No.151, No.150, No.149, No.148, No.147, No.146, No.145[7件]
屋台明かりと紅い花【福→紅】
屋台明かりと紅い花【福→紅】
ボルテ軒とか椿ちゃんちとかの地元の店屋さんってお祭りとかに出店出してるのかなーとか考えた結果。機会逃しまくって六年近く温めてたなど。
福紅増えろ……増えろ……。
ガヤガヤと騒がしい人の声が、屋台から漂う香ばしい匂いが、生ぬるい夏の夜風が肌を撫ぜる。湿度と気温に伴うほのかな息苦しさに、福龍は襟を緩めようと首元に手をやる。触れる前に腕を下ろし、長机の端に置いた小型扇風機へとほんの少しだけ身体を寄せた。店の名前を掲げた場所を任されているのだ、どれだけ暑くともだらしない格好をしてはならない。こんなことで店の評判が落ちては大問題だ。
実家の飲茶店は、今年も地元の祭に屋台を出店することに決めた。夏場、それも屋外で飲茶なんて、と初めの頃は考えていたが、意外と客足は良い。ごま団子や桃まんといった甘味を買っていく浴衣姿の女性客もいれば、ちまきやしゅうまいといった塩辛いものを買っていく赤ら顔の男性客もいる。そこそこの山を成していた料理の詰まったパックは、祭はまだ中頃だというのに三分の一ほどまで減っていた。
はぁ、と息を吐く。じっと立っているだけだというのにうんざりするほど暑い。夜とはいえ、今の時期は夏の盛りである。その上、焼け付く鉄板を扱う屋台たちからは多大なる熱が発生し場を満たしている。対策に持ってきた小型扇風機などほとんど役に立たないほど、会場は昼と変わらぬ空気をしていた。
椿がいないのは幸いだな、と少年は熱気でほんのりとぼやけた頭で考える。彼女がここにいれば、暑い暑いとひたすら文句を言っていただろう。暑さにやかましさまで加わっては堪ったものではない。
本当ならば毎年兄妹で店番をする手はずなのだが、妹は『友達と約束している』と言って遊びに行ってしまった。両親は出店を子ども二人に任せ、変わらず店を切り盛りしている。今は一人で店番をしている状態だ。家族全員人使いが荒いったらない。
屋台の裏側、足下に置いた鞄からペットボトルを取り出す。水分補給はしっかりしろ、と師範である父から毎年言われていた。事前に凍らせたそれは、もうほとんど溶けて緩く熱を孕みだしている。それでも、熱気に晒された常温のものを飲むよりずっとマシだ。キャップを開け、細いボトルを傾ける。ほんのりとした冷たさが喉を潤した。
「こんばんは」
夏の空気にそぐわぬ涼しげな声が耳を撫ぜる。客か、と福龍は急いでボトルから口を離し鞄に放り込んだ。はい、と接客用の声で応えて振り返る。金の目に映ったのは、つややかな黒い髪と夜闇でも鮮やかな紅の瞳だった。見覚えのある、否、見知った姿にドクリと心臓が大きく跳ねた。
「く、れは、さん……?」
食品を並べた机を挟んで向こう側、屋台の真ん前にいたのはクラスメイトであり想い人である紅刃だった。常は無彩色のセーラー服を纏う細い身は、大輪の赤い花が咲いて舞う白い浴衣に包まれている。腰まである長い髪は高い位置でまとめられ、大きな純白のコサージュが付けられたかんざしで彩られていた。
一体どうして、と漏らしそうになるのを必死で堪える。客に対して『どうして』なんて問いかけるのは失礼にも程がある。しかし、疑問を覚えるのは当然だ。椿が言う『友達』は高確率で紅刃を指す。妹と一緒にいると思い込んでいた級友が一人で目の前に現れたのだ。何故、と熱を持ち始めた脳味噌がもう一度声をあげた。
「椿と一緒じゃないんですか」
「そのはずだったんだけど、待ち合わせの場所に来ないのよね」
だからこっちに来てみたのだけれど、と少女はきょろきょろと辺りを見回す。妹の宣伝により、己ら兄妹の家が屋台を出しているのはクラス中に知れ渡っていた。現れぬ友人がいるかもしれない唯一の心当たりをたどってここに来たのだろう。
「あいつなら結構前に出てったんですけど」
「あら、そうなの」
店番よろしくネ、と片割れが元気に手を振って店を出て行ったのは、もう少し机上に商品が積み重なっていた頃だ。客足を考えると、ある程度時間が経っていることが予測される。なのに合流できていないというのはどういうことだろうか。
青い少年の言葉に、紅い少女は口元に手を添え大きな目を瞬かせた。提げた桃色の巾着に手を入れ、彼女は携帯端末を取り出す。液晶画面を見つめる瞳は、どこか曇って見えた。おそらく、椿に連絡を取ってみたものの返信が無いのだろう。あいつ、とここにいない兄妹に悪態を吐いた。
うぅん、と晒された細く白い喉から悩ましげな音が落ちる。決心するように丸く整った頭が小さく上下し頷く。紅い目がまっすぐにこちらを射抜いた。
「申し訳ないのだけれど、少しここで待たせてもらえないかしら? たぶん、待ち合わせ場所よりこっちに来る可能性の方が高いと思うの」
形の良い眉がわずかに下がり、八の字を描く。いつだってきりりとした美しい紅玉は、申し訳なさそうにほのかに細まっていた。人のことをよく考える優しい彼女のことだ、きっと無理を言っていると思っているのだろう。
少女の言うことは一理ある。待ち合わせ場所がどこかは知らないが、目の前の通路の様子を見るに会場内はどこも人が多いだろう。あのいつだって元気の有り余る妹は、その場をくまなく探すよりも会場内を駆けずり回って友人を探すに決まっている。ここにも来るはずだ。屋台の店先に立っていた方が目立って見つけやすいだろう。
それぐらい安いものである。けれども、少年の心は悲鳴をあげた。当たり前だ、突然『好きな女の子と二人きり』なんて状態に放り込まれるのだ。初心な心が耐えられるはずがない。
合理的な彼女の願いを取るか、無理だと叫ぶ己の心を取るか。
「……どうぞ」
天秤は前者に傾いた。沈黙の末に告げられた了承が渋々といったものに映ったのだろう、無理言ってごめんなさいね、と紅刃は依然眉尻を下げた表情で謝罪を紡いだ。全部椿のせいですから、とどうにかフォローを入れる。実際、全てはあの妹が悪いのだ。彼女が謝る必要など欠片も無い。罪悪感を覚えないでほしいが、あまり言葉を生み出すのが得意ではない己には上手く伝える術は無かった。
「ただ待たせてもらうのも悪いわね。ごま団子一ついただけるかしら?」
こぶりな巾着から財布を取り出し、紅は机上に並べられたパックを一つ指差す。五個入りのそれは、店で提供している物よりも少し小さい。会場内で食べ歩くことを考えてのサイズだ。
「いや、気を遣わなくてもいいですよ」
「待ってる間にお腹が空いちゃったの」
はい、と少女は硬貨を取り出しこちらに差し出す。ぐ、と喉が詰まったような音が思わず漏れた。言い訳までさせて気を遣わせているという事実に、心が苛まれる。本当にあいつ、と依然音沙汰が無い妹を恨みがましく思い浮かべた。
表示価格ぴったりの代金を受け取り、ありがとうございます、と平積みになったパックを一つ差し出す。ありがとう、と穏やかな微笑みと共に、紅い少女はフードパックを受け取った。ころりと中身の団子が薄っぺらい容器の中転がる。
カランコロンと赤い鼻緒の下駄が軽やかな音を奏でる。屋台と屋台の間、人が通ることのほとんどない薄暗がりに紅刃は移動する。手首に巾着を提げた手が、透明なパックを開ける。中に放り込まれたプラスチック製の楊枝を持ち、白ごまを纏った団子に刺した。紅で薄く彩られた健康的な色をした唇に、小さな甘味が吸い込まれていく。一口サイズのそれが可愛らしい口の中に消えていく。まろい輪郭を描く頬が上品に動いた。
「いつ食べても美味しいわね」
「……伝えておきます」
甘い飲茶に頬を緩める紅に、青は反射的に視線を逸らして返す。妹のせいで余計な気と金銭を使わせたという罪悪感はもちろん、想い人が己に向けて愛らしい笑みを浮かべている事実を受け止める度胸が無かった。化粧で更に美しく仕上げられたかんばせは、恋心を抱える少年にはあまりにも刺激が強い。既にキャパオーバーになりそうなほどである。
もぐもぐと紅い少女は団子を味わう。黙々と青い少年は屋台内を無意味に整理する。元々口数が多い方ではない己には、好きな女の子を会話で楽しませる自信など無かった。作業を言い訳に現実から逃げているのだ。何とも情けないことである。かろうじて出たのは、ゴミもらいます、の一言だけだった。
ガヤガヤと人が行き交う。風に吹かれて声が、匂いが、熱が少年少女を包む。賑やかな祭の場だというのに、二人の間には沈黙が流れていた。どうしよう、と伏した目をうろうろと泳がせる。月色の目に映ったのは、放置しっぱなしの銀色だった。
「……あの、座ってください」
屋台の屋根の下、荷物や道具を置く奥の机に立てかけてあったパイプ椅子を少女に差し出す。貸し出し時に用意されたものの、使っていない一脚だ。相手は慣れていないであろう下駄を履いた少女である、いつまでも立って待たせるわけにはいかない。かといって、飲食物を扱う屋台に部外者を入れるのは少しばかり気が引ける。己にできることは、椅子の提供が精一杯だ。
えっ、と少女は振り向く。こちらを見る柘榴石が、驚いたようにぱちりと瞬いた。
「悪いわ。大丈夫よ」
「下駄で立ちっぱなしは疲れるでしょう。使ってください」
「でも、こんなところで椅子に座るのはさすがに邪魔になっちゃうわ」
手を振って断る少女の言葉は正論であった。やはり、座ってもらうなら中に引き入れるべきだろうか。けれど。しかし。頭の中で問答を繰り返すも、答えは出ない。結局、そうですか、と手にしたそれを引き下げることしかできなかった。元の位置に銀の椅子を戻す。暖色の明かりに照らされる鉄素材は鈍く光っていた。
「……椿から連絡返ってきましたか?」
「まだね」
いつものことだから、と笑う紅刃に、福龍は苦い顔をする。普段からどれだけ迷惑を掛けているのだ、あの妹は。呆れと申し訳なさが恋心に揺れる胸を満たしていく。
「ちょっと電話してみます」
そうだ、最初からそうすればよかったのだ。何故思いつかなかったのだ。己を罵倒しつつ、急いで携帯端末を操り妹へと電話を掛ける。耳元でコール音が奏でられるが、十数回繰り返されてもあの無駄に元気な声がスピーカーから聞こえてくることはなかった。暇な時は端末をいじって遊んでいる彼女がこれほどまで出ないということは、現在手に持っていない疑いがある。もしくは、兄からの電話など対して重要ではないと無視しているのか。前者であってほしい。否、前者であっても困るのだけれど。
「出ないみたいね」
「……すみません」
そういう時もあるわ、と少女はひらひらと手を振る。頼りない姿を晒してしまった。内心顔を覆って蹲ってしまいたい気分だ。そんな情けない様など絶対に見せないが。
「そういえば毎年店番してるみたいだけど、大変じゃない?」
「家での店番とあまり変わらないので、特には」
妹に比べ営業トークが苦手な己が接客をするのと、小さな金庫一つで金銭を管理するのはいささか不安である。しかし、それをわざわざ言う必要など無い。この歳でその程度のことを懸念する様子など他人に見せたくなかった。相手が恋心を寄せる相手ならば尚更である。
「実家がお店って大変ね」
「紅刃さんも神社の手伝いが大変でしょう」
「そうでもないわよ? 忙しいのは七五三の時期と年末年始ぐらいだもの」
毎日手伝ってるあなたの方がすごいわ。
尊敬の念がにじむ声で、穏やかながらも儚げな笑顔で、紅刃はこちらを覗き込むようにそっと首を傾ける。提灯の明るくもどこか淡い光に照らされたかんばせは、美しい以外に表現する言葉が無かった。
心臓が大きく音をたてる。脈が早くなる。口内が渇きを覚える。顔に熱が集中していく。特に、頬が熱くなるのが嫌でも分かった。
いえ、と短く返し、福龍はふぃと視線を逸らす。今の己は大層情けない顔をしているだろう。こんな赤い顔を、緩んだ顔を見せるわけにはいかなかった。
また沈黙が二人を包む。相手はどうか分からないが、己にとっては気まずくて仕方が無い。せめて客が来れば接客を言い訳に逃げることができるのだが、生憎客足は途絶えて久しい。暑いのだから当たり前だ。分かっているものの、何故こんな時ばかり、と心の中で頭を抱えた。
「紅刃ー!」
騒がしいほどの雑踏の中、聞き慣れた声がまっすぐに飛んでくる。人混みを器用に縫って現れたのは、己と同じ青い髪を振り乱して駆ける少女、双子の妹の椿だ。
「紅刃ー! 待たせてごめんアル!」
「お前、今までどこに行ってたんだ」
「父上に呼ばれてたアル。友達と遊ぶならこれ持ってけって」
申し訳なさそうに謝る妹に、兄は刺々しい声を飛ばす。瞬時にけろりとした顔をした彼女は、手に持ったビニール袋を掲げた。乳白色のそれの中身を三人で覗き込む。薄い袋の中には、プラスチックパックに詰められたごま団子と桃まん、大福に杏仁豆腐のカップまで入っていた。気前が良いことだが、女子高生二人で食べきるには無茶な量だ。友達をどれだけ大人数と想定して持たせたのだろうか。
「あら、いいのかしら」
「いいに決まってるネ。父上、紅刃に食べてもらうの楽しみにしてたみたいアルヨ」
あの子は美味しそうに食べるからって張り切ってたアル、と椿はニコニコと笑みを浮かべる。呼ばれた少女は、恥ずかしげに口元を隠した。白い頬にほのかに色が浮かぶ。
たしかに、彼女はいつも涼やかな顔を柔らかに綻ばせ美味しそうに食べてくれる。師範が張り切るのも納得だ。ただ、その言葉を食い意地が張っている、と捉えてしまったのだろうか。そうかしら、とこぼす声は少し揺れていた。
「先に食べてから行くネ。福龍、詰めるアル」
「いや、お前、屋台内にはさすがに――」
「商品には触れない隅っこにいるから大丈夫ネ! ほら、椅子貸すアル」
止める福龍など気に掛けず、椿は紅刃の背を押す。狭い屋台の中に高校生の少女が二人入ってくる。浴衣姿の想い人が近づいてくる。人が三人並ぶのがやっとのスペースだ、距離は触れてしまいそうなほど近くなってしまった。心拍数が上昇する。唇が緊張で引き結ばれる。口の中から水分が失われていく。一歩下がろうとしたところで、妹が間に割って入った。ほら貸すアル、とたおやかながらもしっかりとした手が後ろにあるパイプ椅子を取った。安堵とかすかな口惜しさが胸に広がっていく。馬鹿らしいそれを消し飛ばすように、濃い青の頭がぶんぶんと振られた。
「福龍ー、杏仁豆腐食べるアルカー?」
「足りるのか?」
「多いくらいネ。というかこれ、絶対福龍の分も入ってるアル。食べなきゃダメアルヨ」
ほら、と椅子に座った妹は白で満たされたプラスチックカップを差し出してくる。分かった、と兄は大人しく受け取った。妹も想い人もよく食べる方だが、それでも二人で食べきるには難しい量に見える。最初から合流することを見越して己の分も入れて寄越したのだろうか。それとも、単に娘の友人のために張り切りすぎたのか。妹に少し甘い師範のことを考えると、どちらかといえば後者のようにも思える。
美味しーアル。美味しい。腰を落ち着けた少女らから高い声があがる。可愛らしい光景に頬を緩めながら、少年もスプーンを取った。プラスチックの小さなそれが、白い個体をすくい上げる。口に運ぶと、何とも言えない生ぬるさと確かなる甘みが口内に広がった。美味しいが、暑い夏の夜にはなんとも言い難い感覚である。それを見越して彼女は押しつけてきたのだろうか。
軽快に会話を交わしながら、少女らは飲茶に舌鼓を打つ。その間にも、客はちらほらと現れる。忙しく一人対応に追われながらも、少年は内心安堵の溜め息を吐いた。ただ立っているだけでは、どうにも想いを抱えた少女へと意識が向いてしまう。作業をしていた方が気が紛れてよかった。
食べた食べた、と椿は声をあげる。ごちそうさまでした、と紅刃は礼儀正しく言う。青髪の少女は立ち上がり、中身がまだ少し入った袋を奥の机に置いた。ぽん、と肩を叩かれる。ちらりと視線を向けると、ニコリと笑んだ妹の姿があった。
「じゃ、店番よろしくネ」
「終わるまでには帰ってこいよ」
「分かってるアル」
当たり前だというように言うが、毎年彼女は忘れて遊び、両親が店を終えるまで己一人で後始末をするのだ。おそらく今年もそうだろう。もう諦めていた。
「ちゃんと帰すから安心して」
「……すみません」
いたずらげに微笑む紅刃に、福龍は申し訳なさそうに返す。子どもじゃないアルヨ、とむくれた声が飛んできた。忘れて遊ぶのは子どもだろ、と返すと、膨れた頬から呻り声が漏れた。
よろしくアルー。待たせてくれてありがとう。元気な声と温かな声を残し、赤い背と白い背が雑踏へと混じっていく。視界からその二色が消えたのを確認したところで、はぁ、と酷く大きく重い溜め息を吐いた。頼りない足取りで隅に向かい、パイプ椅子に腰を下ろす。ガシャン、と耳障りな音が祭の片隅に響いた。
顔を片手で覆う。触れた頬はまだ熱を持っていた。あまりにも幼稚な己の反応に、少年はもう一度溜息を漏らした。現実から逃げるようにぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に、浴衣姿の少女が浮かんだ。慌てて目を見開く。強く頭を振ってあの美しい姿を消し飛ばそうとした。
道具が雑多に並ぶ机の隅に置いた時計を見やる。二本の針は、祭の終わりまでまだまだ時間があることを語っていた。
遊びに行ったのだ、また彼女が姿を現すことはない。落ち着いて、ゆっくり店番をしよう。茹だる頭でどうにか考え、少年は椅子から立ち上がった。
提灯の暖色の明かりが、机上の透明なパックと飲茶たちを照らしていた。
畳む
twitter掌編まとめ4【SDVX】
twitter掌編まとめ4【SDVX】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
成分表示:ライレフ2/嬬武器兄弟2/レイ+グレ1/魂+冷音1/ハレルヤ組1/ユーシャ+千影+チョコプラちゃん1/ハレルヤ組+グレイス1/識苑+かなで1
夏空と傷痕/ライレフ
痛いほどの陽光が世界を照らし出す。波の音が眩しいぐらいの夏空の下響き渡る。バシャバシャと水が跳ねる音。子どもたちのはしゃぎ声が蒼天に昇った。
浮き輪をつけ、子猫たちは波打ち際に足を浸してはしゃぐ。『自分たちだけで深いところに行かないように』という言いつけをしっかりと守り、足先が浸る程度の浅い場所で遊んでいた。
元気な様子に、烈風刀は頬を緩める。猫は水が苦手と聞き少し心配していたが、彼女らはそうでもないようだ。怯える様子など全く無く、積極的に海を楽しんでいた。
ビーチパラソルの下、少年は傍らのクーラーボックスを開く。凍らせておいた飲み物は、順調に溶けていた。これなら冷たい状態でいつでも水分補給できるだろう。弁当の類もきちんと保冷剤に囲まれている。しばらくは平気だろうが、あまり時間をおいては不安だ。頃合いを見て食事を摂ることを促さねば。きっと、あれだけはしゃいでいれば声を掛けるより先に『お腹が空いた』と寄ってくるだろうけど。
「れふとー!」
「らいとー」
後ろから呼ばれ、パラソルの下兄弟二人は振り向く。視線の先には、浮き輪を抱えたニアとノアの姿があった。細い足が砂浜を蹴って走る度、まとめて結った蒼髪とサンバイザーに付いた長い耳が揺れる。
「見て! でっかい浮き輪!」
「おっ、借りてきたんだ?」
「そうだよー。これなら海の上でぷかぷか浮けるかも」
身の丈半分ほどもある大きな浮き輪を抱え、少女らは目を輝かせる。いいなー、と雷刀は羨むように青い浮き輪を眺める。いいでしょー、とニアは自慢げに笑った。
「らいとたちは海入らないの?」
ニアの問いに、兄弟の動きが止まる。青兎たちをまっすぐに見つめていた二色二対の瞳は、反対方向に逸らされた。
「あー……えっと……」
「僕たちは荷物の管理をしなければいけませんから。後で入りますよ」
目を泳がせ言葉を濁す朱に反し、碧はにこやかな笑みを浮かべて返す。荷物の管理をしなければいけないのは事実だ。万が一盗難被害に遭って楽しい時間を台無しにしてしまうなどあってはならない。
「……いいの?」
「えぇ」
不安そうに今一度尋ねる妹兎に、弟は笑みを崩さず首肯する。その笑顔は普段通りのようで、少しだけ固い。それが伝わったのだろう、姉妹は不思議そうな表情で互いの顔を見た。
「あとで交代するね!」
「もうちょっとだけよろしくね!」
そう言って、兎たちは海へと駆けていく。浮き輪持ってきたよー、とはしゃぐ子猫たちの声によく通る声が混ざった。
「……もっと上手く誤魔化せないのですか」
「できたら苦労しねぇよ……」
はぁ、と双子は嘆息する。晴れ渡る夏の青空に相応しくない、重く暗いものだった。
「誰のせいでしょうね」
呟くようにこぼし、烈風刀は羽織ったパーカーの裾を握る。溶けてしまいそうなほど気温が高いというのに、まるで閉じこもるように前を合わせた。鍛えられた腹が、緑の布地の奥に消える。
「さぁな。誰のせいだろうな」
投げやりに返し、雷刀もパーカーの襟元を握る。凍える身を守るように引っぱり、赤い生地で首を隠した。早くも日に焼け薄く色付いた肌が赤い生地に埋もれる。
本当なら、こんな暑い中パーカーなど着ていたくない。海にだって入りたい。めいっぱい泳ぎたい。そう思えど、行動できぬ色が二人の肌に刻まれていた。主に、背中と腰に。
海に行く、つまりは人前で肌を晒す予定があるのは分かっていた。分かっていて、二人でベッドに雪崩れ込んだ。全てが終わった後に傷が残る懸念が浮かび上がったが、まぁ大丈夫だろうと兄は笑い飛ばした。弟も、早く治るようにと薬を塗った。それでも、深く刻まれた爪の痕はうっすらと残ってしまったのだ。あまりにも無計画で、あまりにも浅はかとしか言いようがなかった。
こんなもの、子どもたちに見せるわけがいかない。純粋な桃たちはきっと心配するだろうし、知識がついていてもおかしくない年頃のニアたちには勘ぐられてしまう可能性がある。そんなことはあってはならない。その結果がこれである。
「海、入りてーなー……」
「行ってくればいいのではないですか。背中は見えにくいですし」
「烈風刀だけ入れねぇのはやだ」
どんなわがままですか、と碧は嘆息する。だってずるいだろ、と朱は唇を尖らせた。そんな配慮をするぐらいなら、最初から誘うなという話である。乗った己も同罪なのだから、口に出すことはしないけれど。
ザザン、と波の音が鼓膜を揺らす。光を受け輝く海面を、浅瀬ではしゃいで遊ぶ兎と子猫を、兄弟は眺める。熱い海風が二色の髪とパーカーを揺らした。
「先に言い出したのそっちだかんな!」「意味が分からないのですけど!」/ライレフ
一日紙の上を走り回っていた重たい腕を持ち上げ、雷刀は鞄から鍵を取り出す。揃いのキーホルダーを付けたそれは、銀のシリンダーを回し錠を開けた。鍵を握りこんだまま、ノブを回す。住まいと廊下を分かつ扉が開き、暖色灯の明かりが己を迎え入れた。
「ただいまー……」
力の無い声で帰宅を告げる。言ったものの、リビングにいるであろう弟には聞こえないだろう。分かっていても口にしてしまうのは癖なのだから仕方無い。
「あ、おかえりなさい」
靴を脱ぐために座り込んだ己の頭に、耳慣れた声が降ってくる。手を止めて振り返ると、そこにはエプロンを着けた烈風刀の姿があった。胸にはタオルの束が抱えられている。洗濯物をしまっていたところなのだろうか。朱い目が白くふわふわとしたそれをぼんやりと眺めた。
「ただいま」
「ちょうどいいところに帰ってきましたね。ご飯にしますか? それとも先にお風呂にしますか?」
今一度帰宅の言葉を口にする。返ってきたのは、穏やかな笑みと問いだった。今週の食事当番は烈風刀だ。晩ご飯を作っておいてくれたのだろう。風呂の用意ができているのは単純にタイミングの問題だろうか。彼のことだから、自分が入ろうとしていたところを譲ってくれるのかもしれない。
飯、と声帯が震える直前で、動きが止まる。あれ、と脳内で疑問の声があがる。疲れ切った脳味噌の端に、投げかけられた言葉が引っかかったのだ。毎日聞く文句ではある。けれども、この二つを並べるのは何か意味があったはずだ。なんだっけ、ととっちらかった記憶の引き出しを片っ端から開けていく。それはすぐに見つかった。
ご飯にする? お風呂にする? それとも――
定番の誘い文句だ。恋愛に疎い自分でも知っているほど使い古された、けれども確かな意味を持つ言い回しだ。それを、今恋人が口にした。己に向かって発した。その事実が、停滞していた思考に染み渡っていく。
最後の提案は無かったではないか、偶然だろう。疲れ切った脳味噌に一欠片残った冷静な部分が告げる。恥じらいがちな彼のことだ、言おうとして押し込めてしまったのかもしれない。疲弊した脳味噌の茹だった部分がでたらめを言う。否、きっとそうだ。そうに決まっている。補習で丸一日勉強漬けにされ疲労困憊の脳味噌は、間違った方向へと舵を切った。
脱げかけの靴のまま立ち上がり、こちらを見つめる愛しい人へと一歩踏み出す。エプロンの肩紐が通る確かな肩を、両の手で捕らえた。ぱちりと瞬く孔雀石を、柘榴石がまっすぐに見据える。
「れっ、烈風刀がいい!」
発した声は少しばかり裏返っていた。なんとも格好が付かない。けれども、奥手で恥ずかしがり屋な恋人がこんな風に誘ってきたのだ、興奮し上擦ってしまうのも仕方が無いことである。バクバクと心臓が脈打つ。夜風に晒された頬は、高揚で薄ら赤く染まっていた。
「は?」
返ってきたのは、酷く冷えた声だった。全てを凍りつかせるような、切り捨てるような、鋭く冷たい音だ。あれ、と疲労で溶けた脳味噌が疑問符を浮かべる。
「馬鹿なこと言ってないで選んでくれませんか。こっちにも段取りがあるんですから」
見つめ返す、否、睨む浅葱は冷たい色をしていた。先ほどまでの温かさなど欠片も無い。手入れされた唇から紡がれる言葉も、酷く面倒臭そうな音色をしていた。
「あ? え? あれ? え、だって――」
「決められないのなら先にご飯食べててください」
肩を掴む手を振りほどき、烈風刀は呆れきった調子で言う。お風呂先にいただきますね、と残し、彼は洗面脱衣所へと消えた。
パタン、とドアが閉まる音。扉にはめられたガラスから光が漏れ、廊下に伸びるのが見えた。
「…………………………えー」
長い長い沈黙の末、雷刀は吐き出すように声を落とす。あまりにも間の抜けた音をしていた。
どうやら先の言葉は単なる偶然で、己の解釈と返答は誤答だったらしい。そんな馬鹿な、と茹だりきった脳味噌が泣き声をあげる。それみたことか、と小指の先ほど残っていた冷静な脳味噌が真っ当な声をあげた。
はぁ、と重苦しい溜め息をこぼす。勘違いとはいえ、期待したのに冷たくあしらわれたのは心にくるものがある。それも疲れ切ったところをとびきり酷く扱われたのだ、痛みはひとしおだ。
はぁ、ともう一つ溜め息。とにかく、手を洗おう。ご飯を食べよう。それから、風呂に入って、部屋に突撃してやろう。偶然とはいえ欲望を焚きつけたのはあちらなのだ。それぐらいしたって罰は当たらないはずだ。
今一度座り、脱ぎかけだった靴を脱ぐ。紐がぐちゃぐちゃになったそれを、踵を揃えて置く。鞄を引っ掴み、朱は洗面所へと足を向けた。
狭い玄関ホールの明かりが、少し萎れた白い背を照らした。
甘味と塩気と即席劇場/嬬武器兄弟
「映画見ようぜ!」
リビングに元気な声とナイロン生地が擦れる音が飛び込んでくる。突然のそれに、烈風刀は手元の携帯端末から視線を上げた。そこにはナイロンバッグを高く掲げた雷刀の姿があった。
「いいですけど……何ですか、それ」
「ポップコーンとコーラ」
大股でキッチンに向かう兄の背を追う。食器棚に手を伸ばしていた彼はくるりと振り返り、ほら、とエコバッグを手渡してくる。ずしりと重いそれの中には、市販のポップコーンの袋とコーラのペットボトルがあった。どれも大容量だ。二人で食べるにしても、いささか多いように思える。
「やっぱ映画っつったらポップコーンとコーラだろ?」
「そうですけど……、もしかしてこのためだけに買ってきたんですか?」
「俺の奢りだからいいじゃん」
棚の奥からプラスチックカップを取り出し、朱は冷凍庫を開ける。製氷皿を取り出し、乱雑に氷をカップに入れていく。ガラガラとしっかりと凍ったそれが硬い音をたてた。
「烈風刀はポップコーン持ってっといて」
ナイロンバッグからペットボトルを抜き出し、雷刀はひらひらと手を振る。分かりました、と短く告げて、キッチンを後にした。
リビング、壁際のテレビの真ん前に置かれたローテーブルに鞄の中身を並べる。白いポップコーンが爆発するように飾られたパッケージは、片手で持つには少しばかり苦労する大きさだ。それが二つ。つまり、一人一袋の計算である。さすがに多くないか、と碧は顔をしかめる。大方、値段の安さに反する大きさに惹かれて選んだのだろう。
「烈風刀ー、カーテン閉めといてー」
「もう閉めてますよ」
「いや、どっちも閉めといて」
キッチンから飛んできた声に、烈風刀は首を傾げながらも窓際に向かう。ベランダに続くガラス戸には、光を通す薄手のカーテンが引かれている。昼下がりの今は、遮光仕様の厚手のものを閉めるには早い時間だ。不可思議に思いながらも、少年は薄青色のカーテンを閉めた。陽の光が消え、リビングが暗くなる。
あんがと、と後ろから声。視線をやると、薄闇の中にストローの刺さったプラスチックカップを二つ持った片割れがいた。透明なそれの中身は黒に近い茶で染まっている。コーラを注ぎ入れたのだろう。カラン、と少し溶けて小さくなった氷が軽やかな音をたてた。
手にした飲み物をテーブルに置き、雷刀は机上のリモコンを手に取る。丸い電源ボタンを押すと、画面がパッと光を取り戻した。闇の中、大きな液晶が存在を主張するように眩しく輝く。
「目が悪くなりますよ」
「一時間ちょっとぐらいならだいじょぶだろ」
ソファに座った兄は、その隣のスペースをぽんぽんと叩く。眉間にかすかな皺を寄せつつ、弟は手が指し示す場所に座った。ほい、とポップコーンの袋が飛んでくる。
「何見る?」
「見たいものがあるのではないのですか?」
「別に。何か映画見たいなー、って思っただけだし」
問いかけるも、返ってきたのはぼんやりとした答えだった。確かに唐突だとは思ったが、本当にただの思いつきだったとは。彼らしいといえば彼らしい。自分だけ、でなく、二人で、と当然のように己を巻き込んでくるのはやめてほしいのだけれど。
「……この間レイシスが面白いと言っていた映画、たしか今月から配信していたはずです。それを見ましょう」
まぁ、でもたまにはこんな非日常もいいかもしれない。
珍しく悠長なことを考えながら、烈風刀は背もたれに沈み込む。膝に抱えたポップコーンの袋がガサリと音をたてた。
分かった、と弾んだ声。液晶画面内をカーソルが動き回る。話題作としてピックアップされていたおかげで、目当ての映画はすぐに見つかった。
再生ボタンが押される。画面が暗転し、しばらくして映像配信会社のロゴが大きく表示された。ドサ、と重い音。兄もまた背もたれに身を預けたようだ。
スピーカーから流れる鳥の鳴き声に、ビニールパッケージを開ける音が二つ重なった。
夏色スイーツ旅/レイ+グレ
燦々と陽が降り注ぐ窓の外を眺めながら、グレイスは水が入ったグラスを傾ける。カラン、とガラスと氷がぶつかり軽やかな音を奏でた。
「お待たせしました。レモンのレアチーズケーキ、ブドウのタルト、わらび餅パフェ、トロピカルスイカ杏仁クリームソーダ、アイスハニーミルクティーです」
銀の盆を両手に一枚ずつ持ったウェイトレスは、すらすらと唱えながらテーブル上に皿とグラスを並べていく。ケーキとドリンクを目の前にし、対面に座った姉は感動の声をあげた。
背の高いグラスを引き寄せる。まろやかな茶色と細かな氷で満たされ真っ白なストローが刺さったそれは、見るだけでも涼やかだ。炎天下の中歩き回った熱が薄れていくような心地がした。
「いただきマス!」
長いスプーンを手に、レイシスは手を合わせる。元気な声がテーブルに響いた。おあがりなさい、と妹は小さな声で返し、ストローに口を付けた。一口吸い上げると、香り高い紅茶の中にはちみつの風味と独特の甘さが広がった。ここのカフェラテは美味しいと聞いていたが、紅茶もこれほど美味しいとは。疲労がまとわりつく身体を、冷たさと甘さが癒やしていく。
口を離し、ちらりと視線を上げる。躑躅の瞳に、パフェスプーンでわらび餅パフェをめいっぱいにすくう桃が映った。バニラアイスと黒蜜、きなこが小さなスプーンの上で山を成す。溶けて落ちてしまいそうな白と黒は、真っ赤な口に吸い込まれた。こくりと細い喉が上下する。途端、きらめく薔薇輝石が大きな虹を描いた。
「美味しいデスー!」
「良かったわね」
感嘆する姉に、妹は緩く笑んで返す。一口、もう一口とレイシスはスプーンを運ぶ。頬張る度に、可愛らしい顔がとろけていく。幸せとはこのような表情を言うのだろう。
スイーツ食べに行きマショウ!
そう言って彼女が寄宿舎の部屋に突撃してきたのが今日の午前のこと。あれよあれよと着替えさせられ、手を取り外へと出かけたのだ。飲茶店のごま団子にかき氷、鯛焼き屋の夏限定カスタードアイス鯛焼き、喫茶店のソーダゼリーにクリームソーダ、そしてカフェのケーキにパフェ。様々な店をはしごし、夏を満喫するようなスイーツを楽しんでいく――といっても、それはほとんどレイシスの話だ。あまり量が食べられない己は、かき氷と鯛焼き、小さめのクリームソーダで胃が限界を迎えた。本当ならば『お腹がいっぱいだ』と言って帰宅を促すべきなのだろう。それでも、幸せ満開な笑顔で甘い物を食べる姉の姿を見ているだけでも十分に楽しくて、ついつい付き合ってしまう。腹もいっぱいになるのだけど。
アイスティーを飲みながら、もぐもぐとスイーツを満喫する姉の姿を密かに眺める。パフェのバニラアイスとわらび餅を食べ終えた彼女は、そっとフォークに持ち替えた。銀色のカトラリーが、つやつやと輝くぶどう、それを支えるタルト生地に突き立てられる。大きく切り取られたそれが、リップで彩られた口に吸い込まれていく。美しい曲線を描く頬が動く。んー、とたまらないと言わんばかりの高い声がケーキを頬張る口から漏れた。
「アッ、グレイスも一口食べマスカ? とっても美味しいデスヨ!」
視線に気付いたのだろう、鮮やかなピンクの瞳がぱちりと瞬く。細い指がフォークを操り、ケーキを一口分すくい上げた。あーん、と弾んだ声とともに、紫で彩られた銀がこちらに迫った。
「お腹いっぱいだからいいわ」
少しばかり身を引き、グレイスは差し出されたケーキから距離を取る。最後に食べてからいくらか歩いたものの、アイスティーを数口飲んだだけで再び胃は容量限界を訴えた。たった一口といえども、ケーキが入る余地は残っていない。『甘い物は別腹』とよく言うが、己には当てはまらないようだ。
そうデスカ、と姉は手を引っ込めしゅんとした様子で視線を下げる。美味しいものは分かち合いたいのだろう。そうでなければ、わざわざ己を誘ったりはしないはずだ。
「貴方が食べたくて頼んだんでしょう? 貴方が全部食べるべきだわ。いっぱい食べる方が幸せなんだから」
柔らかな微笑みを浮かべ、妹は言う。いいのか、と問うように、紅水晶がこちらを見やる。応えるように、尖晶石がふわりと細められた。フォークの上に鎮座していたぶどうが、もぐりと食べられた。
「また今度来た時、一緒に食べマショウネ」
ケーキという幸せを飲み込んだ彼女は、まっすぐにこちらを見つめて言う。アッ、次は秋の方がいいデショウカ、とはわはわと少女は口にする。同じラインナップになるのを避けるためだろう。そういう細かな気を遣ってくれるのだ、この優しい薔薇色は。
「そうね。また秋に誘って」
マゼンタの目がふわりと細められる。柔らかな視線を受けたピンクは、表情を輝かせた。ハイ、と元気な声が甘味が並ぶテーブルに落ちた。
秋といったらモンブランだろうか。カボチャとサツマイモもある。抹茶の旬は秋だと聞いたことがある。楽しみはいっぱいだ。
気持ちが良い様で食べる姉を眺め、妹はアイスティーに口を付ける。柔らかな甘みと豊かな香りが口の中を楽しませた。
冷たさ半分こ/嬬武器兄弟
カサリと小さな音が店内音楽に混じって聞こえた気がした。嫌な予感に、烈風刀は手に提げた買い物かごに目をやる。店内専用のプラスチックかごの隅に、入れた覚えのないアイスのパッケージが居心地悪そうに佇んでいた。
「雷刀」
眉間に皺を寄せ、隣に並んでいた兄を見る。鋭い視線を避けるように、ふいと顔が逸らされた。やはり彼の仕業のようだ。
「家計簿つける時にややこしくなるでしょう。自分で買ってください」
「えー」
唇を尖らせる朱に、碧はかごから取り出したアイスを突きつける。まっすぐになった口が何か言いたげにもごりと動く。しばしして、日に焼けた手が渋々といった様子で青と白で飾られたそれを受け取った。そのまま黙って列を離れていく。最後尾に並んだのだろう。
夕方の人が多いスーパー、セルフレジに向かう列はじりじりと進んでいく。ようやく己の番が訪れ、烈風刀は重いかごをレジ台に乗せた。手慣れた様子でナイロンバッグを広げ、電子パネルを操作しながらかごの中身をスキャンしていく。最後に電子マネーカードをかざし、会計を済ませた。
通学鞄を肩に、二つになった買い物袋を両手に携え、レジの群れから出る。出口には、アイスのパッケージを剥き身で持った兄がいた。黙って近づいてきた彼が、右手に握った薄手の鞄を自然に取る。行こーぜ、と歩き出した朱の後ろに続いた。
自動ドアをくぐる。途端、熱された湿った空気が身体にまとわりついた。まだ高い位置にいる太陽の光が剥き出しになった肌を刺す。不快指数を上げるばかりのそれらに、思わず眉を寄せた。店内の心地良い空調にしばらく浸った身体には少しばかり厳しい環境だ。夏とはいえ、夕方になったならば少しぐらい涼しくなってもいいだろうに。そんな無意味な愚痴が頭をよぎる。
「ほい」
隣から声。視線をやると、そこには半透明のプラスチックパッケージを差し出す雷刀の姿があった。バッグを肘にかけた右手には、同じものと薄いビニールパッケージがある。そういえば、先ほどかごに勝手に入れられたアイスは二つ一セットのものだったはずだ。
「貴方が食べたくて買ったんでしょう」
「あちぃだろ? 素直に食えって」
ほら、と空いた左手に細いそれを押しつけられる。食品を落としてはたまらない、と反射的に受け取ってしまった。つめてーだろ、と夕焼け空の目がにこりと弧を描いた。事実、既に熱を持ち始めた身体には心地の良い温度をしていた。
ありがとうございます、と返す声ははっきりとしない響きとなってしまった。純然たる好意なのだから素直に受け取るべきだとは分かっているものの、どうにも慣れない。弟の様子を気にすることなく、兄はビニールパッケージの頭部分をパキリと折って開けた。真っ赤な口に柔らかなそれの先端が含まれる。ちゅう、と可愛らしい音が聞こえた。
「んめー!」
アイスから口を離した途端、朱い少年は声をあげる。つい先ほどまで冷凍庫で入念に冷やされていた氷菓は彼を満足させたようだ。倣うようにパッケージの頭を折る。いただきます、と呟いて、碧い少年も冷たいそれを含む。吸い上げると、冷たさと甘さが口の中に広がった。
「美味しいですね」
「だろ? 久しぶりに食ったけどやっぱいいよな」
穏やかな声をこぼす烈風刀に、雷刀は上機嫌な様子でアイスを振った。言われてみれば、久しぶりに食べた気がする。幼い頃は、買い物ついでに一つ買って二人で分けて食べたものだ。今では、兄一人で全部食べてしまうことの方が多いのだけれど。
今日の晩飯なんだっけ。夏野菜カレーですよ。やった。
和やかに言葉を交わしながら、兄弟連れ立って歩いて帰る。制服に包まれた背を夕陽が照らした。
翌日、元気な青い背を思いっきり叩いてやった/冷音+魂
ケホ、と乾いた音と息が漏れる。小さな音だというのに、枕元の青は怒鳴られたように身を竦ませた。
「魂、これ、お母さんが持っていきなさいって……」
差し出されたのは白いビニール袋だ。薄い生地の向こう側に、うっすらと緑とオレンジが見える。市販のフルーツゼリーか何かだろう。後で食べる、と返した声の後ろにまた咳が付く。今度はゲホゲホと量が多かった。
「だっ、大丈夫?」
「大丈夫なわけねぇだろ……」
狼狽える冷音に、魂は低い声で返す。喉がいがらっぽくてどうにも低くなってしまうのだ。何より、根底に怒りがある。ごめんね、と萎れた謝罪の声に、少年は咳をこぼした。
「秋だぞ……考えろよ……」
秋も深まってきた先日、台風がやってきた。珍しく規模が大きなそれは、街を暴風雨で掻き乱した。一部地域では避難警告が出たほどである。幸い、己たちの暮らす地区はただただ雨風が酷いだけで済んだのだけれど。
そうだ。警報も何もなく、ただ雨が強いだけ。これでもかというくらい強いだけ。今までの人生で一番ではないかというぐらい強いだけ。
そんな天気の中、この雨に狂う腐れ縁が浮かれないはずがないのだ。
被害を警戒した学校は授業を切り上げ、皆早くに家に帰ることとなった。教師から特に念を押して注意されたというのに、冷音は家から正反対の、台風に近づく方角へと走っていったのだ。慌てたのは魂だ。正直なところ、止める義務などないのだからこのまま放って帰ってしまいたい。だが、ここであいつを野放しにしては彼の母親が心配するのだ。いつも世話になっている、美味しいお菓子を食べさせてくれる素敵な人。少しでも恩は返したかった。
そうして頭一つ分は上の首根っこを引っ掴んでどうにか家に帰ったのが一昨日のこと。熱が出たのが昨日のこと。学校を休んだのが今日のこと。休みの連絡を知り――正しくは『お前のせいで風邪引いたんだけど』と恨みがましいメッセージを受け、冷音が見舞いに来たのが今だ。
「何でお前はピンピンしてんだよ」
「さぁ……?」
慣れてるからかなぁ、と呑気な言葉が返ってくる。ふざけんなよ、とまた低い声が落ちた。咳二つ。
「ゼリー食べる?」
「食べる……」
ガサガサとビニール袋を漁る音を横に、ゆっくりと身を起こす。熱はだいぶ引いているものの、一日以上横になっていたからか妙に気怠く感じた。
はい、と蓋を外されたゼリーとプラスチックスプーンが手渡される。何も言わず受け取った。熱が出るほど風邪を引いた原因はこいつなのだ、礼を言う義理などない。
スプーンですくい、透明なゼリーと剥かれたみかんを口に含む。程よい甘さと冷たさが渇いた口を、妙に詰まる喉を、空っぽに近い胃を癒やした。思わず声を漏らす。袋の持ち主がほっと息を吐くのが横目に見えた。
黙々とゼリー菓子を食べていく。心地良い甘さとたっぷりの潤いを残し、カップの中身は空になった。無言でクッションに座る腐れ縁に突き出す。はいはい、と呆れた調子で食器は回収された。
「残り、おばさんに渡しとくね」
そう言って、青い少年は立ち上がる。ある程度無事な様子を確認し、謝罪も済ませ、菓子も渡したのだ。もう帰るのだろう。黙ってひょろ長い背を見やった。冷音、と咳交じりの声で名前を呼んだ。
「今日はもう外出んなよ。まっすぐ帰れよ」
「心配しなくてもちゃんと帰るよ」
魂こそちゃんと寝なよ。そう残して、扉は閉まった。廊下を歩く音。遠くで人が話す声。また足音。そして、静寂が訪れる。
枕元の携帯端末を操り、天気を確認する。今日の天気予報は晴れのち曇り。夜の降水確率は三〇パーセントだった。つまり、降る可能性はある。
風邪引いても知らねーかんな。口の中で呟いて、少年は二色の目を閉じた。
氷と染め色/ハレルヤ組
シロップディスペンサーから液体が流れ出る。鮮やかな赤のそれは、真下のカップに降り注ぎ白い山を染めていった。レバーが元の位置に戻る頃には、白は鮮烈なる赤に様変わりしていた。ぬるいシロップをめいっぱい注がれた削り氷は、溶けて一回り小さくなってしまった。
「掛けすぎではありませんか」
「掛け放題なんだからいっぱい掛けた方がいいじゃん」
呆れた声に、弾んだ声が返される。そうだぜにいちゃん、と屋台主の笑い声も飛んできた。随分と気前が良いことである。
「レイシスは何味にしたんだ?」
「いちごデス!」
シロップをかけ終わった雷刀は隣へと視線を向ける。呼ばれた少女は、満面の笑みで『氷』の文字が大きく描かれた発泡スチロールカップを掲げて見せた。藍の生地に白の花散る浴衣姿にいちごの赤いかき氷はよく映えた。
「オレもいちご!」
「僕は……メロンにしましょうか」
お揃いであることに喜びはしゃぐ兄を退け、弟は緑の液体が詰まったディスペンサーからシロップを掛ける。白い氷はあっという間に緑に染まった。濃く鮮やかなそれは、提灯の温かな光に照らされる闇の中でもはっきりと存在を主張していた。
ありがとうございマシタ、と礼を言うレイシスに続き、兄弟二人も礼を言う。お祭り楽しんどいで、と主人は手を振り少年少女を見送った。
屋台の群れから少し離れた場所、開けた広場へと移動する。設置された椅子と机は既に埋まっており、ほとんどの者が立って談笑している。壁際の少し空いたスペースに三人は身を滑り込ませた。
「いただきマス!」
「いただきまーす!」
「いただきます」
声を揃え、三人はストローでできたスプーンを構える。ストライプで彩られたそれが、サクリと軽い音をたててかき氷に差し込まれる。小さくすくう者もいれば、こぼれそうなほど多くすくう者もいる。三者三様にシロップに染められた削り氷を溶ける前に口に運んだ。
「んめー!」
「冷たいデスー!」
レイシスと雷刀は感嘆の声をあげる。美味しいですね、と烈風刀は穏やかな笑みを浮かべ二人を見た。節の目立ち始めた手が、透き通るなめらかで美しい手が、一口、また一口とかき氷を運んでいく。いてぇ、と時折頭を押さえる朱に、桃は慌てすぎデスヨ、可愛らしい笑顔を浮かべた。そういう彼女も、痛いデス、と頭を押さえる。もっとゆっくり食べましょう、と苦笑混じりの声が窘めた。
暑い夏の夜の中、冷たくて甘い氷菓子はどんどんとすくわれ形を崩していく。あっという間に色とりどりの氷は姿を消してしまった。朱はカップを傾け、底に残ったシロップを飲み込む。意地汚い、と顔をしかめる碧に、もったいないじゃん、と彼は唇を舐めながら返した。
「なーなー、レイシス。べーってして」
「何を言っているのですか」
手本を示すように舌を出す兄を、弟は鋭く切り捨てる。垂らした舌をそのまま、雷刀はストローを振って器用に言葉を紡ぎ出す。
「ほら、かき氷食べたらシロップで舌の色変わるって言うじゃん? 変わってんのかなーって」
「赤いシロップなのですから変わるわけがないでしょう」
「雷刀は変わってマセンネ」
しかめ面で正論を吐く碧と垂れた舌を眺める桃を前に、朱は不満げに目を細める。烈風刀の指摘通り、だらしなく垂れた舌は元の健康的な赤色のままだった。残念デス、とレイシスは眉を八の字に下げて厚いそれを眺めた。
「あっ、そだ。烈風刀はメロンだったじゃん? 緑になってんじゃね?」
「そうかもしれマセンネ!」
しょんぼりとした少女の様子に、朱い少年は舌をしまい慌てて声をあげる。赤い線で彩られたプラスチックストローが碧い少年を指した。行儀が悪い、と指摘するより先に、え、と驚愕の浮かぶ声があがる。
「烈風刀、べーってしてくだサイ!」
べー、と薔薇色の少女は舌を出して実演する。可愛らしい小さな舌は、やはり元気な血の赤をしていた。突然矛先を向けられ、弟はえ、と再びこぼして身を固くする。舌を出すなどはしたない。けれども、愛しい少女がそれを望んでいる。守るべきマナーと少女への忠誠心が天秤に掛けられる。もちろん、一瞬で後者に傾いた。
浅葱の瞳がうろうろと泳ぐ。しばしして、べー、と控えめな声とともに薄く開いた口から小さく舌が覗いた。中ほどまで出されたそれは、すっかりと着色料の緑色に染まっていた。
「本当に緑デス!」
「こんなにはっきり変わるんだなー」
手を合わせて喜ぶ桃と、感心した声をあげる朱。薔薇輝石の瞳と炎瑪瑙の瞳が、緑に染まった小さな舌に一心に向けられる。じぃと見つめられている事実に、子どものような行動をしている事実に、まだ丸さが残る頬が舌と反対の紅で薄く色付いた。すぐさま緑で染め上げられた赤は引っ込められ、姿を消した。
「もういいでしょう。屋台を回る時間がなくなりますよ」
誤魔化すように言って、碧は二人の手からカップとスプーンを回収する。真っ当な指摘に、ハワ、と少女は声をあげた。
近くに設置されたゴミ箱に分別して捨て、少年は行きますよ、と手を差し出す。ハイ、と元気に応えた少女が手を伸ばす。大きな手に載せられたのは、横から伸ばされた同じほどの大きさの手だ。行こーぜ、と兄は不自然なまでにニコリと笑いかける。弟は一瞬眉を寄せる。すぐさま解き、そうですね、とこれまた不自然な笑みを浮かべた。
たこ焼きと焼きそばと、あと何でしたっけ。ベビーカステラ食べたいデス。オレから揚げ食べたい。ゆるゆると会話を交わし、三人は広場を歩いていく。藍の浴衣と黒の浴衣二つが屋台街へと歩いて消えていった。
×4/ユーシャ+千影+チョコプラちゃん
サクン、とよく焼けた生地が軽やかな音をたてる。歯応えは固いそれは、口の中ですぐに解けた。素朴な甘さが舌の上に広がる。もう一口。チョコレートがかかった部分は更に甘く、けれども心を癒やすかのような優しさをしていた。
「もうちょっとなのになー……」
クッキーをかじりつつ、ユーシャは携帯ゲーム機を操る。画面下に表示されている残機数は、いつの間にか一桁まで減っている。ゲームオーバーまですぐそこだ。呻り声をあげながら、少年はもう一枚クッキーに手を伸ばす。個包装のそれが音も無く破かれる。
「そろそろアイテム使ってみたら?」
隣で焼き菓子を頬張る千影がボタンを押す。ピロン、と電子音とともに、アイテム欄が表示された。一面から触っていないそこは、もう全ての欄が埋められている。これ以上獲得できない状態だ。
「使ったら卑怯じゃない?」
「あー……。分かるけど、ずっと使わんかったらもったいないやろ?」
少女の言い分もっともだ。攻略が有利になるアイテムがあるのならば、積極的に使うべきである。ずっと詰まっている今なら尚更だ。けれども、アイテムを使い強い状態で敵に勝つというのはなんだか気が引ける。否、悔しいのだ。道具などに頼らずに勝利を掴み取りたい。ゲーマーとしての意地とでもいうのだろうか。
「使えるもの全部使ってこその勝利だよ~?」
液晶画面を見つめる二人、その脇に置かれたカップの中から声がする。露草と竜胆が両手で抱えるサイズのそれへと向かう。マグカップの縁に腕を乗せた妖精は、眼鏡の奥に柔らかな笑みを浮かべていた。
彼女の言葉に、青い目が悩ましげに細まる。引き結ばれた口から、また呻り声が漏れた。彼女の言も正論である。こうなってはもう意地との闘いだ。
「一回使ってクリアできたら普通の状態でもっかいクリアすればええやろ。実質ノーアイテムクリアや」
「それは何か違わない?」
「違わんやろ。アイテム使わずにクリアしたことには変わりないんやから」
ほらほら、と少し濃い色をした指がボタンを押す。既に載せられた少年の指を避けながら十字キーを操り、一番入手しやすく強化効果も薄いアイテムにカーソルを合わせた。
「じゃ、ウチそろそろ撮影の時間やから」
がんばりやー、とクッキーを口に放り込み、少女は去っていく。残ったのは一人の人間と一人の妖精、陽気な電子音を奏でる携帯ゲーム機だけだ。
ねぇねぇ。依然悩ましげに液晶画面を眺めるユーシャに、どこか弾んだ声がかけられる。
「気合い入れるために、大人でビターな味試してみる?」
そう言って、妖精はにまりと笑う。とぷん、と軽い音と同時に彼女の姿がマグから消える。すぐさま、隣に置かれたプラスチックカップから顔を出した。チョコレート色の小さな指が、すぐ隣、今の今まで彼女がいたマグカップを指した。
コクリと息を呑む。苦い味は得意ではない。今だって、コーヒークッキーを避け、プレーンやチョコレートといった甘いフレーバーばかり食べていた。今彼女が入っている己が使っていたカップだって、中身は甘い清涼飲料水だ。妖精のために用意されたマグ、その中身のコーヒーはまだ自分には早い味である。
けれど。
携帯ゲーム機を机に置き、白くて大きなマグカップに手を伸ばす。ほんのりと温かなそれを前に、もう一度息を呑む。気合いを入れるのだ。苦みで目を覚まし、百パーセントの力を発揮するのだ。持てる全てを以て、勝利をもぎ取るのだ。
コーヒー独特の香りが鼻をくすぐる。苦みの象徴のようなそれに眉をしかめながらも、少年はひと思いにカップの中身を口に運んだ。
あっま、という声が、溜まり場と化しつつある控え室に響いた。
川の字+1/ハレルヤ組+グレイス
ソファとローテーブルを部屋の隅へと押しのける。あらわになったフローリングをさっと拭き、押し入れから運んできた敷き布団を三枚敷く。数枚のシーツで覆い、枕と掛け布団を置く。賑やかな団欒の場は、夜を穏やかに過ごす場へと変わった。
「……来客用の布団、もう一つ買わなければいけませんね」
敷き詰められた広い布団を眺め、烈風刀は小さく笑う。だなぁ、と自分の枕を抱えた雷刀が返した。
「グレイスはワタシと一緒のお布団で寝るから大丈夫デスヨ~!」
置きっぱなしにしてあった寝間着に着替えたレイシスは、姉の部屋着を借りて着るグレイスに抱きつく。ぴゃわ、と小さな悲鳴があがった。
「狭いでしょ!」
「前に一緒に寝た時は余裕デシタヨ? 大丈夫デス!」
「あれはこっちに来たばっかで小さくなってた時の話でしょ! 今はあなたとほとんど身長変わらないんだから狭いわよ!」
かしましい姉妹の様子を、兄弟は微笑ましそうに眺める。何笑ってんのよ、と鋭い視線と声が飛ばされる。べつにー、と朱は浮かぶ笑みを隠すことなくはぐらかすように返した。八重歯覗く桜色の唇が悔しげに結ばれる。
立て続けに行っていた機能アップデートが落ち着いた今日、久しぶりに四人で夕食を食べようという話になった。広く時間の融通も利くから、という理由で嬬武器の兄弟の住まう部屋に集まり、料理し、心ゆくまで会話と食事を楽しんだ。テレビのクイズ番組で競い、テーブルゲームに興じ。賑やかな時を過ごしていく内に、夜はすっかり更けていた。こんな夜更けに女性二人で帰らせるのも悪い、いつも通り泊まっていくといい、という話になったのはすぐだった――レイシスが度々兄弟のところに泊まっていることを知らなかったグレイスは非常に驚いていたけれど。
全員シャワーを浴び、寝間着に着替え、各々寝る準備を済ませる。慣れた手つきで三人で布団を敷き、今に至る。
三枚分の敷き布団は広いが、高校生四人で寝るにはいささか手狭にも見えた。かといって、今から布団一式を手に入れるなど不可能だ。今日のところはこれで凌ぐしかない。
姉妹――というよりほとんどグレイスである――は静かなる夜の中で言葉を交わし合う。攻防は続くばかりだ。さてどうしようか、と朱と碧の兄弟は互いに目配せをした。
兄弟二人で一つの敷き布団を使い、残りの二つをレイシスたちに譲るという手もある。しかし、おそらく彼女はそれを由としないだろう。泊まらせてもらっているのに布団まで譲ってもらうのは申し訳ない、と。普段は尊大にも見える姿勢を取るグレイスもそう言うだろう。人をよく見て気遣う子なのだ。
「…………あぁもう、しょうがないわね」
折れたのは躑躅の少女だ。この少女はつっけんどんにするものの、最終的には姉に甘いのだ。ヤッター、と薔薇色の少女は万歳をする。すぐさま目の前の細い身をぎゅっと抱き締めた。苦しいって言ってるでしょ、と抗議の声があがる。
「……お布団、別に買わなくてもいいわよ」
マゼンタの瞳が、ターコイズを見やる。薄紅刷かれた頬が、健康的な色をした唇がもごもごと動いた。
「私、そんなに泊まらないし。わざわざ買うなんてもったいないわよ」
「たまには泊まるだろ? それに、布団なんて何組あっても困るもんじゃないし」
「置き場所には困りますよ」
能天気な兄の言葉を弟は素早く切り捨てる。ほら、と妹はすっと目を細めた。けれど、と穏やかな声が続く。
「スペースさえ考えなければ多くて困ることはないのは事実ですしね。何より、グレイスが泊まってくれる度に狭い思いをさせるのも申し訳ありませんし」
烈風刀の言葉に、グレイスはきゅっと唇を引き結ぶ。う、と苦々しげな声が細い喉から漏れた。尖晶石が宙を泳ぐ。うー、と小さな呻り声。しばしして、可憐な唇がもそもそと音を紡ぎ出した。
「……ちょっとぐらいなら狭くても大丈夫よ。気にしないで」
「そうですか」
「グレイスがそう言うならそーすっか」
すっかりと俯いてしまった少女に、兄弟は了承の言葉を返す。両者とも言葉には決してしないが、想定の結末であった。何をどう言っても、この勝ち気で少々意地っ張りな少女は優しくて温かな姉のことが大好きなのだ。もちろん、姉も妹をこれでもかと愛している。そんな二人が一緒に寝るのは最早必然と言ってもいい。それくらい、この姉妹はいつだって一緒なのだ。
では寝ましょうか、と少年の言葉に、残る三人は元気に返事をする。布団の上を足が動き回る。中央の布団にレイシスとグレイス、右の布団に雷刀、左の布団に烈風刀が横たわった。いつもとほとんど変わらない風景である。
碧がリモコンを操作し、部屋の電気を消す。電子音とともに、明るかった室内は闇へと溶け込んでいった。賑やかしさはすっかりと消え、静寂が部屋を包む。
「おやすみなさい」
「おやすみー」
「おやすみなサイ」
「おやすみ」
四人は就寝の挨拶を交わす。四色四対の目が閉じられ、眠りへと沈んでいった。
最後は意地で飲み干した/識苑+かなで
ビニール袋がガサガサと揺れる。暗い夜道では青白いそれはどこか輝いて見えた。
早く帰らねばな、と識苑は足を動かす。意志に反して、速度は遅い。疲労感と空腹が足を引っ張っていた。早く空腹を満たすためならば外食を選ぶべきだろう。けれども、激務続きの胃袋には普段通っている店の味付けは刺激的すぎる。結果、帰り道のコンビニエンスストアでおにぎりを数個買って済ませることとなった。黒い三角形がビニール袋の中を転がる。
角を曲がった瞬間、油の匂いが鼻をくすぐる。う、と思わず苦しげな音が喉から漏れる。普段ならば空腹を誘う芳しいものだが、今の自分にとっては毒となって襲ってくるものだ。早く通り過ぎよう。そう思った瞬間、発生源である店の戸が開いた。
「あっ、識苑先生!」
闇夜なんて感じさせない元気な声が己を呼ぶ。店内の光に背を照らされた少女は、ぱっちりと開いた栗色の瞳をキラキラと輝かせた。
「あー……、こんばんは」
「こんばんは! 今日は何食べてく? おにーちゃん!」
「『おにーちゃん』はやめてほしいんだけどなぁ」
営業スマイル全開のかなでに、青年は苦笑で返す。もう『おにーちゃん』なんて歳ではないし、何より彼女がこのように呼ぶのは営業トークの最中であることがほとんどだ。客にはなれない今日、そう呼ばれるのは少しだけ申し訳ない気持ちになる。そう、と三角巾に飾られた頭が傾いだ。
「良いタイミングだね! 今日は野菜増量キャンペーン中だよ!」
「いや……今日はちょっと無理かなぁ……。もうご飯買っちゃったし」
店の戸にある『野菜増量中』の張り紙を指し、看板娘はにこりと笑う。教師はひらひらと手を横に振って苦い笑みを漏らした。あまりにも輝かしい笑顔に、罪悪感が湧いてくる。けれども、食べきれるはずがないと分かっているものに手を出すのは良くない。『お残し』は何よりもいけないのだ。
「でも野菜足りる? 野菜いっぱい食べなきゃ健康に悪いよ?」
透けて見えるビニール袋の中身を眺めて言う。たしかにおにぎり数個では野菜など摂取できない。だが、『超超超特盛り』で有名なこの店のラーメンを食べるには、今胃の空き容量は完全に不足している。それに、野菜の摂取と同時に過剰な油分と塩分を摂取することとなるのだ。下手をすればこちらの方が健康に悪影響を及ぼす。
「かるーく食べれるミニラーメンもあるよ? お野菜食べてこ!」
さぁさぁ早くと言わんばかりに小さな手が着っぱなしの白衣の裾を引っ張る。あぁ、これはもう完全に逃げられない。常連である己が残すことはないという信頼もあって、彼女は迎え入れようとしているのだ。半ば無理矢理だが。
「……ここって少なめサービスってあったっけ?」
「特盛りサービスならあるよ!」
通い始めてから初めて尋ねる言葉に、正反対の言葉が返される。だよねぇ、と諦めの言葉を漏らしながら、白衣に包まれた痩身が店へと吸い込まれていった。
畳む
書き出しと終わりまとめ16【SDVX】
書き出しと終わりまとめ16【SDVX】
あなたに書いて欲しい物語でだらだら書いていたものまとめその16。相変わらずボ10個。毎度の如く診断する時の名前がちょくちょく違うのは気にしない。
成分表示:プロ氷1/嬬武器兄弟2/ニア+ノア+レフ1/ライレフ2/レイ+グレ1/氷雪ちゃん1/ノア+レフ1/恋刃1
見上げる貴方/プロ氷
葵壱さんには「届きそうで届かない何かがあった」で始まり、「そう思い知らされた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば8ツイート(1120字)以内でお願いします。
届きそうで届かなくて、ぐっと背伸びをする。つま先に力を入れめいっぱい腕を伸ばしても、目当てのものには指先がわずかに触れるのがやっとだ。もうちょっと、というところで、それは大きな手に掴まれ消えた。振り返ると、そこには今まさに取ろうとしていた保存容器を片手に持った識苑の姿があった。
「これ?」
「ぁ、はい。ありがとうございます」
差し出された容器を受け取り、氷雪は礼を言う。ようやく手にすることができた安堵と、手間を掛けさせてしまった申し訳なさが胸を渦巻いていく。常磐色の目が薄く伏せられた。
「片付ける場所変えなきゃだね」
ごめんね、と言って青年は困ったような笑みを浮かべる。いえ、と慌てて否定の言葉を返すが、変更すべきであるのは事実だ。保存容器を一番利用する自分が手に届かない場所にしまっておくのは非効率的だ。
台所上部に設置された棚の扉を閉じる大きな恋人を見上げる。普段よりも少しだけ首に負担が掛かるのは気のせいではない。常は下駄でいくらかかさ増しした身長は、今はスリッパによって正常な数値になっている。見上げる角度が増すのも自然なことだ。
それが少しばかり悔しい。自分がもっと身長が高ければ、もう少しだけ釣り合いが取れるのに。今のように迷惑を掛けなくても済むのに。隣に並んでいても自然なのに。湧き起こる暗い感情に、少女はきゅっと唇を結んだ。
「どしたの?」
下から愛しい桃色が現れる。いつの間にか俯いてしまっていたらしい。眼鏡の奥の夕陽が、心配げな色を宿してこちらを覗き込んでいた。
「いえ。何でもありません。取ってくださりありがとうございます」
ぱっと顔を上げ、否定と感謝の言葉を吐く。本当に大丈夫だ、と示すように微笑んでみるが、きっとぎこちなく映るだろう。それがまた自己嫌悪を誘う。
腰を屈め目線を合わせたまま、識苑はそっか、と笑った。優しい彼は、自分がまた余計なことを考えているのを理解しているのだろう。その上で触れずにいてくれるのだ。子どもの自分なんかより、ずっとずっと大人な恋人は。
下駄を履いて背伸びをしないと、わざわざ屈んでもらわないと、目すらまっすぐに見られない。身長も、年齢も、全く釣り合わない。そう改めて思い知らされた。
痛いと言っても離してやらない/嬬武器兄弟
AOINOさんには「泣き虫が笑った」で始まり、「もう会えないかもしれないと思った」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート(420字)以上でお願いします。
ボロボロと涙をこぼす泣き虫が、ぱぁと表情を輝かせ笑った。れふと、とまだ涙に濡れた声が元気に己の名を呼んだ。
「れふとぉ!」
「ばか!」
ずびずびと鼻を啜りながら駆け寄ってくる兄を、弟は怒鳴りつける。泣き腫らし赤くなった目の端から、ぽろりと涙が一粒落ちた。
「な、んで、一人で走っていくのですか! 『手を繋いでいよう』って、言ったじゃないですか!」
週末のショッピングモールは混んでいた。まだ小学生、しかも何にでも興味を示しすぐにどこかに行ってしまうような兄と二人で出かけるのには向かない場所だ。それでも、買いたいものがあったのだから行くしかない。学校帰りに寄るには難しい距離なのだ。
家を出る前から『二人で手を繋ぐ』『一人で行動しない』『どこかに行きたいなら事前に一声掛ける』と約束していた。事実、途中まではきちんと守っていたのだ。ここに入りたい。あれを買いたい。手を繋いで邪魔にならないように歩きながら、二人で珍しい遠出を楽しんでいたのだ。
気がついた時には、右手の温もりは無くなっていた。辺りを見回しても、大切な朱はどこにもいない。はぐれたのだと理解した瞬間、サァと血の気が引くのが己でも分かった。
公共の場だ、大声で名前を呼んだり駆け回って探すのは良くない。まずは、元の道を戻ってみなければ。そうして一店舗一店舗確認しながら来た道を丁寧に戻るが、最初に来た出入り口に戻ってきても片割れの姿は見つからなかった。鼻がツンと痛くなるのを我慢しながら、念のため持っていたリーフレットを確認する。『迷子センター』と書かれた場所目掛けて、碧は逸る足を押さえながら向かった。
結果、そこに兄はいた。開けたその場所、ボロボロと泣いて店員に縋る朱色の姿を見てどれほど安堵したことか。どれほど怒りを覚えたことか。結果、真っ先に発露したのは罵声二文字だった。
あんなに言ったのに、と弟は漏らす。苦しさと悔しさと怒りが強く滲んだものだった。ごめん、と鼻を啜りながら兄は返す。どちらも涙で潤んだものだった。
力なく垂れ下がった左手に腕を伸ばす。そのまま、紅葉のようなそれをぎゅっと握った。ここで捕まえておかねば、またどこかに行ってしまう。いつでもその場の衝動で動くのだ、この兄は。
見かねたのか、見つかってよかったわねぇ、と店員が優しい声で語りかけてくる。ご迷惑をおかけしました、と烈風刀は深々と頭を下げた。慌てて雷刀も弟を真似る。
「行きますよ」
「うん……」
固い声で言い放ち、弟は握った手を引く。しょぼくれた声が返ってきた。人の少ない場所を選びながら通路を歩いて行く。気を付けてね、と穏やかな声が背中から聞こえた。
「……よかったぁ。もう会えないかと思った」
そう言って、兄は握る手に力を込める。今度こそはぐれまいという意志がひしひしと伝わってきた。
もう会えないかもしれないと思った。それはこちらの台詞だ。まだ少し痛む鼻をすすり、弟は繋いだ手を力いっぱい握った。
日焼け対策は万全に/ニア+ノア+レフ
葵壱さんには「守りたいものはありますか」で始まり、「夏が始まる」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字)以内でお願いします。
守らねばならないのだ。今、彼女らを守ることができるのは己しかいないのだから。
「二人とも、ちゃんと日焼け止め塗りましたか?」
「塗ったよー!」
「ちゃんとニアちゃんに背中も塗ってもらったよ」
ビーチパラソルの下、日焼け止めのチューブ片手に烈風刀は頭二つは下の双子兎に問いかける。元気な挙手と声が返ってきた。証拠だと言わんばかりに、ノアはくるりと振り返りロングヘアを手で避けて背中を見せる。色が残らない薬品を塗った証拠というには乏しい光景だが、わざわざさらけ出して見せるほどなのだから信頼すべきだろう。
「それならよかった」
少し険しくなっていた碧の表情が緩む。体質によるものの、日焼けは度が過ぎると翌日以降痛むのがほとんどだ。海の楽しい記憶を日焼けの痛さで上書きしてしまうような事態は避けるべきである。
「約束、覚えてますか?」
「足の付かないところには二人だけで行かない!」
「生き物には触らない!」
もう一度問いを投げかけると、二人は宣誓するように手を上げ返す。どちらも前日から口を酸っぱくして言い聞かせてきた言葉だ。準備運動は、と追加で尋ねると、したよー、と双子はぴょんぴょんと跳びはねた。
よし、と少年は一人頷く。とても素直でもう高学年の彼女らだ、約束をきちんと覚えていると信じていた。それでも、はしゃいだ状態ではそれを完遂できるかは怪しい。テンションが上がった人間が何をするかなど分からないことは、幼い頃から片割れの姿を見てきて痛感していた。きちんと注意を促し、いつでも手助けできるように観察するのは、今この場で保護者的存在である己が果たすべき役割だった。
「れふとは日焼け止め塗った?」
「塗りましたよ」
「……背中は塗ってないでしょー?」
問いを返してきたノアに、烈風刀は優しい笑みで応える。少しの間の後、ニアはにやりと笑って少年の背中に回った。小さな手が、薄緑の上着の裾をぴらりとめくる。
「いえ、でも僕はパーカーを着ていますし大丈夫ですよ」
「後で脱ぐかもでしょ? 塗らなきゃダメだよ!」
「そーだよ!」
いたずらげな手をそっと退けるが、今度は二人で挟むように前後から飛びつかれた。わわ、と揺らめく足に力を入れる。ちゃんと塗ろー、と兎の合唱がパラソルの下に響く。正論であった。
「……そうですね。後で塗っておきます」
「一人じゃ塗り辛いでしょ? ニアが塗ったげる!」
「ノアもー!」
軽い足さばきで跳び上がり、姉兎は碧の手に握られていた日焼け止めチューブを取る。すぐさま後ろに回った妹兎が薄手のパーカーをバッとめくった。
「いえ、一人でも大丈夫ですから――」
「ほらほら、座って!」
「立ったままじゃ塗りにくいよー」
烈風刀の抵抗は、ぴょんと跳んで肩を押さえつけるニアの手によって防がれた。柔らかい砂、その上に敷かれた大判のレジャーシートの上に尻餅をつくように腰を下ろす。ほらほら、とぐいと後ろに引かれ上着を剥ぎ取られる。筋肉の線が見える白い背が生地の下からあらわになった。
パキン、とチューブの蓋が開けられる音。ねちゃ、と薬剤が捏ねられる音。ふんふん、と上機嫌な鼻歌。全てが己を置き去りにして愉快な合奏となって空に昇っていく。
ここまできたら、もう逃げ場などないようだ。塗らねばならないという彼女らの言い分は確かなものであるし、塗ってもらえるならばそうした方がいいのだろう。相手が小学生、それもいたずらっこな女の子たちであるというのがいささか不安を覚えるのだけれど。
塗るよー、と元気な声二つ。よろしくおねがいします、と観念して返すとほぼ同時に、ぬるい何かが背中に当てられた。小さなものが四つ、愉快げな鼻歌とともに背を駆け回っていく。二人がかりとはいえ、少し時間がかかるだろう。現に、背中に文字を書いて遊んでいるのだから。反応すれば長引くので耐えるしかないのだけれど。
海遊びという夏の始まりはもう少し先のようだ。
疲れた身体には温もりが必要なのです/ライレフ
葵壱さんには「世界はいつだってかみ合わない」で始まり、「だから、もう少しだけ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字)以上でお願いします。
世界はいつだって噛み合わない。
テスト期間が始まって、ようやく終わったと思えば週刊アップデートの企画が舞い込んで。ようやく各方面への対応やコンテスト企画の立案を終わらせたと思えば、今度は世界のアップデートが決まって。
忙殺という表現が相応しい日々だった。気を抜けばあまりの忙しさに押し潰されていただろう。最終的には皆ランナーズハイのようなものになっていたのは、きっと気のせいではあるまい。
尻餅をつくようにソファに座り、烈風刀は背もたれに体重を預ける。たとえくつろぐためのソファとはいえども、もたれかかるなど行儀が悪いと分かっている。けれども、きちんと姿勢正しく座る気力などもう欠片も残っていなかった。帰宅し、あり合わせのもので食事を済ませ、シャワーを浴びただけで身体は限界を迎えたのだ。部屋に戻るために足を動かすのすら億劫だ。気が咎めるが、限界を超えて動けるほどのアドレナリンは尽きてしまった。
カチャリと扉が開く音。ぺたりぺたりと力の無い足音がキッチンの方面へと向かうのが聞こえた。しばしして、また足音。重苦しいそれは、己のすぐ隣で止まった。どさ、とつい先ほど聞いたばかりの音とともに、座面が沈み込む感覚が襲う。次いで背もたれが揺れる。隣に座った兄が、己と同じようにソファに身体全てを預けたのだろう。
「れふとぉ」
「なんですか」
力ない声に、力ない声で返す。もはや返事をするのすら面倒臭く感じる。どうやら己は思ったよりも疲れているらしい。相手も同じなのだろう、普段ならばぽんぽんと一方的に投げられる言葉は途絶えてしまった。
こつん、と肩に小さな衝撃。同時に温かな温度と重み。朱がもたれかかってきたのだろう。確認しなくとも分かる。確認するために顔を動かすのも煩わしく思えた。
「……おつかれ」
「……おつかれさまです」
耳に直接、彼らしくもない小さな声で労いの言葉が注がれる。どうにか同じく労う語を返した。長いアップデート企画期間、そしてロケテストに向けた準備のために共闘した相手である。同じほど頑張って、同じほど疲れているのは分かっていた。
温かな呼気が肌を撫ぜる。そのまま眠ってしまいそうなほどの穏やかさだ。疲れ果てた状態で腹も満たされ温かな湯に包まれれば、眠気を覚えるのも仕方が無いだろう。心なしか、横から加えられる体重も増えている気がする。
本当なら『寝るなら部屋で寝ろ』と言うべきなのだろう。そもそも、己も早く部屋に戻って寝るべきなのだ。こんなところでだらだらと座って時間を無為に過ごすのは身体にも良くないと分かっていた。
けれども。
肩に寄せられた朱い頭に、己も少しだけ身を寄せる。まだ濡れた感覚が肌から伝わる。常ならば不快に思うだろう。だが、今ばかりはその奥から伝わる温かなものが心地良くて仕方が無かった。
日数を数えるのも面倒なほど頑張ったのだ。ちょっとぐらいなら、愛しい人とともにいても罰は当たらないはずだ。身体はもちろん、心にも休息は必要なのだから。
だから、もう少しだけ。
いつだって見ていたいもの/ライレフ
葵壱さんには「ぱちりと目が合った」で始まり、「忘れたままでいてください」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば7ツイート(980字程度)でお願いします。
薄くなった碧とぱちりと目が合った。
やべ、と危機を覚えた瞬間、胸をぐいと押される。唇に灯っていた温もりが去っていく。代わりに、鋭い視線が向けられた。
「な、んで、目を開けているのですか!」
先ほどまで触れ合わせていた唇をわなわなと震わせ、烈風刀は叫びに近い声をあげる。興奮のあまり少しひっくり返った音は、怒気と羞恥と混乱がごちゃ混ぜだ。つい先ほどまでの甘やかな雰囲気など消し飛んでしまった。
「いや、なんとなく……?」
視線を逸らし、雷刀は言葉を濁す。真っ赤な嘘である。初心な恋人が期待に頬を染め、睫が震えるほど強く目を閉じ、こちらに身を委ね唇を差し出す様が見たかったのだ。あちらは毎回くっついてしまいそうなほど強く目をつむるので気付かれることはないと思っていたのだが、どうやらそう上手くいかないようだ。
「何となくで人の顔見るのやめてくれませんか」
眇め睨めつける孔雀石は射殺さんばかりの強さを持っていた。恥ずかしさよりも怒りが勝ってきたようだ。奥手な彼の言うところの『顔』がどういうものかを指摘してやりたい気分になるが、怒りを買うだけだということぐらいさすがの己にも分かる。好奇心を無理矢理押さえ込んで殺した。
「は、ずかしいから、今度からはちゃんと閉じてください」
僕にはいつも目をつむれというくせに、と恨めしげ声が飛んでくる。だってそう言わなきゃキスさせてくれねぇじゃん、といじけたように返す。ぐぅ、と喉が鳴る音が聞こえた。
肩に添えていた手を離す。このまま久しぶりに睦まじく過ごす予定だったが、この調子では到底無理だろう。嘆息しそうになるのを堪える。元凶は己なのだから。
ふと疑問がよぎる。目が合った。つまりはあちらも己のことを見た――目を開けたということである。いつもあれだけ強く目を閉じる彼が、だ。慎ましやかな恋人が、理性的な恋人が、無意味に口付けの最中に目を開けるとは思えない。何故なのか。
「烈風刀だって目ぇ開けたじゃん? オレのキス顔見たかったってこと?」
つい先ほど殺したはずの好奇心がするりと言葉となってこぼれ落ちる。やべ、と再び頭が遅すぎる警鐘を鳴らす。感情的ながらも至極正論な鋭利な言葉が飛んでくるか、キャパシティを越えてしまい衝動に任せた拳が飛んでくるか。どちらか分かったものではない。己の浅はかさを嘆く脳味噌が、恐れに身体の動きを制止した。
予想に反して、返ってきたのは真っ赤な顔と沈黙だった。潤った唇の端がひくりと引きつるのが見えた。あれ、と疑問符が浮かぶ。震えが止まり開かれた赤い口から紡がれた言葉は、確信をもたらすものだった。
「そっ、そんなわけないでしょう! 違いますから! ……もう、あんなの忘れてください!」
どうか素敵な休日ヲ!/レイ+グレ
AOINOさんには「恋って偉大だ」で始まり、「優しい風が髪を揺らした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば10ツイート(1400字程度)でお願いします。
恋って偉大だな。
ハンガーラックを真剣な眼差しで見つめるグレイスの姿に、レイシスは思わず笑みを浮かべる。自分が率先して選び与えていたのもあるのだろうが、彼女はあまり服に頓着がない。人並みに興味はあったようだが、自主的にお洒落をする姿は見たことがなかった。そんな妹が、鋭さすら思わせる眼差しでうんうんと呻り声を上げながら自分が着る服を選んでいるのだ。微笑ましいったらない。
「ね、ねぇ、これ、似合うかしら?」
くるりと振り返った躑躅は、一着の服を身体に当てながら問う。華奢な手が選んだのは、ミントグリーンのトップスだ。爽やかな色合いは、彼女の鮮やかな髪をよく引き立てていた。
「とっても似合いマス! 可愛いデス~!」
「貴方、いつもそう言わない?」
賞賛する桃に、躑躅は訝しげな視線を向ける。そんなことないデスヨ、と頬を膨らませるが、言われてみればそんな気もする。だって、可愛い可愛い妹には何だって似合うのだ。仕方の無いことである。
「本当に似合ってマスヨ。グレイスは黒い衣装を着ることが多いデスケド、こういうパステルカラーもとっても似合ってて可愛いデス!」
思いの丈をそのまま言葉にする。尖晶石の瞳がぱちりと瞬き、頬に淡い朱が広がった。そうかしら、と嬉しげな、それでもまだ不安そうな色が残った声が返ってきた。
「ソレニ、緑は始果サンとお揃いデスシ!」
グレイスの恋人である京終始果は、いつも緑の忍装束を着ていた。『お揃い』なんてことを意識してこれを選んだわけではないだろう。けれども、長く連れ添う彼女にとって彼と緑色はきっと深く結びついているものだ。無意識が選んでもおかしくはない。
先ほどまで眉間に皺を寄せていた可愛らしい顔が、きょとりと幼くなる。数拍、マゼンタの目がこれでもかというほど見開かれた。薄紅色が浮かんでいた頬が紅葉したように真っ赤に染まる。
「そっ、そんなっ、そういうの意識したわけじゃないわよ!」
服屋のど真ん中で少女は叫ぶ。常識ある彼女は、すぐさまハッとし気まずげな表情を浮かべた。めいっぱい開かれていた口が、小さくもごもごと動く。
「大体でっ、デー……休みの日まであの服を着てるわけがな…………いやあるわね……始果だもの……」
どうにか否定しようとするが、逆に彼女の中で確信が生まれてしまったようだ。さすがにそんなことはないだろう、と言いたいところだが、相手はグレイス以外のほとんどに興味を示さない男である。親しいとは言い難い己が言い切るのは難しかった。
「ッ、やめた! 別のにする!」
グレイスは慌てた調子で持っていたハンガーをラックの中に戻す。ミントグリーンが服の森に消えた。
余計なこと言うんじゃなかった、と後悔を覚えながらも、表情に出さぬよう再び唸り始めた妹に少しばかりアドバイスをする。時折携帯端末で調べながら、どうにか『初めてのデート服』というとびきり大切な買い物を終えた。
服屋を出て、二人で並んで歩く。本当ならば頭からつま先までコーディネートしたいが、相談されていない部分は本人に委ねるべきだ。好きな人と過ごすための服を、他人の指図で全て決めるのは良くない。助けを請われたのならば別だが。
「……付き合ってくれてありがと」
ショッパーを両の手で握りながら、グレイスは呟きにも似た声で言う。ほのかに照れが乗ったそれは、とても穏やかな音色をしていた。可愛らしい姿に、姉は思わず頬を緩めた。
「ハイ。ワタシもとっても楽しかったデス」
デート楽しみデスネ、と軽く返してみる。隣に並ぶ細い肩がびくりと震えた。しばしして、そうね、と確かな喜びが滲んだ声が返ってきた。
晴れやかな帰り道、優しい風が桃と躑躅の髪を揺らした。
残りの授業の間眠気はもう訪れなかった/氷雪ちゃん
葵壱さんには「ぱちりと目が合った」で始まり、「そっと目を閉じた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば6ツイート(840字)以上でお願いします。
ぱちりと目が合った。目が合ってしまった。
午後一番の授業は睡魔が時折やってくる。久しぶりに訪れたそれから逃れようと、氷雪は小さく頭を振る。少しだけ眠気が飛んだ視界の端に、空とは正反対の色が映った気がした。普段ならば授業中に余所見をすることはない。けれども、その珍しい色に視線は窓の外へと吸い寄せられてしまった。
真っ青な空の下そびえる白い校舎、その壁によく跳ねる桃が咲いていた。鮮やかな桃色が、屋上から垂らしたロープに身を預け、白衣を翻し、壁を蹴って移動する。その度に高い位置で結った髪が風に舞った。
識苑先生だ、と心の中で呟く。学園中を駆け回っている、という話は聞いたことがあるが、本当らしい。休み時間や放課後に見かけることはあるが、授業中に出くわしたのは初めてだ。それはそうだ、余所見をすることはいけないことなのだから。
まるで地を駆けるのと同じように、鴇色が壁を移動していく。一歩間違えれば死に直結するような高さにいるというのに、動作には恐怖など全く感じさせない。地を歩くのではなく壁を蹴って生活するのが当然のように校舎の側面を移動していた。
すごいなぁ、と見る度に考える。己は運動神経が良いと言いがたい。五〇メートル走は平均より少しだけ遅いし、球技も積極的に試合に参加できるほどの実力はない。体育の時間は苦手だった。そんな者から見れば、縦横無尽に空間を移動する彼の姿は一種の感動を覚えるものである。
薄紅梅がするするとロープを辿って屋上へと上がっていく。宙を蹴り壁を蹴る安全靴が屋上という地面を踏みしめるのが見えた。休憩だろうか。あんな体勢で長い間動くことなど危ないのだから当然だ。
桃が舞う。くるりと舞う。眼鏡が陽の光を受けて、キラリと光る。レンズの向こうの夕陽色が鮮やかに輝いて見えた。
まくり上げられた白衣から覗く腕が上空へと上がる。大きな手がひらひらとこちらに振られた。
瞬間、熱を持つ。熱いものが頬から広がり、顔を染め上げていく。窓の外を見て陽光を浴び続けていたのが原因でないことは明らかだった。
慌てて外から視線を逸らす。常磐色の瞳が、広げられたノートを一心に見つめた。
気付かれた。授業中、余所見をしているのを見られてしまった。羞恥が、罪悪が、後悔が胸を満たしていく。
いや、勘違いかもしれない。校舎の中から見れば、壁や屋上にいる彼の存在はすぐに目に留まるだろう。しかし逆、無数の窓が存在する校舎の中から一生徒を見つけることなど不可能に決まっているのだ。そもそも、授業中に窓の外を見ている生徒などたくさんいるに決まっている。己に手を振ってくれたなんてことはあり得ないのだ。きっと、勘違いだ。
あぁ、それでも熱は収まらない。優しくしてくれている先生に、こんな不真面目な姿を見られたかもしれないのだ。恥ずかしいったらない。
現実から逃げるように、少女はそっと目を閉じた。
潤す飴玉/ノア+レフ
あおいちさんには「笑ってください」で始まり、「懐かしい味がした」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート(420字程度)でお願いします。
「ほら、そんなに泣かないで。笑ってください」
困ったように笑いながら、少年は目の前の頬を拭う。肌に寄せられたハンカチの生地は柔らかで、洗剤の良い匂いが心地良かった。心落ち着くものを与えられているというのに、少女の目からはボロボロと涙がこぼれるばかりだ。
笑ってなんて無理だよ、と返そうにも、喉がつかえて形にできない。う、と嗚咽を漏らすばかりだ。そんな己を見ても、彼は呆れる様子無く流れる雫を拭ってくれた。
「飴でも舐めますか? 少し落ち着くかもしれません」
そう言って烈風刀は衣装のポケットに手を入れる。しばしして出されたのは、手のひらサイズの丸いケースだった。中には外装と同じ色をした小さな丸い飴がたくさん詰まっている。スーパーでよく見る甘いのど飴だ。
食べる、となんとか嗚咽交じりに返す。手を出してください、の言葉に、ノアは長い袖をまくり小さな手を出した。カラカラと音。手の上で振られた丸いプラスチックケースの中から、飴玉が一粒飛び出した。
転がり落ちそうなそれを急いで口の中に放り込む。程よい甘さとフルーツの香りが口の中に広がっていく。コロコロと舌で、頬で転がす。少しだけ涙が引っ込んだ気がした。
「……おいしい」
「それはよかった」
喉はちゃんとケアしないといけませんからね、と少年は笑いかける。喉。歌。ライブ。練習。たった一言から様々な言葉が引きずり出されていく。じわ、とまた涙が湧き出してきた。それもすぐ、少し濡れた布地に吸われて消えた。
「にあ、ちゃんが、わるい、の」
のあだってちゃんとれんしゅうしてるのに、と言い訳めいた、否、言い訳でしかない言葉を吐いてしまう。自己嫌悪に、少女はぎゅっと目を閉じた。雫が珠となって地面へと落ちていく。
元々内気で何事も不安がって自信があまり持てない己にとって、初めてのライブステージは不安でしかなかった。大丈夫かな、失敗しないかな、と弱音ばかり吐いてしまう己に、姉はいつだって大丈夫だと励ましてくれた。
それでも、限界というものはあるらしい。大丈夫だって言ってるでしょ、と今日は強い言葉がぶつけられた。そんなに不安ならもっと練習すればいいじゃん。続けざまにぶつけられた言葉は、小さな心を抉った。
練習ならいつもしている。放課後はもちろん、家に帰ってからも二人で歌詞や振り付けの確認は欠かさずにやっていた。その努力の積み重ねを知っているはずなのに。じわりとまた涙が浮かぶ。
違う。悪いのは己だ。いつも励ましてくれる姉に甘えてばかりだったのが悪いのだ。分かっているのに、飛び出たのは謝罪の言葉ではなく大粒の涙と、ニアちゃんのいじわる、という泣き言だった。
大好きな姉の顔が見たくなくて、走って、走って。気付いた時にはどこかの暗がりにいた。そして、たまたま通りかかった烈風刀に慰められる今に至る。
「二人がちゃんと練習しているのは皆知っていますよ。それこそ、ニアだって」
ニアが一番分かっているはずです、と少年は涙を流す少女の頭を撫でる。優しい手つきに、また透明な雫が溢れる。拭ってくれるハンカチはすっかりとぐしょぐしょになっていた。
これは秘密なんですけどね、と烈風刀は声をひそめる。口元に手を添える姿は内緒話をする時のそれだ。
「ニアもとっても不安みたいなんです。『大丈夫かな』っていつも尋ねてくるんですよ」
少年の言葉に、ノアはぱちりと大きく瞬く。あの姉が、いつだって元気で、自信満々で、己を励ましてくれる姉が不安に思っているだなんて。そんな姿、ちっとも見せなかったというのに。
「『大丈夫』と言っても怖いみたいで。でも、『ノアちゃんとなら大丈夫だよね』って最後には言うんです」
少女は再び瞬く。驚愕をあらわにした青に、碧は優しく笑いかける。大きな手が丸い頭をなぞった。
「ニアも、ノアと一緒で不安なんです。でも、ノアがいるから頑張っていられるのですよ」
何があったかは僕には分かりませんけど、きっと二人なら大丈夫です。
唱えるように言って、少年は可愛らしい頭を撫で続ける。慈愛に満ちた手つきだった。
ボロボロと、涙が次々と溢れ出る。嗚咽が喉を突いて出る。止めなければいけないのに、止まる気がしなかった。ひたすらに幼稚な姿を晒す。それでも、彼は飽きることなく頭を撫で、涙を拭ってくれた。
どれほど経っただろう、やっと嗚咽がおさまってくる。涙も少しずつながら姿を消しつつあった。
「落ち着きました?」
「……うん」
ありがと、れふと、とまだ濡れた声で礼を言う。いえ、とずぶ濡れの顔をハンカチのまだ乾いている部分で拭われた。
「飴、もう一個食べますか?」
泣いている内に飲み込んでしまったらしい。口内の甘い粒はいつの間にか無くなっていた。こくりと頷くと、また手のひらにまあるい飴が出される。すん、と鼻を啜って口に放り込む。食べ慣れた味だ。だって、いつも家で二人で舐めている飴なのだから。
「舐め終わったら戻りましょうか。きっとニアが探していますよ」
「……探してないよ」
「探してますよ。絶対に」
断言する烈風刀に、ノアは懐疑的な目を向ける。瞬間、バイブレーション音が聞こえた。ポケットに手を入れ、少年は携帯端末を確認する。連絡だろうか。そうだ、彼だって練習の最中のはずだ。なのに、こんなところで無駄に時間を使わせてしまった。もう一個湧き出た罪悪感が胸を塗り潰していく。
「……ごめんね、れふと」
「いえいえ。僕も休憩したいところでしたから」
練習続きじゃ気が張ってしまいますから、と少年は笑う。嘘ではないだろうが、本当でもないだろう。靄が晴れることはない。
カラリ。ケースが音をたてる。大きな手に飴玉が転がる。そのまま、大きな口に吸い込まれていった。シャープな輪郭をした頬が動く。美味しいですね、と少年は笑った。うん、と少女も頷いた。
食べ慣れた、姉との思い出が詰まった味が口の中を占めた。
新たな朝を待ちわびて/嬬武器兄弟
あおいちさんには「石段を駆け上がった」で始まり、「ほら、朝が来たよ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば13ツイート(1820字)以上でお願いします。
参考:2023/1/1 日の出日の入り時間
一段飛ばしで階段を駆け上がる。足が振り上げられる度、手にしたビニール袋がうるさく音をたてた。ダン、と地を蹴る重い足音と、ビニールが擦れる音が暗闇に響く。
ようやく住まう部屋に辿り着き、雷刀はポケットから鍵を取り出す。かじかむ手でキーをさしこみ、錠を開ける。戸を開けると同時に、ただいま、と帰宅を告げた。
靴の踵を踏んで脱ぎ捨て、足早に廊下を進む。足下から這い寄る冷気に、ぶるりと身体を震わす。急いでリビングに繋がる扉を開くと、程よい温かさが迎えてくれた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
今一度帰宅を告げると、柔らな声が返ってくる。こたつに身体を潜らせた烈風刀は、みかんの房を片手にこちらを見ていた。机上には、剥かれて半分に割られたオレンジ色が置かれている。おそらく待っている間に食べていたのだろう。
「肉まん食う腹無くなるぞ」
「みかん半分程度で大袈裟ですよ」
そう言って彼はマグに口を付ける。淹れてから随分と経ったそれからは、柔らかな白い湯気は消え去っていた。もうかなり冷えているだろう。ビニール袋をこたつ机に置き、ちょうど空になったマグカップを二つ回収する。新しく淹れてくる、の言葉に、ありがとうございます、と礼が返された。
電気ケトルに目分量で水を入れ、インスタントコーヒーをこれまた目分量でマグへと放りこむ。しばし待ち、カチンと音をたてたケトルから沸きたての湯を入れる。あっという間に熱いコーヒーの完成だ。肉まんに合うかは微妙なところではあるが、手軽に飲める温かいものといえばこれである。
マグを両手にリビングへと帰る。弟は相変わらずみかんを食べていた。夜中、それも新年明けてばかりのテレビはあまり興味を引くものはやっていなかった。きっと手持ち無沙汰なのだろう。
ほい、と弟の目の前に青いマグカップを差し出す。礼の言葉とともに、彼は湯気があがるそれを両手で受け取った。ぐるりと回り込み、彼の隣の面に腰を下ろす。分厚いこたつ布団の中に足を入れると、心地良い温度が末端を包んだ。ほぅ、と思わず溜め息が漏れ出る。
先ほど置いたばかりの袋を漁る。中から取り出したのは、肉まんの包み二つだ。夜中に無性に食べたくなり、コンビニへと走ったのだ。お蕎麦とみかん食べたばかりでしょう、と小言を言う弟に、別腹とだけ返して外へと出た。瞬間、身を包んだ冷気に後悔を覚えたが、それ以上に食欲が勝った。衝動がままに足を動かし、二つ買ってまた走り、今に至る。
冬真っ只中の空気に晒されていたというのに、丸い中華まんはまだ温かだった。赤で飾られた白いパッケージを一つ、無言で手渡す。ありがとうございます、とまた礼の言葉。柔らかな饅頭はそっと両手で受け取られた。
止めるテープを取り、下に付いた敷き紙を剥がす。いただきます、と二人分の声。同時に大きな口でかぶりつく。温かな温度と皮の甘み、中に詰められた肉の旨味が舌を楽しませた。んめぇ、と思わず声を漏らす。
「やっぱ冬は肉まんだよなー」
「さっきまで『冬はみかんだ』と言ってたではないですか」
「どっちも」
呆れた調子で笑う弟に、兄はケラケラと笑う。言葉を交わすのもそこそこに、互いに黙々と肉まんを食べる。こぶりなそれはあっという間に無くなった。ごちそうさまでした、と重なる声。くしゃりと丸められた紙と、丁寧に畳まれた紙が簡易的なゴミ箱に入れられた。橙が重なった箱の中に、白が咲く。
「今何時ー?」
「もうすぐ六時ですよ」
「初日の出って何時だっけ」
朱の問いに、碧はえっと、とこぼして携帯端末を操る。しばしの沈黙。七時頃のようです、と液晶画面に表示されているのであろう情報が読み上げられた。
「まだまだじゃん」
「起きていられるんですか?」
「らくしょー」
とは言ったものの、本当はもうかなり眠い。夜も遅いことはもちろんだが、肉まんでかなり腹が膨れてしまった。普段ならばこれ程度では腹は満たされないが、生憎昨晩お腹いっぱい蕎麦を食べ、今の今までみかんをだらだらと食べていたのだ。胃はかなり満たされていた。少し遠いコンビニまで走っていった疲れも今更になって襲ってくる。疲労感と満腹感が睡魔を誘う。けれども、せっかくここまで起きたのだ。何としてでも初日の出を拝みたい。
みかんを食べ、携帯端末をいじり、時間が過ぎるのを待つ。睡魔は相変わらず居座り、眠りへと誘ってくる。気付けば、こくりこくりと船を漕いでいた。
寝ないでくださいよ、と肩を叩かれる。寝ねーよ、という返事は思った以上にふにゃりとしていた。もごもごと口を動かす様子に、苦い笑いが返された。
シャ、とカーテンが開けられる音。窓の向こうを見やると、真っ黒だった空はほのかに色を取り戻しているように見えた。
「ほら、もう少しで新年の朝が来ますよ。頑張ってください」
全ては三文字に帰結する/恋刃
葵壱さんには「最初は何とも思っていなかった」で始まり、「そっと笑いかけた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば5ツイート(700字程度)でお願いします。
最初は何とも思っていなかった。否、多大な喜びすら覚えていた。
だって、大好きな姉と大好きな親友が仲良くなってくれるだなんて、嬉しいに決まっている。好きな人が好きな人のことを好ましく思ってくれるのだ。これほど嬉しいことはない。
と、思っていたのだけれど。
「――それで、ミカエルが走っていっちゃって。慌てて追いかけたんです」
「あら、大変だったのね」
「でも、そのおかげで知らない綺麗な花壇を見つけたんです。満開のお花で埋め尽くされてて、とっても綺麗で。ミカエルが走っていかなかったら絶対に知らなかったから、よかったなぁって」
えへへ、と奈奈はどこか面映ゆそうに笑みを浮かべる。たしかな喜びをにじませたそれに、紅刃は穏やかに素敵ね、と微笑みを浮かべた。
穏やかな光景に反し、恋刃はわずかに目を眇める。平静を取り繕うとするも、整った細い眉はかすかに寄せられ眉間に薄く皺を作っていた。
大好きな姉と大好きな親友が楽しく会話している。仲良くしてくれている。幸せな光景だ。喜ばしい現実だ。だというのに、このところは幸福に満ち満ちたそれを眺めると胸の内を得体の知れない何かが広がっていくのだ。暗いそれは小さな心を覆い影を落とす。胃もたれをしたような不快感が胸のあたりを満たす。解が無い問いを目の前にしたようにもやもやとする。訳の分からない現象だ。だって、好きな人と好きな人が仲良くしているのは幸せなのに。
「恋刃?」
愛しい声が己の名をなぞる。そこでやっと、己が俯いていることに気付いた。
「はっ、はい。何でしょうか、お姉さま」
「奈奈ちゃんが持ってきてくれたチョコ美味しいわよ。食べないの?」
「たっ、食べます!」
姉が差し出した箱から、妹は急いでチョコレートを一つ取ってかじる。チョコレートの豊かな風味と、ラズベリーの爽やかな香り、少しビターな味が口内に広がった。薄く険しさをまとった深緋の目が、ぱぁと輝いた。
「とっても美味しい!」
「よかった。恋刃も気に入ってくれて」
赤い少女の歓喜に満ちた声に、七色の少女はふわりと笑みをこぼした。鮮やかな多色の瞳がふわりと弧を描く姿に、心臓がドキリと音をたてる。美味しい、と誤魔化すように言って、手にしたそれを食べきった。
「な、な。ねぇ、奈奈」
手を拭き、隣に座る少女のワンピースの裾を引く。どうしたの恋刃、と不思議そうな視線と声がこちらに向けられた。
「このチョコ、どこで買ったの?」
「この間ショッピングモールに新しいお店ができたでしょ? そこで買ったの」
ここ、と少女は箱の片隅にある紙片を取る。初めて見る店名だ。本当にオープンしたての店なのだろう。ねぇ、とほのかに揺れた調子の声。裾を握る指に温かなものが触れた。
「今度一緒に買いに行かない? 奈奈もこの味好きだから、もっと食べたいの」
「……もちろん! 連れてって!」
奈奈の誘いに、恋刃は喜色満面の笑みを浮かべる。触れた手を取り、握り返した。目の前の虹色が、穏やかな弧を描いた。
「よかったわね」
ふふ、と呼気のような笑声。姉だ。そうだ、この場には姉もいたのだ。親友との約束に浮かれて忘れていた。恥ずかしい姿を見せてしまった、と少女の頬に髪と同じ色が浮かんだ。
「はい」
こちらに向けられていた虹色が、穏やかに細まった紅色へと向けられる。瞬間、どろりとしたものが胸に湧き上がった。訳の分からない感覚に、思わず身体が強張る。
何故だ。今この瞬間まで幸せに包まれていたのに、何故こんなものが胸を満たすのだ。理由なんて皆目見当が付かない。正体も欠片も分からなかった。
「次のお休みで大丈夫?」
声にはっとする。きゅ、と手を握った親友は、ほのかに頬を染めこちらを窺っていた。ドロドロとした何かが胸を掻き回す。美しいそれが、何故だか直視できない。
「えぇ、そうしましょう」
少女は固さの残る顔でそっと笑いかけた。
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E:うさみみ【ニア+ノア+嬬武器】
E:うさみみ【ニア+ノア+嬬武器】
8/21はバニーの日!
ということで兎といえばニアノアちゃん。ついでに嬬武器兄弟。たぶんIV時空。
8/2に思いついたけど間に合わなかったのは秘密。
腕に抱えたノートの束、その一番上の一冊がコーティングされた表紙の上を滑って飛び出す。慌てて腕を傾け、胸の内に飛び込ませて受け止めた。もう落とすことはないように、山を少しだけ身体の内側に傾け胸に預ける形にする。束ねた冊数が冊数だけにかすかに圧迫感を覚えるが、ここから職員室まではさほど距離はない。我慢できる範囲だ。早く日直の仕事を済ませようと、烈風刀は提出物のノートたちと廊下を進んだ。
じゃんけんぽん。元気な声が二つ重なって空間に響く。耳慣れたそれは、職員室へと続く階段の方から聞こえた。ぐーりーこっ、と弾んだ掛け声と階段を軽やかに上る足音。聞き慣れた遊びの言葉とよく知る可愛らしい声に、少年は目元を緩めた。
足を進めると、当然ながら声はどんどんと大きく、近くなっていく。じゃんけんぽん、と元気な掛け声がまた重なる。ぱーいーなーつーぷーるっ、と大きく歩を進める言葉、その最後の一音とともに、大きな黄緑のリボンが揺れるのが視界に映った。見知った青と目が合う。可憐な口が大きく開き、頭の上に伸びる長いリボンがぴょんと跳ねた。
「あっ、れふとだー!」
三度目の合図の前に、己の名が挟まる。タッタッタ、と小さな足が軽快な足音を奏でる。えっ、れふと、と下の方からもう一つ声が聞こえた。タンッ、と跳ねるような足音から、一段飛ばしで階段を駆け上がってくるのが分かった。程なくして、青い双子が目の前に揃った。れふとれふとー、と幼い兎たちは囀りのように何度も名を呼んだ。
「懐かしいですね」
「そうなの?」
「今クラスで流行ってるよ」
ねー、とニアとノアは顔を向け合って声を重ねる。確かに、己が彼女らと同じほどの年頃にこうやって遊んでいた覚えがある。階段を上がっていく言葉もそっくりそのまま同じだ。学校課程丸々一つ飛ばすほど時が経っているのに、全く変わっていないというのも不思議なものだ。
ぴょんぴょんと、双子兎は忙しなく青の周りを跳びはねる。まだまだ成長中の小さな足が地を蹴る度、頭に付けたリボンカチューシャが身体と同じく上下に揺れた。腰元に付いたもふもふとした丸い飾りも弾む。軽やかな動きで跳ぶ様も、長い耳のようなリボンが舞う様も、尻尾のような飾りが揺れる様も、兎を彷彿とさせる。小動物そのものの愛らしさに、自然と口元が穏やかな笑みを形作った。
「どしたのれふと?」
「ノアたちのお顔、何かついてる?」
タン、と大きな足音一つと一緒に兎たちの動きが止まる。小さな丸い頭が鏡合わせのように傾いだ。確認するように、長い袖に包まれた手が柔らかな頬をぺたぺたと触る。
「あぁ、いいえ」
ただ遊ぶ姿を眺めていただけのはずだが、彼女らには不審に映ったらしい。相手はまだ幼いとは言えども歴とした女の子だ。無意識とはいえ、不躾に眺めるなど失礼にもほどがある。すみません、とすぐさま謝罪の言葉を紡いだ。
「兎みたいだなぁ、と思いまして」
「よく言われるよ!」
「れふとがくれた靴もウサギさんだしね」
そう言って、ノアは頭上の浅葱から自身の足下に視線をうつす。いつだって力強く、それでいて軽い姿で地を蹴る小さな足は、細い耳と可愛らしい顔模様が付いた鮮やかな黄緑の靴に包まれていた。数年前、あまりに廊下を飛んで自身も周りも危険に身をさらす彼女らを案じてプレゼントしたものだ。気に入ってくれたのか、その日から毎日のように履いて登校しているようだ。靴を贈ってからは、無闇矢鱈と廊下を跳んで回ることは減っていた。年数が経っているのに目立つ汚れがないことから、よく手入れしていることが分かる。随分と大切にしてくれているようだ。悩んだ末贈ってよかった、と歓喜と安堵が胸に広がった。
「ウサギさん、似合ってる?」
靴を見せつけるように片足を上げ、ニアはモデルのように軽くターンをする。つま先と一緒に緑の兎が小さな円を描いた。
「えぇ。とても」
己がプレゼントしたものを褒めるのは何だか自画自賛のようで気が引けるが、マリンブルーに身を染める彼女らにライムグリーンの靴が似合っているのは事実である。心からの賛辞に、少女らは顔を向かい合わせる。にへへー、とはにかみによく似た笑声が二つあがった。
ウサギさん、ウサギさん、と青兎たちは碧の周りを跳びはねて回る。こんな階段の近くではしゃいでは、足を踏み外して転げ落ちてしまうかもしれない。危ないですよ、とそっと窘めた。はーい、と靴が地面を叩く音が止む。素直なのはよいことだ。それでもまだうずうずとしている様子が見えるから気は抜けないのだけれど。
「……ねぇねぇ」
控えめな声とともに、制服の裾が引かれる感覚。見ると、こちらを一心に見上げる瑠璃色と目が合った。つやつやとした丸いそれは常から生命の輝きに満ちている。今は更に輝いて見えた。それも、悪い予感を覚えるような光り方だ。何だ、と少年は身を固くした。
「れふともウサギさん、やってみる?」
「え?」
にこりと笑うノアに、烈風刀は呆けた声を返す。ウサギさんをやる、とは一体どういう意味なのだろう。ウサギは動物であり、やるもなにもない。突然のものということもあってか、少女の言葉の意味が咀嚼できずにいた。
余って垂れるほど長い袖に包まれた手が、形の良い小さな頭に回される。そのまま、彼女は自身の象徴の一つと言っても過言ではないリボンカチューシャを外した。どうしたのだろう。跳ねて回って乱れた髪でも整えるのだろうか。いや、きちんと手入れされつややかな髪は整ったままだ。では、何故。疑問を抱えたまま眺めていると、ずい、とリボンが垂れたそれを目の前に差し出された。
「れふとにも似合うと思うなぁ」
「絶対似合うよ!」
妹兎の言葉に、姉兎も加勢する。ねー、と示し合わせたように顔を合わせた。付けて付けて、とねだる声と高い位置まで跳ぼうとする足音が廊下に響く。
キラキラと目を輝かせはしゃぐ青い双子とは正反対に、碧い少年は困ったような、悩むような表情を浮かべる。いくら懐いてくれている少女らの頼みとはいえど、この歳で、しかも男である己がカチューシャを付けるのには抵抗がある。それに、これは小学生である彼女らにぴったりなサイズの品だ。高校生の自分の頭には小さく、嵌めるのは難しいことは容易に分かる。
そもそも、目に灯った光の様子から、これが彼女らにとって一種のいたずらのような物であることが分かる。本気の頼みではなく、ただのお遊びだ。似合っている、という言葉もただの方便であるに決まっている。
「れふとの髪にすっごく似合うと思うなぁ……」
「ダメ……?」
アズライトの瞳が二対、エメラルドを見上げる。ことりと小首を傾げ、上目遣いで見上げ、弱々しい声で尋ねる姿は小さな子どもらしく可愛らしいものだ。その可愛らしさで全てを誤魔化し押し通そうとしているのだ。どうやら渋い顔を見て作戦を変えたらしい。素直で幼く見えて、こういう部分は妙に頭が回るのだ。
いたずらと分かっていても、頭ごなしに断るのは憚られた。子どもの願いを理由も無く切り捨てるのは良くないことだ。きちんと理由を説明して、納得してもらうのが一番である。
「すみません、僕にはサイズが合わな――」
「烈風刀ー!」
断ろうと切り出したところで、言葉は大声に阻まれた。聞き慣れた声に、三人揃って音の方へと向く。透き通る寒色の瞳三対に、四角いものを掲げて走り寄ってくる朱が鮮やかに映し出された。
「ごめん! オレ出し忘れてた!」
キュ、と靴が地面を擦る音とともに、双子の兄は目の前で止まった。振り上げていたノートを己の胸の内のノートの一番上に載せる。間に合ってよかったー、と少年はへにゃりと笑みをこぼした。
「あれ? 頭のやつ外してるの珍しいな」
己の隣、カチューシャを手に持ったままのノアを見て、雷刀は不思議そうに声を漏らす。言われてみれば、双子兎との付き合いは長いがこの髪飾りを外している姿を見るのは初めてである。本当に珍しい光景だ。女の子はお洒落をこだわりにこだわり突き通すものだと思っていたが、いたずらのために外してしまうあたりがいたずらっ子な彼女ららしい。
「あのねー」
「れふとに付けてー、って言ってたの」
青兎たちの言葉に、ルビーの目がぱちりと瞬く。顎に指を当て、ははぁん、とどこかいたずらげな声を漏らした。八重歯覗く口がにまりと笑みを形作る。
「いーじゃん。それぐらいやったげろよ」
「嫌ですよ」
丸い頭の妹兎から目を外した兄はひらひらと手を振り軽く言う。弟は眉間に皺を寄せて鋭く返した。ただでさえこんなに可愛らしい飾りを付けることに躊躇いを覚えるというのに、それが彼の前となれば尚更だ。少女らと同じぐらいいたずら好きな片割れの前でそんな愉快の姿を見せてはろくなことになるはずがない。
ふぅん、と朱は鼻を慣らす。再び顎に指を当て、何度か頷く。睨むのに近い視線で見やる碧など無視して、少年は依然カチューシャを持ったままの少女に手を差し出した。広げられた大きな手に、藍晶がぱちりと瞬く。にこりと笑みを浮かべ、無言で手の内にある髪飾りを渡した。
嫌な予感が胸を撫でる。静かに逃げようと一歩下がったところで、目の前の片割れは三歩距離を詰めてきた。筋が浮かび始めた手が、カチューシャを持った手が浅葱の頭に伸びる。素早い動きで頭に何かが付けられた。は、と疑問符がたっぷり付いた声が漏れる。今何をした、こいつは。
「おー、似合う似合う」
新たな様子に生まれ変わった弟の姿を前に、兄は呑気な声をあげる。頭部に締め付けるような軽い痛みを覚える。あのカチューシャを付けられたのだ、と気付くのはすぐだった。小学生女子の頭に合わせて作られた物が、高校生男子の頭に綺麗に嵌まるわけがない。無理に押されて入れられたのだ。締め付けを覚えるのは当然だ。
突然の事態とわずかな痛みに困惑している間に、雷刀は白いジャケットのポケットをゴソゴソと漁る。取り出したのは、携帯端末だ。何とか片手で持つことができるサイズのそれが、笑みを浮かべた顔の前で構えられる。カシャ、と電子のシャッター音が廊下に落ちた。
「ッ、なっ、何してるんですか!」
「いや、記念に」
「何の記念ですか!」
言葉の応酬の最中にも、カシャカシャとシャッター音が鳴り響く。こんな姿を、年相応ではないリボンカチューシャを付けた様を何枚も撮られている。羞恥と憤怒に顔が赤らむのが分かった。
やめなさい、と撮影を重ねる手を叩き落とそうとするが、両腕はクラス全員分のノートで塞がれていた。慌てて片手で抱え直し、手を伸ばす。もたついている間に、手が届かない位置まで距離を取られてしまった。ちゃっかりと青い双子も彼の後ろについて、れふと似合ってるー、とはしゃいだ声をあげていた。
「らいともウサギさんするー?」
「おー。やってみっかな」
はい、とニアはさらりとした髪からカチューシャを外し朱に手渡す。両手で丁寧に受け取った彼は、そのまま真紅の頭に小さな髪飾りを差し込んだ。ちょっとちっちぇーな、と苦笑が聞こえた。
スッと姉兎は空になった手を朱い兄に伸ばす。何か通じ合ったのだろう、少年はニィと笑い手にしたままの携帯端末を少女に渡した。そのまま、軽い足取りでこちらに駆けてくる。身構えるより先に、首に腕が回された。肩を掴まれ、ぐっと寄せられる。頬がくっつきそうなほど、顔と顔との距離が縮まった。
「お揃い!」
「おそろいだー」
「ウワギさんだー」
いぇーい、と陽気な声をあげ、雷刀はピースサインを作って双子に向ける。手渡された大きな端末を両の手で横に持ち、青兎はパシャパシャとシャッターを鳴らした。兄弟揃ってこんなふざけた格好をしているところを写真に収められている。それも、小さな子どもの前で。カァ、と顔に熱が一気に集中したのが分かった。
「三人とも!」
はしゃぐ朱と青に、碧は悲鳴めいた声をあげる。肩に回された手を外そうとするが、自由になっている腕はちょうど掴まれている側だ。無理な姿勢なこともあり、振り払うのは容易ではなかった。抜け出そうと身を捩るが、更に腕に力が入り顔が近づくだけだ。
何度シャッター音を聞いただろう、ようやく腕が外される。そのまま、頭に手が伸ばされた。瞬時に締め付けるような痛みから解放される。え、と声を漏らす間に、兄は自身の頭にも手を伸ばし、双子のお揃いのカチューシャを外した。どうやら己のものも外してくれたらしい。
返すなー、と朱い片割れは青兎にそれぞれの髪飾りを手渡す。ありがとー、と受け取って、ニアは代わりに携帯端末を返した。大きな手が小さな手から小型機器を受け取る。そのまま液晶画面を指で操り、満足げに頷いた。
駆け足に近い調子で近づき、背後から端末に手を伸ばす。予測されていたのか、軽く身をひねって躱された。思わず悔しげな声が喉から漏れる。
「消しなさい」
「バックアップ取ってからな」
「馬鹿なこと言っていないで消しなさい!」
「れふと、廊下で大きな声出したらダメだよ」
端末をタップして操る兄に、弟は鋭い声を向ける。諍いの最中、頭二つ下から冷静な声が飛んできた。思わずう、と口を噤む。正論であった。
少年が身を強張らせる間にも、兄は小型機械を操作する。宣言通り、クラウドサービスにアップロードしてバックアップを取っているのだろう。己の悲惨な姿がインターネット上に複製されていく現実に、軽いめまいを覚えた。信じたくない事実である。
「じゃ、ノートよろしく」
「ニアたちも帰るねー」
「れふと、また明日ねー」
三人揃って手を振り、階段を下っていく。タッタッタ、と急いだ調子の足音が三つバラバラに奏でられる。あっという間に人は失せ、少年はノートの束とともに一人取り残された。
はぁ、と重い溜め息を吐く。もういたずらされたのも、そんな姿を見られたのも仕方が無い、取り返しの付かないことだ。問題は写真である。レイシスたちに見られる前に何としても消させなければいけない。そのためにも、早く日直の仕事を済ませねば。碧は急いで階段を下った。
競歩に近い速度で廊下を進み、職員室の扉の前に立つ。自動ドアは音も無く開いた。失礼します、と普段よりもいささか早い調子で言い、古典担当の教師の席へと歩みを進めた。
「すみません、提出が遅くなりました」
「あぁ、気にするな」
謝罪の言葉に、オルトリンデは手を止め薄く笑って返す。こちらです、と渡した何十冊ものノートを片手で軽々と受け取り、彼女はそれを机の端に置いた。教育実習生である彼女は忙しく、早く仕事をこなしたいはずだ。だというのに、遅くなるなど申し訳ないことをしてしまった。それも全てあの双子兎とふざけた兄のせいなのだけれど。
「しかし珍しいな。そなたがそんなに髪を乱しているなんて」
頭を見つめる二色の瞳に、え、と少年は声を漏らす。ようやく自由になった手で、急いで頭を触る。確かに、朝整えたはずの髪は少し乱れていた。原因は言うまでもない。
「……色々ありまして」
「そうか」
気まずげに返す烈風刀に、戦乙女は気にする様子も無く頷く。当番お疲れ様、と労いの言葉が掛けられた。失礼します、と軽く礼をし、少年は早足で職員室を進む。出入り口で再度挨拶と一礼。急いで廊下へと出た。
廊下を早足、否、最早駆け足に近い調子で進んでいく。規律を重んじる彼ならば、普段は決してやらないことだ。『廊下を走ってはいけない』という初歩的なルールが頭から飛んでいくほど、聡明な頭は恥を収めた写真のことでいっぱいになっていた。
早く端末を奪わなければ。軽くなった腕を振り、碧は必死に足を動かした。
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この翼できみへと【はるグレ】
この翼できみへと【はるグレ】
宵闇の翼篇予告で発狂して当日筐体前で濃厚なはるグレを浴びた人間の末路。
宵闇の翼篇会話・エンディングのネタバレ有。
青い空の中、躑躅が舞う。闇を形にしたような漆黒を身に纏い、色鮮やかな牡丹と輝く銀の銃を操り、何十何百もの弾丸を撃ち放ち、長い躑躅の髪が宙を舞って踊る。青の中、少女は縦横無尽に闘い踊った。
バトル大会決勝は、激闘と呼ぶのが相応しい試合だった。両者ともにすさまじい気迫でぶつかりあい、実力を遺憾なく発揮し闘う姿は迫真に満ち、見る者全てを圧倒させるものだった。
それ以上に、飛び回る躑躅に目を奪われた。
空高く舞い上がるきみ。天も地も関係ないとばかりに飛び回って闘うきみ。届かない場所へと駆け上がっていくきみ。
鮮やかな姿が目に焼き付いて離れない。訳の分からない何かが胸を掻き乱す。理解できないこの情動は、どうすれば解決できるのだろう。
同じ場所に立てば分かるだろうか。
だから。
宵闇に包まれていた世界が光を取り戻す。重たい瞼を持ち上げた先に飛び込んできたのは、愛しい色だった。光を取り戻し、オレンジ一色に染まった世界でも鮮烈に咲き誇るアザレア。華奢な身体を武奏で彩る愛する少女。いつだって求めている人が、気づかぬ内に目の前に現れた。
あれ、と少年は音にせぬまま疑問の声をあげる。つい先ほどまでこの身を包んでいた浮遊感と、風が肌を撫ぜる感覚、鋼鉄の翼が空気を切る感覚は消え去っていた。代わりに、肩にほのかな痛みと前後に揺さぶられる感覚が身体を支配する。見れば、ロンググローブに包まれた細い腕が己に向かって伸ばされていた。
仮想現実は終わったのだろうか。仮想現実で望みを実現すると謳うシステムにより、空を飛ぶ夢は叶えられた。けれども、何故か胸は騒ぐばかりで落ち着かない。飛べば全てが分かると思っていたのだが、違うようだ。
はるか、はるか。
心から求める美しい声が名を呼ぶ。己を示す三音節を紡ぐ音色は、濡れたものだった。かすかにぼやける視界と思考を晴らすように瞬きを数回。鮮やかな花の色が更に色濃く視界に広がる。水色で縁取られた尖晶石が、まっすぐにこちらを見据えているのをようやく認識した。
「グレイス……?」
目の前、己の肩を掴む愛し人を呼ぶ。途端、可愛らしいまあるい目から、ぶわりと水が湧き上がった。どんどんと込み上げるそれは、限界を超え溢れ出て伝い肌を濡らす。ビビッドな愛らしい瞳に膜を張りぼやけさせる。とめどないそれは、少女の柔らかな頬に透明な線をいくつも描いた。おとがいまで到達した雫が重力に従い落ちる。足に少しだけ冷たさを感じた。
グレイス、と始果は今一度恋い慕う少女の名を呼ぶ。何故彼女は泣いているのだろう。いつも気丈に振る舞い、弱い部分など決して見せない強がりな彼女が、何故全てをさらけ出して泣いているのだろうか。理解できない現状と、愛する人が涙を流す不安が胸を掻き回す。
あぁ、と忍は一人合点する。きっと、この姿が悪いのだろう。妖狐になった姿は彼女に見せたことがない。こんな醜い姿を見ては、少し怖がりな部分がある少女は怯えを覚えてしまうはずだ。己が愛する人を苛んでいる。息が詰まるような感覚がした。
逡巡、黒に包まれた手が涙で濡れた頬に触れた。少しだけ硬い布地は、柔肌を濡らす雫を吸収し色を濃くする。あまり行儀が良いとは言えないが、今は濡れた顔を拭ってやる方が先決だ。繊細な肌を傷つけないよう、そっとなぞった。
こんこんと涙が湧き上がるモルガナイトがぱちりと瞬く。大きな衝撃に、また雫が溢れて白い肌を濡らした。これ以上こぼさせまいと少年は親指で目尻を拭う。見開かれた丸い目が、すっと眇められた。
パァンと高い音が空間に響く。遅れて、頬を痛みが襲った。突然の衝撃に、マリーゴールドが丸くなる。間の抜けた顔を一心に見つめるアザレアは、刃物を思わせるほど鋭さを宿していた。
「馬鹿始果!」
大声が響き渡る。悲鳴といっても十分な高さと鋭さ、悲しみを存分に孕んだ音色だった。ばか、ばか、と少女は涙声で拙い罵倒を繰り返す。言葉に合わせるように、両の拳で胸を叩かれた。相応の衝撃はあれど、痛みはない。けれども、暗い何かが打ち付けられた場所から広がっていく感覚がした。
「あっ、あん、た、わた……わたし、が……、ぅ、わたしが、ど、れだけ……っぅ、ぅう……」
鋭利な声は徐々に毀れ、ぼやけてにじんだものになっていく。まっすぐにこちらを睨めつける目はだんだんと下がっていき、ついには項垂れ見えなくなってしまった。丸い頭と細い肩が嗚咽に合わせて震える。ひたすらに痛ましい姿だった。
泣かないでください。思わずこぼれた声は、どこか己らしからぬ焦りがあった。あのグレイスがこんなにも泣くなど異常事態である。何より、いつだって幸せで在ってほしいいとしいひとが悲しみに濡れている様が胸を締め付けた。誰のせいだと思ってんのよ、とつかえつかえの涙声が返ってきた。
ぽたり、ぽたりと雫が少年の太股を濡らす。ず、と鼻を啜る音。俯いていたかんばせがゆっくりと上げられた。美しい瞳はまだ水気を含んで潤んでいる。けれども、雫となってこぼれる様子はなかった。ようやく泣き止んだらしい。まだ涙で濡れる頬を、黒い手がそっと拭う。普段ならば弾き飛ばす少女は、珍しくされるがままでいた。
「まったくもう……しっかりしなさいよ!」
少しだけ濁り震えた声とともに、胸をべちんと叩かれる。相応の実力の持ち主とはいえ、グレイスは肉弾戦とは縁遠い存在だ。渾身のものであろうが、痛みはほとんど感じない。けれども、心の臓がきゅうと締め付けられるような感覚がした。内臓に影響を及ぼす技術を持っていたのか、と感心する。それにしては鈍いものだけれども。
「……勝手に居なくならないで! ちゃんと傍にいなさいよね!」
躑躅の瞳が蒲公英の瞳を正面から射抜く。まだ潤んだペツォタイトは、真剣そのものだった。はっきりとした声には、鋭利な光を宿した瞳には、本心しか込められていないのがひしひしと伝わってくる。
グレイスの言葉に、始果は小さく首を傾げる。一体何を言っているのだろうか。己が彼女から離れることなどない。傍にいるなど当たり前のことだ――否、今回ばかりは離れてしまった。『飛びたい』という願望のために、勝手に行動してしまった。いとしいきみに届きたくて飛んだというのに、結果泣くほど怒らせてしまった。身勝手さに、身の程を弁えない愚かな己に、少年は顔をしかめる。
「分かったら返事!」
「はい。もちろん」
ひそめた表情を別の意味に捉えたのだろう、べちんともう一度胸を叩かれる。今度こそ、すぐさま返事をした。絶対よ、絶対だからね、と躑躅の少女は何度も繰り返す。この短い約束を反故させまいという気迫があった。
「ここ、まだ安定してなくて危ないのよ! 興味があるなら今度から私と行くこと!」
いいわね、と少女はびしりと指を突きつける。念を押すようにぶんぶんと振る様は、指揮者に似ていた。絶対よ、と更に言葉が飛んでくる。同じ言葉を繰り返す姿は、確固たるものをねだる幼い子どもに似ていた。
強く握り締め一本指だけ立てた可憐な手を、黒で彩られた両の手が包み込む。分かりました、と同じ言葉を、果たすべき約束の言葉を繰り返した。
やはり、届かない。
同じ景色を見たくて飛んでみたけれど、ついぞ彼女には届かぬままだ。やっと共に、隣に在られると思ったのに、仮想現実は仮想現実でしかない。
けれども、愛しい躑躅はこんな愚かな己に『傍にいろ』と言ってくれた。彼女の傍に在る。何よりの幸福だ。
その命はいつまで続くのだろう。いつまで傍に在ることを許されるのだろう。いつになれば、同じ場所に立てるのだろう。
不相応な考えだ。消すべきそれが、頭の中を巡り巡る。淀んだものが少年の心に深い影を落とした。
小さな手を包み込んだ大きな手に力が込められる。離れて飛び立ったのは己だというのに、この触れ合った場所から伝わる愛しい温もりを手放すのが酷く恐ろしく思えた。
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結って遊んで愛らしく【はるグレ】
結って遊んで愛らしく【はるグレ】
髪をいじくって遊ぶ推しカプは尊い。
これのセルフ三次創作です。
緑の上を流れる黒を一房すくう。手のひらに載せたそれに、少女は折りたたみ式のコームを当てた。根元から細い毛先まで、ゆっくりとした手つきで丁寧に梳いていく。時折、プラスチック製の歯が抜けると同時にすくった黒髪が逃げていきそうになる。それほどまで、なめらかでまっすぐとした毛であるということだ。あまりにも櫛通しが良すぎて、本当に整える必要があるのかと疑ってしまうほどである。癖っ毛の己ではまず味わえない感覚だ。少しの嫉妬を抱えながら、グレイスは長い黒髪を恭しさすら覚える手つきで梳いていった。
細いそれを全て整え終える。普段素早い動きに合わせ涼やかになびく黒は、いつにも増してツヤとなめらかさを持っているように見えた。一仕事終え、躑躅は小さく息を吐く。本番はここからだ。
広い背の中程まである長い髪を左右二つに均等に分ける。片方を両手で持ち、頭に沿う動きで上げていく。耳より拳半分ほど高い位置で手を止め、根元を握って固定する。傍らに置いたポーチに手を入れ、ヘアゴムを取り出した。細く小さなそれを、手で仮止めした場所からずれないよう注意しつつ縛っていく。しっかりと結い終えると、さらりとした黒い尻尾が姿を成した。同じ要領で、残り半分も結い上げる。毎朝自身で髪をセットしているだけあって、手つきはこなれたものだ。
結い終え、躑躅の少女は椅子に座りされるがままでいる髪の持ち主の前まで回り込む。カツカツとヒールが床を叩く硬い靴音は、どこか弾んで聞こえた。
尖晶石の瞳が正面から作品を眺める。常は首の後ろで雑にまとめた髪は、細いツインテールに生まれ変わっていた。毛量が少ないものの、するりと流れるような柔らかなストレートヘアであるためか美しい仕上がりになっている。ふふん、と少女は満足げに笑みをこぼした。
当人である髪の持ち主――始果は、不思議な様子で目の前の彼女を見ていた。きっと、髪型で遊ぶ楽しさが理解できないのだろう。日頃髪はおろか生活全般に頓着の無い彼だ、ジャケット撮影の度に様々なヘアスタイルを楽しむ女の子の気持ちが分かるはずなど無い。
鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な様子で、グレイスはツインテールの片方を手に取る。そのまま、長い結い髪をくるくると根元に巻き付けはじめた。ポーチからピンを取り出し、丸い塊となった黒に刺して留める。もう片方も同じようにまとめた。
一歩引き、マゼンタの瞳が依然されるがままでいる少年を眺める。細く長いツインテールは、小さなお団子頭へと様変わりしていた。ふふ、と桜色の唇から笑みと同義の吐息がこぼれる。満足げな、楽しげな響きをしていた。
手慣れた様子でピンを外し、そのままひっかからないよう注意しながらヘアゴムも取り払う。背へと戻ろうとする黒髪を小さな手ですくい取り、緑衣に包まれた肩にかけた。たおやかな指が、細いそれを更に細い三つの束に分ける。そのまま、するすると器用に編み込んでいく。ひとしきり編むと、ヘアゴムを使って留めて再び肩に掛けた。もう一房も手早く編んで肩にそっと掛けた。
再び一歩引き、目の前の彼を見やる。快活な様を思わせるお団子姿は、落ち着いたお下げへと変わった。どこか幼い印象を与える顔と黒く長い髪が相まって、異様に似合って見える。ふ、と閉じた口から吐息がこぼれる。ふふ、と漏れるそれは、あっという間にあはは、と高い笑声へと移り変わった。
「グレイス?」
「っ、ぅ、な、なに……?」
きょとりとした様子で名を呼ぶ狐に、躑躅はどうにか応える。口を押さえ笑いを噛み殺そうとするが、無駄な足掻きだった。三つ編み姿が妙に様になった愛しい人が、何だか面白くてたまらない。どんどんと込み上げてくる感情に、剥き出しになった薄い腹がひくひくと震えた。
「どうかしました……?」
「どっ、どうもしないわ、大丈夫よ」
あまりにも異常に映ったのだろう、心配げな様子でこちらを見つめる金色の目に、少女は軽く手を振って返す。しばしして、長い溜め息とともに湧いて出てくる笑いはおさまった。必死に堪えていたこともあってわずかに疲れを覚える。はー、とまだほのかに笑みが残る息を吐いた。
「すごいですね……」
肩に掛けられた三つ編みを片方手に取り、始果は嘆息するように漏らす。いつも自分で適当にまとめるだけの彼には、新たなヘアスタイルを物珍しく感じるのだろう。ジャケット撮影でも髪型を変えることが少ない少年にとって、矢継ぎ早に髪を結って変化させていくのは初めての体験だ。
「そう? 簡単なのしかやってないけど」
つややかな黒を眺める姿に、グレイスは小首を傾げる。結んだだけのツインテールに丸めるだけのお団子ヘア、分けて編むだけの三つ編み。どれもヘアゴムとピンさえあれば簡単にセットできるものだ。特に、ツインテールなんて位置を決めてまとめ上げるだけの手軽さである。常日頃から髪を結い、姉にも髪を結って遊ばれる己にとってはどれも朝飯前だ。
「こんなの慣れよ。慣れ」
「グレイスはいつも結っていますものね」
自身が持つ黒に向けられていた真ん丸な月色が、すぃと上がり眼前の少女へと向く。床についてしまいそうなほど長い毛先から、頭のてっぺんに近い位置にある根元まで、長いツインテールを金の視線が辿っていく。無感情にも見える瞳には、少しばかりの輝きが宿っているように見えた。
そうね、と少女は長い髪の中ほどを手の甲で軽くすくう。枝垂れ桜を思わせる長い尾がふわりと広がった。伸ばし続けている髪は、毎朝丁寧にブラシを入れ、毛量と頑固なくせに負けないようにしっかりと縛り上げている。最初こそ難儀したものの、今では半分寝ていてもこなせるほど身体に染みついてしまった。
「……あんたもやってみる?」
ふと頭に浮かんだものをそのまま口に出す。音となったそれは、何よりの名案に思えた。ふふ、とまた愉快げな笑みがこぼれる。どことなく浮かれた調子にも聞こえた。
代わって、と躑躅は狐の手を取り軽く引く。突然の出来事に、え、と目の前のお提げ頭が傾いだ。構わず、ほら、と一押しすると、従順な忍は音も無く椅子から立ち上がった。繋いだ手を支点にするようにくるりと回り、少女は入れ替わりで椅子に座る。そのまま、朝早くに起きて整え結い上げたツインテールを解いた。華奢な身を包み込むように、ふわふわとした髪が広がった。満開の桜の木を思わせるようなシルエットとボリュームだ。
「はい、これブラシとヘアゴム」
ポーチから大ぶりなヘアブラシを取り出す。つい先ほどまで鮮烈なアザレをまとめ上げていたヘアゴムと共に、目の前の少年に差し出した。事態を理解できないのか、彼は依然え、とこぼし首を傾げる。珍しく動揺をあらわにした様子に、どことなく愉快さと可愛らしさを覚える。柔らかな輪郭を描く頬が穏やかに綻んだ。
「私がやったみたいに二つに分けて、高い位置で留めればいいのよ。あんたも毎朝髪結んでるんだからできるでしょ?」
ほら、と整えやすいよう、長い髪を後ろ側にさっと流して軽くまとめる。それでも、癖の強い髪は花が開くようにふわりと広がってしまうのだ。まぁブラシで整えれば何とかなるだろう、と毎朝の己の行動を思い返しながら呑気に考えた。
「お願いね」
呆然と立ち尽くす始果に、グレイスはニコリと笑いかける。可愛らしいおねだりとも、早くしろという催促にも見えた。しばしして、分かりました、と少し強張ったらしくもない声が返ってきた。
音も無く少年は背に回る。沈黙少し、ほのかに暖かさを持ち始めた剥き出しの背を、涼しさが撫でた。中央あたりに感じたことから、髪を左右二つに分けたのだろうということが分かる。とりあえず片方だけ持ったのか、すぐに左側だけが温かさを取り戻した。うなじにほの冷たい手が触れる。分けた髪の根元に添えられたそれは、抱えるように髪をすくい上げた。
髪に何か触れる感覚。数拍、右側に少し引っ張られる感覚。ブラシを通したのだろう。癖のある髪は頑固で、歯を素直に通してくれることが少ないのだ。動きとともに傾いてしまう頭に、大丈夫ですか、と不安がうっすらと浮かぶ声が飛んでくる。大丈夫よ、と返すと、そうですか、とまだ暗さの残る声が後ろから聞こえた。
緩慢な動きでブラシが髪を撫ぜていく。そんな調子では梳く意味が薄い。おそらく、頭を引っ張ってしまうのが怖いのだろう。悲しいことに、癖っ毛である己の髪はこの通り櫛通しがあまり良くないのだ。自身のサラサラとしたまっすぐな髪しか扱ったことのない彼には取り扱いが難しかっただろうか。そもそも、愛する少女以外にはまるで興味がない男だ、ブラシなんてものを扱うのはこれが初めてなのかもしれない。
「ブラシ使うの難しいならそのまま結んでもいいわよ。後で適当に梳くわ」
「……分かりました」
助け船を出してやると、わずかな沈黙の後了承の言葉が返ってくる。どこか不服そうな、申し訳なさそうなとをしていたのは気のせいではないだろう。こと己に関しては変なところを気にするのだ、この恋人は。
半分に分けられた髪の根元を軽く握られる。そのまま、そろそろと恐れを孕んだ動きで頭頂へと持ち上げられていった。普段結っている位置まで辿り着いたところで手が止まる。掴むように根元に手が触れ、毛先が持ち上げられる。根元に当てたヘアゴムに、必死に長い髪を通していることが伝わってきた。器用で所作の素早い彼にしては遅い動きで、ボリュームのある髪がまとめ上げられていく。何度か通したところで、髪を取り扱う手が止まった。ふわりと広がる反対側を手がまとめる感覚。同じように、不安定な手つきで髪が結い上げられていく。普段己が行う何倍もの時間を掛けて、アザレアの髪が普段のツインテールへと姿を変えた。
「…………終わりました」
「ありがと」
不安の残る声で作業の終わりが告げられる。弾んだ声で礼を言い、躑躅は携帯端末を取り出し、カメラアプリを起動した。上部のバーをタップして、内側カメラに切り替える。床を映していた小さな画面に、モルガナイトが二つ輝く。
液晶画面に映ったのは、普段と同じようで少し違う己の姿だった。いつも同じ高さで綺麗にまとめられた髪は、今は高さがバラバラだ。結び方もどこかゆるく、時間が経てば崩壊して解けてしまいそうだ。長くふわりとした髪は扱いづらく全てまとめきれなかったのだろう、大きくさらけ出された背中にはまだ髪が何房も伝っている感覚が残っている。
初心者がやったのならばこんなものだろう。むしろ、取り扱いづらい部類の己の髪をこれだけ結えただけで十二分にすごいことなのだ。己でも、寝癖の強い日は扱いづらく感じることもあるのだ。他人がいわんやである。
「…………すみません」
「ちゃんとできてるじゃない。何で謝るのよ」
落ち込みすら窺わせる声で、始果は謝罪の言葉を漏らす。暗く濁った色など吹き飛ばすように、グレイスは普段通りのからりとした声で返した。事実、ちゃんとツインテールに仕上がっているのなら要件は十分に満たしている。なにより、『結んで』と頼んだのは己なのだ。彼が謝る必要性などない。
再び画面の中を見つめる。カメラが液晶に映し出す顔は緩んだものだ。過去の己が見れば、だらしがない、と叱り飛ばすような腑抜け具合である。しかし、どうしようもないことなのだ。だって、心の底から湧き出るこの感情が頬を、口を、目元を綻ばせるのだ。二人きりのプライベートな空間で、表情筋を無理矢理コントロールする必要性も無い。
ふふ、と少女は今日何度目かの笑みを漏らす。喜びと幸せが滲んだ温かな色を宿していた。
「ありがとね、始果」
首だけで振り返り、躑躅は所在なさげに後ろに立つ狐に再度礼の言葉を投げかける。シアンとマゼンタで構成された目は虹のように大きな弧を描き、言葉を紡ぎ出す口は穏やかに解けていた。
好きな人が己の髪を結ってくれた。大好きな人が己のためになれないことを頑張ってくれた。それだけでこの上なく幸せだ。
「……結い直した方がいいのではないですか?」
「何でよ。せっかくやってくれたのに」
きちんとセットしてくれたというのに、解けとは何事か。綻んだ頬が一転、空気を含んでぷくりと膨らむ。臆することなく、けれどもまだ不安を宿したまま、少年は丸くなった顔を見つめた。
「いつもきみがしているみたいに綺麗になりませんでしたから……」
やはり、元の形そのまましっかりと戻せなかったことがかなり気に掛かっているようだ。彼は己がいつも丁寧に髪を整えている姿を知っているだけに、尚更気になるのだろう。どれだけ申し訳なさそうにしても、三つ編み姿ではただシュールである。
「いいのよ。私が結うのより、始果がしてくれたのがいいの」
心からの言葉だった。早さや綺麗さだけを取るならば、自分で結うのが一番だ。けれども、それ以上に恋い慕う人が一生懸命結ってくれたことが嬉しくて、幸せで仕方が無いのだ。こんな宝物みたいなもの、『整っていないから』なんてどうでもいい理由で解くなんてあり得ない。
「……そう、でしょうか」
「そうよ」
疑問が残る声をこぼす忍の少年に、躑躅の少女は上機嫌に返す。いつもより床に近い位置にある長い毛を一房すくい、細い指に巻き付けて遊ぶ。ふわふわと揺れる癖のあるこの髪が、いつも以上に愛しく思えた。
「ねぇ、またやってよ」
少女は弾んだ声でねだる。最初はただの思いつきだったが、なかなかに楽しいではないか。もっともっとこの楽しさを、嬉しさを、幸せを味わいたい。警戒心の強い彼女が稀に見せる、甘えたな姿だ。
長い長い沈黙の後、はい、と消え入りそうな声が返ってくる。あまり気乗りしないことが丸分かりである。それでも最終的には了承するのが彼らしい。
「私でいっぱい練習しなさいよね」
「きみ以外の人の髪を結う事なんてありませんよ?」
「私の髪を結ぶことはあるかもしれないじゃない」
いっぱい練習して、綺麗に結べるようになりなさいよね。
いたずらげに笑いかけると、少年はぱちりと目を瞬かせた。はい、と返ってきた声は、どこか腑に落ちないような、それでいてほのかな幸せを孕んだ音色のように聞こえた。
二人きりの空間に、二輪の躑躅が咲き誇った。
畳む
邂逅:御伽噺の紅【神+十字】
邂逅:御伽噺の紅【神+十字】九月六日はcroiXの日!
ということで神様と十字さんの馴れ初め話。捏造しかないよ。俺設定の塊だよ。ご理解。
昔から本が好きだった。
紙とペンを介して知らない世界を、見たこともない世界を、見ることなんてできない世界を知ることができるなんて、この上なく面白い。この世にはまだまだ見たこと、聞いたことがないものが満ち満ちている。加えて幻想から生まれた物語までたくさんあるのだ。まだ何も知らない子どもが引き込まれるのは必然であった。
幼いながらも、きっと己が今いる小さな世界を出て行くことは難しいと察していたのも一因だろう。これ以上『外』を知ることはない。無意識が囁く度、少年はページをめくる。なめらかな指先が、抵抗するように紙を辿る。
様々な物語の世界の中でも、海を舞台にした冒険譚が特に好きだった。己が見ることのない世界を欠片だけでも理解できた気がして、どこか空虚な心が満たされるのだ。
そうして今日も、蒼い少年は書庫を訪れる。
カツンカツンと靴底に打たれる石床が音をたてる。昼下がりの施設内部は静かだった。今日は気持ちが良いほどの晴れ空だ。子どもたちのほとんどは外で遊んでいるのだろう。庭に近い本館に戻れば、その賑やかな声も聞こえてくるはずだ。
カツン。音が止む。青年はある扉の前で足を止めた。ところどころ塗装の剥げた古めかしいそれの上部、旗のように飛び出て掲げられた札には『書庫』と記されていた。
大して厚くもない扉をそっと開くと、埃の匂いが出迎える。ここに訪れるのは己ばかりだ。最近はその己すらも来る頻度が減っている。手入れするものがいない部屋に埃が住み着くのは必然だ。
ちらはらと舞う粒子を軽く手で払いながら、青年は奥へと歩みを進める。さほど広くない部屋の中ほど、子どもの背丈ほどしかない小さな書棚の前で止まる。薄く積もる灰色で汚れることも厭わず膝をつき、彼は手にした本を元の順番通りの位置に戻していった。ぎゅうぎゅう詰めに近い本棚は、持ってきたもの全てを戻し終えてもいくらか大きな隙間が残っている。誰かが本を借りていった証拠だ。子ども達が書物に触れているという事実に、心がふわりと満たされる。物語を愛する者が少しでも増えるのは嬉しいことだ。
膝を軽く叩きながら立ち上がり、今度は壁際に取り付けられた背の高い本棚に向かう。天井まであるそれは、大人でないと掃除の手が届かない代物なだけあって埃が積もりっぱなしだ。軽く払ってやりつつ、残った本を戻していく。胸に抱えられていた本は、どんどんと元の居場所へと帰っていった。
さて、と青年は室内を見渡す。今日は何を借りていこうか。とはいっても、子どもの頃から通い詰めていたこともあり、ここにある本はジャンル問わず大方読んでしまった。最近は昔読んだものの内容を忘れてしまったものを読み返すことが多くなっている。
とりあえず、と目の前の棚の中身をざっと見る。冒険譚、英雄譚、恋愛譚、詩集、郷土資料、図鑑、辞書。大人の背丈に合わせた書棚だけあって、子どもにはいささか難解なラインナップだ。どれも大人になる少し前には読んでしまったのだけれど。
喉が悩ましげな唸りを漏らす。幾許かの空白の後、骨張った指は郷土史を扱った書物へと伸ばされた。空想世界の物語を読みたいという欲求は、前回の貸し出しである程度満たされている。しばらく触れていないジャンルに手を出したい気分だった。それに、改めてこの土地を知るのは良いことだ。子どもたちに語り聞かせるためにも知識をつけておくに越したことは無い。
本と本の間から抜き取ったそれを適当に開く。埃とインクと古い紙の独特な匂いが混ざって香り立つ。嫌いなものではないが、少し鼻がくすぐったい。くしゅん、と小さなくしゃみが一つこぼれ落ちる。開いた蒼い目が、すっかりと変色してしまったページに向けられた。
Gott。
章題なのか、ページの上部を書き殴ったような筆跡でその四文字が占めている。大きな文字の下に書かれた文章を読み解くに、どうやらこの土地の紙に関する章のようだ。瞬き、細かな文を更に追っていく。
曰く、遠い昔にこの地を襲った災厄を払った神。村を救った神。語り継いで崇めるべき神。
そういえば、昔そんな話を大人から聞かされた覚えがある。随分と昔のことで、今ようやく思い出した程度のものだ。土地にまつわる御伽噺に食いつかないはずがない自分が忘れてしまっていたほどだ、よっぽど簡単に話されたのだろう。おそらく食い下がっただろうが、それでも何も覚えが無いあたり本当にただの短い言い伝えのようだ。
――紅い髪と目。真紅の外套と剣。その鮮烈な色は、血を思い起こさせた。
神が起こした奇跡とやらが書き連なる中、そんな一文が記されていた。歴史を記す書にあるまじき、あまりにも詩的な表現に思わず眉根を寄せる。そも、『血』など救ってもらった神に対して使うような形容ではなかろうに。昔の本にケチをつけても仕方が無いのだけれど。
他のページもぱらりとめくってみる。昔、大人から聞かされた話がいくらか見受けられた。わざわざ本に記そうとされたものだけあってか、昔口伝えで聞いたそれよりもずっと詳しい。中には初めて聞く逸話もあった。
ほんの少し読んだだけでも好奇心を刺激される、面白いと思えるものだった。今日はこれを借りていこう。きっとこの厚みでは数日足らずで読み終わってしまうが、他にめぼしいものもない。今回はこの一冊だけだ。
古い装丁がほつれてしまわないようにそっと脇に抱き、蒼は書庫を出る。家に帰る前に、書を借りた旨を台帳に記さねばならない。元々は書庫に備え付けてあったそれは、利用者の減少に伴い職員のいる部屋に移されていた。
そう広くない施設である、目的の場所に着くのはすぐだった。ノック三回、扉を開ける。中には、カップを手にした女性職員が椅子に座っていた。
「あら? 今日お休みでしょう?」
「はい。でも、借りていた本全て読んでしまったので返してしまおうかと」
突然の出現にかぱちりと瞬く彼女を尻目に、青年は台帳に書名を記す。掠れた表紙と背表紙からかろうじて読み取れるのは、村の名前と『記録』の文字ぐらいだ。少し悩んだ末、『郷土資料』とペンで書く。曖昧なものだが、正しい名前が分からないのだから仕方が無い。
「明日にすればよかったのに」
「散歩のついでですよ。それに、返せるものは先に返した方がいいですから」
真面目ねぇ、と笑顔でこぼす彼女に苦い笑いを返す。真面目も何も無い。ただ、済ませられるものを済ませていないと自分が落ち着かないだけなのだ。それを『真面目』と評価されるような性格と行動をしているのは、己でも理解している。
「で? 今日は何を借りるの?」
「今日はこれ一冊にしようと思いまして」
胸の前に本を掲げて答える。古い表紙に目を移した女性は、細目で厚いそれを見る。ようやく文字が読み取れたのか、あら、と小さな声を漏らした。
「郷土史の本? 随分と渋いわね」
「中身を見たら面白そうだったので。それに、己の住む土地を知るのは重要です」
「相変わらずえらいわねぇ」
そう言って彼女はニコニコと朗らかな笑みを浮かべる。温かな表情には、微笑ましさがにじみ出ていた。完全に子ども扱いをしている時の顔と声だ。幼い頃から世話してきた彼女らにとって、己はいつまで経っても『子ども』なのだろう。けれども、もう一人で暮らし彼女らと共に働く程度には自立しているのだ。この歳にもなって子ども扱いなど少々居心地が悪い。思わず、慈愛に満ちた目からふぃと視線を逸らした。
「……興味深い本です。じっくりと読みたいと思います」
「そうね、ゆっくり読んで。お休み、楽しんでね」
ではまた明日、と一礼し、青年は出入り口へと向かう。またねぇ、と柔らかな声に再び軽く礼をし、廊下へと出た。
カツンカツン。石床が音をたてる。遠くから子どもの声が聞こえる。元気に遊ぶ姿を眺めたい気持ちはあるが、今日は裏口から出て行くのが得策だろう。本を借り手にした今、元気いっぱいの彼らに遊びをねだられても付き合うことができない。悲しい顔をさせるわけにも、本を野外に置くわけにもいかなかった。
施設の裏側、林に向いた面に取り付けられた扉をくぐる。瞬間、飛び込んできた昼空の眩しさに思わず目を細める。雲一つ無い、太陽だけが存在する青い空。洗濯物がよく乾きそうな良い天気だった。
早く帰ろう。お茶でも淹れて、ゆっくりと読もう。それが最高の贅沢だ。
脇に抱えた知識の塊に思いを馳せながら、青年は自宅へと歩みを進めた。
パタン、と音をたてて厚い本が閉じられる。背もたれに体重を預け、青年は天を仰ぐ。ずっと文字を追っていた目を閉じ、外部刺激から逃げた。かすかに走る痛みを誤魔化そうと、目頭を軽く揉む。心地良さに、あー、と情けない声が漏れた。
目を開き、姿勢を正して時計に視線を移す。短針と長針の兄弟は、日付がもう少しで変わる頃合いだと告げてきた。思っていたよりも長く読んでいた、否、引き込まれてしまったらしい。はぁ、と重い溜め息を吐き出す。長い間同じ姿勢で目を酷使した疲労感よりも、知らない世界をめいっぱい楽しんだ充足感が強くにじんでいた。
今日借りた郷土資料は、端的に言うならば『当たり』だった。古い蔵書だけあってか、昔口頭で軽く聞かされた程度の話など比ではなく詳しく記されている。どれも言葉短ながら的確で、けれども読者を釘付けにするような文章だ。解説を主としているのにこれだけ読み手を文字の世界に引き込んでいくのだから、書き手は相当な手練れなのだろう。どこにも著者が書かれていないのが惜しいところだ。
相当数あるページと項目の中、特に力を入れて書かれていたのは『神』についてだ。昼に見た部分はほんの触りだったらしく、ページを追えば追うほど彼について深く掘り下げられていく。記された文は他の章とはまるで別人が書いたような熱量と表現力で、この項目だけ他と力の入れようが違うということがありありと分かる。それほど、著者はこの『神』に心酔していたようだ。
記された『神』については、幼い頃いくらか聞かされていた。村を襲った災厄を払ってくださった神様。村を助けてくれた神様。この書を読むまで忘れていたようなものだが、こんな熱の入ったものをぶつけられては俄然興味が湧いてくる。他の資料を読み漁りたいと思わせるほどだ。
気になったのは、『教会に祀られた』という一文だった。そういえば、そんな話を聞かされた覚えがある。けれども、村の外れにある教会は既に管理する者はおらず廃れた状態だったはずだ。あそこは古くて危ないから入ってはいけません、と子どもの頃に何度も言い聞かされたのを覚えている。大人の忠告は素直に受け入れる性質だったのもあり、今の今まで近づくという発想すら出てこなかった場所だ。大人になった今でも、森の奥にあるらしいそれを目にしたことは無い。そもそも、そこに至る道すら放置されているのだ。わざわざ草むらを掻き分けて廃教会を訪れようなんて考える人間はそういない。己も然りである。
神。救世主。伝説の存在。物語の主役。
そんな、己にとんと縁が無い非日常があそこにあるかもしれない。そう考えると好奇心をそわりと撫でられる心地がするのは、己がまだまだ子どもだろうか。否、こんなに熱のこもった文章を読んで興味を持たない人間の方がおかしい。当然だ。仕方の無いことだ。それらしい言葉を並べ立てる。こういうところがまだまだ子どもなのであることぐらい、自覚はあるのだけれど。
今日はもう遅い。明日に備えて寝るべきだ。閉じた本をそっとテーブルに置き、青年は身なりを整えランプの灯を落とす。暖色に包まれていた部屋は、一瞬で黒に包まれた。慣れた闇の中を進み、ベッドに入る。薄い布団を被ると、布地と綿の柔らかさとほのかな温かさが薄着の身を包んだ。
次の休みにあの教会に行ってみよう。大人になった今ならば、誰にも咎められないはずだ。
そんなことを考え、青年は目を閉じる。柔らかな寝具に包まれた身体は、眠りの海にゆっくりと浸っていった。
ザ、ザ、と草を掻き分ける音が薄ら暗い空間に響く。真昼間だというのに、木々が陽光を遮る雑木林は夕暮れのようなほの暗さだった。道なき道を進む不安もあってか、不気味さすら感じられる。幽霊の一人や二人出てきてもおかしくないのではないかなんてふざけたことを考えた。
長袖を着てきて正解だった。季節にそぐわない黒い生地は暑さと汗による不快感を覚えさせるが、こんな草むらを肌を出して進んでいくより何百倍もマシだ。そもそも、後者が愚かなだけである。草で肌を切ったり虫に刺される危険性はいくらかの我慢を重ねてでも排除すべきだ、と教えられていた。
ザ、ザ。同じ音が森の中に響いては消えていく。もう少しのはずだが、と辺りを見回す。のびのびと茂る木と我が物顔で地を埋め尽くす草に包まれた空間は、緑で染め上げられている。だが、その一色の中に濃い灰が点々と見えた。石畳だ。至るべき道を確信し、そちらへと足を伸ばす。隙間から草が生い茂り、埋まって土に同化しつつあるそれを辿っていく。カツン、と靴底が石を打つ音が葉擦れの中に落ちた。
カツン、カツン。石畳の上を靴音が歩いていく。跳ねていく。駆けていく。しばしして、目的の場所に辿り着いた。
そこは、聞いていたよりもずっと形を残していた。壁はもうほとんど塗装が剥げているが崩壊はしておらず、少しのひび割れを覗かせながらもきちんと役割を果たしている。ドアも木の地が見えきっているが、扉としての形を成して正面を向いていた。古ぼけた屋根のてっぺんに立つ十字架は輝きを失っているが、ここが『教会』という場所であることを雄弁に語っていた。
村外れの廃教会。幼い頃から行ってはいけないと言われ続けていた場所――あの本曰く、『神』が祀られている場所。
とくりとくりと胸が高鳴る。生まれもあって、『神』という存在を強く信じて生きてきたわけではない。信仰心なんてものもない。久しぶりの冒険と初めての場所に興奮しているのだ。この歳で、と呆れる己がいる。けれども、昔から冒険譚を読み漁っていた青年にとっては心震える風景だ。なんたって、物語に出てくるような『神が祀られた廃教会』が現実の存在として目の前にある。
石や段差で転ばないよう、しっかりと地を踏みしめて進んでいく。ザリ、と細かい土と石のかけらが踏まれる音が硬質な足音を彩った。
廃れた場所らしくもない、しっかりと存在と役割を主張する扉に手をかける。力を込めて押すと、ギィ、と蝶番が擦れる嫌な音が木々に包まれた世界に落ちた。歪むことなく簡単に開いてしまうなんて、これまた廃れた場所らしくもない。不躾な不満が心に湧いて出た。幻想に小さなヒビが入っていくような心地だ。
両開きの扉を完全に開く。古ぼけた厚い戸の向こうには、寂れた風景が広がっていた。左右に五列ずつ並ぶ長椅子は、埃を被って白んでいる。薄灰のなかに小さく散らばる茶は木のクズの色か、それとも壁の塗料か、破片か。どれにせよ、人が長らく訪れていないことは明らかだった。
埃くずたちが敷かれた空間、通路に当たる真ん中部分は強い色で彩られていた。ステンドグラスだ。これまた古ぼけているが、割れたり砕けた様子は無い。作られた時そのものと同じであろう姿で講堂を照らしていた。色とりどりの硝子は、木々の隙間から差し込む光を通して狭い聖域を彩る。本当に放置された場所なのか、と疑ってしまうほどの美しさだった。
その中に、紅があった。
色鮮やかな紅。よく晴れた夕焼け空のような紅。血のような紅。
目に焼き付くような紅で染められたヒトが、そこにはいた。
紅い影が、硝子の極彩色を背負った影が振り向く。布が重たげにひらめくのが見えた。
そこにあったのも、また紅だった。
磨かれたルビーのようにつややかな紅。熟れきったいちごのような深く鮮やかな紅。したたり落ちる鮮血のように澄んだ紅。
ひたすらに美しい紅と、視線がかちあった。
「――え? 人?」
声が重なる。紅い人影も、立ち尽くす己も、深い森での邂逅に驚愕していた。当たり前だ、こんな森の奥、それも村の子ならば『近寄るな』と言い聞かされてきた廃教会に自分以外の人間が来るとは思うまい。
「え? 何でニンゲンがここに?」
先に口を開いたのは紅だった。柘榴石の瞳も血の色をした口も丸く開いて、呆然としたように言葉を紡ぐ。自分が言った言葉ですら信じられないと言いたげな表情と声音をしていた。へ、とあがった音は疑問に満ち満ちていた。
「何で、って……」
好奇心、と正直に答えるのは抵抗があった。己も大概いい歳である。『本を読んで気になったから来た』だなんて幼稚な事実を口にすることなんてできない。それぐらいは弁えていた。
「貴方こそ、何故こんなところにいるのですか?」
場をやり過ごそうと、問いに問いで答える。普段子どもたちにはするな、と言い聞かせていることだ。破ってしまった罪悪感が胸を苛む。けれども、初対面の人間に幼稚な理由を馬鹿正直に話す勇気も、驚愕に溺れる中上手くはぐらかす方法も持ち合わせていなかった。こんな場所なのだから誤魔化しようが無いのだ。
そうだ、森の奥の廃教会に何故人がいるのだ。
紅い姿をじぃと見る。村では見たことがない顔と服装だ。焚き火のように真っ赤な髪の持ち主なんて村にはいないし、季節外れにも程があるロングコートとロングブーツをまとう人間も見たことがない。街の人だろうか。否、街の人間が少し外れにある村、その中でも外れにある廃教会に来るなんてことはまず無いだろう。では、旅人か。そうだとしても、こんな森の奥底を滞在場所に選ぶなど怪しい。あんなにも目を惹かれた色が、だんだんと怪しいものに思えてくる。
ただ、何か引っかかるような。
「何でって、だってオレ――」
当然だろうという調子で語り出した口がはたりと止まる。へ、とまた間の抜けた音。赤い口の中に尖った八重歯が覗いた。紅玉の瞳が、更に紅玉らしく丸くなる。え、え、と漏らす声はどんどんと上擦り大きくなっていった。
「ていうかオレのこと見えてる!?」
素っ頓狂な声で叫び、目の前の紅い男が駆け寄ってくる。バタバタと騒がしい足音が寂れた空間に響く。何だ、と一歩退くが、それも瞬時に詰められた。コートに包まれた腕が上がり、がっしりと力強く肩を掴まれる。鼻先がくっ付きそうなほど顔が近づく。紅が視界いっぱいに広がった。
「え!? マジで!? オレのこと見えてる!? 話せてる!?」
鮮烈な紅い瞳がまっすぐに蒼を射抜く。キラキラと輝くそれは可愛らしいさを思わせるものだ。同時に、吸い込まれて引き返せなくなるような魔力を感じさせた。とくりと心臓が音をたてる。何故だか分からないが、息を呑んだ。
「み、『見える』って何ですか。当たり前でしょう」
意味の分からぬことを矢継ぎ早にまくし立てる男に、青年は眉根を強く寄せる。目を細め、少しでも紅から逃げようとする。無意味だった。紅い紅い目が、己を見つめる。
人間を見ることを、人間と話すことをこれほどまでに騒ぎ立てるなど、怪しいにも程というものがある。もしや、気でも狂っているのだろうか。明らかな危険性にまた一歩退こうとするが、鷲掴むと表現するのが正しいほど力強く捕らえる手が許してくれなかった。紅い紅い目が、己を映す。
いや、だって、えぇと、と怪しさと危うさをまとった男は言葉をボロボロとこぼれさせる。何らかの説明はできるようだが、思考と言語化が追いついていないようだ。うぇ、とパニックに陥った子どものような声が聞こえた。紅い紅い目が、縋るように己を射抜く。
紅い髪。紅いコート。紅い瞳。廃教会。あからさまにおかしい、ヒトから外れた言動。
「――Gott?」
頭の中に浮かぶ点が、線で結ばれていく。形を持ったそれは、あり得ない事象を思い浮かばせた。馬鹿げたことを、と脳味噌は嘲笑う。けれど、単純な部分が声として吐き出し、空気を振動させ相手に伝達した。古い空間に、疑念と驚愕に満ちた声が落ちる。
姿形が似ているだけではないか。『神様』なんて馬鹿げている。だって、あれは昔話で。御伽噺で。ただの言い伝えで。『神』なんてものが目の前に存在するはずなどあり得ない。
けれども、目の前の紅はあの文献が記すそのままの色をしていて。
「――そう! そう!!」
己の馬鹿げた言葉に、目の前の男は顔をパァと輝かせる。そう、と肯定を意味する語を繰り返す声は上擦っており、興奮をよく表していた。声だけでは感情の発露が追いつかないのか、掴まれた肩を揺さぶられる。ぐらんぐらんと視界がぶれる。
「オレのこと信じてるやつ、まだいたんだな!」
感動すら感じさせる声をあげ、紅い男は掴んだ肩から手を離した。分厚い生地に包まれた腕が広げられ、目の前の黒い胸に飛び込む。そのまま、ぎゅっと抱き締められた。拘束する力は凄まじい。このままでは骨の一つや二つ折れてもおかしくないような力加減だ。ぅ、と苦しげな声が漏れる。押し退かそうとするが、どういう理屈がびくともしない。その間にも、込められる力は強まるばかりである。ミシ、と嫌な音が聞こえた気がした。
「ちょ、と、く、くるし、い……」
せめてもの抵抗で、脇をバンバンと叩く。込めることができた力は普段の半分にも満たないものだ。それほどまでに、拘束する腕力は恐ろしい強さだった。ごめん、と慌てた声。背に回された腕が離され、温度が離れていく。タン、と足音を立て、紅は飛び退いた。つい嬉しくてさ、と漏らす声はしょげたものだ。まだどこか浮かれた調子も見える。高揚感が隠せていない。
「ニンゲンに会うの、えっと…………かなり久しぶりだからさ。身体使うのも久しぶりだったし。ごめん」
もそもそと言葉を紡ぐ男の顔はどんどんと俯き、ついには地を見つめる。叱られた子どもの姿そのものだ。姿形はどう見ても大人のそれなのに、言動が完全に子どもである。そのちぐはぐさが、どこか不気味にも思えた。やはり怪しい。危険だ、と脳味噌が叫ぶ。けれど、足は動かなかった――ここから離れる気など欠片も湧いてこなかった。
「……本当に神なのですか?」
発してから、何と間抜けなことを、と己が罵倒する。そんな問い、肯定されても否定されても信用などできるはずがない。だって、『神』は御伽噺の世界の存在なのだ。この世にいるはずがない。そして、騙っていいものでもない。どう答えられようと、目の前の男を信用する要素など無い。
「おう!」
返ってきたのは、自信に満ち満ちた肯定の語だった。地を見つめていた顔がぱっと上がり、満面の笑みを咲かせる。腰に手を当て胸を張る姿は堂々としたものだ。神を騙るにしてはいささか児戯めいた行動だが。
でも、こんなにはっきりと肯定されて、当たり前のように言われては、何だか信じてしまいそうになる。姿形が本の通りだから。相手が肯定してるから。嘘なんて言っているように見えないから。たかがそんな要素だけで初対面の人間を、否、『神』を信じてしまいそうになるなんて、単純にも程がある。己はこんなにも馬鹿だったのか、と呆れを覚える始末だ。
けれど、目の前の紅は何よりも鮮明に語っていて。
「いやー、オレのこと信じてくれるニンゲンがまだいたなんてなー」
「……まだ信じてはいませんよ」
へにゃりと笑う紅に、蒼は警戒心をこれでもかとあらわにした声で返す。どんな感情で塗りたくろうと、移り変わる心からすれば言い訳でしかない言葉だった。
「ウソ」
そんな青年の様子を気にすることなく、男は短く告げる。ニィ、と真っ赤な口が意地悪げに弧を描いた。紅い紅い目が、己だけを一心に見つめる。
「だって、信じてるやつがいねーとオレ動物にすら見えねーもん。触れんのも無理」
そう言って、男は踏み出し再び距離を詰めてくる。今度は離れる余裕が無かった。呆然と垂れた手に、硬い手が重ねられる。手のひらと手のひらを合わせ、指と指を絡め、きゅっと握られ掲げられる。肌から伝わってくる感触は、温度は、確かに生き物のそれだった。
見える。話している。触れている。
男が言うことが正しいのならば、目の前の紅は『神』で、この現象は己が『神』なんて存在を信じている証左らしい。そんな馬鹿な、と心が呆れきった声をあげる。文献一つ読んだだけで『神』なんてものを信じるのか、己は。幼子よりも純粋で、単純で、思わず頭が痛くなる。
だが、あの本から言い知れぬ何かを感じ取ったのは本当だ。こうやって、休み一日潰して廃教会を訪れるほどには惹かれていた――御伽噺の『神』を求めていた。
「じゃ、今後ともよろしく」
「は?」
絡めた手をぱっと離し、紅い神は笑う。訝しげな声を漏らす青年に、何を言っているのだと言わんばかりに首を傾げた。紅い紅い目が、きゅるりと輝く。
「だって信じてくれてんだろ? 信仰してくれるんだろ?」
見つめる瞳は、こちらを信じ切ったものだった。初めて会った人間を心から信用し、確信し、当然のように語る。幼い子どもの行動だ。堂々としすぎて、当たり前のように振る舞われて、うっかり信用してしまいそうになる。
「い、や、信仰なんて……」
信仰などしていない。それどころか、未だに目の前の存在を『神』だと信じ切れてすらいないのだ。なのに、何故こうもはっきりと、常識のように言ってくるのか――存在しているのか。
目の前の紅が、己の心を明確に表していた。
えー、と男は不満げに唇を尖らせる。それもすぐに、まぁいいや、と切り替わった。表情がコロコロ変わるところまで子どもある。『神』はおろか、本当に大人なのかと疑ってしまう。
「信じてくれるやつがいるだけでじゅーぶんか」
ふっと目を細め、紅は、『神』は呟く。あれだけ狂喜し上擦っていた声は、平常らしい見た目相応に低いものになっていた。それが、どこか寂しさを誘う。輝き光る炎瑪瑙の中に、うっすらと影が差したように見えた。
「……存在できるようになってどうするのですか」
目の前の存在は『神』で、この世に確かに存在する。それはもう認めてしまおう。目の前の男が『神』を語る狂人であったとて、もう心は信じることに自然と傾いていた。
「正しくは顕現な。存在自体はずっとしてた。誰にも見えねーってだけで」
人差し指を立て、『神』は訂正する。彼にとっては重要な事柄らしい。それもそうか、『存在』を否定されてはいい気はしないだろう。
でも、見えないのに『存在』するんだなんて。それは本当に『存在』と言えるものなのだろうか。誰にも見えない。誰とも話せない。何にも触れられない。それは、『在る』と言っていいものなのだろうか。
「まぁ、どうもしねーよ。いつも通りここにいるだけ。変わんね」
ここがオレの居場所だからさ。『神』は語る。そういえば、彼はここに祀られているのだった。唯一の存在場所なのだろうか。いや、でも元は村を救ったという存在なのだ。村にいてもおかしくないのではないか。何故、人など来ないここにずっと『存在』するのだ。
「こんなに長く人がこね―ってことは、今村でオレのこと知ってるやつなんていないんだろ? ここから出てっても怪しまれるだけだって」
へらりと笑う男に、青年は唇を引き結ぶ。告げられた言葉は残酷ながら全くの真実だ。『村を救った神』の存在など、子どもが寝る前に軽く語り聞かされる程度のものである。純粋な幼子ならまだしも、現実を知ってしまった大人が信じているはずがない。それどころか忘れているだろう。あの書の存在を知るまで、そんな御伽噺を忘れていた己のように。
だからさ、と『神』は頬を掻く。眉尻を下げてはにかむ。紅い紅い目が、寂しげな色を見せる。
「たまに来て、村の話聞かせてくれね? 今どうなってるか全然分かんねーから気になるんだよな」
平和なままか、と『神』は問う。一応助けたもんは助けたもんだしさー、とまるで世間話をするかのように語る。内容はどう考えても狂人のそれだ。『神』と認めてしまった今は、信じる他ないが。
「……いいですよ」
「ほんと!?」
ずぃ、と目の前の身体が近づく。また鼻先が触れそうなほど距離が縮まった。相変わらずおかしな距離感に、青年は怖じ気づいたかのように一歩引く。『神』の距離感覚は人間とは違うらしい。
「あまり頻繁には来れませんけれど。話をするぐらいなら、いくらでも」
どうせ休みの日はまとめて家事をするか、本を読むかぐらいだ。訪れるのにいささか時間は掛かるものの、話をすることぐらい造作も無い。毎日子どもたちを相手にしているだけあって、何かを語るのは得意な方だ。
それに、もしかしたら昔のことを教えてもらえるかもしれない。文献にも書かれていないような、昔の話。神話の世界。未知の世界。想像するだけで知識欲が刺激される。利用するようで悪いが、それぐらいは許されるだろう。一応、己の『信仰』により『神』は顕現できているようなのだから。
「じゃ、約束な!」
紅い目が喜ばしげにきゅうと細まり、大きく弧を描き、笑顔を咲かせる。季節外れの向日葵のような、満開で、鮮やかで、存在感のある笑みだった。それもすぐに萎み、えっと、と彼は口ごもる。無骨な手が少し丸い頬を掻いた。
「……名前、なんてーの?」
「croiXです」
手短に名乗る。いつだったか与えられた己の名前は、長年名乗ってきたというのに未だにどこか違和感を覚える。そんな青年の様子など気にすること無く、男はくろわ、と復唱する。くろわ、くろわ、と紅は噛み締めるように何度も口にする。夕焼け色の頭が大きく縦に動いた。
「じゃ、よろしくな! クロワ!」
ずぃと大きく広げられた手が差し出される。あまりにも自然な姿に、思わず不用心に手を重ねてしまった。触れた瞬間、逃がさんとばかりにぐっと握られぶんぶんと振られる。随分と激しい握手だ。加減というものを知らないらしい。
「貴方は何と呼べばよいのでしょうか?」
「Gottでいいよ。名前ねーし」
「名前が無い……?」
当たり前のように告げられた言葉に、青年はゆるりと首を傾げる。名前が無い、だなんてどういうことだろう。何者にも名前は与えられるはずだ。『神』なんて崇め奉られる存在ならば尚更である。崇拝するものに名前が無くては困ってしまうではないか。
「明確な神格があるわけでもないしな。ただの神」
「そう、ですか」
「気にすんなって。神様なんてそんなもんだぜ?」
他にも名前ねーやつなんていっぱいいたし適当に呼んでたしな、と男は語る。歌うようなそれは、明るい響きに反して何とも寂しい現実である。かといって、自分一人ではどうすることもできない。目の前の『神』は『神』でしかないのだ。
「じゃ、またな。話、楽しみにしてるから」
男はひらひらと手を振る。紅い紅い目が己だけを見つめる。瞬間、鮮烈な紅は視界から消え去った。
え、と青年は声を漏らす。急いで辺りを見回しても、椅子の影を確認しても、扉の後ろを確認しても、あるのは古ぼけたそいつらとボロボロの壁ぐらいだ。手の甲で目を擦ってみる。けれど、晴れた視界は変わらない。あの紅がいない。
夢だったのだろうか。幻覚だったのだろうか。そうに決まっている。だって、『神』なんているわけがない。
けれども、この背には、この手には、あの温かな温度と確かなる感触がはっきりと残っていた。
呆然と正面を見やる。夕焼けに近い色をした陽光を受けるステンドグラスは、物言わず地面を鮮やかに染めていた。
畳む
#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀