で複雑な紋様が書かれていた。少年にとっての武器であり、防具である。人差し指と中指で、何枚ものそれを広げて持つ。投げ飛ばすには、この持ち方が一番いい。
鈴音、と無彩色を身に纏う少年は傍らに佇む狐の名を呼ぶ。式神であり相棒である彼女は、物言わずにすっと立ち上がった。首に付けられた大きな鈴がしゃらんと澄んだ音を鳴らした。
黒と赤のブーツに包まれた足が一歩踏み出す。途端、濁った空気が身体にまとわりついた。紅い目がすぃと細められる。この程度の穢れは慣れてはいるが、心地良いものではない。
早く済ませてしまおう。ふっと一息吐き、少年は地を蹴る。同時に、式神も連れ立って飛び出す。アスファルトが細かい塵をあげた。
特に淀んだ場所目掛け、札を投げる。霊力を込めたそれは、宙で――否、狙った『それ』の表面に張り付き炎を上げた。ゴォと燃え上がる音。激しいその中に、音にならない、けれども不快感をもたらす響きが混じった。
まず一匹。止まることなく駆け回り、札を投げては燃やしを繰り返す。ひとところに留まっては、数で押されてしまうことがある。動き回り、元より狙いをを定めさせないのが肝要だ。
霊力を持って、少年は淀みの原因を晴らしていく。時折迫り来る者はいれども、すぐに式神が喉元に噛みつき火を放ち燃やした。炎が燃え盛る音が陰りほの暗い場に響いていく。濁り沈んだ空気を晴らしていく。
大きな個体に四方八方から札を貼り付ける。ふ、と霊力を込め息を吐くと同時に、紋様が光り特大の火柱となって燃え盛った。鼓膜を破かんばかりの――実際は鼓膜など震わせていないが――地を響くような音が、火炎とともに爆発する。霊力を糧に燃える火が、音ごと全てを焼き尽くす。
炎が消えると同時に、サァと風が辺りを吹き抜ける。どうやら今のが最後の一匹だったらしい。重い空気は常の涼やかな様相を取り戻していた。
余った札を懐にしまい、少年はパンパンと手を叩いて払う。そのまま目元を隠すように片手を掲げた。ハーッハッハ、と高笑いがようやく静けさを取り戻した空間にうるさく響き渡る。
「悪しき妖どもよ! 地獄の業火に焼かれし弱き者どもよ! 紅蓮に包まれ輪廻より外れた虚空へと消えるがよい!」
「うるさいわよ」
哄笑し叫ぶ煉を、鈴音は冷静な様子で一蹴する。少年はフッと格好付けたように笑みを漏らし、手を下ろす。どうやら満足したらしい。はぁ、と式神は呆れと諦めの溜め息を漏らした。
「ボルテ軒行くか」
「あら、いいの?」
「腹減った」
そう言って一人と一匹は歩き出す。淀み晴れ涼やかさを取り戻した風が、仕事を終えたばかりの退治屋の背を押した。
畳む
書き出しと終わりまとめ15【SDVX】
書き出しと終わりまとめ15【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその14。相変わらずボ10個。
成分表示:嬬武器兄弟3/はるグレ2/ハレルヤ組1/後輩組1/ライレフ3
次は中火で炒めましょうね/嬬武器兄弟
あおいちさんには「優しいのはあなたです」で始まり、「だから君がいい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字程度)でお願いします。
何でそんなに優しいんだよ。
心の中で漏らした言葉はどうやら口を突いて出てしまっていたらしい、目の前の藍晶がぱちりと瞬いた。
「何がですか?」
ことりと首を傾げる弟に、兄は苦々しく唇を横一文字に結ぶ。眇められた目には悔しさが多分に浮かんでいた。うぅ、と拗ねたような声が喉からこぼれ落ちる。なんとみっともないのだろう、と情けなさと腹立たしさが胸に渦巻いた。
俯く片割れの様子を不思議そうに見やりながら、烈風刀は目の前の皿に箸を伸ばす。黒が所々に浮かぶ野菜炒めを取り、口に運ぶ。よく噛み締め、飲み込む。美味しいですよ、と少年は再び賛辞の言葉を口にした。
「……おせじとかいいから」
「貴方相手にお世辞を言ってどうするのですか。美味しいから『美味しい』と言っているのですよ」
変なところで疑り深いですよね、と対面に座る彼は呆れたように言う。疑り深いのではない、事実なのだ。現に、自分の口の中に放り込んだ野菜炒めは、炭と形容した方が相応しい味と見た目をしていた。弟の皿にはできるだけ焦げがないものを取り分けたが、それでもどれも一カ所は黒い斑点ができているような有様だ。日々料理を探求し、舌の肥えている彼が『美味しい』なんて言えるものではないということぐらい、鈍感だと評される自分でも分かった。
「そーゆーとこが優しいっつってんの」
「いや……意味が分からないのですけれど……」
むくれながら言う朱に、碧は訝しげな目を向ける。深青の箸がまた野菜を掴み、赤い口に放り込む。整った顎が動く度、複雑な感情が胸を掻き乱した。誤魔化すように白米を掻き込む。柔らかな甘さが炭の風味と濃い調味料で満たされた口内を洗い流した。
「焦げはありますがきちんと全部に火が通っていますし、味付けが不慣れだからと焼き肉のタレを使ったのは正確な判断です。初めて作ったにしては上出来ですよ」
「……嘘だぁ」
「こんなことで嘘を吐いてどうするのですか」
それはそうだけど、といじけたようにこぼす。彼の言っていることは正しいが、目の前の代物はどう考えても『美味しい』『上出来』という評価には繋がらない仕上がりだ。弟のことを信じたくとも、己の味覚とプライドが許してくれなかった。
「また作ってくださいね」
飛んできた言葉に、は、と呆然とした声が漏れた。こんなお粗末なものを食べて『また作ってほしい』だなんて、さすがにどうかしている。驚愕が伝わったのだろう、目の前の片割れはふわりと笑った。
「貴方の料理が食べたいのです。貴方のものだからいいのですよ」
結った緑に願う/はるグレ
AOINOさんには「届きそうで届かない何かがあった」で始まり、「来年の今日もあなたといたい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以内でお願いします。
届きそうで届かないそれを目指す。めいっぱいつま先立ちし、細い腕を限界まで伸ばす。それでも、頭上の緑はこの手に収まってくれなかった。
「これですか」
ひょいと手に持った薄紙が横から取られる。目の前でねじり結われていく銀のラッピングタイを見て、マゼンタの瞳が強く眇められた。
「自分でできたわよ」
「そうでしょうか……」
笹に短冊を結び終えた始果は首を傾げる。踵を地面につけ、グレイスは頬を膨らませる。全体重を掛けていたつま先が少しばかり痛みを訴えた。もうちょっとで届いたわよ、と少女は唇を尖らせる。嘘であり負け惜しみである。自分の身長では、つま先立ちしてやっと指先が触れる程度の場所だった。だからこそ、結びつけようとしたのだけれど。
「あんたは短冊書いたの?」
鮮烈な躑躅が、頭一つ上の丸い蒲公英を見やる。問われた当人は、襟巻きに口元を埋めるように小首を傾げた。長い沈黙の後、あぁ、と合点いったような声をあげた。
「書きました」
あら、と少女は声を漏らす。この少年はイベント事に対する興味が薄い。聞いたものの、七夕の短冊を書くなんてことはしていないと決めつけていた。
「どこ? 何て書いたの?」
きょろきょろといろがみだらけの緑の大群を見回す。あそこです、と指差した先は、彼の身長よりもずっと高い場所だった。どうやって括り付けたのだろうか。何と書いてあるのだろうか。考えながら目をこらす。自分よりも頭三つは高い場所にある薄緑の紙には、細い文字で何かが書いていることしか見えなかった。
目を細め必死に紙を眺めるグレイスに、始果は柔らかに笑む。えっとですね、と漏らす声は彼らしくもなく感情が滲んだ音に聞こえた。
「来年も君といたい、と書きました」
放たれた言葉に、シアンに縁取られたマゼンタがぱちりと瞬く。数拍、日に焼けていない白いかんばせが真っ赤に染まった。
「……いるに決まってるでしょ。ネメシスから出るつもりなんてないわよ」
ようやくあの暗い海から輝かしい世界にやってこられたのだ。待ち望んだ場所から出ていくなどあり得ないことだ。
一緒にいてくださいね、と狐は躑躅を見つめる。少女はふぃと視線を逸らした。尖晶石が居心地悪そうにうろうろと泳ぐ。己が書いた、少年が結んでくれた短冊が視界に入った。ほんの数分前に必死に考えしたためた文章が頭の中に甦った。
ずっと一緒にいられますように。
数日後には元通り/ハレルヤ組
AOINOさんには「傷口には触れないで」で始まり、「そう思い知らされた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以内でお願いします。
「傷口には触れちゃダメデスヨ! 絶対デスカラネ!」
頬を膨らませ、立てた人差し指でビシリとこちらを指すレイシスに、雷刀ははい、としおらしく返事をする。本当は患部が痒くてかきむしりたくてたまらない。しかし、今ここで実行しては二人分のお説教が頭にのしかかってくるだろう。絆創膏に伸ばしかけた手を気付かれないようにそっと下ろした。
「かさぶたを掻くのも駄目ですからね」
隣から烈風刀が追撃を放つ。まさしく考えていたことを潰され、朱は喉が潰れたような音を漏らす。はぁ、と呆れ返った嘆息が機械の駆動音満ちる部屋に落ちた。
今日のバグ退治は散々だった。数えられないほど相対してきた新型バグは、こちらの動きを学習したのか斬撃を避けられることがわずかながら増えてきた。飛び回り逃げ回るそれに躍起になって追いかけているうちに、茂みに顔を突っ込む羽目になってしまったのだ。緑の中に身を隠した外敵を排除することは叶ったが、代わりに頬にたくさんの傷が生まれた。一部は枝に引っかかったのか、血が滲むものすらあった。仕事を終え合流した弟と、作戦室で待っていた愛しい少女に怒られたのは言わずもがなである。
痛みを訴える己を無視して容赦なくアルコール消毒され、塗り薬を丹念に塗り込まれ、可愛い柄の絆創膏を貼られ。この上なく適切な処置だ、己の代謝も合わせて数日もすれば治るだろう。血は出たものの傷口は浅かったようだから、痕が残ることもないはずだ。
しかし、とちらりと隣を見やる。桃と碧は真剣な顔で話していた。毎日絆創膏貼り替えてくだサイネ。もちろん。掻かないように見張りますから。お願いしマス。絆創膏も剥がしにくい物に買い直した方がいいですね。頬に指を当てた少女と顎に指を当てた少年は、明らかに己の対処について話していた。どう聞いても子どもの面倒を見る親の会話だ。じっとするのが苦手で、傷ができる度掻いて悪化させ、かさぶたになったと思ったら好奇心で剥がすような己である。反論できないのが悲しい。
雷刀、と固い声。視線を向けると、そこには変わらず険しい表情をしたレイシスがいた。美しい桃の眉はぎゅっと寄せられ、丸く輝かしい薔薇輝石の瞳も眇められている。その澄んだ色の中には、心配の色が多分に浮かんでいた。
「烈風刀にも言いましたケド、毎日薬を塗って絆創膏を貼り替えてくだサイネ。雑菌が入らないようにしなきゃいけマセンカラ」
「何度も貼り替えては逆に雑菌が入る機会が増えてしまいますし、お風呂上がりに替えるのが一番でしょうね。僕も気を付けますが、忘れずにやってください」
真剣にこちらを思い遣る桃と碧に、朱は分かったよ、と返す。いつも通りに返したつもりが、どこか拗ねたような響きになってしまった。これではまるきり子どもではないか。思わず顔をしかめる。
「面倒くさがらない」
「早く治すためデスカラネ!」
声と表情が合わさり、最悪の解釈を生み出したようだ。少年と少女は表情を険しくしながら言葉を紡ぐ。分かってる、大丈夫、ちゃんとやる、と項垂れ両の手を上げて返した。降伏の意思表示である。
お願いしマスネ。ちゃんとしてくださいね。二人分の固い声が頭上から降ってくる。どちらも内側に込められた温かで柔らかな心が伝わってくるものだった。
それにしても、と心の中で呟く。たかが顔の傷でこれほど心配するだなんて、二人はどれだけ優しいのだろうか。相手が怪我に頓着し悪化させる自分であることを差っ引いても、大袈裟なほどである。
こんなに心配させるほど、己は信用されていないのだ。こんなに心配してくれるほど、二人は己を大切にしてくれるのだ。そう思い知らされた。
二度目の制止は言う暇を与えてくれなかった/はるグレ
葵壱さんには「私に少し足りないものは」で始まり、「その声がひどく優しく響いた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字程度)でお願いします。
己に足りないものは、辛抱とか、我慢とか、そういうものなのだろう。
闇の中、ずっと待つ。否、『ずっと』なんて言葉を使うほど長い時間ではない。きっとまだ三十秒も経っていないだろう。けれども、この暗い世界に放り込まれたのは随分前のように感じた。
静寂と暗闇に耐えきれず、そっと目を開ける。目の前には、月色が広がっていた。見知った月色。愛しい月色。彼を象徴する色が、目が、視界いっぱいに映るほど迫っている。事実に、ぶわりと顔が熱を持つ。ひくりと喉が引きつった音を漏らした。
「す、すとっぷ!」
「はい」
叫び、ぐいと目の前の胸を押す。あんなにも近くにあった月は、従順な声とともにすぐさま引いていった。視界いっぱいの黄色が消え、広がるは愛しい人の顔だ。月が、金の双眸が、こちらを射抜く。見つめられることなど普段と変わらぬことだというのに、今は何故か逃げたくてたまらない。思わず顔を背けようとするが、両頬を手で包まれ顔を固定された状態では叶わなかった。
まただ、とグレイスはギリと歯を噛み締める。付き合ってからもう随分と経つ。手を繋いだり、抱き締めたりと、恋人らしいこともたくさんしてきたつもりだ。けれども、こうやってまっすぐに向き合って、頬を優しく捕らえられて、目を閉じ口付けるなんて甘やかな行為は未だに慣れることができないのだ。口付けなんて彼が不意打ちで何度もしてくるのだから、多少離れているはずだ。けれども、意識をするだけで何もかもが駄目になる。悔しいったらなかった。
すり、と親指が頬をなぞる。自分のものより大きなそれは少しかさついていて、温かだ。愛しい温もりと優しい感触に、そっと息を吐く。バクバクと騒がしい音をたてる心臓が、ほんのわずかに凪いだように思えた。
「……落ち着きましたか?」
「さ、最初から、落ち着いてるわよ」
穏やかな問いに、つかえつかえに返す。見え透いた嘘だ。誤魔化される優しさは持っていない彼は、そうでしょうか、と疑問符が付いた声を返す。そうよ、と思わず語気を強くした。
「では、やりましょうか」
両の頬を捕まえたまま、始果は言う。常と変わらぬ声が、有無を言わせぬ声が、酷く優しく、どこか恐ろしく響いた。
「クーラー効いた部屋で食べるアイスこそ至高」とか言うやつが全部悪い /後輩組
AOINOさんには「たったひとつ欲しいものがあるの」で始まり、「今日も空が青い」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
ただ一つ欲しいものがある。願いを胸に、少年たちは手を握った。
生っ白い手が振り上げられ、青に包まれた腕がそっと上げられ、床に転がった茶の腕がかすかに動く。ぽん、と気迫溢れる声とともに、大小三つの手が寄せられた。
「えぇ……」
大きく開かれた少し小ぶりな手。力なく開かれた剣胼胝のある手。そして、ぎゅっと握られた己の手。一度きりのじゃんけんは、青い少年一人の敗北で締めくくられた。
よっしゃ、と魂は力いっぱい開いた手を頭上に歓声をあげる。床に寝転がった灯色は、腕を動かすことなく目を伏せていた。すぐにでも眠りの海に沈み行く彼の肩を掴み、名を呼びながらゆさゆさと動かす。このまま眠られては困る。
「じゃーあー、オレはしろくまな。背高くてフルーツめいっぱい入ってる方」
不機嫌そうに薄く目を開けるはしばみ色の横で、くちなし色は上機嫌に言う。椅子の上であぐらを掻いて座る様は浮かれたものだ。
「灯色は?」
「別に……。適当にしといて……」
尋ねる冷音に、灯色はむにゃむにゃと寝言めいた声で返す。それもすぐに穏やかな寝息に変わった。もう眠ってしまったようだ。闘いの参加者であり勝者といえど、彼は魂に無理矢理巻き込まれたのだ。せっかくの勝利への頓着も何もないのは当然と言える。相変わらずマイペースで、睡眠に貪欲な友人だ。
「じゃあしろくま三つね」
小さく息を吐き、青は立ち上がる。身体が重くて仕方が無い。それでも、己は敗者だ。賭けに乗った以上、どんな結果であれど勝者には従わなければならない。財布をポケットに突っ込み、のろのろとした足取りで出入り口へと向かう。よろしくー、と気楽な声が飛んできた。わざと神経を逆なでするようなそれに、思わず眉を寄せる。魂のだけわざと溶けさせて持って帰ってやろうか、なんて意地の悪いことを考える。そんなこと、溶けるまであんな外気温とともに過ごさねばならない地獄を考えなくても絶対にやらないのだけれど。
自動ドアを開け、サーバー室を出る。すぐに、むわりとした空気が冷房で冷やされた身体を包みこんだ。うわ、と思わずげんなりとした声が漏れる。それも夏の空気に溶けて掻き消された。
はぁ、と溜め息一つ。冷音は重い足取りで昇降口へと向かう。目指すは学園から少し離れた場所にあるコンビニだ。『じゃんけんで負けたやつがアイス買ってくる』なんて賭け事に乗り、負けた責務を果たさねばならない。
とぼとぼと廊下を歩く。ただでさえ空調が無い廊下は暑いというのに、今日は夏の日差しが燦々と降り注いでいるのだから尚更暑くてたまらない。外はこれ以上の気温なのが容易に想像できるのだから嫌になる。はぁ、とまた重い溜め息を吐いた。
細めた目で、ガラス窓の向こうを見やる。夏の空は、今日も憎たらしいほど青かった。
温もり結んで/ライレフ
AOINOさんには「音もなくほどけた」で始まり、「だから君がいい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字程度)でお願いします。
繋いだ手は音もなくほどけた。
寒いから、なんて理屈を捏ねられ繋いだそれはどちらともなく離れ、愛おしい熱は物言わずに去っていく。名残惜しさを覚えるが、ここは二人で暮らすアパート、そのエントランスまでほどない場所だ。時刻はもう夜に近く人通りは少なくなっているとはいえ、住人とすれ違う可能性はゼロではない。男子高校生二人が手を繋いでいる姿を見られるだなんて事態は、さすがに回避したい。
持った手に揺られ、ビニールバッグがカサカサと音をたてる。二人の間に響くのは無機質なそれのみだ。中身いっぱい詰まった鞄二つが鳴く中、兄弟は上階へと向かう。ライトで照らされた廊下を歩き、己たちの住まいに繋がる灰色の扉の前に立つ。片手で器用に鍵を取り出し、烈風刀は錠を開ける。カチャン、と無機質な音がコンクリートに打たれた廊下に響いた。
ただいま。おかえり。互いに帰宅の言葉と迎える言葉を交わしあい、靴を脱ぐ。踵を踏んで脱ぐ兄を横目に、弟は片足ずつ脱いで向きを整えて置いた。
「なー、烈風刀」
先に廊下に上がった雷刀が名前を呼ぶ。ようやく帰宅したというのに、どこか寂しげな音色をしていた。
何ですか、と返す前に、空いた手に温もりが訪れる。甲に触れた指先から点のように宿り、肌をなぞって線を描き、手のひらと手のひらを合わせてしかと触れ合う。開きっぱなしの指の間に、胼胝ができた硬いそれが潜り込む。離ればなれになった二つは再び寄り添い、つい数分前までの形を取り戻した。
「もうちょっと、手ぇ繋いでたい」
だめ、と問う声は甘える時のそれだ。わざわざ軽く屈んで下から覗き込む朱の瞳も、少し潤んだねだる時のそれだ。求めていることがよく分かった。
兄の様子に、弟は難しそうに眉をひそめる。外と違って家の中はまだ暖かいのだから、手を繋いで温もりを分け合う必要などない。そもそも、今から料理をせねばならないのだから手を繋いでいる暇など無い。だというのに、振りほどこうという気がなかなか起きないのだから、大概だ。
「……せめて手を洗ってからにしてください」
逡巡、絞り出すように言葉を生み出す。合理的であるはずの否定の言葉は吐くことができなかった。非効率的だ。愚かだ。分かっていても、胸に燻る思いは手放すことを選択できなかった。
だって、部屋の暖かさより、空調の温もりより、何よりも、愛しい人の体温がいい。
「分かった!」
パァと表情を明るくし、朱は元気よく返事する。早く洗お、と繋いだ手を引かれる。わ、と小さな悲鳴をあげならがも、少年は靴下で滑るように廊下を駆け出した。
何よりも大切な熱は、二人の間に灯ったままだ。
思い出飾る色たち/ライレフ
葵壱さんには「幸せが逃げて行く気がした」で始まり、「そっと思い出を捨てた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以内でお願いします。
幸せが逃げていくとはよく言ったものだ。
一つ手を取る度――幸せが詰まっていたそれらを手に取る度、はぁ、と溜め息が漏れる。あまりに多すぎて、肺の中身が全て無くなってしまいそうな心地だ。意識して呼吸すると、舞い散る埃が鼻をくすぐる。くしゅん、と大きなくしゃみが飛び出した。
「手を止めない」
むず痒さに鼻をこすっていると、強い声が飛んでくる。言葉の主は、テキパキと手を動かしていた。己とは全く違う、容赦など一切無い手つきだ。
「何でこんなに段ボール箱を溜め込むのですか」
「ほら……いつか何かに使うかもしれないじゃん……?」
「使わないからこんなところで埃を被っているのでしょう。全部捨てますよ」
苦い顔で首を傾げる兄を切り捨て、弟は通販サイトのロゴが書かれたダンボール箱を手早く畳んでいく。長方形の浅い箱がいくつも畳まれ、積み上げられていった。見かけの嵩は減ったものの、数はあまりにも多い。縛って捨てるのは少し骨が折れるだろう。それも全て己がやらねばならないのだけれど。
「何で包装紙なんて取ってあるのですか。使わないでしょう」
クローゼットの隅、小さな段ボール箱の中に畳んで入れられた包装紙の束を掴み、烈風刀は溜め息を吐く。呆れきった音色をしていた。
「いや、それはダメ」
色とりどりのそれを燃えるゴミ分別用の袋に向ける腕を掴む。静止の声は強いものだ。『ゴミ』と判断されたそれへの想いが詰まっていた。
雷刀の言葉に、烈風刀はぱちりと瞬く。予想外の硬い声に、込められた力の強さに、呆けたように動きが止まった。それもすぐに解け、眉間に皺が寄る。片割れを見やる目は厳しいものだ。
「使わないのでしょう。取っておいても仕方ないではないですか」
「だってそれ、全部烈風刀がくれたプレゼントのやつだもん」
恋人になってから初めてのクリスマス。世界生誕パーティーが終わって二人きりになった誕生日。帰ってから赤らんだ顔でそっと差し出してきたバレンタイン。全て、恋人である烈風刀からもらったプレゼントを飾った紙であった。どれも大切な思い出の一つだ。捨てられるはずがない。
兄の言葉に、弟は何度も瞬きをする。沈黙数拍、ようやく意味を理解した彼の顔にぶわりと朱が滲んで広がった。厳しく結ばれた口は解け、ぱくぱくと開閉を繰り返している。そこから音が紡がれることはなかった。
「…………それほど大切ならば、こんなところではなくもっと別の場所にしまっておくべきではないのですか」
ようやく通常の形を取り戻した口が紡ぎ出したのは、依然厳しいものだった。う、と言葉に詰まる。反論しようがない言葉であった。だってさぁ、と抵抗する声に、はぁ、と溜め息が被された。
「捨てますよ」
「やだってば!」
ゴミ袋に伸びる手に縋る。すぐさま振りほどかれ、鋭い視線が向けられる。しかし、そこには今まで冷たさはなかった。
「プレゼントぐらいまたあげますから」
だから、今までのは捨てます。
瞼を下ろし、愛し人は言う。呟くようなものだった。けれども、確かな言葉であった。
予想外の言葉に、歓喜を呼び起こす言葉に、朱い目が瞠られる。悲しみの色を浮かべていた顔が、ぱぁと明るさを取り戻した。
「いや、それはそれとして捨てんのやだ」
「諦めなさい」
誤魔化されないぞとばかりにすぐさま腕を伸ばすが、完全に予測された動きで躱された。むぅ、と頬を膨らませるが、片割れに通用するはずがなかった。
「次の機会を楽しみにしててください」
どこかいたずらげに言って、烈風刀は手にしたそれを燃えるゴミ用袋に入れる。手付きには先ほどまでの厳しさなど見えず、壊れ物を扱うような繊細さがあった、
そっと、思い出の詰まった色たちが捨てられた。
濡れ髪に病/嬬武器兄弟
AOINOさんには「空はこんなに青いのに」で始まり、「そう小さく呟いた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以内でお願いします。
空はこんなに青いのに。太陽はあんなに輝かしいのに。風はあんなにそよめいているのに。
「何でこんななんだよ……」
目元を腕で覆い、雷刀は呟く。非常に重苦しく苦々しい音色をしていた。低い音に反して、響きは力のないものだ。普段の彼らしい明るさや軽快さは欠片も見られない。はぁ、と空気を吐き出すように溜め息を漏らす。総じて彼らしからぬ姿だ。
「髪を乾かさないでクーラーの効いた部屋でそのまま腹を出して寝たからではないですか」
自業自得です、と険しい声が降ってくる。重い腕を下ろし、朱は声の方へと視線だけやる。ペットボトルと体温計を持った弟の姿がこちらを覗き込んでいるのが見えた。
ほら、と小さな体温計が差し出される。ベッドに寝転がったまま受け取り、掛け布団の中に潜らせ脇に挟んだ。沈黙十数秒。ピピピ、と高い電子音を合図に、布団の中から体温計を取り出す。液晶画面には、三七・〇とデジタルの数字が示されていた。
「まだ少しありますね……。水分を取って大人しく寝ていてください」
体温計と交換で、ペットボトルを受け取る。力の入りづらい手でキャップを握る。あらかじめ開いていてくれたのか、固いはずのそれはすぐに外れた。少しだけ起き上がり、ボトルを傾ける。ゴクゴクと音をたて、中身を飲み下した。水分が渇いた喉を潤していく。スポーツドリンク特有のわずかな甘さが舌に残った。
「薬の時間になったら起こしますから、大人しく寝ていてくださいね。起き上がってはいけませんよ」
「えー……」
厳しい言葉を残し踵を返す弟の背に、兄は不満げな音を漏らす。普段のそれに似ているようで、幾分か細いものだった。
「暇なんだけど」
「知りません。風邪をひいた自分を恨みなさい」
「宿題すんのもダメ?」
「駄目です」
いつもなら止めねーのに、とからかうように投げかける。すぐさま、やる気なんて最初から無いでしょうが、と棘の生えた音が返ってきた。
「夜、熱が下がってたらしてもいいですよ」
「……朝まで寝てる」
「薬の時間になったら絶対に起こしますからね。ちゃんと食べて、ちゃんと薬を飲んで、ちゃんと治してください」
分かりましたね、と振り返って烈風刀は言う。指差し念を押すおまけ付きだ。はい、と消沈した声が自室に落ちた。彼の言うことは全て正しい。軽口なんて叩かずに従うべきだ。分かってはいるが、ずっと寝ているだけでは暇だ。病気で弱っているせいか、どこか寂しさすら覚える始末だ。病は気から、とはこのようなことを言うのだろうか。熱に浮かされた脳味噌の中、些末な疑問が思い浮かぶ。
「おやすみなさい」
一言残し、碧は部屋を出る。響いた音は、厳しく言いつけているようにも、優しく寝かしつけているようにも聞こえた。
パタン、と軽い音をたてて扉が閉じる。それだけで、世界に隔絶されたように錯覚する。部屋に一人きりで寝るなど当たり前なのに、こんなにも心細く思うなんて。はぁ、とまた重い溜め息を吐いた。
「早く下がんねーかなー……」
そう小さく呟いて、少年は瞼を下ろした。
手→鞄→ベッド↓/嬬武器兄弟
あおいちさんには「大切なものをなくしました」で始まり、「謎は謎のままがいい」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字程度)でお願いします。
「何でそんな大切なものなくすのですか!」
「オレが知りたい!」
ガサガサ。ゴソゴソ。バサバサ。騒がしい音が部屋に満ちる。二人がかりで隅々まで部屋の中を漁る。それでも、目当てのものは見当たらなかった。
「学校に置いてきたのではないのですか!」
「だと思ってこないだ探してきた! 無かった!」
「じゃあどこにあるのですか!」
「知らねぇよ!」
叫び散らしながら必死に手を動かす。鞄の中、引き出しの中、机の下、本棚の中、クローゼットの中、ベッドの下。空間という空間を探っていく。それでも、『数学II」と書かれた冊子はどこにも姿を見せなかった。
宿題どっかいった。
夏休みも終わる時分、リビングに落ちた呟きに兄弟二人は硬直した。『終わってない』ならまだしも、『どっかいった』である。その場の言い訳などではなく、本当に行方不明になっているのだ。いっそ乾いた笑いが込み上げてくる。
仕方が無いですね、と嘆息する弟とともに自室で捜索活動を始めたのが一時間前。目的のものは影すら見せない。すぐに見つかると思っていたのだろう、初めは余裕を持った手つきで探していた烈風刀の表情はだんだんと険しく焦りを孕んだものとなっていた。当事者である雷刀はずっと青ざめ泣き出しそうな顔で手を動かしていた。気まずいったらない。
どこだ、と揃って叫びながら捜索する。机の裏、椅子の裏、引き出しの隙間、クローゼットの天袋。まずあり得ない場所すら手を伸ばしていく。
「――あった!」
光明差す声をあげたのは、雷刀だった。どこですか、と焦燥と驚愕と歓喜に満ちた声をあげ、烈風刀は兄の方へと振り返る。そこには、ベッドと壁の隙間から問題集を引き上げた朱の姿があった。
「…………何でそんなところにあるのですか」
「分かんねぇ……」
苛立ちと怒りを露わにした声に、気まずげな硬い声が返される。貫かんばかりの鋭い視線を向ける弟に、兄は振り返ることができなかった。
「……ほら、謎は謎のままがいいんじゃねぇかなぁ」
強張った動きで振り返り、テキストブック片手に朱はへらりと笑う。怒号が夜の一室に響いた。
降り注ぎ染み込み/ライレフ
葵壱さんには「最初は何とも思っていなかった」で始まり、「その言葉を飲み込んだ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以内でお願いします。
最初は何とも思っていなかった。否、正確に言えば呆れを覚えていたほどだ。
けれども、何度も何度も、それはもう耳にたこができるほど言われれば、自然と染みつき意識してしまうものである。
例えば、満面の笑みを浮かべとろけきった様子で。
例えば、肩に顎を乗せられ耳のすぐ傍でひそめた調子で。
例えば、普段の奔放さなど欠片も見せない真剣そのものの様相で。
例えば、食われてしまうのではないかと錯覚するような鋭い視線で。
どんな時でも変わらず言われれば、本当にそうなのではないかと勘違いしてしまう。そんなことはあり得ないと分かっていても、めいっぱいに降り注ぐ言葉を信じてしまう。あり得ないのに。信じたくないのに。
「烈風刀、かわいい」
なのに、愛しい人は今日だって、いつだって褒めそやすのだ。『可愛い』だなんて、己のような四角四面な人間に使うのはあまり相応しくない言葉で。
可愛いわけがない。自分のように真面目が過ぎると評価されるような人間が可愛いはずがない。身体のどこも筋張って柔らかさなど欠片も無い姿が可愛くなんてあるはずがない。
だというのに、彼はいつだって『可愛い』とストレートに言うのだ。嘘なんて一欠片も見えないまあるく輝く瞳で見つめ、愛しさをめいっぱい込めた柔らかで甘い声で言うのだ。一瞬で心に染みこんでしまうような音を奏でるのだ。なんと質が悪いのだろう。
可愛いわけがないでしょう。何度も何度も繰り返した否定の言葉を、今日はうっかり飲み込んでしまった。
畳む
うちがわのどこまでも【ライレフ/R-18】
うちがわのどこまでも【ライレフ/R-18】
お腹の中身が気になっちゃうつまぶきらいとくんとお腹の中身を示してくれるつまぶきれふとくんが見たかっただけ。
じりじりと、まるで摺り足をするようにゆっくりと腰を押し進めていく。もどかしさを覚えるほどの緩慢さだが、これ以上早くては互いに負担が掛かってしまうことは分かっていた。何より、今ですら神経を焼くような快感を覚えているというのに、これ以上の刺激など耐えられるはずがない。たかが挿入だけで互いに果ててしまうなど、楽しくもきもちよくもない。ならば、我慢を選ぶしかない。
穏やかで緩い動きで、猛った刃が鞘へと納められていく。時折、ぐち、ぐちゅ、と粘ついた水音があがる。大きさに反して鼓膜を強く震わせるそれに、組み敷いた身体がびくびくと跳ねた。愛しい姿に、情欲をそそる姿に、雷刀は大きく唾液を飲み込む。このまま一気に突き入れたら、この身体はどうなってしまうのだろう。どんな反応を示すのだろう。どんな可愛らしい姿を見せてくれるのだろう。多大な好奇心が湧き起こる。駄目だ、急くな、やめろ、と必死に己に言い聞かせた。こんな短絡的な好奇心に負けて絶頂に至りたくなどない。
長い時間を掛け、ようやく肌と肌が触れ合う。薄い肚が全てを受け入れた証拠だ。ぁ、と情火に焼かれた呼吸が二つ、薄闇に包まれた部屋に落ちた。
互いに動くことなく――否、肉と肉での触れ合いによるあまりの快楽に動けず、荒い呼吸を漏らす。愛しい人の熱を敏感な粘膜から直に感じるだけで、きもちがよくてたまらなかった。これ以上の刺激は、もう少しだけ自分たちには早いのだ。
じわじわと頭の中身を溶かすような温かな悦びの中、朱は組み敷いた肢体を眺める。真っ白なシーツに身を預けた弟は、は、は、と浅い呼吸を繰り返していた。苦しさすら感じられる音に反し、それを奏でる表情はとろけきったものだ。悩ましげに八の字を描く眉も、涙をたたえ潤んだ瞳も、紅潮した頬も、薄く開かれた口も、その奥に隠した舌も、全てが性的興奮を覚えていることを明確に表していた。心地良さそうな姿に、艶めかしい姿に、安堵と劣情が胸の内に広がっていく。ギリ、と奥歯が鈍い音をたてた。
艶めく表情から逃げるように、視線を下ろしていく。筋が見える首、左右に広がっていく鎖骨、鍛えられほんのりとした膨らみを持った胸筋、唾液にまみれ蠱惑的に光る頂、闘いの最中発達し薄く割れた腹筋、浅くへこんだへそ、几帳面に整えられた若草色の茂み、絶えず雫をこぼす雄の象徴、己を受け入れた開かれざる蕾。視界に広がるどれもが扇情的で、欲望を強く刺激するものだった。ぐ、と息を呑む。情欲から逃げるはずが、己を追い込むだけになってしまった。
ふるふると頭を振り、何とか心を落ち着けようと試みる。降りきった視線をぐいと上げ、視覚的刺激の少ない――あくまで相対的評価でしかないが――腹へと目をやった。己自身を全て納めきった腹は、呼吸する度緩く上下していた。浅い溝がいくつも走る様は、彼の確かな鍛錬の結果を表している。思わず手を伸ばし、努力の結晶をそっと撫でる。ぁっ、と溜め息にも似た艶声があがった。
この内側に、己がいるのだ。受け入れるために作られていない器官を作り変え、己を受け入れてくれているのだ。圧迫感を覚えながらも、身体を、心を開き、受け止めてくれているのだ。健気さに、愛おしさに、淫らさに、きゅうと胸が締め付けられる。押しつけた腰がずくりと重くなったように感じた。
「な、んですか」
「あー……、いや、どこまで這入ってんのかなって」
甘さを隠しきれない咎める声に、誤魔化す言葉を作りあげて返す。嘘ではないことを示すように、ぐ、と触れた手に少しだけ力を加えてみる。呼吸と連動して上下する腹が、少しだけへこんだ。ぅ、と苦しげな声が漏れ出るのが聞こえた。
事実、この腹のどこまで己が潜り込んでいるかは、以前から気になっていた。目視はもちろん、今こうやって触ってみても、どこにあるかなど分からない。外側からは決して判断できないものだからこそ、謎は深まるばかりだ。
ベッドに投げ出された腕が緩慢に動き、汗で濡れた手が腹の上に置いた己の手に重なる。そのまま、きゅっと握られた。どうしたのだろう、と考える間もなく、力ないその手が滑るように移動する。撫でるような動きは、へそより下の部分で止まった。
「……このあたりでしょうか」
重ねられた手に力がこもる。腕の持ち主は、うちがわに迎え入れたその存在を示すかのように、ぐ、と自ら腹を押した。また苦しげな音が漏れる。うっすらと艶めきを宿しているようにも聞こえた。
カァ、と腹の奥が熱を持つ。奥底で燃えさかっていた炎が、空をも焼かんばかりの火柱へと生まれ変わる。大好物を目の前に置かれたかのように、口の中に唾液が湧き起こる。脳味噌の深い部分が、ジンと強い痺れを覚えた。
卑猥だった。あまりにも淫猥だった。淫靡としか言い様がない有様だった。だって、迎え入れた雄の存在を自ら誘導して示すだなんて、あまりにも妖艶で、あまりにもコケティッシュな姿だ。優しくどこか純朴な彼のことだ、投げかけられた純粋な問いへの答えとして指し示してくれたのだろう。その行動が、どれほど雄を煽るかなど知らぬまま。
そっか、と少年はどうにか返す。その三音節を絞り出すのが精一杯だった。あんな姿を見せられて、平常心でいろという方が無茶だ。元より人よりも感情の動きが激しい己ならば尚更だ。今こうやって我慢しているだけでも褒め称えられるべきである。
マットレスに沈み込んだ頭が小さく傾げられる。きちんと答えを示されておきながら、生返事しかないのが不思議で不服なのだろう。なんなのですか、と不満げで幼げな声が飛んできた。
「……もっと押し込んだら、もっと奥のとこいくのかな?」
今さっき示された場所は、へそよりも下だ。ならば、もっともっと押し込めば、へそまで到達するのでは。単純な発想だ。実践できるかなど分からない考えだ。不意に湧き起こったそれに、好奇心が、獣めいた何かが鎌首をもたげる。意図せず湧き上がったそれが膨らみ、どんどんと脳味噌の内を占めていく。今すぐ試してみたい、と心を突き動かすほど。
「や、めて、ください。むり、むりです」
眼下の顔がサァと青くなる。これいじょうはむり、と濡れた唇が必死に抵抗の言葉を紡ぎ出す。見開かれた海色には、絶望と恐怖が浮かんでいた。けれども、見えるのはその二色だけではない。己が抱えたものと同じ色が滲んでいるのが熱烈な視線から伝わってきた。
筋張った腰を掴む手に、汗ばんだ手が重ねられる。むり、とうわごとのように繰り返し、烈風刀は引き剥がそうとぐいぐいと自身を鷲掴む腕を押した。快楽に浸かりきった脳味噌は上手く伝達機能を果たせないのか、伝わる力は普段の十分の一もないような軽微なものだ。抗おうとしているのだろうが、意味など全く成していない。
そんな可愛らしい抵抗をされて、そんな可愛らしい言葉を吐かれて、そんな嗜虐心を煽るような行動をされて、じっとしていられるわけがない。元々、好奇心には抗えない質だ。加えて、情動を抑えられない質だ。動くなという方が無理な話である。そんなこと、生まれた時から共に在り、何度も夜を共にした彼が一番分かっているだろうに。
だいじょーぶ、と雷刀は片割れに笑いかける。いくらか低くなった声音も、愉快さをこれでもかと表すかのように吊り上がった口角も、サディスティックな光が宿った炎瑪瑙も、何もかもが言葉を否定していた。こんなに信頼できない『大丈夫』など、この世に存在しない。
むり、と碧は抗議の声を繰り返す。涙でどろどろになったそれは、つがいを興奮させるだけのものだった。
腰を引き、埋めた楔をわずかに抜く。ふぅ、と一息。そのまま、助走をつけて一気に押し入れた。
ばちゅん、と猥雑な水音と鋭い嬌声が二つ、薄闇を切り裂くようにあがった。
畳む
twitterすけべまとめ【ライレフ/R-18】
twitterすけべまとめ【ライレフ/R-18】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいのすけべまとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
獣誘う紅白
こめかみを、頬を、おとがいを、汗が伝っていく。大粒のそれは顎に到達し、そのまま重力に従い真下に落ちた。ぼた、と重い音とともに、甘やかな声が身体の下から聞こえた。
喘鳴めいた呼吸が二つ重なる。薄暗い寝室に、荒くもとろけた音が響く。それらが落とされていくシーツは、激しい運動とそれに伴う汗で湿り多量の皺が走っていた。
ぁ、と開きっぱなしの口から声が漏れる。呼吸にも嬌声にも嘆息にも似ていた。
繋がってしまうのではないかというほど押しつけた腰を、ゆっくりと引く。動きに合わせ、溜めに溜め込んだ精を何度も吐き出し硬度を失った昂ぶりが、温かで柔らかな肉筒から去っていく。敏感な粘膜を擦られてか、上擦った声が頭のすぐ下から聞こえた。
ずる、と鋭さを失った剣が鞘から抜き出される。温かな繋がりが途絶え、雷刀は小さく息を吐く。大切な人と繋がる喜びを失うのは切ない。しかし、もうすぐ片手で数えられなくなるほど交わったのだ。これ以上は愛する人に負担がかかってしまう。今日のような被せ物無しの粘膜接触ならば尚更だ。
ごぽり、と重い音があがる。響いたそこに自然と視線が吸い寄せられた。
音の発生源は、今の今まで繋がっていた場所だ。解し耕され加減無く打ち付けられたそこは、縁が赤く膨れていた。ぷっくりとしたそこから、白いものが――己の種が溢れ出るのが見えた。体液で濡れて光る赤く熟れた場所を、濃厚な白がしたたり染めていく姿は、この上なく淫猥なものだ。それこそ、ようやく満たされたはずの腹が飢えを訴え始めるほど。
まずい、と朱は急いで視線を逸らす。あんな猥褻極まる光景を見て平常でいられるわけがない。欲望に忠実な己なら尚更だ。もう視界に収めることのないように強く目を閉じる。しかし、真っ黒な瞼の裏にはあの卑猥な紅白がはっきりと浮かび出ていた。
ぅ、と苦しげな声が聞こえる。反射的に目を開け、愛しい響きの方へと目を向けた。
組み敷いていた弟は、これでもかというほど眉を寄せていた。涙をたたえた浅葱が眇められ、こちらをに睨みつける。鋭い視線への恐れよりも、匂い立つ性の色香を感じた。
「……だしすぎです、ばか」
二人分の唾液で濡れた唇が、可愛らしい罵倒を紡ぎ出す。涙で濡れた頬は依然赤く、水気を多分に含んだシーツの上に投げ出された体躯は性的興奮で赤らんだままだ――もちろん、雄を迎え入れ悦びを謳い上げた場所も。
ごぽ、とまた濁った音。ぅ、と鈍い声。後者は羞恥を孕んでいた。当たり前だ、たとえ恋人の前とはいえ腹の中から精液をこぼす姿を見られて恥ずかしくないわけがない。紅潮した身体が逃げるように身を捩る。更に注がれた欲望を吐き出す手伝いをするだけだった。
そして、そんな姿を見せられて、つがいが反応しないわけがない。
は、と無意識に息を吐く。情火の焔灯ったものだ。先ほどようやく消えたはずの欲望が、再び燃え盛る。頬が、心臓が、中心部が、熱を持つ。気付けば、離した身体をまた寄せていた。ずる、と擦れる音。白でつやめくそこに雄の器官を無意識に押しつけていた。
「ちょ、と、なにしてるんですか」
ばか、ばか、と拙い罵倒と力ない打撃が飛んでくる。紅が差した目尻を雫が伝っていく。普段は可愛らしく思うはずのそれが、妙にいやらしく思えた。
「ぁ、いや、ごめん。だいじょぶ、しない」
しないから、と吐き出すものの、力を失ったはずの雄茎は血を宿し天へと向いていた。やべ、と内心慌てふためく。駄目だ。これ以上は駄目なのだ。我慢しないといけないのだ。人より幼い理性を総動員して熱を押し込めようとする。でも、でも、と獣の本能は獰猛な声をあげた。
「……あといっかいだけですからね」
それいじょうはむりです。ばか。
もつれるように紡ぐ声と睨めつける目には、火が宿っていた。己と同じものだ――情欲だ。獣欲だ。つまり、つがいを求めている。
いいのか。身体大丈夫か。無理すんな。言うべき言葉は山ほどある。けれども、喉が発したのは呻きだけだ。ぐ、と息を呑むようなそれは、明らかに人間のそれではない。本能に従順な獣のものだった。
ずり、とぬめったもの同士が擦り合わされる。雄自身が触れる度、白で彩られた赤は甘えるように、誘うように、食むようにはくはくと蠢いた。
誘われるがままに腰を突き出す。とろけた声が二つ、薄闇に響き渡った。
溺れるぐらい愛したげる
腰を押しつけ、引き、再び押しつける。その度にぐちゅん、と粘ついた音があがった。淫らな響きが、鼓膜を震わせ聴覚を刺激する。音を認知する神経は、それを快楽の一部だと解釈した。ただでさえ高ぶった精神が、ますます高揚していく。欲望がままに、少年は引き締まった腰を動かした。
「れふとっ、れふと、きもちい?」
一心不乱に突き上げながら、雷刀は問う。切羽詰まった響きには、様々な色が滲んでいた。きちんときもちよくなっているだろうかという不安、愛しい人と繋がっているという興奮、夜とはいえこんなにも激しい性行為に及んでいるという背徳感、つがいに種を植え付けたいという獣としての欲望。ぐちゃぐちゃになったそれが、肉と肉が交わり合う音の中に響いた。
「っあ、ぁ、あッ……ぅぁ……ッ」
問われた烈風刀は言葉として構成されていない単音を発するだけだ。唾液でつやめく唇からはあー、あー、と譫言のような音があがるばかりで、答えが返ってくることはない。
弟ははっきりと物を言う性格だ。痛覚を刺激されたのならば『痛い』と素直に告げ、嫌なことをされたのならば『やめろ』と明確に抗議する。なのに、今はそれが無い。ただただ意味を持たない声をあげるだけだ。
聡明な頭脳を持つ彼が、言語化を得意とする彼が、簡単な問いに答えられないほどの状態になっている。答えられないほどの状態に、己がしている。
ぞくりと背筋を何かが駆け上がっていく。満足感、安心感、支配感。どれとも捉えられるものだ。
「……きもちいね、れふと」
笑みを浮かべ、朱は呟くように語りかける。ゆるりと上がった口角は、どこか獰猛な印象を植え付けた。
ぅあっ、と短い嬌声があがる。瞬間、雄の象徴を咥え込んだ柔肉が強く締まった。潤んだ熱い粘膜が、昂ったモノを抱き締め絡みつく。直接的な刺激に、少年は眉を寄せた。過ぎた快楽を堪えるためだ。まだまだ先は長いのに――まだまだきもちよくなってもらいたいのに、もっときもちよくさせてあげたいのに、こんなところで果てるわけにはいかない。欲望を放出しないよう、必死に腹に力を込めた。
もっときもちよくなろうな。
囁き、兄は己の下で乱れる弟に微笑みかける。慈愛の満ちた笑みだ。安堵が滲む笑みだ。餌を見つけた獣の笑みだ。欲望に支配された笑みだ。
ぐっと腰を押しつける。隘路の奥底が彼がいっとう好む場所だということは、とうの昔に知っている。大好きな人がたくさんきもちよくなってくれるそこを、張り詰めた先端でぐりぐりと刺激した。
高い艶声が室内に響き渡る。快楽に支配された響きに、朱は満足げに目を細めた。
うちがわのこうふく
47.抱かれはじめの頃は「れふと、どっちでイきたい?」って聞くと「前で、ぃ、イきたい…出したい…っ」ってもどかしそうに腰くねらせながら訴えてたのに、いつの間にか「このまま♡このままがいいっ♡あッ、あ゙♡あ♡奥いっぱいくる♡んあ、ぁ゙♡いく、いくっ♡♡♡」って甘く喘いで中イキするのが上手になったつまぶきれふとくん。
変態に抱かれるおひとりさまガチャ
瑞々しい果実を潰したような音が鼓膜を震わせる。実際はそんな美しいものではない。ただ、けものとけものが交わっているだけだ。
「あっ、ぁッ……ぅ、あ」
ぐじゅん、と淫らな水音と同時に、脊髄を快楽が走っていく。凄まじい勢いのそれが、そのまま脳味噌に叩き込まれる。頭が痺れる。身体が震える。声が漏れる。このいっときは、身体すべてがきもちよさに支配されていた。
まぐわい猥雑な音が奏でられる中、愛しい響きが聞こえる。脳味噌のどうにかまともに機能している部分が、れふと、と己を示す言葉を理解した。
らいと、と反射的に己を求めたつがいの名を呼ぶ。らいと、らいと、と幼子のように何度も繰り返す。奏でる音は幼子そのものの拙さだ。身体は快楽を拾うことに一心不乱で、舌を動かし言葉を発するなどという高等技術をこなすことは難しかった。
れふと、と応えるように名を呼ばれる。己を示す三音節を作った口、その端がニィと吊り上がる。同じほど感じているであろう法悦を耐え忍ぶように眇められた目が、ゆるりと弧を描く。笑みだ。しかし、そこには普段の快活で明るい輝きは無い。肉食獣が獲物を見定めた時の形だった。
「れふと、どっちでイきたい?」
痕を付けんばかりに腰を掴んでいた片手が離される。そろりと腰を撫で、腹を伝い、下部へと向かう。少し表面の硬い指が、すっかり充血し涙をこぼす烈風刀自身に這わされる。表面をそっとなぞる程度の動きだ。それでも、酷く直接的な刺激に少年は大きく身体を跳ねさせた。
兄は問うているのだ。雄の器官で達したいのか、内部を雄に蹂躙されて達したいのか、と。
もちろん前者だ。肚の内を暴かれることに慣れていない身体は、敏感なる部位を刺激させることでしか精を吐き出すことしか知らないのだ。前者以外に選択肢はない。
「――か」
しかし、それも数ヶ月前の話だ。
交合を重ねた身体は、兄に丁寧かつ好き勝手に愛された身体は、すっかりと内部を刺激される魅力を知ってしまった。覚えてしまった。それこそ、もうそれ以外など考えられないほどに。
「ナカ、ぁっ……、このまま、おなか……、おなか、いっぱいッ……!」
快楽漬けにされた脳味噌が言葉を奏でる。思考機能も会話機能も投げ捨てたはずの頭が、まともに機能する。否、まともとは言い難い。きもちいいことだけを考え、きもちいいことをめいっぱいに求めているだけなのだから。
卑猥な願いを口にした途端、ぎゅうとナカが締まる感覚がした。ただでさえ狭い肉の道が更に細くなり、迎え入れた雄を抱き締める。種をねだるように、内壁がうぞうぞと蠢き剛直を撫で上げる。全て己がやったことだというのに、それだけできもちがよくて仕方が無い。ひぁ、と高い嬌声が漏れ出る。ギリ、と歯が擦れる音が降ってきた。
「ッ、わかった」
雷刀は愛おしげに目を細める。薄くなったルビーの中には、情欲と愛欲、嗜虐の炎が燃え盛っていた。情事の時のみ見せる表情に、烈風刀はぶるりと背を震わせる。涙膜張るエメラルドがとろりととろけた。
ごちゅん、と骨に響くような重い一撃が腹を穿つ。快楽神経を破壊せんばかりの凄まじい快感が、身体中を支配する。恐ろしいほどのきもちよさを生み出したそれが、何度も何度も繰り出される。当たり前だ、たった一発で頂点へ至れるはずなどないのだから。
いっぱいイかせてやっからな。
優しい、甘い、愛おしい、大好きな声が、耳に直接注ぎ込まれる。容赦はしないぞ、と暗に語るそれに、碧はへにゃりと相好を崩した。
けもののまぼろし
58.夢の中なら注がれすぎてボッコリお腹膨らませたつまぶきれふとくんが見られるし、全身汚されて暴かれきったぐっちゃぐちゃの痴態を見せつけるように晒したれふとも、とろりとした甘い声で「孕まされちゃった」「すき」「もっとあいして」ってだらしなく緩んだ笑顔で手を伸ばしてくれる。
変態に抱かれるおひとりさまガチャ
ぐちゅ、と粘ついた音が鼓膜を震わせる。淫猥な響きが次々と耳から脳味噌を犯し、心を、身体を昂らせていく。吐き出す息は炎をまとったかのように熱かった。
卑猥な水音があがる度、高い何かが空間に響き渡る。嬌声だ。上擦り熱にとろかされた甘い声が、聴覚を支配する。聞いたことのある愛しい声だ。けれども、聞いたこともない淫らな声だ。何だ、とぼやけた思考が動き出す。焦点の合っていなかった朱い瞳が、世界を認識する。
実像を映し出した紅玉がこれでもかと瞠られる。八重歯覗く口から、え、と驚愕のあまり呆けた声が漏れる。それもすぐに、激しい水音――己が腰を振りたくり、打ち付ける音に掻き消された。
視界いっぱいに、碧と白と赤が広がる。ぐしゃぐしゃになった白いシーツの上、柔らかな碧い髪が、日焼けしていない白い体躯が散っていた。普段は綺麗に整えられた浅葱は乱れて布の上に広がり、鍛えられた身体はほのかに紅潮し力なく横たわっていた。首や肩には赤い点や半円がいくつも残されている。腹の上は不自然なほど水で――否、明らかに精液で濡れていた。股ぐらで大きく主張する雄の器官は、だらだらと不透明度の高い蜜をこぼしていた。
翡翠の瞳には、水が膜張っていた。涙だ。無色透明のそれがまあるい碧に覆い被さり、ゼリーのように震える。ぱちりと瞬く度に、目尻に痕を描きながら流れて消えていった。
手入れされ艶のある唇は、普段以上に潤っていた。唾液で濡れているのだ。いつだって身だしなみを気に掛ける彼らしくもなく、唇は唾液にまみれ、端からは溢れ出たそれが伝って落ちていた。
あまりにも酷い有様だというのに、その整った目元や色付いた唇は弧を描いていた。幸福をそのまま形にしたような笑みを浮かべ、彼は――弟であり、恋人である嬬武器烈風刀は、嬌声をあげていた。常の彼からは想像できないほど高く、細く、幸せな声だった。
こんな姿は見たことがない。こんな声は聞いたことがない。だって、自分たちはまだ付き合って数ヶ月しか経っていなくて、口付けをするのが精一杯で、性行為なんて夢のまた夢で。なのに、何で。
混乱に陥る最中も、身体は無意識に動いていた。柔らかなナカに埋め込んだ雄を抜き、熟れきった孔に突き立てる。腰を打ち付ける度、猥雑な音と情欲掻き立てる甘い嬌声があがった。
突き入れる度、腹筋に覆われた腹が形を変える。ちょうどへその辺りにぽこりとシルエットが現れるのだ。それが己の怒張の形だと気づき、頭が痺れる。腰を振りたくる。ただでさえ膨れた腹が、更に起伏を増した。
止めなければいけない。こんなこと、やめなければ。頭では考えるも、身体は思考通りに動かない。ただひたすらに腰を振り、目の前のつがいを犯す。整った顔を、鍛えられた身体を、ぐちゃぐちゃに犯して汚していく。
目の前、涙と唾液に塗れたうつくしい顔が破顔する。嬌声をこぼすばかりの口が、意味を成す音を紡ぎ始めた。
お腹いっぱいです。
孕まされちゃいました。
すきです。
だいすき。
もっといっぱいして。
あいして。
聞いたこともないとろけた声が神経を焼く。腹の内側が熱を持つ。止まることのない腰が重くなる。理性が消えて、本能が脳味噌を支配する。確実に孕ませろ、と。
衝動がまま、熱塊を肉洞に突き立てる。容量限界を超え溢れ出た精液が漏れる音、繊細な肚の内が乱暴にかき混ぜられる音、無遠慮に肌が肌を叩く音、悲鳴めいた高い嬌声、獣そのものの呻り声。艶めく音が聴覚を、脳味噌を支配する。本能を駆り立てる。
ぁは、と幸福に満ち満ちた笑声が鼓膜を震わせた。
「――――ッ!」
上半身が勢い良く跳ね起きる。朱い目がこれでもかと丸く開かれる。開いた口からは浅い息が漏れ出ていた。
視界いっぱいに広がるのは暗闇だった。白いシーツも、恋人の痴態もどこにもない。当たり前だ、ここは自室で、己は一人で眠りについて、そして。
「…………ゆめ?」
夜闇の中、ぽつりと呟く。音にした途端、それは現実となって脳に染みこんでいく。そうか、夢か。夢なんだ。あんな淫らな弟は、全て夢が作り出したもので。存在しなくて。
はぁ、と重苦しい溜め息が漏れ出る。重い呼気とともに、嫌悪感が胸に広がっていく。黒いそれが心を蝕み、思考を蝕み、責め立てていく。なんて夢を見ているのだろうか。人並みに性欲があり、恋人との交合を求めているとはいえ、あんな無理矢理酷く犯すような夢を見るだなんて。最低以外に評価しようがない。
身体に違和感。嫌な予感に顔をしかめながら、布団をめくる。真っ暗な部屋の中でも、己の中心部分が隆起しているのが分かった。充血したそれはどくりどくりと脈動し、痛いほど張り詰めていた。身勝手で最低で淫らな夢に興奮し、反応しているのだ。ただ一人の空間だというのに。
あまりの自己嫌悪に、顔を覆う。あー、と気まずい音が漏れた。
このままでは寝ることができない。発散しないと。そう思えど、脳裏に浮かぶのは先ほどの夢――愛しい愛しい、大切で、汚したくない、清らかな関係でありたい恋人の、本能掻き立てる淫靡な姿だ。今処理をしては、確実に最低な夢の内容を慰めるために使ってしまう。そんなことは絶対にあってはならない。けれど、あんな鮮烈な映像を消し去ることなどできなかった。
どうすんだこれ。衣服の中でびくびくと震える雄を前に、雷刀は中身が未だピンク色に染まった頭を抱えた。
全て手の内
緩く握った手を上下に動かす。時になぞるようにゆっくりと往復し、時に締め付け力強く動かす。皮膚が粘膜を擦る度に、甘さを含んだ吐息が部屋に落ちた。
擦れる度、にちゅ、ぬちゅ、と粘ついた音が互いの聴覚を犯す。卑猥なそれは羞恥を煽るものであり、性的興奮を煽るものだ。手淫を施している雷刀にとっては後者である。押さえようと必死になりつつも漏れ出る控えめな嬌声も付いてくるのだから尚更だ。弟自身を握る手つきはどんどんと熱心なものになっていく。
とぷとぷと絶え間なく先走りが湧き出る先端に指を這わせる。敏感な場所に直に触れられ、抱き込んだ身体が大きく跳ねる。逃げるように腰が引かれるが、彼がいるのはベッドに腰掛けた己の足の間である。後ろに逃げる手段など無かった。咎めるようにぎゅっと握り、雫をこぼし続ける鈴口を円を描くように指の腹で擦る。ひぅ、と悲鳴のなりそこないのような鈍い声があがった。
だらしなく液を漏らす先端を撫で、溢れるそれを塗り込めるように全体を擦る。親指と人差し指で輪を作り、段差になった部分を重点的に刺激する。敏感な筋を、くすぐるように指で撫でる。献身的に、追い詰めるように手が動く度、必死に押さえられた口から、かろうじてあらわになっている鼻から甘ったるい音が漏れる。雄の象徴を刺激され、快楽を覚えている証拠である。休むことなく与えられる快感に流されぬようにする姿は可愛らしいものだ。嗜虐心を駆り立てるほどに。
じゅこじゅことわざとらしく音をたてて扱き立てる。数え切れないほど身体を重ねた仲だ、弱い部分――彼がいっとう好み、とってもきもちよくなる部分など熟知していた。そこを重点的に刺激してやる。絶えず叩き込まれる法悦にか、口を塞ぐ手がどんどんと緩くなっていく。あ、ぁ、と上擦った、明確な音が鼓膜を震わせた。
手の内の熱を意識する。触った感覚からして、弟のそれは己のモノとさほど変わらないだろう。普通のサイズだ。太さも、長さも、平均的。刺激されれば十分に反応し、快楽が上限に達すれば子種をしっかりと吐き出す。きちんとした機能を持った雄の器官だ。
この先、彼はこれを本来の用途で使うことは無いだろう。雌の胎内に潜り込み、種を植え付け、子孫を残す。そんな、人間として繁栄していくために使われることなく、この部位は役目を終えるのだ。雌と交わることなく、雄にきもちよくされるだけで生涯を終えるのだ。
考え、背筋がぞわりとさざ波たつ。何と残酷なのだろう。何と哀れなのだろう。その原因は、全て己なのだ。己のせいで、彼は遺伝子を残すことができない。
だというのに、湧き出るのは悔恨でも懺悔でも罪悪でもなかった。喜びだ。暗い歓喜の情が、支配欲が、嗜虐心が、湧き出溢れ心を満たしていく。最低としか表現しようがない有様だ。けれども、それが本心だった。
ひ、あっ、と漏れ出る声はどんどんと高く、大きくなっていく。砦たる手はもう守る役目を放棄し、快楽を与え続ける己の腕に添えられていた。止めることを乞うような、続きをねだるような、過ぎた快感の恐怖から逃げ縋るようなものだった。ふ、と愉快げな息をこぼし、朱はぱっと手を離す。ぇ、と戸惑いを多分に滲ませた声が耳をくすぐった。
「な……、で」
振り返り問う声は、好き放題にされた怒りと、いきなり淫悦が止んだ動揺と、高みに至る直前で突き放された絶望で彩られていた。悦びの涙が溢れ出る瞳も、同じ色で染められている。可愛らしい、愚かしい、愛らしい、哀れな姿に、思わずくすりと笑みを漏らす。だってさぁ、と紡いだ声は、己でも驚くほど愉快げだった。
「烈風刀、こっちの方が好きだろ?」
先端に指を這わせ、幹を辿り、会陰をなぞり、奥底に秘められた蕾へと至る。触れたそこは、待ち望んだ刺激にか可愛らしくひくついた。ひ、と悲鳴にも似た嬌声が上がる。明らかに期待が、悦びがこもった音色をしていた。
な、と耳に直接注いでやる。こくりと息を呑む音。こちらを向いていた顔が正面へと戻り、どんどんと俯いていく。肯定はしていない。けれども、否定もしていない姿だ。現段階では。
烈風刀。特別甘ったるい、少しだけ低くした声で愛しい人の名前を紡ぎ出す。ひくりと腕の中の身体が震える。腕にかけられていた手が離れる。腕を放し後方に身体をずらすと、捕らえていた身体は自らシーツの海に横たわった。眼下に晒された孔雀石がこちらを睨めつける。悔しさと、物欲しさと、待ち遠しさと、快楽にまみれたものだった。
続きを求める様に、無意識に口角が吊り上がる。ベッドに乗り上げ、投げ出された白い体躯に覆い被さった。
一生どーてーな責任、ちゃーんと取ってやっから。
心の中で宣言し、少年ははくはくと誘うように口を開ける秘蕾に指を這わせた。
畳む
twitter掌編まとめ2【SDVX】
twitter掌編まとめ2【SDVX】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
成分表示:レイシス1/紅刃1/はるグレ1/プロ氷1/ライレフ4/識苑+氷雪1/氷雪ちゃん1
翌日はちゃんとお揃いのお弁当で安心した/レイシス
昼食の時間はいつだって賑やかだ。会話を交わし、料理を楽しみ、満腹感に幸福を感じる。そんな毎日の楽しみになるような、楽しい時間だ。
今日は違うみたいだけど、とレイシスはちらりと視線を上げる。いつだって元気に弁当箱を開ける雷刀は、ただ黙して食べている。よく噛み味わって食べる烈風刀は、ろくに噛まず飲み込むように箸を運んでいた。どちらの間にも声はない。普段は美味しい、また作って、といった和やかな言葉を交わす二人は、唇を引き結んで黙々と弁当箱の中身を胃に押しやっていた。
え、え、と隣から動揺の声があがる。躑躅の妹は、己の弁当箱そっちのけで向かい側に座る兄弟のものを見ていた。料理上手の二人の昼食が羨ましいからではない。その逆、不安を覚えるような中身だからだ。
兄弟の前に置かれた色違いの弁当箱の中身はいつも同じだ。その日の料理当番が二人分作っているのだ、と前に話していたのを覚えている。けれども、今日は違っていた。二種類の弁当が並んでいるのだ。
雷刀の目の前、赤色の弁当箱の中には色とりどりのおかずが詰まっている。入っているカップ色合いや完成され切った形状から、どれも市販品のものだと分かる。冷凍食品をとりあえず入れただけというのが伝わってきた。
問題は烈風刀の前、青色の弁当箱の中身だ。傷が細かに付いたそれの中身は、白で染められていた。二段組みの弁当箱、そのどちらにも白米だけがぎっしりと詰められているのだ。弁当箱を取り違えたのでは、と疑いたくなるような有様である。二つとも色味が同じことと二種類つけられたふりかけが手違いなどではないと語っていた。
よほど大きな喧嘩をしたのだな、と少女はカップグラタンを口にする。久しぶりに食べたそれは美味しいが、今声に出すのは憚られた。
嬬武器の双子は仲が良い。それでも二人とも人間だ、喧嘩をする日もある。その喧嘩の様子が表れるのが弁当だ。食事による報復は時折行われていた。当番制の弱点だな、と最初に見た時は呑気に思ったものだ。
「え? あ、え? 烈風刀? 大丈夫? 私のおかず食べる?」
オロオロとした様子でグレイスは向かいに座った少年に自身の弁当箱を差し出す。よほど心配しているらしい。それはそうだ、昼食を白米とふりかけだけで済ませる人間が目の前にいれば、心優しい妹は心配してしまう。
「大丈夫ですよ」
不安げに眉尻を下げる少女に、烈風刀はにこやかな笑みで返す。形は普段と変わらないが、奥には冷たさと固さがあった。表面上は一切変わっていないだけに、作られたものだということがよく分かる。
そ、そう、と動揺を重ねた躑躅は、差し出した弁当箱を引っ込める。それでも心配なのか、箸を運ぶ仕草はどこかぎこちない。黙って食べている朱の様子も気になるのか、二色の間を尖晶石が静かに往復した。
早く終わるといいのだけれど、とレイシスは白米を口に運ぶ。業務に支障を出さないのは彼ららしいが、こんな様子を明日も見せられるのはごめんだ。食事は楽しく摂りたいのだ。
沈黙が四人の間を流れていく。昼休みはまだまだ続く。
虹描く空に赤を浮かべて/紅刃
しとしとと窓の外から地を雫が打つ音が響く。その中に、パタパタと弾んだ調子の足音が扉の向こうから飛び込んだ。コップ片手にリビングを出ると、可愛らしい歌声が耳をくすぐった。
「出かけるの?」
「お姉さま!」
鼻歌を歌いながら上がりかまちに座る小さな背に投げかける。靴を履き終え立ち上がった妹は、くるりと振り返って元気よく返事をした。お気に入りの真っ赤な長靴と薄桃色の雨合羽をまとう姿は可愛らしい。あと一年もすれば中学生になる彼女だが、まだまだ子どもらしい愛らしさを残していた。
「はい! 虹を見に行くんです」
傘立てから愛用の傘を取り出し、恋刃はニコリと笑う。外は気分を曇らせるような雨だというのに、その表情には輝きが満ちている。這い寄る湿気を振り払うような明るさがあった。
いってきます、と手を振り、少女は玄関を出て行く。ピンクをまとう小さな背に手を振り見送った。
最近、妹は新しい友達ができたとよく話している。虹がとても好きな子らしく、雨の日は『一緒に虹を見に行く』と出かけることが増えていた。わざわざ小遣いで合羽を買うほどの入れ込み具合だ。よっぽどその友達と虹を見ることが――否、新しい友達のことが好きなのだろう。
いいことだ、と少女は一人頷く。妹はどうにも姉である己に執着が強い。友達もたくさんいるようだが、物事において友達よりも姉を優先することが多々あった。お姉さまお姉さま、と懐いてくる姿は非常に可愛らしいが、せっかくの友達を大切にしてほしいと思ってしまう。友人に重きを置く最近の姿は、随分と成長したと言えよう。
それでも、いざ友達とばかり遊ぶ様を見せられると、ほんの少し寂しさを覚えてしまうのだから己はわがままだ。妹離れしなければな、と紅は苦く笑う。少し離れたところから見守るのが姉としての役目なのだから。
マグ片手に階段へと足を進める。宿題を済ませなければ、と静かな足取りで部屋に戻った。
扉を開き、教科書とノート、課題テキストが広げられた机に向かう。あと数問解けば終わりだ、頑張らねば。シャープペンシルを手に取る。ふと、カーテンを開いたままの窓の外が視界の端に映った。
ガラスの向こう側、重い灰色の空は少しだけ明るくなっていた。音が聞こえるほどだった雨脚も勢いを失っている。晴れるのも時間の問題だろう。
虹、見れるといいわね。
ぽつりと呟き、紅刃は空から視線を外す。終盤の応用問題に向かう少女の口元は、穏やかに解けていた。
湯煙と歌声/はるグレ
大ぶりなドライヤーを操る。吹き出す熱い豪風を少し遠くから髪に当て、たっぷりと含んだ水分を飛ばしていく。タオルできちんと拭いたものの、くるぶしまで届くほど長い髪はまだまだ湿って重い。乾いたタオルを添えながら、根元から毛先へと温風を当て傷めないように乾かしていく。水を含んで色の濃くなった躑躅の髪は、だんだんと元の鮮やかでつややかな様を取り戻しつつあった。
ドライヤーをかけるのは嫌いではない。長く癖のある髪をしっかりと手入れするのが面倒ではないと言えば嘘になるが、水分で重くまとまってしまったこいつをサラサラのふわふわの姿に戻すのは楽しい部分があった。
ほぼ乾かし終え、今度は弱い冷風を当てていく。弱くなった風の音に、音色が混じる。上機嫌なメロディーは、ステージ上で何度も歌った曲だ。あの鮮やかに彩られた世界からバージョンアップしてまだあまり日が経っていないというのに、何だか懐かしく感じた。
ドライヤーのスイッチを切り、ブラシで整えていく。ウェーブのかかった長い長い髪を、小さな手が慣れた手つきで梳いていく。自宅のそれより大きく力のある風のおかげか、丁寧な手入れのおかげか、いつもよりも櫛の通りがいいように感じた。
サラサラになるまで梳かし終え、手早く結い上げる。普段は二つに結うところだが、今日はもう帰って寝るだけだ。大きく一つにまとめるポニーテールで済ませることにした。鮮烈な色合いの枝垂れ桜が、広い脱衣所の片隅に揺れた。
着替えと手入れ道具を鞄にしまい、グレイスは出入り口へと向かう。赤い暖簾をくぐると、すぐに黒い影が現れた。
「早いわね。ちゃんと湯船に浸かった?」
「はい」
色違いの鞄を携えた始果は穏やかに返す。ならいいわ、と少女は笑う。せっかく寄宿舎よりずっと大きくて広い湯船があるのに入らないだなんてもったいないことだ。
「帰りましょ。湯冷めしちゃったら大変だわ」
季節柄まだ暖かいが、夜は少しばかり冷えてくる頃合いだ。あまり長く外にいては身体に悪いだろう。学生が夜遅くまで出歩くのもあまり良くない。ここの銭湯は寄宿舎からさほど遠くないが、のろのろと歩いて帰っては門限が来てしまう。
はい、と短く返し、狐は先を歩く躑躅の背を追う。高さの違う長いポニーテールが二つ、夜闇の中に揺れた。
「そういえば、久しぶりですね」
「そうね。最近忙しくて銭湯なんて来れなかったもの」
「いえ、そちらではなくて」
始果の言葉に、グレイスは首を傾げる。銭湯のことでなければ何だろう。二人で夜出歩くことだろうか。否、この少年は夜中に外に出る時はいつだって付いてくるのだ。変わらぬ風景である。では、一体何を指しているのだろうか。
「グレイスがあんなに楽しそうに歌っているの、久しぶりに聞きました」
「歌……?」
柔らかに笑む少年に、少女は訝しげに返す。確かに、歌を人前で歌ったのは以前の世界での話だ。武奏をまとう今の世界では歌を披露することはなくなっている。けれど、何故今このことを言い出したのだろう。疑問符を浮かべながら、躑躅は首を捻る。歌。久しぶり。ぐるぐると巡る思考の中、つい先ほどのことを思い出す。鼻歌を歌いながら髪を乾かしていた、つい先ほどの時間を。
「き、こえてたの……?」
「はい」
ぎこちなく尋ねるグレイスに、始果は当然のように返す。それがどうかしたのか、と言った調子だ。反して、疑問が確信に変わった少女はひゅ、と息を呑む。聞かれていた。あんな拙い鼻歌を聞かれていた。しかも、一人きりとはいえ公共の場で呑気に歌っていたのを。
風呂上がりでほのかに上気していた頬が、一気に真っ赤に染まり上がっていく。可憐な唇がぱくぱくと開閉を繰り返す。何か言いたいのに、言葉が見つからない。声が出ない。羞恥ばかりが胸を渦巻いた。
赤い顔を隠すように、少女は足取りを速める。逃げてしまいたい黒は、すぐさま事もなげに隣に並んできた。更に速める。すぐに追いつかれる。速める。追いつかれる。もう駆けるような勢いだ。
「グレイス?」
「早く帰るって言ってるでしょ……!」
不思議そうに名を呼ぶ狐に、躑躅は絞り出すように言葉を飛ばす。少女の変化に気付いていないのか、少年は分かりました、と返して並んで歩いた。
依然羞恥心渦巻く顔が熱い。足早に進む身体が熱い。せっかく時間を掛けてピカピカに身体を磨き上げたというのに、もう汗を掻いてしまいそうだ。あぁもう、と心の中で叫ぶ。それでも鼻歌を聞かれたという事実も、その恥ずかしさも消えることはなかった。
夜空、月と街灯が駆けるように歩んでいく二人を照らしていた。
結んで揃えて桃と雪/プロ氷
霧雨のように細やかで澄んだ髪を、ブラシが梳いていく。まっすぐに整えられたそれが、華奢な指によって均等に三つに分けられる。細いそれを、小さな手が慣れた手つきで手早く編んでいく。氷柱のように長く太かった髪の束は、あっという間に細く整った三つ編みに生まれ変わった。
鮮やかな手つきに、識苑はほぅと息を漏らす。髪を編む様は何度も見ているが、いつ見ても手際の良さに感動してしまう。あれだけ長く毛量のある髪を手入れしセットするのは大変だろうに、事もなげにやってしまうのだから見事だ。女の子ってすごいなぁ、と心の中で漏らした。
「識苑さん? どうかしましたか?」
毛先を細いゴムとオレンジの紐でまとめつつ、氷雪は首を傾げる。じぃと見つめてくる恋人の様子が気になったようだ。
「いや、いつも綺麗に結んでてすごいなぁって」
「すごくなんてありませんよ。小さな頃から毎日編んでいるので慣れてるだけです」
感嘆の息を漏らして言う青年に、少女は眉尻を下げながら笑う。よく手入れされたまろい頬には、ほのかに朱が滲んでいた。
「識苑さんもいつも結っているから慣れているでしょう? 同じですよ」
「俺は適当にまとめてるだけだよ。氷雪みたいに整えてないし」
翡翠の瞳が下ろされたままの長い桃の髪を見やる。毛先のばらついたそれに触れ、男は苦くこぼした。己は作業の邪魔にならないよう雑に結い上げているだけだ。恋人のようにこだわって伸ばしているわけでも、綺麗にしようと努力してるわけでもない。同じとするのは失礼に思えた。
「……あの、えっと……、もしよろしければ、今日はわたしが結ってみてもいいですか……?」
櫛を片手に、氷雪は小さく首を傾げて問うた。少し不安定な声音に反し、夕焼け色を見つめる水底色はキラキラと輝いていた。手入れがしたくて仕方が無い、といった様子だ。珍しい姿に識苑は頬を緩める。恋人であるこの少女は少しばかり引っ込み思案だ。こうやって己から希望を言ってくることはあまりない。よほど興味があるのだろう。それを叶えてやりたくて仕方無かった。
「じゃあ、お願いしよっかな」
弾んだ声で返し、青年は少女の隣、ベッドの縁に腰を下ろす。ありがとうございます、と同じく弾んだ声。腰掛けていた氷雪はそっとベッドに上がり、長い桃髪広がる背中へと回った。
失礼します、と少し固い声と共に雪色はぴょこぴょこと先の跳ねた髪をすくい上げる。少しずつ束に取り、手にしたブラシで梳いていく。寝起きで絡まっていた桃色は、綺麗に解けていった。
しばしの空白。鴇色の髪がまとめられ、首を回り肩に掛けられる。ごそごそと布の擦れる音と弾むスプリングの感覚の後、目の前に少女が現れる。ぱちりと瞬く愛し人の様子など気に掛けず、彼女は前に垂らされた桜髪に触れた。
胸元まである長い髪が三つに分けられる。細い束となったそれを、小さな手がすっすと編んでいく。あっという間に三つ編みができあがった。
「……おそろい、ですね」
垂れたピンクの編み髪から手を離し、氷雪はえへへとはにかむ。解けた口元には、幸がめいっぱいに溢れていた。
ふわ、と頬が、胸が熱を持つ。あまりにも可愛らしい笑顔に、あまりにも可愛らしい行動に、あまりにも可愛らしい姿に、心臓がきゅうと締め付けられた。
「あっ、えっと、戻しますね。前に垂れていては邪魔ですものね」
「いや、いい。今日はこのままがいいなぁ」
まとめたゴムを解こうとする細い手をそっと取り、識苑はにへらと笑う。こちらも幸福で染め上がった温かな笑みをしていた。ぁう、と目の前の細い喉から声が漏れるのが見えた。
「いいん、ですか……? 邪魔じゃありませんか?」
「邪魔なんかじゃないよ。氷雪とお揃いのままがいいな」
不安げに揺れる深雪色に、撫子色は柔らかな笑みと通った声を投げかける。潤った桜色の唇がはくはくと動く。あ、えっと、と震えた声がぽろぽろとこぼれ落ちた。しばしして、はい、と細い肯定の語が小さな口から紡がれた。
紅梅のように顔を染める愛し子をから視線を外し、識苑は肩に掛かった己の髪を見る。揃いの綺麗な三つ編みを眺め、へにゃりと緩んだ笑みをこぼした。
朝一番の幸福/ライレフ
※Dom/Subユニバースパロ。
ジャケットを羽織りながら長くない廊下を駆ける。クリーム色の制服に包まれた肩に鞄を掛ける頃には、目の前には呆れた調子の弟の姿があった。
「家でまで廊下を走るのはやめてください」
「早くしなきゃだろ?」
息を吐くように言う碧に、赤はニッと笑いかける。そうですけど、と返す浅葱の眉は軽く寄せられていた。
「烈風刀、『こっち向いて』」
優しい音色でコマンドを紡ぎ出す。毎朝恒例のその言葉に、烈風刀は従順に顔を向けた。どこか潤んだ、期待に溶けた川底色が夕焼け色を見つめる。今日も変わらず可愛らしい姿に、雷刀は頬を緩めた。
「『喉見せて』」
続けざまに示されたコマンドに、碧い少年は物言うことなく従う。何にも染められていない白い喉が、目の前に晒される。そのまま撫でてくすぐりたい衝動を抑え、朱い少年は下駄箱、その上に置かれた小物入れに手を伸ばす。片手で器用に開け、目的のものを取り出した。
さらけ出された喉に、手が伸ばされる。手にしたそれをうなじに沿うように通し、前で金具を留める。細い黒のチョーカーが日に焼けていない喉元を彩った。
「ん、オッケ。大人しくできててえらいな」
きちんと命令に従った『良い子』の頭を、梳くように撫ぜる。きちんと整えられた髪は、なめらかな指触りをしていた。跳ねる毛先をつつくように触れていると、顎がすっと引かれる。目覚めのはっきりとした若葉がこちらに向けられた。
「ありがとうございます」
首に巻かれたそれをそっと撫で、碧は笑う。頬をほんのりと染め、幸福にとろけた目を細め、口元を緩め礼を言う姿は、愛らしいと形容するのが相応しいものだ。
学校に向かう前に『外向き』の首輪を付けてやり、付けてもらうのが二人の日課だった。朝からDomの庇護をめいっぱいに受けることにより、Subの精神の安定性を図る。烈風刀が出した提案だ。頭の良い弟は頭の良いことを考えるものだな、とその優秀さに感服したのを覚えている。もちろん、二つ返事で引き受けた。
黒をなぞる指に、己の指を重ねる。つつ、と整えられた指を日で色付いた指がなぞり、首輪をなぞり、喉を撫ぜる。くすぐったいですよ、と笑みを含んだ声が返ってきた。
「いこっか」
「そうですね。レイシスを待たせてしまいます」
弟の言葉に、兄は急いで靴を履く。三人で登校するのも日課の一つだ。あの可憐で美しい少女を待たせてしまうのは、あってはならないことである。長い靴紐を雑に結んだ。トントン、とつま先で地面を打つ。ドアの開く音。開いた鉄扉の向こうに、朝の青空が広がっていた。
いってきます。
二人分の声が狭い玄関に響いて消えた。
今日は二人で夕食を/識苑+氷雪
住まいと住まいの間へと太陽が沈んでいく。去りゆく直前まで元気よく光を放つそれに、識苑は目を細める。作業で疲れた眼球にはあまりにも強いダメージだった。
ぐぅ、と固い腹筋に覆われた腹が鳴き声をあげる。プールの見張り当番に、技術班の仕事に、ついでにサーバー保守の手伝いに。今日は普段以上に働いた。常日頃から食事をないがしろにする身体に、腹の虫が怒りを示す。早くエネルギーを寄越せとうるさく騒ぎ立てた。
ふらふらと歩みを進め、いつもの扉の前に立つ。ガラガラと古めかしい音をたてて扉を開くと、ひゃ、と聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。音の方、頭二つは下へと視線を動かす。そこには、真夏でも美しく輝く雪の白があった。
「あれ? 氷雪ちゃん?」
「識苑先生?」
互いに目を丸くする。生徒と学外で会うことは時折あるが、彼女と鉢合わせるのはこれが初めてだ。それも、ここは学園から少し離れた位置にある中華料理中心の店である。まだ幼さが残る少女と鉢合わせるなど、想像だにできない場所だ。
「どしたの? こんなところで」
「いえ、アルバイトが終わったので帰るところです」
アルバイトの言葉に、青年は首を傾げる。ボルテ学園の校則は他校に比べてずっと緩い。アルバイトも認められていた。それでも、彼女がアルバイトをするのは意外に思えた。
「夏の間だけ、かき氷のアルバイトをさせていただいているんです。少しでもお役に立てたらな、と思って」
そう言って少女ははにかむ。雪女である氷雪は、すぐに物を凍らせてしまう己の体質にコンプレックスを抱いていた。それを活かそうとしているのだ。随分と成長した姿に、教師は頬を緩めた。
「うちの店を『こんなところ』とは何アルカ」
店の奥からむくれた声が飛んでくる。見ると、メニュー片手にこちらに向かってくる椿の姿があった。ごめんごめん、と手を振って謝る。今日は許してやるアル、と看板娘は依然頬を膨らませて言った。
「で、今日もいつものアルカ?」
「うん。よろしくー」
ハイヨー、と元気の良い返事をして椿は奥へと戻っていく。いつものネ、と厨房へと叫ぶ声が聞こえた。
「氷雪ちゃん、もう晩ご飯食べた?」
「いえ、まだです」
「バイトで疲れてるでしょ? ご飯食べてから帰りなよ。先生奢ったげるから」
識苑の言葉に、氷雪はえ、と驚きに満ちた声を漏らす。すぐさま、ぱちぱちと川底色の瞳が動揺に瞬いた。整った細い眉が八の字を描く。
「そっ、そんな、申し訳ありません」
「でも寄宿舎まで結構かかるでしょ? お腹空かせたまま帰るの大変だよ」
この店から学園の併設された寄宿舎までは結構な距離がある。バイトで働き疲れ空腹に苛まれる身体で帰るのは大変だろう。成長期の中学生なら尚更だ。
「それに、先生久しぶりに人とご飯食べたいなぁ。いつも一人だからさ」
付き合ってくれないかな、と問いかける。あわわ、と桃色の唇から慌てた声が漏れるのが見えた。白い頭が俯く。厨房から響く忙しない調理音が二人の間を埋めた。
「あ、の、今日アルバイト代が入ったので、自分のお金で食べるのでしたら……」
ご一緒させてください、と下を向いた頭から細い声があがる。久しぶりに人と食事の時間を過ごすことができる喜びに、少女が受け入れてくれた喜びに、青年はやった、と声を漏らした。
「何食べる?」
「えっと、えび餃子、食べてみたいです」
雪色の言葉に、桃色は頷く。椿ちゃん、えび餃子追加でー、とカウンターの奥へと大きな声を飛ばす。アイヨー、と元気の良い声が返ってきた。
入ろっか、と識苑はようやく扉をくぐる。はい、と慌てた調子で身を翻し、氷雪も店内へと戻った。
ガラガラと音をたてて扉が閉められる。店先に掛けられた『かき氷はじめました』と書かれたのぼりを夕焼けが照らしていた。
目覚めもたらす温度/ライレフ
温かなものが意識を包む。全てを受け止めるような柔らかな感覚に身を委ね、ゆっくりと沈んでいく。頭のてっぺんまで潜る直前、ぐらりと世界が揺れた。
「――いと、雷刀。雷刀!」
無理矢理引き上げられた意識が、音を認識する。己を示す名だ。いつだって聞いてきた声だ。愛しい音色のはずなのに、今はどうにも受け入れがたい。もっと温かな場所にいたかったのに、と覚醒に至らぬ頭がわがままを言った。
「……んだよ」
強く呼ぶ弟に対し、何とか言葉を返す。寝起きの低い声で放った音は、明らかに機嫌が悪いものだった。それはそうだ、ゆっくり眠っていたところを叩き起こされて良い気分になるはずなどない。
凄みを感じさせる響きに臆することなく、烈風刀は眠気でけぶる紅玉を射抜く。眉根を寄せる様は、怒りと呆れが混じり合ったものだ。
「起きてください。もうお昼ですよ」
「いーじゃん、やすみだろ」
ぐらぐらと肩を揺さぶる碧から逃れるように、朱は寝返りを打つ。今日は土曜日、運営業務も何もない休日だ。今週の食事当番は弟なのだから、惰眠を貪ることで片割れに迷惑を掛けることもない。いつまでも寝ていたって許されるはずだ。
「良くないでしょう。休日だからってお昼まで寝ているのはどうかと思いますよ」
ほら、起きなさい。言葉と共に被さった布団に手が掛けられる。引っ剥がそうとするそれを急いで掴み、頭まで被った。視界が暗くなる。こら、とくぐもった声が聞こえた。
だって眠っていたいのだ。新しく買ったゲームを夜中までやっていてまだ眠いのだ。温もりに溢れた柔らかな布団の世界で暮らしていたいのだ。重い瞼を、眠りに沈む意識を、無理矢理上げることなどしたくなかった。
このまま布団の中で籠城しても、いずれは無理矢理掛剥がれるだろう。どうしようか、と動きが鈍い頭で考える。真面目な弟が諦めそうな言葉は何だろうか。このまま駄々をこねるのは意味が無いだろう。仮病はさすがに心配を掛ける。他に何か。真っ暗でぬくい世界の中、ぐるぐると考える。しばしして、赤い唇がゆるりと綻んだ。
剥がされないように端をしっかり握りながら、もぞもぞと掛け布団から顔を出す。目の前には、依然仁王立ちをした烈風刀の姿があった。
「……おはようのちゅーしてくれたらおきる」
寝起きの脳味噌で考え出した言葉を紡ぎ出す。音を形作る口は、どこか意地悪げに緩んでいた。
弟は、恋人は奥手だ。付き合ってだいぶ経つが、未だ口付けを受け入れることすら得意としていない。そんな彼が、自発的に口付けなんてできるはずがない。それに、『おはようのちゅー』だなんて漫画みたいな行為を要求すれば呆れること必至だ。きっと痺れを切らして部屋から出て行くだろう。
はぁ、と深い深い溜め息。やはり、予想は当たったようだ。己の勝利を確信し、どうにか持ち上げていた瞼を下ろす。もう自由に眠るだけだ。
ギ、とスプリングが軋む音。身体を預けたマットレスが沈む感覚。頬になめらかな何かが触れる感触。そして、唇に熱。
「……お昼は焼きそばですからね。さっさと着替えてきてください」
熱が去ると共に、少し固い声が降ってくる。頬の温もりが離れ、スプリングが再び軋み、沈んだマットレスが戻る。ぱたぱたと少し急いだ調子の足音。バタン、とドアが閉められる音が陽光注ぐ部屋に響いた。
沈みかけた意識が、下がった瞼が思いきり引き上げられる。先ほどまで睡魔でけぶっていた意識が一気にクリアになる。同時に、凄まじい混乱の渦に陥った。
「………………へ?」
間抜けな音を漏らす唇に、指を当てる。一瞬与えられた熱は既に消え去っていた。けれども、感覚はしっかりと残っている。口付けの感覚が。
朱い目が瞠られる。日に焼けた健康的な色の頬が赤く色付いていく。八重歯覗く口が、驚愕にぽかんと開かれた。
夢だろうか。夢かもしれない。夢だろう。でも、肌に残る感触は確かなもので。触れた熱も求めていたもので。
ぇ、え、と開いた口から動揺の音が漏れる。はっきりと目覚めたというのに、頭の中はこんがらがって身体を動かしてくれない。意味の無い音を漏らすのが精一杯だ。それも、すぐにただの呻きとなり、最後には消え去った。
沈黙が部屋を包む。ギシ、とスプリングの音。ごそ、と衣擦れの音。くたびれたシャツとジャージに包まれた身体が、布団から露わになった。
もつれるようにベッドから身を下ろし、ふらつく足取りで扉に向かう。あんなことを言って、本当に叶えてくれただから、宣言通り起きなければいけない。それに。
着替えることなど、顔を洗うことなど忘れ、まっすぐにリビングを目指す。愛しい人が美味しい昼食を作って待っているであろうその場所に。
目覚めをもたらしたあの唇に、『おはようのちゅー』を返すために。
夕焼け空で二人きり/ライレフ
低い機械音が遠くに聞こえる。時折混ざる金属が軋む高い音が心をざわつかせた。
「夕焼け、きれーだな……」
「えぇ、そうですね……」
半円に作り上げられたガラス窓の外は、赤色一色に染め上がっていた。日中はあれほど青が広がっていた空が、正反対の色で塗り潰される。日常でありながら、何とも不思議な光景だ。その色を作り上げた陽の強い光が目を焼いた。
美しい夕焼け空を眺める碧と朱の瞳は濁っていた。現在地、観覧車の小さなゴンドラの中。現在時刻、夜が近づく夕暮れ時。状況、人目に付かない二人きりの密室。恋人関係にある者にとってこれ以上無くロマンチックなシチュエーションだというのに、空を見つめる二色二対の目は消沈しきっていた。
今日は兄弟、そして愛しい愛しいレイシスと三人で遊園地にやってきた。たくさんのアトラクションを楽しみ、現地限定のスイーツを味わい、趣向を凝らされた園内を歩き回り。それはそれは楽しい時間を過ごした。
その素晴らしい一日を締めくくる最後のアトラクションとして選ばれたのは、小さな観覧車だった。二人乗りのそれにどう乗るか――どちらがレイシスと乗るか、兄弟で静かな争いが起こったのは言うまでもない。ここは平等にいこう、とじゃんけんで組み分けをしたのだ。
その結果がこれである。
「何でだよ……」
「こちらの台詞ですよ……」
顔を覆う兄に、弟は覇気の無い声で返す。まさか兄弟二人で乗る羽目になるとは。簡単に予測できる事態であるのに、レイシスのことで頭がいっぱいな二人にはそんなことは一切思い浮かばなかったのだ。間抜けとしか言い様がない有様だ。
はぁ、と重い溜め息をこぼし、雷刀は顔を上げる。輝かしく眩しい夕陽が色の濁った瞳を刺す。痛みすら覚えるそれから逃げるように、少年は正面へと顔を向けた。
対面に座る弟は、変わらず力ない様子で外を眺めていた。夕焼けに照らされ、白く整った横顔が赤に染まる。美しい光景だ。少なくとも、ドキリと心臓が大きく脈打つ程度には。沈みきった気持ちがほのかに浮き上がる程度には。今現在『恋人と二人きり』であることを思い出す程度には。
「何ですか、じっと見て」
「いや、きれーだなーって」
じとりとした目線を送る碧に、朱はふと笑みをこぼして返す。あぁ、と翡翠が紅緋に染まる空へと戻される。ちげーって、と照らされる横顔にそっと指で触れた。
「烈風刀が」
「……何を馬鹿なことを」
触れた頬は、普段よりも少し温度が高いように思えた。一日おおいに遊び、日にめいっぱい照らされたからだろう。けれども、少しばかり膨れたそれは別の熱を持っているように見えた。白い肌が紅に染まる。己の色に染まる。天候によるものとはいえ、何だか気分が良い。にへ、と朱は幸福にふやけた笑みをこぼした。赤に照らされる孔雀石が、強く眇められた。その中に浮かぶ色は、鋭さを宿せども温かだ。
「そろそろ終わりますよ」
降りてレイシスを迎えなければ。そうだな。短く会話を交わすうちにも、ゴンドラは地上へと戻っていく。数分もかからぬうちに、地上へと足を着けることになった。
「観覧車、楽しかったデス~!」
一つ後ろのゴンドラに乗っていた少女は、地面に降り立つとともに弾んだ声をあげた。一人きりで乗ったというのに、随分と楽しんだようだ。それはよかった、と二人で返すが、心情は少し複雑だ。
「アレ? 二人トモ、顔赤いデスヨ? どうしマシタ?」
少女の言葉に、少年たちはへ、と声を漏らす。大きな手が二つともぺたぺたと頬を触る。確かに、触れたそこは熱を持っていた。何故だろう、と考えるより先に、ゴンドラ内のやりとりが頭に浮かぶ。初心な恋人はともかく、己まで赤くなっているとは。あー、と気まずげな声が二つ落ちた。
「……思ったより暑かったので」
「夕陽直撃だったしな。うん」
誤魔化す声二つに、レイシスは小さく首を傾げる。疑問はすぐに氷解したのか、ニコリと変わらぬ可愛らしい笑みを浮かべた。
「まだ時間ありマスヨネ? もう一周しマセンカ?」
「もちろん」
「する!」
桃の提案に、朱と碧は目を輝かせる。筋の目立ち始めた大きな手がぎゅっと握られ、拳を作る。今度こそ、少女との甘やかな時間を勝ち取ろうと。
ぐっとっぱ、と気迫に満ちた声と軽やかな声が夕焼けに包まれる乗り場に響いた。
一時間後、カメラロールは碧で染まった/ライレフ
蒼天を背景に白が舞う。陽光にたっぷり照らされふかふかになったそれは、雲に似ていた。雲めいた柔らかで暖かな四角形が、胸の内に収まった。
うっかり落としてしまわぬように腕にしっかりと抱え、烈風刀は掛け布団を胸にベランダを後にする。自分の分、そして兄の分をリビングに運び込み、少年は小さく息を吐いた。中身は羽毛なので幾分か軽いが、大きなそれを運ぶのは高校生でも一苦労だ。
洗ってしまっていた真っ白なカバーを掛け、まずは己の分を抱える。床に擦らないようにしっかり持ち上げ、自室に運び込む。これまた洗濯済みの清潔なシーツをベッドにかけ、カバーを替えた枕を置き、仕上げに掛け布団をふわりと被せる。全てが替えられ整ったベッドでは、きっと良い夢が見られるだろう。お日様の匂いに包まれる夜へと思いを募らせながら、碧はリビングへと引き返す。今度は兄の分だ。
簡単に畳んだ布団を両の腕で抱える。引きずらないようにしっかりと上げる。干したての暖かなそれが鼻先を掠める。ふわ、と何かが香った。
何だ、と烈風刀は目を瞬かせる。先ほどはこんな匂いはしなかったはずだ。日差しを浴びた暖かさも、干したての羽毛の柔らかさも、きちんと洗濯してしまっておいたカバーも変わらないはずだ。何が違うのだろう。覚えのある、心を軽く引っ掻くようなこれは一体。
歩み出した足が止まる。しばしして、あぁ、と呆れと羞恥が混ざった声が一人きりの部屋に落ちた。
何だも何もない。これは兄の匂いだ。兄の掛け布団なのだから、彼の匂いがするのは当たり前だ。なんて単純なものに疑問を抱えているのだろう。あまりの間抜けさに頭痛がするようだ。
はぁ、と溜め息もう一つ。止まっていた歩みを進める。兄の部屋に運んで、シーツを替えて、枕を置いて、掛け布団を被せる。これで二人分のベッドメイクは終わりだ。
ふかふかになったそれに、暖かなそれに、日に当たれども兄の香りを残したそれに、ふと目を細める。部屋には、兄弟二人で住む一室には己しかいないというのに、きょろきょろと意味も無く周りを見渡す。自分の他に誰もいないという当たり前の事実を再度確認し、そっと息を吐いた。
音をたてないようゆっくりと床に膝をつく。そのまま、頭を干したての掛け布団に軽く埋めた。
すぅ、と小さく呼吸する。鼻腔を太陽の暖かで柔らかな匂いが満たす。その奥に、愛しい人の香りが舞った。
「……らいとのにおい」
安心感をもたらす二つの香りに、少年は小さく呟く。ほのかに溶けた、甘い響きをしていた。すん、ともう一呼吸。陽光の匂い。兄の匂い。どちらも心地良さをもたらす素敵な匂いだ。同時に、睡魔を召喚する温度と安楽だった。
ゆっくりと瞼が降りていく。視界が狭まっていく。まだ洗濯物を取り込んでいる途中なのだ、寝てはいけない。けれども、朝から洗濯に掃除に精を出して少しばかり疲労が溜まった身体は徐々に動く力を失っていった。
花緑青の瞳がゆっくりと隠れていく。触覚から伝わる温度が、嗅覚を満たす香りが、少年を眠りへと誘う。駄目なのに、と叫ぶ理性は、温もりと香気に呼び起こされた本能に押さえつけられた。白い世界が狭まる。陰り暗くなる。ついには、瞼の裏側にある闇に染まった。
沈む意識の中、愛し人が己を包んだように思えた。
氷、煌めき、凍てついて/氷雪ちゃん
※HEXA DIVER暁光の翼篇ネタバレ有。
ふわり。ひらり。輝きが舞い落ちる。氷だ。小さな欠片が、陽光を受けて輝いては散っていく。故郷を思い出す風景だ。胸に一滴落ちた郷愁に、少女はきゅっと胸の前で手を握った。
結んだ手を開き、氷へと指を伸ばす。不思議なことに、冷たさも溶ける様子も感じられなかった。己が雪女だからだろうか。それとも、この世界が特殊なのだろうか。
この世界、と考え、雪女は小さく首を傾げる。『この世界』とは何だろう。世界はただ一つしかないのに。空を舞い飛び暮らす、この世界しかないのに。うぅん、と不可思議を詰め込んだ声が小さな口から漏れる。最近友人によく漫画借りて読んでいるから、その影響だろうか。現実と空想の切り分けができないだなんて、己もまだ未熟だ。うぅん、と苦い音が桜色の唇からこぼれた。
氷雪サン。
遠くから声が聞こえる。鋭く名を呼ばれ、氷雪は発生源へと目を向ける。常磐色の瞳に、桃色の点が映った。
レイシスさん、と雪色は声を漏らす。学園内を駆け巡る彼女には出会うことが多い。だというのに、随分と久しぶりに邂逅したように思えた。同時に、強い違和感を覚える。どうしてこの少女は羽を持っていないのだろう。空を駆け巡る世界に生を受けて、何故羽を持っていないのだろう。大丈夫なのだろうか、と不安が心ににじんだ。それもすぐ、鮮烈にきらめく氷たちに掻き消された。
綺麗でしょう、と白に身を包んだ少女は言葉を紡ぎ出す。どこか恍惚とした、魅入られた響きをしていた。常の彼女からは想像できぬ音に、薔薇色の少女は表情を硬くする。正気に戻ってくだサイ、と叫ぶような声が氷に支配された空間に響いた。
ぱちり、と川底色の目が大きく瞬く。正気とは何だろうか。己は正気のはずだ。正気だから空を飛んでいられる。正気だからこの世界を美しいと思うことができる。正気だから、彼女もここにいてほしいと強く思う。おかしい点など一つも無いはずだ。
ここじゃナイ。ピリカサン。どこヘ。飛んデ。もっと上ヘ。
ヘッドギアに手を当て、レイシスは声をあげる。断片的に聞こえる言葉に――『もっと上へ』という言葉に、心がざわめく。何が目的かは知らないが、どこかに行こうとしているのだ。この美しい世界から去ろうとしているのだ。こんなに美しくて、輝かしくて、冷たくて、心地良い世界から、去ろうとしている。事実が、心の柔らかな部分に爪を立てる。
仕方がないですね。
紡ぎ出した声は、己でも驚くほど冷え切ったものだった。氷柱のようなそれが、眼下の少女の元へと落ちていく。え、と驚愕に満ちた声があがったのが聞こえた。
ぴきり。ぱきり。空間が高い音をたてる度、背後の存在が大きくなる。氷でできた羽が肥大しているのだ。透き通ったいくつもの氷羽が、数を増し、太さを増し、鋭さを増していく。天へと広がるそれが、向きを変える。見知った少女へと、世界から逃げようとする者へと矛先を向ける。キラリと鋭利な氷塊が光を受けて輝いた。
氷雪サン、と悲鳴めいた声が飛んでくる。透明な刃を向けられた桃は、恐怖と焦燥に満ちた表情でこちらを見上げていた。それでも、その足は地を踏んだままだ。どこかへ歩み出そうと地を踏みしめたままだ。
安心してください。
ふわりと、はらりと、雪女は口元を綻ばせる。心を冷たく撫でるような、美しい笑みをしていた。
「永遠に、ここで、一緒に」
美しい世界にいましょう。
雪女は依然笑みを浮かべる。澄んだ、凍てついた、冷え切った、艶然とした笑みを浮かべる。ゆるりと細められた金緑石には、石解けた桜色の唇には、恐ろしい何かが宿っていた。
雪の気配が、氷の気配が、一層強さを増した。
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この翼できみへと【はるグレ】
この翼できみへと【はるグレ】宵闇の翼篇予告で発狂して当日筐体前で濃厚なはるグレを浴びた人間の末路。
宵闇の翼篇会話・エンディングのネタバレ有。
青い空の中、躑躅が舞う。闇を形にしたような漆黒を身に纏い、色鮮やかな牡丹と輝く銀の銃を操り、何十何百もの弾丸を撃ち放ち、長い躑躅の髪が宙を舞って踊る。青の中、少女は縦横無尽に闘い踊った。
バトル大会決勝は、激闘と呼ぶのが相応しい試合だった。両者ともにすさまじい気迫でぶつかりあい、実力を遺憾なく発揮し闘う姿は迫真に満ち、見る者全てを圧倒させるものだった。
それ以上に、飛び回る躑躅に目を奪われた。
空高く舞い上がるきみ。天も地も関係ないとばかりに飛び回って闘うきみ。届かない場所へと駆け上がっていくきみ。
鮮やかな姿が目に焼き付いて離れない。訳の分からない何かが胸を掻き乱す。理解できないこの情動は、どうすれば解決できるのだろう。
同じ場所に立てば分かるだろうか。
だから。
宵闇に包まれていた世界が光を取り戻す。重たい瞼を持ち上げた先に飛び込んできたのは、愛しい色だった。光を取り戻し、オレンジ一色に染まった世界でも鮮烈に咲き誇るアザレア。華奢な身体を武奏で彩る愛する少女。いつだって求めている人が、気づかぬ内に目の前に現れた。
あれ、と少年は音にせぬまま疑問の声をあげる。つい先ほどまでこの身を包んでいた浮遊感と、風が肌を撫ぜる感覚、鋼鉄の翼が空気を切る感覚は消え去っていた。代わりに、肩にほのかな痛みと前後に揺さぶられる感覚が身体を支配する。見れば、ロンググローブに包まれた細い腕が己に向かって伸ばされていた。
仮想現実は終わったのだろうか。仮想現実で望みを実現すると謳うシステムにより、空を飛ぶ夢は叶えられた。けれども、何故か胸は騒ぐばかりで落ち着かない。飛べば全てが分かると思っていたのだが、違うようだ。
はるか、はるか。
心から求める美しい声が名を呼ぶ。己を示す三音節を紡ぐ音色は、濡れたものだった。かすかにぼやける視界と思考を晴らすように瞬きを数回。鮮やかな花の色が更に色濃く視界に広がる。水色で縁取られた尖晶石が、まっすぐにこちらを見据えているのをようやく認識した。
「グレイス……?」
目の前、己の肩を掴む愛し人を呼ぶ。途端、可愛らしいまあるい目から、ぶわりと水が湧き上がった。どんどんと込み上げるそれは、限界を超え溢れ出て伝い肌を濡らす。ビビッドな愛らしい瞳に膜を張りぼやけさせる。とめどないそれは、少女の柔らかな頬に透明な線をいくつも描いた。おとがいまで到達した雫が重力に従い落ちる。足に少しだけ冷たさを感じた。
グレイス、と始果は今一度恋い慕う少女の名を呼ぶ。何故彼女は泣いているのだろう。いつも気丈に振る舞い、弱い部分など決して見せない強がりな彼女が、何故全てをさらけ出して泣いているのだろうか。理解できない現状と、愛する人が涙を流す不安が胸を掻き回す。
あぁ、と忍は一人合点する。きっと、この姿が悪いのだろう。妖狐になった姿は彼女に見せたことがない。こんな醜い姿を見ては、少し怖がりな部分がある少女は怯えを覚えてしまうはずだ。己が愛する人を苛んでいる。息が詰まるような感覚がした。
逡巡、黒に包まれた手が涙で濡れた頬に触れた。少しだけ硬い布地は、柔肌を濡らす雫を吸収し色を濃くする。あまり行儀が良いとは言えないが、今は濡れた顔を拭ってやる方が先決だ。繊細な肌を傷つけないよう、そっとなぞった。
こんこんと涙が湧き上がるモルガナイトがぱちりと瞬く。大きな衝撃に、また雫が溢れて白い肌を濡らした。これ以上こぼさせまいと少年は親指で目尻を拭う。見開かれた丸い目が、すっと眇められた。
パァンと高い音が空間に響く。遅れて、頬を痛みが襲った。突然の衝撃に、マリーゴールドが丸くなる。間の抜けた顔を一心に見つめるアザレアは、刃物を思わせるほど鋭さを宿していた。
「馬鹿始果!」
大声が響き渡る。悲鳴といっても十分な高さと鋭さ、悲しみを存分に孕んだ音色だった。ばか、ばか、と少女は涙声で拙い罵倒を繰り返す。言葉に合わせるように、両の拳で胸を叩かれた。相応の衝撃はあれど、痛みはない。けれども、暗い何かが打ち付けられた場所から広がっていく感覚がした。
「あっ、あん、た、わた……わたし、が……、ぅ、わたしが、ど、れだけ……っぅ、ぅう……」
鋭利な声は徐々に毀れ、ぼやけてにじんだものになっていく。まっすぐにこちらを睨めつける目はだんだんと下がっていき、ついには項垂れ見えなくなってしまった。丸い頭と細い肩が嗚咽に合わせて震える。ひたすらに痛ましい姿だった。
泣かないでください。思わずこぼれた声は、どこか己らしからぬ焦りがあった。あのグレイスがこんなにも泣くなど異常事態である。何より、いつだって幸せで在ってほしいいとしいひとが悲しみに濡れている様が胸を締め付けた。誰のせいだと思ってんのよ、とつかえつかえの涙声が返ってきた。
ぽたり、ぽたりと雫が少年の太股を濡らす。ず、と鼻を啜る音。俯いていたかんばせがゆっくりと上げられた。美しい瞳はまだ水気を含んで潤んでいる。けれども、雫となってこぼれる様子はなかった。ようやく泣き止んだらしい。まだ涙で濡れる頬を、黒い手がそっと拭う。普段ならば弾き飛ばす少女は、珍しくされるがままでいた。
「まったくもう……しっかりしなさいよ!」
少しだけ濁り震えた声とともに、胸をべちんと叩かれる。相応の実力の持ち主とはいえ、グレイスは肉弾戦とは縁遠い存在だ。渾身のものであろうが、痛みはほとんど感じない。けれども、心の臓がきゅうと締め付けられるような感覚がした。内臓に影響を及ぼす技術を持っていたのか、と感心する。それにしては鈍いものだけれども。
「……勝手に居なくならないで! ちゃんと傍にいなさいよね!」
躑躅の瞳が蒲公英の瞳を正面から射抜く。まだ潤んだペツォタイトは、真剣そのものだった。はっきりとした声には、鋭利な光を宿した瞳には、本心しか込められていないのがひしひしと伝わってくる。
グレイスの言葉に、始果は小さく首を傾げる。一体何を言っているのだろうか。己が彼女から離れることなどない。傍にいるなど当たり前のことだ――否、今回ばかりは離れてしまった。『飛びたい』という願望のために、勝手に行動してしまった。いとしいきみに届きたくて飛んだというのに、結果泣くほど怒らせてしまった。身勝手さに、身の程を弁えない愚かな己に、少年は顔をしかめる。
「分かったら返事!」
「はい。もちろん」
ひそめた表情を別の意味に捉えたのだろう、べちんともう一度胸を叩かれる。今度こそ、すぐさま返事をした。絶対よ、絶対だからね、と躑躅の少女は何度も繰り返す。この短い約束を反故させまいという気迫があった。
「ここ、まだ安定してなくて危ないのよ! 興味があるなら今度から私と行くこと!」
いいわね、と少女はびしりと指を突きつける。念を押すようにぶんぶんと振る様は、指揮者に似ていた。絶対よ、と更に言葉が飛んでくる。同じ言葉を繰り返す姿は、確固たるものをねだる幼い子どもに似ていた。
強く握り締め一本指だけ立てた可憐な手を、黒で彩られた両の手が包み込む。分かりました、と同じ言葉を、果たすべき約束の言葉を繰り返した。
やはり、届かない。
同じ景色を見たくて飛んでみたけれど、ついぞ彼女には届かぬままだ。やっと共に、隣に在られると思ったのに、仮想現実は仮想現実でしかない。
けれども、愛しい躑躅はこんな愚かな己に『傍にいろ』と言ってくれた。彼女の傍に在る。何よりの幸福だ。
その命はいつまで続くのだろう。いつまで傍に在ることを許されるのだろう。いつになれば、同じ場所に立てるのだろう。
不相応な考えだ。消すべきそれが、頭の中を巡り巡る。淀んだものが少年の心に深い影を落とした。
小さな手を包み込んだ大きな手に力が込められる。離れて飛び立ったのは己だというのに、この触れ合った場所から伝わる愛しい温もりを手放すのが酷く恐ろしく思えた。
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#はるグレ