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善し悪しと受け入れることは全くの別問題【インクリング】

善し悪しと受け入れることは全くの別問題【インクリング】
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Ordertuneブックレット読んで嘘やん……………………となったので書いた。ジュークボックスで配信されている以上一般市民イカタコにもファンはいるだろうしあの記事読んだらショック受けるだろうなぁと。音ゲーやってるくせに音楽知識全然無いから何かそこらへん適当に流し読んでください。
音楽好きのイカ君の話。Ordertuneネタバレ有。

 重い音が開け放たれたロッカーに吸い込まれる。ホチキス止めの紙束はリノリウムを穿たんばかりの勢いで落ち、硬さに負けて床に這いつくばった。
 手にした雑誌は落ち、読んでいた紙面は視界から消えた。けれども、少年の視線は動くことがない。身体は凍ってしまったかのように硬直しているようで、手だけがぶるぶると震えている。紙があった場所をまっすぐに見つめた目も、水面に映る月のように輪郭を揺らしていた。
「ん? なに? どした?」
 ロッカーの扉に隠れて立ち尽くすインクリングの少年の背に、訝しげな声がぶつけられる。友人の声だと頭は認識しているのに、口は全く動かない。否、歯の根が合わないように震えている。身体が、内臓が全部重くて、声を発することなどできなかった。
「ほんとにどーしたんだよ」
 懐疑を通り越して心配の音色すら孕んだ声が真横から聞こえる。ん、と疑問形の声が聞こえる。ほどなくして、紙たちが擦れ動く音が足元からたつ。薄い紙がめくられていくさざなみめいた響きが鼓膜をなぞった。
「何? 今月も懸賞当たんなかった?」
「…………MOF8の」
 細かに揺れるだけだった口がようやく動き出す。どうにか吐き出した声は、心と同じほど揺れてブレていた。
「MOF8の曲、盗作だって」
 発した声がそのまま石のように固まって胃の腑に落ちていく感覚がした。思いきり落とされて、反動で内臓がひっくり返るような心地。そのまま中身を吐き出してしまいそうな気分。
 帰宅まで我慢できず、ロッカーにしまっておいた雑誌を手にしたのは何分前だろう。今日発売したばかりの音楽雑誌は特集が多くいつもより厚かったことを覚えている。各種特集ページを読み進めながら薄くインクの香りが漂う紙をめくっていくと、見開きページが目に入った。レコードを模したロゴに近頃よく見かける緑の顔、目を隠すサンバイザー。Dedf1shだ。
 Dedf1shといえば、数年前から話題になっているも誰もその姿に辿り着けなかったアーティストだ。最近になって顔出しするようになったが、その露出はとうとう雑誌寄稿まで及んだらしい。多彩な楽曲を作り出すトラックメイカー、その楽曲批評が読めるだなんて。心を躍らせながら、緑の目は細かな文字を追った。
 素朴ながらも芯が通った言葉はどれも響くものだった。そう、この曲はその音がいいのだ。その技術に触れるとはさすが。活動停止辛すぎるよな。感嘆に声を漏らしそうなのをこらえながら、少年は紙面を追っていく。瞳が捕らえたのは、何十何百と眺め目に焼き付いたジャケットだ。愛してやまないMOF8を象徴するものだ。この曲にも触れてくれるのか。現役アーティストから見たこの曲はどんなものなのだろう。湧き立つ心に身を任せ、丸い萌葱色は並ぶ文字を辿った。
 これはボクが作った曲だ。
 勝手に音源を引っ張ってきてリリースしたみたいだな。
 MOF8、そのジャケットの隣に書かれたいくつもの文章。ほんのわずかなその文字たちは己の頭を殴り、脳を揺らし、思考を止め、呼吸を遮った。心臓が爆発でもしたかのように大きく跳ねる。酸素を欲した肺が筋肉を動かすが、喉は上手く取り入れられずに惨めな音をたてた。視界がブレ、ぼやけ、全ての感覚が消えていく。
 やっと取り戻した今も、まだ心臓はうるさく鼓動を続けていた。感覚は戻れど、頭は動かない。否、動かしたくないのだ。だって、大好きなアーティストが、大好きな曲が、盗作だったなんて、そんなの。
 事態を飲み込めないのか、友人は眉をひそめ眺めるばかりだ。急いでその手から雑誌を奪い、該当のページを開いて押し付ける。なんだよ、とむくれた声。しばしの沈黙の後、何とも表現し難い蠢くような声が聞こえた。
「うわー……マジかー……」
「うそだろぉ……」
 事態を理解した友人は信じがたいと言いたげに呟く。その言葉が、先ほど目にした文章が夢や幻でないことを突きつけてくる。心を刺すそれに耐えきれず、少年は頭を抱えてその場にくずおれた。ぶつかったロッカー扉が抗議の声をあげる。
「お前、馬鹿みてぇに流してたもんな」
 うわー、と友人はまた声を漏らす。明らかに引いている声だった。それはそうだ、盗作するアーティストを目の当たりにして負の感情を抱かないはずがない。名義を偽って発表するだなんてたちが悪いことをしているのだから尚更だ。
「……まぁ、ドンマイ?」
「何がドンマイだよぉ……」
「それ以外に言えることねーだろ」
 肺の中にある空気全てを吐き出すように嘆息する。身体が重い。頭が重い。もう動きたくない心地だった。
「元はDedf1shの曲なんだろ? じゃあDedf1sh追えばいいじゃん」
「ちげぇんだよ……一曲盗作だったってことは他も怪しいだろ……」
 幽鬼めいた少年の声に、友人は一拍置いてあぁ、とこぼした。
 MOF8の楽曲は多彩だ。重低音が唸るように織りなす曲もあれば、シンセサイザーの軽快な音色を重ねる曲もある。迫力ある管楽器演奏に愉快なコーラスを合わせた楽曲は愛してやまないものだ。ジュークボックスで流しすぎて友人たちに怒られた程度には。
 それも全部、誰か知らないヒトの楽曲かもしれない。ヒトの楽曲を盗んで発表しているのかもしれない。多彩な作風はただただ他人の継ぎ接ぎだっただけなのかもしれない。
 疑念ばかりが頭を支配していく。全てが盗作だなんて確証は無い。同時に、一曲だけなんて確証も無いのだ。どれがオリジナルでどれが盗作かだなんて、誰も保証してくれない。
 MOF8も、過去のDedf1shと同様に突如現れた正体不明のアーティストだ。ジュークボックスに何曲か収録されているものの、外部露出は一切無い。ここ数年は新曲の発表すら無いのだ。誰かの別名義ではないかと囁かれるほどである。
 新作の発表がないのも、外部露出がないのも、『全て盗作だったから』で説明できてしまう。納得できてしまう。納得したくないのに、現実は突きつけて突き刺して無理矢理受け入れさせようとしてくる。
「まぁ、ほら。こーゆー時は別の曲聞こうぜ? な?」
 肩に感覚。努めて軽薄な声を出す友人が叩いているのだと理解するまで随分とじかんがかかった。促されるがままに、少年は立ち上がる。不気味なまでに鈍く遅く力無く動く様は、幽霊と言われても信じられるようなものだった。
 友人に手を引かれ、少年はロッカールームを出てジュークボックスの下へと歩む。筐体前に立つと、手が勝手に動いた。手癖で曲を選ぼうとしたところで、不自然なほど急激に動きがストップする。今選ぼうとした曲も盗作かもしれない。大好きなMOF8の曲じゃないかもしれない。そもそも、MOF8なんて『アーティスト』はいないかもしれなくて。
 コインが落ちる高い音。機械が動く重い音。程なくして、バトル中よく耳にする楽曲がロビーに響き渡った。鋭いギターサウンドが空間を震わせる。
「ベイカ嫌いだっつってんだろ」
「ベイカがアレでも曲はいいだろ」
 露骨なまでに眉根を寄せ、少年は友人を睨めつける。視線の先の青い目もまたこちらを睨みつけた。他人が見れば鏡写しのようだろう。
 財布からコインを取り出し、無言でジュークボックスを操作する。収録されたばかりの曲を選び、硬貨を入れた。うるさいまでの音楽が消え、少し間の抜けた電子音が整備された空間を埋めていった。
「やっぱDedf1shじゃん」
「いいだろうが」
 鼻を鳴らすように笑う友人に、少年はぶっきらぼうに返す。いいんじゃね、と普段通りの薄っぺらい軽い声が隣から聞こえた。
 ジュークボックスの近く、小さな審判が眠るソファの隅に座る。今日はもう動きたくない気分だ。本当ならばイヤホンで聞きたいが、生憎ナマコフォンとイヤホンはロッカーに置きっぱなしだ。スピーカーから流れる音楽に身を委ねるしかない。委ねて何も考えたくない。音の中に埋まっていたい。何も考えず、何にも囚われず、何にも侵されず、ただ音楽を聞いていたい。
 少年は壁にもたれかかって目を伏せる。軽やかなクラップと美しいハイトーンが疲れ切った頭に染み込んでいった。畳む

#インクリング

スプラトゥーン

その程度でお前を隠せるはずがない【ワイ→←エイ】

その程度でお前を隠せるはずがない【ワイ→←エイ】
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エイトくんを評価しまくってるワイヤーグラスくんとんなこと露ほども思って無いし気付いてないエイトくん良いな……というあれ。ワイヤーグラスくんもワイヤーグラスくんでそこそこ重い感情抱えてたら私が喜ぶ。あと色んなとこ捏造しまくってるし色んな解釈はゲームのオンライン要素寄り。
自由気ままに野良に潜ってるワイヤーグラスくんと隠れて野良に潜ってるエイトくんの話。大体3話前ぐらいの時系列。

 広いロッカールーム、その一角。チープな金属扉に隠れるように頭を潜り込ませ、エイトは愛用するミミタコ8を外す。カゴの中に静かに放り込み、代わりにロブスターブーニーを取り出した。目元はもちろん、長めのヘアスタイルも全て隠すように目深に被り、ブキを片手に足早にロッカールームを出る。開けたロビーでは多くの者たちがエイムやイカロールの練習に励んでいた。普段と違い、こちらを見る目は皆無に近い。
 新バンカラクラスであるエイトは目立つ。それはもう目立つ。特徴的なギアを着けていることもあり、ロビーに入ればすぐに存在を気付かれるほどには目立つ。存在に気づいて離れていくものもあれば、これみよがしに声を交わす者もいる。やりたくねー。当たりたくねー。何で野良で潜ってんだよ。時にはげんなりとした声で、時には嘲るような声で紡がれる言葉は、それこそ耳にタコができるほど聞いたものである。
 ならば、目立たなければいい。
 ヒトというのはどうやら色を特徴として捉え、大きく印象持ち、強く覚えるらしい。頭と真反対の色をした、それはもう目立つ真っ赤なミミタコ8を外すだけで飛んでくる声の数は減った。つばの大きな帽子を目深に被り、ギアと同じぐらい鮮烈な赤い目を隠せば、潜めた声の数は激減した。プレートの名前は変えられないものの、近頃は騙りが多いからか気にする者は少ない。『本物』がまぎれているだなんて思うヤツの方が少ないのだ。インクリングは単純な種族だと聞かされていたが、オクトリングも同じほど間抜けらしい。これできちんとバトルができるのかと不安を覚えるほどである。
 マッチングを開始し、少年は壁際を陣取る。普段ならばエイム練習をするところだが、今ばかりは静観する他無い。目立ってしまっては意味がないのだ。手遊ぶように片手でナマコフォンを開いてスケジュールを再確認する。今のステージはマテガイ放水路とゴンズイ地区だ。マテガイ放水路は最近になって手が入り、地形が変わったと知らされている。事前に確認したかぎり侵入ルートが一つ増えただけだが、実戦でどうなるかなどまだ分からない。少しでも経験を積む必要がある。実力だけではない、情報も全て手に入れ優位に立たねばならないのだ。
 ベルの音が鳴り響く。マッチングが終わったようだ。慣れた調子で移動し、スポナーへと入る。少しの待機の後、浮遊感。開始地点に並んだ証だ。もうじきバトルが始まるだろう。
 スポナーを満たしていた身体をヒトの姿へと変え、エイトはスポナーの上に立つ。武器を構えたところで、両脇からゲェッと汚い悲鳴が聞こえた。何だ、と瞠られた三対の目たちの先をみやる。視界に入ったそれに、腹の奥底から勢いよく声が湧き出てきた。野良のチームメンバーのように無様な声を出さぬよう、喉で必死に押し殺す。潰れたような醜い音がスポナーの上に落ちた。
 身体はゆったりとしたニットとサルエルパンツにほとんど隠されているが、覗くわずかな部分だけでも鍛えられていることが分かる。抱えるのは目に痛いほど鮮やかな青で彩られたプライムシューターだ。長いゲソはコーンロウで綺麗にまとめており、顔立ちがしっかりと見える。目つきは鋭く、視界に入った何もかもを射殺すような輝きに満ちていた。その目元には細い銀フレームの眼鏡――あれを眼鏡と称すのは未だに疑問を覚えるが――が光る。何より、ネームプレートに記された名前。
 ワイヤーグラス。
 8傑――その中でも更に強い者が集まった新バンカラクラス、トップに立つ最強のインクリングがそこにいた。よくよく見ると、彼の両隣のオクトリングもあんぐりと口を開いて固まっている。どうやら野良で一人潜っているところに出くわしてしまったらしい。
「いやいやいやいや」
「うっそだろ、ワイヤーグラスとかマジ?」
「これ無理っしょー……」
 聞こえる声は完全に意気消沈していた。強者に勝とうという気概など一欠片も見えない。最初から勝負を放棄していることが丸分かりだ。
 罵声を吐きそうになるのを愛銃のグリップを握ることで押し止める。向上心など欠片も感じられない、反骨心の一つも見られない、立ち向かう気概など砂粒ほども無いヤツらなど、今まで数え切れないほど見てきたではないか――相対してきたではないか。掃いて捨てるほどいる弱いヤツを引いただけの話だ。寄せ集めの野良なんてこんなものである。
 ポジティブに解釈すれば、絶好のチャンスである。ここから見ただけでも、相手チームはワイヤーグラス以外の面子がすっかりと萎縮しているのが分かる。きっと勇んで前線に躍り出てくることは無いだろう。つまり、前線は己と彼との一騎打ちがほとんどになる。バトルメモリーや現地での観戦で彼の動きは何十何百と見ているが、実際に手合わせできる機会など滅多に無い。新バンカラクラス最強との戦い――またとない好機だ。
 またスポナーに身体を沈める。ふ、と短く息を吐く。いつもより浅くなっていたのは、きっと気のせいだ。
 勝つ。一回だけでも絶対に撃ち勝つ。
 バトル開始の合図とともにステージに降り立つ。赤い瞳は相手のリスポーン地点を――ワイヤーグラスがいるであろう場所を一心に見つめていた。




 
 
 音が弾けると同時に、目の前、相手陣地に紙吹雪が舞う。見える顔は喜びよりも安堵、もっと言うならば疲弊が強く出ていた――一人を除いて。
 そのたった一人であるワイヤーグラスも、特段勝利を喜んでいるようには見えない。へたり込む即席チームの仲間など無視して端末を操作していた。おそらくマップを確認しているのだろう。熱心なものだ、とエイトは小さく息を吐いた。
「こんなん勝てっかよ」
「え? 勝とうとか思ってたの?」
「んなわけないじゃん」
「最初から負けるって決まってんだよなー」
 だよなー、とリスポーン地点に座り込んだ野良三人は合唱する。疲弊しきったような素振りに、少年は舌打ちしそうになるのをこらえた。疲労を覚えるほど戦っていなかったくせに。最初からろくに前線に出てこなかったくせに。カバーはおろか撃ち合う素振りすら見せなかったくせに――最初から勝負を放棄していたくせに。勝つ気がないくせに被害者面をするのだから腹立たしい。これだから弱いヤツは弱いままなのだ。
 ぐだぐだと文句を垂れ流す弱者など目もくれず、オクトリングはロビーへと戻る。先のバトルでの経験をまとめ、バトルメモリーを見返さねばならない。己の実力にあぐらをかいて研究を怠ってはならない。強者はいつだって強者であらねばならないのだ。
 手早くナマコフォンを開き、つい先ほど記録されたリザルトを眺める。並ぶ数字の群れに喉が鳴った。こぼれ落ちた濁った音が喧騒に溶けて消える。
 目を引くのはやはりワイヤーグラスのものだ。インクリングをデフォルメしたアイコンの横に並ぶ数字は八とゼロ。つまり、三分の間一度も倒れることなく戦ったことを意味している。対して己のは五と三。三度倒れたのは、全てワイヤーグラスにとの対面だった。遠くからラインマーカーで刺され、マーキングによって把握された行動を見咎められ、削られた状態で対面に持ち込まれ、撃ち合いに負けてリスポーンへと戻る。他の面子――あちらも大概自陣に引きこもっていたが――をいくらか倒して前線を上げようとしたものの、全て抑えられてしまった。上げたところで味方は続こうとしなかったのだから意味は薄かったのだけれど。
 サブウェポンの使い方も、メインウェポンの使い方も、スペシャルウェポンの切りどころも、全てが完璧だった。敵が嫌がることを丁寧に行い、攻勢を封じ込め、押し切り抑えきる。まさにお手本のような戦い方だ――実力が違いすぎてほとんどの者にとって参考にはならないだろうが。
 はぁ、と思わず溜め息をこぼす。対面に一度も勝てなかったのは悔しい。一人の力で勝てなかったのが悔しい。強い者はいつだって強くあらねばならないのだ。たとえ味方が非協力的であろうが、一人で勝ちを掴まねばならない。それでこそ『強者』なのだから。
「エイト」
 耳慣れた声が、生きてきた中で数えられないほど聞いた言葉をなぞる。想定などしていないそれに、ビクンと大きく肩が跳ねた。この声は。いやけれども。だって今、『エイト』は『新バンカラクラスのエイト』の姿をしていなくて。なのに。
 ガッと音が鳴りそうなほど肩を強く掴まれ、勢いよく引かれる。たたらを踏みそうになるのを体幹に物を言わせてこらえ、エイトは振りほどくように身を反転させた。反動を殺すようにタップを踏んで二、三歩距離を取る。帽子が上半分を隠した視界の中には、予想通り鮮やかなオレンジがあった。深い橙を通り越して血にも似た瞳がこちらを睨みつける。この身を貫き刺し殺すような視線だった。
「……よく分かったね」
 相対するワイヤーグラスに、エイトはどうにか笑みを浮かべて返す。あぁ、と威圧的な声が聞こえた。銀のアタマギアの奥、吊り目が眇められ鋭さを増す。十人中八人はこの顔を見ただけで逃げるだろう。そして残り二人は名前を聞いて逃げ帰る。
「分かるに決まってんだろ」
 鼻を鳴らしインクリングは言う。は、と今度はこちらが疑問の声を漏らす番だった。
 己は今、目立つアタマギアを外し、目やヘアスタイルといった特徴を隠している。ネームは『エイト』のままであれど、騙りが多いここ最近は信用に値しない情報だ。バトル中は別のインク色に変わっていたのだから、あのさなかで『新バンカラクラスのエイト』の印象を持つはずがない。だのに、何故。
「動き見りゃ分かる」
 当然のように吐き捨てる強者に、オクトリングはますます首を傾げる。確かにヒトには動きにはどうしても癖が存在する。開幕まっすぐに中央に進む、対面時はサブウェポンから入る、潜伏を多用する、スペシャルの切りどころが同じなど様々だ。弱点に繋がるそれを消そうと日夜注意しているものだが、気付いていないだけでまだまだあるらしい。いや、それはいい。問題は『何故彼が己の癖を覚えているか』だ。
 彼は強い者にしか興味が無い。そして、己は彼に敗れた――悔しいけれども、彼にとっては『弱いヤツ』だ。新バンカラクラスに誘われたものの、その事実は覆せていない。彼の中では己は『弱いヤツ』であり、有象無象の一人でしかないのだ。だというのに、何故彼は己の癖を覚えているのだ。まるで今までの戦いを見てきたかのような。まるで意識してきたかのような。そんなこと、あるはずがないのに。
「お前も分かるだろ」
「まぁ、きみほどとなるとさすがにね」
 ほらな、とワイヤーグラスはまた鼻を鳴らす。誰だって強者のことは覚えるだろう。己は彼を研究しているのだから尚更だ。だが、彼にとっては事情が違うではないか。強者ならともかく、弱者を覚えているなど。
「もう一戦付き合え」
「は?」
「侵入できるようになったとこ研究しきれてねぇんだよ。手伝え」
 は、とまた疑問符にまみれた声が漏れる。相手はこちらの様子など歯牙にもかけず、スタスタと歩き出していた。まるで付いてくるのが当然であるかのような姿だ。色とりどりの毛糸で飾られた背中はどんどんと遠ざかり、マッチング手続きをするために動いていく。
 覚えられていた。
 彼が弱者に意識を向けていた驚愕、理由が全く分からぬ故の猜疑――そして、己は彼が記憶するに値した存在であるという事実への歓喜。マイナスもプラスも心の中をぐるぐると巡って、鼓動を早くしていく。マイナスもプラスも殴りかかるように突っ込んできて、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
 これではまるで彼が己のことを認めているようではないか。そんなはずはない。彼は『負けた弱いヤツ』に興味があるはずなど無いのだ。脅威になり得ない己を意識するはずがないのだ。けれど、現実が、『彼は己の癖を把握している』という事実が全ての前提を破壊していく。ろくに思考できない脳味噌を更に使い物にならないものにしていく。
 拳を握りしめ、エイトは歩き出す。手続きをするワイヤーグラスを追って歩き出す。うるさい鼓動を、無様に浮き足立ちそうな心を、醜く慌てふためく脳味噌を押さえつけるように、悠々とした足取りで歩みを進めた。
 共に戦うなどまたとない機会だ。すぐ隣で戦えば、彼の癖が更に分かるはずだ。味方に出す指示やカバー時の立ち回りを盗めるかもしれない。対面するよりも貴重な、今後あるか分からないほどのチャンスだ。それをみすみす逃すわけにはいかない。どうでもいいことを考えて立ち尽くすわけにはいかないのだ。
 混迷し高揚しごちゃつく思考を切り替え、少年は歩みを進める。ようやく追いついたカラフルな身体の横に立ち、端末を操作する。チームで潜る時と同じように手続きを終えた。
 盗むのだ。暴くのだ。全てを研究し、解き、ワイヤーグラスに勝つのだ。誰よりも強者としてあるのだ。あらねばならないのだ。
 たった一つの目標を、打ち倒すべく強者を横目でみやり、エイトは.96ガロンを握り締めた。畳む

#ワイヤーグラス #エイト #ワイエイ #腐向け

スプラトゥーン

カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】

カニかま、塩、黄色双子【嬬武器兄弟】
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いい双子の日ということで双子の話。意識したことないけどあれってサイズ関係あるのだろうか。
飯作ってくる嬬武器兄弟の話。

 白の中から黄色がこぼれ落ちる。常は一つだけのその色は、今日は二つボウルに受け止められた。
「おっ」
 予期せぬ幸運に雷刀は思わず声を漏らす。なにせ前がいつだったかすら分からないほど久しぶりの出会いである。しかも今回はよりどりサイズの詰め合わせ、その中でも小さめのものを割った結果なのだから尚更だ。写真でも撮ろうかと尻ポケットに手を伸ばすが、すぐさまやめる。うっかりボウルの中に落としてしまうなんてことがあれば大惨事だ。
 食卓で話そう。考えつつ、少年は流れるような手付きで小さい卵をもう二つ割る。四つの黄身と盛り上がる卵白に箸を立て、リズミカルに掻き混ぜた。溶き終わったところにカニ風味かまぼこと塩を投入し、油をたっぷり入れたフライパンで手早く焼き上げる。二つ作って皿に移し、並行して作っていた甘酢あんを掛け、仕上げに冷凍の小ネギを散らす。つやめく琥珀をまとった色鮮やかな黄色に緑が咲いた。見た目も味も完璧な――カニは偽物だが――カニ玉の完成だ。小さく鼻を鳴らし、食卓に運ぶ。先に作っておいた中華スープを温め直し、碗に移してこちらにもネギを散らす。事前に作って冷蔵庫に寝かせておいたほうれん草のナムルを小鉢に持ち付ける。今日は中華尽くしだ。主食は白米だけれど。
「運びますね」
「おっ、さんきゅ」
 もう夕飯の時間を過ぎたのだろう、いつの間にか烈風刀がやってきていた。自然な足取りで食器と小鉢を運び、すぐさま戻って白米をよそい、また食卓へと戻っていく。雷刀も汁物を持ち、食卓についた。
 いただきます、と声が二つ重なる。弟が用意してくれたスプーンを引っ掴み、兄はカニ玉を切り分ける。あんがこぼれるより先に口に運ぶと、甘酸っぱさと塩気、ほんのりと磯の香りが口いっぱいに広がった。行儀が悪いのを承知で米に載せ、また一口。即席の天津飯は、白米の甘さとカニ玉の濃い味が合わさって得も言われぬハーモニーを生み出した。
「そういやさ、今日の卵双子だったんだよ」
 ナムルをつつきつつ、雷刀は先ほどの幸運を口にする。双子、と端を握ったところの烈風刀は復唱した。こうやって話してみると、やはり写真を撮っておいた方がよかったかと少しの後悔が足元にまとわりつく。けれども、食事中に携帯端末をいじるのはさすがに憚られる。すぐ見せられないなら別にいいか、とごま油をまとったほうれん草を一口食べた。
「珍しいですね」
「だろ? 目玉焼きにすりゃよかったかなー」
 双子の卵というのはやはり視覚的にインパクトがある。それを活かさなかったのはもったいなかったか。卵にはまだ余裕があったのだからそれも一つの手だったのではないかと今更ながら考えた。
「夜に目玉焼きは物足りないですよ」
「明日の朝に回すとか?」
「冷蔵庫に入れるところないでしょう」
 全て事実である。そこまでこだわることでもないか、と先ほどまでの思考を取っ払いながら朱はスプーンから箸へと持ち替える。そだな、と軽く応えて白米をかっこんだ。弟もあんをこぼさぬようカニ玉を口にする。
 次はいつ出会えるだろうか。今度は目玉焼きにできるよう朝出てほしいのだけれど。そんなことを考えるが、そう簡単に再会できないことなど分かっている。けれども、一度得た物は期待をしてしまうのだ。
 すっぱさちょうどいいですね。だろ。他愛も無い言葉を交わしながら食事は進む。琥珀で満たされた白い皿の上はどんどんと元の色を取り戻していった。
畳む

#嬬武器雷刀 #嬬武器烈風刀

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おとなにはまだ早い【ヒロニカ】

おとなにはまだ早い【ヒロニカ】
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「インク切れの会社員」ヒロ君と「バンカラな若者」ニカちゃん(公式PVとかの二つ名)だったらどんなんかなーこんなんになるかなーと考えた結果がこちらになります。付き合ってる時空。
子どもに手は出さない大人がとても好き。大人になったらどうなるかは知らないよ。
大人だと主張するニカちゃんと大人であろうとするヒロ君の話。

 流れる水の音が消え、カチンと電灯が落とされる音が背後から聞こえた。次いで足音。スリッパが打ち鳴らすそれはすぐそばで絶え、代わりに座るソファの座面が沈む気の抜けた音がした。
「お疲れ様です」
「ん。なんか面白いのやってる?」
「特段」
 そ、と隣に座ったばかりの恋人は短く返す。大きな手が遠慮無しにリモコンを引っ掴んで、慣れた手付きで操作していく。電子のカーソル音と共に、さして大きくないテレビの中を様々なサムネイル画像が流れていく。濁流のような視覚情報はやがて止まり、空気が抜けるような音がスピーカーから流れた。小さな画像が画面いっぱいに広がり、すぐさま暗転する。
「こないだ配信始まってさ」
 見よ、という提案より先に映像は再生されていく。配給会社の大きなロゴが画面を占有すると同時に、肩に重みと温もり。寄りかかってきた小さな頭を撫でてやると、上機嫌な高い笑声が耳のすぐ横で聞こえた。
 週末、こうして二人で過ごすのはもう日常となりつつある。社会人である己――ヒロと高校生であるベロニカが時間を気にせずゆっくり過ごせるのは土曜日ぐらいだ。今日は部屋で持ち寄った漫画を読んで、流れるように夕食を共にした。門限に間に合う電車まで時間があるこの夜は、映画を見て過ごすと決めたらしい。映画一本見るにはいくらか短い時間だが、これはこれで『続きを一緒に見る』という楽しみが生まれる。悪くはない選択だった。
 白色ライトが照らす中、二人黙して物語を味わっていく。王道ストーリーは承が終わるころのようで、画面の中では主人公が浜辺に突っ伏して泥だらけになっている姿が映し出されていた。王道が故に先の展開が読めてしまうため、集中力は少し途切れつつある。先に飲み物でも用意した方がよかったな、と些末な考えが主人公の慟哭が響き渡る中よぎった。
 すり、と手の甲に感触。角張った白い指が、浅黒い肌の上を滑っていく。じゃれつくような動きだが、ゆったりとしたそれにはどこか艶めかしさがあった。焦らすように広い部分をじわじわとなぞって、吸い込まれるように指と指の間に潜っていく。脱力した己の指はすぐに開いて、小さな侵入者を受け入れた。
 すり、と肩に感触。頭を擦り付ける動きは子が甘えるようなものだが、今この時ばかりは奥底にこごった欲望が透けて見える。ふ、と息を吐き出す音にすら熱を持っているように聞こえた。
 足を軽く動かし、ヒロは拳半分だけ恋人から距離を取る。抗議するように、捕らえられたままの手を強く握られた。わざとらしく物音を立て、ベロニカは拳一個分距離を詰める。離れた分だけずり落ちた頭がまた寄せられ、不満げにぐりぐりと擦り付けられた。愛らしい姿に、青年は思わず息を呑む。崩れそうになる理性をどうにか立て直し、今度は拳一個分離れる。焦れたのか、恋人は握った手を思いきり引っ張った。バトルに身を投じ鍛えられていれど、相手はまだまだ子どもである。座面に沈めた手はびくともしなかった――しないように思い切り力を込めていたのだから当然である。
「逃げんなよ」
「逃げてません」
 苛立ちを隠しもしない声が耳に直接注がれる。受け流すように努めて静かに返すと、また抉るように頭を押しつけられた。逃げてんだろうが、とむくれた声が壮大な劇伴にまぎれて消えた。
「ベロニカ」
 腹を括るように小さく息を吐き、ヒロは画面から恋人へと視線を移す。身体ごと相手へと向こうとして軽くひねると、支えを失いバランスを崩した恋人がそのまま胸に飛び込んできた。わっ、と小さな悲鳴が二つ重なる。大人びたことをする彼女を諭すはずが、余計に事態を悪化させてしまった。スピーカーから流れる波音が何とも言えない沈黙を埋める。それでも二人を包む空気は形容しがたい温度をしていた。
「ヒロ」
 甘えきった声が、とろけつつある声が、胸の中からあがる。悔しいが、こちらの心拍数も上がるばかりだ。どれだけ理性的であろうとしても、己も健康な男である。恋人を胸に収め、艶やかな声で名を呼ばれては気分が逸るのは自然の摂理だ。けれども、毅然とした態度を示さねばならない。己は『大人』なのだから。
「駄目です」
「何でだよ」
「言ったでしょう。社会人になるまでそういうのはおあずけです」
 恋人であるベロニカは高校生だ。少なくとも、学生である間――まだ『子ども』である間は手を出すつもりはない。付き合い始めた頃からそう言い聞かせ同意しているというのに、最近の彼女はそれを破ろうとしてくるのだ。全ては誕生日を迎え成人したからである。高校生でありながら成人――所謂『大人』になった少女は、『大人』扱いを望むのだ。
 ヒロからすれば、たとえ法律上で『大人』同然となろうが彼女はまだまだ子どもだ。高校生は成人しようともまだ保護されるべき『青少年』なのだ。当初の約束の通り、『そういうこと』をするつもりは欠片も無い――無くさねばならない。『大人』が不用意に『子ども』を傷付けてはならないのだ。
「もう大人なんだぞ? いいじゃん」
「高校生の間はまだ『青少年』ですよ。それに、約束したでしょう」
「……まぁ、そうだけどさー」
 いいじゃんかよー、と恋人はむずがるように頭を擦り付ける。見える横顔は頬は少し膨らみ唇を尖らせており、まだまだ幼さを窺わせるものだ。やはり、こんな年若い『子ども』に手を出すのはいけないことだ。理性は正論を喚き立てる。同調した心は、姿を現しかけた本能を無理矢理押し込めて見えなくした。
「貴女はまだまだ若いんです。まだ学生で、見える世界が狭い間にそういうことをするのはもったいないんです。もっと世界が広くなって、見えるものが多くなってからでも遅くありません」
「遅ぇって」
「遅くない」
 互いに引かず問答を繰り広げる。法律に個の責任を認められたベロニカはそれを盾に訴えてくる。『子ども』扱いをやめられない――やめてはならないヒロは約束を理由に突っぱねる。頑固者同士譲る姿勢は見せなかった。遅い、遅くない、と硬い声が二つ何度も重なってはソファへと落ちていく。
「…………好きな人とそういうことしたいのは、おかしいのかよ」
 はたと口を噤んだ少女は、依然尖った唇でぽつりと呟く。ぐ、と青年の喉からおかしな音が漏れた。
  一瞬呼吸が止まってしまったのは仕方が無いことだ。これだけ可愛らしい姿や心を見せられては、心拍数は上がるばかりだし、胸は締め付けられるばかりだし、腹の奥には何かが溜まるばかりだ。押し込められて窮屈そうにしていた本能が、理性が載せた蓋を押しのけてようとする。今一度封印するため、青年は強く目を瞑る。ここで折れるわけにはいかないのだ。
「お、かしくんは、ないですけど」
 大人然とした正しい姿をとるはずが、発した声は途切れ途切れの情けないものとなってしまった。あぁ、と胸中で思わず頭を抱えて蹲る。『大人』でありたいというのに、『恋人』としての己は我慢を貫き通せないのだから情けなくて仕方が無い。彼女の前では模範的な『大人』でありたいというのに、まだ四半世紀しか人生経験を積んでいない己はそれを演じきれないのだ。無様としか言い様がない。
「あと四年、頑張れませんか」
 結ばれていない手をそっと細い背に回し、あやすようにゆっくりと撫でる。触れた細い身体がひくりと震え強張るが、小さな吐息とともにすぐに解けた。身体に掛かる重みが更に増える。理性を揺らす幸福であった。
「四年も待ってくれんの」
「待つに決まってるでしょう」
 大切な貴女を待てないはずがないでしょう。
 歌うように言葉を紡ぎ、ヒロは愛しいヒトの背をトントンと叩く。んぅ、と鼻に抜けるような息の音。熱っぽいそれはすぐに消え、んー、とむずがるような声があがった。
「ぜってーだかんな」
「絶対ですよ」
 指切りでもしますか、なんて軽口を叩いてみる。子ども扱いすんな、とむくれ声があがった。繋がったままの手に少しだけ力が込められるのが伝わってくる。ぎゅっぎゅと握り締めるゆるやかな店舗は、指切りする時のそれとよく似ていた。
 己は『大人』だ。ベロニカにとっては『大人』であらねばならない。けれども、恥ずかしいことに心はまだ成熟しきっていないのだ。少なくとも、こんなに愛しているヒトを手放す選択肢など無いぐらいには『子ども』だ。大切なものは何年でも守り通してやる――他の誰にだって渡さない、己だけのものだと思うほど『子ども』だ。そして、そんな姿を彼女に見せるわけにはいかない。少なくともあと四年は『大人』を演じねばならないのだ。
 演じきれるだろうか、なんて心の片隅の何かが弱音を吐く。演じねばならないのだ、と頭の中で何かが叫んだ。
 慈しむように、縋るように、青年は少女の背を撫でる。ほったらかしにされた画面の中では、子どもたちが愛を叫んでいた。
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#Hirooooo #VeronIKA #ヒロニカ

スプラトゥーン

クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】

クリーニング・チェンジリング・シンキング【ヒロ→←ニカ】
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ヒロ君は勉強熱心なので(幻覚)色んな本買ってたらいいな……買いすぎて本棚に入らなくて床に積んでたらいいな……という幻覚。整理整頓得意そうな子がのっぴきならない理由で部屋を汚してるのは可愛いね。ついでにニカちゃんは整理整頓ができないけどどこに何があるかは分かるから不便してないタイプだといい。
部屋にヒトを入れたくないヒロ君と興味津々で部屋に行きたがるベロニカちゃんの話。

 回されたシリンダー錠が硬い鳴き声をあげる。握られたドアノブも続くようにガチャリと鳴いた。
「……どうぞ」
「おじゃましまーす」
 金属たちと同じほど硬い声でヒロは言う。電車の中からずっと渋面を貼り付けていた彼のことなど気にせず、ベロニカは呑気な声とともにドアをくぐった。
 玄関の狭い三和土にはクツギアがいくらか並んでいる。つま先から踵まできっちりと揃えられて整列している様は、海藻が丁寧に植えられた水槽を思い起こさせる。シューズラックの上には底の浅いトレーがある。鍵やメモ帳、薬用リップが転がっていた。
 ガチャンと扉が閉まる音。パチンと軽い音とともに、天井から光が降り注いだ。あの、と控えめな、依然強張った声が続く。振り返ると、そこには相変わらず苦々しげに眉を寄せ複雑そうに唇をうごめかせる友人の姿があった。
「すぐ取ってくるのでここで待っていてくれませんか? 十秒で終わりますから」
「あんたのと間違えるかもしれねーだろ。あたしも探す」
 適当な言葉を並べ立て、ベロニカは靴を脱いで廊下へと上がる。ひゅ、と息を呑む音が聞こえたが、気のせいだということにする。
 上げた目線の先、続く短い廊下と部屋の境界には丈の短いカーテンが掛けられている。電気が点けられていないこともあり、薄布の向こう側は見えない。秘められた奥地を暴くべく、少女は歩みを進めた。
 ヒロはヒトを部屋に迎えたくないようだ。本人曰く、『汚い』『狭い』『足の踏み場が無い』『人を迎えられるような場所じゃない』らしい。嘘だとすぐに分かるような言葉ばかりである。あの狭苦しいロッカーを美しく機能的に整理するような彼が部屋を散らかすはずがない。いつの日だったか、存在する物全てが転がり散らばる大層汚い己の部屋をその日の予定も何もかも放り出して片付けたような彼なのだ。他人の部屋を片付けられるヒトが、自分の部屋を汚すわけが無い。
 なにか別の理由があるのだろう。嘘を吐くほど入れたくないのだ。踏み入らない方がいいに決まっている。けれど、好奇心というものはなかなかコントロールできないもので。『クリーニングの際にギアを取り違えた』『すぐ返すはずのそれを忘れてきた』なんて、訪れるにはうってつけの理由があればついつそれを盾にしてしまうわけで。結果、折れた彼は部屋を訪れることを許してくれた――終始苦しげな顔をしていたけれど。
 十歩も無いような廊下をずんずんと歩んでいく。部屋のすぐ手前にあるキッチンは油汚れが見当たらないぐらい綺麗に手入れされている。鍋やフライパンも狭いスペースの中工夫してしまわれていた。こんなところまで綺麗に整えるようなヒトの部屋が汚いわけがないではないか。一体何が待ち受けているのだろう。好奇心は注がれ続ける刺激を養分に膨らむばかりだ。健気に訴える罪悪感や良心を弾き飛ばすほどに。
 おじゃましまーす、と再び唱え、ベロニカはカーテンに手をかける。軽いそれは、ちょっと力を入れただけで動いて端へと寄った。ベールの向こう側が、玄関から差す光にうすらと照らされ眼前に広がる。
 まず飛び込んできたのは本だ。大小厚薄入り乱れた本がいくつも積み重なり、床の上に背の低いタワーを築いている。何本も立ち並ぶ姿はさながら住宅街だ。目を凝らすと、カーテンが閉められた窓の横には本棚がある。己の身の丈ほどあるその腹の中は満杯で、雑誌一冊入れる隙間すら無い。どうやら、床の住人たちは居住地が見つからないためにそこにいるようだ。
 部屋の中央、あまり大きくないローテーブルの上にも小さな塔がある。傍らには大判の雑誌が悠々と身体を伸ばしている。端っこにはマグカップが申し訳無さそうに佇んでいた。傍らにあるゴミ箱らしき筒から、ビニール袋の取っ手が伸びている。処理したばかりなのだろう、中身は見えなかった。
 パチンとまた軽い音。瞬間、また光が降り注ぐ。薄闇に包まれていた部屋の全貌が白色灯の下にさらけだされた。
 本棚の上には、更に本が積み重なっている。部屋の中で安住の地を待つ住人は、棚一つでは足りないほどいるように見えた。隣、窓際にある大きなかごからはTシャツが一枚這い出ている。おそらく洗濯物だろう。すぐさま視線を九十度移動させると、カラフルな背表紙と目が合う。やはり中身は満員だ。壁際に寄せられたベッドは整えられており、本当にここで寝起きしているのかと疑うほど綺麗だ。壁には帽子型のアタマギアがいくつか並んでいる。等間隔に並ぶ様はインテリアと言われても信じるほどである。また視線を動かすと、今度はカレンダーと視線がかち合う。二ヶ月分の日付が記されたそこには、大きな丸印や少し角張った字が記されていた。今日の日付の部分には、赤丸と『ギア』という文字がある。
「すみません……汚くて……」
 背中に消え入りそうな声がぶつかる。細いそれは呼吸ができていないのかと疑うほど苦しげだ。うぅ、と漏らす嗚咽は羞恥が色濃く滲んでいた。
「いや、あたしの部屋より綺麗だろ。何言ってんだ?」
 思わず振り返り、少女は真ん丸になった目で少年を見る。口を引き結んだ友人は、いえ、ほんと、あの、と否定の声を漏らすばかりだ。
 掃除してくれた身だ、ヒロは己の部屋の惨状を知っている。なのに、ちゃんと足の踏み場があって、洗濯物が片付けられていて、布団も整えられている部屋を『汚い』と評すのは意味が分からない。この程度で『汚い』ならば、己の部屋は『ゴミ捨て場』とでも表現するのが正しい。
「床見えてんだから綺麗だろ」
「『綺麗』のハードル低すぎませんか?」
 証明するようにズカズカと部屋を進む。きちんと動線を確保してあるのか、問題なく中央の机まで進むことができた。広げられた雑誌が目に入る。大きなロゴの下に、.96ガロンを持ったプロ選手の写真が何枚も並んでいる。整列した細かい文字は二色に分かれている。おそらくインタビュー記事だろう。
「もう本棚を置く場所が無くて……床に置くしかないんですよね……」
 はぁ、と喉に栓でもされていたのかと思うほど重い溜息。あぁ、と落ちた声はやはり恥ずかしげなものだ。彼にとってこの部屋はヒトに見せられないほど『汚い』らしい。あたしの部屋見た時よく倒れなかったな、と今更な感心が浮かんできた。同時に、好奇心に弾き飛ばされていた罪悪感が這い戻ってきて主張を始める。ここまで嫌がるのに無遠慮に足を踏み入れてしまった。彼のミスを盾に無理をさせた。湧き出る後悔の念が大声でがなりたてて頭を揺らす。何度も殴っては刺してくるそれらに、ベロニカは小さく喉を上下させた。
「あっ! ギアはきちんと保管しているので! 綺麗ですから! 洗ってありますから!」
 大声をあげて、バタバタと足音をたててヒロは部屋を突き進む。クローゼットを開け、すぐさま何かを引っ掴んで戻ってくる。これです、と押し付けるように渡され、少女は気圧された短い声を漏らした。厚いビニールのショッパーに手を入れ、中身を引き出して確認する。まさに取り違えていたギアだ。ギアスロットが記されたタグを確認すると、昨日クリーニングに出した時のまま、まっさらになっている。確かに己のものであった。
「これだわ。あんがと」
「すみません、こんなことになってしまって……」
「『行きたい』って押しかけたのはあたしだろ? 何で謝んだよ」
 まぁ、それは、はい。オクトリングは歯切れの悪い言葉を漏らす。いつだって人の目をまっすぐに見る赤い目は床ばかりを見ていて、豊かに動かす口元はもにゃもにゃと曖昧に動いている。整えられた眉の端っこは下がりきっている。よほど落ち込んでいるらしい。また罪悪感が鋭く胸を刺した。
「……ごめん」
「いえ、最終的に迎えたのは僕です。ベロニカさんが謝ることはありません」
 今更になって謝罪を漏らす。すぐさま否定する彼も、またしょもしょもと萎んでいってしまった。明るく照らされた部屋だというのに、なんだか冬の暗がりに飛び込んでしまったかのような心地がした。誤魔化すように頭を掻く。耐えきれず視線をうろつかせると、足元のテーブルが黄色い瞳に映った。紙面の上、.96ガロンを構えた選手とバッチリ目が合う。それすら気まずくて、また視線を彷徨わせる。飛び込んできたのは、雑誌の下から顔を覗かせる『ストリンガー』の文字だった。堅苦しいフォントで書かれたそれの下には、モノクロで描かれたトライストリンガーのイラストがある。折れ目が付いた緑色の帯には、『構造』『基礎』『重版』と色んな言葉が並んでいた。
「トラスト、興味あんの?」
 訊ねる声は弾んでしまった。反省の色も何も無いそれに返ってきたのは、え、というきょとりとした声。すぐさま、ヒュ、と息を呑む音が聞こえた。え、あ、は、と意味を持たない音が彼の口から漏れては床を転がっていく。
「いえ、あ、の……ちょっと気になっただけで……ほんのちょっとだけ……」
 本当に、ただ気になって、他意はなく、とヒロは言葉を重ねていく。『しどろもどろ』という言葉を体現したような有様だった。友人の様子に、ベロニカは視界が斜めになるほど首を傾げる。彼は探究心が強い努力家だ。様々なブキに興味を持つことは自然である。事実、対戦相手に匠にブキを扱うプレイヤーがいると一緒にバトルメモリーを見返すことは多いし、試し撃ち場でそのブキをふるっている様子も見る。床に積み上げられた本も、背表紙を見る限り多数のブキ指南書や整備に関する本が多く見受けられる。何故こんなにも慌てるのか、全く理解ができなかった。
「戻りましょうか! スケジュール変わっちゃいますし!」
「そこまで急がなくていいだろ……」
 バタバタとらしくもない足音をたてて進む少年の背に、少女は呆れ返った声を漏らす。本当に、ここに来てからずっと様子がおかしい。様子をおかしくしてしまったのは無理矢理押しかけた己なのだけれど。罪悪感がまた心臓を刺した。
「まだ電車まで時間あんだろ。ゆっくり行こうぜ。コケっぞ」
「そう、ですね」
 都合の悪い感情を押し込めるように言葉を紡ぐ。返ってくるのはやはりしょぼくれた声だ。また罪悪感が心臓を、脳味噌を刺す。後悔も加わり、針地獄を作り上げる勢いで膨らんでいった。
 二人交互に靴を履き、部屋を出る。コンクリートで囲まれた廊下は熱がこもってほのかに暑い。息を吐くと同時に、錠が掛けられる音が響いた。
 白い表紙が、緑の帯が、頭に浮かんだまま離れない。視界に映った本は、ほとんどがシューターに関するものだった。その中に一つだけ輝く、己のブキ。机に出して置いたままにするほど読み込んでいる己のブキ。ふわりとうちがわにある柔らかな部分が宙に浮かんでいく。確かな熱が胸に注がれていく。
 何事にも挑戦する彼だ。互いに研究する彼だ。いつかトライストリンガーを使う日が来るかもしれない。己と同じブキを使う日が来るかもしれない。考えただけで、動かす足とその音が軽く弾んだものとなった。
 まぁ、トラスト二枚はしんどいけど。笑みを含んだ声がこぼれ落ちる。小さなそれは、大きな足音に掻き消されて消えた。畳む

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慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】

慣れるまでいっとう冷たくね【プロ氷】
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推しカプ同じ布団で寝てくれ(定期post)→プロ氷は一緒に寝るの無理だろ→それでも同じ空間にいてくれ……というオタクがわがままごねた結果がこれだよ。毎度のごとく都合良く捏造してるよ。
冷たくしてあげたい識苑先生と冷たくしてもらうのは申し訳ない大学生氷雪ちゃんの話。

 低い駆動音が部屋に染み渡っていく。呻り声とともに機械が吐き出す風は冷たく、触れれば冬と錯覚しそうなほどのものだ。除湿モードに切り替えた空調機は、狭い部屋をひたすらに冷気で満たしていった。
「本当にすみません……」
 膝にかけたタオルケットを握り、氷雪は消え入りそうな声で呟く。川底のように澄んだ瞳は暗く陰り、白い柳眉は顔からこぼれ落ちてしまいそうなほど端が下がっていた。普段は太い三つ編みでまとめている髪は今は解いて下ろされており、上等な白い着物も薄手の浴衣に着替えている。何年経ってもほっそりとした美しい足は皺の寄ったシーツの上で膝を合わせて折り畳まれている。縮こまった身体は普段よりも更に小さく見えた。
「いいよ。どうせパソコンのために点けてなきゃいけないしね」
 ベッドの上にあぐらを掻き、識苑はへらりと笑う。こんな顔と言葉で彼女の気は晴れないと分かっているものの、これぐらい笑い飛ばしてやらねばという思いが強い。事実、部屋で駆動する各種機械の排熱は凄まじく、室温を一度や二度上げるほどだ。それらを冷やし熱暴走を防ぐためにも、夏は冷房を躊躇なくガンガンと動かし部屋を冷やしきっていた。壊れた場合の修理費用や作業時間のロスを考えると、人間にとっては寒いぐらいに稼働させた方がリスクが少ないのだ――そう、人間にとっては。
 恋人である氷雪は雪女である。雪の中で生まれ、雪の中で育ってきた。そんな彼女のなのだから、当然暑さには弱い。温度によっては生命を脅かされるほどであり、高気温が続く夏は天敵と言っても差し支えがないだろう。ネメシスでの暮らしを始めてから多少は耐性は付いたと本人は語るが、それでもまだまだ夏の暮らしには不便をしているようだ。ここ最近は酷暑が続いているのだから尚更だろう。
 そんな彼女が、この夏のさなかに泊まりに来た。ならば対策は立てておくべきだろう。彼女が来る前にエアコンのリモコンの下ボタンを二回押したのも、普段なら常温保存する茶を冷蔵庫に入れたのも、氷を普段の倍は作ったのも秘密だ。
 問題は夜である。欲望に身を任せて言えば、共に寝たい。同じ布団に入って、ちょっとだけおしゃべりをして、並んで寝たい。歳に似つかわしくないあまりにも少女趣味な願望であるが、彼女にこれ以上の『恋人らしいこと』を求めるのは己が許さない。それに、氷雪が泊まることなど半年に一回あるかどうかなのだ。これぐらい考えるのは心身共に健康な人間ならば当然だろう。
 だが、彼女は暑さに――つまりは熱に弱い。人と並んで寝るなど、他人の体温を感じながら一晩過ごすなど言語道断である。最悪命を落とす可能性だってあるのだ。己のわがままと恋人の命を天秤に掛けるなんてことはあってはならない。加えて、彼女は寒ければ寒いほど過ごしやすいということは想像に容易い。ならば、と彼女は冷房直下の場所に布団を敷き、己は普段使っているベッドに寝るのが正解だろう。
「でも、あ、の……、さすがに、申し訳が……」
「暑さって氷雪の命に関わるよね? 申し訳ないとか考えることじゃないよ。生きるためなんだから」
「…………は、い。すみません、ありがとうございます」
 やはりというべきか、心優しい彼女はこの配置を気にしてしまうようだ。出会った頃よりは好意を受け取るようになっているものの、まだまだ引け目を感じてしまうらしい。こちらとしては、どうにか片付けてもまだまだごちゃつく床の上、そこになんとか敷いた安物の布団で眠らせてしまうことに申し訳無さを感じるのだけれど。
「……一緒に寝れたら、いいんですけど」
 ぽそり。小さな声が工具が転がる床に落ちる。向かい合った目の前、布団の上で正座をした恋人の頬は紅で染まっていた。真冬の椿もかくやの鮮やかさである。愛おしさが胸を満たしていく。今すぐにでも抱きしめたい衝動が手を動かし、少女へと腕を伸ばす。なんとか残っていた理性が脳味噌を殴って揺らし、無遠慮な動きをベッドの上へと封じ込めた。
「かっ、身体は、大丈夫なんです……、たぶん。でも、まだ、緊張してしまって……」
 朱が広がる顔が伏せられ、白い頭があらわになる。肩に少しだけかかった長い雪色がするりと布の上を滑って落ちた。
 緊張かぁ、と識苑は心の内で漏らす。肺にあるものを全て吐き出したかのような、肩に重いものが落ちてきてしがみつかれたような、そんな心地がした。
 恋人は雪原と同じほど白くて純情で、とことん恥ずかしがり屋で奥手である。付き合って何年も経つが、それでもまだ触れあうことは得意ではない方だ。ちょっとだけ進んだ口づけで溶けそうになるほど緊張しているのは、目を瞑ってこちらを待つ顔がいつだって物語っていた。最近では溶けるまではいかなくなったものの、やはりまだまだ緊張はするらしい。触れる頬はいつだってぷるぷると震えていた。
 そんな彼女なのだ、経験が無い『恋人と一緒のベッドで寝る』だなんて行為に緊張を覚えるのは当然である。そもそも、氷雪がこの部屋にまだ泊まるようになって日が浅いのだ。『一緒の部屋で寝る』ことにすら慣れていないというのに、二段も三段も飛ばして『一緒のベッドで寝る』など彼女の心が受け入れられるはずがない。キャパシティオーバーで溶けてしまうのは目に見えていた。
 けれども、それでも、付き合って数年経つのにまだ『緊張する』と言われるのは少しばかり辛いものがある。己はまだ彼女にとって安息の地にはなっていない。その事実が睡魔忍び寄る頭に染み渡っていく。もう髪を乾かしたというのに、頭が重くなったかのように感じた。
「あっ、あ、の。えっと」
 シーツの上、白がぶわりと舞う。勢いよく上げられた氷雪の顔は、少しばかり色を失っていた。花緑青の瞳は目いっぱいに開かれ、手入れを済ませたばかりの唇は忙しなく開閉を繰り返している。えっと、その、と漏らす声は普段よりも少し大きく、けれども細くて高いものになっていた。どうやら己の馬鹿げた感情は顔に出ていたらしい。あぁ、と識苑は心の中で頭を抱える。彼女が気に病むなど分かりきっているというのに、何故こんなことをしてしまうのだ。もういい歳だというのに、何故こんな年若い少女に気を遣わせているのだ。自己嫌悪が心に黒いもやを撒き散らしていく。そんなこと胸の内の動乱など一切無い、とばかりに、技術教師は普段通りの笑みを浮かべた。こんなものはきっと看破されてしまうけれど、いつまでもしょぼくれた顔をしているわけにはいかないのだ。
「えっと、あの、き、緊張といいますか……」
 依然慌てた調子で雪色の少女は言葉を紡ぎ出す。上擦っていた声は落ち着くことなく、むしろ悪化している。けれども、顔には色が戻っていた。むしろ、柔らかなまろい頬は紅葉したように色づいている。噛み合わない声と表情に、月色の目がぱちりと瞬く。あうあうと打ち上げられた魚のように口を開いては閉じる氷雪だったが、どうやら落ち着いたらしい。すぅ、はぁ、と大きく深呼吸する音が聞こえてきた。
「…………まだ、すごく、ドキドキするので」
 好きな人と一緒に寝るのは、ドキドキしすぎて、溶けちゃうかもしれないので。
 細い声で言葉が編まれていく。音が止んだ後も口はまた開閉を繰り返し、全てを隠すように顔が伏せられた。銀糸が絡まる耳はしもやけのように真っ赤で、彼女の心がどうなっているかということを雄弁に語っていた。
 好きな人。ドキドキ。可愛らしいワードが、己にとって都合が良すぎるワードが、愛する人の口から紡がれたワードが、頭に、心に染み渡っていく。先ほどまで立ち込めていたもやは、ひとかけらも残さず吹き飛んで消えた。代わりに、熱いものが胸を満たしていく。苦しいぐらい熱いものが。叫びたいほど温かくてたまらないものが。
 ベッドの上に投げ出していた手を素早く動かし、鷲掴むようにして顔を隠す。冷房で冷やされた手には、ケアをされたばかりの頬と額が随分と熱く感じた。何故そう感じるかなど自明である。自分の顔が何色で染まっているかなど鏡を見なくとも分かる。口がみっともなく緩んでしまっているのも誰よりも己が一番分かっていた。そっかぁ、と漏らした声は、無様なほどとぎれとぎれで上擦ってとろけきっていた。
 指の隙間から対面を見る。こちらを見る氷雪の顔も紅梅といい勝負をするほど赤かった。それがまた、己の心を煽る。苦しくなるほど愛おしさをもたらして、顔に血を上らせていく。ぅ、と思わず嗚咽のような声が漏れた。
「うん…………、じゃ、また、いつか。あんまり緊張しなくなったら……えっと……」
 ヨロシクオネガイシマス。揺れる視線を隠すように頭を下げてそう伝える声は己でも驚くほどぎこちがないものだった。普段彼女の前では余裕ぶった姿で在ろうとしているのに、なんと不格好なのだろう。恥ずかしくて布団を被って逃げてしまいたい衝動に駆られる。これ以上彼女の前で格好悪いことはしたくないのでどうにか抑え込んだが。
「は、はい……、えと、……よろしく、おねがいします」
 返す言葉はところどころひっくり返っていた。目の前の氷雪もまた、己と同じように視線をうろうろと泳がせていた。それもどんどん俯いて隠れていく。やはり耳は紅で染まったままだった。
「……寝よっか!」
「はい! 寝ましょう!」
 裏っ返った声でした提案は、すぐさま可決された。おやすみ、と互いに交わす声は隣の部屋に聞こえてしまいそうなほど大きくて、夜にはあまりにも不釣り合いなほど元気なものだった。
 手元のリモコンを操作すると、ピッと短い音と同時に部屋の照明が落ちる。真っ暗闇の中では、もうあの白い髪も、緑の瞳も、赤く染まった頬も、何も見えなくなってしまった。
 衣擦れの音が聞こえる。きっと、タオルケットを掛けたのだろう。寝ようと提案した手前、己も眠るしかない。もそもそと鈍い動きで夏用の薄い掛け布団の中に潜り込んだ。除湿モードの冷気で冷やされた肌には、薄布が随分と暖かく感じた。
「……し、おん、さん」
「なぁに」
 暗闇の中、声。努めて柔らかな響きで返すが、沈黙が闇を満たすばかりだった。しばしして、また衣擦れの音。まだ順応が終わっていない目には、暗闇の中には何も見えない。けれども、あの美しい翡翠がこちらを見ているように感じられるのは、きっと木のせいではないはずだ。
「おやすみなさい」
「……うん。おやすみ」
 いい夢を。
 呟くように、歌うように、寝言のように、言葉を紡ぐ。またごそごそと布が擦れる音が闇に落ちた。寝返りを打って、壁の方へと視線を向ける。あれだけ熱かった顔も、頭も、心も、這い寄る睡魔によって落ち着きを取り戻していた。
 闇夜が、機器の駆動音が部屋を満たす。そこに安らかな呼吸が二つ加わるのはすぐだった。
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#プロフェッサー識苑 #氷雪ちゃん #プロ氷

SDVX

諸々掌編まとめ14【SDVX】

諸々掌編まとめ14【SDVX】
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色んなところで書き散らしてた大体2000字ぐらいの掌編まとめ。と思ったけど最近3000字ぐらいのが多い。あと大体嬬武器兄弟。掲載時から修正とか改題してるのは気にするな。
成分表示:嬬武器兄弟2/ライレフ3/ロワ→ジュワ

夏空、雨香り/嬬武器兄弟
参考:“降り始め”と“雨上がり”で違う!? 「雨の匂い」の正体は? - ウェザーニュース

 湿気った空気が剥き出しの肌を撫ぜる。熱を孕んだそれは、昇降口に向かうにつれ存在を強く主張していった。湯でも沸かしているのではないか、なんて馬鹿げた考えが脳裏をよぎる。夏の蒸した空気は人の思考を少し狂わせる程の力を持っていた。
 ロッカーを開いて靴を履き替える。窓際に並ぶ傘立てから、朝置いたビニール傘を抜き出した。外に続くガラスドアへと足を進めるごとに、空気が湿度を増していく。サウナと言われても信じるほどの蒸し暑さに、烈風刀は小さく眉根を寄せた。
 両開きのドアをくぐり抜けると、一気に湿り気がまとわりついてくる。街なかでよく撒かれているミストの下を潜り抜けた時を思い出す。肌で感じる温度は正反対だが。
「あっつ!」
 後ろから叫びに近い声。しかめ面で振り返ると、そこには同じような顔をした双子の兄がいた。普段はぱっちりとした鮮やかな緋色の瞳は瞼の奥に半分ほど隠れている。八重歯がチャームポイントの大きな口はへの字に曲がっていた。うへぇ、と下がり調子の重い声が暗さを増したコンクリートへと落ちていった。
 声に出さないものの、烈風刀も全く同じ心地だ。ただでさえ蒸し暑い日々が続いているというのに、今日に至っては朝から雨が降る始末である。一時は激しく音をたてて地を打っていた雨粒は、ホームルームの時点でもう姿を消していた。けれども、彼らがもたらした水分はしっかりと空気に残っているのだ。夏の気温、日差し、そして水気。全ては不快指数を凄まじい勢いで増加させていった。
「やっぱ傘いらなかったじゃん」
 うっすらと日が差す空を見上げ、雷刀はどこか得意げに言う。事実、彼に手には烈風刀のように傘は無い。調子の良い言葉に、弟は眉間に皺を刻んだ。
「朝は降っていたでしょう。何言ってるんですか」
「でも烈風刀が入れてくれたし? 一本でじゅーぶんだったじゃん?」
「無理矢理入った、の間違いでしょう」
 部屋を出た時点で鈍色の曇り空。数分歩いたところでポツポツと降り出し、すぐさま音を響き渡らせるほどの勢いとなった。降水確率四〇パーセントを過信し傘を持たずに出てきた兄は、入れて、と己の差した傘に身体をぐぃっと押し入れてきたのだ。持っていた白い柄は当然のように奪われ、当たり前のように身を寄せられ。狭い、頼む、と言いあいながら登校したのをあまり人に見られなかったのは今日唯一の幸運だ。不運の全ては傘を持たない自業自得の片割れがもたらしてきたのだけれど。
「あっつ……すげーにおい……」
 眇目で見やる弟のことなど気にもかけず、雷刀はうんざりとした調子で声を漏らす。雨上がりの世界は、絡みつくような熱気と湿気、独特の臭いで満たされていた。鼻をかすめる臭気に、烈風刀は口元を歪める。ほこりっぽいような、湿っぽいような、土っぽいような、粉っぽいような何とも言えない臭いは、己の好みにはかすりもしないものだ。蒸し暑い空気も相まって、不快感ばかりが募っていく。
「なんだっけ。名前あんだっけ?」
「あるんですか?」
 朱の声に、碧は首だけで振り返る。動いた翡翠の瞳に、顎に手を当て宙を見上げる兄の姿が映った。夕日より鮮烈な朱い頭が徐々に傾いていく。呻きに似た声がまっすぐになった口から聞こえた。
「あったはず。こないだなんかで見た」
「ひとつも覚えてないではないですか」
 うーん、と喉を鳴らす兄に、弟はうんざりとした表情で返す。情報などとは到底言えないほど、何もかもがあやふやだ。おそらくたまたま思考に引っかかったそれを吟味せず直接吐き出しただけなのだろう。感覚ばかりが鋭い片割れはいつだってそんな調子だ。
「降りそうな臭いは『ペトリコール』でしたっけ」
「そんなんも聞いた気がする……でもなんか違う……もっとすげー名前だった……」
 なんだっけー、と朱は重い声で繰り返す。薄くなった雲から姿を現し始めた夕日が、テスト中のそれに似た顔を照らし出した。
 うんうんと唸る片割れを横目に、碧は携帯端末を取り出す。開いたウェブブラウザ、角が丸い入力欄に『雨上がり 臭い』と打ち込む。硬さが窺える指が虫眼鏡アイコンをタップした。コンマ数秒で現れた画面、その一番上に、少し大きな文字が並ぶ。『雨上がりの匂いはゲオスミンと呼ばれ』という一文が青色でハイライトされていた。
「『ゲオスミン』だそうです」
「そう! それ!」
 短く告げる弟に、兄は叫ぶように返す。剣胼胝が残る人差し指がまっすぐに伸び、白い端末を指し示した。
「もうちょいで思い出せたのに」
「絶対思い出せませんよ」
 唇を尖らせる雷刀を、烈風刀はバッサリと切り捨てる。思い出せたし、と膨れ面で漏らす兄を横目に、弟は手にした小型端末を鞄にしまう。そのまま、一人歩き出した。烈風刀、と慌てた調子で名前を呼ばれる。気にすることなく、少年は歩みを進める。迫る足音、並ぶ足音。
「すげー名前だな。ゲオスミン」
「そうですね。何というか……考えつかない響きです」
「分かる」
 味わうように、記憶に刻むように、朱は立ち込めるそれの名前を繰り返す。覚えたての言葉を何度も口にする子どもとまるきり同じだ。ゲオスミン、と碧も口の中で呟いてみる。堅苦しく力強い響きは、ペトリコールと対を成す言葉とは到底思えないものだった。
 茜に照らされる中、兄弟は帰路を進んでいく。蒸した空気といかめしい名前の臭いが二人にまとわりついていた。




雨、一人、コインランドリー/ライレフ
 ゴウンゴウン。低い音をたてて銀の筒が回る。ガラス戸を隔てた中、音も無く白い布も回る。無骨な機械の中で柔らかな布が持ち上げられては落ちを繰り返すさまはさながら餅つきだ。普段使っている縦型洗濯機では見られない、ある種珍しい光景である。
 雨続きで。洗濯物は部屋干しでもなかなか乾かなくて。でも溜まった欲望は抑えられなくて。愛情を注ぎ注がれる瞬間が恋しくてたまらなくて。
 結果、小雨の中コインランドリーを訪れ、わざわざ金銭を使い愚かな情事で汚したシーツを洗う今に至る。
 ゴウンゴウン。低い音が一人きりの建物内に響く。規則的な音色は、うっすら聞こえる雨音も相まって眠気を誘うような響きをしていた。きっと、自業自得の疲れが残っているのもあるのだけれど。
 洗濯段階を終えたシーツは、とっくに乾燥段階に入っていた。大型の洗濯乾燥機をシーツだけが占領するのはなんとも贅沢である。本当ならば他の洗濯物も持ってきたかったが、一人で運ぶにはこれが精一杯だ。二人で運べばよいのだが、己の欲望に付き合わせた――あちらも乗ってきたのだから連帯責任だなんて思うのは少し勝手がすぎる――恋人の身体に鞭打って出歩かせるのは気が引ける。持っていける分中途半端に洗うよりもシーツ一枚だけに絞ってしまった方がいいだろう。それに、普段使わないガス乾燥機に耐えられない衣服が万一混じろうものなら大問題だ。
 回る布の横、小さな電子パネルへと視線をやる。古めかしい赤いデジタル数字は、終了まで残り十分を切ったことを示していた。盗まれるのではないかという不安がつきまといずっと座って始終を見ていたが、やっと終わりが来るらしい。ふぅ、と何もしていないというのに小さく息を吐く。なかなか見ない光景は面白かったが、八割方は単調で代わり映えがしない動きだからか最終的に退屈さが勝っていた。
 ゴウンゴウン。白い布が洗われ乾かされていく。昨晩の欲望など全て洗い流してまっさらにしていく。綺麗に消し去って日常へと帰らせてくる。
 自動ドアの外を見やる。外はまだ小雨が続いていた。天気予報も向こう一週間は雨である。何しろ梅雨に入ったのだ。雨が降るのは自然であり当然である。それを分かっていて、シーツを干すのが難しい天気だと知っていてベッドに雪崩込んだのだから己は大概である。我慢はしたのだ。爆発した時が運悪く悪天候の日々と重なっていただけで。そんな言い訳を考え、少年はまた息を吐いた。
 ゴウンゴウン。洗われ乾かされ、シーツが回る。昨晩の熱よりもずっと穏やかな温かさに触れるまで、あと八分。




朝のお楽しみは夜から/嬬武器兄弟
 朱い瞳が青白い庫内を見回す。台所の一角にある冷蔵庫の中身は、普段よりも閑散としていた。牛乳は残っているものの、手から伝わる重さをみるにあと一杯分ぐらいか。買い足す必要があるだろう。卵はまだあるから買わなくてもいい。野菜は玉ねぎを使い切ったところだったはずだ。軽く整理しながら保存している食材を確認していく。明日の買い物で余計なものを買うのは避けたいのだ。
 ガサゴソと音をたてて、庫内に手を入れ片付けていく。三つ重なったの納豆パックの影、少し奥から食パンの袋が発掘された。皺の寄ったビニールに書かれた賞味期限は明後日。ちょうど二枚あるから、明日の朝食に使えばいいだろう。
 牛乳。卵。食パン。食材が頭の中に並べ立てられていく。全てが繋がった瞬間、青白い光に照らされた瞳に輝きが宿った。
「烈風刀ー」
 冷蔵庫の扉を閉め、雷刀は弟の名を呼ぶ。何ですか、と返ってきた声は少しだけ遠い。微かに聞こえる物音から、彼もまた部屋の整理をしているのが窺えた。自身の手によって掃除は行き渡っているだろうにマメなものである。
「明日の朝、フレンチトーストでもいい?」
「いいですよ」
 了承の声に、兄はよっしゃと小さく声を漏らす。早速閉めたばかりの扉を開け、器用な手付きで材料を取り出した。
 卵を割ってほぐし、砂糖を気持ち多めに入れ、残っていた牛乳を全て注ぎ入れて混ぜる。ジッパー付きの保存袋に食パンを一枚ずつ放り込み、先ほどの卵液を等分して注いでいく。入念に空気を抜いて、ぴっちりと閉じた。軽快な足取りで冷蔵庫に戻り、整理して少し広くなった庫内に袋を横たわらせて置く。明日の朝に思いを馳せながら扉を閉じた。
「別に明日の朝でもいいでしょうに」
 隣から声と水の音。目を向けると、手を洗っている烈風刀が映った。濡れた手がスポンジを掴み、シンクに放り込まれたままのボウルをひょいと取って洗い出す。あんがと、と礼を言うと、ついでですから、と事も無げな声が返ってきた。
「そーだけどさ。やっぱ時間置いて染みこませたやつのが美味いじゃん?」
 漬け込み時間を要するフレンチトーストだが、時間をかけず液を染みこませる方法はある。食パンにフォークで軽く穴を開け、卵液と一緒に容器に入れ電子レンジで軽く温めるだけでも十分によく液は行き渡るのだ。手軽さと手早さを考えるとそちらの方がいいが、やはり時間があるのならばじっくりと漬けて染みこませたい。長い時間をて甘い卵液を全て吸い込んだフレンチトーストは、崩れそうなほどトロトロで美味しいのだ。
 それにさ、と雷刀は人差し指を立てる。洗い物を拭いて片付けた弟は、タオルを畳みながら兄へと顔を向けた。
「明日の朝ごはんが決まってたらなんか楽しいだろ? 楽しみで早く起きれそうじゃん?」
 にへらと朱は笑う。所謂時短レシピはある。それでも美味しくできあがる。けれど、このワクワクした期待の気持ちだけはどうやったって生み出せないのだ。それに、せっかくの休みなのだからちょっとの楽しみや幸せを用意しておきたいではないか。
 碧い目がぱちりと瞬く。丸いそれが、ふっと柔らかな線を描いて細くなった。蛍光灯に照らされた瞳に宿る色は温かで穏やかだ。
「そうですね」
「だろー?」
「でも、楽しみすぎて眠れない、なんてことにはならないでくださいよ」
「さすがにそれはねーって!」
 軽口を叩く烈風刀に、雷刀は大きく返す。笑みを隠しきれない軽やかな響きをしていた。夜も随分と更けた頃だというのに、キッチンは明るく温かな空気が満ちていた。
 朱は白い扉に視線を移す。少し固い大きな手が、つるりとしたそこを愛おしげに撫でた。




真夏のお手入れは優美に/ロワ→ジュワ
 春のくさはらを思わせる緑が、まさしく壊れ物を扱うかのように丁重な動きですくい上げられる。白い手袋に包まれた手に握られるブラシが、ウェーブがかった若草色をそうっと、そうっと撫でていく。夏の湿気を薄くまとった緑髪は、丁寧な指先によって柔らかさと軽さを取り戻し始めた。
 髪を梳かれる女も、髪を梳く男も言葉一つ発しない。男の方は、これ以上無く真剣な面持ちで手を動かしていた。万が一にも髪が引っかかるなんてことがあれば喉を掻き切る、と言わんばかりの鋭い輝きと危うさ、そして恭しさが彼を包んでいた。同時に、これ以上に無い褒美を賜ったような幸福に満ちた表情をしていた。
 女の方は、触れられているというのに表情らしい表情が無い。長い睫に縁取られた麗しい目はうっすらと細くなっている。化粧の気配が無いのに鮮やかに色付いた口元はまっすぐに閉じられていた。動きの少なさからも眠っているのではないか――それどころか、生きたヒトではなく一つの美術品なのではないかと思わせるような、人知を超えた何かを醸し出していた。必然、男の動きに全く反応をしない。美しい長髪は好き放題にされていた。
 ボリューミーな髪全てに手を施し終えたのか、男はブラシを傍らの教壇に置く。大ぶりな櫛を離した手が緑をさらい、白い手袋の上にほそやかな緑がまとめられていく。それもまた、恭しくこまやかな動きだった。
 柔らかな布地の上で、シルクのようにすべやかな髪が形を変えていく。三つに分けられた緑は器用に編み込まれ、最後はうなじより少し高い位置で丸められた。長いピンをいくつか通して固定された髪は、つるりと滑っていくようなつややかさを失うことなく美しい球状にまとめられている。まるで初夏を知らせる葉桜のようなみずみずしさと鮮やかさがあった。若干低い位置でまとめられている様はうっすらと幼さを漂わせる。反して、ぴょいと跳ねる後れ毛は心臓が跳ねるほどあでやかだ。どこを取っても豊かな体つきや澄ましたかんばせとは印象が全く異なるが、相反することなく調和していた。むしろ、冷たさすら感じる大人然とした姿に可愛らしさと艶やかさが添えられ、更なる魅力を引き出していた。
「どうですか」
 鏡を手に男は問う。ミュージカルのようななめらかな歌声に似た響きをしていた。問われた女は唇はおろか表情筋すら動かさない。しかし、その表情が心なしか晴れやかになったように見えるのは気のせいではないだろう。なにせ、剥き出しの背を覆い熱を閉じ込めていた長い髪がいっぺんに取り払われたのだ。熱を孕んでいた背を撫ぜる涼しさは、いっとう心地の良いものだろう。
 彼女に心酔する男もそれを感じ取ったのか、満足したように二、三と頷く。あぁ、と漏れ出た感嘆の吐息はとろけたものだった。まるで恋人に愛を囁くような響きをしていた。
「……あら」
 微かな音をたて、音楽室の前方にある自動ドアが開かれる。飛び込んできたのは、どこか固さがある少女の声だった。男の青い瞳がすぃと動き、教室と扉の境目で立ち尽くす生徒を見る。扉を開けた張本人であるグレイスは、眇めた目でうろうろと教室中を眺めていた。『気まずい』という心の中身が顔面にバッチリと現れている。
「あぁ、もう授業の時間でしたか」
「いや、まだよ。私がちょっと早く来ただけ」
 仮面の奥で柔らかく笑う青年に、少女はゆるく首を振る。事実、黒板の取り付けられた時計は午後一番の授業を始めるにはまだ早い時間を示していた。
「……あら?」
 宙を彷徨っていた躑躅の視線がピタリと止まる。マゼンタの双眸に映るのはつややかに輝くエメラルドグリーンだ。音楽の担当教師であるシャトー・ロワーレが『ジュワユース』と呼んで愛してやまない彼女の髪は、普段と違い美しい球体となり形の良い頭を彩っていた。常は床についてしまうのではないかと気に掛かっているだけに、綺麗にまとめられた姿は少女の心に安心感をもたらす。同時に、見た者全てを惹きこむような美麗さに目を奪われていた。
「涼しそうでいいわね。綺麗」
「よかったですね、ジュワユース」
 固かった表情をやっと緩めた生徒の言葉に、音楽教師は愛剣の顔を覗き込む。瞬きすらしない金の目は依然まっすぐと虚空を見つめるだけで表情が変わる気配も無い。それでも何かを感じ取ったのか、勝手に何かを解釈したのか、青年はうんうんと満足げに頷く。異常であるが、いつも通りの光景だった。少なくとも、あまり物怖じしないグレイスがツッコミの一つもしない程度には。
「最近よく結んでるわよね。貴方がやってるの?」
 ジュワユースはほとんど動かない。剣の精と噂される彼女が歩く、それどころか指先を動かす様子すら、少女は見たことがなかった。顔の筋肉一つすら動かさないことで有名だ。妖精だし人間とは感性が違うんじゃない、いやロワーレ先生が何でも押しつけるからでしょ、と生徒の間では一つの謎として話題に上ることは多々ある。事実は所有者本人すら知らないのだけれど。
「はい。そのままでは背中が暑そうですので」
 にこやかに答え、ロワーレは萌ゆる春山のような髪にそっと触れる。手袋越しでは感触は分からないだろうが、布地に引っかかることなくさらりと流れていく様からよく手入れがされていることが分かる。当然だ、所有者は執着を通り越した恐ろしい何かを感じるほど日々愛を囁き熱心に注いでいるのだ。日頃の手入れに瑕疵など一つもなかった。
 普段、ジュワユースは豊かな長髪をまとめることなく垂らしている。床に毛先が触れても一切反応しないほど――ロワーレは非常に慌てるが――無頓着だ。しかし、ある夏に彼女は言ったのだ。あつぃ、と。
 そこからのロワーレの動きは素早いものだった。剣の姿であれヒトの姿であれ手入れの頻度と入念さを増し、共にいる際は空調で心地良い温度を保つことを欠かさず、最終的には背を覆ってしまう長い髪をまとめて熱を逃がしてやるようになった。本人から否定的な反応がないのを良いことに、青年は様々なヘアアレンジを試し始めた。ポニーテール、ツインテール、ハーフアップ、多様な編み込み、そして今日のようなお団子。様々な髪型が精の頭を彩った。今のところ抗議の声も喜びの声も無い。
 へぇ、とグレイスは感心したように息を吐く。彼女自身、姉のような存在にヘアアレンジをして遊ばれることが多い。年頃の少女らしくあろうと雑誌やウェブサイトを熱心に漁った時期もあった。それ故に、目は肥えている方だ。その感性をもってしても、ジュワユースに施されたヘアアレンジは見事なものだった。『暑さをしのぐ』という機能性の中に、美しさや艶めきを残すのは初心者にはなかなかできないことだ。音楽が専攻であるこの教師は、己の髪に頓着がなさそうなこの教師は、それを見事にやってのけたのだ。これが『愛』というやつだろうか、と少女は考える。それにしては、熱烈を通り越して苛烈だが。
「そろそろ戻りましょうか」
 ロワーレはジュワユースの細い肩に触れる。途端、美しい緑髪と健康的な肉体は消え去った。残るのは剥き身の剣だ。授業の時間が近いから本来の姿に戻ったのだろう。ボルテ学園の音楽教師が愛剣をタクトとして使うのは有名な話だ。もちろん、生徒であるグレイスも知っている。席が最前列であるため、その切っ先が目の前を横切る恐ろしさを何度も味わっていた。
「いいの? せっかくやってあげたんでしょ?」
 躑躅は首を傾げる。あの毛量、あの手の込みようから見るに、髪をゆわうにはある程度の時間がかかっただろう。そして、おそらくそれはゲームのセーブデータのように保存などされず、次に会う時には全て解けている。好きな人――ヒトではないけれど――の新たな姿をそうも簡単に見れなくなってしまってもいいのだろうか。疑問で彩られた声と瞳に、仮面の奥の瑠璃色がぱちりと瞬く。あぁ、と漏らした低い声はどこか柔らかで甘くて、紡ぐ口元は綻んでいた。
「どんな姿であっても、ジュワユースは美しいですから」
 ロワーレは白い仮面の奥でにこりと笑う。そう、とグレイスは曖昧な笑みを返す。答えになっていないが、それ以上を突き詰める度量を少女は持っていなかった。突き詰めれば授業が三つは潰れる羽目になるだろう。
 トトト、と軽い足音が音楽室の床を転がっていく。教壇斜め左の最前列、自身に割り当てられた席に座り、グレイスは小さく息を吐いた。余計なことを言って捕まらなくてよかった、という安堵がこれでもかとにじみ出ていた。
 白い指先が躑躅色の髪に触れる。癖が強く長いそれが、動きに合わせてふわふわと揺れる。今日、彼女は自身で髪を整えていた。まだまだほつれやゆるみが目立つが、朝の短い時間でやったにしては上出来である。それでも、ロワーレが整えたものよりも劣っているのは少女自身が一番分かっていた。
 まだ昼休みであることを確認し、グレイスは携帯端末を取り出す。動画アプリを開き、検索窓をタップする。細長い入力欄に『ヘアアレンジ ロング やりかた』と短いワードが刻まれた。




恋人要項/ライレフ
 頭とソファの背もたれがぶつかり鈍い音をたてる。覚えるはずの痛みは頭の中に渦巻く疑問によって誤魔化されてしまった。うぅん、と呻き声が喉から漏れる。唇はぴったりと合わさり、真一文字を描いていた。
 背もたれに預けた体重を移動させ、雷刀は元の姿勢に戻る。膝を肘置きにし背を丸めて携帯端末を眺める姿は褒められたものではない。けれど、今この手にある液晶画面の中身を堂々と披露するのは己であれど難しかった。
 手のひらに収まる程度の携帯端末、その煌々と光る液晶画面に並ぶのは『恋人』『アピール』『積極的』『ドキドキ』など、どこか乙女チックで甘ったるい、まばゆいほどに輝いて見える単語ばかりだ。画面から砂糖やら蜜やらのような匂いが漂ってきそうなほどの密度である。普段ならば決して見ないようなページだ――今は藁にも縋る思いで見ているのだけれど。
 先日、長年積もりに積もった恋心が報われた。雷刀は実の弟である烈風刀に告白し、想いが通じ合ったのだ。それこそ踊らんばかりに喜び、歓喜のあまり涙し、溢れた愛をたっぷりぶつけたほどである。
 交際は順調である。だが、順調すぎるのだ。お互い初めての交際ということもあり、手を出しあぐねているのが己でもよく分かる。もっと『恋人』らしいことをしたい。もっと『恋人』らしくありたい。そう思う心はどんどんと大きくなり、少年を突き動かした。手始めに、インターネットで情報を集めるという些細なことから。
 そうして『恋人らしいこと』と曖昧極まるワードで検索をかけ、トップに出たページから片っ端から読み漁り。どれも短いページだというのに、夜はすっかりと更けていた。
 問題はその記事の内容だ。華やかな装飾で綴られたページに書いてあることはほぼ同じだった。『手を繋ぐ』とか、『抱き締める』とか、『一緒に出掛ける』とか、『メッセージを送りあう』とか。
 どれも日常的な行動だった。ふらふらと歩く己を引き留めるために手を繋ぐことは多い。抱き締めるのだって感情表現の一つとして度々行っている。一緒に出掛ける、メッセージを送るに至っては日常に染みこんだ必然の行動であった。買い物に行くには手が多い方が便利であるし、メッセージを交わさなければ料理や風呂の段取りが付かない。『恋人らしいこと』のほとんどはもう達成しているのだ。
 頭を抱えたのは言うまでもない。だって、まさか『恋人らしいこと』をほぼ達成しているだなんて思わないではないか。何年も共に暮らしている肉親であることも大きいだろう。にしたって、こうも早々とクリアしているとは思わないではないか。今まで行ってきた全ての行為に恋人らしい甘やかでときめく要素は無かったけれども。
 煌々と光る強化ガラスを指で弾く。『恋人としたこと十選!』と題されたページがスクロールされていき、下部で止まる。そこに並ぶのは直球的な一言だ。『キスする』という、一番に思い浮かぶ行動。
 はぁ、と雷刀は深く息を吐く。あまりの重さに質量を持ち床を転がっていきそうな勢いである。当然だ、唯一残された『恋人らしいこと』が現時点で一番ハードルが高い、雲の上にあるような手が届かないものなのだから。
「キスなぁ……」
 呟いた途端、ぐちゃぐちゃと掻き回されていた思考がピタリと止まる。まるで映画のスクリーンのように、弟の姿が、顔が思い浮かんだ。キス。口付け。頭の中で言葉を重ねる度、意識は自然と唇へとズームアップしていく。それが間近で、触れそうで、くっ付きそうで。
「腰を悪くしますよ」
 ぼけにぼけた意識に澄んだ声が飛び込んでくる。丸まりに丸まった少年の背が、バネめいた動きで勢い良くまっすぐに正された。うわ、と驚きの声が後ろで聞こえた。
 まずい。見られた。いや隠してたし見えていないか。バレたのでは。焦燥が頭を染めゆく。普段通りに返そうと口を動かすも、声帯は仕事を果たさなかった。ひゅ、と情けない音をたてて息が漏れ出るだけだ。
 気にしていないのか、声の主である弟は何も言わずに隣に座った。揃いの携帯端末を取り出し、軽い指捌きで操っていく。おそらくメッセージや天気を確認しているのだろう。洗濯物は少しばかり溜まっていた。
 ドッ、ドッ、と心臓が広がっては縮み、体内に爆音を響かせる。肉と皮膚を破って外に漏れ出てしまってもおかしくないほどの激しさだ。恋人のことを、それもあまりにも格好が付かない内容を考えていたら本人が現れたのだからこうなるのも仕方の無いことである。
「どうしたんですか?」
 訝しげな声が飛んでくる。いつの間にか項垂れていた頭をバッと上げると、そこにはこちらを見る烈風刀の姿があった。透明度の高い碧い目は半月になってこちらを見据えている。整えられた眉は少しばかり中央に寄っているように見えた。
「あ、いや、なんにも? べつに? ふつーだけど?」
「普通の人はそんな動きをしないんですよ」
 バタフライめいて視線が宙を泳いでいく。言葉を吐き出す口は音の数よりも動きが多かった。指先は素早く携帯端末をスリープ状態にし、軽快にパスして恋人から遠ざける。明らかに不審者の動きであった。これを普通と呼ぶならば社会が混乱に陥ってもおかしくはない。もちろん、冷静極まりない碧にはすぐさま指摘された。
 え、あ、うん。しどろもどろに声を漏らし、雷刀は再び項垂れる。頭が痛い。顔が熱い。指先が冷たい。地に足が付いている感覚が無い。まるで高熱を出した時のようだ。実際はただ身体全てが羞恥に染まっているだけなのだけれど。
「また何か隠しているんですか? 先週の化学のテキスト提出し忘れたとか」
「いや、それはちゃんと出した」
 訝る弟に兄は手を振って否定する。じゃあ何なんですか、と溜め息交じりの声が飛んできた。心に刺さったそれが痛みを訴え、また心拍数を上げていく。このまま身体ごと破裂してしまいそうな勢いだ。
「……あのさ、オレら……こう……あれ、……付き合ってんじゃん?」
「……まぁ、そうですね」
 おそるおそる言葉を紡いでいく。問いにはきちんと肯定が返ってきた。安堵し、朱は深く息を吐く。隠していた携帯端末を右手に持ち、スリープを解除する。そのまま、輝く画面を碧へと向けた。
「恋人らしいこと分かんなくて調べてた……」
「あー……」
 隠し立てても疑われる、最悪心配をかけるだけだ。ならば、恥を忍んで正直に白状した方がいい。結果、返ってきたのは生返事だった。けれど、少し高い調子のそれには呆れも嘲りもない。むしろ、同感の響きがあった。
「オニイチャンだって努力すんだよぉ……」
「あー……まぁ、はい。そうなりますよね。そういうところは真面目ですよね」
 絞り出した声に何とも言えない声が返される。褒められているのかけなされているのか分からないものであった。少なくとも、慰めは多少なりとも感じる。ほのかに羞恥の色が見えるのは気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
「まぁ、そんで色々見たんだけどさ。出てくるやつ大体もうやってて……」
「はい?」
 沈んだ声で説明を並べ立てていくと、ひっくり返ったような声が返される。反射的に隣を見ると、そこには頬に紅を浮かべた恋人の姿があった。潤いのある唇は少しばかり震えている。丸い瞳は忙しなく瞼の奥に隠れては現れを繰り返していた。
「だって手ぇ繋ぐのもぎゅってすんのも出掛けんのも連絡すんのも全部やってんじゃん! 出掛けんのとか毎週だし!」
「それはそうですけど……、いや、でも買い出しをデートにカウントするのはおかしくないですか!?」
 でーと。
 烈風刀が放った言葉を思わず復唱する。でーと。デート。そうだ、恋人と出掛けることはデートと言うのだ。けれど、己たちの毎週の買い出しと『デート』というイメージはかけ離れている。たしかに、彼の言ったように『デート』ではないだろう。そっか、と思わず感嘆の声が漏れた。
「……え? じゃあ今度ちゃんとデートする?」
 え、と少し高い音が二人の間に落ちる。対面、日焼けしていないかんばせがみるみるうちに赤に染まっていく。いつぞやの花見で見た先生の赤ら顔がこんな感じだっただろうか、とどこか外れたことが頭の中に浮かんだ。
 赤い顔が俯いて隠れて、つむじがこちらに向けられる。浅葱の髪の下からは、あ、う、と溺れて喘ぐような音が聞こえてきた。変なことを言っただろうか。いや、確実に変なことを言った。突然『デート』に誘うなど、いくら恋人とは言え突飛も突飛だった。こういうのは完璧なルートを立てて、雰囲気を作って、さらっとやるものなのだ。少なくとも、レイシスに借りた少女漫画ではそうしていた。こんな間抜けに誘うものではないのだ。あまりの浅慮に今度は雷刀が俯く番だった。
「…………し、ましょう」
 細い、吐息にも似た音が静まりきった部屋に落ちる。顔を上げると、そこには相変わらず赤い顔をした弟がいた。目は潤んでいるも、どこか据わっている。口元はぎゅっと結ばれ美しいまでの一本線を描いていた。
「デート、しましょう」
「え? は? い、いいのっ!?」
「するんですよ」
 思わず立ち上がる雷刀に、烈風刀は低い声で返す。地に響くようなそれは、いつぞやお化け屋敷に入る前に聞いた腹を括った時の声と似ていた。反して、己は高い声で返す。間抜け極まりなかった。
 思わず後退りそうになった身体を、伸びた手がTシャツの端を掴んで引き留める。逃がさんと言わんばかりだった。事実、こんな些細な動きと拘束だというのに、一ミリたりとも動けなくなる。餌を求める魚のようにぱくぱくと口を動かすのがやっとだった。
「デートスポット調べましょう。特集記事とかどこかにあるでしょう」
 ぐっと引かれ、兄はまたソファに腰を下ろす。すぐさま弟が拳一個分距離を詰め、自身の携帯端末を取り出して見せてきた。検索エンジンの入力窓には、早くも『ネメシス デート 定番』と入力されていた。
「……こういうのってオレが決めてくるもんじゃね?」
「二人で決めて二人で行きたいところに行った方が満足できますよ」
 ほら、と烈風刀は掴んだままの裾を引っ張る。誘われるがままに、大小様々な文字が並ぶ液晶画面へと視線を移した。
 碧と朱がまばゆい画面を一心に見つめる。夜はまだ長い。




しあわせは二人で/ライレフ
 皮膚の厚い指が強化ガラスをなぞっていく。指が弾くように動くと同時に、ガラス越しの情報が勢いよくスクロールしていく。ごちゃまぜの情報が次々と液晶に表示されては消えていった。
 タイムラインを一通り見終え、雷刀は携帯端末の電源ボタンを押す。煌々と光る画面が暗闇一色に染まり、光を反射して鏡のように持ち主の顔を映し出した。
「烈風刀ー」
 物言わぬ端末をポケットに放り込み、兄は弟の名前を呼ぶ。隣に座る弟は、目の前の画面から目を離すことなく、何ですか、と短く返した。
「ちょっとこっち向いて?」
「何です――」
 熱心に今日の献立探しをしていた目がこちらへと向く。わずかに寄せられた眉、じとりと半月になった苔瑪瑙、薄く開いた口、スリープ状態にした端末を握る手、半分ひねってこちらを向いた身体。恋人はしかりとこちらへと意識を向けた。雷刀もまた同じように向き合い、半歩擦って寄って距離を詰める。そのまま、倒れるように片割れの胸へと飛び込んだ。うわ、と少し上擦った声が照明光る天井へと昇っていった。
 あまり大きく体重をかけなかったこともあり、倒れ込んだ身体は弟の鍛えられた胸にしかと受け止められた。何なんですか、と棘が生えしきる声を気にすることなく、朱は腕を伸ばし目の前の身体をぎゅうと抱きしめる。薄い布越しに温度が重ね合わさり、心地よい熱を覚える。まだ風呂に入っていないからか、彼の香りを普段よりも強く感じた。腕の中の熱がひくりと震える。
「……幸せ?」
 ぎゅうと更に腕に力を込め、ぴとりと更に身体を寄せ、雷刀は短く問う。息の詰まる音。数拍、重く吐き出される音。上から降り注ぐそれは、腕の中にいる彼の心情をめいっぱいに表していた。
「本当に何なんですか」
「いやさー、『触ると幸せホルモンが出るのは心を許してる人相手だから』っての見てさ」
 指を動かすだけで繋がるインターネットの海は、色んな情報が満ちて流れて現れては消えてゆく。つい先ほどたまたま目に入ったのは、アプリがおすすめとして差し出してきた短い投稿だった。
 皮膚接触で幸せホルモンが出るのは心を許している相手だからであり、そうでない者との接触は攻撃と受け取る。
 ゴシック体のフォントが記す情報には明確なソースは記されておらず、真偽など分からない。ただの与太話、ネットの噂、と一瞬で記憶から消え去るようなものである――己にとっては違うが。
 真偽など分からない。ならば、試せばよいではないか。ちょうど隣には愛する恋人がいるのだから。
 は、と疑問符が山盛りに盛りつけられた声が降ってくる。当然だ、いきなり幸せだの何だのと言われてすぐさま理解しろだなんて無茶である。相手が主席であり続けるほど優秀な頭脳を持つ烈風刀であれど、だ。けれども彼の聡明なる――そして兄の突飛な言動に慣れた脳味噌は、たった数拍で事態を理解したらしい。ほの寒さで白む肌にぶわりと紅色が広がり散っていった。整えられた唇がはくりと開いて閉じてを繰り返す。まるで今この現実を咀嚼しているようだった。
「………………幸せ、ですよ」
 はぁ、と大きな溜め息。それに紛れるように小さな言葉がつやめく唇からこぼれ落ちた。胸に飛び込んで頭をうずめた兄の耳にも、きちんと落ちて入って染みていった。
 そっか、と雷刀は漏らす。しかりと噛みしめるような、それでいて弾んで弾んでどこかにいってしまいそうなほど浮かれた、この世の幸福を全て詰め込んだようなとろけた声をしていた。衝動に身を任せ、目の前の鍛えられた胸板にぐりぐりと頭を擦り付ける。恋人の確かなる声によってもたらされた愛を、溢れんばかりの幸せを全身で表す。伝わったのだろう、伝えられたのだろう、あやすように背中をトントンと軽く叩かれた。
「雷刀」
 愛しい声が己の名を紡ぐ。じゃれつく猫のように動かしてた頭を止め、兄は顔を上げる。目の前には、依然頬を朱色に染めた弟の姿があった。浅葱の瞳はどこか潤んでいて、ゆらゆらと揺れ彷徨っている。口元はまるで定規で線を引いたかのように結ばれているようで、真ん中あたりがどこかもにゃもにゃと動いていた。そんな口元が動き、雷刀、とまた名前を呼ばれる。なーに、と返す声は己でも笑ってしまうほど甘ったるい響きをしていた。
 背に回されていた手が動く。布の上を滑って、どこかに行ったそれが持ち上がって、己の頬にひたりと当てられた。どんな時でも手入れを欠かさない手はすべらかで、それでも武器を扱う者らしい固さが目立つ。肌を通して伝わる温度が普段よりも高く感じるのは、きっとほのかな冷たさをまとった空気のせいだけではないはずだ。
「……幸せ、ですか?」
 見上げた先、眉を少しだけ下げた弟は細い声で問いを漏らす。揺れる響きが耳朶を撫でて鼓膜を震わせる。行動の意味を、言葉の意味を理解した瞬間、朱はこれ以上ないほどの笑みを浮かべた。
「トーゼンじゃん!」
 半ば叫ぶように愛を高らかに謳う。頭を動かし、頬に触れた手にすりすりと擦りつく。もっともっと幸せホルモン――否、幸せが欲しいのだ。愛する人と触れ合う幸せが。
 小さく息を吐くのが聞こえる。揺れていた碧の瞳が輝く朱をまっすぐに見つめる。朱もまた、正面からその澄んだ碧をまっすぐに見つめた。
 小さな、幸せに満ちた、愛に溢れた笑声が広くない部屋に二つ落ちた。
畳む

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SDVX


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