No.158, No.157, No.156, No.155, No.154, No.153, No.152[7件]
年を過ごす蕎麦の音【嬬武器兄弟】
年を過ごす蕎麦の音【嬬武器兄弟】
2022年書き納め。嬬武器兄弟が蕎麦を食べるだけ。
今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
ぐらぐらと沸き立つ水面を眺める。そろそろだろうか、と考えていると、キッチンタイマーが高い音を出して予定時間になったことを知らせた。己の体感への信頼を少しだけ深めながら、烈風刀は鍋つかみに手を通す。パスタ鍋の取っ手を持ち、中身をザルにあける。ベコン、とシンクが不満げな声をあげた。
軽く湯切りし、菜箸を使って二人分の丼に分ける。別の鍋で作っていた出汁を麺が入ったそれに注ぎ入れた。澄み切った美しい出汁の色、蕎麦の濃灰色のコントラスト、立ち上る温かな香り。どれも胃を刺激するものだった。くぅ、と腹の虫が鳴き声をあげた。
トースターから海老天を取り出し、キッチンペーパーを敷いた皿に載せる。出来合いのものはあまり買うことはないが、毎年この日だけは買うのが通例になっていた。家中の大掃除で忙しい中、揚げ物をする余裕など無いのだ。
「烈風刀ー、風呂掃除と玄関の掃除終わったー」
ガチャリ、とリビングのドアが開く。覗いた朱は、疲労が滲んだ色をしていた。散らかりに散らかった自室の掃除をようやく終えた身体には辛いものがあったのだろう。日々何度も何度も掃除しろと言っても無視して過ごし、事前に決めた掃除分担に異論を唱えなかった彼に同情する余地はないが。
「あっ、蕎麦できた?」
「ちょうど。海老天とお箸持って行ってください」
キッチンを覗き込み、雷刀は弾んだ声をあげる。輝く紅玉の中にはもう疲労の色は無かった。分かりやすい反応に、思わず小さく笑みを漏らしてしまう。誤魔化すように天ぷらの載った皿を差し出した。
りょーかい、とこれまた弾んだ声。皿を受け取った兄は、軽快な足取りでリビングテーブルへと向かった。カチャカチャと箸を用意する音が聞こえる。少し重い丼を二つ手に持ち、烈風刀はキッチンを出る。箸が並べられた机に年越し蕎麦を置いた。
「いただきまーす」
「いただきます」
所定の位置に座り、手を合わせる。食事の挨拶をしたところで、同時に箸を持った。赤い箸が海老天を引っ掴み、大きく開いた口に入れる。青い箸が出汁の中揺蕩う蕎麦を掴み、そっと口に運ぶ。サクン、と小気味よい音と、ずるる、と豪快な音が暖かな部屋に響いた。
珍しく言葉を交わすことなくひたすらに食べ進めていく。昼ご飯はきちんと食べたが、その後休む間もなく動き回ったせいで腹が空いていた。そろそろ痛みを覚えるような頃合いだ。そんな胃腸に、温かな蕎麦と熱々の天ぷらは最高のごちそうだった。
「今年も色々あったなー」
呟くようにこぼし、雷刀はずぞぞ、と蕎麦を啜る。そうですね、と烈風刀は海老天を出汁に浸しながら応えた。
「バトル大会に新シーズン、アリーナバトルにメガミックスバトルに……、あとは……」
「プロリーグも始まったしな」
二人で出し合ってようやく数えられるほどの出来事があった。毎年ながら激動の一年だ。特に新シーズンは様々な機能追加が一気に行われたため、忙殺という言葉では済まされないほど忙しかった。そろそろ誰か過労で倒れるのではないかと毎日気が気でなかったことは強く覚えている。
「来年は何したい?」
「そうですね……」
ずるずると麺を啜る兄から視線を外し、弟は宙を眺める。手にした箸が迷いを表すように小さく揺れた。
「もう少しアリーナバトルに力を入れたいですね。最近腕がなまっている気がするので」
それはもう激動の日々だった。おかげで、アリーナバトルに赴く頻度は減っていた。行く暇など無かったのだ。バトル大会に向けて特訓した日々はあったものの、やはり時間が経つとなまっているのではないかと不安が湧いてくる。きちんと腕は磨いておかなければならない。いざという時愛しい少女を守れないなんてことがあってはならないのだ。
「お? じゃあ久しぶりに手合わせする?」
剣を構えるように箸を突きつけ、雷刀はニッと笑う。瞳には愉快さと闘志が宿っていた。行儀が悪いですよ、と碧が鋭い視線を送る。へーい、と朱はきちんと持ち直した。
「まっ、オレが勝つけど」
「今のところ僕が勝ち越しているんですが?」
「引き分けの間違いだろ?」
交わす言葉は鋭さを宿していた。それこそ、手合わせの最中のような声色だ。眇められた朱と碧がふっと解け、同時に笑みをこぼす。一転、穏やかな空気が二人を包んだ。
「お正月が明けて落ち着いたらお願いします」
「任せとけって」
また二人で蕎麦を啜る。出汁に浸した海老天は、すっかり水分を吸ってふにゃふにゃになっていた。トースターで温めたてのサクサクも美味しいが、汁を吸ってふにゃりとした衣も美味しい。どちらも楽しめるのが、各々好きなタイミングで載せる今のやり方だ。
「来年もよろしくお願いします」
「よろしくなー!」
烈風刀は衣が剥がれ落ちそうな天ぷらをそっと箸で持ち上げる。雷刀もまた、尻尾だけになった天ぷらを持ち上げた。あ、と二人同時に口を開ける。箸に捕らえられたそれらは、大きく開かれた口の中に吸い込まれていった。
パリン、と固い音が夜が降りきった世界に響いた。
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躑躅色飾る夜【はるグレ】
躑躅色飾る夜【はるグレ】
サンタグレイスちゃんクルー本当に可愛いよねってのとウキウキでサンタクロースやるグレイスちゃん可愛いよねって感じのはるグレ。
メリークリスマス!
白いフェイクファーで彩られた手が銀色に伸びる。冬夜の空気に晒された金属は、凍っているのではないかと疑うほど冷たかった。鈍く光るノブを握り、音をたてないようにゆっくりと回す。横向きの長いそれを下ろしきり、おそるおそるといった調子で引く。普段の彼女からは想像できないほど慎重な手つきをしていた。
傷が付いた扉の向こうは、ほんのりと明るさを持っていた。きっとカーテンを閉めていないのだろう。部屋の主は日常に関わる全てにおいて無頓着なのだ。
細く開けたドアの隙間から、滑り込むように身を差し込み中へと入る。室内は廊下と同じくひやりとした温度をしていた。寄宿舎の各部屋にはエアコンが備え付けられているが、彼が使っているとは到底思えない。予想通りの様子に、緊張で張り詰めた胸に少しの安心が落ちた。
これまた音が鳴らないように注意しながら戸を閉め、少女は薄明かりの中そろそろと足を進めていく。摺り足と表現するのが相応しい動きだった。部屋の床は硬いフローリングである。硬質なヒールが打つ高い音が鳴らないように気を付けねばならないのだ。本当ならば音が鳴らないようなものを履いてくるべきだが、それでは格好が付かない。今日はきちんと着飾らねばならないのだ。
「グレイス?」
二歩進んだところで、すっと影が差す。すぐ近く、目の前から己を示す響きが飛んできた。突然の出来事に、思わずぴゃっと悲鳴をあげる。黒い編み上げブーツで彩られた足が一歩退く。カツン、と高い音が薄闇の中に落ちた。
「ねっ、寝てなさいよ! 何時だと思ってるの!」
「寝ていましたよ。ただ、きみの気配がしたので」
夜中だということを忘れ、グレイスは大声をあげる。部屋の主であり目の前に立つ始果は当然のように言葉を紡ぎ、小さく首を傾げた。気配って何よ、と躑躅の少女は苦い顔をする。彼は忍であり、気配に敏感なことは知っている。それでも人を識別できるだなんて、一体どういう理屈なのだ。疑問渦巻く少女の顔に、不思議そうな色を宿した瞳が向けられた。
「とにかく、ちゃんと寝てない子のところにはサンタは来ないわよ」
悔しまぎれに少し意地の悪いことを言ってやる。返ってきたのは残念そうな声ではなく、さんた、と感情の無い復唱だった。
「さんた……とは何でしょうか?」
「え? サンタはサンタでしょ? あんた、サンタを待ってたんじゃないの?」
不可思議そうに首を傾げる少年に、少女は驚いた声をあげる。彼の後ろ、無機質なベッドへと急いで視線をやる。枕元には、ビビッドな色をした大きな靴下が吊り下げられていた。クリスマスの夜、サンタクロースからのプレゼントを待ち遠しく過ごす子どもとまるきり同じ姿だ。だというのに、何故サンタを知らないというのだ。
つられるように、カナリアの瞳がマゼンタと同じ方向に向けられる。ベッドのすぐ脇に注がれたそれに、あぁ、と合点がいったような声を漏らしたのが聞こえた。
「くりすますはこうするときみが来てくれるのでしょう?」
それが常識であるかのように始果は言う。ぱちりと瞬く目は純粋な色で、疑うことなど全くしていないものだ。ぅ、とグレイスは小さく喉を鳴らした。
クリスマス。サンタクロース。靴下。プレゼント。
全てはネメシスに来て初めて迎えた冬、レイシスが教えてくれたことだ。クリスマスの夜、枕元に靴下を吊しておくとサンタさんがプレゼントを入れてくれるんデスヨ、とにこやかに語る薔薇色の姿は今でも覚えている。事実、クリスマスの翌朝、吊り下げた靴下の中に大きなプレゼントが入れられていた。不思議な現象に驚いたことは記憶に新しい。
けれども、それはサンタクロースという謎の人物によるものではなく、姉の仕業だということはとうに理解していた。後でからくりを知った時は少しの落胆を覚えたが、今では別の感情を宿している。心弾むこれは、きっと楽しさというのだろう。
「とにかく! サンタが来てあげたわよ!」
透き通る肌をした手を胸にかざし、躑躅は高らかに言う。自信満々な音色と大きく鮮やかな瞳は、黒の世界に散りばめられた星々と同じほど輝いていた。
サンタクロースの役割が与えられたのは、ネメシスで過ごす二度目の冬のことだ。トナカイのカチューシャと赤を基調とした衣装、そしてプレゼントがたっぷりと詰められた大袋で身を飾り、同じくサンタになった双子兎と夜を駆け回ったのだ。どの家にも煙突がなくて慌ててしまったことは未だに記憶に残っている。少し苦い思い出を頭の隅に押しやり、少女はふふん、と楽しげな笑い声を漏らした。
今年も冬がやってきた。つまり、またサンタの役割を果たす日が来たのだ。だから普段は眠っているこんな夜中に部屋を抜け出してここを訪れたのだ――プレゼントを渡すべき彼は起きてしまったのだけれど。
肩に担いだ大きな袋を床に置く。口を縛る長いリボンを解き、中に手を入れる。もう残り少なくなったプレゼントの海から目的の物を取り出す。なめらかな手に握られているのは、深緑の箱だった。細長いそれの頭には、真紅のリボンが蝶々結びで巻いてある。クリスマスをよく表した彩りをしていた。
「はい、クリスマスプレゼント。寝てない悪い子だけど、特別にあげるわ」
ふん、と鼻を慣らし、グレイスはこちらを見下ろす始果の胸に緑を押しつける。普段は手甲に包まれている硬い指が、柔らかな手ごと箱を包み込んだ。びくん、と少女は思わず小さく跳ねる。急いで指を離し、プレゼントと大きな手から逃げた。
「開けてもいいですか?」
「……いいけど」
少年の問いに、小さな了承の言葉が返される。節が目立つ手が、シックな色合いをしたリボンと包み紙を解いていく。彼にとっては少し小さめのそれに触れる手つきは丁寧でどこか愛おしげなものだ。開けたところでこんな闇の中見えるのだろうか、と些末な疑問が湧き出る。妙に夜目がきくから見えるのだろう、と一人結論づけた。
壊れ物を扱うかのように、忍の少年は緑に包まれていた白い箱の蓋をゆっくりと開ける。中から現れたのは、紙の緩衝材の中横たわる瓶だった。透明で厚いそれは、たっぷりの液体とピンクで満たされている。薄闇の中でも鮮やかな色合いは存在感を放っていた。
「……花ですか?」
「ハーバリウムよ」
はーばりうむ、と狐は復唱する。予想通りの反応に、知らないわよねぇ、とこぼしてトンと瓶を突いた。
「保存のきく花よ。あんたの部屋、殺風景すぎるのよ。飾っときなさい」
忍の少年は物への執着が全くと言っていいほど無い。彼が身を寄せる寄宿舎の一室は、備え付けの家具と己が持ち込んだクッションしかないのがそれをよく表していた。殺風景という言葉では足りないほどの様相である。少しぐらいは日常に彩りを求めるべきだ。
それに、彼が躑躅咲く植え込みを眺めている姿を学内で何度か見かけた。きっと花が好きなのだろう。だから、鮮やかなピンクの花が詰め込まれたこれを選んだのだ。
はい、と呟くような声で応え、始果は瓶に指を滑らせる。彼の背から差し込む月光を受け、透明なガラスがほのかに輝いた。
「……まぁ、安いやつだからそんなに日持ちしないけど」
保存がきく、と言ったものの、ハーバリウムの寿命はあまり長くない。安物ならば尚更だ。本当ならばよくもつ良い物を選びたかったのだが、学生の身でありナビゲーターとして日々活動する己の財布事情はいいとは言い難い。アルバイトをしたものの、四人分ともなると保存期間が長い上等なものを選ぶのは難しかった。結局、少しチープなもので済ませてしまったのは悔しいことである。
少女の言葉に、少年は首を傾げる。薄闇の中、月光を背にした顔はきょとりとしていた。
「はーばりうむには値段が関係あるのですか?」
「あるでしょ。高い物の方が綺麗だし保存がきくもの」
「そうなのですか……」
とっても綺麗なのに、と狐は呟く。高いのはもっと綺麗よ、と躑躅は思わず返す。言葉にすると、やはり後悔が胸を襲う。音にならない唸りが細い喉から漏れた。
くるりと振り返り、忍は窓辺へと向かう。カーテンが開け放たれたまま、月明かりを部屋に注ぎ込むそれの脇、備え付けのシンプルな机にガラス瓶をそっと置いた。差し込む柔らかな光を受け、花弁の色が薄く滲む影が木製の天板に落ちた。
「大切にしますね」
「そうよ。ちゃんと飾っときなさいよ」
ふわりと笑う始果に、グレイスは呆れたように返す。はい、と優しい響きをした声が二人きりの部屋に落ちた。
脇に置いた大袋の口を縛り直し、少女は白いそれを肩に担ぐ。中身はだいぶ減ったものの、あまり力の無い己の身体には少しの負担を感じる重さをしていた。ふぅ、と思わず疲労が滲む溜め息を漏らした。
「じゃ、もう寝なさいよ」
「……グレイスはまだ寝ないのですか?」
「レイシスの部屋に寄ってから寝るわ」
一日かけたサンタの役目はまだ残っている。最後にクリスマスやサンタクロースを教えてくれた――そして、己にとって初めてのサンタクロースになってくれたレイシスの元にプレゼントを届けねばならない。彼女はいつも、特に妹のように接してくる己に対しては与える側にばかり回っている。たまには与えられる側に回るべきである。何より、お返しがしたいのだ。あの喜びに溢れた日をもたらしてくれた姉に。
そうですか、と少年はこぼす。どこか不満げな音色をしているように聞こえた。彼は少し過保護なきらいがある。こんな遅くまで起きているのが気に入らないのだろうか。それはお互い様だというのに。
「おやすみ。ちゃんと寝なさいよ」
「はい。おやすみなさい」
ひらひらと手を振り、躑躅は部屋を出る。冷えた冬の空気が剥き出しになった肩を撫でた。小さく震え、少女は歩き出す。ポケットに手を入れ、中に合鍵が入っていることを今一度確認しつつ廊下を進んだ。
サンタクロースの夜はもう少しだけ続く。
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おなかはとってもしなやかだから【ライレフ/R-18】
おなかはとってもしなやかだから【ライレフ/R-18】
オニイチャンにお腹ごちゅごちゅ突かれて「ぅえ、やだ、むり、おなかやぶれる」ってグズグズ泣いちゃうつまぶきれふとくんはかわいい
肉と肉がぶつかる音が薄闇に響く。注挿が行われる度、粘ついた水音が結び合わさった場所からあがった。淫らな音が鼓膜を震わせ、腰骨から脊椎を凄まじい刺激が駆け抜けていく。脳味噌に叩きつけられたそれは、快楽というラベルが貼られていた。
下腹部同士がぶつかりあうと同時に、腹の奥底をノックされる。否、ノックなんて可愛らしい言葉では済まない。叩きつける、殴りつける、と表現した方が相応しい勢いと強さをしていた。それこそ、今まさにぶつかっている壁を破らんばかりに。
「ヒッ、ぁ……ぅあッ、あ、あっ」
ごちゅん、と腹の突き当たりをめいっぱいに抉られ、烈風刀はひたすらに甘い声をこぼす。脳天が痺れるような快感が身体中を駆け巡っていく。思考全てを消し飛ばすようなそれに、動くことすらままならない。こんな多量の法悦を与えられて、もう人間としてまともに動けるわけがなかった。許容限界を超えんばかりの悦楽を逃がすようにとろけた目から涙を流し、声帯を震わせ艶めいた声をあげるのが唯一できることである。
熱塊が肉洞を穿つ。張り出た部分が柔らかな襞をこそぎ取るように擦り、固く張り詰めた先端が行き止まりを叩く。鍛えられた腹を破かんばかりの勢いだ。このまま力いっぱい突かれていれば、本当に破れてしまうかもしれない。官能に染まりきり思考力がゼロになりつつある脳味噌があり得ない妄想を生み出す。途端、甘い快楽が走り続ける背筋を恐怖がなぞった。
「ぃっ、や……だぁ……、ぁっ、おなか、やぶれ、るっ、ゥう……」
単音を奏でるだけの嬌声の中に、ようやく意味を持った言葉が混ざる。眦から絶え間なく涙をこぼしながら言う様は、子どもが怪談話に怯えるような可愛らしさがあった。同時に、雄の欲望を煽るような艶めきがある。この場ではどちらが意味を成すかなど、火を見るより明らかだ。
快楽と恐怖が混ざり合った喘ぎを漏らす中、音が鳴るほど激しかった腰使いがぴたりと止まる。ようやく淫悦の嵐が止み、碧は荒い息をこぼす。酸素を補給する役割を果たす口と喉は快楽を謳い上げるばかりで、呼吸という人間として必要な行動をろくに行えずにいた。全力で身体を打ち付けられ揺さぶられていたのだから尚更である。法悦に沈められ酸素が足りない脳味噌は、性感が湧き上がらせる涙が膜張る瞳は、世界をぼんやりとしか認識できなかった。ただ一つ、目の前の朱だけをはっきりと認め、求めている。
短く整えられた爪が食い込むほど鷲掴んでいた手が腰から離される。筋が目立ち始めたそれが、縋るようにシーツを握っていた己のものと重ねられた。そのまま優しく握られ、布地の上を、肌の上を滑るように導かれる。辿り着いたのは、己の腹の上だった。多量の汗と絶えずこぼす先走りでべたべたになったそこに、重なった二人分の手が添えられる。
握る手に力が込められ、ぐ、と手を、腹を押される。ほんの軽いものとはいえ、襲う圧迫感が苦しみをもたらす。それ以上に、うちがわに迎え入れた雄の存在を強く知らしめてきた。この腹に愛しい人を受け入れているのだと再認識した瞬間、ぶわりと汗が、熱が湧き出る。愛する人を咥え込んだ後孔が吸い付くようにきゅうと窄まる。さんざっぱら荒らされた腹の奥がじんと甘い疼きを覚えた。
「ほら、烈風刀のお腹はこんなに丈夫なんだぜ? これぐらいじゃ破れねーよ」
ぐ、ぐ、と強度を確かめるように何度も腹を押される。鍛えられた腹は、手如きが与える負荷など反発し確固たる硬度を誇ってくる。これしきのことでは破れはしない、と訴えてくるようだった。
だいじょーぶ、と雷刀は笑みを含んだ声で唱える。安堵させるように、散々揺さぶられて乱れあらわになった額に口付けが落とされた。ちゅ、と性の匂いが立ちこめる空間に相応しくない、児戯めいた可愛らしい音色が降ってきた。
分かっているのだ。この程度のことで腸は、筋肉は、脂肪は、皮膚は、突き破られたりしない。けれども、まともな判断能力などとうに失ってしまった思考は一度湧き出た不安を払うことができなかった。突き破られてしまうなんて幼稚な恐怖を覚えるほど、律動は激しく穿つ雄は鋭く硬いのだ。
「だから、いっぱいきもちよくなりな?」
眼前の夕焼け色が三日月を形作る。八重歯が覗く大きな口、その端がニィと擬音が聞こえてきそうなほど吊り上がる。優しく柔らかな言葉と正反対の、凶暴な獣を思わせる姿だった。どれだけつがいを慮ろうとも、獰猛な本性が隠せていない。
ようやく呼吸を安定させ始めた喉が引きつった音をたてる。こんな表情を目の前にして、捕食者に見定められて、食われることを宣言されて、『大丈夫』なんて優しい言葉は吹き飛んでしまった。新たな恐怖が湧き起こる。腹を突き破られ、骨まで残らず食い尽くされる恐怖が。
同時に、侵入者を咥え込んだ内部がきゅうと締まる。離すまいとしかりと捕らえ、肉襞が蠢き奥へと誘う。全て食らってください、とねだるような動きだった。どれだけ恐怖を覚えようと、身体は与えられるであろう快楽を貪欲に求めた。
押しつけられていた腰が退いていく。浅ましくも寂しさを覚えた瞬間、ばちゅん、と肉に肉が叩きつけられる音が部屋に響き渡った。音を認識するより先に、身体全てを支配するような衝撃が脳味噌を揺らす。目の前に光の粒が舞う。
「ぅっ、あ、アッ! あァッ!」
凄まじい衝撃に、烈風刀は鋭い叫声をあげる。悲鳴と同義の響きだ。けれども、そこにはとろけきった甘さがふんだんに含まれていた。身体を、内臓を直接揺さぶられたことが原因ではないのがはっきりと分かる音色をしていた。
ゴリゴリと音が聞こえてきそうなほど、柔らかな肉筒を硬い雄根が擦り上げていく。傘になった部分が解れきった内壁全てを刺激し、充血し確かなる硬度を誇る先端が奥底、行き止まりの壁を穿つ。勢い良く注挿し奥の奥を抉る様は、腹を破かんとせん動きにしか思えなかった。それでも、兄の行動全ては受容しきれないほどの快楽を生み出す。聡明な頭を強烈なピンク色に染め上げていく。きもちいいことしか認識できないように書き換えていく。
腹に置いた手に、明らかに揺さぶられる以外の感覚が伝わってくる。うちがわを荒らし回る存在を、そとがわから認識させられる。突き込まれる度、支配者の形に腹が膨れ形を変えているような感覚に陥った。腹を破られることも、腹が膨らむことも、腹が形を変えることもあるはずがない。理性は冷静に説いただろう。もっとも、今その理性は法悦の波にさらわれ姿を消してしまっているのだけれど。
「ア、やだぁっ! らいと!」
「だいじょーぶッ」
制止を訴えようと、勝手に震える声帯をどうにか制御して恋人の名を呼ぶ。それも、信憑性など欠片も無い言葉で切り捨てられた。そもそも、紅潮しとろけきった泣き顔で、淫欲に溺れきった甘ったるい声で、従順に腹に手を添えたままの姿で、獣の動きを制止できるはずなどない。余計に欲望を煽り、情火に燃料を注ぐだけだ。
ごちゅん、ごりゅん。潤んだ粘膜を肉槍が穿っていく。繊細な肉を、大切な場所を、雄が蹂躙していく。恐怖を生み出す律動だ。それ以上に、肉の悦びを叩き込み、人間らしい部分を一切合切奪い去る腰使いだ。きもちいいことばかりをぶちこんで、動物としての本能を剥き出しにしていく。人間らしさなどこそぎ落とし、獣としての欲求だけにしようとしていく。
あ、あ、と碧はひたすらに声をあげる。それしかできなかった。受容限界を超える官能を止むことなく浴びせられて、能動的に動くことなどできるはずがない。突かれた奥底から湧き上がるきもちよさが勝手に声帯を震わせ、呼吸のために開かれた口が勝手に嬌声を奏でるだけだ。
動かすことができずに添えたままの手は、腹の中身を抉られる感覚を絶えず訴えてくる。愛するつがいがどこまで侵入しているのか、支配されるべき肉食獣にどこまで食らわれているのか、つぶさに報告してくる。おかげで、咥え込んだ雄を余計に意識してしまう。どれほど深くまで繋がっているかを教え込まされる。どれほど快楽を求め穿ってくるのかを教え込まされる。ただでさえきもちがいいというのに、もっともっときもちがよくなってしまう。愛し人を迎え入れた肚は、歓待するようにきゅんきゅんと収縮を繰り返した。
ごちゅん、ぶちゅん。狭穴に肉茎が突き立てられる。太い異物をめいっぱいに咥え込んでいる場所は、痛ましいほどに真っ赤に膨れていた。だというのに、二人分の淫液に濡れて艶めく様を見て湧き出るのは淫らの一言だけだ。献身的なまでに恋人を根元まで受け入れ、猥雑なる音を奏でる結合部は、筆舌つくしがたいほど卑猥であった。
隘路の突き当たりを一心不乱に穿たれる。やはり、腹を破らんとしているとしか思えなかった。少なくとも、奥の奥、突破されてはいけない壁をぶち破らんとしているのは確かだ。だって、そこは一番きもちよくなれる場所なのだから。
恐怖と期待が胸に渦巻く。内部から身体を破壊される恐ろしさ。脳味噌が使い物にならなくなるほどのきもちよさ。凄まじい情動がぐちゃりと混ざるも、全て孔悦によって吹き飛ばされる。できることなど、己を食らいつくさんとするけものに身を預けることだけだ。
槌を打ち付けるように、秘められた襞を剛直が穿つ。ごつん、ぐぷん。受け入れる側の負担など一切考えていない動きで欲望で熱された刃を突き立てる。理性が残っていれば、互いに多少はセーブできただろう。理性など一欠片も残っていないから、こんな生殖本能に支配された動物のようにまぐわっているのだ。
ごぷん、と腹の一番奥から音が聞こえた気がした。
「――――ぁ」
バチバチと電流が背筋を駆け上がる。脳まで上り詰めたそれは、全貌が見えないほどの快楽を全力でぶちこんだ。
ビクン、と組み敷かれた白い身体が跳ねる。同時に、屹立を咥え込んだ場所がきゅうぅと強く締まった。侵入者を逃がすまいとする動きだ。支配者に更なる蹂躙をねだる動きだ。悦びの頂に達したのだと主張する動きだ。
唾液で塗れた唇がぱくぱくと動く。明朗に言葉を紡ぎ上げるそこから声が発せられることはなかった。人間の基礎たる発生方法すら消し飛ばすほどの衝撃だった。これでもかと見開かれた目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。受容限界を超えた悦びを逃がす姿だった。身体全てを支配する悦びを謳い上げる姿だった。
朱い目が細められる。荒い息をこぼす口が引き結ばれる。ギリ、と歯が擦れる音が聞こえた気がした。それも一瞬だけで、すぐに解けて歪な弧を描く。は、と降ってきた吐息は焔のような凄まじい熱を帯びていた。
一度突き破られた襞は、返しとなって雄を抱きとめる。敏感な先端を、張り出た傘を、硬い幹を擦っていく。いっとうきもちいいのだろう、求めるように奥ばかりを突かれる。ごぷごぷと破った壁の向こう側をめいっぱいに刺激される。
雄の象徴が奥底を荒らしに荒らし回る最中、被食者は身体を跳ねさせるだけだった。不規則にびくびくと跳ねる様は、不安すら覚えるものだ。それも捕食者に全て押さえつけられるのだけれど。
きもちいい。きもちがよくてたまらない。
突き込む側が最上にきもちよくなれる場所なのだ、受け入れる側だって一番きもちよくなれる場所だ。あれほど恐怖を覚えていたというのに、肚の奥を突き破られた瞬間そんなものは消し飛んでしまった。残るのは『きもちいい』の五文字だけだ。快楽だけを受容するよう都合良く書き換えられた脳髄が、めいっぱいに満たされる。幸福で仕方が無い。
ひゅ、かひゅ。無駄な開閉を繰り返す口から細い音が鳴る。喉が呼吸をしようと必死に運動しているのだ。襲い来る淫悦に吹き飛ばされて死んでしまわないように、本能は懸命に生に縋った。
「――ッ、ぁ、ア! ぁあ……!」
ようやく喉が動き出す。いの一番に行ったのは呼吸ではなく発声だった。嬌声をあげる口元は綻んでいた。否、綻ぶなんて美しい表現は相応しくない。だらしなく緩んで、とろけきって、へにゃりとしていた。八の字に下がった眉。細められた目。緩んだ口。常ならば整った顔のパーツは、情けない笑みを作っていた。幸せで仕方が無いと主張していた。
獣欲を煽る艶声に誘われ、雄は更に奥へと侵入を果たそうとする。縁に引っかかるほど退き、助走をつけて奥の奥を穿つ。抉る。突き破る。繰り返される注挿は重いなんて言葉では済まなかった。証拠に、ぶつかる度にあがる音は酷く大きく強烈な響きをしていた。
ぐちゅん、ぼちゅん。襞が突き破られては戻りを繰り返し、欲望の証を扱く。張り出た傘が守られていた大切な場所をごりゅごりゅと擦っていく。互いに凄まじい快楽を覚えるものだった。穿って、穿って、穿って。破られて、破られて、破られて。その度にきもちがいいと神経が悦びの声をあげ、身体中を支配した。
ばちゅん。一際大きな音が鳴る。ぁ、と小さな声が降ってくる。瞬間、暴かれてはならない部分が熱を覚えた。
ァ、とこちらも声をあげる。ぱちん、と何かが弾けるような感覚。すぐさま、言語化などできない快感が脳味噌を支配した。一際大きく身体が跳ねる。また頂点に至ったのだ。本日二度目のドライオーガズムは、神経を焼き切り全てを焼き尽くしていく。情欲の焔で身体中を焼き尽くして、きもちいいことだけで満たしていく。
未だ律儀に添えられた手は、内部の様子全てを訴えかけてきた。びゅーびゅーと種が注がれる音。どくどくと精を吐き出す雄が脈打つ音。触覚では決して認識できないものが皮膚から伝わってくるようだった。
ぁ、あ、と烈風刀は意味など無い音を漏らす。熱を多分に孕んだものだった。とろけきったものだった。幸せでたまらないといったものだった。緩みきった口は、精を注がれ種を植え付けられる悦びを細い声で表していた。
濁液を注がれ汚される肚がきゅうきゅうと締め付ける。柔らかな襞が根元まで埋め込まれた雄を撫で上げる。搾り取る動きだ。最後のひとしずくまで全部ちょうだい、と貪欲にねだっていた。
ようやく欲望の濁流が勢いを失っていく。人間の射精などほんのわずかな時間で終わるはずなのに、永遠とすら思える時間だった。永遠に精を吐き出し、子種を注ぎ込み、つがいだと刻み込む。永遠にうちがわを焼かれ、子種を注がれ、つがいだと刻み込まれる。互いに望んでいるのに、人体は正常に動作を終えた。
荒い息が二つ重なる。時折濁った音が混じるほどの激しさだ。当たり前だ、全身全霊を持って受け入れて受け入れられていたのだから。
はー、と長い溜め息。降ってくる吐息は多少落ち着いていた。それでもまだ浅くて不安定だ。まだ本調子では内呼吸を繰り返しながら、朱は手を動かす。緩慢に動くそれが、腹に載ったままの手に重ねられる。汗ばんだ皮膚と皮膚が合わさり合うのは少しばかり快くない。けれども、伝わってくる熱はそれ以上に心地良くてたまらなかった。触れた部分から幸せが湧き出るような感覚だ。
「だいじょぶだったろ?」
そう言って兄は笑みを浮かべる。いつもの朗らかさが無い、少し下手くそなものだった。疲れ切った調子で笑顔を浮かべろという方が難しいのだから仕方が無い。
「だいじょぶ、じゃ……ない、ですよ……」
ようやく呼吸が安定してきた喉で、弟はどうにか言葉を紡ぎ出す。途切れ途切れのそれはまだとろけたものだ。熱を孕んで、幸福に浸って、悦びを謳う音をしていた。
「お、なか、あつくて……いっぱい、で……」
未だ受け入れたままの雄は、多少硬度を失っても狭穴を塞ぎ込むほど質量と直径をしていた。栓として機能するそれは、肚の全てを焼く熱を奥の奥に留めていた。肚が熱くてたまらない。肚が満たされてたまらない。心が満たされてたまらない。それ以上に、酷い渇求を覚えた。もっと欲しい、なんて浅ましい願いを。
紅玉がぱちりと瞬く。数拍、大きな口が三日月型に歪んだ。つがいを愛おしむ笑みだ。餌を見つけた捕食者の笑みだ。
凶悪と表現するのが相応しい笑顔を前に、碧い目から涙がこぼれ落ちる。恐怖を覚え湧き出たからではない。ふわりと細まったからだ。碧もまた三日月を作った。ゆるみきった、とろけきった、だらしない笑顔を作った。これ以上無くつがいを誘う笑みを作り上げた。
肚の中で雄が脈打ち始める。質量が増し、大きくなっていくのが腹に置いた手を介して分かった気がした。
畳む
甘い幸せ分けっこ【ハレルヤ組】
甘い幸せ分けっこ【ハレルヤ組】
ハレルヤ~~~~~~~~Cafe VOLTEにケーキ食いに行ってくれ~~~~~~~~~(発作)
というわけでハレルヤ組がケーキ食べるだけの話。
ボックス席の広いテーブルの上に音も無く食器が置かれていく。よく磨かれた小ぶりなフォーク、シンプルながらも上品なデザインをした皿、温かさを感じられる白を鮮やかな赤で縁取ったカップ。それぞれが目の前に並べられた。空になった銀の盆を脇に抱えたウェイトレスは、ごゆっくりどうぞ、の一言と伝票を残し美しい足取りで去っていった。
はわぁ、と感動と歓喜に満ち溢れた声が向かい側から聞こえる。並べられた輝くような白い皿、その上に載せられた美しいケーキを前に、少女は真ん丸な可愛らしい目をキラキラと輝かせていた。つやめく薔薇輝石の瞳が、フルーツでカラフルに彩られたケーキを一心に見つめる。たおやかな手は、震える心と湧き上がる喜びを表すように笑みを形作る口に添えられていた。
ぱちん、と小さな音をたてて手が三対合わさる。いただきます、と広い席に元気な三重奏が響いた。
華奢な指がナプキンの上に置かれたフォークを手に取る。銀色が、色彩鮮やかなケーキにそっと差し込まれる。ナパームでつやめく果実とそれらを支えるカスタード、アーモンドクリーム、タルト生地が一口サイズに切り分けられた。ブルーベリーといちごが輝く一欠片を慎重に刺し、桃は小さな口にカトラリーを運んだ。赤い口内に銀の先端とケーキが消える。もぐもぐとまろく柔らかな頬がゆっくりと動く。んー、と喜びで溢れかえった声が閉じた口から漏れ出た。
「美味しいデス~!」
頬に手を添え、レイシスは幸せ色に染まりきった声をあげる。甘い物が大好きな彼女にとって、ケーキは幸せをそのまま形にしたような素敵なものだろう。新鮮なフルーツがたっぷり載った贅沢な代物は、彼女の心を十二分に満たしたようだ。
可愛らしい様子に薄く笑みを浮かべつつ、烈風刀も同じくフォークを手に取りケーキを切り分ける。きめの細かい薄い黄色のスポンジと真っ白なクリーム、その中に覗く赤いいちごに銀が刺される。口に運ぶと、バニラの甘さがふわりと香る。濃厚ながらもしつこさを感じさせないミルクの風味、砂糖の穏やかな甘みが舌に広がった。綿飴のようにすぐに溶けてしまいそうなほどふわふわなスポンジと少し固めに立てられた生クリームのなめらかな舌触りが気持ち良い。己でもケーキを作ることはいくらかあるが、こんなにも軽く、それでいて満足感が得られるような代物を作ることなど不可能だ。学園の女子たちに絶大な支持を得ているのも納得の味であった。
ケーキ食べに行きマセンカ?
控えめで可愛らしい誘いが来たのは三日前のことだ。世界の更新も無事終わり、今はちょうど運営業務が落ち着いてきた頃合いである。ようやく自由な時間を手に入れられてきたからこその言葉だろう。どうデショウカ、と伺う瞳には少しの不安が膜張っていたことを覚えている。
もちろん、兄弟二人で二つ返事をした。好きな女の子と出掛けられる。それも『カフェでケーキを食べる』だなんてデートのようなことを、だ。絶対に逃したくない、人生で一番逃すべきではない機会である。そもそも、この愛する少女の提案を断るなどという選択肢は双子の中に存在していなかった。
そうして足を運んだCafe VOLTE。ショーケースでケーキを選んで食べる今に至る。
ショートケーキをもう一口食べ、少年は続いてカップに手を伸ばす。中で湯気を立てる黒にそっと息を吹きかけ、赤い縁に口を付けた。コーヒー特有の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。舌の上に深い苦みと少しの酸味が広がっていく。ケーキの甘みが洗い流されていく心地だった。香りも味も、家で飲むものとは段違いだ。さすがカフェラテを名物にしているだけある。
「烈風刀、烈風刀!」
ハイテンションな声が己の名を呼ぶ。カップを置き隣を見ると、そこには少女と同じくらい目を輝かせた兄の姿があった。手に持ったフォークの先には黒いものが刺さっている。彼が頼んだのはガトーショコラだっただろうか。少し遠い位置から、それも一口分しか見えないというのに、生地がみっちりと詰まっているのが分かる。きっととても濃厚な味がするだろう。
「これすっげーんめぇ! 食ってみろよ!」
ほら、あーん。雷刀は手にした食器、突き刺したケーキをこちらへと伸ばしてくる。否、突きつけるといった方が正しい勢いと距離だ。あまりの近さにか、チョコレートの香りが鼻を掠める。誘われるように素直に口を開き、シックな黒を迎え入れた。
瞬間、先ほどの比ではないほどのチョコレートの香りと風味が口内に満ちた。少し固い歯触りながらも、舌に載せればゆっくりと溶けていく。生チョコレートとよく似た食感をしていた。驚くほど濃厚な舌触りと味わいだ。やはりここのケーキは上等だ。それでいて学生でも手が出せるギリギリの値段なのだから恐ろしい。
「美味しいですね」
「だろ? すっげぇうめぇ!」
柔らかに解けるそれを飲み込み、碧は穏やかに声を紡ぐ。味を、感情を共有できたのが嬉しいのか、赤はニッと笑った。マジうめぇ、と彼はまた黒を切り分けて食べる。まだ丸さを残した頬がもごもごと動いた。
「こちらも美味しいですよ。食べますか?」
「食べる!」
弟は兄の方へと皿を差し出す。もらってばかりでは申し訳が無い。それに、彼のことだからいつも通り後々一口ちょうだい、とねだってくるのは分かりきっていた。だったら先に食べさせてしまった方がいい。
問いに元気な声が返される。肯定の語を紡いだ口が、あ、と大きく開かれる。子どもめいた姿にはいはい、と呆れた調子で漏らし、碧い少年はケーキを切り分ける。スポンジと生クリーム、スライスされたいちごがカトラリーに載せられた。隣へと伸ばされた銀食器は、すぐに健康的な口に挟まれた。薄黄色が赤の中に消える。わずかに紅潮した頬が動き、喉が動く。朱い目がぱちりと瞬いた。
「こっちもめっちゃうめぇ! ふわふわ!」
丸い目を更に丸くし、朱い少年は喜び溢るる声をあげる。どうやらかなり気に入ったようだ。味覚の近い己が好ましいと思ったのだ、兄も気に入るのは納得である。それ以上に、彼は何だって美味しく食べるタイプなのだけれど。
はわぁ、と溜め息にも似た可愛らしい声が落ち着いた音楽流れる店内に落ちる。確かに聞こえた愛おしい音に、烈風刀はバッと発生源へと顔を向ける。視界にきょとりと目を瞬かせるレイシスが映った。撫子色の瞳は、向かいの席に座る己たち兄弟をしっかりと見つめていた。
ビクン、と肩が跳ねる。そうだ、今はレイシスも一緒だったのだ。家の中と一切変わらぬ調子の兄につられ、自然に食べさせられてしまった。食べさせてしまった。兄弟で食べさせあうなんて光景を彼女の前で繰り広げてしまった。ただでさえ人に見せるような姿ではないというのに、よりにもよって想いを寄せる女の子の前で家での癖をそのままやってしまった。幼稚な姿を見せてしまった。焦燥と羞恥、多大なる後悔が上等な菓子で潤った心を荒らしていく。食べた物以上の質量が胃の腑に落ちる感覚がした。
「二人だとそういうことできていいデスネ」
表情を強張らせる烈風刀を、気にせずケーキをを食べる雷刀を眺め、レイシスは穏やかに笑む。微笑ましさがよく出たそれの中に、言葉にしがたい寂しさがうっすらと見えた。
世界の誕生と同時に生まれた少女は、長い間一人きりだった。小さな妖精が常に寄り添ってはいたものの、同じヒトの形をした存在と出会うまで随分と時間が掛かってしまったという話は聞いている。二回目のバージョンアップが行われた世界には多くのヒトが増え、彼女にも友人がたくさんできた。けれども、立場上運営業務を優先させねばならない桃は遊びに出掛ける機会もあまり多くはない。世界に一番近い女の子は、世界のためにその身を犠牲にしていた。
そんな彼女には、食べ物を分け与えあう、特に食べさせあうなんて経験はあまり無いのだろう。否、そもそも己たち兄弟がおかしいのだ。皿を交換するだけで済む行為を、わざわざ一口食べさせてやるなんてことは普通無いのだ。長い間一人で暮らし、一人で生きてきたナビゲーターは違和感を覚えていないようだけど。
「ん? レイシスも食う?」
能天気な声が薄く陰った空気を打ち払う。もう三分の一は姿を消したチョコレートケーキに、フォークがガッと勢い良く突き立てられる。大きく切り分けた塊を刺した銀食器が、少女の前に差し出された。
「ほら、あーん」
朱い瞳が桃を見据える。突如突き出されたそれに、レイシスはぱちりと瞬きをした。美しいラズベリルが丸くなり、キラキラとした輝きを取り戻す。はわ、と漏れた声は少しの驚きといっぱいの喜びで彩られていた。
「ハイ! アーン」
意味を理解した桃は大きく口を開く。あーん、と言いながら雷刀はフォークを伸ばす。リップで淑やかに飾られた唇が閉じ、銀の先にあった黒が姿を消した。美しい輪郭をした頬がもごもごと動く。モルガナイトの中に宿る光が更にまばゆく輝きだした。
「美味しいデス!」
「だろ? だろー?」
感動の声を漏らす薔薇色の少女に、朱い少年はフォークを振って返す。満面の笑みを咲かせる少女を眺める笑顔はどこか自慢げだ。
はわぁ、と感嘆の声を漏らす桃が銀を手に取る。瑞々しいフルーツがたっぷり載ったタルトが手早く切り分けられた。一口サイズになったそれを崩れないように器用に載せる。照明を受けたナパームがつやつやと光った。
「ワタシのタルトも美味しいデスヨ」
ハイ、アーン。少年の真似をして、レイシスはフルーツタルトを載せたフォークを差し出す。八重歯で飾られた口の端が嬉しげに上がった。あーん、と復唱し、雷刀は小ぶりなそれを一口で食べる。頬が動き、喉が動く。食物を受け入れた口が笑みを形作った。
「フルーツうめぇな!」
「カスタードとマッチしてるんデスヨネ。甘くて爽やかで美味しいデス!」
朱と桃はきゃっきゃとはしゃぐ。 その様子を横目で眺める碧は、複雑な色を宿していた。
愛する少女が楽しく時を過ごしているのは、この世で何より素晴らしいことだ。けれども、その相手が兄だというのが不服で仕方が無い。片想いする少女と恋敵が仲良くケーキを食べさせあう光景を目の前で繰り広げられて、まだまだ発展途上の心が平常でいられるわけがなかった。幸福を嫉妬が食い荒らしていく。荒ぶ心を落ち着けようとコーヒーを一口。何故だか苦みばかりが舌の上を支配した。
ちらりと兄へと目をやる。少女へと向けられていた目が逸れ、紅玉と蒼玉がかち合う。瞬間、喜びの輝きに溢れた真紅がニマリと細められた。口の片端が吊り上がり、半分笑みを覗かせる。余裕に満ちた笑顔である。何とも腹立たしい笑顔であった。愛おしい少女の前でなければめいっぱいに顔をしかめていただろう。表情を歪めそうになる筋肉を何とかコントロールするも、口の端がひくりと引きつるのだけは抑えられなかった。
「アッ、烈風刀も食べマスカ?」
弾んだ声が己の名をなぞる。どうにか普段通りの表情を作り、少年は顔を上げた。そこには、フォークを片手に笑顔を咲かせるレイシスの姿があった。ケーキのために用意されたカトラリーには、キウイとオレンジがつやめくタルトが載せられている。細い腕がこちらへと伸ばされた。
「ハイ、アーン」
ニコニコと笑みを浮かべ、桃は言う。差し出されたケーキ。『あーん』の声。先ほどの兄に与えていた姿と同じだ。つまり、己にもケーキを食べさせようとしているのだ。
バクン、と心臓が大きく脈打つ。爆発してしまいそうなほどの動きだった。思わず胸を押さえそうになるのを必死に堪える。バクン、バクン、と臓器が騒がしい音をたてて収縮を繰り返す。あまりにうるさいそれを制御しようにも、どうにもできなかった。
食べている物を一口分け与える。そんなの、幼い頃から兄弟でよくやっているのだから慣れっこだ。けれども、相手がレイシスとなれば別である。恋心を募らせる少女に、直々に食べさせてもらえる。そんな夢のようなことが今まさに起こっているのだ。思春期真っ只中、片想い最中の高校生の心臓が耐えられるわけがない。
身体が強張る。目が見開かれる。顔が熱を持つ。反対に、指先は氷水に浸したように温度を失っていく。好きな女の子に『あーん』をしてもらえる。夢のような現実だ。受け入れたい。掴み取りたい。恥ずかしい。あまりにも恐れ多い。欲望と理性がぐちゃりと混ざり合う。常は冷静であろうとする頭はもうぐちゃぐちゃになっていた。
逡巡、烈風刀は小さく口を開ける。ここで断ってしまっては、あの優しい少女は可愛らしいかんばせを曇らせてしまうだろう。判断に時間が掛かっている今ですら、彼女を不安にさせているかもしれない。愛おしい人を悲しませることなどあってはならない。絶対に回避すべきだ。
あーん、と少女と同じ言葉を口に出す。声は少しつかえ、響きも揺れていた。潤った唇もぷるぷると細かに震えている。緊張が如実に表れていた。緊張するなと言う方が無茶な状況なのだから仕方が無い。
ハイ、アーン。開いた口に、フォークが、ケーキがそっと入れられる。すぐさま閉じ、少年は身体を銀食器から、少女から距離を取った。心臓は依然うるさく鼓動する。どうにかケーキを咀嚼するが、生地を噛み締める歯すら震えているような気がしてたまらなかった。
「どうデスカ?」
「お、美味しいですね」
尋ねる桃に、碧はぎこちない声と笑みを返す。こんな凄まじい緊張の中、味なんて分かるわけがない。ケーキを味わう余裕なぞ欠片も残っていなかった。ほとんど塊のまま胃の腑に落ちていったそれに少しの罪悪感を抱く。本来は舌を楽しませる素敵な菓子だというのに、己の心が矮小なせいでただ飲み込むだけになってしまった。きちんと食べたというのに、食べ物を粗末にしてしまった気分だ。
震える手を制御し、コーヒーを飲み下す。苦みが混乱する脳味噌に活を入れた。少しずつ静まっていく心と頭の中、何かがよぎる。何だ、と思わず思考をそちらに向けてしまう。正体は疑問だった。あのフォークはレイシスが使っていたものだよな、という当たり前の事実が疑問として姿を現した。
レイシスが使っていたフォークで食べさせてもらった。レイシスが使っていたフォークに口を付けた。つまり。
身体が固まる。カップを下ろそうとした手が空中で止まる。浅葱の目がこれでもかと見開かれた。心臓がまた騒ぎ立てる。フリーズしたはずの脳味噌は、間接キス、と俗称を叫んだ。
いや、よく考えろ。あのフォークに直前に触れたのは兄では無いか。食べ物を載せた先端部分に口を付けたのは兄だ。つまり、兄との間接キスである。いつも通りだ。変わらぬことではないか。大丈夫、いつも通り、と頭の中で何度も繰り返す。刷り込んで刻みつけて思い込ませる。疑問を抱く余地を丁寧に塗り潰して無くしていく。
不自然な動きながらも、どうにかカップをソーサーに置く。ふぅ、と密かに息を吐いた。少し下がった視界、目の前に食べかけのショートケーキが映る。そういえば、食べさせてもらったのに何も返さないのはいかがなものだろうか。それも、相手はケーキが大好きな女の子である。きっと、選べなかった、自分と違うものも気になっているだろう。色んなものを楽しみたいはずだ。
「こちらも美味しいですよ。一口どうぞ」
「エッ、いいんデスカ?」
剥かれたオレンジを頬張る少女は、ぱぁと顔を輝かせる。えぇ、と柔らかに答え、烈風刀はレイシスの前へと皿を差し出そうとした。
つやつやの唇が開く。血の通った赤い口が眼前に晒される。あ、と可愛らしい声が大きく開かれたそこから聞こえた。
突然のことに、少年はきょとりとした様子でその顔を眺める。何故フォークを握らないのだろう。何故口を開けるのだろう。聡明な頭は答えを弾き出す。意味をはっきりと理解する。穏やかに綻んでいた顔が瞬時に固まった。
口を開けて待つ。つまり、食べさせてもらおうとしている。
ケーキ皿に触れていた指がピクリと震える。そのまま手を引っ込めてしまいそうになるのを何とか耐えた。
彼女には一口なんて言わず好きなだけ食べてほしいのだ、このまま皿を押して全て差し出すのが正解に決まっている。けれども、ここで無視をするような対応をしては彼女は悲しんでしまうのではないだろうか。やってもらえなかった、と寂しがってしまうのではないだろうか。嫌がられた、と勘違いしてしまうのではないだろうか。様々な憂慮の中、本能が囁く。何を御託を並べているのだ、お前がやりたいだけだろう、と。
ギリ、と奥歯を噛み締める。固まった指を動かし、皿の上に載せられたフォークを手に取った。ピースケーキの太い部分、大粒のいちごとたっぷりの生クリームが載った場所を切り分ける。崩れてしまわないように慎重に刺し、持ち上げる。震えをどうにか押さえ込みながら、目の前の少女へと銀色を伸ばした。
「あ、あーん……」
ただ差し出すだけだったはずが、思わず声が漏れてしまう。いや、彼女も兄もこう言って食べさせていたのだ。言う方が自然である。復唱しただけと判断できる程度の響きだ。理性がそれらしい言葉を並べ立てる。本能は意地悪げな表情でその様を眺めていた。
可憐な口に、赤いいちごと白いクリーム、黄色のスポンジが近づく。開いたそこが閉じられ、ぱくりとフォークを口に含んだ。見計らって碧は即座に身体を引く。勢いのあまり背もたれに当たり、ソファが揺れた。
柔らかな曲線を描く頬が動く。白く細い喉が上下し、含んだものを嚥下していく。弧を描いていた目がぱっちりと開かれ、また宝石のようにキラキラと輝きだした。
「いちご美味しいデス! スポンジもふわふわデス~!」
あげる声は今日一番の感動がにじんでいた。どうやら、かなり彼女好みの味だったらしい。可愛らしい姿に、動悸と表現した方が相応しい動きをする心臓が落ち着きを取り戻していった。
「もう少し食べますか?」
わずかに身を乗りだし、今度こそぐっと皿を押し少女の真ん前へと差し出す。もう己には手が、フォークが届かないほどの位置だ。また食べさせるような事態にはならないだろう。
「いいんデスカ? あとちょっとしかありマセンヨ?」
「美味しかったんでしょう? 好きなだけ食べてください」
鴇色の瞳が碧とケーキを行き来する。どうぞ、と背を押してやる。しばしして、いただきマス、と控えめな声とともにフォークが伸ばされた。クリームでコーティングされた生地を小さめに切り分け、少女は口に運ぶ。少しの遠慮と不安がにじんでいた顔は、瞬時に明るいものになった。桃の睫に縁取られた目が閉じ、大きな弧を描く。んー、と漏らす声は幸せをそのまま音にしたような響きをしていた。可愛らしいの一言に尽きる姿に、少年は頬を緩めた。
もう一口控えめに食べ、レイシスはありがとうゴザイマシタ、と皿を持ち主へと返した。どういたしまして、と白い皿を引き寄せ目の前へと帰還させる。柔らかな白と黄にいちごの赤の差し色がよく映えていたケーキは、残り三分の一ほどになっていた。あまり時間を掛けて食べては表面が乾いてしまう。美味しい物は美味しい状態で食べるべきなのだ。フォークを握り、筋の浮かぶ手が口にケーキを運ぶ。閉じようとしたところで、はたと動きが止まった。
先ほどレイシスにケーキを食べさせた。己のフォークで食べさせた。つまり、このフォークはレイシスの口が付いたもので。はっきりと触れたもので。
間接キス。今度こそ、レイシスとの紛うことなき間接キス。
動きが止まる。一気に冷凍されたかのような固まり方だった。翡翠の目がふるふると震える。脳味噌の中で何かがうるさく騒ぎ立てた。
どうしよう。どうするべきなのだ。いつだって即座に最適解を弾き出す利巧な頭は、混乱の渦に陥り機能を停止していた。思春期の男子高校生には刺激が強すぎる事実である。仕方の無いことだ。
間接的なものとはいえ彼女の口と触れ合うなぞ、あってはならないことだ。そういうことは大切に大切にしなければいけないのだ。けれども、このままではケーキが食べられない。皿の上のものは全てレイシスに分け与えるという手があるが、今まさに口に運ぼうとフォークに刺したこの一口は絶対に食べなければいけない。フォークに口を付けなければいけない。レイシスが触れた、このカトラリーに。
機能を再開するも混乱したまま迷走する頭は、フォークを一旦置く、という答えを弾き出した。カチャリと食器と食器が高い音を奏でる。銀色の上には、ケーキの欠片が載せられたままだ。
平常心、平常心。まじないのように繰り返し、烈風刀はコーヒーカップに手を伸ばす。もう冷めつつあるコーヒーは、まだ豊かな香りを漂わせていた。惑いに惑いとっちらかった頭を、心地良い香りが落ち着けていく。少し含み、苦みで思考をリセットしようとした。
あれ、と落ち着きを取り戻し始めた頭が声をあげる。脳内のそれにつられ、碧い目が向かい側に向けられた。
視界に映るレイシスは、楽しげにケーキを頬張っていた。もちろん、フォークで。先ほど己が口を付けたフォークで。
つまり。
ぐ、と思わず喉が狭まる。カップを持ち上げた手がビクンと跳ねる。その拍子に、口内の黒い液体が食道ではない部分へと飛んで入った。迫り上がってくる感覚に、急いで食器を置き口に手を当てる。ゲホ、ゴホ、と湧き上がる咳を手で押し止めた。
「えっ、何? だいじょぶか?」
「大丈夫デスカ?」
「だ、いじょうぶ、です……」
突如むせ返った烈風刀に、レイシスと雷刀は驚きの声をあげる。整理反射をどうにか抑えながら無事を答える。大丈夫なわけがなかった。身体も心ももうぐちゃぐちゃだ。咳き込みながら、少年は自己嫌悪に陥る。たかが間接キス程度でこんなに動揺するなど、どれだけ初心なのだ。本当に高校生か。咳と呆ればかりが湧いて出た。
むせる様子が落ち着いてきた頃合い、桃と朱は心配げな瞳を元に戻し、残ったケーキを食し始める。最後の一口を名残惜しげに味わい、二人はフォークを置いた。ごちそうさまでした、と食事の挨拶が輪唱のように奏でられる。美味かったー。美味しかったデスー。コーヒーとカフェラテを味わう口から、満足げな声があがった。
どうにか常の様子を取り戻しながら、碧はコーヒーをちびちびと飲む。二人が食べ終わったのだから、己も早く食べなければいけない。けれども、未だケーキに、このフォークに手を付ける勇気は無かった。
「…………アノ」
控えめな声が上がる。炎瑪瑙と苔瑪瑙が上がり、正面を見る。目の前の桃は、可愛らしい瞳をうろうろと泳がせていた。頬にはわずかに紅が浮かんでいる。チークの人工色ではない、血の色だ。
「……ショートケーキ、とっても美味しかったノデ……、もう一個食べてもいいデスカ?」
口元に手を当て、少女はことりと頭を傾いだ。ツインテールが揺れる。髪と同じ色をした眉はわずかに下がり、八の字を描いていた。浮かべる笑みは先ほどまでの元気いっぱいのものではなく、少し困ったような、恥ずかしげなものだ。
彼女はよく食べる。それはもうよく食べる。平均よりも食べる量が多い己たちの倍は余裕で食べるほどの健啖家だ。そして、甘い物は彼女の大好物だ。もう一つ求めてしまうのは当然と言ってもいいことである。ここのケーキはあまりにも美味しすぎるのだ。
「オレももう一個食べよっかなー。今度はふわふわなやつ」
ほら、どいてどいて、と窓側に座っている雷刀は烈風刀の身体を横から押す。弟は大人しく退いて、兄を出してやった。肯定を意味する声に、少女は表情を明るくする。一緒に行きマショウ、と彼女もソファから身を下ろし立ち上がった。ロングスカートの裾がふわりと広がる。
行ってきマスネ。待っててなー。言葉を残し、二人は飲食スペースからショーケースへと駆けていく。席にはケーキメニューも備え付けられているのだからそれを見て頼めばいいだろうに。いや、きっとケースの中に整列した数々のケーキを眺めながら選ぶのが良いのだろう。その方が絶対に目も心も楽しいのだから。
カップの中身を飲み干し、烈風刀は息を吐く。碧い瞳は、白い皿へと向けられた。ケーキが五分の一は残った皿に。銀のフォークが横たわる皿に。
きょろきょろと辺りを見回す。もちろん、桃の姿も朱の姿も無い。そんなことは分かりきっているのに、何故だか確認してしまう。やましいことをするように周りを窺ってしまう。怪しいにも程がある姿だ。けれども、小さな心は周りが気になって仕方が無かった。
震える手でフォークを掴む。ふぅ、と息を深く吐く。吸って、吐いてをしばし繰り返す。こくりと息を呑む。意を決し、銀のそれを、ケーキが一口載ったそれを口へと運んだ。
舌の上に優しい甘みが広がった。
畳む
twitter掌編まとめ5【SDVX】
twitter掌編まとめ5【SDVX】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
成分表示:奈←恋1/キサ+煉1/つまぶき1/はるグレ+レフ1/嬬武器兄弟1/神十字1/火琉毘煉1/ハレルヤ組1/グレイス+ハレルヤ組1
晴れ舞台が焼き付いて/奈←恋
「今度の文化祭、演劇部の舞台でお姫様役をやることになったの」
そう言ってふわりと笑う親友の横顔は、夕焼けに照らされて色付いていた。夏も終わりに近づいているというのに夕の陽は鮮烈で、白い肌を暖色に染め上げていた。
「……え? お姫様? 奈奈が?」
処理落ちした脳味噌が、インプットされた情報をやっと理解する。アウトプットされたのは、間の抜けた呆けた声だった。
「変、かしら……?」
「ううん! すっごく似合うわ!」
穏やかな弧を描いていた眉があっという間に八の字に下がる。陰った可愛らしい顔を前に、慌てて言葉を続ける。そう、と奈奈は依然不安げに首を傾げる。そんな顔をさせてしまうようなことを漏らした己を内心罵倒しながら、似合うに決まってるじゃない、と恋刃は微笑んだ。
「それで、しばらくは練習で遅くなるの。本番まで、一緒に帰れなくなっちゃうと思う」
寂しげに告げる七色の少女の手を、紅色の少女はきゅっと握る。少し曇った虹の瞳がぱちりと瞬いた。
「待つから一緒に帰りましょ。奈奈一人で夜遅くに出歩かせるのは危ないわ」
文化祭での公演である、大がかりな物になるだろう。それだけ練習量も多く、日が暮れるまで稽古を重ねるのは容易に想像できた。秋に近づき夜がすぐさま降りてくるようになった今、その程度の理由で親友一人で夜道を歩かせるなど言語道断だ。
「いいの?」
「もちろん。あ、ついでに練習見学できない? 劇の内容気になる」
明日聞いてみるわね、と七色は笑う。お願い、と紅色も笑った。
見学許可は簡単に下りた。毎日練習に励む親友を舞台袖から眺め、時には差し入れを持ち込み、時には初めての演技に不安がる様を励まし、時には過度に卑下する姿に檄を飛ばし。練習の日々は過ぎていく。
文化祭当日は盛況だった。大きな体育館に用意された座席の八割は埋まり、多くの人が舞台の幕開けを待っていた。
大丈夫かしら。普段とは正反対の黒いドレスに身を包み、カタカタと震えながら奈奈は漏らす。大丈夫よ。すっかりと冷たくなった美しい手を握り、恋刃は自信たっぷりに言う。演劇部の、七色の彼女の努力をずっと見てきた己には、この舞台の失敗など全く考えられなかった。大成功に決まってるわ、と冷えた手を包んで温める。そうだよ、大丈夫、と舞台衣装に着替えた部員たちも口々に言った。
頑張ってくるわね、と最後には笑顔で手を振った親友は、今は堂々とした姿で舞台に立っていた。初めは緊張でわずかに震えていた声も、今では普段通りの澄んだ、それでいて稽古によって鍛えられたよく通る声をしていた。動きもなめらかで、初心者には見えないものだ。ここしばらくの彼女の努力が結晶となり、ここで輝いていた。
主人公役である演劇部員の少年も、小さな身体をめいっぱい動かし舞台を盛り上げる。勇者である主人公は、ヒロインであるお姫様を追いかけて国中を旅する。たった一人の険しい旅路の様子を、幼い少年は懸命に演じてみせた。
物語は佳境に入り、とうとう勇者と姫は出会う。救うべき存在との邂逅だけでは、ハッピーエンドには至らなかった。ナイフを持った勇者は慟哭する。姫の悲痛な悲鳴が会場中に響き渡った。少女の手からリンゴが転がり落ちる。凶器を握ったまま蹲り嗚咽を漏らす少年の手に、たおやかな手が重ねられた。
どくん、と心臓が大きく脈打つ。え、と思わず漏らした声は、最大の山場を演出する音楽に掻き消された。
どくん、どくん、と心臓がうるさく跳ねる。気持ちが悪くなるぐらい鼓動が早くなる。背筋を冷たい何かが撫ぜる。嫌な汗が頬を伝う。
どうして、と少女は一人混乱に陥る。このシーンは練習でも特に見たものだ。主人公の台詞を覚え、帰り道に二人で練習したほどの場面である。なのに、何故か嫌なものが身体中を這って回る。細い身を雁字搦めにして、どこかへ連れて行こうとする。
精神は暗く揺れ動いているというのに、紅い目は舞台上に釘付けになっていた。細い手を振り払おうとする勇者に、姫は――親友は必死に言葉を振り絞る。序盤か弱く演出されたヒロインの隠された強さが発揮されるシーンだ。大好きな親友の最大の見せ場、最高に格好良い素敵なシーンだ。目が離せるわけがない。なのに、心は目を力いっぱい閉じてしまいたくてたまらなくなる。
何で。どうして。こんなに素敵な舞台なのに。こんなに素敵な演技なのに。こんなに素敵な奈奈なのに。
嗚咽を堪えることなく泣く勇者の背に、姫はそっと腕を回す。小さな身体を包み込むように、細い身いっぱい使って抱き締めた。
奈奈が、誰かを抱き締めている。
胸がカァと熱を持つ。心臓がギュウと締め付けられる。顔からサァと血の気が引いていく。末端がどんどんと冷えていくのが分かった。
情動に震える少女は、ずっと舞台を見つめる。見たくもない、と心は意味が分からないことを叫ぶ。見なければならない、と頭は当然のことを語った。
主人公が、ヒロインが舞台中央で抱き締め合う。金が、赤が、黒が、スポットライトを浴びて鮮烈にきらめいていた。
輝かしい舞台を見つめる紅は、光など失っていた。焦点の合わないガーネットが、結末で結ばれる二人をただ見つめていた。
口止め料八十円/キサ+煉
オレンジ色のスニーカーに包まれた小さな足が一生懸命動く。バッジで飾った帽子を揺らし、着崩したモスグリーンのジャケットをはためかせながらキサは廊下を駆けた。
夏休みの間にたくさんのスクープを撮ることができた。あとはこれを報道するだけだ。あぁ、早くたくさんの大事件を伝えたい。もちろん、起こったのは楽しいことばかりではない。しかし、そこには読み取るべき真実が眠っているのだ。これを広めないで何が報道か。
走る小柄な身体を、高い影が遮る。ぶつからないように急いでブレーキを掛けた。キュッと靴の底面と廊下が擦れる音があがる。
塞がる者から何かが飛んでくる。いつも通り、放り投げられた物を両手でキャッチする。学園内の購買で売られているあんぱんだ。大好きなそれに、思わず頬が緩む。それもすぐに戻り、少女は不可思議そうな表情を浮かべた。
「次郎くん、いつもあんパンくれるけど何で?」
「火琉毘煉だ」
疑問を投げかける少女に、煉はすぐさま訂正を入れる。『火琉毘煉』はあくまで彼が名乗っているだけで、本名は『鈴木次郎』である。真実を伝えるべき存在でありたいのだ、人のことはきちんと本名で呼びたい。
「いつも勝手に人のことを面白おかしく喧伝するからだ」
今だってそうだろう、と少年はすぐ隣、彼女のクラスのドアを指差す。たしかに、今まさに集めた大スクープを学級中に披露するところだった。読まれてるなぁ、と鞄にそっと手をやる。早朝にようやくできあがった、彼が載った新聞をそっと奥に隠した。
「この退治屋である火琉毘煉の活躍を記事にすればいいものの、何でやれ熱中症になったやら服が乾かないやらそういうことばかり言いふらすんだ」
「熱中症の危険性は報道すべきでしょ? 服のも梅雨の酷さを表すにはちょうどいい写真だったし」
指を立ててキサは言う。納得してしまったのだろう、うぐ、と悔しげな声が漏れた。
「あと毎回もらってもちょっと困るなぁ」
いつだって愉快な事件の中心にある彼は、キサが記事にすることの多い人物の一人だ。それを報道しようとする度、すぐさまあんパンが投げて寄越されるのだ。それも、毎回。一体、どこで情報を仕入れているのだろう。そこばかりが気になって仕方が無い。聞いても答えてくれないのだけれど。
「抜かりない。いつでも美味に舌鼓を打てるよう、保存期間が長いものを選んでいる」
顎に指を当て、煉はふっと格好付けたように笑う。論じているのはそこではないが、賞味期限が長いのはありがたい。
それにしても、毎回これでは財布が痛むだろうによくやることだ。大変だねぇ、と漏らしそうになった言葉をそっと飲み込む。もらう側が言う言葉ではない。
「だから言うなよ」
眼鏡で飾られた幼げな顔をビシリと指差し、白髪の少年は言う。人を指差すんじゃないわよ、と足下から窘める声があがった。
「分かったよー」
少女はひらひらと手を振って応える。ネタが一つ減ってしまうのは残念なことだ。しかし、きちんと対価としてあんパンを受け取っているのだから口は閉じねばならない。真実の報道は大切ではあるが、そこを反故してしまうのは良くない。そのあたりは弁えていた。
言葉を信じたのだろう――今まで何度も同じことをして口止めしたのだから信じて当たり前だ――煉は、では、と身を翻す。そのまま大仰な動きで廊下を歩き、自身の教室へと入っていった。足下を歩く式神が振り返り、小さく礼をする。ごめんなさいね、と大人びた声が聞こえた気がした。真っ白な毛が美しい狐は、すっと音も無く消えた。
黒い背を見送り、キサは乱れた頭を掻く。落ちてきそうになったキャスケットを慌てて受け止め、しっかりと被り直した。
新聞は作り直しかなぁ。
心の中で苦く呟いて、報道少女は軽い足取りで教室へと入る。ホームルームが始まりを告げるチャイムが、人がいなくなった廊下に響いた。
救う旅路と深い夢路/つまぶき
すぅすぅと穏やかな寝息が眼下からあがる。ソファに横たわった可愛らしい寝顔を前に、つまぶきはあー、と何とも言えない声を漏らした。
オンラインアリーナのバージョンアップ、それに伴う楽曲とエフェクトの追加、プレー性向上を目的とした機能アップデート、外部世界の大会運営に関する相談、プロリーグ開催に向けての準備。加えて通常アップーデトを行うだけでも重労働だというのに、そこにヘキサダイバーの調査にバトル大会も加わったのだからそれはもう大変だ。世界に一番近い位置にいる頑張り屋さんな少女は、起こる何もかもに全力で打ち込んだ。
そんな大仕事をいくつも終え、ようやく業務に凪が訪れた。ここ数ヶ月世界の代表として様々なことを行っていたレイシスを慮り、少しの間ナビゲートの仕事はグレイスが一任してくれている。おかげで、少女は久しぶりに穏やかな日々を過ごす時間を手に入れることができた。
そんな中で彼女がまず選んだのは、ゲームだった。新シーズン以降と同時のアップデートで追加される楽曲、そのジャケット撮影で久方ぶりに会話した少年からゲームの楽しさを説かれたのだ。彼女がやるゲームといえば、自分が暮らす世界の音楽ゲームが主だ。家庭用ゲーム機は持っているものの、随分と長いこと触っていない。オンラインサービスに入れば自由にできるよ、という少年の言葉に、便利デスネ、とキラキラと瞳を輝かせて言っていたことは記憶に新しい。
少女の手には大きなゲーム機を充電し、四苦八苦しながらオンラインサービスに加入し、専用のゲームをダウンロードし。そうして、彼女は世界を救う旅へと繰り出した。
荒廃した世界を旅するだけでなく、強い味方キャラを作り出すシステムに自身で歩いてマップを作るシステムと、勧められたゲームにはたくさんの要素が詰まっていた。やりこみ要素も兼ねているものだ。うんうんと唸りながら味方を作り出す横顔は真剣で、それでいて好奇心に輝いていた。二人で相談しながら合成を進め、マップを歩き、物語を歩んでいく。今日はようやく物語の終点に近い中ボスを倒したところだ。
点けっぱなしになっているゲーム機に近づく。画面はボス戦とその後の会話イベントが終わったところで止まっていた。念のためセーブをして、ゲーム機をスリープ状態にする。己の小さな身体では骨が折れる作業だが、あれほど頑張ってクリアしたのが水泡に帰しては一大事だ。しょんぼりとした少女の顔など見たくない。
落ちないようにゲーム機をソファの奥に追いやり、小さな妖精は部屋を飛び回る。隅に畳まれしまってあったブランケットを一生懸命引きずり、彼女の寝る場所へと帰る。なんとか広げ、よく眠る柔らかな身体を布で包み込んだ。一仕事終え、ふぅと息を漏らす。これで風邪を引くことはあるまい。
すやすやと眠る桃を眺める。ゲームはもう佳境だ。この進み具合ならば、数日後には最終ボスを撃破し物語を終えることができるだろう。そんな盛り上がるストーリーが気になって仕方無いのか、彼女は日に日に夜更かしをしていた。遅いから寝ようぜ、と誘っても、もう少しダケ、と懇願してゲームを続けるのだ。おかげで最近は寝不足のようで、授業中うとうととすることがあると聞いている。毎日同じだけ夜更かしして物語を横で見つめる己も日夜眠気と戦っているのだけれど。
身を丸め、穏やかに眠るレイシスを見下ろす。真っ黒で大きな目がふと細まった。
己がヒトと同じほどだったなら、彼女をベッドまで運んでいけるのだろう。少女の手のひらに収まってしまうほど小さな己では、そんなことは到底できない。潰されるのがオチである。結局、できるのは起こすか毛布を掛けてやるかの二択だ。この可愛らしい寝顔を歪めることなどできるはずがないから、毎回後者を選ぶこととなっている。
「風邪引くナヨナー」
長い髪を座面に広げ、白い瞼を下ろし、桜色の唇から寝息を漏らす少女に語りかける。深い眠りの海に身を沈めている彼女には届くはずがないと分かっている。それでも、一言ぐらいこぼしたくなる。心配なのだ、これでも。
三角形の口が大きく開く。くぁ、とあくびが漏れた。
己もいい加減寝なければいけない。きっと明日も起きる時間ギリギリまで眠っているであろう少女を起こしてやらねばならないのだ。いつまで経っても手が掛かる。ふ、と穏やかな吐息が弧を描く口元から漏れた。
ふよふよと飛び、ソファの縁に近い場所に身体を落ち着ける。ここならばレイシスに潰されることもないだろう。余った毛布の端に潜り込み、妖精は薄い身体を柔らかなクッション生地に預けた。
おやすみー、と眠たげな声。そのまま、桃の少女と銀の妖精は暖かな眠りに身を委ねた。
緑の壁/はるグレ+レフ
小さく息を吐き、烈風刀は立ち上がる。パッパと手を叩き、付いた微細な土を落とした。手を洗わねばならない。しかし、ここに水場らしい水場は無い。布で拭っているが、衛生上限界もあるだろう。どうしたものかな、と考えていると、烈風刀、と名を呼ばれた。
払う手をそのまま、少年は振り返る。黒い世界を背景に、躑躅の髪がふわりと揺れるのが見えた。トン、とヒールが地面を打つ。自分の庭のように暗い海を跳び回る少女が目の前に降り立つ。髪と同じ色をした目が、まっすぐに己を射抜いた。
「昨日の続きなんだけど」
「あぁ、あれですか」
様々な事象が重なり、しばらくの間彼女の下に身を寄せることになった。ネメシスを侵攻する彼女は、度々立案した作戦の相談をしてくる。つい先日までネメシスに住まっていた己は土地勘がある。効率的な進軍方法を相談されることが多々あった。
「ルートは十分だと思います。強いて言えば、特別教室棟側からも送り込めば挟み撃ちにしやすいでしょうか」
「あぁ、そっちは考えてなかったわ」
宙空に紫の電子モニタが現れる。ネメシスでも度々見るそれと全く同じのデバイスは、バグを使って作ったものらしい。器用なものだ、と感心したのを覚えている。
「ねぇ、この地形ならここの庭みたいなところからも――」
かざすグレイスの手にあわせ、モニタが動く。そのまま、こちらへと向けられた。電子の地図を指差そうと、細い身が近づく。瞬間、強い風が間を二人の通り抜けた。
風圧に細めた目を開ける。向いた隣、風が吹き込んできた場所には忍装束に身を包んだ少年がいた。夜闇に浮かぶ満月のような瞳がこちらを睨めつける。緑衣に包まれた手が、そっと広げられた。まるで後ろにいる少女を守るように。
「はーるーかー!」
少年の後ろから声があがる。明らかに苛立った、強い調子のものだ。目的を果たすべく大切な作戦を練っていたところを邪魔されたのだ、感情的なところがある彼女が怒りを覚えるのは当然である。
「邪魔するなって言ってるでしょ! 何回言ったら分かるのよ!」
それも、もう片手ではとうに足りないほど邪魔されているのならば。
グレイスと烈風刀は二人で相談することがよくある。会話の最中、特にふとした瞬間距離が近づくと、必ず始果は現れるのだ。忍である彼の動きなど、速度と手数を重視して戦う烈風刀ですら捉えられない。いつも間に入られ、警戒した目でじぃと睨まれてしまう。
子猫を守る親猫のような姿に、少年は苦い笑みをこぼす。彼の行動は、躑躅の少女にとっては不可解に映るだろう。しかし、碧い少年にとってはこの上なく分かる行動原理だ。だって、想いを寄せる少女が知らない男と二人で話している状況など、許せるはずがない。
「すみません」
「謝るならやるなって言ってるじゃない! 何で覚えない――」
警戒をあらわにした声音で忍の少年は謝罪の言葉を紡ぐ。毎度のことだ。学習しないそれが気に食わないのだろう、少女は声を荒げるばかりだ。それも何故か途中でふつりと途絶えてしまう。
「……いいからどきなさいよ。話の途中なんだから」
「…………はい」
少し低くなった声に従い、少年は二人の間から一歩横にずれる。碧と躑躅を阻んだ緑の障壁は失われた。しかし、その姿はスッと消える。気付けば、彼はグレイスの後ろにいた。長い袖に包まれた手が、黒で彩られた白い腹に回される。そのまま、ぎゅっと抱き締め後ろに寄せた。会議中の二人の身体が遠ざかる。
「…………で、ここのスペースなんだけど」
「はい」
身体を包まれることに一切言及せず、少女は話を続ける。小さな唇が紡ぐ声は、もう諦めきった響きをしていた。これも毎度のことなのだから仕方が無い。画面を見る邪魔にならないなら、と受け入れているようだ。ある種合理的な判断である。
躑躅と若草の様子を気にせず、否、気にしない風を装って烈風刀は話を続ける。グレイスもどんどんとアイディアを出していった。
ちらりと横目で少女を、その背を、腹を、身体を強固に守る少年を見る。依然、彼は険しい顔をしていた。やはり、己とグレイスが話すことをよく思っていないらしい。それでもこれ以上手を出してこないのは、『邪魔するな』という愛しい少女の命令を受けてのことだろう。今回のようなことはあれど、彼は忠臣と表現するのがこれ以上にないくらい相応しい人物なのだ。
ふ、と烈風刀は息をこぼす。微笑ましさのような、諦めのような、羨望のような、複雑な音色をしていた。
これぐらいできれば良かったのに。
あり得もしないことを頭の隅に追いやり、少年は発光するモニタに視線を戻す。黒衣で飾られた白い指が、電子画面を何度も辿った。
機能/性能/君の色 /嬬武器兄弟
青い布地を頭から被る。輪に腕を通し、太い肩紐をしっかりと肩に掛けた。生地の中程に付いた長い紐を後ろに回す。どうにか後ろ手で蝶々結びにした。うっかり踏んで躓かないように、ぎゅっと引いて端の部分を短くする。腰に当たる少しねじれた感覚から美しい形になっていないことは分かるが、怪我を引き起こさないことの方が重要だ。見目を気にするのは慣れてからだ。
買ったばかりのエプロンを見下ろし、雷刀は満足げに笑みを浮かべる。何故そんなものをわざわざ着けるのだろう、と料理する弟の背を見て疑問に思っていたが、実際に着けてみるとなかなかに良いものだ。気分が切り替わる感覚がした。
まな板の前に立ち、包丁を握る。白いそれに載った野菜をリズミカルに切っていく。途中、勢い余って跳ねた具材がエプロンに守られた腹に当たった。少し厚い布地に阻まれているため、服が汚れることはない。こういうところが便利なのだな、と新たな発見に少年は目を輝かせた。
「案外似合ってますね」
後ろから声が飛んでくる。包丁を置いて振り返ると、マグカップを手にした弟の姿があった。碧い視線は己の身体を守る青い生地に注がれている。彼と一緒に買いに行ったものだが、着ける姿を見せるのは初めてだ。
「だろー? 料理もできるオニイチャンって感じでいいだろー?」
ニコニコと笑みを浮かべ、朱い少年はくるりと回る。長い腰紐がふわりと舞って身体とともに円を描いた。台所でふざけない、と叱責の言葉がすぐに飛んでくる。
「後ろ、縦結びになってますよ」
じっとしててください、と冷静な言葉に、大人しく動きを止める。キッチンに入ってきた烈風刀は、青い腰紐をするりと解いて手早く結び直していく。綺麗な青く細い蝶々が引き締まった腰に止まった。あんがと、と生地の持ち主は振り向いて礼を言う。
「後ろ手だと結びにくいんだよなー」
「いつか慣れますよ」
そう言う弟はいつだって後ろ手でも綺麗な蝶々結びを作っていた。長い間赤いエプロンを身に着け、キッチンに立っていただけある。それでも何だか悔しい。不器用な自覚はあるが、蝶々結びなんて基礎的なことぐらいは早くできるようになりたい。
「そーいやさ、何で烈風刀のエプロンって赤なんだ? いっつも青選ぶだろ?」
ふと浮かんだ疑問をそのまま投げかける。碧い髪に碧い目。碧は弟を象徴する色だ。だからか、彼は碧いものを好んで買うことが多い。それが、エプロンだけは正反対の赤いものなのである。珍しいことだ。
冷蔵庫に手を掛けた碧い少年は、白い戸を開けるのを止め顎に手を当てた。翡翠が宙を漂う。
「……たぶん安かったからですね。生地が丈夫で安いとなると、色を選ぶ余裕なんてありませんから」
なるほど、と雷刀は頷く。弟は好みより機能を優先する節がある。毎日着けるものなのだから、機能を優先するのは当然ではあるのだけれど。
買う前はたかが布、と思っていたが、実際に買いに出てみるとかなり違いがあることを知った。布地の厚さ、身長に合った丈、ポケットの有無、適度な腰紐の長さ、その他諸々。選択すべきこと、重要視するべき点はたくさんあった。片割れのアドバイスと己の好みを擦り合わせた結果、今身に着けた厚めの青いエプロンを買ったのだ。悩んで選び抜いただけあって、身に着けたこれは心を弾ませる代物だった。
「貴方こそ、何で青にしたのですか? いつもは赤を選ぶでしょうに」
朱い髪に朱い目と、弟と正反対の朱に縁がある己は、何を買うにもその色を選ぶことが多かった。今回のように青を選ぶのはほとんど無いことだ。彼が疑問に思うのも無理は無いだろう。
「烈風刀が赤ならオレは青かなーって思って」
店頭には同じ型の赤色もあった。けれども、手を伸ばしたのは片割れを想起する青だった。別にお揃いの色でも良かったのだが、なんだか彼の色を選びたかったのだ。今思えば、洗濯する時取り違えることがなくなるので合理的な判断だ。
「いつもは逆ですのにね」
何だか不思議です、と烈風刀は笑う。確かになー、と青い裾をつまんで雷刀も笑った。
「晩飯、楽しみにしとけよ」
「期待してますよ」
ニカリと笑う兄に、弟はふわりと口元を綻ばせる。おう、と元気な声がキッチンに響いた。
朱い唇降りしきり/神十字
ちゅ、と可愛らしい音が若草芽吹く草はらに落ちる。くすぐったいよぉ、ときゃらきゃらとした可愛らしい笑い声があがった。
硬い輪郭をした手が少し短い前髪をそっと上げる。赤い唇が、さらけ出された白く柔らかな額に落とされる。おにいちゃんキスばっかしてるー。鈴のような笑い声が蒼天に昇った。
「だってお前らのこと大好きだしー?」
「わたしもおにいちゃんのこと好きだよー!」
紅葉手がシャープな線を描く頬に伸ばされる。潤った小さな唇が、春の日差しを浴びて色付き始めた肌に触れる。幼子の可愛らしい口付けに、紅い男はニカリと笑みを浮かべた。オレも好きー、と黒衣に包まれた腕が彼の半分にも満たない小さな身体を抱き締める。可愛らしい笑声が、明るい笑声が、昼空に響いていく。
和やかな風景に、青年は頬を緩める――はずだった。けれども、最近の有様を見ては苦い表情ばかりが浮かんでしまう。子どもにこんな顔を見せてはいけないのに、と表情筋を律しようとするが、意識に反して強張っていくばかりだ。
なぁ、あれって何?
住宅が並ぶ街並み、玄関で頬に口付け合う家族を見て紅は疑問の声をあげる。えっ、と思わず同じ音を返してしまった。だって、数え切れない時を生きている『神』である彼が口付けを知らないなど考えるはずがないではないか。
大切な人への親愛表現ですよ、と優しく笑って教えた。翌週、今度は唇と唇を合わせる男女の姿を見て、あれもそうなのか、と指差された時は頭を抱えたが。
新たな感情の表現方法を覚えた彼は、施設の子どもたちに口付けを降らせるようになった。曰く、皆好きだから。曰く、全員大切だから。子どもたちと同じ時を過ごすようになって随分と経つ。愛情も湧くだろう。庇護欲を刺激する幼子ならば尚更だ。己だってあの子たちが愛しくて仕方が無い。
けれども、その表現を一律に『口付け』でやってしまうのは良くないに決まっている。口には絶対にするな、と言い聞かせているが、何かあっては大変だ。大切なファーストキスを覚えたての表現方法を使いたがる存在に奪われてしまっては、可哀想なんて言葉では済まない。
「なんかすげー顔してるけど」
地を映し始めていた蒼の中に、紅が宿る。目の前には、少し屈んでこちらを覗き込む神の姿があった。いつの間にか子どもたちと別れてこちらに来たらしい。
「……いい加減キスするのやめたらどうですか」
「何で? 好きなんだからいいじゃん」
「色々と問題があるのですよ」
あっけらかんとした様子の神に、人間は渋い顔をする。事故が起こってからでは遅いのだ。それに、あんな微笑ましい風景を見ているというのに何故だか胸が薄ら暗くなるのだ。長く暮らしているはずの己以上に懐いている姿を見ているからだろうか。嫉妬としても幼すぎる。はぁ、と溜め息をこぼす。そーなのか、と紅は納得半分疑問半分の声を漏らした。
「でも大切な人にやるもんなんだろ? 皆大切なんだしいいじゃん」
「『大切』の中でも特に大切な人にするものなのです。そう簡単にするものではありません」
へぇ、と赤い口から間の抜けた声が漏れる。そうは言ったものの、彼の中で『大切』の分類がきちんとされているか怪しい。不安は尽きない。
「それに、子どもたちの教育にあまり良くありません」
所構わず口付けを降らせる神の姿に影響され、子どもたちの間では口付け合うのが流行し始めている。こちらも『口』への事故が不安だ。言い聞かせ、早く廃れさせなければいけない。そのためには、まず元凶を止めなければならないのだ。
ふんふんと目の前の紅い頭が上下し頷く。今度は肩を寄せるようにことりと傾く。戻ってまた頷き。なるほどな、と会得のいった声が聞こえた。
どうやら理解してくれたらしい。よかった、と胸を撫で下ろす。あとは子どもたちの方をどうにかせねば。考える頭に何かが触れる。温かなものがそっと頭を撫ぜ、こめかみを伝い、頬へと添えられる。
「じゃあクロワにはしてもいいんだよな?」
だってクロワは一番『大切』なんだし。
そう言って神は笑う。頭上におわす太陽のような眩しい笑みが向けられる。きゅうと何かに締め付けられるような感覚に陥った。思わず一歩退く。固さが目立つ手が自然と離れていった。
「……まぁ、僕になら」
日々振り回されているものの、己ならば彼にきちんとストップを掛けられるはずだ。『事故』があっても子どもたちほどダメージは受けない。それに、『神』の求めるものを捧げる信者の役目である。頬や額を差し出すぐらい安いものだ。
草が踏みしめられる音。目の前の紅が視界を埋める。また頬に温度。紅玉がふっと細まり、赤い口が開く。クロワ、といっとう甘い声が己の名をなぞった。
紅が近づく。風に揺られる紅が、真ん丸な紅が、八重歯で彩られた紅が近づく。視界を埋めていく。鮮やかな、眩しいほど鮮やかな色に反射的に目を閉じた。
柔らかな温もりが頬に触れる。ちゅ、と可愛らしい音が耳元で聞こえた。
熱は一瞬で離れて消えていく。消えていくはずなのに、頬が熱くて仕方無い。触れた場所から伝播していくような心地だ。情けない、と思わず目を伏せる。たかが頬へと口付け程度で赤くなるなど、初心にも程がある。
「そういや何で口はダメなんだ?」
「…………色々と複雑なのです。帰ったら説明しますから」
この場で唇に唇に触れる意味など教えられるはずがない。彼を納得させる簡潔な言葉は持っていないのだ。それに、子どもたちに聞かれては一大事である。彼と二人暮らしをしているのだから、帰ってから本で例でも出しながら説明した方が早い。
なぁ、と呼ぶ声。視線をやると、輝く炎瑪瑙と視線が合った。
「帰ってからもやってもいい?」
「ダメです」
すぐさま切り捨てると、不満げな声があがる。頬を膨らませる姿は幼げで可愛らしいが、絆され許してしまうべきことではない。それを含めて、帰ってからみっちり教えねば。
一人決心し、蒼は子どもたちへと歩みを進める。そろそろ戻りますよ、と屈んで視線を合わせながら告げる。はーい、と元気な声と、早くも草を踏みしめ駆けていく音が聞こえた。
風が子の、人の、神の背を押す。若い緑で染まった庭から影が消え、建物の中からはしゃいだ声が聞こえ始めた。
業焔宿りし瞳/火琉毘煉
幕が垂らされたブースに入る。敷かれた布に皺が寄らないよう、慎重に足を運んだ。
空間の真ん中に音も無くしゃがみこむ。少し斜めを向き、少年は片膝を床につけた。右半身に温度。視線をやれば、珍しくこちらに寄り添う式神の姿があった。あまり接触を好まない彼女だが、指定されたポーズなのだから仕方無い。早くしなさいよ、と言いたげな菫がこちらに向けられた。
懐から取り出した愛用の札を、いつものように両手の指に挟んで構える。そのまま、真正面を向いた。まばゆいほどの照明が、数え切れないほどの撮影機材が、脚立に設置されたカメラが見返してくる。透明なレンズと視線がぶつかる。遠くまで引かれ小さくなった円の中に、黒が、白が、赤が見えた。
深い赤の目がすぅと眇められる。よく舌が回る大きな口が閉じられ、口角が上げられる。普段は見せることのない不敵な笑みを作りだし、退治屋はまっすぐにレンズを見つめた。
「よく撮れてるじゃないか」
液晶画面を横から覗き込み、煉は満足げに言う。撮影の興奮冷めやらぬのか、どこか上擦った調子をしていた。親指と人差し指を顎に当て、ふふふ、と漏らす笑声もどこか浮ついている。前足を机に掛けて一緒に覗き込んでいた鈴音が呆れを多分に含んだ息を漏らした。
いつもの調子の少年に構うこと無く、撮影班は淡々と撮った写真を比較していく。これでいいかな、と一枚の写真がノートパソコンの画面いっぱいに表示される。いいじゃないか、と依然浮かれた声が飛んできた。
「俺の業火より燃え血よりも深い瞳が鮮明に刻まれているな。この漆黒の闇と紅蓮の焔差す純白の髪も綺麗に映って――」
「じゃあこれで決まりだねー。お疲れ様」
流れるように言葉を並べ立てる少年に、撮影を担当していた識苑は手を振る。よく回る舌が止まり、世話になった、と礼の言葉がなめらかに告げられた。礼節はきちんと弁えていた。
黒いブーツが踵を返す。一歩進んだところで、それはまたくるりと回った。赤い瞳が次の撮影の準備をしようとパソコンを操作する背を眺める。しばしして、なぁ、と煉は口を開いた。
「先の写真なんだが」
「あれ? 別のが良かった?」
「いや、違う」
慌てて先ほど決定したばかりの写真を開く教師に、退治屋は否定の言葉を返す。夕陽色の目がぱちりと瞬いた。相対する茜空の目が宙を泳ぐ。しばしして、長い指が液晶に映る自身の顔を差した。
「……左目にエフェクトを付けることってできるか?」
「ちょっと」
煉の提案に、足下に付いていた鈴音が抗議の声をあげる。黒衣に包まれた足を白い前足がぺしんと叩く。わがままを言うな、手を掛けさせるな、と鋭い紫苑の瞳が頭上の主を見上げた。
「いや、もちろん現時点でも素晴らしい写真ではあるのだが、この彼岸花のように鮮烈で紅玉のように濃く深い左目に焔のように輝きたなびく光のエフェクトを付けることで写真の更なる魅力が引き出され――」
「いいねぇ! かっこいいと思うよ!」
言い訳をするように早い調子の長口上を遮り、月色の目がぱぁと輝く。骨張った手がマウスを操り、画像編集ソフトを立ち上がる。左目に風になびくような赤の線を引き、腕を組んで依然迂遠な言葉を連ねる少年に画面を向けた。
「こんな感じ?」
「そう!」
簡素に加工された写真を指差し、白髪の少年は大声をあげる。理想通りだったらしい。
「そういえば持ってきた宣材写真もこういう風に加工されてたしねー。君っぽくて良いと思うよ」
「そうだろう? 俺の代償背負いたる左目にはこういうのが――」
「いい加減にしなさい」
また口を開く煉の頬に肉球が押しつけられる。見かねて立ち上がった鈴音の手だ。まだ丸みを残した頬がぐにりと歪んだ。口に近い部分を押さえられてか、長々とした言葉が止む。そんな二人を気にすること無く、識苑はマウスを操作した。
「うん、じゃあエフェクト入れとくね。今度こそお疲れ様」
「よろしく頼む」
では、と手を振って身を翻し、少年は大仰な足取りで扉へと歩いていった。戸を開け、廊下に出て一礼し、彼は撮影室を出た。
特別教室棟の廊下に、ふふふ、と浮かれた調子の笑い声と、はぁ、と呆れた調子の深い溜め息が響いた。
月より団子/ハレルヤ組
窓越し、星が輝く夜を背に白が並ぶ。綺麗に揃えられた真ん丸は三方の上に積み上げられ、美しい三角山を作り出していた。つるりとした丸だというのに転がり落ちる気配すらないところから、作った人間の几帳面さがよく窺える。
薔薇輝石の瞳が、柘榴石の瞳が真っ白ですべすべとした表面を見つめる。二色の瞳は山を成す団子に釘付けになっていた。こくりと白く喉が上下する。真っ白なお団子。美しいお団子。美味しそうなお団子。丁寧に作られた月見団子は、少年少女の食欲をこれでもかと刺激した。夕飯を食べたばかりだというのに腹が鳴ってしまいそうなほどだ。
「……一個ぐらいならバレなくね?」
「形崩れちゃうからバレちゃいマスヨ」
「食べる用は別で作ってありますから勝手に食べない」
月見団子の山に熱烈な視線を送る二人の背に、ほのかに棘が見える声が掛けられる。身体が二つビクンと震え、鏡合わせのような動きでおそるおそる振り向く。食欲に輝く紅葉と桃に、盆を持った浅葱の姿が映った。
「タッ、食べマセンヨ?」
「まだ何にもやってねぇよ?」
きょろきょろと視線を泳がせる二人に、烈風刀は小さく息を漏らす。呆れと少しの愛しさがにじんでいた。薄く険しさが浮かぶ表情が解け、小さな笑みを浮かべた。
「それに、そちらは作ってから時間が経って固くなっています。あんまり美味しくありませんよ」
こっちを食べてください、と少年は手にした盆を机の上に置く。両手でなければ持てない大きさのそれには、朱と桃が今の今まで見つめていた白があった。それも、三つ。
碧は手慣れた様子でテーブルに皿を並べていく。各々の前に置かれた小皿の上には、一口サイズに整えられた団子が小さな山の形に盛られていた。脇にある小さな鉢には、黒と茶と橙がスプーンとともに入っている。二色の瞳が不思議そうな様子で三色を覗き込む。少し節が目立つ指が器を順々に指差した。
「これがあんこで、こっちがみたらし餡、そっちがかぼちゃ餡です。好きなものを掛けて食べてください」
わぁ、と感嘆の声が二つあがる。誤魔化すように宙をうろうろと漂っていた紅水晶と紅玉が皿に一心に向けられる。見つめる瞳は夜空に浮かぶ星と同じほど輝いていた。関心は台の上に成された大きな三角山でなく、目の前の小さな山にすっかりと移ってしまったようだ。
並べられた団子の前に、三人一緒に手を合わせる。いただきます、と元気な合唱が夜の部屋に響いた。
「あんこ美味しいデス~!」
「かぼちゃんめぇ! 甘い!」
好きな餡を掛けた団子が赤い口の中に消え、柔らかな頬がもぐもぐと動く。感動に満ちた声が二つあがった。それはよかった、と烈風刀もみたらし餡をひとすくい掛けて団子を口に運ぶ。出来が良かったのだろう、花緑青の目元がふわりと解けた。
赤い口の中にどんどんと白が消えていく。団子も餡もあっという間に無くなってしまった。ごちそうさまでした、とまた合唱。美味しかった、と元気いっぱいの二重奏が続いた。
ルビーレッドが、チェリーピンクがそろりと動く。同じ方向へと向けられた視線二つは、まだ山を成す大きな月見団子に吸い込まれた。輝く二色は、まだ食べ足りないと語っていた。夕飯をめいっぱい食べて尚、ほの甘いであろうそれに目を奪われてしまう。『甘い物は別腹』とはよく言ったものだ。
「そのまま食べるのには向いていませんよ」
「じゃあどうすんだ? 捨てるわけにはいかないだろ?」
「調べたのですけど、おしるこにするのがいいそうで。水分を吸って柔らかくなり食べやすくなるみたいです」
おしるこ、と二つの声が重なる。同時にバッと振り返り、白い山に向けられていた視線が若草色に注ぎ込まれる。見つめる二色の瞳には、食欲の光が煌々と輝いていた。小さく開いた口から涎が垂れてしまいそうなほどの輝かしさだ。
「……明日にする予定だったんですけどね」
半分諦めた調子の声に、少年と少女の目が丸くなる。まっすぐに見つめる瞳には、期待がたっぷりと乗っていた。
困ったように、呆れたように眉を八の字にした碧は、手早く盆に皿を載せる。秋服に包まれた腕が、三方へと伸ばされる。そのまま、器を重ねて空けたスペースにそれを載せた。
「今から作ってきます。ちょっと待っててください」
「ハイ!」
「おう!」
やったー、と顔を向き合わせ手を上げ喜ぶ二人の姿に、烈風刀はそっと口元を綻ばせる。先の団子も、飾っていた月見団子も、彼が自作したものだ。自分が作った料理を楽しみにしてくれている。美味しく食べてくれている。作り手冥利に尽きる光景だ。
再びキッチンに立った少年は、ふとリビングへと視線を戻す。ローテーブルの前に腰を下ろした二人は、窓の外には一切目もくれず楽しげに話していた。おしるこ、とはしゃぐ声が耳をなぞる。
お月見なんですけどね、と笑みを含んで呟く声は、少し冷えた台所に落ちて消えた。
「今日の卵焼きしょっぱかったですね」「たまにはこういうのもいいでしょ?」/グレイス+ハレルヤ組
いただきます。四重奏が昼休みの賑やかな教室に響く。合わせた手を解くと、各々箸や弁当箱の蓋に手を掛けた。
薄紫の蓋を両手で開けて取り、グレイスは箸を握る。弁当箱の半分には、朝作って詰め込んだおかずたちが並んでいた。一部冷凍食品を詰め込んだものの、どれもなかなかの出来だ。一人で料理するようになってしばらく経つが、ようやく見目を意識して作ることができるようになってきた。それでもまだ姉や仲間の碧には敵わないのだけど。
んめー、と向かいから声。頬いっぱいに弁当を頬張る雷刀の姿が見えた。深紅の箸には黄色い卵焼きがあった。少し大ぶりなそれが、めいっぱいに開いた赤い口に吸い込まれる。頬をもぐもぐと動かしながら、またんめぇ、と感嘆の声をあげた。飲み込んでから喋りなさい、と諫める声が朱い頭にぶつけられた。
「なんかさー、たまにしょっぱい卵焼き食べたくなるよな」
なんでだろな、と彼は白米に箸を伸ばす。わしりと掴み、口に放り込んでいく。すっとした輪郭をした頬が丸く膨らむ。
え、と躑躅は思わず声を漏らす。白身フライを口に運ぶ手が止まった。
「卵焼きって甘いんじゃないの?」
「しょっぱいのもあるだろ?」
きょとりとした顔をする躑躅の少女に、朱い少年もきょとりとした顔を返す。アァ、と隣から納得したような声。
「ワタシは甘いのしか作りマセンカラ、グレイスはしょっぱい卵焼き食べたことないンデス」
ネメシスに来たばかりの頃は、レイシスが昼ご飯に弁当を作ってくれていた。その中に入っている鮮やかに黄色くてかっちりと巻かれた卵焼きはいつだって甘かった。卵焼きとはこういう味なのか、甘い食べ物なのか、と今の今までずっと思っていたが、それは彼女の嗜好の結果だったらしい。
「オレらも基本甘いのだけど、しょっぱいのも作るぜ?」
な、と雷刀は隣に顔を向ける。そうですね、と烈風刀は箸を置いて応えた。へぇ、とグレイスは漏らす。甘いのとしょっぱいのがあるなら、辛いのや苦いのもあるのだろうか。今度聞いてみようか、と掴んだままだったフライを口に入れる。魚の香りと塩気が舌の上に広がった。
「食べてみますか?」
筋の浮かぶ手が深い青の二段式弁当箱を掴む。少年はおかずが入った段を少女の目の前に差し出した。ブロッコリーの緑、プチトマトの赤、カップグラタンの白、ウィンナーの茶色。様々な色の中に少し焦げ目の付いた黄色があった。
いいの、と尋ねると、えぇ、と穏やかな声が返ってくる。いただきます、と一言断って、グレイスはよく焼かれた卵焼きへと箸を伸ばした。一口で食べるには少し大きなそれを半分かじる。口内に広がったのは普段のほの甘い優しい味ではない。しょっぱさの中に不思議な風味が広がるものだった。
「ほんとだ。しょっぱい」
こくりと飲み込み、少女はこぼす。美味いか、と正面から問いが飛んでくる。美味しいわ、と素直に答えると、目の前の顔がパァと明るくなった。どうやら今日の弁当を作ったのは兄の方のようだ。
「……ねぇ、これって砂糖の代わりに塩入れればいいの?」
「そだな。今日は白だしも入れたけど」
初めて聞く名だ。しろだし、と思わず復唱する。スーパーに売ってますよ、と優しい声がかけられた。ふぅん、とどこか心ここにあらずといった調子で声を漏らしてしまう。
「美味しいわ。ありがとう」
礼を言って、グレイスは残りの卵焼きを食べる。またふわりと風味が香る。これが『しろだし』とやらによるものなのだろうか。塩のしょっぱさだけでも十二分に美味しいだろうが、こうやって風味があると更に美味しく感じる。料理って不思議、と心の中でこぼした。
躑躅の目が弁当箱からあがる。しばしの逡巡、ねぇ、と健康的に色付いた唇が控えめな声を発した。
「しょっぱい卵焼きって、塩としろだしってやつどれぐらい入れればいいの?」
「……えーっと…………、塩はこんくらい? で、白だしはなんかちょっとどばってならないぐらい」
少女の問いに、制作者である朱は悩んだ末身振り手振りで示す。正確な分量を知りたいのだが、どうやら感覚で作っているようだ。いつも直感で行動する彼らしい。
「こればかりは感覚と経験ですね」
苦笑を漏らしながら烈風刀が言う。レシピを厳守し、きちんと量って料理をする彼らしくもない言葉だった。経験ねぇ、とどうにもならない解答をぼやくように繰り返した。
「……うん。分かったわ。ありがと」
今一度礼を紡ぎ、グレイスは白米に箸を伸ばす。舌の上にほのかに残った塩気に、米の甘みが加わった。なるほど、しょっぱい卵焼きはご飯に合うのか。甘い卵焼きも合わないわけではないが、白米に合わせるならこちらの方が良いように思えた。
今日は帰りにスーパーに寄ろう。そして卵と『しろだし』とやらを買おう。帰ったら試作だ。ぶっつけ本番ではまずいものができあがってしまうかもしれない。そんなもの、自分で食べるのはもちろん人に食べさせるわけにもいかない。
考え、少女は食事を続ける。鼻の奥にはまだあの風味が残っている気がした。
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twitterすけべまとめ2【ライレフ/R-18】
twitterすけべまとめ2【ライレフ/R-18】
twitterで書き散らしてた大体2000字ぐらいのすけべまとめその2。twitter掲載時から修正とか改題とかしてるのは気にするな。
足りない熱
低いモーター音が薄暗い部屋に響く。微細な音であるが、深夜の静まりかえった部屋では酷く大きく聞こえた。機械的なそれの中に、荒い呼吸が混ざる。あまりにも浅く乱れたそれは酷く辛そうに聞こえるが、確かな熱と甘さを帯びていた。
激しい振動が、肚の中を直接刺激する。電動する機械が力強くうねり、繊細な粘膜を擦り上げる。球体が連なったような胴体が蠢き、うちがわを擦り、抉り、引っ掻き回す。その度に、莫大な快楽が脳味噌に叩き込まれた。
「ッ、あ、ァ……ぅ、ん……」
細い声が塞いだ口から漏れ出る。艶めいたそれは、性的興奮を、快感を覚えていることがありありと分かるものだ。
バスタオルを何枚も敷いたベッドに横たわった烈風刀の身体は、下半身だけ生まれたままの姿だった。薄闇の中肌を晒す下肢は、股ぐらを中心に濡れている。特に酷いのは臀部だ。薄く肉が乗ったそれは、ぬめったものにまみれていた。双丘の間、秘めたる場所は粘液が滴るほどぐっしょりとしていた。
濡れそぼつそこには、明らかな異物が鎮座していた。バイブレーターだ。雄の器官を形取った機械が、常は閉ざされるべき蕾を大きく割り開き、内部へと侵入していた。黒い器具は、ヴィンヴィンと音をたて円を描く。その度に、熱っぽい吐息や高い嬌声が部屋に響いた。
この偽物とは――兄に片恋していた頃、『抱かれたい』という欲望を満たしてくれたこの機械とは縁を切ったはずだった。だって、自分にはもう恋人がいる。嬬武器雷刀という、ずっと想いを寄せてようやく結ばれた恋人がいる。こんな紛い物に頼ることなどあってはならなかった。
だが、実際はどうだ。片想い時代より欲望を溜め込み、多忙が故に愛する人と身体を繋げることもできない日々。どうにか一人慰めようにも雄の部位だけではもう満足できない。受け入れる部分を指で刺激しても、物足りなさを覚えてしまう。クローゼットの奥底にしまいこんだこれに再び手を伸ばしてしまったのは、必然でありながらも愚かとしか言い様がなかった。
電動モーターが、あらかじめプログラムされた通りに動く。内壁を擦り、性的快楽を欲求を発散しきれない身にもたらす。雄を欲し泣き喚く肚を慰める。効果は絶大だった。指なんかでは届かない部分を直接刺激する。指では加減してしまうような場所を容赦なく抉る。指では再現できない動きで内部を蹂躙する。凄まじい肛悦を与えられ、少年はただただ法悦を謳い上げた。
口を押さえていた手が片方離される。そろそろと動き、音をたてて内部を荒らし回る器具に触れた。快感に震える手が、限界まで潜り込みはみ出た柄を捕らえる。そのまま、そいつを引き抜いた。ずるるる、と抜き、ぶちゅんと濡れた音をたてて押し込む。抜いて挿入れてを繰り返す。律動の真似事だ。兄との性行為を再現しようとしているのだ。
「あっ、ァッ……ん、ぅう……ンッ」
ぐちゅぐちゅとローションが泡立ち音をたてる。肚の内が掻き回される。性交を思わせる音色と刺激だった。快楽に支配され処理能力が落ち込んだ脳味噌は、一人寂しい遊戯を愛しい人とのまぐわいと錯覚した。
目の前に放り出した携帯端末を手に取る。震える手でスリープを解除すると、液晶画面いっぱいに兄の笑顔が映し出された。いつぞや畑仕事の合間に取ったその写真は、性など欠片も感じさせない。けれども、今の烈風刀にとってはこれ以上無く興奮をもたらすものだった。何と言ったって、身体がずっと求めているつがいの姿なのだから。
「ぁ、らいと……らいとぉ……」
口を塞ぐことなどもう忘れていた。とろけきった瞳で画面いっぱいに映し出された朱を見つめ、甘ったるい声で愛し人の名を紡ぐ。吐息と嬌声混じりのそれは、卑猥としか言い様がないものだ。一心不乱にバイブレーターを動かす様も、またいやらしさに拍車を掛けていた。
半ばまで抜いた偽物を、一気に挿入する。シリコン製の硬いモノが、イイ部分をごりごりと刺激する。視界に数え切れないほどの白が散った。アッ、と一際高い音が夜闇に響いた。
じゅくじゅくと潤滑油と腸液をかき混ぜ、自らの手で肚を蹂躙していく。脳髄に快楽を叩き込み、理性を壊れさせていく。常は隅に押しやっている本能を剥き出しにさせていく。きもちいいことしか考えられなくしていく。
ァ、と艶やかな声が、ヴィン、と低い機械音が、じゅくり、と淫らな水音が、深夜の私室を満たしていく。よく整頓された清潔な部屋は、淫猥極まりない性の匂いで満ちていた。
目の前で白い光が弾けて消える。機能が破壊されるのではないかというほど頭の奥が痺れる。紛い物の雄を迎え入れた腹が疼く。絶頂が近いのだ。高みを求め、碧は注挿する手を早めていく。前立腺を潰すように浅く抜き差しし、限界まで届くように強く突き入れる。ただでさえ容赦ない手つきだというのに、自動で蠢き震える機械が更にそれを酷くした。
ごりゅ、と先端がいっとう好む部分を抉る。パチン、と目の前で何かが弾けた気がした。
「ッ――――アっ!」
びくん、と横たわった身体が跳ね、弓なりにしなる。盛大な嬌声が部屋に響き渡る。勃ち上がりとめどなく雫を漏らしていた屹立から白が吐き出される。雄を模した機械を咥え込んだ場所がきゅうぅと強く締まった。
全力疾走したかのような荒い息がシーツの上に落ちていく。頂点に至ったというのに、ひ、ぁ、ととろけきった声がどんどんとこぼれる。電源を切っていない機械が内部で蠢いているからだ。力の入りづらい手で、運動を続けるそいつをどうにか引き抜く。ずる、と肉の孔からぬらぬらと輝く黒いシリコン器具が抜け落ちた。
喘鳴に似た呼吸が部屋に落ちては積もっていく。快楽漬けになった脳味噌が落ち着いていく。薄れ行く本能が喚き立てる。これじゃあ足りない、と。
「らいと」
愛しい人の名を呼ぶ。物足りなさと切なさと寂しさとが混じった、暗い色をしていた。
こんなもの、あの人との触れ合いには及ばない。少し硬い手でなぞられ、潤いが少し足りない唇で触れられ、熱の塊のような逞しい雄で肚を穿たれる。偽物を用いた慰めなど、幸福に満ちた性行為には似ても似つかなかった。
愛しい人に触れられたい。愛する雄に食われたい。己だけの捕食者に蹂躙されたい。まぐわいを重ねた身体は、満たされることなく大好きな人を求めた。
はぁ、と重い息を吐く。モーターが仕事をする音が、渇求の悲鳴あげる脳味噌の片隅に響いた。
悦び求めて
節の目立ち始めた指が、柔らかな洞に潜っていく。今まで触れてきた何よりも熱く柔らかく思えた。
第一関節まで埋め、指の腹で内壁を撫でながらゆっくりと戻る。頃合いを見計らい、第二関節まで潜り込ませ、鉤状にした指先で熟れた肉を引っ掻く。根元まで這入り込み、好む部分をとんとんとあやすように押してやる。侵入者がうちがわを荒らす度、高い艶声が部屋に響いた。
腹を擦りつけながら、埋めていた指をゆっくりと引き抜く。解れ始めた孔に、潤滑油で濡れきった人差し指とまだ乾いた中指を添える。飢えを訴えるようにひくつくそこに、二本同時に侵入していく。わずかに増えた圧迫感にか、う、と苦しげな声が漏れるのが聞こえた。安心させるように、苦しさなど忘れさせるように、ぷっくり膨れた一部分を揃えた指でぐっと押した。瞬間、目の前の体躯がびくんと大きく跳ねる。アッ、と鋭い嬌声付きだ。雄を誘う響きが薄闇に広がった。
指を動かす度、ぐちゅ、ぐちゃ、と淫らな音があがる。たっぷりと注入したローションが捏ねられる音であり、柔らかな媚肉が蹂躙される音であり、官能を誘う音だ。腹に灯る焔に、薪をくべていく。情火は燃え盛るばかりだ。
指二本が勝手気ままに動くことほどになったのを見計らい、雷刀は侵入者たる二匹をゆっくりと引き抜く。あまり強い刺激を与えないようにしたが、解せども未だ狭い肉の道には侵入者は太すぎた。結果、熟れきった粘膜は擦られ、快楽を発生させる。あ、ぁ、と溺れきった細い声が雄の欲望を刺激した。
長い時間をかけ、ようやく指が肉洞から去っていく。注ぎ込まれ、塗り込められたローションが糸を引き、指先と後孔を繋ぐ。あまりにも淫靡な風景だ。思わず、ゴクリと唾を飲む。ぷつりと粘液の架け橋が切れて尚、ぬらぬらと光る指先を魅入られたように見つめた。
ぬとつく指先から視線を上げる。そこにあったのは、シングルベッドに寝転がった弟の身体だ。
清潔な白い枕の上には、汗ばみ少し束になった浅葱の髪が散っている。浅海色の瞳には涙が膜張り、本物の海のような様相になっていた。完璧な日焼け対策を行っている白い身体は、うっすらと紅潮している――明らかな性的興奮によって。筋肉で薄く盛り上がった胸の頂には、ツンと上を向き主張を存在する赤の姿があった――これもまた、性的興奮を覚えている証左である。薄く割れた腹筋は、粘ついた液体で濡れていた。カウパーだ。中心部で勃ち上がり大きく主張する弟自身から、絶えず透明な雫がこぼれていた。筋肉が発達し肉の薄い足は、だらしなくシーツの上に放り出されている。絶え間なく与えられ続けた快楽で――この先たっぷり与えられるであろう肉の悦びを期待して、動くことができないのだ。
総じて、卑猥以外に表現することができない様相だった。腹の奥底を、雄の本能をこれでもかと刺激する姿に、朱は今一度唾を飲み込む。最上級の馳走を前に、今から味わう快感への多大なる期待に、じゅわりと唾液が湧き出た。
「エッロ……」
思わず漏らした言葉は、無意識のものだった。それ以外に形容することができない、それほど言葉を漏らしてしまう姿であった。
「な、にが、えろいですか。へんたい」
ぜぇはぁと荒い呼吸の合間に、罵声が飛んでくる。快楽漬けにされたはずの怜悧な脳味噌は、まだ思考力と会話能力を失っていないらしい。涙を湛えた孔雀石が、こちらを睨みつける。それもすぐ発言者の顔から移ってしまう。濡れた翡翠が向けられたのは、呆けたように掲げられた手――今さっきまで己の中身をぐちゃぐちゃに荒らし回った指だった。明らかに更なる刺激を欲している目だ。内部への侵入者を欲する目だ。雄にめちゃくちゃにされることを期待する目だ。
あまりにも情熱的な視線に、隠し持つ淫乱な性質を露わにした様子に、雷刀は苦笑を漏らす。どれだけ熱心に見つめられようとも、こいつにもう用は無い。バトンタッチする時間だ。
「だって、エロいもんはエロいじゃん」
心の底からの言葉に、赤い頬が更に熟れていく。指に固定されていた視線が動き、己が身体を見下ろす炎瑪瑙を強く睨めつけた。法悦の涙を流しながらそんなことをされても、こちらの情欲を、征服欲を刺激するだけだ。そんなこと、今までの行為から分かりきっているだろうに。
放り出された足、膝裏に手を潜り込ませ、持ち上げる。腰が持ち上がり、解しに解されぷくりと膨らんだ秘蕾が眼下に晒された。縁が赤らんだそこは、雄を誘うようにはくはくとひっきりなしにひくついている。早く挿入れてくれ、と本能が強く訴えていることが丸わかりだ。
浅く開けては閉めてを繰り返す狭穴に、雄の象徴を擦り付ける。己のそれも、既に先走りでドロドロに濡れていた。ここまで我慢できたことを褒められたいほどの状態である。それほど、愛する人の肚の内を求めていた。
ちゅくり、と秘部と秘部が触れ合い、小さな音があがる。口付けにも似た音だ。それ以上に艶然で、妖艶で、欲望を刺激する音色をしていた。
ほんの小さな接触と音に、組み敷いた身体がびくんと跳ねる。ぁ、とあがった声は、快楽に溺れ、期待がたっぷりと詰め込まれたものだった。雄を欲し、雄に食われ、種を植え付けられることを夢想した、淫奔極まりない響きだった。
足を掴んだ手に力を込める。そのまま、膝をシーツの上に押さえつけた。眼前に、はくりはくりと口を開ける淫穴がはっきりと映る。ローションをたっぷり注がれ艶めく隘路の中までつぶさに見えるほどだ。
ず、ず、と勃ち上がりきった己自身を、ひっきりなしに蠢く窄まりに擦り付ける。特に敏感になった部分を熱で弄ばれてか、唾液で潤った唇から物欲しげな嬌声がぽろぽろとこぼれるのが見えた。押さえつけたはずの腰が揺らめき、自ら怒張に肚への入り口を擦り付ける。あまりにも浅ましく、あまりにも蠱惑的な動きだった。
焦らすそれをやめ――我慢が限界を超え、雷刀は切っ先をぴったりと蕾に宛がう。途端に、揺らめく腰の動きが止まった。今から待望の存在が己のうちがわに這入ってくるのを理解してのものだ。
えっろ、とまた無意識にこぼす。今度は罵声は飛んでこなかった。代わりに、熱烈な視線が向けられる。快楽と期待にとろけきった瞳が、つがいをじぃと見つめていた。
これほどまで期待されたのなら、応えなければならない――何より、己が弟を欲してやまないのだ。
これ以上の我慢などできるはずがない。これ以上理性が保つはずがない。むしろ、あの瞳を見た瞬間に、理性は消し飛んでいた。剥き出しになった本能が叫ぶ。早く食らえ、と。
喚き立てる本能に従い、宛がった欲望の塊を一気に粘膜の中に突き入れる。一際高い声が、待望の悦びを謳い上げる声が、捕食者の心を強く刺激した。
奥の奥まで
肉と肉がぶつかる音が室内に響き渡る。音があがる度、凄まじい快楽が怜悧なる頭を焼いていった。
腰が打ち付けられる強さは尋常ではない。常はこちらの身体を慮る恋人は、今日ばかりは理性を完全に失っていた。獣の本能を剥き出しにしたつがいは、暴かれざる孔にひたすら猛った楔を突き立てる。こじ開けもう二度と使い物にならなくさせるような勢いだった。
ばちゅん、と湿りを帯びた打撃音があがる。痛覚信号が刺激を伝達し、これは痛みであると訴えた。しかし、快感に浸されて馬鹿になった脳味噌は甘美なる感覚であると誤認した。打ち付けられる度、穿たれる度、痛覚が反応する。きもちがいいことをされている、と。
ふー、ふー、と烈風刀は獣じみた呼吸を漏らす。最初はシーツに突いていた手は既に崩れ、だらしなく放り出している状態だった。掴まれた腰だけ高く上げ、顔を白い布に埋め、ひたすらに甘やかな息を吐き出す。もう嬌声をあげる余裕など無かった。与えられ続ける法悦は凄まじく、思考能力を奪っていく。理性など全てぶち壊して、本能を剥き出しにしていく。孕みたい、なんて馬鹿げたことを真剣に求めてしまう。
ごりゅ、ごちゅ、と腹の奥底を穿たれる。高く上げられた尻、侵入を果たした肉洞、その行き止まりを突き破らんと硬い先端が幾度も突き立てられる。最奥を守りし襞を越えるのは容易なことではない。だから、雄は試行を重ねる。素早く重い動きで狭穴に剛直を突き入れ、奥の奥を力強くノックする。抉るように奥を突かれる度、多大な快感が脳味噌に注がれる。許容量なんて知らないとばかりに、きもちいいことだけをどぱどぱと注ぎ込む。本能だけになったつがいは、幸福に熱い吐息を漏らした。
ぼちゅん。一際強く、奥底を突かれる。瞬間、砦たる襞が掻き分けられ、更なる奥へと侵入を許した。
ァ、と思わず声が漏れる。腹の奥底に這入られた苦痛や恐怖によるものではない。悦びだ。吐息に分類されるような細いそれは、ひたすらに幸せ色に染まった響きをしていた。
暴かれざる場所への到達を確信したのだろう、雷刀は注挿を更に早く、重くする。当たり前だ、そこは一番きもちよくなれる場所なのだ。快楽を追い求める獣が食い散らかそうとするのは必然である。
役目を奪われた襞は、這入り込む先端を押し返そうと絡みつく。それが多大なる悦楽を生むのだろう、動きは細やかになる。襞に扱かれることを求めての動きだ。そして、秘められたる場所へと種を吐き出そうとする動きだ。
種を植え付けられる。孕まされる。
あり得ない予感に、涙膜張る碧い瞳がとろりととろけた。雄を抱きとめた腹がきゅんきゅんと疼く。強く締め付け、早くちょうだいとねだってしまう。
どちゅ、と一際大きく突かれ、抉られ、穿たれる。守りし襞を何枚も破った先、侵入など許してはならぬ場所に先端が這入り込む。快楽信号が全身を走り、頭に凄まじい量の孔悦をぶち込んだ。目の前が白む。脳味噌が白む。思考ができなくなる。身体が大きく痙攣をする。支配者の蹂躙により、絶頂を迎えたのだ。ぁ、あ、と痙攣の度に吐息と同義の声が漏れる。歓喜を表すように、媚肉は受け止めた屹立をぎゅうぎゅうと熱烈に抱き締めた。
どくん、と受け入れた怒張が脈を打つ。それを合図に、腹の奥の奥が焼かれるような感覚に陥った。快楽の頂点に至ったつがいが、この腹に種を吐き出しているのだ。
びゅーびゅーと音をたてて、獣の濁流が腹を白く染め上げていく。身体を守る襞を破られ、異物に荒らし回され、腹を膨らませんばかりに体液を注ぎ込まれる。悲惨な状況だ。だというのに、被食者たる烈風刀は口元を綻ばせた。普段の整い澄んだ表情など影すらない、だらしないと評されても仕方の無いゆるみきった顔で熱を受け止めていた。
孕まされる快楽が脳味噌に押し寄せる。受容できない量を叩き込まれる。きもちいい。きもちいい。
聡明たる脳味噌は姿を消していた。あるのは、つがいを求め、種を求め、快楽を求める本能剥き出しの脳味噌だ。きもちいいことだけを求めて、きもちいいことだけを認識する都合の良い脳味噌だ。
雄茎が脈打ち、白濁液を吐き出す。決壊した川の様子に似たそれも、だんだんと勢いを失っていく。それでも、最後のひとしずくまで注ぎ込まんと、決して漏らすまいと朱は強く腰を押しつけていた。抱えて腰だけ高く上げさせたつがいに覆い被さり、限界まで押しつけ侵入し、生殖液を吐き出す。孕ませんとする動きだった。それがまた、きもちよくて仕方が無い。肉体の快楽だけでなく、精神まで快楽に満たされていく。幸福に染まりきった身体がびくびくと跳ねる。達しているのだ。それも全て、支配者たる雄によって押さえつけられた。
腹の中の脈動が失われていく。それでも、雄根はナカを満たしたままだ。注ぎ入れた子種を欠片でも漏らさせまいと栓をしているのだ。
背中に温かいものがのしかかってくる。雷刀だ。あれだけ激しい律動をした彼も相応に疲れているのだろう、あー、と肺の空気を全て吐き出すような息とともに、体重を預けられる。体格が同じ人間の体重を受け止めるのは苦しい。揺さぶられ突き立てられたこちらも疲弊しているのだから尚更だ。それでも、苦しさ以上の幸福が胸を埋める。きゅう、と隘路が更に狭くなった。
は、と漏らした息は、薄い疲労と明確なる幸福、貪欲なる熱で染まっていた。
本能声あげ
荒い息が重なり合う。瑞々しい肌が触れ合う。熟れきった粘膜が絡み合う。狭い部屋には濃厚な性の匂いが立ちこめていた。
ぁ、ぁ、と細い声が眼下からあがる。整った眉を悩ましげに寄せ、涙湛えた碧い目を細め、唾液の満ちた赤い口を開け、烈風刀は嬌声を漏らす。高い音が鼓膜を震わせる。欲望を煽る音が頭に満ちていく。愛する者の痴態に心も身体も昂っていくばかりだ。あまりの興奮にめまいがしそうだった。
足を押さえつける手に力がこもる。波打つシーツに鍛えられた足を縫い付け、雷刀は組み敷いたつがいの腰を高く上げさせる。ずるりと抜いた楔を、すっかり綻んだ狭穴に突き立てる。ばちゅん、と湿り気を帯びた打撃音が部屋に響き渡った。全体重をかけた腰使いに、碧は一際高い声をあげた。
杭を打ち込むような注挿をひたすらに繰り返し、奥の奥まで隘路を切り開く。突き当たりの場所を突く、否、叩き続ける。いっとう好む場所を何度も強く刺激され、片割れはただただ喘ぐ。意味の無い単音ばかりをこぼす姿は、普段の頭脳明晰な彼からは想像できないものだった。
「ぁ、アッ……らいと、イく、イッちゃ、ぁッ」
涙をこぼし、烈風刀はイく、と繰り返す。縋るように首に回された腕に力がこもる。必死のあまりか、切りそろえられた爪が背中に突き立てられた。昂った脳味噌は、そのわずかな痛みすらきもちがいいと認識した。
弟はどこか潔癖なところがある。同時に、変な部分で恥ずかしがり屋なところがあった。そんなものだから、日常生活で性に関する単語を口にすることはない。乳の俗称を聞いただけで顔を赤らめる始末である。俗称ですらこれなのだから、誘うために性交を示す単語をストレートにぶつけようものならば顔を真っ赤にして怒るのだ。やることは全部やっているくせに、と考えるが口には出さない。
そんな片割れが、絶頂を示す語を何度も口にする。性的快楽の頂点に至ることを自ら甘い声で報告してくる。あまりにも淫らな姿だ。雄を興奮させる姿だ。単純な己にはてきめんだった。
どちゅ、と体重をかけて奥底を突いてやる。昂ぶり上擦った声が断続的にあがった。背中に立てられた爪が、更に深く皮膚に埋まっていく。普段の彼ならば、傷を付けることがないよう力を緩めるだろう。だが、情欲に溺れ高みに至りつつある現状ではそんなことに気が回るはずがない。赤い線がいくつも背中に描かれていく現状に、は、と熱い息を漏らした。
いっぱいイきな?
首元に顔を埋める恋人、その耳元で囁いてやる。びくん、と組み敷いた身体が跳ねる。埋めた肉槍がぎゅうと抱き締められた。搾り取るような締め付けに、思わず喉が苦しげな音をこぼす。絡みつく襞を振りほどくように、何度も腰を引いては打ち付ける。解すように、荒らすように、何度も何度も肉鞘に剣を突き込んでいく。あがる声はどんどんと細く、高くなっていった。
「ァッ、イっ、イっちゃ……イく、…………あッ!」
背中に一際強く爪を立て、唯一自由なつま先をピンと伸ばし、押さえつけられた身体を弓なりにしならせ、烈風刀は叫声のような嬌声をあげる。きゅうぅ、と内部が強く締まった。気をやったのだ。ナカが侵入者をぎゅうぎゅうと締め付ける。襞が蠢き、根元から扱きあげる。種をねだるような動きだった。
逃がさんとばかりに抱き締めてくる洞から雄を引き抜き、肉の道を割り開いていく。肉傘が絡みつく襞をゴリゴリと擦る。引き締まった身体がビクビクと跳ねた。
「……ぁ!? ァッ、やだっ! やっ、あ……! イッた! イッたからぁ!」
「ごめん!」
どうにか謝罪の言葉を絞り出し、雷刀は腰を打ち付ける。達して敏感になっていることは分かる。もっと労ってやるべきなのは分かる。けれども、淫猥極まりない乱れた姿を見せられては我慢できるはずがなかった。もっと欲しい。もっときもちよくなりたい。欲求ばかりが脳味噌を占めていく。本能に抗うことなど不可能だ。
絶頂を求め、一心不乱に腰を動かす。更に敏感になった粘膜は痙攣し、ひたすらに肉茎に絡みつく。縋るように締め付ける。凄まじい快楽が獣の欲望に染まった頭に注ぎ込まれた。
雄を刺突される度、甘い涙声があがる。過度な快感をぶち込まれ続ける彼は、意味のある言葉など発せられなくなってしまっていた。聡明な彼が、あー、あー、と譫言のような声しか漏らさなくなっている。普段と全く違う、己にしか見せない姿にまた獣の本能が煽られる。繰り出す一撃は重くなっていくばかりだ。
ァ、と小さな声。瞬間、ビクンとまた身体が跳ねた。内部が一際強く締まる。潤んだ肉が肉に絡みつく。再び気をやったのだと頭の片隅で理解した。
とどめの一撃だった。ぁ、と掠れた声が漏れる。ほぼ同時に、腹の奥で燃え盛っていた炎が天を衝いた。脳味噌全部が痺れて世界が認識できなくなる。碧が影差す視界が白んだ。
熱い肉に、熱い液が注ぎ込まれる。どくどくと脈打つ己自身が、つがいの腹に子種を注いでいく。生殖本能が、独占欲が、支配欲が満たされていく。きもちいい。その五文字だけで脳味噌が埋め尽くされた。
濁液が粘膜を焼いていく感覚にか、烈風刀はあ、ぁ、と声をあげる。細いそれは幸福に染まりきったものだった。
何事にも終わりは来る。腹を膨らまさんばかりの射精も、どんどんと勢いを失っていく。永遠に続くような心地がしていた快楽もゆっくりと凪いでいった。
はー、はー、と息が重なる。全力疾走をした後のような荒く酷いものだった。当たり前だ、身体全てを使って、全ての力を振り絞って激しくまぐわったのだから。
背中に走る痛みが消える。首にしがみついていた腕が解けていく。首筋に埋められていた碧い頭が、とさりとシーツが敷かれたマットレスに預けられた。
常は手入れされた美しい顔は酷い有様になっていた。翡翠の瞳は涙で潤み、どこかぼやけている。目尻は赤く染まり、涙が線を引いていた。紅潮した頬は同じく涙で濡れている。浅く開けられた口の端からは、だらしなく唾液がしたたっていた。
憐憫を誘うような姿に、心臓がドクリと跳ねる。これだけ荒らし回った罪悪感ではない。興奮にだ。哀れさすら感じさせる酷い顔は、雄の欲望を煽った。
「……たっしたといったじゃないですか」
「だってオレはイッてねーし」
それはそうですけど、と紡ぐ唇は唾液にまみれてつやめいている。浅い息をこぼす口からは、赤い舌が覗いていた。熟れきった果実のようなそれに、思わずかぶりつきたくなる。ようやく理性を取り戻した脳味噌は、衝動をどうにか抑え込んだ。
「きもちよかった?」
「……い、わなくて、わかるでしょう」
もごもごと口を動かし、弟は視線を逸らす。二度も気をやった事実から目を逸らしているようにも見えた。可愛らしい姿に思わず口元が緩む。なにわらってるんですか、とまだとろけた声が不満を訴えた。ごめん、と返すも、やはり笑みが漏れてしまう。だって、こんなに愛らしい恋人を前にしているのだから仕方が無いではないか。
潤んだ目でこちらを睨む碧の頬を撫ぜる。もう一度謝り、熟れきった柔らかな肌に口付けを落とした。
いたくてきもちくてたまらない
粘ついた水音が聴覚を犯す。果実が潰れるような音がなる度、神経を焼くような肛悦が頭に叩き込まれた。発生源が己である事実を突きつけられ、烈風刀はぶるりと震える。ぅあ、と漏れた声は、はしたない音を漏らし続ける羞恥よりも音とともに湧き上がる快楽が勝った音色をしていた。
堪えるようにシーツを握り締める。ベッドに突いていた手はとうに崩れ、前腕で身体を支えている状態だ。頭はうつ伏せで寝るように下がっているというのに、腰は高く持ち上げられている。尻を高くあげ雄に秘めたる場所を晒す姿は、交尾をねだる獣に似ていた。人間という理性的な枠組みから外れた、本能だけがあるまぐわいの形をしている現状を改めて認識し、背筋を鋭いものが走っていく。マゾヒスティックな悦びが、光速もかくやという速度で脊髄を駆け上がる。きもちいいことだけを脳味噌にぶち込まれる。快楽漬けにされた頭は、元来の理知的な動きなどできなくなってしまっていた。暴かれた本能がひたすらに叫ぶ。もっと欲しい、と。
ぱちゅん。ぬちゅん。尻を下腹部が叩く度、狭穴に剛直が突き立てられる度、思考する機能が削れていく。聡明なる脳味噌は快楽だけを認識する器官になりつつあった。
ずるぅ、と肉太刀が鞘から抜けていく。張り出た部分でうちがわ全体を擦られ、ぁっ、と細い嬌声が漏れる。切ない響きをしていた。当たり前だ、大好きな人の熱が去って行くのだから。きもちいいことが奪われるのだから。
全ては杞憂だった。ゆっくりと後退していった屹立は、先端を埋めた状態で止まった。赤く熟れきった縁に引っかけるような状態だ。お腹の中がさみしくて、きもちいいのが無くなったのがかなしくて、碧は無意識に腰を揺らめかせる。勝手に動いて勝手にきもちよくなろうとしているのだ。痴態を見せつけて雄を誘っているのだ。
は、と溜め息にも似た音が後ろから聞こえる。炎で焼かれたような酷い熱を孕んだものだった。掴まれた腰に切りそろえられた爪が食い込む。粘膜を傷つけまいと深く切っているのに、それでも刺さってしまうほどの力の入れ方だ。ほの甘い痛みに、肚がじくじくと疼く。淫らなる肚はつがいを待ちわびていた。
ふっ、と鋭く息を吐く音。同時に、ばちゅん、と湿った打撃音があがった。痛覚信号が送られる。それ以上に、快楽信号が脳味噌にめいっぱい叩き込まれた。
「――アッ!」
喉をそらせ、烈風刀は叫ぶ。この上なく甘ったるい響きをしていた。この上なく悦びを謳っていた。
腸粘膜を肉槍が一気に擦りあげていく。閉ざされた肉の道を無理矢理割り開いて、己の形に変えていく。すぐに戻り、また突き刺し、抜いて、捩じ込んで。激しい動きは身体を内部から破壊せんとようにすら見えた。壊しに壊して、自分だけのものにしようとするような動きだ。
毎回好き放題に荒らされ、好き放題に暴かれ、好き放題に躾けられ、被虐趣味に目覚めつつある身体が悦ばないわけがない。待望の熱を与えられて、待望の快感を叩きつけられて、碧はひたすらに喘ぐ。浅海色の瞳からは法悦の涙がぼろぼろと流れ、シーツを濡らしていた。
凄まじい肉悦は最高としか言い様がなかった。けれども、同時に恐怖が湧き上がってくる。きもちがよすぎて怖いのだ。このままずっときもちよかったら、きもちよすぎてしんでしまうかもしれない。快楽に浸りきって溶けた頭は、普段ならば欠片も考えないような馬鹿な恐怖を覚えた。
頭の下敷きになっていた腕を伸ばす。震えるそれが前に伸び、放り出された枕を望む。何かに縋っていなければ怖くてたまらなかった。常ならば抱き縋る朱い頭は、今は後ろにいる。きっと雄の象徴が解れきった蕾に突き立てられる姿をじぃと見ているのだろう。はしたない姿を見られている。また被虐的な快感が背をなぞった。
もう少し、というところで、腕が止まった。否、止められた。広げた手の上に、熱いものが乗る。そのまま、マットレスに沈み込むほど押しつけられた。縫い付けると表現してもいい。法悦で支配されろくに力が入らない腕は、簡単に動きを止められてしまった。
首筋に熱いものがかかる。吐息だ、と理解するより先に、鋭い痛みが走った。尖ったものが皮膚に、肉に突き立てられる。絞るように寄せられる。噛まれたのだ。めいっぱいに歯を突き立て肉を食いちぎらんばかりに噛みつかれたのだ。
引きつった音が喉から漏れる。全力の力が込められたそれは、快楽を吹き飛ばすような痛みだ。同時に、思考全てを吹っ飛ばすような快楽だ。マゾヒスティックな身体は、痛みはきもちいいことであると学習済みだった。鋭い痛みが、鋭い快感が、噛まれた肩から全身に広がっていく。びくん、と組み敷かれた身体が跳ねた。きゅうぅ、と悦びに震える肉が収縮し、隘路が更に狭くなる。お返しと言わんばかりに這入り込んだつがいをめいっぱいに抱き締めた。粘膜と粘膜、熱と熱が密着する感覚に、また震える。浮かぶ血管の形まで分かりそうなほどだ。あっ、ぁっ、と喘ぐ姿は喜悦に満ちていた。
手を縫い付けられ肩を噛まれたまま、肉茎が突き立てられる。腹の奥底を叩き、肉の悦びをめいっぱいに与えていく。腰を高く上げたつがいを噛みついて押さえつけ、一心不乱に腰を振る姿は猫の交尾に似ていた。もはや人間らしさなど欠片も残っていなかった。
性的快楽が利巧な頭を焼いて、馬鹿にしていく。きもちいいことしか考えられない、動物の姿に変えていく。人間たらしめる理性を捨て去って、獣としての本能だけにしていく。
普段はなめらかに言葉を紡ぐ口は、閉じる機能を忘れたかのように開け放たれていた。理性的に話す声は、上擦ってとろけたものとなってしまっていた。学園で見る『嬬武器烈風刀』の姿からは想像もできない、かけ離れたなんて言葉では済まないほどの様相だ。兄にしか見せない姿だ。愛する恋人に食われる時だけ見せる姿だ。互いに生殖本能だけになった時にだけ見せる姿だ。この上なく卑猥で、この上なく淫乱だ。
こちゅこちゅと浅い部分を突かれる。ごちゅごちゅと奥底を叩かれる。どちらも大好きで、どちらもきもちよくてたまらない場所だ。イイところをめいっぱいに刺激され、少年は法悦を叫ぶ。甘い響きで雄を悦ばせていく。
ごちゅん、と腹を破らんばかりに肉槌が行き止まりを叩く。それがトドメだった。
縫い付けられた手が映る視界が白くなっていく。薄闇の中、小さな光が瞬く。バチン、と何かが弾けたような音が聞こえた気がした。
「――――ッ!!」
覆い被さられ、噛みつかれ、押さえつけられた身体が一際大きく跳ねる。だらだらとしずくを漏らしていた中心部が白濁を吐き出す。雄を咥え込んだ後孔が締まる。暴かれ荒らされる肚が痙攣し、受け入れたつがいを力いっぱい抱き締めた。
食いちぎらんばかりの刺激に、抱きとめた雄がビクビクと震える。ぁ、と少し上擦った声。瞬間、肚の中が一気に熱を持った。
突き当たりに熱いものが叩きつけられる。精液だ。絶頂を迎えた雄は、つがいを孕ませようと種を奥底に注ぎ込んだ。凄まじい勢いで吐き出されるそれが、粘膜を焼いていく。内部を焼き尽くされる感覚に、引き締まった身体が痙攣する。痛いほど勃ち上がった烈風刀自身がぴゅくりと勢い無く濁液を漏らした。
内部で脈打つ雄が動きを止めた頃、やっと凄まじい快楽の波が引いていく。身体を、脳味噌を浸していたきもちよさがだんだんと落ち着いていく。残るのは激しい運動による疲れと、この上ない幸福だった。愛し合って繋がった喜びが胸を満たす。ぅあ、とこぼした声は幸せ色に染まりきっていた。
「……ご、めん。噛んじまった」
肩を食う牙が外される。酷く申し訳なさそうな声が後ろから聞こえた。そこにはもう獣らしさなどない。ちゃんと人間の形をしていた。
じくじくと疼く傷口に思いを馳せる。これだけ深く噛まれれば、酷い痕が残るだろう。下手をすれば血を流すほどの傷になっているかもしれない。当分の間、襟ぐりが広い服を着るのは控えるべきだろう。
怒るべきだ。叱るべきだ。分かっているのに、まだきもちいいことで満たされた頭は、被虐趣味に耽った頭は、そんな言葉を紡ぐ気など欠片も起こさせなかった。
鏡を使わねば見えない傷口を、雄に所有されている事実を明確に示す痕を夢想して、涙膜張るとろけきった瞳が幸せそうに細まった。
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年初め、神社にて【グレイスファミリー】
年初め、神社にて【グレイスファミリー】書き初め。グレイスちゃんが神社でアルバイトする話。ピリカちゃんの口調は……こう……大目に見ていただけるととても嬉しい……。
昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。
ありがとうございました、と破魔矢を胸に抱えていった背を見送る。声は少し慌てた調子であれど、しっかりとしたものだった。
連なっていた列も消え、ようやく人の波が凪ぐ。ふぅ、とグレイスは小さく息を吐く。朝から張り詰めていた心が少しだけ解けた気がした。肺の空気を吐き出した瞬間、どっと重くなる感覚が華奢な身体にのしかかる。回遊魚さながらずっと動き回っていたのだ、忙しさで誤魔化されていた疲れが今になって襲ってきたのだった。はぁ、と二度目に吐き出した息は疲弊が色濃くにじんだ響きをしていた。
新年を迎えた元日、少女は神社にいた。そこに姉や仲間たちの姿は無い。当たり前だ、今年は初詣に来たのではない。社務所のアルバイトのために訪れたのだ。
年が明けたばかりの一月、中頃を過ぎた十八日はレイシスの誕生日だ。あの薔薇色の少女は、毎年己の誕生日には素敵なプレゼントと豪奢なケーキを贈ってくれていた。与えられることに慣れていない躑躅の少女にとって、もらうだけの日々は気後れが募るばかりだ。
もらってばかりの事実を気にするぐらいならば、与える側に回ればよいのだ。己もプレゼントを贈ろう。お返しがしたい。姉の喜ぶ顔が見たいのだ。
しかし、常日頃ナビゲーターとして研鑽を積むグレイスの財布事情はよろしいとはとても言い難いものである。少し良いプレゼントを、と考えると諦めの情がほのかに湧いてくるような状態だ。これではもらった分のお返しすらできない。決心したのはいいものの、現実的な壁が立ちはだかったのだった。
ならば選択肢は一つだ。冬休みでありナビゲート業務が休みである正月を狙って、単発のアルバイトを入れたのだ。一日だけとはいえ、正月という忙しく寒い時期ということもあってか時給はなかなかのものである。学生がちょっと良い代物を買うには十分な報酬だ。大切な人たちの誘いを断るのは酷く心苦しかったが、これも全て愛する姉を喜ばせるためなのだ。少女は固い意志を貫いた。
奥に掛けられた時計を見る。時刻は昼も過ぎた頃合いだった。一日限りの仕事も折り返し地点である。先に休憩に入ったバイト仲間ももうすぐ帰ってくるだろう。昼休憩まであと少し、もうちょっとだけ頑張らねば。ぎゅっと目をつむり、躑躅色は小さく頷いた。
「すまない」
前方から声。参拝客が来たのだろう。閉じていた目を開き、口元をどうにか笑みの形にする。ほとんど人と関わることなく暮らしていたためか、笑顔を作るのはまだ苦手だ。それでも、今は接客業をしているのだ。客には明るく朗らかな笑顔で接しなければいけない。無愛想な顔で対応して神社の評判に傷が付くなどあってはならないのだ。
「はい、どうされました――」
少し硬い笑みを浮かべ、グレイスは顔を上げ声の方へと向き直る。指導された通りきちんと言い切るべき言葉は途中で止まった。ただでさえぎこちない表情がビシリと固まる。口角を無理矢理上げた口が丸く開かれる。は、と疑問に染まりきった音が漏れ出た。
「明けましておめでとう、グレイス」
「あけましておめでとうべさ!」
「……明けましておめでとうございます」
参拝客――オルトリンデはゆるく笑み、小さく手を上げた。下から聞こえる元気な声と受け渡し台から覗く小さな手はピリカのものだ。長い白髪の後ろに見えるのは始果だ。襟巻きに口元を埋め、少年はじぃと愛しい少女を見つめていた。
「な、んでいるのよ!」
仕事中だと言うことも忘れて、少女は叫ぶ。固まっていた表情筋が動き出し、驚愕と憤怒、そして羞恥が入り交じった表情を作り上げた。頬が赤くなっているのは、冷え切った外気に晒された故ではないだろう。
「俺もいるぜ!」
「帰んなさい!」
オルトリンデが握る携帯端末から大声が流れる。耳慣れた威勢の良い響きはライオットのものだ。あの図体では境内に入ることができない彼は、音声通話という手段をとったのだろう。いつぞやは諦めた癖に、余計な知識を付けたものだ。ギリ、と思わず奥歯を噛み締めた。
「正月には初詣をするものなのだろう? 四季の行事はきちんとこなすべきだ」
「その通りだぜ。文化の保存は大切だからな」
「グレイスが働いていると聞いてきました。寒くありませんか?」
「グレイス、巫女さんの服さ似合ってるっちゃ!」
どこか得意げな声で語るオルトリンデに加勢するようなライオット。心配げに襟巻きを差し出す始果に巫女服に興味津々なピリカ。四者四様だが、目的が神社への参拝ではないことは明らかだ。
「冷やかしならさっさと帰んなさい。他の参拝客の迷惑よ」
「冷やかしなどではないぞ。せっかくならばと御守りを買いにきたのだ」
冷たい視線を送る躑躅に、戦乙女は小さく首を横に振る。そう、と少女は未だ警戒心が残る声で返す。それもきっと建前だ。いい迷惑である。
「御守り、ここにあるもの全て一つずついただこうか」
「お嬢、破魔矢一本ずつ全部くれ。代金は女に預けてある」
「絵馬全部ください」
「しょーばいはんじょーの御守り一つ欲しいべ!」
「お金は大切にしなさいよ!」
財布から束になった紙幣を取り出す仲間たちに、グレイスは大声をあげる。新年早々そんな大金を使うなど控えるべき行為である。何より、彼女らが口々にする品を本当に欲しているのではないのが丸わかりなのだ。無駄な散財は断固として止めるべきであった。己が原因ならば尚更である。
「言っとくけど、売り上げと私のお給料は関係ないからね」
「そうなのか?」
事実を告げると、赤と橙の瞳が丸くなる。やはりそれが目当てか、とマゼンタの目が苦々しく細められた。
オルトリンデたち四人は、あの重力戦争を共に戦った仲間だ。終戦間際の行動もあってか、ネメシスに来てから向こう、彼女らは己に対して過保護と表現するのが正しいほど接してきた。特にオルトリンデとライオットが顕著だ。何かにつけて世話をしようとし、何かにつけて甘やかそうとする。プレゼントのためにアルバイトをすると白状したところ、少し早いお年玉と称して大金を渡そうとするほどの甘やかしぶりだ。もちろん拒否したが、その結果がこれである。
まぁいい、とオルトリンデは小さく頷く。二色一対の視線が、ずらりと並べられた御守りに注がれた。
「御守りが欲しいのは本当だ。全種買いたいのだが、いくらになる?」
「いっぱい御守り持ってたら神様が喧嘩するわよ。一つにしときなさい」
端から端まですぃと宙をなぞる仲間に、躑躅は目を眇める。年末、テレビで聞いた話だ。確かにいくつもの神様を一度に連れていれば喧嘩も起こるだろう。記憶に留まるほど印象深い話であった。
そうなのか、と戦乙女は再び目を丸くする。悩ましげに顎に指を当て、また端から端まで御守りを眺めた。
「ピリカは商売繁盛のだったわよね。八百円よ」
袖をたくし上げ、少しだけ身を乗りだしてコイントレーを黒兎に差し出す。分かったっちゃ、と小さな手ががま口の財布を開き、硬貨を取り出す。ん、と背伸びをし、ピリカはトレーに銀色を載せた。金額を確認し、赤い御守りを手に取る。神社の名前が書かれた白い袋にそっと入れ、古びた木のカウンターに手をついて背丈を伸ばす少女に手渡した。ありがとだべ、と元気な声と白い息が厚い木板の下から飛んできた。
「では、我は学業成就のものをもらおうか」
「貴方、教える立場でしょ? 何でよ」
「教師といえどまだ実習生の身だ。日々学ぶことはたくさんあるからな」
八百円だったな、とオルトリンデは一万円札を差し出す。そう、と不思議そうに返し、躑躅の少女は釣り銭と青い御守りが入った袋をトレーに載せて差し出した。
「釣りはいい。とっておくがよい」
「売り上げ計算合わなかったら私が怒られるのよ。ちゃんと受け取りなさい」
止めるように手を上げにこやかに告げる女性に、少女は眉間に眉を寄せて返す。そうか、と少し萎んだ声。白い指がいくつものお札と硬貨を取って財布へと戻した。
「やっぱ全種くれ。どれも面白ぇデザインしてっからな」
「絵馬、二枚もらえますか?」
端末の向こう側からライオットが言う。指を二本立てて始果が言う。分かったわ、とグレイスは慌てた調子で品物を袋に詰めた。代金を受け取り、束になって袋に入った破魔矢をオルトリンデに、柄違いの絵馬を始果に渡す。ありがとう。ありがとうございます。礼の言葉が重なった。
「グレイス」
耳馴染んだ声が己を意味する音を紡ぐ。少女はレジスターをしっかりと閉めて顔を上げた。そこには、絵馬を一枚差し出す狐の姿があった。
「何? 返品? 受け付けてないわよ」
「いえ、きみの分です」
忍の少年の言葉に躑躅の少女はぱちりと瞬く。きみの分、とはどういうことだろう。突然の、それも彼らしくもない言葉に脳がぐるりと思考を巡らせた。
「新年には絵馬を書くと聞きました」
どうぞ、と少年は依然絵馬を差し出す。まあるいラズベリルがまた瞬いた。
白い袖に包まれた腕がそろりと宙を彷徨う。しばしの沈黙。揺れる指先が動物の描かれた五角形を取った。ありがと、と小さな言葉とともに、筆絵で飾られた絵馬がなめらかな手の内に収まった。
「邪魔したな。アルバイト、励むがよい」
「寒いから風邪ひかねぇようにしろよ」
「お仕事がんばるだよ!」
「終わったら迎えに来ますね」
声かけ手を振り三人の影と一人の声が去っていく。寒風に吹かれたビニール袋がカサカサと音をたてるのが聞こえた。
嵐のような時間が過ぎ去り、グレイスは大きく息を吐く。はぁ、と音となったそれは重く、疲れがにじむものだった。
こんなことならば神社でアルバイトするなどと言わなければよかった。しかし、理由を言わねばあの過保護な仲間たちが納得するはずがない。仕方が無いことだったが、それでも後悔が押し寄せてくる。はぁ、とまた深く息を吐いた。
鈍さが見える動きで視線が手元に向けられる。五角形の中描かれた干支の動物が、疲弊の色を浮かべたスピネルを見つめていた。
何書こうかしら。そもそも絵馬って何を書くんだったかしら。あとで聞いてみないと。
ほのかに痛みを覚える頭で考えながら、少女は巫女服の襟を正した。
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#グレイス#京終始果#オルトリンデ=NBLG=ヴァルキュリア#ライオット・デストルドー#ドゥ・サン・コ・ピリカ#グレイスファミリー